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2010年2月

2010年2月27日 (土)

ジョー・ママ

 キャロル・キングとのバンド、ザ・シティを解消したダニー・クーチマーとチャールズ・ラーキーは、1970年に彼らを中心としたグループ、ジョー・ママをL.A.で結成した。

 これには裏話があって、本当はザ・シティとしてコンサート活動を行うはずだったのだが、キャロル・キングが突然ステージ恐怖症(いわゆるステージ・フライト)になってしまい、直前になってキャンセルされてしまった。当然のことながら内容的には優れていたアルバムを発表したにもかかわらず、営業活動しなかったために売れなかった。これが原因のひとつになったのであろう、ザ・シティは解散してしまったのである。

 結局、キャロル・キングはソロ・ミュージシャンの道を歩み、残された2人はとりあえず生活のために親交のあったミュージシャンとバンドを組み、クラブやディスコで演奏活動を始めた。
 またニュー・ヨーク出身でミュージカル「ヘアー」のL.A.キャストとして毎日出演していたアビゲイル・ヘイネスという女性ボーカリストも舞台を捨てて、友人の紹介でダニーたちのバンドに加わることになったのである。

 途中でドラマーが交代することがあったものの、5人編成としてバンドが誕生した。それがジョー・ママだった。
 このバンド名ジョー・ママは"Your Mother"を意味するニューヨーカーたちのスラングだそうで、このバンド・メンバーたちはニューヨーク出身で、昔から顔なじみの人もいたのである。(キーボーディストのラルフ・シュケットの出身は確認できていないのだが、彼もニューヨークでダニーたちと同じバンドで活動していた記録はある)

 このアルバム、ニューヨーク出身者だちがL.A.で制作したのだが、西海岸と東海岸の音楽がブレンドされたような雰囲気がある。プロデューサーは後にリンダ・ロンシュタットを育てたピーター・アッシャーだった。

ジョー・ママ(紙ジャケット仕様) Music ジョー・ママ(紙ジャケット仕様)

アーティスト:ジョー・ママ
販売元:ワーナーミュージック・ジャパン
発売日:2003/02/26
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 つまり西海岸の明るくてカラッとしたサウンドと、東海岸のお洒落でフュージョンっぽい雰囲気の両方を兼ね備えているのである。例えていうならマイケル・マクドナルドの代わりに女性が歌ったドゥービー・ブラザーズのような、あるいは初期のスティーヴ・ミラー・バンドとスティーリー・ダンが合体したような、そんな音楽なのである。

 ジャケット見る限りでは、そんなお洒落な感覚は微塵も見えないのだが、曲によってはモダンでシック、ジャージーな雰囲気に満ちたものもある。
 特に9曲目の"The Word is Goodbye"は落ち着いたクラブでひとり静かに飲んでいるときに流れるようなBGMみたいな曲で、これはもう完全にジャズの世界である。11曲目の"Cotton Eyed Joe"も似たような雰囲気をもつ曲である。

 これはリーダーのダニーの趣味というか方向性だと思う。彼の弾くギターの音はジャズ的なフレージングだからである。特に6曲目の"Sailing"や8曲目の"The Sky is Falling"のギター・ソロにその影響が色濃く出ている。

 一方、そのギター演奏とは違って、ダニーがリードをとって歌う曲はどちらかというと、西海岸の雰囲気が出ていて、女性がリードを取る歌はニューヨーク風なのである。

 この辺の折衷感が受けなかったのではないだろうか。つまりリスナーにとっては中途半端でつかみ所のない音楽と感じたと思うのである。

 彼らは翌1971年にセカンド・アルバムを発表した。今度のプロデューサーはトム・ダウドであり、何とキャロル・キングもゲスト参加していた。トム・ダウドだから、今度はかなり南部よりのサウンドになったと思うのだが、ニューヨーカーである彼らにとっては、違和感があったのかもしれない。そしてこれも商業的には売れなかった。

 この当時、キャロル・キングは「タペストリー」を発表していて、グラミー賞4部門獲得し、当時からすでに記録的な売り上げを残していた。今では全世界で2200万枚以上という天文学的な数字になっているらしい。

 一方でグラミー賞歌手として名を上げたミュージシャンと、もう一方は売れないミュージシャン、やはりこれはうまく行かないらしくてキャロル・キングとチャールズ・ラーキーは70年代の半ばに離婚している。
 その後、キャロルは1977年にもう一度結婚するのだが、今度の夫はその1年後に薬物の過剰摂取で亡くなっている。キャロルはそれ以降は公式には結婚していないようである。

 自分はジョー・ママのアルバムは1stしか持っていなくいのだが、このアンバランスな音楽観がいいときもあれば、やっぱり統一の無さがどうしても気になってしまう。むしろザ・シティのアルバムの方が聞きやすいのである。

 やはりこれはロックとポップの違いというよりは、キャロル・キングとダニー・クーチマーの音楽観の違いから来ているのだろう。そしてそれはリスナーからの支持を見てもわかるようにキャロルの方が一枚上手だったに違いない。やはり才能というのは、努力してもどうしようもない部分があるのだろう。

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2010年2月23日 (火)

