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2012年4月

2012年4月28日 (土)

ギャラガー&ライル

 ギャラガー&ライルといっても、多くの人にはあまりピンと来ないのではないだろうか。名前の通りに、彼らは2人組のデュオで、正しい名前はベニー・ギャラガーとグラハム・ライルという。

 実はロニー・レインのことを調べていたら、この2人の名前が出てきたのだ。彼らはロニー・レインがスリム・チャンスを結成したときに、一時ロニーと活動をしていたのである。
 その前の彼らはマクギネス・フリントというバンドに所属していて、バンドの曲のほとんどを手がけていた。(ちなみにマクギネス・フリントは、元マンフレッド・マンのトム・マクギネスと元ジョン・メイオール・ブルーズ・ブレイカーズのヒューイ・フリントの2人が中心となって結成した6人組バンドで1970年にデビューしている)

 ギャラガーとライルは、60年代の終りからソングライター・チームを作っていて、アップル・レコードと契約して、メリー・ホプキンに何曲か曲を提供している。("Sparrow"、"Heritage"など)その後、マクギネス・フリントに加入したのだが、1972年に脱退して、デュオとして活動を始めたのである。

 そんな彼らが1976年に発表した作品が「ブレイカウェイ」だった。彼らにとっては通算5枚目のアルバムにあたるもので、このアルバムのタイトル曲は前年にアート・ガーファンクルがシングル・ヒットさせている。(ちなみにアーティが歌った"A Heart in New York"も彼らの作品である)Photo
 "Breakaway"は、このアルバムでも1曲目に置かれていて、やはりこの曲は耳に馴染んでいるせいか、いつ聞いてもいいと思った。

 このアルバムにはイギリスでヒットした"I Wanna Stay With You"やブライアン・フェリーもカバーした"Heart on My Sleeve"も収められていて、前者はサックスが効果的に使用されていて日本でいうところのシティ・ポップ風であり、後者は軽めのポップ・ソングに仕上げられている。

 その他にもアコースティック調の"Stay Young"、"Fifteen Summers"、プリンスの曲とは同名異曲の"Sign of the Times"などが収められていて、"Sign of the Times"はこのアルバムの中ではハードな印象を与えてくれる。
 さらには軽快な"If I Needed Someone"や"Northern Girl"という曲もあるのだが、もちろんジョージ・ハリソンやボブ・ディランのカバーではなくて、2人のオリジナル曲である。

 全体的には76年という時代を反映してか、シンガー・ソングライター風+AOR的な感じがするのだが、そこは60年代末から頑張ってきたソングライター・チームだけあって、単なるポップ・ソング集では終わっておらず、印象に残るメロディ・ラインとバラエティ豊かな音楽性が詰め込まれていて、何度となく聞きたくなる作りになっている。

 ただ彼らは1979年にはデュオを解消して、それぞれソロ活動を始めた。特にグラハム・ライルはアニタ・ベイカーやシーナ・イーストンなどに曲を提供しており、その中でティナ・ターナーが1984年にヒットさせグラミー賞を受賞した"What's Love Got to Do With It"は、彼の最大のヒット作かもしれない。

 イギリスの70年代後半はパンク/ニュー・ウェーヴ一色という感じだったが、中にはこういう美しいメロディを持ったポップ・ソング・アルバムもあったのである。決して名盤ではないが、忘れてはならないアルバムの1枚ではないだろうか。

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2012年4月24日 (火)

ロニー・レイン&スリム・チャンス

 前回のブログの続きというわけではないのだけれど、スモール・フェイセズつながりで、1973年に同バンドを脱退したロニー・レインのその後について簡単に見てみたい。

 ロニーは、フェイセズ脱退後、自らのバンドを結成した。それがロニー・レイン&スリム・チャンスだった。彼らは1973年に1stアルバム「エニモア・フォー・エニモア」を発表したのだが、これがまた渋い。Photo_3
 前回にも述べたように、スティーヴ・マリオットはスモール・フェイセズをロック寄りにした音楽を目指してハンブル・パイを結成した。一方のロニー・レインは、フェイセズをもう少しアメリカ寄りというか、アメリカ南部のテイストを持ち込もうとしたのだが、黒人音楽の香りはしても、そこまでは徹底できなかった。むしろ徐々にロッド・スチュワートの趣向が反映された音作りになっていったのである。

