2019年1月21日 (月)

バランス

 自分が初めてバランスというバンドのことを知ったのは、1993年の頃だった。当時、音楽乃友社という出版社から「ロック・クラシックス」という1400円の本が出版されていた。その本の中に、「HMV渋谷が選ぶRock Classics Best 10」というコラムがあって、その第8位にバランスというバンドのアルバム「イン・フォー・ザ・カウント」がランクしていたのだ。

 そのコラムの中では、こう書かれていた。“80年代ハード・ポップ主流の中で、曲・サウンドともに優れていたと思う。ファーストよりこのセカンドが個人的に好きだった”

 どんなバンドで、どんなアルバムを発表したのか気になった自分は、さっそく探してみたのだが、当時はまだ今ほどインターネットが普及していなかったから、よくわからなかった。それで当時あった小さなCDショップ屋さんに行って、輸入盤を注文した。しばらくすると連絡が来て、受け取りに行った思い出がある。

 だから、バランスというバンドのアルバムは、セカンド・アルバムの「イン・フォー・ザ・カウント」から先に聞いたのだった。61njfmxznjl
 その時、さすが雑誌のコラムに載るだけあって、歴史の中に埋もれてしまった必聴盤のようなものだと思った記憶がある。

 このアルバムは1982年に発表されていて、一言でいうと、80年代に流行ったメロディアス・ハード・ロックといった感じで、当時のチャートを賑わせていたジャーニーやフォーリナーの亜流といったものだ。もう少し具体的に言うと、サヴァイヴァーやヨーロッパといった感じだろうか。

 曲調は疾走感あふれるハード・ロックやハードながらもメロディはしっかりしているミディアム・テンポの曲などバラエティに富んでいて、聞いていて飽きない。時間的にも全9曲中、4分台の曲が3曲で、残りの6曲はすべて3分台だった。だから全体でも35分少々と、40分にも満たないのだ。

 特に、アルバム・タイトル曲の"In For the Count"はヨーロッパの"Final Countdown"をパクったような感じだったし、"Undercover Man"でのギター・ソロは火の出るような激烈さだった。一方、"Is It Over"は疾走感あふれる佳曲だし、ミディアム・テンポの"Slow Motion"ではマイルドで、ラジオでオンエアされそうなポップ・テイストを備えていた。

 ただ、当時のこの手のアルバムには必ず挿入されていたお約束のバラード曲、"Pull the Plug"はいただけなかった。聞いていて気持ちが何となくムズムズしてくるのだ。納得できないというか、気持ちが昇華しないのである。バラード曲といっても、涙涙の涙腺が緩むようなメロディアスな部分もないし、ブルージィーなギター・ソロ(あるいはキーボード・ソロ)もない。この点は失敗だったのではないだろうか。51ipnx2jhl
 だから、徹底的にハードで押し通して、中に感動的なバラードを1曲くらい入れればもっと売れたのではないかと思っていた。ある意味、ハード・ロック路線なのかポップ・ロック路線なのか、特に後半部分の曲に進むにつれて、判別しづらいところがあった。

 とにかく当時は彼らに関して何も資料がなくて、アメリカン・バンドなのかブリティッシュ・バンドなのかもわからなかった。ただ、作曲者名を見ると、どうもヒスパニック系というか、一般的な英語名ではなかったので、これはブリティッシュ・バンドではないだろうと見当をつけていた。

 あとで分かったことなのだが、このアルバムのプロデューサーは、トニー・ボンジョヴィという人で、この人は、あのジョン・ボン・ジョヴィの叔父さんにあたる人だということだった。なるほど、世の中は広いようで狭いものだ。

 そのあと彼らのことはすっかり忘れてしまっていたのだが、昨年、タワー・レコードのネット・ショップを見ていたら、“AOR City1000”というシリーズものがあって、歴代のAORの名盤?を1000円+消費税で販売していることに気づいた。

 その中に、バランスの「ブレイキング・アウェイ」というアルバムが販売されていた。これはひょっとしてあのバランスのアルバムなのだろうか、でもなんでAORなんだろうと不思議に思い、その謎を解明すべく購入してしまった。81wh2qesnil__sl1425_
 このアルバムは、1981年に発表されたバランスのデビュー・アルバムで、2010年にリマスタリングが施され、日本初CD化されたものだった。

 解説書によると、バランスはニューヨークを拠点にして活動する3人組だったようで、当時は西海岸出身のTOTOに対抗して、“TOTOに対する東からの回答”と呼ばれていたようだ。
 でも自分はそんな話は全然聞いたことがなくて、本当にそんな話があったのかどうなのかは、よくわからない。TOTOは有名だったけど、バランスの方はそんなにメジャーなバンドじゃなかったと思う。

 3人組とは、ボーカリストのペピィ・カストロ、ギターのボブ・キューリック、キーボードのダグ・カッサロスのことで、いずれも東海岸では超有名なスタジオ/セッション・ミュージシャンだった。
 そして、このデビュー・アルバムでは、ドラムスに元スライ&ザ・ファミリー・ストーンのアンディ・ニューマークが、ベースにはドゥービー・ブラザーズにも在籍していたウィリー・ウィークスと元トッド・ラングレンズ・ユートピアのジョン・シーグラーが担当していた。この鉄壁のリズム・セクションだけなら、確かにTOTOと対抗できるだろう。

 ペピィというボーカリストは、ブルース・マグースというバンドで、1966年に全米シングル・チャート5位を記録した"Nothin' Yet"というという曲を歌っていて、このバンドには一時期シンガー・ソングライターのエリック・カズも在籍していたという。
 その後、ミュージカルに出演するなど幅広く活動の舞台を広げていったが、その過程でキーボーディストのダグと知り合った。

 ギタリストのボブもまた有名なセッション・ミュージシャンで、ルー・リードの「コニー・アイランド・ベイビー」やアリス・クーパーのツアーにも呼ばれるほどの腕前だった。
 ボブは、1978年にキッスのポール・スタンレーのソロ・アルバムのレコーディングに参加していたが、その時、ペピィはコーラスで、ダグもピアノ&コーラスでレコーディングに呼ばれていた。

 結局、それがきっかけとなって、バランスが結成された。そこから曲作りやレコーディングを行い、デビュー・アルバムにつながったのである。ちなみに、ギタリストのボブ・キューリックは、のちにキッスに参加したブルース・キューリックの実兄だった。兄弟でバンド活動という発想はなかったのだろうか。

 一聴した限りは、このデビュー・アルバムはメロディアスだし、中にはストリングスでコーティングされるような曲もあり、アレンジは凝っているし、普通のロック・バンドではなかなか表現できないほど技巧的でもあった。
 ただ、あまりにも露骨というか、売ろうとする下心が垣間見えるような気がしてならない。だから、個人的にはあまり好きではないのだ。

 このデビュー・アルバムは、全米アルバム・チャートでは133位とあまり売れなかったが、シングルカットされた"Breaking Away"はシングル・チャートで22位、続くセカンド・シングルの"Falling in Love"は58位を記録している。まあ、それなりに売れたというわけだ。5158ovcecwl
 ただ全10曲で、合計37分程度の内容だった。10曲中4分台の曲は2曲のみで、残りはすべて3分台だった。潔いといえば潔いが、それだけ売れ線に徹していたということだろう。これだけの技量を持つミュージシャンがせっかく集まったのに、何となくもったいないような気がした。

 このあとバランスは、1983年まで活動を続けた。日本の自動車ダイハツのシャレードのTVコマーシャル・ソング"Ride the Wave"も手掛けたといわれているが、自分はよく覚えていない。
 結局、契約を切られてしまったわけだが、2006年にイタリアのレーベルが「イン・フォー・ザ・カウント」の再発を決めたことから、ニュー・アルバム発表を打診され、最終的にオリジナル・メンバーで、2009年に「エクィリブリウム」というアルバムを発表した。51wflb5cqbl
 27年振りのアルバムだったが、基本的にはセカンド・アルバム「イン・フォー・ザ・カウント」をさらにハードにしたロック・アルバムだった。彼らはヨーロッパ、とくに北欧で人気が高く、2010年代に入っても散発的にスウェーデンなどでツアーを行っている。

 こういうハード・ロックながらもメロディアスな楽曲をするバンドは、北欧などでは人気が高いのだろう。でも、21世紀の今になってバランスの名前を聞くとは思ってもみなかった。“芸は身を助く”といわれるが、一芸に秀でることの重要性を、このバンドは教えてくれているようだ。Maxresdefault

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2019年1月14日 (月)

グレタ・ヴァン・フリート

 新年を迎えての実質的な第一弾に当たる今回は、昨年末にヘヴィ・ローテーションしていたこのアルバムを紹介することにした。アメリカの新人バンド、グレタ・ヴァン・フリートのデビュー・アルバム「アンセム・オブ・ザ・ピースフル・アーミー」である。

 知っている人は知ってると思うけど、あのエルトン・ジョンが大絶賛をし、ガンズ・アンド・ローゼズが自分たちのツアーのオープニング・アクトに起用し、そしてあの伝説のバンドのボーカリストであるロバート・プラントまでもが、“彼らはかつての俺たちだ”と称えたと言われているバンドだ。B020
 メンバー構成は、基本的なロックン・ロール・バンドと同じボーカル、ギター、ベース、ドラムスだが、普通のバンドと違う点は、ボーカルとギターが双子の兄弟で、ベースはその弟という点だろうか。要するに、3兄弟とその幼馴染で構成されているのだ。
 しかも、メンバーの平均年齢が20歳というのだから驚きである。現時点では、ベース&キーボード担当のサムはまだ19歳ということで、ますますこれからが期待されるだろう。

・ジョシュ・キスカ(ボーカル)
・ジェイク・キスカ(ギター)
・サム・キスカ(ベース・ギター&キーボード)
・ダニー・ワグナー(ドラムス)

 彼らはアメリカのミシガン州サギノー郡のフランケンムースという場所で結成された。2010年の国勢調査によれば、人口約4944人という小さな町で、アメリカ人の間では世界で一番大きいクリスマス専用ショップがあることで知られているという。

 とにかく田舎町で、メンバーが子どもの頃は広大な草原で走り回ったり、ザリガニを釣りながら川下りをしたりと、自由な環境の中で育っていった。また、そういう自然環境のみならず、両親もR&B やロックン・ロールのクラシック・レコードを集めて聞いていたせいか、家庭環境でも音楽的下地を形成するために役立ったようだ。

 2013年にドラマーが交代したが、その前から"Cloud Train"、"Standing On"などの曲を録音していて、中高生の時から活動を始めていたことがわかる。
 2014年に"Standing On"がデトロイト地区の車のTVコマーシャルに使われたことから徐々に口コミでうわさが広がり、2016年にはiTunesで"Highway Tune"がシングル曲として発表され、翌年にはその曲を含む4曲入りEPが発表された。

 その後は、雪玉が転がることでだんだん大きくなるように、彼らの人気はうなぎのぼり、ライヴ会場もスタンディングの小さなクラブから1200人規模のイス席のホールにまで発展していった。

 そして、待望のフル・アルバム「アンセム・オブ・ザ・ピースフル・アーミー」が2018年の10月に発表されたのだ。輸入盤では10曲、国内盤は4曲のミニアルバム「ブラック・スモーク・ライジング」を含む14曲入りだった。51wkcuemlbl
 音楽性は多様で、ロックン・ロールからブルーズ・ミュージック、フォーク・ミュージックまで幅広いものだったが、一番驚いたのは、誰がどう聞いてもイギリスの伝説的なバンドの音楽性に似ている点だった。

