2019年8月19日 (月)

ジョン・サイモン

 ジョン・サイモンのアルバム「ジョン・サイモンズ・アルバム」について記すことにした。このアルバムはずいぶん昔から持っていて、幾度となく聞いてきたのが、何となくパッとしなかった。パッとしなかったというのは、自分の中で感じるものがなかったからである。
 でも最近、ジョン・セバスチャンやマリア・マルダーなどを聞き出して、再びこのアルバムに向き合ったところ、これが今までがまるで嘘であるかのように、非常に印象的なアルバムとして感じるようになってきたのだ。

 このアルバムのことは雑誌で知った。アメリカン・ロックの隠れた名盤として紹介されていて、ぜひ一度は耳を傾けてほしいというようなことが記されていたので、当時はロックおたくだった自分は(今もそうだけど)、当時あったCDショップにダッシュで走り込んで購入した記憶がある。だけど、それだけ期待して聞いたのだけれど、何となく自分には合わなかった。ロック的な躍動感や焦燥感が伝わってこなかったからではないかと、いま振り返ってみればそんな感想だったと思う。

 ところが、年老いて人生の先が見えてくると、こういうアルバムの方が合ってくるというか、落ち着いた心境に導いてくれるというか、豊饒なアメリカン・ロックの一端を感じさせてもくれるのである。だから最近はほぼ毎日1回は聞いているのだ。

 このアルバムが発表されたのは1970年の5月だから、もう50年くらい前のことになる。50年だぞ、50年。オギャーと生まれた赤ん坊が50歳の壮年になる時間だ。この50年の間に社会も変わったし、ロックという音楽もずいぶん変わった。まあそんなことはともかく、50年前のアルバムを今も聞いているのだから、いかにこのアルバムが時代の波に流されない、不朽の名作、名盤であるかが分かると思う。

 音楽的な感触は、ソロになったザ・バンド、あるいはニューヨーク近郊のウッドストック発ランディー・ニューマンといった感じだろうか。決してメロディアスといった感じではないし、ありふれたポップ・ソングではない。むしろポップから遠ざかろうとしているのではないかと思われるところもあるし、サックスやトロンボーン、アコーディオンなどのアレンジも凝っていて、一筋縄ではいかない様相を示している。そういうところが逆に新鮮に映るし、聞くたびに味わい深くなって行くのである。

 ジョン・サイモンは1941年8月11日生まれだから、ついこの間78歳になったばかりだ。コネチカット州のノーフォーク生まれで、目の前には大きな牧場がある田舎町で育った。父親は医者であると同時に、ジュリアード音楽院を卒業したセミプロ級のバイオリニストだった。地元では交響楽団のコンサート・マスターも務めた経験があったようだ。
 そういう家で育ったから、小さい頃から音楽に囲まれて育ち、4歳頃からピアノやバイオリンを学ぶようになった。最初はクラシック音楽を学んでいたが、徐々に世の流れに気づくようになり、ジャズやポップスに興味が動き、ついにはライヴ活動まで行うようになって行った。

 大学を卒業すると、当時のコロンビア・レコードに就職してプロデューサーになった。最初は映画音楽やテレビの挿入歌などを担当していたが、ザ・サークルというバンドの「レッド・ラバー・ボール」というアルバムを担当してこれがヒットし(ビルボードのアルバム・チャートの2位)、一躍彼は敏腕プロデューサーとして有名になり、以降、サイモン&ガーファンクルやレナード・コーエン、ジャニス・ジョプリン、ザ・バンドなどを手掛けるようになっていった。920x920 
 特に、ザ・バンドとの仕事はうまく行き、ザ・バンド自体も人気が出てきたし、ジョン・サイモンの名声も高くなって行った。ザ・バンドのデビュー・アルバムである「ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク」はニューヨーク郊外ウッドストックにある一軒家の地下室で練習やレコーディングが行われたが、これはジョン・サイモンのアイデアでもあった。そしてそのアルバムのレコーディングが終了した後に、彼自身のソロ・アルバムの制作が行われたようだ。それが「ジョン・サイモンズ・アルバム」だったのである。

 全11曲39分少々のアルバムだが、参加メンバーがすごい。ベースにリック・ダンコ、リチャード・デイヴィス、カール・レイドル、ドラムスにジム・ゴードン、ロジャー・ホーキンス、リチャード・マニュエル、ギターがレオン・ラッセルにジョン・ホール、サックスとトランペットにはジム・プライス、ボビー・キーズ、ガース・ハドソン、その他にもデラニー・ブラムレット、リタ・クーリッジ、メリー・クレイトン、ボビー・ウィットロック、サイラス・ファイヤーなどなど、つまり、ザ・バンドとレオン・ラッセルのバック・バンドのほとんどが参加しているのだ。これにエリック・クラプトンとレヴォン・ヘルム、ロビー・ロバートソンが加わらなかったのが不思議である。ちなみにアルバム中4曲目の"Davy's on the Road Again"はロビー・ロバートソンとの共作だった。

 1曲目の"Elves' Song"を聞いたとき、正直お世辞にも歌は上手ではないなと思った。これは本人も認めていて、歌はもうだめだと思っていたらしい。でもソロ・アルバムはこれ以降も発表して歌っているので、あきらめたわけではないようだ。ピアノはジョン本人が、ギターはレオン・ラッセルが演奏している。何となくイギリス人のケヴィン・エアーズの曲に似ている気がした。

 "Nobody Knows"はランディ・ニューマン風の楽曲で、ピアノの弾き語りである。これといったフレーズやメロディに乏しく、もう少しよく聴き込もうと思っているうちに曲が終わってしまう。ちょっとコメントしづらい曲だ。
 "Tannenbaum"はジョン・サイモンの故郷のことを歌っていて、かつては豊かだったが、今は荒れ果ててゴースト・タウンのようになってしまったと嘆いている曲だった。バックのギターも美しいし、ホーン・セクションも哀愁を帯びていて素晴らしい。確かに、ザ・バンドの曲だと言われても分からないかもしれないが、ジョン・サイモンも高音が時々裏返るものの、精一杯歌っている様子が伝わってきて、感動を覚えるのである。

 ロビー・ロバートソンとの共作の"Davy's on the Road Again"はややゆったりとしたテンポで歌われていて、穏やかな感じを与えてくれる。ただ個人的には、イギリスのバンドであるマンフレッド・マンズ・アース・バンドが1978年にカバーした曲の方が好きで、そちらの方が躍動感がありメロディー本来の美しさが伝わってくるからだ。このカバー曲は全英シングル・チャートで6位を記録しているので、ロックにうるさいイギリス人でもこの曲の良さは認めているようだ。

 続く"Motorcycle Man"では、リチャード・マニュエルとリック・ダンコがそれぞれドラムスとベース・ギターを担当していて、曲調もザ・バンド風でもある。マーロン・ブランドとリー・マーヴィンが主演した映画「ザ・ワイルド・ワン」をもとにして出来上がった曲らしい。
 "Rain Song"はもちろんイギリスの4人組ロック・バンドの曲ではない。長いギター・ソロやメロトロンも使用されていない。60年代のジョンが生活していたコミューンのことを歌っていて、雨が降ってほしいという雨乞いの祈りのために書いたそうである。この曲もピアノだけをバックに切々と歌っていて、味わい深い。エンディング近くのジョンのうねり声というか遠吠えが寂寥感を与えてくれるようだ。Images

 以上がレコードのサイドAに当たり、次からはサイドBになる。サイドBの1曲目は"Don't Forget What I Told You"で、これもゆっくりとした曲調で、ジョンの奥さんに対するラヴ・ソングである。オーリアンズのジョン・ホールがギターを弾いていて、これがまたなかなか流麗でカッコいいのだ。ロビー・ロバートソンならもう少し違った雰囲気になっただろう。

 続く"The Fool Dressed in Velvet"はジョンの知り合いだった知的障がい者の兄弟について書いた曲で、2人の生き方の対比を通して、人生の無常さを教えてくれているように思えた。これもゆったりとしたバラード系の曲で、途中でマンドリンに近い楽器マンドラが使用されていた。演奏しているのはジョン自身である。またエンディングにギター・ソロがあるが、これもジョン・ホールの手によるものである。

 "Annie Looks Down"はジョンの知り合いの女性について歌ったもの。バックのオルガンはバリー・ベケットが演奏していると思われる。後半はミディアム・テンポかバラード系の曲が多くて、この曲もその中の1つだ。2分50秒と短い曲だった。
 10曲目の"Did You See?"は人生の終わりについて書いた曲で、天国の門の前で迎えが来たかどうかを確認したかと歌っている。ここでもジョンはピアノとマンドラを演奏している。

 最後の曲"Railroad Train Runnin' Up My Back"は楽しそうな曲で、列車の雰囲気がよく表現されている曲でもある。バック・コーラスやハーモニーが、どことなく素朴でノスタルジックな感じを与えてくれる。ジョンは過去の旅行の中から思いついた曲だと述べているが、内容的には男女の三角関係を描いていて、そんなに楽しくはないだろうと個人的には思っている。それでもアルバムの最後を飾るにはマッチしているのではないだろうか。

 というわけで、ジョンサイモンのこのファースト・アルバムは、アメリカン・ロックの歴史的名盤といわれているのだが、今になってやっとそういうもんかなと感じた次第である。たぶんこのアルバム当時の歴史的、社会的背景や日本人にはよくわからない歌詞の部分なども含めて、アメリカ人のロック・リスナーにはかなりインパクトがあるのだろう。
 ザ・バンドのように、個々のメンバーの技量や楽曲の良さで聞かせるアルバムではなくて、アルバムのもつ雰囲気などを含めたトータルな意味での印象度なのだろう。

 また、このアルバムのジャケットも水墨画か墨絵のようで、東洋的だった。こういうミステリアスな東洋趣味みたいなものも、アメリカ人好みなのかもしれない。41xn57wbfpl
 この後ジョンは2年後の1972年にセカンド・アルバム「ジャーニー」を発表し、しばらくブランクがあったが、20年後の1992年にサード・アルバム「アウト・オン・ザ・ストリート」を発表しているし、枚数は少ないもののプロデューサー業の合間を縫って、アルバムを発表している。
 一時、ディスコ・ミュージックやヘヴィメタル・ミュージックが隆盛の頃はプロデューサー業にも嫌気を示していたようだが、1997年には日本人ミュージシャンである佐野元春のアルバム「ザ・バーン」のプロデュースも行っている。ジョンは彼のことを日本のブルース・スプリングスティーンだと思っていたようだ。

 本来のプロデューサーのみならず、ウッドストック系ミュージシャンとしても名声を得ているジョン・サイモンである。もう少し長生きしてもらって、「ジョン・サイモンズ・アルバム」以上のインパクトのあるアルバムを発表してほしいと願っている。

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2019年8月12日 (月)

エイモス・ギャレット

 マリア・マルダーのアルバムから始まって、彼女に関係のあるミュージシャンについて調べてきた。今回はおそらく最後になるであろうギタリストのエイモス・ギャレットが登場する。彼はマリア・マルダーのアルバムに参加してから脚光を浴びるようになったミュージシャンでもある。

 今の日本で、エイモス・ギャレットの名前を聞いて、ああ、あの人かと何人の人が気づくだろうか。かくいう自分もマリア・マルダーのアルバムを聞くまでは全く知らなかったし、聞いてからも上手なギタリストだと思ったものの、具体的なイメージがつかめないでいた。
 彼が有名になったきっかけは、上にもあるように、マリア・マルダーの1973年のアルバム「オールド・タイム・レイディ」の中に収められていた"Midnight at the Oasis"で印象に残るギター・ソロのおかげだった。このプレイのおかげで一気に彼の名前は知れ渡っていったのだが、もちろんそれ以前から彼の名まえは知られていて、ある意味、”ミュージシャンズ・ミュージシャン”として、その筋の人たちからは尊敬と信頼を集めていた。Hqdefault

 例えば、彼は150以上のミュージシャンやバンドと一緒にレコーディングや共演を果たしている。古くは1969年のアン・マレーのNo.1ヒット曲"Snowbird"であり、トッド・ラングレンやスティーヴィー・ワンダー、エミルー・ハリスにボニー・レイットとジャンルを問わない。最近では元フェアポート・コンヴェンションのリチャード・トンプソンや元ザ・バンドのリック・ダンコなどと共演している。あのジミー・ペイジでさえも、最も好きなアメリカ人ギタリストの1人と名前を挙げているくらいだ。だから、欧米では玄人好みのミュージシャンというイメージだったのだろう。

 彼は1941年生まれだから、今年で78歳になる。もちろんいまだに現役だ。生まれはアメリカのミシガン州デトロイトなのだが、5歳の時にカナダのトロントに引っ越していて、アメリカとカナダの両方の国籍を有している。音楽好きの両親のもとで育ち、幼い頃からピアノやトロンボーンに親しんできて、14歳頃からギターを弾き始めたようだ。
 きっかけは、クラブなどでベン・E・キングやB.B.キング、T-ボーン・ウォーカーなどの演奏を見たからで、自分もやってみようと思ったのだろう。その後、アメリカの大学で英文学を学んだあと、トロントに戻ってローカル・バンドに加わりテクニックを磨いていった。