ザ・シティ

 フィービー・スノウのところで思い出したのだが、むかし"Snow Queen"という曲があった。歌っているのはザ・シティという3人組のグループだった。

 その3人の中に、かの有名なキャロル・キングがいた。あのシンガー・ソングライターとして有名なキャロル・キングがなぜこんな無名なバンドにいたのだろうかと不思議な思いで聞いたことがあった。

 このアルバムが発表されたのは1968年で、もちろん自分はリアルタイムで聞いたわけではない。約30年くらいたって再発されたCDで聞いたのである。
 それで1曲目がその"Snow Queen"だった。アルバムの最初を飾るにふさわしく、ピアノを中心としたおしゃれな音作りになっている。キャロル・キングを中心としたコーラスが美しい。また3拍子の軽快な曲でもある。そして作詞作曲はジェリー・ゴフィンとキャロル・キングであった。

 さてこのアルバム「夢語り」をつくった3人組というのは、キャロル・キングとギタリストのダニー・クーチマー、ベーシストでキャロルの2番目の夫になったチャールズ・ラーキーである。ちなみにドラマーは、のちにデレク&ザ・ドミノスに加わったジム・ゴードンであった。

 彼女は1968年に最初の夫のジェリー・ゴフィンとは離婚したので、離婚した後まもなくチャールズと結婚したようである。それでニューヨークから西海岸に引っ越して、そこでダニーとバンドをつくり、アルバムを制作・発表したのがこのアルバムだったのだが、商業的には散々な出来だったようである。

 キャロル・キングといえば60年代は飛ぶ鳥を落とすくらいのソングライターだった。レノン&マッカートニーと対抗できるのは、ゴフィン&キングしかないとまでいわれていた。
 実際、彼女と当時の夫のジェリー・ゴフィンとで作ったヒット曲は1960年の"Will You Love Me Tomorrow"から1968年のバーズの"I Wasn't Born To Follow"まで数多くあり、そのほとんどがヒットしている。いまだに"The Locomotion"なんか某携帯電話会社のCMに使われているくらいである。それくらいゴフィン&キングは黄金のソングライター・チームだったのだ。

 しかしやはり私生活も仕事も一緒というのは、ストレスもたまりやすかったのだろう。2人は私生活では離婚という結果を迎えてしまった。ただその後も時々仕事上の付き合いはあったようである。この辺は日本人にはなかなかマネのできないところである。情がどうしても入るのだが、アメリカ人はこの辺は割り切り方が上手である。国民性の違いだろうか。

 そんなことはどうでもいいのだが、この「夢語り」というアルバム、久しぶりに聞いてみたのだが、結構いけるのである。何しろ曲がいい。ゴフィン&キングの曲だけでも12曲中6曲も収められているし、その中のいくつかは他のバンドやミュージシャンもカバーしている。

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アーティスト:シティ
販売元:SMJ(SME)(M)
発売日:2009/01/21
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 例えば、1曲目の"Snow Queen"はロジャー・ニコルズが取り上げているし、"I Wasn't Born To Follow"はザ・バーズが、"Man Without A Dream"はザ・モンキーズが、そして"That Old Sweet Roll(HI-DE-HO)"は意外なことにB,S&Tがカバーしている。

 "I Wasn't Born To Follow"は彼女の力強いボーカルが聞ける佳曲だし、"Man Without A Dream"は、たぶんダニーが歌っているであろうメイン・ボーカルとキャロルのバック・ボーカルが美しいスローなバラードである。メロディは綺麗だし、かなりいい曲だと思うのだがどうだろうか。
 また"That Old Sweet(HI-DE-HO)"は、ジプシー・バイオリンが途中から入ってきて、ポップなカントリーといった感じである。B,S&Tがどんなアレンジ演奏したのか知らないが、原曲はなかなか渋い曲になっている。

 これら以外にもアルバム・タイトル曲"Now That Everything's Been Said"はりズミックで軽快な曲。これもシングル・ヒットしてもおかしくない曲だと思う。少なくともその後の彼女のアルバム「タペストリー」に入っていても遜色ない出来映えである。終わりの転調が鮮やかでエンディングになるのだが、もう少し聞いておきたくなる曲でもある。

 "Paradise Alley"と"Victim of Circumstance"はD.Palmerと共作した曲で、このD.Palmerという人は、まさかと思うがジェスロ・タルのデヴィッド・パーマーとは違う人だと思う。でも最初の曲はスローで、2番目の曲はアップ・テンポの曲になっていて、バラエティに富んだ共作曲になっている。いずれももう少し聞きたいなあと思っているとフェイド・アウトしてしまう。その辺が残念であった。

 また"Why Are You Leaving"という曲もいい味を出しているし、この曲やアルバム・タイトル曲を一緒につくったT.Sternという人はひょっとしたら第2のゴフィンになれたかもしれない。

 思うにもう2,3年後にこのアルバムが発表されたなら、また違う評価が与えられたかもしれない。60年代の終わりにはちょっとインパクトにかけたのではないだろうか。70年代初頭ではきっと売れたと思うのである。

 それでこの3人で作ったアルバムは、これが最初で最後になった。その後、キャロル・キングはソロでも有名になって行ったし、ダニーとチャールズはジョー・ママという違うバンドを結成してアルバムを発表することになる。

