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2008年10月

2008年10月27日 (月)

闇に吠える街

 自分にとってはもう“学園祭”という言葉は死語になっているが、まだこの言葉が生きていた頃はよその学校に行っては学園祭を見学していたものだった。

 その学園祭のときに、友だちを介して他の大学生と知り合って、そいつがブルース・スプリングスティーンの大ファンだと知ったときは少々驚いた。もう11月で、師走の声もあと少しで聞こえそうという時期にもかかわらず、白いTシャツとジーンズ姿で全く季節感がなかったからだ。

 ちょうど1978年に発表されたブルースの4枚目のアルバムの裏ジャケット写真のような格好だった。

闇に吠える街(紙ジャケット仕様) Music 闇に吠える街(紙ジャケット仕様)

アーティスト:ブルース・スプリングスティーン
販売元:Sony Music Direct
発売日:2005/06/22
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 そいつは自分の尊敬する人物は“ボス”だといっていた。ここでいう“ボス”とは缶コーヒーのことではなくて、ブルース・スプリングスティーンのことである。彼の愛称は“Boss”だった。

 当時の自分は、ブルース・スプリングスティーンのことは知ってはいたが、そんなに詳しくは知らなかった。彼が1975年に発表したアルバム「明日なき暴走」は全米3位というアルバム・チャートを記録し、同名シングルも大ヒットをし、彼自身も雑誌「タイム」や「ニューズ・ウィーク」の表紙を飾った。

 そのときの評論家ジョン・ランドゥのキャッチ・コピー「僕はロックン・ロールの未来を見た。その人の名前はブルース・スプリングスティーン」というのは今でも忘れられない。これは自分だけでなく、おそらく彼のことを知っている人ならみんな知っているほどの有名なエピソードだと思っている。

 そのアルバムから3年間、「闇に吠える街」が発表されるまで、彼は最初のマネージャーとの裁判に巻き込まれていた。
 最初のマネージャーであるマイク・アペルはブルースをシンガー・ソングライターとして売り出そうと考えていた。実際、最初の2枚はボブ・ディランのようで、キャッチ・コピーも“第2のボブ・ディラン”だったそうである。

 ところが3枚目のアルバムは、先ほどのジョン・ランドゥをプロダクション・チームに招きいれ、それまでのフォーキーな音楽から一転してロックン・ロールを中心としたアルバムに方向転換してしまった。
 そしてこれが大ヒットしたものだから、マイク・アペルとしては面白くない。自分の方針がくつがえされたようなもので、彼はジョン・ランドゥの排除とブルースの音楽方針をめぐって、ケンカになり、結局裁判沙汰になってしまった。

 だからこの裁判が決着するまで約2年半余りの長いブランクがあったのである。それで「明日なき暴走」以降は彼の名前や曲をラジオ等で聞かなかったものだから、彼のことは記憶の彼方に飛んで行ってしまっていたのであった。

 それで冒頭の彼に出会って、ブルースが新作を出している(といっても1年ぐらいたった後だったと思うが)と聞いて、あわてて購入したのが「闇に吠える街」だった。

 このアルバムを聞いて、それまでの彼のイメージが大きく変わったのを覚えている。それまではシングル"Born to run"の影響が強くて、ロックンローラーという印象が強かったのだが、このアルバムを聞いて、ロックする曲もさることながら、バラード系も優れているとあらためて確認したのだった。

 特に"Something in the night"、"Racing in the street"、"Darkness on the edge of town"の3曲は名曲だと思う。特に夜中に一人で聞いていると、しみじみとした気持ちになってしまう。ポップスではなくて、ロックを聴いてしみじみした気分になったのは実に久しぶりのことだった。

 またこれらのバラード系以外でもいい曲が多い。"Badlands"、"The promised land"、"Prove it all night"などはその後もコンサートで歌われている曲である。
 アルバム自体は全米5位と「明日なき暴走」には及ばなかったものの、内容については結構充実していて、彼の隠れた名盤になっていると思う。

 「明日への暴走」と「ザ・リバー」の間に発表されたので、イマイチ印象度は薄いかもしれないが、彼のキャリアの中で重要な位置を占めているアルバムだと思う。

 冒頭の彼にはその後会ってはいない。実際、会ったのは数回だし、直接話をしたのは数えるほどである。だから名前も覚えていないのだが、彼の印象は今でも残っている。“Boss”の素晴らしさを再確認させてくれたのは彼だからだ。

 今でも尊敬する人は“Boss”なのだろうか。そして今でも半袖Tシャツとジーンズで過ごしているのであろうか。

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2008年10月25日 (土)

カーリー・サイモン

 アメリカの女性歌手にカーリー・サイモンという人がいる。カーリー・サイモンとくればかつては男性SSWのジェイムズ・テイラーの元妻であり、何といっても一番有名なのは1972年にNo.1ヒットを記録したシングル"You're so vain"(うつろな愛)であろう。

 この曲はかなり売れたし、このシングル・ヒットのおかげで、この曲が収められていたアルバム「ノー・シークレッツ」も全米No.1を記録した。とにかくこの年を代表するシングル、アルバムだったのである。

ノー・シークレッツ Music ノー・シークレッツ

アーティスト:カーリー・サイモン
販売元:イーストウエスト・ジャパン
発売日:1997/11/25
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 このシングル曲"You're so vain"にはミック・ジャガーがバック・ボーカルに参加している。一聴してミックだとわかる声が"this song is about you, don't you? don't you?"と彼女と一緒にハモっている。

 なぜミックがこの曲の録音に参加したのかよくわからない。カーリーの記憶によると、録音中のスタジオにミックが電話してきて、今からそこに行くからよろしくというようなことを言ったらしい。
 彼女は冗談だろうと思っていたら、実際にやってきてレコーディングに参加したということだった。

 当時はすでにジェイムズ・テイラーと結婚していたから、彼女とミックが恋仲だったというのは考えられない(と思うのが普通だが、70年代は何があってもおかしくない時代だった。このアルバムはロンドンでレコーディングされたので、その数ヶ月間は彼女は一人暮らしだったのだ!)。

 この歌がヒットしていたとき、この歌詞に出てくる"You"とは誰のことか話題になったらしい。当時の旦那であったジェイムズ・テイラーか昔の恋人クリス・クリストファーソンか、はたまたミック・ジャガーか等々。要するにカーリー・サイモンは恋多き女性だったのである。
「あなたは何年も前
私が純粋だった頃自分のものにし
僕たちはいい関係になれるよと
言って決して離れなかった
だけどあなたは自分が愛したものを
次々と捨てていった
その中のひとつは私だったのよ
私は夢を見ていた
まるでコーヒーの中の雲のように
ありえないことを夢見ていた

あなたは虚しい人
あなたはたぶんこの歌は
自分のことを歌っていると
思っているはずだわ
そうでしょ?そうに違いないわ」
(訳プロフェッサー・ケイ)

 70年代のアメリカの女性シンガーは自分の女性性を強調している人が多いような気がする。例えば、リンダ・ロンシュタットは可愛い女性を演じながら恋愛遍歴を行っていたし、ジョニ・ミッチェルも数多くの恋を経験しながらそれをアルバムに反映していた。(ジョニ・ミッチェルの場合は恋愛を知的な芸術まで昇華している点が素晴らしいし、その点でも多くの他のミュージシャンから尊敬も受けている)

 カーリー・サイモンの場合はもっと露骨で、アルバム・ジャケットを見てもわかるように、セクシーな女性性を表現している。このアルバムでもそうだし、他にも逆光を受けてボディ・ラインのシルエットがはっきりとわかるものや、当時としてはかなり大胆なキャミソール姿だけのジャケットもあった。

Playing Possum Music Playing Possum

アーティスト:Carly Simon
販売元:Elektra
発売日:2000/03/13
Amazon.co.jpで詳細を確認する

 また歌詞にも時代を反映してかかなり大胆な表現を使用したものもある。やはり70年代の性表現の解放の影響を受けていたのであろう。今なら普通に当たり前のような内容なのだが…

 80年代に入るとマドンナやシンディー・ローパーが登場してきて、時代とともに生きる自立した女性性を表現するようになる。特にマドンナは、最初は"Toy Boy"(男の子のおもちゃ)という雰囲気を出していたのだが、それは彼女の逆説的な表現で、女性という立場を利用して既成の価値観や宗教観と堂々と対決し、自分の意見を主張するようになった。

 こうやって見ると面白いのだが、別にロック・ミュージックにおける女性の人権史を述べるつもりはないのでこの辺でこの話題についてはお終いにしたいと思う。

 このアルバムには当時の夫のジェイムズ・テイラーは当然のこと、リトル・フィートのローウェル・ジョージやビル・ペイン、ニッキー・ホプキンスにジム・ケルトナー、さらにはボニー・ブラムレット、リンダ&ポール・マッカートニーなど豪華なミュージシャンが参加していた。

 この後、1983年にジェイムズ・テイラーと離婚し、2人の子どもを育てながら音楽活動をコンスタントに続けている。一時、ドラマーのラス・カンケルと付き合っていたが、その後作詞家と再婚した。また乳癌にもなったようだが、放射線療法の効果のせいかその後の話は聞いていない。

 70年代の彼女はシンガー・ソングライターであったが、80年代以降は映画の主題歌やジャズなどのスタンダード曲を集めたものを発表している。いまだに息の長い活動を続けている女性シンガーでもある。
 彼女の人生を見ていると、典型的なアメリカ人女性のように見える。裕福な家庭に生まれ、多くの恋愛を経験しながら結婚、離婚、再婚をし、今では孫に囲まれながら悠々自適の生活を送っている。性格は明るく陽気で、些細なことにはとらわれないさばさばした気質である。
 そういう彼女の性格が彼女の作った音楽にも反映されているのであろう。気が滅入ったときにはお勧めの音楽かもしれない。

