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2012年6月

2012年6月27日 (水)

ジョージィ・フェイム

 モッズ・バンドやモッズの音楽について、いろいろと書いてきたけれども、最後に重要なミュージシャンを忘れていた。60年代のイギリスを代表するモッズ・バンド、ジョージィ・フェイム&ブルー・フレイムズのリーダーで、ソロでも活躍しているジョージィ・フェイムである。まさにモッズの黎明期を飾ったような人で、昨日(6月26日)で69回目の誕生日を迎えている。

 ただ自分は60年代当時の空気を吸っていないので、彼の人気ぶりや影響力を現実的に感じていない。だからよくわからないというのが正直なところではある。ただ、ポリドールから発売されている彼のベストアルバム「ジョージィ・フェイム~20ビート・クラシック」を聞くと、当時はこういう音楽がクラブなどで流れていたんだなあということが実感できた。Photo
 全20曲でほとんどがR&Bやモータウン音楽のカバーである。たとえば有名どころでは、テンプテーションズの"My Girl"、ジェイムス・ブラウンの"Papa's Got a Brand New Bag"やマーヴィン・ゲイの"Pride & Joy"などがあるし、また、デヴィッド・ゲフィン&キャロル・キングのクレジット曲"Point of No Return"やウィリー・ディクソンの"I Love the Life I Live"なども収められていて、まさに“黒っぽい”音楽で埋め尽くされている。

 特に"Pride & Joy"の間奏では、彼特有のハモンド・オルガン・プレイを聞くことができる。当時から彼のキーボード・プレイは折り紙つきだったようだ。また演奏だけでなく、意外とボーカルもイケルのであった。
 前々から言っていたけれど、モッズになる必要条件にはこういうR&Bやソウル・ミュージックが大好きでなければならないのである。

 ジョージィ・フェイムは芸名で、本名はクライヴ・パウエルという。彼の父親はピアノやアコーディオンが得意だったようで、幼いジョージィも自然と音楽に触れていった。
 また7歳ごろから本格的にピアノを学び始め、15歳で学校を卒業したあとは働きながらバンド活動を始めている。そして地元で行われたのど自慢コンテストに参加した後、当時のロカビリー歌手だったローリー・ブラックウェルという人から誘われてプロ並みの活動を行うようになった。

 彼にスポットライトがあたったのは16歳のときで、イギリスでジーン・ヴィンセントやエディ・コクランなど、当時の大スターがツアーを行ったのだが、そのときのバック・バンドのメンバーに採用された。そのときはすでにジョージィ・フェイムと名乗っていたのだが、16歳でメンバーになったのだから、やはりそれなりの技能を持ち合わせていたのだろう。

 彼がモッズ・ムーヴメントを代表するミュージシャンになったのは、時代のブームというものもあったのだろうが、当時のモッズの聖地とされたロンドンのフラミンゴ・クラブでレギュラー出演するようになったおかげでもあろう。

 ロカビリー歌手のビリー・ヒューリーの後を継いで、バンドリーダーとなったジョージィは、ジョージィ・フェイム&ブルー・フレイムズとして、アフリカ系アメリカン人兵士やジャマイカ人などを相手にロンドンの裏町でクラブ出演を果たすようになった。
 
 そこでは午後11時までは普通のジャズが演奏されていたが、深夜をまわると仕事を終えたアメリカ人兵士などがやってきて、朝まで騒いでいた。ジョージィたちはロックン・ロール発祥の国から来た人たちを相手にR&Bやジャマイカ音楽を朝6時まで演奏していたのである。
 当時はジャズとR&Bバンドが交互に演奏していて、ジョージィたちの対バンとして出演していたジャズ・バンドにはジンジャー・ベイカーやジャック・ブルースがやっていたという。

 彼はこのクラブで、ひとりのアフリカ系アメリカ人兵士からブッカー・T&M.G.’sのレコードを貰うのだが、そこに演奏されていたハモンド・オルガンに衝撃を受けて、翌日すぐにオルガンを購入した。彼が19歳頃のお話である。ちなみにそのレコードというのは、彼のベスト盤にも収められているインストゥルメンタル曲の"Green Onions"であった。

 1963年に、彼はソロではなくバンドとしてデビューした。それが「R&B・アット・ザ・フラミンゴ」というライブ・アルバムで、夜毎自分たちのホームグラウンドで繰り広げられるホカホカの音源をパッケージしたものである。
 65年には"Yeh Yeh"が、66年には"Getaway"がシングル・チャートでNo.1を、3rdアルバム「スィート・シングス」がアルバム・チャートでNo.2を記録し、彼らの人気はピークを迎えた。

