2017年10月16日 (月)

オール・シングス・マスト・パス

 今回と次回は、前回のデラニー&ボニーとの関連で、彼らと関係のあった人たちの活動やアルバムなどを紹介したいと思う。

 とにかく、1970年という年のデラニー&ボニーや彼らの友人たちの活躍は、今から考えればとんでもなく影響が強かったということがやっと理解できた。
 デラニー&ボニー自身のみならず、彼らを支えるミュージシャンたちは、デイヴ・メイソンやエリック・クラプトンなどの著名ギタリスト、クラプトンが結成したデレク&ザ・ドミノス、ジョー・コッカーなど、アメリカ南部のサウンドに興味を持ったイギリス人ミュージシャンに多大な影響力を与えている。

 今回紹介するのは、やはり1970年に発表された元ザ・ビートルズのジョージ・ハリソンのアルバム「オール・シングス・マスト・パス」である。

 このアルバムは、以前、2007年にもこのブログで一度紹介しているのだけれども、今回はデラニー&ボニーの影響力という観点で見てみたいと思う。81iccilbogl__sl1500__2
 このアルバムの素晴らしさについては、あえて繰り返す必要はないだろう。当時は、“静かなビートル”とか“ザ・ビートルズの第3の男”とか言われていたジョージ・ハリソンが、ザ・ビートルズ解散後、今までジョンとポールの陰に隠れて目立たなかった分を一気に吐き出すかのように発表した3枚組アルバムだった。(CDでは2枚組)

 全23曲、特に当時のレコードの1枚目と2枚目の楽曲群のメロディーの豊かさや曲の持つ印象度など、一聴しただけでこのアルバムの素晴らしさとジョージ・ハリソンの才能の豊かさを実感させられたものである。
 今更こんなことを言うと自体、彼のファンには失礼かもしれないが、今聞いても全く違和感のないエヴァーグリーンなアルバムなのである。

 このアルバムには"My Sweet Lord"、"What is Life"、"All Things Must Pass"などの有名な曲や、地味だけどメロディが美しい"Isn't It A Pity"、"If Not For You"、"Behind That Locked Door"などもあり、どの曲も個性があり、水準が高い。

 このアルバムを曲ごとに説明を加えていくと、2日や3日では終わらないので、今回はというか、未来永劫にわたって割愛したい。
 それで、デラニー&ボニー関係のミュージシャンは誰かというと、だいたい次のようだ。

ギター…エリック・クラプトン、デイヴ・メイソン
ベース…カール・レイドル
ドラムス…ジム・ゴードン
キーボード…ボビー・ホワイトロック
サックス・・・ボビー・キーズ
トランペット…ジム・プライス

 もちろん彼ら以外にも、ビリー・プレストンやバッド・フィンガーのメンバーなどの有名ミュージシャンは参加しているのだが、誰が見ても分かるように、ベーシストやドラマー、キーボーディストなどを集めると、デレク&ザ・ドミノスになってしまう。

 デレク&ザ・ドミノスは、同じ年の11月に、ということはこの「オール・シングス・マスト・パス」とほぼ同じ時期に歴史的名盤「いとしのレイラ」を発表しているので、自分たちの録音の合間を縫って、ジョージのアルバムに参加したことになる。

 ちなみに、ホーン関係のボビー・キーズとジム・プライスは、1971年のローリング・ストーンズのアルバム「スティッキー・フィンガーズ」にも参加しているので、彼ら両名にとってもこの時期は引っ張りだこの状態だったようだ。

 当時は、クレジットには記載されていないが、実際にはレコーディングやライヴに参加するということはよくあったようで、この「オール・シングス・マスト・パス」でも、エリック・クラプトンの名前はクレジットされていないが、実際には参加している。

 逆に、ジョージ・ハリソンの方も、自分のアルバムに参加してくれたお礼をするかのように、デレク&ザ・ドミノスの「いとしのレイラ」に参加していた。ジョージ・ハリソンは、"Tell the Truth"と"Roll It Over"(アルバム未収録)において、バックでギターを弾いていた。

 エリックの方は、アルバムの最初の曲"I'd Have You Anytime"を始め、"Wah-Wah"、"If Not For You"、"Art of Dying"、"Isn't It A Pity(Version2)"などでギターを担当していた。特に、"If Not For You"ではドブロ・ギターを演奏している。

 でも、やはり一番の聞きどころは、当時のレコードの3枚目にあたる通称"Apple Jam"だろう。71auugna1al__sl1267_
 最初の"Out Of The Blue"は11分14秒の大作で、演奏しているのはデレク&ザ・ドミノスのメンバーに、サックスにはボビー・キーズ、オルガンはゲイリー・ライト、そしてもちろんジョージ・ハリソンもギターを弾いている。

 混沌とした演奏ながらも、全体をリードするジョージのギターと、時折挿入されるエリックのギターがいい味を出している。その間を縫うように、ボビーのピアノとゲイリーのオルガンが目立っている。

 ジャム・セッションとはいいながら、後半はスリリングに盛り上がっていくところは、さすがプロ集団である。できれば、フェイド・アウトをせずに、最後まできっちり収録してほしかった。

 次の"It's Johnny's Birthday"は、わずか49秒の短い曲。曲というよりは、お遊びで歌っている感じだった。ザ・ビートルズの元ロード・マネージャーのマル・エヴァンスがクリフ・リチャードの曲"Congratulation"を替え歌にしている。

 3曲目はすぐに始まる。この"Plug Me In"というタイトルの曲では、ジョージとエリック・クラプトン、それにデイヴ・メイソンの3人のギター・バトルが3分18秒間繰り広げられている。
 最初はジョージが、次にデイヴ・メイソン、最後がエリックという順番だろう。ただ、これも3分余りでは非常にもったいない気がした。できれば、もう少し拡張してほしかったと思ったのは自分一人ではないだろう。

 次の"I Remember Jeep"の“Jeep”とは、当時のエリックの飼っていた愛犬の名前のようだ。
 曲はジョージが操作するムーグ・シンセサイザーで始まり、続いてシャッフル調の曲に移る。8分余りの曲だが、リード・ギターはエリック・クラプトン、ベースはクラウス・ヴアマン、そしてドラムはあのジンジャー・ベイカーだった。

 エリックのギターがフィーチャーされていて、ジョージのアルバムというよりは、エリック・クラプトンのソロ・アルバムに入れてもおかしくない。ピアノはビリー・プレストンが担当していて、当然のことながら、ノリのよい演奏を聞かしてくれる。

 ただ曲の途中から後半に向けて、ジョージの操作するムーグ・シンセサイザーのピコピコ音やサウンド・エフェクトが目立ってきて、調和を乱している。
 あくまでもジャム・セッションだったからいいものの、曲として完成させるためには、もう少しアレンジが必要だろう。

 3曲目の"Plug Me In"の続編にあたるのが、最後の曲"Thanks For The Pepperoni"だろうか。時間も5分31秒とやや長めだった。
 セッション・メンバーは"Plug Me In"と同じで、ギター・ソロもジョージ、デイヴ・メイソン、エリック・クラプトンになっていて、この曲ではデイヴ・メイソンのギター・ソロが目立っている。

 残念なのは、この曲もエンディングがブチッと切られていて、最後まで完奏されていない点だろう。ちょっとでもいいからもう少し長く演奏してほしかったし、あるいは曲として完成させてほしかった。

 確かにジャム・セッションだからといえば、その通りなので、多少は我慢するしかないのだが、レコードの1枚目や2枚目には珠玉の名曲ぞろいなので、セッションについても頑張ってほしかった。

 今となっては想像するしかないが、このセッション風景を見たかったと思う。映像で残っていれば、まさにプレミアものだろう。いや、プレミア以上のものに違いない。歴史的な映像記録になるだろう。

 それはともかく、ジョージ・ハリソンとエリック・クラプトンとは、ザ・ビートルズの"While My Guitar Gently Weeps"でも共演しているから、親交も厚い。たとえクレジットはなくても、お互いのアルバムでは演奏しているし、ミュージシャン同士の情報交換もあったに違いない。

 だからデラニー&ボニーのことや、彼らをバックアップしているミュージシャンのこともイギリス人ミュージシャンに知れ渡ったのだろう。
 前回も書いたけれど、エリック・クラプトンがデラニー&ボニーのことを知ったのもジョージ・ハリソンもしくはデイヴ・メイソン経由だと思われる。

 ジョージの「オール・シングス・マスト・パス」の場合は、特にアメリカ南部のサウンドを意識して制作したわけではない。ドミノスのメンバーを連れてきたのは、間違いなくエリック・クラプトンだろう。

 ただ、ジョージの心の中にはザ・ビートルズの束縛から逃れて自由に表現活動ができるという喜びがあり、その歓喜からボブ・ディランを始め、様々な英米のミュージシャンとの交流を図ったのだろう。その成果がこのアルバムの中の"Apple Jam"の中に収められているのだ。George_harrison_all_things_
 そして、エリック・クラプトンがレコーディング中のメンバーを連れてきたにしても、結果的にジョージは彼らの参加を認め、レコード1枚を使って自分たちの演奏を記録として残そうとした。
 結局、元の話に戻るのだが、それほど当時のデラニー&ボニーを始めとするアメリカ人ミュージシャンの影響力は高かったということだろう。

 次回は、同じような活動をしたもう一人のイギリス人を紹介したいと考えている。

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2017年10月 9日 (月)

デラニー&ボニー(1)

 前回の「デイヴ・メイソン」編で、デイヴ・メイソンもアメリカ南部の音楽に惹かれて、アメリカに行って活動を行っていたという話を書いた。しかも、エリック・クラプトンよりも以前にアメリカで活動をしていたというから、ある意味、先見の明があったとも記した。

 逆に言うと、クラプトンの方がデイヴ・メイソンの行動を参考にしていたのかもしれない。彼とクラプトンとは同じギタリストとしても交流があったからだ。
 いずれにしても、クラプトンよりも以前にアメリカで活動していたイギリス人の有名ミュージシャンがいたというのは、自分にとっては少々ビックリする話だった。

 そして、この2人のギタリストが共通して親交を持ったアメリカ人ミュージシャンが、デラニー・ブラムレットとボニー・ブラムレットのおしどり夫婦ミュージシャンだったのである。
 それで、そんなに影響力のあったミュージシャンだったのかどうかを検証するために、家にあるCDラックから2枚のアルバムを引っ張り出して聞いてみた。以下、その感想である。

 最初に聞いたアルバムは、1969年に発表された「オリジナル・デラニー&ボニー」だった。このアルバムの表には"Accept No Subtitle"という文字があって、これがこのアルバムのタイトルだと思っていた人もいたようだ。81ycvq0l1hl__sl1018_
 全10曲だが、全体的にブラスが施されていて、曲によってはストリングスも被せられていた。当時は、こういう楽曲群をスワンプ・ロックといっていたらしい。
 でも沼から立ち上がる瘴気のようなものは感じられずに、逆に渋くてディープなR&Bテイストを持った曲が並んでいる。

 1曲目のタイトルが"Get Ourselves Together"というのが、いかにもこの時代の空気を反映している。曲の雰囲気としてはそんなに重くはなくて、ライトであっさりしている。片意地張らずに気楽に聞けるし、これくらいの距離感を持った方が物事はうまくいくような気がする。

 次の曲"Someday"も夫婦2人のデュエットを聞くことができる。デュエットだけではなく、コール&レスポンスの掛け合いも迫力がある。彼らの歌を聞いて白人とは思えなかったとアレンジャーのジミー・ハスケルが言っていたが、確かにこれはアイク&ティナ・ターナーが歌っていますと言われても疑うことはできないだろう。

 3曲目の"Ghetto"のバックのピアノは絶対レオン・ラッセルに違いないし、次の"When the Battle is Over"のそれは、ドクター・ジョンだろう。曲を作ったクレジットには、“マック・レベンナック”とあったが、これはドクター・ジョンの本名であるマルコム・ジョン・レベンナックのことだからだ。

 5曲目の"Dirty Old Man"ではボニーが独唱している。バックのコーラスにはリタ・クーリッジが加わっているようだ。
 ボニーの声は迫力があって、まるでダイナマイトのようだ。昔の日本の歌手に朱里エイ子という人がいたが、彼女のような声質をもったティナ・ターナーのようだ。アレサ・フランクリンほどはブラックではないけれど、それでもダイナミックであることは間違いないだろう。

 逆に、"Love Me A Little Bit Longer"では、旦那のデラニーがメインで歌っている。デラニーもいい声をしていると思う。
 この曲と次の"I Can't Take it Much Longer"はつながっているようで、前の曲のアンサー・ソングのようだ。