 だからロニーは、自分の求める音楽をこの1stアルバムに込めて制作したのであろう。フィドルやマンドリンが土の香りを運んでくれる"How Come"からアルバムは始まり、トラディショナルの"Careless Love"、レインのオリジナル曲でサックスがフィーチャーされた"Don't You Cry For Me"と続いている。
 このアルバムに収められている"Tell Everyone"や"Anymore For Anymore"などは、フェイセズ時代に作られた曲だが、ここではまさに自分流の音楽として見事に消化されている。

 レインのオリジナル曲もアメリカ南部志向のためか、トラディショナル曲との差があまりなく、全体に統一感がうかがえる。また6曲目の"The Poacher"はクラリネットの音色が牧歌的な彩りをそえていて、このアルバムの中でもひときわ出来の良さを誇っている。
 またレインの歌声は、どことなくはかなく頼りない。特に高音の部分になるとそれが顕著であり、個人的には不思議とジョージ・ハリソンの印象を与えてくれた。ところどころで聞かれるスライド・ギターがそうさせたのだろう。

 当時のレインは、曲芸師やダンサーなどを引き連れて、まるでサーカスの一団のように、ツアーをしていたと言われている。3枚目のアルバム・ジャケットにはメンバーの後ろに移動式トレーラーが写っているが、それらに乗っては移動していたのだろう。2
 しかしすぐに資金繰りが困難になり、借金がかさんでいった。そのときと相前後するが、ロニーは移動式のレコーディング・ユニットを実用化して、ローリング・ストーンズなどに貸し出している。のちにストーンズも同様のスタジオを所有するようになるのだが、そのアイデアはここから出ているのだろう。

 77年頃からロニーは多発性硬化症という病気を発症し、徐々に運動麻痺を併発するようになった。彼はヘビ毒という民間療法から現代的な骨髄移植まで、ありとあらゆる治療を試したのだが、結局、うまくいかなかった。

 1984年、彼はアメリカのテキサスに移住し、1997年コロラド州のトリニダードで亡くなった。51歳という若さだった。彼は決してメジャーなミュージシャンではなかったけれど、彼をサポートしたミュージシャンにはクラプトンを始めとする一流ミュージシャンが多かった。自分の音楽を追い続けたという意味では、幸せな人生だったのではないだろうか。

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2012年4月20日 (金)

スモール・フェイセズ

 フェイセズの前身バンド、スモール・フェイセズは、今だにイギリス人ミュージシャンの間でも人気が高く、ポール・ウェラーやノエル・ギャラガーなどはその信奉者の代表である。彼らはスモール・フェイセズのオリジナル・メンバーだったスティーヴ・マリオットのトリビュート・アルバムにも参加しているほどなのだ。

 たぶん彼らの幼少期に、ラジオなどを通してスモール・フェイセズの音楽を体験して、その感覚や記憶がその後の彼らの人生を決定したからだろう。それだけの影響力を持つバンドだったのである。

 もちろん自分はリアル・タイムで彼らの音楽を聞いたわけではない。実際に聞いたのは、大人になってからで、それこそ過去にタイム・スリップするかのように後追い体験だった。あるいは40年以上も経った今でも彼らの音楽を語り、演奏し、体験しているミュージシャンやファンの存在が自分をして、そう仕向けさせたのであろう。日本より人口の少ない国で、よくぞここまで豊かな音楽性を醸成できたなあと感心してしまうほどだ。

 スモール・フェイセズは、ブリティッシュ・ロックの黎明期というか、60年代に生まれ、解散したバンドだった。実際の活動期間は1965年から69年のたった4年間である。この4年間の活動が40年以上も影響を与え続けてきたのだ。何と素晴らしいことだろう。

 当時のイギリスの若者には50年代の後半からモッズ・ブームが流行していた。具体的にいうと、デビュー当時のビートルズのような細身のスーツを着て、髪の毛を下ろしたような格好である。(デビュー前のビートルズは、リーゼント頭で革ジャンを着ていたから、実際はモッズではなかった。ひとえにマネージャーのブライアン・エプスタインの作戦だったのだろう)

