2017年11月13日 (月)

マーク・べノ(2)

 ずいぶん昔の話だけれども、このブログでマーク・べノのアルバム「雑魚」を紹介したことがあった。このアルバムは、知っている人は知っているけれども知らない人は誰も知らないというぐらい有名なアルバムで、個人的に隠れた名盤として載せたのである。51ozvefplrl
 いま調べたら2008年の7月14日付でこのブログに記載されていて、いかにこのアルバムが素晴らしいかを力説していた。思えば9年も前のことになるが、時の経つのは早いものだ。
. そんなことはどうでもいいのだが、当時はあまり深く考えなかったのだけれども、このマーク・べノもスワンプ・ロック関連のミュージシャンのひとりで、この1971年の名盤にも当時の関係者が多数参加していた。

 たとえば、ギター奏者ではザ・バーズに在籍していたクラレンス・ホワイト、ジェシ・エド・デイヴィス、ボビー・ウーマックにジェリー・マッギー、ベーシストにはデレク&ザ・ドミノスのカール・レイドル、ジェリー・シェフ、ドラマーにジム・ケルトナー、バック・コーラスにはリタ・クーリッジなどのミュージシャンである。いずれもデラニー&ボニー関連のミュージシャンか、その関係者だった。

 マーク・べノ自身も若き日のレオン・ラッセルとアサイラム・クワイアというバンドを結成していた。その関係からこれらのミュージシャンが参加したものと思われる。いずれもデラニー&ボニーに、直接的にしろ間接的にしろ関係しているミュージシャンばかりだ。

 マークは、テキサス州のダラスに生まれている。1947年生まれなので、今年で70歳になる。12歳でギターを手にし、15歳頃にはプロのミュージシャンとして活動を開始した。
 様々なバンドを経験した後、1966年にレオン・ラッセルと知り合い、意気投合してハリウッドに居を定め、アサイラム・クワイアというバンドを結成している。

 バンドは、「ルック・インサイド・ジ・アサイラム・クワイア」と「アサイラム・クワイアⅡ」という2枚のアルバムを発表したが、商業的には成功せず、マークは一人で地元テキサスに戻り、カントリー・ブルーズ・シンガーのマンス・リプスカムのバック・バンドで音楽活動に取り組んだ。

 1970年にはリタ・クーリッジの後ろ盾もあって、当時のA&Mレコードと契約を結び、デビュー・アルバム「マーク・べノ」を発表した。このアルバムについては後に述べることにする。

 そして翌年には、スワンプ・ロックの名盤傑作選には必ず入ると言われている「雑魚」を発表した。このアルバムについては、すでに述べているのでそちらを参照してほしい。たぶんほとんど誰も目にしないだろうけれど…

 1972年には3枚目となる「アンブッシュ」を発表して、ナイトクロウラーズという自身のバンドを結成した。このバンドには有名になる前のスティーヴィー・レイ・ヴォーンやドイル・ブラムホールなどが在籍している。

 だからというか当然というべきか、彼らは地元では大変な人気を誇っていて、ハンブル・パイやJ.ガイルズ・バンドの公演ではオープニング・アクトを務めていたが、メイン・アクトよりも観衆を沸かせていたといわれている。

 レコード会社としては、シンガー・ソングライターとしてプッシュしていたのだが、いつの間にかブルーズ・ロックをやるようになっていったマークに難色を示すようになり、1974年の4枚目のアルバムは録音されたものの、結局、発売は見送られてしまった。2005年になってこのアルバムは、「クローリン」というタイトルで発表されている。

 「ロスト・イン・オースティン」というアルバムが1979年に突如発表されたが、A&Mから発表されたアルバムは、これが最後になってしまった。
 これは珍しくロンドンでレコーディングされていて、エリック・クラプトンや彼のバンド・メンバーも参加したブルーズ色の濃いロック・アルバムに仕上げられていた。

 その後は、彼が手掛けた「ビヴァリー・ヒルズ・コップ」の挿入歌入りのサントラが1986年度のグラミー賞を受賞したり、1990年には「テイク・イット・バック・トゥ・テキサス」というアルバムを発表したりするが、無理のないコンスタントな活動を行っているようだ。
 アルバムも定期的に発表しているが、メジャーなレーベルからは出していないので、遠く離れた日本では、彼の具体的な活動は把握しにくい。

 ただ、2005年と2011年には来日しているので、日本でもコアなファンはいるはずだ。もちろん自分もそのうちの1人なのだが、残念ながら生の姿はまだお目にかかっていない。機会があればと願っているが、もう恐らく日本に来ることはないだろう。残念の一言に尽きる。

 それで、久しぶりに彼の1970年のアルバム「マーク・べノ」を聞いたのだが、これがまた「雑魚」に負けず劣らず良いので、このところ毎日聞いている。41mkdwc2zhl
 まず、参加ミュージシャンが素晴らしい。だいたいスワンプ・ロック系のアルバムには、その筋のミュージシャンが大挙して押し寄せて、勢いで制作するという傾向が強いのだが、このアルバムもその例に漏れない。

 キーボードには清志郎とも共演したブッカー・T・ジョーンズ、スライド・ギターには名手ライ・クーダー、ギターにはベンチャーズのジェリー・マギー、ベースはプレスリーやコステロとも経験のあるジェリー・シェフ、レオン・ラッセルの後ろでタイコをたたいていたジミー・カースタイン、そしてジム・ホーンにリタ&プリシラのクーリッジ姉妹と、これはスワンプ・ロックの範疇を超えた西部&南部連合軍だろう。

 アルバムには9曲が収められている。1曲目の"Good Year"はタイヤのコマーシャル・ソングではないものの、軽快なカントリー・ロックで、バックのホーンとワウワウのギターがルイジアナなどのアメリカ南部を想起させる音になっている。エンディングに向けてテンポが徐々に上がっていく。

 "Try It Just Once"はミディアム・ブルーズ風の曲だが、全編を覆うギターがカッコいい。デビュー・アルバムからしてこのレベルの高さは、正直言って素晴らしい。

 3曲目の"I'm Alone I'm Afraid"はさらにスローな曲で、まるでレオン・ラッセルのピアノとスティーヴィー・レイ・ヴォーンのギターが合体したような曲に仕上げられている。このアルバムの中でも1、2を争うほどの出来栄えだと思うし、この曲とラストの曲のためにアルバムを買っても惜しくはないだろう。

 一転して明るい曲調の"Two Day Love Affair"では、リタ・クーリッジらの女性ボーカルが曲を盛り上げていて、ポップな色どりを添えている。こういう曲も書けるところがマーク・べノの才能の大きさだろう。

 "Second Story Window"は涙が出そうなアコースティックな曲で、のちにリタ・クーリッジが自分の持ち歌の一つにするほどの素晴らしい曲。秋の夜長に聞いていると、胸が締め付けられるような感じの曲だ。ブッカー・T・ジョーンズの演奏するハモンド・オルガンもまたいい味を出している。

 アルバムの後半は、ややハードな"Teach It To The Children"で始まる。マーク・べノ流のロックン・ロールだろう。中間部のギター奏法がややサイケデリック風で、この時代の雰囲気をよく表している。

 "Family Full Of Soul"は、やや力を抜いたレイド・バック風の曲で、アメリカの南部の風を感じさせてくれる。バックのホーン・セクションにピッコロも使用されているので、明るく陽気な気持ちにさせてくれた。

 8曲目の"Hard Road"だけは、マーク・べノとグレッグ・デンプシーという人の共作だった。グレッグ・デンプシーという人は、ロサンゼルス時代のマークの友人で、レオン・ラッセルと一緒に3人で曲作りも行っていたという。
 軽快なスワンプ・ロック風のロックン・ロールで、後半のライ・クーダーによるスライド・ギターが文句なくカッコいい。

 最後の"Nice Feelin'"は、スワンプ・ロック流のゴスペル・ソングだろう。ピアノとハモンド・オルガンの共演やそれに絡むギター、クーリッジ姉妹のバック・コーラスなどが聞くものに魂の癒しを与えてくれる。
 この曲ものちにリタ・クーリッジが自分で歌っているが、やはりプロの歌手が自分も歌いたいと思わせるような魅力というか力を秘めているのだろう。
 このアルバムは全体で33分くらいしかないのだが、この曲だけは5分50秒もある大曲だった。

 いずれにしても、このアルバムもまた「雑魚」と並び称されるほどのスワンプ・ロックの名盤ということが、あらためてわかった。ただ、もう1、2曲ほど曲が多ければ、もっと充実したアルバムになったに違いない。
 それでもデビュー・アルバムでこれほどの名盤が作れるのだから、やはりマーク・べノは実力派ミュージシャンだった。Marc_benno
 今ではそんなに語られることはないかもしれないけれど、マーク・べノもまたスワンプ・ロックのみならず、アメリカン・ロックを代表するミュージシャンの1人だった。もっと評価されていいミュージシャンだと思っている。

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2017年11月 6日 (月)

デラニー&ボニー(2)

 スワンプ・ロックとは、ロックン・ロールを中心にして、それにR&Bやカントリー・ミュージック、ゴスペルなどの要素を備えた音楽であり、具体的にはロック・バンドにブラスとコール&レスポンス風のバック・コーラス、それにピアノやオルガン中心のキーボードを加えた楽曲である。

 1970年前後にアメリカを中心に流行したが、これを主導したのは、アメリカ人ミュージシャンのみならず、クラプトンやデイヴ・メイソンなどの著名なイギリス人ミュージシャンもその一翼を担っていた。

 自分なんかはクラプトンやジョージ・ハリソンが彼らと積極的に交流を図ろうとしていたのを知って、初めてこの手の音楽を知った。だからイギリス人ミュージシャンを鏡にして、アメリカの音楽の源流の一つを学んだようなものだった。

 レオン・ラッセルやドン・ニックス、マーク・べノなどのアメリカ人ミュージシャンの音楽もスワンプ・ロックの範疇に含まれるのだが、その中で一番有名で、一番影響力があったのは、やはりデラニー&ボニーであることは論を俟たないだろう。

 特に彼らが発表した4枚目のアルバム「デラニーよりボニーへ」は、まさにスワンプ・ロックを代表するアルバムである。このアルバムを聞けば、スワンプ・ロックとは何なのかを体験できる。それほど優れた名盤であり、アメリカン・ロック史の中でもまさに世界遺産級のアルバムだと思っている。61hhvjhiphl__sl1050_
 このアルバムは、1970年に発表された。前年のイギリス・ツアーは「オン・ツアー・ウィズ・エリック・クラプトン」として70年の3月に発表されていた。

 デラニーは、イギリスから帰国後、ただちにスタジオ・アルバムの録音に取り掛かろうとしたのだが、残念ながらバック・ミュージシャンのほとんどは、エリック・クラプトンやレオン・ラッセルたちと行動を共にしていて、デラニーのもとにはあまり人が残っていなかった。

 そんなときに助け舟を出してくれたのが、アトランティック・レコードの当時の重役だったジェリー・ウェクスラーだった。
 彼はデラニーとボニーにオールマン・ブラザーズ・バンドのギタリストだったデュアン・オールマンを紹介したのである。

 当初はライ・クーダーの名前も挙がったのだが、ジェリーはデュアンの方が音楽性が合うだろうと仲介してくれた。
 実際、デュアンとデラニーは意気投合して、2人で行動を共にすることが多くなっていった。当時のデュアンは自分のバンドのツアー以外は、ほとんどの時間をデラニー&ボニーと過ごすようになったと言われている。

 だからこのアルバムのクレジットを見ると、レオン・ラッセルやエリック・クラプトンの名前は既になく、代わってデュアン・オールマンのほかに、ベン・べネイ、チャーリー・フリーマン、スニーキー・ピートやメンフィス・ホーンズのメンバー等がクレジットされていた。

 また、デレク&ザ・ドミノスからは、ボビー・ホイットロックとジム・ゴードンが参加していた。ただ、ジムは本職のドラムは叩いておらず、ピアノやオルガンを担当している。

 ついでにいうと、ギター担当のチャーリー・フリーマンやリズム陣のトミー・マクルーアとサミー・クリースンなどは、マイアミにあるクライテリア・スタジオの専属ミュージシャンだった。彼らは“ディキシー・フライヤーズ”と呼ばれていて、それなりの経験を積んだベテラン・ミュージシャンたちだった。

 このアルバムの素晴らしさは、とにかくスワンプ・ロックの要素をすべて備えているところだろう。71rhuj1prbl__sl1050_
 デラニーの書いた"Hard Luck And Troubles"からアルバムは始まる。ノリのよい転がるようなテンポの曲で、途中からのホーン・セクションがR&B風でカッコいい。

 続いてアコースティック・ギターとスティール・ギターがフィーチャーされた"God Knows I Love You"が始まる。アメリカ南部から中西部に移動してきたような感じがした。1曲目と2曲目のギャップはそんな感じだった。
 蛇足として、スティール・ギター奏者のスニーキー・ピートは当時フライング・ブリット・ブラザーズに所属していたミュージシャンである。

 ボニーが本格的に登場するのは、3曲目の"Lay Down My Burden"からである。この人が歌うと迫力があるので、本当にティナ・ターナーが歌っているように感じてしまう。この曲もまた彼女の代表曲の一つだろう。

