2019年6月10日 (月)

イマジン

 ザ・ビートルズが解散した切っ掛けというのがあって、前回はポール・マッカートニーがザ・ビートルズを脱退して当時のマネージャーだったアラン・クレインを解雇しようとして裁判になったというようなお話をしたと思う。でも実際は、ポールよりも先にジョンの方がザ・ビートルズを脱退するよ電話をしてきたのが定説になっているらしい。今となってはどうでもいいことかもしれないが、70年代の初めではとても重要なことだった。
 そして、何故ジョンがザ・ビートルズを脱退しようとしたかというと、”事件の陰に女あり”の言葉ではないが、ジョン・レノンの背後にはオノ・ヨーコがいて、その影響でジョンが脱退を希望したというのである。だから熱烈なザ・ビートルズのファンなら、オノ・ヨーコを目の敵にしていて、彼女の存在がなければもう少し長くザ・ビートルズは活動したに違いないと思っているのである。

 私たち日本人の中にもそう思っている人は少なからずいると思うし、ましてや海外の人ならもはや確信に近いというか、信仰に近いものがあるのではないだろうか。実際に、私自身もアメリカ人の青年から”オノ・ヨーコ黒幕説”を聞いたことがあったし、それは違うよと私が否定しても、決して自分の説を翻そうとはしなかった。オノ・ヨーコは今でも世界中のザ・ビートルズ・ファンから嫌われているのだろう。ひょっとしたら、藁人形に名前が貼られて五寸釘が打ち込まれていたかもしれない。何という可哀そうなオノ・ヨーコだろうか。

 ザ・ビートルズの最後のフィルムが「レット・イット・ビー」だったが、そのレコーディング風景にもオノ・ヨーコは写り込んでいた。髪の毛も長くて黒いし、服装も黒っぽかったから、まるで背後霊のようだったが、ほかのメンバーの奥さんや恋人はレコーディングには参加していなかったのに、彼女だけがジョンから招かれたのだろう、レコーディング・スタジオの中でずっと座っていた。このことも他のメンバーから反感を買ったようである。ジョンに言わせれば、彼女の存在は”ミューズ”のように彼の音楽的創造性の源泉だった。また、音楽的な影響のみならず、平和や文化活動、反戦行動のような具体的な理念や行動面まで影響を受けていたから、彼ら2人は恋人や夫婦という枠組みを超えていて、もはや”ソウルメイト”とも言うべきものだった。だからジョンの行くところ常にオノ・ヨーコがいたし、逆にオノ・ヨーコがいれば、必ずジョンもまたその場に存在していたのだ。 Johnandyokoaboveusonlysky20181

 それで前回のブログでは、ポールが滅茶苦茶他のザ・ビートルズのメンバー、特にジョンやオノ・ヨーコのことを非難していたことを述べたのだが、その原因についてはあまり触れなかった。その原因については、もちろん他のメンバーとの確執みたいなものもあっただろうし、ザ・ビートルズが解散した切っ掛けが、ポールの思いと関係なく、ポールの言動にあったと決めつけられたことにも無念さがあったに違いないだろう。

 そしてまた、もっと具体的にいうなら、ポールのソロ・アルバム「マッカートニー」が本家ザ・ビートルズのアルバム「レット・イット・ビー」発売よりも1ヶ月も早く発表されていて、バンドのラスト・アルバムになるであろうアルバムよりも自分のソロ・アルバムを優先させた形になってしまったからだろう。しかも内容的に優れているのならまだしも、半分近くはインストゥルメンタルだったし、残りの半分も宅録でシンプルな飾りつけのみだったから、ザ・ビートルズのファンのみならず、批評家や何より元バンド・メンバーからも非難されてしまった。ポールはそういう状況の中で、自分のプライドを守り、自分の存在を主張し、自分の音楽性を認めさせようと思ったのだろう。そして、特に自分を強く批判していたジョンに対してメッセージを込めた楽曲を作ったに違いない。そういう音楽性も孕んでいたのがポールのアルバムの「ラム」だった。

 そしてそれに反論する形でアルバムを制作し、発表したのが、1971年の9月(イギリスでは10月)に世に出された歴史的名盤である「イマジン」だったのだ。81wjk15j6el__sl1300_
 自分は発表当時にはこのアルバムを聞いていなくて、中学生になって初めて聞いた。アルバムが発表されてから3年は経っていたと思う。アルバム冒頭の"Imagine"を聞いたときには、何というシンプルな曲だろうと思ったし、その歌詞もまた単語の意味が分かれば文の意味が分かるような簡単なものだった。もちろんジョン・レノンのことは知っていたし、どんな思いでこのアルバムを作ったかもだいたいはわかっていたし、当時は平和活動家というイメージが私の中では強くて、ある意味、もう少し硬質な音楽性を期待していたから肩透かしを食ったような気がした。ジョンってロックン・ローラーなんだろう、もっとロックしてよと言いたかったのだ。何という若気の至りだろうか。当時は本当のジョンの強さや優しさを理解できなかった、まだそういう感性が備わっていなくて、もう少し大人になってから初めてジョンの偉大さが分かったのだ(それでも本当に理解しているのかと問われると何とも言えない)。

 個人的な見解だけど、ポールのアルバムは個々の楽曲だけを聞いても問題ないと思うけれど、ジョンのアルバムは全体をきちんと聞かないと正確に理解できないと考えている。例えばこの「イマジン」というアルバムも、冒頭の"Imagine"やロッド・スチュワートやブライアン・フェリーもカバーした名バラード"Jealous Guy"だけを聞いて、ジョンという人の性格や才能、このアルバムの価値を判断することはできない。むしろ”群盲像を評す”という失敗を犯してしまうだろう。A0e5a3d71ffdcc53e2565ef6f63c9f6d

 だからこのアルバム「イマジン」も"Imagine"や"Jealous Guy"、"How?"だけ聞いて判断するのではなくて、ジョンの魂の叫びとも言うべき"It's So Hard"や"I Don't Want to Be a Soldier"、"Give Me Some Truth"も聞いてから全体として味あわないといけないと思っている。ポールのアルバムは優等生的で確かに楽曲的にも構成的にも技巧的で素晴らしいものだと思っているけど、ジョンのアルバムはジョン自身の生き方や考え方、”知行一致”ではないけれど、ジョン・レノンという人間性の一部がサウンドや歌詞として表現され、発表されてきた経緯があると思っているし、どちらかどうと優劣を競い合うのは意味がなく、それぞれの独創性として尊重するべきだと思っている。

 それで、特に1970年の「ジョンの魂」と、この「イマジン」は、そういうジョンの人間性が一番よく表現されていると思っていて、この2枚のアルバムはやはり歴史的な名盤だと考えている。そして気楽に聞いてみようかという気持ちで聞いてもいいのだけれども、むしろジョン自身はそれを望んでいるに違いないのだろうけれど、自分にとってはやはりワンクッションを置いて、気持ちを新たに気合を入れ直して聞いている。新興宗教の教祖に近づくような、そんな厳粛な気持ちになってしまう。51fste2ymql

 それで本題に戻すと、本題というのはポールの宣戦布告に対してのジョンの返答のことだが、これも個人的な見解なのだが2曲目の"Crippled Inside"もポールに対する当てつけではないかと思っている。ただこの曲を聞くと、歌詞の内容よりもジョージの演奏するドブロ・ギターの方が印象的だし、曲自体も軽快で聞きやすい。だからどうしても”怒り”や”憎しみ”などは印象が薄くなってしまうのだが、でも歌詞をよく見ると、やっぱり何か気になるよなあという感じになってしまうのである。

 このアルバムは3部構成ではないだろうか。第1部は平和を希求し、個人としての生き方を考える楽曲で、"Imagine"や"I Don't Want to Be a Soldier"、"It's So Hard"、"Give Me Some Truth"であり、第2部はヨーコに対する愛情を示す楽曲、"Jealous Guy"や"How?"、"Oh My Love"、"Oh Yoko!"、そしてポールに対する反論である第3部、"Crippled Inside"と"How Do You Sleep?"だろう。
 第1部の楽曲は穏やかな雰囲気とハードでロックン・ロールとして躍動する両面を味わえるし、第2部ではオノ・ヨーコに対するストレートで率直な愛情に満ち溢れていて感動的だった。そして第3部では同じミュージシャンとは思えないほどの辛辣で悪意に満ちた歌詞が書き留められている。

 特に、"How Do You Sleep?"はそこまで言うかと思うほど中傷している。この時の「イマジン」の制作過程が収められたビデオが残っていて、その中でもジョンはいつもと違って、かなり激しく悪意を込めて演奏するようにジョージやアラン・ホワイトに述べていたが、そこまでしなくてもいいのではないかと思ってしまうのだ。だって、”人生は短し、芸術は長し”の言葉通りに、作られた作品は永遠に残ってしまうのである。ある意味、証拠物件として保存されているのと同じだろう。
 曲の冒頭もザ・ビートルズのアルバム「サージャント・ペパーズ」のオープニングをパロディに使っているし、歌詞の中にも"Yesterday"という言葉や"Another Day"というポールの曲名を使用している。"Your Momma"というのは、当時の年上女房だったリンダのことを言っているのだろう。でもオノ・ヨーコも年上だったはずだが、その点はどうなのだろう。

 実際にも同席していたリンゴ・スターがジョンに忠告して何とか聞くに堪えられる内容まで戻したというから、実際はもっと悲惨で恐らくは放送禁止語に満ち満ちていたのだろう。もしそのまま発表していたら、おそらく当時のアップル社が販売停止処分にしただろう。

 これも有名なお話だが、ザ・ビートルズ時代のポールには、”目が大きすぎて夜は目を開けたまま眠る”という都市伝説みたいなものがあって、他のメンバーはポールをからかう時にこれを用いていたようだ。だからポールのことを揶揄するために、このタイトルを用いたのだ。このお話はメンバー以外にも広く流通していたようで、当時の彼らのファンなら知っている話だったらしい。

 まあとにかく、この曲1曲で、ポールの"Too Many People"や"3 Legs"、"Dear Boy"などをまとめて粉砕するようなパワーを秘めていて、強烈な印象と憎悪をリスナーにもたらしている。あらためて違う意味でも、ジョンの才能の偉大さを感じ取ることができる楽曲だった。敵にまわすと怖い相手だ。敵にまわすことはもうないけれど…Dh510ee7c7

 結局、ジョンは1980年になって『ひどい悪意や恐ろしい敵意を表明するためではなく、曲を作るためにポールに対する恨みを利用したんだ。それにポールやザ・ビートルズから撤退しようと思っていてね、ポールに対しては、本当にいつもそんなふうに思っているわけじゃないんだよ』とインタビューに答えている。確かに公式には、ポールに対してこれぽっちも悪意や恨みを述べたことはない。この「イマジン」に収められた"How Do You Sleep?"についても、1969年から曲を作り始めたと述べていたからポールに対しての確執はないと述べていた。ちょっと眉唾なのだが、ジョンのポールに対するおとなの対応というものだろう。

 ポールが「ラム」という素晴らしいアルバムを発表できたのも、リンダと彼女を含む”家族”の支えや彼らに対する愛情があって、制作できたと思っている。それと同様に、ジョンもまたヨーコに対する愛情があったからこそ、この歴史的名盤ともいえる「イマジン」を制作し、発表することができたのだろう。
 そう考えると、偉大な2人のビートルズの陰には偉大な女性の存在が外せないのである。ジョンもポールも、最終的にはザ・ビートルズを脱退したことになってしまったが、その原因は音楽性だけではなくて、愛する女性の影響力も見逃せないと思っている。

 今となって考えれば、偉大な才能を持つ2人のミュージシャンが、その有り余るほどの才能を使って、お互いに非難中傷を、歴史に残る形で行ったという事実の方が、画期的というか衝撃性を持っているし、そのインパクトは、時間が流れるに従って、いろんな意味でますます輝きを発しているように思えてならない。

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2019年6月 3日 (月)

マッカートニーの「ラム」

 なぜか無性にポール・マッカートニーの「ラム」を聞きたくなって聞いてしまった。結果当たり前のことだが、相変わらず名アルバムということが分かった。
 このアルバムは1971年、ポールが29歳の時に発表されたもので、全英アルバム・チャートでは1位を、全米ビルボードでは2位を記録した。ちなみにその時の1位はキャロル・キングの「タペストリー(つづれおり)」だった。

 彼やザ・ビートルズのファンなら知っていると思うけれど、ポールは1970年にザ・ビートルズから脱退を宣言し、結局解散してしまったのだが、そのせいで解散の原因はすべてポールにあると非難されていた。あるいはポールと当時のザ・ビートルズのマネージャーだったアラン・クレインとの確執ともいわれていて、裁判沙汰にまでなっていった(と思う)。当時、自分はまだ小学生だったから詳しいことはよくわからなかったのだが、いずれにしても、何故かポールばかり非難されていたような気がする。

 そのせいかどうかはわからないのだが、ザ・ビートルズ解散直後から、ポールを含めてザ・ビートルズのメンバーは、自分のアルバムを発表している。みんなが自分こそザ・ビートルだ見たいな感じがして、特にジョージなんかは3枚組のアルバムまで発表していて、まさに水を得た魚みたいに活躍していた。もちろんジョンもリンゴもアルバムを発表しているのだが、ポールは意外に早くファースト・ソロ・アルバム「マッカートニー」を発表していた。71yjwvlfw3l__sl1200_

