2018年11月12日 (月)

バンド・オブ・ジプシーズ

 今回の“レコードの時はショボかったけど、CD化されてお買い得になったアルバム”シリーズ第9弾は、今までとはちょっと趣が違ってくる。「CD化されてお買い得になったアルバム」という部分は正しいかもしれないが、「お買い得になった」という前に、果たしてCD化が適切だったのかどうかが問われてくるのではないかと考えている。

 そのアルバムというのが、ジミ・ヘンドリックスの「バンド・オブ・ジプシーズ」である。ジミ・ヘンドリックスが自分名義のライヴ・アルバムとして、生前に唯一許可したライヴ盤ともいわれている。
 ただこのアルバムは、今では「ライヴ・アット・ザ・フィルモア」として知られていて、それこそ何種類も世の中に出回っているのである。51lj5mpysml
 まず最初に、ジミ・ヘンドリックスが同じアフリカ系アメリカ人のベーシスト(ビリー・コックス)とドラマー(バディ・マイルス)の3人で結成したバンド名が、“バンド・オブ・ジプシーズ”だった。
 彼らは、ジミ・ヘンドリックスが1969年8月に出演したウッドストック・コンサートの後に結成されたバンドで、それまでのリズム・セクションがヨーロッパ系アメリカ人だったのが3人ともアフリカ系アメリカ人に代わったため、今までよりもよりブルーズ色やファンキーさがサウンドに表れていた。

 それで彼らはお披露目ライヴとして、1969年の12月31日と翌日の1970年1月1日に、ニューヨークのフィルモア・イーストで行われたニュー・イヤーズ・コンサートをライヴ録音し、アルバムとして発表した。1970年の4月のことである。
 この2日間のライヴでは、1日2回の公演だったから、彼らは計4回ステージを務めたことになる。

 それでこのアルバム「バンド・オブ・ジプシーズ」には6曲が収められていて、その6曲とは次の曲だった。
1.Who Knows
2.Machine Gun
3.Them Changes
4.Power of Love
5.Message to Love
6.We Gotta Live Together
 この6曲は、すべて1月1日の2回分のステージから録音されたものである。また、この時のジミは、新メンバーに満足していて、特にドラムス担当のバディ・マイルスは曲も書けて歌も歌えるということで、このライヴ盤でも"Them Changes"、"We Gotta Live Together"を書き、"Them Changes"と"Stop"では渋いボーカルを披露している。(正確に言うと、他の曲でもジミと一緒に歌っているものもあった)

 それにこの時のステージ写真を見ればわかるように、ステージの真ん中にバディ・マイルスのドラムスがセットされて、その両サイドにギタリストのジミとベーシストのビリー・コックスが佇んでいた。だから、ジミ・ヘンドリックスのワンマン・バンドではなくて、3人が平等に存在するということをアピールしていたようだ。71sm6qaz3zl__sl1076_
 ところが、1986年には「バンド・オブ・ジプシーズ2」というアルバム(レコード)が発表されて、これはまさにジミ・ヘンドリックスの知名度を利用した便乗商法アルバムだった。

 例えば、アルバム6曲中3曲はフィルモア・イーストの音源だったが、サイドBの3曲はバンド・オブ・ジプシーズ解散後の音源で、"Voodoo Child"は1970年7月のアトランタ・ポップ・フェスティバル、"Stone Free"と"Ezy Rider"は同年5月のバークレー公演で収録されたものだった。だから、バンド・オブ・ジプシーズとはメンバーが違っていたから、正確にはバンド・オブ・ジプシーズとは関係がないのである。

 それで、CD化されたときには、最初は当初の6曲入りCDだったが、1991年にその6曲と「バンド・オブ・ジプシーズ2」の最初の3曲を収録した9曲入りのアルバムが発表された。追加された3曲は次の曲だった。
7.Hear My Train A Comin'
8.Foxy Lady
9.Stop
 この3曲は、1969年と70年のステージに演奏されたものだったから、このアルバム9曲には整合性があった。ここまでは“レコードの時はショボかったけど、CD化されてお買い得になったアルバム”シリーズに適していると思っている。51slzylpl
 さて、問題はここからである。ジミ・ヘンドリックスのアルバムの権利関係は非常に複雑で、歴代のマネージャーやレコード会社が権利関係を主張していたが、1990年代の半ばに遺族が裁判を起こし、権利関係を一本化することに成功した。そして生まれたのが「エクスペリエンス・ヘンドリックス社」で、そこで著作権などを管理するようになった。

 そして1999年に、2日間のフィルモア・イーストのライヴ曲を収録した「ライヴ・アット・ザ・フィルモア・イースト」という2枚組CDが発売された。
 このアルバムには2枚組ということで16曲が収められていて、そのうち未発表ライヴ曲が13曲も含まれていたのである。51gzvg8joul
 ただし、未発表曲といってもこの2日間の全ての曲が披露されているわけではなかった。ちなみに既発表の曲は"Hear My Train A Comin'"、"We Gotta Live Together"、"Stop"の3曲で、いずれもリマスターされており、そのうちの"We Gotta Live Together"は以前よりも4分ほど長い完全版だった。

 また、ディスク1もディスク2も12月31日と1月1日の曲が入り混じっていて、どうしてこういう構成になったのかがよくわからない。ただ、やはり初日よりも2日目の方が演奏が慣れてきていて、ジミの演奏も気合が入っているように聞こえてくる。

 確かにファンならぜひ聞きたいと思うような内容だったし、事実、自分も購入してしまった。当時のジミ・ヘンドリックスの意気込みというか、気合を知る上でも貴重な資料となるアルバムだと思う。E5b7fa508
 ただ自分もそうだけれど、ファンならばどうしても完全版を聞きたいという欲求が生まれてくる。しかもこうして未発表曲が出てくるのであれば、他の曲も収録されていたことは間違いないということで、ますます気持ちが高まってくるだろう。

 こうなると純粋に音楽を楽しむというよりは、記録を確かめるというか、その時代性を共有したいという気持ちの方が強くなるような気がしてしまう。あるいは、その両方だろう。
 そういうファン意識につけ込んで、いやいや、ファン意識に寄り添った営業方針をエクスペリエンス・ヘンドリックス社は行っているようだ。だから2枚組の「ライヴ・アット・ザ・フィルモア・イースト」が世に出たのだろう。

 しかもメインのプロデューサーはエディ・クレイマーだったから、音質的には全く問題はないし、生前のジミ・ヘンドリックスとも仕事をしていたから、ジミの意思や考え、音楽的な方向性なども理解していただろう。そのエディがプロデュースしているのであれば、ジミの思惑にも叶うはずだ。ファンならずともそう思うだろう。

 そんな期待に答えて発表されたのが、2007年の6枚組ボックス・セット「2ナイツ・アット・ザ・フィルモア・イースト」だった。これは全世界2000セットの限定販売で、日本では800セットしか割当てがないという触れ込みだったが、本当だったのだろうか。国内盤は税込み価格が12960円だった。612jy1v4sl
 これは2日間4回のステージの全48曲(MCなどを含む)が収録されていて、ファンにとっては、まさに家宝というものだろう。
 ただし、これにはエクスペリエンス・ヘンドリックス社は関わっていないため、音質はあまりよくない。ブートレッグに近いものだろうが、その分、実際のライヴの雰囲気に近くて、荒々しいジミのギター・サウンドやソウルフルなバディ・マイルスのボーカルを味わうことができる。“実況録音盤”という言葉本来の意味に近いサウンドだろう。

 こういうブートレッグまがいの商品を世に流通させないためにエクスペリエンス・ヘンドリックス社があるわけで、その対策として、2016年にはエディ・クレイマーもプロデューサーの1人としてクレジットされたアルバム「マシン・ガン:ザ・フィルモア・イースト・ファースト・ショウ」が販売された。61qjk3cwhbl
 これは12月31日の1枚目のステージの全曲を演奏順に収録した完全盤で、全11曲、時間にして約70分余りのライヴ盤だった。ちなみに収録曲は以下のとおりである。
1.Power of Soul
2.Lover Man
3.Hear My Train A Comin'
4.Them Changes
5.Izabella
6.Machine Gun
7.Stop
8.Ezy Rider
9.Bleeding Heart
10.Earth Blues
11.Burning Desire

 見てわかるように、"Hey Joe"や"Purple Haze"のような代表曲は収められておらず、彼ら3人が“新人バンド”としてデビューしたような選曲がなされている。その時はそれだけの意気込みがあったのだろう。Machinegunjimihendrixmachinegunthee
 そして、1回目のステージの完全盤が出されたのだから、当然次は2回目から4回目までの様子がCDとして順次発表されるのだろう。2回目や4回目などは曲数が多いので2枚組になるのだろう。なかなか商魂がたくましいと思うのは、私だけだろうか。

 いずれにせよ、完全盤が良質の音質で聞くことができるのであれば、ファンならずとも有り難いことだろう。
 ただ、個人的には、このフィルモア・イーストでのライヴのエッセンスは、CD化されてお買い得になったアルバムよりも、最初のレコードの6曲分だと思っているのである。

| コメント (0) | トラックバック (0)

2018年11月 5日 (月)

リトル・フィートのライヴ・アルバム

 このライヴ・アルバムは必需品だ。一家に一枚といってもいいかもしれない。しかも、オリジナル・バージョンよりもはるかにボリュームアップしているではないか。まさに必聴盤であり、必携盤だと思っているし、これは自分一人だけの思いではないと感じている。