 4曲目はメドレー形式になっていて、ロバート・ジョンソンの名曲でデラニーが歌う"Come on in My Kitchen"から、ボニーが歌う"Mama, He treats Your Daughter Mean"、2人のデュエットによる"Going Down The Road Feeling Bad"へと続く。バックの演奏はアコースティック・ギター2本とコンガのみである。

 続いて、お涙頂戴のスラー・バラード"The Love of My Man"をボニーが丁寧にかつ切々と歌ってくれる。ただ、迫力がありすぎて感傷ではなく感動してしまう。バックのオルガンとホーンの絡みなどは見事なアレンジだと思った。

 一転して、ロックン・ロールになる。"They Call It Rock&Roll Music"はタイトル通りの曲で、デラニーが手掛けた曲だった。ロックン・ロールといっても、スワンプ・ロックにはホーンやバック・コーラスがフィーチャーされるので、ギター・ソロはそんなに目立たない。
 この曲のサックスは、デラニーの友人のキング・カーティスという人が担当している。この人は有名なサックス奏者だったが、翌年の8月にドラッグの密売人と口論になり刺殺されている。享年37歳だった。

 さらにアップテンポでノリノリなのが"Soul Shake"だ。たぶん当時のレコードでは、この曲がサイドBの1曲目にあたるのではないだろうか。最初から飛ばしていこうぜという感じの曲で、間奏でのデュアンのスライド・ギターと後半のサックスが目立っている。

 "Miss Ann"はピアノが目立つブギウギ調のロック・ナンバーで、誰が弾いているのかと思ったら、何とリトル・リチャードだった。ゲスト参加ということだ。この曲は5分以上もあるので、結構、彼のピアノは目立っている。

 9曲目の"Alone Together"はデイヴ・メイソンの曲ではなくて、デラニー&ボニーとボビー・ホイットロックが手掛けたもの。まさにスワンプ・ロックのお手本のような曲で、みんなでワイワイやっているようなスワンプ・ロック風パーティー・ソングである。

 そして、次の"Living On the Open Road"ではデュアンのスティール・ギターが大フィーチャーされていて、個人的には、この1曲だけでもこのアルバムを聞く価値があるのではないかと思っている。他の曲でももっと弾いてほしかったが、この曲を聞けただけでも幸福感が湧き上がってくる。

 ハードな曲の次にはスローな曲が来るのは定番で、"Let Me Be Your Man"はスロー・バラード曲。ただメイン・ボーカルはデラニーだった。タイトル曲や内容が男性用だからだろう。でも、しっかり聞きこむと、意外とデラニーの歌い方もソウルフルで情感豊かだった。もう少しエンディングを伸ばしてほしかったように思う。

 最後の曲"Free the People"はボニーが歌っていて、基本的には前半がトロンボーンとパーカッションで、後半はバンド形式になる。そしてアルバム全体を締めくくるかのように、最後はみんなで歌って終了という感じだった。

 デラニー&ボニーは、翌年の1971年に「モーテル・ショット」を発表した。これは商業的な成功を求めるために発表したものではなくて、当時の彼らの日常の音楽風景を記録として留めようと思って制作されたものだった。91c0708lh8l__sl1500_
 当時の彼らは、ライヴ終了後はモーテルに戻って、さらに一晩中、飲んで歌ってワイワイやっていたという。その中で、次のアルバムへのアイデアや曲へのイメージが浮かんで来たようなのだが、そういう演奏などを無理のない形で発表しようとしたのである。

 基本はホテル(モーテル)内でのレコーディングなので、エレクトリックな楽器は極力排除されていて、ピアノやタンバリンなどのパーカッションが主な楽器だ。

 録音時期には諸説あるが、だいたい1969年の秋以降から1970年の5月くらいまでではないかと言われている。
 このアルバムには、レオン・ラッセルやデイヴ・メイソンにデュアン・オールマン、それにジョー・コッカーまで参加していた。

 だから、デレク&ザ・ドミノス結成以前か、ジョー・コッカーの全米ツアー以前だろう。ということは、上記の時期が最も当てはまりそうで、その間のデラニー&ボニーのツアーの合間を利用して録音されたものなのだろう。

 曲の内容的には、トラディショナルや黒人霊歌的なものも含まれていて、彼らの宗教観や音楽観が伺える。デラニー&ボニーもレオンも敬虔なクリスチャンで、ショーの前後でみんなで円陣を作り、祈りを捧げていたという。

 1曲目の"Where The Soul Never Dies"古いゴスペル・ソングをデラニーがアレンジしたもので、レオン・ラッセルの弾くピアノとタンバリンで構成されている。
 続く"Will The Circle Be Unbroken"も古い讃美歌で、ここではボニーがメイン・ボーカルを取っている。

 一転して静かな"Rock of Ages"が始まる。珍しくレオン・ラッセルがリードを取っていて、これも讃美歌をアレンジしたものらしい。ピアノ1台と少しのパーカッションで成り立っている曲でもある。

 アコースティック・ギターとピアノが目立っている"Long Road Ahead"はデラニーとカール・レイドルの曲で、デイヴ・メイソンと思われるギターがかすかに聞こえてくる。これも誠実、質素、堅実といった古き良きアメリカ南部の伝統を踏襲したような内容の曲になっている。

 更にメロディアスでバラードなのは5曲目の"Faded Love"で、歌っているのはデラニー・ブラムレットだった。彼が子どもの頃に、家族でよく一緒に歌っていた曲の一つだという。素朴でセンチメンタルな曲である。

 "Talkin' About Jesus"をリードするのは、なんとまあジョー・コッカーである。彼の名前はこのアルバムにはクレジットされていないのだが、誰が聞いても彼だとわかる声が聞こえてくる。
 ジョーの次には、デラニー、ボニーと次々とコーラスが加わり、まさにゴスペルの極致に近づいてくる。彼らにはモーテルではなくて、教会で歌っているような感じだったかもしれない。もしくは、神はどこにでもおわしますという心境だったかもしれない。教会であろうが、ホテルの一室であろうが、神を身近に感じることがクリスチャンの資質なのだろうか。

 6分51秒の曲の次は、2分41秒のロバート・ジョンソンも歌った"Come on in My Kitchen"。ドブロ・ギターを弾いているのは、デュアン・オールマンのようだ。前作の「デラニーからボニーへ」とはレコーディングの時期が違う曲だった。

 続いてスロー・ナンバーの"Don't Deceive Me"が始まるのだが、この曲はボニーがリードを取っていて、ソウルフルなボーカルを聞かせてくれる。アコースティック・ギターを弾いているのは、何となくクラプトンのような気がするのだが、気のせいだろうか。ただ、クラプトンもこのアルバムにはクレジットされていない。

 "Never Ending Song of love"はデラニーのオリジナル曲。このアルバムからシングル・カットされ、全米チャートの13位まで上昇し、彼らの最大のヒット曲になった。のちにザ・ニュー・シーカーズやジ・オズモンド・ブラザーズなどもカバーしてヒットさせている。このアルバムの中では、唯一のポップ・ソングかもしれない。

 "Sing My Way Home "もデラニーのオリジナル曲で、バックのスライド・ギターはもちろんデュアン・オールマンである。アコースティック主体の爽やかな曲でもある。

 このアルバムの前半はR&Bやゴスペルの影響を受けた高揚感のある曲が占めているのだが、後半はこういうアコースティック主体の曲やポップな曲が目立っている。91b3kymkagl__sl1500_
 11曲目も前作「デラニーからボニーへ」の中でメドレーとして収められていた曲"Going Down The Road Feeling Bad"で、デュアン・オールマンのアコースティック・ギターが目立っているせいか、軽快で明るい印象を受けた。

 最後を飾るのは"Lonesome And A Long Way From Home"で、クラプトンの1970年のソロ・アルバムにも収められていた。デラニー&ボニーとレオン・ラッセルのクレジットによる曲で、フィドルなども聞こえてきて、よりアーシーになっている。最後のボーカルはスティーヴン・スティルスと言われているが、彼の名前もアルバムには記載されていなかった。

 というわけで、このアルバムについては売れることを意識して発表したわけではないようだが、なぜかシングル曲はヒットしてしまった。彼らにとっては予想外のことだっただろう。あるいは、スワンプ・ロックというブームの中での出来事だったのかもしれない。

 このあと彼らは、アルバムを制作するもレコード会社からは拒否され、夫婦仲も次第に険悪な状況になっていった。

 この「モーテル・ショット」は、1990年代にブームになった“アンプラグドもの”の先駆けとなったアルバムとも言われているが、あるいは、もしかしたら彼らの最も幸福な時間を曲に託して記録(レコーディング)したのかもしれない。

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2017年10月30日 (月)

1970年のエリック・クラプトン

 前回は、ジョー・コッカーがデラニー&ボニーのバック・バンドと一緒にツアーに回っていった過程を主に述べたのだが、当時のイギリス人ミュージシャンには、ロックン・ロールのルーツであるアメリカ南部の音楽に回帰していくということが流行していた。

 ジョー・コッカーのみならず、デイヴ・メイソンや彼が所属していたトラフィックのスティーヴ・ウインウッドもアメリカの南部音楽に影響を受けていたし、今回のお題であるエリック・クラプトンもデイヴ・メイソンの後を追うように、ルーツ音楽を探し求めていた。

 そういうミュージシャンの意識が英米のミュージシャンの交流を生み、やがては“スワンプ・ロック”というムーヴメントを生み出していった。その中心にいたのが、デラニー&ボニーだったという話はすでに述べた。

 今回は、1970年に発表されたエリック・クラプトンのソロ・アルバムについて、特にデラニー・ブラムレットがミキシングをしたバージョンについて述べることで、当時のスワンプ・ロックやデラニー&ボニーの影響力などについて考えてみたい。

 クリーム解散後、エリックはリック・グレッチやジンジャー・ベイカー、スティーヴ・ウインウッドとともに、スーパー・グループのブラインド・フェイスを結成してアルバムを発表した。1969年のことである。

 アルバムはその年の8月に発表されたが、その前の6月にはロンドンのハイド・パークでデビュー・コンサートを行っている。このコンサートは、フリー・コンサートで誰でも自由に観ることができた。
 その後彼らは、ヨーロッパをまわってアメリカに渡った。ツアー中にデビュー・アルバムが発表されたのだが、残念ながら、その時にはすでにバンドは崩壊しかけていたのである。

 エリック・クラプトンやジンジャー・ベイカーはクリームのようなインプロヴィゼーション中心のハードな音楽も追求しようとしたが、残りの2人はソウルフルなR&Bも視野に入れたロック・ミュージックの可能性も探ろうとしていた。

 結局、それぞれの思惑が微妙に異なっていて、やがてそれが大きな亀裂に結び付いていき、最終的には1年ももたずに解散してしまったのである。

 エリック・クラプトンにとって幸いしたのは、ブラインド・フェイスのツアー時のオープニング・アクトがデラニー&ボニーだったことだ。
 彼らのアメリカのルーツに結び付いた音楽に触れることによって、エリック・クラプトンはバンド解散後の方向性を確立しようとしたし、刺激を受けることで、もっと深くアメリカ南部の音楽を学ぼうとした。920a3f0807b3dc454d1e6f1c2db852ab
 エリック・クラプトンは、ロサンゼルスにあったデラニー・ブラムレットの自宅を訪ね、彼とともにソロ・アルバムの構想を練っていった。
 その時、デラニーからアドバイスを受けたことは、もっと自分自身の声を使えというものだった。ギターのテクニックについては、当然右に出る者はいなかったが、誰もが所有している“声”という楽器については、まだまだ不十分なものだったようだ。

 確かに、クリーム時代でも曲によっては歌っているものもあったが、あくまでもボーカルはジャック・ブルースだった。だから、本格的にボーカリストとして足を踏み出したのは、1970年からと考えていいだろう。

 ソロ・アルバムのレコーディングは1969年の11月から始まり、翌年の1月にはロサンゼルスで最終セッションが行われた。
 もちろんレコーディングの主導権は、デラニー・ブラムレットが握っていて、彼のリーダーシップのもと、錚々たるミュージシャンが集められ、アルバム制作が進められていった。

 元々のアルバム・タイトルは「エリック・シングス」と名付けられていて、まさに“弾くクラプトン”ではなくて、“歌うクラプトン”がフィーチャーされていたのである。

 それにこのソロ・アルバムには、トム・ダウドがミックスしたバージョンとプロデューサーだったデラニー・ブラムレットが直接ミックスしたバージョンが存在していて、2006年にはその両方のバージョンを収録したデラックス盤が発表されている。71wvhqcmnjl__sl1200_
 トム・ダウドのミックス盤は全11曲、ボーナス・トラックが3曲で、そのボーナス・トラックの中には"Let It Rain"のオリジナル・バージョンの"She Rides"や10分25秒もある"Blues in A"という曲が収められていた。

 一方、デラニー・ブラムレットのミックス盤は、10曲+ボーナス・トラック4曲の計14曲で、カーペンターズも歌った"Superstar"のオリジナル・バージョンだった"Groupie"が含まれていた。

 また、トム・ダウド盤にあってデラニー盤になかったのは、"I've Told You For the Last Time"という曲で、デラニー・ブラムレットとスティーヴ・クロッパーの作品だった。
 ただし、デラニー盤では、この曲はボーナス・トラックとして、1969年の12月にロンドンのオリンピック・スタジオで録音されたバージョンが収録されていた。