 ビートルズ全盛のこの時期に、No.1になったのだから、たいしたものである。イギリスにはアメリカや中米からの移民が多かったというのもその背景にあるのだろう。
 モッズたちもイタリア製?スーツを身にまとい、ヴェスパを乗り回しながら、アメリカ直輸入の音楽を聞いていたのであるが、ジョージィのおかげもあって、自国のミュージシャンによるR&Bなどを聞くことができるようになった。

 この人気絶頂のときにバンドは解散し、ジョージィはソロ活動を行うのだが、それはひとつはマネージメント側の戦略でもある。同時期のバンドにマンフレッド・マンというのがあって、のちにはプログレッシヴ・ロック・バンドに変身するのだが、そのバンドにいたボーカリストのポール・ジョーンズと同様に、彼もまたソロで売り出そうとしたのだろう。

 残念ながらジョージィもポール・ジョーンズもソロでは上手くいかず、ジョージィは80年代終りまで鳴かず飛ばずだったが、89年にヴァン・モリソンとのコラボから音楽シーンに再登場するようになった。
 最近では、ストーンズを脱退したビル・ワイマンのバンドで活動したり、クラプトンや若手バンドのヴァーヴなどと共演している。また、2009年のグラストンベリー・フェスティヴァルのジャズ・ステージではヘッドライナーとしての出演を果たしている。また2人の息子と一緒に演奏活動も行っているようだ。2
 というわけで60年代~90年代のモッズ・ムーヴメントとその時々のモッズに愛された音楽やミュージシャンを紹介してきたのだが、R&Bやソウル・ミュージックは海を越え、イギリスではモッズたちにも愛された。
 逆にイギリスはザ・ビートルズを始めとしたブリティッシュ・インヴェイジョンでアメリカにお返しをするのだが、そのザ・ビートルズやザ・フーたちもデビュー当時はモッズ・ファッションだったことを考えれば、いかにモッズの影響が強かったということが分かると思う。

 そして、このモッズ・ムーヴメントが21世紀に入って、どのように変貌していくか、どんなバンドが影響を受けて出てくるか、それは今後のお楽しみといったところだろうか。

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2012年6月22日 (金)

オーシャン・カラー・シーン

 このところずっとイギリスのモッズ・バンドについて書いてきたのだが、ようやく90年代までこぎつけることができた。長かったというのが本音であるが、一方では、あくまでも上っ面を眺めただけで、もう少し詳しく語れる力量があればと思っている。

 それで80年代のネオ・モッズ・ムーヴメントは、70年代のパンク/ニュー・ウェイヴの波を受けながら、モッズの再評価から生まれた。その担い手はおもにポール・ウェラーだったように思えるのだが、彼以外にもミック・タルボットが在籍していたマートン・パーカス、イアン・ペイジ率いるシークレット・アフェアー、他にコーズ、メイキン・タイム、スクワイアーなど様々なバンドがムーヴメントを牽引していた。

 そして90年代になると、モッズとしての伝統(ファッションや音楽の嗜好性など)を踏まえた上でダンス・ミュージックの影響を受けながら、ネオ・ネオ・モッズ・ムーヴメントが生まれてきた。その代表的なバンドがメンズウェアやブラー、そして今回のオーシャン・カラー・シーン(以下、OCSと略す)なのである。

 これらのバンドの中で、現在でも生き残っているのはOCSくらいかもしれない。メンズウェアは数年で解散し、今は影も形もないし、ブラーは途中でモッズ・サウンドから離れてしまい、バンド自体も解散状態になっているからだ。

 またOCSは、“モッド・ファーザー”であるポール・ウェラーと結びつきが深く、バンド・メンバーの数名が彼のアルバムやライヴに参加するなど、まるで舎弟関係のようである。実はOCSの不遇時代に、彼らの音楽を気に入ったポールがツアーに参加させて経済的な援助をするなどサポートしてきたからで、音楽面だけでなく精神的にもポール・ウェラーのお墨付きを得ていたのである。

 彼らが結成されたのは1989年、デビューはその翌年だった。今でこそ“ブリット・ポップ”という名称で、1990年代初頭のバンドはひとくくりにされがちなのだが、彼らはそのブームを生き延びることができたように、決して流れに便乗したバンドではなかったのである。

