アビイ・ロード(2)
ザ・ビートルズのアルバムを1963年の「プリーズ・プリーズ・ミー」から1970年の「レット・イット・ビー」まで順に聞くたびに、これは人間の一生を表しているなあ、といつも思っている。一生といっても赤ん坊からではなくて、15,16歳の若者が老人になって亡くなるくらいまでの期間を想定してしまうのだが、初期の若々しさや初々しさが、時が過ぎるとともに段々と落ち着いてきて老成し、そしてついには命が尽きてこの世から去っていってしまう、そういうイメージが湧いてくるのである。
それはアルバム・ジャケットの移り変わりを見ればよくわかると思う。1964年の「ビートルズ・フォー・セイル」あたりから彼らの顔つきが変わり始め、65年の「ヘルプ!」を経て、同年の「ラバー・ソウル」になると、ちょっと別のバンドじゃないかと思われるくらい変わっていってしまう。もちろん顔つきだけでなく、楽曲の傾向もインド音楽やストリングスの導入、テープの逆回転やサイケデリック・ミュージックの影響など、複雑なものになっていった。
そして「アビイ・ロード」である。このジャケットもよく知られているように、アビイ・ロード・スタジオの前にある横断歩道を4人が歩いているんだけれど、先頭を歩くジョン・レノンは司祭、次のリンゴ・スターは黒い服なので葬儀屋、ポールは1967年1月に自動車事故で死んでしまったと噂されていたので死人、最後を歩くジョージ・ハリソンは墓堀り人夫と暗に仄めかされていた。駐車中のフォルクスワーゲンのナンバーが、もしポールが生きていれば28歳になるはずだという意味で、"IF28"になっているとまで言われていた。実際は、この日は暑くて、ポールは思いつきでサンダルを脱いで裸足になっただけだったのに(裸足は"死者"を意味するマフィアの符号といわれている)。1969年8月8日午前10時頃のお話だ。
"アビイ・ロード・セッション"は、前回も記したように、1969年の7月から本格的に始められた。決していいムードで進んでいたわけではなく、4人のメンバーはかなりの緊張とプレッシャーを感じながらも、レコーディングを進めていった。
アルバムのタイトルは、当初「エヴェレスト」と名付けられ、ジャケット写真も現地まで言って撮影しようという案まで出されたが、当然のごとく却下された。実際は、「エヴェレスト」という名前は、エンジニアのジェフ・エメリックが当時吸っていたメンソールのたばこの銘柄であり、ネパールにある山とは無関係だったからだ。
ただ、ポールはエヴェレストは世界一高い山だから頂点を意味する、最高点だし、このアルバムの内容に当てはまるよ、と一時は支持していたようだ。そして結局は、シンプルに「アビイ・ロード」になったのである。もちろん、これは今までお世話になっていた、そして今もなおレコーディングをしているスタジオにちなんで名づけられたものだった。
このアルバムで目立った活躍をしたのは、ポールだけでなく、やはりこの人ジョージ・ハリソンを忘れてはならないだろう。彼はこの時期シンセサイザーに興味を示し始め、このレコーディングにも大型ユニットのシンセサイザーを持ち込んだのである。だからこのアルバムでは、シンセサイザーも演奏している。ザ・ビートルズ時代では、レノン&マッカートニーの陰に隠れてあまり目立たなかったジョージだが、実は進取の精神に富んでおり、シタールやシンセサイザーなど、その当時の先駆けとなるようなものを好んで取り入れているのだ。あるいはその逆かもしれない。彼が取り上げたことによって注目され、時代のトレンドになった可能性もあるだろう。
そのシンセサイザーは、"Maxwell's Silver Hammer"や"I Want You(She's So Heavy)"の後半部分、自分自身で作った曲である"Here Comes the Sun"、"Because"などで聞くことができる。特にジョンの作った"Because"では、全面的にムーグ・シンセサイザーが使用されていて、ギターとユニゾンで奏でられている。コーラスはジョンとポールとジョージの3人だ。ベートーベンの「月光」のコード進行を逆からたどったとされていて、1時間くらいでレコーディングが終わったという記録が残されている。
それにジョージはまた、このアルバムにおいてレノン&マッカートニーに匹敵する、いやそれ以上の歴史に残る傑作を2曲も残している。みんな知っている"Something"であり、"Here Comes the Sun"である。
