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2010年3月

2010年3月31日 (水)

ザ・バンド

 初めてザ・バンドを聞いたのは学生時代のときだった。暇だったので、ザ・バンドの「ラスト・ワルツ」を深夜の映画館に見に行った。何しろそれが彼らの解散コンサートで、しかもボブ・ディランやニール・ヤングを始め豪華なゲストも出演するということで、半分はゲストを期待して見に行った覚えがある。

 確かにゲストは豪華だったが、"The Weight"、"Up On Cripple Creek"など素晴らしく、まともに彼らの楽曲を聞いたのはその時が初めてだったので、感動してしまった。ひょっとしたら彼らも最後のコンサートという事で、気合いの入れ方もそれまでとは違っていたのかもしれない。

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 彼らは一般的にはカナダ出身の5人組といわれているが、正確にはドラム担当のレヴォン・ヘルムはアメリカ生まれなので、残りの4人がカナダ出身である。

 彼らはボブ・ディランのバック・バンドを務めながら、自らの音楽活動にも取り組んでいた。日本でいうと井上陽水のバックで演奏していた安全地帯のようなものだろう。
 しかし、あのボブ・ディランが自分のバック・バンドに指定したのだから、ザ・バンドにはそういう可能性というか潜在能力があったのだろう。
 
 実際に相互に影響しあった「ザ・ベイスメント・テイプ」というセッション活動を記録したものも発表されているし、ディランの「偉大なる復活」(1974年作品)でもバックで演奏し、アメリカ中をツアーした。やはり言葉で言い表せないような絶妙なケミストリーがあったのだろう。

 彼らは1968年に「ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク」でデビューした。彼らの評価が高いのはアメリカの音楽、カントリーやフォーク、ブルーズなどを彼ら流の解釈で再提示してみせたことだろう。エリック・クラプトンはこのアルバムを聞いて、それまでの音楽観が変わったとまでいったらしい。

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 このブログの“カナダ”の項でも述べたのだが、やはりカナダから見たアメリカの音楽という距離感や批評性が、アメリカ人には新鮮に映ったのだと思う。
 要するにアメリカの伝統的な音楽の理想型は、こういう音楽ではありませんか、ということを提示して見せたことであり、それはカナダ時代にロニー・ホーキンスというロックン・ローラーと各地を巡業したことや、ディランと一緒にセッション活動したことが生かされていると思う。

 自分は残念ながらこのアルバムを聞いて、確かにいい曲はあるものの、深い感銘を受けたとはいえなかった。ああそんなものかと思った程度であって、これはやはりその時代に生きてみないとわからない何かのせいだと思っている。

 むしろ彼らの2ndアルバム「ザ・バンド」を聞いて感動したことを覚えている。その後のアメリカのバンドやミュージシャンの音楽の萌芽がすべてこのアルバムに収められていると思った。ロックン・ロールもフォークもブルーズもカントリーもすべての源流はこのアルバムに収束するのではないかと思ったりもした。だからバンドというとこの2ndアルバムとベスト盤「軌跡」を思い出すのである。

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 「ラスト・ワルツ」の中でも聞かれる"The Night They Drove Old Dixie Down"や"Up On Cripple Creek"だけでなく、リチャード・マニュエルとロビー・ロバートソンが一緒に作った"When You Awake"や"Whispering Pines"などもいい。特に"Whispering Pines"は隠れた名曲だと思っている。

 またバンド流ロックン・ロールの"Jemima Surrender"や"Look Out Cleveland、"バンド流フォーク・ソング"Rockin' Chair"など聞き所満載のアルバムだと思っている。
 それに意外といっては失礼かもしれないのだが、最後の曲"King Harvest(Has Surely Come)"のロビー・ロバートソンのギター・プレイの上手さに感動してしまった。アメリカのローリング・ストーンズ誌が“史上最も過小評価されている25人のギタリスト”という特集を組んだときの20位にランクされていたが、もうちょっと上位に位置してもいいのではないかと思ったりもした。

 このアルバムは“アメリカを旅すること”を表している。それはそれぞれの曲のタイトルを見てもわかる。ロッキー山脈から東部まで、また北部のクリーブランドから南部のトウモロコシ畑まで、様々なアメリカの姿を見ることができる。アメリカを旅するバンド、ザ・バンドの真骨頂をあらわしたアルバムがこの2ndアルバムだったのではないだろうか。

 実は自分が購入した最初のアルバムはベスト盤「軌跡」だった。ベスト盤だから悪かろうはずもない。手っ取り早く彼らの魅力を知るには最適のアルバムだと思っているが、あくまでも表面的な魅力だと思っている。だから「ステージ・フライト」や「南十字星」も聞いてみたいと思っている。

 メンバー5人のうち、リチャード・マニュエルとリック・ダンコはすでにこの世にはいない。一時、ロビー・ロバートソン抜きでザ・バンドとして活動していたが、すでにもうそれも活動停止している。二度と彼らが活動を再開することはないだろう。

 カナダ人が中心となってアメリカの音楽を再構築し、その理想型を提示するというザ・バンドの役割は終わってしまった。あとはその意志を継いだ“バンド”がこれからのアメリカ音楽シーンを引き受けていくのだろう。ただザ・バンドを超えるものがでてくるかどうかは、神のみぞ知るというところだろう。

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2010年3月27日 (土)

エリック・カルメン

 ラズベリーズを解散させ、ソロになったエリック・カルメンは、アリスタと契約を結んで1975年の秋にデビューした。
 翌76年には"All By Myself"が全米チャート2位を記録し、続く"Never Gonna Fall in Love Again"も11位と健闘し、彼のメロディ・ラインは広く受け入れられることを証明して見せたのである。