 似ているというか、ギターのリフや入り方、ボーカルのジョシュの高音圧の金切りシャウト、アコースティック・ギターの柔らかな響きなど、完全にパクっているのではないかと思われるほどだ。
 だから人によっては、コピー・バンドとかキングダム・カムの再来などと少し軽蔑じみた言葉を投げていた。確かに聞く人によっては、それはその通りなのだろう。

 彼ら自身は、自分たちを“第二の〇〇”などとは思っていなくて、そういう似た音が出てくるのは、子どもの頃から過去のロック・ミュージックの洗礼を浴びていたからだという。例えば、ギタリストのジェイクは、ザ・フーやザ・ビートルズなどの60年代のブリティッシュ・ロックが好きのようだし、ボーカルのジョシュは、ボブ・ディランやジョン・デンヴァー、ジャニス・ジョプリンにウィルソン・ピケット、ジョー・コッカーなど幅広いジャンルに渡って影響を受けているとインタビューに答えていた。

  そんな彼らが発表したデビュー・アルバムが「アンセム・オブ・ザ・ピースフル・アーミー」である。このアルバムのテーマは、“人類の進化の旅や歴史上の教訓、平和、愛、調和”だそうである。それが全体を繋いでいて、しかも無意識的にそれらが生まれ、自分たちが創造したかったアルバムになったそうだ。Great
 とても新人バンドとは思えないほどの上質なアルバムである。1曲目の"Age of Man"はゆったりとしたブルージーな曲だが、やはり一番耳に飛び込んで来るのは、甲高いジョシュのボーカルである。“ロバート・プラントそっくりとか、意識しすぎ”と呼ばれても仕方ないだろう。

 それがよくわかるのが"The Cold Wind"だ。“Hey”、“Mama、Mama”というかけ声だけでなく、バックのドラミングもジョン・ヘンリー・ボーナムに似せているし、ベースもうねっている。スライド・ギターの入り方もジミー・ペイジに合わせているかのように聞こえてくる。
 3曲目のシングル・カットされた"When The Curtain Falls"も伝説のバンドが甦ったようだし、間奏のギター・ソロも弾きまくっている。できればもう少し長いソロを披露してほしかった。

 次の"Watching Over"はややスローなバラードっぽい曲で、このバンド、意外にバラエティに富んだ楽曲を用意したなと感心してしまった。この曲は“グレタ・ヴァン・フリート版 Since I've Been Loving You”だろう。

 このアルバムでポップな要素を持っているのは、"Lover, Leaver(Taker, Believer)"だろう。ポップというと誤解を招きそうなので、耳に残りやすいと言った方が適切かもしれない。あの偉大な伝説のバンドの曲で例えると、"Communication Breakdown"だろうか。"Living Loving Maid"までのポップ性はないと思う。

 後半の"You're The One"はアコースティック・ギターで導かれた爽やかな雰囲気を醸し出す曲で、この曲だけ聞けば、確かにアメリカン・バンドのような感じがした。間奏にジョン・ポール・ジョーンズのようなオルガンが聞こえてくるところがやはり伝説のバンドに似ていると言われる所以だろう。

 次の曲"The New Day"にもアコースティックな曲で、こちらはややテンポが速い。しかもバックコーラスも少しは聞こえてくるので、この辺は伝説のバンドとの相違点になるのではないだろうか。
 ジミー・ペイジ的スライド・ギターが聞こえてくるのが"Mountain of The Sun"だ。これもまたメロディラインがはっきりしていて、なかなか印象的な曲に仕上げられている。それに曲のアレンジもまた例の伝説のバンドの曲に似ている。途中の演奏が止んでボーカルだけの部分や、長いシャウトなどは本当によく似ていると思う。

 "Brave New World"は、またブルージーな楽曲に戻る。アメリカのロック・バンドでここまで湿った感じの雰囲気を出せるバンドはそう滅多にいないと思う。初期のエアロスミスやマウンテン、初期のグランドファンク・レイルロードなど、70年代のロック・バンドをどうしても思い出してしまう。

 10曲目の"Anthem"は、ほとんどアコースティック・ギターとスライド・ギターがメインの曲で、ジョシュのボーカルが際立っている。歌詞の内容も、世界とは世界を成り立たせているものを指していて、それは私たち一人一人なのだというメッセージ・ソングにもなっている。20歳そこそこの若者にしては、なかなか深遠な世界観を提示していると思った。

 ここまでの10曲は全体で約46分くらいで、こういうところも70年代のクラシック・ロックの世界観にこだわっているようだ。71buoeixol__sl1170_
 国内盤ではこのあと4曲のボーナス・トラックが付属していて、上にもあるようにEP「ブラック・スモーク・ライジング」の曲なのだが、これがまた伝説のバンドそっくりなのだ。ここではあえて省略するが、確かにこのEPだけ聞けば、誰もがあの伝説のバンドの再来だと思うだろう。"Flower Power"などはまさに"Your Time Is Gonna Come"と言われても仕方ないだろう。

 逆に言えば、本編CDの1曲目から10曲目までを聞けば、このバンドがこのEP以降どれほど成長したかが分かるだろう、わずか1年の間に。ちなみにこのアルバムは、ビルボードのアルバム・チャートでは、最高位3位を記録している。英国では12位だった。

 もちろんこのまま素直に売れていく保証はない。むしろこの路線を続けて行けばいくほど、バッシングも高まるかもしれない。だから、この次のアルバムが彼らの試金石になるだろう。伝統を継承しながらも、彼らなりのオリジナリティを出して行けば、まさに2020年代を代表するバンドになっていくだろう。そんな期待を込めながら、セカンド・アルバムを待つことにしようと思っている。

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2019年1月 7日 (月)

今年は亥年

 今年は亥年ということで、イノシシのアルバム・ジャケットを探してみようと思った。ところが、これがなかなか見つからない。ロック・ミュージック以外ならソウル・ミュージックやポップスの分野ではネットで検索できたのだが、自分としては聞いたことがない音楽については勝手なことは言えないので、そういうものは除外して探してみたのだ。

 それでもよくわからなかった。なので、今年はパスしようと思ったのだが、せっかくのお正月だし、こんなつまらないブログでも世界で3人くらいは楽しみにしている人もいると思うので、イノシシの代わりにブタを探そうと思った。

 よく知られているように、ブタの祖先はイノシシである。イノシシが家畜化されてブタになったと言われている。
 一番古い記録では、約一万年前の中国にはブタが飼われていた。ブタの骨が化石となって発掘されている。新石器時代のようだが、もう少し歴史が下がって、エジプト文明やカスピ海沿岸でもブタの骨が見つかっている。

 確かに、イノシシの肉もブタの肉も食べられるし、栄養価に富んでいる。イノシシもブタも綺麗好きだし、雑食性だ。そういう面では共通点は挙げられるだろう。
 また、イノシシは10年くらい人に飼われると、鼻が短くなりブタのような顔になるともいわれているし、逆にブタが野生化する場合もあるらしい。

 オーストラリアにはイノシシはいないのだが、イギリス人が食料にするために持ち込んだブタが野生化して、広い荒野を走り回っていると言われている。その野生化したブタは、鼻は長く、体も大型化しているという。ひょっとしてあと100年ぐらいしたら、新種のイノシシが誕生しているかもしれない。

 そんなイノシシネタは置いといて、肝心のブタのアルバム・ジャケットを探してみたのだが、これもまたあまり思いつかなかった。やはりイノシシやブタという動物は、ロック・ミュージックには相容れないものなのだろうか。

 そんな中で一番有名なのは、やはりこのアルバムだろう。前作での元メンバーでリーダーでもあったシド・バレットへの郷愁の念から一転して、社会体制への批判というメッセージ性を強く出したこのアルバムは、非常に衝撃的だった。511hpkez7fl
 このアルバムの中では、“ブタ”は裕福な資本家にあたり、“ヒツジ”は従順な労働者で“イヌ”は、エリート・ビジネスマンという設定だった。
 そして商業的にも大成功で、ドイツやオランダ、スペインなどではチャートの1位を獲得し、本国イギリスでは2位、アメリカでは3位まで上昇し、約半年間チャートに留まっていた。

 ブタと言えば、ジョン・レノンのこの写真も忘れられない。中学生の頃は、何でブタの耳を掴んでいるのだろうと不思議に思っていたのだが、おとなになってからその理由が理解できた。
 この頃のジョンとポールの関係は冷え切っていたということが分かる写真だった。要するに、ポールのアルバム「ラム」のジャケットで、ポールが羊の耳を掴んでいることに対抗してジョンはブタの耳にしたのである。6468af895f48c56e1b3590be2b5a3d90
 だけど逆に言えば、それだけジョンはポールのことを意識していたともいえるわけで、当時は世界中からビートルズ解散の元凶とかバッシングされていたポールに対して非難や悪意を込めることで、逆説的に愛の手を差し伸べていたのかもしれない。いかにも皮肉屋のジョンのやりそうなことである。(だけどポールも「ラム」でひどいことを歌っていたので、お互いさまと言えばお互いさまなのだろう)

 1971年の歴史的名盤「イマジン」のおまけ写真(ポストカード)に映っていた写真だった。だから正確に言えばアルバム・ジャケットではないのだけれど、アルバムに付属していた写真ということでお許し願いたいと思う。

 さて、次はイギリスのバンド、ピンク・フェアリーズのサード・アルバムである。ピンク・フェアリーズについては、以前のこのブログでも紹介しているので、そこから少し引用することにした。彼らを語るには1960年代末のロンドンまで話を戻さなければならない。オリジナルのピンク・フェアリーズは、1969年の終わりに結成されたからだ。

 メンバーは、デヴィアンツというバンドにいたボーカル担当のミック・ファレンと、ティラノザウルス・レックスにいたベーシストのスティーヴ・トゥック、スティーヴ・ハウもいたトゥモロウのドラマーだったトゥインク、そしてジ・エンタイア・スー・ネイションというアングラ・バンドのギタリストだったラリー・ウォーレスの4人だった。

 ただバンド名は、その都度変わることがあり、彼らはピンク・フェアリーズと名乗ったり、シャグラットと言うこともあった。

 バンド名は、トゥインクがいつも着ていたピンクのジャケットと、彼が以前結成していたバンドのザ・フェアリーズに因んだものというのが定説になっている。ちなみにトゥインクは、ザ・フェアリーズからトゥモロウ、プリティ・シングスへとバンドを渡り歩いている。何となくアングラ臭のするバンドばかりだ。Pinkfairies

 それで話を元に戻すと、オリジナルのピンク・フェアリーズのメンバーだったミック・ファレンはデヴィアンツのリーダーでもあったのだが、彼がトゥインクのソロ・アルバム「スィンク・ピンク」のレコーディングに他のメンバーを呼んで参加させた。 

 この共演がきっかけとなって、ツイン・ドラムスの4人組バンドである第2期ピンク・フェアリーズが誕生することとなった。1970年の初めの頃のお話である。
 この時のメンバーは、トゥインクと同じドラマーのラッセル・ハンター、カナダ人ギタリストのポール・ルドルフ、ベーシストのダンカン・サンダースだった。

 彼らは、アルバムごとにメンバー・チェンジをしている。1972年のセカンド・アルバム「ホワット・ア・バンチ・オブ・スウィーティーズ」では、トゥインクが抜けて3人組になり、1973年のサード&ラスト・アルバムでは、ギタリストが交代してラリー・ウォーレスが戻ってきている。

