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2012年5月

2012年5月28日 (月)

ジョン・エントウィッスル

 ジョン・エントウィッスルは、ザ・フーのメンバーの中で最初にソロ・アルバムを発表した。彼は1970年代に4枚のソロ・アルバムを出していて、本家ザ・フーのバンド活動が休みの時にはThe Oxというバンドを作って、ライヴ活動をしていた。それほど創作意欲に満ちていたということなのだろう。

 一方では、ピート・タウンゼンド主体のアルバム制作に不満を持っていて、もっと自分の才能を発揮させたい、音楽的感性を表出させたいと願っていたらしい。
 だいたい1枚のアルバムにつき1曲ぐらいしか彼の作品は取り上げられていなかったから、彼の欲求不満もそうとう溜まっていたのだろう。その不満の解消として、ソロ・アルバムの制作、発表につながっていったに違いない。

 多くの人が述べていることだが、ロジャーのマイク・パフォーマンスやピートのウインドミル奏法、それにキースの手数の多いフィルインだらけのドラミングなど、他のメンバーはとにかく目立っていたけれども、ジョンに関しては、ただステージ左手に立って、何もいわず黙々とプレイしているだけだった。

 だから彼が目立とうとすれば、せいぜい髑髏や蜘蛛のスーツを着て演奏するだけだったのだろう。しかし一方ではまた、彼のベース・プレイは彼のパフォーマンス以上に目立っていて、ピートがギター・ソロもアドリブもほとんど弾かなかったせいか、ジョンのベース演奏の方がギターよりも目立っていた。のちに“リード・ベース”と呼ばれるようになったが、ジョン自身は“リード・ベース・ギター”と言っていたようだ。

 それで1972年に発表された彼のセカンド・アルバム「ウィッスル・ライム」には、彼の欲求不満の解消というか、自分のやりたいことを実現にしたアルバムになっている。
 ジャケットを見たときは、童話的でメルヘンチックな内容なのかなと思ったのだが、当然といえば当然のことながら、そんなことがあるはずもなく、基本はロックン・ロールだった。Photo

 1曲目の"Ten Little Friends"はブギウギ調のピアノに乗り、けっこう甲高い声でジョンが歌う。バックのノリノリのギターを弾いているのは、ピーター・フランプトンらしい。このアルバムでは、全面的に彼が協力しているようで、アルバムの随所で彼のギターを聞くことができる。
 当時のピーターは、まだハンブル・パイに在籍していたか、もしくは脱退したばかりで、自分のバンドのときよりもガンガン弾いている。正直言って、こんなに上手なギタリストとは思わなかった。

 次の曲の"Apron Strings"でも同様で、間奏ではサステインを効かせたギターを聞くことができる。この曲のギター・ソロはもっと評価されていいような、ピーター・フランプトンらしからぬ?名演奏である。

 このアルバムは全体的にポップで、なおかつロックしている。特にアルバムの3曲目、4曲目"I Feel Better"、"Thinkin' It Over"などはザ・フーの曲よりもメロディアス、ポップである。おそらくピアノで作曲されたのではないだろうか、ピアノとドラムス、ベースでジョンのボーカルを盛り上げている。
 一転してそれまでのミドル・テンポから、"Who Cares?"では一気にアップ・テンポに移り、しかもピアノではなく、ハモンド・オルガンを使用して歌っている。聞きようによっては、スティーヴ・ウインウッドのようだ。もちろん彼自身のトレード・マークでもあるベースはブンブンと唸りをあげているし、曲の最後ではブラスと短いギター・ソロも聞くことができる。

 ジョン・エントウィッスルは、6歳からピアノを、11歳からトランペットとフレンチホーンを習っていて、その特技はザ・フーのアルバムでも発揮している。このアルバムでもシングル・カットされた"I Wonder"では、ブラスが強調されていて、まるでシカゴかチェイスのようだ。
 しかし曲はザ・ビートルズの"I Want You"のように唐突に終り、次の"I Was Just Being Friendly"に続いていく。

 この曲と次の"The Window Shopper"では、バックにシンセサイザーが使用されている。自分のは輸入盤で詳しいクレジットが記載されていないので、詳細はよく分からないのだが、おそらくはジョン自身が演奏しているのではないだろうか。