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2008年10月22日 (水)

ダンカンの歌

 ダンカンといっても「たけし軍団」で芸能人のダンカンでもなく、NBAのサンアントニオ・スパーズのフォワード選手、ティム・ダンカンのことでもない。1972年に発表されたポール・サイモンのソロ・アルバム「ポール・サイモン」に収められていた曲である。

 当時のFMラジオでは、時々ポール・サイモンの曲が流れてきていた。たとえば"Mother and child reunion"、"Me and Julio down by the schoolyard"などであり、そして"Duncan"もしばしば聞いた覚えがある。いずれもアルバム「ポール・サイモン」に収録されていた曲であった。

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Music Paul Simon

アーティスト:Paul Simon
販売元:WEA/Rhino
発売日:2004/07/12
Amazon.co.jpで詳細を確認する

 "Mother and child reunion"(母と子の絆)は、有名白人ミュージシャンとしては初のレゲエのリズムを使った曲だと言われていたが、よく考えてみると、1968年にビートルズが"Ob-La-Di, Ob-La-Da"でレゲエのリズムを使用している。正確にはポール・マッカートニーの作品だが、同じポールでもマッカートニーの方が早いのではないだろうか。

 それでこのシングルだが、レゲエの軽妙なリズムとポール・サイモンの甘い歌声が微妙にブレンドされていて、聞いていて気持ちが良くなってくる。当時の自分には何と歌っているのかさっぱり分からなかったが(もちろん今でも分からないのだが)、どことなく気分が晴れるような気がした。母親を知らない自分にとってのメッセージ・ソングと勝手に受け取っていたのかもしれない。

 でも実際は、ニューヨークのチャイナタウンで食べた料理のメニュー“鶏と卵”から着想を得て制作されたものらしい。“鶏”が母で、“卵”が子どもである。この2つが1つのお皿に盛られていたから"Reunion"なのだろう。なかなかユニークな着想である。

 "Me and Julio down by the schoolyard"(僕とフリオと校庭で)のタイトルを初めてラジオで聞いたとき、てっきり“僕とフリオと皇帝で”と思ってしまい、しばらくの間、といっても大学生になるまでそういう風に勘違いしていた。僕とフリオと皇帝の3人が何かをするという歌だと思っていたのである。無知とは何とも恐ろしいものである。

 この曲はたぶんシングル・カットされたと思う。もちろんNo.1にはならなかったのだが、自分にとっては思い出のある曲だった。(アルバム自体は全米No.4を記録した)
 ポールお得意の物語性のある歌詞で、捉えようによれば何やら児童虐待や家庭内暴力を匂わせるものになっている。反戦ソング(プロテスト・ソング)だという人もいるようだ。

 そして"Duncan"(ダンカンの歌)である。この歌の歌詞を知って驚いた。ある人の少年時代のことを歌った内容なのだが、ここまで赤裸々に歌ってよいのだろうかと思ったりもした。でもポールのことだから、質問されればあくまでもこれは歌詞の一節ですと言って、たぶん知らん振りをするに違いない。

「隣の部屋のカップルは
賞でも取るつもりなのだろう
彼らは一晩中やっている
だってモーテルの壁は安っぽいから
リンカン・ダンカンが僕の名前で
これは僕の歌なんだ

僕の父は漁師で
母は漁師の友達だった
僕は両親の退屈とチャウダーの中
で生まれた
青春時代を迎えると家を飛び出し
高速道路を通ってあこがれの
ニュー・イングランドに向かった

自分の自信に穴があき
ジーンズのひざにも穴があいた
僕には一文もなく
子どものように何も持ってなかった
指輪をしていればよかったのに
なぜなら質屋にもっていけたから

駐車場の若い女の子が
みんなに向かって教えを説いていた
聖歌を歌い、聖書から引用をしながら
僕は彼女に迷っているんだと言うと
彼女はペンタコステのお祭りについて
話してくれて
僕には彼女が復活への道しるべだと
感じたのだ

まさにその日の夜遅く
懐中電灯をもって彼女のテントに
忍び寄ると
僕の長い純潔時代は終わった
彼女は僕を森へ連れて行き
何かがやってくる、とっても気持ちいい
と言いながら僕はまるで犬のように
助けてもらった

何てすばらしい夜なんだろう
金色に光り輝くような喜びだ
今でもその甘い記憶は残っている
僕は自分のギターを弾きながら
星空の下に横になって
神に感謝をしていた
僕の指に
ギターを奏でる僕の指を
授けてくれたことについて」
(訳;プロフェッサー・ケイ

 S&G時代の"コンドルは飛んで行く"をもう少し暗くしたような曲調で、聞いているとなんだかしんみりとしてくる。しかし歌詞はちょっとどうかなと思ってしまう。少なくとも人前で声を出して歌うのには抵抗がある。

 ポール自身は大学教授と英語の先生との間に生まれて、裕福な少年時代を過ごしているので、この歌詞にあるような子ども時代を過ごしてはいない。でも100%創作にしてはリアルすぎるので、一部は実体験か人の体験を語っていると思うのである。
 ただ高校卒業後は、ヨーロッパを放浪していた経験があるので、そのときのことも入っているのかもしれない。

 このアルバム自体は大学時代に購入して、やっと全編を聞き通したのだが、その後の彼の音楽のベースになるようなエッセンスに満ちている。
 いわゆる北米や南米の音楽の再発見やその後に続く他の民俗音楽とのコラボレーションである。一時、音楽による植民地主義者とまで言われた彼だが、民俗音楽を利用して金儲けをしようとしたわけではないと思う。そんなことをしなくてもS&Gの印税だけで十分食っていけるからだ。

 事実、相方のアート・ガーファンクルの方は80年代以降、大したアルバムを作っていないにもかかわらず、相変わらずドラッグに手を出している。そのお金はどこから来ているのだろうか。

 とにかく秋になると、こういうフォーキィな音楽を聞きたくなってしまう。自分の中ではポール・サイモンは偉大なシンガー・ソングライターなのであり、彼のつくる音楽についつい思い入れをしてしまうのである。

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2008年10月19日 (日)

ハーヴェスト

  先日、自分の勤務している仕事場でピッピッピとバスがバックするときに発する音が聞こえてきた。しかもかなりの時間にわたって聞こえてきたのである。何の音だろうと思って窓から顔を出すと、それは稲刈りのトラクターが方向転換するときに出す音だった。

 確かに10月も終わりになると、収穫の時期になる。果物などはもっと早い時期に収穫されているが、日本人の主食である米の刈入れはだいたいこの時期に行われるのが普通だ。

 マルコ・ポーロの「東方見聞録」によると、彼が黄金の国“ジパング”のことを聞いたのは13世紀のことである。当時の日本は鎌倉時代だった。
 彼が述べた“黄金”とは中尊寺金色堂のことともいわれているが、一方で稲が豊かに実っている風景が金色に見えたからという話もある。確かに遠方から見れば、金色のように見えるだろう。

 欧米では10月末にハロウィーンが行われるが、これは古代ケルト人の収穫祭が変化したものといわれている。
 洋の東西を問わず、この時期には豊かな収穫に感謝するとともに、来年以降も実り豊かになるように期待を込めて、祭りが行われるのであろう。

 アメリカのSSWである二ール・ヤングが1972年に発表したアルバムが「ハーヴェスト」であった。自分にとって初めて購入したニールのアルバムであった。

 その前のアルバム「アフター・ザ・ゴールド・ラッシュ」が個人的にはニールのベスト・アルバムであり、一家に一枚の歴史的名盤だと思っている。
 "After the gold rush"、"Southern man"など粒ぞろいの名曲が収められており、若者の虚脱感や脱力感、時代に対する鋭い批評などが込めているからである。

 そういう名盤の後だったせいかもしれないが、このアルバムの1曲目は非常にリラックスしたカントリー・タッチの曲"Out on the weekend"で始まっている。続く"Harvest"もゆったりとしたフォーキィな曲である。

Harvest Music Harvest

アーティスト:Neil Young
販売元:Wea Japan
発売日:1994/06/16
Amazon.co.jpで詳細を確認する

 このアルバムから"Heart of gold"(孤独の旅路)がシングル・カットされ全米No.1を獲得している。そのせいかアルバムも大ヒットを記録した。自分も当時FMラジオから何回も流れてきていたのを覚えている。

「私は生きたい
私は与えたい
私は黄金の心を求める鉱夫
それは私が与えることのない表現だ
それが私に黄金の心を探し求めさせる
そして私は年をとっていく

私はハリウッドに行ったことがある
レッドウッドにも行ったことがある
黄金の心を探し求めて大洋を渡った
私は心の中にいる
それは美しい線
それが私に黄金の心を探し求めさせる
そして私は年老いていくのだ」

(訳プロフェッサー・ケイ)

 このアルバムの中で唯一ハードな曲は"Alabama"であろう。内容も“白いロープで縛られている年老いた人たちを見てみろよ”という過激なもので、南部の人種差別の実態を歌ったといわれている。

 さすがニール・ヤングであるが、前作でも"Southern man"で南部の白人のことを非難している。別に彼がカナダ出身だからといって南部で差別されたわけでもあるまいに、なぜか南部のことを2作続けて歌っている。やはり外国人の彼から見れば、アメリカの暗部というか、許せない不正な実態が見えてしまうのであろう。

 もちろんこの歌については賛否両論で、アラバマに住んでいる人、特に白人からは非難轟々だったらしい。この歌に反論する形で、レーナード・スキナードが"Sweet home Alabama"を歌った。