 自分はジョンの「ジョンの魂」やジョージの「オール・シングス・マスト・パス」のアルバムの方が印象が強くて、ポールの「マッカートニー」についてはあまり覚えていなかったし、当時の友だちから借りて聞いてみてもパッとしなかった思い出があった。実際、「マッカートニー」は35分くらいしかなかったし、半分はインストゥルメンタルだった。まともな曲はあまりなくて、これがあのマッカートニーのアルバムなのかと思ってショックというよりも驚いた覚えがある。
 ところがこれが売れたのである。当時はまさに飛ぶ鳥を落とすほどの勢いがあったザ・ビートルである。解散宣言が出されても、元メンバーたちの動向は注目を集めていたし、彼らの言動もそうだったし、ましてやアルバムならどういうメッセージを含んでいるのか、どんな音楽性なのか、またザ・ビートルとの類似点や相違点など、いろんな意味で世界から注視されていたのである。

 確かに「マッカートニー」は売れたものの、その音楽性はむしろ素朴でシンプルだった。リンゴのアルバムは彼の好きなカバー曲集だったので除外するとして、ジョージやジョンのアルバムは、内容のみならずメッセージ性や彼らなりの個性が発揮されていて、発表された時点で歴史的な名盤になるでろうという予感性を十分秘めていたし、実際にもそうなっている。
 逆に、「マッカートニー」の方は商業的には成功したかもしれないが、内容的にはポールの趣味的なアルバムといっていいようなものだったし、ほかの元ザ・ビートルズたちは他のミュージシャンと一緒に制作していたが、ポールのアルバムはすべての楽器を自分でこなしていて、レコーディングに関してもほとんどが自宅録音だった。51vsewmzesl

 だから、彼の「マッカートニー」は批評家や音楽ライターから批判された。批判というよりはバッシングに近いものだったかもしれない。それはアルバムの評価のみならず、ザ・ビートルを解散させた一因としての責任を問うような意味合いもあったに違いない。そして、そのことで悩んだのかもしれないのだが、その後ポールはスコットランドの自分の自宅兼農場に引きこもってしまい、しばらくは家族と過ごすことを決めたようだった。

 しかし、この当時のポールはまさに才能のあふれ出る状態だったし、まだ30歳前で、意欲も行動力も十分すぎるほど漲っている状態だった。だから確かに一時はスコットランドにひきこもっていたものの、むしろ愛する妻と子どもたちに囲まれて心の傷も、たとえ傷があったとしても、癒されて、次への希望につながったに違いない。Paulmccartney71
 ポールは、実際に1970年の10月にはレコーディング・メンバーをリクルートするためにアメリカに旅立っている。おそらくスコットランドにいた時に、次のアルバムは他のミュージシャンを集めて、一緒にレコーディングしようと思ったのだろう。他の元ザ・ビートルズたちがそうやってアルバムを発表したように。

 年が明けて1971年の1月になると、ポールはニューヨークで、ギタリストのデヴィッド・スピノザやヒュー・マクラッケンなどの一流スタジオ・ミュージシャンと、のちにウィングスの初代ドラマーになったデニー・シーウェルと一緒にレコーディングを開始した。そうやって出来上がったアルバムがその年の5月に発表された「ラム」だったのである。やっとたどり着いた。

 全12曲、時間にして約44分のアルバムで、全体的にポールのやる気と自信がリスナーに伝わってくるアルバムだった。アルバム形式も「サージャント・ペパーズ」やのちの「ヴィーナス・アンド・マーズ」、「バック・トゥ・ジ・エッグ」のようなトータル・アルバムになっていて、ここでは3曲目と11曲目に"Ram on"が踏襲されている。
 また、メロディ・メイカーとしてのポールの魅力が100%発揮されていて、どの曲も捨てがたい。強いてあげれば後半の1,2曲はカットしてもよかったかなと思うが、それでも前作「マッカートニー」よりははるかに上出来だと思う。少なくとも100倍気合いを入れて作ったに違いないと思う。 81ad7ox9ol__sl1400_

 ただ問題なのは、メロディーよりも歌詞である。歌詞の内容なのだ。特に、昔のレコードのサイドAには問題のある歌詞が含まれた楽曲が用意されていた。冒頭の"Too Many People"もそうだし、2曲目の"3 Legs"や"Ram on"、"Dear Boy"など、考えようによっては6曲目の"Smile Away"もまたその種の楽曲かもしれない。そして、その歌詞の内容は元のザ・ビートルのメンバーに対してであり、特に盟友ジョン・レノンに対しては辛辣な内容を含んでいたようだ。

 ジョージ・ハリソンとリンゴ・スターは、"3 Legs"とは自分たち2人とジョンを含んだ3人のことを指していると考えていたし、ジョンはジョンで、"Too Many People"と"Dear Boy"は自分とオノ・ヨーコのことを指していると思っていた。ポールはポールで、確かに当時の自分の気持ちを表しているとは言っていたが、直接的に誰か特定の人を非難したつもりはないと述べていて、特に"Dear Boy"は当時の妻だったリンダ・マッカートニーの別れた元夫のことを歌っていたと述べていた。
 それに、レコードでもCDでも裏ジャケットにカブトムシが交尾をしている写真が使用されているが、これは当時の(解散直前の)ザ・ビートルの3人が自分のことをどう思っていたかを象徴する写真だとも述べていた。ポールもある意味、被害妄想というか解散の傷を引きずっていたのだろう。 71rcqbgdzxl__sl1363_

 当然のことながら、ジョンが黙っておくはずもなく、このアルバムの数曲に対するアンサー・ソングとして、アルバム「イマジン」の中で反論している。また、レコード時代にはジョンがブタの耳を引っ張っているポストカードが同封されていたが、これはこの「ラム」のアルバム・ジャケットのパロディだと考えられている。つまり、羊の代わりにブタの写真を使用したというわけだった。

 これもまたどうでもいいことだが、"UNcle Albert/Admiral Halsey"は1971年の9月4日に1週間だけ全米シングル・チャートで1位になったが、この曲の作曲クレジットが"Linda&Paul McCartney"となっていることに対して、当時のザ・ビートルの著作権を管理していたノーザン・ソングスのオーナーだったルー・グレイドがリンダが作曲できるはずがないと言って、裁判所に訴え出たのだ。最終的にはその訴訟は取り下げられたのだが、ポールはこう弁明していた。『曲の半分はリンダと一緒に書き上げたのだから、リンダの名前があって当然だろう。ソングライターとして認められているかどうかは関係ない。とにかく、誰であれ、どんな形であれ、本当に僕の歌作りを手伝ってくれた人には、その歌の一部を担うことになるんだよ』R367126014147226136254_jpeg

 ということで、全12曲中、ポール1人名義の曲は6曲、残りの6曲はリンダ&ポール・マッカートニー名義だった。公平に半分半分にしたのだろうか。いずれにしてもアルバム前半はブルーズ風味の曲やバラード、ロックン・ロールなどバラエティ豊かな曲で占められているし、7曲目以降の後半では、ロックン・ロールというよりも、メロディアスなミディアム・テンポの曲やニューヨーク・フィルハーモニー・オーケストラを用いた感動的なバラード曲"The Back Seat of My Car"などが印象的だった。

 このアルバムの成功に気を良くしたポールは、自分のやることに自信を深めたのだろう、ザ・ビートルと同じようなパーマネントなバンド活動を始めようと考え、ウィングスというバンドを結成するのである。その発端となったアルバムがこの「ラム」であるとともに、ジョンや他の元ザ・ビートルズのメンバーとの確執がまだ根強いというメッセージを世界中に曝け出していたのもこのアルバムだった。

 このアルバムを発表してからもポールは、40年以上も第一線で活躍している。今でこそポールの才能や意欲などを正当に評価できるだろうが、70年代の初期では、この先ポールを始め、それぞれのメンバーがどうなっていくのか全く予想できない状態だった。当時はインターネットやSNSもない時代だったから、今後の展開を予想できる数少ない証拠というか、記録としての意義をも含むアルバムだった。自分はそんなことまでは考えずに、ただ単にああいいなあと思いながら聞いていたのだが、実は世界中の音楽ファンをも巻き込んでの”戦闘モード全開”のアルバムだったのである。

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2019年5月27日 (月)

スローハンド

 「スローハンド」といえば、エリック・クラプトンの代名詞でもある。彼のギター・ソロの時に、指運びはゆっくりなように見えて、実際は多くの音を弾き出している様子やフレージングの豊かさなどを表現した言葉だが、当時のニックネームにもなっていた。Eric・"Slowhand"・Clapton というわけだ。
 その言葉をアルバム・タイトルにしたのが1977年に発表された彼の5枚目のスタジオ・ソロ・アルバムだった。世間一般の評判ではかなり人気があって、70年代の彼のソロ・アルバムの中では1974年の「461オーシャン・ブールヴァード」と並び称されるほどだった。

 当時の彼の音楽は”レイド・バック”と呼ばれていて、かつてのクリームのようにギターをメインに置くのではなくて、曲の合間にさりげなく聞かせるくらいで、彼のボーカルと楽曲、演奏、ギター・ソロと、トータルな意味で表現しようとしていた。だから、60年代の彼を知る者としては、少々物足りない気もしていた。 09_spx450

 自分はそんな彼を表面上しか見ていなくて、ヒット曲や”イージーリスニング・アルバム”ばかりつくって、商業主義に毒されたミュージシャンだと思っていた。せっかくドラッグ中毒から復活したのに、もう激しい曲はやらないんだ、ひょっとしたらドラッグの後遺症かとも思っていた。だからもっと激しいハードな曲を求めて、レインボーやマイケル・シェンカーなどに走っていった。若気の至りだったかもしれない。

 だからこのアルバムが発表された当時は、シングル・カットされた"Cocaine"や"Lay Down Sally"ばかりが耳に残ってしまい、アルバム自体についてはまっとうな判断もできなかった。ただ後になって、後といってもこのアルバムを発表したクラプトンとほぼ同じ年齢になった時、つまり32歳頃だろうか、何となくこのアルバムの良さが分かったような気がした。クラプトンのような浮き沈みの激しい人生は送っては来なかったものの、実の母に拒絶されたり、人を信じられなかったり、そういう経験は自分にも覚えがあったし、人生は理不尽なものだということも体感できていたからかもしれない。41b7xnxwqzl__sx466_   アルバムは、JJケイルの曲"Cocaine"から始まる。この曲は、アルゼンチンでは当時の軍事政府によって1984年まで発売禁止処分になった。理由は、若者が誘導されてドラッグに走ってしまうからというものだった。もちろん、クラプトンはこれを否定し、これはアンチ・ドラッグの曲ということをわかってもらうために、ライヴでは"that dirty cocaine"と歌詞を変えて歌っていたという。さすがクラプトン、このことをもっと早くから知っていたら、コカインに耽溺した芸能人も出てこなかったのかもしれない。全米のビルボードのシングル・チャートでは30位だった。

 "Wonderful Tonight"はライヴではもう少しゆっくりと演奏される曲で、この曲のエピソードはエリックの自伝映画でも述べられていたから、多くの人が知っているはずだ。ポール・マッカートニー夫妻が主催したバディ・ホリーを記念するパーティーに出かける間際の10分くらいの間に作った曲で、その10分というのは、当時の恋人だったパティ・ボイドの身支度を待っている間の時間だったのだ。
 だから歌詞にも、何の服を着ていこうか迷っている彼女に対して、”今夜の君はステキだよ”と臆面もなく囁いているのである。当時のパティはジョージ・ハリソンとの離婚が成立していたから、法律的にも道義的にも何の問題はないのだが、まあこうやって歴史の中で、また世界中に永遠に残っていくのだから、歌というのは考えようによっては諸刃の剣みたいなものだろう。ちなみにエリックとパティはこの2年後に正式に結婚し、その10年後に離婚した。もちろんこの曲は今でもステージ歌い継がれている。

 "Lay Down Sally"は全米シングル・チャートで3位まで上昇したヒット曲で、JJケイル風のカントリー・ブルーズを意識して作った曲だった。クラプトンのギターも小刻みに動いているが、当時のバックでギターを弾いていたテリー・リードのギターもクラプトンに負けじ劣らず頑張っている。
 このアルバムの優れているところは、いわゆる”捨て曲”が見当たらない点だろう。4曲目の"Next Time You See Her"もメロディアスかつポップであり、一度聞くとサビのフレーズが頭から離れない。クラプトンの歴史の中ではそんなに重要な曲ではないだろうが、それでもこのアルバムの中では、あるべきところに納まっている感じがする。

 それは次の曲"We're All the Way"にも当てはまることで、呟くようなクラプトンのボーカルが印象的だが、うっかりすると子守歌のように聞こえてきて、目を閉じると思わず眠りに落ちてしまいそうになった。この曲は、アメリカのカントリー・シンガーであるドナルド・レイ・ウィリアムスという人が作った曲で、彼はカントリー・ミュージックの殿堂入りを果たしている。ただ残念ながら2017年の9月、肺癌により78歳で亡くなった。