 モッズはアメリカのリズム&ブルーズやソウル・ミュージックのような黒人音楽を好んで聞いていたらしく、だから彼らが支持したバンドには、そういう影響を受けたものが多かった。たとえば、初期のザ・フーであり、キンクス、そしてスモール・フェイセズなどである。彼らは黒人の音楽を自分たち流に解釈し、それらを取り入れて新しい装いでリスナーに提供したのである。だからモッズたちはイギリスで再解釈された音楽と、それを演奏するバンド群も受け入れたのだ。

 スモール・フェイセズのオリジナル・メンバーは全員ロンドンのイースト・エンド出身で、ウエスト・エンド出身のザ・フーに対抗して?、“東のスモール・フェイセズ、西のザ・フー”と呼ばれていたらしい。
 オリジナル・メンバーは、ギター&ボーカルのスティーヴ・マリオット、ドラムス担当のケニー・ジョーンズ、キーボード担当のジミー・ウィンストン、そしてベース担当のロニー・レインだった。

 彼らの楽曲のいくつかは、カバー・ソングであったが、多くはスティーヴ・マリオットとロニー・レインの2人の手によるものだった。
 特に1966年に全英1位を記録した"All or Nothing"や67年の"Itchycoo Park"、68年の全英2位だった"Lazy Sunday"などは、すべて2人の共作だった。特に"Itchycoo Park"は全英3位、全米でも16位を記録するほどの大ヒットになった。

 この曲は、80年代にはプログレバンドのエニドが、90年代ではハード・ロック・バンドのブルー・マーダーやクワイエット・ライオットなど、その後も多くのミュージシャンによってカバーされたり、映画のサウンドトラックなどに使用されている。リード・ボーカルとバック・コーラスの掛け合いが黒人音楽っぽい。

 これら以外にもトッド・ラングレンもカバーした"Tin Soldier"や、キーボードがイアン・マクレガンに代わって発表された1966年の"Sha La La La Lee"など名曲、佳曲を多く発表している。

 自分は彼らのベスト盤の「オータム・ストーン」で、初めて彼らの音楽に触れた。このアルバムは1969年に2枚組で発表されたもので、全22曲、彼らの代表曲のほとんどが収められていて、中には"All or Nothing"、"Rollin' Over"、"If I Were a Carpenter"、"Every Little Bit Hurts"、"Tin Soldier"のようなライヴ、未発表曲も含まれていて、なかなか興味深い。Photo_2

 特に実況録音された曲では、聴衆の歓声がものすごく、まるでビートルズのシェア・スタジアムでの演奏のようだった。当時の実態というか、様子を伺うことができて、やはり彼らの人気が凄まじいことがわかる。40年の時を経て今だに影響力があるというのも、なるほどと納得がいった。

 アメリカの黒人音楽にイギリスのビート・ロックの要素を掛け合わせたものが、スモール・フェイセズだった。スティーヴ・マリオットは、スモール・フェイセズの音楽をさらにロック寄りに持っていこうとして1969年にハンブル・パイを結成した。
 残されたロニー・レインたちは、新たな血であるロッド・スチュワートとロン・ウッドを迎え入れて再出発を図ったのだが、残念ながら上手くいかなかった。

 結局、ロッドとロニー・レインの音楽的意見の対立というか、方向性の違いが、フェイセズを洗練されたロックン・ロール・バンドにさせて、さらにはロッドと彼のバック・バンドという位置にまで貶めてしまったのである。ロニーの脱退は、ある意味、至極当然のことだったのかもしれない。

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2012年4月16日 (月)

フェイセズ

 ボケが始まったのか、あるいは今まで書きすぎたのか、どのミュージシャンやバンドを書いてきたのか忘れてしまった。それで過去のブログを見ていて、ロッド・スチュワートについては書いていたものの、彼がいたバンドのフェイセズについては、まだ何も書いていないことに気がついた。

 それで今回は70年代のイギリスのロック・バンドのフェイセズについてである。当時の日本ではストーンズかフェイセズかと言われるくらい、イギリスを代表するロックン・ロール・バンドだった。