 もともと2歳くらいからクラシックの教育を受けていたエリックだが、ソロ・デビュー後のこの2曲については、作曲家ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番Cマイナーや交響曲第2番からインスピレーションを受けて作ったものだという。
 自分にはクラシックの教養など全くないものだから、どの部分が影響を受けたところなのか、あるいは引用されたところなのかさっぱりわからないのだが、聞く人が聞けばわかるのであろう。

 また1977年には"She Did It"(愛をくれたあの娘)が23位、78年には"Change of Heart"が19位とコンスタントにヒット作を発表している。

 ただ問題は、シングルはコンスタントに売れるのだが、アルバム自体は売れなかったことだった。1stアルバムは結構評判はよかったのだが(全米21位)、77年の2ndアルバム「雄々しき翼」は45位、78年の「チェンジ・オブ・ハート」は137位だった。そして1980年の「トゥナイト・ユア・マイン」は何と160位という低迷振りだったのである。発表するたびにランキングは下がっていった。これではレコード会社も注文を挟むことはじゅうぶん予想されることであった。

 ところがエリックは自分のアルバムが売れないのは、会社のバックアップやプロモーションが不足しているからだと主張し、当然のことながら会社はそれを認めなかった。
 またエリックはラズベリーズ時代から自分の作品を管理していた会社が不当に著作権料を隠しているのではないかと考え、その管理会社を訴えることにした。ここから不毛の5年間が始まったのである。

 その間もエリックは腐らずに、映画「フットルース」に愛のテーマ"Almost Paradise"を提供し、映画も挿入歌も大ヒットした。そしてレコード会社をアリスタからゲフィンに移して、85年にアルバムを発表したのである。

 ところがこのアルバムもコケてしまった。シングル"I Wanna Hear it From Your Lips"は35位、その曲を含むアルバムは128位だった。80年代の音楽業界は70年代とは全く異なっているようで、売れるものはプッシュするが、売れないものは即お払い箱行きだった。特にアメリカではそういう傾向が強かった。

 ここでいったん彼は引退を決意するのだが、運命の女神は彼を見捨てなかったようである。80年代のアメリカ音楽業界は映画業界とタイアップして、映画に関連した曲を積極的にプッシュするという傾向があったが、この風潮が彼をもプッシュした。

 88年の映画「ダーティ・ダンシング」の挿入歌を歌うように頼まれたエリックは、しぶしぶながらそれを承諾した。彼はソングライティングには絶対の自信を持っていたのであろう。他人の作った曲を歌うのは彼のプライドが許さなかったに違いない。だから曲のプロデュースは自分に任せてくれと提案したのだろう。
 80年代に入ってからはオリジナルがほとんど不発だったエリックにとっては、せめてプロデュースだけでもさせてほしいという気持ちがあったに違いない。

 ところが映画のヒットともに、この歌"Hungry Eyes"はチャートの4位にまで上がった。そして気をよくしたエリックは"Make Me Lose Control"を他の人と共作した。これも"Hungry Eyes"のヒットの余波を受けて、第3位まで上っている。この年はエリックにとって当たり年だったに違いない。

 商業主義に冒されているアメリカの音楽業界は、ミュージシャンが売れているときは平身低頭で寄ってくるものだ。

 元のレコード会社であったアリスタが"Hungry Eyes"や"Make Me Lose Control"を含む彼のアリスタ時代のベスト盤を発売した。これが自分が持っている唯一の彼のベスト・アルバムである。

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 このあと彼は1988年の夏季オリンピックのコンピレーション・アルバムに"Reason to Try"という曲を提供したのだが、さすがに3匹目のドジョウはいなかったようである。

 そんな音楽業界に嫌気が差したのだろう。彼はスーザンというモデル出身の女性と2回目の結婚をし2人の子どもを設けた。そして家族を大事にしよう決意し、ロスからスーザンの出身のオハイオ州へと転居して、2000年のニュー・アルバム発表まで事実上引退していたのである。

 エリック・カルメンの素晴らしさは、あの70年代後半のディスコ・ミュージック全盛時代にその手の音楽を作らなかったことである。あのキッスやロッド・ステュワート、はたまたエルトン・ジョンまでもがそろってディスコ用の踊れる音楽を作っていたにもかかわらず、エリックほどの才能があれば、意図も簡単にそんな曲は出来たであろうに、そういう曲をヒットさせなかった。その点は立派だと思う。

 それはたぶんミュージシャン・シップとしての自意識の高さから来ていたのであろう。また2度もレーベル会社から見捨てられながらも、運命の女神が彼を助けたのも、彼自身の努力と才能の賜物だろう。

 そしてそれは、幼少からクラシックを学んできた彼のバックグラウンドのせいだといってもあながち的外れではないと思っているし、(周囲が認めるか認めないかは別として)芸術家としての生き様を見せようとしたのかもしれない。
 今年で61歳になるエリックだが、もう一度その勇姿を見せてほしいものである。

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2010年3月23日 (火)

ラズベリーズ

 昔ラジオで「オールジャパン・ポップ20」という番組があって、みのもんたも当時はDJをやっていて、“みのみのもんたみのもんた、パッ”というような合いの手を放送中に入れていた。

 そのランキングの中で、ロックやポップスなどの様々な音楽を知ったのだが、ランキング番組では全曲聞かせるのではなくて、曲の出だしやサビの部分をちょっとだけ聞かせて、注目曲や上位の曲の中の数曲に限って、ちょっと長く聞かせてくれた。でも最初から最後まで聞かせてくれることは、ほとんどなかったように思う。そんなことをすれば時間が足らなかっただろう。

 でもFM番組では、AMよりも長く時間をかけて聞かせてくれた。だから途中でFM派に乗り換えてよく聞くようになった。雑音もほとんどなかったし、某国営放送の番組では当然のことながら余計なCMもなかった。

