2012年5月23日 (水)

ザ・フー(2)

 ザ・フーもモッズの元祖などと言われているけれども、それは初期のイメージだけであって、実際の彼らには、そういう意識はなかったらしい。1964年に初代のマネージャーだったピーター・ミーデンという人がモッズと関係があって、彼ら4人をハイ・ナンバースと名づけ、モッズ・バンドとして売り出したのだった。

 彼らはその年の7月にフォンタナ・レコードよりデビュー・シングルを発表するも、ライヴでの人気とは逆に売れ行きはパッとせず、契約を解除され、マネージメントを変えて翌年の1月にザ・フーとして"I Can't Explain"を発表した。ここから彼らの栄光の歴史が始まったのである。
 だから彼らをモッズ・バンドと考えるのは早計かもしれない。ただそう思われたのは1973年のアルバム「四重人格」や1979年の映画「さらば青春の光」の影響ではないだろうか。

 彼らはその暴力的なステージングと批評的で深遠な歌詞のせいで、一躍、怒れる若者の代弁者的な扱いを受けるようになった。それもまたピート・タウンゼンドの戦略だったのだろうか。

 戦略的といえば、彼らは好んでロック・オペラと呼ばれる作品を発表している。同じイギリスのバンドのキンクスも1968年から連続してロック・オペラというトータル・アルバムを発表しているが、ザ・フーの方がアイデア的には先に試みている。(1966年の2枚目のアルバム「ア・クィック・ワン」の後半部分)

 本格的な彼らのロック・オペラは1969年の4枚目のアルバム「トミー」である。このアルバムは全英2位、全米4位と商業的にも成功し、このアルバムの成功のおかげで自信を持ったのか、彼らは次回作以降もロック・オペラ的な作品を発表しようとしたのである。

 この「トミー」はまさに彼らザ・フーの代表作といってもいいアルバムで、1975年に映画化、1993年にはミュージカルの本場ニューヨークのブロードウェイで上演され、トミー賞ではなくトニー賞5部門を受賞している。また日本では2006年にミュージカル化されている。かくのごとくこのアルバムは、発表から40年近くたっても繰り返し映画や舞台化されるほど、人をひきつける魅力を持った作品なのだ。5
 自分はライヴ映像などでその一部を見聞したことはあったが、アルバムを通して真面目に向かい合って聞いたのは大学生になってからだった。はっきりいってピンとこなかった。エルトン・ジョンが歌った"Pinball Wizard"やティナ・ターナーで有名な"The Acid Queen"、ロジャー・ダルトリーが熱唱する"I'm Free"などの有名曲は知っていたからよかったが、他の曲はやはり“オペラ”と標榜されているだけあって、全体を通しては繰り返し聞きたいとは思えなかった。

 主人公のトミーはある事件のせいで、見えない、聞こえない、話せないという三重苦になるのだが、両親は彼の病気を治そうといろいろと苦労を重ねていくというストーリーであり、その過程で彼は救世主として崇め奉られたり、逆に信奉者から見捨てられたりするのだが、これはピート・タウンゼンドの体験と心象風景から生まれたものなのだろう。

 自分はザ・フーのロック・オペラといわれる作品には疎いせいか、どうしても好きになれなかった。前回紹介した「フーズ・ネクスト」も、もとはといえば“ライフハウス”というタイトルのロック・オペラになるはずだったのだが、途中で計画が頓挫してしまい、結局アルバム1枚だけになってしまった。逆に1枚に凝縮されたせいか、このアルバムが彼らの最高傑作という評価につながったのだろう。

 1973年に発表された「四重人格」も彼らの代表作のひとつで、これもまた全英、全米ともに2位という素晴らしい結果を出しているアルバムだった。

 アルバム「トミー」をさらに豪華に、精密に仕立てた作品で、確かにロックの可能性を広げたという意味では評価できるであろう。また「トミー」よりもコーラスやブラスなどが工夫されて、ワンランク・アップの演奏を堪能することができるのも素晴らしい。

 舞台は1965年のロンドンで、ジミーという少年に四重人格の症状が表れるのだが、この四重人格はもちろんバンドのメンバーのことを象徴しているし、ジミー少年の行動もまたピート自身の体験や当時の彼らの置かれた状況から生まれたものである。6
 このアルバムからも"The Real Me"、"5:15"、"Drowned"、"Love, Reign O'er Me"などの有名曲が生まれていて、その後のライヴでもたびたび演奏されているのだが、ザ・フーの魅力はワイルドな演奏という固定観念が自分の中にあるので、こういう形式美に則ったアルバムは、確かに名盤とは思えるものの、どうしても好きになれなかった。

 当時の彼らはマネージャーとの確執や、度重なるツアーでの疲労、アルバム制作での重圧などかなりハードな状況を迎えていた。また“年をとる前に死んでしまいたい これが俺たちの時代だ”と歌っていたことに対して、ピート自身もまた答えを探していたのだろう。ある意味、彼のリハビリとしての結果がこのアルバム制作につながったと見てもいいのではないだろうか。

 キース・ムーンが亡くなった後、元スモール・フェイセズのケニー・ジョーンズをドラマーに迎えてアルバムを発表するが、ここから先のザ・フーはオリジナルとは別物だと思っている。そのケニー・ジョーンズもザ・フーを離れた後は、リンゴ・スターの息子のザック・スターキーがサポートをする。ザックのドラミングについてはキースが手ほどきをしたから、むしろこの方がバンドに合っていたのかもしれない。

 実は自分の大好きなアルバムは、1988年にバンド結成25周年を記念して発売されたベスト・アルバム「フーズ・ベター、フーズ・ベスト」なのである。
 全19曲、ほとんどシングル・カットされたもので、デヴィッド・ボウイもカバーした"Anyway, Anyhow, Anywhere"から初期の名曲"The Kids are Alright"、72年の25枚目のシングル"Join Together"などいずれも彼らの魅力がぎっしりと詰め込まれている。7
 1965年の"My Generation"から1981年の"You Better, You Bet"までほぼ彼らの活動歴を網羅しているし、シングル中心とはいえ、不思議とアルバムに統一感もある。
 やはり自分の固定観念は変えられなかったようで、ザ・フーとくれば妙に難しいアルバムよりも、ロック本来のパワフルでソリッドなノリのよさを楽しめるものが自分にはピンと来るのであった。