 デラニー・ブラムレットのミックス盤は、トム・ダウド盤と比べて曲順と曲の長さが微妙に違っていた。
 1曲目の"Slunky"は同じだが、2曲目の"Bad Boy"はデラニーのミックスの方が8秒ほど長い。また、デラニー盤の方がレオン・ラッセルのピアノとサックスなどのホーンが強調されている。

 3曲目はトム・ダウド盤と入れ替わっていて、トム・ダウド盤では"Lonesome And A Long Way From Home "だったが、デラニー盤では"Easy Now"だった。
 この曲はアコースティック・ギター1本で、まるでシンガー・ソングライターのようにやっているので、今では珍しい爽やかな曲調を持っている。"Easy Now"については、トム・ダウド盤と同じである。

 4曲目は、J.J.ケールの書いた曲である"After Midnight"だった。トム・ダウド盤ではロック・アレンジだったが、デラニー盤の方では、それに加えてピアノとホーン・セクションがフィーチャーされている。時間的にもこちらの方が26秒ほど長い。

 5曲目はトム・ダウド盤は"Easy Now"だったが、デラニー盤では"Blues Power"で、こちらの方もレオン・ラッセルやボビー・キーズが頑張っている。11秒ほど長いのも魅力的である。

 次の曲は、デラニー盤では"Bottle Of Red Wine"で、トム・ダウド盤は"Blues Power"だ。この"Bottle Of Red Wine"については両盤ともほぼ同じで、ほとんど違いがない。デラニーとエリック・クラプトンの曲である。

 "Lovin' You Lovin' Me"については、デラニー盤の方が44秒も長い。その分エンディングが強調されているというか、最後までしっかりと聞くことができる。クラプトンの曲には、エンディングがフェイド・アウトする曲が多いのだが、この曲についてはエンディングが長いので、何となくお得感があった。

 8曲目の"Lonesome And A Long Way From Home"は、トム・ダウド盤では3曲目に置かれていた。この曲もデラニー盤の方が19秒ほど長い。クラプトンのワウワウ・ギターがかわいらしく聞こえるし、これもエンディングまで楽しめる曲に仕上げられている。

 最後から2曲目は"Don't Know Why"で、これもデラニー盤の方が33秒も長い。エリック・クラプトンの自宅に立ち寄ったデラニー・ブラムレットが作った曲で、クレジットではクラプトンとの共作になっている。当たり前のことだが、エンディングのギター・ソロがさすがクラプトンである。

 最後の曲は、両盤とも"Let It Rain"だった。トム・ダウド盤との違いは、1秒ほどデラニー盤の方が長いという点だろう。ただ、素人が聞いてもあまり違いは判らないのではないだろうか。81aamui7j8l__sl1361_
 ボーナス・トラックの1曲目は、9曲目の"Don't Know Why"の別バージョンで、こちらはオリンピック・スタジオで録音されたものだった。トム・ダウド盤よりも2分以上長くなっていて、全体的にラフな作りになっている。その分、“スワンプ・ロック”の匂いがプンプン漂っているような感じがした。

 ボートラの2曲目は、"I've Told You For the Last Time"で、トム・ダウド盤よりも4分16秒も長い。これもオリンピック・スタジオにおけるラフ・ミックス・バージョンのようだが、エリック・クラプトンのギター・ソロがフィーチャーされていて、十分鑑賞に堪えうるものだった。
 クリームの幻影を追い求めるロック・ファンにとっては、こちらの方がよかったのではないかと思っている。

 3曲目は、デラニー&ボニー・アンド・フレンズによる"Comin' Home"で、文字通りデラニー&ボニーを支えるバック・ミュージシャンとエリック・クラプトンがセッションをしている。
 時間的に3分14秒というのが辛い。ただ、彼らのイギリス公演では、5分以上長くやっていた。ライヴだったから長めにやったのだろう。

 最後の曲は"Groupie(Superstar)"で、リード・ボーカルはボニー・ブラムレット。名曲は誰が歌っても名曲だろう。レコーディングにはデイヴ・メイソンやリタ・クーリッジなども参加していた。

 というわけで、デイヴ・メイソンの後を追うようにアメリカに渡った(というか既に渡っていた)エリック・クラプトンだったが、デラニー&ボニーとその友人たちと一緒になって制作されたのが1970年のソロ・アルバムだった。Be30fe8f29ce7bfe465eed9df7be9567eri
 このあと、バック・ミュージシャンはレオン・ラッセルとともにジョー・コッカーと全米ツアーを行い、そのあとジムとカールとボビーはクラプトンとともにデレク&ザ・ドミノスを結成することになるのだが、その後の展開についてはまた別の機会に譲ろうと思う。
 別の機会があればのお話だが…

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2017年10月23日 (月)

ジョー・コッカー

 デラニー&ボニーの影響力についていろいろと調べてきた。今回は、イギリス出身のミュージシャンであるジョー・コッカーについてである。
 自分は、彼についてはもうすでにこのブログの中で書き綴っていたと思っていたのだが、実際は、軽く触れた程度で、そんなに詳しくは書いてはいなかった。今はともかく、70年代においては一世を風靡していたミュージシャンである。何だか申し訳ないと思ってしまった。Cocker
 ジョー・コッカーは、本名を“ジョン・ロバート・コッカー”という。1944年の12月にイギリスのヨークシャー州シェフィールドで生まれた。
 “ジョー”という呼び名は、子どもの頃の遊びにあった“カウボーイ・ジョー”から取ったものという説や、近所の清掃業者の名前からとった説と、諸説あって定かではない。

 彼の音楽的経歴は、12歳頃に長兄が作ったバンドで一緒に歌っていた時から始まった。当時は、兄のヴィクターから誘われるままに歌っていたようだ。

 もともと彼は、レイ・チャールズやロニー・ドネガンに憧れて歌を歌うようになった。長兄のアドバイスもあって、“キャバリアーズ”というバンドを結成して歌っていた。

 しかし1年も経たずにバンドは解散してしまい、ジョー・コッカーは高校を退学して、ガス工事人の見習いとして働きながら音楽活動を行うようになった。

 17歳の時には、“ヴァンス・アーノルド&ジ・アヴェンジャーズ”というバンドを結成して音楽活動を再開した。最初は地元のパブなどで活動していたが、徐々に力をつけていき、やがてはローリング・ストーンズのオープニング・アクトまで務めるようになった。
 この頃のジョーは、ブルーズに傾倒していき、ジョー・リン・フッカーやハウリン・ウルフなどの歌も歌うようになった。そういう“黒っぽさ”がストーンズの興味をひいたのだろう。

 20歳になると、ソロ活動を始め、運よくデッカ・レコードと契約することができた。デッカ・レコードといえば、あの4人のカブトムシたちの才能を認めずに契約しなかったレコード会社で有名だが、この時はジョーと契約して、4人のカブトムシの曲"I'll Cry Instead"を制作した。

 しかし、運命はそんなに都合よく回っていくものではない。この曲はプロモーションしたにもかかわらず、ヒットせず、ジョーは1年も経たずにデッカとの契約を失ってしまったのである。

 その後、ジョー・コッカー・ブルーズ・バンドを結成して歌うなどを行っていたが、鳴かず飛ばずで、しばらく音楽活動から遠ざかっていった。そして、約2年間のブランクの後に、ジョーはクリス・ステイトンとザ・グリース・バンドを結成し、活動を行うようになった。
 その活動を目にしたプロデューサーのデニー・コーデルから声を掛けられたジョーは、ソロ・ミュージシャンとして契約を結び、シングル"Marjorine"を発表した。

 この曲はヒットはしなかったものの、注目を集める結果につながった。だからというわけでもないだろうが、彼は続けて曲を発表することができたのである。
 それが1968年に発表された"With A Little Help From My Friends"だった。この曲はイギリスのシングル・チャートのトップ10に入ると、13週間その中に留まり、ついにはその年の11月にNo.1になったのである。(アメリカでは68位だった)

 元々所属していたグリース・バンドはソロ・ミュージシャンになったころに解散したのだが、盟友クリス・ステイトンとはともに活動を続けていて、新たにギタリストとしてヘンリー・マッカロウを迎え、ジョーは1969年の4月にデビュー・アルバム「心の友」を発表して、新生グリース・バンドとともにツアーを開始した。

 イギリス国内では、ザ・フーやジーン・ピットニーらと一緒にライヴ活動を行い、その後アメリカに渡ってエド・サリヴァン・ショーに出演したり、デンヴァーやアトランタなどで様々な野外フェスティバルに出演したりしている。
 そして、一躍世界的に有名になった契機が、1969年のウッドストック・フェスティバルにおけるステージングだった。

 1969年8月16日、ウッドストック・フェスティバルの3日目でのパフォーマンスで、この日のオープニング・アクトを務めたジョー・コッカーとグリース・バンドは、約1時間にわたって歌と演奏を繰り広げたのである。 Http___i_huffpost_com_gen_2422380_i
 この時のライヴでの彼の歌い方やしゃがれた声は、パワフルでインパクトがあったし、誰でも一度見れば、決して忘れられない映像だった。まさに、ジョー・コッカーのターニング・ポイントとなったライヴだった。

 このライヴ後は、ロサンゼルスでニュー・アルバムを録音し、年末から次の年に向けて再びツアーに出ることになっていた。
 ところが、ジョー・コッカーは何か月にもわたるツアーとセカンド・アルバムのレコーディングからくる疲労のせいで、身体的にも精神的にも疲れてしまったのである。

 確かに、あの“ひきつけ”を起こしたような歌い方や動きを見れば、どれほど彼がエネルギーを消費しているかが分かると思う。
 それに当時の音楽業界は、レコーディングの次はツアー、合間を縫ってテレビやラジオ出演は当たり前だったし、しかもそれが西海岸から東海岸、南部のテキサスから北部のミシガンまで、何か月にも渡ってバスや飛行機で移動するのである。まともな人なら疲れて当然だといえよう。

 とにかく、当時のジョーはボロボロの状態だったようで、クリス・ステイトンを除くグリース・バンドとも喧嘩別れをしてしまい、ひとりになってしまったのである。

 ゆっくり休養しようと思ったジョー・コッカーだったが、ところが彼にはアメリカ・ツアーの契約がまだ残っていて、8日後にツアーに出かけるか、もしくは莫大な違約金を払うと同時に、二度とアメリカでのツアーをしないという条件を飲むかという状態に追い詰められてしまった。

 ここでグリース・バンドがまだ一緒にいれば問題はなかったのだろうが、自分一人ではどうしようもできない。そう考えたジョー・コッカーは、とりあえずマネージャーのデニー・コーデルに助けを求めた。

 すると彼は、自分と一緒にシェルター・レコードを立ち上げたレオン・ラッセルにこのことを伝えて相談したところ、時流の波に乗っていたレオン・ラッセルは快諾し、彼の人脈を使ってミュージシャンを集めたのである。ここでやっとジョー・コッカーとデラニー&ボニーの影響力が結びつくのである。

 レオン・ラッセルが集めたミュージシャンは、デラニー&ボニーのバック・ミュージシャンたちだった。要するに、当時の“スワンプ・ロック”を代表するミュージシャンばかりである。
ドラムス…ジム・ケルトナー、ジム・ゴードン、チャック・ブラックウェル
ベース…カール・レイドル
ギター…ドン・プレストン
キーボード…レオン・ラッセル、クリス・ステイトン
サックス・・・ボビー・キーズ
トランペット…ジム・プライス
バック・ボーカル…リタ・クーリッジ、クローディア・レニア等

 そして、ミュージカル・ディレクターはレオン・ラッセルだった。総勢約20名のバンド・リーダーである。

 彼らは1970年の3月17日に、シングルのレコーディングとライヴのリハーサルを行い、20日からのデトロイト公演でツアーが始まった。そしてこの時のツアーは、記録映画として撮影され、その時の楽曲はライヴ・レコーディングされることになった。これが「マッド・ドッグス&イングリッシュメン」として、のちに発表されることになるのである。91brxoxxwdl__sl1500_

 このアルバムは、3月27日と28日のニューヨークにあるフィルモア・イーストでの4回のステージからレコーディングされている。
 内容は、スワンプ・ロックというよりは、ジョー・コッカーのキャリアをまとめたようなものになっていて、ブルーズ・ロックとソウル・ミュージック、ゴスペルやカントリー・ミュージックなどが高次元で融合しているような素晴らしい出来栄えだった。

 何しろ当時のレオン・ラッセルとジョー・コッカーは2人とも神がかっていて、すべての音楽的活動が成功に結び付くような状態だった。時代の波といってしまえばそれまでだが、やはり彼らには、時代をリードする魔法のような力や時代を惹き寄せるマジカルなパワーを有していたのだろう。

 そんな彼らが結託して、結託という言葉がよくないなら、共同して活動していたのだから、これはもうひれ伏すしかないわけで、このライヴ・アルバムは2枚組ながら、全米2位、全英16位を記録した。彼らからすれば、当たり前のことだと思っただろう。

 彼らは約2か月のツアーを続け、全米48都市58公演を行った。最終的にミュージシャンとスタッフを合わせて43名にのぼったと言われている。

 ところが成功と引き換えに、このツアーでジョー・コッカーは完全にダウンしてしまった。原因の一つには、レオン・ラッセルとの確執があったからだと噂されていた。

 レオン・ラッセルのデビュー・アルバムは、このツアーの途中で発表され、ツアーが続けられていくほど、アルバムのセールスは伸びていった。ジョー・コッカーよりもレオン・ラッセルのためにあるツアーになったのかもしれない。まさに“両雄並び立たず”である。