 その「オールジャパン・ポップ20」の1973年1月第4週のランキングの19位にラズベリーズの"Go All the Way"が入っていた。ちなみに22位にはブレッドの"Sweet Surrender"だった。
 そして約1ヵ月後の2月の第3週では"Go All the Way"は8位に上昇していて、この番組では8位が最高位だったようだ。

 もともとこの曲はラズベリーズが1972年の5月に発表し、その年の10月に最高位5位を記録しており、彼らの曲の中では一番上位に位置した曲であった。当時の日米では約4ヶ月くらいの開きがあったようだ。

 自分はこの頃は、彼らの曲をよく聞いたものである。"Go All the Way"や"I Wanna Be With You"(明日を生きよう)、"Let's Pretend"、"Tonight"、"Ecstacy"(君に首ったけ)などは頻繁にラジオから流れていたような気がする。

 ただ彼らの活動時期は短かった。ある意味、凝縮してエッセンスを搾り出したかのようである。きっとそのエッセンスはラズベリー味だったんだろうなあと思っている。

 彼らはオハイオ州クリーブランドで結成され、デビューが1972年だった。そして2年後の1974年には解散してしまうのであるが、その間、10枚のシングルと4枚のアルバムを発表している。

 4人のメンバーのうち、中心人物はギター&ボーカルのエリック・カルメンで、彼は幼少の頃から音楽についての英才教育を受けていて、クリーブランドのオーケストラのバイオリニストからも直接指導を受けていたらしい。たぶん将来はクラシック畑で活躍すると本人も周囲も思っていたのだろうが、時代はロック黎明期、ご多分に漏れず彼もビートルズやストーンズの影響を受けて、高校時代にバンドを結成したのであった。

 だからラズベリーズの音楽=エリック・カルメンの曲なのである。そうなるとやはり自分のエゴが顔を覗かすのだろう。気に入らないことがあると人のせいにしたり、あるいは自分のやりたいことをやって、成功すれば自分の手柄、失敗は相手のせい、になっていくのだが、エリックの場合はどうだったのだろうか。

 後年、所属のレコード会社とトラブルを起したりしているから、案外そうかもしれない。とかく芸術家(あるいは芸術家気取り)というのは気難しいものである。

 彼らは立て続けにヒットを飛ばしていて、“フーのサウンドとジェイ&アメリカンズのボーカル・スタイルを融合させたつくり”とか“ビートルズの初期のワイルドさとビージーズの華やかな美しさを兼ね備えたグループ”などと評されていた。

 また1stアルバムでは野いちごの匂いのするステッカーが付けられていて、アルバムを出すたびにほのかに匂いが漂ったという。
 最近は、彼らのアルバムがCDで再発されたようだが、それには匂いはついていたのだろうか、ちょっと気になるところである。

 自分が持っているCDは「ラズベリーズ・ベスト~フィーチャリング・エリック・カルメン」という1976年に発表されたベスト盤である。ただベスト盤とはいってもたった10曲しか入っていない。しかもそのうち2曲はシングル・カットされていないのである。それでも彼らの代表曲はそろっているから、買って損はしないと思う。

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 もともと彼の声は野太く、声域も広くないので、ロックン・ロールのようなシャウトする曲には向かない。むしろ甘くて中音域がよく伸びるので、ミディアム・テンポやバラード系の曲の方が適していると思う。それは本人もよくわかっていたのであろう。ソロになってからは、方向転換していった。

 それにしても、このベスト盤は構成が見事である。特に最初の4曲は聞いただけで悶絶しそうな筋金入りの名曲が配置されている。この4曲だけでラズベリーズのすべてが分かるような気がする。そんな曲である。
 また曲間がほとんどなく、連続した曲に聞こえるため、いっきに聞かせてくれる。ライヴでこの4曲を演奏しただけで、聴衆は興奮して総立ちになるだろう。

 またクラシックの素養のあるエリックは、単純なポップ・ソングを書いて満足するようなことはなく、ストリングスを用いたり、AメロとBメロのつなぎに耳に残るフックを差し挟んだりといろいろな技を聞かせてくれるのである。まさに技巧的なミュージシャン、コンポーザーなのであった。

 ラズベリーズは、その後に続くチープ・トリックなどとともに、アメリカのポップ・ロックやパワー・ポップに多大な影響を与えていて、80年代のジェリーフィッシュやザ・ポウジーズ、90年代、2000年代のウィーザー、エヴリバディ・エルス、シュガーカルト、フォール・アウト・ボーイなど、枚挙に暇がないくらいである。

 2004年にナイトクラブの支店がクリーブランドにオープンした際に、ラズベリーズは31年ぶりにオリジナル・メンバーで再結成されて、コンサートを行った。これを契機にミニ・ツアーが企画されて、このときの模様はCD化やDVD化されているようだ。

Live on Sunset Strip Music Live on Sunset Strip

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 とにかく活動期間は短かったものの、影響力は後世まで強く残ったグループだった。トム・ペティやブルース・スプリングスティーン、キッスのポール・スタンレーやあのアクセル・ローズまでもが彼らに影響を受けたといっているのだから、これは決して尋常なことではない。
 できればここ日本でも動く彼らを見てみたいと思うし、直接見ることが難しいなら某国営放送に頑張ってもらって、TV放映権を獲得してもらって、何て夢みたいなことを思ったりするのであった。

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2010年3月19日 (金)

ブレッド

 勤務先が以前よりも遠くなったために、朝はパンを食べるようにしていたのだが、それでも遅くなってしまうので、最近はパンも食べずに家を出るようになった。

 はっきり言って、これは左遷である。お前には仕事をさせんといっているかのように、左遷されたのだ。通勤時間はかかるし、給料は以前より減ってしまった。また夏場のエアコンは午後4時過ぎからという信じられないほどの劣悪な環境なのである。本当にここは日本かという感じだ。
 
