2017年4月24日 (月)

ARWのライヴ・レポート

 日頃の行いがよいせいか、念願かなってARWのチケットを手に入れることができて、ライヴを見に行った。
 やってきたのは広島にあるライヴハウスのクラブクアトロだった。キャパが約700名ということで、ビッグ・ネームのミュージシャンにしてはかなり小さな場所になると思う。

 ARWといえば、プログレッシヴ・ロックのファンならすぐにわかると思うけれど、ジョン・アンダーソンとリック・ウェイクマン、それにトレヴァー・ラビンのことを指していて、彼らの名前の頭文字をとっている。Arwlive

 要するに、元イエスのメンバーである。ただ、現在の本家イエスには、オリジナル・メンバーは誰もいなくなってしまった。唯一のオリジナル・メンバーだったクリス・スクワイアが2015年に亡くなったからで、今はギタリストのスティーヴ・ハウが実質的なリーダーとしてバンドを率いているようだ。

 ジョンは本家イエスについてどう思っているのかわからないけれど、来日公演の直前にバンド名が、“アンダーソン、ラビン&ウェイクマン”から“イエス・フィーチャリング・ジョン・アンダーソン、トレヴァー・ラビン、リック・ウェイクマン”に変更になった。

 ということは、ジョンはこのバンドこそがイエスだと思っていることだろう。名前の変更について、ジョンはこう述べている。「それはファンも私たちも望んでいることだ。私たちには、その名目を使う権利がある。イエスの音楽は私たちのDNAの中にあるんだ」

 まさにその通りで、イエスの代表曲、特に70年代の全盛期の曲に関わっていたのは間違いのないことだし、パンク/ニュー・ウェイヴの洗礼から抜け出し、全米No.1のヒット曲を出した80年代前半においても、ジョンはまだ在籍していたからだ。

 それに、このメンバーでのライヴは2016年の10月からアメリカのフロリダから始まっていたが、そのツアー・タイトルは“An Evening of Yes Music and More”と銘打たれていた。もうこれは完全にイエスの音楽であり、1991年の8人編成で行われた「ユニオン・ツアー」の違う意味での再現だろう。

 アメリカや東京の渋谷で行われたライヴ・レポートなどがネットに挙げられているので、詳細を知りたい人はそちらをご覧になっていただくとして、ここからはあくまでも自分の個人的な意見や感想として綴っていきたい。

 こんな小さなライヴハウスになったのは何故かはわからないけれど、たぶんこのメンバーで新作が発表されていないからではないか。
 もしニュー・アルバム発表後なら、プロモーター側ももう少し大きな会場を用意したのではないだろうかなどと、勝手なことを考えたりもした。ただ、インターネットを見ると、アメリカではもう少し大きなホールなどでやっていた。

 もしくは、小さなライヴハウスから大きなホールまで、規模を変えながら演奏したいというミュージシャン側の意向があったのかもしれない。東京では約2000名、大阪や名古屋でも1000名以上のホールだった。広島だけ小さかった。 

 入場開始は午後4時、開演は午後5時ということで、普通のライブよりはかなり早い。確かに"An Evening Of Yes Music"というタイトルに相応しいと言える。

 うがった見方をすれば、ジョンももう72歳だし、高齢化したせいかとも思ったのだが、他の会場ではすべて午後7時開演だったので、広島だけこれも早かった。高齢化ではなくて、早く終わらせて、お好み焼きでも食べに出たかったのかもしれない。

 演奏はほぼ定刻の午後5時3分ごろ始まった。正確なセットリストは覚えていないので、何とも言えないのだが、だいたい次の通りだと思う。

1.Cinema
2.Perpetual Change
3.Hold On
4.I've Seen All Good People
5.And You And I
6.Rhythm of Love
7.Heart of the Sunrise
8.Changes
9.Awaken
10.Owner of A Lonely Heart
[encore]
   Roundabout

 こうしてみると、70年代の黄金期の曲と80年代の90125イエスの曲が、ほぼ半分だった。トレヴァー・ラビンが参加していることから80年代の曲も当然演奏されるだろうとは思っていたが、ここまで平等とは思わなかった。71cre2wuil__sl1500_
 トレヴァー・ラビンやリック・ウェイクマンは普通に登場してきたが、ジョンは小躍りしながら登場してきて、さすが誇大妄想型ミュージシャンだと思った。とにかく、楽しくて楽しくてたまらないという印象があった。

 リック・ウェイクマンは、黒っぽい生地に銀色のスパンコールみたいなものをつけたマントを身に着けていて、時代錯誤のように70年代に浸っていた。
 しかし、このショーマンシップというか、パブリック・イメージに徹する態度はさすがである。自分を客観的に見ることができているのであろう。“キーボードの魔術師”は、年をとっても魔術師だったのだ。

 "Perpetual Change"の時のジョンの声は、低音がややかすれていたが、高音の伸びは素晴らしく、ほとんど衰えを感じさせなかった。よほどヴォイス・トレーニングがきちんとできているのだろう。

 "And You And I"や"Heart of the Sunrise"の時も、高音の部分はどうなるのだろうかとハラハラしながら聞いていたのだが、ほとんど問題なかった。さすがベテラン、声の衰えはテクニックでカバーしていた。

 ジョンは日本の童謡が好きなようで、“どんぐりころころ”や“ぞうさん”を歌うらしいのだが、広島では“ぞうさん”の出だしを歌っていた。"And You And I"の前だっただろうか、よく覚えていないが、確かに歌ったのである。

 "I've Seen All Good People"の時のトレヴァー・ラビンは、最初はアコースティックで、後はエレクトリック・ギターを使用していたが、"And You And I"ではエレクトリック・ギター一本で通していて、中盤のアレンジもギターを使用して工夫していた。

 彼はエネルギッシュにギターを弾きまくっていて、速弾きもスローな部分も見事だった。バンドリーダーみたいに、演奏面ではバンド全体を引っ張っていたと思う。

 90125イエスの曲は当然だが、70年代の曲まで自分の曲のように弾きまくっていた。さすがイエスに引き抜かれただけある。曲も書けて演奏も一流だし、プロデューサーもできるマルチ・ミュージシャンの片鱗が伺われた。

 アルバム「究極」の後半部分を使っていた"Awaken"については、ほぼ完璧に再現していた。ジョンもハープを使用してアルバムの雰囲気を再現していたし、リックもパイプ・オルガン風のキーボードを使っていた。それにジョンも気合が入っているのか、声にもますます艶が出ているように思えた。

 最後の"Owner of A Lonely Heart"では、当然盛り上がってしまい、観客と一体になって、小さな会場がますます狭くなったような気がした。
 そして曲の終わりは、ほとんどジャム・セッション風になってしまい、リックはショルダーキー・ボードをぶら下げてステージ中央まで来るし、ついにはクリームの"Sunshine of Your Love"やクラプトンの"Crossroads"のワン・フレーズも出てきて、大いに盛り上がったのである。

 1000名以上の大きなホールでは、ここでトレヴァー・ラビンやリック・ウェイクマンが下のフロアまで降りてきて、まるでザ・ヴェンチャーズのように観客とスキンシップを行うらしいのだが、クアトロは人で密集していたので、それはできなかったようだ。

 アンコールは予想通りの"Roundabout"だったが、できればもう1曲くらい"Love Will Find A Way"か"Starship Trooper"をやってほしかった。

 時間的にはライヴハウスのせいか、約90分少々というスケールだった。アメリカやイギリスではABWHの曲"The Meeting"や、アルバム「閃光」の中の"Lift Me Up"なども演奏していたようだが、広島では残念ながら、聞くことはできなかった。だから他の会場では、約2時間のライヴになったようだ。

 サポート・メンバーとして、ベーシストはイアン・ホーナルという人で、クリス・スクワイアのようにリッケンバッカーを使用していた(途中フェンダー・プレシジョン・ベースに替えていたところもあった)

 ドラマーのルイ・モリノⅢは、トレヴァー・ラビンやYOSO(ビリー・シャーウッドやトニー・ケイ)と一緒にプレイしていた人で、イエス人脈の中に位置付けられているようだ。"And You And I"のときのウィンドチャイムをおどけて叩いていたのが忘れられない。

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 とにかく生きているジョン・アンダーソンと一緒に口ずさむことができてよかった。多分もう二度とないだろう。ジョンも次にいつ来日公演に来るかはわからないし、果たしてバンド自体が存続しているかどうかも分からない。

 何しろジョンのことだから、今までのキャリからして、いつどうなるかはわからないのだ。ひょっとしたら、スティーヴ・ハウズ・イエスに加入するかもしれないし、再び“8人編成”イエスになるかわからない。

 ただたとえどうなろうとも、この日のことは、人生最高の思い出の一つとして忘れないだろう。広島まで行って本当によかったと思っている。

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2017年4月17日 (月)

キングス・オブ・レオン

 キングス・オブ・レオンは、アメリカのテネシー州ナッシュビル出身のバンドである。デビューしてもう17年くらいなるバンドで、ある意味、ベテランの域に近づきつつある中堅バンドだろう。Bb22feakingsofleona592016billboard1
 自分が彼らのことを知ったのは、2008年のアルバム「オンリー・バイ・ザ・ナイト」によってだった。このアルバムからシングル・カットされた"Sex on Fire"が、タイトル通りになかなか刺激的だったからだ。

 それまで彼らの名前だけは知っていたのだが、わざわざアルバムを買ってまで聞こうとは思わなかった。
 21世紀のアメリカン・ロックのバンドは、1970年代のハード・ロックとは違って、グランジ・ロックを経験しているせいか、ギターの露出が減り、歌ものというか、楽曲全体で勝負してくるような気がした。

 いわゆるオルタナティヴ・ロックなのだろうが、リフ主体であっても70年代ではメロディアスな要素が含まれていた。
 これが2000年代になると、ヒップホップの影響だろうか、もう少しリズミックになってきたのだ。だから若者にはその時のトレンドを代表しているように聞こえるのだろうが、私のような老人になってしまうと、ちょっとついていけないのであった。