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2012年5月18日 (金)

ザ・フー

 初めて聞いたザ・フーのアルバムは、「フーズ・ネクスト」だった。このアルバムは1971年に発表されていて、彼らの最高傑作という内容の記事を雑誌で読んだ事があったので、購入して聞いてみた。70年代も終りの1979年ごろのお話である。

 自分のイメージとしては、ザ・フーといえばロックン・ロール・バンド、あるいはライヴ・バンドというものが定着していたので、1曲目"Baba O'Riley"のシンセサイザーのフレーズが聞こえてきたときは、驚くと同時に奇妙な違和感を覚えてしまった。これがロックン・ロール・バンドの音楽なのか?2
 今となってはこの曲の持つ評価には納得ができるのだが、当時はテクノ・ミュージックやミニマル・ミュージックに先駆けた画期的な曲ということが理解不能だったし、シンセサイザーなんて演奏したこともなかったから、“シークエンスフレーズをループさせる”とか言われても、自分にとっては異次元の言語のようなもので、何のことかさっぱりわからなかった。

 ただ、"Getting in Tune"、"Behind Blue Eyes"、"Won't Get Fooled Again"など確かにメロディラインもハッキリしている曲もあり、悪いアルバムではないと、自分のような田舎の感性の鈍い少年にも理解はできた。また、モンタレー・ポップ・フェスティバルやウッドストック、ワイト島フェスティバルなどでのライヴ映像は目にしたことがあったので、あのど派でな演奏とクールなシンセ演奏が結びつかなかったのかもしれない。

 もともとこのアルバムは“ライフハウス”というコンセプト・アルバム、彼らの言葉で言うと、ロック・オペラになる予定だった。ところがそれでは売れないと判断したレコード会社からの圧力からか、はたまた自らの構想が壮大すぎたのか、ピートはこの企画を断念し、1枚のアルバムにまとめたのである。それが「フーズ・ネクスト」だった。
 このアルバム構想の内容については、いろんな人が述べているのでここでは詳細を省くが、要するに個人主義が糾合され、連帯した人たち(=ファン)とミュージシャンとの相互交流を描くというものであった。

 いずれにしても自分とザ・フーの最初の出会いは、あまり幸福なものではなかったようだ。その後、ザ・フーとは離れていき、ジェスロ・タルと深く関わりあうようになってしまうのである。

 それはともかく、次のザ・フーとの出会いは「フー・アー・ユー」だった。このアルバムは1978年に発表されていて自分はやや遅れて聞いたのだが、ただこの出会いは自分から求めてというよりは、ドラマーのキース・ムーンがドラッグの過剰摂取で亡くなったという不幸な知らせに接したからで、ある意味、追悼という意味で購入して聴いたのである。だからアルバムの内容というよりは、一種の思い出のアルバムのようなものになってしまった。4
 彼らの曲はほとんどギタリストのピート・タウンゼンドが手がけているが、時にベーシストのジョン・エントウィッスルの書いた曲もアルバムに1曲くらいはあって、「フーズ・ネクスト」では"My Wife"、「フー・アー・ユー」では"905"や"Trick of the Light"で、自分は結構ジョンの書いた曲は好きなのである。特に"Trick of the Light"はピートの曲より躍動感があって大好きだった。

 また"New Song "や"Sister Disco"では、当時の音楽の主流だったパンクやディスコ・ミュージックに対するザ・フーの回答になっていて、彼らの潔さというか、生涯一ロックン・ローラーとしての決意が格好よかった。だからこのアルバムでは彼らの音楽性よりもピートの書いた詞や時代に対峙する姿の方に心が動かされた気がする。

 自分はザ・フーとは現在から過去に遡るかのように次々とアルバムを聞いていったようだ。1975年に発表された7枚目のアルバム「ザ・フー・バイ・ナンバーズ」は、ジョン・エントウィッスルの描いたアルバム・ジャケットが面白かったので聞いたのだが、シンセサイザーがフィーチャーされていないせいか、自分にとっては好印象の内容だった。5
 "Squeeze Box"は初期の彼らのシングルのようにポップで、逆に"Slip Kid"や"However Much I Booze"、"Dreaming From the Waist"などはライヴで映えるような曲だった。

 ピート自身はこのアルバムをあまり評価していないようだが、ニッキー・ホプキンスも参加した"They Are All in Love"や、意外にもロジャーのソウルフルな声が楽しめる"Imagine A Man"のようなバラード曲もよくて、自分にとってはお得な買い物をした気分だった。全体としてあっさりとしているのが、逆によかったのかもしれない。この辺からザ・フーって結構いけるじゃんと思い始めたのだった。
(To Be Continued)

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2012年5月13日 (日)

レイ・デイヴィス

 なぜか自分のCDラックにはレイ・デイヴィスのソロ・アルバムが1枚だけある。これは当時の雑誌のアルバム・レヴューを読んで、よさそうに書かれていたので購入したからだ。2006年に発表された「アザー・ピープルズ・ライヴズ」というタイトルのアルバムだった。

 アルバムの帯には“キンクスのレイ・デイヴィス、初のソロ・アルバム”とあったのだが、レイは、1998年に「ストーリーテラー」というアルバムを発表している。あれはソロ・アルバムではなかったのだろうか。それともセルフ・カヴァーでライヴ作品だったからソロ・アルバムとはカウントしなかったのだろうか。

 レイは、当時は(そしておそらく今も)ロンドンとアメリカのニューオーリンズに住んでいて、本人談では“マスウェル・ヒルを出てから自分の居場所にしっくり来たのは初めて”というまさに理想郷ともいえる場所で、制作されたアルバムでもあった。