 レコードではここからサイドBになる。このB面の1曲目が強烈だった。この”The Core”という曲でのクラプトンのギターは、全盛期つまり60年代後半を彷彿させる音を出していて、聞き方によってはサックスのメル・コリンズとバトルを繰り広げているようだった。ただメインはやっぱりボーカルなので、曲自体は8分44秒もあるのに、バトルの時間はそんなに長くはないのが悲しいところだ。クラプトンと女性ボーカルのマーシー・レヴィの掛け合いもまたこの曲を際立たせている。

 "May You Never"はイギリス人のシンガー・ソングライターであるジョン・マーティンという人の持ち歌で、ポップなミディアムテンポの曲だった。大作"The Core"のあとの曲だったから、お口直しみたいな感じがするようなそんな小曲だった。この曲の作曲者だったジョン・マーティンも2009年の1月に肺に関する病気で、60歳で亡くなっている。彼は才能のわりにはイギリス以外では正当な評価を得ることができず、そのせいかドラッグやアルコールで苦しんでいたようだ。

 8曲目の"Mean Old Frisco"は、これもまたこのアルバムを象徴するようなカントリー・ブルーズ調の曲で、発表当時はクラプトンのオリジナル曲と記載されていたが、今はエルビス・プレスリーの曲"That's All Right"も書いたデルタ・ブルーズの巨匠アーサー・クルドップと表記されている。自分はどちらでもよいのだが、こうやって見ると、クラプトンという人は、自分のボーカル・スタイルに合う曲を見つけてきては、実に上手にカバーし、自分のものとしている。こういった音楽センスもまた一流ミュージシャンとしての証なのだろう。

 そして最後の曲"Peaches And Diesel"は、4分49秒のインストゥルメンタル曲だった。何となく"Wonderful Tonight"のインスト版みたいに聞こえてくるのだが、気のせいだろうか。この曲はクラプトンとアルビー・ギャルーテンというアメリカ人作曲家の2人で作った曲だった。このギャルーテン(もしくはガルーテン)という人は、13曲の全米ナンバーワンのヒット曲に携わった人で、主にビージーズやバーブラ・ストライザンドに曲を提供したり、彼らのアルバムをプロデュースしたりしている。91d1c0i64zl__sl1500_

 このアルバムは、それまでジャマイカやアメリカのマイアミでレコーディングされていたのを、久しぶりにイギリスのロンドンに戻り、プロデューサーをトム・ダウドからグリン・ジョーンズに替えて制作されたものだった。だからというわけではないだろうが、サックス・プレイヤーにあのメル・コリンズを招いたのだろうし、同じイギリス人としても呼びやすかったのだろう。
 従来のファンからすれば、イギリスに戻ったのでそれまでのアメリカナイズされた音楽から原点回帰されて、ブルーズ・ロック中心になるのではないかと思われていたが、実際は上記のようなカントリー・ブルーズやアメリカ南部のブルーズに影響された楽曲が中心になった。

 彼の伝記映画である「エリック・クラプトン~12小節の人生~」によると、当時のクラプトンはドラッグ中毒で、コカインからヘロインへとよりヘヴィなドラッグに移っていった。ヘロインはかなりお金がかかるようで、クラプトンでさえも経済的な余裕がなければやらなかったと告白していたし、静脈注射だと一度で多量に摂取してしまうので、鼻から吸引するようにしていたという。実際に、ヘリコプターで病院に運ばれたこともあったようで、現在、こうやって生きていられるのは彼自身奇跡のようなものだとインタビューに答えている。確かに、クラプトンのことを知っている人なら、だれしもそう思うに違いない。

 さらに、ドラッグだけでなくアルコール中毒にもなっていて、恋人のパティ・ボイドにも"Wonderful Tonight"のように優しく接するときもあったし、それとは全く逆に、我を失って空の酒瓶を投げつけたこともあった。もちろん酩酊していて自分が何をしているのかわからなかったのだろう。だから当時のパティに対して”奴隷兼パートナー”と後になって説明していた。クラプトンにとってもパティにとっても天国と地獄を往来していたに違いない。

 それにしても、そんな状態の中でこれだけレベルの高い、しかも商業的にも成功したアルバムを発表していたのだから、エリック・クラプトンとは、常識の範囲内では捉えきれない、あるいは常識で判断してはいけない、規格外のミュージシャンだと思う。もし彼がドラッグやアルコールに手を出していなかったなら、どうなっていただろうか。もっと素晴らしい音楽を創造できたかというと、それはよくわからない。あるいは全くの逆で、ドラッグやアルコールに手を出していたからこそ、これだけの音楽を創出できたのかもしれない。0eric_clapton105
 そして彼がなぜそういう危険なものに手を出していったかというと、それはやはり彼自身の弱さであり、ある意味、幼少期の親子関係からくる運命的なものかもしれない。自分は、彼自身が依存体質だと思っているし、実際、ドラッグとアルコールだけでなく女性(恋愛)にも依存していた。

 そして、クラプトンの偉大さは、そんな自分自身を対象化し、ブルーズという音楽とギター演奏という技術を通して、自分の想いや感情を万人に伝わるように表現していったところだと思っている。彼が死を意識し、それと隣り合わせでも今まで生きて来れたのも彼の類まれなる能力のおかげだろう。また、自分自身をブルーズという音楽の体現者として意識しているからに違いない。

 結局、彼は最終的には”ブルーズ”という音楽に依存していたからこそ、生き延びることができて、現在では満ち足りた生活を送ることができているのだと思っている。今年の4月には22回目の来日公演を行ったクラプトンだが、恐らく自分の人生がブルーズだと認識している限りは、これからも世界のどこかでライヴを行っていくだろう。

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2019年5月20日 (月)

ウィズ・ザ・ビートルズ

 久しぶりに、ザ・ビートルズのセカンド・アルバム「ウィズ・ザ・ビートルズ」を聞いた。自分のザ・ビートルズ体験を言うと、初期の曲はシングルを通してしか知らなくて、主に中期のアルバムを通して知るようになった。最初に印象を受けたのは1965年に発表された「ラバー・ソウル」だったし、最初に買ったアルバムは同じく65年の「ヘルプ」だった。もちろん"Yesterday"が収められている英国盤の方である。ただ、自分はザ・ビートルズと同世代に生きていたわけではなく、70年代になって遅れて知ったから、アルバムを聞いたときにはすでにバンドは解散していた。Withthebeatles2_700

 だからすでに解散していたこともあって、中期から後期へと聞き進んでいって、最後の「レット・イット・ビー」から初期のアルバムへとさかのぼっていった。そして「ウィズ・ザ・ビートルズ」を聞いてぶっ飛んでしまった。まさに革新的ともいえる珠玉の名曲群が並んでいたからだった。
 その前に、アルバム・ジャケットの写真を見て、子ども心でもカッコいいと思っていた。単なるモノクロームの写真なのだが、まるで夜空に浮かぶ半月のように、正面の顔の半分だけが照らされているし、背景も漆黒に塗り固められていた。のちに「ハーフ・シャドウ」と呼ばれるようになった写真だが、1963年のイギリスツアー中に、ホテルの食堂で撮影されたものだった。このアルバム・ジャケットを見ただけでも購買意欲がそそられるようだった。811yclohkal__sl1500_ 

 そして中身の曲も鮮烈で、斬新で印象的だった。特に冒頭の曲"It Won't Be Long"でのイントロなしの歌い出しや、ジョンとポールやジョージとの掛け合い(Yeah)などは、それまでそういった曲を聞いたことがなかったのでとても新鮮に思えた。さすがザ・ビートルズである。こういう発想はどこから出てきたのだろうか。アルバム冒頭に相応しいノリのよい曲でもある。

 続く"All I've Got to Do"もジョンの曲だが、一転してミディアム調のメロディアスな曲だ。あらためてジョンの作曲能力の高さを感じさせられた。ポールとともに2人の天才的なミュージシャンがいたのだから、売れないわけがない。当時の2人はいい意味で競い合って曲作りをしていたのだろう。

 そのポールが作った曲が"All My Loving"だった。並のミュージシャンなら、生涯を通してこういう曲1曲だけで充分評価されるだろうが、ポールはこのレベルの曲を何百曲と作ってきたのだから、まさに天才的なメロディーメイカーである。一度聞いただけで覚えてしまいそうなメロディーやジョージ・ハリソンのチェット・アトキンスをまねたリード部分は初期の彼らを代表するオリジナル曲だと思っている。

 4曲目の"Don't Bother Me"はジョージ・ハリソンの曲で、ツアー中のホテルの中で体調を崩した時に書いたものらしい。この曲も意外とメロディアスで、最初はジョージが作った曲とは知らなくて聞いていた。バンドの中では一番若かったジョージ・ハリソンだったが、ジョンとポールの影響を受けて曲作りを進めていった。ただ、アルバムには取り上げられる回数は少なかった。ジョンやポールとほぼ同じ水準の曲を作れと言われても、そう簡単にはいかなかっただろう。しかし、活動の後期には"Something"、"Here Comes The Sun"などのスタンダード曲と化した超名曲を発表している。

 "Little Child"は誰かのカバー曲だとずっと思っていて、”レノン=マッカートニー”の作品とは思っていなかった。実際は、ジョンの曲だそうで、ハーモニカもジョン自身が演奏している。ちなみにピアノはポールが弾いているらしい。
 "Till There Was You"はカバー曲で、1957年のミュージカル「ミュージック・マン」の中の挿入曲だった。ただし、ザ・ビートルズは、1960年のアニタ・ブライアントという人が歌ったバージョンを参考にしていて、レコーディングを勧めたのはポールだった。ここではジョージ・ハリソンがクラシック・ギターを、ジョンがアコースティック・ギターを演奏していた。

 A面最後の曲だった"Please Mister Postman"は、カーペンターズも歌った有名曲で、元はモータウンのR&B曲だった。モータウンの女性コーラス・グループのマーヴェレッツが歌って、1961年12月11日に全米シングル・チャートでNo.1になっている。

 1956年のチャック・ベリーの古典ともいうべき楽曲が、"Roll Over Beethoven"で、ここではジョージがリード・ボーカルをとっていた。こういう曲を聞くと、初期のザ・ビートルズはロックン・ロール・バンドだったということが分かる。おそらくデビュー前のハンブルグ修業時代から歌っていたのだろう。

 このアルバムには、メンバー間の”掛け合い”の曲が多く収められていて、この"Hold Me Tight"でも同様に聞くことができる。ポールの作った曲で、ホントはデビュー・アルバムに収められる予定だったが、出来具合が良くなくてセカンド・アルバムに収録されたもの。このアルバムの中の曲はどれも素晴らしくて捨て曲などないのだが、強いてあげれば、この曲くらいがやや薄い印象かもしれない。

 続く"You Really Got A Hold On Me"は、このアルバムの中で唯一3分に届いた曲で、オリジナルは、モータウン・レコードのスモーキー・ロビンソンとザ・ミラクルズが1962年に歌っていた。全米シングル・チャートでは、8位まで上昇している。ここではジョンが歌い、ジョージがハーモニーをつけ、途中からポールも参加して歌っていた。ピアノはプロデューサーだったジョージ・マーティンが担当している。

 "I Wanna Be Your Man"は、元々ザ・ビートルズが作った曲を当時のライバル・バンドとみなされていたザ・ローリング・ストーンズの2枚目用のシングルとして1963年に贈ったもので、楽屋でジョンとポールが書き上げた曲だった。このアルバムではリンゴ・スターがリード・ボーカルをとっている。リンゴは本当は"Little Child"を歌う予定だったらしいのだが、なぜかこの曲を歌うようになった。音域が合わなかったのだろうか。

 "Devil in Her Heart"もまたアメリカのアフリカ系アメリカ人女性グループ、ザ・ドネイズが、1962年に発表した曲。この曲はヒットせずに、ザ・ドネイズ自体もこのシングルだけを残して解散してしまった。ザ・ビートルズが取り上げたおかげで有名になった曲で、レコーディングを提案したのはジョージ・ハリソンだった。そのせいか、彼自身がリード・ボーカルをとっている。この曲もまた”掛け合い”が見事である。

 13曲目の"Not A Second Time"は、レノン=マッカートニーの作品で、実質的にはジョンが作った曲だった。もちろんボーカルもジョン自身である。当時のザ・ビートルズは、というか、ジョン・レノンとポール・マッカートニーは徐々にそれぞれ個人による楽曲制作が進んでいて、それぞれが作った曲をお互いにアドバイスを受けながらレコーディングを進めていったと言われている。そういう意味では、まだまだ共同作業といえるかもしれない。

 そして最後の曲、"Money"はバレット・ストロングというシンガーが1959年に歌ったもので、翌年にはモータウン・レコードから再発されて、全米シングル・チャートの23位を記録した。ジョンが歌い、ポールとジョージが”掛け合い”のコーラスを付けている。歌詞を見ると、とにかくお金が欲しいという切実な内容になっていて、夢も希望もないような現実的な歌詞だった。日本のロック・シンガーだった忌野清志郎もザ・タイマーズとしてレコーディングしていた。もちろん日本語で歌っている。 51zkg6zmj0l