 ところが、キングス・オブ・レオンは、デビュー当時からアメリカ南部のブルーズやサザン・ロックの影響を受けたような音楽をやっていて、昔を知る者や評論家にとっては、まさに感涙にむせぶような、そんな感情移入しやすいバンドだったのである。

 たぶんナッシュビルという土地柄もあっただろうし、父親が敬虔なペンテコステ派のクリスチャンで、説教師という立場からアメリカ南部を転々として回ったことも影響したようだ。

 このペンテコステ派はプロテスタントに分類されるようだが、讃美歌の多くはペンテコステ派の信者等によって書かれていて、音楽とペンテコステ派は切っても切り離せない関係があると言われている。

 日本のシンガー・ソングライターである小坂 忠も、このペンテコステ派の牧師で、多くの讃美歌等を手掛けている。
 ちなみに、小坂 忠は、細野晴臣、柳田ヒロ等と“エイプリル・フール”というバンドを結成したり、NHKの“おかあさんといっしょ”のテーマソングも担当していた。今ではマイナーな存在かもしれないけれども、70年代はかなり高名なミュージシャンだったのだ。

 話を元に戻すと、父親がそういう立場だったので、子どもたちもその影響を受けて育っていった。そう、キングス・オブ・レオンは、兄弟バンドだったのである。メンバーは以下の通りだ。
ケイレヴ・フォロウィル…ボーカル&ギター
マシュー・フォロウィル…ギター
ジャレッド・フォロウィル…ベース・ギター
ネイサン・フォロウィル…ドラムス

 フォロウィル・ファミリーという家内工業的音楽活動を行っていたのが、キングス・オブ・レオンだった。この内のケレイヴ、ジャレッド、ネイサンの3人が兄弟で、それぞれ次男、三男、長男にあたり、ギター担当のマシューだけが従兄弟にあたる。

 というわけで、このファミリー・バンドは、父親とともに南部を転々としながら音楽体験を重ねていった。
 一口に南部といってもその土地は広大で、雰囲気も場所ごとによってかなり違うようだ。いわゆる土地柄というものだろう。

 父親は讃美歌を歌いながら、その子どもたちはそれを通して音楽に触れ、その土地からブルーズやサザン・ロック、ゴスペルにカントリーと様々な音楽を吸収し、消化していった。

 1997年に父親は説教師を辞め、両親は離婚した。その後、ネイサンとクレイヴがナッシュビルに引っ越した時、シンガー・ソングライターのアンジェロ・ペトラグリアと運命的な出会いを果たすのである。
 アンジェロは、彼ら兄弟に作曲の仕方やストーンズやクラッシュなどのブリティッシュ・ロックの素晴らしさを伝授した。

 1999年にキングス・オブ・レオンが結成された後も、アンジェロは様々な形で彼らにバンドとしての在り方やレコーディング方法などのアドバイスを与えた。結局、彼らのアルバムの共同プロデューサーとしても関わるようになったし、キーボード・プレイヤーとしてもアルバムに参加するようになった。

 自分が聞いた彼らのアルバム「オンリー・バイ・ザ・ナイト」は、初期のインディー的な要素は全くなくなり、スタジアム級のバンドとして成長した姿を見せてくれている。
 これも彼らがデビュー以来、年間200本以上のライヴ活動を地道に行ってきたからだろう。71xmohlbnrl__sl1500_ 矢沢永吉も言っていたけれど、アメリカは本当に広い。今はネットで動画なども簡単に見ることができる時代だが、やはり動画と本物のライヴは違うし、PVなどの動画は如何様にも加工することもできるが、ライヴは一発勝負である。やはり永続した人気を保つにはライヴ活動を重ねていく外はないのだろう。

 とにかく、この「オンリー・バイ・ザ・ナイト」は、イギリス、アイルランド、オーストラリアのアルバム・チャートでは初登場1位を記録したし、アメリカでも初登場5位になり、最終的には250万枚以上のダブル・プラチナ・ディスクに認定された。

 シングル・カットされた上記の曲も、イギリスではシングル・チャート1位に輝いているし、アメリカ以上にイギリスでは彼らを歓迎する空気が満ちているようだった。

 事実、2009年に入っても彼らのアルバムの人気は衰えず、アルバム・チャートの首位に2回も返り咲いているし、発売から40週以上たってもトップ20位内外を上下し続けていた。
 そして、レディング・フェスティバルや、英国最大のグラストンベリーでも2008年にはトリを務めていた。

 70年代のような印象的なギター・ソロなどはないのだが、メロディーがしっかりしているし、それをサザン・ロック風の豪快さが包んでいるのだ。だから、昔を知る人には郷愁みたいなものを感じるだろうし、若い人にとっては、ヒップホップでもないし、ダンス系でもないし、それが新鮮に感じるのだろう。

 ただ、自分にとっては、そんなにフェイヴァレットなバンドにはならなかった。理由は、新鮮なんだけれども、サザン・ロックやスワンプ・ロックを聞くのならオールマン・ブラザーズ・バンドやレーナード・スキナード、38スペシャル、個人ならレオン・ラッセルなど優れたバンドやミュージシャンの音楽を聞けばいいわけだし、歴史に残るような名盤とは思えなかったからだ。

 そんなこんなで、約8年がたった。その間に、彼らは3枚のアルバムを発表している。その3枚目のアルバムが、昨年発表された「ウォールズ」だった。61kpq3emml__sl1500_ このアルバムは、英米のアルバム・チャートで1位を獲得した。もともと彼らはイギリスでは人気が高かったので、前作や前々作もチャートではNo.1を獲得している。
 ところが、何故か母国のアメリカでは、それまで1位を取ったことがなくて、あの「オンリー・バイ・ザ・ナイト」でも4位どまりだった。だから、これは彼らにとっての初めてのNo.1アルバムになったのである。

 なぜ首位を取ったのかというと、一言でいえば、“ポップ化”である。ポップ化といってもいきなりミーハー化したり、大衆に迎合したりしたわけではない。非常に聞きやすくなっただけである。

 ただ、それでも“21世紀のサザン・ロック”とまでいわれ、その“骨太さ”が評論家たちからも好意的に受け入れられていた彼らだったのに、ここまで売れ線を狙ってもいいのだろうかと思ったりもしたのだが、これは彼らがデビュー当時に立ち返ってアルバム制作を進めたからだと言われている。

 要するに、原点に戻って自分たちを見つめ、志向する音楽を定めたということだろう。それがいい意味での“大衆化路線”につながったに違いない。

 それにアルバムの中の楽曲もロック系とバラード系とバランスよく収められていて、バラード系の曲の"Muchacho"や"Walls"などは、まるでブルース・スプリングスティーンの楽曲に似ていて、感動的だった。

 逆に、シングル・カットされた"Waste A Moment"などはノリノリのロックだし、"Find Me"はヒリヒリさせる焦燥感が漂っている。
 一方では、"Over"のように大陸的な広大さを感じさせてくれる曲もあれば、"Eyes On You"のようにチープ・トリックのようなポップ・ロック調の曲も収められている。

 もちろん、デビュー時のオルタナティヴの匂いがプンプンする"Conversation Piece"やダンサンブルな香りのする"Around the World"などもあって、一筋縄ではいかないのだ。

 こういうバラエティさに富んでいるところが、ファン層やアルバム購買層の拡大につながったのだろう。Rskingsofleoncf3d315315c544dc8f86d8
 面白いことに、彼らはアルバムのタイトルや曲名に5文字以上は使用しないという暗黙のルールがあるようで、今までのどのアルバム・タイトルや、その中の曲名で5文字以上のものはない。

 このアルバムも元のタイトルは“We Are Like Love Songs”というものだったが、これでは5文字になってしまうので、それらの語の最初の文字をつなげて“Walls”と名付けている。彼らなりのこだわりというものだろう。

 ともかく、これで本国アメリカでもボン・ジョヴィのようなメジャー級になったようだ。さらに上を目指して、U2やレッチリのようになるかどうかは、今後の彼らの活躍次第である。今のように多くのライヴ活動を行っていけば、決して夢物語ではないだろう。

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2017年4月10日 (月)

ブックエンズ

 最近のことだが、サイモンとガーファンクルの"America"が聞きたくて、その曲の入っているアルバム「ブックエンズ」を購入した。貧乏なのでブックオフの中古CD棚で探していたら、偶然見つかったのでうれしかった。“捨てる神あれば拾う神あり”である。51nlts26m9l
 自分がロックの道に足を踏み入れた時には、すでにサイモン&ガーファンクルは解散していたので、彼らのことを知ったのは、ラジオから流れてくる彼らのシングル曲を通してだった。当時は、まだ"The Sounds of Silence"や"The Boxer"、"Homeward Bound"などは、よくかけられていたものだ。

 その中でも、この"America"が好きだった。淡々とした曲調ながらも、シンセサイザーを使ったアレンジも印象的だったし、“アメリカを見つけるためにやってきた”という歌詞は、中学生でも何とか理解することができたからだ。
「俺たち恋人になろうぜ
同じ将来を約束し合うんだ
俺の鞄の中にはちょっとした財産もあるし
だから煙草を一箱と
ミセス・ワグナーのパイを買って
アメリカを探すために歩き始めたんだ

 

キャシー、俺は言った、
ピッツバーグでグレイハウンドに乗った時に
ミシガンは俺にとっては夢のようだ
サギノーからヒッチハイクで4日かかって
俺はアメリカを探しに出てきたんだ

 

バスの中で笑いながら
人の顔を見て当てっこをしていた
彼女は言った
ギャバジンのスーツを着ている男はスパイよ
俺は言った
気をつけろよ、
奴の蝶ネクタイは本当はカメラなんだぞ

 

煙草をくれよ、レインコートに1本あったはずだけど
もう1時間前に最後の一本を吸ったわよ
それで俺は景色を見て
彼女は雑誌を読んでいた
月が広い畑の上に上がっていた

 

キャシー、俺は迷っているんだ
俺は彼女が眠っているのを
知っていたけれども
何だか空しくて心が痛むよ
なぜだかわからないけれど
ニュージャージーの高速道路で
クルマを数えながら
俺たちみんなは
アメリカを探しにやってきているんだ」
(訳;プロフェッサー・ケイ)

