2017年8月14日 (月)

ディープ・パープルの新作

 夏は暑い。当たり前のことだが、ここ数年、本当に暑く感じる。日本は亜熱帯地域に移動したのだろうか。

 それで、暑い時には熱い音楽をということで、今回はハード・ロックの歴史的巨人、ディープ・パープルの新作を紹介しようと思った。

 ディープ・パープルといえば、1968年の結成以来、幾度ものメンバー・チェンジを繰り返しながら結成50年を迎えようとする老舗のブリティッシュ・ハード・ロック・バンドである。Deeppurple2016
 今更ながらこんなことを言ってもみんな知っているので仕方ないけれど、リッチー・ブラックモアを始め、亡くなったジョン・ロード、ボーカリストのイアン・ギランやデヴィッド・カヴァーデルなど、このバンドに在籍した、あるいは在籍している有名ミュージシャンは数知れない。

 そんな超有名バンドだが、いまだにニュー・アルバムを発表している。自分なんかは、彼らはもうこれ以上稼ぐ必要もないし、これ以上有名になる必要もないので、南の島に行ってゆっくりと余生を過ごしてもいいと思うのだが、いまだに頑張っている。

 イアン・ギランやロジャー・グローヴァーは71歳だし、一番若いギタリストのスティーヴ・モーズも63歳になる。
 そんな彼らが、通算20枚目のスタジオ・アルバムになる新作を今年の春に発表した。タイトルは「インフィニト」というものだった。61naz64a6tl
 自分は前作の「ナウ・ホワット?!」が予想外に良かったので、思わず輸入盤を購入してしまった。
 前作の「ナウ・ホワット?!」はボブ・エズリンのプロデュースのせいか非常に評判が良くて、北欧や東欧ではオーストリアやチェコ、ノルウェーなどでチャートの首位を飾り、母国イギリスでも19位まで上昇した。

 正式メンバーになったドン・エイリーの活躍とともに、スティーヴ・モーズの演奏も目立っていたし、何しろ曲自体もいい曲が多かった。

 それで新作の「インフィニト」だが、ひょっとしたらこのアルバムで彼らは活動を休止するのではないかと噂されていた。冒頭の"Time for Bedlam"という曲の"Bedlam"とは北ヨークシャー州にある有名な保養地のようで、ついに彼らも引退かともいわれていた。

 自分が聞いた限りでは、前作の「ナウ・ホワット?!」よりはインパクトが弱かった気がした。楽曲自体は悪くないのだが、全体的に一本調子であっという間にアルバムが終わってしまい、印象に残る曲が少ないのだ。

 確かに、普通のバンドのアルバムとして聞けば、水準以上のアルバムなのだが、“ディープ・パープル”という看板を背負ったバンドのアルバムとして聞くと、通常の平均的なアルバムになってしまう。

 決して悪いアルバムではない。3曲目の"All I Got Is You"はメロディアスな佳曲だし、6曲目の"The Surprising"ではドン・エイリーのキーボードが活躍している。スティーヴ・モーズも"Time for Bedlam"や"Birds of Prey"で弾きまくっている。
 ただ、70年代の"Highway Star"や"Burn"のような後世に残る曲が見当たらないのだ。

 ああいう名曲は、そうそうできるものではないということを逆に証明しているようだった。一方で、最後の曲"Roadhouse Blues"の方がシンプルで、シンプルがゆえに逆に際立っていて、耳に残った。

 この曲は彼らのオリジナルではなくて、このアルバムの中では唯一のカバー曲だった。カバーされたのはアメリカのザ・ドアーズの曲で、1970年のアルバム「モリソン・ホテル」に収められていたものだ。

 繰り返し言うが、このアルバムは普通のロック・バンドのアルバムとしては優れているのだが、やはりディープ・パープルという看板を掲げたバンドのアルバムとしては、平均的なものになったのではないだろうか。

 チャート的にも前作よりは下回ったようだ。彼らの熱狂的なファンのいる北欧や東欧でもアルバム・チャートの首位を飾ることはできなかった。唯一、ドイツとスイスではNo.1になり、母国イギリスでは、これが最後の作品といううわさが流れたせいか、6位を飾っている。

 ところで、1974年に彼らが発表したアルバム「嵐の使者」というアルバムがあった。いわゆる第3期ディープ・パープルの最後のアルバムで、この後、ギタリストのリッチー・ブラックモアは脱退してしまう。Mv5bztizoti3y2mtzguzzc00nwvilwiwz_2

 リッチーはこのアルバムを嫌っていて、最低のアルバムだと言っていた。理由はハード・ロック・アルバムではなくて、グレン・ヒューズやデヴィッド・カヴァーデルの意向の強いソウルフルでファンキーな路線に走ってしまったからだ。

 リッチーはこれが嫌だった。だからバンドを脱退したのだろう。ただ、自分的にはこのアルバムは結構気に入っていて、いまだに時々車の中で聞いたりしている。

 それまでのハード・ロック路線の"Stormbringer"と"Lady Double Dealer"の両曲を筆頭に、まさにファンキーなリフの目立つ"Love Don't Mean A Thing"や渋いバラードの"Holy Man"など、ディープ・パープルのイメージには似合わないところが、逆に新鮮に映ったものだ。

 アメリカのバンドの曲を聞いているようで、のちにトミー・ボーリンが加入する下地が作られたような雰囲気が漂っていた。アルバム・ジャケットもアメリカ中西部の竜巻のようで、映画やミュージカルの「オズの魔法使い」に出てくるような感じだった。

 のちにリッチーはステージの演出に「オズの魔法使い」を使用していたが、その遠因はこの辺にあったのかもしれない。51pl4eltgl
 ちなみに、"Holy Man"と"Hold On"の曲のクレジットには、リッチーの名前はなかった。ギター・ソロは残っているので、レコーディングにだけ参加したのだろう。

 それ以外の"High Ball Shooter"でも、リッチーの細かいギターの音を聞くことができるし、"The Gypsy"はリッチーが唯一このアルバムの中で気に入っていた曲だった。(でもへそ曲がりの彼のことだから、ジョークで言ったのかもしれない)

 そして、最後の曲がデヴィッドの歌とリッチーのアコースティック・ギター、ジョン・ロードのシンセサイザーで構成された"Soldier of Fortune"の感動的なバラードだった。この曲を最後に、リッチーはバンドを離れ、自分の思い通りになるバンドを結成したのである。

 とにかく、このアルバムは発表当時は評価が分かれてしまい、従来のハード・ロック路線を期待していたファンからは駄作に近い扱いを受けたし、ファンクやソウルが好きなファンや第3期ディープ・パープルを気に入ったファンからは好意的に受け入れられた。

 この傾向は今も同じようなもので、このアルバムの評価は定まっていないような気がする。ただ、当時はソッポを向いていた人たちの中には、このアルバムを受け入れようとしている人もいるようだ。

 というわけで、ディープ・パープルの新作「インフィニト」ももう少し時間がたてば、評価も高まるかもしれない。画家のゴッホの作品と同じように、偉大な人や作品については理解されるのに時間がかかるのであろう。

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2017年8月 7日 (月)

エド・シーラン

 現代の吟遊詩人といってもおかしくないと思っている。エド・シーランのことだ。自分は、もちろん彼のデビューした2011年から彼の名前は知っていたのだが、まさか、ここまでビッグな存在になるとは思ってもみなかった。Edsheeran2017leadpressshot_lo_res
 というのも、雑誌などでは彼の楽曲よりもその経歴の方が注目を集めていて、確かにラジオから流れてきた曲はよかったと思ったのだが、また新人が登場してきたなあという程度の認識しかなかったのである。

 何しろ、当時の彼のキャッチ・コピーは、“住所不定、職業シンガー・ソングライター”というものだった。如何にも何だか怪しい感じがすると思うのだが、そう思ったのは私一人だったのかもしれない。

 以前にも書いたけれども、イギリスの音楽界の新陳代謝は異様に早くて、人口は日本の半分くらいしかないのに、次から次へとニュー・カマーが現れてきて、しかもそのうちの何人かは世界的にもビッグな存在になってしまう。ジェイムス・ブラントにジェイムス・モリソン、エイミー・ワインハウスにアデル、サム・スミス、そしてエド・シーランなどなどである。

 エド・シーランは、ウエスト・ヨークシャーのハリファックスというところで、1991年の2月に生まれている。人口8万人くらいの街だから、そんなに都会ではなさそうだ。
 ただ、エド以外にも有名ミュージシャンが誕生していて、元ユーライア・ヒープのボーカリストのジョン・ロートンや元トンプソン・ツインズの中心人物だったトム・ベイリーなどもいた。

 エドの父親はアイルランド人で、母親はイギリス人だった。幼い頃から両親、特に父親が流す音楽に影響を受けるようになり、4歳頃から教会の聖歌隊で歌うようになった。
 父親はボブ・ディランやヴァン・モリソン、ザ・ビートルズを聞き、エドはエミネムやグリーン・デイ、リンキン・パークなどを好んで聞いていたようだ。

 5歳からはピアノを習い始め、学校ではチェロやバイオリンも手にするようになった。やはり生まれつきの才能のようなものが輝いていたのだろう。

 11歳になると、テレビで見たエリック・クラプトンの影響で、ギターを手にするようになり、アイルランドのシンガー・ソングライターのダミアン・ライスのライヴを見て、自分もシンガー・ソングライターになろうと決心したという。
 
 何と影響を受けやすい人だと思うかもしれないけれど、これでその後の人生が決まったのだから、これはもう天啓みたいなものだったのだろう。

 ここからがエドのすごいところで、自分で曲作りを始め、14歳になるとループ・ペダルを買ってきて、アコースティック・ギターを弾きながら歌を歌い、デモ・テープを制作するようになった。

 16歳になると、とにかく1年365日音楽をやりたいと思い、ついには学校までも退学してしまう。そして、家を出て、時に友人の家に泊まりながら、時に路上生活者のような暮らしを送りながら、ストリート・ミュージシャンとして活動を始めるようになったのである。

 よくまあ、家の人が許したなあと思うのだが、それだけ彼には才能があると周りの人が認めていたのだろうし、まだ若いから失敗しても構わないと考えていたのかもしれない。

 いずれにしても、彼はアコースティック・ギターとループ・ペダルを持ってロンドンに出かけて、ストリートやパブのような居酒屋で歌うようになった。
 2009年には、年間312回のソロ・パフォーマンスを行い、ミニ・アルバム「ユー・ニード・ミー」も発表した。このあたりから徐々に彼の運命が好転していく。

 やがて彼のライヴは噂になり、人々に好意的に受けとめられるようになって、マネージャーも付くようになった。
 これは、もちろん彼の楽曲自体がもつ魅力もあったのだろうが、同時に、彼の明るくてポジティヴな性格も幸いしたに違いないだろう。

 翌2010年には、ミニ・アルバム「ルース・チェインジ」がイギリスのiTunesで1位になり、メジャー・レーベルのアトランティック・レーベルと晴れて契約することができた。

 そして、2011年にはメジャー・デビュー・アルバム「+」が発表される。この中からシングル・カットされた"The A Team"が大ヒットして、一躍彼は世界中に名前が知られるようになった。この曲は、チャートでは首位には立たなかったものの、グラミー賞の「ソング・オブ・ザ・イヤー」やブリット・アワードにノミネートされるくらい有名になった。41wad6qwa0l