 そして忘れられない名曲が"Do Right Woman"である。アレサ・フランクリンも歌ったこのバラードは、傷ついた心に染みわたっていくビタミン剤のようなもの。ストリングスも美しいし、ボビー・ウィットロックの弾くピアノも素晴らしい。この曲を聞くために、このアルバムを購入しても間違いないだろう。何度でも聞いてみたい曲でもある。

 一方、ピアノが跳ね上がっているのが"Soldiers of the Cross"だ。このアップテンポの曲はトラディショナルらしいが、後半は"This Little Light of Mine"というゴスペル曲とメドレーになっている。

 そして最後を飾るのが"Gift of Love"という3分に満たない小曲で、この曲と"Dirty Old Man"は、デラニーとマック・ディヴィスが作っている。
 マック・ディヴィスという人は、エルヴィス・プレスリーとも共演したミュージシャンで、齢75歳というのに、いまだに現役で活躍している人でもある。

 また、このアルバムのバック・ミュージシャンも今から考えればとんでもない人も含まれていた。また、このアルバムが起点となって、デレク&ザ・ドミノスが結成されて「いとしのレイラ」が生まれ、一部のミュージシャンはジョージ・ハリソンの「オール・シングス・マスト・パス」に参加した。81oe34cxfpl__sl1156_
 まさらには、レオン・ラッセルやリタ・クーリッジなどは、のちにソロとしても成功している。チャート的には、175位と全く振るわなかったが、そんなものを超越した楽曲の素晴らしさと歴史的な意義を含んでいるのだ。

 今回聞き直してみて、あらためてこのアルバムの素晴らしさに感動した。なぜもっと早く気がつかなかったのだろうか。我ながら恥ずかしいし、自分の無能さを思い知った。こういう隠れた名盤をもっと紹介しないといけないと思うのだが、自分自身が気づいていないというのが問題である。

 あのザ・ビートルズのジョージ・ハリソンが彼らの素晴らしさに気づき、アップル・レコードと契約してアルバムを発表しようとしたところ、すでに彼らがエレクトラ・レコードと契約していたことを後になって知ったという有名なエピソードがある。
 そして、アップル・レコードでは、彼らのカタログ番号がいまだに残っているそうだ。未発売に終わった彼らのアップルでのアルバムは、レア盤として高値で取引されているという。

 エリック・クラプトンが彼らのことを知ったのも、ジョージ・ハリソン経由だろう。あるいはデイヴ・メイソン経由だったかもしれない。また一説によると、クリーム時代から彼らの存在を知っていたというが、時期的に少し合わないようだ。
 いずれにせよ、クラプトンはこのアルバムを作ったデラニー&ボニーと一緒に音楽活動をしたいと思ったのだろう。

 だから、ブラインド・フェイスのアメリカ公演では彼らをオープニング・アクトとして起用しているし、ブラインド・フェイスが解散した後は、ソロとして彼らと活動を共にするのである。
 それが記録されたのが、1970年に発表された「オン・ツアー・ウィズ・エリック・クラプトン」だった。71clgkokm5l__sl1123_
 このアルバムには、1969年12月7日のクロイドン公演の様子が収められていて、非常にエネルギッシュでダイナミックな当時のライヴの様子を堪能できるものになっている。

 何しろメンバーがすごい。ギターにエリック・クラプトンとデイヴ・メイソン、ベースやドラムスは、のちにデレク&ザ・ドミノスのメンバーたち、ブラスにはのちにローリング・ストーンズと一緒に活動したボビー・キーズやジム・プライスが加わっていた。

 また、違う公演ではジョージ・ハリソンも一緒にステージに上がって演奏している。このままのノリで「オール・シングス・マスト・パス」のレコーディングに臨んだのであろうか。とにかく豪華なメンバーだ。

 このアルバムの意義は、2つある。1つはデラニー&ボニー2人のスタジオ盤とライヴ盤の違いである。スタジオ盤では確かに迫力はあるものの、どこかゆったりとした雰囲気が漂っていた。レイド・バックというのだろうか。
 しかし、ライヴ盤では終始ファンキーでアゲアゲ、しかもボニーの方は、あのアレサ・フランクリンに優るとも劣らないパワフルでエネルギッシュなボーカルを聞かせてくれているのだ。

 やはりデイヴ・メイソンやエリック・クラプトンなどが惚れこんだだけはある。自分が言うのも変だが、彼らの眼力は間違っていなかった。デラニー&ボニーはそれだけの実力を備えていたのである。このライヴ・アルバムがそれを証明していた。

 もう1つは、このアルバムの持つ歴史的な意義だろう。上にも記したように、この時期の主な歴史的アルバム、例えば「オール・シングス・マスト・パス」や「いとしのレイラ」、「アローン・トゥギャザー」、「スティッキー・フィンガーズ」、「マッド・ドッグス&イングリッシュメン」などには、共通したミュージシャンが関わっているが、その主なメンバーは最終的にはこのデラニー&ボニーのライヴ・アルバムから派生している。71jgjteegil__sl1226_
 そういうミュージシャンの交流関係とか流れなども頭に入れて聞いてみると、このアルバムの影響力の凄さも分かるのではないだろうか。

 このアルバムは42分少々と、今のCDから考えれば短いのだが、それでも彼らの魅力は十分すぎるほど詰まっている。
 1曲目の"Things Get Better"はスティーヴ・クロッパーとエディ・フロイドの曲で、デラニー&ボニーの1969年のアルバム「ホーム」に収められていた。
 もうこの曲から彼らの魅力が爆発しており、聴衆は一挙に興奮のるつぼへと叩き込まれてしまう。

 2曲目の"Poor Elijah"はロバート・ジョンソンに捧げられた曲でメドレー形式になっている。途中でクラプトンのソロが紹介され、彼のギターがフィーチャーされていた。相変わらずこの時期の彼の演奏は惹きつけるものを持っている。

 次の曲はデイヴ・メイソンの曲"Only You Know And I Know"で、彼のアルバム「アローン・トゥギャザー」にも収められていた彼の代表曲。もちろんここでのギター・ソロはデイヴ・メイソンである。

 "I Don't Want to Discuss it"はファンキーなロックン・ロール・ナンバーで、ジェイムス・ブラウンなんかがやりそうな曲だ。途中のギター・ソロはクラプトンだろう。今では聞けないソリッドなギター・ソロをやっている。

 一転して渋いバラードになる"That's What My Man is For"では、ボニーのボーカルがフィーチャーされていて、ブルーズとゴスペルの両方の影響が伺われる曲に仕上げられている。この曲を聞けば、彼女のボ-カルはもっと評価されていいと思う人は多いはずだ。

 6曲目の"Where There's A Will, There's A Way"ではボビー・ウィットロックのボーカルも聞くことができる。この曲がボビーとデラニー&ボニーの3人で書き上げられている。
 また、途中でジム・ゴードンのドラム・ソロやクラプトンのソロも含まれている。アップテンポのロックン・ロールで気持を高ぶらさせて、次の曲"Coming Home"へとつながっていく。

 この曲はクラプトンとデラニー&ボニーが作ったもの。この曲もノリのよいロックン・ロールで、最後のブラス・セクションとの絡みがカッコいい。まさに白熱したステージングである。この時のライヴは映像化されているらしいのだが、現在では絶版となっていて入手困難のようだ。

 このアルバムの最後には、もう1つリトル・リチャードのメドレーが収められていて、約5分45秒にわたって、"Tutti-Frutti"や"Long Tall Sally"など計4曲が披露されていた。メンバー紹介も行われているので、おそらくライヴでのアンコール部分だろう。

 このアルバムには観衆のざわつきや拍手はもちろんのことMCまで含まれているので、ライヴの臨場感を味わうことができる。まさに貴重で歴史的なアルバムだろう。
 これは蛇足になるが、記録として残すという意味では、アメリカでは29位、イギリスでは39位になっていた。

 そしてこの当時の彼らのライヴを収めた豪華4枚組セットも存在する。これにはジョージ・ハリソンの演奏も含まれているという。さっそくアマゾンで購入してしまった。機会があれば、近いうちに紹介してみようと思っている。Delaneyandbonnie3
 デラニーは1939年生まれ。子どもの頃からブルーズやR&Bに傾向し、17歳で海軍を除隊後、音楽活動を始めた。1968年頃にボニーと出会い、出会って1週間で結婚し、デラニー&ボニーとして活動を始めた。

 ボニーの方は、1944年生まれの現在72歳。11月で73歳になる。彼女もゴスペルを聞いて育ち、5歳で教会などで歌っていた。12歳で本格的にプロ・デビューし、リトル・リチャードやアルバート・キング、アイク&ティナ・ターナーのバックで歌っていた。

 彼らはベスト盤を含む8枚のアルバムを残すものの、1972年に離婚して、デュオも解消した。2人とも音楽活動を続けたが、ボニーの方は女優としても活躍している。
 デラニーは2008年の12月に胆のう手術後の合併症のために亡くなった。享年69歳だった。Img_1_2
 彼らの娘のベッカ・ブラムレットは、1994年から95年にかけてフリートウッド・マックに一時在籍していたことは、すでにこのブログの中で紹介している。

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2017年10月 3日 (火)

デイヴ・メイソン(2)

 70年代は、デイヴ・メイソンにとっては黄金期だった。特にレコード会社を移っての1973年から1980年までは、どのアルバムも話題性に富み、セールス的にもよかった。

 また、70年代の後半にイーグルスやドゥービー・ブラザーズのようなバンドや、J.D.サウザーやジャクソン・ブラウンのようなシンガー・ソングライターの影響で、ウエスト・コースト・サウンドというものが台頭してきた。

 また、A.O.R.(アダルト・オリエンティッド・ロック)と呼ばれる心地よい、あるいは毒にも薬にもならないような“ニュー・ウェイヴ・オブ・ソフト・ロック”みたいな音楽も人気を博していた。
 “ニュー・ウェイヴ・オブ・ソフト・ロック”とはもちろん私個人の造語であって、そんな言葉はどこにもない(はずだ)。新しい時代のソフト・ロックという意味で、要するに、耳に心地よい楽曲のことである。

 この“ウエスト・コースト・サウンド”と“A.O.R.”の両方を目指していたのが、70年代のデイヴ・メイソンだったような気がする。
 もちろん、これは本人に聞いたわけではないので個人的な憶測なのだが、意図的かどうかはわからないけれども、結果的にはそういう音楽になってしまったので、これはやはり本人が、その結果を了承したと考えても間違ってはいないと思う。

 しかも時代に沿った音楽だったから、商業的にも成功した。こういう結果も、彼にとっては自信につながったに違いない。

 そして、この時代のデイヴ・メイソンを代表するアルバムを2枚だけ紹介しようと思う。なんで2枚なのかというと、だって2枚しか持っていないからである。

 これは個人のブログなので、恣意的な意見になるのだけれども、できればデイヴ・メイソンには「アローン・トゥギャザー」のようなアメリカ南部の影響の濃い音楽を追及してほしかった。

 時代に敏感なのは現役ミュージシャンとして必要な感覚だし、売れることは決して悪くはないのだけれども、元トラフィックとしての経歴や、ジミ・ヘンドリックスやジョージ・ハリソンとのレコーディング等の実績を考えれば、もっと玄人肌のギタリストとして活躍してほしかったというのが、正直な気持ちなのだ。

 まあしかし、それはあくまでも周囲の声の一つだし、あくまでも決めるのは本人である。結果的には、この当時の彼の活躍が正当に評価されて今に至っている。当時のアルバムが今でもCDで入手できるのも、70年代の彼の活躍があったからこそだろう。

 それで最初の1枚は、1975年の「スプリット・ココナッツ」である。これはもうアルバム・ジャケットを見ただけで、どんな音楽かが想像できるようなものだった。619s78ynr3l
 実は前年のアルバム「デイヴ・メイソン」はかなり評判が良くて、アルバムのチャートでも25位まで上昇していた。
 メイソン自身の曲もよかったし、それ以上に以前からライヴでも演奏されていたボブ・ディランの"All Along the Watchtower"やサム・クックの"Bring it on Home to Me"などのカバー曲も秀逸だったからだ。

 それで「スプリッツ・ココナッツ」を発表したのだが、結果的には、そんなに良い評価を得られたわけではなかった。
 音楽的には前作よりももっとファンキーでソウルフルになっているが、全体的には性急な音作りになっているようだった。

 まず最初の"Split Coconut"はファンキーなリズムが強調されていたし、次の"Crying, Waiting&Hoping"はバディ・ホリーの曲だが、ここではレゲエ調にアレンジされていた。
 このアルバムではベーシストがジェラルド・ジョンスンというアフリカ系アメリカ人に代わっていたが、メイソンの意図を汲んでの交代劇だったのだろう。

