2017年12月18日 (月)

トゥ・ザ・ボーン

 「今年聞いたプログレッシヴ・ロック特集」の3回目は、イギリス人のスティーヴン・ウィルソンの新作である。タイトルは「トゥ・ザ・ボーン」と名付けられていた。彼の通算5枚目にあたるスタジオ・アルバムである。1200pxstevenwilson2016
 このアルバムは、今年の夏に発表されたものだが、自分はやや遅れて購入して聞いてみた。私の敬愛してやまない風呂井戸氏は、以前よりもポップな傾向が強くなったと御自身のブログの中で述べていたので、果たしてどのくらいポップ化したのだろうかと、期待と不安を半々ずつ抱きながら、このアルバムを聞いてみたのだ。

 このアルバムがポップ化したことは、スティーヴン・ウィルソン自身も認めていて、「このアルバムには、僕がこれまでに作ったものよりも、はるかに強いポップ感があるんだ。でも僕は、ポップ・レコードでありながら、同時に歌詞の面でも、あるいはプロダクションの面でも、人々がより深いレベルで向き合うものを作りたかった」と述べている。

 また、このアルバム評を載せたある音楽雑誌には、「プログレッシヴ・ポップ・ミュージックの分野において実り豊かな野心作」と書かれていて、評論家の意見の中でも好意的に受け止められていた。

 さらに、こういう音楽傾向になったのは、スティーヴン・ウィルソン自身が若い頃に聞いていた音楽、たとえばピーター・ガブリエルの「So」、ケイト・ブッシュ「愛のかたち」、ティアーズ・フォー・フィアーズ「シーズ・オブ・ラヴ」、トーク・トークの「カラー・オブ・スプリング」などの影響だとも述べていた。

 私的な感想を言えば、ポップ化といっても急にヒット・シングル満載のアルバムになったというわけでは無くて、聞きやすくなったといった方が間違いが少ないと思った。
 その中でも一番聞きやすかったのは、6曲目の"Permanating"だろうか。疾走感あふれるこの曲のサビはとてもわかりやすくて、思わず一緒に口ずさんでしまうような特徴的なメロディラインを含んでいたからだ。

 アルバムの重要なテーマは、“現代社会での生きることの困難さ”だろう。世界的に見れば、特にヨーロッパでは、いつ起こるかわからないテロリズムに対する不安や急増する移民(難民)に対する対応などの社会的な不安、そういう不透明な社会においてどのように生きるべきか等の個人としての生き方の両面を曲と歌詞を通して訴えかけている。711otzhvugl__sl1181_
 そういう意味では、間違いなく“今を生きるプログレッシヴ・ロック”といえるだろう。この時代性に対する感覚や批評性を備えているところが、他のプログレッシヴ・ロックとは違う点で、優れたプログレッシヴ・ロック・バンドはみんなこういう視点を含んだ音楽性を有しているといえよう。

 そしてこのアルバム「トゥ・ザ・ボーン」は、全11曲59分46秒の長さで、冒頭の曲"To The Bone"から不安感を煽るような女性コーラスやコンガの音が強調されている。途中のギター・ソロがカッコいいのだが、クレジットではスティーヴン・ウィルソン自身が弾いているようだ。
 また、この曲と5曲目の"Refuge"では、ハーモニカが効果的に使われている。いずれもマーク・フェルザムという著名なセッション・ミュージシャンが担当していて、曲に切迫感を与えている。

 2曲目の"Nowhere Now"を聞くと、あぁ確かにポップになったと実感できるはずだ。特に、リフレインされるフレーズのところは耳に馴染みやすい。
 この曲でもスティーヴン・ウィルソン自身がギターとベース、キーボード&ボーカルを担当している。

 牧歌的な雰囲気を持った"Pariah"は、バラード系の曲で、スティーヴンのボーカルに女性のニネット・タヤブのボーカルが絡み合い、壮大な音響空間へと突き進んでいく。
 このニネット・タヤブという人は、イスラエルとモロッコ出身の両親を持ち、彼女自身も歌手、女優、モデルで活躍している。

 また、子どもの頃からピンク・フロイドやニルヴァーナ、オアシスなどから影響を受けていて、2006年にデビュー・アルバムを発表している。現在34歳で、イスラエルを代表するミュージシャンのようだ。

 一転して、ミディアム・テンポながらもハードな曲調を持った"The Same Asylum as Before"が始まる。何となくギルモア系ピンク・フロイドの楽曲に似ているところがあると思うのだが、途中の展開はウィルソン流ハード・ロックといったところだろうか。
 カンタベリー系のミュージシャンだったデイヴ・ステュワートがアレンジしたストリングスのパートをロンドン・セッション・オーケストラが演奏している。

 "Refuge"には、静かな雰囲気を破壊するかのようにジェレミー・ステイシーのドラミングとマーク・フェルザムのハーモニカ、それとこのアルバムの共同プロデューサーでエンジニアのポール・ステイシーの演奏するギター・ソロが活躍している。
 静~動~静という構成で、5分過ぎにはピアノ演奏をバックに、つぶやきのようなボーカルで締めくくられている。

 "Permanating"は上記にもあるようにポップな要素満載な曲で、味付けを間違えれば70年代のトッド・ラングレンの曲になってしまいそうだ。
 スティーヴン・ウィルソンはこの曲ではベース・ギターは演奏しておらず、盟友ニック・ベッグスが担当している。また、バッキング・ボーカルにはイスラエルの歌姫ニネット・タヤブが担当している。3分34秒と時間的にもポップである。51bbhnn5uul
 "Blank Tapes"という曲は、スティーヴン・ウィルソンとニネット・タヤブ、ピアノ演奏のアダム・ホルツマンの3人で演奏とボーカルを担当していて、2分8秒とアルバムの中でも一番短い曲に仕上げられている。
 スティーヴン・ウィルソンは、珍しくメロトロンM4000を演奏しているようだ。ただ、そんなに目立ってはいないけれども。

 8曲目の"People Who Eat Darkness"もまた疾走感と焦燥感溢れるウィルソン流のロックン・ロールだろう。メロディはわかりやすいし、ノリもよい。こういう曲も書けるんだなあとあらためて感心してしまった。そういえば、ポーキュパイン・ツリーの「デッドウイング」というアルバムにもこんな感じの曲があったことを思い出してしまった。

 もう少しコンパクトにまとめてシングルにすれば売れたのではないだろうか。このアルバムからは6曲がシングル・カットされているようだが、この曲はその対象ではなかった。時間が6分を超えていたからだろう。

 "Song of I"はリズムに工夫が施されていて、これも不穏な雰囲気を抱いたままゆっくりと曲が進行していく。
 ここでの女性ボーカルはソフィー・ハンガーという人で、ドイツ在住のスイス人シンガー・ソングライターだ。このアルバムでは、この曲にだけ参加している。マルチ・ミュージシャンで自身のバンドももっているようだ。彼女も34歳。スティーヴン・ウィルソンは1983年生まれの人に関心があるのだろうか。

 "Detonation"でのギター・ソロは、デヴィッド・コーラーという人が演奏している。彼はまた前曲の"Song of I"でもリード・ギターを担当していた。チェコ出身の34歳で、2005年にはソロ・アルバムを発表している。この曲での雲の中を切り裂くようなギター・ソロは、なかなか目立っていた。
 この曲も幻想的な部分とメタリックで即物的な部分とを併せ持っていて、9分19秒とアルバムの中で最長尺な曲になっている。こういう雰囲気の曲は、昔からのファンには受けるのではないだろうか。

 11曲目の"Song of Unborn"は、最後に相応しい壮大なバラードで、静かなピアノのソロをバックに歌詞が吐き出されていく。
 バッキング・ボーカルにはデヴィッド・キルミンスキーという人が参加していて、この人はジョン・ウェットン・バンドやロジャー・ウォーターズとも共演歴があるギタリストで、さすがに34歳ではなくて55歳のベテラン・ミュージシャンである。

 名前からして東欧系の家系なのだろうが、生粋のイギリス人である。この曲だけでなく、冒頭の"To The Bone"や"Nowhere Now"、"The Same Asylum as Before"でも歌っている。
 惜しむらくは、最後の曲なのでもう少しエンディングを引っ張ってほしかったと思う。あるいはフェイド・アウトしていくとかエフェクティブなギター・ソロがあればよかったのではないだろうか。

 ところで、チャート・アクションを見ると、フィンランドでは1位を、ドイツでは2位、オランダで4位、本国イギリスでは3位、アメリカのビルボードでは58位だった。相変わらず英国や欧州では高い人気を誇っているようだ。Stevenwilsontrianonconcertparis
 誰が言っていたかは忘れたけれど、優れたプログレッシヴ・ロックのアルバムには必ずポップな要素を含んでいるそうだ。
 ピンク・フロイドやイエス、キング・クリムゾンのアルバムには、確かにポップなメロディー・ラインを含んでいる曲が多い。

 英語を母国語としない日本人でもメロディーラインぐらいは口ずさむことができるのだから、英語を母国語としている人はシンガロングできるはずだ。
 そうでもないと、約20分じっと静かに聞き続けることはできないだろうし、ポップな要素がなければ、途中で眠ってしまうか、もう二度とそのアルバムを聞くことはないだろう。

 現代のプログレッシヴ・ロック界の約半分をリードしているスティーヴン・ウィルソンである。このアルバムでは、彼の中に内在する思想性とそれを曲の中に具現化したポップネスが見事に止揚されている。
 さすがスティーヴン・ウィルソン。今後も彼の活躍から目を離すことはできないだろう。

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2017年12月11日 (月)

ビッグ・ビッグ・トレイン(1)

 今年聞いたプログレッシヴ・ロック特集の第2回目は、イギリスのバンド、ビッグ・ビッグ・トレインの2枚のアルバムについて記すことにした。

 21世紀の今において、1970年代に活躍したプログレッシヴ・ロック・バンドの多くは解散したか活動中止状態で、数少ない活動中のバンドのほとんどは、過去の音源の再録やライヴ音源で生き残っている。
 だから、それらのバンドを21世紀の現時点で、“プログレッシヴ・ロック・バンド”と文字通りに呼んでいいかどうかには疑問が残る。

 1980年代には、“ポンプ・ロック”という呼び名で“ネオ・プログレッシヴ・ロック”のブームが巻き起こった。その名称にはやや軽視する含みはあったものの、マリリオンやペンドラゴンなどの一部のバンドは、すでにベテラン・バンドとしての風格を漂わせながら今も活躍中である。

 ビッグ・ビッグ・トレイン(以下BBTと略す)は、1990年にイギリスのドーセット州ボーンマスで結成された。当初は、グレゴリー・スパウトンとアンディ・プールを中心としたアルバム制作集団として活動を続けていた。Bigbigtrain3
 1993年にはデビュー・アルバム制作に取り掛かるとともに、プログレッシヴ・ロックのレーベルと契約を結び、本格的な音楽活動を開始して、1995年には日本でも彼らのデビュー・アルバムがボーナス・トラック付きで発売された。

 セカンド・アルバム「イングリッシュ・ボーイズ・ワンダー」は1997年に発表されたが、3枚目のアルバム「バード」までには、それから約5年の年月を待たなければならなかった。
 BBTはスタジオ音楽集団としてスタートしたせいか、中心メンバーを除いてメンバーの流動化が激しかった。時間がかかったのも、そういう事情があったのかもしれない。

 現在のメンバーは次のとおりである。
ニック・ディヴァージリオ…ドラムス
デイヴ・グレゴリー   …ギター
デヴィッド・ロングトン  …ボーカル
ダニー・マナーズ    …キーボード
アンディ・プール     …ギター&キーボード
グレゴリー・スパウトン …ギター&ベース
レイチェル・ホール   …バイオリン
リカルド・ソーブレム  …ギター&キーボード

 このうち設立当初からのメンバーは、グレゴリー・スパウトンとアンディ・プールの2人だけだ。
 また、レイチェル・ホールは音楽の先生をする一方で、2007年から2009年にかけてスタックリッジの再結成ツアーに参加していた。スタックリッジとは1970年代の初めに活躍していたプログレッシヴ・ロック・バンドで、“田舎のビートルズ”とも呼ばれていた。もちろんこのブログでもすでに紹介している。

 一方、リカルド・ソーブロムはスウェーデン人で、2001年にビアードフィッシュというバンドを設立している。彼がBBTに加入したせいか、2016年にバンドは解散を発表した。リカルドも二足の草鞋を履くことには躊躇したのかもしれない。

 BBTは、2002年以降は、2年もしくは3年おきにコンスタントにアルバムを発表していて、11枚のスタジオ・アルバムとライヴ盤と編集盤をそれぞれ2枚ずつ発表している。

 自分は2009年のアルバム「ジ・アンダーフォール・ヤード」を聞いたのだが、70年代のプログレッシヴ・ロック黄金期のアルバムと遜色のない見事な出来栄えを誇っていた。51cdtpfzytl
 アルバムは全6曲で構成されていて、冒頭の"Evening Star"のみインストゥルメンタルで、残りの5曲はボーカル入りだった。

 "Evening Star"は、このアルバムの方向性を示しているような哀愁を帯びたスローな曲だ。通常の楽器以外にもフルートにトロンボーンやコルネット、エレクトリック・チェロ、シタール、ダルシマー、フレンチ・ホーン、チューバまで使用されている。まるで分厚い音の壁のようだった。

 2曲目の"Master James of St.George"には歌詞はついているものの、わずか5行である。あとは、それが繰り返されるだけだった。しかし、それがまるで数頁にわたる叙事詩のように聞こえてくるから不思議だ。それだけ考え抜かれたボーカリゼーションとそれを支えるドラマティックな演奏が功を奏しているのだろう。

 この曲と次の曲"Victorian Brickwork"のテーマは、メンバーのグレゴリー・スパウトンの父親についてであり、この人はこのアルバムの発表前に亡くなっている。おそらく曲の制作前には父親の容態が急変していたのだろう。

 音楽的にはイエスとジェネシスの中間的なところがあって、曲の入り方や構成はジェネシス的であり、演奏に関しては、特にリズム・セクションの音やキーボードの使い方などはイエス的である。

 また、"Victorian Brickwork"は12分33秒もあり、テーマとなるフレーズを基に曲構成が練られている。ボーカルと演奏のバランスもよく取れていると思った。7分過ぎからの演奏がフェイドアウトするところにはメロトロンが使用されていて、その後コルネットのソロが全体をリードするあたりがアイデア的に素晴らしいと思う。
 そしてエンディングは、アコースティック・ギターとボーカルのみで、静かな終わりを迎えるのである。