 聖書には、人はパンのみに生きるにあらずというようなことが書かれているが、パンどころかパンも食べないのだから、朝のスタートから気が重い毎日なのである。

 そんなことを考えていたら、アメリカに“パン”という名前のブループがいたことを思い出した。英語でいうと“ブレッド”である。
 彼らは1960年代後半から70年代半ばまで、アメリカ西海岸から全米だけでなく日本にも多くのファンがいた4人組のポップ・グループだった。

 中心人物はデヴィッド・ゲイツとジェイムズ・グリフィンというひとで、デヴィッドは1人で、ジェイムズは主に同バンドのロブ・ロイヤーと組んで作品を発表していた。

 もともとこのバンドは、ロブのバンドにジェイムズが曲を提供し、その曲をデヴィッドがプロデュースしたのをきっかけに生まれた。1968年ごろのお話である。

 彼らは翌年3人で、「灰色の朝」という1stアルバムを発表したが、これはさっぱり売れなかったらしい。曲の水準は高いのだが、やはりライブ活動やプロモーションが満足に出来なかったのだろう。
 その点を補強するために、マイケル・ボッツという腕利きドラマーを迎え入れて、さらに演奏活動や曲作りに取り組むことになった。

 それが見事に功を奏したのか、2ndアルバム「オン・ザ・ウォーターズ」からは"Make it With You"が全米1位になり、それがきっかけで1stアルバムに収められていた"It Don't Matter to Me"もシングル・カットされ、これも全米10位というヒットを記録し、いきなり彼らはトップ・ポップ・バンドとして認められるようになった。

 1971年には彼らの最高傑作といわれているアルバム「神の糧」が発表され、ここからも"Truckin'"、"If"、"Let Your Love Go"などの曲がヒットしている。

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 ところがキーボード担当だったロブが映画の脚本家を目指すという理由でバンドを脱退、代わりにバーズやS&Gのバックでピアノを弾いていたラリー・ネクテルが加入することでさらに大きく飛躍することとなった。“災い転じて福となす”とはまさにこのことである。

 ただこの辺からグループのイニシアチブはデヴィッドへと移っていき、彼が作った曲がフィーチャーされ、ヒットするという形になっていった。

 1972年には4枚目のアルバム「愛の別れ道」と5枚目のアルバム「ギター・マン」の2枚が発表され、「愛の別れ道」からは"Mother Freedom"、"Baby I'm-a Want You"、"Everything I Own"、"Diary"の4枚のシングルがヒットし、グラミー賞にノミネートされたし、「ギター・マン」からは"Guitar Man"、"Sweet Surrender"、"Aubrey"の3枚がヒットしている。この72年から73年あたりが彼らの全盛期だろうか。

 自分が初めて彼らの曲を聞いたのもこの時期であるが、これらの曲を知る前に1stアルバムに収められていた"Dismal Day"が頻繁にラジオでかかっていた。それで彼らの名前を知ったのだった。

 彼らの曲はまずメロディが綺麗だし、アレンジも曲にあったストリングスなどが美しく施されている。ギター・ソロも目立たずシンプルでさりげないが、これも見事に曲にマッチしている。
 またリード・ボーカル(たぶんデヴィッドの声だと思うのだが)の高音に張りがあり、ファルセットも上手である。まさにソフト・ロックの鑑であり、お手本となるような曲つくりだと思う。

 自分は"Dismal Day"で彼らを知り、"Diary"でファンになり、"Guitar Man"で慰められて、"Sweet Surrender"で曲の内容のように降参してしまった。日本では"Aubrey"を含むこれらの曲がヒットしたと思う。いずれもデヴィッド・ゲイツの手によるものであった。

 ここまではよかったのだが、続く"Fancy Dancer"になるとちょっとハードすぎて、ブレッドというバンドのイメージに合わないと感じた。だから1974年まで彼らの曲は聞いたのだが、それ以降は彼らの曲を聞かなくなったし、実際ラジオから流れる機会も減ったように思う。

 当時、日本とアメリカの間には時間差があって、アメリカで流行した曲がしばらく時間を置いて日本に紹介されるということがよくあった。
 このブレッドなんかもそのいい例かもしれない。実際には、日本で彼らの曲が流行っていた1973年~74年には彼らは解散(もしくは活動停止)をしていて、バンドとして機能していなかったのである。

 ところが1976年に突然バンド名のシングル曲"Lost Without Your Love"が発表され、彼らは再び表舞台に登場し、活動を開始したのである。ただ、この活動期間は約1年余りとそんなに長くは続かなかった。いろんな人間模様もあったのであろう。

 解散後は、メンバーそれぞれがスタジオ・ミュージシャンやソロ・キャリアの道を追求した。ただ残念なことながら、元ドラマーのマイケル・ボッツとオリジナル・メンバーだったジェイムズ・グリフィンは、癌で亡くなっている。もうあの黄金のハーモニーは聞くことができないのだ。

 彼らの魅力が詰め込まれた「アンソロジー・オブ・ブレッド」はお薦めである。この1枚あれば、彼らの代表曲をほぼ網羅していて、音楽性や魅力を的確に知ることが出来る。こういうのを本当の意味でのベスト・アルバムというのであろう。

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 とにかくこれからの季節にはピッタリのアルバムだと思っているし、自分にとっては昔のあの懐かしい時代に簡単に戻れるタイム・マシーンのようなアルバムなのである。

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2010年3月15日 (月)

ジョニ・ミッチェル

 ジョニ・ミッチェルの名前を初めて聞いたのは中学生の頃で、"Both Sides Now"(青春の光と影)がラジオから流れてきたあとで、DJが作曲はジョニ・ミッチェルだと教えてくれたからだ。

