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2013年3月

2013年3月29日 (金)

ロックパイル

 ニック・ロウとデイヴ・エドモンズについて述べてきたが、今回はその補遺というか補足というか、つまりおまけである。ということで彼ら2人が、ロックパイルとして発表した唯一のアルバム「セカンズ・オブ・プレジャー」を聞いてみた。これはその感想だ。

 もともとロックパイルというのは、1972年に発表されたデイヴ・エドモンズの1stソロ・アルバムのタイトルだった。

 このアルバムもセカンドと同様、ほとんどの楽器をデイヴ一人で演奏しているが、一部、エーメン・コーナーのメンバーでかつてエリック・クラプトン・バンドでギターを担当していたアンディ・フェアウェザー・ロウやデイヴのマイナー時代のバンドメイトで後にダイヤー・ストレイツのドラマーになったテリー・ウィリアムス、同じくマイナー時代のバンドメイトでベーシストのジョン・ウィリアムスなどが手伝っている。

 人によってはこの時のバンドを第1期ロックパイルという人もいるが、正確にはデイヴ・エドモンズ&ロックパイルと呼ぶべきもので、あくまでもデイヴのバックバンドにしか過ぎなかった。だからデイヴのワンマン・バンドみたいなもので、そのせいかごく短命に終わってしまった。

 デイヴはその後、スタジオ・ワークに戻り、ニック・ロウのいたブリンズリー・シュワルツのアルバム・プロデュースを手伝う中で、ニックと意気投合をして、新生ロックパイルを結成していく。

 そのときニック・ロウは、当時の新興レーベルだったスティッフ・レコードに所属していて、レーベル会社の共同経営者だったジャック・リヴィエラからデイヴも誘われたのだが、デイヴとジャックの関係が思わしくなくて、結局、デイヴはレッド・ゼッペリンのいたスワン・ソングと契約してしまった。だからデイヴとニックは契約上、同じレーベルからアルバムを発表できなかったのである。

 1977年のデイヴのソロ・アルバム「ゲット・イット」に参加したメンバー、デイヴ・エドモンズ、ニック・ロウ、ドラマーのテリー・ウィリアムスを中心にロックパイルが結成され、やがてルルやニール・イネスのバンドにいたギター担当のビリー・ブレムナーも加入し、4人組バンドとして活動を始めた。

 彼らはデイヴやニックのソロ・アルバムには参加していたし、ときにはバッド・カンパニーの前座としてライヴ活動も行っていたという。
 だから1977年から79年にかけてのデイヴとニックのソロ・アルバムは、実質的にロックパイルのアルバムと見なされているということは前回も述べた。

 そして1979年にジャック・リヴィエラがコステロやニック・ロウたちを引き連れて、新しいレコード会社に移籍すると、デイヴもスワン・ソングとの契約を見直し、やがて解消してしまった。この時期のロックパイルの姿は、某国営放送でテレビ放映もされた「カンボジア難民救済コンサート」で見ることができた。(2013年3月現在、この映像ソフトのオフィシャル版は存在せず、コレクターDVDでしか見ることができない。残念な限りである)

 彼ら名義のアルバムは、1980年の秋にやっと陽の目を見た。「セカンズ・オブ・プレジャー」である。
 オリジナルは全12曲だったが、レコードには付録としてエヴァリー・ブラザーズのカバー4曲のEPが追加されていて、計16曲になっていた。

 オリジナルの12曲中半分の6曲はニック・ロウのペンによるもので、全体的にニック色が強いようだ。ハード・エッジなサウンドではなくて、ポップ・ロック、後に言われるようなパワー・ポップ傾向が強い。Photo
 1曲目の"Teacher, Teacher"はクリエイションという1960年代のイギリスのビート・バンドにいたケニー・ピケットとエディ・フィリップスの曲。デイヴの曲は、アメリカのビルボードでは51位まで上昇した。ノリのよいポップ・ロック・ソングだ。

 2曲目の"If Sugar was As Sweet As You"はアメリカはテキサス生まれのR&Bシンガー、ジョー・テックスの曲で、これまたノリのよいロックン・ロールである。
 続く"Heart"はニック・ロウの曲だが、ビリーが歌っている。後にニックは自分のソロ・アルバムにも取り上げた。それだけ思い入れがあったのだろう。