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 のちに大学生になったときに、太田裕美のベスト・アルバムを生協で購入した。もちろん2割引きだったからだが、その2枚組のアルバムの中に“ひぐらし”という曲があった。作詞は松本 隆、作曲は荒井 由美だった。
「ねぇ私たち恋するのって
鞄ひとつでバスに乗ったの
マクドナルドのハンバーガーと
煙草はイブをポケットに入れ

御殿場までが矢のように過ぎ
緑の匂い胸にしみるわ
昔はカゴで通ったなんて
雪の白富士まるで絵のよう

読んだ漫画をあなたはふせて
内緒の声で耳打ちばなし
スーツを着ているあいつを見ろよ
三億円に似てないかって

最後に吸った煙草を消して
空の銀紙くしゃくしゃにした

窓に頬寄せ景色を見てると
時の流れを漂うようね

ガラスに映るあなたの寝顔
私はふっとため息ついた
生きている事が虚しいなんて
指先見つめ考えてたの

日暮れる頃に京都に着くわ
それは涯ない日暮らしの旅
あなたと二人季節の中を
愛はどこまで流れてゆくの」

 まさに"America"の中で描かれている世界観である。“ひぐらし”ではなくて、"Japan"というタイトルにすればよかったのではないだろうか。
 ただし、この歌は女性の視点で語られており、歌詞の中の2人はお互いのことだけで完結していて、自分(たち)探しの旅と外の風景とは、そんなに深い関連はなさそうだ。

 その点、ポール・サイモンの世界では、自分たちの生き方や人生をアメリカを探す旅と結び付けて、比喩的にまとめている。
 だからポール・サイモンの詩の方が優れているとはこれっぽっちも思っていないのだが、"America"というタイトルに象徴させている、もしくは収斂させているところは、さすがポール・サイモンだと感心してしまった。

 それはともかく、"America"という曲の影響力がここまで及んでいることを知って驚いた記憶がある。やはり、サイモンとガーファンクルの人気や影響力は計り知れないものがあったのだ。

 これも昔の話になるのだが、「ミュージック・ライフ」という雑誌の中で、音楽評論家や音楽雑誌編集者による企画もの「私の好きなアルバムベスト10」というものを、目にしたことがあった。

 その中に「ブックエンズ」があった。なぜ「ブックエンズ」が選ばれて、「明日に架ける橋」ではないのか、その理由が分からなかった。
 それでいつかは「ブックエンズ」を通して聞こうと思っていたのだが、主な曲はほとんど知っていたので、手を出すのをためらっていた。そうこうしている間に、長い長い時間が過ぎて行ったのである。  710csaqtjl__sl1144__2
 話を元に戻すと、アルバム「ブックエンズ」は1968年に発表された。彼らの4枚目のスタジオ・アルバムだった。よく考えたら、ビートルズやストーンズと違って、彼らはそんなにスタジオ・アルバムを出していなかったことに気がついた。

 1964年から1970年までに、5枚しか発表していないのだから、当時としては珍しかったのではないだろうか。60年代の売れっ子バンドやミュージシャンは、年に2枚アルバムを発表するのは当たり前だったのだから。
 レーベルやレコード会社側は、人気のあるうちに、アルバムを売り切ってしまおうという魂胆があったのだろう。

 サイモンとガーファンクルは、そんなにアルバムを発表してはいなかった。ただし、シングルは結構出している。売れ始めた1966年に4枚、67年には3枚出していた。シングル主体の活動だったのだろうか。

 よく言われるように、「ブックエンズ」はトータル・アルバムだった。といっても中途半端なトータル・アルバムである。もともとは当時のレコードのサイドAとサイドBを使ってトータル・アルバムを作る予定だったらしい。テーマは「アメリカ人の生活や人生」で、それを音楽で表すものだった。

 ところがレコード会社の横やりが入ったのか、前半の7曲だけで終わってしまい、残りの5曲は既発のヒット曲が中心になった。要するに、半分はトータル・アルバムで、残りの半分は66年~67年当時のベスト・ヒット・アルバムということだろう。

 これが全曲組曲形式のトータル・アルバムだったら、もっと素晴らしくなっていただろう。ひょっとしたら次作の「明日に架ける橋」を超えるミリオン・セラーになっていたかもしれない。それほど前半の出来はなかなかのものだった。

 「ブックエンズ」というタイトルが示すように、"Bookends Theme"のインストゥルメンタル曲と歌詞入りで挟まれている。
 30秒ほどのインストゥルメンタルのあと、"Save the Life of My Child"が始まるのだが、これがまたサイモンとガーファンクルの曲とは思えない程、サイケデリックでハードな曲調だった。

 しかもシンセサイザーなるものも使用されているようで、当時の状況としては、最先端の音楽機器を使用していたのではないだろうか。
 彼らはフォーク・デュオとしてギター1本でデビューしたのだが、次第にその色どりを増やしていき音楽的な完成度を高めていったのである。

 これもビートルズのサージャント・ペパーズの影響かもしれない。あのアルバムのおかげで、ストーンズやザ・フーなどのイギリス勢を始め、ザ・ビーチ・ボーイズやルー・リードなどのアメリカ勢もインパクトを受けていたが、サイモンとガーファンクルもその例に漏れないようだ。

 続けて"America"が始まるのだが、"Kathy, I'm lost," I said, Though I knew she was sleeping, "I'm empty, and aching and I don't know why"というくだりには何度も感動してしまう。この辺は、のちに言われた“モラトリアム症候群”や“アイディンティティ(自己同一性)の危機”にも相当するところであり、今も昔も変わらない若者意識を表現している。詩人としても評価の高いポール・サイモンならではの言い方だろう。

 若者の次は中年の夫婦の会話だろうか。しかも別れを強く意識した様子である。ギター1本の音楽と歌詞の世界とがうまくマッチしている。
 "Overs"というのは、ゲーム・オーヴァーの"over"を表しているのだろうし、同時に、「考え直す」という意味の"think it over"の"over"も兼ねている。だから"Overs"という複数形になっているのだろう。

 実際の老人の会話を集めた"Voices of Old People"から"Old Friends"になるのだが、ストリングス等が使用されている"Old Friends"は本当に美しい曲だ。

 もちろんこの"Old Friends"はサイモンとガーファンクルの未来像を表していたのだろう。そして、ひっそりとベンチに座っている2人の友人の姿が"Bookends"のように見えるのだろう。Img_1_m_2
 ということは、本物のブックエンドのように2人の間には隙間があったはずだ。サイモンとガーファンクル自身も自分たちのすれ違いを意識していたに違いない。

 だからこのアルバムは、単なるアメリカ人たちの人間模様や人生だけを描いたものではなくて、彼ら2人の現状認識やこれからの姿をも描こうとしていたのだろう。
 アメリカを探そうとしていたのは、恋人同士だけではなくて、本当はサイモンとガーファンクルの2人だったのである。

 何となくビートルズの末期におけるジョンとポールのような関係だ。ポールもジョンに対して"Get Back"と歌っていたし、一流のミュージシャン同士には、目には見えない微妙な関係が流れているようだ。

 オリジナルのアルバムでは、たった29分13秒という中途半端で短いものだったが、描かれている内容は、こんなつまらないブログでは尽きせぬほどの深いものが秘められていた。

 「ブックエンズ」がサイモンとガーファンクルのベストアルバムとして選ばれるのも、当たり前のことなのかもしれない。

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2017年4月 3日 (月)

ニール・ヤングの新作群

 ニール・ヤング。今年の11月で72歳になる。しかし、70歳を超えてもその創作意欲は尽きないようだ。Ny1

 最近の彼のアルバムを見てみると、いずれも何かに対しての怒りや憤りが原因になっているように見える。まさに現状に反抗するロック・ミュージシャンといったところだろう。

 ロック・ミュージックの原点は、“怒り”であり“抗議”だった。アメリカ南部の黒人の音楽とアングロ・サクソン系の北部の音楽が融合して生まれたもので、だからその音楽の底流には、現状への不満が横たわっている。 

 ニール・ヤングが2015年に発表したアルバム「ザ・モンサント・イヤーズ」には、そんなニールの“怒り”が十分すぎるほど詰まっていた。
 このアルバムは、多国籍企業のモンサント社による遺伝子組み換え事業に対して猛烈にプロテストしている。

 モンサント社は、アメリカのミズーリー州に本部を置いているバイオ企業で、2008年の売上高は約1兆1000億円にものぼり、遺伝子組み換え種の世界シェアは約90%まで及んでいる。日本ではラウンドアップという除草剤が有名だが、あれもこのモンサント社の製品である。

 アメリカや日本では、この遺伝子組換え作物やそれを使用した食品が問題になっているが、2014年にアメリカのヴァーモント州で遺伝子組み換え作物を含んだ食品表示義務の法律が成立し、それに対してモンサント社が表示義務の差し止め訴訟を起こしている。

 これに対してニール・ヤングは、すぐに抗議したし、モンサント社の方針にあの有名なスターバックス・コーヒーが賛意を示すと、今度はスターバックスのボイコットを呼びかけている。(のちに、スターバックスはモンサント社の訴訟には関わっていないと表明した)

 もともとニールは、1985年から経営状態の厳しい小規模農場や農家を応援するために、ファーム・エイドというチャリティー・コンサートを始めていて、その中においても遺伝子組み換え食品には反対意見を表していた。
 だから、ニールが音楽を通して抗議するのも必然というもの。そんな彼が発表したのが、「ザ・モンサント・イヤーズ」だったのである。91tlll5kfil__sl1488_

 全9曲だが、時間にして約51分もあり、全編を通してニールらしいエレクトリック・ギターがフィーチャーされていた。

 1曲目の"A New Day For Love"では、イントロはおとなしいものの、すぐにニールらしいハードなギター・カッティングが聞こえてくるし、途中のグニャグニャしたよくわからないギター・ソロも不変である。ただ、年齢のせいか、幾分おとなしくなったような感じもした。

 次の"Wolf Moon"はアコースティックな曲で、"Harvest"系列の曲だし、"People Want To Hear About Love"はミディアム調のロック・ナンバーに仕上げられている。“みんなが聞きたいのは愛の歌で、自閉症の原因になっている農薬の話などするな”というメッセージが逆説的で、いかにもニールらしい。