 3曲以降は、まさにウエスト・コースト・サウンドかつA.O.R.路線の曲が並んでいる。耳には心地よいのだが、ロック的なインパクトには欠けている。決して非難しているわけではないし、車でのドライブのお供には最適な音楽だと思うのだが、もっとギタリスト、デイヴ・メイソンというものを前面に出してほしかった。

 ただ、"She's A Friend"にはデヴィッド・クロスビーとグラハム・ナッシュが参加していて美しい歌声を聞かせてくれるし、"Save Your Love"ではディープでブラックなギター・ソロを聞くことができる。昔流行った“チョッパー・ベース”も耳にすることができる。ただ、エンディングのギター・ソロはカットしないで、もう少し長く流してほしかった。

 続く"Give Me A Reason Why"は哀愁のあるメロディラインで、このアルバムの中でも注目に値する。ここでのリード・ギターはバンドメイトのジム・クリューガーが演奏している。

 ジム・クリューガーは以前からデイヴ・メイソンのバンドで活動していて、メイソンと袂を分かった後も、西海岸でセッション・ミュージシャンとして活躍した。 
 1978年にはソロ・アルバムも発表したが、1993年に心筋梗塞で亡くなった。43歳だった。約18年間にわたってデイヴ・メイソンと一緒に活動してきて、このアルバムや次のアルバム「流れるままに」では彼の演奏や作った曲を聞くことができる。

 7曲目の"Two Guitar Lovers"とは、もちろんメイソンとジム・クリューガーのことを指している。そして曲の中でも2人のギター・ソロというか、爽やかなギターの絡みを聞くことができる。右チャンネルがジムで、左チャンネルがメイソンのようだ。

 次の"Sweet Music"はタイトル通りのポップでスウィートな曲だ。しかし、デイヴ・メイソンは、よくこんなポップな曲をかけるなあと感心してしまった。ただ、ギターよりもジェイ・ウィンディングのキーボード・ソロが目立っていると思う。

 そして最後の曲が"Long Lost Friend"である。最後の曲に相応しくギター・ソロが強調されていて、ギタリスト好きにはたまらないだろう。もちろん時代は“ソフト&メロウ”だったから、パープルやゼッペリンのように弾きまくっているわけではないけれども…

 「流れるままに」は1977年に発表された。「スピリット・ココナッツ」との間には2枚組ライヴ・アルバム「ライヴ~情念」が発表されていたので、スタジオ盤としては2年ぶりの作品になった。61aygvnynyl
 アルバムはいきなり"So High(Rock Me Baby And Roll Me Away)"というタイトルの曲から始まるのだが、これがまた明るくてトロピカルな雰囲気になっている。
 この曲は、のちにシングル・カットされていて、チャートの89位になった。どうせならほかの曲の方がよかったと思うのだが、どうだろうか。

 そして2曲目に名曲"We Just Disagree"が流れてくるのだが、これがバンドのギタリストであったジム・クリューガーの書いた曲なのである。これだけの曲がかけるのだから、やはり才能のあるミュージシャンだったのだろう。彼の早すぎた死が悔やまれてならない。
 ちなみに、この曲もまたシングル・カットされて、12位まで上昇した。デイヴ・メイソンの曲の中では最大のヒット曲になったわけである。

 このアルバムには捨て曲が見当たらない。それほどどの曲もレベルが高い。そしてアレンジも素晴らしくて、それぞれの曲に相応しい味付けがされている。

 3曲目の"Mystic Traveler"もそんな曲で、ストリングス・シンセサイザーを始め、ハープやホーンの音までが絶妙なブレンドで合わせられている。ムーディーでありゴージャスなのだが、逆に、基本のメロディラインを目立たせているところが素晴らしい。

 "Spend Your Life With Me"はまるでエンターテイナーの世界だろう。フランク・シナトラが歌ってもおかしくないだろう。途中のサックスがアダルトな雰囲気を高めてくれる。

 逆に、おしゃれでファンキーなのが"Takin' the Time to End"で、少しアレンジを変えればジャミロクワイが歌ってもおかしくない曲だ。やはりこういう曲が書けるデイヴ・メイソンは、才能豊かなのだ。

 6曲目が一部アルバム・タイトル曲にもなっている"Let it Go, Let it Flow"で、これも売れそうなポップ・ソングだ。シングル・チャートでは45位まで上昇した。
 続く、"Then It's Alright"もまたホーン・アレンジが施されていて、曲調を高めていた。オーヴァー・プロデュースになりそうな微妙なところなのだが、結果的にはよかったみたいだ。

 昔はこのアルバムは華麗すぎて好きになれなかったのだが、今聞けばそれなりの工夫が曲ごとに施されているのが分かってきて、なるほどなあと納得してしまった。デイヴ・メイソンもそれなりに考えたのだろう。

 8曲目の"Seasons"も爽やかなハーモニーが美しい曲だ。クレジットを見ると、スティーヴン・スティルスと当時はエリック・クラプトン・バンドに所属していたイヴォンヌ・エリマンが参加していた。どうりで美しいわけだ。

 また、このアルバムの特徴だけれども、デイヴ・メイソンの弾くギターの音は、軽くて輝いていて、変な言い方だけれど、まるでハワイアン・ソングのように聞こえてくる。
 一音一音がきれいにピッキングされていて、粒が際立っているように聞こえてくる。変なエフェクターを使っていなくて、ナチュラルなトーンを大切にしているのだろう。

 逆に、"You Just Have to Wait Now"でのギター・ソロでは、少しだけオーヴァードライヴかディストーションをかけているようだが、そんなに嫌味にならないのがよい。アルバムに統一感を持たせているのだろう。3分6秒と短い曲だった。

 そしてアルバムの最後を飾るのは、"What Do We Got Here?"という、これまた後期ドゥービー・ブラザーズのような曲だった。ストリングスやサックスが部分的に被さってくるのだが、それがブラックな感触を与えてくれる。マイケル・マクドナルド的音楽を導入したのだろうかと邪推してしまった。

 このアルバムが売れないわけがないだろうということで、チャート的には最高位37位だったものの、アルバム・チャートには49週間留まっている。ほぼ1年間チャートに顔を出していたというわけだ。

 メイソンはその後、マイケル・ジャクソンやフィービー・スノウなどとアルバムで共演を果たすものの、話題性はあったがヒットには結びつかなかった。Davemason
 フリートウッド・マック脱退後は、ソロで活動していて、DVDや過去の作品のセルフ・カバー・アルバムなどを発表している。また、以前よりは回数は少なくなったものの、今でもデイヴ・メイソン・バンドとともにライヴ活動を行っているようだ。

 実力や才能はあるものの、過小評価されているギタリストだと思っているが、本人にはあまり物欲や名誉欲はないのかもしれない。もう十分満たされていると思っているのだろう。今後も「流れるままに」活動していくに違いない。

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2017年10月 2日 (月)

デイヴ・メイソン(1)

 デイヴ・メイソンというミュージシャンほど過小評価されている人は、いないと思う。というか、1970年代の後半は知名度、人気ともに抜群だったのだが、80年代以降はアルバムを発表する機会が減り、音楽シーンの第一線から遠ざかっていった。

 だから、彼が1995年にフリートウッド・マックのアルバムに参加したと聞いて、少し驚いたのである。彼ほどの知名度と実力があれば、ソロでも新しいバンドでも活動できると思ったからだ。

 むしろ、フリートウッド・マックの残党と組んで、新しいバンドを結成してほしかったと思っている。その音楽的方向性は、フリートウッド・マックの系統を受け継ぐものの、それプラス、ブルーズ・ロックや南部サザン・ロック風のレイド・バックした音楽をやってほしかったのだ。

 デイヴ・メイソンは、今年で71歳になった。エリック・クラプトンが72歳になっているから、ほぼ同時期のギタリストといってよいだろう。0ad5d3a8ed06800d8aa408721d7e94a8
 そういえば70年代には、この2人はよく比較されたものだった。両者には共通点が多かったからだ。英国人であり、ギタリスト、そして途中まではほぼ同じような音楽的なキャリアを経験している。

 例えば、クラプトンはクリームやジョン・メイオール&ザ・ブルーズブレイカーズなどのバンド活動を経験してソロになったが、メイソンの方もトラフィックというバンドを出たり入ったりしながら、ソロ活動を開始し、クラプトンよりも早くアメリカに渡って、現地のミュージシャンとコラボを始めた。

 考えようによっては、クラプトンはデイヴ・メイソンの活動の軌跡を追っているようだった。それに人気も当時はほぼ同じようなものだったし、むしろクラプトンの方がアルコールとドラッグに溺れていて、1974年の「461オーシャン・ブールヴァード」が成功しても不安定な要素は絶えず付きまとっていた。

 一方、デイヴ・メイソンの方は、1970年に初めてのソロ・アルバム「アローン・トゥギャザー」を発表した後、所属していたレコード会社ブルー・サム・レーベルから最終的に訴えられるなどのトラブルはあったものの、1973年に当時のアメリカ・CBSレコードと契約した。ここから彼の音楽的キャリアが大きく花開き、70年代のメイソンは人気、実力ともにトップ・クラスのミュージシャンと認められていったのである。

 彼は1946年の5月10日に、イギリスのウォセスターに生まれた。子どもの頃から音楽に関心を示し、15歳でバンドを結成して音楽活動を始めるようになった。
 やがて、天才少年と言われていた元スペンサー・ディヴィス・グループのスティーヴ・ウィンウッドと出会い、ジム・キャパルディ、クリス・ウッドとともに伝説的なバンド、トラフィックを結成した。

 しかし、スティーヴ・ウィンウッドとの関係は、いわゆる“両雄並び立たず”の言葉通りにうまくいかず、バンド結成の翌年の1968年に脱退してしまった。
 ただ、セカンド・アルバム制作中やそれ以降のバンド活動には戻って来て、楽曲を提供したり、また脱退したり、ツアーには参加したりと、なかなか落ち着かなかったようだ。

 やはりミュージシャンは、自分の才能を発揮して何ぼという感覚があるのだろう。自分の表現欲求を満足させるためにも、この辺の経緯は彼にとっては必然だったのだろう。
 トラフィックは、元々ウィンウッドのR&Bフィーリングを活かしたサイケデリックなロック・バンドだったから、アメリカの南部のテイストも備えていた。

 それを持ち込んだのもデイヴ・メイソンだと言われているが、結局、彼はその音楽性をもっと追及するために、アメリカへと旅立ち、そこでのミュージシャンと一緒に音楽を作り上げていった。その第1弾が1970年の「アローン・トゥギャザー」だった。

 このアルバムは英国人ミュージシャンによる初めてのスワンプ・ロック・アルバムだと言われていたが、21世紀の今になって聞くと、そんなに泥臭いイメージは少ない。A1xbtcxysll__sl1500_
 これはデイヴ・メイソンの持つ資質の一つだといえよう。彼が加わるとブルーズやR&Bの要素が薄まり、少しロックやポップのテイストが加わってくるのだ。だから、全体として聞くと、非常に聞きやすいロック・ミュージックになってくるのである。

 個人的には、“スワンプ・ロック”というよりは、アメリカ南部の音楽に影響を受けたイギリス人によるロック・ミュージックだろう。
 曲によっては、その後の彼の歩みを暗示させるものもあるし、逆に、彼のルーツを示すようなブリティッシュな雰囲気を湛えたものもある。

 ただ1970年当時に、こういう音楽を作り上げた英国人ギタリストは彼が最初だったことは事実だし、そういう意義においては、歴史的なアルバムといっていいと思う。

 1曲目の"Only You Know And I Know"などは、最初聞いたときはドゥービー・ブラザーズの曲かと思ったほどだ。ノリは良いし、アコースティック・ギターとエレクトリック・ギターの対比も素晴らしかった。
 3曲目の"Waitin' on You"も同様のノリなのだが、バックの女性コーラス隊が艶っぽくて、ソウルフルなのだ。この曲はトラフィックというか、スティーヴ・ウィンウッドが歌った方がより黒っぽくなって適しているのではないだろうか。

 4曲目の"Shouldn't Have Took More Than You Gave"を聞くと、確かにスワンプ・ロックだろうと思う。ピアノはレオン・ラッセルっぽいし、ワウワウのエフェクトを効かせたギターが70年当初の雰囲気を醸し出している。

 それにバラードの2曲、"Can't Stop Worrying, Can't Stop Loving"と"Sad And Deep As You"はとても印象的だった。前者はややアコースティックでカントリーっぽい。ちょうどイーグルスの名曲"Take it to the Limit"を彷彿させる曲だ。後に、なぜ彼がウエスト・コースト・ミュージックに魅かれていったかがよくわかる。