 後半は同じようなテンポの曲が続くので、少々飽きてしまうのだが、9曲目の"I Found Out"は少しテンポを落としてのスローな曲で、アコースティック・ギターとピアノが目立っている。こういうふうに緩急をつけた曲作りを行えば、全体的にもメリハリが利いたものになったのではないか。

 問題は6分14秒とやや長めの最後の曲"Nightmare(Please Wake Me Up)"である。タイトル通り、自分の見た夢の中の出来事を歌っているのだが、このアルバム・ジャケットのデザインは、おそらくこの曲の内容から取られたのではないかと思ったりもした。

 始まって2分前あたりから急に転調し、不協和音としか聞こえないピアノやホーン、シンセサイザーの音が悪夢であることを立証しようとしているようだ。

 ジョンはしきりに"Please Wake Me Up"と繰り返し歌っていて、聞いている自分もまるで悪夢を見ているかのような感覚に陥ってしまう。この辺はロック・オペラを創作したザ・フーでの経験が生かされているのか、はたまた自分でもミニ・オペラを作ってみようと思ったのかよくわからないが、異色の曲であるということはいえるだろう。個人的には、できればこの曲は外して、違う曲を入れてほしかった。この曲がなければ、このアルバムはもっと人気が出て、商業的にも成功したのではないだろうか。

 ともかくジョンの不満解消を狙ったソロ・アルバムである。ジョンは一時本気でザ・フーを辞めようと思っていたらしいが、辞めなくて済んだのも、自分のバンド活動を行ったり、ソロ・アルバムを制作したりすることができたからだろう。ソロ・アルバムの効用とは、まさにこういうことなのであろう。

 ジョンは2002年の6月、ザ・フーの北米ツアー直前(正確には1日前)に心臓発作でなくなった。享年57歳だった。彼の音楽的素養は、両親ともに楽器を演奏していたことから身についていったようだ。そしてその才能は、バンド活動とソロ活動の両方に発揮されていったのである。結果的にはその精力過ぎる活動が、彼の人生を縮めたのかもしれない。

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2012年5月23日 (水)

ザ・フー(2)

 ザ・フーもモッズの元祖などと言われているけれども、それは初期のイメージだけであって、実際の彼らには、そういう意識はなかったらしい。1964年に初代のマネージャーだったピーター・ミーデンという人がモッズと関係があって、彼ら4人をハイ・ナンバースと名づけ、モッズ・バンドとして売り出したのだった。

 彼らはその年の7月にフォンタナ・レコードよりデビュー・シングルを発表するも、ライヴでの人気とは逆に売れ行きはパッとせず、契約を解除され、マネージメントを変えて翌年の1月にザ・フーとして"I Can't Explain"を発表した。ここから彼らの栄光の歴史が始まったのである。
 だから彼らをモッズ・バンドと考えるのは早計かもしれない。ただそう思われたのは1973年のアルバム「四重人格」や1979年の映画「さらば青春の光」の影響ではないだろうか。

 彼らはその暴力的なステージングと批評的で深遠な歌詞のせいで、一躍、怒れる若者の代弁者的な扱いを受けるようになった。それもまたピート・タウンゼンドの戦略だったのだろうか。

 戦略的といえば、彼らは好んでロック・オペラと呼ばれる作品を発表している。同じイギリスのバンドのキンクスも1968年から連続してロック・オペラというトータル・アルバムを発表しているが、ザ・フーの方がアイデア的には先に試みている。(1966年の2枚目のアルバム「ア・クィック・ワン」の後半部分)

 本格的な彼らのロック・オペラは1969年の4枚目のアルバム「トミー」である。このアルバムは全英2位、全米4位と商業的にも成功し、このアルバムの成功のおかげで自信を持ったのか、彼らは次回作以降もロック・オペラ的な作品を発表しようとしたのである。

 この「トミー」はまさに彼らザ・フーの代表作といってもいいアルバムで、1975年に映画化、1993年にはミュージカルの本場ニューヨークのブロードウェイで上演され、トミー賞ではなくトニー賞5部門を受賞している。また日本では2006年にミュージカル化されている。かくのごとくこのアルバムは、発表から40年近くたっても繰り返し映画や舞台化されるほど、人をひきつける魅力を持った作品なのだ。5
 自分はライヴ映像などでその一部を見聞したことはあったが、アルバムを通して真面目に向かい合って聞いたのは大学生になってからだった。はっきりいってピンとこなかった。エルトン・ジョンが歌った"Pinball Wizard"やティナ・ターナーで有名な"The Acid Queen"、ロジャー・ダルトリーが熱唱する"I'm Free"などの有名曲は知っていたからよかったが、他の曲はやはり“オペラ”と標榜されているだけあって、全体を通しては繰り返し聞きたいとは思えなかった。

