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2012年7月

2012年7月28日 (土)

グレイト・ホワイト

 まず始める前に、約1週間前に訃報が飛び込んできた。あのディープ・パープルのキーボーディストのジョン・ロードが亡くなったということだった。享年71歳。初期のパープルの音楽的なリーダーであり、ハード・ロックでのキーボード・プレイヤーという立ち位置を確立した人だった。心から御冥福をお祈りいたします。また機会があれば、彼のことをこのブログでも取り上げて行きたいと思っている。

 さて“夏だ、ロックで節電対策”の第4弾、今回もロバート・プラントによく似た声質の持ち主がいるバンドを紹介しようと思う。その名もグレイト・ホワイト、80年代後半から90年代初頭にかけて活躍したアメリカのハード・ロック・バンドである。

 このバンド名は“ホオジロザメ”を意味していて、それで彼らのアルバムにはサメの写真やそれの一部を借用したものが頻繁に使用されている。Photo_2
 実は自分は個人的にこのバンドのことが好きなのだ。理由は、彼らがブームに便乗した単なる形だけのバンドではなくて、ブルーズを土台にした70年代的なサウンドを聞かせてくれるからであり、同時にギター&ボーカルがまるでペイジ&プラントのようだからだ。

 このバンドの結成は1978年と意外に古く、ボーカルのジャック・ラッセルとギターのマーク・ケンドールが中心となって、ロサンゼルスで結成されている。
 結成当初から60年代、70年代のブルーズやロックをやっていて、これはジャック・ラッセルの趣味を反映しているのではないかと見ている。(ザ・フーの"Substitute"のカバーもしていた)結成から9年後の1987年に発表したアルバムで、念願の全米ブレイクを果たした。

 そして1989年にはアルバム「トゥワイス・シャイ」が全米9位になり、91年には5枚目のアルバム「フックト」が全米18位を記録している。この1987年から1991年くらいまでが、彼らの全盛期だと思っている。

 彼は、自分の声がロバート・プラントによく似ているということを自覚しているのだろう。日本編集のベスト盤にはゼップの"Since I've Been Loving You"が収められていたし、何といっても1999年には「グレイト・ゼッペリン;ア・トリビュート・トゥ・レッド・ゼッペリン」という全14曲フル・ライヴ・ヴァージョン・カバー・アルバムを発表しているくらいなのだ。2
 確かに彼らはL.A.メタル・ブームという追い風を受けてメジャーになり、1990年にはグラミー賞候補にも上がったほどだった。
 自分は当時の他のメタル・バンドとは一線を画すそのサウンドやジャックのブルージィーな歌い方が好きだった。彼の歌唱を活かそうとしているのだろう。過剰な装飾音がないところが逆に新鮮に聞こえた。またイアン・ハンターの"Once Bitten Twice Shy"をカバーするなど、センスのよさも素敵だった。

 さらにまた彼らのバラードもまた絶品で、"The Angel Song"は全米30位まで上昇したし、5分以上の長さの"Save Your Love"も57位にチャート・インしているほどだ。
 ところが世の中はグランジ・ブームになりハード・ロックなどは片隅に置かれてしまったようで、彼らに不遇の時代が訪れてしまう。

 そんな中でジャックは一人でグレイト・ホワイトと名乗りながら、全米各地の小さなクラブをまわって行くのだが、2003年の2月20日にロードアイランド州のクラブで公演中に火災が発生し、死者100人、負傷者200人以上という大惨事に見舞われてしまったのである。

 このニュースは遠く離れた日本でも放送されて、自分はそんな形で彼らの健在振りを知ってしまうという皮肉な結果になってしまった。(正確にはジャック以外の全盛期のメンバーは当時全員脱退していたようで、ジャック・ラッセルズ・グレイト・ホワイトだったようだ。しかし、演奏中のバンドのギタリストは逃げ遅れて亡くなっている)

 この事件の裁判には3年を要し、結局、当時のマネージャーが罪を認めて決着したようだが、その間は活動休止状態だった。その後は2010年までは活動を続けるも、ジャック・ラッセルは胃穿孔になり、バンドを脱退した。

 残されたメンバーは新ボーカリスト、テリー・イリオスを迎えて活動を続けているし、ジャックの方は病気から回復後、再びジャック・ラッセルズ・グレイト・ホワイトを結成して活動を続けている。彼とマークとは何らかの確執があるらしく、結局、ジャックはバンドに戻れずに、自分のバンドを結成したようである。