 とにかく、このアルバムを聞いて思ったことは、この時期のザ・ビートルズはロックン・ロール・バンドだったということであり、さらにまた彼らが作ったオリジナル曲は優れていて、カバー曲は元のオリジナル曲よりもハードでロックン・ロールしているということだった。
 同時に、ロックン・ロールやリズム・アンド・ブルーズの影響が強くて、ヒットした曲からあまり知られていない曲まで、幅広いレパートリーを誇っているということだった。特に女性コーラス・グループの曲には詳しくて、その影響からか"掛け合い"を含む曲が目立っている。

 とにかく、21世紀の今でも影響力を残しているモンスター・バンドのザ・ビートルズである。聞くたびに新しい発見があり、それぞれの曲は、人によってそれぞれの想いを抱かせるパワーを秘めているようだ。

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2019年5月13日 (月)

初期のエルトン・ジョン(3)

 前回で、初期のエルトン・ジョンのアルバムについては終わるつもりだったのだが、4枚のアルバムだけで”初期”としてひとくくりにするのはいかがなものかと考え直して、結局、もう1回分追加することにした。相変わらず意志が弱いというか、優柔不断な性分である。
 それで今回は、1972年に発表された「ホンキー・シャトー」と翌年のアルバム「ピアニストを撃つな」について簡単に記そうと思った。順番から言えばその2枚しかないから、ごくごく当たり前だろう。こんな当たり前のことをあえて書くところがこのブログのいい加減なところでもある。

 それで「ホンキー・シャトー」については、変な思い出があって、某大手タワー・レコード店でこのCDを電話で注文したときになかなか通じなくて弱ったことがあった。自分は”エルトン・ジョンの「ホンキー・シャトー」をお願いします”と言ったのだが、その女性店員は”「本気、佐藤」ですか”と何度もしつこく確認するのであった。外国人ミュージシャンが日本語のタイトルのアルバムを発表することは、確かに邦人スタッフが日本語のタイトルはつけることはあるだろうが、でも「本気、佐藤」じゃちょっとどうなのかなと思ってしまった。いくら日本では”佐藤”姓が多いとはいえ、特定の苗字の人に向けて作ったアルバムというのは、あまり考えられないと思う。おそらくその店員さんも、困惑しながら聞いてきたのだろう。

 そんな話は置いといて、「ホンキー・シャトー」である。前回でも記したけれど、アメリカでのエルトン・ジョンの人気は高くて、レコード・セールスも好調だった。一方、イギリスではどうかというとこれがなかなか微妙で、セカンド・アルバム「エルトン・ジョン」やサード・アルバム「エルトン・ジョン3」、シングルなどはヒットしたものの、4枚目のアルバム「マッドマン」は大ヒットとは言えずに、期待外れといっていいほどの結果だった。アメリカでは「マッドマン」のアルバムでさえもベスト10以内に入っていたから、アメリカでは人気も定着していたのだろう。

 ところがこの「ホンキー・シャトー」は、英米両国で売れた。英国では前作と打って変わって、アルバム・チャートの2位、米国では堂々の首位を獲得している。ここから彼の栄光の歴史が綴られて行くのだが、そのきっかけとなったアルバムだった。それまでのシンガー・ソングライター風のアルバム作りが、ロックン・ロールのスタイルのような、あるいは典型的なポップ・スターのような売れるアルバムに変化したのである。 A1i30qugyil__sl1500_
 その原因の一つは、それまでの大仰なストリングスやオーケストレーションが加味されなかったせいもあるかもしれない。ある意味シンプルになったというか、曲のメロディーやリズムで勝負しようと考えたのか、その辺は何とも言えないのだが、でもそういう変化が受け入れられたのは間違いのないことだろう。実際、このアルバムのクレジットには、それまでストリングスのアレンジを担当していたポール・バックマスターの名前はなかった。

 だから聞きやすくなったのかもしれないし、エルトン・ジョンの持ち味であるピアノ演奏を基軸にした曲自体が際立ってきたのかもしれない。そういう意味では、"Rocket Man"がヒットしたのも納得できるというもので、当時の宇宙への憧憬と日常生活との対比という内容もさることながら、メロディー自体の良さも受け入れられたのだろう。
 また、このアルバムからバック・バンドのメンバーが固定化されてきたということも、アルバム制作上、有利に働いたに違いない。エルトン・ジョン以外は、ギターにディヴィー・ジョンストン、ベースにはディー・マーレイ、ドラムスにナイジェル・オルソン、パーカッションにレイ・クーパーで、今となって思えば、黄金期を支えたメンバーだった。特に、ギタリストだったディヴィー・ジョンストンの活躍は目覚ましく、アコースティックからエレクトリック・ギターを始め、バンジョーにマンドリン、スティール・ギターと弦楽器だったら何でも演奏できるのではないかと思わせるほどの働きぶりだった。

 そういう強者が集まって、フランスのパリにある古城で作ったアルバムが悪いはずがない。集中してレコーディングができたのだろう。結果的に、チャート的にもセールス的にも成功を収めることができたのである。61q6dgjvqdl  
 それとこのアルバムを特徴づけている点は、ニューオーリンズ・ジャズの影響だろう。アルバム冒頭の"Honky Cat"や3曲目の"I think I'm Going to Kill Myself"、次の"Susie(Dramas)"には顕著に表れているし、後半の"Amy"にもその影響がみられる。

 また、ジャズではないけれど、7曲目の"Slave"にはバンジョーやスティール・ギターも使われてカントリータッチだし、ドゥー・ワップのスタイルを取り入れた最後の曲の"Hercules"の軽快さや、9曲目の"Mona Lisas And Mad Hatters"はニューヨークという街の情景を切り取っていて、こういう点でもアメリカ人のハートをギュッと掴んだのだろう。さらには、ヒットしたシングル曲以外にも、"Mellow"や"Salvation"のようなバラード曲も収められていたから、捨て曲なしのこれこそまさに売れるアルバムというものだった。
 ちなみに、"Mona Lisas And Mad Hatters"はバーニー・トーピン自身の経験から書かれた曲で、彼が最初にアメリカのニューヨークを訪れた時のホテルで拳銃の発砲音を聞いたことが切っ掛けになって書かれたものだった。曲の冒頭部分は、ベン・E・キングの"Spanish Harlem"を意識して書かれたと言われている。

 そして、このアルバムの大ヒットをきっかけに、再びフランスのパリ郊外の古城”シャトー・ディエローヴィル”でレコーディングされたのが、1973年の6枚目のスタジオ・アルバムで通算8枚目の「ピアニストを撃つな」だった。この古城はアメリカのバンド、グレイトフル・デッドも使用したことがあるという。
 とにかくこのアルバムは売れた。全英アルバム・チャートで初めて首位になったし、それは6週間も続いたのである。また、全米では、ビルボードのアルバム・チャートで約1年半トップ200内に留まっている。そして全英、全米ともにNo.1になった初めてのアルバムだった。 A1slsrf1bl__sl1500_

 この成功には、シングル・カットされた"Crocodile Rock"と"Daniel"の影響もあるだろう。特に前者は初めて全米のシングル・チャートで首位を獲得していて、エルトン・ジョンにとっては記念碑的なシングルになったのである。
 彼自身はこの曲について、50年代後半から60年代前半でのロックン・ロール黄金時代に対するノスタルジーが溢れているが、ネタ元は1962年のパット・ブーンのヒット曲"Speedy Gonzales"だと述べていた。後にロサンゼルスで裁判沙汰になったようだが、盗作とは認められずに、協議の結果、無事に解決している。

 "Daniel"の方は、これはゲイの主人公の曲かと騒がれたが、実際はベトナム戦争に従軍した兄弟についての曲で、アルバムやシングルでは2番までしか歌われていないが、本当は3番まであると言われていて、その3番でベトナム戦争のことが歌われているという。全米シングル・チャートでは2位、全英シングル・チャートでは4位まで上昇した。

 パクリで思い出したが、6曲目の"Have Mercy on the Criminal"のイントロは、誰が聞いてもエリック・クラプトンの"Layla"のパクリだろう。この時はすでに"Layla"は発表されていたから、きっとエルトン・ジョンも耳にしていたに違いない。当時は著作権について、そういう穏やかというか、緩やかな雰囲気だったのだろう。でも、ロックン・ロールという音楽自体、ヨーロッパ系移民のカントリー・ミュージックとアフリカ系のゴスペル・ミュージックのパクリなのだから、元々そういう流れが底流に息づいているのだろう。

 また、7曲目の"I'm Going to Be Teenage Idol"は、マーク・ボランのいたT・レックスのことを念頭に置いて作った曲のようだが、曲の雰囲気には一切無関係のようだ。ああいう音楽を”グラム・ロック”と呼んでいるが、メタリックな雰囲気は感じられずにピアノとブラスが強調されたミディアム調の曲だった。むしろのちに歌われた"Benny And The Jets"の方がグラムっぽいし、この曲ももう少しテンポを落として歌うなら"Benny And The Jets"に近くなるだろう。

 ところでこのアルバムには、アレンジャーのポール・バックマスターが復帰していてアレンジを担当していた。4曲目の"Blues for My Baby And Me"と6曲目の"Have Mercy on the Criminal"のストリングスのアレンジは、彼の手によるものである。"Blues for My Baby And Me"のストリングス・アレンジメントは特に素晴らしくて、徐々に盛り上げていく力はさすがエルトン・ジョンの初期を支えた彼の手腕が見事に発揮されていた。
 ところで、2曲目の"Teacher I Need You"は、男子のティーンエージャー特有の?女性教師に対する憧れというか、欲望みたいなものを歌っていて、60年代前期の、まだ明るい未来を描くことのできたロックン・ロール曲だった。次の"Elderberry Wine"はシングルとして発表された"Crocodile Rock"のBサイドだった曲で、Aサイドの曲よりはややゆっくり目ではあるが、これもロックン・ロール黄金時代の雰囲気が封じ込められた曲だった。 51kgcj3vkl

 前にも記したけれど、エルトン・ジョンの音楽にはアメリカからの影響が強くて、確かにアメリカのシンガー・ソングライター・ブームにうまく乗れたという点もあっただろうけれど、昔のロックン・ロールの雰囲気やアメリカ南部のゴスペルやジャズ、R&Bの影響がここかしこに垣間見れるのである。この「ピアニストを撃つな」でも上に書いたこと以外にも5曲目の"Midnight Creeper"のブラスや8曲目の"Texan Love Song"におけるアーシーな感覚などは、その最たる例に違いない。だから最初からアメリカでは受け入れられたのだろうし、このアルバムからの2曲のヒット・シングルのおかげで、全英、全米を含む全世界で受け入れられていった。

 前作「ホンキー・シャトー」の成功が起爆剤になり、このアルバムでさらに彼の音楽の評価が高まり、70年代のエルトン・ジョンの黄金時代が築かれたのである。のちに彼が大英帝国の爵位を賜るようになったのも、この時代の成功のおかげであろう。時代の流れのみならず、曲の良さや彼を支えたミュージシャンやスタッフのおかげで、結果的には成功を得たのであるが、のちにバーニー・トーピンとの関係を解消したり、バック・バンドのメンバー交代などもあって、彼の人気は徐々にというか、急速に失速していった。後にバーニーと再びコンビを組むも、もとの黄金期までの人気まで高めることはできなかったようだ。やはり一度失われてしまうと、元に戻るのは何でも難しいのであろう。エルトン・ジョンの人生を見ていると、いろんなことを教えてくれるような気がしてならない。

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2019年5月 6日 (月)

初期のエルトン・ジョン(2)

 エルトン・ジョンのように活動歴が長いミュージシャンなどでは、”初期”といわれてもどこまでが初期なのかが、よくわからなくなってくる。活動が長くなればなるほど、”初期”の期間が延びてくるからだ。だからアルバム・デビューして50年も経つエルトン・ジョンにすれば、”初期”といえば、やはり1969年のデビュー・アルバムから1979年の「恋に捧げて~ヴィクティム・オブ・ラヴ」あたりまでだろう。
 でも70年代のエルトン・ジョンといえば、まさに飛ぶ鳥を落とすほどの全盛期だったから、その当時のアルバムについてはどれも必聴盤だった。もちろん今になって聴き込んでみれば、優劣とまではいかないまでも、必聴盤と推薦盤くらいの違いは出てくるのだが、とにかく70年代のアルバム群は、特に1972年の「ホンキー・シャトー」以降パンク・ロック登場までは、どれもこれも水準が高く、セールス的にも成功を収めることができたのである。

 そんな中で初期のアルバムを紹介するといっても、膨大な時間と作業が必要になってくるので、69年のデビュー・アルバム「エンプティ・スカイ」から1971年の「マッドマン」までに絞り込むことにした。そして今回は2回目に当たり、その後半部分の2枚のアルバムについて記そうと思った。
 基本的に当時のエルトン・ジョンはシンガー・ソングライターであって、のちの派手なイメージやステージ演出とは一線を画すようなたたずまいだった。また、今回改めて思ったのは、彼がいかにアメリカ南部の音楽、ソウルやゴスペル、R&Bに強い影響を受けていたかであった。この両方の特徴がよく表れていたアルバムが、1970年に発表されたアルバム「エルトン・ジョン3」だった。51slqebp2l  まずアルバム・ジャケットから見てもアメリカという国や文化に影響を受けているということが分かると思う、まるで”西部劇”のようなアートワークだからである。しかも添付されたブックレットに載せられた写真や歌詞、イラストなどはまさに19世紀のアメリカ西部のようだし、セピア色の色どりは古き良き時代を回顧させるような効果をもたらしていた。(ただ実際は、アルバムのジャケット写真はイギリスのロンドンから約40キロ離れたサセックス州のある駅のものだった)