 主人公のトミーはある事件のせいで、見えない、聞こえない、話せないという三重苦になるのだが、両親は彼の病気を治そうといろいろと苦労を重ねていくというストーリーであり、その過程で彼は救世主として崇め奉られたり、逆に信奉者から見捨てられたりするのだが、これはピート・タウンゼンドの体験と心象風景から生まれたものなのだろう。

 自分はザ・フーのロック・オペラといわれる作品には疎いせいか、どうしても好きになれなかった。前回紹介した「フーズ・ネクスト」も、もとはといえば“ライフハウス”というタイトルのロック・オペラになるはずだったのだが、途中で計画が頓挫してしまい、結局アルバム1枚だけになってしまった。逆に1枚に凝縮されたせいか、このアルバムが彼らの最高傑作という評価につながったのだろう。

 1973年に発表された「四重人格」も彼らの代表作のひとつで、これもまた全英、全米ともに2位という素晴らしい結果を出しているアルバムだった。

 アルバム「トミー」をさらに豪華に、精密に仕立てた作品で、確かにロックの可能性を広げたという意味では評価できるであろう。また「トミー」よりもコーラスやブラスなどが工夫されて、ワンランク・アップの演奏を堪能することができるのも素晴らしい。

 舞台は1965年のロンドンで、ジミーという少年に四重人格の症状が表れるのだが、この四重人格はもちろんバンドのメンバーのことを象徴しているし、ジミー少年の行動もまたピート自身の体験や当時の彼らの置かれた状況から生まれたものである。6
 このアルバムからも"The Real Me"、"5:15"、"Drowned"、"Love, Reign O'er Me"などの有名曲が生まれていて、その後のライヴでもたびたび演奏されているのだが、ザ・フーの魅力はワイルドな演奏という固定観念が自分の中にあるので、こういう形式美に則ったアルバムは、確かに名盤とは思えるものの、どうしても好きになれなかった。

 当時の彼らはマネージャーとの確執や、度重なるツアーでの疲労、アルバム制作での重圧などかなりハードな状況を迎えていた。また“年をとる前に死んでしまいたい これが俺たちの時代だ”と歌っていたことに対して、ピート自身もまた答えを探していたのだろう。ある意味、彼のリハビリとしての結果がこのアルバム制作につながったと見てもいいのではないだろうか。

 キース・ムーンが亡くなった後、元スモール・フェイセズのケニー・ジョーンズをドラマーに迎えてアルバムを発表するが、ここから先のザ・フーはオリジナルとは別物だと思っている。そのケニー・ジョーンズもザ・フーを離れた後は、リンゴ・スターの息子のザック・スターキーがサポートをする。ザックのドラミングについてはキースが手ほどきをしたから、むしろこの方がバンドに合っていたのかもしれない。

 実は自分の大好きなアルバムは、1988年にバンド結成25周年を記念して発売されたベスト・アルバム「フーズ・ベター、フーズ・ベスト」なのである。
 全19曲、ほとんどシングル・カットされたもので、デヴィッド・ボウイもカバーした"Anyway, Anyhow, Anywhere"から初期の名曲"The Kids are Alright"、72年の25枚目のシングル"Join Together"などいずれも彼らの魅力がぎっしりと詰め込まれている。7
 1965年の"My Generation"から1981年の"You Better, You Bet"までほぼ彼らの活動歴を網羅しているし、シングル中心とはいえ、不思議とアルバムに統一感もある。
 やはり自分の固定観念は変えられなかったようで、ザ・フーとくれば妙に難しいアルバムよりも、ロック本来のパワフルでソリッドなノリのよさを楽しめるものが自分にはピンと来るのであった。

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2012年5月18日 (金)

ザ・フー

 初めて聞いたザ・フーのアルバムは、「フーズ・ネクスト」だった。このアルバムは1971年に発表されていて、彼らの最高傑作という内容の記事を雑誌で読んだ事があったので、購入して聞いてみた。70年代も終りの1979年ごろのお話である。