 でもそのときはそれで終わって、しばらく彼女の音楽を聞くことはなかった。ただアルバムが発表されるたびに、音楽雑誌に彼女の写真が掲載され、特集が組まれ、批評されるたびに、何と才能豊かな、と同時に恋多き女性かなと思っていた。

 大学生になって、「ラスト・ワルツ」という映画が自分の住む地方の場末の映画館にやってきた。土曜の深夜上映だったせいか、それとも知名度の低さのせいか、ガラガラの館内だったが、その映画の中で彼女が歌った"Coyote"に感動して、その曲が収められているアルバム「逃避行」を購入したのだった。

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 このアルバムは1976年に発表されたものだが、"Coyote"はそのアルバムの冒頭に配置されていて、この曲だけ何回も聞いた覚えがある。またテープに録音しては車の中でも聞いていた。
 そしてバックの演奏も素晴らしい。ギターにはラリー・カールトン、ベースはジャコ・パストリアスである。特にジャコのベースはまるでウッド・ベースを弾いているかのような温かみと緊張感のある独特の音色を響かせている。

 続く"Amelia"は、女性飛行士アメリア・イアハートのことを歌ったものであろうし、続く"Furry Sings the Blues"ではテネシー州メンフィスの地名が出てくる。このアルバムは“旅”がテーマになっているらしい。

 だいたいタイトルの“Hejira”からして“移住”、“亡命”という意味なのである。「逃避行」とはまさに言い得て妙という感じだ。

「私はある乗り物で旅をしている
私はとあるカフェでは座っている
ささいな争いから傷つけられて
憂鬱な気持ちの中には慰めがあり
余計な事を説明をする必要もない
今日のこの不機嫌な天気のように
自然なことなの」
(from "Hejira"訳プロフェッサー・ケイ)

 "Black Crow"はもちろん彼女自身のことを歌ったものであろう。"Coyote"と同じように躍動感がある曲だが、ギターが不協和音のような音を奏でて、何となく不安にさせる曲である。まさにタイトル通りの印象を持った曲だと思う。
 また最後の曲"Refuge of the Roads"は彼女にしては珍しくハッキリしたメロディ・ラインを持った曲。曲もいいのだが、しかしジャコのベースは何度聞いても素晴らしいと思う。

 そしてまた彼女の演奏するギターもシンプルなコード・ストローク中心ながら、独特の音色を持っている。彼女の弾くギターはオープン・コードであり、ジャーンと音を出しているように見えて、実際は複雑な音を出している。
 だから彼女はシンガー・ソングライターという称号だけではなくて、ギタリストとしても傑出した才能を持っているのである。デヴィッド・クロスビーやジェイムズ・テイラーなども彼女の演奏するギターに影響を受けたといわれている。それくらい実は凄い女性ギタリストなのである。

 このアルバムはジャケットも雪景色で、裏ジャケでは彼女がスケートをしている写真が使われている。まるで“黒いカラス”が滑っているようである。だからこのアルバムを聞くと、いつも冬の寒さや静謐さを感じさせてくれる。そしてその内側にはやがて来る春に備えての秘めたエネルギーを湛えているかのようだ。自分にとってはそういう力強さも感じさせてくれる名盤なのである。

 自分は彼女のアルバムは数枚持っているのだが、そのほとんどが初期の作品である。ただ「風のインディゴ」だけは、1994年の作品である。

 その中で1971年に発表された「ブルー」は、初期の彼女の最高傑作と称されるほどの名盤として知られている。

Blue Music Blue

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 だいたいこの時期のシンガー・ソングライターのプロデュースは華美なプロデュースを嫌い、シンプルな音使いの中で、出来るだけそのシンガーの持ち味が発揮されるように行われている。

 このアルバムもその例外ではなくて、シンプルなバッキングを中心に、彼女の伸びやかな声や華麗な曲構成が生きるようにアレンジされている。
 参加ミュージシャンも厳選?されていて、ギター&ベースにスティーヴン・スティルス、アコースティック・ギターはジェイムズ・テイラー、スティール・ギターにスニーキィ・ピート、ドラムスはラス・カンケルのたった4人だけである。

 彼女を入れて5人でこのアルバムを作ったのである。それにしてはシンプルながらも複雑で艶やかな表情を持ったアルバムだと思う。こういうのを音楽が持つ“魔法”というのかもしれない。それでいて商業性も獲得している。芸術性と商業性が見事に止揚されている点も彼女の才能のなせる業なのだろう。

 彼女の曲はいわゆるポップな曲とは一線を画していると思う。明確なメロディ・ラインや耳に残るフレーズというのも少ない。むしろ自由奔放に歌って、演奏しているような感じである。
 また過剰な装飾を排した音使いはクールであり、聞くものに余計な感情を抱かせることなく、すんなりと音楽に入っていけるのである。そのへんのたたずまいというか距離感が他のミュージシャンと大きく違う点ではないだろうか。

 それが初期のフォークという路線から、ジャズ路線へと変更していった最大の理由なのかもしれない。そしてその方向転換は見事に成功して、より一層彼女の才能というものを世に知らしめる結果につながったのだ。

 だから同類のミュージシャンは、彼女の中に“異能”という名の才能を認めるのだろう。ただ自分は逆に、彼女の才能が理解できない人種なのかもしれない。彼女の素晴らしさは理解できるのだが、好んで聞こうとはしないというか、できないのである。
 やはり自分にとっては難解であり、心が晴れる状態になれないせいだろう。ポップ・ミュージックとも違うし、ロックではない。むしろジャズであり、アートであり、あるいは真の意味でのプログレッシヴな女性ミュージシャンだと考えている。