 とにかくメタル・ブームに沸くアメリカの中では、他とは一線を画していたバンドだった。できればもう一度、ジャックとマークとで全盛期のグレイト・ホワイトを復活させて、アルバムを発表してほしいと願っているのだが、無理だろうなあ。

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2012年7月26日 (木)

裏切りのサーカス

 久しぶりに映画を見に行った。今回の映画は、イギリスのスパイ小説家であるジョン・ル・カレの原作を映画化したもので、オリジナル・タイトルを"Tinker, Tailor, Soldier, Spy"という。そのまま日本語にすれば“鋳掛屋、仕立屋、兵隊、防諜屋”になってしまうのだが、これは英語圏での言葉遊びをもじったものであろう。

 このオリジナル・ライターのジョンさん自身もイギリス諜報部MI6の諜報部員だった人であり、だから彼の書く小説には真実性や客観性に満ちていて「寒い国から帰って来たスパイ」など、いずれも評判が高い。
 この原作については未読なので何ともいえないのだが、ハヤカワ文庫から出版されているので、機会があれば読んでみたいと思っている。

 さて映画のストーリーは、冷戦下のイギリス情報局MI6にソ連のKGBから二重スパイが潜入しているという情報が入り、それを炙り出すというものなのだが、その二重スパイは組織のトップに潜入しているから、そう簡単に割り出すことができない。そしてそのトップにいる対象者のコードネームが、先のTinker, Tailor, Soldierであり、これにPoormanが加わるのである。

 アメリカ映画、特にハリウッド映画のような派手な特撮やアクション・シーンは一切なく、極めて淡々と静かに流れていくところがクールである。「007シリーズ」の対極を行く映画といえば分かりやすいだろう。
 その分ストーリー展開や役者さんの演技が注目されるのだが、この映画の役者陣の演技は大変素晴らしく、思わずスクリーンに引き込まれてしまうほどの迫力や重量感を持って演じられている。
 特にアカデミー主演男優賞にもノミネートされた主人公スマイリーを演じるゲイリー・オールドマンという人の演技は素晴らしく、常に冷静に、かつ明晰な頭脳で二重スパイ、通称“もぐら”を追い詰めるあたりは、真に迫るものがあった。

Photo

 また単に二重スパイを割り出すだけでなく、ゲイリー演じる引退した情報局員スマイリーの家庭問題や第二次世界大戦直後のスマイリーとKGBの大物スパイ、カーラとの出会いとその後の展開など、大きなストーリーの流れにからむ様々なエピソードもまたこの映画の魅力をさらに高めている。

 ただ幾分わかり辛いところもあるのも確かである。特に、二重スパイが誰なのか、その根拠になる部分が見ていてよくわからなかった。さらに映画の最初のところでブダペストで死んだと思われていたイギリス諜報部員がまだ生きていて、イギリスに戻ってこれたところも充分な説明がなかった。(別に説明する必要もないとは思うのだが、実は生きていましたと急にスクリーンに出てきて戸惑ってしまったのは事実である)

 要するに、スマイリーがあるトラップを仕掛けて、それに反応した(正確には反応しなかった?)人が二重スパイだと判断したのだろうが、その辺は一度見ただけではちょっと理解できなかった。
 結局、この映画は一度見ただけでは満足できないのである。この映画のチラシにこう書かれている。『一度目、あなたを欺く。二度目、真実が見える』

 だからこの映画を何度も見ないといけないのである。もしくはDVD化されることが最も望まれる映画のひとつになるだろう。でもストーリーの重厚さといい、役者の迫真の演技といい、繰り返しの視聴に充分耐えられる映画なのは間違いない。WOWOWなどのTV放映は1年後になるだろうから、放送されたら録画して観賞しようと思っている。

【追記】
 この原作の背景には、ハロルド・フィルビー、ドナルド・マクリーンやガイ・バージェスなどのスパイ活動のことも一部脚色されて含まれていると思う。彼らは“ケンブリッジ5人組”と呼ばれていて、お互いに連絡を取り合いながら当時のソ連に情報を流していた。
 特にハロルド・“キム”・フィルビーはMI6長官候補に上りつめるほど有能で、勲章まで授与されたが、1963年にソ連に亡命した。そしてソ連でもレーニン勲章を授与され、切手の肖像にまでなっている。3

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2012年7月22日 (日)