 そう考えれば、このアルバムは彼らにとっては成功への布石の一歩になる習作だったのかもしれない。隠れた佳作というのはこういうものを指しているのだろう。

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2010年2月19日 (金)

フィービー・スノウ

 うちの家は築後15年以上たっていて、寒さが厳しくなると家がきしむせいか、戸が開きにくくなる。特に2階はきしみ具合が激しいのか、かなり力を入れないと開かないし、閉めるのも大変なのである。

 しかし夏場はまったくそんな事はなく、スムーズに開閉するのである。やはり木造建築は気温の変化でそれ自体が膨張や縮小をするのだろうか。鉄道の線路が伸び縮みすると聞いたことはあるが、木造物もそういう変化をするとは聞いたことがない。
 ひょっとしたら家自体が傾いてきているのかもしれない。自分の人生と比例しているかのようである。

 それで“冬”で思い出したのが、アメリカのミュージシャン、フィービー・スノウであった。何しろ名前からして“スノウ”なのである。さぞかし冷たい音楽をやるのだろうと思っていたら、やはり名前の通りで、ひんやりとしたジャズっぽい音楽だった。

 自分はこのフィービー・スノウとローラ・ニーロを時々混同するようで、両者の音楽の区別ができないときがあった。
 ごく大雑把に分けると、フィービーの方がジャズ寄りで落ち着いた音楽、ローラの方が躍動的でポップ寄りといえるかもしれない。

 しかし両者ともそのバックグラウンドはニューヨークであり、都会に生きる人たちの喜怒哀楽を描いているといえるだろう。

 彼女は1952年にニューヨークに生まれている。若い頃から音楽に関心があり、高校卒業後はマーチンのフォーク・ギターを抱えては若い頃のボブ・ディランのようにグリニッジ・ヴィレッジ周辺のクラブに出没しては歌を歌っていたという。

 1972年にシェルター・レコードと契約しプロ・デビューしたのだが、1stアルバムを発表したのは1974年だった。この間の2年間は何をしていたのだろう。レッスンを積んでいたのだろうか。

 彼女の1stアルバム「フィービー・スノウ」のジャケット裏にはチャーリーという人の写真が掲載されているが、この人はフィービーが参加したいといっていたバンドのリーダーだった。
 彼はチャーリー・ハーポという名前で、彼女に自分のバンドに参加するよりもソロで歌うように薦めた人だった。彼の慧眼通り、確かに彼女はソロで成功するのだが、デビューした年にチャーリーは薬物中毒で亡くなったてしまっている。

 その彼に感謝と哀悼の気持ちを込めてこの1stアルバムを制作したのであろう。ひょっとしたらこの2年間の空白は彼女の気持ちを空白を埋める意味もあったのかもしれない。
 ちなみにアルバムの2曲目には"Harpo's Blues"という彼に捧げる曲が収められている。

Phoebe Snow Music Phoebe Snow

アーティスト:Phoebe Snow
販売元:The Right Stuff
発売日:1995/11/21
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 彼女の音楽を聞くと、ジョニ・ミッチェルやカナダのシンガー・ソングライター、ブルース・コバーンを思い出させてくれる。フィービーはギターもかなりの腕利きなのである。この1stアルバムでもアコースティック・ギターはほとんど彼女が演奏していて、渋いプレイを聞かせてくれる。何しろクレジットにリード・アコースティック・ギター&ボーカル:フィービー・スノウとあるくらいだ。
 だから自分は彼女のことを“女ブルース・コバーン”と呼んでいる。ブルース・コバーンも達者なギタリストだからだ。

 自分は彼女のアルバムはこの1stアルバム1枚しか持っていない。しかも輸入盤で詳しい解説もついていない。だから先入観なく直接音に接することができた。
 1曲目の"Good Times"はサム・クックの曲なのだが、完全に彼女のオリジナル曲のように編曲されていて、ソウル・ミュージックではなく、テンポの遅いルーズなブルーズに変身している。

 2曲目はピアノとサックスが絶妙に絡み合うジャージーな曲で、3曲目はビルボードのシングル・ヒット・チャートで5位まで上昇した彼女の一番のヒット曲である。まるでジョニ・ミッチェルのようだ。しかも若い頃ではなく、“逃避行”の頃のジョニ・ミッチェルなのだ。デビュー時にこういう音楽だったのだから、やはりこのアルバムを聞いた当時の人たちはおどろいたことだろう。あるいは比較の対象もなく、ただ戸惑うばかりだったのかもしれない。

 "Either or Both"でアコースティック・ギターとドブロ・ギターを演奏しているのは、名うてのミュージシャンのデヴィッド・ブロムバーグである。この曲はデヴィッドの演奏だけをバックに歌っているし、次の曲"San Francisco Bay Blues"ではアコースティック・ベースと彼女の歌だけで構成されている。彼女の歌を聞かせようとする工夫なのだろうか。まさに心に染み渡る曲群なのである。

 今回、彼女のアルバムを聞き返してみて、あらためて彼女のボーカルのうまさと曲の良さを再確認することができた。1974年に発表されたアルバムなのだが、2010年の今に聞いても決して不自然でない普遍的な魅力を備えている。