 最初は名門のフォンタナ・レコードからデビューしたものの、プッシュが弱かったせいかさっぱり売れず、次にアイランド・レコードからアルバム「モーズリー・ショールズ」を発表した。これが1996年のことで、このアルバムから4枚のシングルが発表され、アルバム自体も全英2位を記録し、一躍彼らは時の人になってしまうのである。
 また当時のオアシスのサポーティング・バンドとしてツアーの前座を務めて、評論家の耳目も集めるようになった。

 波に乗っているときは一気に押し切るのは、ビジネスでも人生でも同じことである。全英2位の勢いをかりながら制作した3枚目のアルバム「マーチング・オールレディ」は堂々の1位を飾り、ここからは彼らがメイン・アクトとしてツアーを行うようになり、オアシスのアルバム「ビー・ヒア・ナウ」もチャートから蹴落としてしまう。まさに大出世、この世の春であった。

Photo_2  自分がこのアルバムを最初に聞いた印象は、“ブリット・ポップ”というよりは“ブリット・ロック”に近い、かなりハードな音作りということだった。シングルカットされた1曲目"Hundred Mile High City"のリフのせいだろうか。はっきり言って当時のオアシスの楽曲よりもギターが前面に押し出されている。
 次の"Better Day"はピアノ中心のミディアム・バラードで、3曲目はタイトル通りのノリのよい"Travellers Tune"。実はアルバムの1曲目から3曲目まではシングルカットされていて、このアルバムを代表する曲群になっている。

 もちろんこれら以外にもいい曲は多く、ビートルズ的な"Debris Road"、アコースティック・ギターに導かれたバラード"Besides Yourself"、シンプルなメロディにサイケデリックなギターが絡む"Get Blown Away"など、まさに捨て曲無しといった感じがした。全英1位は偶然の結果ではないのである。

 そして1999年にはバンド結成10周年を記念して、「ワン・フロム・ザ・モダン」が発表された。このアルバムは前2作に比べて、比較的おとなしくて地味である。
 1曲目の"Profit in Peace"は反戦歌、いわゆるプロテスト・ソングで、そのメッセージが伝わるようにテンポを落としているかのようだ。また次の曲もミドル・テンポで、メロディ自体は美しいものの1曲目と続けて聞くと、そこはかとなく寂しさを感じる。

 3曲目以降になって、やっと本来のOCS節を聞くことができたと思ったのだが、リズミカルでノレる曲は"I am the News"くらいか。シングルカットされた"July"のイントロを聞いたときは期待できそうだったのだが、ちょっと装飾音が多くて、中途半端な感じがした。

 前々作や前作が良すぎたせいか、このアルバムは少し物足りなかった。チャート的には全英4位を記録したのだが、セールス的にはそれまでの2作のアルバムには及ばなかった。ただポール・ウェラーに捧げた"Soul Driver"やポール・ウェラー自身も前作に引き続いて参加したことは、モッズ・ファンにはうれしい贈り物になったことだろう。2
 残念ながら2000年以降は“ブリット・ポップ”ブームの終焉と、消極的なネオ・ネオ・モッズ・ムーヴメントの盛り上がりからOCSは低迷していった。さらにメンバー・チェンジやレコード会社の移籍が行われたことも原因かもしれない。
 だいたいレコード会社の移籍は大口の契約になるか、売れなくなって契約先を探した結果のどちらかになるのが普通である。OSCは後者になったようだ。

 しかし2010年には「サタディ」というアルバムを発表して、健在振りを示してくれた。彼らはどういう状況になっても、モッズ精神を忘れずにマイ・ペースに活動を続けている。
 OCSはデビュー当時はさっぱり売れず、ポール・ウェラーの物心両面にわたる援助で何とか不遇の時代を乗り切ったと最初に書いたのだが、そのときの苦しい経験が21世紀に入っても生きているようだ。

 古くはザ・フーやキンクス、新しくはポール・ウェラーやOCSなど、モッズの体現者は何かしらの恵まれない時を過ごしているようだが、それをバネとして力強く甦るのもモッズ精神の表われなのかもしれない。

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2012年6月17日 (日)

ポール・ウェラー(2)

