2017年6月19日 (月)

ロイ・オービソン

 拙稿の「ドン・マクリーン」のところで、彼がロイ・オービソンの1961年のヒット曲"Crying"を歌ってヒットさせた、と記していたが、その元歌を歌ったロイ・オービソンのことについては、まだ触れていなかったので、ここで改めて記そうと思った。Imgd9f3d9b7zikezj
 ロイ・オービソンには、全米No.1になった曲が2曲ある。1曲目は1961年6月に1週間だけ首位になった"Running Scared"で、もう1曲は、1964年の9月に3週間首位に輝いた"Oh, Pretty Woman"だ。

 前者の"Running Scared"は、ロイが作詞家のジョー・メルソンと1952年に作った曲で、わずか5分くらいで書き上げたものだった。
 ボレロ調のスローなバラードのこの曲は2分余りと、短い曲だったが、まったりするような雰囲気が漂っている。たぶん、ロイの歌い方が醸し出すものだろう。

 本当はエルヴィス・プレスリーに歌ってもらいたくて作ったらしく、ロイはわざわざエルヴィス・プレスリーのメンフィスの自宅までもって行ったのだが、朝早すぎてまだ寝ていたらしく、結局、具体的な話はできなかったらしい。
 仕方ないので、エヴァリー・ブラザーズのフィル・エヴァリーに曲を聞かせて、気に入れば歌ってほしいと言うつもりだったのだが、話だけで終わってしまったということだった。

 "Oh, Pretty Woman"の方は、1982年にはアメリカのロック・バンド、ヴァン・ヘイレンがリバイバル・ヒットさせているし、1990年の同名映画の主題歌でも使われたので、多くの方が知っているのではないだろうか。

 この曲は、アメリカだけでなくイギリスでもシングル・チャートの首位になっている。また、米英のみならず、ドイツやオランダ、カナダなどの国々でもヒットを記録し、全世界で400万枚以上のベスト・セラー曲になった。

 ロイ・オービソンは、1936年4月23日にテキサス州のヴァーノンにあるウインクというところで生まれた。本名は、ロイ・ケルトン・オービソンといった。父親は油田で働いていて、母親は看護師だった。

 6歳の頃に、父親のアドバイスに従ってギターとハーモニカを習うようになり、8歳の時には地元カーミットのKVWCラジオ局の番組でギターを演奏するようになった。さらには、テレビ番組にも出演するようになり、だんだんと有名になっていった。

 高校生の頃には、“ウインク・ウェスターナー”というバンドを結成したし、大学に入学してからは“ティーン・キングス”というグループを組んで、主にカントリー&ウェスタンを中心にクラブやパーティーで演奏するようになった。
 ちょうど映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー」の中で、パーティーでギターを演奏するシーンがあったが、あんな感じだったのだろう。ただし、映画の中ではまだ誕生していないロックン・ロールだったが…

 ロイは、ノース・テキサス大学に通っていたが、お友達の中にはあのパット・ブーンもいて、彼の成功に刺激を受けて、ロイも本格的にミュージシャンになろうと思ったそうである。
 それで、バディ・ホリーのマネージャー兼プロデューサーだったノーマン・ペティに認められて、彼のスタジオで何曲かレコーディングを行った。

 1955年に、その中の曲がシングルとして発表されたがヒットしなかった。そのとき、テレビ番組で共演したジョニー・キャッシュから自分が所属していたメンフィスのサン・レコードを勧められたロイは、社長のサム・フィリップスに会いに行ったのである。

 サン・レコードといえば、あのエルヴィス・プレスリーやカール・パーキンス、ジェリー・リー・ルイス等々の有名ミュージシャンが在籍していた会社であり、サム・フィリップスは、かつてエルヴィスのマネージャーでもあった。

 そのサム社長は、ロイの歌い方や声に興味を持ち、契約を交わした。そして1955年にシングル化されていた"Ooby Dooby"、"Go Go Go"を再発したのだが、これはチャートの59位まで上昇した。

 気をよくしたサム社長は、ちょうどエルヴィスがRCAレコードに引き抜かれたこともあって、ロイをエルヴィスの後継者にしようとした。ただ、サム社長はロックン・ローラーとしてロイを育てたかったようだが、ロイ自身はバラードを歌いたかったようだった。

 そういう方向性の違いもあったせいか、3枚のシングルを発表するも、いずれも不発に終わり、失意のロイはエルヴィスの後を追うように、RCAレコードに自身も移籍したのである。

 残念ながら、1955年から59年までのロイ・オービソンについては、むしろヒットに恵まれない不遇な期間だったようだ。

 彼の運が好転するのは、59年にモニュメント・レコードに移籍したころからだった。1960年に"Uptown"がチャートの72位に入ると、続いて"Only the Lonely"がチャートの2位になり、イギリスでは首位になった。ここから彼の快進撃が始まるのである。

 彼の全盛期は、このモニュメント・レコード時代ではないだろうか。20枚のシングルがリリースされ、そのうち両面ヒットを含む21曲が全米シングル・チャートに入り、9曲がトップ・テンに、上記のように2曲が首位に立ったのである。

 これはイギリスでも言えることで、あのザ・ビートルズやザ・ローリング・ストーンズ等が大活躍していた60年代に、ロイは30曲をチャートに登場させ、そのうち10曲がトップ・テンに入って、3曲が首位に輝いている。(イギリスでの首位の曲は、"Only the Lonely"、"It's Over"、"Oh, Pretty Woman"の3曲だった)

 なぜかイギリスでは人気の高いロイ・オービソンだった。1963年にはザ・ビートルズと一緒にライヴ公演を行っているし、70年代に入っても1975年には合計55回にわたる全英ツアーを敢行していた。

 彼の最後の所属レコード会社は、イギリスのヴァージン・レコードだったし、イギリス人の間では、海の向こうの伝説的なミュージシャンというような認識があるのだろう。51s6tkjdqkl
 1965年に、ロイはレコード会社をMGMというところに移る。契約金は1年間で100万ドル、契約期間は20年間というもので、まさに超VIPの待遇だった。
 ところが、人生はロイにとっては、そう上手くはいかなかった。7年間の在籍で、15枚のシングルを発表したが、ヒットしたのはその約半分の7曲、一番成功したシングル曲は、1965年の"Ride Away"で、25位止まりだったのである。

 さらに不幸は続く。仕事面だけでなく、私生活では、1966年に奥方のクローディット・チェスター・オービソンがオートバイ事故で亡くなった。享年26歳だった。
 また、2年後にはテネシーにあった自宅が火事で全焼し、ロイ・ジュニアとトニーの2人の息子を失っている。

 1969年にはバーバラという人と再婚をしたが、アメリカで再び音楽活動を始めたのは、1977年になってからだった。それだけ時間がかかったのも、心の整理がつかなかったからだろう。

 MGMの次には、マーキュリー・レコード、アサイラム・レコードと転々と移籍を繰り返していったが、1979年になって映画「ローディ」に出演し、そのサウンドトラックに入っていたエミルー・ハリスとのデュエット曲"That Lovin' You Feelin' Again"(邦題は“胸ときめいて”)が久々にヒットして、翌年のグラミー賞のカントリー・デュオ/グループ部門で最優秀賞を獲得した。

 アメリカ国民はやっと彼の存在を思い出したようで、80年代に入ってからはドン・マクリーンやヴァン・ヘイレンが彼の曲をリバイバル・ヒットさせているし、映画の主題歌にも使用されていった。

 彼の歌は、いろんな人がカバーしているようで、上記の曲以外にも"Dream Baby"を1971年にグレン・キャンベルが、"Love Hurts"を1975年から76年にかけてイギリス人のジム・キャパルディやナザレスが、"Blue Bayou"を1977年にリンダ・ロンシュタットがヒットさせている。

 ロイ・オービソンといえば、どうしても“バラード・シンガー”としてのイメージが強くて、ベスト盤を聞いていた時も、ハワイアンを聞いている気分になったりもしたのだが、エルヴィスがカバーした"Mean Woman Blues"などは、ロックン・ロールしててなかなか良かった。
 イギリスでは、クリフ・リチャードやザ・スペンサー・デイヴィス・グループも歌っていたけれど、アレンジを加えれば、ハード・ロックとしても成立するようなそんな曲だった。

 1988年には、ジョージ・ハリソンやジェフ・リン等とともに、トラヴェリング・ウィルベリーズを結成して一躍有名になったが、アルバムがまだチャート・インしているときの12月6日に心筋梗塞で亡くなった。享年52歳だった。Travelingwilburys4ff972d27b17b
 最後に、ロイ・オービソンといえば、サングラスがトレードマークだが、元々はメガネだったのを度付きのサングラスに替えたからだと言われている。これはメガネを飛行機内に忘れたためで、次の日にイギリスでのビートルズとの公演に向かわなければならなかったからメガネを買う時間的余裕がなかったという理由だった。
 ちょっとした偶然は、人生に大きな影響を与えることがあるということを意味しているのかもしれない。

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2017年6月12日 (月)

バディ・ホリー

 バディ・ホリーも、エルヴィス・プレスリーと同様、いやそれ以上に、後世のロックン・ロール史に影響を与えたミュージシャンの一人である。5e8f746dee233d92e676b4ddcbe5d85e_10
 彼の曲は、ザ・ビートルズやザ・ローリング・ストーンズを始め、リンダ・ロンシュタットなど多くの有名なバンドやミュージシャンにカバーされている。("Words of Love"はザ・ビートルズが、"Not Fade Away"はザ・ローリング・ストーンズが、そしてリンダ・ロンシュタットは、"It So Easy"を取り上げていた)

 逆に、バディの死を取り上げて"American Pie"を作ったのが、ドン・マクリーンであり、のちにマドンナもこの曲をリバイバル・ヒットさせている。

 また、曲だけでなく、イギリスのバンド、ザ・ホリーズのようにバンド名に使われている例もあるし、イギリス人のエルヴィス・コステロは、バディ・ホリーのようなメガネをかけてデビューした。

 ついでに言うと、ザ・ビートルズは“カブトムシ(Beetle)”と"Beat"を掛けた造語だったが、彼らが昆虫の名前を選んだのも、バディ・ホリーのバック・バンドの“クリケッツ(コオロギ)”が由来だといわれているし、ジョン・レノンがメガネを愛用するようになったのも、バディの影響があったらしい。それほどバディ・ホリーは、多くのミュージシャンから慕われていたのである。