 このアルバムを聞いての最初の印象は、21世紀のシンガー・ソングライター像を確立したなあということだった。

 今までのシンガー・ソングライターというと、ギター1本の弾き語りというイメージが自分の中にはあった。ところが、このアルバムでは、確かに基本はフォーク・ギターなのだけれども、ロックっぽい曲もあるし、ラップ調の曲も含まれていた。エミネムから影響を受けたのは間違いないようだ。

 要するに、エドの持つ音楽性が幅広いのである。ただ、アルバムの中盤になるとおとなしめの曲が続いていて、少し退屈さも感じてしまった。この辺はアレンジの問題だろうか。
 国内盤にはボーナス・トラックを入れて17曲が収められていた。そのうち、エドひとりで手掛けた曲は、"The A Team"、"Small Bump"、"Little Bird"、"Sunburn"の4曲だけで、あとはジェイク・ゴスリングなどの音楽パートナーと一緒に作っている。

 幅広いジャンルの音楽を含む新時代のシンガー・ソングライターによるアルバムだったが、基本的にはまだまだフォーク・ソングという雰囲気が色濃く残っていて、その辺はさすがに大英帝国の伝統を感じさせてくれた。

 このデビュー・アルバムは、イギリス国内では予約だけでゴールド・ディスクを獲得し、発売1週目で10万枚を超し、最終的に200万枚以上売れている。また、全世界では400万とも500万とも言われていて、よくわからない。それほど売れているのである。

 続くセカンド・アルバム「×」は、2014年に発表された。フォーク・ミュージックのシンガー・ソングライターというイメージから徐々に脱皮していく様子が、このアルバムから伺われた。81x21cxzizl__sl1425_
 何しろプロデューサーのひとりに、リック・ルービンを迎えているのだ。リック・ルービンといえば、ビースティ・ボーイズやRUN.D.M.C.の他に、メタリカやレッド・ホット・チリ・ペッパーズなども手掛けている大物プロデューサーだ。それにエミネムのアルバムも手掛けていたので、エドにとっては憧れのプロデューサーだったのだろう。

 それにリックだけでなく、"Happy"を歌ってヒットさせたファレル・ウィリアムスも曲作りやプロデュースに参加していたので、ヒップホップの要素も前作よりは強くなっている。
 だからというわけでもないだろうが、全体的に前作よりも黒っぽい気がした。ソウル色というよりは、やはりヒップホップやラップ色がところどころに浮かんできている感じだった。

 このアルバムでも共作が目立つ。自作曲は冒頭の2曲"One"と"I'm A Mess"、エミネム調の"The Man"、ポップな"Shirtsleeves"、映画「竜に奪われた王国」の主題歌である"I See Fire"の5曲で、残りの12曲は他のミュージシャン等とのコラボレーションだった。確かにこれなら売れるのは間違いないだろう。

 しかも前作からの約3年間で、120曲以上の曲を作りその中から厳選したものを、さらに友人たちと磨きをかけていったのである。
 そして没になった曲は、友人のテイラー・スウィフトやジャスティン・ビーバーに提供したのだが、それらの曲もまたヒットしたのだから、エドの才能は計り知れない。

 当然ながら、このアルバムも売れた。全米や全英でチャートのNo.1になったの当然のことで、iTunesでは全世界95か国で1位になり、全世界で1400万枚以上も売れている。
 デビュー・アルバムと合わせると、2300万枚以上と言われているし、フォーブス誌によると、2016年の1年だけでエドは約3300万ドルの収入があったそうである。

 2017年にサード・アルバム「÷」が発表されたが、これはもう21世紀の今の段階では、ほぼ完璧なポップ・アルバムだと思っている。81mvp7ip8l__sl1425_
 プロデューサーには、前作にも参加していたベニー・ブランコがいた。彼はマルーン5やケイティ・ペリーのアルバムなども手掛けていて、今どういうアルバムが売れるのかよくわきまえているミュージシャンでもあった。

 エドは最初から、とんでもなくポップなアルバムにしようと決意して臨んでいて、少なくとも3回は最初からアルバムを作り直したという。その間、数百もの楽曲が用意され、そのほとんどが没になっていった。まさにプロ・ミュージシャンとしての意地とプライドをかけたアルバム制作だったようだ。

 また、イギリスのバンド、スノウ・パトロールのメンバーでエドの友人のジョニー・マクダイドも曲作りに関わっていた。彼は、前作でも7曲をエドと共作していた。
 逆に、自作曲はバラードの"Perfect"と"Supermarket Flowers"の2曲だけにとどまっている。21世紀のシンガー・ソングライターは、ひとりで部屋に閉じこもるのではなくて、他の人と積極的にコラボレーションするという特徴があるようだ。

 だから、普通のフォーク調の曲だけではなく、ラップからソウル風のバラード、スペイン語まで駆使したダンス・ミュージックにアイリッシュ音楽まで、彼の守備範囲は限りなく広がっている。無いのはハード・ロックとプログレぐらいだろう。

 もともと才能のある人が、同じように才能のある人たちと一緒にアルバムを作ったらこうなりましたよという典型的な見本が、このアルバムだ。
 すでに、全世界14か国以上のアルバム・チャートで1位になっている。文明国でなっていないのは、ギリシャとメキシコと日本ぐらいなものだった。

 何しろアルバムを出すたびに、過去のアルバムもチャートに顔を出すのである。「÷」が発表された後にも、デビュー・アルバムの「+」とセカンド・アルバムの「×」が、イギリスのアルバム・チャートのトップ10に登場していた。恐るべし、エド・シーラン。今年の洋楽のシーンの顔は、彼を除いては他にいないだろう。

 面白いことに、アルバムの中では、新時代に相応しい楽曲や制作方法をとってきたエドだが、ライヴにおいては、昔も今もストリート・ミュージシャンのように、ギター1本で勝負している。

 たとえば、2015年の7月にはイギリスのウェンブリー・スタジアムにおいて3日連続で公演を行い、3日間ともソールド・アウトにしている。その時の観客動員数は3日間で計約24万人だった。

 アリーナの収容人数は最大で9万人である。それらの人の前で、ギター1本とループ・ペダルだけで歌い切ったエドは、確かに本物のシンガー・ソングライターに違いない。
 また、今年の5月1日から3日までロンドンのO2アリーナで公演を行ったが、こちらも3日間連続でソールド・アウトになっている。この時は、約6万人のファンが集まったということだった。Vipirelandimage149579620x434
 アルバム・タイトルの「+」は、自分のよいところが出せるようにという意味で、つけたタイトルだった。次の「×」は、前作以上の結果が出せるようにとつけたタイトルだった。そしてその目標は達成できている。さて、「÷」とはどういう意味なのだろうか。

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2017年7月31日 (月)

オーティス・レディング(2)

 暑い夏が続いていて、家の中でも熱中症になるというのも納得できる。こういうときには、もちろん涼しい場所で過ごすのもいいのだが、逆に、徹底的に暑さの中に身を置いて、汗を流すことで涼しさを体感するという手もあるようだ。

 そういう時に相応しい音楽は、時としてハード&ヘヴィ・ロックだろうし、あるいはソウル・ミュージックでもいいかもしれない。そして、ソウル・ミュージックの王道といえば、女性ならアレサ・フランクリンであり、男性ならオーティス・レディングあたりが、すぐに頭に浮かぶのである。39c24657fc7a480eee97bc93d8433c51mus
 今は天国にいる忌野清志郎とオーティスである。清志郎の“ガッ、ガッ、ガッ、ガッ、ガッ、ガッ、ガッ、ガッ”は、オーティスのスィンギング・スタイルをパクったのは有名な話だった。

 今自分は、オーティス・レディングの1967年のライヴ盤「ライヴ・イン・ヨーロッパ」を聞きながらこれを綴っているのだが、いつ聞いても、何度聞いても、素晴らしいし、よく構成が練られていると感心してしまう。

 当時のオーティス・レディングのヨーロッパのライヴは、彼単独のライヴではなくて、エディ・フロイドやサム&デイヴ、ブッカー・T&MG'sなどの著名なミュージシャンとのジョイント・ライヴだったようだ。

 だから、実際のステージでは、オーティスの持ち歌は5曲から6曲ぐらいだった。でも、このライヴ盤では10曲が収められていて、パリのオリンピア劇場やロンドンのアストリア劇場での音源を中心に編集されている。曲がタブらないように、それぞれの劇場での数回の公演の中からピックアップされたといわれている。61ib1v4iull__sl1425_
 当時の公演でいつも必ず歌われた曲があって、それはテンプテーションズの"My Girl"、サム・クックの"Shake"、1932年の古いラヴ・ソングだった"Try A Little Tenderness"の3曲である。しかも"Try A Little Tenderness"はいつも必ず最後の曲として歌われていた。

 このライヴ・アルバムでは、これら3曲が中心となるように絶妙に配置されているから、まるで彼一人の単独ライヴを聞いているような感じがしてしまう。

 特にバラード曲の配置がすばらしく、冒頭2曲のテンポのよい曲に続いて"I've Been Loving You Too Long"が、中盤で"These Arms of Mine"が聴衆をいったん落ち着かせて、ザ・ビートルズの"Day Tripper"で盛り上げて、"Try A Little Tenderness"で締めるところは、さすがである。実際のライヴでも盛り上がったことだろう。

 オーティス・レディングは、1941年の9月にジョージア州のドウソンで生まれた。父親は教会の牧師だった。やがて一家はメコンに移り、オーティスは教会の聖歌隊で歌うようになった。

 地元のグループだったジョニー・ジェンキンズ&ザ・パイントッパーズで歌っていた時に、オーディションを受けて合格し、レコーディングをする機会を得た。
 そこでレコーディングをした"These Arms of Mine"や"Pain in My Heart"がヒットして、徐々に彼の名前が知られるようになった。

 オーティスの曲を聞くなら、やはりライヴだろう。スタジオ盤もいいけれど、彼のダイナミックな歌い方や爆発的な歌唱力がいまいち発揮できていないような気がしてならない。718bhlioofl__sl1159_
 彼が日本でも有名になったきっかけになったのは、やはりモンタレー・ポップ・フェスティバルに出演したことが大きいのではないだろうか。

 1967年の6月17日、フェスの2日目の大トリがオーティスだった。2日目といっても、もう夜中を回っていて次の日になっていたのだが、眠りかけている観衆の前で、オーティスはサム・クックの"Shake"を歌った。文字通り、自分の音楽で眠りこけている人たちを起こそうとしたわけであるが、ここから彼の伝説が生まれていった。

 そして、アメリカをはじめヨーロッパでも、彼の人気はうなぎ上りに急上昇していったのだが、悲しいかな、現役時代はそんなに長くは続かなかった。

 1967年12月10日、ウィスコン州のマディソンのクラブで公演が予定されていたオーティスは、自家用双発機でクリーブランドを飛び立った。
 午後3時28分ごろ、マディソン近くのモノナ湖上空にさしかかったところ、突然エンジン・トラブルに見舞われ、墜落した。享年26歳だった。

 死の3日前に、オーティスは、メンフィスのスタジオで"The Dock of the Bay"をレコーディングした。そして、ギタリストのスティーヴ・クロッパーに残りはまた来週にしようといってスタジオを出た。スティーヴにとっては、それがオーティス・レディングの最後の姿になってしまった。

 彼の死後、約3ヶ月後にこのシングル曲は、3週間にわたってチャートでNo.1に輝いている。さらにグラミー賞では、ベストR&Bソング賞、ベストR&B男性ボーカル賞も受賞した。もちろんオーティス自身は、このことを知るすべもなかった。