 6分28秒もあるが、全体としてはポップというよりも聞きやすい楽曲になっている"Last Train"には、メロトロンも使用されていて、日本人にも受けがよさそうな気がする。
 ギター・ソロはデイヴ・グレゴリーが担当していて、なかなかテクニカルでハードなサウンドを聞かせてくれている。

 この曲のモチーフは、ドーセット州とハンプシャー州の境にあった鉄道の支線の終着駅の駅長についてである。デリアという名前の駅長で、1935年に廃線になった時のその最後の一日を描いている。

 "Winchester Diver"もまた実在の潜水士のウィリアム・ウォーカーのことを描いている。彼は19世紀から20世紀の初めに活躍した潜水士で、洪水が襲ってきたときにウィンチェスター大聖堂の倒壊を防いだことで有名になった。
 約6mの水深の中を、ひとりで太い縄を大聖堂の基礎部分に巻き付ける作業を数週間にわたって取り組んだといわれていて、彼の献身的な努力のおかげで、今もなお大聖堂はそびえたっているそうだ。

 アルバム・タイトルになっている"The Underfall Yard"もまた実在の人物について表現した曲で、リチャード・フォーティーという人の書いた「隠された光景」という本が下敷きになっていた。
 この本では、19世紀のヴィクトリア朝時代に、トンネルや橋、鉄道などの公共施設建設のために尽くした技術者のイサンバード・ブルーネルの事績、特に、リチャード自身も乗車した“グレイト・ウエスト・レイルウェイ”について書かれている。

 BBTは、この本を参考にして、ビクトリア時代の合理精神と現代の混沌とした非合理性の時代を楽曲を通して対比しているようだ。
 それは緩急をつけた動~静~動という曲構成と、メロディアスで耳に馴染みやすい旋律に表れている。

 それに、1曲目と同じように、この曲でもオールキャストの豪華メンバーが演奏に参加している。トロンボーンやチューバ、フレンチ・ホルンのみならず、コルネット、チェロ、シタールを含むまさに"Wall of Sounds"である。

 この曲にはゲスト・ミュージシャンとして、ギターには元イッツ・バイツのフランシス・ダナリーが参加していて、5分前後にはテクニカルなギター・ソロを聞くことができる。
 また、6分過ぎにはシンセサイザーのソロを耳にすることができるが、これはフロスト*のジェム・ゴッドフリーが演奏している。フロスト*については、このブログでも既に述べているので、割愛したい。

 17分30秒過ぎにはメロトロンも奏でられ、大団円に向かっての序章を飾りながら、ここから一気にエンディングに進んでいく。18分過ぎにもシンセ・ソロがあるが、これもジェム・ゴッドフリーが演奏しているのかもしれない。かなり速いパッセージを弾いている。
 その後、徐々に天空を旋回するかのように、キーボードやギターがボーカルと一体になって終局していくのだが、約23分という時間を感じさせない大曲でもある。71olpnajl__sl1281_
 その後、BBTは2枚のスタジオ・アルバムを発表した後、2016年には「フォークロア」というこれまた傑作アルバムを発表した。このアルバムから上記の8人編成のメンバーとして活動を始めている。

 9枚目のスタジオ・アルバムにあたる「フォークロア」には、9曲収められている。BBTは、プログレッシヴ・ロック・バンドにしては1枚当たりのアルバムの曲数は多い方だろう。
 「フォークロア」とは、民間に伝わる説話や言い伝えなどを意味するが、音楽的に言われる、いわゆる“フォーク・ソング”とは無縁である。91mamc5slul__sl1500_
 冒頭のアルバム・タイトルと同名の曲の「フォークロア」では、炉辺での炎の揺らぎを眺めながら昔からの説話をしようと歌われており、このアルバムの方向性を位置付けているようだ。コルネットやトロンボーンでファンファーレを想起させるサウンドで始まり、それぞれの楽器がその役割を果たそうとしている。

 BBTの特徴として、ボーカルと演奏のバランスの良さが挙げられるが、2曲目の"London Plane"では、約10分にわたってその素晴らしさを堪能できる。

 ゆったりとした曲調ながらも、ボーカルに力強さを感じるし、特に5分前から急にテンポが上がり、嵐が来たかのようにハモンド・オルガンやソリスト、フルートなどが順にリードを取っていき、6分50秒くらいからもとの静けさに戻っていく。エンディングに向かう時のリード・ギターの印象度は強いものがあった。

 3曲目の"Along the Ridgeway"と4曲目の"Salisbury Giant"は独立はしているものの、曲間はないし、同じ歌詞が使われているところから、同一テーマを扱っているのだろう。
 イギリス人ならピンとくるのかもしれないけれど、“リッジウェイ”と“ソールズベリー”には地理的、歴史的に見て関連があるのかもしれない。イギリスのストーンヘンジは、ソールズベリーの近くにあるからだ。

 両方の曲には、レイチェルの演奏するバイオリンが重要な役割を果たしている。前半の6分少々の"Along the Ridgeway"では、3分過ぎにギターの代わりにリードを取っていて、次のハモンド・オルガンにつないでいる。
 後半の"Salisbury Giant"では最初から最後まで目立っていて、確かに民間伝承をリスナーに伝えようとしているかのようだ。

 "The Transit of Venus Across the Sun"という長いタイトルの曲では、フレンチ・ホルンが幕開けを告げ、優しいバイオリンの音色がそれに続く。1分33秒後にはギターのアルペジオからボーカルが入っていく。バックにはマリンバの音も聞こえてくる。

 タイトルにもあるように、人類の宇宙への憧れや宇宙旅行を譬えている曲だが、5分過ぎからフレンチ・ホルンなどでいったん盛り上がってまた収縮していく様が見事である。

 BBTは、一つ一つの楽器の使い方に無駄がなく、しかもそれが効果的に使用されているところが他のプログレッシヴ・ロック・バンドと違うところだろう。ホルンがこれほど効果的に使われているプログレッシヴ・ロックの楽曲は、他に例を見ない。

 "Wassail"とは、酒宴や乾杯の時の挨拶を意味する単語のようで、イギリスでは十二夜(イエス・キリストの生誕から12番目の日で、1月6日のこと)に健康や繁栄を願って祝杯を挙げたり、秋の収穫を願いとともに悪霊を退けるために古いリンゴの木の下で宴会を開くという文化があるそうだ。

 曲の中では、フルートの調べからボーカルによる呼び掛けが始まり、何となくトラッドな香りが漂ってきそうだ。後半はギターやキーボード、バイオリンも加わって大掛かりな酒宴を繰り広げているかのようである。

 "Winkie"は8分25秒の曲で、歌詞は7パートに分かれているが、最初はアイリッシュなダンス系の音楽で始まり、パート3から転調されて徐々に展開していく。
 この曲では、第二次世界大戦における遭難したイギリス空軍を救った伝書鳩のことを歌っている。短いキーボード・ソロの後、パート4から音楽的にも歌詞的にもテーマにつながっていく。"Winkie"というのは、この伝書鳩たちの呼び名だろう。

 パート5に入る前に、テンポを落として歌詞を強調する。鳩が空軍のレスキュー部隊の本部に伝言を伝えるために飛び立っていったということを伝え終わると、曲のテンポも元に戻っていく。
 これがパート5と6であり、バイオリンのソロの後、最後のパート7に繋がっていく。個人的には、もう少し膨らませて10分から12分程度の曲にした方がよかったのではないかと思っている。聞き手にとってはイマジネーションを膨らませやすいからだ。

 8曲目の"Brooklands"は、このアルバムの中で一番長い曲で、12分44秒あった。さすがにドラマティックな曲構成で、内容的に自動車レース場やレーシング・ドライバーのことを歌っているせいか、ギターやボーカルが目立っていて、最初から飛ばしている。

 ちなみに、“Brooklands”とは、イギリスのサリー州ウェイブリッジにかつて存在したサーキット兼飛行場で、サーキットはモータースポーツ専用に建設された世界初の常設コースだったそうである。

 4分過ぎから一度おとなしくなり、叙情的な雰囲気が表面を覆ってくるが、6分あたりから再び走り出してくる。この繰り返しで最後まで行くと思っていたのだが、基本はその通りでもリード楽器がギター、キーボード、フルート、バイオリンと、とにかく他のバンドにはない要素を備えているので、聞いてて飽きが来ない。

 9分過ぎにはグランドピアノのソロで、全体を集約させて一気にバンド演奏につながっていくところが、BBTの素晴らしさだろう。メンバーが増えたおかげで、さらにイマジネイティブな印象を与えてくれるようになった。最後はボーカルで締めるところも印象深い。

 最後の曲の"Telling the Bees"は、牧歌的な雰囲気を持った曲で、アコースティック・ギターとボーカルで始まる。前半はアメリカン・テイストの曲で、バイオリンがフィドルのように聞こえてくる。
 中盤のギター・ソロを中心としたアンサンブルが見事で、牧歌的な雰囲気に力強いボーカルが加わり、最終的にはボーカルのリフレインとコーラスで終わる。51gqqi4y5l
 イギリス人には退職後は、養蜂家になるという夢でもあるのだろうか。確かシャーロック・ホームズも引退後は、蜂を育てていたように記憶している。バラや蜂を育てることに、何か憧れみたいなものがあるのかもしれない。

 というわけで、今を生きるプログレッシヴ・ロック・バンドの中では、非常にドラマティックな曲構成を持ったアルバムを制作できるバンドで、ドラマティックということは曲展開のみならず、それを支える演奏力やボーカル力が秀でているということも意味しているだろう。

 こういうバンドがまだ存在しているところに、しかもプログレッシヴ・ロックが生誕した国において意欲的に活動を行い、世界的にも認知されるようになったところが素晴らしい。4c169123d3fb41e7b43a91afc842cfc9
 本人たちはどう思っているかはわからないけれど、1960年代末から続くプログレッシヴ・ロックのDNAは、未だ途切れることはないようだ。

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2017年12月 4日 (月)

YOSO

 いよいよ12月。1年の締めくくりの月である。締めくくりといえば、やはりプログレッシヴ・ロックだろう。今年聞いたプログレッシヴ・ロックのアルバムを紹介するのに、年末はふさわしいと勝手に思っている。この思い込みというか、わがままというか、自己欺瞞こそがこのブログにはふさわしい。どうせ誰も気にしていないのなら、自分の気持ちに素直に生きた方が自分的にすっきりするのだった。

 それで第1回は、元イエスのメンバーで結成されたYOSOの登場である。実はこのバンドについては、今年2月のサーカのところでやや詳しく述べているのだが、楽曲についてはその時はまだ未聴だった。それで、今回やっと紹介できるところまで聞きこむことができたところだ。

 YOSOは、元イエスのトニー・ケイとビリー・シャーウッド、元TOTOのボーカル担当だったボビー・キンボールの3人で結成された。2009年頃のお話である。
 バンド名も、YESとTOTOが合体したようなネーミングになっているし、アルバムに収められていた曲も、作曲はビリー・シャーウッドが、作詞をボビー・キンボールが受け持っていた。Z321000451
 以前にも同じようなことを書いていたと思うけれど、ビリー・シャーウッドは、1991年にイエスのアルバム「ユニオン」にサポート・メンバーとして参加した。この時のイエスはいわゆる“8人編成イエス”で、クリス・スクワイアのいたオリジナルのイエスとトレヴァー・ラビンの90125イエスが和解し、合体したものだった。

 詳細は省くけれど、実際のレコーディングは8人そろって制作したものではなかったが、その後のツアーでは8人がそろってステージに立っている。もちろんすべてはギャラのおかげだったが、それでもファンにとっては、うれしかったし有り難かった。

 だんだん話がそれてきたので、YOSOに戻すことにする。とにかく、ビリーの功績は大きくて、特に、クリス・スクワイアは同じ楽器を演奏するということで親近感を覚えたのか、その後も一緒にアルバムを作るなど、長く親交を続けるようになっていった。

 ビリーがそれだけ信頼されるようになったのも、それなりの才能を備えていたからである。曲も書けて歌も歌えるし、さらにマルチ・ミュージシャンでもあった。
 しかもプロデュースやミキシングの能力もあったのだから、これはもう重宝というか引っ張りだこになっても当然だろう。

 様々なミュージシャンとの交流や親交を経験しながら、ビリーは2006年にサーカを結成して、コンスタントにアルバムを発表し続けている。
 サーカのオリジナル・メンバーには、ビリーとトニー・ケイ、アラン・ホワイトがいた。当時は本家のイエスが活動休止状態だったからで、アラン・ホワイトも参加できたわけだが、のちに彼は、バンドを離れている。本家イエスが活動を始めたからだ。

 このブログ内の「サーカ」のところでも述べたのだけれど、彼らの最大の弱点はボーカルが弱いところと、印象的なフレーズに乏しい点だった。ビリーは器用で、楽器は何でも扱うことができたものの、際立って目立つところがなかった。器用貧乏ということだろうか。

 そのボーカル部分を補おうとしたのか、「アビー・ロード;トリビュート・トゥ・ザ・ビートルズ」というアルバム制作時に、ビリーとボビーが知り合ったことをきっかけに、このバンドが生まれたのである。

 本来ならサーカに誘えばよかったのだろう。もちろん、ビリーの頭の中には最初はその予定はあったようだ。なぜなら2009年のサーカのイタリア・ツアーからはボビーが参加する予定で活動が計画されていたからである。
 実際は、イタリア・ツアーはキャンセルされたものの、それ以降のツアーには参加していた。そして、ボビー自身も次のようなコメントを残している。

 『YOSOの将来についての予測は難しい。ただ、今後も何かできるような手応えだけは掴んでいるよ。自分としては、YOSOの活動を継続して、より多くのファンに音楽をエンジョイしてもらいたい。今はそんな気持ちでいっぱいさ』

 だから、あくまでも本来はメイン・ボーカリストとしてボビーに歌ってもらい、ビリーは作曲や演奏に集中したかったのだろう。そしてボビーとのコラボレーションを通して生まれた“何か”を自分たちの今後の将来に活かしていこうと思ったに違いない。

 このことは、その後の展開によって証明されている。サーカは2009年から2011年まではアルバムを発表していなくて、2016年にニュー・アルバムを発表した。そして活動は今でも続いている。一方、YOSOの方は2011年に解散していて、この1枚のアルバムで終わってしまった。

