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2009年9月

2009年9月26日 (土)

モット・ザ・フープル

 モット・ザ・フープルという奇妙な名前を持ったバンドがあった。このバンドは一応グラム・ロックに分類されることが多いようだが、それはうまく時流に乗った結果かもしれない。ただぽっと出の新人バンドとは違って、そのライヴ演奏は定評があった。

 彼らは、最初アイランド・レコードからデビューした。あの有名なパンク・バンドのクラッシュのアルバムもプロデュースしたことのあるガイ・スティーヴンスが見つけてきてデビューさせたのだが、バンド名も彼が小説から借りてきて名づけた。何でもガイがドラッグ所持で刑務所に入れられたときに、読んだ本の中から見つけてきたということらしい。

 ところがモット・ザ・フープルは、ライヴ演奏は好評なのだが、アルバムとなるとサッパリ売れなかった。

 もともとバンドの歴史は古く、1967年までさかのぼる。のちにポール・ロジャースとバッド・カンパニーを結成するギタリストのミック・ラルフスはオリジナル・メンバーに当たる。
 彼らはガイからデビューの打診を受けるのだが、それにはボーカリストの交代という条件が付けられた。

 それで彼らは「メロデ・メイカー」にピアノの弾けるボーカリストを募集したところ、やってきたのがイアン・ハンターだった。彼は1939年6月生まれということなので、今年で70歳になる。日本の若手アイドルのように、最初は年齢を誤魔化していたらしい。どうやら年齢詐称は、洋の東西を問わず、どこでも行われているようである。

 またどうでもいい話だが、彼の父親は英国の情報部MI5の諜報部員だったという話もある。彼は大きなサングラスをかけることで有名なのだが、隠すのは目の表情だけでなく、経歴も上手なのだ。

 彼らは1969年にデビューして4枚のアルバムを出すも、いずれも失敗。それで一旦解散を決意した。それが1972年3月26日スイスのチューリッヒでの出来事だった。
 彼らの熱烈なファンならわかると思うけれど、彼らの曲"Ballad of Mott The Hoople"に、このときの情景が描かれているので日時が特定できるのである。

 しかし、そのときに救いの手が現れたのである。その手の持ち主は、デヴィッド・ボウイといった。いわずとしれたスーパー・スター、当時のグラム・ロックの盟主である。もともとモット・ザ・フープルのファンらしく、彼らを解散させるのは惜しいということで、楽曲の提供とニュー・アルバムのプロデュースを申し出たのであった。

 ということでボウイの全面協力の下、レコード会社をCBSに移し、新曲を含むニュー・アルバムを発表した。それが名盤「すべての若き野郎ども」であった。

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 新曲はアルバム・タイトルと同名曲であったが、シングル、アルバムともに大ヒットした。(シングルは全英3位、アルバムは21位)あとでボウイはこの名曲を提供したことについて、後悔しているようなことを述べている。デヴィッド・ボウイともあろうものがちょっとケチ臭い話である。

 だからモット・ザ・フープルにスポットライトが当たるのは1972年からであった。そしてその明かりは72年から74年のライヴ・アルバム「華麗なる扇動者」まで当たり続けることになる。

 アルバムは成功し、ライヴ活動の評判も高まっていったのだが、ただバンド内の人間関係は望ましくない方向に動いていった。
 まず1973年にオリジナル・メンバーのキーボーディストのヴァーデン・アレンがフラストレーションがたまって脱退し、続いてギタリストのミック・ラルフスも脱退した。ミックは自分が作曲した"Can't Get Enough"がニュー・アルバムに採用されなかったからである。しかし、この曲はバッド・カンパニーによって大ヒットし、世界中に知れ渡っていった。

 こうやって一番最後にグループに入ったイアン・ハンターがグループの実権を握るようになり、モット・ザ・フープルは彼のバンドのようになっていった。

 こうなると面白くないのは他のオリジナル・メンバーたちである。そしてついにイアンは、新ギタリストとしてボウイと一緒にやっていたミック・ロンソンをメンバーに加えようとして他のメンバーと対立し、バンドはついに崩壊してしまった。1974年12月だった。

 ここまでがモット・ザ・フープルの物語になる。この後、イアン・ハンターとミック・ロンソンは新バンドを結成しようとし、他のメンバーはバンド名をモットに変えて、1978年まで活動を続けた。オリジナル・メンバーはベースとドラムスのリズム陣だけだった。しかしこのモットになるともうグラム・ロックとは関係なくなるので、詳細は省きたい。

 やはり良くも悪くもイアン・ハンターの存在は大きかったように思う。大きな四角いサングラスとブロンドのカーリー・ヘア、肩からは自分の名前のイニシャルから取ったHという形をしたエレキ・ギターをぶらさげてラメの衣装を着てシャウトする姿は、とてもクールだった。

 また73年の"Roll away the Stone"(土曜日の誘惑)[全英8位]や74年の"The Golden Age of Rock'n'Roll"(ロックンロール黄金時代)[全英16位]という曲は、まさに彼らにピッタリの印象だった。しかしその曲を発表して、まもなく解散してしまったのだから皮肉なものである。

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 自分が最初に聞いたアルバムは「グレイテスト・ヒッツ」だった。つまり解散した後にあたるのだが、そのせいかどうか、印象としてはスローな曲が目立っていて、湿っぽいものだった。

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 モット・ザ・フープルは、もう少しストーンズのようなロックするグループと思っていたのだが、期待はずれだったのを覚えている。だから2枚目のアルバムに手が出せなかった。

 しかしさすがに「すべての若き野郎ども」は名盤だった。ルー・リードの"Sweet Jane"から始まり(この曲もデヴィッド・ボウイが録音するように勧めたらしい)、ミック・ロンソンのストリングス・アレンジがきまっている"潜水夫"まで、いい曲で占められている。

 そしてバッド・カンパニーで有名な"Ready for Love"の原曲まで収められているし、盤によってはボーナス・トラックにデヴィッド・ボウイが歌う"All the Young Dudes"まで収録されていてお買い得でもある。

 こうして見ると、モット・ザ・フープルはグラム・ロックの中ではA級に位置するものかもしれない。そしてそれは自分たちの努力もさることながら、時流や周りからのサポートに上手に乗っかって活動を続けることができたからでもある。それをうまく利用したのがイアン・ハンターであり、やはりそれなりの才能に長けていたのであろう。

 モット・ザ・フープルは、グラム・ロックの中では人気だけでなく、実力としっかりとした計算高さも備えていたバンドだったようである。

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2009年9月23日 (水)

コックニー・レベル

 グラム・ロックという時期は、いつ頃なのかを考えた。だいたい1971年頃から始まって、73年ぐらいが最盛期ではないかと思う。74年になるとブームも一段落という感じである。

 たとえばデヴィッド・ボウイで考えると、71年の「世界を売った男」から74年の「ダイヤモンドの犬」であり、T・レックスではシングル"Get It On"が3週連続全英No.1を飾ったときから、「ズィンク・アロイと朝焼けの仮面ライダー」を発表する前までだろう。