スローター

 レッド・ゼッペリンやロバート・プラントを髣髴させるアメリカン・バンド・シリーズ第2弾、いやパリスを加えれば第3弾となる今回は、前回の続編に少しだけ顔を出したバンド、スローターが登場する。

 このバンドの設立当時のメンバーは次の通りだった。
ボーカル…マーク・スローター
ギター……ティム・ケリー
ベース……ダナ・ストラム
ドラムス…ブラス・エリアス
 前回にも述べたように、このうちのボーカリストとベーシストはキッスの2代目ギタリストのバンド、ヴィニー・ヴィンセント・インヴェイジョンのメンバーだった。

 このバンドはそれなりに注目を集めたものの、中心メンバーのヴィニー・ヴィンセントの我がままというか、他のメンバーとの対立のせいで、2枚のアルバムを残して1988年に解散してしまった。

 それでその後、マークとダナが中心となって結成したバンドがスローターだった。このマーク・スローターという人は、歌唱法や声質が若かりし頃のロバート・プラントによく似ている。これはたぶん受けるだろうと思っていたのだが、案の定アメリカでも日本でも大ヒットしてしまった。いまだにゼップの幻影を追い求める人が多い証拠だろう。

 1990年に発表された彼らの1stアルバムはダブル・プラチナ・アルバムを記録し、ビルボードのチャートでは18位を記録した。またアメリカだけではなく、イギリスやカナダ、そしてもちろん日本でも大ヒットしている。
 
 このアルバムには全15曲収められていて、そのうち1曲は同名曲のアコースティック・バージョンだから、実際は14曲だ。
 その14曲から5曲もシングル・カットされていて、そのうち3曲"Up All Night"、"Fly to the Angels"、"Spend My Life"がそれぞれ最高位、27位、19位、37位を記録している。だからデビュー・アルバムにして既に完成された音楽性を擁していたのである。Photo
 最近ハード・ロックを聞くと、ついつい眠ってしまうようになった。体が受けつけなくなったというか、途中で感性が麻痺してしまい、どの曲を聞いても同じように聞こえ、判断力が鈍ってしまったようだ。
 特に80年代から90年代のハード・ロックには似たような曲調や同傾向のバンドが多くて、ついついうとうとしてしまうのだが、このスローターのアルバム「欲望のターゲット」もいい睡眠導入剤になっている。

 ただシングル・カットされた"Up All Night"や"Fly to the Angels"などは、さすがにそんなやわな楽曲ではなくて、ヒットするツボを押さえている。ヒットするツボというのは、キャッチーで覚えやすいメロディとインパクトのあるサビを兼ね備え、適度にギター・ソロが目立つというところだと勝手に解釈しているのだが、どうだろうか。そういう曲はライヴの時には大合唱が起こり、盛り上げには欠かせないと考えている。

 ただ個人的には"Spend My Life"の方がメロディアスで、日本人向きのサビを持っていると思ったのだが、チャート的には"Up All Night"の方が上だったようだ。

 マーク・スローターがロバート・プラントに思えるのは、やはり"Fly to the Angels"だろう。バラードタイプの曲で、プラントのように粘っこく歌っている。またバックのアコースティック・ギターの重ね方もジミー・ペイジっぽくてなかなかのものである。ここまではアルバムの前半にあたるのだが、まだ起きて聞くことができた。

 後半は割とポップでメロディがハッキリしている曲が多い気がした。たとえばシングルカットされなかったけれど"You Are the One"などは、このアルバムの中ではおとなしめの短い曲で、チープ・トリックなどが歌うような感じの曲だし、"Gave Me Your Heart"もノリのよくて明るいアメリカン・ロックといった感じだ。
 ただデビュー・アルバムということで、少し詰め込みすぎた感じがしないでもない。もう2,3曲ほど削ってまとめれば、傑作アルバムになったのではないだろうか。

 90年代のスローターは、ほぼ2年ごとコンスタントにアルバムを発表したが、このデビュー・アルバムと2枚目のアルバムが売れたくらいで、それ以外はあまりパッとしない。

 オリジナル・ギタリストだったティム・ケリーは、1998年に交通事故で亡くなったが、メンバーを補充して、彼らは今でも活動を続けている。自分たち自身の単独でのライヴは厳しいので、当時の有名だったバンド、たとえばストライパーやリンチ・モブ、リタ・フォード、シンデレラ、クワイエット・ライオット、スキッド・ロウなどと一緒にツアーをしているようだ。