 バディ・ホリーは、本名をチャールズ・ハーディン・ホリーといい、“バディ”は母親が彼のことをこう呼んでいたことからきている。
 1936年9月7日に、テキサス州のラボックで生まれた。幼い頃から黒人の音楽やメキシコ音楽などに親しんでいたという。

 4人兄弟の末っ子で、幼い頃からバイオリンを習い、5歳の時には人前で歌うようになったと言われている。
 さらには11歳でピアノを、12歳でギターを弾き始め、13歳になると友だちと組んで、人前で音楽活動を始めた。

 高校生になると、地元のラジオ局で番組を担当するなど、かなりの人気を博するようになった。
 もちろんこれくらいで満足する彼ではなかった。自主制作盤を作成して発表したり、有名な歌手が来れば、頼み込んでオープニング・アクトとしてステージに立たせてもらったりするようになったのである。

 そのうち、ビル・ヘイリー&ザ・コメッツの前座を務めていた時、ナッシュビルのプロモーターだったエディ・クランドルに認められて、1956年にデッカ・レコードと契約を結び、レコーディングを行うことができた。もちろん、"That'll Be the Day"も録音されている。

 ただ、残念ながらこの時録音したレコードは、商業的には成功しなかった。それで、翌57年の2月に、今度はニューメキシコ州のクローヴィスにあるプロデューサーのノーマン・ペティのスタジオで再びレコーディングを行った。
 この時のバック・メンバーが“ザ・クリケッツ”と呼ばれた人たちだった。ドラムスがジェリー・アリスン、ベース・ギターがジョー・モールディン、ギターはニキ・サリヴァンである。

 この時も"That'll Be the Day"は録音されていて、今度はアップテンポの、よりロックン・ロール風にアレンジされていた。100625_02_buddyholly_3
 もともとこの曲は、アメリカの西部劇でジョン・ウェインが主演した1956年の映画「捜索者」("The Searchers")のセリフから引用されている。

 最初にナッシュビルで録音された曲の方は、デッカが気に入らず発表させてもらえなかった。だから、クローヴィスでもう一度再録されたのだろう。

 しかし、今度もデッカ・レコードは発売を拒否し、デッカ以外のコロンビア・レコード、RCA、アトランティック・レコードまでも断ってきた。
 最終的に、デッカ・レコードの子会社だったニューヨークにあるコーラル・ブランズウィック社のボブ・シールが契約をして、シングル・レコードとして発表することができたのである。

 1957年の夏にシングル・カットされたこの曲は、徐々にチャートを上昇していき、9月23日付のビルボードのシングル・チャートで1位になっている。この曲の前後には、ポール・アンカの"Diana"やジミー・ロジャースの"Honeycomb"などが首位になっていた。そんな時代のヒット曲だった。

 ちなみに、この曲の版権はデッカ・レコードが持っていたので、ボブはクリケッツの名前でブランズウィック・レーベルから、彼の死後、バディ・ホリーの名前でコーラル・レーベルからシングルとして発表した。もちろん3曲とも、バディ・ホリー&ザ・クリケッツの演奏である。今でいうところの便乗商法というものだろう。

 翌年の1958年になると、バディはプロデューサーのノーマン・ペティやクリケッツのメンバーと別れて、新しいバック・メンバーと活動を始めるようになった。
 この年の8月に、バディは、プエルトリコ人の音楽出版社秘書だったマリアと結婚したのだが、実は、この結婚にノーマン・ペティは反対していたという話があって、それが2人の別離の原因だと言われている。

 また、ザ・クリケッツのメンバーは、長期にわたってのコンサートやライヴ活動が嫌になってしまったらしい。もともと彼らは、スタジオのセッション・ミュージシャンだったから、ライヴ活動が嫌になっても仕方がなかったのかもしれない。ただ、今となってみれば、それが彼らの生死を分けたのだから、人生何がどうなるかわからないものである。

 そして、1958年の10月にニューヨークのグリニッジ・ヴィレッジのアパートメントで、レコーディングを行った。これにはポール・アンカの書いた"It Doesn't Matter Anymore"も含まれていて、これが公式には最後のレコーディングとされている。712mwdf2bzl__sl1050_
 彼は、この時期の前後から多くのヒット曲を発表するようになったが、経済的には決して裕福ではなかったらしい。だから、手っ取り早くお金を稼ごうと思えば、今も昔も同じように、いわゆる地方公演を行わなければならなかったのである。

 そして運命の1959年2月3日を迎える。前日の2日に妊娠中だった妻のマリアを家に残し、バディ・ホリーは、ニュー・クリケッツのメンバーを伴って、アメリカの中西部を回るバス・ツアー“ウィンター・ダンス・パーティー”に出かけていった。

 アイオワ州のクリア・レイクでのライヴ演奏を終えた彼らは、バス内の暖房器具が故障中だったこともあり、バディは、早く次の会場に行こうとして小型飛行機をチャーターしたのである。
 このときのバディは衣装も早く洗濯したかったようだと、のちに途中まで同伴していたツアー・スタッフが述べていた。

 2月3日の午前12時40分、雪の降る中を小型機ボナンザ号は、ノース・ダコタ州のファーゴに向けて飛び立ったが、残念ながら目的地に到着することはなかった。
 パイロットを含む4人全員が死亡して、22歳の若いロックン・ローラーは天国に旅立ったのである。

 自分は、まだ生まれていないので、当時のことはよくわからない。ただ、その後も彼の生前録音された楽曲が手を変え品を変え、発表され続けていることは間違いない。
 中には、1954年頃の自主制作盤までもが発表されていて、まだ高校生か卒業して間もない頃のカントリーやフォークを2人組で演奏している頃の楽曲まで聞くことができるのだ。

 面白いことに、本国アメリカよりもイギリスでの人気が高いようで、60年代に入っても"Bo Diddley"や"Brown-eyed Handsome Man"、"Peggy Sue/Rave On"などが、シングル・チャートに入っていたし、1978年や1993年には、コンピレーションのベスト・アルバムが全英1位を記録していた。

 自分は12月8日のジョンの命日を生涯忘れることはないだろうが、同様に、1950年代後半を生きてきた人たちの中には、2月3日を忘れることができない人がいるはずだ。
 いまだに彼の曲が流され、多くのミュージシャンがカバーし、アルバムも売れていることがバディ・ホリーの伝説をさらに忘れられないものにしている。

 わずか3年余りの音楽活動だったが、ロックン・ロールの歴史の中では永遠に輝いていくに違いない。本人はこの世にはいないが、私たちの中に間違いなく存在し、そしてこれからの世代にも語り継がれていくのである。

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2017年6月 5日 (月)

ドン・マクリーン

 さて、6月がやってきた。早いもので、今年も半分が過ぎ去ろうとしている。それに、今月の途中から梅雨も始まってしまう。約1か月間も続くのだが、それが終われば本格的な夏になる。こうやって月日は過ぎて行くのだろう。

 それで先月は女性シンガーを紹介してきたので、今月は男性シンガーやミュージシャンを紹介しようと思っている。1回目の今回は、あの有名な"American Pie"を歌ったアメリカ人のシンガー・ソングライターのドン・マクリーンだ。D135532995252011
 ドン・マクリーンは、1945年の10月にニューヨークの郊外で生まれた。幼い頃に喘息を患ったせいか、彼は外でスポーツをすることができなかったようだ。
 そのため家の中で読書や音楽に時間を費やすことが多くなり、徐々に当時流行り始めたロックン・ロールに夢中になっていった。

 当時の彼にとってのアイドルは、フランク・シナトラやリトル・リチャード、エルヴィス・プレスリー、そしてバディ・ホリーだった。
 そんな彼がプロのミュージシャンを目指すようになったのは、父親を病気で亡くした15歳の頃だった。

 彼は高校を卒業して、一時大学に入学したものの、退学してしまった。理由は、音楽的キャリアを追及するためである。ただ、父親からは、大学を卒業してほしいとしきりに言われていたため、退学にあたっては、やや後悔の念もあったらしい。

 だから、23歳の時に夜間大学で学び直して、経営学の単位を取得した。また、将来のミュージシャンとしての活動や生活に役立つかもしれないと考えて、コロンビア大学の大学院でも学んでいる。

 その間には、ピート・シーガーなどのミュージシャン仲間と一緒になって、彼はニューヨークのハドソン川沿いのクラブやコーヒー・ハウスを回って演奏活動を続けていった。のちにこの活動は、“クリアウォーター運動”と呼ばれるようになった。

 1週間に5日、1日に2回ライヴ活動を行っていて、ドン・マクリーンは、“ハドソン・リバー・トルバドール”(ハドソン川の吟遊詩人) として知られるようになったのである。

 彼のデビュー・アルバム「タペストリー」は、1970年に発表されたが、なかなかレコード契約を結ぶことができずにいて、34のレーベルから72回にわたって断られていた。
 ただ、アルバムのチャート・アクションを見ると、アメリカでは111位と悪かったものの、イギリスでは16位と健闘していた。71puj862lrl__sl1050_
 このアルバムからのヒット曲はなかったものの、"Castle in the Air"や"And I Love You So"などは、多くのミュージシャンからカバーされるほどの佳曲だった。
 特に、バラード曲である"And I Love You So"は、1973年にペリー・コモによって歌われて、見事にアダルト・コンテンポラリー・チャートで首位を獲得した。

 1971年には、続いてセカンド・アルバム「アメリカン・パイ」を発表した。もちろんこのアルバムには、歴史的な大ヒットを記録した"American Pie"が含まれている。この曲については、彼は次のように述べていた。

「バディ・ホリーは、僕にとって子どもの頃から崇拝してやまない最初で最後のミュージシャンでした。僕の友だちの多くは、エルヴィス・プレスリーが好きでしたが、自分にとってはやはりバディ・ホリーが何といっても一番でした。何しろ僕に直接話しかけてくれた人でしたから。
 彼は、彼の作り出す音楽以上に何か深い、僕にとってはシンボルともいえる存在でした。彼のキャリア、彼のグループ、彼の作り出すリード・ボーカルとバックの3人の絶妙なコンビネーション、これらはすべて60年代の音楽そのものを示し、また、僕の若さそのものを示すものでした」