 ラリーは、第1期ピンク・フェアリーズが自然消滅したあと、ピーター・バンクスの後釜としてブロドウィン・ピッグに参加して、そのバンドの解散後は1972年に、マイケル・シェンカーも在籍していたUFOに参加した。もちろんマイケルが参加する随分前である。

 この3枚目のアルバム「キングズ・オブ・オブリヴィオン」は、彼らの最高傑作と呼ばれているもので、たぶんその基準は、ロックの持つ疾走感や焦燥感を備えていて、それがのちのパンク・ムーヴメントに大きな影響を与えているところからきているのだろう。

 アルバムのタイトルは、デヴィッド・ボウイの1971年の「ハンキー・ドゥリー」の中の曲"The Bewlay Brothers"の1節から引用されたもので、アルバム・ジャケットも当時のアヒルが飛んでいる装飾品のパロディだった。

 2002年のリマスター盤には4曲のボーナス・トラックが収められているが、オリジナルは7曲で構成されていて、1曲目の"City Kids"からノリのよいロックン・ロールを聞くことができる。ここで聞くことのできるラリーのギターは、テクニック的には普通で、特に聞くべきところはないが、曲と非常にマッチしているので、有名ギタリストたちとひけをとらない感じがする。Photo
 2曲目の"I Wish I was a Girl"は9分以上もある大作で、長い曲の割には聞きやすく、あっという間に終わってしまう。この曲や6曲目の"Chambermaid"などは、ロング・ドライヴに最適な曲の1つだろう。
 また3曲目の"When's the Fun Begin?"はイントロが長いミディアム調の曲で、ややサイケデリックな匂いを漂わせている。

 ところでラッセル・ハンターはドンドン、ドコドコ、ドラムを叩いていて、何となくキース・ムーンのようだし、ベース担当のダンカンもバンドの屋台骨を支えている。とても3人とは思えない演奏だ。完全インストゥルメンタルの"Raceway"を聞くと、そのことがよくわかると思う。まさにB級ハード・ロックの真骨頂だろう。

 最後は日本のバンドから。1971年に発表されたPYGの唯一のスタジオ盤である。このバンドは、今でいうスーパー・バンドだった。何しろギターに井上堯之、ベースに岸辺一徳、キーボードは大野克夫、ドラムに大口ヒロシで、そしてなんとボーカルは沢田研二と萩原健一というツイン・ボーカルだった。

 当時のグループ・サウンズに詳しい人ならわかると思うけど、日本のグループ・サウンズを代表する三大バンドであるザ・タイガース、ザ・スパイダース、ザ・テンプターズのメンバーが集まっていた。81g2u6rxoll__sl1500_
 ただ、やはり“両雄並び立たず”というか、沢田研二と萩原健一やその他のメンバーを含めてバンド内の人間関係が悪化してしまい、1年余りで自然消滅してしまった。バンドはやがて井上堯之バンドとして続いたのだが、時折、沢田研二や萩原健一が加わるものの、前者はソロで、後者は俳優として活躍の場が広がったせいか、バンド自体が大衆性を獲得することはなかった。

 おまけとしてその名の通り、映画「紅の豚」のオリジナル・サウンドトラック盤を紹介して締めくくろうと思う。本年もよろしくお願い致します。410pfnnqphl

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2018年12月31日 (月)

師匠と弟子が語るジェスロ・タル

師匠:いよいよ今年も終わりじゃな。平成の大晦日も今日が最後じゃ。やはり最後に相応しく今年はこのアルバムで締めようかのう。一年の終わりに一番ふさわしいアルバムじゃ。

弟子:それがジェスロ・タルですか。なんで一年の締めくくりがタルのアルバムなんですか。

師匠:お前は知らんのか。今年はジェスロ・タルのデビュー50周年なんじゃ。奴らがデビュー・アルバムを出したのが1968年。ちょうど今から50年前じゃな。それで50周年を記念して3枚組のアルバム「50 for 50」を出したんじゃよ。71ailoklp8l__sl1145_
弟子:そうですか、もう50年ですか。最近はさっぱり音沙汰がありませんが、まだ活動していたんですね。それにしても3枚組のアルバムを出すなんて、今どき時代遅れではないですか。

師匠:何を言うとるんじゃ。タルは今でも現役じゃ。何も知らんとは、だから若造は困るわい。いいかい、今年は結成50周年という特別な年じゃったんじゃ。当然のことながら世界ツアーを行うじゃろ。しかも昨年は昨年で、“The Rock Opera”というタイトルで、ジェスロ・タルのレパートリーや新しい曲などを披露して回っておるのじゃ。ヨーロッパだけでなく、オーストラリアやアメリカまでも行っとるんじゃぞ。まだまだ現役バンドじゃわ。Jethrotull20181123sa1200x600
弟子:そうですかね。ジェスロ・タルは2011年に解散したんじゃなかったですかね。何かそういう話をネットで見たような気がするのですが。

師匠:よく知っておるのう、若いのに感心、感心。その通りじゃな。あの頃のジェスロ・タルはリーダーのイアン・アンダーソンと長年連れ添ったギタリストのマーティン・バレの関係が悪化していたんじゃ。マーティンも42年間もバンド活動に専念してきて、そろそろ自分のやりたいことを自由にやろうとしたんじゃろ。だから最後は、イアンとマーティンの双頭バンドになってしまったんじゃな。しかもバンドとしては、ブルーズからハード・ロック、フォークにクラシックまで幅広く手掛けてしまって、やりつくした感があったんじゃろ。

弟子:確か、イアンもマーティンもソロ・アルバムを発表していたという話ですが、それが何で、イアンはマーティン抜きで再結成したんですかね。

師匠:それはやはりジェスロ・タルというネーム・バリューじゃな。いくらイアン・アンダーソンの人気が高くともジェスロ・タルという名前には勝てんな。ニュー・アルバムを発表しても、ファンはタルの曲を聞きたがっていたし、イアンもタルの曲を歌った方がライヴ自体も盛り上がるということが分かったんじゃよ。ジェスロ・タルといっても、元々はイアン中心のバンドだったし、イアンとマーティン以外は、めまぐるしくメンバー・チェンジも行われてきたわけじゃから、それならジェスロ・タルと名乗った方がいいじゃろうというふうになったんじゃ。イアンもファンの要望に応えたわけじゃよ。

弟子:40年も一緒にやってきて、今さらという気もしないではないですが、もっと早くからわからなかったんですかね、自分たちの置かれている状況が。D1anqn5gkvs__sl1000__2
師匠:2003年にはイアンもマーティンもソロ・アルバムを出していたわけじゃから、バンド活動を続けながらソロ・アルバムを出すことについては、誰も何も言わんじゃろ。問題は、イアンがバンド活動以外でのソロでの活動が目立っていったことじゃろうなあ。

弟子:具体的にはどういうことですか。

師匠:例えば、元メンバーのデヴィッド・パーマーが指揮するオーケストラと南アフリカで一緒にライヴを行ったことがあるんじゃ、2000年ぐらいの時じゃな。2002年にはドイツでも似たようなライヴを行っておる。また、その年からは“Rubbing Elbows”というソロ・ステージを繰り返し行うようになって行ったんじゃよ。これはイアンとファンとの集いみたいなもので、アコースティックなタルの曲や自分のソロ・アルバムからの曲を披露していたんじゃな。だからこの頃のイアンは二足の草鞋を履いていたことになる。これは2005年頃まで続いたぞ。その後もバンドに女性バイオリニストを加えたり、2009年からはジェスロ・タルとイアン・アンダーソンの両方の公演を行ったりと、イアンも二重に活動することに疲れて行ったんじゃないかな。

弟子:だいたいジェスロ・タルは、スタジオ・アルバムは出してないでしょ。最後にいつ出したかは忘れましたけど、普通はスタジオ・アルバムを発表してからツアーに出て、新作からの曲をいくつか披露するというのが一般的でしょ。それなのにニュー・アルバムも出さずにツアーだけやるというのは、単なる“懐メロショー”にしかすぎませんよ。いくら自分がソロ・アルバムを出したとしても売れていませんからね、ライヴも盛り上がりませんよ。

師匠:それも一理あるな。そういう思いもあったんじゃろう。結局は、“一元化”したというわけじゃな。それで2011年の終わりから2017年まではソロ活動に専念して、結成50周年と今年のデビュー・アルバム発表50年を記念して再結成したというわけじゃ。それに、タルのスタジオ・アルバムは、2003年のクリスマス・アルバム「ザ・ジェスロ・タル・クリスマス・アルバム」が今のところ最後じゃな。このアルバムは企画アルバムじゃから、オリジナルは1999年の「ジェスロ・タル・ドット・コム」まで遡るかもしれんな。因みに2017年に「ザ・ストリング・クァルテット」というストリングスを交えたタル名義のスタジオ・アルバムを出しとるが、内容的にはイアンのソロ・プロジェクトといった方がいいじゃろうなあ。

弟子:「ザ・ジェスロ・タル・クリスマス・アルバム」には過去のタルの曲が7曲ほど含まれていましたよね。それ以外も定番のクリスマス・ソングとかあって、ほんとに企画盤という感じがしました。イアンの創作能力は底をついたんじゃないですか、もう71歳ですからね。61hwt7cdyfl
師匠:何を言っとるんじゃい。まだまだ現役じゃよ。来年は自身のソロ・アルバムの発表とそれに伴ってのツアーも計画されているんじゃ。一歳年上のマーティン・バレの方も2013年から2015年まで毎年1枚ずつスタジオ・アルバムを出しとるし、今年も「ローズ・レス・トラベルド」というバラエティ豊かなアルバムを出しとるしな。女性ボーカリストを加えたり、ザ・ビートルズの曲を演奏したりしとる。まだまだ若いもんには負けんじゃろ。613wbswv27l__sl1200__2
弟子:それにしても50周年で3枚組アルバムってどういうことなんですか。ひょっとしてベスト盤じゃないでしょうね。いまさらそんなものを出しても売れないでしょう。ファンなら今までのアルバムは持っているでしょうし。何か新曲とかライヴ曲とか目玉となるような企画はあるんですか。

師匠:そうじゃな、"Teacher"はUSアルバム・ヴァージョンだし、"Minstrel in the Gallery"はシングル・エディットになっておったな。他にも"Critique Oblique"はスティーヴン・ウィルソンの手でリミックスされておったぞ。これは聞き物じゃろ。それにディスク1はブルーズや初期の楽曲がおもじゃし、ディスク2は70年代のトラッド中心の聞かせる内容になっておるな。さらには最後のディスク3では、エレクトリックでハードな曲が中心になっておる。さすが1988年にグラミー賞ハード・ロック/ヘヴィメタル・アワードを獲得したバンドは違うわな。

弟子:それだけで買う人なんかいますかね。よほど熱心なファンじゃないと手に入れようと思わないでしょう。やはり年を取ってしまうと、考え方もワンパターンになってしまうんですよね。「〇〇周年=ベスト盤」とか、ストーンズも似たようなアルバムを何枚も出しているし、やはり昔気質の人は似たような傾向に陥るんでしょうね。それに、1988年のグラミー受賞はメタリカと間違えたという説もありますし、誰がどう見ても聞いても、ミスマッチですよね。会場からはブーイングは出るし、イアン・アンダーソン自身も困惑していましたよ。だから、翌年からこの賞は廃止されてしまったじゃないですか。ハード・ロック部門とヘヴィ・メタル部門に分かれちゃいましたし。