 エルトン・ジョンはこのアルバムについて、「歌詞にしてもメロディにしても、僕たちの作品の中で最も完璧に近いものの1枚だろう、歌詞とメロディが合わない曲はひとつもない」と述べていた。言葉の端はしに強い自信が表れている。また、相棒のバーニー・トーピンは、「みんなが僕が初めてアメリカを見て、興奮してこのようなアルバムを作ったと思うだろうが、実際はアメリカに来る前にレコーディングをしていたんだ。それより自分が強く影響を受けたのはザ・バンドのアルバム”Music from Big Pink”というアルバムと、ロビー・ロバートソンの曲の方なんだ」

 曲名にしても"Ballad of A Well-Known Gun(名高き盗賊の伝説)"や"My Father's Gun(父の銃)"など、いかにもアメリカ西部開拓時代を彷彿させるようなものだったし、そういう意味では、このアルバムもまたトータル・アルバムだったのだろう。
 そして、このアルバムもまたセールス的に売れたのだが、ここからシングル・カットされた曲は1曲もなかった。それでも売れたのだから、いかにこのアルバムが優れていたかが分かるだろう。

 冒頭の"Ballad of A Well-Known Gun"はミディアム調の力強く語りかけるような曲で、バッキングのボーカルがソウルフルだ。この曲はジェイムス・テイラーの妹のケイト・テイラーもカバーしていた。次の"Come Down in Time"はアコースティック・ギターとオーボエやストリングスがフィーチャーされたスロー・バラード曲だった。この曲もまた、アル・クーパーやスティングによってカバーされた。ポール・バックマスターのストリングス・アレンジが素晴らしい。

 3曲目の"Country Comfort"は、ロッド・スチュワートのバージョンの方が有名かもしれない。彼は1970年の自身のソロ・アルバム「ガソリン・アレイ」でこの曲を取り上げている。次の"Son of Your Father"はアップテンポのブギウギ調のナンバーで、ハーモニカやホーン・セクションも強調されていて楽しい雰囲気だが、歌詞を見ると2人の男が議論の果てに喧嘩になって殺し合いを始め、2人とも亡くなるという悲劇的な内容だった。そのせいかどうかはわからないが、エルトン・ジョンは、ライヴではこの曲を一度も歌ったことはない。

 5曲目の"My Father's Gun"も内容的にはアメリカ南北戦争で亡くなった父親の遺品の拳銃のことを意味していて、ボブ・ディランもこの曲を気に入っていたといわれていた。オーランド・ブルームやクリスティン・ダンストが出演した2005年のアメリカの映画「エリザベスタウン」のサウンドトラックにも使用されていた。6分以上にも及ぶ壮大なバラード曲だ。

 サイドBの1曲目"Where to Now St.Peter?"もまた戦場で亡くなろうとしている兵士の最後の想いに言及したもので、自分の魂は天国に行くのか地獄に行くのか、聖ペテロに問うというものだった。ミディアム調な曲ながらも歌詞的には深いものが秘められている。また、セルジオ・メンデスとブラジル77が1976年のアルバム「ホームクッキング」で、ハートのアン・ウィルソンがエルトン・ジョン自身と2007年の彼女のソロ・アルバム「ホープ&グリーリー」でデュエットしている。

 アコースティック・ギターをバックに歌われる2曲目の"Love Song"は、穏やかなバラード・タイプの曲で、イギリス人のシンガー・ソングライターであるレスリー・ダンカンがギターとバッキング・ボーカルを担当していた。次の"Amoreena"もまた1975年の映画「ドッグ・ディ・アフタヌーン」で挿入歌として使用されていた。この曲のレコーディングで、初めてナイジェル・オルソンとディー・マーレイのリズム・セクションとセッションを行ったという記録が残されている。ちなみに"Amoreena"とはエルトン・ジョンが名付け親になった娘のことである。彼の実の娘というわけではないようだ。

 ピアノの弾き語りで歌っているのが"Talking Old Soldiers"で、まるでソウル・ミュージックのように厳かで魂を揺さぶられるような曲である。実際に、アフリカ系アメリカ人のベッティ・ラヴェッテが2007年の彼女のソロ・アルバム「ザ・シーン・オブ・ザ・クライム」で取り上げている。バーで戦争を経験した老人が若者に自身の体験を語りかけるというもので、当時のエルトン・ジョンがどういう気持ちでこの曲を歌っていたんだろうかと気になってしまう。よほど老成した青年だったのだろうか。当時の彼はまだ23歳だった。

 そして最後の曲が"Burn Down the Mission"だった。内容的には、貧しい青年が自分の存在意義と貧困や社会的格差などに悩み、傷つき、ついには教会を焼き払おうと行動に移すというものである。音楽的にもゆっくりとしたピアノの弾き語りから、中盤では素早く鍵盤が叩かれジャージーな雰囲気に一転し、さらに最後は魂が昇天するかのように、コンガやストリングスも加わり、高みまで上がっていくのである。この曲もフィル・コリンズが歌ったり、TOTOが2002年のアルバム「スルー・ザ・ルッキング・グラス」でカバーしていた。

 これまで見てきたように、シングルでヒットした曲はないものの、多くのミュージシャンやバンドがこのアルバムからの曲を取り上げている。それだけ影響力が強かったのだろう。チャート的にも英国のアルバム・チャートで2位、米国のビルボード・アルバム・チャートでは5位まで上昇している。エルトン・ジョンの隠れた名盤といっていいだろうし、彼ら、つまりエルトン・ジョンとバーニー・トーピンにとっては、初めてのトータル・アルバムだったに違いない。そしてさらに自信をつけたエルトンが翌年に発表したのが、「マッドマン」だった。 71lxf5spe6l__sl1101_  
 とは言っても、この「マッドマン」というアルバムの評価は、母国イギリスにおいては低かった。ビッグ・ヒットにつながるようなシングル曲が含まれていなかったというのがその原因の一つだったに違いない。しかもこの年のエルトン・ジョンは、このアルバムを含めて3枚のアルバムを発表していた。4月には初めてのライヴ・アルバム「17-11-70」を世に出し、5月には、映画「フレンズ」のサウンドトラックを発表している。そして11月になって、5枚目のスタジオ・アルバムになる「マッドマン」がリリースされたのだが、ひょっとしたらまたエルトン・ジョンのアルバムか、"Your Song"のような曲はどこにあるんだいと世の中の人は思ったかもしれない。

 確かに、名曲といえるような曲は含まれていなかったかもしれないが、よく練られていて構成が巧みな曲や深い余韻を残すような曲もあって、個人的には決して悪くないと思っているし、むしろもっと高く評価されてもいいのではないかとも思っている。
 シングル向きの曲がないといっても、アメリカではアルバム冒頭の"Tiny Dancer"と2曲目の"Levon"がシングカットされていて、前者は41位、後者は24位まで上昇している。そのせいか、米国のビルボードのアルバム・チャートでは8位を記録した(英国では41位止まりだった)。

 "Tiny Dancer"は、6分12秒もあって、そのせいかラジオではオンエアされにくかったようだ。だからビッグヒットにはつながらなかったと言われている。それでも、ハーブ・アルバートの奥さんのラニ・ホールの1972年のソロ・アルバム「サンダウン・サリー」でカバーされているし、デイヴ・グロールもTV番組で歌っている。また、2002年にはベン・フォールズもライヴ・アルバムの中で披露していた。確かに時間は長いが、多くの人に愛される佳曲だろう。また、この曲は作詞家のバーニー・トーピンの当時の妻のことであり、彼女は実際にダンサーだったようだ。彼女とバーニー・トーピンの結婚生活は約4年続いたが、その影響は彼の書く歌詞にも反映されていて、たとえば"The Bitch is Back"も彼女のことを書いたものと言われている。

 "Levon"は、長い間ザ・バンドのレヴォン・ヘルムのことだと言われていたが、2013年になって、バーニー・トーピン自身がその話を否定している。また、この曲も多くのミュージシャンからカバーされていて、中でもジョン・ボン・ジョヴィは、この曲を書いたのが自分だったら良かったのにとまで言っていたようだ。他にも、アメリカ人ミュージシャンのマイルス・ケネディやカナディアン・ロッカーのビリー・キッパートなどがレコーディングしていた。

 アルバム・タイトル曲である"Madman Across the Water"は、当時のアメリカ大統領だったリチャード・ニクソンのことを歌っているのではないかと言われていたが、もちろんこれは都市伝説だった。当時はウォーターゲート事件で騒がれていたので、この曲と結び付けられたのだろう。この曲は、エルトン・ジョンのトリビュート・アルバム「トゥー・ルームズ」の中で、ブルース・ホーンズビーがカバーしていた。

 このアルバムには多くのゲスト・ミュージシャンが参加していた。3曲目の"Razor Face"と4曲目の"Madman Across the Water"、7曲目の"Rotten Peaches"のハモンド・オルガンは、当時ストローヴスを脱退して間もなかったリック・ウェイクマンが演奏していたし、同じ4曲目のエレクトリック・ギターと7曲目のスライド・ギターは、あのクリス・スぺディングが担当していた。ちなみに4曲目の"Madman Across the Water"のオリジナル・バージョンのエレクトリック・ギターは、デヴィッド・ボウイのバック・バンド、ザ・スパイダーズ・フロム・マーズのギタリストだったミック・ロンソンが弾いている。そのバージョンは、リイシューされたCD「エルトン・ジョン3」で聞くことができる。

 また、のちにエルトン・ジョン・バンドで活躍するようになったギタリストのデイヴィー・ジョンストンが、このアルバムから参加していて、アコースティック・ギターのみならず、6曲目の"Holiday Inn"ではマンドリンとシタールも演奏している。彼はマグナ・カルタというバンドに所属していたのだが、彼らのアルバムをガス・ダッジョンがプロデュースしたことから、エルトン・ジョンのバンドに引き抜かれたようだ。

 さらには8曲目の"All the Nasties"では、これもまたのちのエルトン・ジョンのライヴでは重要な地位をしめるパーカッショニストのレイ・クーパーがタンバリンを叩いている。彼はまさにイギリスのミュージック界の至宝ともいうべき人で、エルトン・ジョンのみならず、エリック・クラプトンからジョージ・ハリソン、はたまたあのザ・ローリング・ストーンズやポール・マッカートニー、ピンク・フロイド、ビリー・ジョエル、その他数多くのミュージシャンやバンドのアルバムやライヴに参加している。2016年のエルトン・ジョンのアルバム「ワンダフル・クレイジー・ナイト」の中の"Tambourine"は、レイ・クーパーの長年の貢献に対して捧げられたものである。

 このアルバムには9曲が収められていて、比較的長い時間の曲が多い。もちろん、"Tiny Dancer"も長いのだが、5曲目の"Indian Sunset"は6分45秒もあって、このアルバムの中では一番長い曲である。バーニー・トーピンがアメリカのネイティヴ・アメリカンの保護地区を訪れた時にインスピレーションを受けて書かれたもので、のちにエルトン・ジョンのライヴでの重要なレパートリーになった曲だった。エルトン・ジョン自身は、この曲はみんなが思っているようなプロテスト・ソングではなくて、ひとつの物語だと述べている。
 曲も彼のアカペラから始まって、ピアノやドラムス、ストリングスなど徐々に楽器が増えていくが、一旦ブレイクして、ピアノの弾き語りに移っていく。最後はまた壮大なエンディングを迎えるのだが、その辺の緩急をつけた構成が見事で、アメリカで行われるライヴではスタンディング・オベーションで迎えられるという。確かに、胸を締め付けられそうなドラマティックなバラードだと思う。

 逆に、エルトン・ジョンのピアノの弾き語りだけで歌われるのが、最後の曲の"Goodbye"で、この曲は1分48秒しかなかった。他の曲と比べてあまりにも短い曲なので、うっかりして聞き流すことが度々あった。71la5budpl__sl1358_  とにかく、この2枚のアルバムは、のちの70年代中盤から後半のアルバムに比べれば、かなり地味な印象を与えていて、評価自体もそんなに高くはない。ただ、アメリカではチャート・アクションもよく、セールス的にもよい結果を出していた。当時のアメリカでは、シンガー・ソングライター・ブームだったから、そういう時代の流れというか、後押しもあったのではないだろうか。
 とにかく、アメリカでの好調なセールスに気をよくしたエルトン・ジョンは、このアルバムに起用したミュージシャンのデイヴィー・ジョンストンやディー・マーレイ、ナイジェル・オルソン、レイ・クーパーを中心にバンドとして活動を開始し、さらに高みを極めていくことになるのだが、その話はまた次の機会に譲ることにしようと思う。次の機会があればのお話だが…53b9fe5a6ba16bd7a96cf9e698521923
 今まで見てきたように、エルトン・ジョンのような偉大なスーパースターでも地味なアルバムを残している。どんな人にも下積みという時期があるのだろうし、こういう経験がやがては大きく花開く土台になるのだろう。何事も地道に取組むことが、遠回りに見えて着実な成功への階段を歩むことにつながる好事例なのかもしれない。