 "Now And Always"は60年代のオールディーズっぽい雰囲気の曲で、郷愁感を誘う。また"Knife And Fork"もアメリカ人のR&Bシンガー、キップ・アンダーソンの1967年のヒット曲。この曲を取り上げたのはデイヴの意向だろう。

 "Play That Fast Thing"はロックン・ロールというよりロカビリー色の強い曲。50年代はこんな曲でみんな踊っていたのだろう。間奏のギター・ソロがカッコいい。"Wrong Way"はスクイーズのクリス・ディフォードとグレン・ティルブロックの曲で、スクイーズのようなロックとポップスが絶妙にブレンドされた佳曲である。

 ニック・ロウの曲"Pet You And Hold You"は黒っぽいR&Bテイスト含んでいて、チャック・ベリーの"Oh What A Thrill"はデイヴが歌っている。この辺の選曲はデイヴが主導権をとったのだろうか。

 "When I Write the Book"もニックの曲だが、以前のニックのところでも述べたように、エルヴィス・コステロの曲"Every Day I Write the Book"はこの曲に対するもの。また、ニック自身もこの曲を気に入っていて、のちに自分のアルバムに取り上げている。
 "Fool Too Long"もニックの曲ながら、ニックとデイヴが気持ちよさそうに歌っている。このアルバムの中ではややハードな雰囲気をもっている。個人的にはこういう曲をもっとやってほしかった。

 オリジナルの最後もアメリカ人のR&Bシンガー、シドニー・セミアンとプロデューサーだったフロイド・ソイリューの曲"Fine Fine Fine"で“You Ain't Nothing But...”と始まるので、思わずプレスリーの有名な曲を思い出してしまった。この曲もチャック・ベリー系のロックン・ロール王道路線である。

 追加の4曲はコーラス・グループ、エヴァリー・ブラザーズのカバーなので、ニックとデイヴの美しいハーモニーを聞くことができる。彼らはこういう曲も録音していたのかと少々驚いてしまった。ロックン・ロールとは真反対に位置するような雰囲気をもった曲だからである。いずれもアコースティックで、2分程度と非常に短い。

 話によると、この時期のデイヴとニックは仲が悪くなっていて、険悪な雰囲気だったという。だからロックパイル名義のアルバムはこの1枚で終わってしまった。おそらく今後も発表されることはないだろう。

 やはりバンドの主導権争いなのか、デイヴにしてみれば自分が中心になって結成したし、バンドの名義も元々は自分のバックバンドの名前だったという気持ちもあっただろう。ニックにしてみれば、自作曲を多く提供してきてバンドに貢献してきたという自負もあっただろう。

 また音楽観についても、デイヴはオリジナルにこだわらず、カバー曲を広く取り上げていたし、ニックは逆にオリジナルで勝負していた。そういう音楽路線の対立みたいなものもあったのだろう。

 もう二度とリユニオンはありえないだろうが、“ニュー・ウェーヴ時代のレノン&マッカートニー”だったデイヴとニックである。
 ただ本家のような後世に残る曲が少ないのは、やはり活動期間の短さによるものか、はたまたデイヴとニックの間に生じるケミストリーが少なかったせいなのか。もう2,3枚はアルバムを発表して、世間を驚かせてほしかった。残念でならない。

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2013年3月24日 (日)

デイヴ・エドモンズ

 前回はニック・ロウについてであったが、やはりニックの次にはこの人しかいないだろう。ニックと同郷の先輩だったデイヴ・エドモンズである。

 不思議なことに、ニック・ロウについては様々な資料があって調べやすいのだが、同じバンドにいたデイヴについてはそんなに多くはないのだ。数あるロック・ガイド本でもニック・ロウについてはページ数を割いているのだが、デイヴについてはほんの数行か、あるいは全く触れられていないものもあった。

 どうもデイヴについては、ニックよりも評価が低い気がしてならない。これは日本だけの問題なのかそれとも海外でも同じようなのか。その原因はアルバムの発表数の違いか、はたまたシングル・ヒットの数なのか。気になったので、少しだけ調べてみた。