 自分のイメージとしては、ザ・フーといえばロックン・ロール・バンド、あるいはライヴ・バンドというものが定着していたので、1曲目"Baba O'Riley"のシンセサイザーのフレーズが聞こえてきたときは、驚くと同時に奇妙な違和感を覚えてしまった。これがロックン・ロール・バンドの音楽なのか?2
 今となってはこの曲の持つ評価には納得ができるのだが、当時はテクノ・ミュージックやミニマル・ミュージックに先駆けた画期的な曲ということが理解不能だったし、シンセサイザーなんて演奏したこともなかったから、“シークエンスフレーズをループさせる”とか言われても、自分にとっては異次元の言語のようなもので、何のことかさっぱりわからなかった。

 ただ、"Getting in Tune"、"Behind Blue Eyes"、"Won't Get Fooled Again"など確かにメロディラインもハッキリしている曲もあり、悪いアルバムではないと、自分のような田舎の感性の鈍い少年にも理解はできた。また、モンタレー・ポップ・フェスティバルやウッドストック、ワイト島フェスティバルなどでのライヴ映像は目にしたことがあったので、あのど派でな演奏とクールなシンセ演奏が結びつかなかったのかもしれない。

 もともとこのアルバムは“ライフハウス”というコンセプト・アルバム、彼らの言葉で言うと、ロック・オペラになる予定だった。ところがそれでは売れないと判断したレコード会社からの圧力からか、はたまた自らの構想が壮大すぎたのか、ピートはこの企画を断念し、1枚のアルバムにまとめたのである。それが「フーズ・ネクスト」だった。
 このアルバム構想の内容については、いろんな人が述べているのでここでは詳細を省くが、要するに個人主義が糾合され、連帯した人たち(=ファン)とミュージシャンとの相互交流を描くというものであった。

 いずれにしても自分とザ・フーの最初の出会いは、あまり幸福なものではなかったようだ。その後、ザ・フーとは離れていき、ジェスロ・タルと深く関わりあうようになってしまうのである。

 それはともかく、次のザ・フーとの出会いは「フー・アー・ユー」だった。このアルバムは1978年に発表されていて自分はやや遅れて聞いたのだが、ただこの出会いは自分から求めてというよりは、ドラマーのキース・ムーンがドラッグの過剰摂取で亡くなったという不幸な知らせに接したからで、ある意味、追悼という意味で購入して聴いたのである。だからアルバムの内容というよりは、一種の思い出のアルバムのようなものになってしまった。4
 彼らの曲はほとんどギタリストのピート・タウンゼンドが手がけているが、時にベーシストのジョン・エントウィッスルの書いた曲もアルバムに1曲くらいはあって、「フーズ・ネクスト」では"My Wife"、「フー・アー・ユー」では"905"や"Trick of the Light"で、自分は結構ジョンの書いた曲は好きなのである。特に"Trick of the Light"はピートの曲より躍動感があって大好きだった。

 また"New Song "や"Sister Disco"では、当時の音楽の主流だったパンクやディスコ・ミュージックに対するザ・フーの回答になっていて、彼らの潔さというか、生涯一ロックン・ローラーとしての決意が格好よかった。だからこのアルバムでは彼らの音楽性よりもピートの書いた詞や時代に対峙する姿の方に心が動かされた気がする。

 自分はザ・フーとは現在から過去に遡るかのように次々とアルバムを聞いていったようだ。1975年に発表された7枚目のアルバム「ザ・フー・バイ・ナンバーズ」は、ジョン・エントウィッスルの描いたアルバム・ジャケットが面白かったので聞いたのだが、シンセサイザーがフィーチャーされていないせいか、自分にとっては好印象の内容だった。5
 "Squeeze Box"は初期の彼らのシングルのようにポップで、逆に"Slip Kid"や"However Much I Booze"、"Dreaming From the Waist"などはライヴで映えるような曲だった。

 ピート自身はこのアルバムをあまり評価していないようだが、ニッキー・ホプキンスも参加した"They Are All in Love"や、意外にもロジャーのソウルフルな声が楽しめる"Imagine A Man"のようなバラード曲もよくて、自分にとってはお得な買い物をした気分だった。全体としてあっさりとしているのが、逆によかったのかもしれない。この辺からザ・フーって結構いけるじゃんと思い始めたのだった。
(To Be Continued)

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2012年5月13日 (日)

レイ・デイヴィス

 なぜか自分のCDラックにはレイ・デイヴィスのソロ・アルバムが1枚だけある。これは当時の雑誌のアルバム・レヴューを読んで、よさそうに書かれていたので購入したからだ。2006年に発表された「アザー・ピープルズ・ライヴズ」というタイトルのアルバムだった。