 ニューオーリンズというからには、さぞかしジャズやブルーズの影響を受けているのではないかと思ったりしたのだが、一聴した限りは全くそんな事はなく、キンクスのときよりもしっかりとしたボーカル・スタイルを楽しむことができるし、一曲一曲がよく練られているようで、タイトな音作りになっている。Photo

 日本盤ボーナス・トラックを入れて全13曲、キンクスのようなトータル・アルバムではなくて独立した曲群で占められている。このアルバム制作時のレイは62歳。全然年齢を感じさせない声と巧みな曲作りは健在で、聞いていくとついつい引き込まれてしまう。

 特に2曲目の"After the Fall"や6曲目の"Run Away From Time"にはレイの迫力あるボーカルを味わうことができる。とても60を過ぎた人とは思えない力強さである。また聞きようによっては、ストーンズのキース・リチャーズのような声質をしている。素面のときのしっかりしたキースのようだ。
 また11曲目の"Stand Up Comic"は英米流のコメディアンになったかのように、早口でまくしたてていて、まるでラッパーのように歌っている。

「俺は本当にひどく落ち込んでいた
そして今回は以前より立ち上がるのが
難しかった
俺は天国や目の前に見える光景に
向って叫んだ“助けてくれ”
すると“いや無理だ”という返事が
返ってきた

落ち込みが終わったあとは
おまえは自分の道を歩むだろう
奴らはこの戦場のような場所では
片付けるべき難破船だ
奴らには償うべき時間が多い
だけど暗くなったら
ここから身を隠した方がいい

厳しい冬の間は
おまえは恐れを感じている
だけど霧が晴れたら
太陽は再び輝きだすだろう」
("After the Fall" 訳;プロフェッサー・ケイ)

 疾走感のあるノリノリのロックン・ロールはさすがに演じていないのだが、それを上回るほどのソングライティングとボーカルなのである。キンクスのアルバム発表の予定はないけれど、今年で68歳になるとはいえ、この調子ならまだまだあと数枚はいけると思うのだが、どうだろうか。

 ある評論家が、レイはポール・マッカートニー並みの作曲能力を持っていると言っていたが、それはどうかなと思うものの、確かにポールと比較の対象になってもおかしくはない能力はあると思う。キンクスのほとんどの曲は彼の手によるものだし、アルバム・プロデュースも自分で行っている。
 確かイギリス王室から勲章ももらったと思うのだが、それくらいイギリスの文化や経済に貢献したということだろう。

 偏屈で変人ともいわれているレイであるが、ニューオーリンズのどこかで、ファンを驚かすような企画を考えているのかもしれない。

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2012年5月 8日 (火)

キンクス(2)

 1971年に発表されたアルバム「マスウェル・ヒルビリーズ」を、彼らの最高傑作アルバムと推す人もいるが、自分はそうは思えなかった。あまりにもアメリカ志向が強すぎて、とても彼ら本来の姿ではないと思ったからだ。

 1曲目の"20th Century Man"はスライド・ギターが目立つし、2曲目の長いタイトル"Acute Schizophrenia Paranoia Blues"ではブラス・サウンドがフィーチャーされて、まるでディキシーランド・ジャズとブルーズが融合したような感じだった。続く"Holiday"もバンジョーやアコーディオンが隠し味となって、レイ・デイヴィスのアメリカン・ミュージックへの憧憬がにじみ出てきているとしかいいようがないアルバムだった。4
 確かに悪いアルバムではないし、アメリカ南部の音楽が好きな人にはたまらないサウンドだと思うのだが、個人的にはちょっとニュアンスが違うと思った。

 マスウェル・ヒルとは兄のレイ・デイヴィスと弟でギタリストのデイヴ・デイヴィスが生まれ育った場所の名前で、アルバム・ジャケットにあるパブも実在するものだという。

 この場所で6人姉妹と2人兄弟の計8人+両親の10人家族で育ったレイは、生まれたときから音楽好きな姉や両親に囲まれていた。家族の愛情を一心に受けていたのだが、3年後に弟デイヴが生まれてからは、彼らの関心は末っ子に移っていった。彼ら兄弟の仲が悪いのも、幼い頃の兄弟関係のトラウマが原因だという人もいる。

 またレイヴンズというバンドを結成したのは弟のデイヴの方だったし、それに後から便乗する形で兄のレイが参加してキンクスが結成されたという経緯があった。弟からすれば、後から来て何を勝手なことを、という憤りみたいなものもあったに違いない。

 のちに彼ら兄弟が移動する飛行機も別なら泊まるホテルも別になったというのも、様々なささいなボタンのかけ違いが大きくなって、結局そうなってしまったのだろう。兄弟というのは仲がいいときは本当に美しいけれど、一旦仲違いが始まると徹底して嫌いあうから始末に終えない。流れている血がほぼ同じようなものだから、トコトン排除してしまうのだろう。困ったものである。

 ところでこの「マスウェル・ヒルビリーズ」は、当時のRCAレコードに移籍しての最初のアルバムでもあった。60年代の後半から彼らはトータル・アルバムを制作していたのだが、レコード会社を移籍してもこの傾向は変わらず、むしろ一層拍車をかけるかのように次々とその手のアルバムを発表していった。

 あくまでも個人的な趣味なのだが、自分の好きなアルバムは、アリスタ・レコードに移籍した最初のアルバム「スリープウォーカー」である。まさに原点回帰というか、ロックンロールの楽しさと、ソリッドでシャープな彼らの音楽性が戻ってきた感があるからだ。5
 ここでのデイヴのギターは見事だし、はっきりいってこんなに上手だったかなあという気がしないでもないのだが、とにかくどの曲も彼のギターはカッコいいのである。また4曲目のバラード"Brother"は涙なくしては聞けない。“2人でやっていけばうまくいく”というのはレイからデイヴに向けたメッセージなのだろうか。後半のコーラスやギターの盛り上げ方が素晴らしい。