 もう一つのバラード曲"Sad And Deep As You"は、哀愁を誘うバックのピアノ演奏が感涙ものである。ニッキー・ホプキンスが弾いているかと思った。
 もちろん曲自体も陰りを帯びていてなかなかのものである。強いて言えば、もう少し曲に起伏をつけてくれるともっと盛り上がったと思うのだが、どうだろうか。

 このバラードと前述の"Shouldn't Have Took More Than You Gave"は、トラフィックの1971年のライヴ・アルバム「ウェルカム・トゥ・ザ・キャンティーン」にも収められているので、聞き比べてみるのも面白いかもしれない。

 最後の曲の"Look at You Look at Me"は、最初聞いたときはボブ・ディランの"All Along the Watchtower"かと思った。それほど最初の部分が似ていたからだった。そういえば、メイソンはジミ・ヘンドリックスのアルバム「エレクトリック・レディランド」にも参加していたから、その時のことをイメージしたかもしれない。

 それにこの曲の後半の部分のギター・ソロは、エリック・クラプトンが演奏していると言われている。1分以上も延々とソロを繰り広げているし、それにメイソンの弾くようなフレージングではないようだ。
 ただ、このアルバムのクレジットには、クラプトンの名前はなかった。シークレットで参加したのだろう。

 アルバム・クレジットといえば、このアルバムに参加したミュージシャンは凄い。確かに、アメリカ南部のミュージシャンが大勢大挙して押しかけたようだった。

 例えば、ピアノ&キーボードにレオン・ラッセルやジョン・サイモン、ベース・ギターにカール・レイドル、ラリー・ネクテル、ドラマーがジム・ゴードン、ジム・キャパルディ、ジム・ケルトナー、バック・ボーカルにデラニー・ブラムレット、リタ・クーリッジとマイク・クーリッジ、アイク&ティナ・ターナーとも経験のあるクラウディア・レニアー等々、確かに錚々たるメンバーである。

 のちに、エリック・クラプトンもアメリカ南部のミュージシャンと一緒にアルバムを制作したり、ツアーを行ったりしたが、その原型はここにあったのだと思っている。クラプトンもこの時のデイヴ・メイソンの行動を参考にしたのだろう。

 とにかく、このアルバムは好評で、これからシングル・カットされた"Only You Know And I Know"は、ビルボードのシングル・チャートで42位まで上昇した。

 この当時のデイヴ・メイソンはミュージシャンからも頼りにされていたようで、ジミ・ヘンドリックスのアルバムだけでなく、ジョージ・ハリソンのアルバム「オール・シングス・マスト・パス」にも客演しているし、クラプトンのデレク&ザ・ドミノスからも参加要請を受けていた。

 また、キャパルディとクリス・ウッドなどとバンドを結成したり、親友のレイ・ケネディのアルバムにも参加している。

 話は前後するが、プロデューサーのジミー・ミラーとも親しくて、その関係でローリング・ストーンズのアルバムにもノン・クレジットで演奏したり、また、イギリスのバンド、ファミリーのデビュー・アルバムにも楽曲を提供していた。この70年前後はかなり忙しくしていたようだ。

 ただ、上にも書いたように自分の求めようとする方向性とレコード会社が要求する音楽性が一致せず、メイソンは会社から訴えられてしまった。よほど自体が紛糾したのだろう。

 最終的には、彼はこのレコード会社に4枚のアルバムを残している。「アローン・トゥギャザー」と「デイヴ・メイソン&キャス・エリオット」、「ヘッドキーパー」、「デイヴ・メイソン・イズ・アライヴ」の4枚で、最後のアルバムはライヴ盤だった。

 “キャス・エリオット”というのは、もちろん元ザ・ママス&ザ・パパスの女性ボーカリストのキャス・エリオットだ。ふたりのデュエット・アルバムという企画ものだった。
 このアルバムは企画ものというせいか、アコースティックで爽やかなアルバムに仕上げられている。曲もなかなかのものだし、一聴に値するだろう。

 また、「ヘッドキーパー」もスタジオ盤とライヴ盤の2枚組アルバムという企画だった。できれば、コンパクトにまとめてスタジオ盤1枚にした方が売れると思うのだが、この頃のメイソンはレコード会社と係争中だったから、そんなにもうけさせてやらないぞという気持ちが出ていたのかもしれない。

 しかも4枚目もライヴ・アルバムだったし、やはりレコード会社移籍の方が気になっていて、ほとんどやる気がなかったのだろう。契約消化のためのライヴ・アルバムだったに違いない。91l2ltxlvyl__sl1500_
 しかし、その問題も1973年までは片付いて、彼はアメリカ・CBSレコードと契約を結び、目指す音楽が詰まったアルバムを本格的に発表できるようになったのである。

(To Be Continued to Tomorrow)

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2017年9月26日 (火)

90年代のフリートウッド・マック(2)

 90年代のフリートウッド・マックは、6人編成だった。基本的な構成において、ギタリストが1人から2人に増えたからだ。
 そして、90年代の前半では、そんなに有名ではないが玄人肌のギタリストが配置されて、それなりに売れていた。特に、ライヴにおいてはどこに行ってもソールド・アウトだった。

 この時期のアルバム「ビハインド・ザ・マスク」については前回述べたが、全盛期のマックのアルバムと比べても、そんなに遜色はなかったと思う。少なくとも今年発売された「リンジー・バッキンガム/クリスティン・マクヴィー」よりはロックしている。

 むしろ、ややブルーズ色が表に出ようとしているかのようで、それが従来のソフトでポップなマックの色合いと微妙に交じり合っていて、いい感じだった。
 人によってはカントリー・フレイバーを感じたかもしれないが、そんな傾向は強くなくて、確かに"When The Sun Comes Down"はカントリー・ポップ・ソングだったが、それ以外はあまり強く感じられなかった。

 ただ、ギタリストが2人もいるのに、そのカラーがあまり出ていなかった。もう少し交互にギター・ソロを入れるとか、リックのスライド・ギターをフィーチャーした曲を入れるとかすれば、もっと印象に残り、チャート・アクションももっと伸びていったのではないかと思った。
 
 要するに、せっかくのメンバー・チェンジが活かされていない。従来のマック路線を踏襲しようとするあまりに、自らバリケードを築いてしまったかのようだった。ファンは新生マックの姿を待望していたのではないだろうか。もう少し冒険してもよかったのではないかと思っている。

 それで、前回からの続きである。ギタリストのリック・ヴィトーとスティーヴィー・ニックスが脱退して、新メンバーが2人加入したというところで終わっていたので、今回はその続きである。

 スティーヴィー・ニックスの代わりに加入したのが、ベッカ・ブラムレットだった。名前を見ればわかるかもしれないが、60年代の後半から70年代にかけてエリック・クラプトンとともにアルバムも制作したことがあるアメリカ人ミュージシャン夫妻のデラニー&ボニー・ブラムレットの娘である。

 彼女はロッド・スチュワートなどのミュージシャンのバック・ボーカルとして経験を積んでいて、1992年にはミック・フリートウッドのプロジェクト・バンドのアルバム「シェイキング・ザ・ケイジ」では見事なボーカルを披露していた。

 ベッカは1968年生まれだったので、フリートウッド・マックに加入したときは、25歳だった。それに歌のうまさだけではなくて曲も書けたので、バンドにとっては都合がよかったようだ。

 彼女は若くて美人だったから、ファンの間ではたちまち有名になり、人気になっていった。スティーヴィー・ニックスが脱退したときは45歳だったから、やはり若い方が受けがいいのは昔も今も変わらないし、洋の東西を問わないらしい。

 そして、ギタリストのリック・ヴィトーの代わりに加入したのが、元トラフィックのギタリストだったデイヴ・メイソンである。
 もうすでに名前は世界中に知れ渡っていて、今更バンドに加入しなくてもよさそうなものだが、旧知の知り合いであるミック・フリートウッドの頼みなら仕方ないということで参加したようだ。Fleetwoodmac_1995_1

 ただ、バンドには加入したものの、デイヴ・メイソンの意識としては、あくまでも“助っ人”という感じで、お手伝い、ヘルパーだった。恒久的なメンバーとしてともに活動するという感じでは最初からなかったようだ。

 この時、デイヴは47歳。確かにまだまだ現役選手として活躍できる年齢だった。70年代や80年代ではかなりの枚数のソロ・アルバムを発表していて、それなりにヒットした曲やアルバムもあったが、90年代に入ってからはあまり彼の活動は聞かれなくなっていた。

 そういう意味では、再び脚光を浴びるには良い機会になったに違いない。ミックやジョン・マクヴィーとはほぼ同年代だったから、気心も知れていただろうし、やりやすかったに違いない。

 面白いことに、この6人はアルバムを発表する前に、ライヴ活動を行い、発表後はライヴ活動を行っていない。普通は、ニュー・アルバムをプロモーションするために、アルバムを発表してからツアーに出るのだが、彼らはアルバムを発表する前にライブ活動を行っていた。日本にも1995年の4月に来日して演奏を行っている。

 そして、新生マックのニュー・アルバム「タイム」は、1995年の10月に発表された。上に書いたように、このアルバムのプロモーション・ライヴ活動は行われていない。

 ちなみに、1995年のライヴを東京の新宿厚生年金会館で見た人の話によると、ライヴの曲は昔の"Oh, well"から黄金期の"Don't Stop"、"Go Your Own Way"、それにトラフィックやデイヴ・メイソンのソロまで披露されたという。もちろん自分の曲では、デイヴ自身が歌っていたのは言うまでもない。

 また、ライヴではクリスティン・マクヴィーが不在となるので、女性ボーカルはベッカだけだったが、彼女はそれをものともせずに、彼女なりに堂々と"Gold Dust Woman"を歌い切り、それだけでなく他のマックの歌も自分の持ち歌のように、ステージ上を元気よく走りながら歌っていたという。
 さらには、ジェレミー・スペンサーも同時期に来日していて、23年振りの共演を果たしたというおまけまでついていた。当日の聴衆はさぞかし喜んだに違いない。

 それで6人制マックとして発表したアルバムが1995年の「タイム」だった。そして結論から言えば、このアルバムは見事にコケてしまった。4127atrfc0l
 全13曲のうち、クリスティン・マクヴィーが5曲、デラニー・ブラムレットとベッカの親子曲が1曲、ビリー・バーネットの曲が2曲、デイヴ・メイソンの曲も2曲、ベッカとビリーの共作が1曲、カバー曲とミック・フリートウッドの曲が1曲ずつという構成で、これはフリートウッド・マックのアルバムとして聞くよりも、まったく別のバンドのアルバムとして聞いた方が新鮮に聞こえるのではないかと思う。

 アルバム冒頭の曲は"Talkin' to My Heart"というビリー・バーネットの曲で、テンポのよい軽快な曲だった。途中からベッカのボーカルが絡んでくるところがよい結果を生んでいる。

 2曲目は"Hollywood"という曲で、ボズ・スキャッグスの曲とは同名異曲だ。サビの部分が非常にメロディアスで覚えやすい。なぜこの曲をシングル・カットしなかったのだろうか。

 3曲目は"Blow By Blow"という曲名で、もちろんジェフ・ベックとは関係はない。デイヴ・メイソンの曲で、メイン・ボーカルも本人である。バックの女性コーラスがソウルっぽい雰囲気を生んでいる。

 4曲目は超ポップな"Winds of Change"で、これはキット・ヘインという女性ミュージシャンのカバー曲だった。彼女はジュリアン・マーシャルとデュオを組んでいたのだが、それが分裂してソロになった。歌っているのはもちろんベッカ・ブラムレットだ。

 5曲目の"I Do"はクリスティン・マクヴィーの曲で、これまたシングルに相応しい曲だった。実際にカナダではシングルで発売されて、チャートの62位まで上昇している。これをヒットと呼ぶかどうかは、微妙なところでもある。

 このアルバムが売れなかったのは、シングルヒットがなかったことであり、それはとりもなおさずレコード会社のプッシュが足りなかったからでもある。
 デッカ・ブラムレットは無名でも、デイヴ・メイソンの方は有名だし、“フリートウッド・マック”というブランド名もあるので、アルバムはそれなりに売れるだろうと思っていたのではないだろうか。

 "Nothing Without You"はデラニーとデッカの親子の作品で、70年代のデラニー&ボニーの曲を聞いているような感じがした。

 "Dreamin' the Dream"はビリーとベッカの共作で、涼しげなアコースティックのバラード曲になっている。バックはストリングスとビリーの演奏するアコースティック・ギターだけで、逆にベッカのボーカルの美しさが目立つ佳曲でもある。

 "Sooner or Later"は、クリスティンの曲で、ダークな別れの曲でもある。クリスティンの凄さは明るい曲はポップでノリがよく、暗い曲は本当に悲しくなるほど情感が込められているところだろう。