 ポール・ウェラーの90年代初頭は不遇の時代だった。1990年にスタイル・カウンシルを解散した後は、しばらく音楽から離れて自分を見つめ直していたようだ。

 結局、1991年にはポール・ウェラー・ムーヴメントという名前で、ソロ活動を始めた。しかも当時も今も考えられないことなのだが、小さなクラブやホールなどを中心にライヴ活動を行い始めたのである。
 痩せても枯れてもあのポール・ウェラーである。70年代後半はザ・ジャムで、80年代はスタイル・カウンシルで、全英No.1シングルやアルバムを発表していたポール・ウェラーが、地方まで足を伸ばし、しかも収容人数300人以下の会場で演奏することなど、普通はありえないことなのだが、そのありえないことがおこったのである。

 例えて言うなら、桑田圭祐や佐野元春がソロで地方のクラブまわりを行うようなものである。しかも一部のファン以外は足を運ばず、客入りの悪い時もあったという。さらにはシングルやアルバムも大手レコード会社から発表を拒否され、自主制作レーベルやマイナーな会社から発表せざるを得ない状況も重なっていた。

 90年当時の彼を取り巻く状況はまことに酷いもので、本国イギリスでは完全に“あの人は今”扱いだった。
 逆に日本では、モッズ・ファンを含む相変わらず熱烈な彼のファンがいて、そのせいかポニー・キャニオンから発売されている。売り上げの結果からも会社の判断は正しいことが証明された。

 1stアルバム「ポール・ウェラー」は1992年に発表されて、結果的には全英8位という微妙な位置に落ち着いている。たぶん本人は満足しなかっただろうけれども、これで今後も音楽をやれるという自信にはつながっただろう。
 翌年には早くも2枚目のアルバム「ワイルド・ウッド」が発表され、ここから4枚のシングルがヒットし、アルバムも全英2位という素晴らしい結果を残した。ポール・ウェラーの完全復活は、ここについに成し遂げられたのであった。

 個人的に彼のソロの中で一番好きなのは、1995年に発表された「スタンリー・ロード」だ。このアルバムを聞くと、本当に彼がモッズであるということがわかるからだ。つまりアメリカのソウル・ミュージックやR&Bの影響を感じることができるし、さらにはこのアルバムではアメリカ南部のテイストもうかがうことができる。彼の音楽性がソロ活動を通してさらに拡大したことがわかった。3_2
 3曲目の"I Walk on Gilded Splinters"はドクター・ジョンのカバー曲で、オアシスのノエル・ギャラガーがアコースティック・ギターで参加している。ドクター・ジョンの雰囲気はよく出ていて、90年代のイギリス音楽シーンでは異色の作品だと思う。
 また"Woodcutter's Son"や"Pink on White Walls"ではあのスティーヴ・ウインウッドも参加していて、ピアノやオルガンを演奏している。この辺はまさに“モッド・ファーザー”としての面目躍如である。
 さらにはスタイル・カウンシル時代の盟友、ミック・タルボットやスティーヴ・ホワイト、オーシャン・カラー・シーンのギタリストであるスティーヴ・クラドックも参加してアルバムを盛り上げている。

 彼の音楽性は首尾一貫している。確かに1977年にザ・ジャムでデビューしたときは、パンク・ムーヴメントに便乗するような形にはなったが、その底流にはスモール・フェイセズやザ・フーの精神や音楽性が流れていた。彼らの音楽をパンク・ロックを通して焼き直していたのである。

 前回のブログでも述べたように、ザ・ジャムの後期ではソウル・ミュージックの影響を受けた音楽を奏でていたし、スタイル・カウンシル時代でもファッショナブルでソウルフルな音楽をやっていた。60年代のモッズと同じように、その志向する音楽性は変わっていないのである。

 また彼の言動も変わらない。次々と目新しい音楽をやっているようではあるが、同じことは繰り返さないし、過去を回顧するようなイベントや催しには断固として参加しない。常にいまの自分を見よと言っているかのようだ。
 だからザ・ジャムの再結成はしないし、スタイル・カウンシルのような音楽をソロ活動で行うことはない。頑固といえば頑固であり、信念を通すといえば通しているのである。

 ポール・ウェラーの90年代のソロ時代を簡単に知ろうと思えば、取りあえずベスト盤が最適だろう。これを聞けば、確かに彼の音楽性は変わっていないことがわかるからだ。2
 このベスト盤には、アルバム「ポール・ウェラー」から3曲、セカンド・アルバムの「ワイルド・ウッド」から3曲、「スタンリー・ロード」から4曲、97年の「ヘヴィ・ソウル」から4曲、それにライヴや新曲なども含まれていて、満遍なく90年代の彼のソロ活動を味わうことができる。