 やはりロックはこうでないといけない。トータル・アルバムもいいが、音楽よりもアルバムの主張性に縛られてしまい、音楽が主なのか、思想性が主なのかはっきりしなくなる。時として共倒れになってしまうし、音楽が付け足しになってしまって、せっかくの内容やミュージシャンの才能が埋もれてしまう場合もある。

 だからキンクスは演劇志向もいいのだけれど、原点回帰というか、やはりこの「スリープウォーカー」のようなロックンロールを演奏してほしいと願っている。

 このアルバムが出たときは、まさにパンク・ロックの嵐だったが、キンクスは逆にモッズ再評価のブームを受けて、イギリスではストーンズとは全くの逆の立場になり、パンクの元祖とまで謳われるようになった。しかし、不思議なことに彼らはアメリカに留まったまま、イギリスに帰ろうとはしなかった。
 そして翌1978年には「ミスフィッツ」、79年には「ロウ・バジェット」とヒット作を連発していくのである。

 そしてもう1枚好きな作品を挙げるとなると、1970年の「ローラ対パワーマン、マネーゴーラウンド組第1回戦」である。いわゆるトータル・アルバムなのだけれど、シングル・ヒットもあり、音楽的に聞きやすくポップであり、内容的にも充分刺激的だった。3
 当時のデイヴの心象風景がそのまま描かれていて、特に当時のマネージャーだった人の暴利を貪る姿を描くところは、まさに英国流ブラック・ユーモア(というよりも暴露合戦か)でもある。

 自分は遅れてきたキンクス・ファンであり、彼らの作品を充分味わっているとは言い難い。むしろ半分以上は知らないだろう。自分にとって彼らの音楽がよく分からなかったのも、トータル・アルバムが多かったせいなのかもしれない。しかしそんな自分をもひき付けてくれる彼らの音楽は、やはりロックの歴史に残るような素晴らしいものなのだ。

 1996年以降、キンクス名義のアルバムは発表されていないけれど、正式に解散は表明されていない。できればもう1枚ノリノリのロックンロール・アルバムを発表してほしいものである。

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2012年5月 3日 (木)

キンクス

 日本で最も知名度の低いブリティッシュ・3大ロック・バンドといえば、キンクス、ザ・フー、ジェスロ・タルと言われてきた。確かにこの3つのバンドは、本国では有名で人気も高いのだが、70年代の日本ではマイナーで、コアなロック・ファン以外は、誰も見向きもしなかった。あるいは見向きもしても、進んで彼らのアルバムを購入しようとする人は少なかったし、少なくとも自分の周りには誰もいなかった。

 そんな自分がジェスロ・タルに目覚めたのが1978年で、ザ・フーをまともに聞いたのが、1979年頃だったように思う。しかし残りのキンクスにはさっぱり触手が動かなかった。

 彼らの興味を持ち始めたのは、ヴァン・ヘイレンが"You Really Got Me"をヒットさせたあとだった。この曲はそれまでラジオなどから流れていたのを聞いたことがあったので名前ぐらいは知っていたのだが、オリジナル・ヴァージョンを聞くまでには至らなかった。なにせ1964年に発売されたものだし、その頃はまだ赤ん坊だったから聞いても理解不能だったろう。

 初めて彼らのアルバムを買ったのは、1980年に発表されたライヴ・アルバム「ワン・フォー・ザ・ロード」だった。これは彼らの1979年の全米ツアーを収めたもので、初期のヒット曲"Stop Your Sobbing"から"Lola"、"Victoria"、当時の最新アルバムだった「ロウ・バジェット」からの"Attitude"など、彼らの魅力がたっぷりとパッケージされたものだった。Photo
 ここから逆に彼らの歴史を振り返るようになり、パイ・レコード時代のベスト・アルバムや1968年の「ヴィレッジ・グリーン・プリザヴェイション・ソサイエティ」などを購入した。

 でも残念ながら、ベスト・アルバムはシングル中心で、彼らのシングルは自分にとっては当たり外れが大きかったから、ベスト盤とはいいながらイマイチ好きになれなかった。
 また「ヴィレッジ・グリーン・プリザヴェイション・ソサイエティ」は、その名の通り牧歌的でフォーク調だった。"You Really Got Me"とは対極をなす曲群で占められていて、ちょっと期待ハズレだった。自分はソリッドでワイルドなものを求めていたのである。6

 キンクスはこの1968年から大作志向を取り始め、いわゆるロック・オペラ的なトータル・アルバムを制作するようになった。これはリーダーであるレイ・デイヴィスの意向であるが、彼の中に大衆演劇好みの血が流れているからだろうか。
 だから翌1969年に「アーサー、もしくは大英帝国の衰退ならびに滅亡」、1970年には「ローラ対パワーマン、マネーゴーラウンド組第1回戦」などの傑作を発表した。

 しかし前者の「アーサー、もしくは大英帝国の衰退ならびに滅亡」は前年に発表されたザ・フーのロック・オペラ「トミー」の二番煎じと見なされ、商業的には成功しなかったし、後者のアルバム「ローラ対パワーマン、マネーゴーラウンド組第1回戦」にはシングル・ヒットを記録した"Lola"、"Apeman"などが収められていたせいか、久しぶりにヒットするもののなぜか日本ではほとんど話題にもならなかったらしい。やはりタイトルが長すぎたからか、それとも内容的にとっつきにくかったせいだろうか。2

 大雑把に言って、キンクスは初期のビート・バンドの時代と、60年代後半から70年代初期にかけてのトータル・アルバムの時代、70年代後半以降のロックンロール・バンド時代の3つに分けられると思っている。第1期がパイ・レコード時代、第2期がパイ・レコードの後半とRCAレコードのとき、そして第3期がアリスタ・レコードに移籍した以降の時代にあたる。

 キンクスは1965年の全米ツアーのときに、暴力事件やツアーの遅刻などを行ったせいで、4年間アメリカ興行禁止という処分を受けてしまう。その腹いせというか鬱憤晴らしという意味もあったのではないか、レイは自分の趣味であるトータル・アルバム志向とアメリカへの郷愁を込めた音作りを求めていったように思える。だからフォーク調の「ヴィレッジ・グリーン・プリザヴェイション・ソサイエティ」やアメリカ南部のサウンドの匂いがプンプンする「マスウェル・ヒルビリーズ」を制作したのではないだろうか。
(To Be Continued)