 それはやはりボーカルのロッド・スチュワートのおかげだろう。彼のきらびやかで派手なパフォーマンスは、聞くものを陶酔の境地に誘うほどの魅力に満ちていた。また、のちにストーンズに加入することになるロン・ウッドの堅実な演奏と派手なゼマティスのギターも忘れてはならないだろう。

 もともとフェイセズというバンドは、スモール・フェイセズを母体として生まれたものだった。スモール・フェイセズにはスティーヴ・マリオットという偉大なギタリスト&シンガーがいたのだが、彼がハンブル・パイを結成したために、解散状態になってしまった。そこにジェフ・ベック・グループからベーシストのロン・ウッドとボーカリストのロッド・スチュワートが参加して再出発したのである。1969年のことらしい。

 自分が彼らのことを知ったのは、中学生のときだった。レコードではなく、某国営放送の「ヤング・ミュージック・ショー」という番組に彼らが出演していたときだった。ちなみにそのときの演奏にはスペシャル・ゲストでストーンズのキース・リチャード(当時はsのついていないリチャードと呼ばれていたと思う)も演奏していたことを覚えている。ロン・ウッドとキース・リチャードの顔合わせは、後のストーンズの布石になったのだろうが、それほど親交があったということだろう。

 また某音楽雑誌にも、ときどき彼らの写真も掲載されていたから、記憶に定着したに違いない。

 しかし当時は(そして今も)、フェイセズはロッド・スチュワートのバック・バンドだと思っていた。例えていうなら、世良公則とツイスト、沢田研二と井上堯之バンドみたいなものである。
 何しろロッドばかりが目立っていたし、歌っていたのは、フェイセズの歌というよりも自分の持ち歌ばかりだった。もう少し正確にいうと、当時はロッド・スチュワート&フェイセズという呼ばれ方をしていたようだったし、その頃の自分にとってはどれがロッドの歌で、どれがフェイセズの曲なのか判断もできなかったからだ。
 
 またラジオから流れるロッドの曲は印象的だった。あのハスキーな声は一度聞いたら忘れられないし、映像は付いていないので、誰が演奏しているかは、おそらく判別できなかっただろう。当時はそういう認識だった。

 実際、フェイセズとしての活動は1969年から1975年ごろまでで、ロンがストーンズのアルバムに参加するようになって、バンドは解散してしまった。
 でも本当はベーシストのロニー・レインが73年に脱退したときに、彼らはロッドと彼のバック・バンドに変身してしまったのだ。
 ロニーのバンド内での存在は、意外と大きかったのだろう。ロッドと曲作りも行っていたし、オリジナル・メンバーの一人として、バンドの音楽的方向性についても意見を出していた。

 ロニーの代わりに日本人の山内テツがフリーから参加したのだが、この頃はもうロッドのワンマン・バンドになっていたのだろう。73年以降にはシングルは発表されたが、スタジオ・アルバムは制作されていないからである。そして新しくできた曲は、たぶんロッドのソロ・アルバム用に使われたのだろう。

 今から思えば、フェイセズはB級スーパー・バンドだった。ロッドやロン・ウッド以外のメンバーは、その後も他のバンドなどで活躍した。たとえばドラマーのケニー・ジョーンズは、キース・ムーンの代わりにザ・フーに参加したし、キーボーディストのイアン・マクレガンは、ソロ・アルバムを発表したあと、ストーンズのツアーに参加して、セッション・ミュージシャンになった。

 オリジナル・メンバーでベーシストのロニー・レインは、自身のバンド、スリム・チャンスを結成して、アメリカ南部のテイストを持つアルバムを発表した。ただ残念ながら難病の多発性脳脊髄硬化症を発症し、1997年に肺炎で亡くなった。

 彼が提案したアームズ・コンサートは1983年に開催され、そこではエリック・クラプトン、ジェフ・ベック、ジミー・ペイジの3人が参加して、同病で苦しんでいる人のためのチャリティが行われた。そのときに"Stairway to Heaven"を歌詞無しで演奏したジミー・ペイジの痛々しい姿が忘れられない。当時はゼッペリンが解散したあとで、彼が公の場に初めて姿を見せたと言われていた。Photo
 彼らのアルバムは、どれもロックン・ロールの楽しさが収められているが、一番売れたのは1971年の「馬の耳に念仏」で、全米6位、全英2位を記録している。