 54歳になった今でも彼の創作意欲は衰えていない。今年になってジャーマン・ロックに影響された実験的でアバンギャルドな音楽性の「ソニック・キックス」というアルバムを発表して、これまた全英1位を獲得しているが、彼はこのアルバムについてこう述べている。『自分がこれまで慣れ親しんできた安全ゾーンには甘んじたくないっていう気持ちからだよ。以前と同じ人間に同じ楽器を弾いてもらっても同じような作品しかできないだろうし、そういう自分の型には、はまりたくなかったんだ』4
 相変わらず同じ路線は踏襲しないポール・ウェラーである。これもモッズ精神のなせる業なのかもしれない。

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2012年6月12日 (火)

ポール・ウェラー

 今もそうなのだけど、高校生のときもファッションなんかには全く疎かった。夏はTシャツと適当なズボンで過ごし、夏以外ではTシャツの代わりに黄色のヤッケを着ていた。
 当時はスーパー・カブに乗っていたからヤッケは暖かかったし、雨が降っても平気だった。またポケットもいっぱいあって収納にも便利だったし、何しろ値段が安くて貧乏だった自分にはまさに手ごろなファッションだった。当時の同級生からもよくからかわれたものである。

 でもその当時から遡ること約10年前のイギリスのロンドンでは違っていたみたいで、同じバイクでもむこうはミラーがたくさん付いたヴェスパに乗り、黄色いヤッケではなくカーキ色のミリタリー・パーカーと三つボタンのスーツを着ていたのである。いわゆるモッズであった。この現象は1950年代の後半から目立つようになったらしい。

 モッズとは"Moderns"の略だそうで、三つボタンのスーツと細身のネクタイに身を固め、そのスーツが汚れないようにパーカーをまとって、ヴェスパなどのスクーターに乗っていた若者集団のことを指す。彼らがお手本にしていたのはイタリアを中心としたヨーロッパのファッションだった。
 しかし普段の好みの音楽といえば、アメリカのR&B、ソウル・ミュージックやジャズで、またそれらから影響を受けたもの(今でいうレゲエやスカなど)も聞いていた。

 モッズは、ロンドンの裕福な労働者階級の間から自然発生的に始まり、その後各地に広がって行った。その影響を受けた人たちの中にはスモール・フェイセズやキンクス、ピート・タウンゼンドなど、世界的に認知されるバンドやミュージシャンも数多く出てきた。

 モッズ・ブーム自体は60年代半ばで消えていったのだが、その影響を受けた音楽は、イギリスの音楽シーンのひとつの水脈となって、時に深く潜行しながら時にブームとなって、流れていったのである。

 1977年にザ・ジャムという3人組のバンドがデビューした。自分はパンク・ロックは嫌いだったので、ほとんど彼らの曲を聞いたことがなかった。1曲だけ"In the City"というのを聞いたことはあったが、疾走感溢れる曲で確かにパンキッシュだった。でも衝撃度から比べれば、他のパンク・バンドの方が優っていると思っていた。
 しかし、彼らの写真を見る限りでは、他の貧乏たらしいパンク・バンドとは一線を画していた。何しろ細身のスーツにリッケンバッカーのギターを持っているのである。これはどう見てもある程度のお金に余裕がなければできないことだと思った。Photo
 考えてみれば、ザ・ジャムはパンク・バンドではなく、ニュー・ウェイヴ・バンドだったのである。当時の自分にはそれがわからなくて、どれもこれもパンクだと思い、十把一絡げに考えていた。
 ザ・ジャムはのちにR&Bやモータウンなどのソウル・ミュージックの影響を受けた楽曲作りを行うようになったのだが、デビュー当時はそこまで分からなかった。

 このザ・ジャムの中のボーカル&ギター担当がポール・ウェラーだった。彼のいたザ・ジャムのアルバムや1979年に公開された映画「さらば青春の光」などの影響で、70年代後半からネオ・モッズ・ブーム、いわゆるモッズのリバイバイル・ブームが起こった。だからポール・ウェラーは“モッズ中興の祖”であり、多くのモッズ・ファンから“モッド・ファーザー”と呼ばれるわけである。

 彼は約6年間という短いザ・ジャムの期間を経て、2人組のユニット、スタイル・カウンシルを1983年に結成した。25歳のときである。もうひとりの相手もネオ・モッズ・バンド、マートン・パーカスのオルガン奏者で、ミック・タルボットというミュージシャンだった。