 またこの歌には現代のイラク紛争のことにも通じる"Are you ready for the country?"や薬物中毒の実態を告発したような"The needle and the damage done"なども収録されていて、音楽的にはゆったりとフォーキィであるが、歌詞的には相変わらず過激なものになっている。

 ニール・ヤングは首尾一貫している人である。彼のアルバムは当たり外れが大きいのだが、彼の信念にはブレがない。反戦、反ドラッグ、反人種差別という彼の信念は70年代から現在まで貫かれている。だから若いミュージシャンからも尊敬の念をもたれているのであろう。

 このアルバムを聴きながら思った。今年63歳になる彼にとって何が"Harvest"だったのか聞いてみたい気がする。

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2008年10月15日 (水)

ロン・ウッド

 最近、有名人の死亡ニュースが頻繁にメディアから流れてくるような気がしてならない。死の連鎖みたいなものかもしれないが、ロック・ミュージシャンの中にも死に至らないまでもその一歩手前まで行った人がいる。

 一番有名なのは、ローリング・ストーンズのキース・リチャーズであろう。この人は70年代から常に死の影が付きまとっていた。
 原因はドラッグ中毒である。ロックとドラッグは切っても切り離せない関係であるが、中でもストーンズは横綱格で、その中でもキースは別格であったらしい。

 真相は定かではないが、スイスの病院で血液を全部入れ替えたという噂が飛び交うほどひどかった。
 その後も薬物所持で逮捕され、強制的な社会貢献活動と引き換えに釈放されたりとやりたい放題だった。
 最近も南の島で休養中に椰子の木から落ちて、危うく一命を取り留めたりといつ死んでも不思議でない人生を送っている。

 それで天国に一番近い人がキースなら、2番目に近い人はロン・ウッドではないかと思っている。

 彼は一日30本以上タバコを吸うヘヴィ・スモーカーだったが、肺気腫でこのままいくと1年以内に死亡すると医者から宣告された。だから禁煙を始めたのだが、今度はアルコール依存症になってしまったのである。

 しかしもともと彼は、アルコールが大好きで体を切ったら、血ではなくお酒が流れてくるといわれるほどのお酒好きである。だから依存症も今に始まった話ではない。
 この数年間でも何回も禁酒していたのだが、大のパーティ好きのせいもあって、ついついお酒に手を出してしまうらしい。

 だから禁酒しても続かない。ストーンズのコンサートが続いているときは素面なのだが、ツアーが終了すると飲んでしまう。だからコンサートやレコーディングを続けてもらえばいいのだけれど、そういうわけにもいかない。なかなか困ったことである。

 2006年にもリハビリ施設に入院したが、効果はなかったらしい。最近では19歳のロシアはカザフ出身のエカテリーナちゃんと親密な関係になり、23年間連れ添った奥さんと離婚の手続きを始めたらしい。
 なんでも彼女がアルバイトしていたクラブで知り合ったらしく、お互いに結婚を前提に付き合い始めたらしい。

 こういうのもアルコール依存症からくる幻想だと思うのである。おそらく慰謝料は数十億円に上るだろうが、ロンからすればどうでもいいのだろう。こういうふうに金銭感覚がなくなるのも依存症の症状かもしれない。

 彼が1974年に発表した1st・ソロ・アルバム「俺と仲間」は隠れた名盤である。彼なりの黒人音楽に影響されたロンクン・ロールとソウルフルなバラード、ストーンズ流のミディアム・テンポのナンバーなどが絶妙なバランスを保って収められている。

俺と仲間 Music 俺と仲間

アーティスト:ロン・ウッド
販売元:ワーナーミュージック・ジャパン
発売日:2006/05/24
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 特に1曲目の"I can feel the fire"2曲目"Far east man"はすばらしい。前者はストーンズのアルバム用に作られたものを自分のアルバムに入れたもので、同時期に作られた"It's only rock'n'roll"はストーンズのアルバムに収められている。

 "Far east man"はジョージ・ハリソンとの共作で、ジョージのアルバム「ダーク・ホース」にはジョージ・ヴァージョンが収められている。ジョージも気に入っていたほどの名バラードである。秋の夜に聞くと、胸が締め付けられそうな感傷に浸ってしまいそうになる曲である。

 これら以外にもミックやキースがつくった(とされている)"Act together"、"Sure the one you need"、ロッド・スチュワートも参加しているR&Bナンバー"If you gotta make a fool of somebody"、"Mystifies me"など佳曲が意外と多いのである。

 そして参加ミュージシャンが豪華である。上記以外にデヴィッド・ボウイ、ミック・テイラー、ミック&キース、元気だった頃のイアン・マクレガン、ウィリー・ウィークス、アンディ・ニューマークなどなど。

 決して歌は上手ではないのだが、いかにもロン・ウッドらしいノリノリのロックンロールと聞かせどころを押さえたバラードで占められたアルバムである。
 
 たぶん今の彼にはこういうアルバムは作れないであろう。残念なことである。それもこれもお酒の依存症が原因なのである。たぶん酔いがさめればロシア人ギャルともおしまいになるのだろうが、酔っている間はそれには気づかないのである。

 逆にいうと、酔っている間が幸せなのかもしれない。惜しむらくはこういうアルバムを二度と聞くことができないことである。

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2008年10月13日 (月)

清志郎のこと

 最近、有名人の訃報に接する場合が多い。アメリカでは「スティング」、「明日に向かって撃て」のポール・ニューマン、日本では「復讐するは我にあり」、「楢山節考」の緒方 拳、ついでにロス銃撃事件の三浦和義被告などである。

 三浦被告はともかく、他の二人は日米を代表する俳優であった。本当に惜しい人を亡くしたものである。

 こう不幸が続くと、不幸の連鎖というか、次はあの人かなあと思ってみたりもする。しかも実際に危ない人がいるから余計に心配になってしまう。

 その代表的人物は、吉田拓郎と忌野清志郎である。拓郎は当初、気管支炎という話だったが、それが肺炎になり胸膜症と発表されている。62歳だからまだまだ現役だが、だんだん診断内容が変わっているのが気になる。

 一方、清志郎の方はこれはもう喉頭癌と発表されている。広く世間に公表されたのは2006年7月で、その直後に入院、治療に専念した。
 そして治療の結果からか、2008年2月には「完全復活ライヴ」を敢行し、追加公演まで行って復活のアピールをしている。

 一ファンとしても、これで一安心と思っていたのだが、残念なことに左腸骨への癌転移が見つかったということで、再び入院してしまったのである。
 喉頭癌だったので、癌細胞を切除してしまうと歌を歌えなくなるということで、切除せずに放射線治療を中心に行ったらしい。あの時切除してしまえば転移はなかったかもしれないが、そうなると歌手生命を絶たれてしまう。清志郎にしてみれば、当然の選択だったのかもしれない。

 相手は癌である。しかも再発とくれば、これはもう他にも転移する進行性の癌ということがわかる。2年以内の再発だから、存命率はそれほど高くないはずだ。だから次に来るのは清志郎か、などと不遜なことを考えてしまうのである。

 自分が初めて清志郎のことを知ったのは、井上陽水の名曲"帰れない二人"を聞いたときである。
 これはあの歴史的名盤「氷の世界」に収められているのだが、この曲は陽水との共作としてクレジットされている。またもう1曲"待ちぼうけ"という曲も一緒に作っている。

氷の世界 Music 氷の世界

アーティスト:井上陽水
販売元:ユニバーサルJ
発売日:2006/10/04
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 それまで清志郎のことは全く知らなかった。苗字に葬式のときによく見る“忌”という文字があったため記憶に残ったのである。
 むかし自分の子どもに“悪魔”という名前をつけようとした親がいたが、普通苗字にこういう字は使用しない。それをあえて使用しているのだからどんな人なのだろうと興味を持った。

 しかも“忌野”という苗字と"帰れない二人"の美しいメロディとが完全にミスマッチだったから、余計驚いた思い出がある。

 その後RCサクセッションを知り、すっかり虜になってしまい、いまだにアルバム「ラプソディ」やタイマーズのアルバムなどは愛聴している。

 最近の愛聴盤は1992年に発表された「メンフィス」と98年に発表された「レインボウ・カフェ」である。両方とも中古盤で購入したというのが悲しいが、清志郎のアルバムは店頭には置いていないから、ネットで注文するか、手っ取り早く購入するのなら中古店めぐりをするしかないのだ。

 それで「メンフィス」では、かの有名なブッカー・T&MG'sやメンフィス・ホーンと競演している。ブッカー・T&MG'sは、オーティス・レディングやサム・クックなどアメリカのソウル・ミュージシャンと競演している世界一有名なバック・バンドといってもいいだろう。

Memphis(紙ジャケット仕様) Music Memphis(紙ジャケット仕様)

アーティスト:忌野清志郎
販売元:EMIミュージック・ジャパン
発売日:2008/07/23
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 ギタリストのスティーヴ・クロッパーやベーシストのドナルド・“ダック”・ダンは、ロッド・スチュワートやエリック・クラプトンともレコーディングしているほど世界中のミュージシャンから憧憬を受けている。

 このアルバムの中には名曲が多く、"Boys"はアルバム冒頭を飾るにふさわしいアップテンポの曲、次の"雪どけ"は逆にバラードになっている。
 また、"カモナ・ベイビー"は"Come on, a baby"と"かもなべ(鴨鍋)"をシャレで掛けている。しかしこれもまた名曲で、一度聞いたら忘れないほどインパクトが強い。