 まさに冬の寒さに厳しいいまどきでもこのアルバムを聞けば、逆に冬の持つ静謐さや力強さ、厳しさ、鋭さなどを味わうことができる。不思議な味わいを持ったアルバムでもあるのだ。

 なお最後の曲"No Show Tonight"ではデイヴ・メイソンがリード・ギターを演奏している。彼女とデイヴ・メイソンとでは不思議な組み合わせのような気がするが、エフェクターもほとんど使用していなくて、シンプルなリードに徹している。これもまた彼女のボーカルを際立たせようとする試みなのだろう。

 このアルバムを聞きながら、春の到来を待つことにしよう。やがて来る春の暖かさを想像しながら、それまでフィービーの楽曲で暖めてもらうことにしよう。ひょっとしたら家の戸のきしみも矯正できるかもしれない。
 そんなことを思いながら、今夜も彼女のアルバムを聞いている。

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2010年2月15日 (月)

ニルソン

 ランディ・ニューマンと仲のよかったミュージシャンにニューヨーク出身のハリー・ニルソンがいた。どれくらい仲がよかったのかというと、ニルソンはランディ・ニューマンの曲だけでアルバムを丸々1枚作るくらい仲がよかったのである。

 なぜそういうことをしたのかよくわからないのだが、おそらくニルソンがランディ・ニューマンの曲を気に入って歌ったのだろう。ニルソン自身も作曲能力は高いのだが、自作曲よりもランディ・ニューマンの曲の方を優先したということだろうか。

ランディ・ニューマンを歌う Music ランディ・ニューマンを歌う

アーティスト:ニルソン
販売元:BMG JAPAN
発売日:2002/07/24
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 ニルソンは1941年にニューヨークに生まれたのだが、両親が離婚してニルソンはネルソンという名前に変わり、高校生の頃LAに引っ越してそこで生活するようになった。
 高校時代は186cmの身長を生かして野球やバスケットボールで活躍したそうだが、卒業後はいくつかの職業を転々とした後、銀行員として勤めるようになった。

 銀行員として一時は32人の部下を持っていたというから、仕事に関しても有能だったことがわかる。しかし音楽の道を断ちがたかったニルソンは夜は銀行家として(夜勤が中心だったらしい)、昼はデモ・テープ作りや作った曲を売り込んだりしていたといわれている。それで銀行員としてはネルソンと名乗り、ミュージシャンとしてはニルソンとして活動を続けていた。似たような名前で混乱しなかったのだろうか。気になるところである。

 そして結局、運良くあの有名なプロデューサー、フィル・スペクターに認められ、ニルソンの曲はロネッツに歌われたりした。
 ニルソン自身も歌手としてプロ・デビューし、シングルを発表したのだが、最初は歌手としては実績を残せなかったようである。

 しかしソングライターとしての実績は着実に認められていった。モンキーズが彼の曲"Cudly Toy"を、ヤードバーズが"Ten Little Indians"、BS&Tが"Without Her"をカバーしたからである。そしてRCAと契約が成立し、晴れてミュージシャンとして一人立ちができたのだ。

 そういうことで、昔、日本では“アメリカの小椋桂”といわれていたらしい。確かに銀行員だったという事では似ているが、小椋桂は酒や薬に溺れることはなかった。

 1967年に「パンデモニアム・シャドウ・ショー」を発表したが、このアルバムを聞いたジョン・レノンが突然、真夜中に面識もないニルソンに電話をかけてきて、“このアルバムが素晴らしいということを伝えたかった。僕はジョンだ。君は素晴らしい。”というようなことをいったという。これはもう伝説になっている話らしい。そしてポール・マッカートニーに代わってビートルズに参加するのではないかという噂も流れたという。

 ここから急に彼の運は開けて行き、翌年発表された「空中バレー」から"One"がスリー・ドッグ・ナイトによってカバーされて全米5位になり、"Everybody's Talkin'"(うわさの男)は映画「真夜中のカウボーイ」の主題歌になりこれも全米6位という大ヒットを記録した。
 このヒットのおかげでニルソンは最優秀コンテンポラリー・ボーカル・パフォーマンス男性部門でグラミー賞を獲得している。

空中バレー Music 空中バレー

アーティスト:ニルソン
販売元:BMG JAPAN Inc.(BMG)(M)
発売日:2008/10/22
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 ニルソンはシンガー・ソングライターを自認していたと思うのだが、世の中はシンガー・ソングライターとしてよりもシンガーとしてのニルソンを認めたような格好になったと自分は思っている。
 もっとシンガー・ソングライターとして認めてほしいと思ったに違いないのだが、ヒットしたのは他人の曲を自分が歌った場合か、他人が自分の曲を借用した場合だった。

 だからニルソンはランディ・ニューマンの楽曲だけを用いたアルバムを作ったのではないかと思っている。それはソングライターというよりはシンガーとしての自分を確認する作業だったのではないだろうか。

 特に1971年に発表された「ニルソン・シュミルソン」に収められていた名曲"Without You"が駄目押しだったと思っている。この曲が全米No.1になったおかげで、ニルソンは歌の上手な(実際上手なのだが)シンガーというイメージが定着してしまった。