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2012年4月28日 (土)

ギャラガー&ライル

 ギャラガー&ライルといっても、多くの人にはあまりピンと来ないのではないだろうか。名前の通りに、彼らは2人組のデュオで、正しい名前はベニー・ギャラガーとグラハム・ライルという。

 実はロニー・レインのことを調べていたら、この2人の名前が出てきたのだ。彼らはロニー・レインがスリム・チャンスを結成したときに、一時ロニーと活動をしていたのである。
 その前の彼らはマクギネス・フリントというバンドに所属していて、バンドの曲のほとんどを手がけていた。(ちなみにマクギネス・フリントは、元マンフレッド・マンのトム・マクギネスと元ジョン・メイオール・ブルーズ・ブレイカーズのヒューイ・フリントの2人が中心となって結成した6人組バンドで1970年にデビューしている)

 ギャラガーとライルは、60年代の終りからソングライター・チームを作っていて、アップル・レコードと契約して、メリー・ホプキンに何曲か曲を提供している。("Sparrow"、"Heritage"など)その後、マクギネス・フリントに加入したのだが、1972年に脱退して、デュオとして活動を始めたのである。

 そんな彼らが1976年に発表した作品が「ブレイカウェイ」だった。彼らにとっては通算5枚目のアルバムにあたるもので、このアルバムのタイトル曲は前年にアート・ガーファンクルがシングル・ヒットさせている。(ちなみにアーティが歌った"A Heart in New York"も彼らの作品である)Photo
 "Breakaway"は、このアルバムでも1曲目に置かれていて、やはりこの曲は耳に馴染んでいるせいか、いつ聞いてもいいと思った。

 このアルバムにはイギリスでヒットした"I Wanna Stay With You"やブライアン・フェリーもカバーした"Heart on My Sleeve"も収められていて、前者はサックスが効果的に使用されていて日本でいうところのシティ・ポップ風であり、後者は軽めのポップ・ソングに仕上げられている。

 その他にもアコースティック調の"Stay Young"、"Fifteen Summers"、プリンスの曲とは同名異曲の"Sign of the Times"などが収められていて、"Sign of the Times"はこのアルバムの中ではハードな印象を与えてくれる。
 さらには軽快な"If I Needed Someone"や"Northern Girl"という曲もあるのだが、もちろんジョージ・ハリソンやボブ・ディランのカバーではなくて、2人のオリジナル曲である。

 全体的には76年という時代を反映してか、シンガー・ソングライター風+AOR的な感じがするのだが、そこは60年代末から頑張ってきたソングライター・チームだけあって、単なるポップ・ソング集では終わっておらず、印象に残るメロディ・ラインとバラエティ豊かな音楽性が詰め込まれていて、何度となく聞きたくなる作りになっている。

 ただ彼らは1979年にはデュオを解消して、それぞれソロ活動を始めた。特にグラハム・ライルはアニタ・ベイカーやシーナ・イーストンなどに曲を提供しており、その中でティナ・ターナーが1984年にヒットさせグラミー賞を受賞した"What's Love Got to Do With It"は、彼の最大のヒット作かもしれない。

 イギリスの70年代後半はパンク/ニュー・ウェーヴ一色という感じだったが、中にはこういう美しいメロディを持ったポップ・ソング・アルバムもあったのである。決して名盤ではないが、忘れてはならないアルバムの1枚ではないだろうか。

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2012年4月24日 (火)

ロニー・レイン&スリム・チャンス

 前回のブログの続きというわけではないのだけれど、スモール・フェイセズつながりで、1973年に同バンドを脱退したロニー・レインのその後について簡単に見てみたい。

 ロニーは、フェイセズ脱退後、自らのバンドを結成した。それがロニー・レイン&スリム・チャンスだった。彼らは1973年に1stアルバム「エニモア・フォー・エニモア」を発表したのだが、これがまた渋い。Photo_3
 前回にも述べたように、スティーヴ・マリオットはスモール・フェイセズをロック寄りにした音楽を目指してハンブル・パイを結成した。一方のロニー・レインは、フェイセズをもう少しアメリカ寄りというか、アメリカ南部のテイストを持ち込もうとしたのだが、黒人音楽の香りはしても、そこまでは徹底できなかった。むしろ徐々にロッド・スチュワートの趣向が反映された音作りになっていったのである。

 だからロニーは、自分の求める音楽をこの1stアルバムに込めて制作したのであろう。フィドルやマンドリンが土の香りを運んでくれる"How Come"からアルバムは始まり、トラディショナルの"Careless Love"、レインのオリジナル曲でサックスがフィーチャーされた"Don't You Cry For Me"と続いている。
 このアルバムに収められている"Tell Everyone"や"Anymore For Anymore"などは、フェイセズ時代に作られた曲だが、ここではまさに自分流の音楽として見事に消化されている。

 レインのオリジナル曲もアメリカ南部志向のためか、トラディショナル曲との差があまりなく、全体に統一感がうかがえる。また6曲目の"The Poacher"はクラリネットの音色が牧歌的な彩りをそえていて、このアルバムの中でもひときわ出来の良さを誇っている。
 またレインの歌声は、どことなくはかなく頼りない。特に高音の部分になるとそれが顕著であり、個人的には不思議とジョージ・ハリソンの印象を与えてくれた。ところどころで聞かれるスライド・ギターがそうさせたのだろう。

 当時のレインは、曲芸師やダンサーなどを引き連れて、まるでサーカスの一団のように、ツアーをしていたと言われている。3枚目のアルバム・ジャケットにはメンバーの後ろに移動式トレーラーが写っているが、それらに乗っては移動していたのだろう。2
 しかしすぐに資金繰りが困難になり、借金がかさんでいった。そのときと相前後するが、ロニーは移動式のレコーディング・ユニットを実用化して、ローリング・ストーンズなどに貸し出している。のちにストーンズも同様のスタジオを所有するようになるのだが、そのアイデアはここから出ているのだろう。