 他にも"ぼくの目は猫の目"はNHKの“みんなの歌”で放送されていたし、"石井さん"は不遇時代に彼を支えてくれた今の奥さんのことを歌ったものである。
 彼はまたメンフィスの名誉市民でもあり、そのことを歌った曲"MTN"がアルバム最後に配置されている。

 しかしこの人の書くバラードは本当にすばらしい。"帰れない二人"もそうだが、RC時代の"ラプソディ"や"エンジェル"、"スロー・バラード"、このアルバムの中の"雪どけ"などマイナー・コードで書かれた曲には思わず耳をそばだててしまうほどだ。

 ともかく日本が生んだ偉大なロック・シンガーでありエンターティナーでもある清志郎のことだ。もう一度復活のライヴを期待しているのは私一人ではないはず。まだ57歳である。名前は“忌野”だが、“忌まわしく”なるのはまだまだ早すぎるのである。

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2008年10月10日 (金)

ポール・ロジャースのソロ

 フリーが1973年に解散した後、ポール・ロジャースは同じフリーのドラマーであったサイモン・カークと計らって、元キング・クリムゾンのボズ・バレル、元モット・ザ・フープルのミック・ラルフスと4人でバッド・カンパニーを結成した。

 フリー時代は日英では人気のバンドだったが、アメリカではシングル・ヒットはあったものの、そんなに有名なバンドではなかった。その鬱憤を晴らそうとしたのかどうかは分からないが、バッド・カンパニーはアメリカでは売れた。

 サウンド的にはブルーズ・ロックをベースにしながらも、いかにもアメリカ受けしそうなテイストを持ったロックだった。
 何しろアメリカ国内だけで1stが500万枚、2ndアルバムが200万枚以上売り上げたのだから、フリーとは全く格が違った。

 結局アメリカでは、1stから6枚目のアルバムまでのうち、4枚までがプラチナ・アルバムと認定されたのである。
 しかし1982年にバンド内の人間関係の悪化から?ポールが脱退して、ソロ活動を始めてしまった。

 アルバムは発表したものの、自己満足的な内容だったせいか、あまり評判は良くなく、商業的にも失敗。85年には元レッド・ゼッペリンのギタリスト、ジミー・ペイジとザ・ファームを結成した。2枚のアルバムを残して解散したが、このバンドについては別の機会で詳しく語ってみたいと思う。(その機会があればの話だが…)

 90年代に入って、ポールは元スモール・フェイセズのドラマーだったケニー・ジョーンズとバンド、ロウを結成したが、これもアルバム1枚を残して消滅してしまった。

The Law Music The Law

アーティスト:The Law
販売元:Friday
発売日:2008/06/24
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 内容的にはバッド・カンパニーよりもAOR的なロックだった。本人はそういう気持ちではなかったのだろうが、時代に迎合しているかのような薄っぺらい音作りのアルバムだった。だからファンが求める音と本人がやりたい音との落差が大きかったのだろう。

 彼が再びシーンの表舞台に登場できたきっかけとなったのが、1993年に発表したブルーズ・アルバム「マディ・ウォーター・ブルーズ」である。このアルバムは、かなり売れた。しかもグラミー賞にノミネートされるほど売れてしまったのだ。

マディ・ウォーター・ブルーズ Music マディ・ウォーター・ブルーズ

アーティスト:ポール・ロジャース
販売元:ビクターエンタテインメント
発売日:2006/02/22
Amazon.co.jpで詳細を確認する


 このアルバムは、企画もので、元イエスのトレヴァー・ラビンから元ガンズ&ローゼズのスラッシュ、デイヴ・ギルモアにスティーヴ・ミラー、ジェフ・ベックにゲイリー・ムーア、バディ・ガイ等々11人の錚々たる有名ギタリストが入れ替わり立ち代りリード・ギターを弾いて、彼が歌うブルーズを引き立てているのである。その中には、あのブライアン・メイもいて、彼と分かるギターを奏でている。

 結局、ファンが彼に望む音はこういうブルーズだったのである。やっとこれに気が付いたのか、それとも単なる通過点と考えていたのか、その後の彼の動きを見ているとよく分からない。

 彼はファンが望む音と時代が望む音に対してどう向き合うのか、という命題を自分に課しているのではないだろうか。
 というのも単なる商業主義に走るなら、ファンが望む音だけを出し続けていけば、お金はドンドン入ってくるだろう。

 しかし彼はそれを望んではいないのである。お金ならバドカン時代にある程度稼いでいるのだから、お金だけではない、自分が本来望む音を追求していると思うのである。そしてそれは今のところ成功しているとは言い難い。
 それは彼がその後に発表したアルバム・タイトルとその内容を見れば分かると思う。

 1997年には14年ぶりのソロ・アルバムとなる「ナウ」を発表した。時代の音と向き合いながら自分の音を追及した結果こうなりましたといわんばかりのタイトルである。

Now & Live Music Now & Live

アーティスト:Paul Rodgers
販売元:Spv
発売日:2002/02/04
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  確かに音的には若々しい。とても50歳を前にしたボーカリストとは思えないほどである。
 理由のひとつは、スタジオ・ライヴだったということもあげられるだろう。アナログの24トラックでの一発録りが基本だったようである。だからかどうか分からないが、音が驚くほどクリアだ。

 しかしどうもしっくりこないところもある。何かしら違和感を覚えるのだ。このバック演奏なら別にポール・ロジャースでなくてもいいのではないか、デヴィド・カヴァーデルが歌ってもおかしくない曲調なのである。

 バラード曲"All I want is you"、"I lost it all"などはポールらしいのだが、それ以外はギターの音が元気よすぎて、これはブルーズよりもむしろハード・ロック路線といった方がいい感じだ。そしてアルバム・プロデューサーはポール自身とエディ・クレイマー。このアルバムはクレイマーの影響が強かったのかもしれない。

 そして2年後の1999年には「エレクトリック」を発表している。これもまたタイトルが“電気の”となっているように、当然音も“電気”でいっぱいなのであった。

Electric Music Electric

アーティスト:Paul Rodgers
販売元:Msi
発売日:1999/11/29
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 しかしこれは前作よりも傑作の部類に入れられるアルバムだと思われる。音が前作よりもおとなしく渋くなっており、ポールのボーカルを活かそうとする姿勢が伺えるからだ。

 そしてポール自身も熱唱している。3曲目の"Find a way"は女性のゴスペル風バック・ボーカルが盛り上げているし、続くバラード"China Blue"はこのアルバムで一、二を争うほどのできである。フリーやバドカン時代の名曲を思い出させてくれる。
 ただ後半は似たような曲調が続き、少しダレる傾向があるのだが、そういう点も含めてポール・ロジャースらしいアルバムといえるかもしれない。

 年齢も高くなってきたせいか、少し落ち着いた観のあるアルバムであった。でもまだポールらしくはない。どうもまだしっくりこない。やはりポールにはブルーズが似合うのである。

 だからバラードかミディアム・テンポのロックが一番良い。アップ・テンポのロックは、彼のコクのある豊かな声を活かすことができないと思う。だから間違ってもそのような音楽に走ってはいけないのである。

 ポール・ロジャースには、できればヴァン・モリソンのように、年齢とともに渋みというか人間性に裏打ちされたソウルフルなボーカルを発揮してほしいと願っている。静謐ながらも力強さを感じさせる歌声である。

 クィーン+ポール・ロジャースの新作も発表されたが、アルバムを1,2枚作って解散するよりは、もっと長く続くものがほしいのである。それこそが彼を現在いる場所に導いてくれた彼自身のボーカルだと思うのである。

ザ・コスモス・ロックス Music ザ・コスモス・ロックス

アーティスト:クイーン+ポール・ロジャース
販売元:EMI MUSIC JAPAN(TO)(M)
発売日:2008/09/17
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2008年10月 9日 (木)

フリー

 60年代末のイギリスはブルーズ・ムーヴメントの動きの中で、様々なグループが生まれては消えていった。エリック・クラプトンをはじめ、三大ブルーズ・バンドだけでなく、他にも有名無名のバンドたちが存在していた。

 その中で若い割には、渋くかつ重厚な音を出していたバンドがあった。その名をフリー。彼らの曲"All Right Now"は、ときどきラジオでも耳にすることができるほどの名曲である。

 フリーというバンドを構成する4人の名前は記憶にとどめるにふさわしい、いや記憶に留めおくべき名前である。

 ギター:ポール・コゾフ
 ベース:アンディ・フレイザー
 ドラムス:サイモン・カーク
 ボーカル:ポール・ロジャース

 この4人の若者の名前は、60年代終わりから70年代初めのイギリスのロック・ファンなら誰でも知っていたに違いない。それほど有名だったのである。

 何しろデビュー時の彼らの年齢自体信じられないくらい若いのである。
 ギター:ポール・コゾフ     (18歳)
 ベース:アンディ・フレイザー (16歳!)
 ドラムス:サイモン・カーク   (19歳)
 ボーカル:ポール・ロジャース (19歳)

 日本でいうとジャーニーズ事務所のメンバーくらいだろうか。全員10代で、しかもソウルフルなボーカルのポール・ロジャースや泣きのギターで有名なポール・コゾフなど、ブルーズに影響されたその音楽性は他のバンドよりもかなり抜きん出ていた。
 
 彼らが解散前に発表した唯一のライヴ盤「フリー‘ライヴ’」を聞くと、こんなシンプルなバンド構成で、どうやってこんなに“濃い”音楽ができるのだろうかと、いつも不思議に思うのである。