 実際に74年以降になると、イギリスではアイドル・ポップ・バンドの興隆やクイーンの人気が高まっていき、やがてはパンク/ニュー・ウェーヴに席巻されるようになる。
 アメリカでも似たような状況だった。シンガー・ソングライターのブームやファンク/ディスコ・ミュージックが台頭してきた。

 だから1973年にデビューしたコックニー・レベルなどは、遅れてきたグラム・ロッカーと言われたのであった。

 デビュー当時はコックニー・レベルといっていたが、後にスティーヴ・ハーリー&コックニー・レベルと改称したように、スティーヴ・ハーリーという人がメインのバンドである。

 1973年のデビュー・アルバム「美しき野獣の群れ」の中にも収められているのだが、シングル"Sebastian"がベルギーでヒットし、その影響でイギリスでも売れるようになった。

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 スティーヴはもともとジャーナリスト出身で、そのせいか彼の描く世界観には文学性や演劇的要素が濃厚に漂っている。だからポップ・ソングばりに軽く口ずさんで歌うということは難しい。
 "Sebastian"も邦題が“悲しみのセバスチャン”と名づけられたように、薄暗い路地にある場末のクラブで語られる物語のようで、退廃的かつ妖艶なのである。

 彼らも同時期のシルヴァーヘッドと同じように、スティーヴとバイオリニストのジャン・ポール・クロッカー以外のメンバーは、オーディションによって集められた。その中にはのちにアラン・パーソンズ・プロジェクトのドラマーとして有名になったスチュワート・エリオットもいた。

 彼らはメイクや衣装などファッションとしてはグラム・ロックしていたのだが、サウンドとしてはキラキラとしたところはなく、逆に沈鬱で暗澹としたまるでロンドンの霧のような音楽性を内蔵していた。

 1stアルバムには"Sebastian"以外にも、"What Ruthy Said"(ルーシーの言葉)や"Loretta's Tale"(ロレッタはプレイガール)、"Muriel The Actor"(俳優ミューリエル)など、やたらと人名を使用してのタイトルが目立つが、これもシアトリカルな演劇性を高める演出方法なのだろう。

 だから、まさにブリティシュ・ロック特有の陰影を持つバンドだったのである。また当然のことながら“スカッとさわやか”という音楽の対極に位置するものであり、ロックン・ロールの持つ疾走感や焦燥感とも無縁である。

 ということはつまりギターの音が目立たないということである。ギタリストが存在しないためにリード・ギターのフレーズはほとんど聞かれず、キーボードのストリングスあるいはバイオリンのリードなどが目立つ程度である。

 しかしそれがこのバンドのいいところでもある。彼らの2枚目のシングル"Judy Teen"は全英5位のヒット曲になったから、ヒット・チャートと無縁のバンドだったというわけではないのだ。この辺がジャーナリスト出身のスティーヴの狙いだったのかもしれない。

 スティーヴは1974年になると2ndアルバム「さかしま」を発表したものの、バンド内の人間関係のせいで、ドラマーのスチュワート以外全員をくびにしてしまった。

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 そして新メンバーを入れて活動を続けたのだが、新メンバーの中には後に10ccに加入したキーボード担当のダンカン・マッケイや、ギターには元ファミリーで後にロッド・スチュワート・バンドで活躍したジム・クリューガンなどがいた。

 3枚目のアルバムのプロデューサーは、アラン・パーソンズだったから、スティーヴは後にアラン・パーソンズ・プロジェクトの「アイ・ロボット」に参加するようになったのだろう。同様にスチュワート・エリオットもプロジェクトに参加するようになったのだと思われる。

 スティーヴ・ハーレー自身は現在も司会業やシンガーとして活躍中で、コックニー・レベル・マークⅢとしてツアー活動も行っているようだ。2007年にはローリング・ストーンズのポーランド公演の前座を務めたそうである。1951年生まれだから現在58歳。まだまだ現役なのである。

 ともあれ、グラム・ロックという時代背景にデビューしたのだが、その音楽性は時代とかけ離れたものを持っていたコックニーレベルであった。そのバンドの名前通り“ロンドンの反骨精神”のような独自のセンスが光ったバンドだったと思うのである。

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2009年9月20日 (日)

シルヴァーヘッド

 9月も半ばを過ぎて、日中でも日陰に行くと涼しく感じられるようになった。だんだんと本格的な秋になっていくところがうれしい。

 秋といえば“芸術の秋”であり、“音楽の秋”である。今回から7回シリーズでグラム・ロック・バンド特集を行うことにした。秋といえば“グラム・ロック”なのである、自分の中では。理由は夏にやると暑苦しいし、春先からこんなものを特集すると怪しい人になってしまう。冬ではラメの衣装が何となく寒々とした感じを与えてくれるからだ。

 何しろ“グラム・ロック”なのである。1970年代初頭のロンドンから派生し、アメリカへも飛び火した音楽である。日本では遅れて流行した。それは音楽性よりもむしろファッションの方が強かった。
 初期のサディステック・ミカ・バンドやちょっとマイナーだった日本のプログレ・バンドのノヴェラ。ロックの分野だけでなく、歌謡曲でも沢田研二などがド派手なメイクを決めていたが、似合う人がやればカッコいいと思う。

 語源は英語の"Glamorous"(グラマラス)から来たらしい。両性具有、アンドロギュノス的なメイクに衣装、かかとの高いロンドン・ブーツをはいて、ロックン・ロールを刻むのである。パッと見ただけでは男性か女性かわからないロックン・ローラーが、派手なリフを刻みながらシャウトする音楽だった。

 グラム・ロックの代表といえば、T・レックス、デヴィッド・ボウイそして初期のロキシー・ミュージックだと思う。この3つをグラム・ロック三羽烏とすれば、今から紹介する人たちはB級以下のグラム・ロッカーである。本来なら三羽烏を紹介するのが先だろうが、誰でも知っている人よりもあまり知られていない人たちの方が面白い気がすると思った。

 それで第1回はマイケル・デ・バレス率いたシルヴァーヘッドである。このバンドは1972年にデビューした。

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 リーダーのマイケルは、フランス人の貴族の血を引いているというふれ込みだったのだが、実際のところはどうだったのだろうか。彼は一人っ子で、子どもの頃は全寮制の学校に通っていたというから、上流階級の子弟だったことは間違いない。ということはやはり貴族の子どもだったのだろう。(侯爵の子どもという噂だった。のちに全寮制の学校を退学して、演劇学校に通うようになった)

 基本的にシルヴァーヘッドは、マイケルを中心にして結成されたため、1stアルバムではあくまでもマイケルと彼のバンドという感じだった。実際に、メロディ・メイカーの広告欄で『求むエロティックでリラックスしたミュージシャン』と募集し、集まった中から4人を選んだそうである。また彼の歌もかすれ声のミック・ジャガーと印象が強かった。