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2019年4月29日 (月)

初期のエルトン・ジョン(1)

 最近になって、なぜかエルトン・ジョンを聞きたくなり、デビュー・アルバムとセカンド・アルバムを聞き直してみた。なぜだかわからないが、無性に聞きたくなったのである。そして思ったことは、初期のエルトン・ジョンは、シンガー・ソングライターであり、叙情的な曲が目立っていたということだった。

 エルトン・ジョンについては、10年以上も前にこのブログで記しているので、詳しいことは省きたいが、まさにイギリスが誇る至宝というか、ザ・ビートルズやクィーンと並ぶほどの人気を誇るミュージシャンである。1998年には音楽業界と英国に対する貢献が認められて、“ナイト”の称号をあたえられている。つまり、“サー・エルトン・ジョン”なのである。

 “エルトン・ジョン”とは芸名で、本名はレジナルド・ケネス・ドワイトという。父親は空軍の軍楽隊でトランペットを担当していた。エルトン・ジョンの幼い時から父親と母親の折り合いが悪くて、父親の前では自分は憂鬱な存在だったと認めている。また彼は自伝の中でこうも述べている。『両親が別れるまで何もできなかった。サッカーをすることも父親のバラの木を折るといけないからね』

 エルトン・ジョンが10歳の時に、両親は離婚し、彼は母親のもとに引き取られた。もともとエルトン・ジョンはクラシック音楽を学んでいたのだが、母親は彼を励ますためにエルヴィス・プレスリーの"Heartbreak Hotel"のレコードを買って渡したところ、彼はこれに夢中になってしまい、結局、クラシックのピアノ演奏者の夢を捨てて、ポップ・ミュージックの道を歩み始めたのである。

 14歳の時にいとことバンドを結成し、音楽活動を始めた。このバンドはやがて“ブルーソロジー”と名前を変え、アメリカから来たR&Bのミュージシャン、ドリス・トロイやパティ・ラベルなどのバック・バンドとしてイギリス国内のみならず、ヨーロッパ各国で演奏活動を行っていった。アメリカからのミュージシャンではないが、一緒に演奏活動を行った中にはイギリスの伝説的ブルーズマンのロング・ジョン・ボルドリーもいた。

 1967年に、当時のスポンサー会社だったリバティ・レコードの役員から、バーニー・トーピンという詩人を紹介された。エルトン・ジョンはこの申し出を受けて、バーニーと一緒に楽曲作りやデモ・テープの制作を決めたのである。結局、彼はブルーソロジーと離れて、新しい仕事に合うように名前も変えた。ブルーソロジーのバンドメイトだったエルトン・ディーンと、一緒に活動をしたことのあるロング・ジョン・ボルドリーの両名からそれぞれ取って、“エルトン・ジョン”と名乗ることにした。ここから徐々に彼の運命が動いていったのだった。Eltonjohn19712chriswaltere153435363
 1968年の3月には"I've Been Loving You"という曲をシングルで発表したが、ヒットしなかった。これはオーティス・レディングの曲とは同名異曲で、名義上はエルトン・ジョンとバーニー・トーピンだったが、実際はエルトン・ジョンひとりで作った曲だった。また、翌年の1月には"Lady Samantha"というピアノよりもギターが目立つ曲も発表したが、これもまた不発だった。しかし、この間に彼ら2人は、デビュー・アルバムに向けて着々と制作を進めていたようだ。

 1969年にデビュー作である「エンプティ・スカイ」が発表された。1曲目から8分を超えるアルバム・タイトル曲が収められていて、かなりの力作であることが伺えた。この曲にはフルートやハモンド・オルガン、ハーモニカ、コンガなど多彩な楽器が使用されていて、曲自体も複雑な構成を持っており、一筋縄では掴めないエルトン・ジョンの才能が詰め込まれている。ただそれが曲として昇華されておらず、アイデアだけで勝負しましたという感じがしてならない。81yinzpzasl__sl1400_
 この傾向はこのアルバム全体を貫いているようで、続く"Val-Hala"やアルバム屈指の名曲"Skyline Pigeon"ではハープシコードも使用されていて、今となってはかなり珍しい印象を与えてくれたし、友人のカレブ・クレイのギターがフィーチャーされた"Western Ford Gateway"はアメリカに対する憧憬が聞こえてきそうだった。

 他にもボブ・ディランの歌い方をまねた"Hymn 2000"ではフルートが強調されていたし、6曲目の"Sails"でもカレブのハードなギターを聞くことができた。しかし、一番不思議な印象を持つのは、9曲目、つまり最後の"Gulliver/It's Hay Chewed/Reprise"だろう。

 この曲はタイトル通り3部作のメドレーで、全体で6分58秒もある。最初はミディアムテンポの叙情的な曲なのだが、徐々に盛り上がっていき、"It's Hay Chewed"ではジャージーなピアノとサックスにエレクトリック・ギターが割り込むような形になり、続いてサックス・ソロとギター・ソロが交互に続く、そしてアルバムの各曲が入り混じった"Reprise"で幕を閉じる。何となく、ザ・ビートルズの"Hey Jude"の形式を真似て、最後に"Reprise"をくっ付けたような感じだ。最初のアルバムということで奇をてらって印象的なものにしようとしたのだろうか。989652
 このアルバムについて、エルトン・ジョンは、次のように述べていた。『アルバムのタイトル曲を作り終えた時は、興奮して参ってしまった。生まれてから聞いた曲の中で最高だと思った』また、『当時はどんな音楽スタイルで行くのか定まっていなかったよ、たぶんレナード・コーエンのように聞こえるだろう』というわけで、だからというわけではないだろうがアルバム冒頭の"Empty Sky"や最後の"Gulliver/It's Hay Chewed/Reprise"などの長尺の曲が収められていたのだろう。

 翌年、セカンド・アルバム「エルトン・ジョン」が発表され、このアルバムは全英アルバム・チャートで5位、全米では4位を記録し、まさしく彼の出世作になった。アメリカではゴールド・ディスクを獲得し、翌年のグラミー賞の“アルバム・オブ・ジ・イヤー”にもノミネートされたのである。この成功の裏にはプロデューサーであるガス・ダッジョンの功績が大きいだろう。61menybdkrl__sl1059_
 元々は、デビュー・アルバムを手掛けたスティーヴ・ブラウンが再びプロデュースするつもりだったのだが、このアルバムに収められている"Your Song"を聞いたときに、これは間違いなくヒットする曲だ、それなら自分よりはもっと経験豊富なプロデューサーに任せた方がいいだろうと判断して、ジョージ・マーティンに声をかけたのが始まりだった。

 ジョージ・マーティンは曲のアレンジも任せてくれるならやってもいいと答えたが、アレンジはポール・バックマスターが手掛けることになっていたので、結局、この案は消えてしまった。次に、スティーヴはポール・バックマスターに誰がよいか尋ねたところ、ガス・ダッジョンという返事が戻ってきたのだ。当時のガス・ダッジョンは飛ぶ鳥を落とすほど影響力があり、デヴィッド・ボウイからストローブス、テン・イヤーズ・アフター、ジョン・メイオールズ・ブルーズブレイカーズなど大物ミュージシャンやバンドを手掛けるほどだった。Caribouranch2
 もうひとり名前をあげるなら、やはりストリングスのアレンジを手掛けたポール・バックマスターだろう。アルバム全編にわたってストリングスが施されており、またこのアレンジが絶妙なのだった。そして8曲目の"The Greatest Discovery"では、彼自身もチェロを演奏していた。ガス・ダッジョンとポール・バックマスターは仲が良かったらしく、ガスだからこそここまで大胆にポールにストリングス・アレンジメントを任せることができたのだろう。ジョージ・マーティンだったら、果たしてここまでできたかどうか疑問である。

 このアルバムに関しては、とにかくどの曲もお勧めである。"Your Song"は当然のことながら、ハープシコードが哀愁をかき立てる"I Need You to Turn to"、レオン・ラッセルの影響が濃い"Take Me to The Pilot"、ミック・ジャガーの歌い方を真似た"No Shoestrings on Louise"、ゴスペルのような"Border Song"など、捨て曲などまるでないのだ。

 ちなみに、"First Episode at Hienton"は、バーニー・トーピンの生まれ育った故郷のことを歌ったものであり、続く"Sixty Years On"とともに、ポールのストリングスが効果的なバラードになっている。
 また、"The Greatest Discovery"は弟の誕生を祝福した曲で、"The Cage"は、比較的おとなしめの曲が続く後半では、ブラスやパーカッションがフィーチャーされていて、エルトン・ジョンのロック魂を感じさせられた。最後の曲"The King Must Die"では、リリカルなエルトン・ジョンのピアノ演奏を楽しむことができるし、壮大なオーケストレーションも施されていて、アルバムのエンディングにふさわしい曲でもある。

 とにかく、このセカンド・アルバムはデビュー・アルバムとは違って、プロダクション・チームがしっかりとエルトン・ジョンの曲をバックアップし、期待以上の成果をもたらしている。その理由はいろいろ挙げられるだろうが、音楽的にはエルトン・ジョンの志向するゴスペルやソウル・ミュージックが根底にあり、それをもとにしたメロディアスな楽曲に秀逸なアレンジが加わったからだろう。
 とにかく、ここから彼らは大きく世界に羽ばたいていったのである。エルトン・ジョンがまだ若くて、痩せていて、髪の毛があったころの話である。

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2019年4月22日 (月)

コーポレイト・アメリカ

 ボストンというアメリカのロック・バンドについて記すことにした。特に深い理由はなくて、以前からこのアルバムを聞きたくて、最近購入して聞いたからだ。

 このアルバムというのは、彼らの5枚目のスタジオ・アルバムにあたる「コーポレイト・アメリカ」のことである。2002年の11月に発表されたもので、全10曲47分余りの内容だった。
 なぜこのアルバムが聞きたかったかというと、彼らのアルバムにしては売れなかったという理由と、売れなかったのはアメリカの大企業を批判したせいで、プロモーションが十分させてもらえなかったという噂を聞いたからだった。41th8d26apl_2
 ご存知のように、ボストンは1976年にアルバム「幻想飛行」でデビューした。このアルバムは、全米のアルバム・チャートでは最高位3位どまりだったが、セールス的にはアメリカだけでも1700万枚以上、全世界で20000万枚以上の売り上げがあり、今でも30周年記念盤「幻想飛行」が発売され、売れ続けている。

 続く1978年のセカンド・アルバム「ドント・ルック・バック」、1986年のサード・アルバムの「サード・ステージ」は、連続してチャートの首位に輝き、1994年の4枚目の「ウォーク・オン」も100万枚以上売り上げ、7位になっていた。
 ところが、1997年の「グレイテスト・ヒッツ」を挟んで、2002年に発表されたこのアルバムは、チャート的には42位と低迷し、アルバム・セールスも約50万枚程度だった。まさに、70年代の往時を知る者にとっては信じられない悲劇であり、ボストンというブランドにキズがついたような出来事だったのである。

 ところがなぜ売れなかったかという理由が、半ば都市伝説のように語られていった。それが上記にもあったように、アメリカの大企業を批判したために圧力がかかり、プロモーションができなかったというものだった。また、それだけでなく、一部自主回収もされたという噂もまことしやかに流されていた。

 このアルバムの中に収められていたブックレットの裏表紙には、次のように書かれていた。ちなみに自分は輸入盤を購入して聞いたので、日本語訳はついていなかった。だから、正確な日本語ではないことをお許し願いたい。
 “化石燃料を保護しよう、ムダな資源を削減しよう、菜食主義者の生き方を学ぼう、動物製品を避けよう、銃ではなくカメラで仕留めよう、環境保護者に投票しよう、児童虐待や動物虐待を知ろう、毛皮を買うな!”2_000000002394
 そしてその後には、動物保護団体や環境保護団体、児童虐待を防ぐ委員会などにアクセスできるメール・アドレスが記載されていた。ということは、ある意味、このアルバムはプロテスタントな色合いの濃いアルバムだったということが分かる。ちなみに、リーダーのトム・ショルツ 自身も30年以上のヴェジタリアンとのことだった。

 しかし、これだけでは大企業の批判とは言えないだろう。そこで、アルバムの3曲目に収められていたアルバム・タイトル曲"Corporate America"の歌詞について調べてみた。
「誰が人類の退化を防ぐことができるのか
自分を見つめろ、みんなで協力しよう
たばこ産業やビジネスジェット機のグローバル化などは
恥ずべき事 みんなはそれを最大限に好んでいるけど
だけど結論はまだ取り出して突きつけることはできる

さあ行動を起こせ 俺は今夜少し手助けが必要なんだ
お前は何というのか
お前は何というのか
明かりが見えない時でさえも」

(訳;プロフェッサー・ケイ)