師匠:いやいや、そうじゃなくて、このアルバムの選曲はイアン・アンダーソン自身がセレクトしとるのじゃ。50周年だから50曲じゃな。さらには国内盤が出ているということは、それだけ需要があると認められたわけじゃろ。ジェスロ・タルもまだまだ根強い人気を誇っておるのじゃ。だから国内盤には、日本のファンに向けてイアンの直筆メッセージが載せられているんじゃよ。81zn0bds8tl__sl1144_
弟子:直筆といっても印刷ですからね。それじゃなくて音楽で勝負してほしいですよね。イアンのソロもいいですけど、ジェスロ・タル名義で出してほしいですね。

師匠:ジェスロ・タルは昔からベスト・アルバムを出すのが恒例になっているんじゃ。70年代でも編集盤も入れて3枚の公式ベスト・アルバムを出しているぞ。イアンは定期的に過去を振り返ることで自分たちの音楽性を確認するとともに、これからの方向性を定めていく必要があるからと理由を述べていたな。その後も20周年、25周年、30周年と定期的に出しておるしな。もう習慣化しとるな。

弟子:要するに、ファン泣かせのバンドですよね。ベスト盤なら70年代から80年代、90年代から2000年代と、時系列で区切って出せば新たなファン獲得にもつながると思うんですよ。どのベスト・アルバムも同じような曲が収められているんじゃ、1枚あれば十分だと思うんですけど。

師匠:いろいろ言う前に、とりあえずはこの50曲を聞いて、その音楽性の豊潤さや多様性を味わってほしいな。一筋縄でいかんのがジェスロ・タルの凄さじゃよ。“半端ないって、ジェスロ・タルは”が合言葉じゃ。

弟子:何を言ってるんですか。私に“そだねー”を言わせたいんですか、今年の流行語じゃないんですからね。

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2018年12月24日 (月)

エジプト・ステーション

 今日はクリスマス・イヴということだった。バブルの頃は、日本中が何かに浮かれていたような感じで、高級宝飾品が飛ぶように売れ、一流ホテルは一年以上前からブッキングされて満室状態という様子だった。最近のクリスマス・イヴは、みんなどういうふうに過ごしているのだろうか。

 自分が若かった時、クリスマス・イヴの夜に街に繰り出すと、飲み屋はどこもガラガラ状態で何故か異様にチヤホヤされたことがあった。店員さんは頻繁に話しかけてくるし、おしぼりやお水を持ってくるなどの接客が半端ではなかった。他にお客がいないのだから仕方がないことなのだが、独身の人たちは恋人や友人と過ごすだろうし、家庭を持っている人はこの日ばかりは家族で過ごしたのだろう。そんな思い出がクリスマス・イヴの日にはある。

 それで神聖なそんな日に相応しいアルバムを紹介しようと思う。イギリス人の貴族であるサー・ポール・マッカートニーが今年の9月に発表したアルバム「エジプト・ステーション」である。アルバム・ジャケットは、ピラミッドの壁画のような横6面体の変則ジャケットだった。これはポール自身が1988年に制作したペインティングであり、絵の中に象形文字も書かれているという。81xh4mfzl__sl1000__2
 何しろ5年ぶりのニュー・アルバムということで事前の期待も高かった。しかも10月31日からは「フレッシュ・アップ・ジャパン・ツアー」という来日公演も予定されていたから、これはもう話題殺到だった。
 このアルバムは全16曲(国内盤はボーナス・トラック付きの18曲)が収められていて、約57分(国内盤は約64分)の間、ポールの楽曲に合わせてトリップ出来るということが謳われていた。

 どういうことかというと、今作はポールというか、ザ・ビートルズが得意としていたコンセプト・アルバムで、“エジプト・ステーション”という架空の駅を舞台に、人々が自由に往来するというテーマだったからだ。ポールは“1時間のヘッドフォンの旅”という譬えをしていたけれど、その通りだと思った。Main_2
 このアルバムについて、ポールは次のように述べていた。「最近のスターであるビヨンセやテイラー・スウィフトなどのアルバムはヒット・シングルの寄せ集めに過ぎない。ピンク・フロイドやザ・ビートルズのような流れがそこにはないんだ。それにテイラー・スウィフトみたいなミュージシャンには勝ち目がないし。何しろ足で負けているからね。
 自分は何が得意かというと、コンセプト・アルバムなんだ。全体を通して流れがあり、どこかに連れて行くようなアルバムだよ。新作はそんなアルバムだし、ジャケットにもエジプトの象形文字が含まれているからね」

 「このアルバムは駅のざわめきから始まる。駅の中に入ると、聖歌隊の歌声が聞こえてくる。ざわめいた駅が神聖な場所へと姿を変えるんだ。トリップだよ。そして、最後も駅に戻ってくる。それがコンセプトだよ。好きな曲だけ飛ばして聞きたい人はそうしてもいいし、全曲を聞きたい人は最後まで聞いてほしいな」

 というわけで、御年76歳にもかかわらず、音楽に捧げるこの情熱や創作欲には、ただただ頭が下がるばかりである。
 普通なら引退してもおかしくない年齢だし、実際、昔は名を馳せた有名ミュージシャンやバンドも引退状態で、最新アルバムは過去のアルバムのリマスター盤か、せいぜい最新ライヴ盤を出す程度だ。やっていることはどちらも過去のヒット曲というだけで、確かにファンなら喜ぶだろうが、そこには進歩も成長も見られない。

 ところが、ポール・マッカートニーは違う。2013年には「アウト・ゼア・ツアー」で11年振りに来日を果たしたかと思うと、2015年、2017年と立て続けに来日してツアーを行っている。そして今年もそうだった。その間に新作をレコーディングしていたのだから、この人の精神構造というか、創作意欲はいったいどこから湧いてくるのだろうか。まさに“メロディー・メイカー”であり、“ジーニアス”という名称がふさわしいミュージシャンである。

 今の彼には“元ザ・ビートルズ”という肩書は不要だろうし、名誉やお金のために音楽を創造しているわけではないだろう。お金など使いきれないほどあるだろうし、何もしなくても著作権などでかなりの額が入ってくるだろう。
 そんな人がそれなりに苦労しながら(たぶん)、曲を書き、演奏してレコーディングを行い、アルバムにまとめるのだから、これはもう黙って耳を傾けるしかないだろうということで、早速聞いてみたのだった。

 第一印象は、ポールの特徴がよく表れているということだった。つまり起伏のあるメロディー展開を基本としながらも、木管楽器や金管楽器、シタールなどの様々な楽器を使って、ロックからバラード、ダンス・ミュージック、サイケデリック風味の曲などが混然一体となりながらも、トータル・アルバムとしてリスナーに迫ってくるのである。

 今までのポールの音楽の集大成という見方もできるし、総合力を結集したともいえるだろう。個人的には1978年のアルバム「ロンドン・タウン」のような雰囲気があったし、それに1982年の「タッグ・オブ・ウォー」のようなコンセプトと曲の流れを加えたようなそんな感じがした。712tldatj4l__sl1094_
 プロデューサーは、アデルやベック、フー・ファイターズ等のアルバムを手掛けていたグレッグ・カースティンという人で、元々音楽大学を卒業したジャズ・ピアニスト出身の作曲家兼スタジオ・ミュージシャンだった人だ。
 ただ1曲"Fuh You"という曲についてはライアン・テダーという人が担当していて、これはスケジュールの都合上でそうなったようだ。

 普通のミュージシャンなら、プロデューサーが戻ってくるまで待つとか、自分でできるところまで進めておくとか、そういう方法をとると思うのだが、ポールはどうしても待てなくて、急遽探してきてようだった。ミューズの神が下りている間に、何とかやり遂げたかったのだろう。天才型ミュージシャンはやはり普通の人とは違うのである。

 このライアンという人も凄腕のプロデューサーで、エド・シーランやアデル、ビヨンセなどとも共演している。そういう人に声をかけて、すぐに担当させることができるというのも凡人には程遠い行いだろう。

 ライアンは、ポールに電話で何をしたいのかと聞いたらしい。するとポールは、「ヒット曲だ」と答えると、ライアンはすかさず「それなら僕に任せて。世界はヒット曲が大好きだから」と言った。確かにヒットする要素はある曲だった。
 それでも時にはポールは、曲の上に即興で歌詞をつける作業に怒りを露わにして、「僕には意味のある曲を書いてきたというキャリアがあるのに、いま行っていることには意味があるのか」と憤ったという。この辺はジェネレーション・ギャップの表れかもしれない。

 ライアンとは3曲ほど一緒にレコーディングしたそうだが、そのうち1曲がアルバムに収録された。残りの曲はいずれ世に発表されるに違いない。そんな未発表曲を集めれば、すぐに3枚組の、いやそれ以上のボックス・セットくらいはなるだろうなあ。

 全16曲のうち、冒頭の曲と15曲目は短いインストゥルメンタル曲だ。曲というよりは環境音楽といってもいいかもしれない。
 2曲目の"I Don't Know"と3曲目の"Come On To Me"が両面シングルとして発表されたもので、"I Don't Know"がピアノ中心の穏やかな曲で、"Come On To Me"の方はエレクトリック・ギターやピアノ、ハーモニカ、ブラス・セクションなどが使用されたミディアム・テンポのややハードな曲だ。インタビューの中では、"I Don't Know"はポールがこのアルバムの中で一番好きな曲と答えていた。

 4曲目の"Happy With You"はアコースティック・ギターがメインの楽曲で、肩の力を抜いたようなリラックスした状態で歌っている。ここまでの曲の流れが「ロンドン・タウン」の最初の方の曲と似ていると感じたのだ。
 ただ残念なことに、声自体の衰えは否定できない。もし20歳代のポールが"Happy With You"を歌ったならば、"Mother Nature's Son"や"Blackbird"、"I Will"と比較されるほど話題になっただろう。

 それでも"Who Cares"ではしっかりとシャウトしているし、"Fuh You"でも高音部までしっかりと歌い上げている。76歳になってもここまでできるのだ。奇跡の76歳、自分もこうなりたいものである。
 12弦ギターの弾き語りというか、コード・カッティングをバックに歌っている"Confidante"を挟んで、平和を訴えた"People Want Peace"、ピアノ主体のバラード曲"Hand in Hand"と続いていくが、この辺は比較的おとなしめの曲が続いている。年相応というべきか、そういう意図があるのか、よくわからない。

 10曲目の"Dominoes"あたりから少しずつ様相が異なって来ていて、"Dominoes"は転調の多いミディアム・テンポの曲で、「バンド・オン・ザ・ラン」や「ヴィーナス・アンド・マーズ」の頃の佳曲を思い出させるし、ラテン音楽にインスパイヤされた"Back in Brazil"はポールのアイデアの豊富さを示している。

 "Do it Now"もまたピアノがメインのスローな曲で、後半にストリングスが用いられて壮大な風景が現出する。一旦終わったかと思ったら、また復活するところもかつての曲のアイデアを拝借しているようだ。冬景色の中の家の中で、暖炉の前でうたた寝をしているような気持ちにさせられる。3分17秒しか何のだが、5分くらいの長い曲に感じさせてくれた。

 "Caesar Rock"は“She's A Rock”との掛詞のようで、ポールの遊び心満載の楽曲に仕上げられている。全く意味不明の歌なのだが、その意味不明さが、逆に面白さに拍車をかけている。曲調も勢いがあって、なかなかインパクトがある。