"Something"は当時の妻だったパティ・ボイドに捧げられていて、"Come Together"とのダブルA面としてシングル・カットされた。ジョージの曲が、ザ・ビートルズ時代でシングルのA面になったのはこれが最初で、そして最後になった。ギターはジョージ自身だが、ピアノはジョンが弾いている。
それにしてもパティ・ボイドという人は、何というラッキーな人というか、ある意味、ポピュラー音楽史上に名を遺した女性の一人になった。しかも自らは表現せずに、対象者としてだ。ギリシャ神話に出てくる音楽・文芸の神ミューズとは彼女のような存在なのかもしれない。"It's All Too Much"もパティに捧げられているし、あのエリック・クラプトンの歴史的名曲"Layla"や、日本でもヒットした"Wonderful Tonight"もパティについて歌われたものだった。
"Here Comes the Sun"では、今まで長い長い冬が続いてきたけれど、やっと太陽が顔を出したと歌われていて、ポールはこれを聞いて、初期の頃のように、みんなが集まってお互いがよくわかっている方法で曲作りが進んで行くことを意味していると喜んでいたそうだ。ただこの曲は、レコーディングが嫌になったジョージがアビイ・ロード・スタジオを抜け出して、エリック・クラプトンの家で作った曲だった。だから、ポールの考えと少し違うのではないかと考えられる。実際は、ザ・ビートルズ解散後のことも視野に入れての自分自身のことを歌っているのではないだろうか。ちなみにこの曲でも、ジョージはギターとシンセサイザーを担当していた。
そして、このアルバムが完成までこぎつけることができたのは、やはりポール・マッカートニーのおかげだろう。"Oh! Darling"では声をからして迫力を出すために、1週間毎朝スタジオに出てきて歌っていたし、ジョンの曲だった"Come Together"ではエレクトリック・ピアノを、"I Want You(She's So Heavy)"ではアレンジを行い、実際に自分で歌ったりもしていたそうだ。
さらには後半の"You Never Give Me Your Money"から続く一連のメドレーは、まさにこのアルバムの白眉だろう。このメドレーのおかげで、このアルバムの価値がさらに高まったはずである。当時はすでにプログレッシヴ・ロックというジャンルが確立されつつあったが、こういうメドレー形式もプログレッシヴ・ロックに影響を与えたに違いないだろう。「アビイ・ロード」は「サージャント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」とは違ってトータル・アルバムではないけれど、怪物バンドが放った最後の輝きという点では、トータル・アルバムと言ってもいいのかもしれない。
"You Never Give Me Your Money"はもちろんアラン・クラインを含むアップル社や自分たちの財政上のトラブルを歌ったもので、"A Day in the Life"のように、いくつかの曲を一つにまとめたもの。"Sun King"はジョンの曲で、元のタイトルは"Los Paranoias"と付けられていた。一部はスペイン語で歌われているが、単語を並べただけの様だ。"Mean Mr. Mustard"と"Polythene Pam"は、インドでジョンが作った曲で、いずれも未完成のものだった。この曲の原型は「ホワイト・アルバム」50周年記念盤の"Esher Demos"に収められていた。
"She Came In Through the Bathroom Window"は実際にあった事件に基づいて作られた曲で、ポールの家にファンが侵入し、父親の大事な写真を持って行ったという実話を脚色している。確か、映画「Let It Be」でも歌われていたんじゃないかなあ、ちょっと記憶がはっきりしないけれど。"Golden Slumbers"は、16世紀のエリザベス朝の劇作家トマス・デッカーの詩にポールが曲をつけ、一部歌詞を付け加えたもの。続く"Carry That Weight"もポールの曲で、これもまたビジネス上の問題について歌ったものだった。