 同時期に一世を風靡したバンドたちなので、気心も知れ渡っているのだろう。一度売れれば、あとは一生涯それで食っていけるは、洋の東西を問わず、似ているところなのかもしれない。

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2012年7月17日 (火)

ヴィニー・ヴィンセント・インヴェイジョン

 アメリカン・ハード/ヘヴィ・ロックの中で、レッド・ゼッペリンに似ているバンドを紹介する2回目である。前回はボブ・ウェルチの結成したパリスだった。そう考えると、70年代の後半、まだゼッペリンは健在していた時に、すでにゼッペリン・クローンが誕生していた。やはりゼッペリンは偉大なのだ。

 それから約10年後、80年代半ばのアメリカではメタル・ブームで沸きかえっていて、猫も杓子もロング・ヘアに美形なルックス、早弾きギターにハイ・トーン・ボーカルという定型美?が渇望されていて、特に女、子どもにはバカ受けだった。

 これはやはりMTVの影響が強かっただろうし、エアロスミスの復活やボン・ジョヴィの大人気など、メロディアスなハード・ロック、要するに“売れるハード・ロック”路線が拡大されていったということも理由のひとつにあげられるだろう。当時のアメリカの音楽業界も諸手を挙げて、このような状態を歓迎していたのである。さすが経済至上主義の国である。

 そのブームの中のひとつにL.A.メタルというのがあって、いわゆるカット・Tシャツにバンダナ、スカーフを身にまとい、メイ・キャップをして男に磨きをかけるというファッション性と、キャッチーでコマーシャルな音楽性を備えたバンド群がブームを牽引していた。

 彼らはライブ・ハウスが数多く存在するロサンジェルスを地盤に活動をしていたために、こういう名称を与えられたのだが、もちろん地元出身でないバンドも数多く含まれていた。単純に考えても、サウス・ダコタで活動するよりも、ロサンジェルスでキャリアを積む方がデビューできる可能性は高いのは言うまでもないだろう。

 そしてそのバンドの中から、モトリー・クルーやラット、ポイズン、ドッケンなどがメジャーになっていったのだが、これらをA級のL.A.メタル・バンドとすれば、さしずめこれから紹介するヴィニー・ヴィンセント・インヴェイジョン(以下VVIと略す)などはB級メタル・バンドに位置するだろう。

 ちなみにヴィニー・ヴィンセントは元キッスのギタリストだった。エース・フレーリーの代わりに1982年から83年にかけて、ツアーやアルバム制作に携わった2代目ギタリストだった。彼はギター奏法にかけては、いわゆる早弾きに属するギタリストで、キッス時代はあまりにも早弾きが目立ってしまい、ジーン・シモンズなどから指導を受けたりもしたが、それでも言うことを聞かなかったため、最終的にはくびになっている。しかし当時のファンの間では人気が高く、キッス中興の祖とまで言われることもあったらしい。

 それで彼がくびになったあとに結成したバンドが、VVIだった。このバンドの初代ボーカリストはロバート・フライシュマンという人だったのだが、デビュー・アルバム1枚で交代させられた。そして新しいボーカリストがマーク・スローターという人だったのである。

 このマークという人は典型的なハイ・トーン・ボーカルの持ち主で、ヴィニーの早弾きに対抗できるのは、こういう人でないとダメだろうなと思わせるようなスィンギング・スタイルを持っている。デビュー当時は無名だったのだが、このアルバムの成功のせいで、ブレイクしてしまった。
 それで1988年に発表された彼らの2枚目のアルバム「オール・システムズ・ゴー」ではヴィニーのギター・プレイとマークのボーカルがいい意味でバランスよく拮抗していて、彼らの代表作になっている。(といっても翌年には解散してしまい、彼らは結局2枚のアルバムしか残していないのだが)Photo

 このアルバムの白眉は何といっても3曲目の"Love Kills"だろう。この曲だけは繰り返しの試聴に耐えることができる。この曲を聞くだけのために、もしこのアルバムを中古CD屋さんで見つけたら、購入しても損はないだろう。何しろ映画「エルム街の悪夢4ザ・ドリーム・マスター最後の反撃」にも使用された曲であり、アコースティック・ギターをバックにマークが切々と歌い、徐々に盛り上がる様式は定番でもあるが、それを上回るほどの説得力と力強さを備えている。