 だから彼は、バディが1959年2月3日に飛行機事故で亡くなったとは信じられなかったし、信じたくないという気持ちが強かったのである。

 この曲が歴史的な名曲になったのも、万人の胸を打ったからだろう。単なるひとりのミュージシャンの死は、多くの人にとってシンパシーを持って迎えられたのである。

 それは、当時の時代の空気を吸い、状況を知っていた人にはもちろんのこと、何も知らない人にとっても、歌詞の中の空虚感や心の痛みなどを自分の生きざまに投影して感じることができたからだ。

 だから、いみじくもトルストイが「アンナ・カレーニナ」の中で、“不幸な家庭は、その家庭ごとにその様相が異なっている”と記していたように、この曲を聞いたそれぞれの人が、自分の中にある心の痛みや喪失感と照らし合わせながら、この曲を理解し、味わうことができたのではないだろうか。

 また、当時の時代の空気を反映していたことも当てはまるだろう。ケネディ大統領が暗殺され、ベトナム戦争は明らかにアメリカの敗北だった。“フラワー・ムーヴメント”と呼ばれたヒッピー文化は、若者にドラッグと退廃をもたらす結果に終わってしまった。
 人類は月に足跡を残したものの、当時の米ソの覇権争いの結果にしかすぎず、それによって人類の福祉の向上が図られたとは言えなかった。

 そういう状況の中で、“音楽が亡くなった日”というフレーズは、人によっては“友人が亡くなった日”や“青春が終わった日”、“夢が潰えた日”などに置き換えられていったのである。

 このシングル"American Pie"は、8分27秒と長かったため、当時のEPレコードではA面とB面の両面に分けて入れることになった。
 それに、曲自体のインパクトや、何やら訳ありというか、多義的で意味深な歌詞などが話題を呼び、ラジオなどでは途中でカットされることもなく、すべて通しでオンエアされるようになっていった。

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 この曲は、1971年の11月にシングル・チャートに顔を出すと、翌年の1月から2月にかけて4週間首位に輝いている。ドン・マクリーンにとっては、おそらく最初で最後の全米シングル・チャートの首位に輝いた曲になるだろう。

 ドン・マクリーンといえば、どうしても"American Pie"のイメージが強いのだが、このアルバムでも最初にこの曲が置かれていて、アルバム全体の方向性を示している。ただし、もちろんこの曲だけではなくて、他にも佳曲が含まれている。

 アルバム3曲目の"Vincent"は、オランダの画家、ヴィンセント・ヴァン・ゴッホのことを歌っていて、歌詞の中にゴッホが弟のテオにあてた手紙の一部が引用されていた。
 この曲もバラードで、切々と歌うドン・マクリーンの姿勢が不遇の画家との姿とダブって見えて、えも言われぬ印象を与えてくれる。

 もともとドンの声は、深みがあり落ち着いていて優しさを感じさせる。だから、アップテンポの曲では力強く、静かなバラードではしっとりした情感を与えることができる。
 "American Pie"では“静~動~静”という転換が見事であり、"Vincent"では奥行きのあるボーカルを楽しむことができるのである。

 このアルバムは、イギリスのアルバム・チャートでは3位、アメリカやカナダでは1位を獲得した。いまだに語り継がれていることを考えれば、やはり歴史を創ったアルバムといってもいいだろう。

 ドン・マクリーンは、これ以降も次々とアルバムやシングルを発表していて、1981年にはロイ・オービソンが1961年にヒットさせた"Crying"をカバーして、チャートの5位に送り込んでいる。
 この曲はジェイ&アメリカンズというグループが1966年にリバイバル・ヒットさせているが、ドン・マクリーンの美しい声がこのバラード曲にもピッタリとあてはまっているようだ。

 そういえば、1971年にロバータ・フラックが"Killing Me Softly with His Song"を歌ってヒットさせたけれども、元歌を書いたロリー・リーバーマンという女性シンガー・ソングライターは、ドン・マクリーンのライヴを見てこの詞を書いている。そう思わせるほどのステージングだったのだろう。

 そういう彼の魅力を味わいたいのなら、やはりベスト盤が一番だろう。いろんなベスト盤が出ているけれど、どれもほぼ同じような構成だと思う。71jkbefxvhl__sl1050_
 ただ中には2枚組ベスト盤も出ているし、"American Pie"の再録ヴァージョンを収めたものもある。やはり芸歴が長いと、手を変え品を変え様々なアルバムが発表されるのだろう。

 もちろん、今でも現役ミュージシャンのドン・マクリーンである。アメリカ国内や海外のフェスにも頻繁に参加しているし、アルバムも制作している。
 残念なのは、昨年、家庭内DVのせいで離婚した元奥さんから訴えられたことだろう。軽微な罪状だったせいか、大きな話題にはならなかったようだが、ひょっとしたら奥さんに向かって"Bye Bye Miss American Pie"と歌ったのかもしれない。

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2017年5月29日 (月)

ティファニー

 デビー・ギブソンのことを調べていたら、彼女とティファニーはライバル同士だったという記述が見つかった。
 確かに、同時期に、しかもほぼ同じ年齢で活動していたから、ライバルだったかどうかは別にして、お互いに意識していたことは間違いないだろう。

 個人的には、ライバル云々というのは、周りの人たちがプロパガンダに使用した感じがする。お互いそれで名前が(曲も)売れていったのだから、双方に利点があったような気がしてならない。

 それで、今回はそのティファニーのことについてである。ティファニーといえば、「ティファニーで朝食を」とか、宝飾品のティファニーのことを思い出してしまう。
 だからというわけではないが、“ティファニー”という名前は、てっきり芸名だと思っていた。でもよくよく調べたら、本名ということが分かってビックリした。Hqdefault
 彼女の本名は、ティファニー・ダーウィッシュ(もしくはダーウィッシ)という。1971年10月2日生まれなので、今年で46歳になる。まだまだ若い部類に入るだろう。

 彼女は2歳の時に、従姉のダーラからヘレン・レディの"Delta Dawn"を教えてもらったと回想している。
 本当かどうかは不明だが、本人がそういうのだから間違いないだろう。それで5歳の時には、母親に将来は歌手になると言ったと言われている。

 それから、人前で初めて歌ったのは9歳の時だったらしい。故郷であるカリフォルニアのノーウォークのバーベキュー・パーティで、地元のバンドのカントリー・ホウダウナーズと共演した。ちなみにこのバンドは、名前の通り、カントリー系のバンドだった。

 その後もこのバンドとともに活動をつづけたようだが、その時はまだ12歳だった。12歳の少女が恋愛の歌、それも浮気や駆け落ちなどのドロドロした恋心を歌っていた。

 彼女の歌唱力や歌の技法には優れたものがあったが、如何せんまだ12歳、歌詞の内容とかけ離れたものがあり、説得力も欠けていたことから、彼女はカントリー・ソングをあきらめ、ポップスの世界に足を踏み入れたのである。

 ともかく、彼女は歌手になるために、スタジを借りてデモ・テープを録音していた。その時、スタジオの所有者で、しかもちょうどその隣の部屋でスモーキー・ロビンソンのレコーディングを手伝っていたプロデューサーのジョージ・トビンが、興味本位でティファニーの録音を見学したところ、あまりの歌のうまさにビックリしたらしいのだ。

 トビンは、すぐに彼女のことを気に入ったのだが、まだ12歳でもあり、しばらく様子を見ることにした。もちろん連絡は取り合っていて、それから約1年後に本格的にレコーディングを始めた。

 その時48曲をレコーディングしたのだが、そのうちの1曲、1967年に全米4位まで上昇したトミー・ジェイムズとションデルズの"I Think We're Alone Now"はトビーの大好きな曲でもあった。

 ただ、ティファニーは自分が生まれる前の曲で、聞いたこともなかったので、最初は歌うのに消極的だったようだ。アルバムから最初にシングル・カットされたのが、アルバムの中の別の曲だった"Danny"であることからも、それはわかると思う。

 ところが、ユタ州のラジオ局のプロデューサーがこの曲をオンエアしたところ、大きな反響があったため、レコード会社のMCAにシングル・カットを勧めたのである。

 こうした予期しなかった幸運が重なって、"I Think We're Alone Now"はシングル・カットされた。世の中何が僥倖につながるかわからない。幸運は、時として、予期しない方向から歩いてくるようだ。

 この曲は、1987年の11月に2週間だけ全米シングル・チャートで首位を獲得した。その時、彼女は全米のショッピング・モールをツアー中で、カラオケのテープで歌っているときに知ったという。

 この曲を含む彼女のデビュー・アルバム「ティファニー」は、1987年の9月に発表された。このアルバムからは5曲がシングル・カットされていて、そのうちチャートの首位になったのが2曲、ベスト10以内に1曲、50位以内に1曲がチャート・インしている。815ahxil7hl__sl1404_
 さらには、アルバム自体もカナダ、ニュージーランド、アメリカで1位を記録したし、イギリスでは5位、オーストラリアでは6位と、英語圏では記録的な大ヒットを残していて、まさにセンセーショナルなデビューとなったようである。

 もちろん彼女は歌うだけなので、ソング・ライティングには関わっていないのだが、その歌唱力や表現力は、とても15歳前後の女の子とは思えないものだった。自分なんかは、若返ったスティーヴィー・ニックスかグレイス・スリックかと思ったものだ。

 アルバムの4曲目に収められていた"Feelings of Forever"は、純愛もののバラード・ソングだが、曲に起伏があり、しかもそれを切々と歌っていて、聞いただけではとても中高生ぐらいの女の子が歌っているとは思えないのだ。この曲はシングル・チャートで50位を記録した。

 ザ・ビートルズのレノン&マッカートニー作品の"I Saw Her Standing There"は"I Saw Him Standing There"と一部変えられて歌われていて、原曲以上にノリノリの曲に仕上げられていた。ティファニーは、バラードだけでなく、こういうロックンロールの曲も歌いこなすことができた。この曲は、チャートでは7位まで上昇している。

 彼女の首位になったもう1曲は、アルバムの最後のバラード曲"Could've Been"である。邦題は“思い出に抱かれて”というものだった。
 この曲は、翌年の1988年の2月に2週間首位に立ったが、この時彼女はまだ17歳だったし、この曲をレコーディングしたときは、まだ13歳だった。