 アルバム「ドック・オブ・ベイ」も1968年に発表されたが、1965年から67年にかけてのシングルやそのBサイドの曲を集めた編集盤だった。新作というよりは、彼の追悼記念という意味合いが大きいようなアルバムだったと思う。71eeucr3al__sl1440_
 だから、彼の意思が反映されていたかどうかは、よくわからない。もともと未完成だったシングル曲の"The Dock of the Bay"でさえも、彼の死後にスティーヴ・クロッパーが手を加えたのだから、アルバム自体もスティーヴの意思が反映されているのだろう。

 1980年には、オーティス・レディングの息子たちと従兄弟らが、レディングスというバンドを結成して、シングル"The Dock of the Bay"を発表した。この曲は、のちに55位まで上昇したが、これも追悼記念だったと思う。

 ちなみに、チャートでNo.1になった曲が、その子どもたちによって再びチャートで100位以内に入ったのは、この曲が初めてであり、今までのところ最後のようである。

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2017年7月24日 (月)

ヴォーン・ブラザーズ

 スティーヴィー・レイ・ヴォーンのことについては、前回と前々回で述べたつもりだが、少しだけ補足させてもらうことにした。

 1990年の8月27日の飛行機事故を起こしたのは、4機のヘリコプターの中の1機だった。3機が無事に到着して、1機だけが行方不明になったのだが、人工スキー場の斜面に墜落したのは、午前0時35分頃と言われている。

 また、亡くなった人は、ジャクソン・ブラウンやC,S&N、ジェフ・ベックなどのマネージメントを行っていたエージェントのボビー・ブルックス、エリック・クラプトンのボディーガードを務めていたナイジェル・ブラウン、ヘリコプターを操縦していたジェフ・ブラウン、そして再出発を果たしたスティーヴィー・レイ・ヴォーンの4人だった。

 スティーヴィー・レイ・ヴォーンの死後、彼の生前の未発表曲を集めて監修し、発表したのは、スティーヴィー・レイ・ヴォーンの実兄だったジミー・ヴォーンだった。そのアルバム・タイトルが「ザ・スカイ・イズ・クライング」であるというのは、前回述べた。

 そして、実はもう1枚、生前に録音されていたアルバムがあって、死後、約1か月後に発表されている。それが、今回取り上げたアルバム「ファミリー・スタイル」である。61gf12gyftl
 このアルバムは1990年の9月25日に発表された。レコーディング自体は、1990年と記載されていた。スティーヴィー・レイ・ヴォーンの薬物問題が一段落してから録音に取り掛かったものと思われる。
 アルバムのクレジットは、“ヴォーン・ブラザーズ”となっていて、兄弟で制作しましたということを主張していた。

 これはあくまでも推測だが、兄弟はそれぞれ自分のバンド活動を続けながらも、兄弟でアルバムを発表するつもりだったのではないだろうか。その第一弾がこの「ファミリー・スタイル」で、この後も定期的にアルバムを出すつもりだったと考えている。特にその根拠はないのだが、それほどこのアルバムには、リラックスした兄弟の音楽活動がパッケージされていたからだ。

 プロデューサーは、ナイル・ロジャーズだった。80年代からナイル・ロジャーズはロック・ミュージシャンとコラボすることが多かったが、このアルバムのタイトル「ファミリー・スタイル」に相応しい兄弟愛と充実した演奏を生み出していたと思う。

 自分はもう少しギター・バトルやそれぞれのギター・ソロを期待していたのだが、期待していたようなスリリングなソロなどはあまり聞くことができず、自分たちのやりたい音楽をそのまま楽しみながらやっているようだった。

 1曲目はノリのよい"Hard to Be"で、ところどころのホーンの音と乾いたストラトキャスターの重なり合いがロックさせてくれる。曲はスティーヴィー・レイ・ヴォーンとドラマー兼シンガー・ソングライターのドイル・ブラムホールが書いている。
 基本的に、曲を書いた人がリード・シンガーとして歌い、ギター・ソロも担当しているようだ。

 2曲目は"White Boots"という曲で、ジミー・ヴォーンが歌い、ソロを取っている。ただし、曲自体はビリー・スワン、ジム・レスリー、デボラ・ハッチンソンという人たちのカバー曲だった。

 3曲目はインストゥルメンタル曲の"D/FW"で、ジミー・ヴォーンが手掛けていて、リードをジミーが、高音のソロ・パートをスティーヴィー・レイ・ヴォーンが弾いているようだ。2分52秒と短いが、ミディアム調のノリのよい曲である。

 次の"Good Texan"は、ジミーとプロデューサーのナイル・ロジャーズが作った曲で、ボーカルとリード・ギターはジミーが担当している。これもミディアム調の聞きやすい曲だった。

 "Hillbillies From Outerspace"は、兄弟で作った曲だが、リチャード・ヒルトンの弾くオルガンとプレストン・ハバードのアップライト・ベースがジャズっぽい雰囲気を作っている。スティール・ギターは兄が、エレクトリック・ギターは弟の演奏だが、特に、目立つようなギター・ソロは聞くことができなかった。
 ちなみに、プレストン・ハバードは、ジミーが所属していたバンド、ファビュラス・サンダーバーズのベーシストだった。964fd71ca1dababd466991321dd77b5d_2
 気分は一転して、"Long Way From Home"はスティーヴィー・レイ・ヴォーンとドイル・ブラムホールの曲で、速いテンポに乗ってスティーヴィー・レイ・ヴォーンのボーカルとギターがフィーチャーされていた。こういう曲をもう2~3曲やってほしかった気がする。

 7曲目の"Tick Tock"はバラードで、ジミー・ヴォーンの他にナイル・ロジャーズやジェリー・リン・ウィリアムスも曲作りにかかわっている。
 ジミ・ヘンドリックスのような語りの部分はジミー・ヴォーンが、それ以外の部分は弟が歌っている。なかなかの佳曲で、歌詞の内容も愛と平和の世界を築き上げようというわかりやすいものだった。

 ロック調の"Telephone Song"は、聞いただけでスティーヴィー・レイ・ヴォーンの曲だとわかるもので、ボーカル&ギターも彼がメインになっている。
 このアルバムでは、彼のギター・ソロは全体的にやや抑え気味のようだったが、この曲の間奏ではやっと彼の豪放なギターを聞くことができた。

 このアルバムでは、4曲のインストゥルメンタル曲が収められていて、3曲目と5曲目にある"D/FW"と"Hillbillies From Outerspace"、後半の曲、9曲目と10曲目の"Baboom/Mama Said"と"Brothers"は、いずれも趣の異なる曲だ。

 "Baboom/Mama Said"は、珍しくブラッキーでファンク調の曲だった。ナイル・ロジャーズもギターで参加しているところを見ると、彼の意見も反映されていたのだろう。女性のボーカルがより一層黒っぽさを演出している。
 曲自体は、兄弟2人とデニー・フリーマンというテキサス出身のミュージシャンで仕上げられていた。

 最後の曲の"Brothers"は5分5秒のスロー・ブルーズで、兄弟で書かれている曲だが、アコーディオンが使われている点が注目を引いた。
 最初のギター・ソロのパートは弟のスティーヴィー・レイ・ヴォーンが、次のパートはジミーが弾いている(と思う)。
 ギターが炸裂しているという印象を受けた曲で、どうせなら、兄弟による全曲オール・インストゥルメンタル曲でアルバムを埋めても十分いけると思ったのだが、もう二度と聞くことができないのが残念でならない。

 ジミー・ヴォーンは、テキサス州のダラスで活動を始め、オースティンに移って、ボーカリストのキム・ウィルソンとファビュラス・サンダーバーズを結成した。1974年頃のお話である。01stevie
 彼らは地道にライブを重ねていき、1979年に念願のアルバム・デビューを飾り、クリサリス・レコード系列からデビュー・アルバムを発表した。

 基本的には、ジミーのギターとキムのハーモニカをフィーチャーしたリズム&ブルーズのバンドだったが、徐々にロカビリーやポップなロックン・ロールの傾向を強めていった。

 特に、1982年に発表された4枚目のスタジオ・アルバム「T-バード・リズム」からその傾向が強くなっていった。何しろアルバムのプロデューサーだったのがニック・ロウだったからだ。
 これは、彼らがイギリスで公演をしたときに、ロックパイルと共演したことが切っ掛けとなって、バンド・メンバーのニックが申し出たようだ。

 それで次のアルバム、「タフ・イナフ」は1986年に発表されたが、今度のプロデューサーはデイヴ・エドモンズになっていた。ニックもデイヴも、ロックパイルでは“レノン&マッカートニー”的存在と言われていたから、ニックの次にはデイヴが担当したのだろう。

 このアルバムのタイトルと同じ曲"Tuff Enuff"は、彼らにとって唯一のトップ40の中に入ったシングル曲で、最高位は10位を記録している。615fdcnddl
 弟のバンドのダブル・トラブルは、ブルーズ中心のバンドだったからスティーヴィー・レイ・ヴォーンのギターも唸りを上げていたが、ファビュラス・サンダーバーズの方はもう少し音楽性が幅広くて、純粋なブルーズ・ミュージックというよりも、ロカビリーやロックン・ロール、メキシコ音楽の影響を受けたテックス・メックスなどもやっていた。だからアルバムにもそういう音楽性が反映されていた。

 それがよく表れているのが、最後のインストゥルメンタル曲である"Down at Antones"で、キムのブルーズ・ハープを前面に出したノリのよいオールディーズ・ナンバーのようなこの曲は、50年代のダンス・ミュージックのようなものだった。クラブでかければみんな踊りだすのではないかと思われる曲でもある。

 ところで、“Antones”とはオースティンにあるクラブの名前で、多くのミュージシャンやバンドが、今もなおここで切磋琢磨しているとのことである。

 自分はもう少しジミーのギターがフィーチャーされていてほしかったのだが、残念ながらそうではなかった。基本的にこのファビュラス・サンダーバーズは、ボーカルのキムのバンドなのだろう。だからキムが歌っていないときは、ハーモニカが聞こえてくるのである。

 もともとキムは北部のデトロイト出身で、オースティンでジミーと出会い、意気投合してバンドを結成したという経緯があった。だからというわけでもないのだろうが、当初はジミーのブルーズ色とキムのロックン・ロール色とがうまい具合に化学反応を示したのだろう。

 "Two Time My Lovin"なんかは、まるでヒューイ・ルイス&ザ・ニューズの"Stuck with You"のようだし、"Amnesia"はジェリー・リー・ルイスの"Great Balls of Fire"を思い出させてくれるほどだった。

 だからこのアルバムでは(というかこのバンドでは)、弟のスティーヴィー・レイ・ヴォーンのようなギター・ソロを聞くことは難しいのだ。確かに、"Wrap It Up"や"Why Get Up"などの曲の間奏では、的確なジミーのギター・ソロを聞くことができるのだが、ジミーの個性までは伝わってこない。

 エルヴィス・プレスリーの"Burning Love"のような"True Love"では、ジミーのギターが主張していて個人的には気に入っているのだが、こういう曲をもっと聞かせてほしかった。

 それでもこのアルバムの成功に気をよくしたバンド・メンバーとプロデューサーのデイヴ・エドモンズは1987年には「ホット・ナンバー」という同じ路線のアルバムを発表したのだが、残念ながら、このアルバムからはシングル・ヒットは生まれず、アルバム自体もそんなに話題を集めることはなかった。