ニルソン・シュミルソン Music ニルソン・シュミルソン

アーティスト:ニルソン
販売元:BMG JAPAN
発売日:2002/07/24
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 自分が持っているのは彼のベスト盤1枚しかない。しかもデビューから1973年までの前期~中期の頃までで、それ以降の彼の曲は収められていない。
 しかし確かにこのベスト盤を聞いてもわかるように、本当に彼は上手なシンガーだと思うのである。"Everybody's Talkin'"や"Without You"は無論のこと、ランディ・ニューマンの"Caroline"は珠玉のバラードであり、"Coconut"は低音から高音まで声を使い分けている多重録音が素晴らしい。

 また"Jump into the Fire"はシャウトするニルソンを聞くことができるし、"Spaceman"ではストリングスをバックに壮大なボーカルを披露している。まさに変幻自在の声の持ち主である。

 これ以降のニルソンはジョン・レノンやリンゴ・スターなどと酒や薬に溺れてしまい、せっかくの美声が失われていったという。アルバムも1980年までは発表したが、それ以降はしばらく目立った活動はしなかった。
 これは1980年にジョン・レノンが亡くなったからであり、音楽活動に専念する余裕はなかったらしい。また銃規制運動にも参加していたといわれている。

 1985年にニルソンは映画制作会社を設立し、テレビや映画用に作曲したり、他の映画を買い取って配給したりしていたのだが、1990年に会社が倒産し、ニルソンは莫大な借金を背負う事になった。でもこれは彼のせいではなく、共同経営者の裏切りによるものだったといわれている。

 彼のラスト・ステージは、1992年9月1日ラスヴェガスでのリンゴ・スター&ヒズ・オール・スター・バンドで"Without You"をトッド・ラングレンとともに歌ったときだった。めったに人前で歌わないニルソンが歌ったものだから、聴衆は驚きとともに彼を迎えたという。

 翌年に彼は心臓発作を起し、健康状態は急に悪くなっていった。そして94年1月に心不全で亡くなっている。享年52歳、まだまだ働き盛りだった。たぶんジョン・レノンたちと過ごした“失われた週末”が彼の体を蝕んだに違いない。

 ひょっとしたらニルソンは酒や薬でシンガー・ソングライターではなく、単なるシンガーになってしまった自分を慰めようとしたせいではないだろうか。ある意味自暴自棄になって自分を見失ってしまっていたのではないかと思うのである。これは当時のジョン・レノンも似たような状況だったのではないだろうか。

 今はジョンもニルソンも天国でともに音楽を楽しんでいるに違いない。もう“失われた週末”とは言っていないだろう。失われるものは何もないのだから。

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2010年2月11日 (木)

ホール&オーツ

 最近、某国営ハイビジョン放送でダリル・ホール&ジョン・オーツのライヴを鑑賞した。この2人やはり結構年をとっていた。特にダリル・ホールの方は、もともとハンサムだったのだが、今年で62歳になるということで、やはりそれなりの老け方をしていた。

 一方のジョン・オーツは、あまり照明に当たらないように考えて位置していたのだろうか、パッと見た限りではよくわからなかった。この人も今年で61歳になる。時の経つのは早いものだ。

 このダリル・ホール&ジョン・オーツだが、70年代の後半から80年代の半ばまでは、本当に飛ぶ鳥を落とすほどの勢いで、出す曲出す曲、ヒットしまくっていた。

 自分が最初に聞いた曲は、たぶん"She's Gone"だったように思う。何となくうっすらとそういう記憶がある。1976年頃である。
 しかし一番印象に残っているのは、やはり"Rich Girl"だろう。この曲は1977年3月から4月にかけて全米No.1を記録しているからだ。自分はこの曲を聞きながら、何といい曲だろうと思っていた。幾度となく心が癒された思い出がある。

 もちろん全米だけでなく、日本でも頻繁にラジオから流れていた。そしてこの頃から雑誌などに取り上げられるようになり、クローズ・アップされ始めた。

 ここでまた某音楽雑誌「ML」が登場するのだが、この雑誌にも写真が掲載されるようになった。もちろんどちらかというとダリル・ホールの方が扱いが大きかったように思うのだが、ジョン・オーツの方もそれなりの扱いだったと思う。

 この2人、写真で見てもわかるように、背が高くて金髪碧眼、ドイツ系アメリカ人なのがダリル・ホールで、背が低くて口ひげ伸ばした中南米マッチョ系なのがジョン・オーツ、実際はイギリスとスペイン、モロッコの血筋を引いているらしい。
 当然のことながら、日本ではどちらがもてたかはいうまでもないだろう。Photo_3

 自分はそんな外見のことはどうでもいいと思っていたので、関係なかったのだが、そういうビジュアルのイメージが自分の中では強かったせいか、音楽面では単なるポップ・デュオだと思っていた。でも実際は、ブルー・アイド・ソウルだったのである。

 口ではプロフェッサー・ケイなどと偉そうな名前を言いながら、彼らの音楽面での本質を見抜けなかったのは本当に情けないと思っている。お恥ずかしい限りである。穴があったら入りたいくらいだ。