 ちなみに、このYOSOアルバムにはサーカのドラマーのスコット・コーナーや、サーカに一時的に在籍していたギタリストのジョニー・ブルーンズも参加していた。こうなると、どちらがサーカで、どちらがYOSOか分からなくなってくる。ボビーがいるかいないかの違いではないか。

 だから、ビリーとしては、この時期には、あくまでもサーカを中心としてバンド活動をしていたのだ。もしボビーとのコラボがうまくいっていれば、サーカの方が自然消滅して、YOSOの方が実績を積むようになっていったに違いない。

 なぜ、YOSOが解散したのかはよくわからないが、こうやって見てくると、やはりボビーがバンドに合わなかったからだろう。よくあるミュージシャン同士のエゴというやつかもしれない。
 元々、ボビーにはドラッグ癖やアルコール依存症のようなところがあって、それが原因でTOTOを首になったという話もあるくらいだ。

 それにビリー自身もある程度は歌えるので、ボビー抜きでもやっていけそうだという自信も生まれてきたのかもしれない。

 結局、YOSOとしての活動は3年余りで終わってしまった。人によっては、もともとYOSOはサーカから生まれたサイド・プロジェクトとか、ビリーの個人的なグループという見方をする場合もあるが、それは少し違うと思っている。うまくいくのであれば、ボビーも入れて活動を続けていただろう。

 それで2010年7月に発表された彼らのデビュー・アルバム「エレメンツ」には、彼らの音楽的ルーツにあたるようなサウンドが封じ込まれている。51froxno9xl
 自分の予想では、やはり元TOTOのメンバーもいるということもあって、ポップス系な聞きやすい音楽だと考えていた。

 時間も3分から4分程度で、たとえばアラン・パーソンズ・プロジェクトのようなポップで耳に馴染みやすく、そのくせ雰囲気的には十分プログレッシヴ・ロックしているような、そんなアルバムを予想していたのである。

 そして実際にアルバムを聞いてみると、予想通りというか想定の範囲内というか、TOTOのポップネスさの上に、少しだけプログレッシヴ・ロックというおかずをふりかけたような、そんなアルバムに仕上げられていた。

 そして、時間的にもそんなに長くはなくて、それはTOTOの延長線上にあると思えたが、演奏に関しては、アルバム後半に進むにしたがって、確かにTOTOよりはイエスっぽい部分の方が発揮されているように思えた。

 国内盤では2枚組になっていて、1枚目は通常のスタジオ盤で、もう1枚はライブ盤だった。両盤とも12曲ずつ収められている。

 アルバム冒頭は、バンド名と同じ"YOSO"という曲で、“心の旅は結果を恐れずに始まる、親しんだ道を再び渡って時間は巻き戻る”という一種の決意表明のような曲だ。雰囲気的にはTOTOの曲のようだった。

 2曲目は、ミディアムテンポの"Path to Your Heart"という曲で、これもTOTOの曲といっても納得してしまうような雰囲気を湛えている。中間部とエンディングのギター・ソロは結構速くて、意外な気がした。

 "Where You'll Stay"はアコースティック・ギターで始まるバラード・タイプの曲で、爽やかな印象を与えてくれる。よくできたAORサウンドで、ヒット性は高いと思う。ただ、プログレッシヴ・ロックとは言い難い。

 イントロなしで、いきなりコーラスで始まるのが"Walk Away"という曲。これまたメロディアスで、ミディアム・テンポに仕上げられていて、サーカの中にある曲よりもよくできていると思った。こういう曲は、90125イエスの得意分野ではないだろうか。

 "The New Revolution"では、ボビーのボーカルのうまさを味わうことができる。こういうアップ・テンポのハードな曲でも歌いこなせてしまうのが、ボビーの巧みさというところだろう。この時、ボビーは63歳。還暦を過ぎた人の声とは思えないほど伸びがある。

 イントロのギターが歌謡曲っぽくて仰々しいのが"To Seek the Truth"で、日本人にとっては、こういうスローなメロディラインには、ついつい涙腺が緩んでしまう。また、中間のギター・ソロもまた何となくゲイリー・ムーアの曲のように、艶やかで印象的でもある。

 "Only One"という曲も3分41秒と短いのだが、ベース音が強調されていて、YOSO風にアレンジされたR&Bのようだ。こういう感じの曲は、本家イエスには無縁だろう。でも、90125イエスにとっては、馴染みがありそうな作風である。

 その90125イエスがやりそうな楽曲が、"Close the Curtain"ではないだろうか。ただ、ボビーは歌い過ぎである。全体を通してもボビーのボーカルは目立っていて、専任のボーカリストだからそれはそれで仕方ないのだろうが、もうちょっとバックの演奏が目立ってもいいような気がした。

 この曲では中間部でのギター・ソロが左右に振れていて、右スピーカーや左スピーカーから交互に聞こえてくる。それにしてもビリー・シャーウッドのギター・テクニックも大したものだと改めて認識させられた。

 "Won't End Tonight"もテンポのよいボーカル主体の曲で、リズムにはキレがあり、ギターの音もクリアでエッジが効いている。何故か途中でハーモニカが使用されているのだが、これは目先を変えようとしたのだろう。でも、要らないと思った。その分、もっとギター・ソロかトニー・ケイのキーボードを聞かせてほしいと感じた。

 10曲目の"Come This Far"では、他の曲とは違ってトニー・ケイも頑張っているようだ。曲調としては本家イエスに近い。オルガンではなくて、シンセサイザー類を使用している点が珍しいと同時に、、テクノロジーの発展に伴って、多様なキーボード群に馴染んできたようだ。これを70年代から行っていれば、リック・ウェイクマンに取って代わられることはなかったのにと思ってしまった。

 "Time to Get Up"はそのタイトル通りの曲で、思わず起き上がってしまうようなノリのよい曲で、1曲目の"YOSO"や9曲目の"Won't End Tonight"と似たようなアレンジが施されている。この曲も3分台だが、90125イエスにも負けないようなパワフルさを備えている。

 ベースはアタック音の強さからして、たぶんリッケンバッカーだろう。また、珍しくオルガン・ソロとギター・ソロが配置されていて、ファンならもう少し長く聞かせてほしいとねだるに違いない。ライヴでは映える曲だと思う。

 最後の曲"Return to Yesterday"は7分19秒と、アルバムの中では一番長い曲で、本家イエスを彷彿とさせる曲構成になっている。
 最初はスローでアコースティックな雰囲気から始まり、徐々に音が絡み合っていく。イエスの楽曲の特徴の一つに、曲構成は複雑だがメロディ自体はポップで分かりやすいという点が挙げられるが、この曲もまた同じような傾向を備えている。

 3分50秒過ぎと5分過ぎからエフェクティヴなギター・ソロが入るが、その前後のコーラス部分は素朴で牧歌的でもある。そしてエンディングに向かって再びアコースティック・ギターがメインに出てくるのだが、もう少し複雑な構成にしてもいいのではないかとも思った。

 このYOSOというバンドは、ビリーのバンドということがよくわかる。ボビーも歌いまくってはいるのだが、それはビリーと話し合って決めていたのだろう。
 そして、何度も言うけれども、もう少しトニー・ケイのキーボード・ソロを聞きたかった。ビリーのギターと比較すると、圧倒的にその存在感は薄いのである。

 どうしたトニーと言いたくなってしまうのだが、そういう存在感の薄さが、逆に言えば、トニー・ケイというキーボーディストの在り様を決定づけているのかもしれない。確かにボーカリストやギタリストからすれば、的確に演奏できてしかも自分より目立たない方がありがたいに違いない。

 ディスク2はライヴ音源である。バンド結成してまだ日が浅いせいか、YOSOのデビュー・アルバムの「エレメンツ」(このアルバムのディスク1のこと)から演奏されているのは、3曲のみである。("YOSO"、"Walk Away"、"To Seek the Truth")Mi0003133946
 あとはTOTOの曲が"Rosanna"、"Good for You"、"Hold the Line"、"Gift with A Golden Gun"、"White Sister"の5曲、イエス本家の曲が"Roundabout"と"Yes Medley"で、"Yes Medley"には、"Yours is No Disgrace"、"Heart of the Sunrise"、"South Side of the Sky"、"Starship Trooper"、"I've Seen All Good People"が含まれていた。

 ライヴのベース音はクリス・スクワイアそっくりだし、リズムのキレについては、現在の本家イエスよりは格段に優れている。
 また、ボビー・キンボールのボーカルについても意外と高音が出せていた。ジョン・アンダーソンと比べることはあまり意味がないけれど、これはこれで聞き応えはあると思う。

 90125イエスでは、"Owner of A Lonely Heart"と"Cinema"の2曲が収録されている。特筆すべきは、ライヴではトニー・ケイのキーボード類が活躍している点だろう。

 いくらビリーがマルチ・ミュージシャンだといっても、ステージ上ではひとりで何でもできるわけではない。ギター・ソロの時はバックで全体を支え、必要な時はいつものようにオルガンを中心にエレクトリック・ピアノなどで貢献していたトニー・ケイである。この辺はさすがベテラン・ミュージシャンというべきだろう。自分の役割をしっかりと自覚できているようだ。

 しかし、デビュー・アルバムのボーナスCDとしてライヴが丸々一本分収録されているというのも珍しい。しかも2800円という価格である。自分は中古品だったので、その半分くらいの価格で手に入れることができた。本当にお得感満載なアルバムである。

 そんなことはともかく、YOSOは、わずか3年程度しか存在しなかったバンドだった。イエス関連でいえば傍流というか、ある意味、異色な存在だったのかもしれない。
 しかし、ビリーの頭の中には、ある時点までは、このバンドで行こうと思っていたに違いない。プログレッシヴ・ロックの本流についてはサーカで、ポップなプログレッシヴ・ロック風な楽曲はYOSOで、と使い分けることも考えていただろう。

 様々な事情でわずか3年程度で終わったバンドだったが、その演奏技術の高さや熟練したボーカリゼーションなどは、確かにイエスの遺伝子を受け継ぐに値するバンドだったと思っている。

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2017年11月27日 (月)

ジェシ・エド・デイヴィス(2)

 11月も最後の週になった。今までデラニー&ボニーを中心として、関連ミュージシャンのアルバムなどを紹介してきたが、今回はとりあえずその締めくくりとして、以前紹介したギタリストのアルバムについて簡単に記したいと思う。

 ジェシ・エド・デイヴィスについては、2007年9月29日に彼の3枚目のアルバム「キープ・ミー・カミング」を中心にこのブログの中で紹介したが、今回はそれから逆に遡って初期の作品を紹介しようと思う。

 初期といっても、彼は生前3枚のスタジオ・アルバムしか残さなかった。豊かな才能を上手に活かすことができなかったのか、それとも生きること自体に不器用だったのか、その辺はよくわからない。

 ジミ・ヘンドリックスもネイティヴ・アメリカンの血を引いていたといわれていたが、ジェシ・エド・デイヴィスもまた同様で、彼は純粋なネイティヴ・アメリカンだった。
 1944年にオクラホマ州ノーマンというところに生まれた。生きていれば、今年で73歳になったはずだ。14369134_1100690863341131_520405283
 父親はコマンチ族で、母親はカイオワ族の出身だった。父親はジャズ・バンドのドラマーで、母親はピアノ教師だったから、恵まれた音楽環境にあったといえるだろう。

 だから、3歳からピアノを始め、6歳でバイオリンを、10歳でギターを手にした。人前で初めて演奏したときの楽器はピアノだったようだが、その時はまだ中学生だった。父親がナイトクラブに連れて行ってくれたのだそうだが、子どもは入店禁止だったので、ピアノ演奏をするという名目で入店させ、実際に演奏をさせていたという。

 そして、チャック・ベリーなどのロックン・ロールの洗礼を浴びたジェシ・エド・デイヴィスは、ピアノからギターに乗り換え、15歳でラジオ局で演奏をして幾ばくかのお金を手にするようになった。やはり血筋というべきか、もって生まれた音楽的な才能が芽生えていったのだろう。

 ミシシッピー州生まれのカントリー・シンガーにコンウェイ・トゥイッティという人がいて、アメリカではかなりの有名人らしい。その人がオクラホマに来た時に、ギターの才能を見出されて、1962年から65年頃まで彼のバック・バンドのメンバーとしてツアーに出ている。
 ただ、その頃のジェシ・エド・デイヴィスは、まだ大学生だったので、休みの期間を利用して回っていた。その時にレコーディングの経験もしている。
 
 アメリカ人のロカビリー歌手にロニー・ホーキンスという人がいるが、コンウェイからロニーを紹介されたジェシ・エド・デイヴィスは、ロニーのバック・バンドにいたリヴォン・ヘルムを知り、同時に同郷のレオン・ラッセルとも親しくなり、その伝手を頼ってロサンゼルスにまで出かけて行った。
 ジェシ・エド・デイヴィスは、レオン・ラッセルがスタジオ・ミュージシャンとして成功していたことに憧れを持っていたようだ。

 実際に、カール・レイドル、レオン・ラッセルやボビー・キーズらとともに、北ハリウッドのバーで演奏していたらしい。いつもスタンディング・オベーションをもらっていたと本人は語っていたが、確かにこのメンツであれば、バーではもったいないし、ホールクラスでもいつも満員だっただろう。

 タジ・マハールというニューヨーク生まれのミュージシャンがいるが、彼との出会いも全くの偶然だった。

 タジ・マハールがレコーディングしていた時に、急遽予定されていたギタリストが来れなくなってしまい、代わりに来たのがジェシ・エド・デイヴィスだった。
 タジはソロ活動をする前は、ライ・クーダーとともにライジング・サンズというバンドを作って活動していたが、優秀なギタリストを発掘する才能にも優れていた。

 それから約4年ほどタジと一緒に活動をするのだが、タジからは音楽面だけではなくて、“Blues”という音楽に対してエモーショナルなアプローチの仕方も教えられた。
 また、タジのおかげで、渡英してエリック・クラプトンやジョージ・ハリソンとも知己を得ている。ジェシ・エド・デイヴィスは、生涯にわたってタジ・マハールに恩義を感じていたといわれている。