 ここでデイヴ・エドモンズとは縁を切って、1989年の次作はメンフィスで録音した。このアルバムからは、トム・クルーズが主演した映画「カクテル」の挿入歌"Powerful Stuff"がヒットして、再び彼らは注目を集めた。

 だが、バンドは成功しても、ジミーとしては弟スティーヴィー・レイ・ヴォーンの活躍が頭にあったのだろう、ジミー自身も1990年にファビュラス・サンダーバーズを脱退して、ソロ活動を始めるようになったのである。
 
 その後のファビュラス・サンダーバーズは、活動は続けているものの、オリジナル・メンバーは、ボーカリストのキム・ウィルソンだけになってしまった。ジミーが脱退するときには、そういう傾向や雰囲気をジミーは感じ取っていたのかもしれない。

 ジミーは現在66歳。弟スティーヴィー・レイ・ヴォーンの遺志を受け継ぐかのように、現役プレイヤーとして現在のブルーズ界を牽引している。D38a7b4ec600f1e1dbfb64e08c5870af
 ギタリストとしてはそんなに派手な印象はないのだけれど、その堅実なプレイには定評がある。2001年にはグラミー賞も受賞しているし、これからも活躍してほしいミュージシャンの一人だと思っている。

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2017年7月17日 (月)

スティーヴィー・レイ・ヴォーン(2)

 スティーヴィー・レイ・ヴォーン(以下S.R.V.と略す)と彼のバンド、ダブル・トラブルは、1985年に3枚目のアルバム「ソウル・トゥ・ソウル」を発表したが、その前後に全米を含むワールド・ツアーを行った。もちろん、日本での公演も含まれていて、その時は東京、大阪、名古屋の3か所で行われていた。

 翌年には、その時の模様を収録した2枚組ライヴ・アルバム(CDでは1枚組)が発表された。残念ながら日本公演でのライヴ演奏は含まれていないが、1985年7月16日から19日にかけて行われたスイスのモントルー・ジャズ・フェスティバル、地元テキサス州のオースティンやダラスでの演奏が13曲分収められていた。51xxfjpubpl
 このライヴ・アルバムは、それまでの3枚のアルバムから10曲、カバー曲の3曲で構成されていた。デビュー・アルバムの「テキサス・フラッド~ブルースの洪水~」からは"Pride And Joy"、"Mary Had A Little Lamb"、"Texas Flood"、"Love Struck Baby"の4曲、セカンド・アルバムの「テキサス・ハリケーン」からは"Cold Shot"とジミィ・ヘンドリックスのカバー曲"Voodoo Chile"の2曲、そしてサード・アルバムの「ソウル・トゥ・ソウル」からは"Say What!"、"Ain't Gone'n' Give Up On Love"、"Look At Little Sister"、"Change It"の4曲だった。

 カバー曲は、ベック、ボガート&アピスも1973年にカバーしたスティーヴィー・ワンダーの名曲"Superstition"、チェスター・バーネットことハウリン・ウルフの1958年のブルーズ"I'm Leaving You(Commit A Crime)"、そして実在したギャングのことを歌った1980年の"Willie the Wimp"の3曲で、"Willie the Wimp"は兄のジミー・ヴォーンも録音していた曲だった。

 そして、3歳年上のジミー・ヴォーンもこのライヴ・アルバムに参加していて、"Willie the Wimp"、"Look At Little Sister"、"Love Struck Baby"、"Change It"の4曲で、彼のギターを聞くことができる。

 このアルバムで特筆すべきことは、キーボードの存在である。リズム・セクションは、以前からの付き合いだったベース・ギターのトミー・シャノン、ドラムスにはクリス・レイトンだが、サード・アルバムから参加したキーボーディストのリーズ・ワイナンスのオルガンやピアノでの演奏が、サウンドに色どりを添え、音の厚みをもたらしているのである。

 ただ、演奏に関してはあくまでもバックの演奏に徹していて、決して目立っているわけではない。主役のS.R.V.の引き立て役に回っている。その姿勢に好感が持てる。
 冒頭の曲"Say What!"ではやや目立ってはいるものの、後半の"Voodoo Chile"ではほとんど目立たない。その次の"Love Struck Baby"ではブギウギ調のピアノ演奏がよかった。

 とにかく、このライヴ・アルバムでは、S.R.V.が気持ちいいほど弾きまくっていて、ファンとしては十分堪能できた。速いテンポの"Say What!"とスロー・ブルーズの"Ain't Gone'n' Give Up On Love"の最初の2曲を聞いただけで、もうこのアルバムの素晴らしさが分かるというものだった。“ロバート・ジョンソンの後継者”、“帰ってきたクラプトン”そんなキャッチ・フレーズが浮かぶアルバムでもある。

 S.R.V.は、1954年の10月にテキサス州のダラスに生まれた。子どもの頃からB.B.キングやレイ・チャールズの曲、ジェフ・ベックなどのイギリスのロック・ミュージックなどを聞いて育ち、12歳で演奏活動を始めた。最初は、兄ジミーのバンドでベース・ギターを弾いていたようだ。

 その時に、アルバート・キングのテープを聞いて、生涯をかけてブルーズを追い求めようと決意したと言われている。“彼らの演奏を聞いていると、何故あんなにリラックスして演れるのか不思議に思うよ。だからいまだに僕は勉強中の身さ。残りの人生の全てを費やしても演ってみたいんだ。その境地にたどり着くまでね”

 その後、S.R.V.は高校に入学するも、毎晩クラブで演奏していたため、学業との両立が立たずに高校を中退した。そして、水を得た魚のように、ダラスからオースティンに移って、クラブで住み込みのような生活を続けながら、毎晩ステージに立って演奏を続けるのであった。

 そんな中で、盟友のトミーとクリスに出会って、3人でバンドを結成した。まもなくこの3人のバンド、“ダブル・トラブル”はオースティンの人気バンドになり、しばらくしてテキサス中にその名が響き渡っていったのである。12096487_10207885073903892_33987225
 彼が世界的に有名になったのは28歳の時だったが、10代の後半からドラッグに手を出し始め、20歳を超えた時にはアルコールとコカインを一緒に摂取するようになったていた。もともと6歳頃から父親のお酒を盗んでは嗜んでいたようで、そのうち自分で調合してオリジナルのお酒を造っていたと言われている。本当の話だろうか?

 実際に、彼が24歳の時、テキサス州のヒューストンの楽屋でコカインを吸引していたところを逮捕されて、1000ドルの保釈金を払っている。マディ・ウォーターズのオープニング・アクトとして出演する前だった。
 マディは彼が薬物中毒だということを知っていて、S.R.V.は素晴らしいギタリストだが、このままいけば、40歳まで生きられないだろうと語ったという。

 とにかく、S.R.V.には飲酒のみならずドラッグの常習者だったようで、彼が成功の階段を駆け足で登るのと同時に、その摂取量も増えていった。特に1985年から86年にかけてのワールド・ツアー中は、そのストレスからか、ほぼ毎日ドラッグ漬けだったようだ。

 1986年9月のドイツ公演後、ホテルに戻ったS.R.V.は脱水症状になり、急遽、病院に運ばれた。医者からはこのままいけば、あと1ヶ月もつかどうかわからないとまで言われたらしい。まさに死の一歩手前だったのである。

 アメリカに戻ったS.R.V.はジョージア州アトランタにある医療施設に入所し、治療に専念することになった。約1か月の治療の後、彼は故郷のダラスに戻ってリハビリを行っている。

 また残念なことに、1987年の1月にS.R.V.は離婚を経験した。妻の方から切り出されたようだ。やはりロック・ミュージシャンとの生活は、常識外れなだけに、気苦労が多かったのかもしれない。
 だから、次のアルバムまで約2年かかっている。彼の体調回復と心の痛手を解消するためには、それだけの年月が必要だったのだろう。

 彼の4枚目のスタジオ・アルバムは、1989年の6月に発表された。今まで通りのギター中心のブルーズ曲に加えて、ブラス・セクションも加えての豪華なレコーディングになっていた。51s7gqx8mql
 このアルバム「イン・ステップ」は、全米アルバム・チャートで33位を記録し、ダブル・プラチナ・アルバムに認定された。また、グラミー賞のベスト・コンテンポラリー・ブルーズ・アルバム賞も獲得している。
 ちなみに、ルー・リードは、このアルバムを1989年度のベスト・アルバムの1枚と評価していて、自分の友人たちに勧めていたらしい。

 エリック・クラプトンは、薬物中毒から回復したときには、いわゆる“レイド・バック”して戻ってきたのだが、S.R.V.の場合は、以前よりもより一層ブルーズ色の濃いアルバムを発表した。ある意味、彼にとっては、今後の進む方向性というか決意を込めたようなアルバムだったと思う。自分にはこれしかないんだという気持ちだったのではないだろうか。

 アルバムの中のいくつかの曲は、ドイル・ブラムホールとの共作になっているし、中にはS.R.V.がリハビリ中に、バンド・メンバーが中心となって作った"Crossfire"という曲も含まれていた。
 また彼一人で作った"Travis Walk"、"Riviera Paradise"という曲も含まれていた。両方ともインストゥルメンタル曲で、後者の方ではジェフ・ベックのようなクールなスロー・バラードの演奏を聞くことができる。

 カバー曲は3曲で、ウィリー・ディクソンの1961年の曲"Let Me Love You Baby"、バディ・ガイの1965年の曲"Leave My Girl Alone"、ハウリン・ウルフの1964年の"My Country Sugar Mama"のサイドBだった"Love Me Darlin'"である。

 自分は、このアルバムの印象としては、まさに新しいスティーヴィー・レイ・ヴォーンの姿を顕現し、次のステップとしての方向性を指し示すものだと感じていた。

 1曲目の"The House is Rockin'"なんかは、50年代か60年代の古いブルーズ曲のカバーだと思っていたら、S.R.V.とドイル・ブラムホールの共作曲だった。2分20秒余りの短い曲なのに、ギターは自己主張し、ピアノは踊っていて、超カッコいい。

 また、インストゥルメンタル曲の"Travis Walk"はスピーディーで、自分もギタリストならこんな曲を弾いてみたいと思わせるものだった。また、キーボード担当のリーズの転がるようなピアノ・プレイが短いながらも印象的だった。

 9曲目の"Love Me Darlin'"も3分21秒しかないのに、長く感じた。たぶんギターの音数が多いからだろう。しかも他の曲もそうなのだが、この曲でもバリバリと弾きまくっていて、素晴らしい。きっと天国のハウリン・ウルフも喜んでいるに違いない。

 そして最後の曲"Riviera Paradise"は、ジャズっぽくて、今までの彼とは違う趣の曲だった。それこそサンタナの「キャラヴァンサライ」の中の曲か、ジェフ・ベックの「ワイヤード」のアウトテイクの曲のようで、しっとりとした情感がクールなギターとエレクトリック・ピアノによって進行していくのである。8分49秒もある長い曲で、S.R.V.のオリジナル曲だった。

 このアルバムは、彼を見出してくれたミュージシャンでプロデューサーでもあったジョン・ハモンドに捧げられている。ジョンは、1987年の10月に74歳で亡くなった。病死だった。
 そのせいだろう、このアルバムでのS.R.V.のギターは、何かに憑りつかれたように素晴らしい演奏をしていた。

 ただ、この時はまさか自分もジョンのそばに行くとは思ってもみなかっただろう。薬物中毒を克服して、新境地を開いた矢先の出来事だった。運命とはまさに皮肉なものである。

 1990年8月26日、ウィスコンシン州イースト・トロイにあるアルパイン・ヴァレー・ミュージック・シアターにおいて、エリック・クラプトンやロバート・クレイ、バディ・ガイらとともに、“ブルーズ・サミット”を開催し、大成功させたスティーヴィー・レイ・ヴォーンは、シカゴ行きのヘリコプターに乗り込んだ。