 60年代初めは様々なバンドを渡り歩いていったが、そこで後に”ザ・バンド”として有名になった”レヴォン&ザ・ホークス”と出会っている。1968年からは2年間、カナダ人のフォーク・デュオであるイアン&シルヴィアのレコーディングやツアーに参加していて、やがては彼らと一緒にカントリー・ロック・バンドのグレイト・スペックルド・バードを結成して、アルバムも発表した。ナッシュビルで録音された彼らのデビュー・アルバムは、トッド・ラングレンがプロデュースしていた。自分は未聴なので、一度聞いてみたいと思っている。

 1970年にニューヨークに移り住んだエイモス・ギャレットは、ジェフ&マリア・マルダーに出会い、これまた彼らと一緒に活動を始めた。この時の関係で、彼ら2人だけでなくニューヨーク郊外のウッドストック周辺に住んでいたミュージシャンたちと交流が始まったようだ。つまり、ジョン・サイモンやジェシ・ウィンチェスター、ポール・バタフィールドなどである。
 1972年には、元グレイト・スペックルド・バードのメンバーとハングリー・チャックというバンドを結成して、アルバムを1枚発表したが、バンドはすぐに解散してしまった。また、この年はジョン・サイモンのセカンド・アルバム「ジャーニー」にも参加している。

 翌年になると、交友関係をたどってポール・バタフィールドのベター・ディズというバンドに加わって豪快なギターを聞かせたりしたが、バンド活動はここまでで、これ以降はソロ・ミュージシャンとして、様々なセッションやレコーディングに参加するようになって行った。マリア・マルダーのアルバムへの参加もそうだし、グレイトフル・デッドのジェリー・ガルシアの2枚目のソロ・アルバム「コンプリメンツ」では2曲で昔習っていたトロンボーンを演奏している。なかなか芸達者なミュージシャンだ。
 また、マリア・マルダーの元夫であるジェフ・マルダーのソロ・アルバムにも参加しているし、エミルー・ハリスの1975年のアルバム「エリート・ホテル」では、ザ・ビートルズの"Here,There and Everywhere"にも客演していた。その後は、ボストンやサンフランシスコに移り住んで、セッション・ミュージシャンとして活動を続けていった。81h89qny2xl__sl1022_

 80年代に入ると、本格的にソロ活動を開始して、80年に「ゴー・キャット・ゴー」、82年には「エイモスビヘイヴィン」、89年には「ホーム・イン・マイ・シューズ」というアーシーでアットホーム的なアルバムを発表している。中でも「エイモスビヘイヴィン」は名盤との誉れが高く、レイドバックした演奏やリラックスしたボーカルなどを味わうことができる。61jzttppmml__sl1500_
 もともとエイモス・ギャレットは歌が歌いたくてしょうがなかったのだが、ずっとセッション・ワークが続いたため、またバンドでは他にボーカルがいたため、なかなか歌う機会に恵まれなかった。しかし、ソロになってからは当然のことながら、すべてのアルバムで歌声を披露している。

 中でも1992年に発表された「雨のジョージア」(原題はサード・マン・イン)では、彼のルーツがうかがい知れるようなカバー曲やオリジナル曲で占められていて、今でも比較的入手しやすいアルバムだ。彼はテレキャスターを弾くことで知られていて、このアルバムでもテレキャスター独特の枯れた味わい深い音色を聞かせてくれる。71lqffrg91l__sl1500_
 全10曲で38分余りしかないアルバムだが、1曲目の"Poor Fool Like Me"は軽快なカントリー・ロックで、アルバム冒頭からエイモスは飛ばしている。中間のソロ演奏は、何となくスティーヴィー・レイ・ヴォーンを彷彿させてくれた。
 続く"Baby Your Feets is Cold"はミディアム・テンポの曲で、今度はテックス・メックスのような陽気な雰囲気を漂わせている。途中でセリフのようなものが挿入されるところが何となくユーモラスな感じで、劇中歌のようだ。

 3曲目の"But I Do"はボビー・チャールズという人の曲で、彼とエイモスは親友のようだ。ボビー・チャールズもウッドストック系のミュージシャンで、シンガー・ソングライターだった。ギタリストというよりも作曲家というイメージが強くて、彼の書いた曲はレイ・チャールズやファッツ・ドミノ、Dr.ジョンなど、多くのミュージシャンによってカバーされている。残念ながら、2010年の1月に71歳で亡くなっている。
 この曲はお洒落で都会的な感じの曲で、バックのピアノがナイトクラブでカクテルを飲むような感じを与えてくれる。中間部でのギター・ソロはこれまたスローでジャジーな調べで、サスティーンがよく伸びていて印象的だ。エイモスの曲調の幅の広さを示してくれている。

 一転して"I Ain't Lying"ではシャッフル調になり、続く"What a Fool I Was"ではホーン・セクションが使用されていて、モダンなスロー・ブルーズといった感じだ。この曲はエイモスの敬愛するアフリカ系アメリカ人ミュージシャンのパーシー・メイフィールドのオリジナル曲であるが、R&Bというよりはこれまたモダンでジャズっぽくアレンジされている。
 パーシー・メイフィールドという人は、1950年代から60年代にかけて一世を風靡したブルーズ・シンガーで、彼の落ち着いた低いバリトン・ボイスは神をも聴き入らせてしまうほどといわれていた。1952年に自動車事故に遭ってからはライヴ活動を控えるようになったものの、その後もヒット曲を連発し、60年代では作曲家として活躍している。ただ、彼もまた1984年に心臓発作で亡くなった。64歳だった。

 "Got to Get You Off My Mind"はローリング・ストーンズもカバーした有名な曲だが、ここでの曲はそれとはまったくアレンジが異なっていて、最初聞いたときは軽めの曲だったせいか、ほとんど印象に残らなかった。アレンジが異なればここまで曲が変わるのかという典型的な見本かもしれない。時間があれば、聞き比べてみるのも面白いと思う。ちなみに、オリジナルはミック・ジャガーが崇拝していたR&Bシンガーのソロモン・バークという人の曲だった。

 7曲目は、日本語盤のタイトルにもなっている曲"Rainy Night in Georgia"(雨のジョージア)で、 オリジナルはトニー・ジョー・ホワイトというシンガー・ソングライターの曲だ。トニー・ジョー・ホワイトといえば"Rainy Night in Georgia"、"Rainy Night in Georgia"といえばトニー・ジョー・ホワイトといわれるくらい有名な曲だが、この曲も多くのミュージシャンによってカバーされている。ミディアム・スローの曲調が印象的で、何度聞いても心にじわっと哀愁が染み込んでくる。このアルバムの中でも一聴に値する曲だろう。

 "Flying Home"は、このアルバムでは珍しく彼と同じギタリストのトム・ラヴィンが共作したインストゥルメンタルで、最初サックスから入ってビックリしたのだが、途中からはエイモスとトムのギターの掛け合いが始まったので、少し安心した。でも最初と最後のサックスは要らないから、その代わりにギター・ソロを聞かせてほしかったなあと思った。せっかくのインストゥルメンタルが何となくもったいない。
 "Let Yourself Go"もまたボビー・チャールズのオリジナル曲で、この曲もまた"Rainy Night in Georgia"と同じくらい印象的なバラード曲だ。バックで演奏されるエイモスのギターもまた、それに拍車をかけてブルージーである。ただエンディングがフェイドアウトされるのが残念で、もう少し最後まで聞かせてほしかった。

 ブルージーといえば、このアルバムの中で一番ブルージーな曲が最後の曲"Lost Love"だろう。完全なスロー・ブルーズで、間奏ではクラプトンも顔負けの渋めのチョーキングを聞かせた速弾きを聞かせてくれる、ほんの少しだけど。この曲もカバー曲で、オリジナルはカナダのブルーズ・ギタリストのジョニー・V・ミルズの手によるもので、4曲目の"I Ain't Lying"もジョニーのオリジナル曲だった。91cp8e3rvkl__sl1500_

 エイモス・ギャレットはまた親日家としても有名で、1970年に大阪万博でのカナダの音楽大使として来日して以来、幾度となくライブを行っていて、1990年には東京や大阪での公演を収めた「ライヴ・イン・ジャパン」というライヴ・アルバムも発表している。
 顔は俳優のジェームズ・コバーンに似ているし、ギターの腕前は超一流、ギターの教則本の本やビデオを出しているくらいだ。日本でももっとメジャーになっておかしくないのに、ヒット曲がないせいか、一部の人たちを除いてあまり知られていない。このまま玄人受けのミュージシャンとして終わってしまうのだろうか。

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2019年8月 5日 (月)

ザ・ラヴィン・スプーンフル

 ジョン・セバスチャンつながりで、彼が元所属していたバンド、ザ・ラヴィン・スプーンフルについて記すことにした。前回にも同じことを書いたのだが、このバンドの曲を聞いて、ニューヨーク出身だとは気づかなかった。むしろサンフランシスコかロサンジェルスのような西海岸出身のバンドだと思ってきた。曲にひんやりとした大都会の雰囲気が備わっていなかったし、むしろ明るくて陽気な雰囲気が漂っていたからだ。

 このバンドの代表曲といえば、やはり"Do You Believe in Magic?"だろう。日本のCMにも使用されていたし、その明るくて弾むような曲調は一度耳にしたら、忘れられない印象を与えてくれるからだ。220pxdo_you_believe_in_magic_lovin_spoon
 また、この曲は彼らのデビュー曲で、1965年の8月に発表されて瞬く間にシングル・チャートを駆けのぼり、最高位9位を記録している。個人的には"サマー・オブ・ラヴ"を象徴するような曲調だったし、バックのコーラスもザ・ビーチ・ボーイズ風だったりして、軽快で躍動感あふれる曲だと思っている。
 この曲を書いたジョン・セバスチャンは、曲のイントロ部分をモータウンに所属していた女性ボーカル・グループのマーサ&ザ・ヴァンデラスの曲"Heat Wave"から思いついたとインタヴューで答えていた。またこの曲は、多くのミュージシャンからカバーされていて、特に1978年にはショーン・キャシディが歌って、ビルボードのチャートで31位を記録している。

 それから約3ヶ月後、今度は"You Didn't Have to Be So Nice"という曲がヒットした。これはビルボードのシングル・チャートの10位まで上昇した。こちらは彼らの2枚目のシングルにあたり、ジョン・セバスチャンとバンドのベーシストのスティーヴ・ブーンの共作だった。ジョンが言うには、ザ・ビーチ・ボーイズの曲"God Only Knows"からインスピレーションを受けたようだが、ザ・ラヴィン・スプーンフルの方が明るい感じがするのは気のせいだろうか。_you_didnt_have_to_be_so_nice__lovin_spo
 ちなみにこの曲もまた、ザ・グラスルーツやボサノバ歌手のアストラッド・ジルベルトなどにカバーされている。特に、エイミー・グラントとケヴィン・コスナーが主演した映画「ザ・ポストマン」ではエンドクレジットで使用されていた。

 デビューして最初の2枚のシングルのヒットのおかげで、彼らは一躍有名になり、60年代中期を代表するアメリカのバンドになった。それまでザ・ビートルズを始めとするイギリスのバンドからアメリカのチャートが席巻されていたのだが、これでようやくイギリス勢に対抗できるアメリカのバンドが誕生したというわけだった。

 ザ・ラヴィン・スプーンフルは、1964年に結成されたが、最初のドラマーのジャン・カールはすぐに脱退し、代わりにジョー・バトラーという人が担当するようになった。元々、ジョーとベーシストのスティーヴ・ブーンはザ・キングスメンというバンドで一緒に活動していたから、お互いに気心の知れた間柄だったようだ。
 ところが彼らは、最初は素人に毛の生えたような演奏テクニックしか持っておらず、あまりにお粗末な内容だったため、クラブのオーナーからもっと練習してから人前で演奏しろ、それまでここには来るなと言われたようで、それから必死になって練習していったという逸話が残されている。

 1966年は、彼らにとってはまさに全盛期と呼ばれるにふさわしい年になった。2月に発表した"Daydream"は、全英、全米ともにチャートの2位を記録した。まさに”白昼夢”というタイトルに相応しいほんわかとした曲で、ジョンの口笛がフィーチャーされていた。この曲もまたチェット・アトキンスにドリス・デイ、マリア・マルダーやアート・ガーファンクル、デヴィッド・キャシディ、リッキー・ネルソンなど数多くのミュージシャンによってカバーされている。

 そして4月には"Did You Ever Have to Make Up Your Mind?"がヒットして、これまた全米シングル・チャートの2位になった。Did_you_ever_have_to_make_up_your_mind__ そしてそれから3ヶ月後の7月には、ついに"Summer in the City"が全米チャートの首位を獲得したのである。今までの曲よりは幾分ロック寄りの激しいビートを持つこの曲は、幾分アグレッシヴでそれまでの夢見るような曲調とはかなり違うものだった。騒がしい都会の喧騒を表現しようとしたのか、車のクラクションや工事中のドリルの音が使用されていて、彼らの音楽的質の変化が表されていた。ザ・ビートルズでいえば、中期の「リボルバー」的変化に当たるだろう。この曲は3週にわたって首位を飾っている。220pxsummer_in_the_city

 そのあとフォーク・タッチの"Rain on the Roof"はシングル・チャートの10位を記録し、カントリー風の"Nashville Cats"は8位になった。とにかく出す曲出す曲すべてチャートのトップ10に入るという勢いだったから、いかに彼らの人気が高かったかが分かると思う。それに、クラブのオーナーからもっと練習して来いと言われたバンドとは思えないくらい、ポップ・ソングからロックン・ロール、カントリーにフォークと音楽的なバックグラウンドも広かった。そういう音楽性の幅広さというのも多くの人たちから支持されたいたのだろう。