 このリトル・フィートのライヴ・アルバムである「ウェイティング・フォー・コロンブス」のオリジナル・レコードは、1978年に発表された。リトル・フィートに詳しい人はよくわかると思うけれど、ほぼオリジナル・メンバーによるアルバムでは、最後になったものである。

 リトル・フィートは、1969年にロサンゼルスで誕生した。中心メンバーは、スライド・ギターの名手、ローウェル・ジョージだった。彼は、それまでフランク・ザッパのマザーズ・オブ・インヴェンションに所属していたから、かなりの才能とテクニックを身に着けていたことは間違いないだろう。A1qsbviwgdl__sl1000__2
 その後、多少のメンバーの出入りはあったものの、1971年にデビュー・アルバムを世に出すと、72年には「セイリン・シューズ」を、73年には「ディキシー・チキン」を発表した。
 この2枚のスタジオ・アルバムは、彼らの全盛期を象徴するアルバムだと思っていて、自分は今でも愛聴している。

 彼らの音楽性はその時々で多少の変貌を備えていて、それだけ多様な音楽性を秘めていると言えるだろう。ただ、基本はサザン・テイストを持ったロックン・ロールとニューオーリンズ・ジャズやブルーズの要素を兼ね備えていて、泥臭いようで同時に都会的なセンスも含むサウンドを奏でていた。

 ただ、リトル・フィートは、徐々にR&Bやジャズ、フュージョン色を深めていき、リーダーのローウェル・ジョージの考える音楽観とはずれが生じてきたようで、70年代の終わりに彼は、ソロ・アルバム「特別料理」を発表してバンドの解散を宣言してしまった。

 この彼のソロ・アルバムについては、以前のこのブログの中でも述べていたので重複は避けるが、当時流行していたアダルト・オリエンティッドなアメリカン・ロックをやっていて、明らかにリトル・フィートとは違う音楽観だった。
 ただ、その時にはすでにドラッグに侵されていたようで、個人的には正確な判断力も失われていたのではないかと思っている。そして、残念ながらローウェル・ジョージは、帰らぬ人となってしまったのだ。Lowell_george2_2013144c
 なので、残されたメンバーは、追悼盤の「ダウン・オン・ザ・ファーム」を発表した後、本当に解散してしまったのだが、1988年には再結成して、メンバー・チェンジを繰り返しながら現在もなお活動を続けている。

 それで、今回のお題は彼らのライヴ・アルバムなのだ。1978年の発表だから、ローウェル・ジョージの中では、これを機にバンド活動に一区切りをつけるというか、バンドの解散も視野に入れていたのだろう。

 そのライヴ・アルバム「ウェイティング・フォー・コロンブス」であるが、1978年のオリジナル・レコードでは2枚組だった。
 その後、80年代後半にCD化されたときは、1枚組になっていて、しかも全14曲74分で、レコードと比べて"Don't Bogart That Joint"、"A Apolitical Blues"の2曲がカットされていた。

 自分はもちろん所有していたのだが、レコードの方は持っていなかったので、何とか完全盤を聞きたいとかねてから思い続けていて、しばらくはそれを購入する機会をうかがっていた。
 そして、2008年に念願かなって完全盤が発表されたのだ。しかも驚くなかれ、リマスターされたうえでの2枚組、全27曲、合計約138分に増量されていて、最初のCDに比べて約2倍近くにも膨れ上がっていた。51xqyoglawl
 これはもうロック・ファンなら即購入すべきものであり、実際に購入しようと思ったのだが、3780円もするものだから、アマゾンで調べて少しでも安い中古盤を探し出してきて購入した。貧乏性は変わらない。
 しかも、未発表曲が10曲も含まれていて(ただしそのうちの3曲は1981年のベスト盤「軌跡」に収録されていた)、これはもう自分にとっては、マスト・バイ・アイテムなのである。

 そしてまたこのアルバムは、1977年のライヴ公演から収録されていて、ロンドンの当時のハマースミス・オデオンとワシントンD.C.のジョージ・ワシントン大学内にあるライズナー・オーディトリアムでの演奏が収められていた。
 また、タワー・オブ・パワーのホーン・セクションが全編にわたってバックアップしていて、迫力のある演奏とキレのあるリズムを堪能することができる。

 これはもうロック史の中でも10本の指の中に入るライヴ・アルバムだと思っているし、全盛期の彼らの様子を知るだけでなく、今でも十分に通じる最高でファンキーなロックン・ロール・ショウを味わうことができるのだ。

 1曲1曲が彼らの極上の代表曲であるとともに、それらが27曲もあるのだから、これはもうお腹いっぱい、目の前で実際にライブが繰り広げられているような錯覚に陥ってしまう。
 特に、ローウェル・ジョージのスライド・ギター、ビル・ペインのR&B感覚に満ちたキーボード・プレイ、リッチー・ヘイワードのパワフルなドラミング、そんな彼らが一丸となって演奏するから、悪かろうはずがない。そんな素晴らしいライヴ・アルバムなのだ。

 ところで、彼らのアルバム・ジャケットは、1972年の「セイリン・シューズ」以来はネオン・パークという人が主に手掛けていて、一般的にはこのアルバム・ジャケットの描かれている“ハンモックで揺られるトマトがコロンブスを待っている”というアルバム・ジャケットがアルバムのタイトルと結びついていると言われている。51ldqlr8yzl_2
 だから何なんだと言われるかもしれないが、いろいろと他にも解釈の余地があるというところに、彼らのアルバム・ジャケットの魅力みたいなものもあるのだろう。

 というわけで、もしあなたがアメリカン・ロックの、特にニューオーリンズ・サウンドやR&B、それらのミクスチャー・ロックなどが好きなら、ぜひ一度はこのライヴ・アルバムに耳を傾けた方がいいと思う。彼らは、いまのレッド・ホット・チリ・ペッパーズの元祖かもしれないのだ。

| コメント (2) | トラックバック (0)

2018年10月29日 (月)

レオン・ラッセルのライヴ

 さて10月も最後の週になった。今月も台風が来たり、地震があったりと天変地異も相変わらず起こり、落ち着かない1か月だった。人知でどうにもならないものは、どうあがいても仕方がない。しばらくは自分の好きな音楽に耳を傾けて行こうと思っている。

 さて、“レコードの時はショボかったけど、CD化されてお買い得になったアルバム”のシリーズ第7弾は、場所をアメリカに移してアメリカン・ロックの中から探してみたいと思う。
 とりあえず最初は、前回のエリック・クラプトンも夢中になったアメリカ南部の音楽から始めようと思い、やはりこの人は外せないよなあということで、レオン・ラッセルの登場である。0ad94b681b2b69e16d00d57fe73b41ea
 レオン・ラッセル本人については、昨年秋のスワンプ・ロック特集で扱ったので詳細は省くことにした。それで数ある彼のアルバムの中から、1974年に発表された「ライヴ・イン・ジャパン」を取り上げようと思う。“レコードの時はショボかったけど、CD化されてお買い得になったアルバム”というテーマに相応しいと思ったからである。

 このアルバム「ライヴ・イン・ジャパン」は、1973年の来日時に日本武道館でライヴ・レコーディングされたもので、当時は日本国内でのみの発売であった。
 レオン・ラッセルの初来日は、ハワイ、オーストラリア、ニュージーランド、香港を含む“極東ツアー”の一環だったようで、日本武道館では11月8日と9日の連続公演だった。レコードには、11月8日の音源が使用されている。51k1yxyxk4l
 1974年に発売されたLPレコードでは9曲が収められていて、約43分程度のレコードの収録時間に合わせて選曲されていた。それでも曲順はほぼ当日の演奏順になっている。ちなみに曲順は、次のとおりである。

1.Heaven
2.Over the Rainbow/God Put a Rainbow
3.Queen of the Roller Derby
4.Roll Away the Stone
5.Tight Rope
6.Sweet Emily
7.Alcatraz
8.You Don't Have to Go
9.A Song for You/Of Thee I Sing/Roll in My Sweet Baby's Arms

 とにかく一聴しただけで分かった、これは教会のゴスペル大会であると。ロック・ミュージックなかんずくスワンプ・ロックというのは、まさに黒人霊歌といわれるゴスペル・ミュージックだった。このアルバムを聞いて、あらためてこのことを認識した次第である。

 1曲目の"Heaven"という曲の作者は、レヴァランド・パトリック・ヘンダーソンという人が書いていて、彼は当時の“シェルター・ピープル”の一員だった。
 彼の演奏するピアノと3人の女性のコーラスから始まり、途中からレオン・ラッセルが登場し、パトリックが弾くピアノの上に上がり、おもむろにギターを演奏するという演出だったようだ。確かに途中から拍手が再び起こるので、その時にレオン・ラッセルが登場したのだろう。

 この3人の女性ボーカルは“ブラック・グラス”と呼ばれていて、この極東ツアーの時に選ばれたメンバーで、聖歌隊で歌っていた人たちだった。また、パトリック自身もオーディションを受けてピアノ奏者として参加していた。彼は元々は、テキサス州ダラスの聖歌隊のピアノ奏者とスタジオのセッション・プレイヤーだった。