 当初は予定にはなかったのだが、席が空いているからという理由で乗り込んだのである。同機には、クラプトンのエージェントやツアー・マネージャー、ボディガードの3人も同乗していた。

 翌日27日の未明に、濃霧のための視界不良のせいか、ヘリコプターは近くのスキー場のゲレンデに墜落して、パイロットを含む乗員全員が亡くなった。S.R.V.は35歳だった。

 彼は1983年のデビューから約7年間で、公式には4枚のスタジオ・アルバムと1枚のライヴ・アルバムを発表している。歴史に“もし”という言葉は禁句かもしれないが、もし彼が生きていたらと思うと、残念で残念でたまらない。

 彼のことだから、ブルーズ一辺倒の音楽をやることは間違いないだろうが、印象的でノリのよいリフや美しいメロディを残しただろう。
 彼の死後、1984年から89年までのアウトテイク集を集めたアルバム「ザ・スカイ・イズ・クライング」が発表されたが、選曲したのは兄のジミーだった。51lmysl4il
 S.R.V.の素晴らしさは、そのブルーズの解釈性の巧みさだったのではないだろうか。基本はブルーズだったが、それをロック風に解釈して見せたり、後年にはジャズ的要素も取り入れようとさえしていた。そのまま続いていたなら、ひょっとしたらソウル風楽曲やファンク色も取り入れたものも発表していたのかもしれない。

 ロバート・ジョンソンのように、本物のブルーズ・ミュージシャンは短命なのだろうか。そして、悲劇的な死を迎えるのだろうか。

 “スティーヴィーは本当に素晴らしいやつだったね。あいつのギター・プレイと歌には人を引き付けずにはいられない何かがあった”(ボブ・ディラン)

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2017年7月10日 (月)

スティーヴィー・レイ・ヴォーン(1)

 ギタリストの中には、自分の名前を頭文字で表す人が何人かいるようで、B.B.キングを始め、E.C.はエリック・クラプトン、J.B.はジェフ・ベックのことを表している。そんなアルファベットがギターケース上に書かれているのを、見た人もいるのではないだろうか。

 それでS.R.V.とくれば、もうお分かりだと思うけれど、今回のお題であるスティーヴィー・レイ・ヴォーンのことを意味している。ミドルネームも含んでいるので、長い名前をわかりやすく表示するのには、確かに適しているだろう。ここでもS.R.V.と表示しようと思う。(S.V.ならスティーヴ・ヴァイになってしまう!)Mi0001399374
 S.R.V.の存在が世間で知られるようになったのは、よく言われているように、デヴィッド・ボウイの1983年のアルバム「レッツ・ダンス」に参加して、そのギターの演奏が素晴らしかったからだ。

 もちろん、これは偶然の出来事ではなくて、デヴィッド・ボウイから声を掛けられたからだが、それに至るまでにいくつかの運命的な出来事がS.R.V.を待ち受けていたのである。

 1982年の4月23日に、S.R.V.と彼のバック・バンドだったダブル・トラブルは、ニューヨークのダンステリア・クラブで演奏をしていた。理由は、ローリング・ストーンズのツアー・サポートを決めるオーディションに参加していたからであった。

 彼らの演奏を最前列で見ていたロン・ウッドは、立ち上がってこう言ったという。“一緒にジャム・セッションをしよう”

 残念ながら、ストーンズのツアーには同行しなかったようだが、3ヶ月後にはスイスのモントルー・ジャズ・フェスティバルという伝統的なライヴで演奏をしていた。
 これはR&Bなどのプロデューサーだったジェリー・ウェクスラーの尽力によるところが大きい。

 ジェリーは、まだ無名だったころのS.R.V.のライヴ演奏をテキサスのオースティンで見て以来、彼らのファンになっていた。
 それで、レコーディング契約もない彼らをモントルー・ジャズ・フェスティバルのプロモーターに紹介して、何とか出演させてもらえるように頼んだのである。

 そして、そのフェスティバルに見に来ていたのが、デヴィッド・ボウイというわけだった。彼はステージ終了とともに、彼らのバック・ステージを訪れ、ブルーズのレコードやギターなどについて話し込んだ。
 S.R.V.のことをすっかり気に入ったボウイは、自分のアルバムのレコーディングに彼を招いたのであった。

 また、このときのモントルー・ジャズ・フェスティバルで、彼らの演奏を見ていた人は他にもいた。プロデューサーで自らもミュージシャンだったジョン・ハモンドである。

 ジョンは、有名なプロデューサーであり、彼によって見いだされ、世の中に紹介されたミュージシャンは数知れない。例えば、古くはビリー・ホリデーにカウント・ベイシー、ピート・シーガー、中期ではアレサ・フランクリンやボブ・ディランにジョージ・ベンソン、後期ではレナード・コーエンでありブルース・スプリングスティーン、そしてスティーヴィー・レイ・ヴォーンである。

 ジョン・ハモンドは、彼らのために1982年の11月から、ジャクソン・ブラウン所有のスタジオでレコーディングが行われるように取り図ってくれたのだ。
 そして、ジャクソン・ブラウン自身もスタジオだけでなく、必要なレコーディングの機材を揃えてやり、彼らをサポートした。

 そうして世に出たアルバムが、彼らのデビュー作である「テキサス・フラッド~ブルースの洪水~」だった。ニューヨークでのストーンズのオーディションから1年もたたないうちに彼らはレコード・デビューし、世界的に認められるようになったのである。61rie3zeil
 このアルバムは、彼らのライヴ演奏の雰囲気を活かすために、2日間で録音されている。ほとんどオーヴァー・ダビングも行われず、“一発録り”に近いものだった。
 だから、S.R.V.の豪放なギターやバックの荒々しいリズム・セクションが丸ごと収められていて、レコードの溝から飛び出してくるようなサウンドが響き渡っている。

 全10曲だが、オリジナルはそのうち6曲、残りはバディ・ガイの1967年の"Mary Had A Little Lamb"、ラリー・ディヴィスの"Texas Flood"、チェスター・バーネットの"Tell Me"、そして1964年にアイズレー・ブラザーズが発表した"Testify"だった。

 基本はブルーズなのだが、ロック・ミュージックとしても十分機能するほど、カッコいい。冒頭の"Love Struck Baby"や次の"Pride And Joy"などは2分や3分少々の曲なのだが、とても密度が濃くて、そんなに短くは感じられない。

 また、インストゥルメンタル曲の"Testify"などは、これぞまさにギターのお手本というような感じだ。キレのあるカッティングと滑走するようなフレージングは、ギター・キッズのお手本とするところだろう。

 インストゥルメンタル曲は他にもあって、"Rude Mood"は素早いシャッフル調の曲で、モントルー・ジャズ・フェスティバルでも紹介された。逆に"Lenny"は自由にゆったりと演奏されている。ジャズっぽい雰囲気を持つ一方で、ジミ・ヘンドリックスのような即興性もあわせ持っていて、ライヴでもしばしば演奏されていた。

 タイトルの"Lenny"は、当時のスティーヴィー・レイ・ヴォーンの奥さんだったレノーラから取られていて、彼は自分の愛用するギターにも同じ愛称をつけていた。

 このアルバムを制作する前に、S.R.V.はデヴィッド・ボウイの“シリアス・ムーンライト・ツアー”の参加を断っていて、自分のバンド、ダブル・トラブルとの活動に取り組んでいた。それだけ自分たちの活動を重視していたのだろう。

 スティーヴィー・レイ・ヴォーン&ダブル・トラブルは、アルバム発表後、アメリカやヨーロッパでのツアーを開始した。「テキサス・フラッド~ブルースの洪水~」は、ビルボードのアルバム・チャートで38位まで上昇し、ゴールド・ディスクを獲得している。

 彼らのセカンド・アルバムは、翌年の1984年に発表された。オリジナル盤は全8曲、約38分だった。当時のレコードは最大50分程度は録音できたから、これはやはり短い部類に入るだろう。

 このアルバムでも無駄な装飾をはぎ落した、スリムでスリリングな彼らの演奏を味わうことができる。今回もライヴ感を大切にしていて、ニューヨークのパワー・ステーション・スタジオにおいて、わずか19日間でレコーディングされていた。61k9yi3t6tl

 1曲目の"Scuttle Buttin'"は、S.R.V.によるオリジナルのインストゥルメンタル曲。最初聞いたときは、1分51秒という時間の中に、よくぞこれだけのテクニックやリズム感、リフのカッコよさなどを詰め込んだなという感じがした。まさに弾きまくっているという感じで、これならロック・ファンでも十分満足するに違いない。

 2曲目の"Couldn't Stand the Weather"と次の"The Things (That) I Used to Do"では、3歳年上の兄であるジミー・ヴォーンがリズム・ギターで参加している。
 この曲も中盤のギター・ソロが印象的だし、S.R.V.のよいところは、ギターのカッティングもソロも両方とも超一流という点だろう。MTVで、豪雨の中ギターを弾き続けていたスティーヴィー・レイ・ヴォーンのビデオ・クリップを思い出してしまった。

 もともとS.R.V.は、兄の影響で音楽を聞き始め、楽器を手にした。楽器を演奏してからはブルーズだが、その前はジミ・ヘンドリックスやエリック・クラプトン、ジェフ・ベックなどの音楽を聞いていたという。

 特に、ジミ・ヘンドリックスからの影響は強いようで、このアルバムでも"Voodoo Chile"をカバーしていた。しかもオリジナルに近い形での演奏だったから、ジミ・ヘン・ファンも感動するだろう。

 このアルバムでのカバー曲は4曲で、先ほどのジミ・ヘンの曲に、エディ・ジョーンズ(ギター・スリム)の1953年の曲"The Things (That) I Used to Do"、地元オースティンのブルーズ・ミュージシャンによって書かれた"Cold Shot"、シカゴのブルーズ・ギタリストのジミー・リードの曲"Tin Pan Alley"だ。

 特に、"Tin Pan Alley"は、スロー・ブルーズで、渋い演奏を堪能することができる。1曲目の"Scuttle Buttin'"とは対照的で9分11秒もあり、ときどき70年代のクラプトンの曲のように感じてしまった。今のクラプトンもこれくらいは弾いてほしいのだが、すっかり丸くなってしまったのでもう無理だろう。

 そしてこのアルバムでも、ジャズ・フレイバー溢れる"Stang's Swang"という曲が最後に置かれていて、途中のギターとサックスの掛け合いというかコール・アンド・レスポンスが見事であった。

 スティーヴィー・レイ・ヴォーンの魅力は、ブルーズのみならず、ロックやジャズまでも幅広く吸収し、消化して、その再解釈を提示してくれるところだろう。しかもそれが高度なテクニックに裏打ちされているのだから、非の打ち所がない。48070450b93b15ec040ec2ef4bd3f338

 結局、このアルバムも広く受け入れられ、ビルボードのチャートでは31位まで上がり、2作続けてゴールド・ディスクを獲得した。また、カナダやニュージーランドでもこのアルバムは、プラチナ・ディスクを獲得している。

 ブルーズとロックというジャンルの違いはあっても、エドワード・ヴァン・ヘイレン以来のギターのニュー・ヒーローが世界的にも認められていったのである。(To Be Continued...)