 ところが1973年の10月に発表された2ndアルバム「凶暴の美学」では、ストーンズとフェイセズの中間のような楽曲で占められていて、音楽性が格段に上達したことをうかがわせてくれた。

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 何しろ最初の3曲はメリハリがきいていて、なかなか聞かせてくれるものになっている。1曲目の"Hello New York"はポップでノリのよい曲になっていて、それこそストーンズが歌ってもおかしくない曲だった。

 また2曲目はミディアム・テンポのまさにフェイセズ節であり、3曲目は一転してスローなバラードになっている。この辺の展開は見事であり、いま売り出せばかなりいけると思ったのだが、どうだろう。
 そしてこのアルバムの原題だった"16 and Savaged"なんかは、静と動の対比が見事で、シングル・カットすれば、きっと売れたと思うのである。隠れた名曲といっていいと思う。

 1つにはギタリストがスティーヴ・フォレストからロビー・ブラントに交代したことが、よい結果につながったのだろう。
 このロビーさん、ボトルネックでのスライド・ギターが上手であり、よりアーシーな雰囲気を醸し出してくれる。彼は80年代になると、元ゼッペリンのロバート・プラントの片腕としてアルバムやツアーに参加しているから、いかに有能だったかがわかると思う。

 またベーシストは、これも70年代後半のニュー・ウェーブ・ブームに乗って大成功したバンド、デボラ・ハリー率いるブロンディに参加したナイジェル・ハリソンだった。この当時はグラム・ロッカーだったのである。

 さらにこのアルバムには、キーボードに元フリーのラビット、サックスには元キング・クリムゾンのイアン・マクドナルドが参加しているが、ほとんど目立っていない。残念である。

 しかしなぜこのアルバムが売れなかったのか、理解できない。配給元は、あのディープ・パープルが設立したパープル・レコードだったから、知名度はあったと思うのだが…
 事実、日本では東芝EMIの配給だったせいか、あるいはマイケルのルックスがよかったせいか、かなりの注目を集めたようだった。

 そうそう、マイケルは確かにルックスもよく、実際にロンドンの演劇学校にも通って舞台の経験もしていた。だから10代後半には映画にも出演している。そして80年代の後半、音楽業界から一時退くようなかたちで、アメリカで本格的にTVや映画に出演した。さらにはアニメの声も担当するなど、今でも幅広く活躍している。

 結局、グラム・ロックのブームは4年ぐらいだったろうか。あっという間に終わったけれどもマイケル・デ・バレスは、その後もミュージシャンと俳優の両方を掛け持ちながら今に至っている。彼にとってはアルバムは売れなくても、名前が売れた素晴らしい期間だったのかもしれない。

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2009年9月17日 (木)

ジョーディー

 さてさて70年代のブリティッシュ・ロック東芝EMI編もいよいよ最後になった。四天王の最後を飾るバンドは、ジョーディーである。たぶんこのバンド、今まで紹介した4つのバンドの中で一番売れたのではないだろうか。

 彼らの音楽はシンプルでストレート、かつノリやすく思わず立って踊り始めるような音楽だった。彼らの音楽を聞いていると、やはり難しいことをやらずに、いいメロディを単純なリズムに乗って奏でるということが一番いいのだなあと実感してしまう。

 今までゼッペリンやクイーンのフォロワーや、はたまたボンデージ衣装をイメージさせる音楽を紹介してきた。確かに個性を表現することは大事なことなのだが、それに流されてしまい、肝心な“音楽を楽しむ”ということを二の次にしてしまうと、ミューズの神は微笑んでくれないのだ。Mr.Bigやパリス、ストラップス、そしてこのジョーディーを聞いてきて、このことを痛感したのである。

 とにかくジョーディーは単純でノリがいい。歌詞も日本人でも聴いててわかるところもある。当然のことながら本国イギリスでも売れた。ただし長続きはしなかったけれど…

 中心メンバーはギタリストのヴィック・マルコムでけっこういい曲を作っている。彼らの出身地は、イギリスのニューカッスルで、ニューカッスル地域の人たちや彼らの話す言葉のことをジョーディーというのである。
 特にこの地域の言葉、ジョーディーはかなり癖のある方言らしく、同じイギリス人でも理解は難しい場合もあるという。日本でいえば東北弁か薩摩弁を使って歌うロック・バンドという感じであろう。

 彼らは1971年に結成され、72年にロンドンに進出。その年の9月にはシングル"Don't Do That"がヒットし、第2弾"Electric Lady"もチャートインした。
 その余勢をかって1973年には1stアルバム「ロック魂」が発表されたのである。この頃の彼らは国民的人気バンドとまでは行かないけれども、けっこう名前が知れるようになった。

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 自分はこのアルバムの中に収められている"All Because of You"(君にすべてを)をラジオで知ってビックリしてしまった。当時はこんなヘンな音楽は聞いたことがなかったのである。
 何が変かというと、最初の歌詞の途中が音につながって同調するのである。また途中で、"Hey,Hey,Hey"と合いの手やア~という叫び声が挿入されてくる。

 当時は純情な少年だった自分は、こんなヘンな音楽は聞いたことがなかったので、ますますおかしくなってしまい、以後このような音楽を求めるようになってしまったのだ。そういう意味では、よりロック・ミュージックに興味関心を持つようになるきっかけとなった曲でもあった。ちなみにこの曲は全英6位と健闘し、彼ら最大のヒット曲でもある。

 とにかく40年近くたった今でも忘れられない曲のひとつである。そして他にもまだ名曲が収められている。
 ほとんどの曲はギター担当のヴィック・マルコムという人が作詞作曲していて、一人が作った割にはバラエティに富んでいて聞きやすいし、印象的な曲も多い。

 たとえば最初の2曲はハード・ロック系なのだが、全英32位になった"Don't Do That"や"Old Time Rocker"はハード・ロックというよりロックン・ロールだし、"Oh Lord"はアコースティック・ギターを使用したメロディアスなスロー・バラードになっている。途中でキーボードとエレクトリック・ギターが加わるのだが、メロディが美しくこのアルバムの中では異色の曲になっている。
 だからジョーディーはイギリスのロックン・ロール・バンドという位置づけが正しいと思うのである。

 言い忘れたが、このグループのボーカルはブライアン・ジョンソンで、後に死亡したボン・スコットの代わりにAC/DCに加入した人である。やはり若い頃からロックしていたのである。

 ところがこの後のアルバム、74年の「ジョーディー2」、75年の「セイヴ・ザ・ワールド」とアルバムを発表するごとに、彼らの人気は急落していった。ヒット曲が出なかったことと、メンバー間の関係が悪くなっていったのが原因だと思われる。

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 ボーカリストのブライアン・ジョンソンはグループに在籍していながら、シングルを発表するし、他のメンバーは彼抜きでアルバムを制作し発表してしまい、もはや誰の目にも解散は時間の問題と思われた。