 次のゴスペル調にアレンジされた“オズの魔法使い”で有名な"Over the Rainbow"とレオン・ラッセル作曲の"God Put a Rainbow"は"Rainbow"つながりで選ばれたのだろうか。レオン・ラッセルよりもブラック・グラスの方が絶対に目立っていると思う。完全なゴスペル・ナンバーである。

 3曲目の"Queen of the Roller Derby"から、やっとレオンの真骨頂が発揮されてくる。ここから次の"Roll Away the Stone"、"Tight Rope"までは全盛期のレオンの歌声やピアノ演奏を聞くことができる。ほとんどメドレーといっていいほど、繋がっているからだ。
 ただ残念ながら、"Tight Rope"がフェイド・アウトされていたのが残念だった。たぶんここまでが、当時のレコードのA面だったのだろう。

 レオンの歌声は、何となくミック・ジャガーに似ていると思う。決して美声ではなく、また上手でもないが、言葉の区切り方や歌い方、間の取り方などがミックに似ていて、「バングラディッシュ・コンサート」で、なぜレオン・ラッセルが"Jumpin' Jack Flash"を歌ったのかが何となくわかった。Leonrussellheaven1974ab
 後半は、“ウエスト・コーストの歌姫”エミルー・ハリスのことを歌ったバラード曲の"Sweet Emily"から始まる。
 続くレオン流のハード・ロックである"Alcatraz"では、このツアーからメンバーになったギタリストのウェイン・パーキンスのリード・ギターを聞くことができる。彼は一時ミック・テイラーの後釜としてザ・ローリング・ストーンズの加入を打診されていたギタリストでもあり、ストーンズのアルバム「ブラック・アンド・ブルー」にもクレジットされていた。ここでも歪みのある流麗な演奏を聞くことができる。

 8曲目の"You Don't Have to Go"は、1950年代から60年代にかけて活躍したアメリカのブルーズ・シンガーのジミー・リードの曲で、レオン・ラッセルのお気に入りの曲でもある。初期の彼のライヴでは必ずと言っていいほど歌われていたミディアム調の曲だ。

 最後の曲は3曲のメドレー形式で構成されていて、アカペラで"A Song for You"のサビの部分を短く歌った後、アップテンポの"Of Thee I Sing"が始まる。ここでもまたゴスペル大会だ。レオンとコーラス隊の“コール&レスポンス”が繰り広げられる。
 この3曲のメドレーはアンコール部分にあたるので、途中実際に演奏された数曲がカットされている。まさか"You Don't Have to Go"が本編最後の曲とは思えないから、もっと盛り上がる曲で最後を締めているはずだ。やはり当時のレコードでは、これが精一杯の収録だったのだろう。

 アンコール最後の"Roll in My Sweet Baby's Arms"は、アメリカのカントリー・シンガーでギタリストのレスター・フラットという人の曲で、ここでもウェイン・パーキンスのギターが目立っている。この曲もレオンのフェイヴァリット・ソングのようで、その後もカントリー・アルバムの中やライヴで歌ったりしている。

 ここで終わってしまうと、今回のテーマ“レコードの時はショボかったけど、CD化されてお買い得になったアルバム”に適さない。
 実はこのCD「ライヴ・イン・ジャパン」は世界初CD化であり、「ライヴ・イン・ジャパン」というタイトルとは裏腹に、ボーナス・トラックとして7曲のライヴ曲が収められていたのだ。51wj23e2qal
 その7曲が違う日時の日本公演のものならまだ整合性があるが、実際は1971年4月22日のアメリカテ、キサス州ヒューストンでのライヴ曲なのである。果たしてこれで「ライヴ・イン・ジャパン」と言い切っていいのかどうなのかが問われると思うのだが、アルバム・タイトル名は「ライヴ・イン・ジャパン」だった。

 まあファンから見れば、曲数も増えているし、しかも絶頂期のレオンのライヴを体験できるのだから、これはこれでいいのかもしれないが、もう少し正確に、例えば「ライヴ・イン・ジャパン'73&ヒューストン'71」としてもよかったのではないだろうか。
 ちなみに、このCDを車のCDデッキに入れると、「Leon Live '71-'73」と表示され、決して「ライヴ・イン・ジャパン」とは表示されなかった。確かにこれは、適正な表示かもしれない。

 だけど一番いいのは、「ライヴ・イン・ジャパン」の完全盤と「ライヴ・イン・テキサス(ヒューストン)」の完全盤を発表することだろう。それぞれ2枚組ぐらいにはなるだろうし、レオンの音楽を愛するファンならきっと購入するに違いない。

 日本のファンにとってみても、確かにヴォリュームアップになった「ライヴ・イン・ジャパン」は朗報だろう。でも曲のダブりもあるし、ライヴの熱気を1枚のCDに収めるのにも無理がある。日本武道館でのライヴの興奮を最初から最後まで味わいたいと思うのは、みんなに共通した感情ではないだろうか。

 ちなみに7曲のボーナス・トラックは次のようなものだった。

1.Alcatraz
2.Stranger in A Strange Land
3.Superstar
4.Roll Over Beethoven
5.Blues Power/Shoot Out on the Plantation/As The Years Go By/The Woman I Love
6.Jumpin' Jack Flash
7.Of Thee I Sing/Yes I Am

 見てわかるように、5曲目と7曲目はメドレー形式で流されている。また、この音源は世界初のお目見えだそうで、未発表ライヴ音源だった。
 ほとんどがおなじみの曲なので解説は必要ないと思うが、5曲目のメドレーでの最後の曲"The Woman I Love"の作曲者は、この当時の“シェルター・ピーポル”のメンバーでシンガー兼ギタリストのドン・プレストンだった。

 ただ、こうやって録音時の違いはあるとはいえ、日本とアメリカのライヴ演奏を聞き比べてみると、何となくアメリカの音源の方が迫力があるような気がするのだが、これは気のせいだろうか。

 いろんな意味で、楽しめるレオンのライヴ・アルバムである。彼の1973年の当時3枚組レコードだった「レオン・ライヴ」の陰に隠れて目立たないライヴ・アルバムだが、自分としてはお買い得なアルバムだと思っているのである。

| コメント (0) | トラックバック (0)

2018年10月22日 (月)

デレク&ザ・ドミノス(2)

 デレク&ザ・ドミノスをブリティッシュ・ロックに分類するのはいかがなものかとは思うのだが、バンド・リーダーがエリック・クラプトンということなので、お許し願いたい。クラプトンがアメリカ人ミュージシャンと結成したバンドが、デレク&ザ・ドミノスだったし、やっている音楽もブルーズやサザン・ロックに影響を受けているものだから、本来はアメリカン・ロックの範疇に入るのだろう。

 それで、“レコードの時はショボかったけど、CD化されてお買い得になったアルバム”シリーズ第6弾は、エリック・クラプトンが在籍していたデレク&ザ・ドミノスのライヴ・アルバムについてである。

 クラプトンについては何回もこのブログで取り上げているので、今さら詳しく説明はしないし、デレク&ザ・ドミノスについても既出なので、詳細は省きたい。
 ただ、エリック・クラプトンという人の人生は、まるでジェット・コースターのように激しく上下していたし、特に1970年という年は、クラプトンにとっては分岐点だったのではないかと考えている。

 以前にも書いたのだけれども、クラプトンはブラインド・フェイス解散後、デラニー・ブラムレットらとアメリカ・ツアーを続けていた。同時に、ツアー・メンバーだったジム・ゴードンやカール・レイドル、ボビー・ウィットロックとともにバンド活動を始め、レコーディングを行った。そのアルバムが歴史的名盤と言われている「いとしのレイラ」である。

 さらにまた、初めてのソロ・アルバムを制作し、“ギタリストのクラプトン”から“ボーカリストのクラプトン”へと重心を移そうとしていた。
 これらはいずれも1970年を中心にクラプトンの周りで起きていた出来事であって、いかにこの年が充実していて、彼にとって重要だったかが分かると思う。

 それで、「いとしのレイラ」を発表したクラプトンを含むデレク&ザ・ドミノス一行は、ライヴ活動を行うのだが、1973年には「イン・コンサート」としてライヴ・アルバムが発表された。61kegn40jcl
 このアルバムは、ニューヨークのフィルモア・イーストにおける1970年10月23日と24日の2日間、それぞれ昼夜2公演から抜粋された計9曲(最後の曲をメドレーとしてカウントすれば計8曲)が収められていた。

 ただ、1973年にはすでにデレク&ザ・ドミノスは解散していたから、なぜこのアルバムが発表されたのか、アルバム契約枚数を消化するためか、あるいはヤク中から回復しようとしていたクラプトンの治療費を稼ぐためだったのか、よくわからない。
 いずれにしてもこのアルバムは、スタジオ・アルバム1枚、しかもそれがロックの歴史に残るような名盤を残して解散したバンドによる貴重なライヴ・アルバムだったから、待望のライヴ盤になったのだ。

 しかし、如何せん曲数が少ない。2枚組とはいえ8曲や9曲、約90分ではファンとしてはまだまだ満足できなかっただろう。おそらくまだ未発表曲があるだろうとファンは思っていただろうし、実際、その考えは正しかったのである。

 1994年に「ライヴ・アット・ザ・フィルモア」として、未発表曲を含む全13曲、約122分のフル・ヴァージョンが発表されたのだ。71ja5mlnqel__sl1284_
 このアルバムには、「イン・コンサート」の中の9曲中6曲が含まれていた。それらは次の曲であった。
"Got to Get Better in A Little While"
"Blues Power"
"Have You Ever Loved A Woman"
"Bottle of Red Wine"
"Roll It Over"
"Presence of The Lord"