 自分はザ・ジャムのアルバムを聞き通したことはなかったが、スタイル・カウンシルのアルバムは買って聞いたことがある。1984年の「カフェ・ブリュ」だ。Photo_2
 このアルバムの中の"You're the Best Thing"をラジオで聞いて一発で気に入ってしまった。お洒落でスタイリッシュ、そういう雰囲気が漂っている曲だった。それでこのアルバムを聞いたのだが、"You're the Best Thing"以外にも"My Ever Changing Moods"や"Here's One That Got Away"などジャジーで味わい深い曲もあって、このバンドが大好きになったのだが、しかしまさかザ・ジャムと関係があるとは思っても見なかった。

 自分は後期のザ・ジャムの音楽性を知らなかったので、180度正反対の音楽だと思ってしまったのである。もう少しポール・ウェラーについて詳しい人ならそんなことを思ったりはしなかっただろう。

 このスタイル・カウンシルは、1990年まで約7年間続いたのだが、あまりにもお洒落すぎて、自分は最後はついていくことができなかった。結局、ロック・ミュージックから離れ過ぎてしまい、流行の先端は走るものの、所詮、流行とは流れ行くものなのだろう、徐々にファンから見離されていった。ここからポールの苦悩が始まっていったのである。
(To Be Continued)

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2012年6月 7日 (木)

ブラー

 以前にも同じことを言ったと思うけれど、自分にとって90年代は、ついこの前みたいな感じがするのだが、よく考えてみると20年以上も前のことなのである。この認識のズレはどこからくるのだろうか。

 同じ20年という時間は、0歳から20歳と、20歳から40歳では違うような気がする。成人までは長い気がするのだが、おとなになってからではあっという間に過ぎていってしまう。また、これから迎える時間は長そうだが、過ぎた時間は短く感じる。音波にはドップラー効果というものがあるが、時間にもそんなものがあるのだろうか。

 それで90年代の洋楽について考えていたのだが、アメリカではグランジがブームとなり、海を越えてイギリスにも影響を与えていた。一方、そのイギリスでは、それに対抗するかのように、英国流の、いわゆるブリット・ポップが興隆していき、数多くの新人バンドが登場してきた。その代表例がオアシスであり、今回紹介するブラーなのである。

 90年代のイギリスではブラーvs.オアシスという構図があって、お互いにライバルというか、むしろ敵視しながら競いあっていた。オアシスはマンチェスターから出てきていて、ロンドンの中産階級出身であるブラーから見れば、地方出身の労働者階級のバンドだった。
 デビューはブラーの方が3年早くて先輩にあたるのだが、オアシスのギャラガー兄弟からすれば、そんなことは全く関係のないことだった。また、音楽性についてもビートルズ直系のポップ・テイストを備えていたオアシスに対して、ブラーの方はどことなくひねくれた音楽をやっていた。

 オアシスがデビューした1994年には、ブラーは3枚目のアルバム「パーク・ライフ」を発表して、これは全英1位を記録したが、オアシスのデビュー・アルバムもまた当時の最速記録で全英1位を記録した。

 オアシスはビートルズ直系の王道ギター・ロック路線だったが、ブラーの方は“踊れる音楽”という要素も備えていて、ノリのよさもまた彼らの魅力だった。これはのちにメンバーであるデーモン・アルバーンのユニット、ゴリラズに受け継がれることにもなった。

 イギリス人は、基本的にこのような“ひとひねりのあるポップ・ソング”、“奇妙な味のする音楽”が大好きなようで、たとえば60年代のキンクスや70年代の10cc、80年代のXTCのような音楽はいつの時代でも人気が高かった。自分は、そういう新奇主義みたいなものがイギリスのミュージック・シーンを牽引してきたと思っている。

 この「パーク・ライフ」というアルバムもまた、そういうイギリス人気質に合致していて、確かにメロディはポップで、しかもダンサンブル、また途中に挿入されているインストゥルメンタル1曲と歌入りの1分程度の3曲が、単なるポップ・ソング集に終わらせていない。むしろアルバム全体を引き締め、トータル・アルバムのような雰囲気を醸し出している。この辺もまた、60年代からのイギリスの伝統を引き継いでいるようだ。Photo
 確かにこのアルバムには"Girls&Boys"、"End of a Century"、"Badhead"などメロディの美しい曲が多く収められている。また"To the End"のように、ある意味では多様な音楽性を擁しているといえるだろう。