 結局、2つのジョーディーが活動するという危機的状態に陥ったのだが、幸か不幸かブライアン・ジョンソンは1980年にAC/DCに加入したために、ブライアンの方のジョーディーは解散し、ヴィック・マルコムの方のジョーディは1983年にニュー・アルバム「ノー・スウェット」を発表した。

 しかし一方ブライアンの方も、昔の自分のバンドのジョーディーⅡに、負けじと参加し、AC/DCと並行してライヴ活動を行っているという。なかなか対抗意識の強い人である。

 実質の活動期間は、73年から75年の2年間で、3枚のアルバム発表という質量ともに少なかったバンドであったが、一時は熱狂的な人気を誇っていた時期もあったのも事実である。
 このバンドもパンク/ニュー・ウェイヴの熱狂の前に消えていったバンドであったが、残った楽曲や思い出は、それぞれの人の胸の中にいつまでも消えないのである。

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2009年9月14日 (月)

ストラップス

 70年代当時の東芝EMIの売れなかった四天王の第3弾。今回は妖しいハード・ロック・バンドのストラップスである。4つのバンドの中で、おそらく一番知名度の低い、ということは一番売れなかったバンドだろう。

 “ストラップス”というと、今なら携帯電話のストラップスを想起させるだろうが、当時はそんなものはなかった。単なる“紐”ということだろう。
 ただアルバム・ジャケットの写真を見るとわかるように、この場合のストラップスは足首を縛っている。ということは“ある趣味”に耽る人たちには必要なストラップスなのである。

 アルバム・デビューは1976年だからMr.Bigやパリスとほぼ同時期にあたる。バンドの中心人物はロス・スタッグという美青年で、日本では若い女の子からアイドル視されていた。

 彼はオーストラリア出身で、19歳のときにイギリスに出てきて、音楽業界で働くようになった。最初は会社で音楽管理などをしていたようで、そこでモット・ザ・フープルやMr.Bigのマネージャーと知り合っている。

 そこでいろんな人と交流を重ね、やがては自分名義のシングルを発表した。やはり彼はミュージシャンになりたかったようである。
 それでバンドのメンバーを募集したところ、ドラムス担当に、あのミック・アンダーウッドがやってきたのであった。

 ミック・アンダーウッドといえば、12歳でバンド・デビューし、リッチー・ブラックモアのいたアウトロウズやピーター・フランプトンのいたハードでプレイし、後には伝説のバンド、エピソード6にも加入した。このバンドにはイアン・ギランやロジャー・グローヴァーも在籍していた。後にディープ・パープルに発展したグループであった。さらには伝説のクォーターマスやフリーを脱退したポール・ロジャースとも共演した実績があった。

 実質この2人が中心となり、あとでキーボードとベースが加入して4人組としてスタートし、1976年にアルバム「貴婦人たちの午後」を発表したのだ。
 アルバム・プロデュースはロジャー・グローヴァーとスタジオ・エンジニアだったルイ・オースティンという人が行っている。Photo

 ディープ・パープル関係者の後押しがあったようで、ディープ・パープルのイギリス最終公演の前座としてデビュー後すぐにツアーを行っている。そのせいか、ストラップスの演奏は好評で、77年には2ndアルバムも準備されるようになった。

 彼らの曲はすべてロスが作っており、ハードな曲もあれば、ボードヴィル調みたいな曲もある。だからハード・ロック・バンドというよりは、ハードな曲も演奏するロック・バンドというのが正解であろう。

 ただ歌詞の内容はR18指定の映画のようで、よくもまあ発売禁止にならなかったなあという世界観で満ちている。

 何しろムチだのロウソクだの、レザーなどのフェティッシュな世界なのである。だからストラップスもそのために存在する。団鬼六が聞いたら泣いて喜びそうな世界が展開されるのである。けっこうステージ・パフォーマンスも注目を集めたそうであるが、そりゃ注目されるよなあ。

 とにかく一時はディープ・パープルの後釜、後継者と目されていた時期もあったようだが、歌い方がときどきブライアン・フェリーしているので、それは見当違いというものだろう。たぶん当時のレコード会社の売り込み文句だったのだろう。

 今回この項を書くにあたって数回にわたって注意深く聴いたのだが、はっきりいってメインとなる曲が少なく、これでは売れないよなあと感じた。
 1曲目の"School Girl Funk"はタイトル通り、クラブでも踊れそうなファンキーな曲で、けっこうイイ線いっている。しかし続く曲がこれといってパットしないのである。

 しいて挙げれば最後の曲"Suicide"は7分以上の曲で最後を飾るにはふさわしいドラマティックな曲になっている。でもこの2曲のために2500円を払うのはつらい気がする。ベテラン・ドラマーのミックはどういう気持ちでドラムを叩いていたのか聞いてみたいものだ。

 しかし1977年には2ndアルバム「シークレット・ダメージ」を、78年と79年にはそれぞれ「愛のプリズナー」、「炎の衝撃」を発表している。イギリスの会社はなんと好意的なのだろうか。(実際は3作目と4作目は日本をマーケットにしたアルバムだったらしい。それほど日本では人気が高かったのだろう)

 そして1979年にミック・アンダーウッドがイアン・ギラン・バンドに引き抜かれたことから、バンドは崩壊していった。ベーシストのジョー・リードはブラム・チャイコフスキーに加入し、リーダーのロス・スタッグスはオーストラリアへと帰郷してしまった。

 本国イギリスではそこそこの人気だったものの、日本での方が人気が高かったストラップスであった。クイーンも最初は本国イギリスよりも日本での方が人気が高かったのだが、やがては世界的なスーパーバンドになってしまった。

 残念ながらストラップスは、日本では売れてもクイーンのようには世界に羽ばたくことができなかった。これが彼らの限界だったのかもしれない。
 しかしこうやって彼らのCDが再発されるくらいなのだから、日本のファンは今でも彼らのことを忘れてはいないのだ。オーストラリアに帰ったロスはどう思っているのだろうか。

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2009年9月11日 (金)

パリス

 かつての東芝EMIというレコード会社が所有しているカタログの中から、70年代に一時的にせよ一世を風靡したアルバムを紹介するシリーズの第2弾である。

 前回は“第2のクイーン”を夢見ながら消えていったMr.Bigだったが、今回は“第2のゼッペリン”を夢見た3人組のお話である。名前をパリスといった。

 3人の中で中心人物というか仕掛け人は、元フリートウッド・マックのボーカル&ギター担当のボブ・ウェルチだった。
 彼はブルーズ・バンドだったフリートウッド・マックをポップ路線に方向転換させ、一応成功させた立役者だった。彼が加入してからのフリートウッド・マックはそれなりに売り上げを伸ばしたからである。

 彼については、このブログのポップ・ミュージックのところで述べているので詳細は避けるが、とにかくお金持ちのボンボンだったことは間違いない。フリートウッド・マックに加入する前も脱退後も、ヨーロッパを放浪していたらしい。そしてイギリスに渡り、ミュージシャンを連れてパリでバンドを結成した。だからパリスと名づけたという話を聞いたことがある。