 "I Wonder Why"はデイヴ・メイソンの曲で、70年代後半のデイヴを象徴するようなポップでリズミカルな曲だ。途中のベッカの絡みが何となくスティヴィー・ニックス風に聞こえてくるところが“フリートウッド・マック”というブランド名の強さでもある。
 それにデイヴ・メイソンのギターはブリティッシュ・ロック出身の割にはカラッと乾いていて、それがアメリカ西海岸の音楽にマッチするのだろう。

 続く"Nights in Estoril"も軽快な曲で、こちらはクリスティンの曲だった。これもシングル・カットされたらヒットするだろうなあという曲でもある。こういう曲があまり日の目を見ずに埋もれているのはもったいないと思うのだが、誰かリバイバル・ヒットさせてくれないかなあ。

 結構ハードな曲がベッカ・ブラムレットが単独で書いた"I Got it in For You"で、バックのスライド・ギターはビリーが、ノーマルなエレクトリック・ギターはデイヴが弾いているのだろう。この辺はなかなか良いギター・アンサンブルだと思う。Photo
 "All Over Again"もクリスティンの曲で、アルバムの最後を飾る場合や、映画のエンド・ロールに相応しいバラード曲だと思う。ただ残念ながら、このアルバムでは12曲目に配置されていて、最後ではない。

 その最後を飾っているのは、何とミック・フリートウッドが歌っている"These Strange Times"である。正確に言うと、歌っているのではなくて、語り(ナレーション)を入れているだけである。
 7分7秒もある大作で、しっかりとしたリズムの上に、ベッカのバック・コーラスとストリングス・キーボード、エレクトリック・ギターが色どりを添えている。曲を作ったのはミック・フリートウッドと、シンガー・ソングライターのレイ・ケネディだった。

 レイ・ケネディは、ザ・ビーチ・ボーイズやザ・ベイビーズのために曲を書いたり、デイヴ・メイソンの「流れるままに」の中の"Seasons"も作ったりしていた。残念なことに、2014年の2月に急死している。享年68歳だった。

 ミック・フリートウッドは、自身のミュージシャン生活の中で、3曲を書いている。1曲は1969年のアルバム「ゼン・プレイ・オン」に、もう1曲は1977年の「噂」の中に、そして3曲目がこの曲"These Strange Times"だった。ただし、「噂」の中の"The Chain"は、当時のメンバー5人全員による共作だった。

 とにかく、このアルバムは、フリートウッド・マックのイメージをまとったロック・アルバムだった。もう少しビリーとデイヴが協力しながら骨っぽい音楽を作れば、また違う結果になったに違いない。

 あるいはベッカ・ブラムレットとビリー・バーネットの共同制作アルバムとして発表すれば、もっと好意的に受け入れられたのではないかと思う。

 結局、このアルバムはイギリスでは47位まで上がったが、本国アメリカではベスト200位以内にも入ることはできなかった。良い曲がかなりあったにもかかわらず、200位以内にも入らないというのが摩訶不思議だった。話題にも上がらなかったのだろうか。

 アルバム発表後、1年もたたないうちにベッカ・ブラムレットとビリー・バーネットはフリートウッド・マックを脱退した。
 彼らがスティーヴィー・ニックスやリック・ヴィトーと違うところは、実際に2人でアルバムを制作してしまった点だろう。1997年に「ベッカ&ビリー」というアルバムを発表したが、取り上げられることは少なかった。

 逆に、同年にはリンジー・バッキンガムとスティーヴィー・ニックスがバンドに復帰して、フリートウッド・マックは再び黄金期のメンバーになり、さらなるスタジオ盤やライヴ活動を続けていくようになった。

 彼らのディスコグラフィーの中では、極めて評価の低いアルバムになったが、個人的にはそんなに悪いアルバムだとは思っていない。

 フリートウッド・マックのアルバムとして聞かなければ、かなり上質のアメリカン・ロック・ミュージックになっていると思う。思い込みや偏見が判断を誤らせてしまう良い実例アルバムなのかもしれない。

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2017年9月25日 (月)

90年代のフリートウッド・マック(1)

 本当はフリートウッド・マックの話題でここまで引っ張るつもりはなかったのだけれど、「バッキンガム&ニックス」の紙ジャケ・アルバム発表から始まって、リンジー・バッキンガムとクリスティン・マクヴィーのスタジオ・アルバムに影響されて、80年代のマックのアルバムを紹介してしまった。

 それで今回は一区切りつけようと思って、90年代の彼らのアルバムを紹介しようと思う。この時代のマックは、あまり知られていないと思ったからだ。

 物語は、1987年の「タンゴ・イン・ザ・ナイト」発表後から始まった。このアルバムは個人的には大好きで、前作の「ミラージュ」よりもよく聞いたものだ。
 だいたいジャケットからして魅惑的だったし、曲も"Big Love"、"Seven Wonders"、"Little Lies"、"Mystified"などなど、70年代の「噂」などと比べても決してそん色はないと思っていた。513ynii4ctl
 もちろん商業的には成功したものの、チャート的には前作の結果に至ることができずに、ビルボードでは7位に留まっている。
 この結果にやや失望したのが、リンジー・バッキンガムだった。基本的にこの頃のマックでは、リンジーがイニシアティブを握っていてアルバム制作を行っていたのだが、このアルバムに関しては、彼はかなりの精力を注いで念入りに取り組んでいた。

 ところが、アルバムは売れたものの、チャート的には3週間7位に留まり、それ以上は上昇することはなかった。
 結局、リンジーはこれが限界と思ったのか、マックでの仕事に見切りをつけて、本格的にソロ・キャリアを追及するようになってしまったのである。

 のちに彼は、このアルバムの商業的な結果には満足したが、もっと売れると思っていたと語っていることから、おそらく「ファンタスティック・マック」や「噂」と並び称されるアルバムになると思ったに違いない。

 また、ミック・フリートウッドの自伝によると、スティーヴィー・ニックスとの激しい口論などで、この頃のリンジーはかなり疲弊していたようだ。それでバンド活動に息苦しさを覚えていたリンジーは、飛び出すように出ていったという。

 それで、リンジー・バッキンガムの代わりにバンドに加入したのが、ビリー・バーネットとリック・ヴィトーの2人だった。リンジーひとりの代わりにふたりのギタリストが加入したという事実が、如何にリンジーの才能が豊かで、バンドにとって必要不可欠なミュージシャンだったかがわかる。

 しかし、ビリーもリックもそれなりに経験も能力もあるギタリストだった。ビリー・バーネットは、加入した時点ですでに8枚のアルバムを発表しているテネシー州メンフィス出身のギタリストだった。

 父親や叔父もミュージシャンだったし、彼自身もグレッグ・オールマンやロイ・オービソンなどに曲を提供していた。また、クリスティン・マクヴィーの1984年のアルバム「恋のハート・ビート」ではクリスティンとも曲作りを行っていた。
 それに、ミック・フリートウッドのアルバム「アイム・ナット・ミー」にも参加しているし、そういう意味では、フリートウッド・マックの参加はすんなりと決まったのだろう。

 リック・ヴィトーの方もジョン・マクヴィーと親交があり、1976年のジョン・メイオール&ブルーズブレイカーズのアルバム「バンケット・イン・ブルーズ」で共演している。
 また、ボブ・シーガーの「ライク・ア・ロック」やジャクソン・ブラウンのアルバム「愛の使者」、ボニー・レイットの「グリーン・ライト」などにも参加していて、ミュージシャンの間では名の通ったギタリストだったようだ。

 彼らがバンドに加入したいきさつは、ビリーがリックも一緒じゃないと嫌だと言ったからで、最初に声がかかったのはビリーの方だった。
 リックはスライド・ギターの名手として知られていて、ツイン・リードとスライドをバンドに活かそうと思ったのかもしれない。また、リックの方が3歳年上という事情も配慮したのだろうか。

 あるいは、60年代のようなブルーズを基調とした音楽性も追求しようと思ってバンドに加入したのかもしれない。確かにリンジーが去って、そういう可能性もないわけではなかったからだ。

 彼らが参加したアルバム「ビハインド・ザ・マスク」は、1990年に発表された。正確に言えば80年代最後のアルバムなのだが、ことの成り行き上、90年代に繰り上げてカウントしようと思う。81lsuzupqql__sl1425_
 このアルバムの評価は分かれていて、微妙である。チャート的にはアメリカでは18位という結果に終わったが、イギリスでは1位になっている。
 シングル・カットされた"Save Me"は軽快でノリのよい曲だったが、アメリカでは33位、イギリスでは53位だった。唯一、カナダでは7位と好成績だった。

 次にカットされた曲は"Skies the Limit"で、アルバムの冒頭に配置された曲ということで、これまたクリスティン・マクヴィーの手によるものである。80年代のマックの流れを汲んだようなミドル・テンポのメロディアスな曲だったが、結果的には、ビルボードのシングル・チャートで40位に終わっている。

 ヨーロッパでは、"In the Back of My Mind"がシングルとして発表された。ビリー・バーネットの曲で、7分もある大曲だった。ある意味、新境地を開くような曲でもあり、ミックの呟くような語りからビリーのギターとクリスティン・マクヴィーとスティーヴィー・ニックスのバッキング・ボーカルがフィーチャーされている。

 個人的には90年代の"I'm So Afraid"になるかもしれないと思っていたが、そうはならなかった。もう少しギターが目立っていたら売れたと思うのだが、時代はそういうギター・ソロを求めなくなっていったし、ましてやソフトでポップなロックに転換したフリートウッド・マックには必要なかっただろう。

 また、リック・ヴィトーとスティーヴィー・ニックスの共作曲である"Love is Dangerous"もシングル・カットされたが、見事にコケてしまった。リックのスライド・ギターとビリーのリード・ギターが絡み合って、これまた個人的には好きだったのだが、ビルボードのシングル・チャートの100位内に入ることはなかった。

 リックとスティヴィーはもう1曲"Second Time"という曲でも共作していて、アルバムの最後を締めくくるにふさわしいしっとりとしたバラード曲になっていた。
 一方で、スティヴィーはトム・ペティのバンド、ハートブレイカーズのマイク・キャンベルとも"Freedom"という曲を作っていて、こちらはリズミカルでテンポのよい仕上がりだった。この頃のスティヴィーはマイクと付き合っていたのだろう。

 ともかく、ビリーとリックはこのアルバムにかなり貢献していて、全13曲のうち8曲にソングライターとして関わっている。
 この2人だけで作った曲が"When The Sun Goes Down"で、軽快なカントリー・タッチの雰囲気に満ちている。

 またリックひとりで書いた曲"Stand on the Rock"もあり、リック・ヴィトーのボーカルがフィーチャーされている。スティーヴィー・ニックスが歌った方がパンチが効いて、ヒットしたかもしれない曲だ。要するにハードな感じなのだが、ボーカルの線が細いので、強く印象には残らなかった。

 ちなみに、アルバム・タイトル曲の"Behind the Mask"には、なぜかリンジー・バッキンガムがアコースティック・ギターで参加している。この辺の事情はよく分からない。喧嘩別れとまでいかなくても、そんなに好ましい事情で脱退したわけでもない。それでも参加するというのが、フリートウッド・マックのミュージシャンシップなのだろう。

 アルバムはそんなに売れなかったけれど、ツアーは連日超満員でソールド・アウト、イギリスでもアメリカでも彼らの人気は凄まじかった。150907_4535328899992_15859720_n
 ただ、クリスティン・マクヴィーは彼女自身の飛行機恐怖症とツアー中に父親が亡くなったせいで、バンドを脱退すると宣言した。(のちにこれを撤回し、レコーディングには参加するものの、ツアーには不参加と変更している)

 ところが、ここでまた問題が起きた。なぜかギタリストのリック・ヴィトーとスティーヴィー・ニックスがバンドを脱退したのである。
 スティヴィーはクリスティン・マクヴィーと同じように、レコーディングには参加するもののツアー不参加を申し出ていたのだが、1991年にリックと去ってしまったのだ。この頃はリックと付き合っていたのだろうか。

 でも、リックとスティーヴィー・ニックスがふたりでアルバムを作ったという事実はなくて、スティヴィーはソロ・キャリアを追及し、リックはブルーズ・ロックという原点に戻っている。
 のちに彼は、ミック・フリートウッドのサイド・プロジェクトのバンドに参加して、クラシックなブルーズを披露していた。

 1993年になると、今度はビリー・バーネットの方がカントリー・アルバムを作るなどのソロ・キャリアを追及するためにバンドを脱退すると発表したが、カントリー・シンガーのベッカ・ブラムレットと元トラフィックのギタリストだったデイヴ・メイソンが加入するとわかると、翌年にはバンドに復帰した。
 この辺の変わり身の早さは、フリートウッド・マックのメンバーになるための重要な資質の1つかもしれない。