 セッション・ミュージシャンとして活動していたジェシ・エド・デイヴィスが、デビュー・アルバム「ジェシ・デイヴィスの世界」を発表したのは、1971年だった。このアルバムのジャケットの絵は、ジェシ・エド・デイヴィスの父親が描いたものだった。41j3wbx0n7l
 アルバムは全8曲で、36分57秒と短いものだった。ただ、最初から最後まで泥臭くて粘っこい、まさにスワンプ・ロックというべき音楽で満ちている。
 1曲目の"Reno Street Incident"のバックのピアノはレオン・ラッセルだし、エンディングのタメのあるギター・ソロは、ジェシ本人である。

 "Tulsa County"はメロディアスで軽快な曲で、むしろスワンプ流ポップ・ソングといってもいいかもしれない。
 "Washita Love Child"の"Washita"とはオクラホマを流れる川の名前のことらしい。これぞまさにスワンプ流ロックン・ロールで、バックの女性コーラスが雰囲気を盛り上げてくれるし、2分過ぎのギター・ソロは親友のエリック・クラプトンが演奏している。ただ、エンディングがブチッと切れるのがユニークというか、少々悲しかった。

 続く"Every Night is Saturday Night"も同様のロックン・ロール調の曲だが、クラリネットやコルネットの音がディキシーランド・ジャズを想起させてくれる。そういえば、父親はディキシーランド・ジャズを演奏するバンドに所属していたから、その影響もあったのかもしれない。

 "You Belladonna You"もレオン・ラッセルが好きそうなミディアム調の曲調で、ピアノもレオン・ラッセルのようだ。女性ボーカルも健闘しているし、ジェシ・エド・デイヴィスのギターも独特の音色を出している。エンディングの演奏が長いのが特徴で、ライヴならきっと盛り上がっていく曲になると思う。

 "Rock'n'roll Gypsies"はスティール・ギターやキーボードが効果的に使用されているバラード風な曲で、同じオクラホマ州出身のロジャー・ティリスンという人が書いた曲だった。この曲のお礼に、のちにジェシは、彼のアルバムをプロデュースしている。

 7曲目の"Golden Sun Goddess"は軽い感じのスワンプ・ロックで、こういう曲も書けるところが、ジェシ・エド・デイヴィスの優れているところだろう。ジェシと女声コーラスの絡みが面白いし、バックの演奏も重くなくてよい。光り輝くロサンゼルスでの生活が影響を及ぼしたような感じがする。

 最後の曲の"Crazy Love"は、アイルランドの超有名ボーカリスト、ヴァン・モリソンの曲で、ほぼ原曲通り歌っているが、何となくザ・バンドの曲"The Weight"に似ている。バックの演奏がThe Band +女声コーラスといった感じがした。
 そういえば、ジェシ・エド・デイヴィスのボーカルはそんなにうまくはない。何となくキース・リチャーズにも似ているような気がする。

 セカンド・アルバムの「ウルル」は1972年に発表されたが、このアルバムも31分57秒と短かった。415fyjgw13l
 ただ、内容的には前作よりももっと泥臭くなっていて、ジェシ・エド・デイヴィスの個性が十分発揮されている。
 1曲目の"Red Dirt Boogie,Brother"なんかはその最たるもので、ジェシのギターもさることながら、ジム・ケルトナーのドラムスとドナルド・“ダック”・ダンのベースの繰り出すリズムが、非常に呪術的で妖しい雰囲気を醸し出している。ジェシでしか作れない曲だろう。

 一転して、転がるようなピアノとスライド・ギターが明るい曲調を醸し出している"White Line Fever"、エンディングのコルネットが美しいバラード曲で、タジ・マハールとの共作曲"Farther on Down the Road"、ジョージ・ハリソンの「リヴィング・イン・ザ・マテリアル・ワールド」にも収められていた"Sue Me, Sue You Blues"と続く。

 この"Sue Me, Sue You Blues"曲は、ジェシがジョージ・ハリソンに何か曲を書いてくれと言って頼んだもので、当時のジェシもジョージ・ハリソンも裁判を抱えていたから、この曲をくれたといわれている。
 原曲とメロディラインはほとんど変わらないが、やや遅めで、途中のギター・ソロがカッコいい。バックのピアノはレオン・ラッセルだろう。ベース・ギターはビリー・リッチという人が担当している。

 "My Captain"は、ジェシ・エド・デイヴィスが尊敬してやまないタジ・マハールのことを歌っていて、感動的なバラードに仕上げられている。ベースはビリー・リッチ、印象的なピアノは前半がレオン・ラッセル、後半のソロがラリー・ネクテル、オルガンはドクター・ジョンである。これらの名前を聞いただけでも、ファンにとっては感動ものだろう。

 後半は"Ululu"から始まるが、この曲のオルガンもドクター・ジョンである。ギター・ソロは、アルビー・ギャルテンという人が演奏している。ゆったりとしたラヴ・ソングである。

 7曲目の"Oh! Susannah"は、アメリカ民謡の例の曲で、ジェシがアレンジしていて原曲とは全く異なっている。スワンプ流に解釈したらこうなりましたよという典型的な曲で、これを聞けばデラニー&ボニーからの流れが分かるのではないだろうか。

 "Strawberry Wine"はザ・バンドの曲で、彼らの1970年のアルバム「ステージ・フライト」に収められていたものである。ザ・バンドよりはややゆったりとした感じだろうか。
 "Make A Joyful Noise"は、ジェシのボーカルとレオンのピアノが目立っていて、ギターはさほど鳴っていないのが残念なところだ。

 最後の"Alcatraz"は、レオン・ラッセルの曲。彼の1971年のセカンド・アルバム「レオン・ラッセル&ザ・シェルター・ピープル」にも収められていたミディアム調のロックン・ロールで、ここでもレオンのピアノをバックにジェシが器用に歌いこなしている。

 デビュー・アルバよりは曲数は増えているものの、自作曲は少なくなっていた。人によっては能力の限界とか、意欲の減少などという意見を述べる人もいたが、このアルバムの内容を聞けば、決してそんなことはないということが分かるはずだ。

 このあと1973年に、先述した最後のアルバム「キープ・ミー・カミング」を発表したが、1988年の6月22日にドラッグの過剰摂取で亡くなった。43歳の若さだった。

 彼がロック・シーンの一線で活動していた時期は、70年代の最初の数年だろう。彼は美声ではないが、曲はバラエティに富んでいて、ギターの演奏には、スライド・ギターも含めて定評があった。

 それに、ジョージ・ハリソンが呼びかけた“バングラディッシュ・コンサート”にはクラプトンの代わりに参加要請されて、最終的にクラプトンも参加したものの、一緒にステージを務めている。さらには、ポール・マッカートニー以外の当時の3人のビートルのアルバムにも参加している。

 また、マーク・べノの「雑魚」やトム・ヤンシュの「子どもの目」、ジャクソン・ブラウンのファースト・アルバムなどのアメリカ人ミュージシャンのアルバムだけでなく、ロッド・スチュワートの「アトランティック・クロッシング」やエリック・クラプトンの「ノー・リーズン・トゥ・クライ」など、イギリス人ミュージシャンのアルバムにも参加していた。

 もし彼がまだ存命なら、もっと多くのミュージシャンのアルバムで演奏したり、自分のアルバムも数多く発表していたに違いない。あらためて、彼の素晴らしさを惜しまずにはいられないのである。

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2017年11月20日 (月)

デラニー&ボニー(3)

 いよいよ「デラニー&ボニー」編も終わりに近づいてきたようだ。今年の秋は、デラニー&ボニーを中心にしながら、彼らに影響を受けたミュージシャンや彼らの音楽、いわゆる“スワンプ・ロック”について述べてきた。

 “スワンプ・ロック”というコンセプトも、当時の評論家などが名付けた名前だろう。現場のミュージシャンたちは自分たちのやりたい音楽を単にやっていただけにすぎないだろうし、自分たちの音楽が何と呼ばれようとも、信念や誇りを持って取り組んでいたに違いない。

 それで、今回は「デラニー&ボニー」編の最終章である。彼らの活動が評価されていたのは、1968年から1972年頃までだった。わずか4年余りという短い期間であったが、その影響力は21世紀の現在までにも及んでいる。

 彼らは、1972年に「D&Bトゥゲザー」というアルバムを発表した。このアルバムは、もともと「カントリー・ライフ」というタイトルで、アトランティック・レコードの子会社であるアトコ・レーベルから発表されるはずだったのだが、発売が延期になり、最終的には中止されてしまった。そういういわく付きのアルバムなのである。61iu0cv8fl
 なぜ中止になったのかは定かではないのだが、アトランティック・レコードの重役だったジェリー・ウェクスラーは、アルバムの内容に不満を持っていたといわれていた。彼が直接そう命じたかはわからないのだが、世間的にはそういうふうに伝えられている。

 それで販売権利は、当時のCBSコロンビアに譲渡されたのだが、その際にデモ・トラックがカセット・テープなどでマーケットに出回ってしまった。だからこのアルバムについては、正規盤の他に、カセット・テープなどのいくつかの曲順違いのバージョンが存在している。彼らのファンにしてみれば、まさにレアものであり、貴重なコレクターズ・アイテムになっているようだ。

 最新の正規盤については、ボーナス・トラックが6曲も付いていて、これはこれでまたファンにはうれしいプレゼントである。もちろん彼らのコアなファンはまたこのアルバムも入手するに違いないだろう。

 アルバムは、デイヴ・メイソンの曲"Only You Know I Know"で始まる。この曲は1969年にはすでに録音されていたもので、1971年にはシングルとして発売されて、全米20位を記録していた。もちろんデイヴ・メイソン自身も、自分のソロ・アルバムの中でもレコーディングしていた。

 続いて"Wade in the River of Jordan"、"Sound of the City"と続く。前者はボニーのボーカルによるゴスペル風味の曲で、バックのオルガンやピアノ、女性コーラスがいい味を出している。
 後者は、ノリのよいR&Bで、ディープ・サウスの田舎臭い演奏と都会風のボニーのお洒落なボーカルが絶妙にマッチングしている。こういう感性がデラニー&ボニーの真骨頂なのだろう。

 "Well, Well"はベース・ギターが細かい音を刻んでいて、それにリズム・ギターやボーカルが重なっていく構成で、リードする楽器が見当たらないのが特徴だ。

 "I Konow How It Feels to be Lonely"は、ボニーの伸びやかなボーカルが強調されたバラード曲で、バックのストリングスが曲の美しさをさらに際立たせている。こうやって聞くと、いかに彼女のボーカルが素晴らしいかが分かると思う。

 エリック・クラプトンのギターが強調されているのが、"Comin' Home"で、この曲は1970年の「オン・ツアー・ウィズ・エリック・クラプトン」でも披露されていた。正規のスタジオ録音バージョンということだろう。ここでもクラプトンのギターが目立つようで目立たない感じの的確なサポートをしている。

 また、ボビー・キーズやジム・ホーンなどのホーン・セクションが活躍しているのが、7曲目の"Move'em Out"で、これはスティーヴ・クロッパーが作曲したもの。軽快なポップ・ソングだ。メイン・ボーカルは、ボニーが担当している。

 そしてその傾向は、次の"Big Change Comin'"でも同じで、今度はさらにリズムのノリのよい曲になっている。スワンプ・ロック流のロックン・ロールとは、まさにこんな曲のことを指すのだろう。この曲もボニーがリードを取っている。

 "A Good Thing (I'm On Fire)"のリード・ボーカルはデラニーの方がとっていて、ファンキーなロックン・ロール曲になっている。2分13秒と短いので、もう少し長く聞きたい気分にさせる。ボニーの歌い方も白人とは思えないほどパンチがあるのだが、デラニーの歌い方も黒っぽい。まるでスライ・ストーンかプリンスのようだ。

 10曲目はボニーの歌う"Groupie"で、レオン・ラッセルの曲。クラプトンのソロ・アルバムのデラックス盤には収録されていたし、ジョー・コッカーの「マッド・ドッグス&ジ・イングリッシュメン」でも歌われていた超有名な曲。1971年にはカーペンターズが"Superstar"というタイトルで歌って全米2位を記録した。

 "I Know Something Good About You"はミディアム調のR&B風の曲で、ここでもホーン・セクションが効果的に使われている。本当にデラニー&ボニーの曲にはアフリカ系アメリカ人の音楽の影響が色濃く反映されていて、何も知らされずに聞けば、多くの人はブラック・ミュージックと思ってしまうだろう。

 公式アルバムでは最後に配置されたのが"Country Life"で、アルバムのオリジナル・タイトルになっていた曲だ。タイトル通りのカントリー・ミュージック・タッチの曲で、それにストリングスが使用されるというユニークな演出が施されている。曲作りにはデラニーとボビー・ホイットロックが携わっていた。

 ここまでがオリジナル12曲の解説で、ここからは2017年バージョンのボーナス・トラックになる。810eog18ndl__sl1276_

 最初は"Over And Over"というロックン・ロールで、コンガなどのパーカッションとバックのホーン・セクションがストーンズの"Sympathy for the Devil"っぽくてカッコいい。中間のファズの効いたエレクトリック・ギターの間奏はデイヴ・メイソンだろうか。

 次の"I'm Not Your Lover, Just Your Lovee"は、オルガンが強調されたゴスペル風スロー・バラード曲で、秋の夜長に聞くと心が洗われそうな気になってくる。教会でゴスペルが生まれ、発展してきたのも、魂を掴まれ洗浄されてしまうからだろう。
 こういう曲がもう2、3曲含まれていれば、このアルバムの評価はもっと高まっていっただろう。アメリカ人のみならず、世界万国の人々の心の中に響くに違いない。

 "Good Vibrations"は、もちろんザ・ビーチ・ボーイズの曲ではない。ボニーがリードをとったミディアム調のR&Bで、本当にアングロサクソン系アメリカ人が歌っているとは思えないほど迫力があるし、ブラック・ミュージックに肉薄しているのだ。
 いや、ブラック・ミュージックとかそうでないとかいう範疇を超えたオリジナルな音楽をやっている。まさにデラニー&ボニーの音楽そのものだろう。

 続いてロックン・ロール調の"Are You a Beatle or a Rolling Stone"が始まる。この曲のスライド・ギターはもちろんデュアン・オールマンが弾いている。ノリノリの演奏なので、ライヴでは間違いなくウケるに違いない。

 一転して、"(You Don't Know) How Glad I Am"では再びオルガンがフィーチャーされたゴスペル・ソングに戻る。こういうスローなゴスペル・ナンバーではもちろんボニーがリードを取っているのだが、ボーナス・トラックではなくて正規盤に入れてほしい曲でもある。
 歌っている最後でフェイド・アウトされているところが、ボーナス・トラックになった所以なのかもしれない。