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2017年7月 3日 (月)

ジョン・デンバー

 さて、7月になった。7月の第1回目は、ジョン・デンバーである。特に意味はないのだが、今の日本ではもうその名前も忘れ去られているような気がしたので、彼の素晴らしさを再確認する意味でも少し記してみようと思った。

 ジョン・デンバーも、よく考えたら、いやよく考えなくても、1970年代のシンガー・ソングライターの一人だった。20161117091425583
 当時のシンガー・ソングライターは、どちらかというと時代の空気を反映したようなダークでブルーな曲を書いて歌う人が多かった。つまり、60年代に起きたベトナム戦争に対する反抗(学生運動)やヒッピー・ムーヴメントに対する失望感が反映していたのではないだろうか。

 その結果、無力感や厭世観が若者の間に流行っていき、日本では“シラケ世代”などと呼ばれていたし、諸外国でもドラッグに手を染めたり、社会からドロップアウトしていった人もいたように思う。

 だから1970年代の中頃にもなると、シンガー・ソングライターは、“怒れる若者の代弁者”ではなくて、日常の風景を切り取ることで、若者に“安息感”や“空虚感”を提示しようとしたのではないかと思っている。ジェイムズ・テイラーやジャニス・イアン、キャロル・キングなどのアルバムが売れたのも、先鋭的なメッセージがもう必要とされなくなった、そんな時代だったからではないだろうか。

 でも、ジョン・デンバーのイメージは、ちょっと違うような気がする。彼の曲を聞くと、明るくて希望のある、もしくは楽天的な気分にさせられるからだ。
 彼自身も、当時の雑誌などで『世界がなんで素晴らしいとこなのか、僕が歌うから聞いてくれ。なぜ肯定的なのかというと、すべてがいつも新鮮だからさ』と発言していた。

 彼の本名は、ヘンリー・ジョン・デューチエンドルフ・ジュニアといった。名前からわかるように、祖先はドイツ系の移民だった。彼の“デンバー”という名前は、のちに自分の好きなアメリカの都市の名前を選んだことによる。

 ジョンは、1943年の大晦日に、ニューメキシコ州のロズウェルで生まれた。父親が空軍のパイロットだったため、幼い頃から引っ越しを繰り返していたようだ。
 祖母がギターを買ってくれたため、子どもの頃から練習を始め、高校時代にはロック・バンドで演奏していた。

 テキサス工科大学では建築学を専攻していたが、学校に行くよりはクラブやバーなどで演奏することの方が多くなり、最終的には退学している。
 彼は、フォーク・グループのチャド・ミッチェル・トリオに参加して3年間ほど活動した後、1966年にアルバムを自主制作した。

 そのアルバムの中に、のちにピーター、ポール&マリーが歌って1969年の12月に全米No.1に輝いた"Leaving on A Jet Plane"が含まれていた。ピーター、ポール&マリーにとっては最初で最後の首位になった曲だった。
 ただ、この曲のオリジナル・タイトルは"Babe, I Hate to Go"というもので、ピーター、ポール&マリーのプロデューサーだったミルト・オクンがタイトルを変更している。

 この曲のヒットのおかげで、彼は1969年にデビュー・アルバムを当時のRCAレコードから発表することができた。
 1971年8月には、シングル"Take Me Home, Country Roads"が全米2位のヒットを記録し、翌年には"Rocky Mountain High"がビルボードのシングル・チャートの9位に顔を出し、この後徐々にヒットを出すようになった。

 1973年の3月には、"Sunshine on My Shoulders"がついにチャートで1位を記録した。この曲は、それまでの陽気で幸福感の満ちたメジャー調の曲ではなくて、マイナーな雰囲気を持つものだった。その理由を彼は、次のように述べている。

 『落ち込んでいたから、ブルーな感じの歌を書きたいと思っていたんだ。僕の歌の楽天性を嫌がる人は多いけれども、レコードを聞いてもらえれば、苦しみも歌っているということが分かると思うよ』

 さらに翌年の1974年7月には、"Annie's Song"が2週間連続でチャートの首位に輝いている。
 この曲は、大学時代の恋人で1967年に結婚したアン・マーテルについて書いた曲で、スキー・リフトに乗りながら約10分程度でできたという。アメリカの雑誌「ピープル」は、この曲を評して、ジョン・デンバーが書いた最も素晴らしいラブ・ソングであると述べていた。

 この時、ジョンはスイスにいた。実は、ジョンとアンの間に溝ができていて深刻な状況だったらしい。
 ジョンは一人で家を出て、スイスに旅行に出かけた。6日間の旅行だったが、アンにとっては3ヶ月くらいに感じられたようで、結局、アンから涙まじりの長距離電話がかかってきて、ジョンはアメリカに戻ったのである。

 ただ運命は皮肉なもので、彼らの結婚生活は1983年に終わりを迎えた。16年間という期間だったが、ジョンにとっては最も幸福な期間だったと述べている。確かに、この間に彼の人気はピークを迎えていたのは、間違いないことだった。41e24n6ab5l_2

 ジョンには彼が歌った曲の中では、4枚の全米No.1がある。3枚目は1975年6月に1週間だけ首位に立った"Thank God I'm A Country Boy"で、元々は1974年に録音された曲だった。
 曲を書いたのはジョンではなく、彼のバンドのギタリストだったジョン・マーティン・ソマーズだった。

 1975年は、彼のやることなすことがすべてうまくいった年だった。彼が出演したテレビ番組「アン・イヴニング・ウィズ・ジョン・デンバー」がエミー賞の最優秀音楽バラエティ番組賞を受賞したし、カントリー・ミュージック協会の年間エンターティナー賞も獲得している。

 また、彼の関心は自然に向けられ、自然との調和や環境保護にも関心を抱くようになった。そのために財団を創設し、環境保護や飢餓対策のための運動を積極的に推進し、援助するようになった。

 また、飛行機操縦のライセンスを獲得し、自家用機を使って講演活動などにも積極的に関わるようになった。この時期の彼の活動は、音楽のみならず人道支援活動など、幅広く行われていたのである。

 そしてまた、この年には、もう1枚シングル曲が全米No.1を獲得している。これも1週間だけ9月に首位になった"I'm Sorry/Calypso"という曲で、両面ヒットを記録していた。

 "I'm Sorry"が首位に立った後、アメリカのラジ局は"Calypso"を積極的にオンエアしていた。この曲は、フランスの海洋科学者であるジャック・クストーの功績を讃えて、彼が使用した調査船カリプソ号にちなんで作られた曲で、"I'm Sorry"がヒット中に、この曲もまたシングルのサイドAとして認定された。

 『僕は、人がみんな人生のうちでいつかは静かなところに行って、山のふもとの湖のそばに腰かけて、嵐が行ったり来たりするのを聞くことができたらなあと思う。そこには美しい音楽があって、ただそれに耳を傾ければいいんだ』いかにもナチュラリストらしい言葉だと思う。これが高じれば、プログレの世界になるのだが、その一歩手前で留まっているところが、ジョンらしい。

 この後、コンスタントにアルバムやシングルを発表するも、大ヒットにはつながらなかった。一つは、彼の興味・関心が映画やテレビの世界に移り、映画に出演したり、グラミー賞授賞式やテレビ番組の出演やMCを担当するようになったことも影響があっただろう。

 また先ほどにも述べたように、16年間の結婚生活にピリオドを打ったということも、ジョンに何らかの影響を与えたに違いないだろう。

 それでも80年代にはサラエボでの冬季オリンピックのテーマ曲を歌ったり、ニューヨークで写真の個展を開催したりと、多彩な活動を展開しているし、ユニセフ基金のスポークスマンも務めている。

 残念なことに、1997年の10月12日に、自身が操縦していたセスナ機が墜落して、彼は帰らぬ人となった。享年53歳だった。
 カントリー&ウェスタンの影響を受けながらも、フォーク・ソングを中心とした彼の音楽は、新しい形としてのシンガー・ソングライター像を示したと思っている。83w8387839381e83f839383o815ba
 それはポップ・ミュージックの範疇として語られる音楽かもしれないが、それだけ多くの人を引き付ける魅力が、彼の作った曲に備わっていたということだろう。彼の早すぎる死が悔やまれてならないのである。

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2017年6月26日 (月)

ジム・クロウチ

 さて、6月の最後はジム・クロウチについて語ることにしよう。彼については、このブログが開設されて間もない頃に、「たまにはポップ・ソングをpart2」という短い拙文の中で綴っていたのだが、十分な紹介ができずに終わってしまっていた。
 それではジムに対しても失礼だと思ったし、彼の歌の素晴らしさをもっと世の中の人に知ってもらいたかったので、きちんと取り上げることにした次第である。10731499jimcroce1450838062
 ジムは、アメリカのシンガー・ソングライターだった。「だった」ということは、文字通りで、すでに彼はこの世にいないということを意味している。

 1973年9月20日、ノースウエスト・ルイジアナ大学での公演を終えたジム一行は、約112キロ離れたテキサス州シャーマンへ向かうために、ナッチトチェス飛行場でチャーター機に乗り込んだ。オースティン大学での公演が控えていたからだった。

 飛行機は離陸後まもなく、飛行場内に1本しかないぺカンの木に接触し、ジムを含む乗員全員が即死した。享年30歳だった。墜落事故の原因は諸説あるが、パイロットの冠動脈疾患のせいで意識を失ったという説が有力である。パイロットは57歳のベテランだった。0165ce232bd1c6fd2403e8be4fd5976d_2
 ジム・クロウチは1943年の1月に、フィラデルフィアで生まれた。両親はイタリア系の移民で、彼の本名はジェイムズ・ジョセフ・クロウチといった。
 子どもの頃から音楽が好きで、最初はアコーディオンを弾いていたらしい。5歳ころのお話である。

 大学生になると、フォーク・ソングに興味を持ちようになり、スパイアーズというグループを結成して、人前で歌うようになった。また、おもちゃ屋でアルバイトをしてアコースティック・ギターを購入していた。
 その時に、トミー・ウェストと友人になった。彼はのちにテリー・キャッシュマンという人とプロデューサー・チームを結成し、ジムを前面的にバックアップするようになる。

 大学を卒業してからは定職にも就かず、時間があれば音楽活動をするようになった。地元のヤミのラジオ局の広告取りの仕事をしたり、建設現場での肉体労働のような作業をしながら、自分のオリジナル音楽を追及していった。

 ある時、アルバイト中に大型ハンマーで自分の左手を打ち付けてしまった。幸いにして指は切らずに済んだものの、傷ついた指を使わないで済むような変則的なギター奏法を考えなければならなかったようだ。

 1966年に、イングリットという女性と結婚したジムは当面の生活費を稼ぐために、友人のトミーのアドバイスを受け入れ、ニューヨークに引っ越ししてキャピトル・レコードと契約し、妻と一緒にデュオ・アルバム「アプローチング・ディ」を制作し発表したが、残念ながら注目を集めることはなかった。

 失望したジム夫婦は、ペンシルヴァニアに戻って様々な仕事に従事しながら、次の機会をうかがっていた。
 ジムは、トラックの運転手をしながら曲を書き続け、6曲分をカセットテープに吹き込んで、ニューヨークに住むトミーに送ったのである。

 曲を聞いたトミーとテリーは、その内容にいたく感動し、ジムにニューヨークに来てレコーディングをするように勧めた。1972年のことだった。その年の7月にデビュー・アルバム「ジムに手を出すな」が発表され、2枚のシングル・ヒットを生み出した。