手っ取り早く彼らの曲を知りたければ76年のベスト盤「スネイクス&ラダーズ」を聞くといいかもしれない。"Stay With Me"や"Ooh La La"など彼らを代表する曲が収められている。自分はここから彼らを聞き始めた。1
 彼らは2008年にオリジナル・メンバーで再結成コンサートを企画したが、結局、ボツになった。その後ベースに元リッチ・キッズのグレン・マトロック、ボーカルに元シンプリー・レッドのミック・ハックネルを加えて、活動を始めている。昨年はフジ・ロック・フェスティバルに参加するために来日した。

 とにかく自分の中ではロッドのワンマン・バンドだと思っていたフェイセズである。ロッドが自分の持ち歌もバンドの曲も、一緒くたにしてステージで歌っていたから、そういうふうに混同してしまったのだろう。今になって思えば、解散した方がお互いの為によかったという珍しい人気バンドだったのである。

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2012年4月12日 (木)

80年代のストーンズ(3)

 さて80年代のストーンズのアルバムについて、いろいろ取り留めのないことを書いてきたが、今回は80年代では最後のスタジオ・アルバムとなった「スティール・ホイールズ」について述べてみたい。

 その前になぜこの時期のストーンズにゴタゴタが多かったのかといえば、やはりミックとキースの確執が一番の原因だろう。ミックは1985年と87年にソロ・アルバムを発表して、自己のキャリアを追及していた。しかも最初のソロ・アルバムは注目もされ、それなりにヒットしたから、ミックなりに次も頑張ろうと思ったのだろう。

 一方のキースは、ストーンズ用のアルバムに使用されてもおかしくないアイデアや楽曲がミックのソロ・アルバムに使われては面白くないのは当然だったし、その反動が86年のアルバム「ダーティ・ワーク」に表れたのである。
 また彼もミックに対抗するかのように、自身のソロ・アルバム「トーク・イズ・チープ」を88年に発表した。両者の関係はこの時期が最悪だったように思える。

 前回のブログでも述べたように、「ダーティ・ワーク」にはロン・ウッドも積極的に曲作りに関わっていて、ギターが全面にフィーチャーされたアルバムになった。逆にミックはこのアルバムを気に入っておらず、そのせいかバンド結成40周年を記念した2002年のベスト・アルバム「フォーティ・リックス」にはこのアルバムから1曲も収録されなかった。これもひとえにミックのさしがねに違いない。9

 またビル・ワイマンは、89年に18歳の少女と結婚している(91年に離婚)。ちなみに彼女とは13歳のときから付き合っていたというから、ミックとキースの関係などどこ吹く風、マイペースで過ごしていたのである。さらにはドラマーのチャーリー・ワッツは、この時期、アルコールとドラッグの中毒に苦しんでいたとも言われているから、バンド全体としてもうまくいっていなかったのだろう。

 そんな彼らが再び結束してアルバムを発表したのが、1989年だった。このときのアルバム「スティール・ホイールズ」は、結果的には全英2位、全米3位を獲得して、久しぶりに大きなニュースになった。
 アメリカではアルバム発表に関して記者会見を行い、そのときに今後のツアーについても言及した。このときの模様は、日本でも夕方のTVニュースで放送されたのを覚えているが、それほど全世界がストーンズの再開を待望していたし、その結果を祝福したのである。

 彼らの再活動がこれほどスムーズにいったのは、ひとつはミックのストーンズに対する運営方針(経営方針といってもいいだろう)が、大きくシフト・チェンジした結果である。自分自身の2枚目のソロ・アルバムの結果と、ファンやメディアのストーンズに対する期待を天秤にかけての判断だったに違いない。

 残念ながら2枚目のソロ・アルバム「プリミティヴ・クール」は全英26位、全米41位と思うように振るわず、彼の中には失望感が高まっていった。また、自分がストーンズの中心者として状況改善を図らないといけないという責任感みたいなものもあったのだろう。
 そして、彼らにとって幸いなことに、1989年の1月には“ロックの殿堂”入りを果たすことができて、メンバーそろって授賞式に参加している。