 実際、のちにジョー・コッカーは次のように語っている。『あの男(レオン・ラッセル)のことを心から尊敬していたが、ひどく仲が悪くなってしまって…大きなエゴのぶつかり合いさ』Joecockerleonrussell1970_2
 また、このツアーのことについても述べている。『あれは忘れられない経験だった…尋常じゃなかった。メンバーはみな、自分たちは金星へ、大気圏へむかっているつもりだったが、そんなふうには発展してなかったのさ。最後には俺はロサンジェルスでボロボロになっていた。ロック・ビジネスってやつに幻滅したんだ』

 この後、ジョー・コッカーはアルバムは発表するものの、アルコールやドラッグに蝕まれていくようになった。散発的に話題になることはあったものの、70年代の中盤から80年代にかけてはかつての名声は失われていった。

 自分が物心ついてロック・ミュージックを聞くようになった時には、すでにジョー・コッカーは過去の人扱いだった。ただ、ウッドストックの映像や「マッド・ドッグス&イングリッシュメン」での身震いするようなパフォーマンスだけが記憶の中に残っていた。

 ところが、1982年に「愛と青春の旅立ち」という映画の主題歌"Up Where We Belong"が、ジェニファー・ウォーンズとのデュエットで3週間全米No.1になると、あらためてジョー・コッカーの偉大さが再認識されるようになり、それ以降は生きたロック・ボーカリストのレジェンドとして再び活躍するようになった。

 ちなみに、この"Up Where We Belong"という曲は、1983年のゴールデン・グローブ賞とアカデミー賞でベスト・オリジナル・ソング賞を、ジョーとジェニファーは、グラミー賞のベスト・ポップ・パフォーマンス・デュオ・ボーカル賞を受賞した。
 普通のポップ・ソングである。確かに悪い曲ではないが、全然躍動感がないし、ロック的でもない。

 だいたいこの曲をレコーディングするまで、2人は出会ったこともなかった。ジェニファーの甘い声とジョーのしわぶきの声がうまくマッチするのではないかと考えられたからスタジオに呼ばれたのである。確かに、ロッド・ステュアートに依頼するよりは、安上がりだっただろう。Jenniferwarnesjoecockersnlbillboard
 この稿のテーマは、ジョー・コッカーとデラニー&ボニーとの関係や影響力についてだった。デラニー&ボニーとジョー・コッカーの交流は、表立っては目立ってはいないものの、アルバム「モーテル・ショット」などでは、ジョーの声を聞くことができる。(ただし、アルバムのクレジットには記載されていなかった)

 最終的には、ジョー・コッカーは、レオン・ラッセルのおかげで何とかツアーも乗り切り、その結果、歴史的な名盤を残すことができた。人生、何が幸いするかわからないものだ。

 間接的ではあるが、1970年という時に、イギリス人のミュージシャンは海を渡ってアメリカ人ミュージシャンやアメリカ南部の音楽に向き合い、そこから音楽的ルーツや原点を学ぼうとしていた。

 その磁場の中心にいたのが、デラニー&ボニーで、やがてそれはレオン・ラッセルに移っていった。1971年のバングラディッシュ・コンサートでもレオンの功績は光っていた。ただ、その磁力も長くは続かなかったようである。

 そして、主なバック・ミュージシャンが去って行ったあと、デラニー&ボニーが見出したのが、オールマン・ブラザーズ・バンドのデュアン・オールマンだった。レオン・ラッセルに移動した磁場は、再び揺れ戻ったのである。

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2017年10月16日 (月)

オール・シングス・マスト・パス

 今回と次回は、前回のデラニー&ボニーとの関連で、彼らと関係のあった人たちの活動やアルバムなどを紹介したいと思う。

 とにかく、1970年という年のデラニー&ボニーや彼らの友人たちの活躍は、今から考えればとんでもなく影響が強かったということがやっと理解できた。
 デラニー&ボニー自身のみならず、彼らを支えるミュージシャンたちは、デイヴ・メイソンやエリック・クラプトンなどの著名ギタリスト、クラプトンが結成したデレク&ザ・ドミノス、ジョー・コッカーなど、アメリカ南部のサウンドに興味を持ったイギリス人ミュージシャンに多大な影響力を与えている。

 今回紹介するのは、やはり1970年に発表された元ザ・ビートルズのジョージ・ハリソンのアルバム「オール・シングス・マスト・パス」である。

 このアルバムは、以前、2007年にもこのブログで一度紹介しているのだけれども、今回はデラニー&ボニーの影響力という観点で見てみたいと思う。81iccilbogl__sl1500__2
 このアルバムの素晴らしさについては、あえて繰り返す必要はないだろう。当時は、“静かなビートル”とか“ザ・ビートルズの第3の男”とか言われていたジョージ・ハリソンが、ザ・ビートルズ解散後、今までジョンとポールの陰に隠れて目立たなかった分を一気に吐き出すかのように発表した3枚組アルバムだった。(CDでは2枚組)

 全23曲、特に当時のレコードの1枚目と2枚目の楽曲群のメロディーの豊かさや曲の持つ印象度など、一聴しただけでこのアルバムの素晴らしさとジョージ・ハリソンの才能の豊かさを実感させられたものである。
 今更こんなことを言うと自体、彼のファンには失礼かもしれないが、今聞いても全く違和感のないエヴァーグリーンなアルバムなのである。

 このアルバムには"My Sweet Lord"、"What is Life"、"All Things Must Pass"などの有名な曲や、地味だけどメロディが美しい"Isn't It A Pity"、"If Not For You"、"Behind That Locked Door"などもあり、どの曲も個性があり、水準が高い。

 このアルバムを曲ごとに説明を加えていくと、2日や3日では終わらないので、今回はというか、未来永劫にわたって割愛したい。
 それで、デラニー&ボニー関係のミュージシャンは誰かというと、だいたい次のようだ。

ギター…エリック・クラプトン、デイヴ・メイソン
ベース…カール・レイドル
ドラムス…ジム・ゴードン
キーボード…ボビー・ホワイトロック
サックス・・・ボビー・キーズ
トランペット…ジム・プライス

 もちろん彼ら以外にも、ビリー・プレストンやバッド・フィンガーのメンバーなどの有名ミュージシャンは参加しているのだが、誰が見ても分かるように、ベーシストやドラマー、キーボーディストなどを集めると、デレク&ザ・ドミノスになってしまう。

 デレク&ザ・ドミノスは、同じ年の11月に、ということはこの「オール・シングス・マスト・パス」とほぼ同じ時期に歴史的名盤「いとしのレイラ」を発表しているので、自分たちの録音の合間を縫って、ジョージのアルバムに参加したことになる。

 ちなみに、ホーン関係のボビー・キーズとジム・プライスは、1971年のローリング・ストーンズのアルバム「スティッキー・フィンガーズ」にも参加しているので、彼ら両名にとってもこの時期は引っ張りだこの状態だったようだ。

 当時は、クレジットには記載されていないが、実際にはレコーディングやライヴに参加するということはよくあったようで、この「オール・シングス・マスト・パス」でも、エリック・クラプトンの名前はクレジットされていないが、実際には参加している。

 逆に、ジョージ・ハリソンの方も、自分のアルバムに参加してくれたお礼をするかのように、デレク&ザ・ドミノスの「いとしのレイラ」に参加していた。ジョージ・ハリソンは、"Tell the Truth"と"Roll It Over"(アルバム未収録)において、バックでギターを弾いていた。

 エリックの方は、アルバムの最初の曲"I'd Have You Anytime"を始め、"Wah-Wah"、"If Not For You"、"Art of Dying"、"Isn't It A Pity(Version2)"などでギターを担当していた。特に、"If Not For You"ではドブロ・ギターを演奏している。

 でも、やはり一番の聞きどころは、当時のレコードの3枚目にあたる通称"Apple Jam"だろう。71auugna1al__sl1267_
 最初の"Out Of The Blue"は11分14秒の大作で、演奏しているのはデレク&ザ・ドミノスのメンバーに、サックスにはボビー・キーズ、オルガンはゲイリー・ライト、そしてもちろんジョージ・ハリソンもギターを弾いている。

 混沌とした演奏ながらも、全体をリードするジョージのギターと、時折挿入されるエリックのギターがいい味を出している。その間を縫うように、ボビーのピアノとゲイリーのオルガンが目立っている。

 ジャム・セッションとはいいながら、後半はスリリングに盛り上がっていくところは、さすがプロ集団である。できれば、フェイド・アウトをせずに、最後まできっちり収録してほしかった。

 次の"It's Johnny's Birthday"は、わずか49秒の短い曲。曲というよりは、お遊びで歌っている感じだった。ザ・ビートルズの元ロード・マネージャーのマル・エヴァンスがクリフ・リチャードの曲"Congratulation"を替え歌にしている。

 3曲目はすぐに始まる。この"Plug Me In"というタイトルの曲では、ジョージとエリック・クラプトン、それにデイヴ・メイソンの3人のギター・バトルが3分18秒間繰り広げられている。
 最初はジョージが、次にデイヴ・メイソン、最後がエリックという順番だろう。ただ、これも3分余りでは非常にもったいない気がした。できれば、もう少し拡張してほしかったと思ったのは自分一人ではないだろう。

 次の"I Remember Jeep"の“Jeep”とは、当時のエリックの飼っていた愛犬の名前のようだ。
 曲はジョージが操作するムーグ・シンセサイザーで始まり、続いてシャッフル調の曲に移る。8分余りの曲だが、リード・ギターはエリック・クラプトン、ベースはクラウス・ヴアマン、そしてドラムはあのジンジャー・ベイカーだった。

 エリックのギターがフィーチャーされていて、ジョージのアルバムというよりは、エリック・クラプトンのソロ・アルバムに入れてもおかしくない。ピアノはビリー・プレストンが担当していて、当然のことながら、ノリのよい演奏を聞かしてくれる。

 ただ曲の途中から後半に向けて、ジョージの操作するムーグ・シンセサイザーのピコピコ音やサウンド・エフェクトが目立ってきて、調和を乱している。
 あくまでもジャム・セッションだったからいいものの、曲として完成させるためには、もう少しアレンジが必要だろう。

 3曲目の"Plug Me In"の続編にあたるのが、最後の曲"Thanks For The Pepperoni"だろうか。時間も5分31秒とやや長めだった。
 セッション・メンバーは"Plug Me In"と同じで、ギター・ソロもジョージ、デイヴ・メイソン、エリック・クラプトンになっていて、この曲ではデイヴ・メイソンのギター・ソロが目立っている。

 残念なのは、この曲もエンディングがブチッと切られていて、最後まで完奏されていない点だろう。ちょっとでもいいからもう少し長く演奏してほしかったし、あるいは曲として完成させてほしかった。

 確かにジャム・セッションだからといえば、その通りなので、多少は我慢するしかないのだが、レコードの1枚目や2枚目には珠玉の名曲ぞろいなので、セッションについても頑張ってほしかった。

 今となっては想像するしかないが、このセッション風景を見たかったと思う。映像で残っていれば、まさにプレミアものだろう。いや、プレミア以上のものに違いない。歴史的な映像記録になるだろう。

 それはともかく、ジョージ・ハリソンとエリック・クラプトンとは、ザ・ビートルズの"While My Guitar Gently Weeps"でも共演しているから、親交も厚い。たとえクレジットはなくても、お互いのアルバムでは演奏しているし、ミュージシャン同士の情報交換もあったに違いない。

 だからデラニー&ボニーのことや、彼らをバックアップしているミュージシャンのこともイギリス人ミュージシャンに知れ渡ったのだろう。
 前回も書いたけれど、エリック・クラプトンがデラニー&ボニーのことを知ったのもジョージ・ハリソンもしくはデイヴ・メイソン経由だと思われる。

 ジョージの「オール・シングス・マスト・パス」の場合は、特にアメリカ南部のサウンドを意識して制作したわけではない。ドミノスのメンバーを連れてきたのは、間違いなくエリック・クラプトンだろう。

 ただ、ジョージの心の中にはザ・ビートルズの束縛から逃れて自由に表現活動ができるという喜びがあり、その歓喜からボブ・ディランを始め、様々な英米のミュージシャンとの交流を図ったのだろう。その成果がこのアルバムの中の"Apple Jam"の中に収められているのだ。George_harrison_all_things_
 そして、エリック・クラプトンがレコーディング中のメンバーを連れてきたにしても、結果的にジョージは彼らの参加を認め、レコード1枚を使って自分たちの演奏を記録として残そうとした。
 結局、元の話に戻るのだが、それほど当時のデラニー&ボニーを始めとするアメリカ人ミュージシャンの影響力は高かったということだろう。

 次回は、同じような活動をしたもう一人のイギリス人を紹介したいと考えている。

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2017年10月 9日 (月)

デラニー&ボニー(1)

 前回の「デイヴ・メイソン」編で、デイヴ・メイソンもアメリカ南部の音楽に惹かれて、アメリカに行って活動を行っていたという話を書いた。しかも、エリック・クラプトンよりも以前にアメリカで活動をしていたというから、ある意味、先見の明があったとも記した。

 逆に言うと、クラプトンの方がデイヴ・メイソンの行動を参考にしていたのかもしれない。彼とクラプトンとは同じギタリストとしても交流があったからだ。
 いずれにしても、クラプトンよりも以前にアメリカで活動していたイギリス人の有名ミュージシャンがいたというのは、自分にとっては少々ビックリする話だった。