 この曲を作った人は、ロイス・ブレイッシュというシンガー・ソングライターだったが、彼女が失恋を経験した結果、この曲が生まれた。
 プロデューサーのトビンは、この曲の版権を買い取り、クリスタル・ゲイルやドリー・パートン、ナタリー・コールなどに歌ってもらうことを望んでテープを送ったが、誰も何も言ってこなかった。

 それで、ティファニーにレコーディングをしてもらったという経緯があったのだが、見事チャートの1位になったのだから、世の中、何がどうなるかわからないものである。
 確かに、彼女の人気の高さがチャートに影響を与えたことは間違いないだろうが、それでも連続して2曲をチャートの首位に送り込むには、それなりの実力があってからこそだろう。

 一説には、2曲連続してチャートの首位になった曲を歌った女性シンガーは、ブレンダ・リー以来2人目らしい。ただ17歳という若い年齢だったのは、ティファニーだけのようだ。81wlnrmbkyl__sl1500_
 ティファニーとデビー・ギブソンを比べてみると、ティファニーはアップテンポの曲でも、バラード曲でも、両方チャートの1位になったが、デビー・ギブソンの方はバラード曲だけしか1位にはなれなかった。
 しかし、デビー・ギブソンは、作曲能力やアレンジ、プロデュース能力を身に着けていて、音楽的素養という面ではデビー・ギブソンの方が優れていたようだ。

 あまり意味がないとは思うけれども、両名ともデビューして2~3年で人気が下降していった。デビー・ギブソンは、ミュージカルの方面に興味を示したからだが、ティファニーの方は、ゴシップや両親のマネージメントへの介入などが、イメージ・ダウンにつながったようだ。

 ただ、それでも1988年に出されたセカンド・アルバム「フレンズ」は、アメリカではプラチナ・ディスクを獲得していて、ビルボードのアルバム・チャートでは17位になっている。
 シングルも5曲カットされていて、そのうち"All This Time"は6位、"Radio Romance"は35位を記録した。51z5scddxgl
 ティファニーは、今もコンスタントにスタジオ・アルバムを出していて、最近では2016年に「ア・ミリオン・マイルズ」というタイトルのアルバムを発表している。
 また、女優として映画やテレビにも出演していて、2011年にはデビー・ギブソンと昔の確執を皮肉ったようなコメディ映画で共演していた。

 まだまだ45歳のティファニーである。昔の歌唱力や表現力がまだ備わっているのであれば、十分現役として活動できるはずだ。単なる懐メロ歌手で終わることなく、さらにもう一花咲かせてほしいものである。

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2017年5月22日 (月)

3人のデビー(3)

 さて、3人目のデビーは、1980年代の後半から90年代前半にかけて活躍したアメリカ人の歌手のデビー・ギブソンである。当時を知っている人にとってみれば、懐かしいのではないだろうか。97a80ad97927a0c38a93d58926bce15b
 デビー・ギブソンは、1970年の8月に、ニューヨークのロング・アイランドに生まれた。幼い頃から音楽的な才能を発揮していたようで、5歳で曲を作って周囲のおとなを驚かしたそうである。
 また、絶対音感もあわせ持っていて、耳で聴いた音はすぐにピアノで弾いて、採譜するようになった。要するに、音楽的な才能をもって生まれたのだろう。

 初めて買ったレコードは、ビリー・ジョエルの「ニューヨーク52番街」だったようで、もう将来はビリー・ジョエルのようになりたいと決意していたらしい。当時のことを思い出して、彼女は次のように述べている。

 “アルバムを買ってから1年ぐらいして、ナッソー・コロシアムでビリーのコンサートを観たの。それ以来、自分のやりたいことが、完璧に把握できたのよ”

 13歳になって、彼女は音楽家でプロデューサーのタグ・ブライトバートの指導を受けて、ボーカルから作曲方法、アレンジ、プロデュース、エンジニアの仕方など、音楽に関する知識や技法を身につけるようになった。

 そして、16歳で"Only in My Dreams"を作詞作曲して、アレサ・フランクリンやオーティス・レディング、イエスやレッド・ゼッペリン等々、数多くの有名ミュージシャンやバンドを輩出した名門アトランティック・レコードと契約したのである。

 彼女が初めてシングルとして発表した"Only in My Dreams"は、全米シングル・チャートでは最高位4位を記録した。上々のデビューである。
 翌年の1987年に発表された彼女のデビュー・アルバムのタイトルは、「アウト・オブ・ザ・ブルー」というものであった。日本語では、“突然に”という意味だ。51npzqxpmql
 とにかく、このアルバムは売れに売れた記憶がある。"Only in My Dreams"の次のシングルは、"Shake Your Love"で、これもチャートでは4位まで上昇しているし、3枚目のシングル"Out of The Blue"は3位を記録した。

 そして4枚目のシングルの"Foolish Beat"が、ついに全米1位を記録したのである。この曲は、それまでのポップでダンサンブルな曲調とは違って、しっとりとしたバラードだった。
 
 80年代後半のアメリカでのヒット曲といえば、マドンナやマイケル・ジャクソンのような踊れる曲とか、映画音楽とのタイアップ曲、LAメタルのようなポップなハード・ロックだったような気がする。

 だから、デビー・ギブソンも“リトル・マドンナ”のような感じで、また類似品が出てきたなと思っていたのだが、こういうスローな曲も歌えるところが魅力的ともいえた。

 彼女の魅力はそれだけではない。自分で曲を書いて、歌って、プロデュースもするのだから、才能の部分ではマドンナを十分に凌駕していたといってもいいだろう。

 とにかく、このデビュー・アルバムからは5曲がシングル・カットされ、それらすべてがベスト30位内に入ったし、そのうち4曲がトップ5入り、アルバム自体もトリプル・プラチナ・ディスクに輝いている。

 今から考えれば、彼女は80年代のシンガー・ソングライターだったのだろう。70年代ではギター1本やピアノ1台で弾き語りしながら歌いこんでいくというパターンだったが、MTVが登場した80年代後半では、ビジュアル面だけでなく、ダンス・ビートが前面に出た曲風がもてはやされた。

 だから、デビー・ギブソンのプロモーションの仕方も、そういう大衆の趣向に沿うような、ポップでダンサンブルな方向性を取ったようだ。でも、この点が彼女の音楽的なキャリアの消耗につながったのではないかと思っている。

 彼女のセカンド・アルバム「エレクトリック・ユース」は、1989年に発表された。まだ彼女は19歳だった。このアルバムからのファースト・シングル曲"Lost in Your Eyes"は、2度目の全米No.1になった。この曲もスローなバラード曲だった。511qi2bjgwl
 アルバム・タイトルの"Electric Youth"は、2曲目のシングルとしてチャートの11位にまで上昇した。しかし、3枚目のシングルになった"No More Rhyme"もまたバラード曲だったが、こちらは17位どまりだった。
 ただ、アルバム自体は、全米1位を記録し、ダブル・プラチナ・ディスクに認定された。ここまでが彼女の全盛期だったようだ。

 3枚目のアルバムは、1990年にデビー自身やマドンナの元恋人のジェリービーンが共同でプロデュースした「エニシング・イズ・ポッシブル」だったが、アルバムのチャート的には41位で、ゴールド・ディスクにはなったものの、それまでの2枚のアルバムに比べれば、かなり厳しいものになった。アルバム・タイトル通りにはならなかったようだ。

 彼女は芸風を広げようとしたのか、徐々にR&Bやソウル・ミュージックの要素を取り入れていった。それは所属先のレコード会社が、アトランティック・レコードだったせいかもしれない。

 4枚目のアルバムは、1993年に発表された「ボディ、マインド、ソウル」だったが、チャート的には100位に入ることができず、104位だった。

 このアルバムには、あの有名なフィル・ラモーンやナラダ・マイケル・ウォルデンなどがプロデューサーとして関わっていたのだが、それでも売れなかった。そのせいかどうかはわからないが、この4枚目のアルバムをもってレコード会社を移籍している。

 結局、彼女がチャートを賑わせていた時期は、80年代の後半の数年間だけだった。彼女は自作自演の才能溢れるシンガーだったが、マドンナと違ったのは、周りの人をうまく使っていくプロデュース能力だったのではないだろうか。

 マドンナも曲を書いてはいたが、能力的にはデビー・ギブソンの方が上だろう。それでもマドンナの方が世界的にも有名になり、現在もなお活躍できているのも、自分自身を完全にコントロールできていることと、しかもそれを活かすことのできるプロダクション・チームを周りに配置することができたからではないだろうか。

 また、デビューしたときに未成年だったということも、原因だったのかもしれない。16歳だったので、母親も彼女の動向に方向性を出していたようだ。
 その点、マドンナはすでに大人の女性だったから、自分で考え、決断し、行動していた。自分自身についての自由裁量権を行使できた点においては、マドンナの方がラッキーだったのかもしれない。

 さらに、デビーは彼女自身の目標をポップ・ミュージックの範疇だけでなく、舞台までに広げていったということも人気の下降につながったのかもしれない。

 デビー・ギブソンは、子どもの頃から舞台にも興味があって、将来は演劇、特にミュージカルにも挑戦してみたいと思っていた。
 だから、ポップ・ミュージック界で成功した後は、ミュージカルにもその活動の場を広げていった。1992年には、ブロードウェイの「レ・ミゼラブル」に、93年にはイギリスのロンドンで「グリース」の舞台に立っている。

 その後は、レコード会社を移ってアルバムも発表するが、テレビのドラマや映画での出演も果たしていて、マルチな活動を行っている。637678167134e9f42f6bd90e1c2a9385
 そんな彼女の全盛期のベスト曲を集めたのが「グレイテスト・ヒッツ」である。全14曲で、ほとんどデビュー・アルバムとセカンド・アルバムから集められている。

 また、日本の山下達郎の曲に英詞をつけた"Without You"や、達郎がプロデュースしてコーラスも添えた"Eyes Of the Child"も国内盤にはボーナス・トラックとして収められていた。彼女の魅力を知るには手っ取り早い1枚だと思う。51c9cbnvmal
 彼女はまだ46歳だ。音楽的才能は枯れてはいないと思うので、できればメガヒットをもっと発表してほしいと思っている。
 そしてまた、成熟した大人の女性として、若い頃では表現できなかったことなども、シンガー・ソングライターとして活動領域を広げていってほしいと願っているのである。

 ちなみに、デビー・ギブソンは、現在では、デボラ・ギブソンと名乗って活動を続けているそうである。

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2017年5月15日 (月)