(To be Continued to Tomorrow)

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2017年9月18日 (月)

フリートウッド・マックの「ミラージュ」

 今回もフリートウッド・マック関連の話題である。前回のリンジー・バッキンガムとクリスティン・マクヴィーのアルバムが、80年代初めのフリートウッド・マックのアルバムの感触に近いということを書いた。でも、そのアルバムのことを知らない人もいると思うので、少しだけ説明してみたいと思う。

 1982年に発表されたこのアルバム「ミラージュ」は、5週間にわたってビルボードのアルバム・チャートのNo.1に輝いている。また、18週間にわたってアルバム・チャートのトップ・テン内にとどまり、ダブル・プラチナ・アルバムに認定された。

 フリートウッド・マックのアルバムでチャートの首位に輝いたスタジオ・アルバムは3枚しかなく、今のところ、というか恐らくは、この「ミラージュ」が最後のアルバムになるだろうと思っている。(残り2枚は、1975年の「ファンタスティック・マック」と1977年の「噂」)

 以前にも同じことを書いたが、このバンドには3人のソングライターがいる。この3人がそれぞれの持ち味を発揮した曲作りを行うところに、このバンドの特徴がよく表れているし、ファンはそれを待ち望んでいる。1982_fm_705
 だから、それぞれが作った曲がシングル・ヒットすれば、当然のごとくアルバムは売れるし、チャートを駆け上っていく。No.1アルバムになった3枚には、これを証明するかのように、ヒット・シングルが満載だった。

 この「ミラージュ」でも同様である。アルバムには12曲が収められていたが、そのうち5曲がシングル・ヒットしている。当時は(そして今も?)シングルにはサイドBがあったから、結局、このアルバムから5曲+αがシングルとして世に出たということになる。

 最初のシングルは、アルバムに先駆けて発表された"Hold Me"で、クリスティン・マクヴィーの曲だった。Holdmefleetwoodmac
 アメリカにおけるフリートウッド・マック最大のヒットとなったこの曲は、7週間にわたって最高位の4位を続け、その年の年末最後の週においてもチャートの31位に留まっていた。

 ジョン・マクヴィーと離婚したクリスティン・マクヴィーは、その後、ザ・ビーチ・ボーイズのデニス・ウィルソンと3年ほど付き合っていたが、デニスの酒癖の悪さ、というよりもアルコール中毒や薬物中毒に手を焼いていて、結局、このアルバムが発表されるときには別れてしまっていた。

 クリスティーンがデニスと付き合っていた頃のことをテーマにした曲だった。そんなに名曲とは思えないのだが、メロディーよりも歌詞の内容がヒットの要因だったのかもしれない。

 でもクリスティン・マクヴィーという人は、つくづく男運がない人だと思う。余計なお世話だと言われるだろうが、ジョン・マクヴィーと別れた原因も彼の酒癖の悪さだった。点滴の薬剤の入った瓶の代わりに酒瓶をさしているジャケット写真があったけれども、それほど酒の好きな男性たちと巡り合う何かを、彼女は持っているようだ。

 ちなみに、デニスの方は、このアルバムの翌年の12月にヨットから海に飛び込んで亡くなっている。39歳の若さだった。アルコールか何かで酩酊状態だったと言われている。

 2枚目のシングルは"Gypsy"で、スティーヴィー・ニックスが手掛けたものである。この曲の原点は、「ニックス/バッキンガム」時代にまでさかのぼる。
 当時貧しかった2人は、ベッドを買うお金がなくて、キングサイズのマットレスを床の上に直接置いて寝ていたという。
 そして、そのマットレスにレースを飾り付けたり、古いランプを置いて“ジプシー”のように暮らしていたそうである。Gypsy_single
 そういうノスタルジーとともに、この曲にはスティーヴィー・ニックスの親友だったロビン・アンダーソンへの追悼という気持ちもあるようだ。
 ロビンは、高校時代にスティーヴィー・ニックスと出会い、それ以降も親交を続けていた。演劇に関心があり、彼女のステージングにアドバイスをしたり、セラピストとしても彼女の力になっていたようだ。

 そのロビンが1982年に白血病で亡くなった。その時ロビンは、子どもを産んだばかりだった。ロビンの夫のキムとスティーヴィー・ニックスは、共通の愛すべき人を失くしたことで、それによる深い悲しみに包まれていた。
 彼らはお互いの悲しみを癒すために結婚をするのだが、3ヶ月後には別れてしまった。一時の気の迷いだったのかもしれない。

 しかし、1979年くらいから出来上がっていたこの曲を一部書き直し、新たな意味を込めて発表している。そういう意味では、彼らの結婚も意味があったのかもしれない。
 ビルボードのシングル・チャートでは3週間12位になっていて、このアルバムからの2番目に売れた曲になっている。

 ところで、この曲のプロモーション・ビデオが制作されるとき、スティーヴィーはコカイン中毒のためにリハビリ中だった。本当なら彼女の治療が終わってから撮影されるはずだったのだが、制作側のスケジュールが詰まっていたために、延期ができなかった。

 だから、彼女は十分に回復しないまま撮影に臨んでいる。のちのインタビューで、一緒に踊っていたリンジー・バッキンガムはダンスが下手だったので、私が不機嫌に映っていると言っていたが、それは彼女の方にも原因があったのである。

 アメリカでの3枚目のシングルは"Love in Store"で、アルバム「ミラージュ」では、冒頭を飾っていた曲だった。
 この曲はクリスティン・マクヴィーが書いたもので、リード・ボーカルは彼女自身。バッキング・ハーモニーはスティーヴィー・ニックスとリンジー・バッキンガムが付けている。王道のポップ・ロック路線であり、キャッチーなメロディー・ラインと軽快なリズムは、いかにもシングル・カットに相応しいものだった。Loveinstorebelgium_3
 ただ、アメリカでは22位と健闘はしたものの、そんなには売れなかったようだ。また、イギリスではシングル・カットされていない。

 イギリスで3枚目のシングルになったのは、なぜかリンジー・バッキンガムが作った"Oh Diane"だった。
 不思議なことに、イギリスでは"Hold Me"も"Gypsy"もヒットしなかった。それで3枚目のシングルは"Oh Diane"にしたのだろう。この曲なら売れると思ったのだろうか。

 そして、その目論見は当たったのである。1982年の12月に69位でチャートに登場したこの曲は、10週間かけて徐々に上がっていき、翌年の2月には9位に輝いている。
 このイギリスでのヒットをきっかけに、アメリカでもヒットを狙おうとして4枚目のシングルになったのだが、残念ながらアメリカではチャートにも登場しなかった。スティーヴィー・ニックスが参加していなかったからだろうか。Ohdiane
 個人的にもそんなにヒットするような要素は見えないし、どちらかというと50年代から60年代にかけてのポップ・ソングのような雰囲気を湛えている感じだ。イギリスでは、こういうシンプルな感じの曲の方が好まれるのだろう。

 アメリカでは、このアルバムからのシングル・カットはこれで終わったのだが、イギリスではもう1枚カットされている。それが"Can't Go Back"だった。アルバムでは2番目に配置されている曲だった。

 この曲にもスティーヴィー・ニックスは参加していなかったが、理由はよくわからない。この曲も"Oh Diane"と同じように、リンジー・バッキンガムが作ったからだろう。この当時の2人の仲は、最悪だったようだ。ただ、シングルのジャケット写真には5人で写っていた。Cant_go_back__fleetwood_mac_1983_uk
 この曲も軽快なポップ・ロックで売れる要素は備えていると思う。ただ、歌詞の内容が“もう昔の頃には戻れない”とか“彼女は夢ばかり追っていた”という何やら意味深な内容だったから、スティーヴィーは参加しなかったのかもしれない。

 ちなみに、この曲は前曲とは違って、83位という悲惨なチャート結果になってしまった。どうもイギリス人の好みはよくわからない。この曲の方がポップだと思うのだが、それだけの要素では決めないのがイギリス人の感性なのだろう。

 相変わらず、複雑な人間関係を反映した曲が多いバンドである。こういう傾向は77年のアルバム「噂」から変わっていなかった。それでも解散しないところが、このバンドの不思議な点だろう。彼らの曲に"Seven Wonders"というのがあったけど、きっとそのうちの1つは自分たち自身の人間関係のことを指しているのではないかと勘繰ってしまう。

 この頃のバンド内では、ソロでの活動が目立っていた。特に、スティーヴィーの活躍は目覚ましくて、前年に発表したソロ・デビュー・アルバムの「麗しのベラ・ドンナ」は、少なく見てもアメリカだけで600万枚以上売れた。当然、アルバム・チャートの1位を飾っている。

 もともと個人活動の意欲が高かったスティーヴィーである。これで自信を持ったのか次々とソロ・アルバムを発表し、個人でツアーも開始した。バンドとは別に活動を始めたのである。さすが才能のある人は違う。ただ、他のメンバーにとっては、バンド活動よりも優先している点が気に入らなかったのではないだろうか、特にリンジー・バッキンガムにとっては。

 その行動は今に至っているようで、前回の「リンジー・バッキンガム/クリスティン・マクヴィー」のアルバムが、なぜフリートウッド・マック名義のアルバムにならなかったのかということに繋がっていた。

 今回は1982年のアルバム「ミラージュ」を取り上げたが、今後の彼らの活動が“蜃気楼”にならないことを願うばかりである。

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2017年9月11日 (月)

リンジー・バッキンガム/クリスティン・マクヴィー

 さて、前回はフリートウッド・マックの黄金期を支えた2人のデビュー・アルバムについて記した。それで今回は、同じバンドの違うメンバーが組んで発表したニュー・アルバムについて綴ろうと思う。

 ゴシップ好きな人なら、フリートウッド・マックのゴチャゴチャした人間関係については、よくご存じだと思う。音楽面や商業的成功については、70年代後半から80年代前半にかけてピークを迎えていたが、そのバンド内の人間関係については崩壊していた。

 キーボーディストのクリスティン・マクヴィーとベーシストのジョン・マクヴィーは1976年に離婚したし、ドラマーのミック・フリートウッドもアルバム「噂」制作前には離婚していた。お相手の元妻は、ジョージ・ハリソンの元妻であるパティ・ボイドの妹のジェニーだった。

 そして、恋人同士だったリンジー・バッキンガムとスティーヴィー・ニックスも成功の階段を上るにつれて、徐々にすきま風が吹き始め、お互いに束縛のない生活を求めて、恋人関係を解消した。一時的ではあるが、のちにスティーヴィー・ニックスはミック・フリートウッドと親密な関係になっている。Fleetwoodmac1977650430_2
 とにかくこのバンドは、人間関係はグチャグチャなのだが、プロフェッショナルなミュージシャンとしてのプライドや意識は高くて、音楽面についてはお互いの才能や努力を認めながら、よりよいものを追及しく姿勢は忘れなかった。

 だから1975年のアルバム「フリートウッド・マック」から1987年の「タンゴ・イン・ザ・ナイト」までの間、5枚のスタジオ・アルバムはすべてビルボードのベスト10以内にチャート・インし、ライヴ活動も盛大に行われていたのである。

 この辺の割り切り方は、さすがプラグマティズム発祥の国アメリカという感じがするが、クリスティン・マクヴィーやジョン・マクヴィー、ミック・フリートウッドの3人はイギリス人だから、関係ない気がするが、アメリカナイズされたのだろうか。

 それで本題に戻って、今年の6月にリンジー・バッキンガムとクリスティン・マクヴィーの連名によるアルバムが発表された。クリスティン・マクヴィーは74歳で、リンジーの方は今年67歳だから、決して若いとは言えないが、まだまだ現役のミュージシャンとしてその存在を示してくれていた。

 もともとクリスティンは、1998年以降、地元のイギリスで隠遁生活を送っていた。表向きの理由は“飛行機恐怖症”ということで、ツアーで飛行機に乗ることを厭うようになっていた。
 若い頃はそんなことはなかったのだが、やはり年齢からくる疲労、ツアーやレコーディングによるストレスなどが高じて表舞台から姿を消したいと思ったのだろう。

 そんな彼女も、2013年にフリートウッド・マックのロンドン公演に客演した。場所がロンドンということもあり、彼女にとっては参加しやすかったのだろう。そして、その時の観衆の反応も熱狂的に彼女を受け入れるようなものだった。それが彼女の心の中のミュージシャンシップに火をつけたと思われる。

 翌年には、彼女のバンド復帰が正式にアナウンスされ、バンドは再び70年代後半の黄金期のメンバーで活動を始めた。
 そしてリンジー・バッキンガムとクリスティン・マクヴィーは、バンド用のニュー・アルバムのために曲作りを始めたのである。