 そして最後の曲が"California Rain"である。これは珍しくアコースティック・ギターが基調になっているナンバーで、デラニーが歌うバラード曲に、徐々にピアノやホーンが絡んでくる。途中に転調してミディアム調に変わり、子どものコーラス隊やストリングスも加わってくる。
 これも途中でフェイド・アウトしてしまうのが残念だった。レコーディング自体は最後まで行われていると思うのだが、なぜかカットされている。きちんと収録されていれば、これはこれで名曲になったに違いないと思うのだが、どうだろうか。

 このアルバムには、"Only You Know I Know"や"Comin' Home"のように、既発の曲がいくつか含まれていて、そのせいか新鮮味にやや欠けるという点が見受けられた。

 このアルバムが発売中止になったのも、おそらくそのせいだろうと思う。今になってボーナス・トラックが収められたアルバムが再発されているのだから、曲数的には十分なストックがあったと思うのだが、精選したアルバムにはならなかった。

 また、このアルバム発表時には、すでに2人間には秋風が吹き始めていたのだろう。別々の生活が始まるのもそんなに先の話ではないと2人とも思っていたに違いない。
 だから、名曲になりそうな曲もアレンジを施すこともなく、そのままに置き捨てられたのだろう。ひょっとしたら彼らの代表するアルバムというか、スワンプ・ロックの名盤になったかもしれないアルバムだった。残念で仕方がない。

 最後に、1970年の「オン・ツアー・ウィズ・エリック・クラプトン」の正規盤が4枚組として発売されているのをアマゾンで知って、早速購入した。51z0xdkg1tl
 これは当時のイギリス公演から録音されたもので、合計4時間近い彼らの生のライヴがそのままパッケージされている。

 当時のイギリス公演は、7日間13公演と言われていて、そのほとんどが一日に昼夜2公演だった。ジミ・ヘンドリックスのライヴ盤でもわかるように、当時は、というか60年代では、1日2回公演は当たり前だったようだ。バンドの意向とは関係なく、それだけプロモーターの力が強かったのだろう。

 ディスク1には、1969年の12月1日月曜日のロイヤル・アルバート・ホールでの演奏が収められている。イントロやメンバー紹介も入れて全17トラックだ。

 「オン・ツアー・ウィズ・エリック・クラプトン」には8曲しか収録されていなかったが、このディスク1にはスペンサー・デイヴィス・グループの"Gimme Some Lovin'"や「オリジナル・デラニー・アンド・ボニー」の中の"Get Ourselves Together"も収められていた。

 ディスク2は12月2日火曜日のコルストン・ホールでのライヴで、ここではなぜか実質10曲しか収録されていない。最後はクラプトン・コールも起きるのだが、MCのアナウンスでは、どんなに長くここにいても、どれだけ騒いでも彼らは出てきません、公演はこれでおしまいですという強制終了の合図が出されていた。当然ブーイングも起こったのだが、フェイド・アウトされている。
 理由はわからないが、お客の態度が悪かったのか、クラプトンばかりもてるのでデラニーの方が嫉妬したのか、神のみぞ知るということだろう。

 ディスク3と4は、12月7日の日曜日の昼夜2公演がそのまま収められている。場所はフェアフィールド・ホールだから、「オン・ツアー・ウィズ・エリック・クラプトン」の収録はこの2公演の中から選曲されたのだろう。

 ファースト・ステージではイントロやメンバー紹介も入れて計10曲、セカンド・ステージではそれらも含めて計13曲だった。
 特筆すべきは、この日曜日には元ザ・ビートルズのジョージ・ハリソンも参加していて、ディスク4ではメンバー紹介で名前を呼ばれていた。もちろん「オン・ツアー・ウィズ・エリック・クラプトン」では彼の名前はカットされていた。権利関係が生じるのだろう。

 ツアーの記録なので、ほとんど同じ曲が4枚に連なって収録されているのだが、好きな人にはとってはたまらない内容だろう。ライヴのインパクトや臨場感がそのまま伝わってくるのだからたまらない。81kndvamm9l__sl1200_

 アマゾンでは送料を含めて2500円程度なのだから、これはもう本当に生きててよかったと思ったくらいだ。

 とにかく、この時のライヴはどれもリズムにキレがあるし、クラプトンやデイヴ・メイソンのギターも若々しい。アメリカ人ミュージシャンの力を借りて、さあ、これからだという勢いが伝わってくるステージングだった。今から考えれば、隔世の感がある。

 とにかく、一世を風靡したデラニー&ボニーであり、スワンプ・ロックだった。ブームは去っても、彼らが残した遺伝子は今でもアメリカン・ロックの潮流の中にしっかりと根付いている。
 決して忘れることができない偉大な夫婦デュオといえば、ブラック・ミュージックではアイク&ティナ・ターナーであり、ロック・ミュージックではデラニー&ボニーであろう。

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2017年11月13日 (月)

マーク・べノ(2)

 ずいぶん昔の話だけれども、このブログでマーク・べノのアルバム「雑魚」を紹介したことがあった。このアルバムは、知っている人は知っているけれども知らない人は誰も知らないというぐらい有名なアルバムで、個人的に隠れた名盤として載せたのである。51ozvefplrl
 いま調べたら2008年の7月14日付でこのブログに記載されていて、いかにこのアルバムが素晴らしいかを力説していた。思えば9年も前のことになるが、時の経つのは早いものだ。
. そんなことはどうでもいいのだが、当時はあまり深く考えなかったのだけれども、このマーク・べノもスワンプ・ロック関連のミュージシャンのひとりで、この1971年の名盤にも当時の関係者が多数参加していた。

 たとえば、ギター奏者ではザ・バーズに在籍していたクラレンス・ホワイト、ジェシ・エド・デイヴィス、ボビー・ウーマックにジェリー・マッギー、ベーシストにはデレク&ザ・ドミノスのカール・レイドル、ジェリー・シェフ、ドラマーにジム・ケルトナー、バック・コーラスにはリタ・クーリッジなどのミュージシャンである。いずれもデラニー&ボニー関連のミュージシャンか、その関係者だった。

 マーク・べノ自身も若き日のレオン・ラッセルとアサイラム・クワイアというバンドを結成していた。その関係からこれらのミュージシャンが参加したものと思われる。いずれもデラニー&ボニーに、直接的にしろ間接的にしろ関係しているミュージシャンばかりだ。

 マークは、テキサス州のダラスに生まれている。1947年生まれなので、今年で70歳になる。12歳でギターを手にし、15歳頃にはプロのミュージシャンとして活動を開始した。
 様々なバンドを経験した後、1966年にレオン・ラッセルと知り合い、意気投合してハリウッドに居を定め、アサイラム・クワイアというバンドを結成している。

 バンドは、「ルック・インサイド・ジ・アサイラム・クワイア」と「アサイラム・クワイアⅡ」という2枚のアルバムを発表したが、商業的には成功せず、マークは一人で地元テキサスに戻り、カントリー・ブルーズ・シンガーのマンス・リプスカムのバック・バンドで音楽活動に取り組んだ。

 1970年にはリタ・クーリッジの後ろ盾もあって、当時のA&Mレコードと契約を結び、デビュー・アルバム「マーク・べノ」を発表した。このアルバムについては後に述べることにする。

 そして翌年には、スワンプ・ロックの名盤傑作選には必ず入ると言われている「雑魚」を発表した。このアルバムについては、すでに述べているのでそちらを参照してほしい。たぶんほとんど誰も目にしないだろうけれど…

 1972年には3枚目となる「アンブッシュ」を発表して、ナイトクロウラーズという自身のバンドを結成した。このバンドには有名になる前のスティーヴィー・レイ・ヴォーンやドイル・ブラムホールなどが在籍している。

 だからというか当然というべきか、彼らは地元では大変な人気を誇っていて、ハンブル・パイやJ.ガイルズ・バンドの公演ではオープニング・アクトを務めていたが、メイン・アクトよりも観衆を沸かせていたといわれている。

 レコード会社としては、シンガー・ソングライターとしてプッシュしていたのだが、いつの間にかブルーズ・ロックをやるようになっていったマークに難色を示すようになり、1974年の4枚目のアルバムは録音されたものの、結局、発売は見送られてしまった。2005年になってこのアルバムは、「クローリン」というタイトルで発表されている。

 「ロスト・イン・オースティン」というアルバムが1979年に突如発表されたが、A&Mから発表されたアルバムは、これが最後になってしまった。
 これは珍しくロンドンでレコーディングされていて、エリック・クラプトンや彼のバンド・メンバーも参加したブルーズ色の濃いロック・アルバムに仕上げられていた。

 その後は、彼が手掛けた「ビヴァリー・ヒルズ・コップ」の挿入歌入りのサントラが1986年度のグラミー賞を受賞したり、1990年には「テイク・イット・バック・トゥ・テキサス」というアルバムを発表したりするが、無理のないコンスタントな活動を行っているようだ。
 アルバムも定期的に発表しているが、メジャーなレーベルからは出していないので、遠く離れた日本では、彼の具体的な活動は把握しにくい。

 ただ、2005年と2011年には来日しているので、日本でもコアなファンはいるはずだ。もちろん自分もそのうちの1人なのだが、残念ながら生の姿はまだお目にかかっていない。機会があればと願っているが、もう恐らく日本に来ることはないだろう。残念の一言に尽きる。

 それで、久しぶりに彼の1970年のアルバム「マーク・べノ」を聞いたのだが、これがまた「雑魚」に負けず劣らず良いので、このところ毎日聞いている。41mkdwc2zhl
 まず、参加ミュージシャンが素晴らしい。だいたいスワンプ・ロック系のアルバムには、その筋のミュージシャンが大挙して押し寄せて、勢いで制作するという傾向が強いのだが、このアルバムもその例に漏れない。

 キーボードには清志郎とも共演したブッカー・T・ジョーンズ、スライド・ギターには名手ライ・クーダー、ギターにはベンチャーズのジェリー・マギー、ベースはプレスリーやコステロとも経験のあるジェリー・シェフ、レオン・ラッセルの後ろでタイコをたたいていたジミー・カースタイン、そしてジム・ホーンにリタ&プリシラのクーリッジ姉妹と、これはスワンプ・ロックの範疇を超えた西部&南部連合軍だろう。

 アルバムには9曲が収められている。1曲目の"Good Year"はタイヤのコマーシャル・ソングではないものの、軽快なカントリー・ロックで、バックのホーンとワウワウのギターがルイジアナなどのアメリカ南部を想起させる音になっている。エンディングに向けてテンポが徐々に上がっていく。

 "Try It Just Once"はミディアム・ブルーズ風の曲だが、全編を覆うギターがカッコいい。デビュー・アルバムからしてこのレベルの高さは、正直言って素晴らしい。

 3曲目の"I'm Alone I'm Afraid"はさらにスローな曲で、まるでレオン・ラッセルのピアノとスティーヴィー・レイ・ヴォーンのギターが合体したような曲に仕上げられている。このアルバムの中でも1、2を争うほどの出来栄えだと思うし、この曲とラストの曲のためにアルバムを買っても惜しくはないだろう。

 一転して明るい曲調の"Two Day Love Affair"では、リタ・クーリッジらの女性ボーカルが曲を盛り上げていて、ポップな色どりを添えている。こういう曲も書けるところがマーク・べノの才能の大きさだろう。

 "Second Story Window"は涙が出そうなアコースティックな曲で、のちにリタ・クーリッジが自分の持ち歌の一つにするほどの素晴らしい曲。秋の夜長に聞いていると、胸が締め付けられるような感じの曲だ。ブッカー・T・ジョーンズの演奏するハモンド・オルガンもまたいい味を出している。

 アルバムの後半は、ややハードな"Teach It To The Children"で始まる。マーク・べノ流のロックン・ロールだろう。中間部のギター奏法がややサイケデリック風で、この時代の雰囲気をよく表している。

 "Family Full Of Soul"は、やや力を抜いたレイド・バック風の曲で、アメリカの南部の風を感じさせてくれる。バックのホーン・セクションにピッコロも使用されているので、明るく陽気な気持ちにさせてくれた。

 8曲目の"Hard Road"だけは、マーク・べノとグレッグ・デンプシーという人の共作だった。グレッグ・デンプシーという人は、ロサンゼルス時代のマークの友人で、レオン・ラッセルと一緒に3人で曲作りも行っていたという。
 軽快なスワンプ・ロック風のロックン・ロールで、後半のライ・クーダーによるスライド・ギターが文句なくカッコいい。

 最後の"Nice Feelin'"は、スワンプ・ロック流のゴスペル・ソングだろう。ピアノとハモンド・オルガンの共演やそれに絡むギター、クーリッジ姉妹のバック・コーラスなどが聞くものに魂の癒しを与えてくれる。
 この曲ものちにリタ・クーリッジが自分で歌っているが、やはりプロの歌手が自分も歌いたいと思わせるような魅力というか力を秘めているのだろう。
 このアルバムは全体で33分くらいしかないのだが、この曲だけは5分50秒もある大曲だった。

 いずれにしても、このアルバムもまた「雑魚」と並び称されるほどのスワンプ・ロックの名盤ということが、あらためてわかった。ただ、もう1、2曲ほど曲が多ければ、もっと充実したアルバムになったに違いない。
 それでもデビュー・アルバムでこれほどの名盤が作れるのだから、やはりマーク・べノは実力派ミュージシャンだった。Marc_benno
 今ではそんなに語られることはないかもしれないけれど、マーク・べノもまたスワンプ・ロックのみならず、アメリカン・ロックを代表するミュージシャンの1人だった。もっと評価されていいミュージシャンだと思っている。

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2017年11月 6日 (月)

デラニー&ボニー(2)

 スワンプ・ロックとは、ロックン・ロールを中心にして、それにR&Bやカントリー・ミュージック、ゴスペルなどの要素を備えた音楽であり、具体的にはロック・バンドにブラスとコール&レスポンス風のバック・コーラス、それにピアノやオルガン中心のキーボードを加えた楽曲である。

 1970年前後にアメリカを中心に流行したが、これを主導したのは、アメリカ人ミュージシャンのみならず、クラプトンやデイヴ・メイソンなどの著名なイギリス人ミュージシャンもその一翼を担っていた。

 自分なんかはクラプトンやジョージ・ハリソンが彼らと積極的に交流を図ろうとしていたのを知って、初めてこの手の音楽を知った。だからイギリス人ミュージシャンを鏡にして、アメリカの音楽の源流の一つを学んだようなものだった。