 残りの曲で未発表曲、つまり「イン・コンサート」と違うテイクは次の通り。
"Why Does Love Got to Be So Sad?"
"Tell The Truth"
"Nobody Knows You When You're Down and Out"
"Little Wing"
"Let It Rain"

 残りの2曲は、1988年の4枚組CDボックス・セットの「エリック・クラプトン・アンソロジー~クロスロード」に収められていたフィルモアでの23日と24日のライヴ曲で、ディスク2の最後のアンコール曲"Crossroads"が23日の2回目公演、"Key to The Highway"が24日の2回目公演から収録されている。

 このシリーズは“レコードの時はショボかったけど、CD化されてお買い得になったアルバム”というものだが、「イン・コンサート」については決してショボいレコードとは思っていない。
 むしろ当時は、デレク&ザ・ドミノスが残した唯一のライヴ・アルバムということで、大変貴重なものだと個人的には崇め奉っていたくらいだった。

 ただ、約90分の収録時間が「ライヴ・アット・ザ・フィルモア」では約122分になっていたし、未発表曲もあったから、「イン・コンサート」の影が薄く感じられてしまった。

 この時のクラプトンは、まだまだ元気がよかったし、さあこれから自分のキャリアを築いていくぞという勢いがあった。だから私生活でも許されない恋に走り、それに悩みながらも求めて行こうとするエネルギーがまだあった。

 このライヴ・アルバムでも、シンガーとしてはまだまだだが、ギタリストとしてはまさに神がかっていると思えるほど弾きまくっていて、“ギタリスト・クラプトン、ここにあり”といった感じだった。71sevhmlvil__sl1050_
 ところが、翌1971年になると、バンド内の対立からデレク&ザ・ドミノスは解散し、フィルモア・ライヴから約1年後には盟友デュアン・オールマンが交通事故で亡くなり、私生活ではジョージ・ハリソンとの三角関係で悩むといった様々な問題が起きてしまい、クラプトンはアルコールとドラッグ依存症に陥ってしまうのである。

 このあと表舞台から身を隠すように消えていったのだが、「レインボー・コンサート」をきっかけに徐々に活動を開始していく。しかし、これ以降のクラプトンについては、別の機会に譲りたい。別の機会があればのお話だが…

 ただ、今年の11月7日にはクラプトンの新作が発表されるが、そのタイトルは「ハッピー・クリスマス」といい、クリスマスの企画ものアルバムである。71ji7dhlvxl__sl1500_
 クリスマスの定番ソングなどのいくつかは、ブルーズにアレンジされているそうだが、心身ともに幸せそうな彼の近況が伝わってきそうなアルバムだ。でも個人的には、生活に満足しているブルーズマンの音楽といったものは耳にしたくないのである。

| コメント (0) | トラックバック (0)

2018年10月15日 (月)

ジョー・コッカー(2)

 “レコードの時はショボかったけど、CD化されてお買い得になったアルバム”のシリーズの第5弾である。
 このシリーズを続けてみると、やはり記憶媒体の容量が原因だというのがよくわかる。そしてそれは、ライヴ・レコーディングの時に顕著に表れるということだった。 

 要するに、レコードとCDの違いからくるのである。80年代初めまでは主流だったレコードだが、CDが登場したことで表舞台から消えてしまう結果になってしまった。やはり45分と80分では、昔のレコードなら1枚分くらいの違いはあるだろう。

 また、昔のスタジオ・アルバムがCD化された場合には、ボーナス・トラックをつけることで、レコードよりもお得感が増すし、ファンならば購買意欲も高まっていくだろう。そうすると、再発アルバムのリマスター盤なら、音質も向上しているし、未発表曲も聞けるとあって、ファンならば何度も聞いていたとしても、手に入れようとするに違いない。

 特にライヴ・アルバムとなると、その傾向はますます強まるのではないだろうか。音も向上していれば臨場感も違ってくるだろうし、しかも未発表曲が含まれているとなれば、実際のライヴを味わっている雰囲気に近づくだろう。

 だからというわけではないだろうが、このシリーズを始めてみてライヴ・アルバムにお買い得感が高まるものが多いということに改めて気がついてしまった。レコード発表当時は時間の関係で曲数も限られていたものの、CD化されて曲数も増えていれば、これはもう即買いになるだろう。

 さらに、スタジオ盤のボーナス・トラックとは違って、ライヴ・アルバムでは“その時その場所での記録”という意味合いもある。制限時間に合わせて曲数を削り、ベスト・トラックだけが選ばれたとしても、ファンからすれば、やはり完全な記録として、その時に演奏されたトラックを聞きたいと思うだろう。だからライヴ・アルバムのCD化には期待が高まるのではないかと考えている。

 前置きが長くなってしまったが、今回はジョー・コッカーの「マッド・ドッグス&イングリッシュメン」のことについて記したい。
 ジョー・コッカーについては昨年の“スワンプ・ロック特集”で紹介したので、それと重複がないように気をつけたいと思う。

 このアルバムを聞きながらジョー・コッカーの人気について考えてみたのだが、やはり彼が世界的に有名になったのは、映画「ウッドストック」における映像が強烈だったからではないだろうか。
 確かに、発作か何かで痙攣でも起こしたのではないだろうかと思わせるようなボーカル・スタイルには、忘れがたい印象を与えるパワーが備わっていた。まるで男性版ジャニス・ジョプリンだった。

 もちろん彼は、1968年秋に発表された"With A Little Help From My Friends"がイギリスでヒットしたおかげで有名になったのだが、このライヴ・アルバムでもそうだけれど、果たして彼にはオリジナルの曲、オリジナルでヒットした曲などがあるのだろうか。

 「マッド・ドッグス&イングリッシュメン」のレコードでは2枚組だったし、2010年に発表された再発CDも1枚もので全19曲だった。正確に言うと、曲の紹介なども曲数に含まれていたので、実際に歌われていた曲は14曲だった。
 そしてその14曲すべてが誰かのカバー曲か他の人の手によるものであった。つまり、ジョー・コッカー自身が作った曲はないのである。51nbrhz31l
 自身はソングラィティングをしなくても、他の人の曲を歌って十分食っていけるのである。それだけ元歌を自分流に解釈して、聴衆に訴えていく表現力が豊かなのだろう。
 自分はロック・シンガーについては詳しくないのだが、あのロッド・ステュワートやジャニス・ジョプリンでさえも自分で曲を作っていたから、カバー曲だけで売れるというのも、それはそれで才能のひとつなのかもしれない。

 ちなみに、ここに彼のベスト・アルバムがある。そのタイトルも「ザ・ベスト・オブ・ジョー・コッカー」というベタなものだが、12曲あってそのすべてが他の人の手による曲だった。曲の中にはジェフ・リンやエルトン・ジョン&バーニー・トーピン、ランディ・ニューマンなどの有名ミュージシャンの名前もあるのだが、ジョー・コッカーのオリジナル曲はなかった。ただ、ジョーに歌ってほしいという意味で贈られた曲はあるかもしれない。

 それで「マッド・ドッグス&イングリッシュメン」に話を戻すと、2005年にCD2枚組の「デラックス・エディション」が発表された。ディスク1には12曲、ディスク2には14曲が収められていて、そこには曲名の紹介は曲数には含まれてはいなかった。
 合計26曲になるが、ディスク2の最後の4曲はシングル用のスタジオ・セッションの曲だったから、ライヴだけの曲は22曲だった。Joecockermaddogsandenglishmen3cd
 だからライヴ曲は14曲から22曲に増えたわけで、しかも4曲のボーナス・トラックまで付属しているのだから、これはもう即買いのアルバムだと思っている。だから今回“レコードの時はショボかったけど、CD化されてお買い得になったアルバム”のシリーズの中に入れてみたのだ。

 スタジオ・セッションの曲も含む追加された12曲のうち、もちろんジョー・コッカーのオリジナル曲は含まれていない。また、追加された曲は以下の曲だった。
"The Weight"
"Something"
"Darling Be Home Soon"
"Let It Be"
"Further On Up The Road"
"Hummingbird"
"Dixie Lullaby"
"With A Little Help From My Friends"
 以上がライヴにおける曲だ。次の4曲はスタジオ・セッションの曲になる。"Warm Up Jam including Under My Thumb"、"The Letter"、"Space Captain"、"The Ballad Of Mad Dogs & Englishmen"

 それにしてもザ・ビートルズ関連の曲からザ・バンド、古いブルーズの曲などいろいろ歌っているのだが、どういう基準で選曲したのかが気になるところ。自分の歌いたい曲や適している曲を選んだのだろうか。

 また、曲数だけでなく曲順も違っていた。実際のライヴに近い曲順は、こちらのデラックス・エディションの方だろう。3曲が披露された"Blue Medley"で盛り上がって"With A Little Help From My Friends"で締めて、アンコールがボブ・ディランの"Girl From The North Country"だ。1148366882
 このライヴ・アルバムは、1970年の3月27日と28日の2日間、ニューヨークのフィルモア・イーストにおける昼夜2回の公演から収録されていて、2006年にはリミックスされたCD6枚組の「コンプリート・フィルモア・コンサート」が発表されている。すでに廃盤になっているので、もし中古店やネットで見かけたら、ファンならずともゲットした方がいいかもしれない。