 今でこそ確かにソウルフルな音楽だとわかるのだが、当時の子どもの耳にはそれがわからなかったし、彼らのオリジナル・アルバムを聞き通したこともなく、シングル中心でしか知らなかったので、彼らの本質まで届かなかったのだろうと思っている。弁解にしかならないがそういう環境だったのだ。

 確かにストリングスの使い方やバック・コーラスの入り方などは"Sara Smile"、"She's Gone"の頃からソウル・ミュージックにかなり影響を受けているということがわかるし、大ヒットした"Rich Girl"や"Private Eyes"にもそれらが感じられる。

 また80年代の始めだったか、某国営放送で彼らのライブが放映されたのだが、そのときは彼らの歌声よりもバック・ミュージシャンの方が気になってしょうがなかった。

 ベーシストは、あのトニー・レビンだったと思うし、ギタリストは当時有名なスタジオ・ミュージシャンのG.E.スミスだった。彼らの歌声よりも彼のギター・ソロの方が強く印象に残っている。それほど目立っていたということだし、まるでクラプトンのように激しく陶酔していたような記憶がある。まさに弾きまくっていたギタリストという感じだった。

 結局、彼らのアルバムはベスト盤1枚しか持っていないのだが、聞けば聞くほど味わい深くなるし、当時の思い出というか出来事が頭に浮かんでくる。

2 Daryl Hall & John Oates / Rock'N Soul Part 1 (w/Bonus Tracks) (輸入盤CD)
販売元:CD-DVD グッドバイブレーションズ
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 このベスト盤のオリジナル・タイトルは「Rock'n Soul Part1」というのだが、このタイトル通りにロックとソウルのテイストが絶妙にブレンドされていて芳醇なワインのようなのだ。

 彼らの功績はソウル・ミュージックの良質な部分を、時代の音に絡ませながら提供してくれたことだと思う。
 特に1981年の"Kiss on My List"から1984年の"Adult Education"までは、当時の最新の録音機材やシンセやリズム楽器などの楽器類を使用しての成果だと思っている。

 80年代後半からはヒット曲は少なくなっていったが、21世紀の今でもライヴ活動を継続しているようで、安心した。彼らにはまだまだ頑張ってもらいたい。なぜなら、さらなるブルー・アイド・ソウルを極めてもらいたいと思っているからである。

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2010年2月 7日 (日)

ランディ・ニューマン

 自分がランディ・ニューマンのことを知ったのは、もう大人になってからだった。彼の曲"The Blues"がラジオから流れていて、その曲を気に入った自分は初めて彼のレコードを買ったのだった。1983年ごろの話である。

Trouble in Paradise Music Trouble in Paradise

アーティスト:Randy Newman
販売元:Reprise
発売日:1987/08/10
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 その曲には途中でゲスト・ボーカルが入ってきて歌うのであるが、それはポール・サイモンだった。自分は彼のことが大好きだったし、曲自体もよかったので気に入って購入したのだった。

「彼は君に年とった母親のことをいうつもりだ
マサチューセッツのスプリングフィールドでの
工場で丸焼けになった母親のことを
彼は君に弟のことを話そうとしている
街の通りで体を売っている弟のことを
1ドルで尻を貸すんだぜ
彼は君に叔父のネディについて話す
オレゴン州で刑務所にぶち込まれている叔父だ
彼は君に大親友のエディについて話す
バーで海兵隊と水兵と喧嘩をして殺された奴だ

彼にはブルーズがある
こいつにはブルーズがあるんだ
彼の音楽を聞けばそれが聞こえる
彼にはブルーズがある
こいつにはブルーズがあるんだ
彼の音楽を聞けばそれが聞こえるはずだ」
(from"The Blues"訳プロフェッサー・ケイ)

 なかなかシリアスな話だが、アメリカでは(日本でも?)起こりえる話である。またアルバムの1曲目はこういう曲である。

「ニューヨークは嫌いだ
寒いし湿気もある
さらにみんな猿のように
着飾っている
シカゴを後にして
エスキモーの街に行こう
街はちょっと洗練されてないけど
お前と俺のためだよ、悪い女め

インペリアル・ハイウェイを下って
助手席に赤毛のあばずれ女を伴い
サンタ・アナの風は
北から温かい風を吹かせ
そして俺たちは風に乗るために
生まれてきたんだ
(中略)
俺はLAが大好きだ
俺はLAが大好きだ」
(from "I Love L.A.")