 ここでのヴィニーのギター・プレイはやや押さえ気味でもあるが、それが逆にいい効果を出している。また、それ以外の曲ではバリバリ弾きまくっていて、この手の音楽が好きな人にはたまらないと思われる。
 この曲を聞くたびに、自分はゼッペリンを思い出してしまうのだが、でもゼップはこんなキャッチーな曲は作らないだろう。あくまでもジミー・ペイジのリフとロバート・プラントのメタリックなボーカルがメインだからだ。

 それでもゼップを思い出してしまうのは、ボーカリストのマークの声質なのだろうか。そして翌83年には、ヴィニー以外のメンバーは、ヴィニーのあまりにもワンマン体質に嫌気がさし、全員脱退してしまった。

 マークとベーシストのデイナ・ストラムは、マークのボーカルをメインにしたバンド、スローターを結成したし、ドラマーのボビー・ロックはネルソンという双子のバック・バンドに参加して、ポップなアメリカン・ロックに携わった。

 残されたヴィニーはソロ・アルバムを制作したり、キッスのアルバムにゲスト参加したりするのだが、現在は特に目だった活動はしていないようだ。一時、破産宣告を受けたり、消息不明になったりもしたが、何とか過去の遺産で食いつないでいるようである。

 ヴィニーは、せっかくの才能を自分の性格で帳消しにしてしまった不運な、もしくは自己責任として当然なミュージシャンでもあった。現在59歳。まだ引退するには早すぎると思うのだが、これもまた本人のなせる業なのかもしれない。

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2012年7月12日 (木)

パリス(2)

 少し前の話で恐縮だが、前月の7日に自宅のあるナッシュビルで元フリートウッド・マックのギタリスト&ボーカルのボブ・ウェルチが拳銃自殺を図って亡くなった。享年66歳だった。悲しいことだが、謹んで御冥福を祈りたいと思う。

 亡くなる3ヶ月前に脊髄の手術を受けていて、医者は彼に良くなる可能性は無いということを伝えたらしく、それを苦にしての自殺だったらしい。つくづく人生というのは無常だと思った。

 それでボブ・ウェルチについては以前にも述べたし、パリスについても2009年にこのブログで触れているのだが、追悼という意味を込めて、もう一度彼が中心となって結成したバンド、パリスについて書こうと思う。

 彼は1974年にフリートウッド・マックを脱退した。理由はフリートウッド・マックが売れ戦狙いというか、AOR路線に走り始めたということに、彼は拒否反応を示したからである。
 それで脱退する前に、ロサンジェルスでボブは旧友のグレン・コーニックと出会い、そこから新しいバンド結成についての話が進んでいったらしい。何でもボブとグレンの妻のジュディは以前からつき合いがあったといわれている。

 グレンは元ジェスロ・タルのメンバーでベース担当だった。タルの1stアルバム「日曜日の印象」から3枚目の「ベネフィット」まで参加した。その後、自分のバンド、ワイルド・ターキーを結成するもパッとせず、いくつかのバンドで活動したあと、ボブとパリスを結成するのである。

 ドラマーには、元トッド・ラングレンのバック・バンドだったナッズのメンバー、トム・ムーニーを招いている。この3人で1976年にアルバム「パリス」を発表した。
 このアルバムはそれまでの彼の音楽性とは180度違うもので、はっきり言ってレッド・ゼッペリンのようなメタリックなハード・ロックだった。だから彼やマックを知る人たちからは、大きな驚きをもって迎えられた。

 日本でもこのバンドを高く評価する人が多く、いろんな雑誌やラジオなどのマス・メディアでも紹介されていた。Photo
 これは本人たちも意識してやっていたに違いない。何しろアルバムの1曲目が"Black Book"というもので、これはゼップの"Black Dog"のパクリである。しかもギター・リフも何となくゼップ風だし、ボブのボーカルもまるでロバート・プラントである。こんなに高音が伸びるボーカリストだとは思わなかった。マック時代はこんな歌い方をしなかったからだ。

 続く2曲目の"Religion"もリフ主体の硬質な曲で、ゼッペリンの未発表曲だといわれても信用してしまうような雰囲気をもっている。3人とも申し分のないテクニシャンで、とても3人とは思えないサウンドである。

 自分の中では、彼らはアメリカン・ロックではなくて、ブリティッシュ・ロックの範疇に入ると認識しているのだが、3人のうち2人はアメリカ人なので、分類としてはアメリカン・ロックなのかなあと思ったりもする。分類するのが困難なバンドでもある。