 アルバムの中で一番問題作なのは、14曲目の"Despite Repeated Warnings"だろう。誰が聞いてもこの歌は、世界で一番有名な大統領のことを指しているということが分かるだろう。“Captain is Crazy”というところが痛快無比、拍手喝采である。
 楽曲の展開は、シングルの"Band on the Run"に似ていて、転調に次ぐ転調で、グイグイと引き込まれて行く。6分58秒の大作だが、まだまだこういう曲が書けるところが、並の老人ではないのである。

 オリジナルでは最後の曲、"Hunt You Down/Naked/C-Link"は、タイトル通りのいくつかの曲のイメージを合体させたもので、これもまた6分22秒と長い曲になっている。

 このアルバムの中では、一、二を争うほどのかなりハードな"Hunt You Down"からロッカ・バラードの"Naked"、ピンク・フロイド風のプログレッシヴ・ロック的な"C-Link"へと連なっていく。1973年の「レッド・ローズ・スピードウェイ」の中に"Loup"という曲があったが、あれを少しブルージィーにしたような感じだ。デヴィッド・ギルモアだったら喜んでギター・パートを担当しただろう。

 このアルバムは世界中で評価され、商業的にも成功している。本国イギリスでは最高位3位で終わったが、ドイツやスコットランドでは1位、ベルギー、オランダ、オーストリアなどのヨーロッパの国々でも2位などを記録しているし、アメリカのビルボードでは「タッグ・オブ・ウォー」以来、36年振りにNo.1に輝いている。Http___i_huffpost_com_gen_2890924_i
 今年の7月26日に、リバプールのキャバーン・クラブでシークレット・ギグを行ったポールだが、このアルバムの中から"Come On To Me"、"Confidante"、"Who Cares"、"Fuh You"の4曲が披露された。ポール・マッカートニー、まだまだその能力には翳りは見えないようだ。

*ポールのインタビューに関しては、雑誌「ロッキング・オン」の10月号と11月号を参考にしました。

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2018年12月17日 (月)

ザ・スリルズ

 いよいよ今年も残り2週間余りになってきた。時が経つのは早いものである。それで年末ということで、今年1年間を振り返ろうと思った。
 今年の夏に、このブログの中で90年代から2000年代に活躍したマイナーなブリティッシュ・バンドを書き綴ってきた。だいたい10個くらいのバンドだったと思うけれど、その中にもう一つバンドを書き忘れていた。

 それで今回は、そのバンドについて紹介してみたい。アイルランドのダブリン出身の5人組、ザ・スリルズのことである。
 このバンドは、マイナーには違いないけれど、日本にも来日公演しているので、決して無名ではない。このブログを読んでいる人はごくわずかだと思うけれど、そんなわずかな人の中にもこのバンドのことを知っている人は、いると思っている。

 彼らはダブリン郊外の小さな港街のブラック・ロックというところで結成された。バンド・メンバーは5人で、ボーカルのコナー・ディージーとギターのダニエル・ライアンが幼馴染だったことから、2人で音楽活動を始め、徐々にドラマーやベーシストが集まってきた。
コナー・ディージー(ボーカル)
ダニエル・ライアン(ギター&ボーカル)
ベン・キャリガン(ドラムス)
ケヴィン・ホラン(キーボード)
パドリック・マクマーン(ベース・ギター)P01bqdm8
 彼らの音楽性は、ズバリ70年代初期のウェストコースト・サウンドである。もう少し正確に言うと、60年代のポップなテイストを備えたウェストコースト・サウンドというべきだろう。
 コナーとダニエルの2人は、子どもの頃からサイモン&ガーファンクルやエルトン・ジョン、ロネッツ、ゾンビーズなどを聞いて育ったそうで、自分たち自身もそういう音楽をやってみたいと思っていたそうだ。

 だから、基本はポップなロック・サウンドだった。やがてはニール・ヤングやザ・バーズなどにも影響を受けていった。
 活動開始時期は、はっきりとはわからないが、90年代の半ば以降だと思われる。その時はまだアルバム・デビューする前だったから、アマチュア・バンドでの活動だった。

 転機が訪れるのは1999年だった。この時彼らはアメリカ西海岸のサン・ディエゴに約4ヶ月間滞在した。理由は、バンド内がギクシャクしていて解散状態だったのを回避しようとしたからだという。
 幼い頃からあこがれ続けていたアメリカ西海岸の音楽や文化をじかに触れようと思って、どうせ解散するなら最後にみんなで体験しようと思ったらしい。

 この時彼らは、それまであまり耳にしていなかったマーヴィン・ゲイやビーチ・ボーイズ、バート・バカラック、フィル・スペクターなどを知り、愛聴するようになった。そして、音楽観が変わっていったという。
 コナー・ディージーは、その時の様子をこう述べていた。「あの時アメリカに行ってなければ、僕たちは解散してしまっていただろう。あの時の経験がみんなをもう一度奮い立たせてくれて、僕たちの音楽を見つめ直すことができたんだ」

 それで、彼らはダブリンに戻り、バンド名を“ザ・スリルズ”として音楽活動を再開した。バンド名は、マイケル・ジャクソンのアルバム「スリラー」とフィル・スペクターがプロデュースしていたガールズ・グループ名をヒントにしてできたと言われている。
 彼らは、その後約2年間アイルランド中をライヴして回り、ついに2001年にイギリスのヴァージン・レコードと契約を結ぶことができたのである。

 彼らはアマチュア時代から有名だったようで、元スミスのモリッシーも自分の公演のオープニング・アクトに彼らを指名しているし、デビュー後も当時オアシスのノエル・ギャラガーやコールドプレイのクリス・マーティンから絶賛されていた。

 そんな彼らが発表したのが、2003年の「ソー・マッチ・フォー・ザ・シティ」だった。まさに彼らの魅力満載のアルバムで、ちょっとロックっぽくなった“ウォール・オブ・サウンド”といった感じだった。
 非常に聞きやすくてポップだし、ところどころサイケがかったところもある。その辺のバランスが見事だと思う。41gvjk778fl
 1曲目の"Santa Cruz"はザ・バーズのようなキラキラとしたポップなメロディーにハーモニカとバンジョー、短いコーラスが絡み合って、自分たちの音楽性を忠実に反映している。この曲は2002年にシングルとして発表したときは、さっぱり売れなかったが、翌年に再発したときは、英国シングル・チャートで33位まで上昇している。

 "Deckchair and Cigarettes"はゆったりとした曲展開やバックの厚いキーボード・サウンドが、アメリカのサイケデリック・バンドのマーキュリー・レヴに似ている。決して陽の当たる西海岸のポップ・サウンドだけを再現するようなバンドではないということがわかるだろう。

 このアルバムの中で大ヒットした曲は"One Horse Town"で、まさにアップテンポでメロディアスなアルペジオや要所要所で的を得た美しいコーラスなどが耳をとらえて離さない。彼らの代表作だろう。
 逆に、"Old Friends, New Lovers"は、ストリングスも使用されていて、日曜日の午後にまどろむときに相応しい美しいバラードだ。フィル・スペクターが聞いたらきっと喜ぶに違いないだろう。

 こういうポップ感満載の音楽が売れないわけがない。ということで、このアルバムは全英チャートの3位を記録し、ノルウェーなどの北欧でも商業的に成功した。
 母国アイルランドでは、当然のこと1位を記録し、トップ75位の中に61週間も留まっていた。
 この時日本にも来日して、単独公演を行ったり、フジ・ロック・フェスティバルに参加したりしている。

 この成功に気をよくした彼らは、翌年の2004年にセカンド・アルバム「レッツ・ボトル・ボヘミア」を発表した。前作がどちらかというとドリーミーでポップな楽曲が中心だったが、このアルバムでは前作以上にロック色が強まっていた。61vhdlw59sl
 それは1曲目の"Tell Me Something I Don't Know"の冒頭のギター・カッティングでもわかると思うし、続く"Whatever Happened To Corey Haim?"のバート・バカラックmeetsバッファロー・スプリングスフィールドのような緩急つけたアップテンポなストリング・サウンドが証明している。

 デビュー・アルバム発表後に数多くのライヴを経験し、さらにストーンズやボブ・ディランのオープニング・アクトを務めたことなどもよい効果を及ぼしたのだろう。個人的には、このセカンドは大好きだった。
 チャート的にも、アイルランドで1位は当然だとしても、イギリスでもアルバム・チャートでは最高位9位を記録したし、ヨーロッパの国々でもチャートに顔を出している。

 やはり成功することは大事なことのようで、このアルバムではアメリカ人ミュージシャンのヴァン・ダイク・パークスが3曲目の"Faded Beauty Queens"ではアコーディオンを、10曲目の"The Irish Keep Gate-Crashing"では、ストリングスをアレンジし、指揮までとっている。  
 また、当時のR.E.M.のギタリストだったピーター・バックも"Faded Beauty Queens"ではマンドリンを、9曲目の"The Curse of Comfort"ではギターで貢献していた。

 この年はまた、“バンド・エイド・2004”に参加したり、“ライヴ8”のエディンバラ公演で楽曲を披露したりと、彼らの人気もピークに達していたようだった。この時の模様はDVDでも収録されている。

 この後彼らは、休暇を取っている。デビュー以来約3年間、ひたむきに走り続けたせいだろう。ただし、完全な休みではなくて、次作に向けてのアイデアを練ることも忘れなかった。この間に多くの曲が出来ては捨てられていった。一説には、約30曲が録音されたが、最終的にアルバムに残ったのは11曲だったと言われている。

 その11曲を収録したアルバムが「ティーンエイジャー」で、前作から約3年後の2007年に発表された。61sdoroiuhl
 今までもよりもアイリッシュ風味が強調されていて、冒頭の"The Midnight Choir"などは、21世紀の"Maggie May"といってもおかしくないほどの上質なトラッド・ソングだった。

 アルバムの最初から4曲目までは、マンドリンやアコースティック・ギターがフィーチャーされていて、ブリティッシュ・トラッドが好きな人にはたまらないと思う。
 逆に、アメリカ西海岸風な爽やかなハーモニーやポップネスは消えていて、フィル・スペクターやバート・バカラックはどこかに隠れてしまったようだった。

 また、5曲目の"I Came All This Way"などは、まさにザ・バーズのような12ストリングス・ギター・カッティングが印象的で、そういう面ではまだアメリカ西海岸テイストは失われてはいないようだった。
 それに、ほとんどの曲がアップテンポかミディアム・テンポの曲で、時間にして約40分55秒、潔さというか歯切れがよいというか、ノンストップで畳み掛けるかのように彼らの魅力が迫ってくるのである。

 このアルバムの中でスロー・バラードといっていいのが、アルバム・タイトルにもなっている9曲目の"Teenager"とその次の"Should've Known Better"だろう。前作にはティーンエイジャー特有の倦怠感というか物憂げな雰囲気が上手に表現されている。
 "Should've Known Better"にも"Teenager"で使用されたスライド・ギターが効果的に使用されている。この2曲はまるでアルバムの中の双子のようだった。驚くほど雰囲気がよく似ている。

 そして楽曲のレベルに関しては、非常に高い。彼らの3枚のアルバムの中で一番充実しているのがこのアルバムではないだろうか。やはり約3年間のインターバルは必要だったのである。
 このアルバムは、カナダのヴァンクーヴァーにあるブライアン・アダムスが所有するスタジオで録音された。ゲストに前作にも参加したピーター・バックと同じR.E.M.の当時のギタリストだったスコット・マッコウィーが、アルバムの所々でギターを弾いている。