 要するに、環境保護の大切さや地球温暖化の危機のことを暗に仄めかしていて、これ以上地球がこのままいけば滅びるぞ、人類は協力してこの危機的状況を打開できるはずだと訴えている。確かに、かつてのゴア副大統領あたりが聞いたら喜びそうな曲かもしれないが、これだけで大企業批判には当たらないだろう。

 ただ最後のフレーズに、「レザー張りのメルセデスを注文して何の意味があるんだ」という言葉があり、固有名詞が出てくるのはここだけなので、ひょっとしたらこれが原因とも考えられるが、たぶん違うだろう。
 一番の問題は、このアルバムは、それまでのエピックやMCAというメジャーなレコード会社からアルテミスというマイナーな会社に移籍して発表されたものだったから、十分なサポートが受けられなかったことは言えるだろう。そこから、上記のような噂が生まれた(あるいは意図的に流された)のではないだろうか。

 肝心のサウンドはどうかというと、特徴的なギターの多重サウンド、空に突き上げるかのようなスペイシーな音の響きなど、今までのボストンを継承している。
 ただ、このアルバムではトム・ショルツ以外のメンバーが健闘していて、2曲目の"Stare Out Your Window"と6曲目の"Turn It Off"、7曲目の"Cryin'"はアンソニー・コスモという人の手による曲で、この人は同じボストンの当時のメンバーであるフランシス・コスモの息子だった。息子の書いた曲を父親のフラン・コスモが3曲とも歌っていたのだ。

 フラン・コスモは、アルバム「ウォーク・オン」から参加していた人で、ブラッド・デルプの代わりにリード・ボーカルを取っていた。ボストンにはこのアルバムとそれに伴うツアーまで参加している。アンソニーは、2002年のツアーからボストンに参加し、2006年頃まで在籍していた。ギターやベース・ギター、ドラムスにキーボードと何でもこなすマルチ・ミュージシャンでもあった。

 アルバム・タイトル曲の"Corporate America"は、何故かディスコ調の曲で、ブラッド・デルプとフラン・コスモ、新人女性ボーカリストのキンバリー・ダーマという人の3人が歌っていた。バックの演奏は、ドラムスからキーボードまで、すべてトム1人が演奏している。ディスコ調にアレンジすることで、切迫感や自堕落な様子を表現しようとしたのだろう。

 4曲目の"With You"は、女性ボーカリストのキンバリーの手による曲で、キンバリーがアコースティック・ギターを担当し、トムがエレクトリック・ギターとベース・ギターを演奏する素朴なバラードである。ウェストコースト風の爽やかなバラードなのだが、途中のエレクトリック・ギターの入り方がいかにもトム流で、ワ~といっぺんに多重録音で入ってくるのがちょっと残念だった。バラードなのだからもう少しそっと来てくれると、盛り上がっただろうに。

 キンバリーは、53歳になるアメリカ人のミュージシャンで、ボストンではベース・ギターも担当していたが、ベース・ギターに関してはボストンに加入が決まってから手ほどきを受けたようで、そんなに得意ではないようだ。基本はボーカルとギターである。3393672570_74d2a256f6_o
 "Someone"はブラッド・デルプとトム・ショルツの2人のパフォーマンスで出来ている曲で、次の"Turn It Off"とともに、ミディアム調のややダークな曲だった。
 この"Turn It Off"と"Cryin'"については、上にも述べたようにアンソニー・コスモの手によるもので、ボストンというよりは、西海岸のオルタナティブ・ロック・バンドの曲のようだ。メロディアスでありながらも刺々しい雰囲気も備えていて、個人的には好きな曲だった。トム・ショルツのギター・ソロがなければ、ボストンの曲とは誰も気がつかないだろう。

 "Didn't Mean to Fall in Love"は、珍しくトムがアコースティック・ギターのソロも演奏している。また、ハモンド・オルガンなども使用されていて初期の雰囲気を携えていた。ただ、メジャー調ではないので、明るい曲ではない。制作者はトムとカーリー・スミス、ジャネット・ミントという人たちだった。トム以外は、具体的にどんな人かはよくわからなかった。(カーリー・スミスはドラムスを演奏するようだ)

 9曲目の"You Gave Up on Love"では、再びキンバリーがメイン・ボーカルを務めており、伸びのあるボーカルを聞かせてくれる。"More Than A Feeling"の二番煎じといった感じで、フルート演奏が少しだけいい味を出している。
 最後の曲の"Livin' For You"は、ライヴ音源で、オリジナルは「ウォーク・オン」に収録されている。"Peace of Mind"をかなりスローにした感じで、フラン・コスモがリード・ボーカルを、ブラッド・デルプがハーモニーをつけている。一応、ボーナス・トラック扱いだが、そのクレジットはないようだ。

 とにかく、発表されたときは、酷評されたアルバムだったが、最近では再評価されてきている。トムのギターの音色は相変わらず独特だし、それに加えてキンバリー・ダームとコスモ親子の参加がアルバムに色どりを添えている。ディスコ調の曲には参ったけれど、冒頭の"I Had A Good Time"やアンソニーの手による"Stare Out Your Window"や"Cryin'"、バラード調の"With You"など、バラエティに富んでいて聞いていて飽きない。6q0j1u10
 このバラエティの豊かさが、従来のボストン・ファンに受け入れられるか、受け入れられないかが評価の分かれ目だろう。むしろ、ボストンのアルバムと思って聞かない方が受け入れやすいのではないだろうか。ただ、セール私的にはこのアルバムからトム・ショルツの神通力は失われてしまったようだ。

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2019年4月15日 (月)

クィーンのラスト三部作(3)

 映画「ボヘミアン・ラプソディ」にも登場したフレディの恋人のジム・ハットンによれば、1986年当時の様子について、次のように述べていた。『フレディには特定の恋人はいないと、世間の人やファンには思わせるようにしていた。そういう線で通した方が僕たちふたりにとって何かと楽に運ぶとフレディはずっと考えていた。実際その通りだった。メアリー(注:フレディの女性としての最初の恋人)は、もうずいぶん前からマスコミでフレディの生活に関わる人間として知られているから、彼女なら簡単にマスコミをあしらえるだろうとフレディは思っていた。でも僕のこと(注:ジム・ハットンのこと)は常にマスコミから守ろうとしていた。フレディは初めて自分の中に満ち足りた思いを感じているとインタビューにこたえていたが、それは僕たちのことを言っているのだと彼は僕に言ったんだ』

 同時期のロジャー・テイラーもジムに対して、フレディは以前とはまるで別人になったようだと言っていた。以前はみんながホテルに戻った後もゲイのたまり場をうろついていたのに、そんなことはもうしなくなった。いったいフレディに何をしたんだとわかってて聞いたようだが、ジムにとっては何よりの誉め言葉だったに違いない。
 確かにフレディ・マーキュリーはハード・ゲイのような態度や雰囲気を湛えていたから、その当時も暗黙の了解みたいなものがあったのだろうけれど、ゲイということは公式にも非公式にも明かされてはいなかった(と思う)。また、メアリーという女性の元恋人がいるなんて自分は全く知らなかった。そんなプライベートなことよりも、音楽性の方が大事だったし、バラエティ豊かな音楽性の中からファンクに走ったり、映画音楽を担当したりと、何となく方向性が定まらない80年代以降のバンドの行く先の方が、最大の関心事だった。また、それと同時に不安の原因にもなっていたのである。

 さて、「クィーンのラスト三部作」の最終回は、1995年に発表された「メイド・イン・ヘヴン」である。当然のことながら、フレディ・マーキュリーの死後発表されたアルバムだが、収録された曲の中には、1991年の「イニュエンドゥ」制作時に録音された曲をもとにして作られたものもあり、そういう意味では、フレディ・マーキュリーの遺作ともいうべき内容を伴っていた。
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 大雑把に言うと、フレディ・マーキュリーの死後、約4年間をかけて過去の既発や未発の曲を集めてきて、さらにブラッシュアップしたアルバムといえるだろう。つまり、フレディを除く3人がフレディの意志を引き継ぎ、バンドとしての最後の輝きを放とうとしたような、そんなバンドとしての結束性や力強さを感じさせてくれるアルバムなのだ。だからこのアルバムは、バンドとしての15枚目のスタジオ・アルバムとして公認されている。アルバムのフロント・カバー写真には、スイスのモントルーにあるジュネーヴ湖(別名レマン湖)のほとりに立つフレディの銅像の写真が使われていて、実際にこの場所は、観光地にもなっているという。
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 曲数自体は11曲と、以前のバンドのアルバムとしては多くはなく、むしろ少ない方だ。これはフレディの最後のレコーディングができるだけ数多く収録したものの、断片的なものしか残っていないということが主な原因だった。だから、他のメンバーの作品も収録されているのである。実際にブライアンは、当時を回顧しながら、「イニュエンドゥ」完成後もスタジオで生活しながら、フレディの調子のいい時を待ってレコーディングを行っていて、『バンドのメンバーは、フレディにとって残された時間は本当に少ないと聞かされていたからだ。僕らは目一杯、彼の意向に沿うことにした。彼は歌わせてくれ、書ける曲は何でも書いてくれ、それを歌うからと言っていた』と述べていた。

 プロデューサーだったデヴィッド・リチャーズは、普段のフレディの録音時の様子からこのアルバムを次のように判断していた。『フレディは、いつも最後にボーカルの音入れをやっていた。曲が完成するまで待ってから自分の声を入れていたんだ。ところが、「メイド・イン・ヘヴン」に収められている曲の中には、まだ曲が完成していないにもかかわらず自分の声を吹き込んでいるのもあった。自分の残された時間を考えると、曲が完成するまで待てなかったのだろう。だからこのアルバムは、彼が絶対にリリースしたいと考えていただろうし、彼の最後のアルバムだ、絶対に世の中に発表しないといけないと思ったね』

 2013年には、ブライアン・メイが「メイド・イン・ヘヴン」は、今まで制作してきたクィーンのアルバムの中で最上の作品だとインタビューに答えていた。『何より美しいし、作り上げるまでに長くて険しい道のりを歩んできたからだ。本当の愛の苦悩の結晶なんだ』確かに、どちらかというと、バラエティ豊かで、ある意味、散漫な印象もあったクィーンのアルバムの中では、“フレディの意志”という点では首尾一貫しているし、統一性があるといえよう。
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 1曲目の"It's a Beautiful Day"は、1980年のドイツのミュンヘンでデモテープが制作されていたものを、ジョン・ディーコンが2分32秒までに引き延ばしたもの。当時のクィーンは「ザ・ゲーム」のアルバムを制作中だった。その時にフレディが作った曲が原曲になっている。アルバムの全体の雰囲気をよく掴んでいる曲だと思う。

 2曲目のアルバム・タイトル曲"Made in Heaven"もまた、力強いフレディのボーカルを堪能できる曲で、1985年の彼のソロ・アルバム「ミスター・バッド・ガイ」の中の曲だった。バックの演奏は、このアルバムのためにブライアンとジョンとロジャーで再録している。
 "Let me Live"は、ゴスペル風味あふれるバラード曲で、元は1984年の「ザ・ワークス」制作時に作られたものだった。ロッド・スチュワートとともに録音されたと言われている。それをロッドの部分を削除して、録音し直されている。珍しいところでは、ボーカルがフレディからブライアン・メイ、ロジャー・テイラーと引き継がれて歌われているところだろう。また、歌詞がエマ・フランクリンの"Piece of My Heart"と似ていたため、著作権に引っかからないように改作されていた。

 "Mother Love"は、フレディとブライアンが一緒に作った最後の曲で、1991年の5月13日から16日にかけて録音された。曲の最後のヴァースになって、フレディはちょっと休んでくるといって、スタジオから出ていってからまた戻って書き上げた。しかし、それからはスタジオに戻ってくることはなく、仕方なくブライアンが最後の部分を歌っている。この曲にはまた、1986年のウェンブリー・スタジオのライヴ音源や"One Vision"、"Tie Your Mother Down"のスタジオ・ヴァージョンのイントロ、フレディが1972年に歌っているキャロル・キング&ジェリー・ゴフィンの曲"Goin' Back"もほんの一部ではあるが使用されていた。

 "My Life Has Been Saved"はジョン・ディーコンの作品で、元々はアコースティック・ヴァージョンだった。それを当時のプロデューサーだったデヴィッド・リチャーズがキーボードを加え、バンド全体で演奏して、1989年のシングル"Scandal"のBサイドに収録された。今回アルバムに収録するときに、フレディのボーカルはそのままで、演奏を取り直している。ちなみに、基本のギターやベース、キーボードはジョンが演奏している。

 6曲目の"I was Born to Love You"は、日本でも特に人気の高い曲で、テレビドラマやCMでも使用されていた。音源は「ミスター・バッド・ガイ」のアルバムからで、このアルバムではテンポを少し早くし、ブライアンのギターをフィーチャーしていて、この「メイド・イン・ヘヴン」の中では、ハード・ロックとして聞こえてきそうだった。

 7曲目の"Heaven for Everyone"もまたミディアム・テンポの曲で、いかにもフレディのボーカルを噛み締めて味あわせようとするかのような曲調だった。元々は1987年にロジャー・テイラーの書いた曲で、自身のバンド、ザ・クロスのアルバム用だった。ゲストとしてフレディが歌ったものをボーカル部分だけ取り出して録り直している。