 ただしこのアルバムはセールス的には成功しなかった。ビルボードのアルバム・チャートでは103位という結果だった。
 だからというわけでもないないだろうが、ドラマーのトムは脱退し、代わりにこれまたトッド・ラングレンと一緒にやったこともあるハント・セイルズが加入した。ちなみにハントは、パリス後、イギー・ポップやデヴィッド・ボウイのティン・マシーンなどで活躍している。

 ハントを加えた彼らは、翌年セカンド・アルバム「ビッグ・タウン2061」を発表した。ハード・メタリック路線は変わっていないが、ややファンキーな音色も加わり、音楽性が広がった感がある。2
 しかしこのアルバムも不評で、チャート的にも152位というものだった。この2枚のアルバムが売れず、ボブは経済的にピンチになり、彼が言うには全財産が8000ドルしかなかったらしい。
 このあと3枚目のアルバム制作にかかるも、ハントが病気になり(顔面麻痺ともいわれている)、グレンも脱退したため、結局バンドは解散、ソロ活動ができるように元マックのメンバーなども手を貸して、アルバム制作を続けた。そしてできあがったのがAORの名盤といわれている「フレンチ・キッス」だった。このアルバムの中のいくつかはパリス時代につくられていた曲だったといわれている。

 ソロになったボブは立て続けにシングル・ヒットを飛ばし、もといたバンドとともに70年代末から80年代初頭を代表するミュージシャンになった。

 その後ヘロイン中毒になりリハビリを行っていたようだが、結局、音楽シーンには戻って来れなかった。1998年のフリートウッド・マックのロックの殿堂入りの際にも、ピーター・グリーンやジェレミー・スペンサー、ダニー・カーウィン、リンジー・バッキンガム、スティーヴィー・ニックスはステージに呼ばれたのに、ボブは呼ばれなかった。

 これはボブが1994年に、ミックやジョン、クリスティーン・マクヴィーと親会社のワーナー・ブラザーズを契約違反ということで訴えたことがあり、この訴訟は1996年には解決したのだが、このことが遠因ともいわれている。

 いずれにしてもパリス時代の2枚のアルバムは隠れたハード・ロックの名盤ではないだろうか。後に続くレッド・ゼッペリンのクローンなどにも与えた影響は大きい。早すぎたバンドであり、彼の死もまた早すぎると思っている。

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2012年7月 7日 (土)

プリティ・シングス(2)

 今日は七夕なのだが、それに全然ふさわしくない内容であるが、お許し願いたいと思っている。なにせイギリスのバンド、プリティ・シングスの続きなのだからちょっとどうかなあと考えたのだが、これもめぐり合わせというものだろう。

 プリティ・シングスといえば、前回も述べたように、元ストーンズのメンバーが中心になって結成されたバンドであるということと、「S.F.ソロウ」というロック・オペラのアルバムを発表したことなどがロック史に刻まれていることなどがあるが、もうひとつ地味なエピソードを持っている。

 それは70年代にレッド・ゼッペリンのレーベル、スワン・ソングと2番目に契約したロック・バンドだったということである。(一番最初に契約したのは御存知バッド・カンパニーだった)
 これはジミー・ペイジが彼らのファンだったということもあったし、新興レーベルのスワン・ソング自身の経営努力という面もあっただろう。

 力作だった「S.F.ソロウ」はセールス的に不振だったし、しかも後発のザ・フーの「トミー」の方が評判、売り上げともに「S.F.ソロウ」を圧倒していたせいか、実際は先に制作されていたにもかかわらず、「S.F.ソロウ」は二番煎じというレッテルを貼られてしまった。
 ここでオリジナル・メンバーの一人だったディック・テイラーは嫌気を感じて、バンドを脱退。以後はプロデューサーとして活動を行うようになってしまった。また残されたメンバーも70年に「パラシュート」という傑作アルバムを発表するもこれまた不発。活動停止になってしまったのである。

 だからこのプリティ・シングスというバンドも、大雑把に行って60年代と70年代は違うバンドだと言ってもいいだろう。70年代はボーカリストのフィル・メイを中心に活動を続けていき、スワン・ソングと契約したせいか、サウンド面でも黒っぽいビート・バンドからハード・ロック・バンドへと変身していく。