 ただ残念ながら、力が込められて制作されたアルバムにもかかわらず、商業的には失敗した。英国アルバム・チャートでは48位、母国アイルランドでも24位と振るわなかったのだ。その結果、ヴァージンEMIから契約を解除され、彼らは活動休止に陥った。2004年当時と比べれば、まさに天と地の違いになってしまったのである。

 その後、彼らは個人活動を開始して、ドラムス担当だったベンはソロ・アルバムまで発表している。
 彼らは解散宣言はしていないが、2011年にはベスト・アルバムも発表されているし、もう10年以上も活動を休止しているから実質的には解散しているといってもいいだろう。100_emi5099908497352
 ネット上では彼らの活動休止を惜しむ声は多いようだし、まだまだ忘れられていないようだ。確かに以前のような爆発的な人気は望めないだろうが、このままポピュラー・ミュージック史の中に消えていくのはもったいないバンドだと思っている。

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2018年12月16日 (日)

クリムゾン来日公演

 キング・クリムゾン結成50周年記念ということで、7回目の来日公演が行われた。今回は、11月27日の東京オーチャード・ホールから始まって、12月21日の名古屋センチュリー・ホールまで約1か月間、15回のロング・ランだった。Kingcrimson2018flyer
 公演タイトルは、「アンサーティン・タイムズ・ジャパン・ツアー2018」というもので、何故こういうタイトルになったのかはよくわからない。ただ、公演パンフレットにはロバート・フリップによって、このように書かれていた。

 『通常50周年記念といえば人生や展開中の物事の過程における意義深い岐路として祝賀されるものであり、King Crimsonの50周年記念も慣例に従い様々な形での祝賀が予定されている。
 しかし私にとっては、むしろ49周年記念の方が重要な意味を持つ。なぜなら、それは複数の過程に内在するあるひとつの過程が完了することを意味しつつ、再度の新たな始まりの可能性をも意味するからだ。(中略)未知で不安定な時代において、時おり分別のある人間は絶望に打ちひしがれる。しかし、「希望」は法外な面を持ち、「愛」はさらに偉大である』

 相変わらず小難しいことを仰るフリップ翁であるが、この不安定な時代の中で唯一確かなのは、我々の音楽であり、それを伝導するために公演を行っているということだろうか。そしてまた、我々クリムゾンとファンとの間に存在する関係性こそが、音楽を通して確かなものになるということを訴えているような、いないような気がした。

 それはともかく、自分は今世で最後となるであろうキング・クリムゾンのコンサート会場に足を運んだのである。
 しかも貧乏人のくせして、思わず公演パンフレット2500円とトートバック1500円を買ってしまった。しかもこのパンフレット中身がスカスカなのだ。映画のパンフと同じように、メンバーの詳しい略歴とか、バンド・ヒストリーが記載されていると思ったら、単なるメンバー写真と短いコメントだけだった。立ち読み出来たら買ってなかったと思っている。2
 今回のクリムゾンは、第何期にあたるのだろうか。フリップ翁に言わせれば、今回は8人編成ということで、「ダブル・カルテット・フォーメイション」というらしい。ギタリストが2人にベーシストが1人、サックス奏者が1人とキーボーディストが1人、そしてドラマーが3人だ。(そのうち1人はキーボードも演奏する)

 今まで何回かライヴ会場に足を運んだが、スマホや携帯電話による写真撮影や録音がこれほど厳しくチェックされたライヴは初めてだった。
 実際、私の前にいた男性は公演前のステージの様子をスマホで写真に撮っていたのだが、係員に見つかってしまい、全部消去させられていた。おまけに最後には、これ以降撮影されますと退去させられるかもしれませんのでご注意くださいと念を押されていた。

 ただ公演前のアナウンスでは、すべての演奏が終了後、トニー・レヴィンがカメラを取り出したら写真をとってもいいと言っていて、確かに最後は撮影大会になっていた。
 たぶんクリムゾン側は、すべての公演の音源を録音しているのだろう。それでいいものはCD化されるのだろう、あの2015年の高松公演のように。

 今までのキング・クリムゾンは、約3年ごとにメンバー・チェンジをしてきたが、このトリプル・ドラム体制になってからは、一時メンバーの交代はあったものの、約5年ほど続いている。よほどみんなは満足しているのだろう。

 3人のドラマーとは、アメリカ人ドラマーのパット・マステロットとキーボードを兼任するジェレミー・ステイシー、ポーキュパイン・トゥリーのメンバーだったギャヴィン・ハリソンだ。
 この3人の中で、リーダー格はパットだろう。彼はシンセサイザー・ドラムからパーカッションまで手広く担当していて、もちろん実力は折り紙付きだ。ジェイミー・ミューアの役割も兼ねているように見えた。

 ギャヴィンはロック・ドラマーのようだったし、ジェレミーはキーボードも時おり演奏するから、時々、トリプルからダブル・ドラムになっていた。
 また、彼ら3人はステージの前方に横一列に並んでいて、後ろにメル・コリンズやトニー・レヴィン、ロバート・フリップなどが並んでいた。ライヴの出だしは、3人のドラム・ソロから始まったから、まるで“ドラム・タオ”のような感じがした。2018120500106609roupeiro00011view
 正確なセット・リストはよくわからない。70年代からクリムゾンを聞き続けてはいるのだけれど、“クラシック・クリムゾン”の曲ぐらいしかわからなかった。
 全体は2部構成になっていて、第1部が約1時間20分、20分の休憩の後、第2部が約1時間少々、午後7時から始まって午後9時50分過ぎに終わった。

 “クラシック・クリムゾン”の曲は、第1部の3曲目あたりで"Cadence and Cascade"が演奏された。この時、ジェレミーもキーボードを演奏していたので、ドラムはパットとギャヴィンだった。
 さらに、"One More Red Nightmare"、"Epitaph"なども演奏された。こういう曲は自分のようなオールド・ファンにとってはうれしいものである。

 "Epitaph"の時のキーボード・プレイは、ビル・リーフリンとジェレミーが担当していたが、ビル・リーフリンの方がメロトロン風のキーボードを演奏していたようだ。ただ、キング・クリムゾンにおけるキーボードの比重はそんなに高くはなく、もちろんキース・エマーソンのようなソロ演奏はなかった。
 このビル・リーフリンという人は、元々はドラマーとして活躍していたアメリカ人ミュージシャンで、クリムゾンに入る前はシアトル周辺のグランジ・ロック系のバンドに在籍していた。キーボードも弾けるとは芸達者である。そういえば、イエスのアラン・ホワイトもピアノを演奏していたから、ドラマーとキーボードとは縁がありそうな気がする。

 それから"Islands"も演奏された。この時の客席の反応はというと、一瞬、間をおいてから一気に盛り上がっていった。でも、曲自体が静かな曲だったので、静かに盛り上がったと言った方が正しいだろう。

 昔から思っていたけれど、昔というのは彼が21th・センチュリー・スキッゾイド・バンドにいた時からだけど、そんなにボーカル上手だったかなあと思っていた。もちろん、彼とはボーカル&ギターのジャッコ・ジャコジスクのことだ。
 ジャッコは元クリムゾンのメンバーだったマイケル・ジャイルズの娘と結婚していて、そういう意味でも、クリムゾンとは縁があったのだろう。

 それで彼のボーカルは、グレッグ・レイクよりは深みがないし、ジョン・ウェットンより声量もない。バックの演奏に負けているといつも思っていたのだが、実際のライヴで聞いてみると、声の伸びはないものの、高い音も出せるし声に張りもある、そんなに悪いものではないし、新生クリムゾン(そんなに新しくはないけれど)には合っているように思えてきた。不思議なものである。

 第2部では、"Discipline"、"Easy Money"、"Larks' Tongues in Aspic partⅡ"などが演奏されたが、一番驚いたのは"Moonchild"が演奏されたときだった。これは「ライヴ・イン・トロント」や「ライヴ・イン・シカゴ」では演奏されていなかった。かろうじて最近発表された「ライヴ・イン・メキシコ」では演目に上がっていたけれども。71lmascp7l__sl1200_
 まさかの"Moonchild"だった。生きてこの曲を生で聞けるとは思ってもみなかった。生きててよかったと思っている。しかも、この曲から続けて"The Court of The Crimson King"が演奏されたのだから、これはもう驚天動地、欣喜雀躍、狂喜乱舞、言葉にならないくらいの歓喜だった。
 そして最後は"Starless"である。これは長かったなあ。実際は15分くらいだったのだろうけれど、20分以上に感じた。だけど名曲は名曲。これを本編の最後にもってくるあたりは、さすがロバート・フリップ、ファン心理や自分たちの立ち位置をよくわかってらっしゃる。

 そして一旦中断して、お約束のアンコールである。そう、あの曲をまだ聞いていない、ファンならだれでも思うはずだ。その曲を今か今かと待ちわびていると、3分くらいで戻ってきた。カップラーメンができるかできないかの時間だ。ウルトラマンならもう倒れかかっているかもしれない。

 アンコールは1曲だけ。それでも期待通りの"21th Century Schizoid Man"は貫禄があったし、一人一人が目立っていた。ドラム・ソロも含まれていたからこの曲も20分近くあったような気がした。
 同じ演奏は二度とないのがクリムゾンのよいところだと思っている。この曲も他のライヴ・アルバムで聞く曲とはどこかが違っているのだろう。9459602709_7c769507c5_z
 とにかく安心してみていられるのが、メル・コリンズとトニー・レヴィン、御大ロバート・フリップである。メル・コリンズは周りに透明のアクリル板を立てていて、自分の音をフォローしていたようだった。
 トニー・レヴィンは、ロバート・フリップを除けば、キング・クリムゾンでの在籍期間が一番長いミュージシャンになってしまった。この人も器用な人で、チョップマン・スティックやエレクトリック・アップライト・ベース、4弦や5弦のエレクトリック・ベースを弾きこなしていた。

 フリップ翁は、いつものようにヘッドフォンをして椅子に座り、ギターを奏でていた。自分の席から反対側にいたのでよく見えなかったのだが、とにかくほとんど動かなかった。こういうロック・ギタリストは珍しい。これで50年間生き抜いてきたのだから、やはり名を成した人は違うものである。

 もう二度と会えないかもしれないキング・クリムゾンである。まさか中学生の時に聞いたあのアルバムの曲を、目の前で聞くことができるとは思えなかった。欲を言えばきりがないが、「ポセイドンのめざめ」、「リザード」や「アイランズ」の中からの曲ももっと聞きたかった。組曲"Lizard"なんかはどんなふうに演奏されるのだろうか。

 基本的には、その日のセットリストは、その日の朝にフリップ翁が決めると言われている。40~50曲のうちから選ぶのだから、さすが英国伝統技能集団はレベルが違う。服装もきちんとスーツ姿が目立っていたし、プライドと自覚はレベル5並だろう。

 ただ、進化するキング・クリムゾンである。トリプル・ドラムになったのも、8人編成になったのも、ひたすら自分たちが望む音を追及した結果だろう。デビューして50年たっても懐メロバンドにならないのがキング・クリムゾンの偉大な点である。メンバーはやや高齢化してきたけれども、まだあと10年くらいはできるのではないだろうか。

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2018年12月10日 (月)