 1995年にはブリット・ポップを象徴するかのようなアルバム「グレイト・エスケイプ」を発表したのだが、この中に収められていたシングル"Country House"とオアシスのシングル曲"Roll With It"が同日発売という、いかにも周囲が競い合わせたようなキャンペーンが張られ、本人たちもそれに乗せられるかのようにヒート・アップしていき、ついにはあの有名なノエルのエイズ発言につながっていく。それほど相手を意識していたのであろう。

 しかしこの「グレイト・エスケイプ」というアルバムも幅広い音楽性を包含している。ブラー流ロックン・ロールの"Stereotypes"、オアシスに勝利したシングル"Country House"、ストリングスまで配置されたスロー・バラードの"Best Days"、キンクスが90年代に活躍していたら必ずこういう曲をやるだろうなという"Charmless Man"など、確かにいい曲が多いのもまた事実だ。2
 どうでもいいことだが、シングル対決ではブラーが勝利したが、アルバム対決では、この「グレイト・エスケイプ」よりはオアシスの「モーニング・グローリー」が世界的に売り上げを伸ばし、ともに全英1位ではあるが、売り上げではオアシスの方に軍配が上がっている。

 またデーモン・アルバーンはこのアルバムの制作時に次のように雑誌インタビューで述べている。『ポップな人というのは何かが壊れている。ポップな人は頭がおかしくて、ポップになればなるほど、頭もどんどんおかしくなる。ポップは寝室で始まり、スーパーマーケットで終わる。(中略)僕が“あっち”に行っちゃったのは、たぶん、ある生活モードから別なモードへの移行のせいだったんだと思う』

 やはり彼らも人の子、社会的な成功と引き換えに彼らなりのプレッシャーを味わっていて、そこから逃れるかのようにドラッグや夜毎のパーティに手を伸ばしていたのだった。だから彼らは、このときに制作したアルバムのタイトルを“大脱走”と名づけたのだろう。アルバム・ジャケットはレジャー写真のようではあるが、実生活では切羽詰っていたのであろう。
 そして彼らはイギリスを“脱走し”、アメリカ・ツアーに出かけるも、興行的には失敗し、大いなる失望を味わってしまうのだった。

 ブリット・ポップの黄金期はここまでで、彼らは1997年に“ブリット・ポップは死んだ”という言葉とともに、5枚目のアルバム「ブラー」を発表した。このアルバムはそれまでのポップネスは薄められ、アメリカのグランジの影響を受けたような音楽性に変化していた。このあとの彼らの音楽は、さらに実験的な方向に赴くのである。

 そしてオアシスの方は、一定の水準以上のアルバムを発表するものの、賛否両論だったし、「モーニング・グローリー」を越えるアルバムを発表することはなかった。またギャラガー兄弟の仲の悪さは相変わらずで、トラブルを起しながら90年代を過ごしていった。時には彼らの音楽よりも言動の方に注目が行き、ゴシップには事欠かなかったようだ。

 またライヴでは相変わらず人気が高かったが、その音楽性の方はそれまでの拡大再生産でしかなく、音楽的深化はほとんど見られなかった。

 90年代当時の自分は、ブラー対オアシスは知っていたのだが、ブリット・ポップという現象が、ここまで大きなものだとは分からなかった。イギリスに住んでいれば、少しは体感できたかもしれないのだが、遠く離れた極東の地ではなかなか難しかった。また当時は、音楽から距離を置かざるを得ない状況だったので、よけい疎かったのである。

 いずれにせよ、初期のブラーには、キンクスやザ・フーのような音楽にダンス・ミュージックの粉末を振りかけたような匂いがしていた。今年は彼らがリユニオンを行い、シングルも発表し、ヘッドライナーとしてイギリスを始め、ヨーロッパ各地でライヴ演奏を行っている。おそらく期間限定だろう。できれば90年代のようにアルバムの発表と、ネオ・ネオ・モッズ・ムーヴメントの再来を期待しているのだが、儚い夢に終わりそうである。

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2012年6月 2日 (土)

ピート・タウンゼンド

 何のかんのと、ザ・フーについていろいろと書いてきたけれど、結局自分は彼らについて何も知らないということが分かった。大体デビューして40年以上も経っているバンドを、たった数行で、あるいは数枚のアルバムを聞いただけで表せるわけがない。自分にはザ・フーを語る資格などはないだろう。