フリー・ライヴ+7 Music フリー・ライヴ+7

アーティスト:フリー
販売元:ユニバーサル インターナショナル
発売日:2006/06/21
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 逆にライヴ演奏だからこそ、音の一粒一粒がはっきりわかるのかもしれない。1曲目の"All Right Now"の白熱した演奏は、もう二度と聴くことのできない歴史的な名演である。
 この当時でもポール・ロジャースとサイモン・カークは21歳、ポール・コゾフは20歳、アンディ・フレイザーに至ってはまだ18歳であった。どう考えても信じられないほど若い。

 何しろベースのアンディは、あのジョン・メイオール&ブルース・ブレイカーズに15歳で加入しているのだから、まさに早熟の天才であった。加入のきっかけは、アレクシス・コーナーの娘サフォーと同級で、その紹介で加入したそうである。
 ブルースブレイカーズを解雇された後は、アレクシス・コーナーのバンドで活動していた。

 ボーカルのポール・ロジャースも12歳頃からバンド活動を始めている。12歳といえばまだ小学生ではないか。恐るべし、ポール・ロジャースである。

 そんな若いメンバーだったから、親代わりの気持ちでアレクシス・コーナーも彼らの面倒を見ていたのではないだろうか。活動の機会を与えたり、レコード会社を紹介したり、挙句の果てはバンド名までプレゼントしている。
 当初、彼らは“フリー・アット・ラスト”と名乗っていたが、これはアレクシス自身のかつてのバンド名だった。それを最終的に“フリー”と短くしてバンド名にしたのもアレクシスだった。

 バンド名については面白いエピソードがあって、最初レコード会社が提案したバンド名は“ヘヴィ・メタル・キッズ”だった。どうしてこんな名前が出てきてつけられそうになったのかは定かではないが、もしそんな名前だったらちょっと違和感を覚えてしまう。

 フリーはデビューから3年後の1971年に一度解散してしまう。やはり過酷なツアーや人気からくる重圧、より良いもの、より売れる作品を作らないといけないというプレシャーに負けたのであろう。何しろ20歳前後の若者である。プレッシャーに耐えられる方がおかしいだろう。

 しかし、当時すでにドラッグに走っていたポール・コゾフを救うために、アンディ・フレイザーの呼びかけで再び4人が集まることになった。そして1972年に5枚目のアルバム「フリー・アット・ラスト」というアルバムを発表した。

フリー・アット・ラスト+6 Music フリー・アット・ラスト+6

アーティスト:フリー
販売元:ユニバーサル インターナショナル
発売日:2006/06/21
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 これは彼らバンドの最初のネーミングだったのだが、当時の状況から考えると、これで最後という決意のもとに制作したに違いないと思うのである。

 そして結果的には、ポール・コゾフとアンディ・フレイザーが抜け、代わりに日本人ベーシストで福岡県出身の山内テツとアメリカはテキサス州出身のキーボーディスト、ラビット(正確にはジョン・バンドリック)が参加して、もう1枚アルバムを制作、発表した。それが「ハートブレイカー」であった。

ハートブレイカー+6 Music ハートブレイカー+6

アーティスト:フリー
販売元:ユニバーサル インターナショナル
発売日:2006/06/21
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 キーボードが加わった分、音に厚みが出てきたこととゲスト参加でポール・コゾフもアルバム・タイトル曲をはじめ、数曲でギターを演奏している。だから以前のアルバムと比べると、かなりハード・ロックよりの音に仕上がっているし、幾分ポップな音作りにもなっている。
 またアメリカ人や日本人メンバーが加わったことで、聞きやすくなったことは確かである。やはりメンバーが変われば、音も変わるのは当然なのかもしれない。

 フリーはイギリスや日本ではかなりの人気があったのだが、アメリカでは確かに"All Right Now"はシングル・ヒットしたものの、バンドとしては人気があるとはいえなかった。

 だから雪辱を期すというわけではなかっただろうが、ポール・ロジャースはアメリカでの成功を夢見ていたのではなかろうか。だからバッド・カンパニーは、イギリスよりもアメリカでの成功を目指していたものと思われる。結果、イギリスよりも人気が高かった。

 1973年にフリーは解散したが、同年にはバッド・カンパニーを結成し、翌年1stアルバムを発表した。だからバッド・カンパニーにはフリーと同じDNAが受け継がれているのであるが、それは後期フリー、つまり「ハートブレイカー」発表時のDNAだと思うのである。

 後に、ポール・コゾフは25歳の若さで心不全で亡くなっている。飛行機上での出来事だった。もちろんドラッグの過剰摂取が原因である。
 またベースのアンディ・フレイザーはHIVに感染し、現在消息はわからない。フリーのメンバーではなかったが、元バッド・カンパニーのベーシスト、ボズ・バレルも2006年の9月に心臓発作でなくなっている。
  
 ただこうしてみると、どのメンバーもブルーズの影響から逃れられない宿命みたいなものを持っている。ブルーズという音楽のせいで、彼らはバンドを結成し、曲作りを始め、人気を獲得していった。
 ジャニス・ジョップリンの歌に"生きながらブルースに葬られ"というのがあるが、彼らは生きていても死んでいてもブルーズという音楽に葬られているのではないだろうか。

 だからフリーのメンバーだったにしても、ブルーズからはまったくフリーではなかったのである。

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2008年10月 7日 (火)

テン・イヤーズ・アフター

 1960年代の中頃から終わりにかけて、イギリスではブルーズを基本としたロック・ムーヴメントが流行した。
 その先駆を飾ったのは、個人的にはジョン・メイオール&ブルース・ブレイカーズだと思っている。そこからエリック・クラプトンやピーター・グリーン、ミック・テイラーなどが育っていったからだ。

 それで以前述べた三大ブルーズ・バンド、フリートウッド・マックやチキン・シャック、サヴォイ・ブラウンが後塵を拝し、さらにはヤードバーズを脱退したクラプトンがクリームを結成し、単なるブルーズ・ロックをもっとアーティスティックなロックへと変貌させていった。

 ここからブルーズ・ロックがアート・ロックやサイケデリック・ロック、そしてプログレッシヴ・ロックへと発展していくのであるが、そういう歴史的な流れはここでは置いておくとして、このブルーズ・ロック・ムーヴメントの中でいくつか優秀なアーティストや彼らを擁するバンドが生まれた。

 その中のひとつにテン・イヤーズ・アフター(以下TYAと略す)がある。グループ名を日本語に直訳するなら、“10年後”という意味になるのだが、これは10年後のサウンドを先取りするという説やエルヴィス・プレスリーが生まれて10年になるからという説など様々あり、これが正解というものはなさそうである。

 このTYAの原型となるバンドは、1966年にイギリスのノッティンガムで結成された。ギターはアルヴィン・リー、ベースにはレオ・ライオンズという人たちが担当し活動を始めたのである。
 そしてドイツのハンブルグでライヴ活動中に、ドラマーのリック・リーと知り合って意気投合し一緒に公演を続けていった。そのときのバンド名はJAYBIRDSというものだったらしい。

 やがてキーボードにチック・チャーチルを加え、4人編成となった彼らはバンド名をTYAに変えてロンドンに進出し、演奏活動を続けていった。
 アルバム・デビューは1967年だった。バンド名と同じタイトルのこのアルバムは、残念ながらそんなに話題にならずに消えていった。

 普通ならこれでバンド解散となるのだが、彼らには他のバンドにない特長があった。それはギタリストのアルヴィン・リーの早弾きプレイである。これは聴衆の耳目を惹きつけるには十分すぎるほどのもので、今聞いても確かにインパクトのあるプレイだと思う。
 だから彼らの2ndアルバムは「イン・コンサート」というライヴ・アルバムになったほどである。

 定評あるライヴ活動やセカンド・アルバムのヒットによって、彼らの人気は徐々に上がってきた。そして彼らの知名度を一躍世界的な規模に押し上げることが起きたのである。それが1969年8月にアメリカで行われたウッドストック・コンサートであった。
 彼らは3日目の最終日にステージに立ち、名曲"I'm goin' home"他3曲を演奏したのである。このときのプレイは音源でも映像でも確認できるが、鳥肌が立つくらいの熱気あふれる白熱したパフォーマンスであった。

ディレクターズカット ウッドストック 愛と平和と音楽の3日間 DVD ディレクターズカット ウッドストック 愛と平和と音楽の3日間

販売元:ワーナー・ホーム・ビデオ
発売日:2008/07/09
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 これで一気に人気が加速し、レーベルを移籍した彼らは4枚目のアルバム「夜明けのない朝」を発表した。このアルバムは全英4位、全米20位とそれまでの中で一番売れたアルバムになったのである。1969年のことである。

Ssssh Music Ssssh

アーティスト:Ten Years After
販売元:Toshiba EMI
発売日:2004/06/15
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 TYAが他のブルーズ・バンドと違う点は、ブルーズにジャズやロック、しかもどちらかというとハード・ロックのテイストを持ち込んだ点にあると思う。それまでどちらかというと泣かせるブルーズだったのが、音がよりタイトに、よりハードになった。

 そしてハマリング・オンやプリング・オフを多用した3連符、4連符が彼のトレードマークだった。だから当時のギタリストの中では“早弾き”のアルヴィン・リーというキャッチ・フレーズが付いたのである。

 しかし今では彼のプレイは、そんなに評価されていないようである。あるギター・インストラクターの話によると、アルヴィン・リーは右手をほとんど使っておらず、左手のハマリング・オンやプリング・オフを使って早いように聞かせているだけ、だそうである。
 むしろリッチー・ブラックモアやイングウェイ・マルムスティーンの方が、早弾きで、かつ一音一音きちんとピッキングをしているので、音がきれいに聞こえるとのことであった。