3人のデビー(2)

 「3人のデビー」というシリーズものだが、今回はその2回目、2人目のデビーを紹介しようと思う。1970年代後半のニュー・ウェイヴの流行に乗って登場したアメリカのバンド、ブロンディのボーカリストのデビー・ハリーである。

 ブロンディについては、以前のこのブログでも取り上げているし、70年代後半のアメリカを代表するバンドだったので、ご存知の人も多いだろう。ましてや1970年代から80年代にかけて洋楽を聞いていた人にとっては、懐かしさとともにその楽曲の一部がよみがえってくるはずだ。

 ただ少し気になったのは、“デビー・ハリー”という名前は通称で、本来は“デボラ・ハリー”と呼ばれていたことだ。
 だから今回のテーマに相応しいかどうかは、ちょっと微妙なのだが、一応、自分の狭い知識の中でデビーを3人紹介しようと思ったら、こうなってしまったのである。ちょっと無理があるかもしれないが、お許し願いたい。

 ただ、本国アメリカでも、下の写真のように“デビー・ハリー”と呼ぶこともあったようで、まるっきりゼロであったというわけではない。まあ愛称だから、“デビー”の方が言いやすいのだろう。

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 それで、“デビー・ハリー”である。前回の「ブロンディ」のところでは、主に1978年のアルバム「恋の平行線」を中心に、デボラ・ハリーとギタリストのクリス・スタインの恋愛関係をまとめてみたので、今回は彼らのベスト・アルバムを中心に、簡単に記してみたいと思う。

 1978年から1980年までの彼らは、まさに飛ぶ鳥を落とすほどの勢いだった。どれだけ鳥が落ちたのかはわからないが、とにかくシングルもアルバムも売れに売れたし、ヴィジュアル面でも露出が多かった。見た目もよくて、曲もよければ、これはもう売れるしかないだろう。

 80年代に入ってから、公私ともにパートナーのクリスが病気にかかっていることが判明した。「尋常性天疱瘡」という難病のようで、デビー・ハリーは彼の看病を優先することに決めて、1982年にバンドを解散させた。デビーが37歳の時だった。

 だから、5枚目のスタジオ・アルバムの「オートアメリカン」と6枚目の「ザ・ハンター」には約2年間のブランクがあったのだが、それは私生活を優先させたいという理由もあったからだろう。

 それに自分のソロ・アルバムを1981年に発表している。「予感」という邦題がつけられていたアルバムだったが、シックのナイル・ロジャーズとバーナード・エドワーズをプロデューサーに迎え、ブロンディとは一線を画したオリジナリティを前面に出したアルバムだった。41qsv1br6el
 ただ、アルバムのチャート的にはアメリカでは25位、イギリスでは6位とそれまでのブロンディのチャート・アクションと比べれば、物足りないものだった。 

 また、アルバム・ジャケットのデザインを担当したのが、スイスのグラフィック・アーティストのH.R.ギーガーだった。

 H.R.ギーガーといえば、映画「エイリアン」のキャラクターや、E.L.&P.の「恐怖の頭脳改革」のアルバム・ジャケットを担当した人である。このアルバムのジャケット・デザインは当時でも物議をかもしたのだが、セールス的にうまくいかなかったのは、この辺にも原因があったのかもしれない。

 ヒット曲を集めた編集アルバム「軌跡~ザ・ベスト・オブ・ブロンディ」が発表されたのは、1981年のことだった。全14曲が収められていて、そのうちの4曲が全米No.1を記録している。

 最初のNo.1の曲は"Heart Of Glass"だった。この曲は、アルバム「恋の平行線」に収められていたもので、プロデューサーがマイク・チャップマンに代わっての初めてのアルバムだった。

 マイクは以前からブロンディに興味をもっていたようで、自分がプロデュースをしたらもっといい作品ができるのにと考えていたようだった。419ry73p0wl
 メンバーのクリスは、『この曲が大ヒットになるとは考えてもいなかった。アルバムに変化をつけるためにこの曲を用意しただけで、売ることを目的にしたのではなく、ただの歌の一つに過ぎないよ』と言っていたが、予想外の大ヒットだったのだろう。

 2度目のNo.1は、1980年に6週にわたって首位を続けた"Call Me"だった。ポール・シュレイダーの監督した映画「アメリカン・ジゴロ」のサントラの作曲者だったジョルジオ・モルダーは、最初はフリートウッド・マックのスティーヴィー・ニックスに歌わせようとしたのだが、彼女が拒否をしたため、デビーに話が回ってきたのである。

 歌詞を書いたのはデビーだった。自由に書いていいと言われていたので、2,3時間で書き上げてレコーディングに臨んだ。

 当時流行していたディスコ・ビートに乗ったこの曲は、ブロンディの音楽領域をさらに拡大することにつながったが、これはデビー自身も望んでいたことだった。
 さらに、この曲はこの年のビルボードの年末投票でも第1位に輝いていて、まさに彼らは、絶頂期を迎えていたのである。

 年を越えて1981年の1月には、彼らの"The Tide is High"(邦題:“夢見るNo.1”)が3番目の全米No.1になっている。
 もともとこの曲は、ジャマイカのバンド、パラゴンズが歌っていたもので、だから曲調もレゲエ風にアレンジされていたし、曲のクレジットにもクリスやデビーの名前はなかった。

 このあたりから彼らの曲風が、それまでのパンク・ロックやバラード、ディスコ風に加えてレゲエやラップ調のものまで広がっていった。
 それを証明するかのように、その年の3月には今度は"Rapture"が2週続けてNo.1になっている。

 この曲はクリスとデビーが作ったもので、ラップは当時のニューヨークのブルックリンやブロンクスで流行していた。その影響を受けて書かれたものだが、他のメンバーはこの曲を発表するのをかなり躊躇したと言われている。

 サックスにはあの有名なトム・スコットを招いていて、アメリカに登場した初めてのラップ曲に色どりを添えている。当時のラップには、まだアンダーグラウンドな雰囲気があったために華やかさを醸し出そうとしていたようだ。

 また、ライヴでは歌いやすいように歌詞を変えながら歌っていたと、デビーはインタビューに答えていた。初期のラップには試行錯誤が伴っていたのだ。

 このベスト・アルバムには以上のような曲に加えて、"Sunday Girl"や"Dreaming"も含まれていて、イギリスでは前者は1位を、後者は2位を記録している。Blondie_2e1472569033313
 それにベスト・アルバムだから幅広く選曲されていて、中には1976年のデビュー・アルバム「妖女ブロンディ」からや、翌年のセカンド・アルバム「囁きのブロンディ」からの曲も収められていた。

 デビュー・アルバムからは、"In the Flesh"と"Rip Her to Shreds"の2曲が選ばれていて、前者は50年代のロリポップ風のバラード曲で、後者はチープなキーボードが目立つパンク・ロック風の曲だった。両方ともチャート・アクションの記録はない。

 セカンド・アルバムからは、"Denis"、"Presence Dear"の2曲で、"Denis"はイギリスで2位になり、ゴールド・ディスクを獲得した。
 "Presence Dear"の方は、イギリスでは10位になったが、アメリカではチャートには上がってきていなかった。軽快でノリのよい曲だが、印象的なサビの部分がなくて、メロディラインにもう一工夫ほしいと思った。

 当時は、“マリリン・モンローの再来”のように言われていたので、単なる見掛け倒しかと思ったが、そこはアメリカのミュージック・ビジネス界をしぶとく這い上がってきた曲者だけに、やはりそれなりの才覚と野心と、それに伴う幸運を備えていたようだ。

 ブロンディは、1997年に再結成し、2年後の99年には全英シングル・チャートの1位になった"Maria"を含むアルバム「ノー・イグジット」を発表して、その健在ぶりを示している。
 また、21世紀に入ってからも着実にアルバムを発表しており、2006年にはロックの殿堂入りを果たした。

 今年の7月で72歳になるデビー・ハリーである。よく考えたらポール・マッカートニーやミック・ジャガーとそんなに変わらない年齢なのだ。違う意味で“妖女デビー・ハリー”になっているのかもしれない。

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2017年5月 8日 (月)

3人のデビー(1)

 春の陽気に誘われて、久しぶりにポップ・ミュージックのジャンルについて書こうと思った。それでお題は「3人のデビー」である。

 “デビー”というからには女性だけれど、だからといって、間違ってもデビ夫人なんかは登場しないはずだ。

 1人目のデビーは、デビー・ブーンである。あの有名なパット・ブーンの娘であり、20世紀の一発屋というランキングがあるなら、間違いなくベスト10の上位にランクされるであろう曲“恋するデビー”(原題は"You Light Up My Life")を歌ったシンガーである。336870c0d60cadde7e939c8a781c3e59c32
 それに、この邦題については今でも異論が続出していて、原題とのミスマッチ・ベスト10があるなら、間違いなく3本の指に入るであろうとも噂されている(と思う)。

 そんなデビーの曲ではあるが、その曲に入る前に、父親のパット・ブーンについて簡単に述べてみたい。今どきの人にとっては、パット・ブーンと言われても、きっとピンと来ないだろうから。

 パット・ブーンは、1950年代後半から60年代にかけて、3曲のビルボード全米No.1シングルを持っている歌手兼俳優である。当時の歌手は、エルヴィス・プレスリーなどがよい例だが、歌をレコードで発表するのと同時に、映画に出演して歌ってもいたのだ。もちろん、それなりの容姿が求められただろうが…

 パットは、フロリダで敬虔なクリスチャンの家庭で生まれた。本名は、チャールズ・ユージーン・ブーンといい、1934年6月1日生まれの現在82歳になる。
 アメリカの西部開拓時代にネイティヴ・アメリカンと激しく戦って、白人の領土を広げていったダニエル・ブーンは、彼の祖先と言われている。

 母親の手ほどきで、パットと弟のニックはコーラスをつけて歌うようになり、兄弟で学校や教会に出かけて行くようになった。
 18歳でレコード・デビューし、19歳で結婚。やがて4人の娘を持つ父親になるのだが、レコード・デビューしても、いったん引退して、その後再デビューしている。

 理由は、もともと彼は教師になるつもりだったからだ。歌やレコーディングは趣味で行っていて、多少ヒットが出ても、クリスチャンとしての信仰を続けながら、堅実な生活を選ぼうとしていた。