 さらにバンドは、ブロードウェイのミュージカル"ヘア"にも楽曲を提供するし、ウッディ・アレンやフランシス・フォード・コッポラの映画のサウンドトラックにも協力するといった具合に、様々な分野にも進出していった。それだけ彼らの音楽性に需要が求められていたのだろう。監督が使いたいと思ってしまうような何らかの魅力を秘めていたに違いない。そんなこんなで、夢のように1966年は過ぎて行ったのである。

 で、”好事魔多し”の譬え通り、翌年の67年になると、バンドは徐々に下り坂を迎えていくのである。まず"Six O'clock"がチャートの18位までで止まってしまった。今までトップ10内に入っていたのだが、18位だった。それでも立派と言えば立派なのだが、ブラスとハードなギター・カッティングがフィーチャーされてこの曲は、ジョー・ウィザードという人がプロデュースを担当していた。のちにボズ・スキャッグスなどのアルバムのプロデュースも手掛けた人であるが、今までのプロデューサーと違う選択をしたのが、あまりうまく行かなかったのかもしれない。

 5月になると、ギタリストのザル・ヤノフスキーがドラッグで逮捕されてしまった。まるでザ・フーのピート・タウンゼントのようなハードなリフやカッティングを得意としていた人で、バンドのハードな面を担当していたギタリストだった。彼はカナダの市民権を持っていて、このまま黙秘を続けていくとアメリカに再入国できないと言われて、全面的に罪を告白してしまった。それで一旦は執行猶予がついて保釈されるのだが、結局、音楽業界から足を洗ってしまい、カナダに戻ってレストランを開いてオーナーになった。

 バンドは当然のごとく、新しいギタリストのジェリー・イエスターを迎え入れるのだが、ロック的なダイナミズムは失われてしまい、マイルドなポップ・バンドになってしまった。例えば"She is Still A Mystery"という曲があるのだが、ブラスやストリングスがバックで鳴っていて、まさに”東海岸のザ・ビーチ・ボーイズ”といった感じだった。これもジョー・ウィザードのプロデュースで、彼はこういった装飾音で飾り付けるのが得意なプロデューサーなのだろう。61k8wmcjgel__sl1200_

 バンドがポップ化するのが嫌になったのか、それともほかの理由があったのかよくわからないのだが、翌1968年には今度はジョン・セバスチャンがバンドを脱退してしまった。メイン・ソングライターを失ったバンドが長続きするはずもなく、1969年に解散してしまった。
 解散前のバンドは、基本的にギターとベースとドラムスの3人組だった。ドラムを担当していたジョー・バトラーは歌が歌えたので、彼をメイン・ボーカルにしてセッション・ミュージシャンを起用しながら演奏を続けていたようだ。ちなみにジョーが歌った"Never Goin' Back"という曲は、シングル・チャートの73位まで上昇している。
 この曲はジョン・スチュワートという人が作った曲で、この人はザ・モンキーズのあの有名な"Daydream Believer"を書いたことでも有名なソングライターだった。712vfrnypql__sl1200_

 その後ザ・ラヴィン・スプーンフルは、1979年にポール・サイモンの「ワン・トリック・ポニー」という映画の中で、オリジナル・メンバーが再結成して歌っている。また、2000年にはロックの殿堂入りを果たしていて、その時も受賞セレモニーの中で、オリジナル・メンバーが"Do You Believe in Magic?"と"Did You Ever Have to Make Up Your Mind?"を歌っている。
 それ以外は、基本はジョー・バトラーとスティーヴ・ブーン、ジェリー・イエスターの3人でザ・ラヴィン・スプーンフルを名乗って公演などを行っているようだ。また、ジェリーの弟のジムがギタリストになったり、ジェリーの娘のレナがキーボードで参加して脱退していったりするなど、メンバーの出入りが流動的でもある。

 そして、2002年にオリジナル・メンバーだったザル・ヤノフスキーが亡くなってしまうと、ジョン・セバスチャンは声明を発表し、もう二度とザ・ラヴィン・スプーンフルのメンバーとして活動はしないと述べている。バンドは今も活動はしているようだが、実質的には2002年で終わったとみてもいいのではないだろうか。

 とにかく、フォークからカントリー、映画音楽にロックン・ロールと幅広く多様な音楽性を有していたザ・ラヴィン・スプーンフルだった。あのジョン・レノンも愛聴していたし、ポール・マッカートニーも"Good Day Sunshine"は、ザ・ラヴィン・スプーンフルの"Daydream"からの影響を認めているくらいだ。活動期間は短かったものの、その功績は、まさにロックの殿堂入りに相応しいものと言えるだろう。

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2019年7月29日 (月)

ジョン・セバスチャン

 マリア・マルダーつながりで、今回はジョン・セバスチャンについて書くことにした。自分の印象では、ジョン・セバスチャンは西海岸、特にサンフランシスコ周辺に関係のある人ではないかと思っていた。その音楽性が60年代後半に起きた、いわゆる”フラワー・ムーヴメント”に影響を受けた感じがしたからだった。
 例えば、"San Francisco"を歌ったスコット・マッケンジーとかに似ていると思ったのだが、実際は全く関係がなかった。ジョン・セバスチャンの方はマリア・マルダーと同様にニューヨーク生まれだった。これもまたイメージだけで語って申し訳ないのだが、ニューヨークというと大都市という印象が強くて、音楽についてもクールでモダンなものというふうに思っていた。だからジャズとか、R&Bでもどこか垢抜けたものとか、ポップ・ソングでもどこかヒンヤリとする感じがした。だから逆に、泥臭くてアーシーな音楽とは無縁だと思っていたのだ。何という浅はかな考えだろうか。まことに偏見とは恐ろしいものである。

 ジョン・セバスチャンはニューヨークのグリニッジ・ヴィレッジ出身で、1944年3月生まれだから今年で75歳になる。ということは、ストーンズのミック・ジャガーと同じ年ということになる。クラプトンが45年生まれだから彼より1歳年上だ。1945年前後は、ロック・ミュージシャンの当たり年だったのかもしれない。John_sebastian

 それはともかくとして、ジョンの父親は有名なハーモニカ奏者で、母親はラジオ番組の構成作家だった。そういう家庭に育ったせいかどうかはわからないが、幼い頃から家庭には音楽が満ちていて、知らず知らずのうちにジョンもまたウディ・ガスリーやミシシッピー・ジョン・ハートなどのフォーク・シンガーやR&Bミュージシャンのレコードを聞くようになった。彼はブレア・アカデミーという私立の有名な全寮制の学校を卒業した後、ニューヨーク大学に入学したが、わずか1年で退学した。もちろん自分の音楽的キャリアを追及するためだった。

 彼は父親の影響からか、自らもハーモニカを演奏するようになった。ただし、それはブルーズ奏者がやるようなもので、父親とは全く音楽的志向が違っていた。それでも父親の紹介でライトニン・ホプキンスのニューヨークの付き人みたいなことを行うようになり、その頃流行していたフォーク・ロックと呼ばれる音楽に近いものをやるようになって行った。
 60年代半ばになると、イーヴン・ダズン・ジャグ・バンドやマグワンプスというバンドに参加したが、あまり話題になることはなかった。後者のバンドにはキャス・エリオットやデニー・ドハーティ、ギタリストのザル・ヤノフスキーがいた。キャスとデニーはザ・ママス&ザ・パパスを結成し、ジョンとザルはザ・ラヴィン・スプーンフルというバンドの母体となった。

 ザ・ラヴィン・スプーンフルについては、別の機会に譲るとして(別の機会があればのお話だが...)、とにかくこのバンドは売れた。1965年の"Do You Believe in Magic?"は全米シングル・チャートで9位、1966年の"Daydream"は2位、"Summer in the City"は堂々の首位を獲得した。そして、2000年には”ロックの殿堂”入りを果たしている。
 また、ボブ・ディランの1965年のアルバム「ブリンギング・イット・オール・バック・ホーム」ではベース・ギターを任されて、ツアーまで参加しないかと誘われたが、断っている。理由はザ・ラヴィン・スプーンフルに専念したかったからだそうだ。それほどジョンは、バンド活動に力を入れていた。

 ところが、1967年にザル・ヤノフスキーが脱退してしまうと、新しいギタリストを入れてもうまく行かなくなり、1968年にジョン自身がバンドを去ってしまい、バンド自体も1969年に解散してしまった。ジョン・セバスチャンとしてのソロ活動が始まっていったのは、60年代後半からということになる。

 ジョン・セバスチャンは最初はブロードウェイの演劇の音楽などを担当していたが、1969年8月にウッドストック・フェスティバルに見に行こうと出かけた。ところが急な雨のせいでステージ上が濡れてしまい、サンタナの演奏準備ができずに時間が空いてしまった。観客の中にジョン・セバスチャンがいることを知った主催者側は、急遽、時間しのぎのためにジョンにステージに上がってもらうようにお願いしたところ、ジョンは了解して歌うことになった。この時彼は、ドラッグのせいでハイになっていたようだ。だから簡単にOKしたと言われているが、彼自身は単なる普通の飲み薬でナチュラル・ハイだったと言っている。真相はどうなんだろう。40eb5607436f6755beb8d201a2cd65d0

 とにかくこのパフォーマンスのせいで、再び彼に脚光が当たり始めた。このあと同じようなフェスやライヴに呼ばれるようになって行ったのだ。ちなみにウッドストックでは、自分の持ち歌を3曲、ザ・ラヴィン・スプーンフルの曲を2曲歌っていたが、この時彼のソロ・アルバムは、まだ発表されていなかった。
 最初のソロ・アルバム「ジョン・B・セバスチャン」は、1970年に発表され、ビルボードの・アルバム・チャートの20位まで上昇した。ウッドストックでの彼のパフォーマンスがセールスに結びついたのかもしれない。あるいは、クロスビー、スティルス&ナッシュが参加していたせいかもしれない。また、デヴィッド・クロスビーからはC,S&Nに参加しないかと誘われていて、ジョンも本気で考えていたようだ。もし実現していたら、C,S,N&Sになっていたかもしれない。51suw8j7aul

 ジョン・セバスチャンの音楽性は、マリア・マルダーほど幅広くはないものの、単なるフォーク・ミュージックやフォーク・ロックの範疇に収まるものではなかった。フォークからロック、ジャズ、R&Bと自身が影響を受けた音楽をまとめてジョン・セバスチャンというフィルターでろ過したようなサウンドなのである。だから多様な音楽的要素に満ちているし、どんなテイストを持った曲が出てくるかわからないという楽しみも備えている。
 例えば「ジョン・B・セバスチャン」では、ロックン・ロールの"Red-Eye Express"やストリングスが美しいバラード曲"She's a Lady"、アコースティック・ギター弾き語りの"You're a Big Boy Now"など、なかなかの佳曲で占められていて、セールス的に成功した理由も理解できた。特に、エルヴィス・コステロもカバーした"The Room Nobody Lives in"などは隠れた名曲ではないかと思っている。

 このあとジョンは、ライヴ・アルバムを発表した後、1971年にセカンド・スタジオ・アルバム「ザ・フォー・オブ・アス」をリリースした。冒頭の"Well,Well,Well"などは、名曲"Woodstock"に似た感じのロックン・ロールだし、"I Don't Want Nobody Else"はミディアムテンポで、バック・コーラスが60年代風の美しいもので、こういうところがウェストコースト風の音楽と間違えてしまった点だろう。
 また、"Apple Hill"はまさにラヴィン・スプーンフル時代のような甘くてポップなテイストで、バンジョーが使用されている点が面白い。また、ベース・ギターを演奏しているのは、グリニッジ・ヴィレッジ当時の旧友だったフェリックス・パパラルディだった。 51p3cjcehyl

 こういう佳曲が含まれていたのに、何故かこのアルバムは売れなかった。理由はよくわからないが、ひょっとしたら当時のレコードのサイドB全体を使って書かれた曲"The Four of Us"のせいかもしれない。この曲は組曲形式になっていて、"Domenica"、"Lashes Larue"、"Red Wind、Colorado"に分かれていた。カリブ風の音楽やDr.ジョンがピアノを弾いているニューオーリンズ風のロックン・ロールも含まれていて、ジョン自身の集大成的アルバムだった。こういう先進的というか、自身の趣味性を追及しすぎたせいでセールス的にはパッとしなかったのかもしれない。チャート的には93位に終わっている。

 1974年には「ターザナ・キッド」というアルバムを発表したが、これまた不発に終わっている。ただ評論家の受けは良くて、リトル・フィートの"Dixie Chicken"の再解釈やローウェル・ジョージと共作した"Face of Appalachia"など名曲も含まれていた。特に、デヴィッド・リンドレーがフィドルを担当している"Face of Appalachia"は、これまた涙なしには聞くことのできないカントリー・バラードで、70年代半ばの混沌や退廃といった風潮を受け止めながらもそれを越えていこうとする力強さと繊細さを感じさせてくれる。

 また、エヴァリー・ブラザーズもカバーした"Stories We Could Tell"もまた優しいフォーク・ソングだった。エヴァリーの曲の方は、当時ジョンが住んでいた家の居間で録音されていて、これはジョンとエヴァリー・ブラザーズに参加するというプランがあったからだという。ジョンは、そういう意味では、ミュージシャンからも愛されるミュージシャンだったのだろう。51eiz1jlakl