 レオン・ラッセルやドン・ニックス、マーク・べノなどのアメリカ人ミュージシャンの音楽もスワンプ・ロックの範疇に含まれるのだが、その中で一番有名で、一番影響力があったのは、やはりデラニー&ボニーであることは論を俟たないだろう。

 特に彼らが発表した4枚目のアルバム「デラニーよりボニーへ」は、まさにスワンプ・ロックを代表するアルバムである。このアルバムを聞けば、スワンプ・ロックとは何なのかを体験できる。それほど優れた名盤であり、アメリカン・ロック史の中でもまさに世界遺産級のアルバムだと思っている。61hhvjhiphl__sl1050_
 このアルバムは、1970年に発表された。前年のイギリス・ツアーは「オン・ツアー・ウィズ・エリック・クラプトン」として70年の3月に発表されていた。

 デラニーは、イギリスから帰国後、ただちにスタジオ・アルバムの録音に取り掛かろうとしたのだが、残念ながらバック・ミュージシャンのほとんどは、エリック・クラプトンやレオン・ラッセルたちと行動を共にしていて、デラニーのもとにはあまり人が残っていなかった。

 そんなときに助け舟を出してくれたのが、アトランティック・レコードの当時の重役だったジェリー・ウェクスラーだった。
 彼はデラニーとボニーにオールマン・ブラザーズ・バンドのギタリストだったデュアン・オールマンを紹介したのである。

 当初はライ・クーダーの名前も挙がったのだが、ジェリーはデュアンの方が音楽性が合うだろうと仲介してくれた。
 実際、デュアンとデラニーは意気投合して、2人で行動を共にすることが多くなっていった。当時のデュアンは自分のバンドのツアー以外は、ほとんどの時間をデラニー&ボニーと過ごすようになったと言われている。

 だからこのアルバムのクレジットを見ると、レオン・ラッセルやエリック・クラプトンの名前は既になく、代わってデュアン・オールマンのほかに、ベン・べネイ、チャーリー・フリーマン、スニーキー・ピートやメンフィス・ホーンズのメンバー等がクレジットされていた。

 また、デレク&ザ・ドミノスからは、ボビー・ホイットロックとジム・ゴードンが参加していた。ただ、ジムは本職のドラムは叩いておらず、ピアノやオルガンを担当している。

 ついでにいうと、ギター担当のチャーリー・フリーマンやリズム陣のトミー・マクルーアとサミー・クリースンなどは、マイアミにあるクライテリア・スタジオの専属ミュージシャンだった。彼らは“ディキシー・フライヤーズ”と呼ばれていて、それなりの経験を積んだベテラン・ミュージシャンたちだった。

 このアルバムの素晴らしさは、とにかくスワンプ・ロックの要素をすべて備えているところだろう。71rhuj1prbl__sl1050_
 デラニーの書いた"Hard Luck And Troubles"からアルバムは始まる。ノリのよい転がるようなテンポの曲で、途中からのホーン・セクションがR&B風でカッコいい。

 続いてアコースティック・ギターとスティール・ギターがフィーチャーされた"God Knows I Love You"が始まる。アメリカ南部から中西部に移動してきたような感じがした。1曲目と2曲目のギャップはそんな感じだった。
 蛇足として、スティール・ギター奏者のスニーキー・ピートは当時フライング・ブリット・ブラザーズに所属していたミュージシャンである。

 ボニーが本格的に登場するのは、3曲目の"Lay Down My Burden"からである。この人が歌うと迫力があるので、本当にティナ・ターナーが歌っているように感じてしまう。この曲もまた彼女の代表曲の一つだろう。

 4曲目はメドレー形式になっていて、ロバート・ジョンソンの名曲でデラニーが歌う"Come on in My Kitchen"から、ボニーが歌う"Mama, He treats Your Daughter Mean"、2人のデュエットによる"Going Down The Road Feeling Bad"へと続く。バックの演奏はアコースティック・ギター2本とコンガのみである。

 続いて、お涙頂戴のスラー・バラード"The Love of My Man"をボニーが丁寧にかつ切々と歌ってくれる。ただ、迫力がありすぎて感傷ではなく感動してしまう。バックのオルガンとホーンの絡みなどは見事なアレンジだと思った。

 一転して、ロックン・ロールになる。"They Call It Rock&Roll Music"はタイトル通りの曲で、デラニーが手掛けた曲だった。ロックン・ロールといっても、スワンプ・ロックにはホーンやバック・コーラスがフィーチャーされるので、ギター・ソロはそんなに目立たない。
 この曲のサックスは、デラニーの友人のキング・カーティスという人が担当している。この人は有名なサックス奏者だったが、翌年の8月にドラッグの密売人と口論になり刺殺されている。享年37歳だった。

 さらにアップテンポでノリノリなのが"Soul Shake"だ。たぶん当時のレコードでは、この曲がサイドBの1曲目にあたるのではないだろうか。最初から飛ばしていこうぜという感じの曲で、間奏でのデュアンのスライド・ギターと後半のサックスが目立っている。

 "Miss Ann"はピアノが目立つブギウギ調のロック・ナンバーで、誰が弾いているのかと思ったら、何とリトル・リチャードだった。ゲスト参加ということだ。この曲は5分以上もあるので、結構、彼のピアノは目立っている。

 9曲目の"Alone Together"はデイヴ・メイソンの曲ではなくて、デラニー&ボニーとボビー・ホイットロックが手掛けたもの。まさにスワンプ・ロックのお手本のような曲で、みんなでワイワイやっているようなスワンプ・ロック風パーティー・ソングである。

 そして、次の"Living On the Open Road"ではデュアンのスティール・ギターが大フィーチャーされていて、個人的には、この1曲だけでもこのアルバムを聞く価値があるのではないかと思っている。他の曲でももっと弾いてほしかったが、この曲を聞けただけでも幸福感が湧き上がってくる。

 ハードな曲の次にはスローな曲が来るのは定番で、"Let Me Be Your Man"はスロー・バラード曲。ただメイン・ボーカルはデラニーだった。タイトル曲や内容が男性用だからだろう。でも、しっかり聞きこむと、意外とデラニーの歌い方もソウルフルで情感豊かだった。もう少しエンディングを伸ばしてほしかったように思う。

 最後の曲"Free the People"はボニーが歌っていて、基本的には前半がトロンボーンとパーカッションで、後半はバンド形式になる。そしてアルバム全体を締めくくるかのように、最後はみんなで歌って終了という感じだった。

 デラニー&ボニーは、翌年の1971年に「モーテル・ショット」を発表した。これは商業的な成功を求めるために発表したものではなくて、当時の彼らの日常の音楽風景を記録として留めようと思って制作されたものだった。91c0708lh8l__sl1500_
 当時の彼らは、ライヴ終了後はモーテルに戻って、さらに一晩中、飲んで歌ってワイワイやっていたという。その中で、次のアルバムへのアイデアや曲へのイメージが浮かんで来たようなのだが、そういう演奏などを無理のない形で発表しようとしたのである。

 基本はホテル(モーテル)内でのレコーディングなので、エレクトリックな楽器は極力排除されていて、ピアノやタンバリンなどのパーカッションが主な楽器だ。

 録音時期には諸説あるが、だいたい1969年の秋以降から1970年の5月くらいまでではないかと言われている。
 このアルバムには、レオン・ラッセルやデイヴ・メイソンにデュアン・オールマン、それにジョー・コッカーまで参加していた。

 だから、デレク&ザ・ドミノス結成以前か、ジョー・コッカーの全米ツアー以前だろう。ということは、上記の時期が最も当てはまりそうで、その間のデラニー&ボニーのツアーの合間を利用して録音されたものなのだろう。

 曲の内容的には、トラディショナルや黒人霊歌的なものも含まれていて、彼らの宗教観や音楽観が伺える。デラニー&ボニーもレオンも敬虔なクリスチャンで、ショーの前後でみんなで円陣を作り、祈りを捧げていたという。

 1曲目の"Where The Soul Never Dies"古いゴスペル・ソングをデラニーがアレンジしたもので、レオン・ラッセルの弾くピアノとタンバリンで構成されている。
 続く"Will The Circle Be Unbroken"も古い讃美歌で、ここではボニーがメイン・ボーカルを取っている。

 一転して静かな"Rock of Ages"が始まる。珍しくレオン・ラッセルがリードを取っていて、これも讃美歌をアレンジしたものらしい。ピアノ1台と少しのパーカッションで成り立っている曲でもある。

 アコースティック・ギターとピアノが目立っている"Long Road Ahead"はデラニーとカール・レイドルの曲で、デイヴ・メイソンと思われるギターがかすかに聞こえてくる。これも誠実、質素、堅実といった古き良きアメリカ南部の伝統を踏襲したような内容の曲になっている。

 更にメロディアスでバラードなのは5曲目の"Faded Love"で、歌っているのはデラニー・ブラムレットだった。彼が子どもの頃に、家族でよく一緒に歌っていた曲の一つだという。素朴でセンチメンタルな曲である。

 "Talkin' About Jesus"をリードするのは、なんとまあジョー・コッカーである。彼の名前はこのアルバムにはクレジットされていないのだが、誰が聞いても彼だとわかる声が聞こえてくる。
 ジョーの次には、デラニー、ボニーと次々とコーラスが加わり、まさにゴスペルの極致に近づいてくる。彼らにはモーテルではなくて、教会で歌っているような感じだったかもしれない。もしくは、神はどこにでもおわしますという心境だったかもしれない。教会であろうが、ホテルの一室であろうが、神を身近に感じることがクリスチャンの資質なのだろうか。

 6分51秒の曲の次は、2分41秒のロバート・ジョンソンも歌った"Come on in My Kitchen"。ドブロ・ギターを弾いているのは、デュアン・オールマンのようだ。前作の「デラニーからボニーへ」とはレコーディングの時期が違う曲だった。

 続いてスロー・ナンバーの"Don't Deceive Me"が始まるのだが、この曲はボニーがリードを取っていて、ソウルフルなボーカルを聞かせてくれる。アコースティック・ギターを弾いているのは、何となくクラプトンのような気がするのだが、気のせいだろうか。ただ、クラプトンもこのアルバムにはクレジットされていない。

 "Never Ending Song of love"はデラニーのオリジナル曲。このアルバムからシングル・カットされ、全米チャートの13位まで上昇し、彼らの最大のヒット曲になった。のちにザ・ニュー・シーカーズやジ・オズモンド・ブラザーズなどもカバーしてヒットさせている。このアルバムの中では、唯一のポップ・ソングかもしれない。

 "Sing My Way Home "もデラニーのオリジナル曲で、バックのスライド・ギターはもちろんデュアン・オールマンである。アコースティック主体の爽やかな曲でもある。

 このアルバムの前半はR&Bやゴスペルの影響を受けた高揚感のある曲が占めているのだが、後半はこういうアコースティック主体の曲やポップな曲が目立っている。91b3kymkagl__sl1500_
 11曲目も前作「デラニーからボニーへ」の中でメドレーとして収められていた曲"Going Down The Road Feeling Bad"で、デュアン・オールマンのアコースティック・ギターが目立っているせいか、軽快で明るい印象を受けた。

 最後を飾るのは"Lonesome And A Long Way From Home"で、クラプトンの1970年のソロ・アルバムにも収められていた。デラニー&ボニーとレオン・ラッセルのクレジットによる曲で、フィドルなども聞こえてきて、よりアーシーになっている。最後のボーカルはスティーヴン・スティルスと言われているが、彼の名前もアルバムには記載されていなかった。

 というわけで、このアルバムについては売れることを意識して発表したわけではないようだが、なぜかシングル曲はヒットしてしまった。彼らにとっては予想外のことだっただろう。あるいは、スワンプ・ロックというブームの中での出来事だったのかもしれない。

 このあと彼らは、アルバムを制作するもレコード会社からは拒否され、夫婦仲も次第に険悪な状況になっていった。

 この「モーテル・ショット」は、1990年代にブームになった“アンプラグドもの”の先駆けとなったアルバムとも言われているが、あるいは、もしかしたら彼らの最も幸福な時間を曲に託して記録(レコーディング)したのかもしれない。

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2017年10月30日 (月)

1970年のエリック・クラプトン

 前回は、ジョー・コッカーがデラニー&ボニーのバック・バンドと一緒にツアーに回っていった過程を主に述べたのだが、当時のイギリス人ミュージシャンには、ロックン・ロールのルーツであるアメリカ南部の音楽に回帰していくということが流行していた。

 ジョー・コッカーのみならず、デイヴ・メイソンや彼が所属していたトラフィックのスティーヴ・ウインウッドもアメリカの南部音楽に影響を受けていたし、今回のお題であるエリック・クラプトンもデイヴ・メイソンの後を追うように、ルーツ音楽を探し求めていた。

 そういうミュージシャンの意識が英米のミュージシャンの交流を生み、やがては“スワンプ・ロック”というムーヴメントを生み出していった。その中心にいたのが、デラニー&ボニーだったという話はすでに述べた。

 今回は、1970年に発表されたエリック・クラプトンのソロ・アルバムについて、特にデラニー・ブラムレットがミキシングをしたバージョンについて述べることで、当時のスワンプ・ロックやデラニー&ボニーの影響力などについて考えてみたい。

 クリーム解散後、エリックはリック・グレッチやジンジャー・ベイカー、スティーヴ・ウインウッドとともに、スーパー・グループのブラインド・フェイスを結成してアルバムを発表した。1969年のことである。

 アルバムはその年の8月に発表されたが、その前の6月にはロンドンのハイド・パークでデビュー・コンサートを行っている。このコンサートは、フリー・コンサートで誰でも自由に観ることができた。
 その後彼らは、ヨーロッパをまわってアメリカに渡った。ツアー中にデビュー・アルバムが発表されたのだが、残念ながら、その時にはすでにバンドは崩壊しかけていたのである。

 エリック・クラプトンやジンジャー・ベイカーはクリームのようなインプロヴィゼーション中心のハードな音楽も追求しようとしたが、残りの2人はソウルフルなR&Bも視野に入れたロック・ミュージックの可能性も探ろうとしていた。