ライヴ・アット・リーズ

 “レコードの時はショボかったけど、CD化されてお買い得になったアルバム”シリーズの最終回である。前回はアメリカン・ロックを代表して、オールマン・ブラザーズ・バンドのライヴ・アルバムだったが、今回はブリティッシュ・ロックを代表して、ザ・フーのアルバムについて記したい。Thewho
 ザ・フーが初めて発表したライヴ・アルバムが「ライヴ・アット・リーズ」だった。これはザ・フーがイギリス北部にある地方都市の大学で行った公演をレコーディングしたものであり、最初からライヴ音源として発表することを意図して企画されたものだった。

 公演が行われたのは、1970年の2月14日である。ザ・フーは、前年の5月に歴史的名盤であるロック・オペラの2枚組スタジオ・アルバム「トミー」を発表していて、その後アルバムのプロモーションも兼ねてツアーで演奏して回り、アルバム全曲を披露することで彼らの人気はますます高まっていった。また、ツアーにはあのウッドストックでのライヴ演奏も含まれていて、彼らの人気はアメリカでも急上昇していった。

 このアルバムとツアーの成功で、彼らはそれまでのシングル・ヒット中心のロック・バンドから攻撃的で破壊的なステージングのみならず、文学的で哲学的なロック・バンドとして認められるようになったのだが、当時の彼らの最高のパフォーマンスを記録として残すと同時に、世の中に発表したのがこのリーズ大学でのライヴ演奏だったのである。

 この時の様子を、バンド・メンバーのピート・タウンゼントは、次のように語っていた。「このアルバムには、当時の俺たちの音には、並外れた流動性があるってことを証明しているんだ。恐ろしいほどのパワーが漲っていた。
 そして、ザ・フーにとって重要なことは役割が逆転していたってことだ。つまり、リード・ギターがベース兼ドラムスで、ベースとドラムがリード・ギターの役割を果たしていた。それでもベースとドラムは、リード・ギターに支えられてリズムをリードしていたっていうのかな。疑問に思うかもしれないけれど、この素晴らしいやり方がとてもうまく作用していた。8トラックでレコーディングしたわりには良く録れたと思うよ」Maxresdefault
 この「ライヴ・アット・リーズ」のプロデューサーも兼ねていたピートだから言える言葉だろう。このライヴ・アルバムに行きつくまでに、彼らはイギリスやアメリカで行ったライヴの模様をレコーディングしていたのだが、なかなか満足するものがなかったらしい。
 それで、彼らはリーズ大学で移動式のレコーディング・システムを持ってきて録音したのだが、万一、うまく行かなかったことを考慮して翌日もレコーディングを行った。これが世に名高い“ハル公演”である。

 結局、「ライヴ・アット・リーズ」は、1970年の5月に発表されたのだが、当然その時はレコード形式だったので、全6曲、約36分として収録された。
 それでもこのアルバムは、圧倒的な高評価を受けて、全英で3位、全米で4位を記録し、当時最高のライヴ・アルバムといわれていた。ちなみにその6曲とは、次のようなものだった。
サイドA
1.Young Man Blues
2.Substitute
3.Summertime Blues
4.Shakin' All Over
サイドB
1.My Generation
2.Magic Bus61dorxcsjjl__sl1184_
 今の時代からは信じられないのだが、たった6曲で“最高のライヴ・パフォーマンス”と呼ばれるくらいだから、どれだけ彼らのエネルギーというかパワーが凝縮されていたのだろうかと思ってしまう。それだけ彼らのライヴ・アルバムを待望する機運が高まっていたのだろうし、それだけでなく、実際にレコードを通して、凄まじい彼らのライヴ・アクトを経験することができたからだろう。

 そして、1995年に「“ライヴ・アット・リーズ”25周年記念アルバム」が発表され、それにはほぼ当日のセットリストに従って14曲が収められていた。41nlgxragml
1.Heaven And Hell
2.I Can't Explain
3.Fortune Teller
4.Tattoo
5.Young Man Blues
6.Substitute
7.Happy Jack
8.I'm A Boy
9.A Quick One, While He's Away
10.Amazing Journey/Sparks
11.Summertime Blues
12.Shakin' All Over
13.My Generation
14.Magic Bus

 御覧の通りに、オリジナル盤より8曲も増えている。これはやはり“レコードの時はショボかったけど、CD化されてお買い得になったアルバム”に認定されてもいいんじゃないかと思っている。71mdnkayiol__sl1194_
 ただここには、当時ツアーで演奏されていた「トミー」の楽曲は含まれていなかった。いや、正確に言うと、10曲目の"Amazing Journey/Sparks"は「トミー」に含まれていたので、それ以外の曲は収録されていなかったということになる。71l0lbkof2l__sl1257_
 それでもザ・フーのファンならば、「25周年記念エディション」でも十分満足できただろう。かくいう自分もこのCDは購入してしまった。
 ところが、それを凌駕する「“ライヴ・アット・リーズ”デラックス・エディション」が2001年に発表されたのだ。31周年記念だったのだろうか。51ue6cacudl
 このアルバムは2枚組になっていて、ディスク1が"Amazing Journey/Sparks"を除く全13曲、ディスク2は「トミー」全曲、全20曲が収められていた。
 オリジナルの「トミー」は2枚組、全24曲だったから、このライヴ・ヴァージョンでは4曲が削られていた。削られた4曲は次の曲たちだった。数字はオリジナル盤の曲順を意味している。
サイドB
2.Cousin Kevin
4.Underture
サイドC
8.Sensation
サイドD
4.Welcome

 アルバム「トミー」の楽曲は、実際にはディスク1の9曲目と10曲目に演奏されていた。だから「25周年記念エディション」では、その残滓として"Amazing Journey/Sparks"が残されていたのだろう。
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 また余談だが、このエディションでは、ディスク1における"Happy Jack"と"A Quick One, while He's Away"のボーカル部分をロジャー・ダルトリーが、"Heaven And Hell"のボーカルの一部をジョン・エントウィッスルが録音し直している。つまり25年後の声を入れたわけだが、全く違和感を覚えない。レコーディング技術が進歩したせいだろうか。

 ところが、である。これで終わったと思ったのだが、商魂たくましい、いやファンの心情に寄り添ったレコード会社は(なぜかポリドールが多いような気がするのだが)、2010年に今度は「40周年記念コレクターズ・エディション」を発表したのだ。

 これにはリーズ公演の次の日に行われた「ハル公演」(ハル・シティ・ホールにおける演奏)も含められており、ハル公演でのディスク1では"Magic Bus"が収録されていなかった。(ディスク2は全20曲で同じだった)
 また、「スーパー・デラックス・コレクターズ・エディション」というのも発表されていて、これには「リーズ公演」と「ハル公演」の合計4枚のCD、オリジナルLPに7インチ・シングル、豪華写真集などが備えられていて、お値段的には25000円以上もした。当然ながら、貧乏な自分は手を出していない。41skbdqml
 さらにさらに、2014年には音楽配信、いわゆるダウンロードして聞くことができるようになり、これは当時のセットリスト通りに全33曲を通して耳にすることができる。これも有料なのはいうまでもない。
 そして、2016年にはアナログのレコード盤でも入手することができるようになって全3枚組らしいが、自分はまだお目にかかっていない。

 次は紙ジャケ化とか、「50周年記念」とかになるのかもしれない。一体いつまで続くのかわからないが、“レコードの時はショボかったけど、CD化されてお買い得になったアルバム”については、「ライヴ・アット・リーズ25周年記念エディション」までで十分なように思うのだが、どうだろうか。

 というわけで、ミュージシャンたちも高齢化すると、なかなか新作を発表できないでいるが、その代わりに今まで表に出なかった曲などを含めた既発アルバムの再編集盤が発表されるのだろう。
 それにはスタジオ・アルバムよりも、当時の“熱狂”や“興奮”が詰まったライヴ・アルバムの方がふさわしいし、ファンもそれを望んでいるはずだ。

 まだまだ探せばこのテーマに相応しいアルバムは見つかるだろうが、きりがないのでこの辺で終わらせたい。みんなで、このアルバムやあのアルバムなどと、話題にしてみるのも面白いと思っている。

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2018年12月 3日 (月)

オールマン・ブラザーズ・バンド(3)

 いよいよ師走になった。平成最後の12月になった。本来なら今年を振り返ってのアルバムなどを発表するのだが、今回と次回は、もう一度、“レコードの時はショボかったけど、CD化されてお買い得になったアルバム”について記そうと思う。

 本当は前回のチープ・トリックの項で、このシリーズは終わろうと思っていたが、もう2回分だけ、英米を代表するバンドのアルバムについては紹介した方がいいだろうと考えた。
 そして、今回はアメリカン・ロックの中から、オールマン・ブラザーズ・バンドのライヴ・アルバム「フィルモア・イースト・ライヴ」について記すことにした。81swjjuy5ql__sl1400_
 オールマン・ブラザーズ・バンドについては、以前もこのブログに書いているので、詳細は省略したいが、ごく簡単に言うと、彼らは、いわゆる“サザン・ロック”といわれるジャンルに属していて、アメリカ南部の泥臭いブルーズを洗練させ、その上で豪快で迫力のあるロックンロールを演奏していた。この“サザン・ロック”という言葉自体が市民権を得るようになったのも、このオールマン・ブラザーズ・バンドの影響といってもいいだろう。

 彼らは1969年にデビューし、2枚のスタジオ・アルバムを発表するもなかなか売れず、全米的にはまだまだ名前は知られていなかった。
 それがこのライヴ・アルバム「フィルモア・イースト・ライヴ」で一挙に全米を代表するバンドのひとつになっていき、先ほどにもあるように、“サザン・ロック”という言葉が知名度を得たのである。

 このアルバムは、1971年の発表当時では2枚組全7曲だった。当時はレコードだったから、レコード4面で7曲ということは、平均すると1面で1~2曲になる。正確に記すと、当時の曲構成は以下のようなものだった。
サイドA
1.Statesboro Blues
2.Done Somebody Wrong
3.Stormy Monday
サイドB
4.You Don't Love Me
サイドC
5.Hot 'Lanta
6.In Memory Of Elizabeth Reed
サイドD
7.Whipping Post61selz2ol_2
 このアルバムについては、全体で約78分だったから、短い曲ならもう2曲くらいは含まれていてもおかしくないと昔から思っていた。だから1989年にCD化されたときには、レコードとは違って曲数が増えているのではないかと期待していたのだが、残念ながらそうはならなかった。81ex50ndrtl__sl1411__2
 話は前後するが、このフィルモア・イーストのライヴは、彼らにとっては3度目の公演になった。一番最初は、1969年12月で、その時はブラッド、スウェット&ティアーズのオープニング・アクトだった。次が翌年の2月のグレイトフル・デッドと共演したときだった。

 ライヴ・アルバム「フィルモア・イースト・ライヴ」がレコーディングされたときは、1971年3月12日と13日の金曜日と土曜日で、週末ということもあり多くのオーディエンスが駆けつけていた。
 この時は2日間で計4回のライヴ公演が行われており、それぞれ午後8時からと午後11時30分から始まっていた。1回目と2回目の公演の間は、そんなに時間間隔があいていなかったので、午後8時からの公演は約1時間程度のコンパクトなものだった。

 ただ、13日の2回目の公演の前に爆弾予告の電話があって、ライヴは一時中断している。その後再開したのだが、最後の曲"Drunken hearted Boy"が終了したときは朝の6時を超えていたという。こういう経験はめったにないことだろう。