 そして、この2人のギタリストが共通して親交を持ったアメリカ人ミュージシャンが、デラニー・ブラムレットとボニー・ブラムレットのおしどり夫婦ミュージシャンだったのである。
 それで、そんなに影響力のあったミュージシャンだったのかどうかを検証するために、家にあるCDラックから2枚のアルバムを引っ張り出して聞いてみた。以下、その感想である。

 最初に聞いたアルバムは、1969年に発表された「オリジナル・デラニー&ボニー」だった。このアルバムの表には"Accept No Subtitle"という文字があって、これがこのアルバムのタイトルだと思っていた人もいたようだ。81ycvq0l1hl__sl1018_
 全10曲だが、全体的にブラスが施されていて、曲によってはストリングスも被せられていた。当時は、こういう楽曲群をスワンプ・ロックといっていたらしい。
 でも沼から立ち上がる瘴気のようなものは感じられずに、逆に渋くてディープなR&Bテイストを持った曲が並んでいる。

 1曲目のタイトルが"Get Ourselves Together"というのが、いかにもこの時代の空気を反映している。曲の雰囲気としてはそんなに重くはなくて、ライトであっさりしている。片意地張らずに気楽に聞けるし、これくらいの距離感を持った方が物事はうまくいくような気がする。

 次の曲"Someday"も夫婦2人のデュエットを聞くことができる。デュエットだけではなく、コール&レスポンスの掛け合いも迫力がある。彼らの歌を聞いて白人とは思えなかったとアレンジャーのジミー・ハスケルが言っていたが、確かにこれはアイク&ティナ・ターナーが歌っていますと言われても疑うことはできないだろう。

 3曲目の"Ghetto"のバックのピアノは絶対レオン・ラッセルに違いないし、次の"When the Battle is Over"のそれは、ドクター・ジョンだろう。曲を作ったクレジットには、“マック・レベンナック”とあったが、これはドクター・ジョンの本名であるマルコム・ジョン・レベンナックのことだからだ。

 5曲目の"Dirty Old Man"ではボニーが独唱している。バックのコーラスにはリタ・クーリッジが加わっているようだ。
 ボニーの声は迫力があって、まるでダイナマイトのようだ。昔の日本の歌手に朱里エイ子という人がいたが、彼女のような声質をもったティナ・ターナーのようだ。アレサ・フランクリンほどはブラックではないけれど、それでもダイナミックであることは間違いないだろう。

 逆に、"Love Me A Little Bit Longer"では、旦那のデラニーがメインで歌っている。デラニーもいい声をしていると思う。
 この曲と次の"I Can't Take it Much Longer"はつながっているようで、前の曲のアンサー・ソングのようだ。

 そして忘れられない名曲が"Do Right Woman"である。アレサ・フランクリンも歌ったこのバラードは、傷ついた心に染みわたっていくビタミン剤のようなもの。ストリングスも美しいし、ボビー・ウィットロックの弾くピアノも素晴らしい。この曲を聞くために、このアルバムを購入しても間違いないだろう。何度でも聞いてみたい曲でもある。

 一方、ピアノが跳ね上がっているのが"Soldiers of the Cross"だ。このアップテンポの曲はトラディショナルらしいが、後半は"This Little Light of Mine"というゴスペル曲とメドレーになっている。

 そして最後を飾るのが"Gift of Love"という3分に満たない小曲で、この曲と"Dirty Old Man"は、デラニーとマック・ディヴィスが作っている。
 マック・ディヴィスという人は、エルヴィス・プレスリーとも共演したミュージシャンで、齢75歳というのに、いまだに現役で活躍している人でもある。

 また、このアルバムのバック・ミュージシャンも今から考えればとんでもない人も含まれていた。また、このアルバムが起点となって、デレク&ザ・ドミノスが結成されて「いとしのレイラ」が生まれ、一部のミュージシャンはジョージ・ハリソンの「オール・シングス・マスト・パス」に参加した。81oe34cxfpl__sl1156_
 まさらには、レオン・ラッセルやリタ・クーリッジなどは、のちにソロとしても成功している。チャート的には、175位と全く振るわなかったが、そんなものを超越した楽曲の素晴らしさと歴史的な意義を含んでいるのだ。

 今回聞き直してみて、あらためてこのアルバムの素晴らしさに感動した。なぜもっと早く気がつかなかったのだろうか。我ながら恥ずかしいし、自分の無能さを思い知った。こういう隠れた名盤をもっと紹介しないといけないと思うのだが、自分自身が気づいていないというのが問題である。

 あのザ・ビートルズのジョージ・ハリソンが彼らの素晴らしさに気づき、アップル・レコードと契約してアルバムを発表しようとしたところ、すでに彼らがエレクトラ・レコードと契約していたことを後になって知ったという有名なエピソードがある。
 そして、アップル・レコードでは、彼らのカタログ番号がいまだに残っているそうだ。未発売に終わった彼らのアップルでのアルバムは、レア盤として高値で取引されているという。

 エリック・クラプトンが彼らのことを知ったのも、ジョージ・ハリソン経由だろう。あるいはデイヴ・メイソン経由だったかもしれない。また一説によると、クリーム時代から彼らの存在を知っていたというが、時期的に少し合わないようだ。
 いずれにせよ、クラプトンはこのアルバムを作ったデラニー&ボニーと一緒に音楽活動をしたいと思ったのだろう。

 だから、ブラインド・フェイスのアメリカ公演では彼らをオープニング・アクトとして起用しているし、ブラインド・フェイスが解散した後は、ソロとして彼らと活動を共にするのである。
 それが記録されたのが、1970年に発表された「オン・ツアー・ウィズ・エリック・クラプトン」だった。71clgkokm5l__sl1123_
 このアルバムには、1969年12月7日のクロイドン公演の様子が収められていて、非常にエネルギッシュでダイナミックな当時のライヴの様子を堪能できるものになっている。

 何しろメンバーがすごい。ギターにエリック・クラプトンとデイヴ・メイソン、ベースやドラムスは、のちにデレク&ザ・ドミノスのメンバーたち、ブラスにはのちにローリング・ストーンズと一緒に活動したボビー・キーズやジム・プライスが加わっていた。

 また、違う公演ではジョージ・ハリソンも一緒にステージに上がって演奏している。このままのノリで「オール・シングス・マスト・パス」のレコーディングに臨んだのであろうか。とにかく豪華なメンバーだ。

 このアルバムの意義は、2つある。1つはデラニー&ボニー2人のスタジオ盤とライヴ盤の違いである。スタジオ盤では確かに迫力はあるものの、どこかゆったりとした雰囲気が漂っていた。レイド・バックというのだろうか。
 しかし、ライヴ盤では終始ファンキーでアゲアゲ、しかもボニーの方は、あのアレサ・フランクリンに優るとも劣らないパワフルでエネルギッシュなボーカルを聞かせてくれているのだ。

 やはりデイヴ・メイソンやエリック・クラプトンなどが惚れこんだだけはある。自分が言うのも変だが、彼らの眼力は間違っていなかった。デラニー&ボニーはそれだけの実力を備えていたのである。このライヴ・アルバムがそれを証明していた。

 もう1つは、このアルバムの持つ歴史的な意義だろう。上にも記したように、この時期の主な歴史的アルバム、例えば「オール・シングス・マスト・パス」や「いとしのレイラ」、「アローン・トゥギャザー」、「スティッキー・フィンガーズ」、「マッド・ドッグス&イングリッシュメン」などには、共通したミュージシャンが関わっているが、その主なメンバーは最終的にはこのデラニー&ボニーのライヴ・アルバムから派生している。71jgjteegil__sl1226_
 そういうミュージシャンの交流関係とか流れなども頭に入れて聞いてみると、このアルバムの影響力の凄さも分かるのではないだろうか。

 このアルバムは42分少々と、今のCDから考えれば短いのだが、それでも彼らの魅力は十分すぎるほど詰まっている。
 1曲目の"Things Get Better"はスティーヴ・クロッパーとエディ・フロイドの曲で、デラニー&ボニーの1969年のアルバム「ホーム」に収められていた。
 もうこの曲から彼らの魅力が爆発しており、聴衆は一挙に興奮のるつぼへと叩き込まれてしまう。

 2曲目の"Poor Elijah"はロバート・ジョンソンに捧げられた曲でメドレー形式になっている。途中でクラプトンのソロが紹介され、彼のギターがフィーチャーされていた。相変わらずこの時期の彼の演奏は惹きつけるものを持っている。

 次の曲はデイヴ・メイソンの曲"Only You Know And I Know"で、彼のアルバム「アローン・トゥギャザー」にも収められていた彼の代表曲。もちろんここでのギター・ソロはデイヴ・メイソンである。

 "I Don't Want to Discuss it"はファンキーなロックン・ロール・ナンバーで、ジェイムス・ブラウンなんかがやりそうな曲だ。途中のギター・ソロはクラプトンだろう。今では聞けないソリッドなギター・ソロをやっている。

 一転して渋いバラードになる"That's What My Man is For"では、ボニーのボーカルがフィーチャーされていて、ブルーズとゴスペルの両方の影響が伺われる曲に仕上げられている。この曲を聞けば、彼女のボ-カルはもっと評価されていいと思う人は多いはずだ。

 6曲目の"Where There's A Will, There's A Way"ではボビー・ウィットロックのボーカルも聞くことができる。この曲がボビーとデラニー&ボニーの3人で書き上げられている。
 また、途中でジム・ゴードンのドラム・ソロやクラプトンのソロも含まれている。アップテンポのロックン・ロールで気持を高ぶらさせて、次の曲"Coming Home"へとつながっていく。

 この曲はクラプトンとデラニー&ボニーが作ったもの。この曲もノリのよいロックン・ロールで、最後のブラス・セクションとの絡みがカッコいい。まさに白熱したステージングである。この時のライヴは映像化されているらしいのだが、現在では絶版となっていて入手困難のようだ。

 このアルバムの最後には、もう1つリトル・リチャードのメドレーが収められていて、約5分45秒にわたって、"Tutti-Frutti"や"Long Tall Sally"など計4曲が披露されていた。メンバー紹介も行われているので、おそらくライヴでのアンコール部分だろう。

 このアルバムには観衆のざわつきや拍手はもちろんのことMCまで含まれているので、ライヴの臨場感を味わうことができる。まさに貴重で歴史的なアルバムだろう。
 これは蛇足になるが、記録として残すという意味では、アメリカでは29位、イギリスでは39位になっていた。

 そしてこの当時の彼らのライヴを収めた豪華4枚組セットも存在する。これにはジョージ・ハリソンの演奏も含まれているという。さっそくアマゾンで購入してしまった。機会があれば、近いうちに紹介してみようと思っている。Delaneyandbonnie3
 デラニーは1939年生まれ。子どもの頃からブルーズやR&Bに傾向し、17歳で海軍を除隊後、音楽活動を始めた。1968年頃にボニーと出会い、出会って1週間で結婚し、デラニー&ボニーとして活動を始めた。

 ボニーの方は、1944年生まれの現在72歳。11月で73歳になる。彼女もゴスペルを聞いて育ち、5歳で教会などで歌っていた。12歳で本格的にプロ・デビューし、リトル・リチャードやアルバート・キング、アイク&ティナ・ターナーのバックで歌っていた。

 彼らはベスト盤を含む8枚のアルバムを残すものの、1972年に離婚して、デュオも解消した。2人とも音楽活動を続けたが、ボニーの方は女優としても活躍している。
 デラニーは2008年の12月に胆のう手術後の合併症のために亡くなった。享年69歳だった。Img_1_2
 彼らの娘のベッカ・ブラムレットは、1994年から95年にかけてフリートウッド・マックに一時在籍していたことは、すでにこのブログの中で紹介している。

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2017年10月 3日 (火)

デイヴ・メイソン(2)

 70年代は、デイヴ・メイソンにとっては黄金期だった。特にレコード会社を移っての1973年から1980年までは、どのアルバムも話題性に富み、セールス的にもよかった。

 また、70年代の後半にイーグルスやドゥービー・ブラザーズのようなバンドや、J.D.サウザーやジャクソン・ブラウンのようなシンガー・ソングライターの影響で、ウエスト・コースト・サウンドというものが台頭してきた。

 また、A.O.R.(アダルト・オリエンティッド・ロック)と呼ばれる心地よい、あるいは毒にも薬にもならないような“ニュー・ウェイヴ・オブ・ソフト・ロック”みたいな音楽も人気を博していた。
 “ニュー・ウェイヴ・オブ・ソフト・ロック”とはもちろん私個人の造語であって、そんな言葉はどこにもない(はずだ)。新しい時代のソフト・ロックという意味で、要するに、耳に心地よい楽曲のことである。

 この“ウエスト・コースト・サウンド”と“A.O.R.”の両方を目指していたのが、70年代のデイヴ・メイソンだったような気がする。
 もちろん、これは本人に聞いたわけではないので個人的な憶測なのだが、意図的かどうかはわからないけれども、結果的にはそういう音楽になってしまったので、これはやはり本人が、その結果を了承したと考えても間違ってはいないと思う。

 しかも時代に沿った音楽だったから、商業的にも成功した。こういう結果も、彼にとっては自信につながったに違いない。

 そして、この時代のデイヴ・メイソンを代表するアルバムを2枚だけ紹介しようと思う。なんで2枚なのかというと、だって2枚しか持っていないからである。

 これは個人のブログなので、恣意的な意見になるのだけれども、できればデイヴ・メイソンには「アローン・トゥギャザー」のようなアメリカ南部の影響の濃い音楽を追及してほしかった。