 結局、ジョー・コッカーはブルーズ・シンガーだったと考えている。ブルーズ・シンガーなら古い曲の再解釈もできるし、新しい曲でもブルーズにアレンジすることもできるからだ。だから自分で曲を作らなくても済むのである。
 しかも、彼のしわがれた声は、アメリカ南部のブルーズやトラディショナルな曲に相応しいし、このライヴを聞けばわかるように、レオン・ラッセルを中心として当時大流行したスワンプ・ロックにもピッタリだ。

 それに、レオンの曲は当然のことだけど、ザ・ビートルズの"Let It Be"やザ・ローリング・ストーンズの"Honky Tonk Women"など、元々ゴスペルやブルーズの要素を備えた曲だからブルーズ・シンガーが歌ってもおかしくない。そういう意味でもジョー・コッカーは、自分に合う曲を選んでいたのだろう。

 前回のジョー・コッカーのところでも述べたけれど、1970年のこのツアーは全米39都市を巡回することになり、約2か月間も続いた。毎日ではないけれど、ほぼこのライヴ・アルバムと同じような曲を披露していたのだから、その疲労やストレスなどはかなりのものだったに違いない。Lindaontour2_2
 しかも途中からレオン・ラッセルとの確執も表面化してきたし、バンドとも対立してしまい、自分自身を見失うまでになってしまった。確かに当時のレオン・ラッセルとリタ・クーリッジは恋人同士だったし、周りのミュージシャンはレオン・ラッセルを慕っていたから、ジョーが孤立してしまったのも無理もないだろう。

 しかもこのデラックス・エディションの方を聞いていると、ライヴの最後はレオン・ラッセルのピアノが主導する"Girl From The North Country"で、ジョーとレオンのデュエットになっているし、スタジオ・セッションの曲も"The Ballad Of Mad Dogs & Englishmen"で終わる。この曲はストリングスも施された美しいバラードだが、レオン・ラッセルの独り舞台である。

 だから最後まで聞いていると、ジョー・コッカーのアルバムなのか、レオン・ラッセルのアルバムなのか、分からなくなってしまった。ジョー・コッカーは単なるメインのシンガーで、仕切っているのはレオン・ラッセルだ、しかも十分存在感を示しているとあっては、ジョーの立場もないだろう。ジョーが酒やドラッグに溺れてしまったのもむべなるかなという気がした。

 このあとのジョーのことについては、既述しているので省略したい。ただ、2007年にはそれまでの功績が評価されて、女王陛下より大英帝国勲章を受けている。Screenshot20141222at124251pm
 ジョー・コッカーは、2014年12月22日にアメリカのコロラド州クロフォードで肺癌のために亡くなった。享年70歳だった。生きている姿はもう見られなくなったけれども、あの素晴らしいパフォーマンスはロック・ファンの記憶の中に生き続けるに違いない。

| コメント (0) | トラックバック (0)

2018年10月 8日 (月)

ライヴ・アット・ザ・ハリウッド・ボウル

 いま自分の前に1枚のレコードがある。1977年に発売されたもので、タイトルは「ザ・ビートルズ・スーパー・ライヴ!」と名付けられていた。これは日本でのタイトルらしく、正式なタイトルは“The Beatles at The Hollywood Bowl”というものだった。The_beatleslive_at_the_hollywood_bo
 これは、ザ・ビートルズが1964年の8月23日と翌65年の8月30日に、ロサンゼルスのハリウッド・ボウルで行ったライヴ演奏を収めたもので、全13曲、時間にして33分余りだった。
 当初は、レコードとして発表する予定はなかった。当時の彼らのライヴ映像を見ればわかると思うけれども、観客が興奮してしまい、声援というか奇声があまりにも激しすぎて、音を拾える状態ではなかったからだ。

 ザ・ビートルズのメンバー自身も、当時はモニター自体がなかったし、たとえあったとしてもモニターからの音も聞こえなかっただろうと述べている。しかも当時の貧弱な録音機材では十分な音質も保証されなかったことは間違いないだろう。だからステージの上で彼らの音が合っていること自体、奇跡のような出来事だった。

 しかし、これは奇跡でもなんでもないと考えている。彼らはドイツのハンブルグやイギリスのリバプールでライヴ・バンドとして日夜、経験を積んでいたし、ザ・ビートルズとして正式にデビューしてからも世界中を回っては演奏していたからだ。当時の彼らにしてみれば、モニターから流れる自分たちの演奏を耳にしなくても、普通に歌や演奏を行って、当たり前に音もあっていたのだろう。

 当時のレコードの解説に、このアルバムをプロデュースしたジョージ・マーティンが記したコメントが載せられていた。それによると、最初からライヴ・アルバムのことを頭に入れて、録音されていたらしい。 しかしそれでも10年以上もお蔵入りになっていた。当時集まった1万7千人以上のファンの声で聞き取れなかったからだ。

 それをジョージ・マーティンと当時の録音技師のジェフ・エメリックが、3トラックをマルチトラックに移し替え、リミックスやイコライジングを施して、ついに鑑賞に堪えうる歴史的なライヴ・アルバムにまで仕上げたのである。
 ジョージ・マーティンによれば、この作業に取り掛からせる思いに至ったのは、ザ・ビートルズの演奏から伝わってくる熱狂的な雰囲気と荒削りなエネルギーをみんなに伝え、後世にまで残そうとする情熱からだった。

 だから、声と楽器はすべて当時のオリジナルのままだったし、オーヴァーダビングなどは一切加えられていないのだ。楽曲は、2回分の公演の中からベスト・トラックを選んだそうである。Yhst73969762682587_2180_44116662
 当時の記録では、2回の公演での楽曲数は、2回とも12曲だった。このライヴ・レコードでは13曲だったから、実際のライヴよりは1曲分多いことになる。
 また、2回の公演で実際には演奏されたが、録音状態の問題で収録を見合わされたのは、次の曲群だった。
"You Can't Do That"
"If I Fell"
"I Want to Hold Your Hand"
(以上1964年8月23日分)

"I Feel Fine"
"Everybody's Trying to Be My Baby"
"Baby's in Black"
"I Wanna Be Your Man"
"I'm Down"
(以上1965年8月30日分)

 ザ・ビートルズの公式アルバムはすべてCD化されていたが、なぜかこのライヴ・アルバムの公式CD盤は発売されていなかった。

 2016年に、アカデミー受賞監督のロン・ハワードによる、彼らの初期のキャリアを追った、バンド公認の長編ドキュメンタリー映画『ザ・ビートルズ: Eight Days A Week - The Touring Years』が公開されたが、これに合わせて発表されたのが、「ライヴ・アット・ザ・ハリウッド・ボウル」だった。61qvarhmq3l

 それでこのアルバムには、1977年のアルバムの曲数+ボーナス・トラックとして4曲が加えられていた。
 結局、このCD化されてもなお収録されなかった曲は、"If I Fell"、"I Feel Fine"、"I'm Down"の3曲だけになった。ただ、ブートレッグなどでは完全収録盤なども出回っているようなので、その気になれば聞くことができるようだ。

 また、CDのプロデュースは、ジョージ・マーティンの息子であるジャイルズ・マーティンが担当している。彼が言うには、1977年の父親がプロデュースしたレコードをリミックスした際に、曲順も印象の強さと音の鮮明さをもとに自分で新しく考えて決めようとしたが、結局、それは父親が考えたのと同じ曲順になったという。息子も父親と同じ才能を引き継いでいるのだろう。61jmko7dqdl

 それでCDは、全17曲で時間にして約44分にヴォリューム・アップしている。これはやはり即買いだろう。“レコードの時はショボかったけど、CD化されてお買い得になったアルバム”のシリーズの第4弾は、ザ・ビートルズの「ライヴ・アット・ザ・ハリウッド・ボウル」だった。

 それにこのアルバムは、純粋にザ・ビートルズの音楽を楽しむだけでなく、歴史的な記念品として味わう側面もあるのではないかと思っている。

 ちなみに、ハリウッド・ボウルとは、アメリカのカリフォルニア州ハリウッド・ヒルズに位置する半円形の野外公会堂のことで、1922年から使用されている。主にクラシックのオーケストラや人気歌手、エンターティナーなどの公演が催されている。Hb_shell_2010_03_hi
客席数は17,376席だそうである。

| コメント (2) | トラックバック (0)

2018年10月 1日 (月)

レインボー・コンサート

 レッド・ゼッペリン、ディープ・パープルとくれば、次はブラック・サバスかクリームか、ということになるのかもしれない。それで今回はエリック・クラプトンのライヴ・アルバム、「レインボー・コンサート」の登場だ。

 “レコードの時は貧弱だったけど、CD化されてお買い得になったアルバム”のシリーズ第3弾は、1973年1月13日に行われたライブ盤である。
 最初のアルバムは同年の9月に発表されたが、全6曲の34分48秒しかなかった。自分も80年代に再発されたレコードを購入して聞いたものだが、非常に物足りずに、これでいいのかクラプトンと愚痴ったものだった。516hcje3pl

 6曲しか収録しなかったというよりも、収録できなかったといった方が正確だろう。何しろこの時のクラプトンは、ヘロインの後遺症が続いていたし、引きこもりからやっと出てきた状態だった。だからギター演奏もキレがなく、ボーカルも伸びがなかった。