 ここまでは序の口で、4曲目の"Big Box"は大企業を皮肉っているし、次の"A Rock Star Bucks A Coffee Shop"は文字通り、大手のコーヒー・ショップ・チェーンのことを歌っている。

 例えば日本では、イオンやモスバーガーのような企業を実名を出して批判するような歌を歌えるだろうか、あるいはそういうミュージシャンがいるかというと、ちょっと考えられない。歌おうとしても、事務所やレコード会社が止めようとするだろう。

 あるいはまた、そのミュージシャンが無名のパンク・ロッカーならライヴでそういうこともあり得るかもしれないが、ある程度、功成り名を遂げたミュージシャンは、間違ってもそんなことはしないだろう。

 それができるのがニール・ヤングであり、それを許容するアメリカの音楽業界もまた素晴らしいと思うのである。

「(前略)
開廷中の最高裁判所が
新しい法律を作った
遺伝子組み換えの種と
特許は致命的な傷がある
最高裁判事の
クラレンス・トーマスは
以前モンサント社のために
働いていた
俺はお前を知らないが
俺は自分がだれかを
知っている
(中略)
私たちはモンサント社
から来ました
組み換え種を所有しています
農家のリストを見せて下さい
自分の立場に固執するなら
大金が必要になりますよ
あなたはどう思いますか」
("Workin' Man"より)
訳:プロフェッサー・ケイ

 この曲から以下、"Rules of Change"、"Monsanto Years"とモンサント社を非難する曲が続く。ノリノリのロック調からミディアム調の曲まで曲調は異なっても、訴えている内容は変わらない。ある意味、偏執的というか執拗でもある。ひょっとしたら、このアルバムはトータル・アルバムなのかもしれない。

 最後の曲"If I don't Know"は穏やかな曲で、安らぎを感じさせてくれた。このアルバムの中では、この曲と"Wolf Moon"だけだろう、バラード・タイプなのは。ただし、この曲も毒を含んでいるけれども…

 ニールの創作意欲は、いま何度目かのピークを迎えているようで、同年にはこのアルバムをフィーチャーした2枚組ライヴ・アルバム「アース」を発表している。

 バンド・メンバーはウィリー・ネルソンの息子たち、ルーカス・ネルソン(ギター、ピアノ)とマイカ・ネルソン(ギター)を中心としたプロミス・オブ・ザ・リングで、「ザ・モンサント・イヤーズ」のレコーディング・メンバーと同じである。

 翌年の2016年には、今度はスリー・ピース・バンドとして37枚目のスタジオ・アルバム「ピース・トレイル」を発表した。51mfsd2llxl
 前作は、時間もある程度かけて丁寧に制作されていたようだったが、このアルバムは急遽作られたようだった。
 またエレクトリックの要素がやや薄められて、アコースティックな感じもあったし、アルバム・ジャケットを見ても分かるように、ラフな感じがする作りだった。

 バンド・メンバーは、ニール以外にはドラマーにジム・ケルトナー、ベーシストはポール・ブシュネルである。ジムは超有名なセッション・ミュージシャンで、60年代から活躍しているし、ニールよりも年上である。
 ポールはアイルランド出身の若手ミュージシャンで、現在はロサンゼルスを中心に活動しているようだ。

 時間的にも38分程度の短いものだったが、先ほどの「アース」のツアー中にもこのアルバムの中の曲、例えば"Peace Trail"、"Show Me"、"Texas Rangers"などが歌われていて、まさに出来立ての新曲ばかりがパッケージされているアルバムだった。

 ただそのせいか、中にはちょっとどうかなという曲も収められていて、昔からのファンは納得はできなかったのではないだろうか。

 "Peace Trail"は5分32秒もあり、21世紀の"Like A Hurricane"だろう。ただボーカルが弱い。というか、前作もそうだったけれども、齢70歳を超えるとなかなか声も出せないようで、中低音は大丈夫なんだけれども、高音域の伸びがない。

 これは加齢や脳腫瘍の治療後の影響からくるものだろうか。でもある意味、仕方のないことだろう。70年代と同じように歌えることの方が不思議だろう。

 アルバムの前半はなかなか良い雰囲気で進んでいく。"Indian Givers"、"Show Me"などは、ジム・ケルトナーのドラミングがダークでジャズっぽくてよい。ところが、5曲目の"Texas Rangers"あたりからちょっとニールらしくない曲が並ぶのだ。

 "Texas Rangers"は、童謡かわらべ歌のようだし、物語形式の"John Oaks"はメロディが単調すぎて面白みに欠ける。8曲目の"My Pledge"もボブ・ディランの曲のように、歌うというよりも語りかけるという感じだった。

 "Glass Accident"は、ほんわかとしたアコースティックな曲で、ホッとしたのだが、最後の曲"My New Robot"の雰囲気はほぼ同じなのだが、ボコーダーを使った声の後、急に曲が終わってしまった。
 これもニールの演出方法なのか、もう少し聞きたいという気持ちを沸き立たせようとしているのかもしれない。81nqlbfquel__sl1208_
 とにかく、ツアーの合間に短期間でレコーディングしたのだろうから、曲によってはバラツキがあるのも仕方ないだろう。
 逆に、ニールの創作意欲を褒め称えた方がいいのかもしれない。この意欲は、新しい恋をしているから生まれてくるのだろう。

 現在、ニールは女優のダリル・ハンナと付き合っているようで、アルバム「ザ・モンサント・イヤーズ」のジャケットにもイラストでふたりそろって描かれていた。
 ミック・ジャガーもそうだけれども、恋をすると、人間は行動的になるのだろう。齢70歳を超えても、これだけのエネルギーがあれば、まだまだニールも安泰かもしれない。

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2017年3月27日 (月)

追悼;レナード・コーエン

 初めてレナード・コーエンの写真を見たときに思ったのは、ダスティン・ホフマンに似ているなという単純なことだった。ただ、ダスティン・ホフマンは小柄だったが、レナード・コーエンの方は大きく見えた。70e5c4f504d11435d7e35bb5e72c3726_2
 レナード・コーエンは、1934年の9月にカナダのモントリオールに生まれた。裕福な家庭で育ったようだが、9歳の頃に父親を病気で亡くしている。

 もともと彼は、詩人だった。カナダでは有名な詩人だったようで、日本でも彼の詩集が販売されていたらしい。
 詩人としての活動歴は、1950年代半ばから60年代後半までだった。それまで4冊の詩集を出版していて、本国カナダでは文学賞みたいなものも受賞していた。

 レナードの母はロシア人で、歌うことが好きだったようだ。彼が子どもの頃、母親は家の中でよく歌っていて、幼いレナードはそれを聞いて育っていった。
 中学生くらいになってギターを弾き始めると、母親は息子の友だちと一緒に近くのレストランに行って夜遅くまで子どもたちと一緒に歌を歌っていたという。

 ある意味、彼が音楽の道を志すようになったのも、“天の配剤”みたいなものがあったのかもしれない。

 高校生になると、音楽と詩文を勉強するようになり、近所に住む若いスペイン人から簡単なコードとフラメンコを学び、“バックスキン・ボーイズ”というフォーク・グループを結成して活動を行っていた。

 彼が音楽業界に足を踏み入れるきっかけになったのは、ジュディ・コリンズが彼の作った曲"Suzanne"を歌ってヒットさせたことによる。1967年のことだった。

 詩人としての評価は高かったものの、経済的な面では恵まれず、詩集としての売り上げもあまり期待できなかった。

 それで彼はアメリカにわたり、ニューヨークでアンディ・ウォーホールと親交を結ぶようになった。そこではニコの歌に興味を惹かれたようで、時間があればニコのステージに駆けつけては、よく彼女の歌を聞いていた。ひょっとしたら恋心もあったのかもしれない。

 それでレナードは、ニコからの影響を受けた曲"Suzanne"を作って歌っていたのだが、ジュディ・コリンズが言うには、レナード自身がこの歌は平凡な歌なので、自分はもう歌えないと思っていたようだ。

 ジュディ・コリンズは、ある晩、レナードをステージに立たせてこの"Suzanne"を歌わせたのだが、案の定、レナードは、途中で歌うのをやめてしまい、バックステージに戻ってしまった。
 おさまらないのは聴衆の方である。ほとんどの人が総立ちになり、彼にステージ戻ってくるように叫んでいたという。

 それを見ていたジュディは、嫌がるレナードを無理やりステージに引っ張り出し、一緒にデュエットしたのである。

 その後、ジョーン・バエズなども彼の歌を取り上げるようになり、徐々に彼の名前は知れ渡っていった。もちろん、シンガー・ソングライターとしてである。

 そして、ボブ・ディランとの契約の経験もあるコロンビア・レコードのジョン・ハモンドが彼に契約を薦め、デビューさせた。その時、レナードは34歳だった。

 遅咲きのデビューだったが、元々文才があり詩人としての評価が高かったから、彼の書く詩は比喩に満ちていて一筋縄ではいかないものもあり、文学的な香りを放っていた。
 それにルー・リードのように呟くような歌い方も、多くのファンをひきつける結果につながったようだ。

 最初のアルバム「レナード・コーエンの歌」は、1967年に発表された。アルバムの冒頭には"Suzanne"が収められていた。51rqmamv1xl
 また、5曲目には"Sisters of Mercy"という曲が収められていたが、これはのちに70年代のイギリスのニュー・ウェイヴ・バンドが自分たちのバンド名に冠している。

 日本ではあまり人気があるとは思えないのだが、諸外国では影響力の強いミュージシャンとして評価が高い。

 自分たちのバンドの名前につける人も出てくるし、60年代はジュディ・コリンズやジョーン・バエズ、ティム・ハーディンなどが、70年代ではバフィ・セント・マリーやニック・ケイヴなども彼の曲をカバーしている。

 だいたい1984年の彼の曲"Hallelujah"1曲だけとっても、ジョン・ケイルやジェフ・バックリーのほか、k.d.ラング、ルーファス・ウェインライト、マイケル・マクドナルドにウィリー・ネルソン等、ロックやポップ、カントリー・ミュージック等の幅広い分野にまたがって、カバーされている。