 時代に敏感なのは現役ミュージシャンとして必要な感覚だし、売れることは決して悪くはないのだけれども、元トラフィックとしての経歴や、ジミ・ヘンドリックスやジョージ・ハリソンとのレコーディング等の実績を考えれば、もっと玄人肌のギタリストとして活躍してほしかったというのが、正直な気持ちなのだ。

 まあしかし、それはあくまでも周囲の声の一つだし、あくまでも決めるのは本人である。結果的には、この当時の彼の活躍が正当に評価されて今に至っている。当時のアルバムが今でもCDで入手できるのも、70年代の彼の活躍があったからこそだろう。

 それで最初の1枚は、1975年の「スプリット・ココナッツ」である。これはもうアルバム・ジャケットを見ただけで、どんな音楽かが想像できるようなものだった。619s78ynr3l
 実は前年のアルバム「デイヴ・メイソン」はかなり評判が良くて、アルバムのチャートでも25位まで上昇していた。
 メイソン自身の曲もよかったし、それ以上に以前からライヴでも演奏されていたボブ・ディランの"All Along the Watchtower"やサム・クックの"Bring it on Home to Me"などのカバー曲も秀逸だったからだ。

 それで「スプリッツ・ココナッツ」を発表したのだが、結果的には、そんなに良い評価を得られたわけではなかった。
 音楽的には前作よりももっとファンキーでソウルフルになっているが、全体的には性急な音作りになっているようだった。

 まず最初の"Split Coconut"はファンキーなリズムが強調されていたし、次の"Crying, Waiting&Hoping"はバディ・ホリーの曲だが、ここではレゲエ調にアレンジされていた。
 このアルバムではベーシストがジェラルド・ジョンスンというアフリカ系アメリカ人に代わっていたが、メイソンの意図を汲んでの交代劇だったのだろう。

 3曲以降は、まさにウエスト・コースト・サウンドかつA.O.R.路線の曲が並んでいる。耳には心地よいのだが、ロック的なインパクトには欠けている。決して非難しているわけではないし、車でのドライブのお供には最適な音楽だと思うのだが、もっとギタリスト、デイヴ・メイソンというものを前面に出してほしかった。

 ただ、"She's A Friend"にはデヴィッド・クロスビーとグラハム・ナッシュが参加していて美しい歌声を聞かせてくれるし、"Save Your Love"ではディープでブラックなギター・ソロを聞くことができる。昔流行った“チョッパー・ベース”も耳にすることができる。ただ、エンディングのギター・ソロはカットしないで、もう少し長く流してほしかった。

 続く"Give Me A Reason Why"は哀愁のあるメロディラインで、このアルバムの中でも注目に値する。ここでのリード・ギターはバンドメイトのジム・クリューガーが演奏している。

 ジム・クリューガーは以前からデイヴ・メイソンのバンドで活動していて、メイソンと袂を分かった後も、西海岸でセッション・ミュージシャンとして活躍した。 
 1978年にはソロ・アルバムも発表したが、1993年に心筋梗塞で亡くなった。43歳だった。約18年間にわたってデイヴ・メイソンと一緒に活動してきて、このアルバムや次のアルバム「流れるままに」では彼の演奏や作った曲を聞くことができる。

 7曲目の"Two Guitar Lovers"とは、もちろんメイソンとジム・クリューガーのことを指している。そして曲の中でも2人のギター・ソロというか、爽やかなギターの絡みを聞くことができる。右チャンネルがジムで、左チャンネルがメイソンのようだ。

 次の"Sweet Music"はタイトル通りのポップでスウィートな曲だ。しかし、デイヴ・メイソンは、よくこんなポップな曲をかけるなあと感心してしまった。ただ、ギターよりもジェイ・ウィンディングのキーボード・ソロが目立っていると思う。

 そして最後の曲が"Long Lost Friend"である。最後の曲に相応しくギター・ソロが強調されていて、ギタリスト好きにはたまらないだろう。もちろん時代は“ソフト&メロウ”だったから、パープルやゼッペリンのように弾きまくっているわけではないけれども…

 「流れるままに」は1977年に発表された。「スピリット・ココナッツ」との間には2枚組ライヴ・アルバム「ライヴ~情念」が発表されていたので、スタジオ盤としては2年ぶりの作品になった。61aygvnynyl
 アルバムはいきなり"So High(Rock Me Baby And Roll Me Away)"というタイトルの曲から始まるのだが、これがまた明るくてトロピカルな雰囲気になっている。
 この曲は、のちにシングル・カットされていて、チャートの89位になった。どうせならほかの曲の方がよかったと思うのだが、どうだろうか。

 そして2曲目に名曲"We Just Disagree"が流れてくるのだが、これがバンドのギタリストであったジム・クリューガーの書いた曲なのである。これだけの曲がかけるのだから、やはり才能のあるミュージシャンだったのだろう。彼の早すぎた死が悔やまれてならない。
 ちなみに、この曲もまたシングル・カットされて、12位まで上昇した。デイヴ・メイソンの曲の中では最大のヒット曲になったわけである。

 このアルバムには捨て曲が見当たらない。それほどどの曲もレベルが高い。そしてアレンジも素晴らしくて、それぞれの曲に相応しい味付けがされている。

 3曲目の"Mystic Traveler"もそんな曲で、ストリングス・シンセサイザーを始め、ハープやホーンの音までが絶妙なブレンドで合わせられている。ムーディーでありゴージャスなのだが、逆に、基本のメロディラインを目立たせているところが素晴らしい。

 "Spend Your Life With Me"はまるでエンターテイナーの世界だろう。フランク・シナトラが歌ってもおかしくないだろう。途中のサックスがアダルトな雰囲気を高めてくれる。

 逆に、おしゃれでファンキーなのが"Takin' the Time to End"で、少しアレンジを変えればジャミロクワイが歌ってもおかしくない曲だ。やはりこういう曲が書けるデイヴ・メイソンは、才能豊かなのだ。

 6曲目が一部アルバム・タイトル曲にもなっている"Let it Go, Let it Flow"で、これも売れそうなポップ・ソングだ。シングル・チャートでは45位まで上昇した。
 続く、"Then It's Alright"もまたホーン・アレンジが施されていて、曲調を高めていた。オーヴァー・プロデュースになりそうな微妙なところなのだが、結果的にはよかったみたいだ。

 昔はこのアルバムは華麗すぎて好きになれなかったのだが、今聞けばそれなりの工夫が曲ごとに施されているのが分かってきて、なるほどなあと納得してしまった。デイヴ・メイソンもそれなりに考えたのだろう。

 8曲目の"Seasons"も爽やかなハーモニーが美しい曲だ。クレジットを見ると、スティーヴン・スティルスと当時はエリック・クラプトン・バンドに所属していたイヴォンヌ・エリマンが参加していた。どうりで美しいわけだ。

 また、このアルバムの特徴だけれども、デイヴ・メイソンの弾くギターの音は、軽くて輝いていて、変な言い方だけれど、まるでハワイアン・ソングのように聞こえてくる。
 一音一音がきれいにピッキングされていて、粒が際立っているように聞こえてくる。変なエフェクターを使っていなくて、ナチュラルなトーンを大切にしているのだろう。

 逆に、"You Just Have to Wait Now"でのギター・ソロでは、少しだけオーヴァードライヴかディストーションをかけているようだが、そんなに嫌味にならないのがよい。アルバムに統一感を持たせているのだろう。3分6秒と短い曲だった。

 そしてアルバムの最後を飾るのは、"What Do We Got Here?"という、これまた後期ドゥービー・ブラザーズのような曲だった。ストリングスやサックスが部分的に被さってくるのだが、それがブラックな感触を与えてくれる。マイケル・マクドナルド的音楽を導入したのだろうかと邪推してしまった。

 このアルバムが売れないわけがないだろうということで、チャート的には最高位37位だったものの、アルバム・チャートには49週間留まっている。ほぼ1年間チャートに顔を出していたというわけだ。

 メイソンはその後、マイケル・ジャクソンやフィービー・スノウなどとアルバムで共演を果たすものの、話題性はあったがヒットには結びつかなかった。Davemason
 フリートウッド・マック脱退後は、ソロで活動していて、DVDや過去の作品のセルフ・カバー・アルバムなどを発表している。また、以前よりは回数は少なくなったものの、今でもデイヴ・メイソン・バンドとともにライヴ活動を行っているようだ。

 実力や才能はあるものの、過小評価されているギタリストだと思っているが、本人にはあまり物欲や名誉欲はないのかもしれない。もう十分満たされていると思っているのだろう。今後も「流れるままに」活動していくに違いない。

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2017年10月 2日 (月)

デイヴ・メイソン(1)

 デイヴ・メイソンというミュージシャンほど過小評価されている人は、いないと思う。というか、1970年代の後半は知名度、人気ともに抜群だったのだが、80年代以降はアルバムを発表する機会が減り、音楽シーンの第一線から遠ざかっていった。

 だから、彼が1995年にフリートウッド・マックのアルバムに参加したと聞いて、少し驚いたのである。彼ほどの知名度と実力があれば、ソロでも新しいバンドでも活動できると思ったからだ。

 むしろ、フリートウッド・マックの残党と組んで、新しいバンドを結成してほしかったと思っている。その音楽的方向性は、フリートウッド・マックの系統を受け継ぐものの、それプラス、ブルーズ・ロックや南部サザン・ロック風のレイド・バックした音楽をやってほしかったのだ。

 デイヴ・メイソンは、今年で71歳になった。エリック・クラプトンが72歳になっているから、ほぼ同時期のギタリストといってよいだろう。0ad5d3a8ed06800d8aa408721d7e94a8
 そういえば70年代には、この2人はよく比較されたものだった。両者には共通点が多かったからだ。英国人であり、ギタリスト、そして途中まではほぼ同じような音楽的なキャリアを経験している。

 例えば、クラプトンはクリームやジョン・メイオール&ザ・ブルーズブレイカーズなどのバンド活動を経験してソロになったが、メイソンの方もトラフィックというバンドを出たり入ったりしながら、ソロ活動を開始し、クラプトンよりも早くアメリカに渡って、現地のミュージシャンとコラボを始めた。

 考えようによっては、クラプトンはデイヴ・メイソンの活動の軌跡を追っているようだった。それに人気も当時はほぼ同じようなものだったし、むしろクラプトンの方がアルコールとドラッグに溺れていて、1974年の「461オーシャン・ブールヴァード」が成功しても不安定な要素は絶えず付きまとっていた。

 一方、デイヴ・メイソンの方は、1970年に初めてのソロ・アルバム「アローン・トゥギャザー」を発表した後、所属していたレコード会社ブルー・サム・レーベルから最終的に訴えられるなどのトラブルはあったものの、1973年に当時のアメリカ・CBSレコードと契約した。ここから彼の音楽的キャリアが大きく花開き、70年代のメイソンは人気、実力ともにトップ・クラスのミュージシャンと認められていったのである。

 彼は1946年の5月10日に、イギリスのウォセスターに生まれた。子どもの頃から音楽に関心を示し、15歳でバンドを結成して音楽活動を始めるようになった。
 やがて、天才少年と言われていた元スペンサー・ディヴィス・グループのスティーヴ・ウィンウッドと出会い、ジム・キャパルディ、クリス・ウッドとともに伝説的なバンド、トラフィックを結成した。

 しかし、スティーヴ・ウィンウッドとの関係は、いわゆる“両雄並び立たず”の言葉通りにうまくいかず、バンド結成の翌年の1968年に脱退してしまった。
 ただ、セカンド・アルバム制作中やそれ以降のバンド活動には戻って来て、楽曲を提供したり、また脱退したり、ツアーには参加したりと、なかなか落ち着かなかったようだ。

 やはりミュージシャンは、自分の才能を発揮して何ぼという感覚があるのだろう。自分の表現欲求を満足させるためにも、この辺の経緯は彼にとっては必然だったのだろう。
 トラフィックは、元々ウィンウッドのR&Bフィーリングを活かしたサイケデリックなロック・バンドだったから、アメリカの南部のテイストも備えていた。

 それを持ち込んだのもデイヴ・メイソンだと言われているが、結局、彼はその音楽性をもっと追及するために、アメリカへと旅立ち、そこでのミュージシャンと一緒に音楽を作り上げていった。その第1弾が1970年の「アローン・トゥギャザー」だった。

 このアルバムは英国人ミュージシャンによる初めてのスワンプ・ロック・アルバムだと言われていたが、21世紀の今になって聞くと、そんなに泥臭いイメージは少ない。A1xbtcxysll__sl1500_
 これはデイヴ・メイソンの持つ資質の一つだといえよう。彼が加わるとブルーズやR&Bの要素が薄まり、少しロックやポップのテイストが加わってくるのだ。だから、全体として聞くと、非常に聞きやすいロック・ミュージックになってくるのである。

 個人的には、“スワンプ・ロック”というよりは、アメリカ南部の音楽に影響を受けたイギリス人によるロック・ミュージックだろう。
 曲によっては、その後の彼の歩みを暗示させるものもあるし、逆に、彼のルーツを示すようなブリティッシュな雰囲気を湛えたものもある。