 結論から言えば、ヒット曲数はニック・ロウよりも、むしろデイヴ・エドモンズの方が多いのだ。しかも全英No.1ヒットまでもっている。
 また、プロデューサーとしてもニックに負けず劣らず、多くのミュージシャンやバンドを担当している。ストレイ・キャッツを発掘し、世に出したのもデイヴだし、フォガットや意外にもモーターヘッドのアルバムまでプロデュースしている。

 だから、欧米ではデイヴ・エドモンズはきちんと認められているようで、ここ日本でのみ評価が低いらしい。これはポップス好きな傾向がある日本人の音楽観によるものか。   
 あるいは日本の音楽雑誌などのメディアの方も、ニック・ロウはプッシュしても、デイヴの方の後押しはなかったのかもしれない。それともレコード会社の営業方針だったのか…よくわからない。

 ちなみに自分もニック・ロウのアルバムは数枚聞いたことがあったが、デイヴのアルバムはまともに聞いたことがなかった。自分が持っているのはアリスタ時代の彼のベスト・アルバム1枚きりである。

 もともと彼は15歳で兄弟バンドとして活動を始めた。彼自身はロカビリーやロックン・ロールをやりたかったが、レコード会社は当時流行していたブルーズ・ロックを彼に求め、嫌々ながら彼もその方針に従ったようだ。結局、彼の名前が売れるのは、1970年の全英No.1になった"I Hear You Knocking"のヒットまで待たされたのである。

 このシングルは全米でも300万枚以上の売り上げを記録し、ゴールド・ディスクに認定された。あのジョン・レノンもフェイヴァレット・ソングのひとつに挙げていたから、相当流行ったのだろう。

 このヒットの後、彼はプロデューサー業に重点を置いて活動を行うようになり、その中でニック・ロウと出会った。ちょうどニックのいたブリンズリー・シュワルツのアルバムをプロデュースしていた頃である。

 それで1976年にニック・ロウとロックパイルを結成して、楽曲を録音したのだが、ニックとデイヴがそれぞれ別レーベルに属していたために、バンドとしてのアルバムは発表できなかった。
 だからデイヴのソロ名義のアルバム「ゲット・イット」(1977年)、「トラックス・オン・ワックス・4」(78年)、「リピート・ホエン・ネセサリー」(79年)やニック名義のソロ「ジーザス・オブ・クール」(78年)、「レイバー・オブ・ラスト」(79年)は、世間一般では事実上のロックパイルの作品と捉えられている。

 ちなみにこの時期のデイヴは、ロバート・プラントの勧めでスワン・ソングと契約し、そこからアルバムを発表している。この時期のスワン・ソングにはデイヴを始め、バッド・カンパニーやプリティ・シングスなどが所属していて、ハード・ロック系ではかなり強力なレーベルだった。
 しかし残念なことに、ニック・ロウはレコード会社を移り、1980年にレッド・ゼッペリンが解散した後、スワン・ソングも閉鎖した結果、彼は心機一転、アリスタに移籍してアルバムを発表するのである。

 それでアリスタ時代のベスト盤についてだが、20曲入りでロックパイルが解散した後の1982年から87年までの4枚のソロ・アルバムから選曲されている。彼の全盛期の後半に当たるものだろう。Photo
 最初の4曲は82年の7枚目のソロ・アルバム「D.E.7th」からで、1曲目の"From Small Things, Big Things come"は“ザ・ボス”こと、ブルース・スプリングスティーンから提供された曲。王道ロックン・ロール仕様で、ブルースのアンコールでの“デトロイト・メドレーズ”に使われそうな曲調だ。ちなみにそれまではブルースとデイヴには親交はなかったらしく、いきなりブルースのロンドン公演でプレゼントされたという。
 ブルースの「ザ・リバー」のアウトテイクスだったこの曲は、ビルボードのメインストリーム・ロック・チャートで28位を記録した。

 "Generation Rumble"は、このブログでも取り上げたギャラガー&ライルの片割れ、グラハム・ライルの手によるもの。当時はロニー・レインズ・スリム・チャンスに所属していた。小粒だが粋のいいロンクン・ロールを披露している。