 彼女は初期のフォークから70年代後半はジャズへと移行し、そして80年代半ばからまたロック、フォークへと回帰している。
 そして自分は、その音楽的才能の豊饒さや個展を開くほどの写真や絵画への愛情、恋多き女といわれたライフ・スタイルにしても、すべては彼女の内面からほとばしる表現への欲求だったと思っている。

 今年で67歳になる彼女だが、まだまだ彼女の表現への欲求は衰えていないはずである。まだまだ何かをやってくれそうな予感を与える女性、それがジョニ・ミッチェルであり、彼女こそアーティストという称号がふさわしいミュージシャンだと思うのである。

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2010年3月11日 (木)

トニー・オーランド&ドーン

 地球温暖化のせいか、年々春の訪れが早く感じるのであるが、気のせいだろうか。年をとると時間が経つのが早くなるといわれているが、ひょっとしたらそうなのかもしれない。

 今年は1月から気温が10度を超える日があったり、沖縄では夏日になったりと寒暖の差が激しいようである。この調子でいけば、今年の夏は熱波の連続かもしれない。

 とりあえず3月を迎えたので、いよいよ春である。それだけで、何となくこちらまで気分がウキウキとしてくる。
 それで3月にふさわしいポップな音楽と考えたのであるが、そういえばまだドーンについて書いていないことに気づいたので、簡単に記してみたいと思う。

 ドーンといっても、若い人は知らないだろう。1970年代にアメリカや日本で人気のあった3人組のボーカル・グループである。

 彼らの大ヒット曲といえば、"Knock Three Times"(ノックは3回)、"Tie a Yellow Ribbon Round the Ole Oak Treee"(幸せの黄色いリボン)などが有名である。いずれもビルボードのシングル・チャートで1位を獲得してる。特に"Tie a Yellow Ribbon Round the Ole Oak Tree"はアメリカ国内で600万枚以上の売り上げを記録したというから、確かに記録的なヒットになった。

 彼らは、最初は覆面グループとしてスタートした。というか“ドーン”という同じ名前を使っての別グループだと考えていいと思う。
 何しろ白人4人組でデビューをして、1971年ごろには急に6人組になっているからだ。そしてそのときにトニー・オーランドという人がボーカルで加わってきた。要するに“内山田洋&クール・ファイヴ”みたいなものである。

 このトニーという人は、1944年生まれで、1960年には既に歌手としてデビューしている。またキャロル・キングとほぼ同じ時期にソングライターとして、彼女と同じ音楽会社と契約をしている。
 だからトニーに関しては、すでにプロ経験が長かったのである。ただしそんなに売れているシンガーではなかった。

 だから生活のために音楽関係の仕事を続けながら、様々な職種を経験したらしい。また友だちが作った曲をレコード会社に売り込んで、売り上げの一部を受け取るというような仕事も行っていたようである。早い話が中間マージンを得ようとしていたのだ。

 それで"Candida"という曲をレコードにしようとしたときに、この歌を歌う人がまだ決まっていなかった。仕方なくトニーがデモ・テープに歌を吹き込み、バック・コーラスに黒人女性の2人、ジョイス・ビンセント・ウィルソンとテルマ・ホプキンスが急遽集められたのである。

 本当はデモ・テープだけの話だったのだが、出来上がりがあまりにもよかったので、そのままレコード化されてしまった。そのときのグループ名が“ドーン”だったのである。ある意味、適当に付けられた名前だったのかもしれない。というのもトニーはシンガーとしてカム・バックする意思はなかったからだ。

 しかし運命は皮肉なもの、この曲が全米3位というヒットを記録してしまい、ドーンというグループに注目が集まったのである。
 そして1971年に"Knock Three Times"が全米1位になって、彼らは、聴衆の前やマス・メディアの前に出て行かなければならなくなってしまった。

 1973年には"Tie a Yellow Ribbon Round the Ole Oak Tree"、"Say, Has Anybody Seen My Sweet Gypsy Rose?"(嘆きのジプシー・ローズ)がそれぞれ全米1位、3位になり彼らは黄金時代を迎えていく。

 "Tie a Yellow Ribbon Round the Ole Oak Tree"は実話をもとにした歌で、刑務所から出所した元受刑者が妻あてに手紙を書いた。今でも自分のことを想ってくれるのなら近所の樫の木に黄色いハンカチをぶら下げてくれ、と。元受刑者は怖くてその木を見ることができない。それでバスの運転手に木を見に行ってくれと頼み、運転手が見たものは何百本もの黄色いハンカチが木に結び付けられている光景だった…

 これは「幸福の黄色いハンカチ」として日本でも山田洋次監督作品、高倉健主演として知られているが、いかにもアメリカ的な健康的オプティミズムに満ちた話である。

 続く"Who's in the Strawberry Patch with Sally"(いちご畑のサリーちゃん)は27位を記録し、この頃から彼らはトニー・オーランド&ドーンと名乗るようになった。
 さらに"Steppin' Out, I'm Gonna Boogie Tonight"は7位、"Look in My Eyes Pretty Woman"は11位と、連続してヒットを飛ばしている。日本での人気もこの頃がピークだったのではないだろうか。

 その後、彼らは会社をエレクトラに移籍し、"He Don't Love You"(恋のシーソーゲーム)を再びNo.1に送り込むのだが、自分はこの歌についてはあまり記憶にない。1975年の頃だから自分の興味・関心は、すでに他の分野に移っていたのだと思う。

 彼らのこれらのヒット曲を手っ取り早く知りたいならば、やはりベスト盤がお薦めだろう。自分も1枚持っているが、この1枚あれば彼らについては何とかなるかなあと思っている。

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 彼らのヒット曲は、アーウィン・レヴィン&ローレンス・ブラウンなど、プロのソングライター・チームで作られていて、トニーはソングライターとして一時働いていたにもかかわらず自作自演のヒット曲は見られない。