 当初は、オーティス・ウィリアムズ&チャームズ、ファッツ・ドミノやリトル・リチャードなどのR&Bをカバーしていたが、1957年の6月に"Love Letters in the Sand"が5週間No.1になると、一気にアメリカ中に名前が広がり、この曲は23週連続でチャートに残っていた。Patboone0
 もともとこの歌は、ビング・クロスビーなどが歌っていたのだが、当時の20世紀フォックスの映画「バーナディーン」に、パット自身が出演して歌っていた挿入曲だった。映画との相乗効果もあったのだろうか。

 また、同年の12月には"April Love"が2週続けてビルボードのシングル・チャートで首位になったが、それでもまだ教師になる道をあきらめなかったようで、学問との二足の草鞋を続け、翌年の6月に言語学と英語学の学位を取って、コロンビア大学を卒業している。

 その後はテレビや映画での活動が優先されたせいか、ヒット曲も少なくなったが、1961年にカントリー・ミュージックの"Moody River"をアレンジして歌ったところ、これが大ヒットして1週間だけ全米1位を記録している。

 全米でのヒットはここまでのようで、これ以降はレコード会社を転々としていき、ポピュラー・ミュージック界よりは、ゴスペル・ミュージックなどのクリスチャン系の音楽活動を続けていった。同時に、全米のテレビ番組のMCなどで活動を続けたのだった。

 4人の娘は“ブーンズ”として活動を始めたが、なかなかヒット曲には恵まれなかった。お姉さんたちが結婚をし、妹のローラが大学生活を送っているときに、プロデューサーからソロ活動を勧められ、同名映画の主題曲"You Light Up My Life"を発表した。

 この曲は、1977年の9月に71位でチャートに初登場すると、6週間後の10月15日に1位になり、その後も10週間チャートの首位に留まった。
 同時に、この曲のヒットのおかげで、アメリカン・ミュージック・アワードでの全米人気ベスト・ポップ・シングル賞やアカデミー賞でのベスト・オリジナル・ソング賞を受賞した。

 ただ、この曲のあとに続くヒット曲がなかったため、驚異の一発屋としてデビーは見られているが、実際にそうだったのだろうか。

 確かに、セカンド・シングルの"California"は50位止まりで、3枚目で最後のシングル曲にもなった"God Knows/Baby, I'm Yours"は33位と74位で終わっている。
 ところが、後者の曲は、アダルト・コンテンポラリー部門やカントリー・ミュージック部門ではチャート・アクションがよくて、その結果、彼女はカントリー・ミュージックの世界で活動を始めるようになったのである。

 カントリー・ミュージックでの最初のシングルはうまくいかなかったものの、コニー・フランシスのカバー曲やそれを収めたアルバムは、チャートの上位にあがり、結果的にはその後のヒット曲や成功にも繋がるようになった。

 デビー・ブーンの70年代後半は、カントリー・ミュージック界での成功と考えていいかもしれない。そして80年代になると、今度は父親と同じようにクリスチャン・ミュージック界での活躍になっていったのである。
 しかもコンテンポラリー・クリスチャン・ミュージック部門ではグラミー賞まで獲得するという結果までついてきたのだから、彼女を一発屋といってしまっていいのかというと、決してそんなことはないだろうと思っている。

 だからアメリカの音楽業界の中では、決して一発屋とは言ってはいけないと思うのだ。1986年に発表された彼女のベスト・アルバム「ザ・ベスト・オブ・デビー・ブーン」には10曲が収められていて、大ヒット曲の"You Light Up My Life"は当然のこと、他にも興味深い曲を聞くことができる。51lxzm9rl
 アルバム冒頭は"You Light Up My Life"で始まり、続いてコニー・フランシスのカバーである"Everybody's Somebody's Fool"、3枚目の両面シングルとしてチャートの最高位33位と74位を記録した"Baby, I'm Yours"と"God Knows"と配置されている。

 コニー・フランシスのカバーはもう1曲あって、1960年に全米No.1を記録した"My Heart Has A Mind of Its Own"もカントリー調にアレンジされて収録されていた。ちなみに前述した"Everybody's Somebody's Fool"も1960年に全米No.1を記録したものをカントリー調にアレンジして歌っている。

 このアルバムは、カントリー・アルバムといっていいほどそういう傾向の曲が収められていて、中でも"Are You On the Road To Lovin' Me Again"は、1980年の5月に1週間だけカントリー・チャートでNo.1を記録したほどの曲でもある。当時のエミルー・ハリスやクリスタル・ゲイルを押さえての首位だから大したものだろう。

 このアルバムはカントリー調の曲と、"You Light Up My Life"のような静かなバラード・タイプの曲に分けられるようで、他のバラードでは、"When You're Loved"と"The Promise(I'll Never Say “Goodbye”)"の2曲があった。

 いずれも映画のサントラ曲のようだが、映画自体はどんなものなのかよくわからなかった。そういえば、"You Light Up My Life"も同名映画の主題歌だったのだが、映画自体がヒットしたかどうかは記憶にない。
 
 記憶にないということは、ここ日本ではそんなに話題にはならなかったのだろう。(追記;"When You're Loved"は1978年の映画"The Magic Of Lassie"の主題歌で、ジェームズ・ステュアートが主演した名犬ラッシーのことのようだ。日本で封切りになったのかどうかは、よくわからなかった)

 デビー・ブーンは一発屋ではないことが分かったと思う。むしろ美人で、歌も上手な才色兼備なシンガーのようだ。Debbybooneheightweightageaffairsbio
 活躍するフィールドがポピュラー・ミュージック界からカントリーへ、そしてクリスチャン・ミュージック界へと変遷していったことが、彼女の状況をわかりにくくしていったのだろう。

 ただ言えることは、決して親の七光りではなくて、実力でポピュラー・ミュージック界に名前を残したという点である。
 さすが実力社会のアメリカだ。今のアメリカは格差社会になってしまったと言われているが、"Land of Opputunity"の精神は、これからも守ってほしいと願っている。

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2017年5月 1日 (月)

ブルーノ・マーズの新作

 といっても、このアルバムは昨年発表されたもので、すでに4ヶ月以上もたつ。でも自分にとっては、まだ新作だし、アメリカのアルバム・チャートでは4月1日現在で第6位に、シングル・チャートでも"That's What I Like"が2位に付けている。

 アルバム・タイトルは「24K・マジック」というもので、“K”は“カラット”を意味するようだ。ということは“24カラット”なのだろう。いうまでもなく“24カラット”は、金の純度でいうと“純金”という意味になる。

 要するに、アルバム・タイトルは、「純金のような魔法」ということであり、“純金のような魔法で彩られた音楽”を意味している。それだけ自信があるのだろうし、本人も納得がいったアルバムだということだろう。

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 ブルーノ・マーズについては、一度このブログでも取り上げているのだが、21世紀の“キング・オブ・ポップス”とも呼ばれているミュージシャンでもあるので、この素晴らしいアルバムの発表を記念して、もう一度述べてみたい。

 ブルーノ・マーズは、現在31歳、今年の10月に32歳になるミュージシャンだ。ハワイ出身で、高校卒業後にロサンゼルスに出てきたあと、“ザ・スミージントンズ”というプロデューサー・チームを結成して、アルバム制作に携わるとともに、自身でも他の人のアルバムに客演して歌うようになった。

 2010年にはデビュー・アルバム「ドゥー・ワップ&フーリガンズ」を発表した。アルバム・タイトルにはロマンティック性とワイルド性の両義が含まれているという。
 このアルバムからは、"Just The Way You Are"と"Grenade"の2曲が全米シングル・チャートで1位を記録した。61lnju8w6ll__sl1085_

 その結果、2011年の第53回グラミー賞で6部門にノミネートされ、「最優秀ポップ・ボーカル賞」を受賞している。

 さらには、2011年の世界デジタル・シングル売り上げトップ10では、"Just The Way You Are"が1250万ダウンロード、"Grenade"が1020万ダウンロードで、これもまたそれぞれ1位と2位を記録した。

 まだまだ、彼の記録は続く。セカンド・アルバムの「アンオーソドックス・ジュークボックス」は2011年の終わりに発表されたが、ここからも"Locked Out Of Heaven"と"When I Was Your Man"の2曲が全米No.1に輝いている。

 このアルバムは全米で400万枚以上、全英で150万枚以上売り上げていて、当然のことながら両方のアルバム・チャートで1位を獲得した。
 その後、ブルーノ・マーズはワールド・ツアーを行い、足掛け2年にわたって計154公演を開催して、約160億円の売上げを記録した。

 とにかく、この人とアデルは、現代のポップ・ミュージック界を牽引しているようだ。2014年にはマーク・ロンソンとの共作曲"Uptown Funk"が全米14週連続1位を記録して、2015年の年間シングル・チャートでも首位になり、翌年に行われた第58回グラミー賞では、最優秀レコード賞と最優秀ポップ・デュオ/グループ・パフォーマンス賞の2部門で受賞してしまうのである。

 そんな彼が満を持して発表したのが、4年ぶりの新作アルバム「24K・マジック」だった。1年半にわたりスタジオに閉じこもって曲を書き続けていて、全9曲すべてを50回以上書き直したと、本人はインタビューで応えている。516ally2bvl_2
 このアルバムの基本的なコンセプトは、ゴージャス感である。それまで彼は、ラフな姿でレコーディングを行っていたが、このアルバムではアルバム・ジャケットの写真のように、ヴェルサーチのシャツを着て、ゴールドのネックレスをつけて行っている。上記にもあるように、ここからアルバム・タイトルが浮かんだようだ。

 同時に、ブルーノ・マーズは、このアルバムから幸福感やラグジュアリー感のような高貴な気分を感じてほしいと述べているが、実際、今までの2枚のアルバムよりは、かなり濃密でファンキーな傾向が強くなっている。

 イントロのトーキング・モジュレイターの使用からまさにマイケル・ジャクソン張りの叫び声を含むファンク・チューンの"24K Magic"、途中のキーボード・サウンドがこれもまた90年代のソウル/ファンク・ソングを想起させる"Chunky"、チョッパー・ベースとギターのカッティングがジェイムス・ブラウンの曲に似ている"Perm"など、冒頭からファンク臭プンプンである。

 4曲目の"That's What I Like"はシングル・カットされて、全米2位を記録した。ポップでありながらファンキーな雰囲気を携えていて、確かに売れそうな曲だ。