 専門的なことはあまりわからないのだが、そういわれるとそんな気がしないでもない。しかし当時としては、やはり画期的なことで、彼の存在があってリッチーやイングウェイが生まれたと思うのである。

 1971年にはアルバム「ア・スペース・イン・タイム」を発表したが、このアルバムはそれまでのエレクトリックな音作りからアコースティックな音も強調した作品になっている。これはイギリスではそこそこだったが、アメリカではミリオン・セラーを記録した。

A Space in Time Music A Space in Time

アーティスト:Ten Years After
販売元:Toshiba EMI
発売日:1990/10/25
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 1曲目はそこそこ普通のブルーズ・ロックなのだが、2曲目"Here they come"3曲目"I'd love to change the world"とアコースティックな曲になっている。
 正確に言うと、3曲目の後半はエレクトリック・ギターを使用しているのだが、そこがまた聴かせところでもある。
 また4曲目の"Over the hill"ではストリングスも使用していて、確かにそれまでのTYAとは違う一面をのぞかせている。じっくりと聴きこむとなかなかいいアルバムだと思う。

 彼らは73年頃からソロ活動が目立ち始め、結局74年に解散してしまった。その後、アルヴィンはテン・イヤーズ・レイターなるバンドを結成して活動を続けたが、長続きしなかった。またベーシストのレオ・ライオンズは、UFOの「現象」のアルバムをプロデュースするなどの、プロデューサー業に転進した。

 彼らは、時々集まっては再結成ライヴを行っているようである。そういう意味では、名前のとおり彼らは、10年後も集まっては活動をしていることだろう。

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2008年10月 6日 (月)

フォガット

 “従藍而青”(じゅうらんにしょう)という言葉がある。言い換えると“青は藍より出でて藍より青し”ということである。要するに元よりも立派になるということである。弟子が師匠を超えたときによく使われるフレーズである。

 ロックの世界にもこういうケースはよく見られる。たとえばグループとして活動していたときはあまりパッとしなかったのだが、ソロ活動を始めると急に生き生きとしてきて、すばらしい曲などを残していく場合である。

 ビートルズ解散直後のジョージ・ハリソンなどは、そのよい例かもしれない。3枚組(CDでは2枚組)アルバム「オール・シングス・マスト・パス」を発表したり、バングラデシュ難民救済コンサートを企画・公演したりと、まさに八面六臂の大活躍であった。

 今回紹介するバンド、フォガットも元のバンド以上の成功を収めたバンドとして記憶されているに違いない。

 1971年にイギリスのブルーズ・バンド、サヴォイ・ブラウンからギタリストのロンサム・デイヴ、ベーシストのトニー・スティーヴンス、ドラマーのロジャー・アールの3人が一度に脱退した。そして新ギタリストのロッド・プライスを加えて4人組のバンドを結成したのである。

 彼らは元のバンドよりも、もっとノリのよいブギー調のロックン・ロールを中心としながら、アメリカ受けするように、スライド・ギターを入れたり、ツイン・リード・ギターを入れて活動するようになった。

 名前を"Foghat"=“霧の帽子”としたのは、別に深い意味があるわけではない。中心メンバーだったロンサム・デイヴが子どものころに兄とアルファベットの文字並べをしていたときに作った造語である。グループ名が決まらなかったときに、とりあえずこの言葉を提案して、認められただけの話である。

 彼らは結成当初からアメリカで成功することを願っていたようである。だからアルバム契約をするときに、アメリカのベアズヴィル・レーベルと契約を結んだ。ベアズヴィルといえば、かの有名なトッド・ラングレンも所属していたレーベルであった。そして彼らのデヴュー・アルバムのプロデューサーは、ほかならぬトッドその人だったのである。

 とにかく他人を売り出すのが得意なトッド・ラングレンは、1972年に発表された彼らの1stアルバムでもその手腕を発揮した。ブルーズの名曲、ウィリー・ディクソン作曲の"I just want to make love to you"をまったく新しい解釈によって、ハード・ロック仕立てにしてしまったのである。

Foghat Music Foghat

アーティスト:Foghat
販売元:JVC Victor
発売日:1990/10/25
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 このアルバムのヒットによって、一躍彼らは有名になってしまった。そして1972年から77年までの5年間に、ライヴ・アルバムを含む7枚のアルバムを発表している。この制作意欲というか能力というのは、只者ではない。
 やはり彼らは元のグループでは収まらないほど創作へのモチヴェーションが高かったのだろう。だから彼らのグループ離脱はよい結果を生んだのである。

 そして日本やアメリカで人気が高く、彼らの最高傑作といわれるのが1975年に発表された「フール・フォー・ザ・シティ」である。

Fool for the City Music Fool for the City

アーティスト:Foghat
販売元:JVC Victor
発売日:1990/10/25
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 このアルバムでアメリカでの評価を決定的なものにし、ブギー調のロックン・ロールやサザン・ロックのようなツイン・リード・ギターにさらに磨きがかけられるようになった。

 特に8分を超える"Slow ride"では、まるでオールマン・ブラザーズのように泥臭いブルーズ・フィーリングたっぷりのギターを聞くことができる。特に後半のスローから徐々にアップテンポに移るところやスライド・ギターはなかなかの聞きどころになっている。

 また1曲目の"Fool for the city"では彼らにふさわしいハード・ブギーなロンクン・ロールを展開しているし、4曲目ではあのロバート・ジョンソンの曲"Terraplane Blues"を彼ら流のロックン・ロールに解釈して演奏している。

 このアルバムから1977年の「ライヴ!」までが彼らの絶頂期だったのではないだろうか。その後、ギタリストのロッド・プライスが脱退し、グループは解散状態になってしまった。

Foghat Live Music Foghat Live

アーティスト:Foghat
販売元:JVC Victor
発売日:1990/10/25
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 1980年代の終わりにはロンサム・デイヴ率いるフォガットと、ドラマーのロジャー・アール率いるフォガットの2つに分裂してしまい、かなり悲惨な状態になってしまった。

 しかし90年代に入って再結成ブームが起こり、1994年にオリジナル・メンバーがそろって活動を再開し、アルバムまで発表した。

 現在も彼らは活動中であるが、ギタリストのロンサム・デイヴは2000年に癌で亡くなり、もう一人のギタリストであったロッド・プライスも2005年に階段からの転落事故が原因で亡くなってしまった。
 だからオリジナル・メンバーはドラムス担当のロジャー一人になってしまっている。

 そういうわけで元のバンドよりは有名になり、お金持ちになったバンドの話であった。しかし、それにはその結果を裏付けるだけの運と才能があったわけで、ただ偶然にそうなったわけではないのだ。

 人生にはさまざまな運命の分かれ道のようなものがあるが、結果どうなったかは神のみぞ知るわけで、要はその人がそれを選択して、満足したかどうかではないだろうか。

 そう考えれば、サヴォイ・ブラウンに残った人もフォガットを結成した人も彼ら自身がどう感じているかが大事なわけで、結果だけを見て、あれこれいってもあまり意味があるとは思えないのである。

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2008年10月 5日 (日)

サヴォイ・ブラウン

イギリスの三大ブルーズ・バンドのひとつであるサヴォイ・ブラウンは、ギタリストのキム・シモンズのバンドといっていいだろう。

 このバンドについては、残念ながら2枚のアルバムしか持っていないので、その全容について語る資格はない。ただ以前述べたチキン・シャックよりも正統的なブルーズ道を追求している感じがする。

 キム・シモンズは1947年にサウス・ウェールズにニューブリッジというところに生まれた。13歳でギターを始め、15歳で学校を卒業した後は事務仕事をしながら、1966年にサヴォイ・ブラウンを結成した。
 それ以来、彼はグループの中心人物として牽引してきたのである。

 彼らが1970年に発表したアルバム「ルッキング・イン」は、それまでのブルーズ・ロックからややハード・ロックよりに移った内容のものであった。

Looking In Music Looking In

アーティスト:Savoy Brown
販売元:Dorset
発売日:1991/04/02
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 アルバムは短いインストゥルメンタルの"ジプシー"、"ロマノフ"が最初と最後に配置されていて、ややトータル・アルバムっぽい雰囲気を与えてくれている。
 内容も充実していて、ロック色の強い"プア・ガール"から泥臭い印象の"マネー・キャント・セイヴ・ユア・ソウル"、インストゥルメンタルの"サンデイ・ナイト"、"シッティング・アンド・シンキング"など幅広い音楽性を示している。

 特に"シッティング・アンド・シンキング"はアメリカでシングル・カットされている。そのせいかアルバムはチャートの39位に上がり、彼らにとって初めてのトップ40以内に入ったヒット・アルバムになった。

 しかし“好事魔多し”の喩えではないが、このヒットがきっかけで、更なるブルーズ道を追求しようとするリーダーのキムとロック寄りの方向を求める他のメンバーとの意見の対立が顕在化し、結局他の3人はサヴォイ・ブラウンを脱退し、新しいメンバーを加えてニュー・グループを結成した。

 それがフォガットという名前のグループであり、彼らはブルーズをベースに、より幅広い音楽性を求めていったのである。

 元のグループのサヴォイ・ブラウンもメンバーの脱退にもめげず、他のグループからメンバーを補充し、その後も数多くのアルバムを発表している。

 キム・シモンズは、現在もサヴォイ・ブラウンの名前でイギリスやアメリカをツアーしているようである。彼のブルーズ道追及の情熱は未だに枯れていないらしい。
 そういう彼らの軌跡を手っ取り早く知りたい人は、ベスト・アルバムが最適である。

20th Century Masters: Millennium Collection Music 20th Century Masters: Millennium Collection