 77年頃からロニーは多発性硬化症という病気を発症し、徐々に運動麻痺を併発するようになった。彼はヘビ毒という民間療法から現代的な骨髄移植まで、ありとあらゆる治療を試したのだが、結局、うまくいかなかった。

 1984年、彼はアメリカのテキサスに移住し、1997年コロラド州のトリニダードで亡くなった。51歳という若さだった。彼は決してメジャーなミュージシャンではなかったけれど、彼をサポートしたミュージシャンにはクラプトンを始めとする一流ミュージシャンが多かった。自分の音楽を追い続けたという意味では、幸せな人生だったのではないだろうか。

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2012年4月20日 (金)

スモール・フェイセズ

 フェイセズの前身バンド、スモール・フェイセズは、今だにイギリス人ミュージシャンの間でも人気が高く、ポール・ウェラーやノエル・ギャラガーなどはその信奉者の代表である。彼らはスモール・フェイセズのオリジナル・メンバーだったスティーヴ・マリオットのトリビュート・アルバムにも参加しているほどなのだ。

 たぶん彼らの幼少期に、ラジオなどを通してスモール・フェイセズの音楽を体験して、その感覚や記憶がその後の彼らの人生を決定したからだろう。それだけの影響力を持つバンドだったのである。

 もちろん自分はリアル・タイムで彼らの音楽を聞いたわけではない。実際に聞いたのは、大人になってからで、それこそ過去にタイム・スリップするかのように後追い体験だった。あるいは40年以上も経った今でも彼らの音楽を語り、演奏し、体験しているミュージシャンやファンの存在が自分をして、そう仕向けさせたのであろう。日本より人口の少ない国で、よくぞここまで豊かな音楽性を醸成できたなあと感心してしまうほどだ。

 スモール・フェイセズは、ブリティッシュ・ロックの黎明期というか、60年代に生まれ、解散したバンドだった。実際の活動期間は1965年から69年のたった4年間である。この4年間の活動が40年以上も影響を与え続けてきたのだ。何と素晴らしいことだろう。

 当時のイギリスの若者には50年代の後半からモッズ・ブームが流行していた。具体的にいうと、デビュー当時のビートルズのような細身のスーツを着て、髪の毛を下ろしたような格好である。(デビュー前のビートルズは、リーゼント頭で革ジャンを着ていたから、実際はモッズではなかった。ひとえにマネージャーのブライアン・エプスタインの作戦だったのだろう)

 モッズはアメリカのリズム&ブルーズやソウル・ミュージックのような黒人音楽を好んで聞いていたらしく、だから彼らが支持したバンドには、そういう影響を受けたものが多かった。たとえば、初期のザ・フーであり、キンクス、そしてスモール・フェイセズなどである。彼らは黒人の音楽を自分たち流に解釈し、それらを取り入れて新しい装いでリスナーに提供したのである。だからモッズたちはイギリスで再解釈された音楽と、それを演奏するバンド群も受け入れたのだ。

 スモール・フェイセズのオリジナル・メンバーは全員ロンドンのイースト・エンド出身で、ウエスト・エンド出身のザ・フーに対抗して?、“東のスモール・フェイセズ、西のザ・フー”と呼ばれていたらしい。
 オリジナル・メンバーは、ギター&ボーカルのスティーヴ・マリオット、ドラムス担当のケニー・ジョーンズ、キーボード担当のジミー・ウィンストン、そしてベース担当のロニー・レインだった。

 彼らの楽曲のいくつかは、カバー・ソングであったが、多くはスティーヴ・マリオットとロニー・レインの2人の手によるものだった。
 特に1966年に全英1位を記録した"All or Nothing"や67年の"Itchycoo Park"、68年の全英2位だった"Lazy Sunday"などは、すべて2人の共作だった。特に"Itchycoo Park"は全英3位、全米でも16位を記録するほどの大ヒットになった。

 この曲は、80年代にはプログレバンドのエニドが、90年代ではハード・ロック・バンドのブルー・マーダーやクワイエット・ライオットなど、その後も多くのミュージシャンによってカバーされたり、映画のサウンドトラックなどに使用されている。リード・ボーカルとバック・コーラスの掛け合いが黒人音楽っぽい。

 これら以外にもトッド・ラングレンもカバーした"Tin Soldier"や、キーボードがイアン・マクレガンに代わって発表された1966年の"Sha La La La Lee"など名曲、佳曲を多く発表している。

 自分は彼らのベスト盤の「オータム・ストーン」で、初めて彼らの音楽に触れた。このアルバムは1969年に2枚組で発表されたもので、全22曲、彼らの代表曲のほとんどが収められていて、中には"All or Nothing"、"Rollin' Over"、"If I Were a Carpenter"、"Every Little Bit Hurts"、"Tin Soldier"のようなライヴ、未発表曲も含まれていて、なかなか興味深い。Photo_2

 特に実況録音された曲では、聴衆の歓声がものすごく、まるでビートルズのシェア・スタジアムでの演奏のようだった。当時の実態というか、様子を伺うことができて、やはり彼らの人気が凄まじいことがわかる。40年の時を経て今だに影響力があるというのも、なるほどと納得がいった。

 アメリカの黒人音楽にイギリスのビート・ロックの要素を掛け合わせたものが、スモール・フェイセズだった。スティーヴ・マリオットは、スモール・フェイセズの音楽をさらにロック寄りに持っていこうとして1969年にハンブル・パイを結成した。
 残されたロニー・レインたちは、新たな血であるロッド・スチュワートとロン・ウッドを迎え入れて再出発を図ったのだが、残念ながら上手くいかなかった。

 結局、ロッドとロニー・レインの音楽的意見の対立というか、方向性の違いが、フェイセズを洗練されたロックン・ロール・バンドにさせて、さらにはロッドと彼のバック・バンドという位置にまで貶めてしまったのである。ロニーの脱退は、ある意味、至極当然のことだったのかもしれない。