 "Too Much Love Will Kill You"は、「ザ・ミラクル」前後にブライアン・メイとフランク・マスカー、エリザべス・ラマーズという3人が共作したバラード曲で、著作権の関係からか、それまでクィーンのアルバムの中では発表されず、のちにブライアン・メイの1992年のソロ・アルバム「バック・トゥ・ザ・ライト」で発表されている。「フレディ・マーキュリー追悼コンサート」で初めて公にされたもので、ブライアン・メイはピアノを弾きながら歌っていた。

 "You Don't Fool Me"は、何となくファンキーで、お洒落な感じを伴う曲で、クィーンらしくない。曲の枠組みはかつてのプロデューサーだったデヴィッド・リチャーズが手掛けていて、それにフレディがボーカルを入れ、バンドが演奏を加えている。ただ、このアルバムの中では躍動感があり、ハードではないものの、好印象を与えてくれる。この曲もフレディが亡くなる前の録音だと言われている。

 10曲目の"A Winter's Tale"は、フレディが病気の末期にスイスのモントルーに来て、自分のフラットで作曲したもの。彼の最後の自作曲だと言われている。そういう経緯があったからか、ジュネーヴ湖畔に彼の銅像が建てられたのだろう。この曲もまた、フレディ自身が死期を強く意識しながら書かれたものだろうが、哀しみや苦しみなどは全く感じさせず、むしろ彼の力強いボーカルに逆にこちらが励まされるようだ。まさに感動的なバラードで、クィーン・ファンでなくても、感慨はひとしおだろう。
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 11曲目は、冒頭の曲"It's a Beautiful Day"のハード・ロック・ヴァージョンだった。最後に"The Seven Seas of Rhye"のピアノが挿入されていた。アルバムのクレジットはこれで終わっているが、11曲目に続いて12曲目に"Yeah"という曲が収められているそうで、これは単にフレディが、"Yeah"と言っているもの。むしろ、11曲目の曲の最後にフレディが歌ったものと考えても問題はないようにも思えた。

 問題は13曲目で、22分32秒にわたって、アンビエント・ミュージックのようなサウンドが延々と続く。いわゆる隠しトラックだろう。約2か所くらいでちょっとした演奏っぽい雰囲気が伝わって来そうになったが、すぐに元の環境音楽に戻ってしまった。最後に一言が聞こえてきて終わるのだが、たぶんフレディの声だろうけれど、何と言っているのかわからなかった。ネットで検索してみると"FAB!"と言っていると書かれていたが、本当だろうか。でも、"FAB"って、“素晴らしい”という意味だけど、フレディは最後に自分の人生を振り返って、素晴らしい人生だったと思ったのだろうか。そりゃ自分の誕生パーティーに8000万円も一晩でお金をかけるのだから、素晴らしいに違いない。
 前述のジム・ハットンの手記によれば、そのパーティーの様子はすべてビデオ撮影されていたらしいのだが、あまりにもエグイので鑑賞に堪えられず、すべてお蔵入りになったという。関係者がこの世からいなくなれば、そのうちどこからか、ひょっこりと出てくるかもしれない。ただ一般公開は無理だろうけれど。
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 というわけで、遅ればせながら、映画「ボヘミアン・ラプソディ」の影響を受けて、クィーンの最後の三作品について綴ってみた。もちろんフレディ・マーキュリー自身も素晴らしい不出世のボーカリストだと思うが、最後まで輝かしいキャリアを築き上げることができたのも、他の3人のメンバーが彼の最後を看取るという決意で、彼を支えていったからではないだろうかと思っている。
 それはまた、彼がエイズという、当時では不治の病と言われた病気になってしまい、人生自体が限定的になってしまったからだろう。エイズという病に冒されたからこそ、最後の三部作は、輝かしい不滅の光を放つ作品群になったのである。

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2019年4月 8日 (月)

クィーンのラスト三部作(2)

 1980年代から90年代にかけて、先天性免疫不全症候群(通称;エイズ)という病気は、不治の病として恐れられていた。つまり、一旦、エイズウィルスを保持してしまうと、ほぼ間違いなく数か月から数年のうちに亡くなってしまうと信じられていた。
 もちろんそれは間違いではなくて、確かに当時では、発症すれば死を待つしかないのは事実だった。しかし、その対策が進んだ現在では、発症を遅らせたり、発症しても進行をくい止める方法が研究され、実際に感染後でも治療を開始すれば、余命は平均寿命に並ぶと言われている。それだけ臨床検査などで、新薬の開発が進んだせいだろう。

 それで、クィーンのフレディ・マーキュリーがもしそういう新薬を接することができていれば、今もなお現役で活躍していたかもしれない。もし生きていれば、今年で73歳になっていた。ミック・ジャガーが今年76歳だから、ほぼ同世代なのである。

 それで、今回は、クィーンの実質的なラスト・アルバムとなった1991年に発表された「イニュエンドゥ」について記すことにした。Innuendo
 前作のアルバム「ザ・ミラクル」が久しぶりに気合の入ったアルバムで、メンバー全員で制作されていて、セールス的にも好調だった。それで引き続きメンバーは、1989年の3月からロンドンやスイスのモントルーでレコーディングを始めたのである。
 当初は、1990年のクリスマス時期を狙って発表しようと計画されていたが、残念ながらフレディ・マーキュリーの病気の進行が早くて、その時期が遅れてしまったのである。

 当時のフレディ・マーキュリーについて、様々なメディアがエイズではないか、しかも末期症状だとか根拠のない噂話(実際は本当の話だったのだが)を書き立てていた。もちろん、彼自身はそれらを認めることはなく完全否定を続けていたのだが、1990年2月のブリット・アワードの授賞式で4人全員がそろった時のフレディのやつれた姿は、誰がどう見ても間違いなく何かの病気にかかっていると思われた。

 それで、1991年の2月に発表されたアルバム「イニュエンドゥ」は、初期のクィーン・サウンドが甦ったような原点回帰されたアルバムとして好意的に迎えられた。ただ、“イニュエンドゥ”とは、“暗示”や“ほのめかし”という意味だそうで、今となって考えればフレディの病のことについて仄めかしていたのだろう。

 冒頭のアルバム・タイトル曲の"Innuendo"は、ブライアンとロジャーとジョンの3人のジャム・セッションから生まれた曲で、2階で聞いていたフェレディは慌てて降りてきて、この曲にメロディと中間部の歌詞を付け加えたという。
 また、歌詞はロジャー・テイラーが引き継いで書き加え、シンセサイザーによるオーケストラは共同プロデューサーのデヴィッド・リチャーズが、途中のフラメンコ・ギターはイエスのギタリストであるスティーヴ・ハウが担当していた。彼はスタジオに遊びに来た時に、演奏してくれと頼まれたようだ。できればもう少し長く演奏してほしかった。イギリスでは、この曲が1991年の1月にシングルカットされて、見事に初登場1位を記録している。

 続く"I'm Going Slightly Mad"は、フレディの書いたミディアム・テンポの曲で、スイスのモントルーで作られたもの。この曲のプロモーション・ビデオは黒白のフィルムで、フレディもぼさぼさの髪に白い手袋をして出演していたが、かなりの厚化粧だった。メンバーのロジャー・テイラーもこの時のフレディの姿を見て、かなり深刻な病気だなと思ったと後に告白していた。

 "Headlong"はテンポのよいハード・ロック風の曲で、ブライアンのギターが目立っている。もちろんブライアンが書いた曲だが、彼は自分のソロ・アルバム用に録音していたのだが、フレディがこの曲を聞いて、クィーンのアルバムに入れることを強く主張したので収められたもの。ブライアンの書いた曲はギターが目立っているのでわかりやすい。

 続く"I Can't Live With You"もまたブライアンのソロ・アルバム「バック・トゥ・ザ・ライト」用にレコーディングされたものだが、クィーンの他のメンバーが気に入ってしまい、このアルバムに収録された。いかにもクィーンと言われそうなコーラスと後半のギター・ソロが、彼らの全盛期を彷彿させる。

 "Don't Try So Hard"はフレディの作ったバラード曲で、ファルセットで始まり、高い音域までカバーしている。もちろんエコー処理などの音響的なテクニックなどを使用しているのだろうが、初期の彼らのアルバムを聞いているような感じがしてきて、まさに“原点回帰”という言葉がふさわしい曲に仕上げられている、

 勇ましいタイトルをつけられた"Ride the Wild Wind"は、サーフィン用の曲ではなくて、カーレースのことをイメージされて作られたもので、バンドの中で車といえばこの人、ロジャー・テイラーが作った曲。デモ・テープではロジャーが歌っていたが、本番ではフレディが歌い、ロジャーはバック・コーラスに回っている。また、「オペラ座の夜」の中の"I'm in Love with My Car"の続編とも言われていて、いかにもロックン・ローラーであるロジャーらしい作品になっている。Qooonlineshop_pfmyhbevh0_1
 "All God's People"は、フレディが自分のソロ・アルバム「バルセロナ」用に作った"Africa by Night"という曲が原曲で、このアルバムの中で唯一、個人名義のクレジットになっている。つまり、他の曲はすべてクィーン名義なのに、この曲だけは”フレディ・マーキュリーとマイク・モーラン”名義になっていた。本来ならフレディとモンセラート・カバリエが歌うはずだったのだが、結局、選から漏れてしまったようだ。
 自分のアルバム用の曲だったので、ボーカルがかなり多重録音されていて、オペラチックな印象を受ける。それでもクィーン風のロックにアレンジされているところが素晴らしいし、アルバムに統一感をもたらしていると思う。4分21秒のオペラだろう。

 8曲目の"These Are the Days of Our Lives"は、ロジャー・テイラーの作品で、全体的にシンプルで落ち着いた曲調になっている。その中でブライアン・メイのギターが、飛翔するかのように鳴り響いているのが印象的だった。また、この曲のプロモーション・ビデオもまた黒白のフィルムで、フレディ・マーキュリーの生前最後の姿が映されていて、最後に彼の唇が"I still love you"と動いていた(曲の中では歌っている)。ファンに対する最後のメッセージだったのだろう。

 "Delilah"は、フレディが買っていた11匹の猫の中の最も愛した雌猫の名前で、もちろんフレディが書いた曲だった。ブライアンがトーク・ボックスというエフェクターを用いて猫の声のような音を出している。ただ、ロジャーは後にこの曲は好きではないとインタビューで告白していた。

 ハード・ロック好きならこの曲は気に入るだろう。"The Hitman"は、フレディが基本的なリフを書き、ジョンが肉付けをして、ブライアンがキーを代えてレコーディングしたもの。この曲を聞いて、フレディが不治の病に冒されているなどとは思いもしないだろう。それだけインパクトの強い曲でもある。

 "Bijou"はフレディとブライアンの2人だけで作った曲で、アイデアはフレディからもらい、フレディが歌ったあとをブライアンのギターがその音を拾っていくという作業から生まれたもので、ギターが歌詞の部分を、ボーカルがサビの部分を担当していた。
 また、イエスの1974年のアルバム「リレイヤー」の中の通称"Soon"という部分に関連付けられることが多いようだ。ブライアンは後に、ジェフ・ベックの1989年のアルバム「ギター・ショップ」に収録されていた"Where Were You"に影響を受けた曲だと述べていた。最後の曲になった次の"The Show Must Go On"の序章のようにも思える。

 そして"The Show Must Go On"である。曲の基本は、ブライアンとロジャー、ジョンで作られていて、曲のテーマと歌詞はフレディが手掛けている。ただ、最初の節の部分は、ブライアンも手伝っているようだ。曲調はクィーンの1989年の曲"I Want It All"に似ているが、ブライアンはバロック期のドイツ人作曲家であるヨハン・パッヘルベルのカノンにインスピレーションを受けたと語っていた。いずれにしても、このアルバムの白眉であり、フレディ自身が希望と諦観を同居させながらも、自分自身の死に対峙して歌っているところが、涙無くして聞くことはできないだろう。199e675ddf22914cd7de7330e5eebaff
 自分がこのアルバムを聞いたときは、まだフレディは生きていて、曲の中の力強いボーカルを聞いたときは、数か月後に彼が亡くなるとは思ってもみなかった。実際は、アルバム発表後の約半年後には亡くなっていたから、レコーディングやプロモーション・ビデオ制作時にはかなり衰弱していたようだ。そんなことはこれっぽっちも知らなかったから、このアルバムを聞いても、もう少しシングル向けの曲が欲しかったなとか、珍しくゲスト・ミュージシャンがいるなとか、そんな感想しか持てなかった。

 しかも、ここ極東の日本にいては彼の詳細な様子はわからず、1991年の11月23日にフレディがエイズに冒されているという報道があり、翌24日に45歳で亡くなったということを知ったのは、25日だった。自分にとってはあまりにも早すぎる彼の死であった。

 だからこのアルバムは、クィーン版“アビー・ロード”ともいうべきものであり、迫り来る死を自覚したフレディが最後の気力を振り絞って制作したものであり、文字通り彼の遺作なのである。

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