 1972年に再結成した彼らはアルバムを1枚発表した後、スワン・ソングと契約を交わし1974年にアルバム「シルク・トーピード」を発表した。このときのメンバーはギタリスト2人にキーボーディスト、ベーシストとドラマーそしてボーカリストの6人編成だった。

 このアルバムは自分はけっこう気に入っている。ハード・ロックといっても金属的なメタル音でもなく、パープルやゼッペリンのようにゴリゴリ迫ってくる感じでもない。適度にメロディアスで適度にハード、そしてお約束のギター・ソロもあるという盛りだくさんなのだ。強いていえばバッド・カンパニーとローリング・ストーンズを足して2で割ったような感じか。3
 1曲目の"Dream/Joey"はミディアム・テンポで、最後のギター・ソロが割とカッコいい。2曲目の"Maybe You Tried"はアップテンポで、できればこの曲の方を最初に持ってきた方がインパクトが強かったのではないかと思った。
 続いてアコースティック・ギターで導かれる"Atlanta"、パーカッションと女性ボーカルのスキャットが強調された"L.A.N.T.A."やブラック・サバスの"Changes"を思い出させるバラードの"Is It Only Love"など、バラエティに富んだ内容になっている。逆に言えばまとまりのなさが目立つといえるかもしれない。

 それでも曲はよく練られていて、レベルは低くはない。むしろ後半の楽曲の方がノリもよく優れている。"Come Home Momma"と"Bridge of God"、"Singapore Silk Torpedo"はこのアルバムの最大の聞かせどころだろう。エネルギッシュでリズミカル、ジャケット・デザインのように魚雷に乗って駆け抜けるようだ。

 続いて1976年に発表されたアルバム「サヴェイジ・アイ」もなかなかの好盤で、フィル・メイのボーカルは高音がよく伸びていて、ミニ・ロバート・プラントといった感じである。
 "Under The Volcano"はこれこそアルバム・トップにふさわしい曲で、シャープなリズムとメロディアスなギター・ソロが印象的である。続く"My Song"は逆に分厚いコーラスが目立ち、まるで10ccを感じさせるし、"Sad Eye"はスコーピオンズのアコースティック・バラードのようにメロディアスかつロンリネスでもある。4
 このアルバムには"It's Been So Long"のようなレゲエっぽい曲もあって、前作よりもさらにバラエティに富み、ポップでもある。またノリのよい曲と聞かせるバラードがバランスよく配置されていて、全体的に前作よりは聞きやすく、個人的にはこちらの方が垢抜けていてよかった。

 彼らは当時のB級バンドとしては非常によく頑張ったのではないだろうか。そうでなければあのスワン・ソングが契約するわけがないからだ。ただ残念なことは、バンドとスワン・ソング側とで今後の活動方針に違いが生じ、ボーカルのメイはソロ活動を理由に脱退してしまった。結局、このあと彼らはまた解散してしまうのである。

 その後、何度かの結成やメンバー・チェンジを繰り返した後、前回のブログで述べたように、現在も彼らはプリティ・シングスという名前で活動をしている。今はオリジナル・ギタリストでもあったディック・テイラーも戻ってきていて、昔の曲を中心にライヴ活動をしているという。日本では確かに知名度の低いバンドでもあるが、きちんした評価が与えられてもいいバンドの一つではないだろうか。

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2012年7月 2日 (月)

プリティ・シングス

 プリティ・シングスもまた、不当に評価されているバンドのひとつであろう。おそらく日本ではそんなに知られていないだろうし、本国イギリスでも知名度は低いと思われる。なぜなら何度も浮き沈みを経験しているからだ。

 このバンドで一番有名なエピソードは、元ローリング・ストーンズのメンバーだったディック・テイラーが結成したバンドということだろうか。次に有名なのは世界で最初に“ロック・オペラ”と呼ばれるアルバムを発表したことだろう。

 ストーンズの前身バンドは、ミック・ジャガーとこのディック・テイラーが中心となって結成された。そこにミックと幼馴染だったキース・リチャーズが参加してくるのだが、ディックはキースと同じ学校に通う同級生でもあった。このバンドはリトル・ボーイ・ブルー&ブルー・ボーイズと名乗るようになり、やがてブライアン・ジョーンズなども加わりローリング・ストーンズになっていった。