 彼らが輝いていた時代は、アメリカのベトナム戦争も終結を迎え、東西の冷戦も緊張緩和に傾いていたときだった。そういう時代の風潮がこういうポップ・ミュージックを支えていたともいえるだろう。
 また上記の"Tie a Yellow Ribbon Round the Ole Oak Tree"のように、明るい未来志向も描かれるような気持ちのゆとりも、人々の間に生まれていた時代だった。だから彼らが歌っているようなハッピーな内容を伴った明るい音楽が好まれ、支持されていた。

 しかし旧ソ連のアフガニスタン侵攻により、再び冷戦状態になり、世界はいっきに緊張を迎え、エイズという特効薬もない病気が世界的に流行するという不安な世紀末になっていったのである。

 だからある意味、作られたポップ・スターというのは、そしてそれが幅広く支持されたという時代は、60年代から70年代が最後だったのではないだろうか。そしてその最後のポップ・スターだったのが、トニー・オーランド&ドーンだったのかもしれない。そんなことを考えながら、彼らの曲を聞いている。

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2010年3月 7日 (日)

ジャニス・イアン

 60年代から70年代始めまでの女性シンガー・ソングライターの代表はキャロル・キングで間違いないと思う。
 そして70年代に入ってからの女性シンガー・ソングライターはジャニス・イアンではないだろうか。特にここ日本では...

 キャロル・キングの全盛時については、リアル・タイムで聞いたわけではなかったので、彼女とともに育ったというわけではないが、ジャニス・イアンの場合は、ほぼ同時代で聞いてきたので愛着もひとしおである。

 特に"At Seventeen"はラジオからも流れていたし、よく耳にした覚えがある。この曲は1975年にアメリカのシングル・チャートでNo.1になり、この曲が含まれているアルバム「愛の回想録」はその年のグラミー賞最優秀女性ボーカル賞を獲得している。

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 全11曲のアルバムなのだが、"At Seventeen"以外にも佳曲が多い。彼女の場合は、アレンジが素晴らしく、たとえば"At Seventeen"では後半に室内管弦楽のような装飾が施され、続く"From Me to You"ではさりげないバイオリンが郷愁を誘うのである。

 だから単なるフォーク・シンガーの曲だと思ってはいけないのだ。ギター1本で切々と歌うことはあくまでも基本であって、それに実にシンプルでかつ効果的な味付けがなされている。この辺はニューヨークという街の影響なのかもしれない。

 さらに"Bright Lights and Promises"はジャズっぽいピアノの弾き語りにクラリネットの明るい音が加わって絶妙な味わいを醸し出しているし、"In the Winter"ではストリングスが加えられていて、途中から一転してメジャーな曲調になるところが聞かせどころである。この曲と"From Me to You"は、彼女のベストアルバムにも収められている。

 ジャニスは、1950年にニューヨークに生まれ、3歳からピアノを弾き、11歳でギターを始め、13歳で既に弾き語りをしながら音楽活動を行っていたという。運も才能も備えていたのであろう、16歳でレコード・デビューした。
 そして彼女の曲のタイトルではないが、17歳で早くも結婚した。相手は「愛の回想録」のジャケット写真を撮影しているプロ・カメラマンだった。そして音楽業界から姿を消したのである。

 しかしこの結婚は数年で終わりを迎え、彼女は再び歌い始めた。その頃、彼女が作った曲"Jesse"をロバータ・フラックが歌ってヒットさせ、再び彼女にスポットライトが当たってきたのである。

 当たり前のことだが、彼女は実に歌がうまい。そしてサウンド・プロダクションも最低限の飾りつけしか行わず、彼女の歌のうまさが引き立つそうなアレンジに留まっている。また、その辺のテクニックというか技術が実に自然で、いやらしくない。
 アルバム「愛の回想録」はロックとはまったく無縁の、別世界の音楽なのだが、実に清らかで、雪の降る夜に一人静かに聴くにふさわしいアルバムなのである。

 彼女の曲は日本のテレビ・ドラマや角川映画などに使われたらしいのだが、自分はそのへんの記憶はない。確かに日本では異様に人気があったということは覚えている。その理由は""Love is Blind"がヒットしたからである。それで自分はこの曲が収められているベスト・アルバムを購入した。ただし中古盤だったように記憶している。Photo

 確かにベスト盤だけあっていい曲が多い。彼女の魅力を知るにはこの1枚あればいいかもしれない。70年代に活躍した頃の楽曲で占められている。彼女が再び脚光を浴びる契機になった曲"Jesse"も含まれている。確かに"Love is Blind"、"Will You Dance?"などは何度聞いてもいい。
 

 彼女は1978年にポルトガル人の映画制作者と結婚するのだが、1983年に離婚した。夫のたび重なる暴力などが原因だったらしい。さらに病気にもなり、一時は音楽業界から引退同然のようになってしまった。
 その後、ナッシュビルに赴きパトリシアという女性と恋に落ち、同棲生活を始めた。2003年には彼女とカナダで結婚式を挙げている。また養女をもらい受け、今では孫もいるという。

 彼女は今でもコンスタントにアルバムを発表していて、まだまだ現役で活躍中である。彼女の作り出す曲やメロディ・ラインは、日本人の琴線を揺り動かすのであろう。あるいは日本人向けの音楽といっていいかもしれない。その証拠に、最近では中島みゆきの曲"ヘッドライト・テールライト"を自身で英訳して発表している。日本との結びつきは深いのであった。
 
 70年代の彼女は素晴らしかった。本当に聞かせるシンガー・ソングライターは彼女とほか数名くらいしかいなかった。今では歌姫とは呼べない年頃にはなったが、“17歳の頃”のような感性でまだまだ現役で活躍してほしいミュージシャンだと思っている。

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2010年3月 3日 (水)