 イギリスのアコーディオン&ピアノ奏者のジェレイン・ワトキンスが作った"Deep in the Heart of Texas"やクリス・リーズの"Bail You Out"などが続くが、この4曲を聴く限りでは、デイヴはアメリカの南部に根ざした音楽をやりたかったというのがよくわかった。彼は根っからのロックン・ローラーで、アメリカのルーツ・ミュージックの探求者だったのだろう。

 この4曲が入った「D.E.7th」はイギリスで60位、アメリカでは46位と中規模のヒットを記録した。やはりロックパイル時代の方がチャート的には評判がよかったみたいだ。

 次の3曲"The Shape I'm In"、"Slipping Away"、"Information"は1983年のアルバム「インフォメーション」からのもの。"The Shape I'm In"はアメリカ南部のケイジャン・ミュージックを模したものになっていて、ロニー・レインなどもこういう音楽を志向していた。

 問題は"Slipping Away"で、一聴してわかるようにシンセサイザーが使用され、ドラムのピッチも緩めで音もバシャ、バシャと鳴っている。作曲者はジェフ・リン。"The Shape I'm In"とは正反対の曲調で、これらが1枚のアルバムに納められていたのだから、統一感に欠けていたことが予想される。曲自体は全米39位とヒットしたのだが、自分にとってはちょっと違和感が伴う。"Information"なんかは正にE.L.O.の曲といわれても納得してしまうほどだ。

 デイヴ本人が望んだこととはいえ、この辺のミスマッチが80年代中盤から後半のデイヴの失速につながったと個人的には思っている。だからニック・ロウに人気を奪われてしまうんだなあ、ここ日本では。

 1984年の9枚目のアルバム「リフ・ラフ」からは4曲収録されているが、ここでもジェフ・リンが活躍していて、このアルバム自体のプロデュースも10曲中6曲をジェフが手がけていた。また曲も3曲提供している。"Something About You"はモータウン所属フォー・トップスの1965年のヒット曲で、ここではジェフの手によって軽快なリズムになっている。

 "Something About You"が1stシングルなら、次の"Steel Claw"は2ndシングルになった曲で、この曲はジェフのプロデュースではないものの、まるでE.L.O.の曲のように聞こえてくる。この時期のデイヴにとっては、ジェフは大事なパートナーだったのだろう。疾走感もあり、間奏のギター・ソロもカッコいいのだが、どうしても違和感があるなあ。

 さらにジェフのオリジナル3曲中の1曲"S.O.S."も当然といえば当然のことだがE.L.O.臭プンプンの曲。聞いているこちら側まで助けを求めそうになってしまう。
 そういう声が聞こえたのだろうか、"How Could I Be So Wrong"はこのアルバム唯一のバラード曲で、バンドマスターでベーシストのジョン・デヴィッドの作品。この曲を聞いてホッと一息つくことができた。

 ジェフ・リンとのコラボレーションは賛否両論を巻き起こした。デイヴ本人は満足していたようだが、実際はどうだったのだろうか。結局、ジェフとのコラボはこれで終了し、以後2人の蜜月関係は見られなかった。
 また、デイヴもしばらくスタジオ盤制作から手を引き、1987年に初めての公式ソロ・ライヴ盤「アイ・ヒア・ユー・ロッキン」を発表した。このベスト盤にもそれから5曲収録されている。

 "Girls Talk"はエルヴィス・コステロの作品。"Queen of Hearts"はエミルー・ハリスのバック・バンドのスティール・ギター奏者ハンク・デヴィートの曲、この2曲は1979年のソロ・アルバム「リピート・ホェン・ネセサリー」に収められている。
 また"Your True Love"は1957年のカール・パーキンスのヒット曲。オリジナルはサン・レコードから発表されていて、ギターはもちろんカール・パーキンス、ピアノはジェリー・リー・ルイスが演奏していた。

 続く"I Hear You Knocking"はデイヴ最大のヒット曲で全米4位まで上昇している。オリジナルはアメリカ人のブルーズ・ギタリスト、スマイリー・ルイスで、1955年R&Bチャートで2位を記録した。ライヴ・ヴァージョンの最後は、1977年のアルバム「ゲット・イット」の中の曲の"I Knew the Bride"で、盟友ニック・ロウの曲。さすがライヴ盤ということで、幾分テンポが速く演奏されている。