 結局、それぞれの思惑が微妙に異なっていて、やがてそれが大きな亀裂に結び付いていき、最終的には1年ももたずに解散してしまったのである。

 エリック・クラプトンにとって幸いしたのは、ブラインド・フェイスのツアー時のオープニング・アクトがデラニー&ボニーだったことだ。
 彼らのアメリカのルーツに結び付いた音楽に触れることによって、エリック・クラプトンはバンド解散後の方向性を確立しようとしたし、刺激を受けることで、もっと深くアメリカ南部の音楽を学ぼうとした。920a3f0807b3dc454d1e6f1c2db852ab
 エリック・クラプトンは、ロサンゼルスにあったデラニー・ブラムレットの自宅を訪ね、彼とともにソロ・アルバムの構想を練っていった。
 その時、デラニーからアドバイスを受けたことは、もっと自分自身の声を使えというものだった。ギターのテクニックについては、当然右に出る者はいなかったが、誰もが所有している“声”という楽器については、まだまだ不十分なものだったようだ。

 確かに、クリーム時代でも曲によっては歌っているものもあったが、あくまでもボーカルはジャック・ブルースだった。だから、本格的にボーカリストとして足を踏み出したのは、1970年からと考えていいだろう。

 ソロ・アルバムのレコーディングは1969年の11月から始まり、翌年の1月にはロサンゼルスで最終セッションが行われた。
 もちろんレコーディングの主導権は、デラニー・ブラムレットが握っていて、彼のリーダーシップのもと、錚々たるミュージシャンが集められ、アルバム制作が進められていった。

 元々のアルバム・タイトルは「エリック・シングス」と名付けられていて、まさに“弾くクラプトン”ではなくて、“歌うクラプトン”がフィーチャーされていたのである。

 それにこのソロ・アルバムには、トム・ダウドがミックスしたバージョンとプロデューサーだったデラニー・ブラムレットが直接ミックスしたバージョンが存在していて、2006年にはその両方のバージョンを収録したデラックス盤が発表されている。71wvhqcmnjl__sl1200_
 トム・ダウドのミックス盤は全11曲、ボーナス・トラックが3曲で、そのボーナス・トラックの中には"Let It Rain"のオリジナル・バージョンの"She Rides"や10分25秒もある"Blues in A"という曲が収められていた。

 一方、デラニー・ブラムレットのミックス盤は、10曲+ボーナス・トラック4曲の計14曲で、カーペンターズも歌った"Superstar"のオリジナル・バージョンだった"Groupie"が含まれていた。

 また、トム・ダウド盤にあってデラニー盤になかったのは、"I've Told You For the Last Time"という曲で、デラニー・ブラムレットとスティーヴ・クロッパーの作品だった。
 ただし、デラニー盤では、この曲はボーナス・トラックとして、1969年の12月にロンドンのオリンピック・スタジオで録音されたバージョンが収録されていた。

 デラニー・ブラムレットのミックス盤は、トム・ダウド盤と比べて曲順と曲の長さが微妙に違っていた。
 1曲目の"Slunky"は同じだが、2曲目の"Bad Boy"はデラニーのミックスの方が8秒ほど長い。また、デラニー盤の方がレオン・ラッセルのピアノとサックスなどのホーンが強調されている。

 3曲目はトム・ダウド盤と入れ替わっていて、トム・ダウド盤では"Lonesome And A Long Way From Home "だったが、デラニー盤では"Easy Now"だった。
 この曲はアコースティック・ギター1本で、まるでシンガー・ソングライターのようにやっているので、今では珍しい爽やかな曲調を持っている。"Easy Now"については、トム・ダウド盤と同じである。

 4曲目は、J.J.ケールの書いた曲である"After Midnight"だった。トム・ダウド盤ではロック・アレンジだったが、デラニー盤の方では、それに加えてピアノとホーン・セクションがフィーチャーされている。時間的にもこちらの方が26秒ほど長い。

 5曲目はトム・ダウド盤は"Easy Now"だったが、デラニー盤では"Blues Power"で、こちらの方もレオン・ラッセルやボビー・キーズが頑張っている。11秒ほど長いのも魅力的である。

 次の曲は、デラニー盤では"Bottle Of Red Wine"で、トム・ダウド盤は"Blues Power"だ。この"Bottle Of Red Wine"については両盤ともほぼ同じで、ほとんど違いがない。デラニーとエリック・クラプトンの曲である。

 "Lovin' You Lovin' Me"については、デラニー盤の方が44秒も長い。その分エンディングが強調されているというか、最後までしっかりと聞くことができる。クラプトンの曲には、エンディングがフェイド・アウトする曲が多いのだが、この曲についてはエンディングが長いので、何となくお得感があった。

 8曲目の"Lonesome And A Long Way From Home"は、トム・ダウド盤では3曲目に置かれていた。この曲もデラニー盤の方が19秒ほど長い。クラプトンのワウワウ・ギターがかわいらしく聞こえるし、これもエンディングまで楽しめる曲に仕上げられている。

 最後から2曲目は"Don't Know Why"で、これもデラニー盤の方が33秒も長い。エリック・クラプトンの自宅に立ち寄ったデラニー・ブラムレットが作った曲で、クレジットではクラプトンとの共作になっている。当たり前のことだが、エンディングのギター・ソロがさすがクラプトンである。

 最後の曲は、両盤とも"Let It Rain"だった。トム・ダウド盤との違いは、1秒ほどデラニー盤の方が長いという点だろう。ただ、素人が聞いてもあまり違いは判らないのではないだろうか。81aamui7j8l__sl1361_
 ボーナス・トラックの1曲目は、9曲目の"Don't Know Why"の別バージョンで、こちらはオリンピック・スタジオで録音されたものだった。トム・ダウド盤よりも2分以上長くなっていて、全体的にラフな作りになっている。その分、“スワンプ・ロック”の匂いがプンプン漂っているような感じがした。

 ボートラの2曲目は、"I've Told You For the Last Time"で、トム・ダウド盤よりも4分16秒も長い。これもオリンピック・スタジオにおけるラフ・ミックス・バージョンのようだが、エリック・クラプトンのギター・ソロがフィーチャーされていて、十分鑑賞に堪えうるものだった。
 クリームの幻影を追い求めるロック・ファンにとっては、こちらの方がよかったのではないかと思っている。

 3曲目は、デラニー&ボニー・アンド・フレンズによる"Comin' Home"で、文字通りデラニー&ボニーを支えるバック・ミュージシャンとエリック・クラプトンがセッションをしている。
 時間的に3分14秒というのが辛い。ただ、彼らのイギリス公演では、5分以上長くやっていた。ライヴだったから長めにやったのだろう。

 最後の曲は"Groupie(Superstar)"で、リード・ボーカルはボニー・ブラムレット。名曲は誰が歌っても名曲だろう。レコーディングにはデイヴ・メイソンやリタ・クーリッジなども参加していた。

 というわけで、デイヴ・メイソンの後を追うようにアメリカに渡った(というか既に渡っていた)エリック・クラプトンだったが、デラニー&ボニーとその友人たちと一緒になって制作されたのが1970年のソロ・アルバムだった。Be30fe8f29ce7bfe465eed9df7be9567eri
 このあと、バック・ミュージシャンはレオン・ラッセルとともにジョー・コッカーと全米ツアーを行い、そのあとジムとカールとボビーはクラプトンとともにデレク&ザ・ドミノスを結成することになるのだが、その後の展開についてはまた別の機会に譲ろうと思う。
 別の機会があればのお話だが…

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2017年10月23日 (月)

ジョー・コッカー

 デラニー&ボニーの影響力についていろいろと調べてきた。今回は、イギリス出身のミュージシャンであるジョー・コッカーについてである。
 自分は、彼についてはもうすでにこのブログの中で書き綴っていたと思っていたのだが、実際は、軽く触れた程度で、そんなに詳しくは書いてはいなかった。今はともかく、70年代においては一世を風靡していたミュージシャンである。何だか申し訳ないと思ってしまった。Cocker
 ジョー・コッカーは、本名を“ジョン・ロバート・コッカー”という。1944年の12月にイギリスのヨークシャー州シェフィールドで生まれた。
 “ジョー”という呼び名は、子どもの頃の遊びにあった“カウボーイ・ジョー”から取ったものという説や、近所の清掃業者の名前からとった説と、諸説あって定かではない。

 彼の音楽的経歴は、12歳頃に長兄が作ったバンドで一緒に歌っていた時から始まった。当時は、兄のヴィクターから誘われるままに歌っていたようだ。

 もともと彼は、レイ・チャールズやロニー・ドネガンに憧れて歌を歌うようになった。長兄のアドバイスもあって、“キャバリアーズ”というバンドを結成して歌っていた。

 しかし1年も経たずにバンドは解散してしまい、ジョー・コッカーは高校を退学して、ガス工事人の見習いとして働きながら音楽活動を行うようになった。

 17歳の時には、“ヴァンス・アーノルド&ジ・アヴェンジャーズ”というバンドを結成して音楽活動を再開した。最初は地元のパブなどで活動していたが、徐々に力をつけていき、やがてはローリング・ストーンズのオープニング・アクトまで務めるようになった。
 この頃のジョーは、ブルーズに傾倒していき、ジョー・リン・フッカーやハウリン・ウルフなどの歌も歌うようになった。そういう“黒っぽさ”がストーンズの興味をひいたのだろう。

 20歳になると、ソロ活動を始め、運よくデッカ・レコードと契約することができた。デッカ・レコードといえば、あの4人のカブトムシたちの才能を認めずに契約しなかったレコード会社で有名だが、この時はジョーと契約して、4人のカブトムシの曲"I'll Cry Instead"を制作した。

 しかし、運命はそんなに都合よく回っていくものではない。この曲はプロモーションしたにもかかわらず、ヒットせず、ジョーは1年も経たずにデッカとの契約を失ってしまったのである。

 その後、ジョー・コッカー・ブルーズ・バンドを結成して歌うなどを行っていたが、鳴かず飛ばずで、しばらく音楽活動から遠ざかっていった。そして、約2年間のブランクの後に、ジョーはクリス・ステイトンとザ・グリース・バンドを結成し、活動を行うようになった。
 その活動を目にしたプロデューサーのデニー・コーデルから声を掛けられたジョーは、ソロ・ミュージシャンとして契約を結び、シングル"Marjorine"を発表した。

 この曲はヒットはしなかったものの、注目を集める結果につながった。だからというわけでもないだろうが、彼は続けて曲を発表することができたのである。
 それが1968年に発表された"With A Little Help From My Friends"だった。この曲はイギリスのシングル・チャートのトップ10に入ると、13週間その中に留まり、ついにはその年の11月にNo.1になったのである。(アメリカでは68位だった)

 元々所属していたグリース・バンドはソロ・ミュージシャンになったころに解散したのだが、盟友クリス・ステイトンとはともに活動を続けていて、新たにギタリストとしてヘンリー・マッカロウを迎え、ジョーは1969年の4月にデビュー・アルバム「心の友」を発表して、新生グリース・バンドとともにツアーを開始した。

 イギリス国内では、ザ・フーやジーン・ピットニーらと一緒にライヴ活動を行い、その後アメリカに渡ってエド・サリヴァン・ショーに出演したり、デンヴァーやアトランタなどで様々な野外フェスティバルに出演したりしている。
 そして、一躍世界的に有名になった契機が、1969年のウッドストック・フェスティバルにおけるステージングだった。

 1969年8月16日、ウッドストック・フェスティバルの3日目でのパフォーマンスで、この日のオープニング・アクトを務めたジョー・コッカーとグリース・バンドは、約1時間にわたって歌と演奏を繰り広げたのである。 Http___i_huffpost_com_gen_2422380_i
 この時のライヴでの彼の歌い方やしゃがれた声は、パワフルでインパクトがあったし、誰でも一度見れば、決して忘れられない映像だった。まさに、ジョー・コッカーのターニング・ポイントとなったライヴだった。

 このライヴ後は、ロサンゼルスでニュー・アルバムを録音し、年末から次の年に向けて再びツアーに出ることになっていた。
 ところが、ジョー・コッカーは何か月にもわたるツアーとセカンド・アルバムのレコーディングからくる疲労のせいで、身体的にも精神的にも疲れてしまったのである。

 確かに、あの“ひきつけ”を起こしたような歌い方や動きを見れば、どれほど彼がエネルギーを消費しているかが分かると思う。
 それに当時の音楽業界は、レコーディングの次はツアー、合間を縫ってテレビやラジオ出演は当たり前だったし、しかもそれが西海岸から東海岸、南部のテキサスから北部のミシガンまで、何か月にも渡ってバスや飛行機で移動するのである。まともな人なら疲れて当然だといえよう。

 とにかく、当時のジョーはボロボロの状態だったようで、クリス・ステイトンを除くグリース・バンドとも喧嘩別れをしてしまい、ひとりになってしまったのである。

 ゆっくり休養しようと思ったジョー・コッカーだったが、ところが彼にはアメリカ・ツアーの契約がまだ残っていて、8日後にツアーに出かけるか、もしくは莫大な違約金を払うと同時に、二度とアメリカでのツアーをしないという条件を飲むかという状態に追い詰められてしまった。

 ここでグリース・バンドがまだ一緒にいれば問題はなかったのだろうが、自分一人ではどうしようもできない。そう考えたジョー・コッカーは、とりあえずマネージャーのデニー・コーデルに助けを求めた。

 すると彼は、自分と一緒にシェルター・レコードを立ち上げたレオン・ラッセルにこのことを伝えて相談したところ、時流の波に乗っていたレオン・ラッセルは快諾し、彼の人脈を使ってミュージシャンを集めたのである。ここでやっとジョー・コッカーとデラニー&ボニーの影響力が結びつくのである。

 レオン・ラッセルが集めたミュージシャンは、デラニー&ボニーのバック・ミュージシャンたちだった。要するに、当時の“スワンプ・ロック”を代表するミュージシャンばかりである。
ドラムス…ジム・ケルトナー、ジム・ゴードン、チャック・ブラックウェル
ベース…カール・レイドル
ギター…ドン・プレストン
キーボード…レオン・ラッセル、クリス・ステイトン
サックス・・・ボビー・キーズ
トランペット…ジム・プライス
バック・ボーカル…リタ・クーリッジ、クローディア・レニア等

 そして、ミュージカル・ディレクターはレオン・ラッセルだった。総勢約20名のバンド・リーダーである。

 彼らは1970年の3月17日に、シングルのレコーディングとライヴのリハーサルを行い、20日からのデトロイト公演でツアーが始まった。そしてこの時のツアーは、記録映画として撮影され、その時の楽曲はライヴ・レコーディングされることになった。これが「マッド・ドッグス&イングリッシュメン」として、のちに発表されることになるのである。91brxoxxwdl__sl1500_