 そんなこんなで、元の鞘に納まったというか、あるべきところに落ち着いたというか、ミックとキースは50曲以上を持ち寄り、その年の春からレコーディングを始めたのであった。

 ストーンズのアルバムの最初の曲はジャンプ・ナンバーで始まるというのが、一般的なのだが、このアルバムも例外ではなく、ノリのよい"Sad,Sad,Sad"で始まっている。続くシングル・カットされた"Mixed Emotions"もミック、キース、ロンの3本のギターが強調されていてなかなかのものである。ちなみにこの曲はキースが持ち込んだものに、ミックが手を加えたもので、意味深な歌詞はそのせいだろう。Photo
 一番の聞かせどころは、アルバム後半の4曲の"Rock and A Hard Place"、"Can't Be Seen"、"Continental Drift"、"Break the Spell"ではないだろうか。

 "Rock and A Hard Place"はタイトル通りのハードな楽曲で、ミックも含めて3本のギターが強調され、後半ではブラスや女性コーラスも添えられている。後のツアーでも演奏されるほど、ストーンズにふさわしい曲でもある。
 また"Can't Be Seen"はキースがリード・ボーカルをとる曲で、キースのソロ・アルバム用に書かれたもの。ミックのソロ活動があったからこそキースのソロもあったということで、逆説的にミックに感謝しなければいけないのかもしれない。

  普通ストーンズといえば黒人音楽の影響(あるいは引用、もしくは盗用ともいえるだろう)を感じさせる曲があるのだが、このアルバムではその前に東洋的な(あるいはエスニック的な)旋律を持つ"Continental Drift"が印象的である。ここではキースがアコースティック・ギターを、ロンがアコースティック・ベースを演奏している。まるで昨年発表されたスーパー・ヘヴィのアルバムに収められていてもおかしくない曲である。ミックは20年以上も前からこういう音楽をも視野に入れていたのであろうか。

 そしてブルーズ・ハープが妖しい雰囲気を醸し出す"Break the Spell"ではストーンズらしく黒っぽい音楽を聞くことができる。ここでのギターはミックとキースで、ロンはドブロ・ギターとベースを担当している。ビルは録音に参加していない。新婚生活をエンジョイしていたのだろう。

 このアルバムで80年代のストーンズは幕を閉じるのだが、発表後すぐに8年ぶりのワールド・ツアーに出かけていて、初の日本ツアーもこのアルバム発表後だった。またベーシストのビル・ワイマンが参加した最後のストーンズのアルバムにもなった。

 とにかくこのアルバムのおかげで、ストーンズは息を吹き返し、その後の90年代以降もアルバム発表とツアーを繰り返すことになった。そういう意味では、単なる成功作というよりもその意義は深いといえるだろう。

 60年代はビートルズの後塵を拝し、70年代でジャンキーになりながらも黄金期を迎えたストーンズは、80年代になってからその歩みを遅らせたようにも見えた。しかし不死鳥のように彼らは再び甦った。そして結成50周年を迎える今年、彼らの動向から目が離せないのである。

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2012年4月 8日 (日)

80年代のストーンズ(2)

 今年で結成50周年を迎えるローリング・ストーンズの80年代を語ろうというテーマの第2回目である。要するに80年代のストーンズを正当に評価しようと思ったのだが、単なる個人的な感想に終わりそうな気がする。

 70年代の半ばから80年代にかけてのパンク/ニュー・ウェイヴに対しては、ストーンズはディスコ、レゲエ・ミュージックの積極的導入という対抗策に出た。今ではそれらのアルバムは好評価をもって迎えられているが、当時はストーンズまでもがディスコ・ミュージックに走ったと非難されていたのである。ロック・ファンから見れば、レゲエならまだしもディスコ・ミュージックなどは正当な音楽と見なされていなかったのだ。

 これは確かに一種の偏見なのだが、単純に流行の音楽に手を染めないでほしいというリスナーの切実な願いだったといえるかもしれない。

 それでもこの対抗策は、結果的に見れば成功したといっていいだろう。こういう黒人音楽に対する嗅覚の鋭さや、それを取り込む進取性などは、ロック本来の持っている力であり、その力をストーンズは失っていなかったということでもある。さすがストーンズだ。単に流行に走ったのではなく、彼らなりの戦略といってもいいだろう。物事は表面的に判断してはいけないのである。