アーティスト:Savoy Brown
販売元:Polydor / Umgd
発売日:2002/05/07
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これを聞くと、当初のブルーズから微妙にロック寄りになりながらも、結局ブルーズに回帰してしまう彼(彼ら)の気持ちがよくわかるのである。

 ブルーズとは、人生そのものであるかもしれない。つまりその人の生き様というものであろうか。ほかのメンバーがどうであろうと、サヴォイ・ブラウン、言い換えればキム・シモンズは、自分の信念を貫いたのである。

 彼にとって、手っ取り早く名誉やお金を求めようとすれば、もう少しハード・ロックやポップな路線を歩めば、ことは簡単だったろうと思うのだが、それをしなかった。元のバンド・メンバーは彼より有名になり、お金持ちになったが、彼はそれをどう思ったのだろうか。

 その後の彼のブルーズ道を見る限りは、そういう毀誉褒貶に惑わされずに自分の音楽を追求しているようだ。そういうひたむきさがいまだに彼やサヴォイ・ブラウンを支えているのである。

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2008年10月 4日 (土)

クリスティン・パーフェクトのソロ

 クリスティン・パーフェクトは1943年7月生まれなので、今年で65歳である。日本でいうと“団塊の世代”よりも高齢ということになる。あえて日本の立場でいうこともないのだが…

 彼女はチキン・シャックというブルーズ・バンドのオリジナル・メンバーとして活動し、2枚のアルバムに参加した後、脱退した。理由は寿退社ということになるのだろうか。
 1968年に、つまり彼女が25歳という比較的に若い時期に、フリートウッド・マックのベーシスト、ジョン・マクヴィーと結婚したからだった。

 ところがチキン・シャックをやめた後、彼女が歌った"I'd rather go blind"が全英チャートで大ヒットし、メロディ・メイカー紙上で最優秀女性ボーカル賞を獲得したのである。

 これを音楽会社がそのままにしておくはずもなく、新婚早々の彼女を引っ張り出してきて、売れるうちに売っておこうと思った?のか、彼女のソロ・アルバムを制作したのであった。

 これが「クリスティン・パーフェクト」という彼女の名前を冠したアルバムで、1970年に発表された。このアルバムから大ヒットした"I'd rather go blind"、"When you say"、"I'm too far gone"などがシングルとしてカットされている。Photo

 彼女の音楽的バックグラウンドは恵まれていた。父親がヴァイオリン等を演奏する音楽家で、大学教授でもあった。だから5歳のころからピアノのレッスンを始め、16歳でファッツ・ドミノのレコードを聴くまで、それは続いていたらしい。

やがて彼女はアート・カレッジで彫刻を勉強しながら、スタン・ウェッブらと出会い、バンドを結成し、キーボート兼ボーカルとして活動を始めたのであった。

 このアルバムでは彼女の自作曲とカヴァー曲がほぼ半数ずつ収められている。たぶん急いで制作しようとしたから、すべてが自作曲にはならなかったのだろう。

 確かにロッド・ステュワートも歌った"I'd rather go blind"は名曲ではあるが、彼女の歌が一番フィットするとはいいがたい。女性ボーカリストとしてはすばらしいのかもしれないが、R&Bの他のアーティストの方がもっと感情を込めた歌い方ができるように思う。

 やはりどことなく、にわか作りのラフな印象をぬぐえないアルバムでもある。もう少し歌いこんで制作すればよかったのではないかと思うのである。

 その後、彼女はフリートウッド・マックに加入し、華々しい経歴を残した。しかし私生活では夫のジョン・マクヴィーの病的なまでの飲酒癖に悩まされ、1978年頃に離婚している。

 その間にも満たされない気持ちを他の男性とのはかないロマンスで埋め合わせようとしていたし、ビーチ・ボーイズのデニス・ウィルソンとの関係は彼が事故死するまで続いた。

 私生活ではうまくいかなかった観のあるクリスティンであるが、彼女の経験したロマンスや失望からは数多くの名曲が生まれた。"Don't stop"、"You make loving fun"などはその代表例だと思う。前者はクリントン大統領の選挙キャンペーンにも使用され、1993年の大統領宣誓式にも使用されたほどだった。

 また1982年のアルバム「ミラージュ」の"Hold on"は先ほどのデニス・ウィルソンとの関係を歌ったものであるが、全米No.5になり、アルバム自体はNo.1を獲得している。

  その2年後にはソロ・アルバム「恋のハート・ビート」を制作している。このアルバムにはフリートウッド・マックのメンバーだけでなく、エリック・クラプトンやスティーヴ・ウィンウッド、レイ・クーパーなどの一流アーティストも参加して、AORな音楽を披露している。

 Christine McVie Christine McVie
販売元: iTunes Store(Japan)
iTunes Store(Japan)で詳細を確認する

 ここから"Got a hold on me"がトップ10ヒットを記録しているが、このアルバム制作中に知り合った12歳年下のキーボーディスト、エディ・クィンテラと1986年に結婚した。

 「タンゴ・イン・ザ・ナイト」では"Little lies"を2人で共作していて、最初は仲睦まじかった用であるが、10年後に離婚したようである。誰かが言ったように、人生いろいろである。

 やはり才能ある人は、自分の身近な経験や体験から何ものかを生み出せるのであろう。たとえそれがつらい体験であってもである。
 そういう意味では1998年に完全にフリートウッド・マックから引退したが、クリスティンはパーフェクトからマクヴィーと名前を変えても、その才能は“パーフェクト”だったに違いない。 

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2008年10月 3日 (金)

チキン・シャック

 自分はあまりブルーズには詳しくない。むしろよく知らないくらいだ。知っていることといえば、代表的なブルーズ・シンガーやバンド、その代表曲くらいだろう。

 だからブルーズについては、あまりえらそうなことはいえない。それで今回のチキン・シャックについてもあくまでも表面的な知識やアルバムを聞いたくらいの感想しか書けないのだが、その点は許してもらいたい。

 基本的にブルーズは黒人の音楽だと思っている。強制的にアメリカに連れて来られた黒人たちが故郷を偲びながら、あるいは奴隷という過酷な状況を一瞬でも癒すために生まれた音楽、それがブルーズだと思うのである。

 だから昔TV番組で、日本にいる黒人にブルーズとは何かとインタビューしていたところを見たことがあったが、ある若い黒人は“Pain”(痛み)と答えていた。
 そう、"Blues is Pain"なのである。現代の若者でもそう答えるのだから、約200年前の黒人たちは当然それ以上の認識があったと思う。

 そのブルーズが白人の音楽であるカントリーと結びついて生まれたのがロックン・ロールだった。当時の"ロックン・ロール"という言葉は黒人の隠語であり、性的な意味を持つ言葉だったらしい。

 そしてそのブルーズやロックン・ロールが海を渡り、イギリスに上陸してそこで再構築されていった。そしてブリティッシュ・イノヴェイジョンが生まれ、ビートルズやローリング・ストーンズなどが生まれていったのである。

 でもカントリー・ミュージックのルーツは、アイルランドとも言われているし、そういう意味では、装いも新たに生まれ変わった自分たちの音楽を進化させていったのかもしれない。何しろ岩が回転するくらいなのだから、どんどん変化していくことを宿命づけられた音楽なのだ。

 それで1960年代中頃から末で、イギリスには3大ブルーズ・バンドというのがあって、それはフリートウッド・マック、サヴォイ・ブラウン、チキン・シャックの3つであった。この中で一番有名だったのはピーター・グリーン率いるフリートウッド・マックだった。

 個人的な意見として、当時は有名なギタリストのいるバンドは、当然のことながら有名だったと思われる。何しろブルーズは曲のキーは違うものの、コード進行や歌っている内容などはあまり変わらない。
 だから持ち歌よりも、それをどう解釈して提示していくかが人気の分かれ道になったのではないだろうか。

 だからブルース・ブレイカーズやクリームは、エリック・クラプトンという稀有なギタリストが独自のブルーズの解釈を行い、一大センセーションを巻き起こした。

 クラプトンのことはまた別の機会にするとして(機会があればの話だが…)、この3大ブルーズ・バンドにもそれぞれ有名なギタリストが所属していて、チキン・シャックにはスタン・ウェッブというギタリストがいた。

 彼は1946年にサウス・ロンドンで生まれ、18歳のときにチキン・シャックを結成し、ビートルズと同じようにドイツのハンブルグで公演を重ねていった。そこでテクニックなどを学んだようである。
 彼らが1968年に発表したアルバム「O.K.Ken?」はチャートの9位まで上がり、彼らの最大のヒット作となった。

O.K. Ken? Music O.K. Ken?