 一方でロサンゼルスで結成されたという話もあり、どちらが正しいのかよくわからない。もう30年以上も前の話しだし、特定されたとしても大した意味もない話である。

 残りのメンバーは元ジェスロ・タルでベーシストだったグレン・コーニックとトッド・ラングレンと一緒に演奏していたドラマーのトム・ムーニーだった。いずれも力量的に優れた技術を持つミュージシャンだった。

 1976年に発表された1stアルバム「パリス」はまさに3人組のレッド・ゼッペリンという感じである。このアルバムで聞けるボブ・ウェルチのボーカルは結構高音が伸びていて金属的な質感があり、まるで線の細いロバート・プラントという感がするのだ。Paris

 ギターの音もメタリックで、後のヘヴィー・メタルを連想させる要素を持っている。ベースもドラムスもそのギターに絡みつくようにまとまっていて、いま聞くとかなり素晴らしい印象をもたらしてくれる。

 はっきりいって1976年という年が悪かったのかもしれない。前回のMr.Bigでも述べたが、時代はパンク/ニュー・ウェイヴ前夜であり、ベイ・シティ・ローラーズやその残党がミュージック・シーンをにぎわしていた頃でもあった。バンドがデビューして成功するには、それなりのものがないと厳しい状況だった。

 このアルバム1曲目から"Black Book"という曲で笑わせてくれる。タイトルからして"Black Dog"のパクリであり、音もよく似ているからだ。
 ちなみにこのアルバムもプロデューサーはジミー・ロビンソンという人で、同名の人が他のバンドをプロデュースしていて実はその人ジミー・ペイジの変名だった。だからこのアルバムもジミー・ペイジがプロデュースしているのでは、と囁かれたのだが、実は違う人だったことがわかっている。

 自分が持っている日本盤CDでは曲目の表示が間違っていて、1曲目が"Religion"、2曲目が"Black Book"となっているのだが、実際は逆である。たぶんこのアルバムが再発されることは、しばらくないだろうが、そのときは誤記をなくしてほしいものだ。

 とにかく曲はカッコいい。"Black Book"もよく聞けば、よくできている曲だし、それ以外にも"Starcage"、"Beautiful Youth"などは、ボブ・ウェルチの持ち味のはっきりとしたメロディラインを持っていて聞きやすい。バックのキーボードの演奏はグレン・コーニックと表記されている。

 また6曲目の"Narrow Gate"もこのアルバムではスローな部類に入る佳曲であり、繰り返されるギターのフレーズと時に挿入されるキーボードとアコースティックな旋律が記憶に残るものにしてくれる。

 ただ全体的に似たような曲が多く、メリハリがなかったという欠点はあるだろう。ブルーズ臭もなく、全体的にメタリックなのである。また印象的なギター・ソロが不足しているのが痛い。この辺はジミー・ペイジだったら、絶対に外さない大事なところであろう。

 だから音楽的な面と時代背景が相互に悪影響を与え、それが相乗効果を及ぼして売れなかったのだろうと思っている。
 しかし、いま聞けば、あるいは80年代に入って、NWOHM(ニュー・ウェイヴ・オブ・ヘヴィ・メタル)が勃興したあとにデビューすれば、きっと売れていたに違いない。ある意味早すぎた天才なのかもしれない。

 彼らは同じ年に2ndアルバム「ビッグ・タウン2061」を発表するものの、2枚とも不発に終わり活動停止状態に陥った。Paris2

 そして1977年、突然にボブ・ウェルチはソロ・アルバム「フレンチ・キッス」を発表し、あれほど嫌ったポップ/AOR路線に逆戻りしてしまった。しかもそれがアメリカでプラチナ・ディスクを獲得するという大ヒットになったものだから、グレン・コーニックはパリスを脱退してしまい、ついにパリスは解散したのである。

 ある意味、ボブ・ウェルチという人は金持ちのボンボンのせいか、わがままである。フリートウッド・マックもポップ化したから嫌ということで脱退し、ハード・ロック路線に進むも売れずに、今度は逆に一人だけポップ・アルバムを出すという節操のない音楽観だった。

French Kiss Music French Kiss

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販売元:EMI
発売日:2008/06/02
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 だからグレン・コーニックは人間不信に陥ったのだろう。この後は音楽業界から完全に引退してしまったのである。(その後90年代になって一時的にワイルド・ターキーを復活させてライヴを行っている)

 ちなみにグレン・コーニックの妻のジュディ・ウォンは、以前はボブ・ウェルチのガール・フレンドだった。彼女に紹介されて、ボブは1971年にフリートウッド・マックに加入し、今度はグレンがジュディと結婚したあと、ロサンゼルスでボブがグレンと再会したあとで、パリスの結成を行ったのだ。世の中広いようで狭いものである。

 とにかくパリスの1stアルバムを聞くと評論家の渋谷陽一氏が激賞していたのを思い出す。1stも2ndも誌上で褒めちぎっていた。FMラジオでも推薦していたそうである。
 確かに音は余分なものがそぎ落とされたメタリックなもので、聞いていて快感を覚えるのは事実である。
 しかし何度も繰り返すが、なにぶん時代背景が悪かった。時代とマッチしていなかったのである。あと5年早くデビューするか、遅くデビューすれば間違いなく売れていたに違いないバンドであった。

 音楽的なセンスはありながら、中途半端に我が道を進んだバンド(というよりボブ・ウェルチ)だった。それが時代から無視された要因だったのかもしれない。

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2009年9月 9日 (水)

Mr.Big

 ロックの世界では同名異人はよくある話で、古くはボビー・コールドウェル(キャプテン・ビヨンのメンバーと"風のシルエット"を歌ったシンガー・ソングライター)やロジャー・テイラー(クイーンとデュラン・デュラン)、比較的最近なのはアラン・ホワイト(イエスと元オアシス)などがいる。

 これはバンド名でも同じようなもので、日本のXが同名のバンドがアメリカにいるということでXジャパンと名前を変えたことは有名である。ただバンド名については著作権の関係があるので、同名のバンドが同時に存在するというのは難しい。しかし過去にあった名前を現在命名するのは問題ではない。

 最近、アメリカのバンドのMr.Bigがオリジナル・メンバーで復活し、日本武道館で再結成コンサートを行ったのだが、それと同名のバンドが昔イギリスに存在した。

 1975年にデビューしたこのバンド、4人組なのだが、なんとドラマーが2人もいた変則バンドだった。正確にいうとギター、ボーカル担当のディッケンという人と、ドラマー2人にベーシスト1人という構成だった。

 このバンド“クイーンの後継者”と宣伝され、イギリスが待ち望んだ新しいタイプのハード・ロック・バンドとまで言われていたのだが、アルバム2枚で1978年に解散してしまった。