 この曲もなかなかのもので、俺は東京が大嫌いだ、冷たい街よりも温かい大阪に行くぜと歌っているようなものである。いくら曲とはいえ、これじゃニューヨークではライヴできないなあと余計な事を考えさせる曲でもある。

 このアルバムを聞いてランディ・ニューマンは、かなり辛らつなことを平気で歌にするシンガー・ソングライターだということがわかった。辛らつというよりは現実の出来事を歌にしていくという感じである。

 しかもこのアルバムの曲は、メロディがわかりやすくて、聞きやすい。特に"I Love L.A."、"The Blues"や"My Life is Good"、"Miami"のようなミディアム・テンポの曲は印象的だと思う。つらい現実をわかりやすいメロディにのせて歌うところがこのアルバムの良さだと思うのである。

 他にも"Same Girl"、"Real Emotional Girl"はスローなバラード、"Mikey's"は当時世界的に流行したテクノの影響を受けたような曲、"There's a Party at My House"はロックン・ロールで、"Take me Back"はカリプソ風味の曲だし、彼の幅広く豊かな音楽性を表しているアルバムだと思う。

 またゲスト陣も超豪華で、ギターはスティーヴ・ルカサー、ワディ・ワクテル、ベースはネーザン・イースト、ピアノ・キーボードはデヴィッド・ペイチ、ニール・ラーセン、ドラムスはジェフ・ポーカロ、バック・ボーカルにリンダ・ロンシュタット、ドン・ヘンリー、ボブ・シーガー、リッキー・リー・ジョーンズ、リンジー・バッキンガム、クリスティーン・マクヴィー、ポール・サイモン、ウェンディ・ウォルドマン、ジェニファー・ウォーンズなどで、確かに西海岸のミュージシャン総出演という観がある。

 もともとランディ・ニューマンには親戚に“王様と私”や“南太平洋”、“紳士は金髪がお好き”などを担当した有名な映画音楽家がいて、その影響からか彼自身もカリフォルニア大学で音楽を専攻した。
 また友だちのレニー・ワロンカーがレコード会社に就職するとランディの曲をミュージシャンに紹介するなどの協力を行い、その結果ランディ自身も1968年にアルバム・デビューできたのである。

 しかし時代は彼を理解できなかったらしい。このアルバムはさっぱり売れなかったのだが、スリー・ドッグ・ナイトが"Mama Told Me"をカバーしてこの曲がNo.1になったおかげで、彼の名前も全国区になった。

 70年代のランディはアルバムを6枚発表したのだが、その中で彼の最高傑作と呼び名が高いのが1972年に発表された「セイル・アウェイ」である。

セイル・アウェイ+5 Music セイル・アウェイ+5

アーティスト:ランディ・ニューマン
販売元:Warner Music Japan =music=
発売日:2008/05/28
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 全体的にはピアノ中心の比較的静かな音作りで、過剰な装飾はあまり施されていない。その分、ランディのコアな部分が表に出ているようである。1曲目の"Sail Away"はアフリカから黒人をアメリカにつれてくる内容なのだが、彼は実に静かに淡々と歌っている。
 最後の曲"God's Song"は神の立場から人間の信仰心や現実の世界を描いているのだが、現実が悲惨であればあるほど神は人間を愛するという皮肉さを描いている。

 自分は躍動感がないので、あまりこのアルバムは好きではないのだが、それでも彼の本質が表現されている好アルバムだと思う。ちなみに矢野顕子はこの中の曲"Simon Smith and the Amazing Dancing Bear"(サイモン・スミスと踊る熊)を1984年にカバーしているらしい。

 80年代以降になると、ランディはアルバム作りよりは映画音楽制作に携わるようになった。「サボテン・ブラザーズ」、「レナードの朝」などが有名だが、最近では特にアニメ関係の音楽制作が多いようで、“トイ・ストーリー”、“バグズ・ライフ”、“モンスターズ・インク”、“カーズ”などを手がけている。
 特に2002年には「モンスターズ・インク」のサウンドトラックでアカデミー歌曲賞を受賞している。

 たぶんこれからもオリジナル・アルバムよりは映画のサウンドトラックを優先させるのだろうが、自分にとってはできれば冷徹な眼でアメリカ批評を行ってほしいミュージシャンなのだ。

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2010年2月 3日 (水)

ジミー・ウェッブ

 前回、ザ・フィフス・ディメンションに楽曲を提供して有名になったミュージシャンにローラ・ニーロとジミー・ウェッブがいると書いた。
 ローラ・ニーロについては以前に取り上げたので、今回はもう一人の人物、ジミー・ウェッブについて記してみたい。

 彼は、1946年にオクラホマ州で生まれた。父親はパブティスト教会の牧師で、母親の勧めもあって、彼に幼い頃から教会で伴奏をさせていたそうである。両親は彼を牧師にさせようと思っていたのだろう。

 またギターやアコーディオンなども両親から手ほどきを受けたらしい。ただし、当時の流行であるカントリー・ミュージックなどは制限を受けたらしい。それだけ宗教的に厳格な家庭に育ったのであろう。

 それでも世の時流からは逃れられず、1950年代の終わりから彼は作曲を始めるようになったのである。それはもちろんゴスペル・ミュージックの影響もあったのであろうが、エルヴィス・プレスリーからの影響もあったようである。
 彼が始めて購入したレコードは、14歳のときの"Turn around, Look at me"というタイトルのもので、歌っているのは若い頃のグレン・キャンベルだった。

 後にジミーが彼に曲を提供するようになるのだが、考えてみればこれも何かの因縁なのかもしれない。彼らはこのときから目に見えない何かでつながれていたのだろう。

 一家は父親の仕事のせいでカリフォルニアに引っ越すのだが、そこで母親が亡くなり、父親はオクラホマに帰ろうとする。しかしジミーは、カリフォルニアに残って音楽の道を歩む事を決意した。
 父親は別れ際に、ありったけのお金40ドルを彼に与えたという。彼は息子が音楽家として成功するとは思っていなかったらしい。