 アルバム・タイトルと同名の"You Don't Mess Around With Jim"はシングル・チャートの8位に、続く"Operator"は17位まで上昇した。
 そのせいか、このデビュー・アルバムはゴールド・ディスクを獲得し、アルバム・チャートで首位を獲得している。

 気をよくしたジムは、続くセカンド・アルバム「ライフ・アンド・タイムズ」を翌年の7月に発表した。このアルバムからの2枚目のシングル曲"Bad, Bad Leroy Brown"は、7月21日から2週間連続でシングル・チャートの首位に輝いた。そして、このアルバムもまたチャートの1位に輝き、ゴールド・ディスクを獲得している。

 ジムは、この曲のモチーフを、彼がニュージャージーで電話の配線工をしていた時に知り合った友人から頂戴している。

 ジムの話によると、“彼は1週間ばかり働いた後、疲れた、もううんざりだと言って、仕事場から逃げ出してしまった。その後、給料を取りに戻ったところを、無断欠勤したという理由で逮捕されてしまった。彼のしゃべる話を聞いたときに、いつか彼のことを歌にしようと思った”ということだった。

 1973年の9月12日には、彼の3枚目のアルバム「アイ・ガッタ・ネイム」のレコーディングが完成した。このアルバムのタイトル曲は、映画「ラスト・アメリカン・ヒーロー」の主題歌に使用された。
 また、このアルバムはこの年の12月に発表され、全米アルバム・チャートでは2位を記録している。ちなみにこのアルバムの邦題には、「美しすぎる遺作」という副題が付けられていた。

 同時に、この日の夜、当時のABCテレビでドキュメンタリー番組が放映された。内容は、癌で亡くなった若い女性の半生を描いたものだったが、このテレビ番組のテーマ・ソングにジム・クロウチの"Time in A Bottle"が選ばれたのである。

 放映後、全米にあるABCテレビの各放送局に、この主題歌は誰が歌っているのか、どこで手に入れることができるのか等々の問い合わせが殺到した。この曲は、まだ世に出回っていなかったのである。そして、この日から8日後に彼は亡くなったのだ。

 彼の死後、3枚目のアルバムが発表され、そこからシングル曲"I Got A Name"がチャートで10位になったとき、"Time in A Bottle"がシングル・カットされ、12月29日から2週間、シングル・チャートの首位に立っている。
 つまり、彼の死後に発表された曲が1位を記録したわけで、当然のことながら、彼はこの記録を知ることはなかった。

 また、"I Got A Name"はジムの作品ではなく、ロバータ・フラックが歌ったことで有名になった"Killing Me Softly With His Song"を手掛けたチャールズ・フォックスとノーマン・ギムベルによるもので、息子の成功を夢見ながら亡くなっていったジムの父親のことを示唆しているようで、ジム自身が気に入って自分のアルバムの中に取り入れたという。

 ジムの父親のことを歌っているようで、実際は、ジム自身にも当てはまるような曲になってしまった。若い時に苦労を重ね、まさにこれからという時にジムは亡くなったわけで、運命の皮肉さを感ぜざるを得ない。

 言い忘れていたが、"Time in A Bottle"はジムのデビュー・アルバムに収められていた曲で、ジムもまさかシングル・カットされるとは思ってもみなかっただろう。

 この曲のリード・アコースティック・ギターは、モーリー・ミューライゼンという人が演奏していて、彼はジムの重要なパートナーだった。この曲以外にも"Operator"や"I'll Have To Say I Love You in A Song"などでも彼の演奏を聞くことができる。そしてまた、モーリーもまたジムと同じ飛行機に同乗していたため、帰らぬ人になってしまったのである。
「交換手さんよ
ちょっと手伝ってくれないか
わかるだろ
電話帳が古くて文字が薄いんだ
彼女はロスに住んでいる
俺の元親友だったレイと一緒にね
彼女が言うには知り合いだけど
時々嫌いになるっていう奴なんだ

だから奴らがうまくいくとは
思えない
でも、そのことは忘れてくれ
もしわかったら番号を教えてくれよ
電話してみるから
ただ元気だと言うだけさ
俺は何とか順調だ
そんな自分の言葉に
勇気づけられることを
願っているけど
だけど本当じゃなかった
そんなふうには思えないんだ

交換手さんよ
助けてくれよ
あんたが教えてくれた
番号が見えないんだ
目の中に
何か引っかかっていてね
俺を救ってくれるはずの
彼女との愛について考えると
いつもこうなるんだ

交換手さんよ
今までのことは忘れてくれ
誰もそこにはいないさ
ただ俺はあんたと
話したかっただけさ
時間をとってくれてありがとう
ほんとにあんたは親切だな
電話料金はあんたのもんさ」
(“Operator” 訳;プロフェッサー・ケイ)

 電話交換手に昔の恋人の電話番号を教えてもらうように頼んでおきながら、番号が分かっても電話を掛けるのを躊躇して、結局やめてしまうという男の心情を素直に表現していて、同じような経験をしたことがある人はきっと泣けてくるのではないかと思ってしまう。

 しかも、ジムの声自体も哀愁味があって、曲のイメージと見事に重なってしまうのである。この"Operator"や"Time in A Bottle"、"Photographs & Memories"などのスローやミディアム調の曲だけではない。
 "Rapid Roy"や"Workin' at the Carwash Blues"などのテンポのよい曲でも、どこかユーモラスで諧謔さが漂っていて、一度聞くと忘れられない。41uy2vr4jbl
 それは彼の温かな人間性から来るのであろう。決して裕福ではなかった移民の家庭で育ち、父親は息子の成功を見ることもなく亡くなってしまう。

 彼自身も様々な職業を経験し、ある意味、報われない人生を歩んでいる人たちとの交友を通して学んだことが、彼の人生観や人物観察の基となり、それが歌詞や曲調に反映しているようだ。

 何度も言うけれど、30歳という若さで、まさにこれから本格的にスポットライトが当たろうとする時期だった。象徴的なアルバム・タイトルや亡くなった後でのNo.1ヒットなど、ひょっとしたら彼の命運は最初から決定事項だったのかと思わせるような人生だった。

 彼の曲を聞くと、思わずそんなことを考えてしまうのである。

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2017年6月19日 (月)

ロイ・オービソン

 拙稿の「ドン・マクリーン」のところで、彼がロイ・オービソンの1961年のヒット曲"Crying"を歌ってヒットさせた、と記していたが、その元歌を歌ったロイ・オービソンのことについては、まだ触れていなかったので、ここで改めて記そうと思った。Imgd9f3d9b7zikezj
 ロイ・オービソンには、全米No.1になった曲が2曲ある。1曲目は1961年6月に1週間だけ首位になった"Running Scared"で、もう1曲は、1964年の9月に3週間首位に輝いた"Oh, Pretty Woman"だ。

 前者の"Running Scared"は、ロイが作詞家のジョー・メルソンと1952年に作った曲で、わずか5分くらいで書き上げたものだった。
 ボレロ調のスローなバラードのこの曲は2分余りと、短い曲だったが、まったりするような雰囲気が漂っている。たぶん、ロイの歌い方が醸し出すものだろう。

 本当はエルヴィス・プレスリーに歌ってもらいたくて作ったらしく、ロイはわざわざエルヴィス・プレスリーのメンフィスの自宅までもって行ったのだが、朝早すぎてまだ寝ていたらしく、結局、具体的な話はできなかったらしい。
 仕方ないので、エヴァリー・ブラザーズのフィル・エヴァリーに曲を聞かせて、気に入れば歌ってほしいと言うつもりだったのだが、話だけで終わってしまったということだった。

 "Oh, Pretty Woman"の方は、1982年にはアメリカのロック・バンド、ヴァン・ヘイレンがリバイバル・ヒットさせているし、1990年の同名映画の主題歌でも使われたので、多くの方が知っているのではないだろうか。

 この曲は、アメリカだけでなくイギリスでもシングル・チャートの首位になっている。また、米英のみならず、ドイツやオランダ、カナダなどの国々でもヒットを記録し、全世界で400万枚以上のベスト・セラー曲になった。

 ロイ・オービソンは、1936年4月23日にテキサス州のヴァーノンにあるウインクというところで生まれた。本名は、ロイ・ケルトン・オービソンといった。父親は油田で働いていて、母親は看護師だった。

 6歳の頃に、父親のアドバイスに従ってギターとハーモニカを習うようになり、8歳の時には地元カーミットのKVWCラジオ局の番組でギターを演奏するようになった。さらには、テレビ番組にも出演するようになり、だんだんと有名になっていった。

 高校生の頃には、“ウインク・ウェスターナー”というバンドを結成したし、大学に入学してからは“ティーン・キングス”というグループを組んで、主にカントリー&ウェスタンを中心にクラブやパーティーで演奏するようになった。
 ちょうど映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー」の中で、パーティーでギターを演奏するシーンがあったが、あんな感じだったのだろう。ただし、映画の中ではまだ誕生していないロックン・ロールだったが…

 ロイは、ノース・テキサス大学に通っていたが、お友達の中にはあのパット・ブーンもいて、彼の成功に刺激を受けて、ロイも本格的にミュージシャンになろうと思ったそうである。
 それで、バディ・ホリーのマネージャー兼プロデューサーだったノーマン・ペティに認められて、彼のスタジオで何曲かレコーディングを行った。

 1955年に、その中の曲がシングルとして発表されたがヒットしなかった。そのとき、テレビ番組で共演したジョニー・キャッシュから自分が所属していたメンフィスのサン・レコードを勧められたロイは、社長のサム・フィリップスに会いに行ったのである。

 サン・レコードといえば、あのエルヴィス・プレスリーやカール・パーキンス、ジェリー・リー・ルイス等々の有名ミュージシャンが在籍していた会社であり、サム・フィリップスは、かつてエルヴィスのマネージャーでもあった。

 そのサム社長は、ロイの歌い方や声に興味を持ち、契約を交わした。そして1955年にシングル化されていた"Ooby Dooby"、"Go Go Go"を再発したのだが、これはチャートの59位まで上昇した。

 気をよくしたサム社長は、ちょうどエルヴィスがRCAレコードに引き抜かれたこともあって、ロイをエルヴィスの後継者にしようとした。ただ、サム社長はロックン・ローラーとしてロイを育てたかったようだが、ロイ自身はバラードを歌いたかったようだった。

 そういう方向性の違いもあったせいか、3枚のシングルを発表するも、いずれも不発に終わり、失意のロイはエルヴィスの後を追うように、RCAレコードに自身も移籍したのである。

 残念ながら、1955年から59年までのロイ・オービソンについては、むしろヒットに恵まれない不遇な期間だったようだ。

 彼の運が好転するのは、59年にモニュメント・レコードに移籍したころからだった。1960年に"Uptown"がチャートの72位に入ると、続いて"Only the Lonely"がチャートの2位になり、イギリスでは首位になった。ここから彼の快進撃が始まるのである。

 彼の全盛期は、このモニュメント・レコード時代ではないだろうか。20枚のシングルがリリースされ、そのうち両面ヒットを含む21曲が全米シングル・チャートに入り、9曲がトップ・テンに、上記のように2曲が首位に立ったのである。

 これはイギリスでも言えることで、あのザ・ビートルズやザ・ローリング・ストーンズ等が大活躍していた60年代に、ロイは30曲をチャートに登場させ、そのうち10曲がトップ・テンに入って、3曲が首位に輝いている。(イギリスでの首位の曲は、"Only the Lonely"、"It's Over"、"Oh, Pretty Woman"の3曲だった)