 ところがディックもキースもブライアンもギタリストで、ベース担当がいなかったことからディックに白羽の矢が当たったのだが、ディックはそれを嫌がったという。また彼はアート・スクールの進学も考えていたようで、結局、ストーンズを脱退してしまったのである。
 この辺が運命の分かれ道というべきか。ストーンズとプリティ・シングスでは全然違うと思うのだが、これは本人がどう考えるかの問題、他人がとやかく言うことではないだろう。

 ところでディックは最終的に進学を諦めて音楽業界に戻り、これまた同級生だったフィル・メイという人とバンドを組んだ。これがザ・プリティ・シングスの始まりである。ちなみにバンド名はアメリカのアフリカ系アメリカ人ギタリスト、ボ・ディドリーの曲名から付けられたという。2

 彼らは1963年に活動を開始し、翌年にはシングル・ヒットを飛ばしている。最初のフォンタナ・レーベル時代の曲は、何となく初期のストーンズに似ている。むしろストーンズよりもワイルドで黒っぽいかもしれない。また楽曲の時間も3分程度と短く、ギターの音よりもハーモニカの方が強調されている。

 フォンタナ・レーベルに所属していたのは約4年間ぐらいなのだが、途中でドラマーがヴィヴ・プリンスからスキップ・アランに交代した。このヴィヴ・プリンスという人はキース・ムーンと同じくらい変人らしく、腕はいいものの、オーストラリア・ツアーではステージ上で泥酔したり、火をつけて暴れたりと悪逆非道の限りを尽くしたといわれていて、オーストラリアでは今でも彼らの音楽は放送禁止になっているという?話もあるくらいだ。

 それはともかく、1968年にEMIレコードと契約を結んだプリティ・シングスは、ロック業界で最初のロック・オペラといわれるアルバム「S.F.ソロウ」を発表した。
 トータル・アルバムやコンセプト・アルバムという考え方は、ザ・ビートルズの「サージャント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」が最初だといわれているが、それにストーリー性のある歌詞をつけてアルバム1枚として発表されたものは、これが最初といわれている。これで充分彼らはロック史に名前を残すことができたのだが、当時は残念ながらあまり話題性も商業性もなかったようだ。

 むしろ後から発表されたザ・フーの2枚組アルバム「トミー」の方が、話題性も商業性も優れていて、ロック・オペラのアルバムといえば「トミー」といわれることが多かったようである。

 これは真実かどうかは分からないのだが、ザ・フーのピート・タウンゼンドは「S.F.ソロウ」を何度も聞き込んで、自分たちのアルバムのお手本にしたといわれている。そのせいかどうか、「S.F.ソロウ」の一部は何となく「トミー」と似通っているところがあるような気がしてならない。
 たとえば、こちらも“セバスチャン・F・ソロウ”という人の人生を描いているところである。両親からセバスチャン・F・ソロウと名づけられた少年は、やがては父親と同じ工場で働くようになるのだが、不景気のせいか工場は閉鎖、彼は失業する。結婚して町から出ることを夢見るのだが、それはあくまでも夢、やがて狂気が彼を蝕み・・・というような物語である。
 歌詞と歌詞の間にはストーリーを補足する物語があるのだが、やや抽象的なところもある。決して楽しい話ではないようだ。あるライヴではこのところをアーサー・ブラウンが読み上げていたという。Photo

 音楽的な面でも、コーラスの多用やアコースティック・ギターの使い方などは「トミー」に影響を与えているようだ。逆にメロトロンやシタール、テープの逆回転など、当時の音楽の流行というか最先端の部分を使用していて、それが決して過剰になっていないところは「トミー」とは違うところだろうか。
 また音楽的にも起承転結がはっきりしていて、何を歌っているかわからないものの、盛り上がるところ(5曲目"Balloon Burning")やエンディング(13曲目"Lonelinest Person")のアコースティック・ギター1本をバックに歌うところなどは印象的でもある。

 今でこそ、このアルバムの評価は高い。彼らもまたこのアルバムに誇りと自信を持っているようで、1998年にはアーサー・ブラウンやデヴィッド・ギルモアを迎えて、このアルバムのスタジオ・ライヴ盤が録音され、DVDとして発表されているし、今年の4月には「ソロウの子どもたち」というアルバムを発表している。ソロウには子どもがいたのか!

 ともかく、いろんな意味でロック史に残るバンドであり、そのバンドの一世一代の傑作が「S.F.ソロウ」だった。このことがロック・ファンの間に浸透するまでには、長い時間がかかったようである。

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