 次のバラード"Versace On The Floor"は前作までの傾向を持ったポップなメロディが印象的な佳曲だ。マイケル・ジャクソンがもし生きていたら、この曲を歌わせてくれというかもしれないし、少なくともブルーノ・マーズとの共演を望むだろう。

 アルバムも後半になると、少しはファンク色が薄れてきて、"Straight Up And Down"はミディアム・スローのバラードで、一部シャイの1993年の曲"Baby I'm Yours"がサンプリングされていた。
 7曲目の"Calling All My Lovelies"もミディアム系の静かな曲に仕上げられていて、女優のハル・ベリーも電話の声で友情出演している。

 次の"Finesse"は、何となく日本人の久保田利伸の曲のような、ファンキーでノリのよいナンバーだった。
 そして最後の"Too Good To Say Goodbye"は、かつての"Talking To The Moon"や"It Will Rain"のような美しいバラードで、最後を飾るにはもってこいのお涙頂戴ソングである。

 この曲のクレジットには、あの90年代に一世風靡したメロディ・メイカーのベイビーフェイスもクレジットされていて、まさに鉄板のソングライティング・チームの曲というべきものだろう。

 どの曲も印象的で、ブルーノが50回以上書き直した軌跡が見て取れるものになっている。

 ただ、唯一残念なのは、収録時間が合計で33分28秒しかないことだ。わずか9曲しか収められていないので仕方がないといえば仕方がないのだが、せめてもう2~3曲入れてほしかった。彼のファンならみんなそう思うんじゃないかなあ。

 とにかく、このアルバムはR&Bやファンキー路線を重視したアルバム作りになっている。デビュー作や2枚目のアルバムは、ソウル色の強いシンガー・ソングライターのアルバムといった感じだったが、ここにきてさらに一段とソウル/ファンク色を強めたようだ。

 今までのメロディアスな曲調からリズムを強調した作りになっていて、歌って踊れて、みんなが楽しめる要素を取り入れている。ここでもアルバム・タイトルのようなラグジュアリー感が、反映されているように思える。

 これが80年代~90年代ならブラック・コンテンポラリーと呼ばれるのだろうが、今の時代では、そういう言い方はあまりしなくなった。これも時代の移り変わりというものだろう。
 ただ、時代は変遷しても、聞いてハッピーになるような美しい楽曲を望む気持ちは、いつでも変わらない。

 ブルーノ・マーズの天才的なソング・ライティングは、時代の流れを敏感に受け止めながらも、我々一般大衆のポピュラーな音楽感覚からは離れてはいない。これが続く限り、彼の作る楽曲は、夜空の星のようにますます輝いていくだろう。 

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2017年4月24日 (月)

ARWのライヴ・レポート

 日頃の行いがよいせいか、念願かなってARWのチケットを手に入れることができて、ライヴを見に行った。
 やってきたのは広島にあるライヴハウスのクラブクアトロだった。キャパが約700名ということで、ビッグ・ネームのミュージシャンにしてはかなり小さな場所になると思う。

 ARWといえば、プログレッシヴ・ロックのファンならすぐにわかると思うけれど、ジョン・アンダーソンとリック・ウェイクマン、それにトレヴァー・ラビンのことを指していて、彼らの名前の頭文字をとっている。Arwlive

 要するに、元イエスのメンバーである。ただ、現在の本家イエスには、オリジナル・メンバーは誰もいなくなってしまった。唯一のオリジナル・メンバーだったクリス・スクワイアが2015年に亡くなったからで、今はギタリストのスティーヴ・ハウが実質的なリーダーとしてバンドを率いているようだ。

 ジョンは本家イエスについてどう思っているのかわからないけれど、来日公演の直前にバンド名が、“アンダーソン、ラビン&ウェイクマン”から“イエス・フィーチャリング・ジョン・アンダーソン、トレヴァー・ラビン、リック・ウェイクマン”に変更になった。

 ということは、ジョンはこのバンドこそがイエスだと思っていることだろう。名前の変更について、ジョンはこう述べている。「それはファンも私たちも望んでいることだ。私たちには、その名目を使う権利がある。イエスの音楽は私たちのDNAの中にあるんだ」

 まさにその通りで、イエスの代表曲、特に70年代の全盛期の曲に関わっていたのは間違いのないことだし、パンク/ニュー・ウェイヴの洗礼から抜け出し、全米No.1のヒット曲を出した80年代前半においても、ジョンはまだ在籍していたからだ。

 それに、このメンバーでのライヴは2016年の10月からアメリカのフロリダから始まっていたが、そのツアー・タイトルは“An Evening of Yes Music and More”と銘打たれていた。もうこれは完全にイエスの音楽であり、1991年の8人編成で行われた「ユニオン・ツアー」の違う意味での再現だろう。

 アメリカや東京の渋谷で行われたライヴ・レポートなどがネットに挙げられているので、詳細を知りたい人はそちらをご覧になっていただくとして、ここからはあくまでも自分の個人的な意見や感想として綴っていきたい。

 こんな小さなライヴハウスになったのは何故かはわからないけれど、たぶんこのメンバーで新作が発表されていないからではないか。
 もしニュー・アルバム発表後なら、プロモーター側ももう少し大きな会場を用意したのではないだろうかなどと、勝手なことを考えたりもした。ただ、インターネットを見ると、アメリカではもう少し大きなホールなどでやっていた。

 もしくは、小さなライヴハウスから大きなホールまで、規模を変えながら演奏したいというミュージシャン側の意向があったのかもしれない。東京では約2000名、大阪や名古屋でも1000名以上のホールだった。広島だけ小さかった。 

 入場開始は午後4時、開演は午後5時ということで、普通のライブよりはかなり早い。確かに"An Evening Of Yes Music"というタイトルに相応しいと言える。

 うがった見方をすれば、ジョンももう72歳だし、高齢化したせいかとも思ったのだが、他の会場ではすべて午後7時開演だったので、広島だけこれも早かった。高齢化ではなくて、早く終わらせて、お好み焼きでも食べに出たかったのかもしれない。

 演奏はほぼ定刻の午後5時3分ごろ始まった。正確なセットリストは覚えていないので、何とも言えないのだが、だいたい次の通りだと思う。

1.Cinema
2.Perpetual Change
3.Hold On
4.I've Seen All Good People
5.And You And I
6.Rhythm of Love
7.Heart of the Sunrise
8.Changes
9.Awaken
10.Owner of A Lonely Heart
[encore]
   Roundabout

 こうしてみると、70年代の黄金期の曲と80年代の90125イエスの曲が、ほぼ半分だった。トレヴァー・ラビンが参加していることから80年代の曲も当然演奏されるだろうとは思っていたが、ここまで平等とは思わなかった。71cre2wuil__sl1500_
 トレヴァー・ラビンやリック・ウェイクマンは普通に登場してきたが、ジョンは小躍りしながら登場してきて、さすが誇大妄想型ミュージシャンだと思った。とにかく、楽しくて楽しくてたまらないという印象があった。

 リック・ウェイクマンは、黒っぽい生地に銀色のスパンコールみたいなものをつけたマントを身に着けていて、時代錯誤のように70年代に浸っていた。
 しかし、このショーマンシップというか、パブリック・イメージに徹する態度はさすがである。自分を客観的に見ることができているのであろう。“キーボードの魔術師”は、年をとっても魔術師だったのだ。

 "Perpetual Change"の時のジョンの声は、低音がややかすれていたが、高音の伸びは素晴らしく、ほとんど衰えを感じさせなかった。よほどヴォイス・トレーニングがきちんとできているのだろう。

 "And You And I"や"Heart of the Sunrise"の時も、高音の部分はどうなるのだろうかとハラハラしながら聞いていたのだが、ほとんど問題なかった。さすがベテラン、声の衰えはテクニックでカバーしていた。

 ジョンは日本の童謡が好きなようで、“どんぐりころころ”や“ぞうさん”を歌うらしいのだが、広島では“ぞうさん”の出だしを歌っていた。"And You And I"の前だっただろうか、よく覚えていないが、確かに歌ったのである。

 "I've Seen All Good People"の時のトレヴァー・ラビンは、最初はアコースティックで、後はエレクトリック・ギターを使用していたが、"And You And I"ではエレクトリック・ギター一本で通していて、中盤のアレンジもギターを使用して工夫していた。

 彼はエネルギッシュにギターを弾きまくっていて、速弾きもスローな部分も見事だった。バンドリーダーみたいに、演奏面ではバンド全体を引っ張っていたと思う。

 90125イエスの曲は当然だが、70年代の曲まで自分の曲のように弾きまくっていた。さすがイエスに引き抜かれただけある。曲も書けて演奏も一流だし、プロデューサーもできるマルチ・ミュージシャンの片鱗が伺われた。

 アルバム「究極」の後半部分を使っていた"Awaken"については、ほぼ完璧に再現していた。ジョンもハープを使用してアルバムの雰囲気を再現していたし、リックもパイプ・オルガン風のキーボードを使っていた。それにジョンも気合が入っているのか、声にもますます艶が出ているように思えた。

 最後の"Owner of A Lonely Heart"では、当然盛り上がってしまい、観客と一体になって、小さな会場がますます狭くなったような気がした。
 そして曲の終わりは、ほとんどジャム・セッション風になってしまい、リックはショルダーキー・ボードをぶら下げてステージ中央まで来るし、ついにはクリームの"Sunshine of Your Love"やクラプトンの"Crossroads"のワン・フレーズも出てきて、大いに盛り上がったのである。

 1000名以上の大きなホールでは、ここでトレヴァー・ラビンやリック・ウェイクマンが下のフロアまで降りてきて、まるでザ・ヴェンチャーズのように観客とスキンシップを行うらしいのだが、クアトロは人で密集していたので、それはできなかったようだ。

 アンコールは予想通りの"Roundabout"だったが、できればもう1曲くらい"Love Will Find A Way"か"Starship Trooper"をやってほしかった。

 時間的にはライヴハウスのせいか、約90分少々というスケールだった。アメリカやイギリスではABWHの曲"The Meeting"や、アルバム「閃光」の中の"Lift Me Up"なども演奏していたようだが、広島では残念ながら、聞くことはできなかった。だから他の会場では、約2時間のライヴになったようだ。