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2012年4月16日 (月)

フェイセズ

 ボケが始まったのか、あるいは今まで書きすぎたのか、どのミュージシャンやバンドを書いてきたのか忘れてしまった。それで過去のブログを見ていて、ロッド・スチュワートについては書いていたものの、彼がいたバンドのフェイセズについては、まだ何も書いていないことに気がついた。

 それで今回は70年代のイギリスのロック・バンドのフェイセズについてである。当時の日本ではストーンズかフェイセズかと言われるくらい、イギリスを代表するロックン・ロール・バンドだった。

 それはやはりボーカルのロッド・スチュワートのおかげだろう。彼のきらびやかで派手なパフォーマンスは、聞くものを陶酔の境地に誘うほどの魅力に満ちていた。また、のちにストーンズに加入することになるロン・ウッドの堅実な演奏と派手なゼマティスのギターも忘れてはならないだろう。

 もともとフェイセズというバンドは、スモール・フェイセズを母体として生まれたものだった。スモール・フェイセズにはスティーヴ・マリオットという偉大なギタリスト&シンガーがいたのだが、彼がハンブル・パイを結成したために、解散状態になってしまった。そこにジェフ・ベック・グループからベーシストのロン・ウッドとボーカリストのロッド・スチュワートが参加して再出発したのである。1969年のことらしい。

 自分が彼らのことを知ったのは、中学生のときだった。レコードではなく、某国営放送の「ヤング・ミュージック・ショー」という番組に彼らが出演していたときだった。ちなみにそのときの演奏にはスペシャル・ゲストでストーンズのキース・リチャード(当時はsのついていないリチャードと呼ばれていたと思う)も演奏していたことを覚えている。ロン・ウッドとキース・リチャードの顔合わせは、後のストーンズの布石になったのだろうが、それほど親交があったということだろう。

 また某音楽雑誌にも、ときどき彼らの写真も掲載されていたから、記憶に定着したに違いない。

 しかし当時は(そして今も)、フェイセズはロッド・スチュワートのバック・バンドだと思っていた。例えていうなら、世良公則とツイスト、沢田研二と井上堯之バンドみたいなものである。
 何しろロッドばかりが目立っていたし、歌っていたのは、フェイセズの歌というよりも自分の持ち歌ばかりだった。もう少し正確にいうと、当時はロッド・スチュワート&フェイセズという呼ばれ方をしていたようだったし、その頃の自分にとってはどれがロッドの歌で、どれがフェイセズの曲なのか判断もできなかったからだ。
 
 またラジオから流れるロッドの曲は印象的だった。あのハスキーな声は一度聞いたら忘れられないし、映像は付いていないので、誰が演奏しているかは、おそらく判別できなかっただろう。当時はそういう認識だった。

 実際、フェイセズとしての活動は1969年から1975年ごろまでで、ロンがストーンズのアルバムに参加するようになって、バンドは解散してしまった。
 でも本当はベーシストのロニー・レインが73年に脱退したときに、彼らはロッドと彼のバック・バンドに変身してしまったのだ。
 ロニーのバンド内での存在は、意外と大きかったのだろう。ロッドと曲作りも行っていたし、オリジナル・メンバーの一人として、バンドの音楽的方向性についても意見を出していた。

 ロニーの代わりに日本人の山内テツがフリーから参加したのだが、この頃はもうロッドのワンマン・バンドになっていたのだろう。73年以降にはシングルは発表されたが、スタジオ・アルバムは制作されていないからである。そして新しくできた曲は、たぶんロッドのソロ・アルバム用に使われたのだろう。

 今から思えば、フェイセズはB級スーパー・バンドだった。ロッドやロン・ウッド以外のメンバーは、その後も他のバンドなどで活躍した。たとえばドラマーのケニー・ジョーンズは、キース・ムーンの代わりにザ・フーに参加したし、キーボーディストのイアン・マクレガンは、ソロ・アルバムを発表したあと、ストーンズのツアーに参加して、セッション・ミュージシャンになった。

 オリジナル・メンバーでベーシストのロニー・レインは、自身のバンド、スリム・チャンスを結成して、アメリカ南部のテイストを持つアルバムを発表した。ただ残念ながら難病の多発性脳脊髄硬化症を発症し、1997年に肺炎で亡くなった。

 彼が提案したアームズ・コンサートは1983年に開催され、そこではエリック・クラプトン、ジェフ・ベック、ジミー・ペイジの3人が参加して、同病で苦しんでいる人のためのチャリティが行われた。そのときに"Stairway to Heaven"を歌詞無しで演奏したジミー・ペイジの痛々しい姿が忘れられない。当時はゼッペリンが解散したあとで、彼が公の場に初めて姿を見せたと言われていた。Photo
 彼らのアルバムは、どれもロックン・ロールの楽しさが収められているが、一番売れたのは1971年の「馬の耳に念仏」で、全米6位、全英2位を記録している。

手っ取り早く彼らの曲を知りたければ76年のベスト盤「スネイクス&ラダーズ」を聞くといいかもしれない。"Stay With Me"や"Ooh La La"など彼らを代表する曲が収められている。自分はここから彼らを聞き始めた。1
 彼らは2008年にオリジナル・メンバーで再結成コンサートを企画したが、結局、ボツになった。その後ベースに元リッチ・キッズのグレン・マトロック、ボーカルに元シンプリー・レッドのミック・ハックネルを加えて、活動を始めている。昨年はフジ・ロック・フェスティバルに参加するために来日した。

 とにかく自分の中ではロッドのワンマン・バンドだと思っていたフェイセズである。ロッドが自分の持ち歌もバンドの曲も、一緒くたにしてステージで歌っていたから、そういうふうに混同してしまったのだろう。今になって思えば、解散した方がお互いの為によかったという珍しい人気バンドだったのである。

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2012年4月12日 (木)

80年代のストーンズ(3)