 ご存知のように、エリック・クラプトンは60年代半ばから、ヤードバーズ、ジョン・メイオール&ザ・ブルースブレイカーズ、クリーム、ブラインド・フェイス、デラニー&ボニー・アンド・フレンズ、デレク&ザ・ドミノスと、その都度輝かしい名声と素晴らしい業績を残してきた。

 そのクラプトンが1971年の途中から引きこもりを見せるようになったのだ。デレク&ザ・ドミノスの解散、親友であるデュアン・オールマンの事故死、ジョージ・ハリソンとその妻パティとの三角関係、そんな人間関係の複雑さや煩わしさと音楽的キャリアの行き詰まりなど諸々のことが原因で引きこもってしまった。

 単に引きこもるだけならともかく、コカインやヘロインというドラッグに手を出してしまい、ほとんど廃人になりかけていた。この時クラプトン28歳だった。
 当時のクラプトンは、アリスという女性と同棲をしていた。このアリスという人は上流階級出身で、父親はワシントンにあるイギリス大使館の元アメリカ大使も務めたサーの付く貴族だった。
 このハーレック卿という人は音楽に理解がある人で、ロック・ミュージックにも造詣が深く、エリック・クラプトンのことももちろん知っていた。

 世の中何が災いになり、逆に何が幸いするかわからないものである。エリック・クラプトンにとって幸いだったのは、ガールフレンドの父親がたまたま音楽に理解があり、そして娘とその恋人がドラッグ中毒だったから何とか助けてあげたいと思ったことだろう。

 もう一人クラプトンのことを心配していた人がいた。ザ・フーのピート・タウンゼントである。彼もまた古くからクラプトンと親交があり、クラプトンもまたピートのことを信頼していた。この引きこもり状態の時に、唯一連絡を取り合えることのできたミュージシャンがピート・タウンゼントだった。

 このハーレック卿とピート・タウンゼントのおかげで、このコンサートが企画され、メンバーが集められ、ロン・ウッドの家でリハーサルを行い、1月13日にコンサートが開かれた。ただ、引きこもり状態は約2年ほど続いたので、たった数回のリハーサルでは完全に復活することは無理があったようだ。81ihimf54zl__sl1084_

 この1月13日には18:30スタートの第1部と、20:30スタートの第2部の2回の公演だったが、やはり1回目の時のクラプトンの状態はあまり芳しいとは言えず、むしろまだリハーサル状態に近いものだったようだ。だからアルバムには2回目の演奏のものを多く収録していた。

 ちなみに、レコードで(もちろん初期のCDでも)聞くことのできる6曲は次の曲だった。
1.Badge
2.Roll It Over
3.Little Wing
4.After Midnight
5.Presence of The Lord
6.Pearly Queen
 この6曲のうち、1回目のライヴで演奏された曲は"After Midnight"だけだった。また、エリック・クラプトンのボーカルは4曲だけで、"Presence of The Lord"、"Pearly Queen"の2曲ではオリジナルと同様に、スティーヴ・ウィンウッドが務めていた。

 6曲という収録数と4曲のクラプトンのボーカルを聞いて、これでクラプトンが戻ってきたと安堵したファンは少なかっただろう。むしろ、逆に、これからクラプトンは大丈夫だろうかと不安に思った人の方が多かったのではないだろうか。

 自分も不安に思ったし、このアルバムを購入してむしろ損をした気分になっていた。ところが1995年に、当日のステージのほぼ完全盤が発表されたのだ。71np5pp0wl__sl1242_
 これはオリジナルの6曲に8曲も追加収録をされていて、さらに当日のライヴのほぼ演奏順に配置されていた。これはもう自分にとっては、欣喜雀躍、狂喜乱舞、完全跳躍?、とにかくオリジナルの倍以上の73分49秒も聞くことができたのである。この時に追加された曲は、次の8曲だった。
1.Layla
2.Blues Power
3.Bottle of Red Wine
4.Bell Bottom Blues
5.Tell the Truth
6.Key to the Highway
7.Let It Rain
8.Crossroads
 
 このリストを見れば、むしろこちらの8曲の方が華があり、演奏も期待できそうな気がする。ちなみに、この8曲の中で第1部で演奏された曲は"Bell Bottom Blues"だけであり、逆に、第2部でしか演奏されなかった曲は、オリジナルの6曲分も含めて、ブルーズの名曲である"Key to the Highway"だけだった。

 また、実際のライヴでは"Nobody Knows You When You're Down And Out"も演奏されたそうだが、こちらもスティーヴ・ウィンウッドがボーカルを務めているためか、収録されていない。確かに、クラプトンのためのコンサートなのだから、スティーヴばかりがそんなに目立っちゃいけないよね。

 世の中には、この時の2回分のライヴの完全盤がブートレッグとして出回っているようだが、それだけこの時の演奏を聴きたいという熱心なファンが多くいるのだろう。需要は未だ尽きないようだ。

 余談だが、この時のメンバーはクラプトンの他には、ギターにロン・ウッドとピート・タウンゼント、ベース・ギターにリック・グレッチ、キーボードはスティーヴ・ウィンウッド、ドラムスにはジム・キャパルディとジミー・カーシュタイン、パーカッションにリーバップというミュージシャンたちだった。A0054043_16135454
 また、当日の聴衆の中にはジョージ・ハリソンにジミー・ペイジ、エルトン・ジョン、ジョー・コッカーなどの有名人もいたと伝えられている。

 エリック・クラプトンはこのコンサートをきっかけに自信を取り戻し、ドラッグ中毒の治療を開始して、約1年後には「461オーシャン・ブールヴァード」という名盤を携えて見事完全復活を遂げるようになるのだが、ある意味、彼の人生の転機となった記念碑的ライヴ・アルバムといってもいいのではないだろうか。

 おそらく今は、この8曲を追加した計14曲の「レインボー・コンサート」のCDしか出回っていないと思うのだが、私のような昔からのファンからすれば、よくぞこのアルバムを出してくれたと当時のポリドール・レコードに感謝しているに違いない。

 最後に、この日のクラプトンは、第1部で“ブラッキー”という愛称の黒のフェンダー・ストラトキャスターを、第2部では赤のレスポールを演奏したという。この時の写真を見れば、第1部か第2部かの違いが分かるはずである。Hqdefault

| コメント (2) | トラックバック (0)

2018年9月24日 (月)

ライヴ・イン・ジャパン

 「ライヴ・イン・ジャパン」というタイトルのライヴ・アルバムは、たくさんあると思う。古くはザ・ベンチャーズやピーター、ポール&マリー、新しいところではフィル・マンザネラやアルカトラスなどがある。
 フィル・マンザネラやアルカトラスがなぜ新しいのかと不思議に思う人もいるかもしれないが、マンザネラは今年の2月に、アルカトラスの1984年の来日記念実況録音完全盤が4日後の9月28日に発売されるからだ。

 そんな数ある「ライヴ・イン・ジャパン」というタイトルのアルバムの中で、やはりこのアルバムが唯一無二というか、“ジャパン”という名前を世界に知らしめたのではないだろうか。そう、このブログの愛好者ならすぐに頭に思い浮かぶだろう(愛好者という人はほとんどいないと思うけれど)、ディープ・パープルの「ライヴ・イン・ジャパン」である。61pvrhc762l
 レコードとしては、1972年の12月に発表された。実際の録音は、その年の8月15日から17日の3日間、場所は東京の日本武道館と大阪の厚生年金会館(当時)で行われた。

 これは有名な話だが、このライヴ盤を制作するにあたって、いくつかの条件がバンド側から提出された。
 ①日本でのみ発売すること、ただし、発売するかしないかはバンド側が決める
 ②録音はバンド側が行い、機材は日本のものを使用する
 ③ミックスダウンはバンド側が行う

 なんか幕末に結んだ不平等条約のような感じがするが、要するに、バンドのマネージメント側としては、そんなに期待してはいなかったのだろう。2枚組のアルバムは値段が高額になるので、売れることはそんなに期待していなかったに違いない。
 バンド側としても契約上のアルバム消化につながるし、それなりのお小遣いも稼げると思っていたのだろう。Deep_purple_live_in_japan_1972c
 それに、基本的にバンド側は自分たちの熱狂的なライヴが、レコードでは再現されないだろうと思っていたようだ。ところが、ストーンズやザ・フーのライヴ盤が好評を得てからは少しは考えも変わってきたらしい。また、海賊盤対策という思惑もあったとのこと。彼らは、それまで公演の模様をライヴ盤として発表していなかったからだ。

 そんなバンド側の思惑に反して、このアルバムは日本では評判が良かったし、予想に反して、かなり売れた。バンド側も録音状態や内容に満足していたので、日本だけでなく母国イギリスやヨーロッパでも発売しようと決めて、やはり12月にイギリスで、翌1973年の4月にはアメリカでも手に入れることができるようになった。
 ただし、アルバム・タイトル名は「メイド・イン・ジャパン」に変更され、アルバム・ジャケットも日本盤とは異なっていた。71sxpky9fkl__sl1300__2
 チャート的には、オーストリアやドイツ、カナダでは1位、アメリカでは6位、イギリスでは16位を記録し、日本では30万枚以上、アメリカでは200万枚以上売れている。2枚組のライヴ・アルバムでは異例の売上げだった。