 彼らは1972年に、当時のレコードでは2枚組だった「イート・ア・ピーチ」というスタジオ録音とライヴ曲が混合されたアルバムを発表していて、このアルバムにも3曲のフィルモア・イーストにおけるライヴ音源が含まれていた。要するに例えていうならば、オールマン・ブラザーズ・バンド版「クリームの素晴らしき世界」だろう。61pgbqhggl__sl1400_
 そしてこの時の3曲"Mountain Jam"、"Trouble No More"、"One Way Out"が、1992年に発表された「フィルモア・イースト・ライヴ」拡大版に収録された。

 さらにこのアルバムにはそれまで収録されていなかったフィルモアでのライヴ曲、"Don't Keep Me Wondering"と"Drunken Hearted Boy"も含まれていて、全部で12曲になっていた。こうなると、確かにレコードよりは充実しているように思えるし、実際のライヴ感覚に近づいてきたように思える。

 ところが、2003年の9月に入って、このライヴ盤のデラックス・エディションが発表された。それにはもう1曲、ディスク1の最後に"Midnight Rider"という2分55秒の短い曲が収録されていて、これで全13曲という内容になった。もとのレコードから考えれば、2倍近い増量になっている。7176ppiuxl__sl1098_
 また、このデラックス・エディションでは曲順も代えられていて、実際の演奏順に近いものになっていた。ちなみに、拡大盤とデラックス・エディションの"One Way Out"と"Midnight Rider"の2曲は場所はフィルモア・イーストだが、録音時は同年の6月27日のものが使用されていた。71uiwzifkhl__sl1096_
 この6月27日というのは、この日をもってフィルモア・イーストを閉鎖するという、いわば最終公演の歴史的な日だった。出演したバンドは、オールマン・ブラザーズ・バンド以外に、J.ガイルズ・バンド、アルバート・キング、特別ゲストとして、マウンテン、エドガー・ウィンターズ・ホワイト・トラッシュ、ザ・ビーチ・ボーイズなどであった。

 そして、これでもう最終版だと思っていたのだが、ところが商魂たくましいレコード会社は、さらに「フィルモア・イースト・ライヴ」完全版を2014年の6月に発表した。これは1971年の3月12日と13日の4公演と6月27日の公演を、美しい写真集とともに6枚組のボックス・セットに収めたもので、全37曲、6時間を超える名演奏を堪能することができる。まさに歴史の目撃者を実感させるような内容になっていた。715tlbonyl__sl1295_
 とにかく長生きしてよかったと思わせるような名演奏の数々である。確かにレコードとしての音の質感や温かみなどは独特のものだし、レコードならではの味わいはあると思うのだが、せっかくの未発表の音源があるのであれば、たとえCDであったとしてもやはり聞いてみたくなるのが人情というものだ。81nrjxiu4l__sl1500_
 デュアンが亡くなってもう45年以上が経つし、弟のグレッグ・オールマンも昨年の5月に病気で亡くなった。もう再びバンドが息を吹き返すことはないだろう。"In Memory Of Allman Brothers"である。

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2018年11月26日 (月)

ライヴ・アット・武道館

 「ライヴ・イン・ジャパン」というアルバムや名称を有名にしたバンドは、やっぱりディープ・パープルだと思っている。このブログの「ライヴ・イン・ジャパン」の項でも記したけれど、彼らは最初は日本国内限定アルバムとしてしか考えていなかった。
 ところが、あまりにもこのアルバムの出来が良かったので、彼らは世界販売を決意し、その結果、2枚組ライヴ・アルバムとしては破格の売上げを記録し、結果的に「ライヴ・イン・ジャパン」という名称も広まっていったのだ。

 それと同様に、「ライヴ・アット・武道館」というアルバムや名称を有名にしたバンドは、チープ・トリックだと思っている。彼らは、ディープ・パープルと同様に、いやそれ以上に、このアルバムをきっかけに世界的なバンドに成長したからだ。

 武道館でライヴを行ったバンドやミュージシャンは、それまでにも数多く存在した。1966年にはあのザ・ビートルズも公演を行い、その模様は今でもビデオやDVD、CDなどの映像や音響作品で確認することができる。
 しかし、そのザ・ビートルズでさえも“武道館”という名前を世界的に有名にすることはできなかった。記録媒体として、公式には世界的に発表しなかったからだ。

 それをチープ・トリックは、やってしまった。彼らは1977年に、アルバム「チープ・トリック」でデビューしたものの、さっぱり売れなかった。続くセカンド・アルバム「蒼ざめたハイウェイ」は、アルバム・チャートの73位と何とか顔を出した程度だった。
 そして、日本に来る直前に発表したアルバム「天国の罠」は、バンドの良質なパワー・ポップな側面が発揮されたせいか、バンドはやっと認知されるまでになったという状況だった。

 だから、アメリカでは彼らは営業に次ぐ営業、つまり日夜を問わず、演奏できるところがあればどこでも、例えば小さなクラブやスーパーマーケットのホールでも、巡業をして回っていた。18877
 ところが、極東の小さな国では、彼らは、クィーン、キッス、エアロスミスに次いで、徐々に注目を集め始め、ついにはそれらの先輩格のバンドと並ぶほどの人気を獲得していったのである。

 当時の様子を振り帰りながら、ボーカルのロビン・ザンダーはこのように述べていた。「70年代の日本では、バンドの外見がより重要視された。バンドの個性がはっきりしている方がウケがよかった。だから個性に富んでいたチープ・トリックやキッスが日本では人気があった。彼らはすぐに僕らを受け入れてくれたんだ」

 また、当時の音楽雑誌の編集長だった東郷かおる子氏は、ローリングストーン誌の取材に対して、「それまで一番人気があったのがキッスやクィーンだったけれど、彼らはビッグになりすぎた。何か新しいものをみんなは求めていた」と答えている。

 1978年の4月下旬に、彼らは初めて日本にやってきた。もちろん日本で公演をするためだが、その中にはあの日本武道館が含まれていた。
 「エコノミークラスの窓から外を眺めていると、5000人ぐらいの人が飛行場の建物の上にいるのが見えたんだ。凄い有名人がこの飛行機に乗っているんだと思った。でも、飛行機を降りたら自分達だったいうことが分かったんだ」と、リード・ギタリストのリック・ニールセンは述べていたが、本国アメリカと異国日本との人気の違いに驚いたことだろう。

 また有名な話として、ロビン・ザンダー首刺し事件があった。手にはさみを持った女の子がロビンの髪の毛を切ろうとして、間違って首の後ろを思いっきり刺してしまったというものだった。実際はそんなに大げさなものではなくて、追いかけられたということらしかったが、怖い思いをしたことは間違いないだろう。ただロビンは、1週間はザ・ビートルズになった気分を味わうことができたとも語っていた。

 当時の日本では、CBSソニーがEPICソニーと2つに分かれるところであり、そのEPICソニー・レーベルの意向で、4月27日の 大阪厚生年金会館と、28日と30日の日本武道館の公演がライヴ・アルバム用として録音されている。
 これは余談だが、このチープ・トリックの武道館ライヴとボブ・ディランの武道館ライヴが、販売用アルバムとして、EPICソニーの設立記念のために用意されたものだった。

 そのライヴ・アルバム「ライヴ・アット・武道館」は、その年の10月に日本国内のみで発表された。このアルバムは、全10曲、約42分に編集されていて、過去3枚のスタジオ・アルバムからの曲や新曲、ジョン・レノンも歌ったファッツ・ドミノの"Ain't That A Shame"のカバー・ヴァージョンも含まれていた。81hbgtx9zl__sl1220__2
 このアルバムは、日本では当然のこと売れたが、アメリカでも最初は輸入盤がプロモーション・アルバムとして発売されて、これが7万枚以上も売れたことから、翌年の2月には正式なライヴ・アルバムとして発売された。(当時は史上最も売れた輸入盤といわれていた)
 しかもこのアルバムは、ビルボードのアルバム・チャートで4位になり、約300万枚以上も売れ、彼らの最大のヒット作になってしまった。その結果、1979年度のビルボード年間アルバム・チャートでは13位に認定されている。

 ちなみに1994年には、このアルバムの続編「ライヴ・アット・武道館Ⅱ」が発表された。実は、実際の来日公演では19曲が演奏されていて、「ライヴ・アット・武道館」に収録できなかった9曲と1979年の日本ツアーからの3曲("Stiff Competition"、"How Are You?"、"On Top Of The World")の計12曲が約52分に編集されていた。はっきりいって企画盤以外の何物でもなく、話題にはなったものの商業的な成果を得ることはできなかった。Cheap_trick_budokan_ii
 そして、1998年には「ライヴ・アット・武道館」発表20周年記念ということで、2枚組の完全盤が発表された。これは当時の来日公演における19曲をセットリスト順に並べたもので、実際のライヴと同じ雰囲気が味わえるというキャッチコピーだった。81rqx5udrql__sl1203_
 また、その10年後の2008年には今度は30周年記念ということで、4月28日の武道館における演奏を楽曲と映像の2種類にパッケージしたものが発表された。61wd7gnvnhl つまり、CDとDVDである。DVDには、当時テレビで放送されたものをDVD化したもので、まさに昇り竜のような勢いのある若い彼らを見ることができる。これぞ歴史的な記録映像といっていいだろう。81nk3jqvzl__sl1500_
 その後も、2017年にはデビュー40周年ということで、紙ジャケットの「ライヴ・アット・武道館」が発表されていて、1978年の武道館での19曲に翌79年の武道館でのライヴ3曲がボーナストラックとして追加されていた。この3曲とは、「ライヴ・アット・武道館Ⅱ」に収められた曲と同じであり、リマスタリングしたものであった。

 このように手を変え品を変え、「ライヴ・アット・武道館」は発表されている。それだけ彼らにとっては意義のあるアルバムであり、記念碑的な作品なのだ。そして、これこそがアメリカ的商業主義であり、音楽業界におけるプラグマティズムの具象化なのだろう。
 「武道館が俺たちを有名にし、俺たちが武道館を有名にしたんだ」とリックは言ったが、10年ごとに発表されるライヴ・アルバムというのも他にはないと思われる。51prmrbh2wl
 チープ・トリックの人気は、その後も毀誉褒貶というか、上昇と下降を繰り返している。80年代に入ると低迷するが、1987年に一度脱退したベーシストのトム・ピーターソンが復帰すると人気が再上昇し、「永遠の愛の炎」はチャートの16位になり、アルバムはプラチナ・ディスクに認定された。

 ところが、90年代以降は、今まで合計2000万枚以上のアルバム売上を記録したバンドとは思えないほど売れなくなってしまった。
 たぶん、バンド内の内輪もめが原因で、アルバム制作にも精彩を欠いていたのだろう。あくまでも噂ではあるが、ドラマーのベン・E・カルロスとボーカルのロビン・ザンダーの仲が悪いと言われていたが、真相はどうなのだろうか。

 ただ、最近の2作「バン、ズーム、クレイジー...ハロー」と「ウィア・オール・ライト!」では持ち直している。リックの息子のダックスがドラムを叩いていて、バンド内がまとまったからだろう。
 今年は武道館40周年記念ということで、ジャパン・ツアーを行ったが、リックの体調が悪く、医者から長距離での移動を禁止されたため、一部公演がキャンセルされ、振替公演が行われた。その時は、ロビンの息子ロビン・テイラー・ザンダーもセカンド・ギタリストとして参加していた。リックの健康面での不安があったからだろう。

 オリジナル・メンバーは、まだ60歳代の後半だ。こうなったら、“武道館50周年”の記念ライヴ、記念アルバム発表を目指して、親子2代バンドでも構わないので、まだまだ頑張ってほしいと思っている。

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