 それで80年代は「刺青の男」で始まったのだが、これは以前のブログでも述べたように、70年代の曲の焼き直し、あるいは70年代~80年代の曲の寄せ集めという側面もあったアルバムだった。寄せ集めというと誤解されそうだが、言い換えると高水準のアウトテイクスである。

 次に問題作の「アンダーカヴァー」だが、これにも黒人音楽のヒップホップやレゲエなどが大きく導入されていた。しかしこのアルバムは実験作と見なされ、残念ながらあまりにもストーンズのイメージからかけ離れていたせいか、商業的にもそれまでと比べれば大ヒット作とまではいかなかったようだ。

 こういう黒人音楽に対する目ざとさというのは、ミックとキースの感性に因るところが大きいのだろう。ただキースは基本的にギタリストなので、ロックするブラック・ミュージック、つまりロックン・ロールを志向している。

 そのキースの趣味性や意志が十二分に発揮されたのが、1986年に発表された「ダーティ・ワーク」だったといえるだろう。前作の反動か、行き過ぎた先進性を是正するためか、アグレッシブでパワフルな曲が目立ち、自分たちの足元を固めたアルバムに仕上げられているのだ。1
 1曲目の"One Hit(to the Body)"ではキースのギターが目立ち、次の"Fight"でも性急なリズムとギター・カッティングがカッコいい。("One Hit"の後半のギター・ソロはジミー・ペイジが弾いているそうだ)
 他にもミックのボーカルが光る"Hold Back"やアルバム・タイトルの"Dirty Work"、飾り気のないシンプルな"Had It With You"などギターのリフやアップテンポなリズム、カッティング主体の曲が目立っている。これは取りも直さずギター・オリエンティッドなアルバムである事を証明しているし、曲のいくつかにはJagger&RichardsだけでなくWoodも参加している。きっとミックがソロ・アルバムを作っているときに、キースとロンの2人で曲作りを行ったのだろう。

 一方、ミックのために用意していたのか、1963年のR&Bのヒット曲"Harlem Shuffle"で、全米ビルボード・シングル・チャートでは5位を記録した。
 キースはレゲエ調の"Too Rude"とバラードの"Sleep Tonight"の2曲でリード・ボーカルをとっている。通常アルバム1枚につき1曲が彼の持ち歌なのだが、このアルバムでは2曲になっている。これもまたミックに対する当てつけなのだろうか。

 ちなみに"Sleep Tonight"は、前年に47歳で亡くなったイアン・スチュワートに捧げられたもので、彼はストーンズ結成当時のメンバーだった。曲の最後に彼自身のピアノ演奏である"Key to the Highway"がほんの少しだけ挿入されている。

 とにかく原点回帰といわれるくらいのギター主体のアルバムだった。このアルバムも前作と引き続き、アメリカではプラチナ・アルバムに認定されたのだが、やはりミックとキースの仲がしっくりといっていなくて、その影響からか、メンバー間でも好悪の意見が分かれたアルバムでもあった。

 個人的には前作の「アンダーカヴァー」よりは好きなアルバムなのだが、「刺青の男」よりは聞く回数は少なかった。やはりメンバー間の微妙な空気がアルバムの内容やセールスにも大きく影響を与えたのであろう。そういう意味では、意外にストーンズはわかりやすいバンドなのかもしれないのだった。(To Be Continued)

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2012年4月 4日 (水)

80年代のストーンズ(1)

 今年はローリング・ストーンズ結成50周年ということで、一部ではかなり盛り上がっているらしい。また現時点では、記念の行事などのアナウンスはないのだが、今年の後半ぐらいには何かが行われるかもしれないとのことである。

 彼らは1962年に結成され、ロンドンのマーキー・クラブに出演した。それから50年が経ったのだが、常にロック・シーンの最前線で活動を続けてきた。ロック界広し?といえども、一度も解散せず50年間アルバムを出し続け、その発表後はツアーを行ってきたバンドは、彼ら以外にはないだろう。