 もちろん他の曲でも、ドン・ヘンリーやマリアンヌ・フェイスフルなどの大物ミュージシャンからカバーされていて、レナード・コーエンの人気と評価の高さがうかがい知ることができるだろう。

 この辺は日本にいては、なかなか理解できないところだ。やはり、彼の綴る詩文のような歌詞の内容が日本人にはわかりにくいのかもしれない。

 また、彼は恋多き男性でもあった。しかも恋をするたびに、その女性を自分の書いた曲の中に登場させて切々と歌うのである。書かれた女性は(永久的に残るわけだから)、ますます彼のことが忘れなくなってしまうだろう。

 そんな彼の初期の曲を知るには、やはりベスト盤が一番だ。60年代から70年代の半ばにかけて発表された彼の4枚のスタジオ・アルバムの中から12曲が選ばれている。51usqbwngl
 ただこのアルバムの中で聞くことができる彼の曲は陰鬱で、決して明るくはない。むしろロック・ミュージックとは真逆に位置している。
 自分はこの手の音楽が苦手で、どうしても敬遠してしまう。1つ1つの曲はいいのだが、全体を通して聞くと、同じような印象が残ってしまい、気分が何となく晴れないのだ。

 ベスト盤とはいえ曲調はどれも似たようなもので、もう少し躍動感があったり、明るい雰囲気があれば、日本でももっと人気が出たように思える。

 一説によれば、彼は若い頃からうつ病にかかっていたといわれていたが、よくわからなかった。確かにそれも言えるかもしれないが、いつもいつも病気だったというわけではないだろう。

 レナードは、まさに芸術家肌のようで、音楽活動を続けながらも詩集や本を出版していた。それは21世紀になっても続いていた。

 当然のことながら、音楽活動も盛んで、2008年にはロックの殿堂入りを果たし、2016年にはニュー・アルバム「ユー・ウォント・イット・ダーカー」を発表した。
 プロデューサーは、息子のアダム・コーエンで、親子二人三脚で作り上げたアルバムだった。61n2vll8kl__sl1500_
 82歳になっているにもかかわらず、衰え尽きぬ創作活動を続けていたが、内容的には2年前の「ポピュラー・プロブレンズ」、4年前の「オールド・アイデアズ」と併せて、迫りくる死期を見据えたものになっていた。

 ただ、最後のアルバムだと本人も意識していたようで、死を覚悟したような悟りの境地のように、静寂で美しい曲で占められている。ラスト・メッセージだったのだろう。

 2016年の11月7日、癌のために亡くなった。享年82歳だった。2016年にボブ・ディランがノーベル文学賞を受賞したが、ボブ・ディランが受賞するなら、レナード・コーエンも受賞してもおかしくないだろうと思っている。

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2017年3月20日 (月)

Suchmos

 最近、知人から2枚のCDが送られてきた。それには簡単なメモがついていて、テレビのCMで彼らのことを知った、デビュー・アルバムはなかなか気に入ったので、ぜひ一度聞いてほしい、というようなことが書かれていた。

 そのアルバムでパフォーマンスをしていたのは、Suchmosというバンドだった。自分はバンド名から想像して、きっとジャズか、フュージョン系のバンドだろうと思っていた。
 また、ルイ・アームストロングのような、トランペットのような管楽器もフィーチャーされているいるのだろうと、勝手に想像していた。Vhrwafie

 ところが、送られてきたCDを聞いてビックリした。全然、ジャズでもフュージョンでもなかったからだ。
 また、自分も某クルマ会社のCMに使われていた曲には興味をもっていたのだが、その曲をやっていたのが、このSuchmosだったとは知らなかった。だから、もう少し彼らのアルバムを聞いてみようと思ったし、彼らのことを調べてみようと考えた。

 それでわかったことは、バンド名の読み方が“サッチモズ”と思っていたら、実際は“サチモス”と短く読むということだ。
 しかも、最近のバンドでもあり、結成されてまだ4年程度で、平均年齢25歳程度の若者たちということも知った。

 出身は神奈川県の横浜や茅ヶ崎などで、遊び友達がそのままバンド結成に至ったようだ。そういう意味では、お互いに気心が知れた関係なのだろう。

 2013年頃からバンド活動を始め、2015年にデビューEP「エッセンス」を発表して、同年の7月にはオリジナル・アルバムの「ザ・ベイ」を発表した。
 全12曲入りのこのアルバムは、基本的には“Japanese R&B”もしくは“Japanese Funky Music”だろう。51ynob4y7l

 このCDを送ってくれた私の知人は、昔からこの手の音楽が好きだった。例えば、南佳孝とか寺尾聰などであり、ジャズはジャズでも渡辺香津美などのフュージョン・ミュージックなどだ。
 また、洋楽ではボズ・スキャッグスやボビー・コールドウェルのようなモダンなR&Bやアール・クルーのようなフュージョン系も大好きで、ビルボードライヴ大阪までよく見に行く人なのである。

 よく考えたら、70年代後半に流行した“ソフト&メロウ”や“クロスオーヴァー”系の音楽だ。私も含めて、この時代に青春を過ごした人は、なかなか70年代の呪縛から逃れられないようで、どうしても耳がいってしまう。

 それでこのアルバム「ザ・ベイ」はとてもよくできていて、当時のその手の音楽が好きな人なら、一発で虜にさせられるような雰囲気に満ちている。

 まず、けだるいボーカル・スタイルで、厭世観や終末観と少しの希望が入り混じったシンギング・スタイルは、行く先不透明な現代社会の若者の声を代弁しているようだ。

 次にファンキーなリズム・セクションとクールなギターのカッティングは、まさに70年代当時の再現だろう。
 しかも、単なるモノマネで終わっているのではなく、洋楽とも対等に勝負できる高度なレベルまでもっていっているのだから、大したものである。若者のみならず、40代、50代のシニアの心までとらえてしまうのも当然のことだろう。

 このアルバム制作当時の彼らの平均年齢は、23歳ぐらいだっただろうから、本当に素晴らしい。日本の音楽制作レベルも、世界標準まで近づいたような、そんな気もしてきた。

 セカンド・アルバムの「ザ・キッズ」は、2017年の1月に発表された。この中に収められていた"Stay Tune"が、某クルマのCMに使用されたのだ。712hy3wjnnl__sl1094_
 自分は最初、CMで流されていた曲を聞いて、これは70年代のカシオペアやスペクトラム、もしくはT-スクエアなどのフュージョン系のバンドの曲に歌詞をつけたのだろうと思っていた。それくらい昔の雰囲気に溢れていたからだ。

 特にTV-CMで使用された“Stay Tune in 東京 Friday Night”のところのフレーズは、いつまでも頭の中に、それこそ“Stay Tune”していた。

 ただ、セカンド・アルバムは、1作目よりはキーボードの音が全体的に目立っていて、無機質で、かつ空間的な広がりを演出しているようだった。ギターの音も、例えば10曲目の"We Are Alone"の後半で聞かれるように、かなり頑張っている。
 それにまた、よりダンサンブルでファンキーなサウンドや曲で占められていて、彼らの成長した姿が伺えるようだ。

 逆に言うと、ハードなロック的部分は後退していて、彼らの今後の活動方針というか、音楽的に進む道がクリアになったような気がした。

 世間では“日本のジャミロクアイ”と呼んでいるみたいだが、確かに同様な音楽性は有しているし、メンバーの内の何人かは、ジャミロクワイの音楽が好きだと公言している。

 ジャミロクアイが好きであろうがなかろうが、そんなことはあまり重要ではないだろう。それよりむしろ、「~みたいな音楽」とか「~のようなバンド」と呼ぶことが問題で、それならオリジナルのジャミロクアイやマルーン5を聞けばいい話だ。

 だから、むしろSuchmosには、日本のバンドとしてのオリジナリティを確立してほしいのだ。日本風のファンク・ミュージックやR&Bサウンドをパッケージした音楽を創造してほしいと願っている。

 例えば、もっとDJのスクラッチやミキシングを取り入れたり、管楽器やストリングスを入れた日本人好みのウェットな感覚を取り入れてみても面白いと思う。

 それに歌詞に含まれている独特の世界観というか感性は、今の若者に受け入れられていることからも分かるように、他のバンドにはない素晴らしいものがある。この辺は今後も磨いていってほしいものだ。そうすれば、世界でも通用するバンドに大きく飛躍するに違いない。1

 とにかく、日本のバンドやJ-POPもこれだけ成長しているということを証明しているような存在感のあるバンドだった。これからますます輝いていくだろうし、日本のミュージック・シーンを牽引していくことは、間違いないだろう。ひょっとしたら、バンド名以上の存在になる日も近いのかもしれない。

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2017年3月13日 (月)

ポール・ネルソン・バンド

 2014年の7月16日に、ブルーズ・ギタリストであるジョニー・ウインターが亡くなった。“100万ドルのギタリスト”とも言われていたジョニーだったが、享年70歳だった。

 彼のことについては、何度かこのブログでも取り上げていたので、詳細については割愛するが、自分にとってはロック・ミュージックとブルーズを繋いだ最後のブルーズ・ギタリストだった。

 そのジョニーの晩年を支えたミュージシャンが、ポール・ネルソンである。彼の年齢は非公開になっていてよくわからないのだが、デビューが1990年代なので、おそらくは40歳代後半から50歳代始めあたりだろう。56708215thepaulnelsonbandtoreleaseb
 生まれはニューヨークのマンハッタンで、影響を受けたミュージシャンは、レッド・ゼッペリンにエアロスミス、ZZトップ、ジェフ・ベック、そしてもちろんジョニー・ウインターなどだった。

 学生の頃からバンド活動を始め、バークリー音楽院に進んで音楽理論を学び、その後はスティーヴ・ヴァイから直接ギター奏法や採譜などの指導も受けたようだ。

 公式のバイオグラフィーでは、まだアマチュア時代のときにデモ曲を発表しているが、正式のソロ・デビュー・アルバムは、2001年の「ルック」という5曲入りのインストゥルメンタル・ミニ・アルバムだった。5109bs4j3al__ss500
 このアルバムでは、ロックやフュージョンと様々なスタイルの曲を弾きこなしていて、まさに新時代に相応しいニュー・ギタリストの登場といったものだった。