 1976年に発表されたアルバム「ウェルカム・バック」は、ジョンにとってもまたファンにとっても忘れられないアルバムに違いない。このアルバムからは全米No.1シングルになった"Welcome Back"が含まれていたからだ。この曲は、テレビの青春ドラマの主題歌で、テレビドラマが好評だったため、主題歌も一気にチャートを駆け上っていった。ちなみに主演はジョン・トラボルタだった。
 またこの曲以外にも、ザ・バンド風の"I Needed Her Most When I Told Her to Go"ではジョン自身がハーモニカを演奏しているし、完全なブルーズ調の"Warm Baby"、2枚目のシングルになった"Hideaway"などの優れた曲が収められていた。

 "Hideaway"などは、"Warm Baby"とは対照的に、陽気で明るい曲だし、もっと売れてよかったと思っている。また、バラード調の"She's Funny"も落ち着いた感じで、まるでソウル・ミュージックだった。こういう音楽の多様性が彼の魅力なのだが、当時の音楽ファンからすれば、つかみどころがなくて敬遠されたのかもしれない。51crs39r4pl

 その後も彼はコンスタントに活動を続けていて、ライヴ活動も行っているようだ。最近では自分のルーツに戻ったようで、60年代風のジャグ・バンドとともに活動している。513sax1jgrl
 とにかく、彼の作る音楽は彼自身の人間性を表しているようでとても親しみやすく、メロディアスで覚えやすいのが特徴だ。ちょうどウッドストックへの出演で人気に火がついたように、その時のパフォーマンスが、ドラッグのせいかどうかは別にして、彼の人間性が表出されていたからだろう。そして、人の人間性は単一のものではないから、彼の場合はロックン・ロールからR&B、ポップ・ソングにウェストコースト風音楽と、多種多様に表現されたものとして表れてくるのだろう。まさにアメリカン・ミュージックを体現したミュージシャンのひとりではないだろうか。

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2019年7月22日 (月)

マリア・マルダー

 先月亡くなったDr.ジョンつながりで、この人のアルバムを紹介しようと思う。マリア・マルダーが1973年に発表したアルバム「オールド・タイム・レイディ」である。知っている人は知っていると思うけれど、このアルバムは彼女の代表作の一枚といわれていて、シングル・カットされた"Midnight at the Oasis"はビルボードのシングル・チャートで6位まで上昇している。また、シングルだけでなく、アルバム自体もチャートの3位まで上昇してゴールド・ディスクを獲得した。51dks1bhojl

 彼女の特徴は、単なるフォーク・シンガーでもなく、またカントリー・ミュージックの信奉者でもないところだろう。どういうことかというと、単なる歌を歌うだけでなく、その歌の解釈の仕方や歌い方を通して、彼女の持つ表現力の高さや感性の豊かさ、そしてそれぞれの歌を通してアメリカという歴史の浅い国で育ってきた様々な種類の音楽やそれらが持つ普遍的な魅力をリスナーに伝えようとしているところである。

 もし彼女が自分で曲を書き、自分で歌うというシンガー・ソングライターだったら、ここまでの表現力を発揮できたかどうかは疑問である。自分の気持ちや考え、感情を披露し、それを聞き手に向けて発表できるだろうが、そこから先がどうなるかわからないし、見えて来ない。ひょっとしたらそこで終わってしまうかもしれないのだ。
 逆に、むしろ他の人の曲を取り上げることで、別の解釈の仕方を提示し、それを彼女の歌を待っている私たちに伝えようとする意志みたいなものが、彼女自身を更なる高みに持って行くような気がしてならない。だからこそ歌唱力のみならず豊かなで幅広い表現力が発揮できるのだろう。

 彼女の持つ資質は、彼女がもともと持っていたのかもしれないが、それだけでなく子どもの頃から歌うことが好きで、高校生になっても授業をさぼって歌の練習をしたり、公園や街角で歌っていたりと、そういう環境から磨かれ育って行ったのだろう。
 彼女は元々ニューヨークのグリニッジ・ヴィレッジの出身である。1943年の9月生まれだから現在75歳になる。ということは1950年代後半から60年代前半に青春時代を送ったわけで、当時のニューヨークのグリニッジ・ヴィレッジの新しいムーヴメントが生まれるまさにその影響を浴びながら育って行ったわけだ。だからフォーク・ソングからカントリー・ミュージック、ブルーグラスやジャズまで幅広く吸収できたのだろう。その影響が、後に彼女のシンガーとしての成長に大きく役立ったのである。

 マリア・マルダーの本名は、マリア・グラシア・ロサ・ドメニカ・ダマートといった。イタリア系の移民なのかもしれない。高校生の頃からコーラス・グループを結成して歌っていたが、卒業後は本格的にプロの道を歩もうと決意し、ドック・ワトソンの義理の父親だったガイザー・カールトンからフィドルの演奏の仕方を習いにノース・キャロライナ州まで出かけてしばらくそこで過ごしていた。ちなみに、ドック・ワトソンとは60年代を中心に活躍した盲目のギタリストで、そのフィドルのような速弾きは後進のギタリストに多大な影響を与えている。

 ノース・キャロライナから戻ったマリア・マルダーは、再び小さなカフェやクラブで歌を歌い始めるが、21歳になった時にブルーズ・シンガーだったヴィクトリア・スパイヴァから誘われて、イーヴン・ダズン・ジャグ・バンドに参加した。このバンドにはマリアの他に、ジョン・セバスチャン、のちにブラッド、スウェット&ティアーズのギタリストになるスティーヴ・カッツ、マンドリンの名手デヴィッド・グリスマンなどがいた。ただ、バンドは1枚のアルバムを残して解散してしまった。これだけの有能なミュージシャンが集まっていたのだから、なかなか意見がまとまらず長続きできなかったのだろう。Mariamuldaurd43422725ed7445c97e72f9b1be4

 マリアの方は、すぐにジム・ウェスキン・ジャグ・バンドに加わって活動を続けた。そしてこのバンドのギタリストだったジェフ・マルダーと結婚したのである。それで名前がマリア・マルダーになったのだが、そんなことよりもこのバンドでの活動は約6年にも及んだが、1969年にバンドは解散した。そして夫婦だったジェフとマリアは、共同名義でアルバムを2枚発表しているが、ブルーグラスやフォークが好きな人ならともかく、世間的にはそんなに話題にはならなかったようだ。

 そして1972年に夫婦は離婚したが、マリアの方はそのままマルダー姓を名乗り続けていった。未練があったのかはたまた韻を踏んで言いやすかったのか定かではない。それはともかく、元夫のジェフ・マルダーはポール・バタフィールドとともに”ベター・ディズ”を結成してバンド活動を続けていった。そして元妻であるマリアはソロ・アルバムを発表した。それが「オールド・タイム・レイディ」である。ただし、このアルバム・タイトルは日本のレコード会社が決定したもので、オリジナル・タイトルは単純に彼女の名前「マリア・マルダー」だった。

 アルバムの内容も素晴らしいのはいうまでもないが、それだけでなく制作に集ったミュージシャンの顔触れがまたすごいのである。まずスライド・ギターの名手ライ・クーダー(ただしこのアルバムではスライド・ギターは手に取っていない)、スタジオ・ミュージシャンとして名を馳せたジム・ケルトナーにデヴィッド・リンドレー、キーボードにはマーク・ジョーダンにグレッグ・プレストピノ、マンドリンのデヴィッド・グリスマン、バイオリンにはリチャード・グリーンとラリー・パッカー、フライング・ブリット・ブラザーズにも在籍していたベーシストのクリス・エスリッジ、それになぜかクラウス・ヴアマンもベースを演奏していたし、デレク&ザ・ドミノスのジム・ゴードンは太鼓を叩いていた。さらにはザ・バーズにもいたクラレンス・ホワイトにニック・デカロ、アンドリュー・ゴールド、エイモス・ギャレット、そしてマルコム・ジョン・レベナックである。やっと出てきた、マルコム・ジョン・レベナックこそDr.ジョンの本名だ。このアルバムではホーン・アレンジも担当していた。71hh3sa003l__sl1001_

 もちろんこれ以外も多くのミュージシャンが参加していたのだが、ここでは割愛する。あまりにも多すぎるので紹介しただけでこの稿を終わってしまうからだ。とにかくこれだけ多くの有能なミュージシャンが集まって作り上げたアルバムである。発表前から手ごたえはあったようだ。これを企画したのはもちろんマリアもそうだが、主にはプロデューサーを務めていたジョー・ボイドとレニー・ワロンカーの2人のおかげだろう。

 ジョー・ボイドはアメリカ人ではあるが、初期のピンク・フロイドやインクレディブル・ストリングス・バンド、フェアポート・コンヴェンションなどのイギリスのバンドもプロデュースしている人で、基本的にはフォーキィな音作りに堪能である。もう一方のレニー・ワロンカーの方は、のちにワーナーブラザーズの社長にもなった人だが、リッキー・リー・ジョーンズやランディ・ニューマン、ポール・サイモンなどのアルバムのプロデューサーも担当したことがある。この2人がプロデューサーだったから、こんなに幅広く人を集められたのだろう。しかもそれなりの人ばっかりだから、これはもう素晴らしいとしか言いようがない。

 アルバムの内容だが、これはソウル・ミュージックやリズム&ブルーズを除くアメリカン・ミュージックの集大成のようなもので、ヨーロッパ系アメリカ人なら、あるいはジャズを生んだアフリカ系アメリカ人にもどこか郷愁を感じさせるような楽曲で占められていて、そういう意味でもまたヒットしたのではないかと思っている。
 1曲目の"Any Old Time"はライ・クーダーの弾くアコースティック・ギターの演奏が耳に残るのだが、20世紀初頭のラグタイム・ミュージックになっているし、2曲目の"Midnight at the Oasis"は都会的なジャズだ。続く"My Tennessee Mountain Home"はフィドルが強調されたカントリー系の曲で作曲者はドリー・パートンで、"I Never Did Sing You a Love Song"はゆったりとしたバラード系のジャズ・ボーカルもしくはスタンダード曲風の装飾が施されている。

 "The Work Song"は徐々に楽器が増えていき、最終的にはディキシーランド風の音楽が形作られて行き、"Don't You Feel My Leg"もまたマリアの表現力がパッケージされた曲で中間部のピアノ・ソロはジョン・レベナックが担当しているし、次の"Walkin' One&Only"ではジャズ畑からベーシストとドラマーを呼んでスウィングしながら歌っている。バイオリン演奏はリチャード・グリーンが担当していて、最後はアコースティック・ギターと競い合っていた。

 "Long Hard Climb"はゆったりとしたバラードで、ドリーミングな心地にさせてくれる名曲だ。"Midnight at the Oasis"もそうだが、ストリングスのアレンジはニック・デカロが担当している。この曲は最後がフェイド・アウトしてしまうのでもったいない気がした。エンディングまで聞かせてほしい曲でもある。"Three Dollar Bill"にもDr.ジョンは参加していて、そのせいでもないだろうがビルボードのアダルト・コンテンポラリー部門のシングル・チャートで7位まで上昇している。

 "Vaudeville Man"はそのタイトルのようにクラリネットやホーンがフィーチャーされているが、アレンジを担当したのはDr.ジョン、ベースはクラウス・ヴアマンが、アコースティック・ギターはアンドリュー・ゴールドが演奏している。アルバム最後の曲"Mad Mad Me"は何となくケイト・ブッシュのような高音と表現力を伴っている曲で、バイオリンはラリー・パッカー、ピアノはグレッグ・プレストピノ、ドラムスはジム・ケルトナーではなくてクリス・パーカーというジャズ・ミュージシャンが参加している。言い忘れたがジム・ゴードンは"Midnight at the Oasis"でドラムスをたたいていた。

 このアルバムの演奏をきっかけにブレイクしたのが、ギタリストのエイモス・ギャレットで、"Midnight at the Oasis"でのギター・ソロが評価されて脚光を浴び、ソロ・アルバムを発表するようになった。そういった意味でも、歴史的な評価が高いアルバムかもしれない。201904170035_ex
 この後マリア・マルダーは、ゴスペル・ミュージックやジャズ、リズム&ブルーズなどの様々分野で活躍するようになって行った。そしてDr.ジョンはもとより、ブルーズやジャズ界のミュージシャンともコラボを重ねながらアルバムを発表し続けており、その数は何と41枚にも達しているという。まさにアメリカン・ミュージックの伝道師のようなマリア・マルダーだ。まだまだ現役で頑張ってほしいものである。

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2019年7月15日 (月)

ショーン・レノン(2)

 ショーン・レノンの第2弾プログレ編である。本当は冬場のプログレッシヴ・ロック特集で扱おうかなと思っていたし、前回のこのブログでもそういうふうに記述してあったと思うけれど、冬まで待てなかったというか、果たしてプログレッシヴ・ロック特集ができるかどうかわからなかったので、先に紹介することにした。

 以前にも書いたけれど、ショーン・レノンの音楽は、ある意味、趣味的というか、自由気まま、興味のある分野に首を突っ込んでいるような印象がある。その点はジュリアン・レノンとは違うようだ。ただ、ふたりとも商業主義に毒された音楽業界には辟易していて、ジュリアンの方は実際に、7年間くらい活動を休止していた時もあったし、ショーンは2006年以来は自身のソロ・アルバムを発表していない。