 そして、80年代の終わりにCD化されたときは、もちろんレコードと同じ7曲しか収められていなかった。CDは針も飛ばないし、多少汚れても音は変わらないし、傷もつきにくい。しかも途中で盤をひっくり返す必要もなかったから、1枚1875円で販売されても文句はなかっただけでなく、むしろあの名盤が手軽に聞くことができるようになってうれしかったことを覚えている。

 ところが、である。このアルバムもゼッペリンの「永遠の詩」と同じように、その後、完全盤が発表された。しかも手を変え品を変え、追加の完全盤が、紙ジャケット化も含めて、次々と発表されて行った。これは「永遠の詩」以上の編集の仕方だ。

 残念ながら、自分はそんなに詳しくはないのでよくわからないのだが、少なくとも1993年には3日間の公演の3枚組完全盤が、98年には25周年の2枚組リマスター盤が、そして、2014年には更なるデラックス・エディションまで発表されている。

 ただし、1993年の3枚組の完全盤といっても、1日目の大阪でのライヴでは演奏された"Smoke on the Water"はディスク1には収められていないし、その日のアンコール曲だった"Speed King"はディスク3にまわされていた。
 また、2日目の大阪のアンコール曲"Black Night"と"Lucille"は収録されていない。3日目の東京の分も同じように、当日演奏された"The Mule"とアンコールの"Black Night"はディスク3ではカットされているし、収録されていた"Speed King"は上にもあるように、初日の大阪公演のものだった。

 演奏順は実際の本番と同じ順番だったものの、やはりこの3枚組は、完全盤とはいっても8割くらいは完全なものであって、まだまだ不完全だったのだ。Kq23wfr4zy7auzx7i2rcsb
 ということで、2014年のデラックス・エディションは、それを補っている。ただ補ってはいるものの、3日分の本編と3日分のアンコール曲を分けていて、本編だけで3枚のCD、アンコール曲だけで1枚のCDに収めていた。たぶん収録時間の関係だろう。
 同時に、当時のドキュメンタリーDVDやプロモーション用のシングルCDも含まれていて、豪華6枚組ボックス・セット仕様だった。

 また、2014年のバージョンには廉価盤の2枚組CDも発表されていて、これはリミックスされた通常の7曲と、3日分のアンコール曲が収められた2枚組だった。演奏順については、6枚組は当時と同じだったが、2枚組の方は"Child in Time"と"Smoke on the Water"が入れ替わっていて、前者が2曲目、後者が3曲目に配置されていた(実際の演奏は"Smoke on the Water"から"Child in Time"の演奏順だった)。

 自分が持っているのは、1998年の25周年記念のリマスター盤2枚組である。これは残念ながら曲順は通常盤と同じものの、アンコールが3曲入っていて、つまり3日間で演奏された曲だけはアンコールを含めて1曲ずつ聞くことができるものだった。
 ちなみに、アンコールの"Black Night"と"Speed King"は最終日の東京バージョンで、最後の曲の"Lucille"は16日の大阪バージョンだった。51kzbh8cl
 自分のようなパープル・ファンなら、この2枚組がちょうど合っているような気がした。しかも輸入盤だったし、お値段も手ごろだった。

 というわけで、ゼップのライヴ盤は、確かに今年リマスター盤が出たものの、ディープ・パープルのような編集方針は取っていない。ジミー・ペイジはケチだとか、セコイとか言われているが、あくどい金儲けをしているのは、実はパープルの方なのかもしれない。

 そういえば来月彼らは来日するが、これが最後のライヴともいわれているから、そのライヴも録音してアルバムを発表するかもしれない。そのときは、できれば最初から完全盤を出してほしいものである。

| コメント (0) | トラックバック (0)

2018年9月17日 (月)

永遠の詩(最強盤)

 今頃になってこんなことを言うのも変だし、恥ずかしいことなのだけれど、自分はレッド・ゼッペリンのライヴ・アルバム「永遠の詩」が【最強盤】として再発されていたことを知らなかった。71ed9v6ttl__sl1500_
 これはもう何というか、知らなかったでは済まされないことなので、洋楽ファン、特にゼップの音楽をこよなく愛するファンとしては、まさに切腹ものだと反省している。
 ただ2014年あたりからジミー・ペイジによる過去のアルバムのリマスタリングが始まっていて、当然、この「永遠の詩」もリマスタリングされているだろうとは思っていた。

 ところが、今回というか正確に言うと、10日前の9月7日に、このアルバムは最新リマスター盤として生まれ変わっていたのだった。
 つまり2014年から始まったジミー・ペイジによる過去のアルバムのリマスター・シリーズの最終章として、このアルバムと「伝説のライヴ-ハウ・ザ・ウエスト・ワズ・ワン-」の2種類のライヴ盤が発表されたのである。

 しかし、それはあくまでも“リマスター・シリーズ”としての作品であって、【最強盤】として再発されたのは、今から10年以上も前の2007年(国内盤は2008年)であり、それまでは2枚組全9曲だったのが、それ以降は2枚組全15曲にボリュームアップしていたのである。
 また、収録時間については、99分から2時間以上の131分にも増えていて、これはもう彼らのファンなら垂涎の的ともいうべきマスト・バイ・アイテムである。

 自分は70年代初頭からのファンだったから、1976年に発表された2枚組レコード「永遠の詩」は当時から購入していたし、もちろんCD化された1989年以降はCDとしても所有していた。だから自分は、この【最強盤】については必需品として購入していなければいけなかったのである。が、しかし何故かスルーしてしまっていたのだ。

 ということで、これではファンとして申し訳ないのと同時に、自分自身をも許せないと思って、まずは旧盤の「永遠の詩」【最強盤】を購入したのであった。

 結局、以前のアルバムに6曲が追加されていて、その曲名は次のようなものであった。
・Black Dog
・Over the Hills And Far Away
・Misty Mountain Hop
・Since I've Been Loving You
・The Ocean
・Heartbreaker

 そして、Disc1にはそれまでの5曲が10曲に、Disc2では1曲増えて5曲になっていた。確かにレコードという表現形態では、片面25分程度だったし、2枚組でも最大90分少々だったから、収録される曲数に制限があるということは理解できる。71tdqrv3gl__sl1100_
 だけど、CD化されたときから80分は収録できるとわかっていたのだから、何もレコード時代のままでCD化することはなかったのではないかと思うのだが、今さら言ってみても仕方がない。
 1980年代の終わりからCDという表現形態に移行していったのだが、当時はレコードをそのまま忠実にCD化していたものだった。だから、この「永遠の詩」もそのままCD化されたのであろう。

 ただ、このゼップの1973年のマディソン・スクエア・ガーデンでのライヴは映画化やDVD化もされていて、フィルムの中では、上記の"Black Dog"や"Since I've Been Loving You"なども演奏されていたから、音源があるのはわかっていた。ただ、それが、何度もしつこく言うけれども、2007年に発表されていたとは知らなかったのだ。Ledzeppelinthesongremainsthesame064
 また、昔も今もキャメロン・クロウ監督のコメントが記載されているということもわかった。昔の2枚組CDのキャメロン監督のコメントは短くて、主に個人的なレッド・ゼッぺリンへの思い入れや73年時のニューヨークでのライヴ映画(後にDVD化もされた“The Song Remains the Same”のこと)について述べていたように思えたが、【最強盤】ではかなり長くコメントを寄せていた。

 曲数が増えたからコメントも長くなったのかと思ったのだが、1969年のセカンド・アルバムとの出会いから2003年のDVDについてまで、メンバーの発言なども引用しながら愛情あふれるコメントを寄せていた。
 さすがキャメロン・クロウ監督だけあると思ったのだが、ということはこの【最強盤】発表にあたって、新たに書き下ろしたものなのだろう。Ledzeppelinthesongremainsthesame1
 それでは、もう一つのライブ盤である「伝説のライヴ-ハウ・ザ・ウエスト・ワズ・ワン-」についてはどうなのだろうか、未発表音源も含まれているのだろうかと思ったので調べてみることにした。

 すると、新しい音源は含まれておらず、3枚組18曲は変わっていなかった。時間的にも約150分とほとんど同じだったが、"Whole Lotta Love"におけるロックン・ロール・メドレーで一部カットされているようだ。ただ、もちろんリマスター盤なので音質は向上している。でも内容的には同じなので、よほどのファンかマニアの人でないと購入しないのではないだろうか。71m4qnt9mzl__sl1104_
 ということで、今回はレッド・ゼッペリンのライヴ盤におけるリマスター盤についてだった。ジミー・ペイジにおけるリマスター・シリーズもこれで最後となるのだろうか。
 ちなみに、2003年のDVDには1975年のアールズ・コートのライヴや1979年のネブワース・フェスティバルでの映像が記録されていた。

 特に、ネブワース・フェスティバルにおけるゼップの演奏はブートレッグも出回っているように、久しぶりにスタジオ・アルバムを発表して2年振りにライヴ活動を再開したせいか、かなりの熱の込めようだった。記録では1979年の8月4日と11日の2日間で、日によってセットリストは異なってはいるものの、だいたい本公演で18~19曲、アンコールでは3~4曲披露されていた。O0500033114004998678
 DVDでは7曲しか収録されていなかったので、残りの映像もきっとどこかに、恐らくはジミー・ペイジの手のもとに保存されているはずだ。その完全版を発表してほしいし、こう思っているのは、自分一人ではないはずだ。