 彼らが発表した1stアルバム「甘美のハード・ロッカー」には"麗しのザンビア"という迷曲が収められていて、日本では結構これがヒットしたのである。Mrbig2

 とにかく一度聞いたら忘れられないメロディ、出だしは中国風、途中からハード・ロックに展開し、ツイン・ドラムスがドタバタと鳴り響く。そしてまた中国風メロディに戻っていく。確かにこれだけを聞けば、クイーン風ロックといってもいいかもしれない。

 当時はよくラジオから流れていたので、一発で記憶に残ってしまった。まさかこの曲を含むアルバムが再発されるとは思ってもみなかった。日本は本当に再発天国である。

 それはともかく、このアルバムからは3拍子のワルツのような曲"青春の甘き日々"もヒットした(らしい)。

 リーダーのディッケンはなかなかのアイデア・マンのようで中国風の曲もあれば、ワルツやピアノによるバラード、ハード・ロックなどバラエティに富んでいる。一人でこれだけの曲群を創作したのだから、たいしたものである。

 しかし“第2のクイーン”になるには厳しすぎたようである。印象に残る曲はあるのだが、もう少しポップなフレーズなりメロディラインなりを考えてほしかった。
 またクイーンのようなコーラス・ワークはなくて、バラエティすぎて散漫な印象を与えていると思う。

 それでも彼らは強気で、さらにメンバーの補強を図り2ndアルバムを発表した。これもイギリスではまあまあヒットし、ここまではよかったのだが、3rdアルバムではレコード会社から注文を付けられて、それがもとで彼らはレコーディングを放り出してしまったのである。

 ここで紆余曲折があり、最終的にモット・ザ・フープルのイアン・ハンターがアルバムのプロデュースをして完成させたのだが、時既に遅し、アルバムの契約は切れていて発表できず、また時代はすでにパンク/ニュー・ウェイヴを迎えていて、彼らのような音は好まれなかった。彼らは甘美のハードロッカーではなく、悲劇のハード・ロッカーになってしまったのだ。

 余談だがこの3枚目のアルバムは突如2001年に発表された。今でも通販などで手に入るようである。ちなみにタイトルを「セップク」というらしい。

セップク Music セップク

アーティスト:ミスター・ビッグ
販売元:ヴィヴィッド
発売日:2003/02/25
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 リーダーのディッケンは、一時音楽業界から遠ざかっていたようであるが、80年代の終わりから活動を再開し、Mr.Big(UK)と名乗りライヴ活動を行っていたそうである。アメリカに同名のバンドがいたからであろう。なお、このバンドも解散して、今は違うバンドで活動中らしい。

 名前とは逆に、ビッグにならなかったバンドであった。70年代という時代の中で開いた徒花の一つだったのかも知れない。

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2009年9月 6日 (日)

ホワイトスネイク

 私の地域の近くに、貴船城というところがあって、何でも白蛇を祭る神社だという。夜になるとライトアップされて綺麗で、カップルなどが集まったりするらしいのだが、自分は1回しか行ったことがないのでよくわからない。というかもう10年以上も前のことなので、忘れてしまった。

 果たしてそこに白蛇がいたかどうかはわからないが、たぶんいるのであろう。ただご神体のようだから、めったに人様の前には出さないのであろう。そのぶん霊験あらたかというものである。

 それで欧米のバンドにもこの“白蛇”をバンド名にしていた人たちがいた。文字通り“Whitesnake”である。洋の東西を問わず“白蛇”には神秘的な力が備わっていると信じられているのであろう。

 このグループを結成したのが、元ディープ・パープルのメンバーだったデヴィッド・カヴァーデルだった。
 自分は基本的にはディープ・パープル関係のアルバムを集めるといった趣味はない。例外はリッチー・ブラックモアだけで、唯一彼のグループ、レインボーについてはすべて揃えている。

 しかしそれ以外のメンバーのソロ・アルバムにはあまり興味がない。イアン・ギラン・バンドやペイス、アシュトン&ロード、ロジャー・グローヴァーのソロなど1枚も持っていない。特に聞きたいという欲求が起きなかったからである。ただ、このブログでも紹介したトミー・ボーリンのソロやキャプテン・ビヨンドのアルバムは持っている。理由は聞きたかったからで、我ながら単純な理由だと思っている。

 だからホワイトスネイクのアルバムはベスト盤と3rdアルバム「フール・フォー・ユア・ラヴィング」しか持っていないし、カヴァーデルのソロ・アルバムは1枚しか持っていない。

Whitesnake's Greatest Hits Music Whitesnake's Greatest Hits

アーティスト:Whitesnake
販売元:Geffen
発売日:2008/01/01
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 80年代のMTVの隆盛に乗って、またLAメタルやイギリスのネオ・ヘヴィ・メタルの成功で、ホワイトスネイクにも追い風が吹いてきたようだった。特にアメリカでの成功が大きく、MTVでもヘヴィ・ローテーションで映像が流されていた。

 それはそれでディープ・パープル・ファンとしてはうれしい出来事だったのだが、ちょっと産業ロック的で嫌だった。あまりにも完璧なサウンド・プロダクションだったし、売れ線メロディが悪魔に魂を売り渡したようで、70年代ハード・ロックを知るものにしてみれば、ちょっとコマーシャリズムに走りすぎだろうとも思ってしまった。

 そんなにいい曲が書けるのなら、なぜもっと前から書いて歌わなかったのかと不思議に思っていたし、ギタリストのジョン・サイクスやエイドリアン・ヴァンデンバーグが主に曲を書いているのなら、なぜどうして自分たちのバンドの時には売れなかったのかというのが不可思議だったのである。(ついでにこのホワイトスネイク以降も売れていないのか、あまり名前を聞かない)

 だからきっと曲のクレジットは、“カヴァーデル/サイクス”になっていても、きっと隠れたゴースト・ライターがいて、そういう職人が曲を作っているのに違いないと信じていたのである。たぶんそんなことはないだろうが…

 カヴァーデルに文句をいうつもりはないのだが、80年代中~後期のホワイトスネイクの音やカヴァーデルのボーカルを聞いていると、妙に華やか過ぎて、装飾しすぎのデコレーション・ケーキのようだ。例えていうなら、フェイセズで歌っていたロッド・スチュワートがアメリカに渡って、スタンダードを歌うようになったのと似ている。

 この当時のホワイトスネイクのアルバムは、ベスト盤しか持っていない。でも80年代のホワイトスネイクに関してはこれ1枚で十分だと思っている。もしホワイトスネイクのアルバムを聞くのなら1978年から1982年までのアルバムを聞いた方がいいと思う。

 そこでお薦めなのが1980年に発表された「フール・フォー・ユア・ラヴィング」(原題は“Ready An' Willing”)である。はっきりいってこれは名盤だと思っている。とにかく曲がいい。演奏がいい。メンバーもいいのである。

フール・フォー・ユア・ラヴィング+5 Music フール・フォー・ユア・ラヴィング+5

アーティスト:ホワイトスネイク
販売元:UNIVERSAL INTERNATIONAL(P)(M)
発売日:2008/08/02
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 キーボードがジョン・ロードで、ドラムスがイアン・ペイスとくればディープ・パープルを思い出させるのだが、そういう分かり合える仲間を中心に制作されたからいい雰囲気がアルバムにパッケージされているのであろう。