 そんな中でショーン・レノンは、お友だちのチボ・マットやマリアンヌ・フェイスフル、映画音楽など様々な分野に触手を伸ばしていたが、プライマスというバンドのレス・クレイプールと一緒に2016年にアルバムを発表した。それが「モノリス・オブ・フォボス」だった。
 アルバム紹介に行く前に、プライマスというバンドについて簡単に触れると、1984年にカリフォルニアで結成されたオルタナティブ・ロック・バンドで、リーダーでベーシストのレス・クレイプールを中心にした3人組のバンドだった。

 とにかくこのレス・クレイプールという人は、音楽的素養のみならず何でも演奏するマルチ・ミュージシャンだが、特にそのベース・プレイヤーとしての演奏技術については高く評価されていて、現代ロック・シーンを代表するベーシストとして認められている。日本ではそんなに馴染みがないかもしれないけれど、欧米では人気のあるベテラン・ミュージシャンなのである。ちなみに55歳で、ショーンよりは一回り年上だ。

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 彼ら二人は、2015年に行われたプライマスの公演で知り合い、そこから本格的な活動が始まった。当時のショーン・レノンは、シャーロット・ケンプとのユニット・バンドであるゴースト・オブ・ア・セイバー・トゥース・タイガーに参加していて、たまたまプライマスとのジョイント・ライヴによって、ショーンとレス・クレイプールが意気投合して活動を始めようということになり、実際にアルバムを制作してしまった。ショーンもレス・クレイプールもマルチ・ミュージシャンだから、その気になればアルバムの1枚や2枚は簡単に作れるのだろう。C42306662c019fc83cdcac36c4d04945

 とにかく、ショーンとクレイプールは6週間かけて曲を作り、クレイプールのゲストハウスで機材を持ち込んでレコーディングを行った。資料によると、ドラムスとギターの多くはショーンが担当し、ベース・ギターとキーボードはクレイプールが演奏したようだ。レス・クレイプールによれば、ショーンのドラミングはリンゴ・スターとニック・メイソンの中間みたいな感じだったらしい。と言われても困るんだけど、的確なビートから空間を生かしたドラミングまで幅広いものだったのだろう。

 一方、ショーンの方はレス・クレイプールについてこのように述べていた。「レスほどの度量のある人と一緒に演奏するのは、名誉でもあり挑戦でもあった。猿や宇宙や性的倒錯についての悪魔っぽい曲を一掴みにっこりと授けてくれたのさ」確かにこのアルバムは、スペイシーでサイケデリック、ドリーミーでファンタジックな雰囲気で満ちていた。 81hhnbutiil__sl1500_
 全11曲、約50分のトリップ・ミュージックである。"The Monolith of Phabes"のリード・ボーカルはレス・クレイプールで、ショーンはメロトロンとドラムスを担当していて、アルバム冒頭から抽象的でベース音がブンブン鳴っている曲が置かれていた。
 続く"Cricket and the Genie"はムーヴメント1と2に分かれていて、前半の部分はまさに60年代のサイケデリック・ロック・サウンドで、クレイプールの”ブンブン”・ベース・プレイとショーンのドラミングが対抗している。後半は曲名通りのコオロギの鳴き声から始まり、基本はクレイプールのベース・ソロにメロトロンや呪文のようなボーカルが被さっていき、再びコオロギの鳴き声で閉じていく。まさに時代は60年代後半にトリップしたような感じがした。

 4曲目の"Mr.Wright"もまたクレイプールのベース音に、断続的で機械的なキーボードが装飾されているし、逆に"Boomerang Baby"ではショーンのリード・ボーカルと短いながらも彼のギター・ソロも光っている。また、転調の多い曲を彼の叩くドラムで巧みにリードしている。この曲はショーンがリードを取って制作されたのかもしれない。
 逆に、7曲目の"Captain Lariat"はレス・クレイプールのボーカルだし、彼のベース音が目立っていた。ショーンの方はギターとドラムス、メロトロンにコズミック・レイン・ドラムというよくわからない楽器を担当していて、恐らくだが曲作りの主導権を握っていた人がリード・ボーカルを担当しているのだろう。後半のベース・ソロとスペイシーなギターとの掛け合いというか融合が見事だった。

 曲調だけでなく、歌詞についても今のアメリカ社会を皮肉った"Ohmerica"やヘロインの怖さを訴えた"Oxycontin Girl"、盗撮魔の生態をとらえた"Mr.Wright"など、ユニークなものから風刺の効いたものまで幅広い。また、10曲目の哀愁に満ちたバラード曲"Bubbles Burst"は、あのマイケル・ジャクソンのペットだったチンパンジーのバブルス君のことを歌っているに違いない。2017年現在でも生きていることが確認されていたが、いまだにアメリカでも話題性はあるのだろうか。
 アルバムは、そのまま曲間もなく最後のインストゥルメンタル曲"There's No Underwear in Space"に繋がっていくのだが、クレイプールのベース音とショーンのギターとメロトロンで構成されたアヴァンギャルドな曲調だった。

 翌年彼らは、4曲入りのミニ・アルバムを発表した。その4曲はいずれもカバー曲で、ピンク・フロイドの"Astronomy Domine"、ザ・フーの"Boris the Spider"、説明不要の"The Court of the Crimson King"、そして日本を代表するサイケデリック・ロック・バンドのザ・フラワー・トラヴェリング・バンドによる"Satori part1"だった。いずれも原曲を忠実に再現していて、凝ったアレンジはほとんどなかった。
 この4曲を見ればわかるように、いかに彼らが60年代の終わりのサイケデリック・ロックやプログレッシヴ・ロックに影響を受けているかが分かると思う。また、フラワー・トラヴェリング・バンドの曲は母親のオノ・ヨーコの紹介からで、彼女がバンド・メンバーと知り合いだったり、東北大震災の被害のことを訴えたりするためにレコーディングしたようだ。81mujkf2hl__sl1500_

 そして、それから2年後の今年の2月、再び”ザ・クレイプール・レノン・デリリウム”名義でフル・アルバムが発表された。タイトルは「サウス・オブ・リアリティ」と名付けられていた。前作の「モノリス・オブ・フォボス」が、ビルボードの全米アルバム・チャートで84位と意外と高評価されたからだろうか、あまり時間を置くことなく9曲入り47分30秒のアルバムが世に届けられたのだ。

 前作がサイケデリック・ロック寄りだったのに対して、こちらのアルバムはよりプログレッシヴ・ロックを意識したような内容になっていて、1曲当たりの時間も長めに作られている。一方ではメロトロンの使用度は下がっているのだが、その分、ポップさが加わっている。
 アルバム冒頭の"Little Fishes"における中間部の"シャラララララ"などは、まさに60年代テイストだし、全体的に覚えやすいメロディーで構成されていた。続く"Blood and Rockets"もムーヴメント1と2に分かれていて、前半はポップなメロディにスペイシーなギターとキーボードが絡みつくといった様相で、4分過ぎからの後半ではスローに転調し、アルペジオのギターが中心となって進んでいく。例えていうなら、ザ・ビートルズの有名曲"Because"に"I Want You"の轟音ギターが添えられたような感じだ。51lkv06wkl

 アルバム・タイトル曲の"South of Reality"には”南の空に浮かぶ真実”という日本語タイトルが付けられていて、3分27秒というこのアルバムの中では短い曲だった。ここで聞かれるレス・クレイプールのベース奏法は、確かにザ・フーのジョン・エントウィッスルに似ている。アップテンポのシングル向きの曲で、こういう曲が含まれているところが前作よりも進歩した点ではないだろうか。

 4曲目の"Boriska"では久しぶりにメロトロンを聞くことができて、私のようなメロトロン信者には涙が出るほどうれしかった。この曲も緊張感があってスリリングを覚えたし、意外といっては失礼だが、ショーンのギターとドラミングの腕前はかなりのものだと伺われた。
 次の"Easily Charmed By Fools"もレス・クレイプールのベース音が目立っていて、ショーンのギターが遠くで鳴っているかのように聞こえてきた。中間部のギターを用いた演奏は環境音楽風だったのに対して、3分50秒過ぎから急にアコースティック路線に変化し、収束していく。

 アルバム中一番長い7分47秒の曲が"Amethyst Realm"で、バックのキーボードとベースは不穏な雰囲気を湛えながらも、中間部のショーンのギターがそれを切り裂くかのように突如乱入してくる。このあたりのアレンジは古くはジェネシスが最近ではポーキュパイン・ツリーが得意とする部分であろう。また、5分過ぎからアップテンポになりメロトロンとエレクトリック・ギターがフィーチャーされていて、クラシカルなプログレッシヴ・ロックを踏襲しているかのようだ。しかし、この最後の2分間余りはわかりやすいし、非常にカッコいい。彼ら二人のチームワークもうまく行っているのであろう。

 "Todayman's Hour"は、どちらかというとサイケがかったザ・フーかキンクスだろう。ビートが強調されていて、恐らくはレス・クレイプール主導で作られたのだろう。そして、"Cricket Chronicles Revisited"は前作のアルバムの中の曲"Cricket and the Genie"の続編で、最初の5分間余りはインド風のラーガ・ロックで、後半はアコースティック・ギターをバックにナレーションが重ねられたサウンド・コラージュになっていた。よくまあこんな音楽を作れるなあと感心してしまった。
 そして最後の曲"Like Fleas"は、まるでピンク・フロイドのアコースティックな曲ミーツ60年代のビート・ミュージックといった感じで、今までのロック・ミュージックの中のいいところ取りのような気がした。ただそれがパクリでは終わらずに、きちんと自分たち流に再解釈しているところが素晴らしい点だと思っている。

 それからこのアルバムの国内盤には、2017年のミニ・アルバム4曲がボーナス・トラックとして収録されているので、もし購入して聞きたいのなら国内盤をお勧めする。お値段的にも他のアルバムと同価格だからでもある。71yruaw0bzl__sl1169_  いずれにしても、ストリーミングなどのデジタル・ミュージック全盛の現在で、重厚長大なプログレッシヴ・ロックを意識的に行っているところが潔いというか、趣味的というか、とにかく自分たちの好きな部類の音楽に取組んでいるところがよくわかるユニットである。自分たちの気の赴くままにおこなっているから長く続くことはないだろうが、できればプログレッシヴ・ロックの歴史を塗り替えてくれるようなアルバムを期待しているのである。

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2019年7月 8日 (月)

ショーン・レノン(1)

 ジュリアン・レノンの次は、やはりこの人しかいないだろうということで、ジュリアンの異母兄弟であるショーン・レノンのことについて記すことにした。考えてみれば、彼ももう43歳、いいおじさんであるし、いつのまにか父親のジョン・レノンの年齢も越えてしまった。Seanonolennon
 彼は10月9日生まれで、これは父親と同じ日の誕生日だった。それが理由かどうかはわからないが、父親は彼を自分の分身と考え、溺愛していたようだ。このへんはジュリアン・レノンと違うところで、ジュリアンの方は父親からの愛情を受けることは少なかった。自分の愛する女性のオノ・ヨーコとの子どもだったのか、あるいはジョンの父性がようやく人並みにまでに成長したせいなのか、その理由はよくわからない。

 いずれにしてもショーンは、両親からの愛情を一身に受けて育った。彼には姉弟がいなかったから、それこそすくすくと育っていった、父親の悲劇的な事件までは。1980年の12月8日の時は、ショーンはまだ5歳だった。わずか5歳で彼は永遠に父親を失ったわけだが、考えてみれば、ジョン・レノンもジュリアン・レノンも、そしてショーンもまた実の父親とは早い時期から、生死の違いはあっても離ればなれになってしまった。それこそ、まるでレノン家に宿っている”業”の深さを表しているかのようだった。90573

 その後は、オノ・ヨーコが彼に音楽的素養を授けていった。子どものうちから母親のソロ・アルバムに参加させられ、長じてはプラスティック・オノ・バンドにも加わった。また、彼はギターやベース、ピアノにドラムスも演奏できるが、それらもまた子どものころから手を触れてきたからだった。1991年にはレニー・クラヴィッツとともに"All I Ever Wanted"という曲を書き、アルバム「ママ・セッド」に収録された。1996年には日本人女性2人組のチボ・マットのEP制作に呼ばれ、そのままベーシストとして彼女たちのツアーにも参加している。そうして1998年には、チボ・マットのメンバーである本田ユカのプロデュースのもと、最初のソロ・アルバム「イントゥ・ザ・サン」が発表された。

 最初から言ってしまうと、ショーン・レノンとジュリアン・レノンの音楽の違いがよく表れているアルバムだった。ジュリアン・レノンの音楽は父親譲りというか、あくまでもロックン・ロールというかロック・ミュージックというフォーマットにこだわっているような、あるいはそれを追及するような音楽観だったのに対して、ショーンの方は、特に音楽のジャンルにこだわらない幅の広さというか、いい意味での趣味的な音楽、自分のやりたい音楽を追及するようなそんな違いがあると感じたのである。

 それはショーンのフェイヴァリットな音楽にも表れている。彼の好きなバンドやミュージシャンは、もちろんザ・ビートルズを筆頭に、ジョンン・レノン、セルジオ・メンデス、ザ・ビーチ・ボーイズ、スティーヴィー・ワンダー、マイルス・デイヴィス、ザ・ビースティー・ボーイズ、チボ・マット、ボアダムズ(日本のバンド)等々、ロックからジャズ、ソウル、ヒップホップと実に幅広いのである。