でも、リスナーとしては、あるいは自分のように英語がよくわからない人にとっては、そんな経済的な問題ではなくて、なんか人生における生き方というか、処世訓のような意味を心の中で期待していたし、そのように捉えていた。当時のザ・ビートルズは、若者にとっての教祖のような、そして教師のような、また親のような、そんな側面も含んで見せてくれていたのである。
そして"The End"である。果たして彼ら自身は、これで終わりと思っていたのだろうか。雰囲気的にはこれでザ・ビートルズも終わりだろうという漠然とした思いはもっていたように思える。でも、ポールだけは解散はしないと思っていたに違いない。彼は最後までザ・ビートルズを守ろうとしていた。だから彼の言葉にはこうある。『僕がザ・ビートルズをやめたのではない。ザ・ビートルズがザ・ビートルズを去っていったんだ』
とにかく、この曲ではフィナーレを飾るように、リンゴのドラム・ソロからポール、ジョージ、ジョンの順番でギター・ソロをとっている。この終りの3曲、"Golden Slumbers"から"The End"までは全員そろってレコーディングされた。1969年7月30日のことで、4人そろってのレコーディングとしては、この日が最後になった。
"Her Majesty"については面白いエピソードがあって、もともとはメドレーの中の"Mean Mr. Mustard"と"Polythene Pam"の間に収められていたのだが、最終的にはカットされた。ところが当時の慣習で、完成したマスターテープからカットされたものは、すべてリールの最後のリーダー・テープに残しておいてメモ書きを残すというものがあって、担当のエンジニアだったジョン・カーランダーもそうしたのにもかかわらず、何故かメモが無視され、"Her Majesty"が最後にくっついたテープがアップル社に回され、そのオリジナル盤がポールによって試聴されたのである。
ポールは全部聴いて帰ろうと立ち上がった時に、この曲が聞こえてきてびっくりしたという。でも、それもまた楽しいだろうということで、"Mean Mr. Mustard"の最後のコードが入った"Her Majesty"が残されたわけだ。今ではポールによるアンコール・ナンバーという位置づけだが、実際はメドレーの中の一曲だったのである。
とにかく、レコードでいうところのサイドBは、最初の2曲は除いて、残りの"You Never Give Me Your Money"から"Her Majesty"までは、まるでジグソー・パズルを組み合わせるかのような感じで構成されていた。しかもそのパズルが100%完璧にマッチしていたのである。まさに偶然の産物とはいえ、偶然が重なれば必然になるわけで、これはもうなるべくしてなったとしか言えないのではないか、そう思っている。ちょうどロウソクの炎が燃え尽きる時に、それまでとは違って一段と大きい炎に燃え上がるように。
自分は、真面目に自分の葬儀の時には「アビイ・ロード」を流すようにお願いをしている。たぶん家族葬だから、もともと親族は少ないし、自分が死ぬときはほとんどいなくなっているだろうから、家族以外は誰も来ない。安心して流せるわけだ、自分は聞くことができないけれど。だから、どういう死に方をするかわからないけれど、もし病気なら死ぬ前に何度も聞くだろう。自分にとって「アビイ・ロード」とは、そういうアルバムなのである。
また、これを作った時のジョンは誕生日が来ていなかったので28歳、ポールは27歳だった。ジョージにいたっては26歳で、最年長のリンゴは29歳だった。つまりみんなまだ20代だったのだ。やっぱりザ・ビートルズは史上空前のバンドだったのである。
[お知らせ]
突然ですが、今回を持ちましてこのブログ「ろくろくロック夜話」を終了いたします。こんなつまらないブログでも13年間も続いてきました。最近ちょっと疲れてきて、あまりいい内容が書けなくなってきたと思うので、ここらへんで終わりにしたいと思いました。だから最後のテーマも「アビイ・ロード」にしました。
一度でも読んでいただいた人に感謝いたします。ありがとうございました。たぶんもう再開はしないと思いますが、ひょっとしたら、どこか違うところで、何かしているかもしれません。ブログはやめてもロック・ミュージックはやめられません。死ぬまで聞き続けることでしょう。最後に、世界中の皆さんが健康で、平和な人生を送れるように願っています。それでは、さようなら。お元気でいて下さい。
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