 さて80年代のストーンズのアルバムについて、いろいろ取り留めのないことを書いてきたが、今回は80年代では最後のスタジオ・アルバムとなった「スティール・ホイールズ」について述べてみたい。

 その前になぜこの時期のストーンズにゴタゴタが多かったのかといえば、やはりミックとキースの確執が一番の原因だろう。ミックは1985年と87年にソロ・アルバムを発表して、自己のキャリアを追及していた。しかも最初のソロ・アルバムは注目もされ、それなりにヒットしたから、ミックなりに次も頑張ろうと思ったのだろう。

 一方のキースは、ストーンズ用のアルバムに使用されてもおかしくないアイデアや楽曲がミックのソロ・アルバムに使われては面白くないのは当然だったし、その反動が86年のアルバム「ダーティ・ワーク」に表れたのである。
 また彼もミックに対抗するかのように、自身のソロ・アルバム「トーク・イズ・チープ」を88年に発表した。両者の関係はこの時期が最悪だったように思える。

 前回のブログでも述べたように、「ダーティ・ワーク」にはロン・ウッドも積極的に曲作りに関わっていて、ギターが全面にフィーチャーされたアルバムになった。逆にミックはこのアルバムを気に入っておらず、そのせいかバンド結成40周年を記念した2002年のベスト・アルバム「フォーティ・リックス」にはこのアルバムから1曲も収録されなかった。これもひとえにミックのさしがねに違いない。9

 またビル・ワイマンは、89年に18歳の少女と結婚している(91年に離婚)。ちなみに彼女とは13歳のときから付き合っていたというから、ミックとキースの関係などどこ吹く風、マイペースで過ごしていたのである。さらにはドラマーのチャーリー・ワッツは、この時期、アルコールとドラッグの中毒に苦しんでいたとも言われているから、バンド全体としてもうまくいっていなかったのだろう。

 そんな彼らが再び結束してアルバムを発表したのが、1989年だった。このときのアルバム「スティール・ホイールズ」は、結果的には全英2位、全米3位を獲得して、久しぶりに大きなニュースになった。
 アメリカではアルバム発表に関して記者会見を行い、そのときに今後のツアーについても言及した。このときの模様は、日本でも夕方のTVニュースで放送されたのを覚えているが、それほど全世界がストーンズの再開を待望していたし、その結果を祝福したのである。

 彼らの再活動がこれほどスムーズにいったのは、ひとつはミックのストーンズに対する運営方針(経営方針といってもいいだろう)が、大きくシフト・チェンジした結果である。自分自身の2枚目のソロ・アルバムの結果と、ファンやメディアのストーンズに対する期待を天秤にかけての判断だったに違いない。

 残念ながら2枚目のソロ・アルバム「プリミティヴ・クール」は全英26位、全米41位と思うように振るわず、彼の中には失望感が高まっていった。また、自分がストーンズの中心者として状況改善を図らないといけないという責任感みたいなものもあったのだろう。
 そして、彼らにとって幸いなことに、1989年の1月には“ロックの殿堂”入りを果たすことができて、メンバーそろって授賞式に参加している。

 そんなこんなで、元の鞘に納まったというか、あるべきところに落ち着いたというか、ミックとキースは50曲以上を持ち寄り、その年の春からレコーディングを始めたのであった。

 ストーンズのアルバムの最初の曲はジャンプ・ナンバーで始まるというのが、一般的なのだが、このアルバムも例外ではなく、ノリのよい"Sad,Sad,Sad"で始まっている。続くシングル・カットされた"Mixed Emotions"もミック、キース、ロンの3本のギターが強調されていてなかなかのものである。ちなみにこの曲はキースが持ち込んだものに、ミックが手を加えたもので、意味深な歌詞はそのせいだろう。Photo
 一番の聞かせどころは、アルバム後半の4曲の"Rock and A Hard Place"、"Can't Be Seen"、"Continental Drift"、"Break the Spell"ではないだろうか。

 "Rock and A Hard Place"はタイトル通りのハードな楽曲で、ミックも含めて3本のギターが強調され、後半ではブラスや女性コーラスも添えられている。後のツアーでも演奏されるほど、ストーンズにふさわしい曲でもある。
 また"Can't Be Seen"はキースがリード・ボーカルをとる曲で、キースのソロ・アルバム用に書かれたもの。ミックのソロ活動があったからこそキースのソロもあったということで、逆説的にミックに感謝しなければいけないのかもしれない。

  普通ストーンズといえば黒人音楽の影響(あるいは引用、もしくは盗用ともいえるだろう)を感じさせる曲があるのだが、このアルバムではその前に東洋的な(あるいはエスニック的な)旋律を持つ"Continental Drift"が印象的である。ここではキースがアコースティック・ギターを、ロンがアコースティック・ベースを演奏している。まるで昨年発表されたスーパー・ヘヴィのアルバムに収められていてもおかしくない曲である。ミックは20年以上も前からこういう音楽をも視野に入れていたのであろうか。

 そしてブルーズ・ハープが妖しい雰囲気を醸し出す"Break the Spell"ではストーンズらしく黒っぽい音楽を聞くことができる。ここでのギターはミックとキースで、ロンはドブロ・ギターとベースを担当している。ビルは録音に参加していない。新婚生活をエンジョイしていたのだろう。

 このアルバムで80年代のストーンズは幕を閉じるのだが、発表後すぐに8年ぶりのワールド・ツアーに出かけていて、初の日本ツアーもこのアルバム発表後だった。またベーシストのビル・ワイマンが参加した最後のストーンズのアルバムにもなった。

 とにかくこのアルバムのおかげで、ストーンズは息を吹き返し、その後の90年代以降もアルバム発表とツアーを繰り返すことになった。そういう意味では、単なる成功作というよりもその意義は深いといえるだろう。

 60年代はビートルズの後塵を拝し、70年代でジャンキーになりながらも黄金期を迎えたストーンズは、80年代になってからその歩みを遅らせたようにも見えた。しかし不死鳥のように彼らは再び甦った。そして結成50周年を迎える今年、彼らの動向から目が離せないのである。

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