 とりあえず今回のリマスター盤で、音源に関してはこれでほとんどと尽くしたようなので、これからは映像関連での蔵出しを願っている。
 ということは、今回のリマスター盤「永遠の詩」は、【超強力盤】ということになるのかもしれない。

| コメント (0) | トラックバック (0)

2018年9月10日 (月)

フランツ・フェルディナンド

 もう10年以上も前の話になるのだけれど、自分が彼らの音楽を聞いたときに思ったことは、これは売れるだろうなということだった。
 最初に聞いた曲は"Take Me Out"だったが、この曲のメロディ、サビの印象度、クラブで踊れそうなリズム感覚などは、新人バンドとは思えないほどの才能を示していた。

 このバンド、フランツ・フェルディナンドは2001年にイギリスのグラスゴーで産声を上げた。当時のメンバーは次の4人だった。
アレックス・カプラノス(ギター&ボーカル)
ロバート・ハーディ(ベース・ギター)
ニコラス・マッカーシー(ギター、キーボード、ボーカル)
ポール・トムソン(ドラムス)9377
 グラスゴー芸術大学で英文学を学んでいたアレックスと芸術を専攻していたロバートが出会ってバンドが結成されたといわれているが、当初、ロバートは自分は画家なので音楽を始めようとは思っていなかったようだ。
 ところが、アレックスから芸術家なんだから、絵画だけでなく音楽でも表現してみようよとアレックスから説得されて、手近にあったベース・ギターを勧められたという。だから、ロバートは、大学生になってから音楽を始めている。

 ちなみに、このベース・ギターは、アレックスが同郷のバンドのベル&セバスチャンのメンバーであるミック・クックから譲り受けたもので、それをアレックスがロバートに渡したものだと言われている。ロバートは、それをアレックスのフラットの台所で練習していたらしい。

 名前を聞けばわかるかもしれないけれど、アレックスはギリシャ人の父親とイギリス人の母親との間のハーフで、7歳の時にグラスゴーに引っ越してきた。
 グラスゴー芸術大学で学ぶ前には、アバディーン大学で神学を学んでいたが、世俗に執着があってか?、牧師になることをあきらめて退学をして、違う大学に入り直している。

 彼はこのバンドの中心メンバーなのだが、若い時からバーテンダーや運転手などでアルバイトをしながら、音楽活動を始めている。
 1990年代には、セミ・プロのバンドでの音楽活動も行っていて、その経験がフランツ・フェルディナンドにおいても活かされているようだ。そして、フランツ・フェルディナンド結成時は29歳だったから、そんなに若くはないデビューだった。

 アレックスと一緒にボーカルを取っているニコラスは、ドイツ生まれのイギリス人で、子どもの頃からクラシック音楽を学んでいて、ピアノ以外にもチェロやリュートなども得意である。
 また、ドイツ国内でもカメラキノやエンブリヨというバンドで、ロックやジャズ、ワールド・ミュージックをプレイしていた。その後、イギリスの戻る決意をして、友人の勧めでグラスゴーで生活をするようになったらしい。

  ポールは子どもの頃から音楽に興味があって、ドラムス以外にもギターやキーボードを演奏することができる。彼はアレックスと一緒にヤミー・ファーというバンドで活動していたが、バンド解散後はクラブのDJや絵のヌード・デッサンのモデルなど、様々な仕事を経験している。

 2004年に発表された彼らのデビュー・アルバム「フランツ・フェルディナンド」は、2003年と04年に発表された2曲のシングル"Darts of Pleasure"と"Take Me Out"のヒットのおかげで、商業的に大成功した。61ogsbvefl__sl1500_
 特に後者の"Take Me Out"は、全英で3位、カナダでは8位、全米でも66位まで上昇していて、彼らの音楽観を象徴するようなモニュメント的曲に育っていった。

 彼らの音楽を一言で言うと、“歌って踊れるロック・ミュージック”である。あるいは、“ポップでダンサンブルなロック・ミュージック”と言い直してもいいかもしれない。例えていうなら、ポップでチープなロキシー・ミュージックといった感じだろうか。もしくは“ロキシー・ミュージック+T・レックス÷2=フランツ・フェルディナンド”という公式が生まれてくるかもしれない、そんな感じがした。

 ビジュアルに関してもスノッブな英国紳士風で、ダンディというよりは何かいかがわしい下世話な成金趣味という匂いがプンプン漂っていて、逆にそれが若者受けするというか、少し手を伸ばせば届くような感覚が気持ち良かったりもした。

 アレックスはこうも述べている。“アート・ロックってすごく笑えるよね。僕の好きなバンドはみんないわゆるアート・ロックなのだけれど、僕からすれば彼らは単純に良いバンドだったという、それだけのことなんだ。
 確かに僕たちはアートに興味を持っているし、バンドのビジュアル面にも気を遣っている。だけど僕たちがクリエイトしている音楽は、アート・ロックではなくて、僕たちはポップ・バンドなんだ。本質まで突き止めるとそこに行き当たるんだよ”

 確かに、チャック・ベリーの昔からロック・ミュージックは、歌や踊りと切り離せないものだった。言葉の意味から考えても、“岩が転がる音楽”は人の心も体も自由にさせたし、本来は“性愛”という意味の“ロックン・ロール”は、アフリカ系アメリカ人のスラングだった。

 だから、ロック・ミュージックは、いとも簡単にダンス・ミュージックに転嫁できたし、ものすごい短期間に世界中に広まっていった。そして時間や空間を超越して、これからも数々の派生と流行を伴いながら拡大していくだろう。まさに、ポピュラー・ミュージックとしての本質をも備えているのである。

 さらにまた彼は、こうも述べている。“デヴィッド・ボウイやT・レックスは誰も聞いたことのない音楽を創り出した。それはアヴァンギャルドであるにもかかわらず、音楽の限界を広げ、人々から受け入れられたポップな音楽でもあった。僕らが目指しているものは、ポップであり、実験精神に富んだ音楽なんだ。それは最も難しくて、最も偉大なことだと思っている”

 そういう意図で作られたのがセカンド・アルバムの「ユー・クッド・ハヴ・イット・ソー・マッチ・ベター」で、2005年に発表された。51n3ikjzcal
 確かに、このアルバムは進化していた。彼らのトレードマークともいうべき踊れる音楽は存在していたが、ただそれだけでなくドラムレスな曲やピアノで構成された曲、ロック的なエッジが際立っている曲などもあって、かられの野心というか意図がリスナーによく伝わってくるアルバムだった。

 また、曲の一つ一つにアレンジがよく行き届いていて、サビだけで構成された曲や前奏なしで始まる曲など、よく工夫されているし凝ってもいる。また、音の圧力も高くて情熱的であり、こちらに迫ってくるような印象もあった。

 これが売れないわけはないだろうと思っていたが、案の定、英国では初登場第1位、ドイツやアイルランドでは2位、全米でも最高8位を記録し、ダウンロードが主流の現在の音楽状況で200万枚以上のセールスを記録し、いまだに売れ続けている。彼らを代表するアルバムであることは間違いないだろう。

 このアルバムを制作するときは、とにかくアイデアが豊富に湧き出ていたようで、スタジオに入る前から何百というアイデアがあって、1曲につき4~5パターンのアレンジが用意されていたそうだ。
 また、アルバムのプロデューサーはリッチ・コスティという人で、彼はレイジ・アゲインスト・ザ・マシーン、ジェインズ・アディクション、ミューズなどと仕事をしていて、ポスト・パンクというかインディー・ロック系も得意としているプロデューサーでもある。そういう意味でも前作よりはロック寄りともいえるだろう。

 彼らは、その後もコンスタントにアルバムを発表してはツアーを行っていたが、2016年にオリジナル・メンバーのニコラスが音楽活動に疲れてしまい、家族との時間を大事にしたいという理由から脱退してしまった。
 バンドは代わりにディーノ・バルドーとジュリアン・コリーという2名のメンバーを加えて活動を継続している。69f70a1e965a716d400771a84607bc9f 
 ディーノは主にギターを演奏していて、アレックスやポールが在籍していたヤミー・ファーが再結成されたときのベーシストだった。
 ジュリアンはキーボードとギターを専門にしていて、ベル&セバスチャンのアルバムをリミックスするなど、プロデューサー業もこなす33歳のミュージシャンで、子どもの頃は父親の仕事の関係で南米のペルーに住んでいた。

 彼らは、というかアレックスはアメリカ人ミュージシャンのロン&ラッセル兄弟が在籍しているスパークスが大好きで、2015年には彼らとコラボしたアルバム「FFS」を発表している。
 フランツ・フェルディナンドとスパークスは、2007年あたりから一緒にコラボしているせいか、このアルバムは15日間という短期間でレコーディングされている割にはよくできていて、評論家からも好意的な評価を与えられた。全英17位、全米ロックチャートで22位とセールス的にも好評だったようだ。61r2kbxprl

 そんなフランツ・フェルディナンドだが、今年の2月には5枚目の公式スタジオ・アルバム「オールウェイズ・アセンディング」を発表して、11月末には来日公演も実現した。
 彼らの音楽には、英国の伝統であるポップネスと脈打つダンス・ビートが備わっている。この伝統と革新性、これがこのバンドの強みであり、この両方が止揚されている限りは、人気を失うことはないだろう。

| コメント (0) | トラックバック (0)

«ヨ・ラ・テンゴ