 なぜかイギリスでは人気の高いロイ・オービソンだった。1963年にはザ・ビートルズと一緒にライヴ公演を行っているし、70年代に入っても1975年には合計55回にわたる全英ツアーを敢行していた。

 彼の最後の所属レコード会社は、イギリスのヴァージン・レコードだったし、イギリス人の間では、海の向こうの伝説的なミュージシャンというような認識があるのだろう。51s6tkjdqkl
 1965年に、ロイはレコード会社をMGMというところに移る。契約金は1年間で100万ドル、契約期間は20年間というもので、まさに超VIPの待遇だった。
 ところが、人生はロイにとっては、そう上手くはいかなかった。7年間の在籍で、15枚のシングルを発表したが、ヒットしたのはその約半分の7曲、一番成功したシングル曲は、1965年の"Ride Away"で、25位止まりだったのである。

 さらに不幸は続く。仕事面だけでなく、私生活では、1966年に奥方のクローディット・チェスター・オービソンがオートバイ事故で亡くなった。享年26歳だった。
 また、2年後にはテネシーにあった自宅が火事で全焼し、ロイ・ジュニアとトニーの2人の息子を失っている。

 1969年にはバーバラという人と再婚をしたが、アメリカで再び音楽活動を始めたのは、1977年になってからだった。それだけ時間がかかったのも、心の整理がつかなかったからだろう。

 MGMの次には、マーキュリー・レコード、アサイラム・レコードと転々と移籍を繰り返していったが、1979年になって映画「ローディ」に出演し、そのサウンドトラックに入っていたエミルー・ハリスとのデュエット曲"That Lovin' You Feelin' Again"(邦題は“胸ときめいて”)が久々にヒットして、翌年のグラミー賞のカントリー・デュオ/グループ部門で最優秀賞を獲得した。

 アメリカ国民はやっと彼の存在を思い出したようで、80年代に入ってからはドン・マクリーンやヴァン・ヘイレンが彼の曲をリバイバル・ヒットさせているし、映画の主題歌にも使用されていった。

 彼の歌は、いろんな人がカバーしているようで、上記の曲以外にも"Dream Baby"を1971年にグレン・キャンベルが、"Love Hurts"を1975年から76年にかけてイギリス人のジム・キャパルディやナザレスが、"Blue Bayou"を1977年にリンダ・ロンシュタットがヒットさせている。

 ロイ・オービソンといえば、どうしても“バラード・シンガー”としてのイメージが強くて、ベスト盤を聞いていた時も、ハワイアンを聞いている気分になったりもしたのだが、エルヴィスがカバーした"Mean Woman Blues"などは、ロックン・ロールしててなかなか良かった。
 イギリスでは、クリフ・リチャードやザ・スペンサー・デイヴィス・グループも歌っていたけれど、アレンジを加えれば、ハード・ロックとしても成立するようなそんな曲だった。

 1988年には、ジョージ・ハリソンやジェフ・リン等とともに、トラヴェリング・ウィルベリーズを結成して一躍有名になったが、アルバムがまだチャート・インしているときの12月6日に心筋梗塞で亡くなった。享年52歳だった。Travelingwilburys4ff972d27b17b
 最後に、ロイ・オービソンといえば、サングラスがトレードマークだが、元々はメガネだったのを度付きのサングラスに替えたからだと言われている。これはメガネを飛行機内に忘れたためで、次の日にイギリスでのビートルズとの公演に向かわなければならなかったからメガネを買う時間的余裕がなかったという理由だった。
 ちょっとした偶然は、人生に大きな影響を与えることがあるということを意味しているのかもしれない。

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2017年6月12日 (月)

バディ・ホリー

 バディ・ホリーも、エルヴィス・プレスリーと同様、いやそれ以上に、後世のロックン・ロール史に影響を与えたミュージシャンの一人である。5e8f746dee233d92e676b4ddcbe5d85e_10
 彼の曲は、ザ・ビートルズやザ・ローリング・ストーンズを始め、リンダ・ロンシュタットなど多くの有名なバンドやミュージシャンにカバーされている。("Words of Love"はザ・ビートルズが、"Not Fade Away"はザ・ローリング・ストーンズが、そしてリンダ・ロンシュタットは、"It So Easy"を取り上げていた)

 逆に、バディの死を取り上げて"American Pie"を作ったのが、ドン・マクリーンであり、のちにマドンナもこの曲をリバイバル・ヒットさせている。

 また、曲だけでなく、イギリスのバンド、ザ・ホリーズのようにバンド名に使われている例もあるし、イギリス人のエルヴィス・コステロは、バディ・ホリーのようなメガネをかけてデビューした。

 ついでに言うと、ザ・ビートルズは“カブトムシ(Beetle)”と"Beat"を掛けた造語だったが、彼らが昆虫の名前を選んだのも、バディ・ホリーのバック・バンドの“クリケッツ(コオロギ)”が由来だといわれているし、ジョン・レノンがメガネを愛用するようになったのも、バディの影響があったらしい。それほどバディ・ホリーは、多くのミュージシャンから慕われていたのである。

 バディ・ホリーは、本名をチャールズ・ハーディン・ホリーといい、“バディ”は母親が彼のことをこう呼んでいたことからきている。
 1936年9月7日に、テキサス州のラボックで生まれた。幼い頃から黒人の音楽やメキシコ音楽などに親しんでいたという。

 4人兄弟の末っ子で、幼い頃からバイオリンを習い、5歳の時には人前で歌うようになったと言われている。
 さらには11歳でピアノを、12歳でギターを弾き始め、13歳になると友だちと組んで、人前で音楽活動を始めた。

 高校生になると、地元のラジオ局で番組を担当するなど、かなりの人気を博するようになった。
 もちろんこれくらいで満足する彼ではなかった。自主制作盤を作成して発表したり、有名な歌手が来れば、頼み込んでオープニング・アクトとしてステージに立たせてもらったりするようになったのである。

 そのうち、ビル・ヘイリー&ザ・コメッツの前座を務めていた時、ナッシュビルのプロモーターだったエディ・クランドルに認められて、1956年にデッカ・レコードと契約を結び、レコーディングを行うことができた。もちろん、"That'll Be the Day"も録音されている。

 ただ、残念ながらこの時録音したレコードは、商業的には成功しなかった。それで、翌57年の2月に、今度はニューメキシコ州のクローヴィスにあるプロデューサーのノーマン・ペティのスタジオで再びレコーディングを行った。
 この時のバック・メンバーが“ザ・クリケッツ”と呼ばれた人たちだった。ドラムスがジェリー・アリスン、ベース・ギターがジョー・モールディン、ギターはニキ・サリヴァンである。

 この時も"That'll Be the Day"は録音されていて、今度はアップテンポの、よりロックン・ロール風にアレンジされていた。100625_02_buddyholly_3
 もともとこの曲は、アメリカの西部劇でジョン・ウェインが主演した1956年の映画「捜索者」("The Searchers")のセリフから引用されている。

 最初にナッシュビルで録音された曲の方は、デッカが気に入らず発表させてもらえなかった。だから、クローヴィスでもう一度再録されたのだろう。

 しかし、今度もデッカ・レコードは発売を拒否し、デッカ以外のコロンビア・レコード、RCA、アトランティック・レコードまでも断ってきた。
 最終的に、デッカ・レコードの子会社だったニューヨークにあるコーラル・ブランズウィック社のボブ・シールが契約をして、シングル・レコードとして発表することができたのである。

 1957年の夏にシングル・カットされたこの曲は、徐々にチャートを上昇していき、9月23日付のビルボードのシングル・チャートで1位になっている。この曲の前後には、ポール・アンカの"Diana"やジミー・ロジャースの"Honeycomb"などが首位になっていた。そんな時代のヒット曲だった。

 ちなみに、この曲の版権はデッカ・レコードが持っていたので、ボブはクリケッツの名前でブランズウィック・レーベルから、彼の死後、バディ・ホリーの名前でコーラル・レーベルからシングルとして発表した。もちろん3曲とも、バディ・ホリー&ザ・クリケッツの演奏である。今でいうところの便乗商法というものだろう。

 翌年の1958年になると、バディはプロデューサーのノーマン・ペティやクリケッツのメンバーと別れて、新しいバック・メンバーと活動を始めるようになった。
 この年の8月に、バディは、プエルトリコ人の音楽出版社秘書だったマリアと結婚したのだが、実は、この結婚にノーマン・ペティは反対していたという話があって、それが2人の別離の原因だと言われている。

 また、ザ・クリケッツのメンバーは、長期にわたってのコンサートやライヴ活動が嫌になってしまったらしい。もともと彼らは、スタジオのセッション・ミュージシャンだったから、ライヴ活動が嫌になっても仕方がなかったのかもしれない。ただ、今となってみれば、それが彼らの生死を分けたのだから、人生何がどうなるかわからないものである。

 そして、1958年の10月にニューヨークのグリニッジ・ヴィレッジのアパートメントで、レコーディングを行った。これにはポール・アンカの書いた"It Doesn't Matter Anymore"も含まれていて、これが公式には最後のレコーディングとされている。712mwdf2bzl__sl1050_
 彼は、この時期の前後から多くのヒット曲を発表するようになったが、経済的には決して裕福ではなかったらしい。だから、手っ取り早くお金を稼ごうと思えば、今も昔も同じように、いわゆる地方公演を行わなければならなかったのである。

 そして運命の1959年2月3日を迎える。前日の2日に妊娠中だった妻のマリアを家に残し、バディ・ホリーは、ニュー・クリケッツのメンバーを伴って、アメリカの中西部を回るバス・ツアー“ウィンター・ダンス・パーティー”に出かけていった。

 アイオワ州のクリア・レイクでのライヴ演奏を終えた彼らは、バス内の暖房器具が故障中だったこともあり、バディは、早く次の会場に行こうとして小型飛行機をチャーターしたのである。
 このときのバディは衣装も早く洗濯したかったようだと、のちに途中まで同伴していたツアー・スタッフが述べていた。

 2月3日の午前12時40分、雪の降る中を小型機ボナンザ号は、ノース・ダコタ州のファーゴに向けて飛び立ったが、残念ながら目的地に到着することはなかった。
 パイロットを含む4人全員が死亡して、22歳の若いロックン・ローラーは天国に旅立ったのである。

 自分は、まだ生まれていないので、当時のことはよくわからない。ただ、その後も彼の生前録音された楽曲が手を変え品を変え、発表され続けていることは間違いない。
 中には、1954年頃の自主制作盤までもが発表されていて、まだ高校生か卒業して間もない頃のカントリーやフォークを2人組で演奏している頃の楽曲まで聞くことができるのだ。

 面白いことに、本国アメリカよりもイギリスでの人気が高いようで、60年代に入っても"Bo Diddley"や"Brown-eyed Handsome Man"、"Peggy Sue/Rave On"などが、シングル・チャートに入っていたし、1978年や1993年には、コンピレーションのベスト・アルバムが全英1位を記録していた。

 自分は12月8日のジョンの命日を生涯忘れることはないだろうが、同様に、1950年代後半を生きてきた人たちの中には、2月3日を忘れることができない人がいるはずだ。
 いまだに彼の曲が流され、多くのミュージシャンがカバーし、アルバムも売れていることがバディ・ホリーの伝説をさらに忘れられないものにしている。

 わずか3年余りの音楽活動だったが、ロックン・ロールの歴史の中では永遠に輝いていくに違いない。本人はこの世にはいないが、私たちの中に間違いなく存在し、そしてこれからの世代にも語り継がれていくのである。

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