 リンジーとクリスティンは、メールでやり取りをしながら、ロサンゼルスでレコーディングを開始したが、すぐにミック・フリートウッドとジョン・マクヴィーも参加して、8曲ほど新l曲を録音した。
 2014年の9月から2015年の11月まで、フリートウッド・マックは、ワールド・ツアーを行った。北米からヨーロッパ、ニュージーランドまで、全120公演が開催されたが、これは当然5人の黄金期のメンバーで行われている。Fleetwoodmac2

 ツアー終了後、スティーヴィー・ニックスを除いた4人は、2015年の12月から再びロサンゼルスでレコーディングを開始した。そして、出来上がったのがこの「リンジー・バッキンガム/クリスティン・マクヴィー」だった。

 なぜフリートウッド・マックの名義ではないのかというと、スティーヴィー・ニックスが不在だったからである。彼女は、バンドのワールド・ツアー終了後に、今度は自分のソロ・ツアーに出かけたからで参加することができなかったからだ。

 だから、本当は実質的なフリートウッド・マックのアルバムだといってもいいのだが、ひとり不参加だったために、バンド名を使わなかった(使えなかった)ということらしい。
 またリンジーは、曲のほとんどを基本的にはクリスティンと2人で作ってきたので、まるでデュエット・アルバムのようだとインタビューなどで応えていた。

 だから“フリートウッド・マック”という名前は使用しなかったのだろうし、2014年からコツコツと2人で曲作りを行ってきた努力や、お互いの貢献度を明確にしたかったに違いない。
 もともとはアルバム・タイトルを1973年の「バッキンガム&ニックス」にちなんで「バッキンガム&マクヴィー」にする予定だったらしいのだが、それは取りやめになった。スティーヴィー・ニックスが嫌がると予想したのだろうか。

 それで肝心な音の方だが、やはりひとりでも欠けていると、あの魔法の再現は困難だったようだ。結論から言えば、よくできたアルバムだが、黄金期のフリートウッド・マックのアルバムにはかなわない。良盤だが名盤ではないのである。

 全10曲だが、ミディアム調の曲が多くて、どの曲も同じように聞こえてしまうのが最大の欠点である。
 もう少し、リンジーの好きなカントリー調の曲とかアコースティック色の濃い曲などを混ぜていれば、曲ごとの色どりが変わって、バラエティ豊かで個性的な特長が発揮できたと思っている。

 あるいは、ハードな彼のギター演奏も聞きたかった。彼はピックを使わずに、フィンガー・ピッキングでギターを弾く。ジェフ・ベックと同じである。
 その演奏が超カッコいいのだ。1975年のアルバム「フリートウッド・マック」の中に収められていた"I'm So Afraid"のライヴ映像なんかは鳥肌ものである。

 そういう情熱的でアグレッシヴな演奏がほとんど聞こえてこない。強いて言えば、5曲目の"Love is Here to Stay"では、おとなしいアコースティック・ギターを聞くことができるし、最終曲の"Carnival Begin"では、ちょっと盛り上がったギター・ソロが期待できる。でも、それ以上がないのが悲しいのである。51go6eiciql

 もう少し好意的に解釈すると、6曲目"Too Far Gone"も最初はハードな展開が予想されたのだが、リフはハードでも間奏がないので印象に残らない。
 全体的には基本的に歌ものアルバムなので、普通の音楽ファンにも受け入れやすい仕上がりになっている。

 たとえて言うならば、1982年のアルバム「ミラージュ」や1987年の「タンゴ・イン・ザ・ナイト」のような感じのソフトでマイルドな感じが伝わってくるアルバム使用になっていると思う。また、80年代のAOR路線の影響を残しているようだった。

 ただ、8曲目の"Game for Pretend"などは、「噂」の"Songbird"のように、しっとりしたバラードになっていて、これはアルバムの中では佳曲の部類に入るだろう。
 また、9曲目の"On With the Show"というのは、2014年以来のフリートウッド・マックのワールド・ツアーのタイトルにもなっていて、バンドとしてもう一度ファンとともにショウを盛り上げていこうという決意表明になっている曲だ。

 10曲の半分はリンジーひとりで作った曲で、クリスティンは2曲を自作している。残りの3曲はリンジーとクリスティンの共作だった。
 また曲のクレジットとは別に、1曲目がリンジー、2曲目がクリスティンと交互にリード・ボーカルを取っている。

 やはり彼らは、このアルバムがリンジー・バッキンガムとクリスティン・マクヴィーの両者のアルバムと認識していたのだろう。自分たちでも、このアルバムにはバンドとしてのケミストリーが足りないと思っていたのかもしれない。

 そしてその原因はというと、何度も言うように1人足りないということだろう。フリートウッド・マックのいいところは、3人のソング・ライターがいて、それぞれがボーカルをとれるということだ。
 この3人の特色がお互いに交差することで、さらにバンドとしての輝きを放っていくのである。

 それが1人足りないことで、残念ながらバンドとしてのマジカルな要素が発揮できなかった。
 それにバンドのメンバーも高齢化していて、クリスティンは74歳、スティーヴィー・ニックスは69歳だ。リズム隊の2人も70歳を超えている。果たしてどれだけ全盛期の姿まで近づくことができるのか不安でもある。

 このアルバムは、アメリカのチャートでは17位、イギリスでは5位まで上昇している。1人欠いてもこれだけの結果が出せたのだから、5人そろえばもっと素晴らしい結果につながるに違いない。次回は、“フリートウッド・マック”という名義のニュー・アルバムを期待するしかない。平均年齢が高くなっても、まだまだ需要も高いバンドなのである。

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2017年9月 4日 (月)

バッキンガム&ニックス

 前回に続いて、今年の夏によく聞いたアルバムを紹介しようと思った。まだまだ残暑が続くからである。それにしても、今年の夏は暑い日が多かったなあと感じている。

 それで紹介するアルバムは、「バッキンガム&ニックス」である。実はこのアルバムは以前からぜひ手に入れたいと思っていた。

 このアルバムは1973年に発表されたのだが、自分が最初に知ったのは1978年頃だった。それ以降も当時のレコード店の棚に並んでいた覚えがある。
 それで、なぜ気になったのかというと、1977年のフリートウッド・マックのアルバム「噂」がいたく気に入っていて、何度も何度も聞いていたからだ。

 それに彼らは、その全盛期のメンバーで1977年に来日公演を行っている。それは当時の洋楽雑誌である「ミュージック・ライフ」にも大きく取り上げられていて、ライヴ・レポートやメンバー写真などを見た記憶がある。1401x788107110185
 それから発表順を遡るかのように、1975年のアルバム「ファンタスティック・マック」も購入して、ヘヴィ・ローテーションで聞いていた。当時はフリートウッド・マックもフェイヴァレットなバンドの一つだったのだ。

 そして、フリートウッド・マックがそれほどまでに世界的なビッグ・バンドに変化したのも、1974年にバンドのメンバーになったリンジー・バッキンガムとスティーヴィー・ニックスのおかげなのであり、これは誰もが認める事実だろう。
 だから、バンドに加入する前の2人のアルバム「バッキンガム&ニックス」をぜひ聞いてみたいと思っていた。

 フリートウッド・マックについては、何回かこのブログでも言及しているので詳細は省くけれど、元々はイギリス出身のブルーズ・バンドで、1960年代後半は3大ブリティッシュ・ブルーズ・バンドとして、それなりに人気が高かった。
 70年代になって、メンバーの交代などで徐々にポップな路線を歩み始め、活動の舞台もイギリスからアメリカへと変わっていった。

 そして、新しいメンバーとして、リンジー・バッキンガムとスティーヴィー・ニックスが加入したのだが、そのきっかけとなったアルバムがこの「バッキンガム&ニックス」だったというわけである。

 ところがである。いつか買って聞いてみようと思っていたのだが、ジェスロ・タルやデヴィッド・ボウイ、次々と登場するパンク/ニュー・ウェイヴのアルバムに目移りしてしまい、いつのまにか「バッキンガム&ニックス」のアルバムは、店頭から消えてしまっていた。
 だから、このアルバムは、まさに約40年間、熱望していたアルバムであり、いつかは手に入れたいと思っていて、やっとその願いが叶ったのである。

 リンジー・バッキンガムは、カリフォルニアでフリッツというバンドで活動していた。いわゆる彼はマルチ・ミュージシャンなのだが、このバンドではベース・ギターを担当していた。
 1967年に、このフリッツにいた女性シンガーが大学進学のために脱退したので、代わりにアリゾナ州生まれのスティーヴィー・ニックスが加入した。

 当時はいわゆる“サマー・オブ・ラヴ”の影響で、サイケデリックな音楽やハードなサウンドが好まれていた。フリッツもそういう種類の音楽をやっていて、ジェファーソン・エアプレインやジャニス・ジョプリンのオープニング・アクト(前座)を務めることもあったという。

 キュートなスティーヴィーを中心に活動を行っていたフリッツは、かなり人気の高いローカル・バンドだったのだが、ヒット曲に恵まれず、残念ながらレコード会社との契約を結ぶことはできなかった。バンドは1971年に解散している。

 実は、リンジー・バッキンガムとスティーヴィー・ニックスは同じ高校の後輩と先輩という関係だった。彼らは高校生の頃から放課後に、ザ・ビーチ・ボーイズやザ・ママス&ザ・パパスの歌を歌っていたようだ。
 やがて彼らは恋人関係になって、2人で活動するようになった。そして2人は大学を中退して、サンフランシスコからロサンゼルスに居を移し、デモ・テープの制作に励んでいった。

 生活費を稼ぐために、スティーヴィー・ニックスはウェイトレスや清掃人として働き、リンジー・バッキンガムは父親のコーヒー園で働いていた。自分たちのことは自分たちで行うという自主独立の気風は、アメリカ人の精神的支柱なのだろう。

 スティーヴィーの父親は精肉会社の社長だったし、リンジーの父親の方はコーヒー園を経営していた。あまり関係ないけれども、リンジーの兄のグレッグは水泳の強化選手だった人で、1968年のオリンピック・メキシコ大会では銀メダルを獲得している。リンジー自身も一時は水泳選手を目指していたのだが、音楽がやりたくて途中であきらめていた。

 つまり2人とも裕福な家庭の出身だったのだが、2人とも親を頼ることもなく自分たちで決めた道を進んでいった。この辺はサクセス・ストーリーというか、アメリカン・ドリームの体現というものだろう。(ただし、リンジーのコーヒー農園にはレコーディング・スタジオが備え付けられていて、リンジーは昼は農園で働き、夜はデモ・テープを制作していた)

 ただ、スティーヴィーの方はもう疲れてしまい、貧乏でいることが嫌になり、もう一度大学に戻ろうかとも考えていたようだ。やはりお嬢様育ちには辛かったのだろう。

 そんなときに、幸運な出来事が起きた。スティーヴィーが清掃人として働いていた中にプロデューサー兼エンジニアのキース・オルセンの屋敷があった。そこで音楽プロデューサーと知り合いになったスティーヴィーは、自分たちの音楽のことを話したのである。

 キース・オルセンという人は、元々はミュージシャンでベース・ギターも演奏していた。やがては西海岸で、プロデューサー兼エンジニアとして活躍するようになった。
 フリートウッド・マックの「ファンタスティック・マック」や「噂」のみならず、ハートやサンタナ、ホワイトスネイクにスコーピオンズ等々のアルバムを手掛けている敏腕プロデューサー兼エンジニアである。

 彼らの音楽を聞いたキースは、さっそく彼らのアルバム「バッキンガム&ニックス」をプロデュースするとともに、伝手を通してポリドール・レコードと契約を結ぶように図った。だから今こうして彼らのアルバムを聞くことができるのも、キースのおかげなのである。

 また、リンジーとスティーヴィーは、スタジオ・ミュージシャンのワディ・ワクテルとも知り合いになり、一緒に行動するようになった。もちろん、このアルバムにもワディ・ワクテルは参加している。ワディは60年代の終わりからキースとは知り合いで、一緒に仕事をしたり遊んだりしていた。

 さらに、ワディの兄である写真家のジミー・ワクテルが、アルバム・カバーの写真を撮影し、アルバム・デザインも手掛けている。ひとつの出会いがまるでドミノ倒しのように、次々と新しい出会いを呼び、新たな扉を開いていく。人生は、何がどう転ぶかわからないものである。51zbtmdanjl

 残念ながら、商業的にはこのアルバムは失敗した。要するに、ヒット・シングルが生まれなかったからだろうが、親会社のポリドールもそんなに真剣になって彼らをプッシュしなかったことも理由にあげられるだろう。

 アルバムからは2曲がシングル・カットされた。最初は"Don't Let Me Down Again"というリンジーが作った曲で、このアルバムの中ではノリのよい曲で、そんなに悪くないと思うのだが、何故かヒットしなかった。