 1998年の「イントゥ・ザ・サン」を聞いても、そのことがよく伝わってくるのだ。全体的にはややダークな感じで、既成のロック・ミュージックのみならず、それこそマイルス・デイヴィスのサックスから抽象音楽に変化していく"Photosynthesis"のような曲もあれば、十分ポップ・ミュージックとして機能する"Into the Sun"、"Queue"など、これまた一聴しただけでは本質がつかみにくいアルバムに仕上げられていた。51kex9qqyol
 だからこの「イントゥ・ザ・サン」というアルバムは、ジョン・レノンやジュリアンのアルバムを想像して聞くと、ちょっと違うよなあということになってしまう。ある意味、種種雑多な種類の音楽に触れることができる。"Part One of the Cowboy Trilogy"はまるで文字通りのフォーク・ソングだし、"Breeze"はまさにボサノバだった。"Home"はグランジ・ロックだったし、"One Night"はまるでギター一本で歌われる子守歌だった。

 あくまで個人的な感想だが、このアルバムを聞いて父親とはまるで似つかない音楽だったから、自分にとっては畑違いの音楽のように思われた。だから数回聞いて、ラック棚の中になおしてしまった。ちなみにこのアルバムは、全米アルバム・チャートでは153位だった。

 それから約8年後、この間にEPでの発表はあったものの、突然「フレンドリー・ファイアー」というセカンド・アルバムが発表されるというアナウンスがあった。どうしようかなと思ったが、前作から時間も流れていたし、雑誌のアルバム・レヴューも好意的に書かれていたから、しかも映像特典もあるというので、思い切って購入して聞いてみた。そしてその結果、このセカンド・アルバムは前作のアヴァンギャルドな雰囲気は消えていて、しっとりと落ち着いた雰囲気を備えている好アルバムだった。

 このアルバムは、フランスでは売れた。43週にわたってチャートに残り続け、シルヴァー・ディスクを獲得している。ちなみに全米アルバム・チャートでは152位止まりだった。やはりこのアルバムの持つ絵画的というか、耳を傾けるだけで目の前に情景が浮かび上がってくるような映画的な音楽観がフランス人の琴線に触れたのだろう。
 楽曲的にもしっかりと作られていて、特にストリングスのアレンジが素晴らしい。また、ギターにはポール・サイモンの息子のハーパー・サイモンが、ドラムスにはパール・ジャムにも在籍していたマット・チェンバレインが参加して脇を固めている。 51qwklcsanl__sl1013_

 8年間のブランクのうちに、彼は何百曲も手掛けていた。しかし、アルバムに収録した曲は当時の新しい曲を選んだそうだ。『僕は、現在の自分に一番興味がある。だから明らかにこのアルバムでは、僕の最新の姿が描かれている』とショーンは述べていた。
 またこの8年の間に、ニューヨークやロサンジェルスのミュージシャン、ヴィンセント・ギャロ、サーストン・ムーア、ジョン・ゾーン、ライアン・アダムス、ザ・ストロークスのアルバート・ハモンド・ジュニア、ウィーザーのブライアン・ベルなど数多くの人たちと交流して、その創造力を保ってきていた。

 このアルバムでは、彼の恋愛関係が描かれている。彼はこのように述べていた。『どれも元彼女との関係と、その関係の終焉、そして彼女と浮気していた僕の親友のことを書いている。ある意味、それはとても美しい題材だった』この彼女というのは、歌手で女優のビジュー・フィリップスという人で、彼女はママス&パパスのジョン・フィリップスの娘で、ウィルソン・フィリップスにいたチャイナ・フィリップスの異母妹にあたる人だ。このアルバムでもバッキング・ボーカルとして参加していた。
 彼女は、ショーンの元恋人で、同時にショーンの幼なじみだったマックス・リロイとも交際していた。いわゆる二股をかけていたわけだが、もちろんショーンにその事実が知られてしまい、関係は解消された。問題は友人同士だったショーンとリロイの方だが、2人の関係を解決する前に、リロイの方はバイク事故で亡くなってしまった。だからこのアルバムは、ショーンの心象風景を表現していると同時に、リロイへの追悼盤なのでもある。

 全10曲、時間的には37分余りということで長くはないのだが、1曲1曲が際立っていて、どの曲も印象的だった。まるで遊園地のメリーゴーランドのような"Dead Meat"は3拍子のワルツで、アルバムの冒頭にもってくるには勇気がいると思ったのだが、聞き続けていくうちに耽溺してしまうのだ。前作と比べて、8年間の成長を感じさせられる曲だった。

 "Wait for Me"はショーンのファルセットが美しく響く曲で、ファルセットだけ聞くと本当に父親の声に似ていると思う。この曲にはメロディアスな曲が多いのだが、3曲目の"Parachute"は印象的だ。この曲でのショーンの声は何か物憂げで、アンニュイな雰囲気を漂わせていた。アコースティック・ギターのアルペジオで始まる"Friendly Fire"は、寂しげなミディアム・バラードの曲。ショーンの哀しみが曲に表れているようだった。
 一転して"Spectacle"はやや明るい曲で、バックのストリングスが美しい。後半につれて楽器の数が増え、徐々に盛り上がっていくところがよくアレンジされている。ただ、全体的には同じような曲調の曲が目立っていて、単調さがあるのは否めないところだ。それをアレンジでカバーしているのだろう。そして、このアルバムの中で一番ビートルズテイストな曲が"Headlights"だろう。手拍子も使用されているし、どことなく明るい。もう少しテンポを早くすれば、もっと印象に残っただろうし、シングルとして売れたに違いない。

 面白いのは、マーク・ボランの曲がカバーされている点だろう。"Would I Be the One"という曲なのだが、言われないとわからない。確かにサビの部分は70年代の雰囲気がプンプンしているのだが、ショーンのオリジナルと言われても納得してしまう。もともとこの曲は、マーク・ボランやT・レックスのアルバムには収録されていないマイナーな曲だったが、ショーンのアレンジやハーパー・サイモンのギターで再び蘇ってきたようだった。とにかくこのアルバムは、ショーンのボーカル・アルバムだった。最後の10曲目の"Falling Out of Love"もそうだった。ゆったりとしたマイルドなメロディーとそれを印象づけるストリングスとともに、ショーンのボーカルもまた甘美に響き渡るのである。まるで映画のエンドロールのBGMのようだった。61di1hymaal__sl1155_

 その後のショーンは、2009年には映画音楽のスコアを書いているが、それ以降、オリジナル・アルバムを発表していない。しかし、音楽活動を停止しているかというとむしろ逆で、他のミュージシャンと盛んにコラボをしているようだ。最近では、クレイプール・レノン・デリリウムという名義でプログレッシヴ・ロックのアルバムを発表している。そのプログレ・アルバムについては、今年の冬のプログレ祭りで記していこうと思っている。

 とにかく、ショーンにも豊かな才能が備わっているようだが、彼は遊歩人というか遊牧民というか、自分の興味・関心に従って音楽活動を続けているようだ。そこには父親に対する”トラウマ”もなければ、音楽に対する気負いもない。年齢も年齢だし、ある意味、自由気ままに音楽活動を行っているようにも見える。Browlineeyeglasses これは父親レノンの影響というよりは、母親であるオノ・ヨーコの影響ではないだろうか。音楽家というより芸術家としての才能を発揮しているのが、ショーン・レノンのような気がするのである。

 

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2019年7月 1日 (月)

ジュリアン・レノン

 ジョンやポールのことを書いているうちに、ふとジョンの最初の子どもジュリアン・レノンはどうしているだろうか気になってしまった。それで今回はそのジュリアン・レノンについて記してみたい。彼も父親が父親だから、さぞかし子どものころから注目を浴びていたに違いない、いい意味でも悪い意味でも。

 ジュリアン・レノンといえば、ザ・ビートルズの楽曲にも、直接的間接的に問わず、たびたび登場していた。一番有名なのは、ポールの作曲した"Hey Jude"だろう。ほんとは"Jude"ではなくてジュリアンを意味する"Jules"だったのだが、歌いにくいということで"Jude"になった。これは1968年、つまりジュリアンが5歳の時に両親(ジョン・レノンとシンシア・レノン)が離婚したからで、ジュリアンを励ますつもりで作ったと言われている。また、「ホワイト・アルバム」の最後の曲に"Good Night"という曲があって、これはリンゴ・スターがボーカルを取っていたのだが、この曲はジュリアンへの子守歌ということで作られたものだった。まだ、ある。1967年の"Lucy in the Sky with Diamonds"のイメージは、ジュリアンの保育園の友だちだったルーシー・オドネルが描いた絵から得られたものだった。ジュリアンがいなければ、この曲はかなり違ったものになったに違いない。

 彼は”期待されない”子どもだった。ジョンがシンシアと結婚したのも、いわゆる”できちゃった婚”だったからであり、最初から望まれてこの世に生を受けたわけではなかった。また、ジョン自身も気持ちが向けばジュリアンにも愛情をもって接していたが、公演旅行や映画の撮影、ニュー・アルバムのレコーディングと、忙しくなるにつれて、また世界中で名声が高まるにつれて、家庭を顧みなくなってしまった。63johnjulianlennon_01_1

 これはある意味、ジョン自身の宿命みたいなものだったかもしれない。ジョン自身もまた望まれてこの世に生まれてきたわけではなかった。ジョンが生まれた時、父親は船乗りで航海中だったし、母親のジュリアは他の男と同棲中だった。結局、ミミおばさん夫婦に育てられるのだが、18歳の時、ジョンは、自分の目の前で実の母親ジュリアが車にはねられて亡くなるところを目撃している。ジョンは実の両親からの愛情を十分に受けることもなく大人になっていったのだ。

 ある意味、親子2世代に渡っての”業”みたいなものを感じさせる話なのだが、ジョン・レノンはジュリアンの育て方も分からぬまま、今でいう育児放棄のような感じでシンシア任せだったし、ジュリアン自身も父親に馴染めず、むしろその存在に怯えるようだったと告白している。ジョンよりもポールの方が優しく接してくれていたようだった。だからジュリアンに対して曲を作ったり、一緒に遊んだりしていたのだろう。 V7aeni7s

 そんな彼も、長ずるにしたがって父親と親交を深め、ジョンの1974年のアルバム「心の壁、愛の橋」では最後の曲"Ya Ya"においてオモチャのドラムを叩いていた。まだジュリアンが10歳か11歳の頃だろう。父親のジョンはジュリアンに、ギブソン社のレス・ポールを与えたというから、それから音楽(もちろんロック・ミュージック)に対して具体的な感情を持ち始め、音楽活動を意識したに違いない。そして18歳になると、母親のシンシアから買ってもらったピアノを独学でマスターして、アマチュアバンドを結成して活動を始めていった。
 しかし、ジュリアンにとって更なる悲劇は、1980年ジュリアンが17歳の時に実の父親が亡くなったことだった。しかも今度は、世界中がその射殺という悲劇を同時に味わい、悲しみに包まれるという事態を伴っていた。ジョンは自分の目の前で母親の死を目撃したが、息子のジュリアンは世界中のメディアを通して父親の死を知ることになった。

 ジュリアンがレコード・デビューしたのは1984年、21歳の時だった。サイモンとガーファンクルやビリー・ジョエルのプロデューサーとしても有名だったフィル・ラモーンが担当したアルバム「ヴァロッテ」は世界中で評判になり、全米ビルボードのアルバム・チャートでは17位、全英アルバム・チャートでは19位と健闘し、アメリカではプラチナ・ディスクを獲得している。41kkeskl
 また、シングル"Valotte"と"Too Late for Goodbyes"は、全米シングル・チャートでそれぞれ9位と5位と、トップテン・ヒットになった。もちろんジョン・レノンの息子という話題性もあっただろうし、聞こえてくる声自体も父親とそっくりだったということもあっただろう。

 ただ、音楽的なレベルは決して悪くはなく、むしろ標準以上だろう。もしジョン・レノンの息子という事実が伏せられていたとしても、ヒットしただろう。ただ、プラチナ・ディスクまでなったかどうかは保証できないが…
 最初のシングルの"Valotte"は、このアルバムでギターを担当していたジャスティン・クレイトンとカールトン・モラレスとの共作だったが、"Too Late for Goodbyes"はジュリアン単独で書いた曲だったし、ノリのよい"Say You're Wrong"やマイケル・ブレッカーのサックスがフィーチャーされたバラード曲"Lonely"なども、ジュリアンひとりの手によるものだった。

 全体的には、21歳の若者の手によるデビュー・アルバムにしては老成されている感じがした。80年代特有の打ち込みシンセも使用されていたが、自分のやりたい音楽性とその時代性を反映させた音楽とが絶妙にマッチしていて、そういうところもヒットした要因の1つだっただろう。おそらくは、プロデューサーのフィル・ラモーンの方針だと思われるが、あのジョン・レノンの息子ということで、失敗はさせられないという覚悟や万全を期してデビューさせるようなこともあったのではないかと邪推している。そして結果的に見れば、ジュリアン・レノンを支えるプロダクション・チームの成功だった。