 ただ1970年当時に、こういう音楽を作り上げた英国人ギタリストは彼が最初だったことは事実だし、そういう意義においては、歴史的なアルバムといっていいと思う。

 1曲目の"Only You Know And I Know"などは、最初聞いたときはドゥービー・ブラザーズの曲かと思ったほどだ。ノリは良いし、アコースティック・ギターとエレクトリック・ギターの対比も素晴らしかった。
 3曲目の"Waitin' on You"も同様のノリなのだが、バックの女性コーラス隊が艶っぽくて、ソウルフルなのだ。この曲はトラフィックというか、スティーヴ・ウィンウッドが歌った方がより黒っぽくなって適しているのではないだろうか。

 4曲目の"Shouldn't Have Took More Than You Gave"を聞くと、確かにスワンプ・ロックだろうと思う。ピアノはレオン・ラッセルっぽいし、ワウワウのエフェクトを効かせたギターが70年当初の雰囲気を醸し出している。

 それにバラードの2曲、"Can't Stop Worrying, Can't Stop Loving"と"Sad And Deep As You"はとても印象的だった。前者はややアコースティックでカントリーっぽい。ちょうどイーグルスの名曲"Take it to the Limit"を彷彿させる曲だ。後に、なぜ彼がウエスト・コースト・ミュージックに魅かれていったかがよくわかる。

 もう一つのバラード曲"Sad And Deep As You"は、哀愁を誘うバックのピアノ演奏が感涙ものである。ニッキー・ホプキンスが弾いているかと思った。
 もちろん曲自体も陰りを帯びていてなかなかのものである。強いて言えば、もう少し曲に起伏をつけてくれるともっと盛り上がったと思うのだが、どうだろうか。

 このバラードと前述の"Shouldn't Have Took More Than You Gave"は、トラフィックの1971年のライヴ・アルバム「ウェルカム・トゥ・ザ・キャンティーン」にも収められているので、聞き比べてみるのも面白いかもしれない。

 最後の曲の"Look at You Look at Me"は、最初聞いたときはボブ・ディランの"All Along the Watchtower"かと思った。それほど最初の部分が似ていたからだった。そういえば、メイソンはジミ・ヘンドリックスのアルバム「エレクトリック・レディランド」にも参加していたから、その時のことをイメージしたかもしれない。

 それにこの曲の後半の部分のギター・ソロは、エリック・クラプトンが演奏していると言われている。1分以上も延々とソロを繰り広げているし、それにメイソンの弾くようなフレージングではないようだ。
 ただ、このアルバムのクレジットには、クラプトンの名前はなかった。シークレットで参加したのだろう。

 アルバム・クレジットといえば、このアルバムに参加したミュージシャンは凄い。確かに、アメリカ南部のミュージシャンが大勢大挙して押しかけたようだった。

 例えば、ピアノ&キーボードにレオン・ラッセルやジョン・サイモン、ベース・ギターにカール・レイドル、ラリー・ネクテル、ドラマーがジム・ゴードン、ジム・キャパルディ、ジム・ケルトナー、バック・ボーカルにデラニー・ブラムレット、リタ・クーリッジとマイク・クーリッジ、アイク&ティナ・ターナーとも経験のあるクラウディア・レニアー等々、確かに錚々たるメンバーである。

 のちに、エリック・クラプトンもアメリカ南部のミュージシャンと一緒にアルバムを制作したり、ツアーを行ったりしたが、その原型はここにあったのだと思っている。クラプトンもこの時のデイヴ・メイソンの行動を参考にしたのだろう。

 とにかく、このアルバムは好評で、これからシングル・カットされた"Only You Know And I Know"は、ビルボードのシングル・チャートで42位まで上昇した。

 この当時のデイヴ・メイソンはミュージシャンからも頼りにされていたようで、ジミ・ヘンドリックスのアルバムだけでなく、ジョージ・ハリソンのアルバム「オール・シングス・マスト・パス」にも客演しているし、クラプトンのデレク&ザ・ドミノスからも参加要請を受けていた。

 また、キャパルディとクリス・ウッドなどとバンドを結成したり、親友のレイ・ケネディのアルバムにも参加している。

 話は前後するが、プロデューサーのジミー・ミラーとも親しくて、その関係でローリング・ストーンズのアルバムにもノン・クレジットで演奏したり、また、イギリスのバンド、ファミリーのデビュー・アルバムにも楽曲を提供していた。この70年前後はかなり忙しくしていたようだ。

 ただ、上にも書いたように自分の求めようとする方向性とレコード会社が要求する音楽性が一致せず、メイソンは会社から訴えられてしまった。よほど自体が紛糾したのだろう。

 最終的には、彼はこのレコード会社に4枚のアルバムを残している。「アローン・トゥギャザー」と「デイヴ・メイソン&キャス・エリオット」、「ヘッドキーパー」、「デイヴ・メイソン・イズ・アライヴ」の4枚で、最後のアルバムはライヴ盤だった。

 “キャス・エリオット”というのは、もちろん元ザ・ママス&ザ・パパスの女性ボーカリストのキャス・エリオットだ。ふたりのデュエット・アルバムという企画ものだった。
 このアルバムは企画ものというせいか、アコースティックで爽やかなアルバムに仕上げられている。曲もなかなかのものだし、一聴に値するだろう。

 また、「ヘッドキーパー」もスタジオ盤とライヴ盤の2枚組アルバムという企画だった。できれば、コンパクトにまとめてスタジオ盤1枚にした方が売れると思うのだが、この頃のメイソンはレコード会社と係争中だったから、そんなにもうけさせてやらないぞという気持ちが出ていたのかもしれない。

 しかも4枚目もライヴ・アルバムだったし、やはりレコード会社移籍の方が気になっていて、ほとんどやる気がなかったのだろう。契約消化のためのライヴ・アルバムだったに違いない。91l2ltxlvyl__sl1500_
 しかし、その問題も1973年までは片付いて、彼はアメリカ・CBSレコードと契約を結び、目指す音楽が詰まったアルバムを本格的に発表できるようになったのである。

(To Be Continued to Tomorrow)

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2017年9月26日 (火)

90年代のフリートウッド・マック(2)

 90年代のフリートウッド・マックは、6人編成だった。基本的な構成において、ギタリストが1人から2人に増えたからだ。
 そして、90年代の前半では、そんなに有名ではないが玄人肌のギタリストが配置されて、それなりに売れていた。特に、ライヴにおいてはどこに行ってもソールド・アウトだった。

 この時期のアルバム「ビハインド・ザ・マスク」については前回述べたが、全盛期のマックのアルバムと比べても、そんなに遜色はなかったと思う。少なくとも今年発売された「リンジー・バッキンガム/クリスティン・マクヴィー」よりはロックしている。

 むしろ、ややブルーズ色が表に出ようとしているかのようで、それが従来のソフトでポップなマックの色合いと微妙に交じり合っていて、いい感じだった。
 人によってはカントリー・フレイバーを感じたかもしれないが、そんな傾向は強くなくて、確かに"When The Sun Comes Down"はカントリー・ポップ・ソングだったが、それ以外はあまり強く感じられなかった。

 ただ、ギタリストが2人もいるのに、そのカラーがあまり出ていなかった。もう少し交互にギター・ソロを入れるとか、リックのスライド・ギターをフィーチャーした曲を入れるとかすれば、もっと印象に残り、チャート・アクションももっと伸びていったのではないかと思った。
 
 要するに、せっかくのメンバー・チェンジが活かされていない。従来のマック路線を踏襲しようとするあまりに、自らバリケードを築いてしまったかのようだった。ファンは新生マックの姿を待望していたのではないだろうか。もう少し冒険してもよかったのではないかと思っている。

 それで、前回からの続きである。ギタリストのリック・ヴィトーとスティーヴィー・ニックスが脱退して、新メンバーが2人加入したというところで終わっていたので、今回はその続きである。

 スティーヴィー・ニックスの代わりに加入したのが、ベッカ・ブラムレットだった。名前を見ればわかるかもしれないが、60年代の後半から70年代にかけてエリック・クラプトンとともにアルバムも制作したことがあるアメリカ人ミュージシャン夫妻のデラニー&ボニー・ブラムレットの娘である。

 彼女はロッド・スチュワートなどのミュージシャンのバック・ボーカルとして経験を積んでいて、1992年にはミック・フリートウッドのプロジェクト・バンドのアルバム「シェイキング・ザ・ケイジ」では見事なボーカルを披露していた。

 ベッカは1968年生まれだったので、フリートウッド・マックに加入したときは、25歳だった。それに歌のうまさだけではなくて曲も書けたので、バンドにとっては都合がよかったようだ。

 彼女は若くて美人だったから、ファンの間ではたちまち有名になり、人気になっていった。スティーヴィー・ニックスが脱退したときは45歳だったから、やはり若い方が受けがいいのは昔も今も変わらないし、洋の東西を問わないらしい。

 そして、ギタリストのリック・ヴィトーの代わりに加入したのが、元トラフィックのギタリストだったデイヴ・メイソンである。
 もうすでに名前は世界中に知れ渡っていて、今更バンドに加入しなくてもよさそうなものだが、旧知の知り合いであるミック・フリートウッドの頼みなら仕方ないということで参加したようだ。Fleetwoodmac_1995_1

 ただ、バンドには加入したものの、デイヴ・メイソンの意識としては、あくまでも“助っ人”という感じで、お手伝い、ヘルパーだった。恒久的なメンバーとしてともに活動するという感じでは最初からなかったようだ。

 この時、デイヴは47歳。確かにまだまだ現役選手として活躍できる年齢だった。70年代や80年代ではかなりの枚数のソロ・アルバムを発表していて、それなりにヒットした曲やアルバムもあったが、90年代に入ってからはあまり彼の活動は聞かれなくなっていた。

 そういう意味では、再び脚光を浴びるには良い機会になったに違いない。ミックやジョン・マクヴィーとはほぼ同年代だったから、気心も知れていただろうし、やりやすかったに違いない。

 面白いことに、この6人はアルバムを発表する前に、ライヴ活動を行い、発表後はライヴ活動を行っていない。普通は、ニュー・アルバムをプロモーションするために、アルバムを発表してからツアーに出るのだが、彼らはアルバムを発表する前にライブ活動を行っていた。日本にも1995年の4月に来日して演奏を行っている。

 そして、新生マックのニュー・アルバム「タイム」は、1995年の10月に発表された。上に書いたように、このアルバムのプロモーション・ライヴ活動は行われていない。

 ちなみに、1995年のライヴを東京の新宿厚生年金会館で見た人の話によると、ライヴの曲は昔の"Oh, well"から黄金期の"Don't Stop"、"Go Your Own Way"、それにトラフィックやデイヴ・メイソンのソロまで披露されたという。もちろん自分の曲では、デイヴ自身が歌っていたのは言うまでもない。

 また、ライヴではクリスティン・マクヴィーが不在となるので、女性ボーカルはベッカだけだったが、彼女はそれをものともせずに、彼女なりに堂々と"Gold Dust Woman"を歌い切り、それだけでなく他のマックの歌も自分の持ち歌のように、ステージ上を元気よく走りながら歌っていたという。
 さらには、ジェレミー・スペンサーも同時期に来日していて、23年振りの共演を果たしたというおまけまでついていた。当日の聴衆はさぞかし喜んだに違いない。

 それで6人制マックとして発表したアルバムが1995年の「タイム」だった。そして結論から言えば、このアルバムは見事にコケてしまった。4127atrfc0l
 全13曲のうち、クリスティン・マクヴィーが5曲、デラニー・ブラムレットとベッカの親子曲が1曲、ビリー・バーネットの曲が2曲、デイヴ・メイソンの曲も2曲、ベッカとビリーの共作が1曲、カバー曲とミック・フリートウッドの曲が1曲ずつという構成で、これはフリートウッド・マックのアルバムとして聞くよりも、まったく別のバンドのアルバムとして聞いた方が新鮮に聞こえるのではないかと思う。

 アルバム冒頭の曲は"Talkin' to My Heart"というビリー・バーネットの曲で、テンポのよい軽快な曲だった。途中からベッカのボーカルが絡んでくるところがよい結果を生んでいる。

 2曲目は"Hollywood"という曲で、ボズ・スキャッグスの曲とは同名異曲だ。サビの部分が非常にメロディアスで覚えやすい。なぜこの曲をシングル・カットしなかったのだろうか。

 3曲目は"Blow By Blow"という曲名で、もちろんジェフ・ベックとは関係はない。デイヴ・メイソンの曲で、メイン・ボーカルも本人である。バックの女性コーラスがソウルっぽい雰囲気を生んでいる。

 4曲目は超ポップな"Winds of Change"で、これはキット・ヘインという女性ミュージシャンのカバー曲だった。彼女はジュリアン・マーシャルとデュオを組んでいたのだが、それが分裂してソロになった。歌っているのはもちろんベッカ・ブラムレットだ。

 5曲目の"I Do"はクリスティン・マクヴィーの曲で、これまたシングルに相応しい曲だった。実際にカナダではシングルで発売されて、チャートの62位まで上昇している。これをヒットと呼ぶかどうかは、微妙なところでもある。

 このアルバムが売れなかったのは、シングルヒットがなかったことであり、それはとりもなおさずレコード会社のプッシュが足りなかったからでもある。
 デッカ・ブラムレットは無名でも、デイヴ・メイソンの方は有名だし、“フリートウッド・マック”というブランド名もあるので、アルバムはそれなりに売れるだろうと思っていたのではないだろうか。