 サポート・メンバーとして、ベーシストはイアン・ホーナルという人で、クリス・スクワイアのようにリッケンバッカーを使用していた(途中フェンダー・プレシジョン・ベースに替えていたところもあった)

 ドラマーのルイ・モリノⅢは、トレヴァー・ラビンやYOSO(ビリー・シャーウッドやトニー・ケイ)と一緒にプレイしていた人で、イエス人脈の中に位置付けられているようだ。"And You And I"のときのウィンドチャイムをおどけて叩いていたのが忘れられない。

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 とにかく生きているジョン・アンダーソンと一緒に口ずさむことができてよかった。多分もう二度とないだろう。ジョンも次にいつ来日公演に来るかはわからないし、果たしてバンド自体が存続しているかどうかも分からない。

 何しろジョンのことだから、今までのキャリからして、いつどうなるかはわからないのだ。ひょっとしたら、スティーヴ・ハウズ・イエスに加入するかもしれないし、再び“8人編成”イエスになるかわからない。

 ただたとえどうなろうとも、この日のことは、人生最高の思い出の一つとして忘れないだろう。広島まで行って本当によかったと思っている。

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2017年4月17日 (月)

キングス・オブ・レオン

 キングス・オブ・レオンは、アメリカのテネシー州ナッシュビル出身のバンドである。デビューしてもう17年くらいなるバンドで、ある意味、ベテランの域に近づきつつある中堅バンドだろう。Bb22feakingsofleona592016billboard1
 自分が彼らのことを知ったのは、2008年のアルバム「オンリー・バイ・ザ・ナイト」によってだった。このアルバムからシングル・カットされた"Sex on Fire"が、タイトル通りになかなか刺激的だったからだ。

 それまで彼らの名前だけは知っていたのだが、わざわざアルバムを買ってまで聞こうとは思わなかった。
 21世紀のアメリカン・ロックのバンドは、1970年代のハード・ロックとは違って、グランジ・ロックを経験しているせいか、ギターの露出が減り、歌ものというか、楽曲全体で勝負してくるような気がした。

 いわゆるオルタナティヴ・ロックなのだろうが、リフ主体であっても70年代ではメロディアスな要素が含まれていた。
 これが2000年代になると、ヒップホップの影響だろうか、もう少しリズミックになってきたのだ。だから若者にはその時のトレンドを代表しているように聞こえるのだろうが、私のような老人になってしまうと、ちょっとついていけないのであった。

 ところが、キングス・オブ・レオンは、デビュー当時からアメリカ南部のブルーズやサザン・ロックの影響を受けたような音楽をやっていて、昔を知る者や評論家にとっては、まさに感涙にむせぶような、そんな感情移入しやすいバンドだったのである。

 たぶんナッシュビルという土地柄もあっただろうし、父親が敬虔なペンテコステ派のクリスチャンで、説教師という立場からアメリカ南部を転々として回ったことも影響したようだ。

 このペンテコステ派はプロテスタントに分類されるようだが、讃美歌の多くはペンテコステ派の信者等によって書かれていて、音楽とペンテコステ派は切っても切り離せない関係があると言われている。

 日本のシンガー・ソングライターである小坂 忠も、このペンテコステ派の牧師で、多くの讃美歌等を手掛けている。
 ちなみに、小坂 忠は、細野晴臣、柳田ヒロ等と“エイプリル・フール”というバンドを結成したり、NHKの“おかあさんといっしょ”のテーマソングも担当していた。今ではマイナーな存在かもしれないけれども、70年代はかなり高名なミュージシャンだったのだ。

 話を元に戻すと、父親がそういう立場だったので、子どもたちもその影響を受けて育っていった。そう、キングス・オブ・レオンは、兄弟バンドだったのである。メンバーは以下の通りだ。
ケイレヴ・フォロウィル…ボーカル&ギター
マシュー・フォロウィル…ギター
ジャレッド・フォロウィル…ベース・ギター
ネイサン・フォロウィル…ドラムス

 フォロウィル・ファミリーという家内工業的音楽活動を行っていたのが、キングス・オブ・レオンだった。この内のケレイヴ、ジャレッド、ネイサンの3人が兄弟で、それぞれ次男、三男、長男にあたり、ギター担当のマシューだけが従兄弟にあたる。

 というわけで、このファミリー・バンドは、父親とともに南部を転々としながら音楽体験を重ねていった。
 一口に南部といってもその土地は広大で、雰囲気も場所ごとによってかなり違うようだ。いわゆる土地柄というものだろう。

 父親は讃美歌を歌いながら、その子どもたちはそれを通して音楽に触れ、その土地からブルーズやサザン・ロック、ゴスペルにカントリーと様々な音楽を吸収し、消化していった。

 1997年に父親は説教師を辞め、両親は離婚した。その後、ネイサンとクレイヴがナッシュビルに引っ越した時、シンガー・ソングライターのアンジェロ・ペトラグリアと運命的な出会いを果たすのである。
 アンジェロは、彼ら兄弟に作曲の仕方やストーンズやクラッシュなどのブリティッシュ・ロックの素晴らしさを伝授した。

 1999年にキングス・オブ・レオンが結成された後も、アンジェロは様々な形で彼らにバンドとしての在り方やレコーディング方法などのアドバイスを与えた。結局、彼らのアルバムの共同プロデューサーとしても関わるようになったし、キーボード・プレイヤーとしてもアルバムに参加するようになった。

 自分が聞いた彼らのアルバム「オンリー・バイ・ザ・ナイト」は、初期のインディー的な要素は全くなくなり、スタジアム級のバンドとして成長した姿を見せてくれている。
 これも彼らがデビュー以来、年間200本以上のライヴ活動を地道に行ってきたからだろう。71xmohlbnrl__sl1500_ 矢沢永吉も言っていたけれど、アメリカは本当に広い。今はネットで動画なども簡単に見ることができる時代だが、やはり動画と本物のライヴは違うし、PVなどの動画は如何様にも加工することもできるが、ライヴは一発勝負である。やはり永続した人気を保つにはライヴ活動を重ねていく外はないのだろう。

 とにかく、この「オンリー・バイ・ザ・ナイト」は、イギリス、アイルランド、オーストラリアのアルバム・チャートでは初登場1位を記録したし、アメリカでも初登場5位になり、最終的には250万枚以上のダブル・プラチナ・ディスクに認定された。

 シングル・カットされた上記の曲も、イギリスではシングル・チャート1位に輝いているし、アメリカ以上にイギリスでは彼らを歓迎する空気が満ちているようだった。

 事実、2009年に入っても彼らのアルバムの人気は衰えず、アルバム・チャートの首位に2回も返り咲いているし、発売から40週以上たってもトップ20位内外を上下し続けていた。
 そして、レディング・フェスティバルや、英国最大のグラストンベリーでも2008年にはトリを務めていた。

 70年代のような印象的なギター・ソロなどはないのだが、メロディーがしっかりしているし、それをサザン・ロック風の豪快さが包んでいるのだ。だから、昔を知る人には郷愁みたいなものを感じるだろうし、若い人にとっては、ヒップホップでもないし、ダンス系でもないし、それが新鮮に感じるのだろう。

 ただ、自分にとっては、そんなにフェイヴァレットなバンドにはならなかった。理由は、新鮮なんだけれども、サザン・ロックやスワンプ・ロックを聞くのならオールマン・ブラザーズ・バンドやレーナード・スキナード、38スペシャル、個人ならレオン・ラッセルなど優れたバンドやミュージシャンの音楽を聞けばいいわけだし、歴史に残るような名盤とは思えなかったからだ。

 そんなこんなで、約8年がたった。その間に、彼らは3枚のアルバムを発表している。その3枚目のアルバムが、昨年発表された「ウォールズ」だった。61kpq3emml__sl1500_ このアルバムは、英米のアルバム・チャートで1位を獲得した。もともと彼らはイギリスでは人気が高かったので、前作や前々作もチャートではNo.1を獲得している。
 ところが、何故か母国のアメリカでは、それまで1位を取ったことがなくて、あの「オンリー・バイ・ザ・ナイト」でも4位どまりだった。だから、これは彼らにとっての初めてのNo.1アルバムになったのである。

 なぜ首位を取ったのかというと、一言でいえば、“ポップ化”である。ポップ化といってもいきなりミーハー化したり、大衆に迎合したりしたわけではない。非常に聞きやすくなっただけである。

 ただ、それでも“21世紀のサザン・ロック”とまでいわれ、その“骨太さ”が評論家たちからも好意的に受け入れられていた彼らだったのに、ここまで売れ線を狙ってもいいのだろうかと思ったりもしたのだが、これは彼らがデビュー当時に立ち返ってアルバム制作を進めたからだと言われている。

 要するに、原点に戻って自分たちを見つめ、志向する音楽を定めたということだろう。それがいい意味での“大衆化路線”につながったに違いない。

 それにアルバムの中の楽曲もロック系とバラード系とバランスよく収められていて、バラード系の曲の"Muchacho"や"Walls"などは、まるでブルース・スプリングスティーンの楽曲に似ていて、感動的だった。

 逆に、シングル・カットされた"Waste A Moment"などはノリノリのロックだし、"Find Me"はヒリヒリさせる焦燥感が漂っている。
 一方では、"Over"のように大陸的な広大さを感じさせてくれる曲もあれば、"Eyes On You"のようにチープ・トリックのようなポップ・ロック調の曲も収められている。

 もちろん、デビュー時のオルタナティヴの匂いがプンプンする"Conversation Piece"やダンサンブルな香りのする"Around the World"などもあって、一筋縄ではいかないのだ。

 こういうバラエティさに富んでいるところが、ファン層やアルバム購買層の拡大につながったのだろう。Rskingsofleoncf3d315315c544dc8f86d8
 面白いことに、彼らはアルバムのタイトルや曲名に5文字以上は使用しないという暗黙のルールがあるようで、今までのどのアルバム・タイトルや、その中の曲名で5文字以上のものはない。

 このアルバムも元のタイトルは“We Are Like Love Songs”というものだったが、これでは5文字になってしまうので、それらの語の最初の文字をつなげて“Walls”と名付けている。彼らなりのこだわりというものだろう。

 ともかく、これで本国アメリカでもボン・ジョヴィのようなメジャー級になったようだ。さらに上を目指して、U2やレッチリのようになるかどうかは、今後の彼らの活躍次第である。今のように多くのライヴ活動を行っていけば、決して夢物語ではないだろう。

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