 このアルバムの成功の後、2年後にはセカンド・アルバム「ザ・シークレット・ヴァリュー・オブ・デイドリーミング」を発表しこれまたそこそこ売れたのだが、1989年の「ミスター・ジョーダン」以降、特にアメリカではチャートに上がることはなくなった。アメリカ人は、ジュリアン・レノンの姿にジョン・レノンの幻影を見ることが無くなったのだろう。あるいは、ディスコ調や映画音楽とタイアップした曲、キャッチーで売れ線狙いの曲とは真反対の、自分の求める音楽を追及していたジュリアンの楽曲は時流に添えなかったのだろう。

 90年代に入ってからのジュリアンは、しばらく音楽業界から遠ざかっていた。やはり偉大な父親と比較されたり、彼の名前を利用して儲けようとしたりする経験を味わったようだ。例えば、1991年のアルバム「ヘルプ・ユアセルフ」では、ジョージ・ハリソンが"Saltwater"という曲にギターで参加していた。それがきっかけとなって、突然、”ザ・ビートルズ再結成”という話が持ち上がった。ジョージとリンゴとポールにジュリアン・レノンが加わるわけだ。しかも当時はザ・ビートルズ・アンソロジーが編集されていたから、ザ・ビートルズ再評価に乗っかるような真実味のある話だった。
 結局、それは噂話に終わってしまったのだが、やはりそんなこともジュリアン・レノンにとっては自分が利用されたように思えたのだろう。音楽よりも趣味の料理やヨット・セイリング、彫刻、写真などに取組んでいた。

 自分が好きな彼のアルバムは、1998年の5枚目のスタジオ・アルバムの「フォトグラフ・スマイル」だった。前作の「ヘルプ・ユアセルフ」より7年間のブランクがあったが、このアルバムはメロディアスでよくできていると評論家受けもよかった。51kdt76fqel
 全14曲で63分という容量で、全体的に穏やかで落ち着いていて、アレンジが凝っていた。シングル・カットされた"Day After Day"はアメリカ人のミュージシャン、マーク・スパイロとの共作で、中間のストリングスなどは中期ザ・ビートルズの再現とまで言われた。因みに、マーク・スパイロはジョン・ウェイトやハート、ローラ・ブラニガン、リタ・フォードなどの80年代から90年代に一世風靡をしたミュージシャンたちに曲を提供している。

 このアルバムでは"Day After Day"以外にも4曲、"Cold"、"I Don't Wanna Know"、"Good to Be Lonely"、"And She Cries"でマークと共作していた。特に、"I Don't Wanna Know"はもろビートルズテイストの曲で、ザ・ビートルズの"I Should Have Known Better"と"It Won't Be Long"を足して2で割ったようなミディアム・テンポの曲だった。

 他にもピアノ奏者でシンガー・ソングライターのグレゴリー・ダーリンというアメリカ人と4曲コラボしていて、アルバム・タイトルにもなっていた"Photograph Smile"も彼との共作だった。これはバックでストリングスが鳴らされているちょっと凝り過ぎたバラード曲で、フランク・シナトラが歌ってもおかしくないような曲だった。他には"Crucified"、"Walls"、"Kiss Beyond The Catcher"、それに日本語盤のボーナス・トラックだった"Don't Let Me Down"に彼のクレジットがあったが、基本的にはピアノやキーボード主体で、しっとりとした印象を受ける曲ばかりだった。
 ただ、アコースティック・ギターが使用された弾むようなリズムの"Kiss Beyong The Catcher"がこのアルバムにアクセントを与えているし、タムタムとシタール・ギターがインド風味をもたらす"Crucified"は、60年代末のザ・ビートルズを彷彿させるものだった。この曲は悲劇的な死を迎えたジュリアンの友人のケヴィン・ギルバートという人に捧げられていた。

 またこのアルバム自体もジュリアンの義父だったロベルト・バッサニーニに捧げられたものだった。彼はシンシアと再婚していたらしい。これもどうでもいい話だが、シンシアは4回結婚していて、ロベルトは2回目の相手で1970年から76年まで一緒に暮らしていた。ロベルトは1995年の5月にイタリアのミラノで亡くなっている。

 とっても落ち着いていてロマンティックなアルバムだった「フォトグラフ・スマイル」だったが、まるで50歳代のベテラン・ミュージシャンのボーカル主体のアルバムのようだった。もう少しアップテンポな曲やロックン・ロール曲が含まれていれば、もっと話題を呼んだに違いないし、売れたに違いない。
 その後ジュリアンは、2011年の6枚目のスタジオ・アルバム「エヴリシング・チェンジズ」以来、アルバムを発表していない。このアルバムには先述のマーク・スパイロやグレゴリー・ダーリン、それから一時ジェスロ・タルにも在籍していたピート=ジョン・ヴェテッセも参加していた。このアルバムも凄く出来が良くて、評論家筋からの評価も高かったのだが、ジュリアン自身も売れることにはあまりこだわっていないようで、チャート的には芳しくなかった。

 ただ、”もしも”という仮定の話はしたくないのだが、もしもジュリアン・レノンの父親がジョン・レノンでなければ、もっと正当な評価が与えられただろうし、ジュリアン自身も生き生きと楽しみながら音楽制作に携わることができただろう。彼の才能は本物だし、ほかの同世代のミュージシャンと比べても決して遜色はなかった。そうなればもっと違う音楽が私たちの前に提示されたに違いない。Julian18sit

 ジュリアンは56歳になるが、まだ未婚である。自分が家庭もつ自信ができるまで、自分の中に父権が確立され、きとんと親子との関係が結べるまでは結婚をしないつもりのようだ。このままでいけば恐らく生涯を通して結婚はしないだろう。あるいは結婚しても子どもを持つことはないだろう。親子3世代に渡る”宿業”は、自分の代で断ち切りたいと思っているのかもしれない。

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2019年6月24日 (月)

ワイルド・ライフ(2)

 ポール・マッカートニー&ウィングスのアルバム「ワイルド・ライフ」についてである。このアルバムについては、2014年の5月に一度触れているので、今回はどうしようかなと思ったのだが、あえて書くことにした。理由は、ジョンとポールの確執について最後まできちんと記したいと思ったからである。B5mzcem90w26b_600

 どういうことかというと、ジョンのアルバム「イマジン」で2人の確執はまだ終わってはいなかったからだ。さらにポールの反論が続くのである。あえて前回までのことを繰り返すと、ポールがザ・ビートルズを脱退した(と言われていた)ことから、それについて反論を行った。それがアルバム「ラム」においてであり、その矛先はポール以外の3人+オノ・ヨーコに向けられていた。
 アルバム「ラム」が発表されたあと、同年の1971年9月にジョン・レノンの「イマジン」が発表された。そして、そのアルバムの中で"Crippled Inside"や"How Do You Sleep?"を通して、ポールに辛辣な批判を加えていた。そしてそれに応えるような形で発表されたのが、同じ1971年12月に発表された「ワイルド・ライフ」だった。ただし、正式にはポール・マッカートニー名義ではなくて、ポールの名前もない”ウィングス”とだけ記名されたアルバムだった。B0d2a58798425405476657f5d17d1694

 これはバンド活動にこだわったポールの意向が反映されていて、今までの自分の名声や評判を借りずに、バンドの力だけで活動しようとした表れであり、実力勝負に徹しようとした結果だった。確かに、ジョン・レノンは、パーマネントなバンドではないものの、”プラスティック・オノ・バンド”を率いてアルバムも発表していたし、ライヴ活動も行っていた。ザ・ビートルズでは1966年以降、全くライヴ活動を行っていなかったため、それまでの鬱憤を晴らすかのような活動だった。(映画「レット・イット・ビー」ではアップル社の屋上でライヴを行っていたが、あれを正式なライヴ活動と評するのには無理があるだろう)

 というわけで、実際に「ワイルド・ライフ」を発表した後も、”ウィングス”名義でイギリス国内でライヴ活動を行った。ただそれは、きちんとプロモーターが仕切るようなコンサートではなくて、機材を詰め込んだヴァンとポール・マッカートニー一家とミュージシャンたちが乗り込んだトレーナー、機材を運ぶローディーも2人のみと極めてシンプルで、行先も大学構内のホールのような小さいところだった。
 もちろんライヴ自体は、回数を重ねるにつれて熱気と興奮に満たされて行き、まさに熱烈歓迎状態になっていったのだが、最初は”ウィングス”といっても誰のバンドなのか誰も知らず、ライヴが始まってやっとみんなが気づくという有様だった。ある意味、覆面バンドのようなものだ。今の時代であれば、ネットやSNSですぐに拡散され、あっという間に評判になっていっただろうが、70年代の初めにはそんなことが起こりうるはずがなく、徐々に知られて行ったのである。Shutterstock_802243is

 しかもこのアルバムの「ワイルド・ライフ」は、3日でレコーディングが終了し、2週間でミキシング等も完了させたと言われていて、ポールはライヴ感覚を大事にしたと述べていたが、確かにこのバンドでのライヴは意識していただろうけれど、まだまだバンドとしてまとまっていなかったということは言えるだろう。特に、この当時のリンダ・マッカートニーのキーボードの腕前はお世辞にも上手とは言えず、とても人前でソロを聞かせるような代物ではなかった。また、デニー・レインや1972年から加入したリード・ギタリストのヘンリー・マッカロクなどの他のメンバーも、まだまだポールと十分な意思疎通はできていなかったようだ。

 だからアルバム自体も散々な評価を受けていた。早くライヴ活動を開始したいという気持ちが逆に焦りを呼んだのだろうか、シンプルで聞きやすいと言えば聞こえはいいが、前作「ラム」よりは手抜きというか、勢いだけで作りましたという印象が強かった。
 その証拠に、ポールのアルバムにしては珍しく他者の楽曲のカバー曲を入れていて、何とか曲数の帳尻合わせをしたという感じだった。そのカバー曲が"Love is Strange"で、オリジナルは1956年、ミッキー&シルビアというフォーク・デュオが歌った曲だった。また、1965年にはエヴァリー・ブラザーズもカバーしていたから、当時の欧米では有名な曲だったのだろう。最初はインストゥルメンタルで発表するつもりだったようだが、当時流行っていたレゲエ風にアレンジし直している。また、このアルバムからのシングル曲として準備していたが、最終的に版権の関係か、シングルとしては見送られた。

 それで全10曲、39分余りの時間的に短いアルバムだった。リンダ・マッカートニーは”ダンスで立ち上がって踊りたいときはサイドAを、女の子にキスさせたいときはサイドBを”と述べていたが、そんな簡単に割り切れるような感じではなかった。それならロッド・スチュワートの「アトランティック・クロッシング」や「明日へのキック・オフ」の方が編集方針としては明確になっているだろう。

 それで話題を元に戻すと、この10曲の中でジョンに対する回答は、5曲目の"Some People Never Know"と9曲目の"Dear Friend"だった。ポールも執念深いというか、よほど言いたいことが積もり積もっていたのだろう。30e80b21
 ただし、この2曲はジョンの「イマジン」を聞いて、その回答として考えたわけではなかった。この「ワイルド・ライフ」のレコーディングは、1971年の7月から8月にかけて録音、編集されているからで、「イマジン」のレコーディングが1971年の2月から7月まで断続的に続けられていたことから考えると、「イマジン」を聞いて反応を示すことは時間的に無理だったと思われる。

 だからこの2曲の内容は、反論や嫌悪といった感情をむき出しにしたものではなくて、むしろ諦観や受容といった内面的で静的な印象を与えるものだった。例えば"Some People Never Know"では、"I Know I was Wrong,Make Me Right"(自分が悪かったと思っている、自分を正しい方向に向かわせよう)と述べていて、むしろジョンに対して謝罪ともいえる言葉を述べていた。
 また、"Dear Friend"では、いきなり"Dear Friend,What's the Time? Is This Really Border Line"(親愛なる友だちへ、いま何時だい?本当にこれがギリギリなの)と今までの友情が途切れることを恐れているようなフレーズも見て取れる。

 曲調も"Some People Never Know"では、アコースティック・ギターが中心の落ち着いた雰囲気だったし、"Dear Friend"では、逆にピアノ中心の切々と歌い上げられたバラードだった。これらの曲には攻撃性や風刺性などは全く見られず、むしろ落ち着いて自分の意見を述べているような姿勢が伺えたのだ。
 先ほども述べたように、これらの曲は「イマジン」を聞いてから作られたものではなくて、「ラム」から「ワイルド・ライフ」に移るにしたがって、徐々にポール自身の考えが変化していったことを表している。ジョンに対して恨みつらみや非難中傷を加えるのではなく、現実を受け入れて、違う形でジョンやヨーコ、ほかの元メンバーと向き合おうとしたのだろう。だから「諦観」や「受容」といったイメージが浮かんで来たのだと思っている。

 実際にインタビューでもポールはこう答えていた。『"Some People Never Know"は僕とリンダのことについて述べた曲で、僕らのことをわかってくれない人たちがいるんだというメッセージを込めているんだ』また、『"Dear Friend"は直接的にジョンのことについて言っているのではない。ただ、ジョンのことを意識していることは間違いないと思う』だからある意味、ポールはザ・ビートルズに代わって新しいバンドを結成して、自分の目標に向かって旅立つために、一つの区切りとしてこの曲たちを準備したのだろう。