 "Nothing Without You"はデラニーとデッカの親子の作品で、70年代のデラニー&ボニーの曲を聞いているような感じがした。

 "Dreamin' the Dream"はビリーとベッカの共作で、涼しげなアコースティックのバラード曲になっている。バックはストリングスとビリーの演奏するアコースティック・ギターだけで、逆にベッカのボーカルの美しさが目立つ佳曲でもある。

 "Sooner or Later"は、クリスティンの曲で、ダークな別れの曲でもある。クリスティンの凄さは明るい曲はポップでノリがよく、暗い曲は本当に悲しくなるほど情感が込められているところだろう。

 "I Wonder Why"はデイヴ・メイソンの曲で、70年代後半のデイヴを象徴するようなポップでリズミカルな曲だ。途中のベッカの絡みが何となくスティヴィー・ニックス風に聞こえてくるところが“フリートウッド・マック”というブランド名の強さでもある。
 それにデイヴ・メイソンのギターはブリティッシュ・ロック出身の割にはカラッと乾いていて、それがアメリカ西海岸の音楽にマッチするのだろう。

 続く"Nights in Estoril"も軽快な曲で、こちらはクリスティンの曲だった。これもシングル・カットされたらヒットするだろうなあという曲でもある。こういう曲があまり日の目を見ずに埋もれているのはもったいないと思うのだが、誰かリバイバル・ヒットさせてくれないかなあ。

 結構ハードな曲がベッカ・ブラムレットが単独で書いた"I Got it in For You"で、バックのスライド・ギターはビリーが、ノーマルなエレクトリック・ギターはデイヴが弾いているのだろう。この辺はなかなか良いギター・アンサンブルだと思う。Photo
 "All Over Again"もクリスティンの曲で、アルバムの最後を飾る場合や、映画のエンド・ロールに相応しいバラード曲だと思う。ただ残念ながら、このアルバムでは12曲目に配置されていて、最後ではない。

 その最後を飾っているのは、何とミック・フリートウッドが歌っている"These Strange Times"である。正確に言うと、歌っているのではなくて、語り(ナレーション)を入れているだけである。
 7分7秒もある大作で、しっかりとしたリズムの上に、ベッカのバック・コーラスとストリングス・キーボード、エレクトリック・ギターが色どりを添えている。曲を作ったのはミック・フリートウッドと、シンガー・ソングライターのレイ・ケネディだった。

 レイ・ケネディは、ザ・ビーチ・ボーイズやザ・ベイビーズのために曲を書いたり、デイヴ・メイソンの「流れるままに」の中の"Seasons"も作ったりしていた。残念なことに、2014年の2月に急死している。享年68歳だった。

 ミック・フリートウッドは、自身のミュージシャン生活の中で、3曲を書いている。1曲は1969年のアルバム「ゼン・プレイ・オン」に、もう1曲は1977年の「噂」の中に、そして3曲目がこの曲"These Strange Times"だった。ただし、「噂」の中の"The Chain"は、当時のメンバー5人全員による共作だった。

 とにかく、このアルバムは、フリートウッド・マックのイメージをまとったロック・アルバムだった。もう少しビリーとデイヴが協力しながら骨っぽい音楽を作れば、また違う結果になったに違いない。

 あるいはベッカ・ブラムレットとビリー・バーネットの共同制作アルバムとして発表すれば、もっと好意的に受け入れられたのではないかと思う。

 結局、このアルバムはイギリスでは47位まで上がったが、本国アメリカではベスト200位以内にも入ることはできなかった。良い曲がかなりあったにもかかわらず、200位以内にも入らないというのが摩訶不思議だった。話題にも上がらなかったのだろうか。

 アルバム発表後、1年もたたないうちにベッカ・ブラムレットとビリー・バーネットはフリートウッド・マックを脱退した。
 彼らがスティーヴィー・ニックスやリック・ヴィトーと違うところは、実際に2人でアルバムを制作してしまった点だろう。1997年に「ベッカ&ビリー」というアルバムを発表したが、取り上げられることは少なかった。

 逆に、同年にはリンジー・バッキンガムとスティーヴィー・ニックスがバンドに復帰して、フリートウッド・マックは再び黄金期のメンバーになり、さらなるスタジオ盤やライヴ活動を続けていくようになった。

 彼らのディスコグラフィーの中では、極めて評価の低いアルバムになったが、個人的にはそんなに悪いアルバムだとは思っていない。

 フリートウッド・マックのアルバムとして聞かなければ、かなり上質のアメリカン・ロック・ミュージックになっていると思う。思い込みや偏見が判断を誤らせてしまう良い実例アルバムなのかもしれない。

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2017年9月25日 (月)

90年代のフリートウッド・マック(1)

 本当はフリートウッド・マックの話題でここまで引っ張るつもりはなかったのだけれど、「バッキンガム&ニックス」の紙ジャケ・アルバム発表から始まって、リンジー・バッキンガムとクリスティン・マクヴィーのスタジオ・アルバムに影響されて、80年代のマックのアルバムを紹介してしまった。

 それで今回は一区切りつけようと思って、90年代の彼らのアルバムを紹介しようと思う。この時代のマックは、あまり知られていないと思ったからだ。

 物語は、1987年の「タンゴ・イン・ザ・ナイト」発表後から始まった。このアルバムは個人的には大好きで、前作の「ミラージュ」よりもよく聞いたものだ。
 だいたいジャケットからして魅惑的だったし、曲も"Big Love"、"Seven Wonders"、"Little Lies"、"Mystified"などなど、70年代の「噂」などと比べても決してそん色はないと思っていた。513ynii4ctl
 もちろん商業的には成功したものの、チャート的には前作の結果に至ることができずに、ビルボードでは7位に留まっている。
 この結果にやや失望したのが、リンジー・バッキンガムだった。基本的にこの頃のマックでは、リンジーがイニシアティブを握っていてアルバム制作を行っていたのだが、このアルバムに関しては、彼はかなりの精力を注いで念入りに取り組んでいた。

 ところが、アルバムは売れたものの、チャート的には3週間7位に留まり、それ以上は上昇することはなかった。
 結局、リンジーはこれが限界と思ったのか、マックでの仕事に見切りをつけて、本格的にソロ・キャリアを追及するようになってしまったのである。

 のちに彼は、このアルバムの商業的な結果には満足したが、もっと売れると思っていたと語っていることから、おそらく「ファンタスティック・マック」や「噂」と並び称されるアルバムになると思ったに違いない。

 また、ミック・フリートウッドの自伝によると、スティーヴィー・ニックスとの激しい口論などで、この頃のリンジーはかなり疲弊していたようだ。それでバンド活動に息苦しさを覚えていたリンジーは、飛び出すように出ていったという。

 それで、リンジー・バッキンガムの代わりにバンドに加入したのが、ビリー・バーネットとリック・ヴィトーの2人だった。リンジーひとりの代わりにふたりのギタリストが加入したという事実が、如何にリンジーの才能が豊かで、バンドにとって必要不可欠なミュージシャンだったかがわかる。

 しかし、ビリーもリックもそれなりに経験も能力もあるギタリストだった。ビリー・バーネットは、加入した時点ですでに8枚のアルバムを発表しているテネシー州メンフィス出身のギタリストだった。

 父親や叔父もミュージシャンだったし、彼自身もグレッグ・オールマンやロイ・オービソンなどに曲を提供していた。また、クリスティン・マクヴィーの1984年のアルバム「恋のハート・ビート」ではクリスティンとも曲作りを行っていた。
 それに、ミック・フリートウッドのアルバム「アイム・ナット・ミー」にも参加しているし、そういう意味では、フリートウッド・マックの参加はすんなりと決まったのだろう。

 リック・ヴィトーの方もジョン・マクヴィーと親交があり、1976年のジョン・メイオール&ブルーズブレイカーズのアルバム「バンケット・イン・ブルーズ」で共演している。
 また、ボブ・シーガーの「ライク・ア・ロック」やジャクソン・ブラウンのアルバム「愛の使者」、ボニー・レイットの「グリーン・ライト」などにも参加していて、ミュージシャンの間では名の通ったギタリストだったようだ。

 彼らがバンドに加入したいきさつは、ビリーがリックも一緒じゃないと嫌だと言ったからで、最初に声がかかったのはビリーの方だった。
 リックはスライド・ギターの名手として知られていて、ツイン・リードとスライドをバンドに活かそうと思ったのかもしれない。また、リックの方が3歳年上という事情も配慮したのだろうか。

 あるいは、60年代のようなブルーズを基調とした音楽性も追求しようと思ってバンドに加入したのかもしれない。確かにリンジーが去って、そういう可能性もないわけではなかったからだ。

 彼らが参加したアルバム「ビハインド・ザ・マスク」は、1990年に発表された。正確に言えば80年代最後のアルバムなのだが、ことの成り行き上、90年代に繰り上げてカウントしようと思う。81lsuzupqql__sl1425_
 このアルバムの評価は分かれていて、微妙である。チャート的にはアメリカでは18位という結果に終わったが、イギリスでは1位になっている。
 シングル・カットされた"Save Me"は軽快でノリのよい曲だったが、アメリカでは33位、イギリスでは53位だった。唯一、カナダでは7位と好成績だった。

 次にカットされた曲は"Skies the Limit"で、アルバムの冒頭に配置された曲ということで、これまたクリスティン・マクヴィーの手によるものである。80年代のマックの流れを汲んだようなミドル・テンポのメロディアスな曲だったが、結果的には、ビルボードのシングル・チャートで40位に終わっている。

 ヨーロッパでは、"In the Back of My Mind"がシングルとして発表された。ビリー・バーネットの曲で、7分もある大曲だった。ある意味、新境地を開くような曲でもあり、ミックの呟くような語りからビリーのギターとクリスティン・マクヴィーとスティーヴィー・ニックスのバッキング・ボーカルがフィーチャーされている。

 個人的には90年代の"I'm So Afraid"になるかもしれないと思っていたが、そうはならなかった。もう少しギターが目立っていたら売れたと思うのだが、時代はそういうギター・ソロを求めなくなっていったし、ましてやソフトでポップなロックに転換したフリートウッド・マックには必要なかっただろう。

 また、リック・ヴィトーとスティーヴィー・ニックスの共作曲である"Love is Dangerous"もシングル・カットされたが、見事にコケてしまった。リックのスライド・ギターとビリーのリード・ギターが絡み合って、これまた個人的には好きだったのだが、ビルボードのシングル・チャートの100位内に入ることはなかった。

 リックとスティヴィーはもう1曲"Second Time"という曲でも共作していて、アルバムの最後を締めくくるにふさわしいしっとりとしたバラード曲になっていた。
 一方で、スティヴィーはトム・ペティのバンド、ハートブレイカーズのマイク・キャンベルとも"Freedom"という曲を作っていて、こちらはリズミカルでテンポのよい仕上がりだった。この頃のスティヴィーはマイクと付き合っていたのだろう。

 ともかく、ビリーとリックはこのアルバムにかなり貢献していて、全13曲のうち8曲にソングライターとして関わっている。
 この2人だけで作った曲が"When The Sun Goes Down"で、軽快なカントリー・タッチの雰囲気に満ちている。

 またリックひとりで書いた曲"Stand on the Rock"もあり、リック・ヴィトーのボーカルがフィーチャーされている。スティーヴィー・ニックスが歌った方がパンチが効いて、ヒットしたかもしれない曲だ。要するにハードな感じなのだが、ボーカルの線が細いので、強く印象には残らなかった。

 ちなみに、アルバム・タイトル曲の"Behind the Mask"には、なぜかリンジー・バッキンガムがアコースティック・ギターで参加している。この辺の事情はよく分からない。喧嘩別れとまでいかなくても、そんなに好ましい事情で脱退したわけでもない。それでも参加するというのが、フリートウッド・マックのミュージシャンシップなのだろう。

 アルバムはそんなに売れなかったけれど、ツアーは連日超満員でソールド・アウト、イギリスでもアメリカでも彼らの人気は凄まじかった。150907_4535328899992_15859720_n
 ただ、クリスティン・マクヴィーは彼女自身の飛行機恐怖症とツアー中に父親が亡くなったせいで、バンドを脱退すると宣言した。(のちにこれを撤回し、レコーディングには参加するものの、ツアーには不参加と変更している)

 ところが、ここでまた問題が起きた。なぜかギタリストのリック・ヴィトーとスティーヴィー・ニックスがバンドを脱退したのである。
 スティヴィーはクリスティン・マクヴィーと同じように、レコーディングには参加するもののツアー不参加を申し出ていたのだが、1991年にリックと去ってしまったのだ。この頃はリックと付き合っていたのだろうか。

 でも、リックとスティーヴィー・ニックスがふたりでアルバムを作ったという事実はなくて、スティヴィーはソロ・キャリアを追及し、リックはブルーズ・ロックという原点に戻っている。
 のちに彼は、ミック・フリートウッドのサイド・プロジェクトのバンドに参加して、クラシックなブルーズを披露していた。

 1993年になると、今度はビリー・バーネットの方がカントリー・アルバムを作るなどのソロ・キャリアを追及するためにバンドを脱退すると発表したが、カントリー・シンガーのベッカ・ブラムレットと元トラフィックのギタリストだったデイヴ・メイソンが加入するとわかると、翌年にはバンドに復帰した。
 この辺の変わり身の早さは、フリートウッド・マックのメンバーになるための重要な資質の1つかもしれない。

(To be Continued to Tomorrow)

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