 アルバムの帯には“キンクスのレイ・デイヴィス、初のソロ・アルバム”とあったのだが、レイは、1998年に「ストーリーテラー」というアルバムを発表している。あれはソロ・アルバムではなかったのだろうか。それともセルフ・カヴァーでライヴ作品だったからソロ・アルバムとはカウントしなかったのだろうか。

 レイは、当時は(そしておそらく今も)ロンドンとアメリカのニューオーリンズに住んでいて、本人談では“マスウェル・ヒルを出てから自分の居場所にしっくり来たのは初めて”というまさに理想郷ともいえる場所で、制作されたアルバムでもあった。

 ニューオーリンズというからには、さぞかしジャズやブルーズの影響を受けているのではないかと思ったりしたのだが、一聴した限りは全くそんな事はなく、キンクスのときよりもしっかりとしたボーカル・スタイルを楽しむことができるし、一曲一曲がよく練られているようで、タイトな音作りになっている。Photo

 日本盤ボーナス・トラックを入れて全13曲、キンクスのようなトータル・アルバムではなくて独立した曲群で占められている。このアルバム制作時のレイは62歳。全然年齢を感じさせない声と巧みな曲作りは健在で、聞いていくとついつい引き込まれてしまう。

 特に2曲目の"After the Fall"や6曲目の"Run Away From Time"にはレイの迫力あるボーカルを味わうことができる。とても60を過ぎた人とは思えない力強さである。また聞きようによっては、ストーンズのキース・リチャーズのような声質をしている。素面のときのしっかりしたキースのようだ。
 また11曲目の"Stand Up Comic"は英米流のコメディアンになったかのように、早口でまくしたてていて、まるでラッパーのように歌っている。

「俺は本当にひどく落ち込んでいた
そして今回は以前より立ち上がるのが
難しかった
俺は天国や目の前に見える光景に
向って叫んだ“助けてくれ”
すると“いや無理だ”という返事が
返ってきた

落ち込みが終わったあとは
おまえは自分の道を歩むだろう
奴らはこの戦場のような場所では
片付けるべき難破船だ
奴らには償うべき時間が多い
だけど暗くなったら
ここから身を隠した方がいい

厳しい冬の間は
おまえは恐れを感じている
だけど霧が晴れたら
太陽は再び輝きだすだろう」
("After the Fall" 訳;プロフェッサー・ケイ)

 疾走感のあるノリノリのロックン・ロールはさすがに演じていないのだが、それを上回るほどのソングライティングとボーカルなのである。キンクスのアルバム発表の予定はないけれど、今年で68歳になるとはいえ、この調子ならまだまだあと数枚はいけると思うのだが、どうだろうか。

 ある評論家が、レイはポール・マッカートニー並みの作曲能力を持っていると言っていたが、それはどうかなと思うものの、確かにポールと比較の対象になってもおかしくはない能力はあると思う。キンクスのほとんどの曲は彼の手によるものだし、アルバム・プロデュースも自分で行っている。
 確かイギリス王室から勲章ももらったと思うのだが、それくらいイギリスの文化や経済に貢献したということだろう。

 偏屈で変人ともいわれているレイであるが、ニューオーリンズのどこかで、ファンを驚かすような企画を考えているのかもしれない。

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2012年5月 8日 (火)

キンクス(2)

 1971年に発表されたアルバム「マスウェル・ヒルビリーズ」を、彼らの最高傑作アルバムと推す人もいるが、自分はそうは思えなかった。あまりにもアメリカ志向が強すぎて、とても彼ら本来の姿ではないと思ったからだ。

 1曲目の"20th Century Man"はスライド・ギターが目立つし、2曲目の長いタイトル"Acute Schizophrenia Paranoia Blues"ではブラス・サウンドがフィーチャーされて、まるでディキシーランド・ジャズとブルーズが融合したような感じだった。続く"Holiday"もバンジョーやアコーディオンが隠し味となって、レイ・デイヴィスのアメリカン・ミュージックへの憧憬がにじみ出てきているとしかいいようがないアルバムだった。4
 確かに悪いアルバムではないし、アメリカ南部の音楽が好きな人にはたまらないサウンドだと思うのだが、個人的にはちょっとニュアンスが違うと思った。