 今回あらためて聞いてみて、このアルバムがまたまた好きになってしまった。シングル・ヒットした"Fool for your Loving"は当然のこと、"Sweet Talker"、"Ready an' Willing"の頭3曲でノック・アウトされ、"Blindman"では泣きのバラードに感動してしまった。
 後半はジョン・ロードのキーボードが目立ち、"Black and Blue"ではロックン・ロール調のピアノが、最後の曲"She's a Woman"ではハードなオルガン・プレイを聞かせてくれる。

 やはり自分にとっては、この時期のホワイトスネイクの方が、アメリカでブレイクした頃よりも好きなのである。それはカヴァーデルの音楽に対する純粋さがにじみ出ているような気がしてならないからである。

 ところでカヴァーデルは、ホワイトスネイク結成前に2枚のソロ・アルバムを発表しているのだが、自分はこの2枚目1978年に発表された「ノースウインズ」を持っていて、こちらの方が意外と彼のオリジナルなブルーズ・ロック、ハード・ロックを聞くことができて、うれしくなってしまった。

Northwinds Music Northwinds

アーティスト:David Coverdale
販売元:Video Arts
発売日:2000/11/07
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 アルバムのプロデューサーはロジャー・グローヴァーであり、ギターはミッキー・ムーディ、ベースはアラン・スペンサー、ドラムスはトニー・ニューマンなどが担当しているので、演奏もしっかりと安定している。

 曲調もブルーズ系のハード・ロックが中心なのだが、タイトル曲の"Northwinds"などはアメリカ南部出身のボーカリストが歌っているようである。渋くスローな曲で感動的なものになっている。
 また"Time&Again"はキーボードだけをバックに切々と歌うバラードで、AORのよう。晩夏の夕暮れ時に聞くと、何となくこちらまでしんみりとさせられてしまう。

 ギタリストのミックー・ムーディという人は、何かの雑誌で読んだのだが、スライド・ギターも得意としているらしい。そのスライドの音がアメリカ的な大陸性を感じさせる音になっているのであろう。

 とにかくこのアルバムは、デヴィッド・カヴァーデルのハードな部分とソフトな部分の両面を楽しむことができる好盤に仕上がっている。ある意味、彼の素の部分を知ることができると思うのである。

 だから彼の本来の持ち味ややりたかった音楽のもとが詰まっている。彼の本当の姿は80年代後半よりもこの時期にあったのではないだろうか。そんなことを考えさせてくれるアルバムである。
 やはり人間は売れてしまった頃よりも、売れる前が一番輝いていて感動をもたらしてくれるような気がしてならない。

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2009年9月 4日 (金)

レインボー

 前回はディープ・パープルの名盤「紫の炎」についてだった。自分はディープ・パープルのメンバーの中で一番好きなのはギタリストのリッチー・ブラックモアだった。リーダーはジョン・ロードだったかもしれないが、それでもリッチーが好きだった。

 これは私の師匠にあたるK氏が、リッチー・ブラックモアが大好きだったということに影響を受けているのかもしれない。何しろアルバム「マシン・ヘッド」の中のリッチーのように左右の眉毛をつなげて一本にしようとするくらいだったから、筋金入りのファンだともいえる。

 “つなげる”というよりは、眉と眉の間を“そらない”といった方が正確である。それで結局どうなったかというと、完全にはつながらなかったように思うのだが、どうも記憶があやふやで定かではない。

 とにかく田舎の中高生の間でも人気のあったディープ・パープルであるが、その中でも一番人気はリッチーだった。

 1975年にディープ・パープルを脱退した後、リッチーは自分の意思で自由になるバンドを作ろうと思い、リッチー・ブラックモアズ・レインボーを結成した。
 正確にいうと、リッチーが気に入っていたアメリカのバンド、エルフと一緒にレコーディングして、そのままバンドに居座ったのである。たぶん彼が気に入っていたのは、バンドのボーカリスト、ロニー・ジェイムス・ディオの声だと思う。彼がバンドに加入したあと、ロニー以外を解雇しているからだ。

 自分が好きなのは1976年の「虹を翔ける覇者」のサイドBと1978年に発表された彼らの3枚目のスタジオ・アルバム「バビロンの城門」である。
 レインボーはごく大雑把に前期と後期に分けられる。ロニー・ジェイムス・ディオが在籍していた1978年までとボーカルがグラハム・ボネット、ジョー・リン・ターナーだった79年から1984年までである。

 前期がブルーズとクラシカルな様式美を追求した時期であり、後期はアメリカでの成功を期待して、コンパクトかつポップ化していった時期である。確かにポップ化していったレインボーも素晴らしいのだが、ディープ・パープルからのコアなファンは前期の方を選ぶと思う。

 セカンド・アルバムの「虹を翔ける覇者」の"Stargazer"、"A Light in the Black"はハード・ロック史上の名曲だと思う。当時はアルバムの片面すべてを使って構成されていたのだが、躍動するドラムス、疾走するギター、クラシカルな様式美など、どこをとってもリッチーの趣向が反映されていて、8分以上の曲でありながら、全く退屈させずに最後までドラマティックに聞かせてくれる。

虹を翔ける覇者 Music 虹を翔ける覇者

アーティスト:レインボー
販売元:UNIVERSAL INTERNATIONAL(P)(M)
発売日:2008/08/02
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 ひとつはドラマーがコージー・パウエルに替わったことが挙げられるだろう。ジェフ・ベック・グループにも在籍していたコージーの迫力ある演奏はリッチーをも満足させたであろう。この時期のレインボーはリッチーのグループでありながら、ロニーとコージーの3人で運営されていた。日本ではこのことを“三頭政治”とか“三頭体制”といっていたと思う。

 そしてこの体制で、名作「バビロンの城門」が発表されるのである。ただこのアルバムから多少の軌道修正が行われた。前作のような長い曲は影を潜め、比較的短めのコンパクトな楽曲を中心に構成されていた。

Long Live Rock 'n' Roll Music Long Live Rock 'n' Roll

アーティスト:Rainbow
販売元:Universal/Polygram
発売日:1999/04/27
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 これはリッチーのアメリカ市場を意識した結果であるといわれ、この軌道修正をめぐってロニーと対立し、最終的にロニーは交代してしまった。

 そういういわくのある作品なのだが、曲は短くなったとはいえ、"Long Live Rock'n'Roll"、"Kill the King"のようにスピーディでメロディアスな曲やストリングスを使用してロックとの融合を図った曲"Gates of Babylon"、詩情溢れるクラシカルな"Rainbow Eyes"などそれまでの方向性も踏襲していて、ファンの期待を裏切っていない。

 このアルバムも師匠の家でよく聞かされたものだが、やはり前作の「虹を翔ける覇者」とこのアルバムはいいというようなことを言っていたように思う。さすが師匠である。リッチーのことをよくわかっていらっしゃる。