 ジョンとポールは友人でもあり、ライバルでもあった。だからお互いに意識しながら曲作りを行い、行動を起こしていった。さらにはライフスタイルも、相互に影響を及ぼしながら進展させていった。ジョンがヨーコというパートナーを得れば、ポールもリンダを娶って心の支えにしながら、生涯の伴侶にしようとした。
 ジョンが平和運動に心を砕き取り組んでいけば、ポールは逆に環境運動や動物愛護運動に力を注ぎ、ついにはヴェジタリアンになってしまった。そして、ジョンがプラスティック・オノ・バンドを組めば、ポールはウィングスを結成してライヴ活動に精力的に取り組むようになったのである。Paulmccartneyandwingswildlifepressphotow

 最後に、この「ワイルド・ライフ」以降、ポールはジョンのことを直接的に歌うことはなかった、1982年の「タッグ・オブ・ウォー」でジョンを追悼した"Here Today"までは。ジョンもまたあからさまにポールのことを非難することはなかった。
 一説では、1976年にポールがアメリカ公演を行った際に、ニューヨークでジョンに会い、今から一緒にラジオ局に行ってみんなを驚かせてやろうかと話し合ったと言われているが、真偽のほどは定かではない。

 だけど、公式スタジオ・アルバムを通して、お互いのことを言い合うというのもジョンとポールだから許される?ことであって、普通のミュージシャンがやったら、見向きもされないかもしれない。確かに自分の体験や感情などを、楽曲を通して表現するのがミュージシャンの本来の務めなのかもしれないが、ここまであからさまにオープンに行ったのもジョンとポール以外にはいないのではないだろうか。そういう記録という意味でも、「ラム」や「イマジン」、「ワイルド・ライフ」などは、歴史的に貴重なアルバム群だったと思っている。

 ちなみに”ウィングス”という名前は、リンダが1971年にステラという女の子を出産したときにポールが思いついた名前で、「天使の翼」をイメージして名付けたという。確かに70年代のウィングスは、ここから大きく世界に羽ばたいていったのである。

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2019年6月17日 (月)

追悼:Dr.ジョン

 先日の6月6日にDr.ジョンが亡くなった。心臓発作が原因という。享年77歳だった。日本ではマニアの人ぐらいしか知らないかもしれないが、母国アメリカでは有名のようで、2011年にはロックの殿堂入りを果たしているし、グラミー賞も6度にわたって受賞している。自分も正直言って、そこまで評価が高いミュージシャンとは知らなかった。 2015112400093_1

 Dr.ジョンの本名は、マルコム・ジョン・レベナック・ジュニアといった。彼はルイジアナ州のニューオーリンズ出身だったから、子どもの頃から地元の音楽を聴いて育った。3歳から家にあったピアノを弾き始めたという。父親は電機店を経営していて、そこにあった当時の78回転のレコードを聞きながら腕を磨いていった。また学校に通い始めると、今度は母親が彼にギターをプレゼントしてくれた。そんなところを見ると、彼の家は比較的裕福なところだったようだ。何事も環境は大事ということだろうか。

 父親が電機店を経営していたという点も、彼のキャリアを考える上では非常に重要なことで、父親の仕事の手伝いをしていたレベナック少年は、ある時、PA機器の修理のために父親とミシシッピー州ミズーリのクラブに出かけたのだ。その時に出演していたのが、プロフェッサー・ロング・ヘアだった。私のハンドル・ネームもこの人から来ているのだが、ここではどうでもいい話だ。
 とにかく、この時のステージの印象が強くて、自分も将来は音楽で身を立てようと思ったらしい。また、父親はニューオーリンズの唯一のレコーディング・スタジオを経営していた人とも友人だったから、子どもだったレベナック少年もたびたびそこを訪れるようになって行った。偶然が重なれば必然になると言われるが、こういう環境がすでに用意されていたようだ。レベナック少年がDr.ジョンになるのは、ある意味、歴史の必然だったのかもしれない。

 レベナック少年は、レコーディング・スタジオに出入りしていくうちに、そこのスタッフやミュージシャンと仲良くなっていった。そして時には、使い走りをさせられながらも、ブルーズや地元の音楽にさらに慣れ親しんでいった。
 50年代にロックン・ロールのブームが起こると、根っからの音楽少年だった彼もその流行に身を任せてしまい、ついには高校を退学してしまい音楽的キャリアの追及を始めるようになったのである。

 17歳になると、自分のバンドを組んでクラブなどに出演するようになった。当時のレベナック少年はギターを担当していて、バンド名はボーカリストの名前を使用していた。当時流行ったような”〇〇&ザ・ナントカ”という感じだ。だから、1人のボーカリストが都合で来れなければ、次のボーカリストを見つけてきてバンド名を変えて出演していた。そうすれば、ほぼ毎晩レベナック少年はステージに立つことができたという。確かにそうすれば、毎晩演奏できるだろう。そうやって技術や感性、表現力を磨いていったのだろう。

 そうこうするうちに、先ほどのレコーディング・スタジオのスタッフから、メンバーが足りないからレコーディングに立ち会ってくれなどという声もかかってきて、セッション・ミュージシャンとしても名前が知れるようになって行った。
 50年代の後半に入ると、ソングライティングも行うようになり、"Lights Out"という曲を発表した。また、ジョニー・ヴィンセントが設立したエイス・レコードという会社でA&Rマンとして働き始め、安定した収入も稼ぐようになって行った。この時のことを、彼は後にこのように回想している。『レコーディングの際には、曲とセッション・ミュージシャンを決めるのが主な仕事だった。ただそれだけではなくて、必要ならアレンジャーも探して来るし、いなければ自分がアレンジも担当した。また才能あるミュージシャンを探してきて、そのレパートリーや曲作りも手伝ってレコーディングまで一緒にやったこともあった』

 その間に自分の演奏活動も行っていたのだが、運命の転機は突如としてやってくるようだ。1960年にフロリダ州ジャクソンヴィルで、モーテル経営者の喧嘩を止めようとしていたところ、その経営者が拳銃を発砲してしまい、運悪くそれがレベナックの左手人差し指(薬指という説もある)に当たってしまい、負傷してしまった。チョーキングもヴィブラート奏法もできなくなった彼は、ひどく落ち込んでしまい、一時はミュージシャンを廃業しようかと考えたようだ。

 その時バンドのメンバーだったキーボーディストからオルガンを弾くように勧められ、その手ほどきを受けるようになった。元々、子どもの頃からピアノに慣れ親しんでいたレベナック少年は、瞬く間にオルガンのみならずキーボード類を弾きこなせるようになって行った。
 しかし今度は、ニューオーリンズの音楽業界に陰りが見え始めた。ニューオーリンズよりもデトロイトやメンフィスのソウル・ミュージックやリズム&ブルーズが注目され始め、またイギリスからロックン・ロールの逆輸入が始まったのだ。

 仕方なくレベナック少年は故郷を去り、西海岸のロサンジェルスに旅立っていった。そこで彼は、旧友のハロルド・バチスティと出会い、とりあえずソニー&シェールのバック・バンドのメンバーとして活動を始めた。そしてオージェイズ、フィル・スペクターやアイアン・バタフライ、その他数えきれないほどのセッションに参加していった。

 1967年になって、レベナックはハロルドや同郷のメンバーたちと一緒に"Gris-Gris"をレコーディングした。この時から彼は"Dr.ジョン"と名乗るようになったのだが、この"Gris-Gris"は、ニューオーリンズに一度も行ったことのない人に、こんな音楽があるのか紹介するつもりで作った曲のようで、タイトル名は地元ニューオーリンズのヴードゥー教を意味していた。音楽的にもおどろおどろしくてサイケデリックだったが、意外にこれが受けたのだ。8104085_3l

 当時はまさに”サイケデリック・ミュージック”が流行していて、特に西海岸では、クィックシルヴァー・メッセンジャー・サーヴィスやアイアン・バタフライ、イッツ・ア・ビューティフル・ディ、ラヴ、モビー・グレイプなどその手の傾向を有するバンドが人気を得ていたから、Dr.ジョンの新奇的な音楽性も、逆に受け入れられやすかったのだろう。

 その音楽性に沿うように、Dr.ジョンのステージもまたヴードゥー教を意識したような、頭に鳥の羽をつけたり、メーキャップを施したり、派手な衣装を身にまとったりと一度見たら絶対に忘れられないようなものだったから、あっという間に名前が売れていったのだ。だから1971年の4枚目のアルバム「太陽、月、薬草」には、エリック・クラプトンやミック・ジャガー、グラハム・ボンドにボビー・キーズなどの錚々たるミュージシャンが参加していた。このアルバムは当時3枚組として発表される予定だったらしいが、結局は1枚のアルバムとしてまとめられて世に出された。

 このアルバムはビルボードのアルバム・チャートで184位を記録するなど、ニューオーリンズの音楽ファンのみならず広く一般にも売れたのだが、なぜかニューオーリンズの音楽自体が下火を迎えていたせいか、Dr.ジョン自身が借金を抱えてしまい、その解決のために当時のアトランティック・レコードの社長だったジェリー・ウェクスラーに相談したところ、それならもう一度ニューオーリンズの音楽を紹介するアルバムを作ってはどうかと提案され、そこから生まれたアルバムが1972年の「ガンボ」だった。8161d8w5el__sl1200_

 日本でのタイトルは「ガンボ」だったが、正式なタイトルは「Dr.ジョンズ・ガンボ」というもので、つまりDr.ジョンによるニューオーリンズ音楽の再解釈という意味なのだろう。このアルバムはファンのみならず、批評家からも絶賛された。また、ビルボードのチャートには11週も残り続け、112位まで上昇している。チャート的にはそんなに大したことはないと思われるかもしれないが、たとえば日本の沖縄民謡や秋田の祭りの囃子歌のアルバムが全国的に有名になったと考えれば、これはちょっとした出来事ではないだろうか。

 このアルバム「ガンボ」の成功で、その次のアルバム「イン・ザ・ライト・プレイス」はもっと売れた。チャートには33週も残り続け、24位まで上昇している。彼のキャリアの中で一番売れたアルバムになったのである。その主な原因は、2曲のシングルがヒットしたからだろう。マーティン・スコセッシが監督したザ・バンドの「ラスト・ワルツ」でも披露された"Such A Night"はシングル・チャートで42位を、"Right Time Wrong Place"は堂々の9位を獲得したのである。ちなみに、アルバムのプロデューサーはアラン・トゥーサンだった。彼もまた南部を代表する偉大なミュージシャンのひとりだった。お互い気心が知れていたのだろう。41x27wkmzdl

 同じ1973年にはもう1枚のアルバム「ディスティヴリー・ボナルー」を発表し、アトランティック・レコードとの契約を終了させ、ユナイティッド・アーティスト社から「汝の名はハリウッド」を発表した。これは表向きはクラブでのライヴ・レコーディングになっていたが、実際はスタジオ・ライヴ録音だった。ただ、プロデューサーはアリス・クーパーやキッス、ピンク・フロイドなどを手掛けたあのボブ・エズリンだったから、ひょっとしたら彼の入れ知恵なのかもしれない。

 この後Dr.ジョンは、徐々にジャズの方面にその触手を伸ばしていった。70年代後半は、フュージョンやクロスオーバーと呼ばれるジャンルに脚光が当たっていたから、その影響を受けたのかもしれない。一時彼は、スティーヴ・ガッドやデヴィッド・サンボーンなどと一緒にツアーをしていたようだ。何となく似合わないような気がした。
 その後、あまり彼の名前を聞かなくなったのだが、80年代後半に大手のレコード会社であるワーナー・ブラザーズに移籍してから再び脚光を浴び始めた。1989年のアルバム「イン・ア・センチメンタル・ムード」が再びアルバム・チャートに顔を出したのである。71yaoob7hml__sl1200_

 タイトル名でもわかるように、このアルバムはジャズ曲集で、デューク・エリントンやコール・ポーターなどの曲で占められていた。このアルバムの中の曲"Makin' Whoopee!"ではリッキー・リー・ジョーンズとデュエットをしていて、1990年の第32回グラミー賞で「ベスト・ジャズ・ボーカル・パフォーマンス・デュオもしくはグループ部門」で受賞することができたのである。
 ここから再び彼が注目され始め、ジャズのみならずリズム&ブルーズ、ロック・ミュージックとニューオーリンズの音楽を中心としながら活動を続けていった。そして、1992年の14枚目のソロ・アルバム「ゴーイング・バック・トゥ・ニューオーリンズ」は再びグラミー賞の「ベスト・トラディショナル・ブルーズ・アルバム」を獲得している。

 その後も彼は、コンスタントにアルバムを発表し続けていた。60歳を越えてもほぼ毎年アルバムを発表し続け、2009年と2013年には、それぞれグラミー賞の「ベスト・コンテンポラリー・ブルーズ・アルバム」と「ベスト・ブルーズ・アルバム」を獲得している。まさに”レジェンド”の異名に相応しい活躍ぶりだろう。

 自分にとっては、最初はレオン・ラッセルと区別がつかなかったし、彼の楽曲もシンディー・ローパーが歌った"Iko Iko"を聞いて、これってDr.ジョンが歌ったやつじゃないかと再認識したくらいだった。それでも彼のおかげでニューオーリンズの音楽を知ることができたし、彼を原点にしてマリア・マルダーやジョン・セバスチャン、日本の細野晴臣、久保田麻琴と夕焼け楽団などの音楽を知ることができた。そういう意味では、まさに”ニューオーリンズ音楽の伝道師”といってもいいだろう。心から哀悼の意を捧げたい。

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