 マスウェル・ヒルとは兄のレイ・デイヴィスと弟でギタリストのデイヴ・デイヴィスが生まれ育った場所の名前で、アルバム・ジャケットにあるパブも実在するものだという。

 この場所で6人姉妹と2人兄弟の計8人+両親の10人家族で育ったレイは、生まれたときから音楽好きな姉や両親に囲まれていた。家族の愛情を一心に受けていたのだが、3年後に弟デイヴが生まれてからは、彼らの関心は末っ子に移っていった。彼ら兄弟の仲が悪いのも、幼い頃の兄弟関係のトラウマが原因だという人もいる。

 またレイヴンズというバンドを結成したのは弟のデイヴの方だったし、それに後から便乗する形で兄のレイが参加してキンクスが結成されたという経緯があった。弟からすれば、後から来て何を勝手なことを、という憤りみたいなものもあったに違いない。

 のちに彼ら兄弟が移動する飛行機も別なら泊まるホテルも別になったというのも、様々なささいなボタンのかけ違いが大きくなって、結局そうなってしまったのだろう。兄弟というのは仲がいいときは本当に美しいけれど、一旦仲違いが始まると徹底して嫌いあうから始末に終えない。流れている血がほぼ同じようなものだから、トコトン排除してしまうのだろう。困ったものである。

 ところでこの「マスウェル・ヒルビリーズ」は、当時のRCAレコードに移籍しての最初のアルバムでもあった。60年代の後半から彼らはトータル・アルバムを制作していたのだが、レコード会社を移籍してもこの傾向は変わらず、むしろ一層拍車をかけるかのように次々とその手のアルバムを発表していった。

 あくまでも個人的な趣味なのだが、自分の好きなアルバムは、アリスタ・レコードに移籍した最初のアルバム「スリープウォーカー」である。まさに原点回帰というか、ロックンロールの楽しさと、ソリッドでシャープな彼らの音楽性が戻ってきた感があるからだ。5
 ここでのデイヴのギターは見事だし、はっきりいってこんなに上手だったかなあという気がしないでもないのだが、とにかくどの曲も彼のギターはカッコいいのである。また4曲目のバラード"Brother"は涙なくしては聞けない。“2人でやっていけばうまくいく”というのはレイからデイヴに向けたメッセージなのだろうか。後半のコーラスやギターの盛り上げ方が素晴らしい。

 やはりロックはこうでないといけない。トータル・アルバムもいいが、音楽よりもアルバムの主張性に縛られてしまい、音楽が主なのか、思想性が主なのかはっきりしなくなる。時として共倒れになってしまうし、音楽が付け足しになってしまって、せっかくの内容やミュージシャンの才能が埋もれてしまう場合もある。

 だからキンクスは演劇志向もいいのだけれど、原点回帰というか、やはりこの「スリープウォーカー」のようなロックンロールを演奏してほしいと願っている。

 このアルバムが出たときは、まさにパンク・ロックの嵐だったが、キンクスは逆にモッズ再評価のブームを受けて、イギリスではストーンズとは全くの逆の立場になり、パンクの元祖とまで謳われるようになった。しかし、不思議なことに彼らはアメリカに留まったまま、イギリスに帰ろうとはしなかった。
 そして翌1978年には「ミスフィッツ」、79年には「ロウ・バジェット」とヒット作を連発していくのである。

 そしてもう1枚好きな作品を挙げるとなると、1970年の「ローラ対パワーマン、マネーゴーラウンド組第1回戦」である。いわゆるトータル・アルバムなのだけれど、シングル・ヒットもあり、音楽的に聞きやすくポップであり、内容的にも充分刺激的だった。3
 当時のデイヴの心象風景がそのまま描かれていて、特に当時のマネージャーだった人の暴利を貪る姿を描くところは、まさに英国流ブラック・ユーモア(というよりも暴露合戦か)でもある。

 自分は遅れてきたキンクス・ファンであり、彼らの作品を充分味わっているとは言い難い。むしろ半分以上は知らないだろう。自分にとって彼らの音楽がよく分からなかったのも、トータル・アルバムが多かったせいなのかもしれない。しかしそんな自分をもひき付けてくれる彼らの音楽は、やはりロックの歴史に残るような素晴らしいものなのだ。

 1996年以降、キンクス名義のアルバムは発表されていないけれど、正式に解散は表明されていない。できればもう1枚ノリノリのロックンロール・アルバムを発表してほしいものである。