 まさに国宝級というか、世界遺産的存在なのだが、今回はそんな彼らの80年代のアルバムについて簡単なコメントを述べてみたい。
 なんで80年代なのかというと、クラプトンやボブ・ディランなどもそうなのだが、パンク・ムーヴメントの流れを受けた大物ミュージシャン、大物バンドなどが、どのように変貌したのかを知りたかったし、あるいは変わらなかったとしても、その流れをどう乗り切ったかを確かめたかったからである。

 一般的に、80年代のストーンズには低迷、沈滞というレッテルが与えられてきた。確かにそれまでのストーンズに比べれば、アルバム発表枚数も少なくなったし、当然のことながらセールス的にも伸び悩んだときもあった。

 原因はいろいろあるのだろうが、ひとつはバンドの中心メンバーであったミックとキースの意見の対立という事があげられるだろう。2人は一時、口もきかなかったといわれているから、そうとう深刻な状況だったのだろう。
 当時の2人の中をとりもったというか、橋渡しの役をしたのが、ロン・ウッドだった。彼がいたからこそ今のストーンズがあるといっても過言ではないだろう。

 あるインタビューで、ドラマーのチャーリー・ワッツは、“ミック・テイラーはバンドに品格と技巧をもたらし、ロニーはバンドにユーモアを運んでくれた”と語っているが、まさにロン・ウッドの存在がなければ、ストーンズはどうなっていたかわからない。そんな状況が彼らの80年代だったのである。

 それでは、まずは1981年のアルバム「刺青の男」であるが、このアルバムにはその後の彼らのライヴの定番になった名曲"Start Me Up"が収められている。またノリのよい"Hang Fire"や"Neighbours"、ミックの裏声が妖しい雰囲気を醸し出す"Worried About You"なども印象的だし、何といってもソニー・ロリンズのサックスが美しい"Waiting on a Friend"は感動的でもある。3
 このアルバムは前半がファスト・サイド、後半がスロー・サイドに分かれていて、自分にとってはわかりやすい構成だった。また新曲は数曲のみで、あとはミック・テイラー在籍時のものや、“ザ・グレイト・ハンティング”といわれた新ギタリストのオーディションに使用された曲をリメイクしたものなどが使われている。シャープでクリアな音はボブ・クリアマウンテンのおかげだろう。詳しくは以前のこのブログでも述べているので、アルバム名で検索してもらえるとありがたい。

 続いて80年代の一番の問題作であるアルバム「アンダーカヴァー」であるが、このアルバムは2年後の1983年に発表された。前作が過去と現在のミックス作品だったのに対して、このアルバムこそが80年代に制作された最初のアルバムとなった。

 個人的な意見で申し訳ないが、自分はこのアルバムが嫌いである。ノリはいいものの、印象的なメロディの曲が少なく、何度も繰り返して聴きたいとは思えなかった。しいてあげればシングル・カットされた"She Was Hot"やキースが歌う"Wanna Hold You"などはいいと思う。4
 ストーンズの優れているところは、時代に敏感で、その時々の流行を上手に取り入れることができる点である。特に黒人音楽のサウンドには敏感で、ディスコ・ブームのときには踊れる曲も作っている。

 このアルバムでもアフリカのミュージシャンからレゲエ・ミュージシャン、ジャズ畑のデヴィッド・サンボーンまでスタジオに招いていて、サウンド強化に努めている。こういう目ざとさというか、進取の気風に富んでいるところはミックの手腕であろうし、ロックン・ロールの原点に根ざしているのはキースの気風なのであろう。

 彼らの成功したアルバムは、その両方がハイレベルな状態で、絶妙にバランスを保っていたのであるが、このアルバムではどちらかというとミックの意見が多く取り入れられているようで、ダンサンブルでヒップホップ的な要素が強いのである。

 しかしミックもキースも当時は40歳。普通のロック・ミュージシャンならそろそろ保守的な音作りを行ったり、昔の曲を焼き直して発表するのであろうが、彼らはそんなことをしなかった。そういう潔さというか、貪欲に取り込んでいく姿勢というか、冒険心を失わないところが、さすが世界一のロックン・ロール・バンドだといわれた所以だろう。
(To Be Continued)

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