 そんな彼がジョニーと出会ったのは、2003年である。ポールは、アメリカン・フットボールの団体用に曲を録音していた時、スタジオの隣ではジョニーがアルバムを録音していた。
 その時、ジョニーがたまたまポールの弾く曲を耳にして、自分のアルバム用にも曲を書いてくれと頼んだことから親交が始まった。

 それから、もう2曲ほどジョニーのアルバムのために曲を提供し、その2曲を含む他の曲でも演奏を行った。
 ジョニーは、その演奏をいたく気に入ったようで、ライヴでも一緒に演奏してほしいと頼んで、ポールがいつからと聞くと、明日イギリスに行くからという答えが返ってきたという。

 何とも急な話だが、その時ジョニーは健康問題を抱えていて、思うようにミュージシャンを集めることもできなかったからと言われている。
 また、のちにマネージャーも頼まれたというから、健康面だけでなく経済的にも逼迫していたようだった。

 面白いことに、他のギタリストはみんなジョニーとギター・バトルをやりたがって来るのに、ポールはジョニーのギターが前面に出るように意識してレコーディングに参加していた。
 このことがジョニーがポールのことを気に入った理由になったようで、これ以降、ポールがジョニーのバンド・メンバーになり、レコーディングのエンジニアやプロデューサーを担当するようになっていった。

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 結局、それ以降、ポールはジョニーと同行して、ヨーロッパのツアーや3回にもわたる日本でのライヴ公演にも帯同していた。

 ジョニーがスイスのチューリッヒで亡くなったときも、ポールは彼と一緒にホテルに滞在していて、病院に連れて行ったのもポールだった。
 ジョニーは抗生物質を飲まされて、その後ホテルに戻って休んだらしいが、そのまま帰らぬ人になってしまった。苦しまずに安らかに眠ったようだ。

 そんなポールがジョニー亡き後、彼の遺志を引き継ぐような形でアルバムを制作し、発表した。それが昨年発表された「バッドアス・ジェネレーション」だったのである。

 全12曲で、ブルーズ一本やりではなくて、"Good Bye Forever"のようなブギー調もあれば、"Cold Hearted Mama"のようなロックン・ロールも収められている。前者はZZトップのようで、後者はエアロスミスの曲のようだった。

 また、アコースティックな味わいの"Please Come Home"や、タイトル通りアメリカ南部のスワンプな感じの"Swamp Thing"など、バラエティに富んでいるのも特徴的だ。

 ただ、共通しているのは、ポール・ネルソンのギターが全面的にフィーチャーされていることである。今どきこういうギター・サウンド全開のアルバムは、珍しいのではないだろうか。ある意味、アナクロニズムというか、いまは1970年代か、と自問してしまいそうな感じだが、それがある一定以上の年齢の人にはカッコイイのである。71dao6vp92l__sl1417_ ブルーズ一辺倒というわけではないし、アメリカ社会の多様性を反映しているようなバラエティに富んでいるところも捨てがたい。ジョニーの遺志を引き継ぐのなら、ブルーズ・アルバムだと思うのだが、初期のジョニーのように、ロックからブルーズと幅広く演奏している。

 しかも国内盤も発売されていた。それだけ需要が見込まれているから発売されたのだろうが、これだけ洋楽アルバムのみならず、CD全体の売り上げも減少している中で、ギター・オリエンティッドなアルバムが果たしてどれだけ売れるのか疑問にも思える。

 いくら日本でジョニー・ウインターの人気があったといえ、それだけを見込んで発売されたとは思えないのだが、どうだろうか。

 このアルバムが発売元のソニー・ミュージックの売り上げ予想を超えれば、2枚目、3枚目と発売されていくだろうが、果たして今の日本でどれだけ需要があるのかよくわからない。もちろん個人的には、ぜひ売れてほしいと願っている。

 課題は、曲の持つメロディラインなどの魅力だろう。どの曲も平均点以上の出来栄えなのだが、これはといったインパクトを持つ曲が見当たらない。彼が第二のジョニー・ウインターやスティーヴィー・レイ・ヴォーンになれるかどうかは、ひとえにこの点にかかってくるだろう。Maxresdefault
 現在、ポールは、ポール・ネルソン・バンドとしてツアーを行っている。世界中を回って、ブルーズやロックン・ロールの素晴らしさや、ジョニー・ウインター直伝のブルーズ・パワーを発揮して聴衆を魅了していることだろう。
 彼のような音楽が、もっと日本でも広く認められるようになり、人気が出てくることを願っている。

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2017年3月 6日 (月)

追悼;グレッグ・レイク

 昨年の12月7日、グレッグ・レイクが亡くなった。まだ69歳だった。彼もジョン・ウェットンと同じように、癌で長い間闘病中だったそうだ。彼の死亡について、まだ追悼記事を書いていなかったので、今回、彼の活動歴を記すことで、あらためて彼の冥福を祈りたい。08greglake_w1200_h630
 グレッグ・レイクは1948年11月10日に、イギリスのボーンマスで生まれた。12歳頃からギターを弾き始め、すぐにバンド活動を行うようになった。

 1967年に、友だちのリー・カースレイクに誘われて、ゴッズというバンドに加入した。そのバンドには、ケン・ヘンズレーというキーボード・プレイヤーがいて、リーとケンはのちにユーライア・ヒープというハード・ロック・バンドを結成している。

 ちなみに、このゴッズの初代ギタリストは、のちにローリング・ストーンズでも活躍したミック・テイラーだった。今から考えればスーパー・バンドだったといえるかもしれないが、当時は、誰もそんな有名人を輩出するバンドだとは思っていなかったに違いない。

 ゴッズはレーベル契約し、アルバム録音を始めようとした矢先に、グレッグはバンドを脱退している。
 理由は、同郷の友人であるロバート・フリップに誘われたからで、ジャイルズ・ジャイルズ&フリップにボーカル&ギタリストとして参加して、やがてこれがキング・クリムゾンに発展していった。

 キング・クリムゾンは1968年に結成され、翌年、歴史的な大傑作アルバム「クリムゾン・キングの宮殿」を発表し、バンドはアメリカ・ツアーに出発した。Fd3b5248c1cf337aeedda8a72d559b8570c
 アメリカ・ツアー中にナイスと一緒になり、グレッグはナイスのキーボーディストだったキース・エマーソンと意気投合して、バンド結成を考えるようになった。

 やはり、プロのミュージシャンならば、いつかは自分のバンドを持つか、あるいは自分自身の手によってコントロールされた活動を望むようになるのだろう。
 幼馴染とはいえ、いつまでもロバート・フリップなどによって指図されたくなかったのではないだろうか。

 グレッグ・レイクは自意識が強く、またプライドも高かったようで、常に自分が前に出ないと気が済まない性格だった。
 実際は、作曲や編曲、制作面の実権はキース・エマーソンが行っていたにもかかわらず、クレジットでは、プロデュースド・バイ・グレッグ・レイクとなっていた。キースがグレッグに対して配慮していたのである。そうしないと、バンド運営が困難になるからだった。

 グレッグは、ロバート・フリップにも声をかけ、エマーソン、レイク、パーマー&フリップを結成するつもりだったが、ロバートが直前になって回避したため、結局、E,L&Pとして活動を始めたのである。Elp
 彼ら3人組は、約10年間で10枚のアルバムを発表した後に、1979年に解散してしまった。グレッグは、ソロ活動を開始し、ゲイリー・ムーアやスティーヴ・ルカサー等をゲスト・ミュージシャンに迎えて、ソロ・アルバムを発表した。

 1983年には一時、エイジアに加わるものの、すぐに脱退して、1985年にはキース・エマーソンとコージー・パウエルとともに、エマーソン、レイク&パウエルを結成し、アルバムを発表した。ただ、このバンドは長続きせず、アルバム1枚だけで解散してしまった。

 本当はもう少し長く続けるつもりだったのだが、ツアー時の費用がかかりすぎてしまい、セカンド・アルバム録音用にとっておいた予算まで使ってしまったらしい。

 ツアーの途中で続けるかどうかバンド内で協議したらしいのだが、グレッグが執拗に継続を主張したため、結局、最後までツアーを続けたということだった。長期的な展望に立つこともなく、目先の利益を追求したということだろう。

 1987年にはE,L&Pの再結成リハーサルが行われたが、何故かグレッグは元エイジアのジェフ・ダウンズとライド・ザ・タイガーというバンドを結成した。ところが、今度はジェフがエイジアの再結成に参加したため、このバンドも途中で空中分解してしまった。

 1992年になって機が熟したのか、やっとE,L&Pの再結成が行われ、「ブラック・ムーン」や「ライヴ・アット・ロイヤル・アルバート・ホール」、「イン・ザ・ホット・シート」と3枚のアルバムを発表している。

 21世紀に入ると、リンゴ・スター&ヒズ・オール・スター・バンドに参加して、あの有名なクリムゾンの"The Court of the Crimson King"などを歌っていた。ちょっと微妙な気がするが、それでもオリジナル・メンバーだった人のボーカルなのだから、居合わせた人はラッキーだっただろう。今となっては、生ではもう二度と聞くことはできないのだから。

 その後は、グレッグ・レイク・バンドを結成して、ツアー活動を出向いたり、チャリティー活動を行っていたが、2010年には、キース・エマーソンと“エマーソン&レイク”を結成して、アコースティック・ライヴ活動を行っている。Greglake_2
 同年にはE,L&P結成40周年記念ということで、ロンドンで行われた“ハイ・ヴォルテージ・フェスティバル”で一度限りの再再結成を行った。このライヴの模様は、CDやDVDとしてのちに発表されている。

 その後のグレッグは、2013年までソロ・ツアーを続けた。そこでは、クリムゾンやE,L&Pの歌だけではなく、自分が子どもの頃に好きだったエルヴィス・プレスリーの曲や、この世界に足を踏み入れるきっかけにもなった好きなミュージシャンの曲なども歌っていたという。