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2012年5月 3日 (木)

キンクス

 日本で最も知名度の低いブリティッシュ・3大ロック・バンドといえば、キンクス、ザ・フー、ジェスロ・タルと言われてきた。確かにこの3つのバンドは、本国では有名で人気も高いのだが、70年代の日本ではマイナーで、コアなロック・ファン以外は、誰も見向きもしなかった。あるいは見向きもしても、進んで彼らのアルバムを購入しようとする人は少なかったし、少なくとも自分の周りには誰もいなかった。

 そんな自分がジェスロ・タルに目覚めたのが1978年で、ザ・フーをまともに聞いたのが、1979年頃だったように思う。しかし残りのキンクスにはさっぱり触手が動かなかった。

 彼らの興味を持ち始めたのは、ヴァン・ヘイレンが"You Really Got Me"をヒットさせたあとだった。この曲はそれまでラジオなどから流れていたのを聞いたことがあったので名前ぐらいは知っていたのだが、オリジナル・ヴァージョンを聞くまでには至らなかった。なにせ1964年に発売されたものだし、その頃はまだ赤ん坊だったから聞いても理解不能だったろう。

 初めて彼らのアルバムを買ったのは、1980年に発表されたライヴ・アルバム「ワン・フォー・ザ・ロード」だった。これは彼らの1979年の全米ツアーを収めたもので、初期のヒット曲"Stop Your Sobbing"から"Lola"、"Victoria"、当時の最新アルバムだった「ロウ・バジェット」からの"Attitude"など、彼らの魅力がたっぷりとパッケージされたものだった。Photo
 ここから逆に彼らの歴史を振り返るようになり、パイ・レコード時代のベスト・アルバムや1968年の「ヴィレッジ・グリーン・プリザヴェイション・ソサイエティ」などを購入した。

 でも残念ながら、ベスト・アルバムはシングル中心で、彼らのシングルは自分にとっては当たり外れが大きかったから、ベスト盤とはいいながらイマイチ好きになれなかった。
 また「ヴィレッジ・グリーン・プリザヴェイション・ソサイエティ」は、その名の通り牧歌的でフォーク調だった。"You Really Got Me"とは対極をなす曲群で占められていて、ちょっと期待ハズレだった。自分はソリッドでワイルドなものを求めていたのである。6

 キンクスはこの1968年から大作志向を取り始め、いわゆるロック・オペラ的なトータル・アルバムを制作するようになった。これはリーダーであるレイ・デイヴィスの意向であるが、彼の中に大衆演劇好みの血が流れているからだろうか。
 だから翌1969年に「アーサー、もしくは大英帝国の衰退ならびに滅亡」、1970年には「ローラ対パワーマン、マネーゴーラウンド組第1回戦」などの傑作を発表した。

 しかし前者の「アーサー、もしくは大英帝国の衰退ならびに滅亡」は前年に発表されたザ・フーのロック・オペラ「トミー」の二番煎じと見なされ、商業的には成功しなかったし、後者のアルバム「ローラ対パワーマン、マネーゴーラウンド組第1回戦」にはシングル・ヒットを記録した"Lola"、"Apeman"などが収められていたせいか、久しぶりにヒットするもののなぜか日本ではほとんど話題にもならなかったらしい。やはりタイトルが長すぎたからか、それとも内容的にとっつきにくかったせいだろうか。2

 大雑把に言って、キンクスは初期のビート・バンドの時代と、60年代後半から70年代初期にかけてのトータル・アルバムの時代、70年代後半以降のロックンロール・バンド時代の3つに分けられると思っている。第1期がパイ・レコード時代、第2期がパイ・レコードの後半とRCAレコードのとき、そして第3期がアリスタ・レコードに移籍した以降の時代にあたる。

 キンクスは1965年の全米ツアーのときに、暴力事件やツアーの遅刻などを行ったせいで、4年間アメリカ興行禁止という処分を受けてしまう。その腹いせというか鬱憤晴らしという意味もあったのではないか、レイは自分の趣味であるトータル・アルバム志向とアメリカへの郷愁を込めた音作りを求めていったように思える。だからフォーク調の「ヴィレッジ・グリーン・プリザヴェイション・ソサイエティ」やアメリカ南部のサウンドの匂いがプンプンする「マスウェル・ヒルビリーズ」を制作したのではないだろうか。
(To Be Continued)

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