 このアルバムは、3月27日と28日のニューヨークにあるフィルモア・イーストでの4回のステージからレコーディングされている。
 内容は、スワンプ・ロックというよりは、ジョー・コッカーのキャリアをまとめたようなものになっていて、ブルーズ・ロックとソウル・ミュージック、ゴスペルやカントリー・ミュージックなどが高次元で融合しているような素晴らしい出来栄えだった。

 何しろ当時のレオン・ラッセルとジョー・コッカーは2人とも神がかっていて、すべての音楽的活動が成功に結び付くような状態だった。時代の波といってしまえばそれまでだが、やはり彼らには、時代をリードする魔法のような力や時代を惹き寄せるマジカルなパワーを有していたのだろう。

 そんな彼らが結託して、結託という言葉がよくないなら、共同して活動していたのだから、これはもうひれ伏すしかないわけで、このライヴ・アルバムは2枚組ながら、全米2位、全英16位を記録した。彼らからすれば、当たり前のことだと思っただろう。

 彼らは約2か月のツアーを続け、全米48都市58公演を行った。最終的にミュージシャンとスタッフを合わせて43名にのぼったと言われている。

 ところが成功と引き換えに、このツアーでジョー・コッカーは完全にダウンしてしまった。原因の一つには、レオン・ラッセルとの確執があったからだと噂されていた。

 レオン・ラッセルのデビュー・アルバムは、このツアーの途中で発表され、ツアーが続けられていくほど、アルバムのセールスは伸びていった。ジョー・コッカーよりもレオン・ラッセルのためにあるツアーになったのかもしれない。まさに“両雄並び立たず”である。

 実際、のちにジョー・コッカーは次のように語っている。『あの男(レオン・ラッセル)のことを心から尊敬していたが、ひどく仲が悪くなってしまって…大きなエゴのぶつかり合いさ』Joecockerleonrussell1970_2
 また、このツアーのことについても述べている。『あれは忘れられない経験だった…尋常じゃなかった。メンバーはみな、自分たちは金星へ、大気圏へむかっているつもりだったが、そんなふうには発展してなかったのさ。最後には俺はロサンジェルスでボロボロになっていた。ロック・ビジネスってやつに幻滅したんだ』

 この後、ジョー・コッカーはアルバムは発表するものの、アルコールやドラッグに蝕まれていくようになった。散発的に話題になることはあったものの、70年代の中盤から80年代にかけてはかつての名声は失われていった。

 自分が物心ついてロック・ミュージックを聞くようになった時には、すでにジョー・コッカーは過去の人扱いだった。ただ、ウッドストックの映像や「マッド・ドッグス&イングリッシュメン」での身震いするようなパフォーマンスだけが記憶の中に残っていた。

 ところが、1982年に「愛と青春の旅立ち」という映画の主題歌"Up Where We Belong"が、ジェニファー・ウォーンズとのデュエットで3週間全米No.1になると、あらためてジョー・コッカーの偉大さが再認識されるようになり、それ以降は生きたロック・ボーカリストのレジェンドとして再び活躍するようになった。

 ちなみに、この"Up Where We Belong"という曲は、1983年のゴールデン・グローブ賞とアカデミー賞でベスト・オリジナル・ソング賞を、ジョーとジェニファーは、グラミー賞のベスト・ポップ・パフォーマンス・デュオ・ボーカル賞を受賞した。
 普通のポップ・ソングである。確かに悪い曲ではないが、全然躍動感がないし、ロック的でもない。

 だいたいこの曲をレコーディングするまで、2人は出会ったこともなかった。ジェニファーの甘い声とジョーのしわぶきの声がうまくマッチするのではないかと考えられたからスタジオに呼ばれたのである。確かに、ロッド・ステュアートに依頼するよりは、安上がりだっただろう。Jenniferwarnesjoecockersnlbillboard
 この稿のテーマは、ジョー・コッカーとデラニー&ボニーとの関係や影響力についてだった。デラニー&ボニーとジョー・コッカーの交流は、表立っては目立ってはいないものの、アルバム「モーテル・ショット」などでは、ジョーの声を聞くことができる。(ただし、アルバムのクレジットには記載されていなかった)

 最終的には、ジョー・コッカーは、レオン・ラッセルのおかげで何とかツアーも乗り切り、その結果、歴史的な名盤を残すことができた。人生、何が幸いするかわからないものだ。

 間接的ではあるが、1970年という時に、イギリス人のミュージシャンは海を渡ってアメリカ人ミュージシャンやアメリカ南部の音楽に向き合い、そこから音楽的ルーツや原点を学ぼうとしていた。

 その磁場の中心にいたのが、デラニー&ボニーで、やがてそれはレオン・ラッセルに移っていった。1971年のバングラディッシュ・コンサートでもレオンの功績は光っていた。ただ、その磁力も長くは続かなかったようである。

 そして、主なバック・ミュージシャンが去って行ったあと、デラニー&ボニーが見出したのが、オールマン・ブラザーズ・バンドのデュアン・オールマンだった。レオン・ラッセルに移動した磁場は、再び揺れ戻ったのである。

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2017年10月16日 (月)

オール・シングス・マスト・パス

 今回と次回は、前回のデラニー&ボニーとの関連で、彼らと関係のあった人たちの活動やアルバムなどを紹介したいと思う。

 とにかく、1970年という年のデラニー&ボニーや彼らの友人たちの活躍は、今から考えればとんでもなく影響が強かったということがやっと理解できた。
 デラニー&ボニー自身のみならず、彼らを支えるミュージシャンたちは、デイヴ・メイソンやエリック・クラプトンなどの著名ギタリスト、クラプトンが結成したデレク&ザ・ドミノス、ジョー・コッカーなど、アメリカ南部のサウンドに興味を持ったイギリス人ミュージシャンに多大な影響力を与えている。

 今回紹介するのは、やはり1970年に発表された元ザ・ビートルズのジョージ・ハリソンのアルバム「オール・シングス・マスト・パス」である。

 このアルバムは、以前、2007年にもこのブログで一度紹介しているのだけれども、今回はデラニー&ボニーの影響力という観点で見てみたいと思う。81iccilbogl__sl1500__2
 このアルバムの素晴らしさについては、あえて繰り返す必要はないだろう。当時は、“静かなビートル”とか“ザ・ビートルズの第3の男”とか言われていたジョージ・ハリソンが、ザ・ビートルズ解散後、今までジョンとポールの陰に隠れて目立たなかった分を一気に吐き出すかのように発表した3枚組アルバムだった。(CDでは2枚組)

 全23曲、特に当時のレコードの1枚目と2枚目の楽曲群のメロディーの豊かさや曲の持つ印象度など、一聴しただけでこのアルバムの素晴らしさとジョージ・ハリソンの才能の豊かさを実感させられたものである。
 今更こんなことを言うと自体、彼のファンには失礼かもしれないが、今聞いても全く違和感のないエヴァーグリーンなアルバムなのである。

 このアルバムには"My Sweet Lord"、"What is Life"、"All Things Must Pass"などの有名な曲や、地味だけどメロディが美しい"Isn't It A Pity"、"If Not For You"、"Behind That Locked Door"などもあり、どの曲も個性があり、水準が高い。

 このアルバムを曲ごとに説明を加えていくと、2日や3日では終わらないので、今回はというか、未来永劫にわたって割愛したい。
 それで、デラニー&ボニー関係のミュージシャンは誰かというと、だいたい次のようだ。

ギター…エリック・クラプトン、デイヴ・メイソン
ベース…カール・レイドル
ドラムス…ジム・ゴードン
キーボード…ボビー・ホワイトロック
サックス・・・ボビー・キーズ
トランペット…ジム・プライス

 もちろん彼ら以外にも、ビリー・プレストンやバッド・フィンガーのメンバーなどの有名ミュージシャンは参加しているのだが、誰が見ても分かるように、ベーシストやドラマー、キーボーディストなどを集めると、デレク&ザ・ドミノスになってしまう。

 デレク&ザ・ドミノスは、同じ年の11月に、ということはこの「オール・シングス・マスト・パス」とほぼ同じ時期に歴史的名盤「いとしのレイラ」を発表しているので、自分たちの録音の合間を縫って、ジョージのアルバムに参加したことになる。

 ちなみに、ホーン関係のボビー・キーズとジム・プライスは、1971年のローリング・ストーンズのアルバム「スティッキー・フィンガーズ」にも参加しているので、彼ら両名にとってもこの時期は引っ張りだこの状態だったようだ。

 当時は、クレジットには記載されていないが、実際にはレコーディングやライヴに参加するということはよくあったようで、この「オール・シングス・マスト・パス」でも、エリック・クラプトンの名前はクレジットされていないが、実際には参加している。

 逆に、ジョージ・ハリソンの方も、自分のアルバムに参加してくれたお礼をするかのように、デレク&ザ・ドミノスの「いとしのレイラ」に参加していた。ジョージ・ハリソンは、"Tell the Truth"と"Roll It Over"(アルバム未収録)において、バックでギターを弾いていた。

 エリックの方は、アルバムの最初の曲"I'd Have You Anytime"を始め、"Wah-Wah"、"If Not For You"、"Art of Dying"、"Isn't It A Pity(Version2)"などでギターを担当していた。特に、"If Not For You"ではドブロ・ギターを演奏している。

 でも、やはり一番の聞きどころは、当時のレコードの3枚目にあたる通称"Apple Jam"だろう。71auugna1al__sl1267_
 最初の"Out Of The Blue"は11分14秒の大作で、演奏しているのはデレク&ザ・ドミノスのメンバーに、サックスにはボビー・キーズ、オルガンはゲイリー・ライト、そしてもちろんジョージ・ハリソンもギターを弾いている。

 混沌とした演奏ながらも、全体をリードするジョージのギターと、時折挿入されるエリックのギターがいい味を出している。その間を縫うように、ボビーのピアノとゲイリーのオルガンが目立っている。

 ジャム・セッションとはいいながら、後半はスリリングに盛り上がっていくところは、さすがプロ集団である。できれば、フェイド・アウトをせずに、最後まできっちり収録してほしかった。

 次の"It's Johnny's Birthday"は、わずか49秒の短い曲。曲というよりは、お遊びで歌っている感じだった。ザ・ビートルズの元ロード・マネージャーのマル・エヴァンスがクリフ・リチャードの曲"Congratulation"を替え歌にしている。

 3曲目はすぐに始まる。この"Plug Me In"というタイトルの曲では、ジョージとエリック・クラプトン、それにデイヴ・メイソンの3人のギター・バトルが3分18秒間繰り広げられている。
 最初はジョージが、次にデイヴ・メイソン、最後がエリックという順番だろう。ただ、これも3分余りでは非常にもったいない気がした。できれば、もう少し拡張してほしかったと思ったのは自分一人ではないだろう。

 次の"I Remember Jeep"の“Jeep”とは、当時のエリックの飼っていた愛犬の名前のようだ。
 曲はジョージが操作するムーグ・シンセサイザーで始まり、続いてシャッフル調の曲に移る。8分余りの曲だが、リード・ギターはエリック・クラプトン、ベースはクラウス・ヴアマン、そしてドラムはあのジンジャー・ベイカーだった。

 エリックのギターがフィーチャーされていて、ジョージのアルバムというよりは、エリック・クラプトンのソロ・アルバムに入れてもおかしくない。ピアノはビリー・プレストンが担当していて、当然のことながら、ノリのよい演奏を聞かしてくれる。

 ただ曲の途中から後半に向けて、ジョージの操作するムーグ・シンセサイザーのピコピコ音やサウンド・エフェクトが目立ってきて、調和を乱している。
 あくまでもジャム・セッションだったからいいものの、曲として完成させるためには、もう少しアレンジが必要だろう。

 3曲目の"Plug Me In"の続編にあたるのが、最後の曲"Thanks For The Pepperoni"だろうか。時間も5分31秒とやや長めだった。
 セッション・メンバーは"Plug Me In"と同じで、ギター・ソロもジョージ、デイヴ・メイソン、エリック・クラプトンになっていて、この曲ではデイヴ・メイソンのギター・ソロが目立っている。

 残念なのは、この曲もエンディングがブチッと切られていて、最後まで完奏されていない点だろう。ちょっとでもいいからもう少し長く演奏してほしかったし、あるいは曲として完成させてほしかった。

 確かにジャム・セッションだからといえば、その通りなので、多少は我慢するしかないのだが、レコードの1枚目や2枚目には珠玉の名曲ぞろいなので、セッションについても頑張ってほしかった。

 今となっては想像するしかないが、このセッション風景を見たかったと思う。映像で残っていれば、まさにプレミアものだろう。いや、プレミア以上のものに違いない。歴史的な映像記録になるだろう。

 それはともかく、ジョージ・ハリソンとエリック・クラプトンとは、ザ・ビートルズの"While My Guitar Gently Weeps"でも共演しているから、親交も厚い。たとえクレジットはなくても、お互いのアルバムでは演奏しているし、ミュージシャン同士の情報交換もあったに違いない。

 だからデラニー&ボニーのことや、彼らをバックアップしているミュージシャンのこともイギリス人ミュージシャンに知れ渡ったのだろう。
 前回も書いたけれど、エリック・クラプトンがデラニー&ボニーのことを知ったのもジョージ・ハリソンもしくはデイヴ・メイソン経由だと思われる。

 ジョージの「オール・シングス・マスト・パス」の場合は、特にアメリカ南部のサウンドを意識して制作したわけではない。ドミノスのメンバーを連れてきたのは、間違いなくエリック・クラプトンだろう。

 ただ、ジョージの心の中にはザ・ビートルズの束縛から逃れて自由に表現活動ができるという喜びがあり、その歓喜からボブ・ディランを始め、様々な英米のミュージシャンとの交流を図ったのだろう。その成果がこのアルバムの中の"Apple Jam"の中に収められているのだ。George_harrison_all_things_
 そして、エリック・クラプトンがレコーディング中のメンバーを連れてきたにしても、結果的にジョージは彼らの参加を認め、レコード1枚を使って自分たちの演奏を記録として残そうとした。
 結局、元の話に戻るのだが、それほど当時のデラニー&ボニーを始めとするアメリカ人ミュージシャンの影響力は高かったということだろう。

 次回は、同じような活動をしたもう一人のイギリス人を紹介したいと考えている。

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