 キース・エマーソンの言葉を借りれば、E,L&Pはお互いのエゴのぶつかり合いが激しくて、その微妙なバランスの上に成り立っていたようだ。キース・エマーソンは作曲に没頭していて、それ以外のことにはなるべく口を出さなかったらしい。

 だから楽曲のクレジットもなるべく3人が公平になるように図らった。ステージでは、キースのピアノがせり出して回転するようになれば、カールのドラム・セットも空中に浮遊し、回転するように演出した。

 スタジオでは、マスタリングの際に、カールとグレッグは自分のパートの音量が残りの2人の音量より低いと文句を言って、それぞれがボリューム・レベルを最大限まで上げようとした。
 最後は、3人とも自分の音量があとの2人以上になるようにフェーダーを上げ続けたのだが、最終的には、エンジニアが逆にマスターの音量を下げざるをえなかったといわれている。

 そんなエゴイストのグレッグが、これまたエゴ・ギタリストと組んだアルバムが1981年の「グレッグ・レイク&ゲイリー・ムーア」だった。1075143
 このアルバムは結構好評で、各国で好意的に迎えられた。時流はNWOBHM(ニュー・ウェイヴ・オブ・ブリティッシュ・ヘヴィ・メタル)だったから、この手の音楽も受け入れられやすかったのだろう。
 と同時に、80年代に入ってもグレッグの奥行きのあるテノール・ボーカルを聞くことができるというファン心理も背景にあったのかもしれない。

 とにかく、冒頭の"Nuclear Attack"や途中の"Long Goodbye"など、ゲイリー・ムーアのギターがフィーチャーされているからメタル・ファンにとっても聞き逃せないだろうし、逆にバラード調の"It Hurts"などは、グレッグのボーカルの特徴がよく出ていて、昔からのファンは涙したに違いない。

 グレッグ・レイクとゲイリー・ムーアのことだから、この1枚で終わってしまうだろうと思っていたのだが、何と2年後には2枚目のコラボレーションのアルバム「マヌーヴァーズ」を発表した。

 ただ“柳の下の二匹目の泥鰌”の言葉通りに、このアルバムはコケてしまった。内容的に散漫な印象が残ったのだろう。エイジア風の曲もあれば、AOR風な曲やゲイリー・ムーアがフィーチャーされたヘヴィ・メタルのような曲もあって、リスナーとしても戸惑ったようだ。Fc2blog_20141206072933ebc
 グレッグ・レイクのソロ・スタジオ・アルバムは、結局、この2枚だけになってしまった。結構、芸歴は長かったのだが、たった2枚とは少ない気がしてならない。

 要するにこの人は、他の人をライバル視することで自分を高めていこうというミュージシャンだったようだ。

 自分自身の表現活動がボーカルとベース・ギターだけになることを嫌ってクリムゾンを去ったが、新しいバンドでは、他の2人と競い合いながらも自分の表現欲求を満たすことができたようだった。もちろん、キース・エマーソンの寛大な思いやりがあったからだが、果たしてグレッグは、それに気づいていたかどうかは、定かではない。

 ソロ活動では十分な成果を出せなかったし、期待にも応えられなかったことが原因になったからだろう。結成40周年記念を祝うなど、最後までE,L&Pに固執していたことは間違いないはずだ。

 そのE,L&Pのうち、“E”と“L”はあの世に行ってしまった。きっと2人でアコースティック・セッションを繰り広げているだろう。アコースティックとはいえ、きっとお互いのスピーカーの音量のことでもめているに違いない。

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2017年2月27日 (月)

サーカ(2)

 Yosoというバンドは長続きしなかったが、それでも3年間近く活動し、1枚だけアルバムを残している。「エレメンツ」という名前のアルバムで、これは今でもアマゾン等で手に入れることができる。

 基本的にYosoは、2009年当時のサーカにボビー・キンボールが参加したもので、専任のボーカリストが入ったおかげで、ビリーは演奏に集中できるようになり、バンドとしてもまとまっていった。Yoso_band

 当時の彼らのライヴでは、TOTOの"Rosanna"や"Hold the Line"、イエスの"Owner of A Lonely Heart"や"Roundabout"、メドレー形式での"Yours is No Disgrace"や"Heart of the Sunrise"などもYosoのオリジナル曲と一緒に演奏されていて、それらはライヴ・アルバムとしても発表されていたようだ。自分は聞いていないので、近いうちに購入しようと思っている。

 ボビーのドラッグ癖や酒癖の悪さは昔から定評があったようで、だいたいあんなに売れていたTOTOを辞めたのも、辞めたというよりは首になったといった方が正しかった。

 結局、2011年にはサーカの再活動を始めたのだが、その時はギタリストとドラマーが不在だったので、ビリーがキーボードを除くすべての楽器を演奏した。そうしてつくりあげたのがバンドとして3枚目の「アンド・ソウ・オン」だった。

 このアルバムのジャケットには写真が掲載されていたが、それにはビリー・シャーウッドとトニー・ケイしか写っていなかった。要するに、バンドというよりは、2人のプロジェクトになっていったようだ。

 アルバムは全9曲で、1曲目のアルバム・タイトル曲からイエスっぽい雰囲気を漂わせている。61a62um7tl
 こうやってイエスの二番煎じ的なバンドの曲を聞いていると、逆に本家のイエスがどういう音楽性を持っているのかがよくわかるというものだ。

 結局、イエスの特徴は
①緩急つけた複雑でドラマティックな曲展開
②プログレにはおよそ似つかわしくないハーモニー・コーラス
③聞かせどころを押さえたそれぞれの楽器のソロ・プレイ
④アタックの効いたハードなベース音と硬質なドラム・サウンド
⑤効果的なアコースティック&スティール・ギターの使用
⑥多種多彩なキーボードの使用
⑦複雑な曲の中にも分かりやすいメロディー・ラインを含む
 等だろう。
 
 このアルバムでもビリーの演奏するベース・ギターはクリス・スクワイヤの演奏にそっくりだし、1曲目は9分弱、7曲目のややスローなイントロから徐々に盛り上がっていく曲"True Progress"も7分弱もある。途中でアコースティック・パートを挿入するあたりも本家イエスを踏襲しているようだ。

 3曲目の"'Til We Get There"では、アコースティック・ギターが導入されて牧歌的なイントロからやがてアップテンポになり、モダンな雰囲気に変わっている。こういう曲をイエス・ファンは待っているのではないだろうか。曲時間も6分35秒あった。

 4曲目の"Notorious"も素朴で分かりやすいメロディーラインを持っていて、清涼剤的な役割を持っている。こういう曲が収められている点でも、サーカは1st、2ndアルバムよりは進化してきたといえるだろう。

 サーカ的ミディアム・ハード・ロックが"Half Way Home"だ。ここではビリーの弾くエレクトリック・ギターが炸裂している。ただところどころにコーラスがついている点が、純粋な意味でのハード・ロックとは異なってくる。この辺がイエス・ファミリーのいいところではないだろうか。

 "In My Sky"はアコースティック・ギター弾き語りのバラードで、ジョン・アンダーソンが歌ったらもっと印象的になるだろうと思ってしまった。

 このサーカの弱点は3つあって、一つはボーカルの弱さだろう。せっかくの申し分のない曲が印象薄になっているのも、ボーカルが弱いからだ。そういう意味では、専任のボーカリストを入れたYosoもアイデアとしては悪くなかったと思う。

 ただ、ボビー・キンボールではポップネスさが表に出てしまって、プログレ色が薄くなってしまうと思うのだがどうだろうか。それを確かめるためにも、Yosoのアルバムは手に入れた方がいいと思っている。

 2つ目は、トニー・ケイのソロ・プレイだ。基本的にこの人はオルガニストなので、ハモンド・オルガンのソロ・プレイは素晴らしいが、それ以外のソロはほとんど稀である。このアルバムの最後の曲"Life's Offering"は10分以上もあるのだが、それでもオルガンを弾いていた。イエスでなぜリック・ウェイクマンが重宝されているかがよくわかると思う。3334
 ところで、このアルバムには「オーヴァーフロウ」というミニ・アルバム、といっても7曲40分以上もあるものが付属していて、2枚組になっていた。
 これは彼らの1stと2ndアルバムのアウトテイク集のようだ。それにしてもよくできていて、オリジナル・アルバムに収録されなかったのが不思議なくらいだった。

 このアルバムの曲は4分、5分台の曲が多いことから、どちらかというとポップな傾向が強かった。おそらくは曲の傾向と時間的な問題から、オリジナル・アルバムには収録されなかったのだろう。

 アルバムを発表するごとに、徐々にイエス色が薄れていき、ポップで耳に残りやすいメロディーを含む曲が増えていった。だからこの3枚目のアルバム「アンド・ソウ・オン」はなかなかの良盤だと思っている。

 3枚目のアルバムから約5年後、彼らは「ヴァレー・オブ・ザ・ウィンドミル~風車の谷の物語」というアルバムを発表した。
 このアルバムでは、前回までのポップな要素をやや削ぎ落として、プログレッシヴ・ロックの王道的なサウンドに回帰していた。

 全4曲(国内盤ではボーナス・トラック付きの5曲)で、最も短い曲で7分32秒、最も長い曲で18分43秒だった。4曲合計で50分20秒である。本家のイエスを凌ぐ容量だ。さすがビリー&トニーである。
 しかもこのアルバムでは、バンド編成になっていて、ベーシストとドラマーが新たにクレジットされていた。

 このアルバムでも、さすがにトニーは他のキーボードも演奏しているようだが、基本はオルガンを弾いている。また、如何せんボーカルの線が弱いのもネックのままだった。クリス・レインボウのような専任ボーカリストを入れればいいのに、といつも思ってしまう。

 それから彼らの弱点の3つ目を言い忘れていたけれども、それはギター・ソロが目立たない点である。長厚重大な曲の中に埋もれてしまっていて、せっかくのギター・ソロが目立たないのである。

 せめてソロ・プレイの時にはもう少しバックにおとなしくしてもらうとか、ギターにエフェクトを効かせるとか、あるいは際立って速いパッセージを弾くとか、何か工夫がほしいのだ。51emnfwijml