つづれおり

 キャロル・キングの「つづれおり」(原題;タペストリー)を聞いたのは一体いつの頃だったろうか。はっきりと思い出せない。
 このアルバムは1971年に発表されているのだが、その頃はまだ小学生だったからリアル・タイムではこのアルバムを聞いてはいない。だからかなりあとになってからだと思うのだが、中学生の頃はハード・ロックやプログレッシヴ・ロックにハマッていて、こういうシンガー・ソングライター系の音楽は聞かなかった。せいぜいポール・サイモンぐらいであった。

Tapestry Music Tapestry

アーティスト:Carole King
販売元:Sony Japan
発売日:1998/12/31
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 以前のブログでも記したのだが、このアルバムはグラミー賞4部門受賞し、全米アルバムチャート15週連続1位を記録したあとも、302週連続してトップ100以内に留まるという驚異的な数字を残している。302週といえば単純に計算しても約6年以上もチャートインしていたことになる。

 ちなみにピンク・フロイドの「狂気」は、1973年に発売され、全米アルバムチャートではトップ200位以内に15年以上チャートインしていて、ギネス記録に認定されている。また一度ランク外に去った後も再びチャートに入り、記録更新中だという。これはこれで20世紀から21世紀へ続く伝説みたいなものである。

 ところで「つづりおり」だが、6年以上もチャートに入っていれば、中学生や高校生になってからラジオ番組のリクエストなどで流れていただろうし、"You've Got a Friend"などはジェイムズ・テイラーも歌っていたから、彼女の名前やアルバム・タイトルくらいは耳にしていただろうと思われる。

 しかしアルバム単体として、まるまる1枚を聞き通したというのは、たぶん大学生かひょっとしたら社会人になった頃ではないだろうか。そういう意味では遅聞きの「タペストリー」だったのである。

 とにかくこのアルバムは曲が良すぎる。どの曲もピアノ中心なのだが、彼女の張りのある声が引き立つようなアレンジが施されていて、深夜一人で聞いていると、思わず感傷に耽ってしまうのである。

 このアルバムからは4曲がシングル・カットされていて、"I Feel the Earth Move"、"So Far Away"、"It's Too Late"、"Smackwater Jack"がそれぞれ1位、14位、1位、14位を記録している。(いずれもポップ・シングル・チャート)
 またグラミー賞では"It's Too Late"が最優秀レコード賞を、"You've Got a Friend"が最優秀楽曲賞を受賞している。

 かように素晴らしい曲で満たされているアルバムなのだが、参加しているミュージシャンも豪華である。アコースティック・ギターがジェイムズ・テイラー、エレクトリック・ギターはダニー・クーチマー、ベースは当時の夫のチャールズ・ラーキーでこの辺は昔からの友だちだった。またドラムスにはラス・カンケルとジョエル・オブライエンが加わっている。

 1960年代後半からC,S&Nやバーズなどの影響でフォーキーな音楽が流行っていくのだが、実質的にシンガー・ソングライターの到来を位置づけたのは、このアルバムや前年に発表されたジェイムズ・テイラーの「スィート・ベイビー・ジェイムズ」ではないかと思っている。

 特にこの「つづれおり」は、シンガー・ソングライターのアルバムも売れるということを実証したし、低予算(だったかどうかは不明だが当時は短期間で制作していたようだ)で大きな収穫を得ることができるということも証明したのである。このあと雨後の筍のように様々なソングライターが歌を歌って、チャートの上位に位置付くこともあった。
 何しろジェイムズ・テイラーなんかは、兄弟(妹)4人そろってそれぞれアルバムを発表しているくらいだ。ジャクソン5かジェイムズ兄弟(妹)かというくらいだった?

 次に自分が聞いた彼女の曲は"Corazon"だった。最初は“マラソン”と聞こえたのだが、実際は“コラソン”と発音するらしい。これはスペイン語で“心臓、心”を意味する単語であるが、訳詞では“私の恋人”になっている。ちょっと違うような気がするが、まあどうでもいいことである。

 それでこの曲が入っているアルバムを買おうと思い、彼女のベスト・アルバムに入っていたのを知って、どうせ買うならと思い購入したのである。
 全12曲なのだが、アルバム「つづれおり」からは4曲入っているが、他の曲は初めて聞くものばかりだった。

グレイテスト・ヒッツ Music グレイテスト・ヒッツ

アーティスト:キャロル・キング
販売元:Sony Music Direct
発売日:2004/03/24
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 さすがヒット・メイカーだけあって、初めて聞く曲もなかなかの出来映えであった。基本的には1971年から75年までの曲が収められているのだが、"Jazzman"、"Nightingale"などはリズミックな曲でサックスやフルートなどお洒落なアレンジが施されている。何となく日本の荒井由美という感じである。

 このアルバムの11曲目に"Corazon"が出てくるのだが、はっきりいってたいした曲ではない。ただ曲の持つ呪術的で妖しげなムードが、それまでの彼女の持つイメージを裏切るようで気に入ったのだった。
 何しろすべてスペイン語で歌っているし、英語でもわからないのに何を歌っているかわからないところも興味をひかれた。完全に中米という感じの曲であるが、おそらく歌っている時間よりもバックの演奏時間の方が長いと思う。彼女にとっては珍しい曲だと思った。

 ポップ・ミュージックというのは、シャボン玉のようで、浮かんでは消えていくものである。しかしその中で優秀なポップ・ミュージックというのは、いつまでも浮かんで消えないのだ。むしろ、光の中で反映したり、七色に光ったりするものである。

 彼女の音楽は、永久に消えないシャボン玉のようなものだ。消えていくポップ・ミュージックの中で光り輝くもの、それこそが時間という荒波を経て生き残った本物のポップ・ミュージックなのである。

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