 2枚目のシングルはアルバムのオープニング・ナンバーの"Crying in the Night"で、ミディアム調のゆったりとした曲だった。スティーヴィーのソロ・アルバムに入っていてもおかしくない曲だが、確かにインパクトには欠けるかもしれない。

 結局、アルバムもシングルも売れずに、リンジーはエヴァリー・ブラザーズの元メンバーのバック・バンドの一員としてツアーに出かけ、スティーヴィーは元のウェイトレスに戻って働くという生活が続いた。

 転機は1974年の1月にやってきた。フリートウッド・マックのリーダーのミック・フリートウッドが彼らの曲"Frozen Love"を耳にして、彼らのことに興味を持ったのである。もちろん曲を聞かせたのはキース・オルセンだった。

 この曲はアルバム最後の曲で、このアルバムの中でリンジーとスティーヴィーの2人で書いた唯一の曲だった。ブルージーでダークな曲調で、やや複雑な構成を持っている。そんなにメロディアスな曲ではないのだが、ミック・フリートウッドには何か感じるものがあったのだろう。時間的にも7分16秒もあった。

 基本的には、このアルバムではアコースティック・ギターがメインに使用されていて、エレクトリック・ギターの使用率は低い。この"Frozen Love"でも同じことで、全体的にはアコースティック・ギターが目立っていて、イントロとエンディングのソロでエレクトリックが光っている。このリンジーのギター・テクニックにミックは魅力を感じたのだろう。

 このアルバムのオリジナルは10曲、トータルで36分42秒しかないのだが、今回の紙ジャケット・アルバムでは、シングル・ヴァージョンや未発表曲などを含めて21曲も収められていた。つまりボーナス・トラックが11曲も含まれているのだ。

 その中には、のちに2001年のスティーヴィーのソロ・アルバム「トラブル・イン・シャングリラ」に収められた"Sorcerer"や"Candlebright"、1982年のフリートウッド・マックのアルバム「ミラージュ」にアレンジし直されて収録された"That's Alright"などがあって、それらの原曲は74年頃に出来上がっていたというところが面白かった。

 更には、1974年当時にアラバマ州でのライヴ曲が3曲もあって、その中に「ファンタスティック・マック」に収められていた"Rhiannon"も歌われていた。一部の歌詞は違うが、メロディラインはスタジオ盤と同じだった。ただ、ライヴではかなりアグレッシヴでハードに展開されている。71lcfiljkl__sl1457_

 この曲は本来はアルバムから除外されていたのだが、最終的に"Candlebright"(オリジナル・タイトルは"Nomad"だった)と差し替えられたという。ちなみに、"Rhiannon"の方は1976年にシングル・カットされて、ビルボードの11位まで上昇している。

 また、なぜアラバマ州でライヴが行われたかというと、この「バッキンガム&ニックス」が唯一売れたところがアラバマ州だったと言われているが、本当だろうか。
 また、この頃のライヴでは"Monday Morning"も演奏されていたが、このアルバムには収録されていなかった。出し惜しみしたのだろうか。

 あくまでも個人的な感想なのだが、このアルバム・ジャケット見たときに、このアルバムが売れなかった訳が分かった。

 それはこの半裸の2人が美形過ぎたからだろう。男性は、こんなかわいい女性をものにしやがってと嫉妬しただろうし、女性ファンは、このイケメン・ミュージシャンの側にいる女性が気に食わなかったに違いない。結局、内容まで耳を傾けることもなく、ジャケット見て購買意欲が削がれたのだろう。もちろん私の邪推である。1024x1024

 結局、この2人がフリートウッド・マックというバンドに加入したおかげで、バンドは超メジャーになっていった。バンドが1998年にロックの殿堂入りを果たせることができたのも、この2人の貢献を抜きには考えられない。

 その原点が、この「バッキンガム&ニックス」というアルバムに含まれている。約40年間の謎が、やっと解けたような気がした。

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2017年8月28日 (月)

バンケット

 今年の夏によく聞いたアルバムの1枚を綴ろうと思った。昔でいうところのスーパー・バンドである。
 スーパー・バンドといえば、古くはクリームやジェフ・ベック・グループ、プログレ界ではE,L&Pやエイジア、アメリカン・ロックではC,S,N&Yやトラヴェリング・ウィルベリーズなどが思い浮かぶ。いわゆる、有名ミュージシャンが集まって結成されたバンドだ。

 ただ、それぞれがそれなりに功を遂げ名を成しているミュージシャンたちばかりだから、エゴも強い。バンド自体も長くは続かなくて、頻繁なメンバー・チェンジが起こったり、短期間で解散したりしてしまう。自己主張が高まったり、自分の才能や能力が十分に発揮されないと思ってしまうのではないだろうか。

 それで今回は、バンケットというスーパー・バンドの登場である。ただ残念なのは、そんなにメジャーなミュージシャンではないというところだろうか。
 とりあえず、どんな人たちが集まってきたか以下に記すことにする。全員知っていたら、本当に素晴らしいと思う。ロック検定1級合格は間違いないはずだ。まだ行われているかどうかは知らないけれど…Bnqt_kristenriffert05s

・エリック・プリード(G&Vo)、マッケンジー・スミス(Dr)、ジョーイ・マクラレン(G)、ジェシー・チャンドラー(Key) 以上、ミッドレイクより
・ジェイソン・ライトル(G&Vo&Key) グランダディより
・ベン・ブライドウェル(Vo&G) バンド・オブ・ホーセズより
・アレックス・カプラノス(Vo&G) フランツ・フェルディナンドより
・フラン・ヒーリィ(Vo&G) トラヴィスより

 ということで、ミッドレイクというバンドを中心にして、計5つの英米のバンドの中心メンバーが集まったバンドが、このバンケットなのである。
 バンド名を見ればわかるけれど、スーパー・バンドという名称の前に、“マイナー”とか“アンノウン”とかいう形容詞がつくような気がする。

 実際、アルバムのキャッチ・コピーにおいても“インディ・ロックのスーパー・グループ”という言葉が使われていたから、欧米諸国の人たちにとってもそんなにメジャーにはなっていないような気がする。 

 この5つのバンドの中で、比較的有名なのは、イギリス勢のフランツ・フェルディナンドとトラヴィスではないだろうか。前者は踊れるロック・バンドであり、後者は美メロのバンドである。両者ともスコットランドのグラスゴー出身だ。

 残りの3つのバンドは、いずれもアメリカのバンドである。ミッドレイクは、テキサスで1999年に結成されている。グランダディは、1992年にカリフォルニアで結成されたが、一旦解散して、また再結成された。
 この2つのバンドについては知っていたけれども、バンド・オブ・ホーセズに至っては、ノーマークだった。2004年にシアトルで結成されていて、米国よりも北欧の方で人気が高いようだ。

 自分が持っているCDの中であるのは、ミッドレイクとトラヴィスだけである。バンド・オブ・ホーセズに至っては、まったく知らなかった。まだまだ無知だと反省しなければならない。学ぶべきことは多いようだ。

 ミッドレイクのエリックが中心となって、他のメンバーに声をかけたそうである。だから、基本的にはミッドレイクがバック・バンドになって、5人のボーカリストが交互にリードを取っている感じである。

 エリック・プリードは、インタビューに次のように応えている。“このバンドは、トラヴェリング・ウィルベリーズの貧乏人バージョンだよ。もともとは2013年頃、ツアーをしていてふと思いついたんだ。憧れのミュージシャンや仲の良い人たちと一緒に仕事ができるってクールな体験だと思ったんだ”Photofrombnqttwitter

 それでエリックは、グランダディのジェイソンに声をかけて快諾を得た。エリックもジェイソンもお互いの音楽にリスペクトを払っていたらしい。
 次に、エリックはベンに呼び掛けた。ベンの方がミッドレイクに影響を受けた音楽をやっていて、ベンの方もかねてからミッドレイクとの共演を望んでいたという。

 アメリカ関係のバンドは、以上で出揃った。次はイギリス勢である。トラヴィスは美メロ中心のソフト・ロックに近いバンドだったから、ミッドレイクと結びついてもおかしくなかったが、フランツ・フェルディナンドに関しては音楽的方向性が少し違うような感じがした。

 詳細は不明だが、エリックはまたフランツのような音楽も個人的には好きだったようだ。だから声をかけたのだろう。また、フランツのような踊れる音楽もミッドレイクのようなフォーキーでサイケデリックなポップ・ミュージックと融合すれば、化学変化を起こしてさらに良質な音楽が生まれてくるだろうと思ったのかもしれない。

 いずれにしても今はネットの時代。基本的な楽曲はミッドレイクが用意したようだし、それらをネット上でやり取りをしながら磨きをかけ、より良いものにしてレコーディングしていったという。距離は遠く離れていても、ネット上では瞬時のやり取りで終わる。世の中便利になったものだ。

 それで出来上がったアルバムが「ヴォリューム1」という傑作だった。先のエリックのインタビューを見ても分かるように、トラヴェリング・ウィルベリーズをもろに意識している。
 全10曲で、リード・シングルの"Real Love"以外の曲は、5人のボーカリストが交互に歌っている。"Real Love"ではエリックとベン、アレックスが歌ったり、コーラスをつけたりしていた。61iw2w70qzl
 アルバムは"Restart"という曲から始まる。なぜ“再出発”というタイトルになるのかよくわからないのだが、今までの生き方を見直して、自分らしく生きていこうという決意溢れる曲だった。
 曲調からして、まさにトラヴェリング・ウィルベリーズのようなのだが、これにちょっとしたシンセサイザーの音がかぶさっているので、そういう意味ではフランツ・フェルディナンドの影響も受けている。

 イントロのピアノの音がまるでニッキー・ホプキンスの演奏のように聞こえてくる"Unlikely Force"は、ホーンも加えられて、ポップでさわやかな感じがする。リード・ボーカルは、バンド・オブ・ホーセズのベンらしい。

 次の"100 Million Miles"は本当にドリィーミーな曲で、ストリングスの使い方がまるでポール・マッカトニーのようだった。この曲を歌っているのはグランダディのジェイソン・ライトとのことである。

 4曲目の"Mind Of Man"では、トラヴィスのフラン・ヒーリィが歌っていて、まるでトラヴィスの曲といってもおかしくはないほどのメロディアスな曲になっている。もっと長く歌ってほしいと感じた。

 このアルバムの特徴は、美しいメロディに絡み合うストリングスやシンセサイザーだろう。例えば、フランツ・フェルディナンドのアレックス・カプラノスが歌う"Hey Banana"でもその効果が表れているし、途中で映画のセリフも流れてきて、怪しい雰囲気をより一層高めている。しかもダンサンブルというところが、いかにもアレックスが歌うのに似合っている。

 ちなみに映画は、1974年の「A Woman Under the Influence」というもので、邦題は「こわれゆく女」と名付けられていた。ピーター・フォークやジーナ・ローランズなどが主演している。

 シングルカットされた"Real Love"は、まさにトラヴェリング・ウィルベリーズのパクリである。それだけ愛着が深いというか、憧れの存在なのだろう。高音のピッコロや途中のギターやキーボードのソロが印象的だった。

 "Failing at Feeling"では、シンプルなピアノをバックにジェイソンが切々と歌っていて、途中にストリングスのアレンジが加えられている。ミディアム・テンポのバラードだ。

 トム・ペティの曲のように感じるのが"LA on My Mind"である。途中からどんどんハードになっていくところが興味深い。
 歌っているのが、おそらく自分のアルバムではこういう曲は歌わないだろうなというトラヴィスのフランである。どんな気持ちで歌っていたのだろうか。おそらくたまにはこんな歌もいいだろうと思っていたような気がする。

 さらにアップテンポになるのが9曲目の"Tara"で、軽快なロックン・ロールが収められているところに、このバンド・メンバーでの化学反応があるのだろう。こういう曲は、それぞれが自分のバンドに戻った時には、決してやらないだろうという類のものだからだ。後半のリード・ギターがカッコいい。

 そして最後の曲"Fighting the World"は、何となくミッドレイクの曲調を髣髴させてくれる。このアルバムの最後を締めくくるにふさわしい曲で、ある意味、このメンバーでの最大公約数的曲ともいえるだろう。安心して聞くことのできる曲が最後に置かれているところは、エリックの意思が示されているようだ。20170310175228
 このアルバムが商業的に成功すれば、おそらく第2弾、第3弾と次のアルバムが発表されるだろう。エリックはノラ・ジョーンズにも参加してほしいと言っているから、こうなると、スーパー・バンドというよりは、スーパー・プロジェクトになってくる。

 果たして本家のトラヴェリング・ウィルベリーズを超えるかどうかは、このアルバムの成功にかかってくるのである。

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