 ジミーは通っていた大学を退学し、曲を作っては出版社などに売り込む日々を送った。彼の最初のレコードになった曲は、ダイアナ・ロスのいたシュープリームスのクリスマス企画アルバムの中の曲"My Christmas Tree"だった。
 そうこうするうちにジミーは、アメリカのロックン・ローラーの元祖であるジョニー・リヴァースと出会い、ジミーの作った"By the Time I Get to Phoneix"(恋はフェニックス)を気に入ったジョニーは、それを自分のアルバムに入れたのだ。1966年頃のことである。

 またそれだけでなく、ジミーを自分自身のレーベルに所属していたザ・フィフス・ディメンションのソングライターに起用し、そこから"Up, up and Away"(ビートでジャンプ)などの大ヒットが生まれた。

 こうやって作曲家ジミー・ウェッブが生まれたのだが、彼は作曲だけでなく、作詞やアレンジ、プロデュースもできる器用なミュージシャンだった。
 特に60年代の後半から70年代に半ばにかけては、ザ・フィフス・ディメンションやグレン・キャンベル、アート・ガーファンクル、シュープリームスなどに曲を提供したり、アルバムのプロデュースをしている。

 前述の"By the Time I Get to Phoneix"は、1967年にグレン・キャンベルが歌って全米27位になり、翌年にこの曲が入ったアルバムがグラミー賞最優秀アルバム賞になった。
 また1968年のリチャード・ハリスという人が歌った"MacArthur Park"は全米2位になり、10年後にはドナ・サマーが歌って見事に全米1位になっている。

 また1973年に発表されたアート・ガーファンクルのアルバム「エンジェル・クレア」では、ジミーの曲が2曲取り上げられて、そのうちの1曲シングルカットされた"All I Know"(友に捧げる讃歌)は全米9位まで上昇した。アート・ガーファンクルはこれに気をよくして、77年のアルバム「ウォーターマーク」では1曲以外すべてをジミー・ウェッブに依頼している。

 しかし面白いことに、ジミーの曲は他人が歌うと売れるのだが、本人が歌うとさっぱり売れないのである。
 自分のデビューは1968年の「ジム・ウェッブの愛の世界」というアルバムだったのだが、これは名前が売れる前のデモ・テープに会社が本人に無断でアレンジを加えたもので、曲自体に魅力がなくさっぱり売れなかった。
 似たようなケースにはサイモン&ガーファンクルの"Sound of Silence"があったが、あれはアレンジPhotoを付け加えたせいで売れてしまい、S&Gは不服ながらも彼らの知名度は逆に上がったのである。

 確かにこのアルバムは何度聞いてもパッとしない。1曲目の"I Keep it Hid"はリンダ・ロンシュタットやグレン・キャンベルがカバーしているのだが、それ以外は聞くべきものがないと思う。実際、アルバムの解説にも“失敗があって、いい曲ができていく”などと正直に書かれていて、その正直さには感動するけれども、音楽自体には魅力はなかった。

 その後、70年代にソロ・アルバムを5枚発表するのだが、いずれも不発に終わっている。自分が持っているのは上記の「愛の世界」と1977年に発表された「エル・ミラージュ」の2枚だけなのだが、いずれも再発CDである。

 「エル・ミラージュ」については、ジョージ・マーティンがプロデュースをしていて、確かに聞きやすい音楽にはなっている。再発CDの帯には“彼の最高傑作”と書かれているのだが、確かに「愛の世界」よりは良いと思う。

エル・ミラージュ Music エル・ミラージュ

アーティスト:ジミー・ウェッブ
販売元:ワーナーミュージック・ジャパン
発売日:2006/10/25
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 特に1曲目の"Highway Man"は後にウィリー・ネルソンやジョニー・キャッシュらが歌って全米No.1ヒットを記録した曲で、このアルバムの中ではいい曲である。

 他にもシングルカットされた"If You See me Getting Smaller I'm Leaving"はメロディアスな曲で、なぜヒットしなかったのかわからないほど出来はよい。またリンダ・ロンシュタットやジョー・コッカーがカバーした"The Moon is a Harsh Mistress"(月はいじわる)も名曲である。
 またリンゴ・スターのために書いた(残念ながら彼は歌わなかったようだ)"Where the Universes are"は、ストリングスが効いていてスタンダードのような曲で、"P.F.Sloan"は"秘密諜報員"や"明日なき世界"を作曲したP.F.スローンのことを歌ったもの。彼の復活を願って作ったという。

 よく聞くと結構いい曲はあるのだが、アルバム全体としてはおとなし過ぎて印象度に欠けるのかもしれない。

 現在でも彼はライヴ・アルバムを発表するなど、精力的に活動をしている。ただやはり両親の影響か、信仰の道を歩んでおり、神から与えられた自分の役割を果たそうとしているのだという。
 彼自身のアルバムがおとなしい印象を与えるのも、ひょっとしたらそういう彼の姿勢がアルバムに影響や(自己)規制を与えているのかもしれない。でもジミーの功績はコール・ポーターやバート・バカラック並みであるのは間違いないと思うのである。

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