 そう思いつつも、自分のCD棚にはもう1枚彼らと関係のあるアルバムがあったので、それを引っ張り出しては聞いていた。それがピート・タウンゼンドのソロ・ベスト・アルバムだった。
 彼はけっこうソロ・アルバムを発表していて、1972年に最初のソロ・アルバム「フー・ケイム・ファースト」から2001年の「スクープ3」まで、ライヴ盤、他者とのコラボ盤を含めて15枚も発表している。いまさらこんなことを言ってもしょうがないが、彼は多作なのだった。

 実際、ザ・フーも基本コンセプトはピートが持ち込んだものだし、作詞作曲も手がけている。時にはリード・ボーカルも担当するということで、まさに60年代から八面六臂の活躍だった。ジョンやロジャー、それにキースなど、他のメンバーがソロ・アルバムを発表しているのは理解できるのだが、まさにバンドの頭脳とも言うべきピートがソロ・アルバムを発表するのは、よく理解できないままである。

 ザ・フーでは、まだまだやり残したことがあったのだろう。特に80年代に入ってからは、ほぼ1年から2年に1枚はアルバムを発表している。やはりケニー・ジョーンズに交代してからのザ・フーは、彼にとってはしっくりこなかったのだろう。彼の中に想起するザ・フーとサウンドとして表に出てくるザ・フーにはかなりの相違があったのではないだろうか。

 ところで自分は1枚だけ、しかもベスト・アルバムしか持っていない。これは1996年に発表されたもので、彼のそれまでのソロ・アルバムの中から15曲(そのうち1曲はリミックスなので、実際は14曲)選曲されたもので、あくまでも彼のソロ・キャリアの表面上をなぞったようなものである。Photo_4

 不思議なもので何度も聞いていくうちに、なかなかの名盤ではないかと思うようになってきた。1曲目の"Rough Boys"は80年当時のチープなシンセの音が耳につくが、それを上回るほどの素晴らしい疾走感やノリのよさを体感できた。ザ・フーのアルバムに収録されてもおかしくないほどの素晴らしい出来だと思う。

 次の曲"Let My Love Open the Door"も80年に発表された「エンプティ・グラス」に収録されていた曲で、初期のザ・フーのもっていた初々しいポップネスさと弾むビートに耳を傾けてしまうし、3曲目の"Misunderstood"はカリプソ・テイストを含んだアメリカ南部ミュージックである。この曲と8曲目のストリングス付きのミュージカル風の曲"Street in the City"はあのロニー・レインとコラボしたアルバム「ラフ・ミックス」から収録されたもので、ピートの趣味というよりロニー・レインの意向が反映されたものだろう。

 1972年の最初のソロ・アルバム「フー・ケイム・ファースト」からはアコースティック・ギターの音が美しい"Sheraton Gibson"と"Pure and Easy"の2曲が収録されていて、聞いていてしみじみといい曲だなあと実感した。ちなみにあとの曲のメロディの一部は「フーズ・ネクスト」の中にある曲に似ていると思う。

 他に印象に残った曲は"English Boy"で、イントロはハードな印象だったのだが、途中でリズムが変化して歌詞の少ないラップ気味に歌うところが面白かったし、バラード・タイプの"A Friend is A Friend"も89年のサウンドらしいものであった。(つまり女性バック・ボーカルとシンセで処理された音ということ)

 また"Slit Skirts"と"The Sea Refuses No River"の2曲は1982年のアルバム「チャイニーズ・アイズ」からとられたもので、メロディも上々だし、ポップ・チャートでもヒットしそうなものだと思った。

 収録曲の制作時期の幅は、最大限で20年以上の開きがあるのだが、不思議と違和感は無く、アルバム全体の統一感も備わっていて、何度でも聞きたくなった。これも制作者であるピートの才能のしからしむる所なのだろう。さすがイギリスの至宝ザ・フーのリーダーだけのことはある。

 これだけでは満足しない人のために、2枚組のベスト・アルバム「アンソロジー」も発表されている。全34曲なので上記のベスト盤の2倍以上収録されていて、アマゾンでは1800円で販売されている。これはお買い得と思うのだがどうだろうか。2
 ともかく今年の5月19日で67歳になったピートである。誕生日を記念して、彼の過去のソロ・アルバムを聞き返してみても悪くないと思う。いいアルバムが多いのだから。

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