アーティスト:Chicken Shack
販売元:Sony
発売日:1993/10/18
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 そして彼らをさらに有名にしたのは、スタン・ウェッブだけでなく、バンドでキーボードを担当していた女性ボーカリストのクリスティーン・パーフェクトだった。
 彼女はメロディ・メイカー紙による最優秀女性歌手にも選出されるくらい技量を伴ったアーティストだったようで、このアルバムでもスタン・ウェッブと曲を書いたり、歌ったりしている。

 その後の彼女の活躍はいうまでもない。フリートウッド・マックのベーシストのジョン・マクヴィーと結婚して、クリスティーン・マクヴィーと名前を変え、70年代のフリートウッド・マックを支えていった。

 元ジェスロ・タルや元カルメンのジョン・グラスコックがこのバンドに加入するのは70年代に入ってからで、そのときはオリジナル・メンバーはスタン・ウェッブしか残っていなかった。

 このアルバムを聞く限りでは、純粋なブルーズ・バンドとして活躍しているといった印象でしかない。確かにギターは上手なのだが、スタン・ウェッブらしいオリジナルはあまり見られない気がする。それにガンガン弾いているという感じでもない。
 女性ブルーズ・シンガーでキーボード担当のクリスティーンの印象の方が、当時の視聴者にとっては強かったのではないだろうか。そういう意味では3大ブルーズ・バンドという意味がわかるような気がする。

 ただし正確に言えば、3大マイナー・ブルーズ・バンドといったほうが正確な表現かもしれない。
 そしてスタン・ウェッブは何回目かのチキン・シャックの再結成を行い、現在でもイギリスのクラブなどで演奏しているという。ブルーズとはかくの如く息の長い音楽なのである。

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2008年10月 2日 (木)

カルメン

 前回のジェスロ・タルのアルバム「ロックンロールにゃ老だけど死ぬにはチョイと若すぎる」でベース・ギターを担当していたのは、ジョン・グラスコックであった。それまではジェフリー・ハモンドという人だったのだが、彼が画家に転進するということで、ジョンにスウィッチしたのだった。

 それでジョン・グラスコックのことだが、彼はジェスロ・タルに加入する前は、カルメンというグループに所属していた。
 名前を見れば分かるように、ビゼーの作曲した歌劇「カルメン」にちなんだ名前であった。

 彼らはデビュー当時プログレッシヴ・フラメンコ・ロックなどと呼ばれていたらしい。今となっては誰もそんな呼び方はしないのだが、たぶん宣伝のためにそう呼んでいたのであろう。
 ちなみにジョン・グラスコックはカルメン加入の前は、イギリスのブルーズ・バンド、チキン・シャックで活動していたし、さらに翻って60年代中頃では、グレッグ・レイクやケン・ヘンズレーとともにザ・ゴッズというバンドでプレイしていた。だから知名度、テクニックともに兼ね備えた経験豊かなプレイヤーだった。

 それでカルメンのことであるが、このバンドの1stアルバム「宇宙の血と砂」はまさに傑作の類に分類されるほどの作品である。

Fandangos in Space/Dancing on a Cold Wind Music Fandangos in Space/Dancing on a Cold Wind

アーティスト:Carmen
販売元:Line
発売日:2006/11/07
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 もともとこのグループは、デヴィッドとアンジェラというアレン兄妹を中心に、LAで結成された。当時ロスにアル・シドという名前のクラブがあり、そこにアレン兄妹がフラメンコギターやダンスを行っていたらしい。というのもそのクラブの経営者は兄妹の父親だったからだ。
 アレン兄妹の両親ももともとはフラメンコ・ギターやダンスで生計を立てていた。だから当然のことながら子どもたちもその血を受け継いでいるのである。

 1973年に発表されたこのアルバムは、まさに当時のキャッチフレーズ通りのフラメンコのリズムを取り入れた“血湧き肉踊る”内容になっている。
 1曲目の"ブレーリアス"から"鮮血は闘牛士の胸に"、"ステッピング・ストーン"と連続した3曲には手拍子や足拍子、掛け声などが交じっていて、まるで目の前でフラメンコが演じられている印象が残る。

 それに"船乗りの末期"ではバックにメロトロンが流れていて、この手の音が好きな人にはたまらないものになっている。

 さらに6曲目"タラントスにて"では短いながらもデヴィッド・アレンの奏でるフラメンコ・ギターを堪能することができる。ここまで徹底していると本当にスペインのグループに思えてくるから不思議だ。実際はアメリカで結成されたにもかかわらずにである。

 スパニッシュな香りに味付けされたノリの良いロックのリズムに乗って歌われる男女のボーカル、これにメロトロンが加わり組曲形式の曲が展開されるのだから、まさに“プログレッシヴ・フラメンコ・ロック”なのである。改めて聴き直してみて決して誇大広告でないということが分かったのだった。

 彼らはこのあと、フランスのタバコのジタンを真似たジャケットで有名な2nd「舞姫」を75年に、翌76年には「ジプシーの涙」を発表するが、やはり最初の強烈な印象は2ndまでだったようで、段々と人気も下り坂になり、そのうち忘れ去られていった。

 最初に述べたベーシストのジョン・グラスコックはジェスロ・タルに加入して、5枚のアルバムに参加するが、アルバム「ストームウォッチ~北海油田の謎」の録音途中に心疾患で入院し、1979年に亡くなった。享年28歳という若さだった。惜しい人を亡くしたものである。

 デヴィッド・アレンは喉頭癌になり、音楽業界から引退して写真家になった。噂では再び歌うことも始めたというが定かでない。

 妹のアンジェラの方はタルのアルバム「ロックンロールにゃ老だけど死ぬにはチョイと若すぎる」にバック・ボーカルとして参加した以降は、表立った活動はしていない。現在はロンドンに住んでいて、こちらの方は完全に引退したようである。

 今となっては誰も継承していないプログレッシヴ・フラメンコ・ロックであるが、彼らは唯一無二の存在としてプログレの歴史に名を残したのである。

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2008年10月 1日 (水)

ロックンロールにゃ老だけど

 最近、急に冷え込んできて朝や夜なんかは寒いと思うほどにまでなってしまった。春はゆっくりと訪れるけど、秋は駆け足でやってくる感じである。九州でこれくらい涼しいのだから、北海道や東北はもう冬に違いない。

 それで秋といえばアコースティックな音を求めてしまうのだが、秋にふさわしいアルバムを紹介したい。
 昨年はジェスロ・タルの「天井桟敷の吟遊詩人」を紹介した。これはエレクトリックな音もあるのだが、全編を通じてほとんどアコースティック・ギターがメインのアルバムであった。特にアルバム後半はそうである。

 それにちなんで今回は同じジェスロ・タルのアルバムで通算9作目、「天井桟敷の吟遊詩人」のあとに出されたアルバム「ロックンロールにゃ老だけど死ぬにはチョイと若すぎる」を紹介したい。

Too Old to Rock: Too Young Die Music Too Old to Rock: Too Young Die

アーティスト:Jethro Tull
販売元:Capitol
発売日:2002/11/05
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 このアルバムも曲によってはエレクトリックなものもあるけれど、全体の印象としてはアコースティックな作品という印象が強く残るアルバムである。

 何しろタイトルがユーモアに溢れているというか、人をくったものになっている。このタイトルのおかげで英語の"too~to…"の構文を覚えることができて、それはそれで助かったのだが、しかし実際にこういう使い方もあるのかと妙に納得したものであった。

 オリジナルは1976年の発表である。だからストラングラーズやセックス・ピストルズはすでに結成されており、いわゆるパンク・ロックの嵐が吹き荒れていた時代である。

 当時、ジェスロ・タルのリーダーであるイアン・アンダーソンはまだ29歳である。29歳にしてこのタイトル、この内容なので、いかに彼が老成していたかがわかると思う。
 だいたいデビュー時の年齢が21歳だったのだが、1stアルバムのジャケット写真を見れば分かるように、とても21歳の風貌には見えない。まるで山から降りてきた仙人である。

This Was Music This Was

アーティスト:Jethro Tull
販売元:Capitol
発売日:2002/01/08
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 それで76年のアルバム「ロックンロールにゃ老だけど死ぬにはチョイと若すぎる」という長いタイトルのアルバムは、タイトル通りのトータル・アルバムになっている。

 このアルバムは、もともと舞台演劇用の楽曲として制作されたもので、レイ・ローマスという実在人物の名前を借りて時代遅れのロックンローラーとして登場させ、彼がTVのクイズ番組に出演したことで、恋愛やバイク事故などの様々な体験を経て、ついに音楽業界にデビューする?というものであった。

 ところが最終的には舞台化はされずに、音楽だけアルバムとして発表されたのである。要するにザ・フーの「トミー」みたいなものと考えれば分かりやすいかもしれない。ただし、あれよりはこじんまりとまとまってはいるけれど…

 当時のレコード・ジャケットの内側には、そのレイ・ローマスのストーリーがコミック化されていて、非常に面白い内容だったことを覚えている。2002年に再発されたCDではその日本語訳も載っていた。

 全10曲だがそのうち約半数がアコースティック・ギターを前面に出しての曲である。特に美女との出会いをうたった"Salamander"ではギター1本で演奏しているし、"Bad-eyed and loveless"ではその美女とのデートをすっぽかされた悔しさをうたっている。

 とにかく舞台劇を意識して制作されたせいか、起承転結がはっきりしており、ロック色の強い曲とアコースティックな面が強い曲とのバランスが非常にバランスよく配置されている。

 他にも"From a dead beat to an old greaser"や"Pied piper"、"The chequered flag"では哀愁感溢れる楽曲になっており、お涙頂戴という気持ちにさせられてしまう。
 特に"From a dead beat to an old greaser"と"The chequered flag"は名バラードで、それぞれ中盤と最後を飾る叙情的な曲になっている。彼らの作品の中でも特に印象に残る作品だと思う。

 ただストーリーにあわせた作品に仕上がっているせいか、どうしてもこじんまりとした印象が強いのである。曲ができて、舞台劇ができたのではなく、その逆なものだから、少々同傾向の曲がある。似たような雰囲気が漂ってくるのは致し方ないのかもしれない。

 だから「アクアラング」や「ジェラルドの汚れなき世界」のような歴史的名盤には成れなかったのだと思う。

 ジェラルドの汚れなき世界 ジェラルドの汚れなき世界
販売元:セブンアンドワイ
セブンアンドワイで詳細を確認する

 しかし“秋の夜長”にはふさわしいアルバムには違いない。このアルバムを聴きながら過ぎし方を偲ぶにはちょうどいいと思うのだが、それにしても29歳でこのようなタイトルの、このようなアルバムを作ったイアン・アンダーソンの感性には正直、驚いてしまうのである。

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