 このあとリッチーはより一層ポップ化を進めていき、シング・ヒットも出すようになった。確かにアメリカ市場でも受け入れられるようになったのだが、リッチーのギターの比重はそれに反比例するかのように軽量化されていったように思える。
 
 このレインボーというバンド、よく考えてみると、リッチー以外のミュージシャンは多くがアメリカ人である。総勢20名以上のメンバーが入れ替わり立ち代り、バンドに入っては出て行ったが、その中でイギリス人は片手で足りるのではないだろうか。

 アメリカ人が多かったからアメリカで成功しようと思ったわけではないだろうが、イギリス人のリッチーがアメリカ志向で、アメリカ人のロニーがブリティッシュ志向だったというのは面白い。

 またほとんどの曲はリッチーが作曲しているのだが、中には非常にメロディアスで覚えやすいフレーズも含まれていて、彼の作曲能力の高さというか、意外とポップな要素も備えているというのも興味深い。

 自分はこのあとのアルバムも結構気に入っていて、「ダウン・トゥ・アース」や「アイ・サレンダー」などはよく聞いたし、ラジオでも頻繁に流れていた。

アイ・サレンダー Music アイ・サレンダー

アーティスト:レインボー
販売元:ユニバーサル インターナショナル
発売日:2006/08/30
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 ただのポップ・バンドとして聞いていれば問題はないのだろうけれど、そこはやはりリッチー率いるレインボーである。普通のバンドではない何かを醸し出していたし、またファン心理として、並みのバンドに堕してほしくないとも思っていた。

 リッチーは1945年生まれなのでもう64歳になるのだが、今でも現役ミュージシャンとして活躍している。ただし、かつての轟音やハードな演奏は封印してしまい、自分の愛妻とともにアコースティック・ギターで中世音楽などを演奏しているようだ。

 昨年もアメリカ・ツアーを行ったようであるが、できればもう一度、彼のトレードマークであるストラトキャスターを手にして、狂気のギタリストを演じてほしいのである。おそらく師匠もそういう気分でいるのではないかと思う今日この頃であった。

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2009年9月 1日 (火)

紫の炎

 つい最近のCMでキムタクこと木村拓哉が出演しているものがあった。○○ホームという住宅販売会社のCMなのだが、そのときに使用されている曲がディープ・パープルの1974年の曲"紫の炎"(Burn)だった。

 曲の中で本来は“Burn”と歌うべきところを“ホーム”と替えて歌っているのだが、なかなかインパクトがあって面白いものになっている。これも元歌に力がある証であろう。

 それでこの"紫の炎"(Burn)という曲は、第3期ディープ・パープルの門出を祝う曲となったもので、35年もたっているのにもかかわらず、いまだにCMで使用されるくらいロックの歴史に残った曲でもある。

 ディープ・パープル(以下DPと略す)の全盛期は、やはり第2期のメンバー時だと思う。これはDPファンの90%くらいの人は同意してくれるのではないかと思っている。それほどこの第2期のメンバーは歴史に残る曲や演奏を残しているからだ。

 とにかくDPはメンバーの変遷が激しく、第2期は1969年から1973年までのわずか4年間であった。
 そして第3期は1973年から1975年までの2年間あまりである。第2期の黄金メンバーであるボーカリストとベーシストが交代して、当時無名であった新人ボーカリストのデヴィッド・カヴァーデル、ベースにはトラピーズというバンドに在籍していたグレン・ヒューズが担当するようになった。

 グレン・ヒューズはボーカリストとして加入したかったといわれていた。またギタリストのリッチー・ブラックモアは、元フリーのポール・ロジャーズを希望していたといわれる。ところがポールはバッド・カンパニーを結成したため、この計画は実現しなかった。
 個人的にはポールが加入した音を聞いてみたいが、おそらくは数年を待たずに解散か脱退していただろうと思われる。あまりにもブルーズ臭がするからである。たぶんリッチーは嫌になるだろう。

 結局4000人あまりの候補者の中から、当時はガソリンスタンドで働いていたといわれたデヴィッド・カヴァーデルに決まったのである。ただしそれには、ダイエットすることと美容整形をすることという条件が課せられたそうだ。当時の彼は太っていて、顔もよくなかったらしい。さすが天下のDPであるが、そこまで彼に投資しても損は無いという判断があったのだろう。

 それで彼らの8枚目のスタジオ・アルバムである「紫の炎」は1973年の11月にレコーディングされた。場所は歴史的名盤である「マシン・ヘッド」と同じスイスのモントルーであった。

紫の炎 Music 紫の炎

アーティスト:ディープ・パープル
販売元:ワーナーミュージック・ジャパン
発売日:2005/06/22
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 とにかくイアン・ギランとロジャー・クローヴァーが脱退したあと、バンドはいったいどうなるのであろうか、解散するのではないかという不安がファンの間で広がっていたのだが、それをものの見事に吹き飛ばしてしまうほどの傑作アルバムだった。

 いきなり表題曲の"紫の炎"(Burn)で始まるのだが、この疾走感や躍動感がたまらない。イントロのフレーズや間奏でのソロ、チャーチ・オルガンっぽいジョン・ロードの演奏やデヴィッドとグレンのツイン・ボーカルなどなど、どれをとっても文句の付けようの無い完璧な出来具合である。
 それにちょうど6分間の曲である。当時勉強が嫌いだった自分は、授業の残り時間が6分を切ると、"紫の炎"より短いや、などと思いながら耐えたものだった。

 また"紫の炎"以外にもミドル・テンポでブルージィな"Might Just Take Your Life"やノリのよいアップテンポな"Lay Down Stay Down"、珍しくジョン・ロードがシンセサイザーを使用している"“A”200"など、それぞれの曲のレベルも高い。

 中でもひときわ印象的なのは、"Mistreated"であろう。この曲はその後のステージでも必ずといっていいほど取り上げられるようになった曲で、DPだけでなく、レインボーやホワイトスネイクなどのDP関連のグループでも歌われるようになった。ロックの歴史に残る珠玉のバラードである。ステージでもこの曲を歌えば盛り上がったものだった。

 スタジオ盤では多少盛り上がりに欠けるところもあるのだが、ライヴでは映える曲なのである。ボーカルは切々と歌い上げ、ギターは叙情的にボーカルと絡み合いながら盛り上がっていくところが感動的である。
 この曲ではデヴィッド・カヴァーデルが一人で歌っている。グレン・ヒューズには歌わせたくなかったのか、メイン・ボーカリストは自分だというプライドがあったのかもしれない。

 とにかくこのアルバム“紫の炎”は第3期DPを代表するアルバムであり、DPの歴史を通しても5本の指に入るくらい優れたアルバムでもある。

 同時に"紫の炎"(Burn)をBGMとして使用する○○ホームのCM戦略は素晴らしい着眼点を持っているといえるのではないだろうか。販売戸数が増加することは間違いないであろう。

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