 このアルバムではボーカリストではなく、リック・ティアーニーという専任ベーシストを加入させていて、ビリーはギターにまわっている。だからギター・ソロはそこかしこに用意されているのだが、アルバムを通して聞くと印象に残らないのである。

 ある意味、器用貧乏なのかもしれない。ギターもベースもキーボードやドラムまで、何でも一通りこなすことができて、しかもレベルも高いのだが、なぜか記憶に残るようなフレーズが少ないのである。自分の感性が鈍ってきたせいだろうか。

 ちなみに、このアルバムのドラムはスコット・コナーが担当していた。彼は現在56歳で、歌も歌えるという。Yosoからの付き合いのようだ。

 確かに良いアルバムには違いないと思うのだが、繰り返し聞きたくなるかというと、ちょっとどうかなあと思ってしまう。
 自分にとってはトランスアトランティックやムーン・サファリ、スティーヴン・ウィルソンのアルバムの方に手が出てしまうのである。

 だから、もっとメジャーを目指すのであれば、
①専任ボーカリストを加入させる
②トニー・ケイにピアノやメロトロンも使用させる
③印象的なギターのフレーズを考える
 等を工夫すればいいと思っている。

 あとは曲もコンパクトにまとめればもっといいかもしれない。90125イエスで学んだことをビリーにはもっと発揮してもらいたいと願っている。そうすれば、このバンドは単なるコピー風なバンドから、オリジナリティ溢れるバンドへと変身していくだろう。

 本家のイエスは、クリスが亡くなり、アランも病気で以前のようには叩けない状況だ。まさに“スティーヴ・ハウズ・イエス”になってしまった。これをイエスと呼んでいいのかどうなのか、わからない。むしろサーカの方がよりイエスらしいだろう。

 ファンは、イエスの遺伝子を正統に受け継いでくれるバンドを欲している。ビリーはまだ51歳だ。イエスのみならず、願わくば次世代のプログレ界の牽引をしてほしいものである。

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2017年2月20日 (月)

サーカ(1)

 昨年の話であるが、何かいいアルバムはないかと探していたら、サーカというバンドに出会った。ちょうどジョン・アンダーソンとロイネ・ストルトとのアルバムが発表された後の頃だった。

 このサーカというバンドに驚いたのには、理由がある。何しろオリジナル・メンバーの4人のうち3人が元イエスに所属していたし、残りの一人もイエスのアルバムで演奏していたのである。正確に言うと、次のようなメンバーで構成されていた。

 ベース   …ビリー・シャーウッド
 ドラムス  …アラン・ホワイト
 キーボード…トニー・ケイ
 ギター    …ジミー・ハーン

 見てわかるように、トニー・ケイはイエスのオリジナル・メンバーだったし、アラン・ホワイトも2代目ドラマーとして70年代から活躍している。
 ビリーは1996年から2000年までイエスに在籍して、「オープン・ユア・アイズ」や「ザ・ラダー」制作に携わっていた。

 ギタリストのジミーもイエスの1991年のアルバム「結晶」にサポート・ミュージシャンとして参加していたし、クリス・スクワイアとビリー・シャーウッドのアルバムにもクレジットされていた。要するに、みんな“イエス・ファミリー”の一員なのである。Circa_portrait
 トニー・ケイは1994年のアルバム「トーク」に参加はしたものの、ミュージック・ビジネスに興味を失ったようで、その後は、一時、引退生活を送っていた。
 ところがピンク・フロイドのトリビュート・アルバムを制作するときにトニー・ケイにもお声がかかり、ビリー・シャーウッドと再会して、彼らはバンド結成に至ったのである。

 彼らは2006年末に正式にバンドとして活動を始め、デビュー・アルバムは翌年の1月からビリーの自宅で録音が始まり、その年の9月には発表された。
 全9曲で、一聴してわかるように、イエスのコピー・バンドといっていいようなサウンドで固められている。61oqkidr9fl
 ビリーのベース・プレイは、クリス・スクワイアのそれといっていいほど酷似しているし、アランのドラミングもまだまだ現役でも十分通じるような(今となっては考えられない程)溌溂とした切れ味のよい演奏を披露している。当時57歳だったから、まだまだ叩けたのだろう。

 イエスといってもその活動歴は50年近くなるので、彼らのサウンドといっても、その時期によって多少ニュアンスが違ってくる。
 このサーカの場合は、90125イエスにやや近い。ちょっとモダンでコンパクトな雰囲気を携えていて、それぞれのソロ・テクニックもやや控えめである。

 1曲目の"Cut the Ties"などを聞くと、1971年の3枚目のアルバムである「イエス・アルバム」の"Yours is No Disgrace"によく似たギター・フレーズやメロディが飛び出してきて、思わずニンマリしてしまった。

 また、2曲目の"Don't Let Go"と8曲目の"Look Inside"の曲のクレジットには、トレヴァー・ラビンの名前も見られる。おそらくは、90125イエスの時に作った曲群のアウトテイクではないだろうか。

 両曲ともゆったりとした曲調で、そんなに耳に残るようなメロディや、印象に残る構築美を誇るものではない。やはり当時の90125イエスの公式アルバムには収録されなかった理由がありそうな気がした。

 個人的に気になったのは、最後の曲"Brotherhood of Man"だ。この曲だけは、このアルバムの中で11分以上もあり、組曲のような形式になっていた。ただ、これも残念なことには、全体的には穏やかな曲に仕上げられていることで、最初の2分程度はアップテンポになっていて、これでグイグイ押していくと思ったら、やがてまたスローダウンしていってしまった。

 往年のイエスなら、ここでギター・ソロやピアノ、キーボード・ソロを織り交えて展開していくのであるが、ここではそうなっていない。イエス・ファンとしてはちょっと物足らないのである。

 その後、イエス本体が活動を再開したため、アラン・ホワイトはそちらの方に戻ってしまった。
 ドラマーが不在になったために、ビリーは80年代末にロサンジェルスで結成したバンド、ワールド・トレイドで一緒に活動していたジェイ・シェリンに声をかけてバンドに誘った。彼はまた、ギター担当のジミー・ハーンともロジックというバンドで活動していたので、サーカにとっては気心が知れたミュージシャンだったようだ。

 彼らは2008年から曲作りを始め、翌年にはセカンド・アルバム「HQ」を発表した。デビュー・アルバムはイエスというバンドのコピー程度のものだったが、このアルバムから徐々に彼らのオリジナリティーが芽生えてくる。61sufxiyqbl

 何しろ1曲目の"If It's Not Too Late"から10分50秒もある大作が用意されている。複雑な構成を持つこの曲は、4人のチームワークの結果から生み出されたというべきものだろう。

 2曲目はギタリスト、ジミー・ハーンによるアコースティック・ギターのインストゥルメンタル曲で、1分18秒と短い。ただ、この曲においてはテクニック的には見るべきものはなく、トレヴァー・ラビンの方が100倍は上手に聞こえてきそうだ。

 ただ、本人の名誉のために言っておくが、ジミー自体は非常に優秀なギタリストであり、テクニック的にも決して劣っているわけではない。ヴァンゲリスや日本人の喜多郎とも交流があり、最近では映画のスコアも手掛けているほどだ。
 あくまでもこの"Haun Solo"という曲においては、彼のテクニックが十分発揮されたわけではないと思っているだけである。

 また、5曲目のインストゥルメンタル曲"Set to Play"は1分49秒と短いものの、白熱したインタープレイになっていた。個人的にはこの曲をもう少し膨らませて、完全な独立した曲として扱ってほしかったと思っているのだが、でも、次の曲"Ever Changing World"とつながっていて、そういう意味では、よく考えられていると思った。

 その"Ever Changing World"はアップテンポで、ロック的なダイナミズムに溢れている。こういう曲をもっとやると、若者にも受けるのではないかと思ったりもした。

 3曲目の"False Start"の3分過ぎでは、1974年のアルバム「リレイヤー」の3曲目"To Be Over"の中に出てくるフレーズによく似たメロディ・ラインを聞くことができて、この辺はご愛嬌というか、昔のファンなら泣いて喜びそうなところだと思う。

 個人的に好きなのは8曲目の"Twist of Fate"で、このスリリングな曲展開や途中の爆発するギター・ソロなどは、とても魅力的なのである。こういう傾向の曲がもう1,2曲あれば、もっと話題になって売れたのではないだろうか。

 最後の曲"Remember Along The Way"もドラマティックな曲で、12分36秒もあった。さすがにこういう長い曲になると、ギター・ソロあり、キーボード・ソロあり、果てはアコースティックな部分やハードな部分も盛り込まれて、興味深く聞くことができた。途中のフルート・ソロはクレジットがないところを見ると、キーボードで出しているのかもしれない。

 8分過ぎにはギターとキーボードのソロを聞くことができるのだが、相互に掛け合うかと思ったら、すぐに終わってしまった。
 
 21世紀の時代には、昔のような重厚長大な楽曲は似合わないのかもしれないが、ファンとしてはもう少し引っ張ってほしかったと思っている。そうはいってもエンディングは非常に盛り上げられていて、なかなかのものであった。 

 セカンド・アルバムは、全体的にはデビュー・アルバムよりは各曲の構成が複雑になり、時間が長くなっている。そういう点では努力の跡がうかがえるだろう。

 彼らはアルバム発表後、ツアーを行ってプロモーションを行ったが、話題にはなったものの、商業的には成功しなかった。
 ただ、面白いことに、元TOTOのボーカリストであるボビー・キンボールと合体してYOSOというプロジェクトを始め、2010年にはアルバムを発表している。

 YOSOとは“Yes”と“TOTO”が合体してできたネーミングだった。彼らはアルバム発表後もツアーを行ったのだが、ボビー・キンボールはアルコール中毒だったために、途中でドロップアウトしてしまい、結局、バンドは2011年に解散してしまった。

 それでビリー・シャーウッドとトニー・ケイは、サーカに戻って活動を再開したのだが、ジミー・ハーンとジェイ・シェリンは自身の活動が忙しくなってしまい、サーカには加わらなかったのである。(To Be Continued...)

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