 ここまでの16曲がアリスタ在籍時のアルバムからで、残りの4曲は1975年のセカンド・ソロ・アルバム「サトル・アズ・ア・フライング・マレット」(邦題:ひとりぼっちのスタジオ)からで、どれもカバー曲、しかも50年代、60年代のヒット曲の焼き直しになっている。
 またこのアルバムでは、ボーナス・トラックを除いて、ほとんどすべての楽器を彼一人で演奏していて、意外な器用さを発揮している。

 "Baby I Love You"は1963年のザ・ロネッツのヒット曲で、デイヴは1973年にシングルとして発表し全英8位を記録した。"Born To Be With You"もオリジナルは1956年にザ・コーデッツという女性コーラス・グループがヒットさせている。デイヴの曲も1973年に全英5位を記録した。この2曲はもろフィル・スペクターの影響を受けたような雰囲気に満ちている。

 "Let It Rock"はチャック・ベリーの1960年の曲で、ここではデイヴのライヴ・ヴァージョンとして収録されている。最後の曲"Some Other Guy"のオリジナルは1962年で、アメリカ人のR&Bミュージシャンがヒットさせた。あのビートルズやサーチャーズもカバーしたという有名曲らしい。

 こうしてみると、ニック・ロウはメロディ・メイカーとして自作曲が多いのだが、デイヴの方は自作、他作にこだわらないというか、むしろ他人の作品を上手に再解釈して表現する方を得意としているようだ。このアリスタのベスト盤でも20曲中彼のクレジットがあるのは1曲しかなかった。
 だからロックパイルがうまくいかなかったというのも、その辺にも原因があったのではないかとみている。

 ニック・ロウもデイヴ・エドモンズもニュー・ウェーヴ・シーンの中から出てきたように見えたのだが、実際は実力と経験を伴っていたミュージシャンだった。その源にあったのは、やはりアメリカからのロックン・ロールやリズム&ブルーズ等のルーツ・ミュージックである。

 ただその表現方法は対称的で、ニックはそれを消化してオリジナルにこだわり、デイヴはその再解釈にこだわった。そのこだわりの差が2人の音楽性の違いにつながったと思っている。
 2人は無理に同じバンドで活動するよりも、ある程度の距離感を伴って活動した方が長続きしただろう。しかし実際は、ロックパイルでの活動があだになったようだ。ニュー・ウェーヴ時代の“レノン&マッカートニー”は成功の一歩手前で失速してしまった。誠に残念なことである。

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2013年3月19日 (火)

ニック・ロウ

 先日、義父が亡くなった。87歳だったから自分としては長寿だと思っている。それに昨年末から入院していて、徐々に体力が弱っていく姿を見ていたから、ある程度の心積もりはできていた。
 もちろん人一人が亡くなって、しかもそれが自分の近しい人だったから、悲しいしそれなりに命の重みも感じているのだが、やはり死亡直後から葬儀が終わるまでのあわただしさにおいては、悲しむゆとりもないほどだった。

 伊丹十三監督の「お葬式」という映画があったが、実際の葬儀も本人を偲ぶというよりも、周囲の者の現実的な話や生臭い話が多くて、本当の喪失感や空虚感を味わったのは葬儀が終わったあとだった。現実の他の葬儀でも、参列してくれた人の方が悲しみを味わっていて、それを受け入れる側との落差が意外に大きいのではないだろうか。そんなことを思いながらこのブログを書き始めた。しばらく更新していないように感じたからだった、でも実際は違っていた。

 ニック・ロウという人については、個人的なイメージとして“リトル・ポール・マッカートニー”だと思っていた。演奏するメイン楽器はベース・ギターだし、作曲能力だけでなく、プロデューサーとしても優れているからだ。
 また、ロックパイルというバンドを結成していて、そこでは盟友のデイヴ・エドモンズがジョン・レノンのようなロックン・ロールを、そしてニックがポールのような役割を演じていたように思えたことも理由としてあげられるだろう。

 ただ個人的には、単発的にしか彼の作品には接していないので、詳しいことはよくわからない。60年代後半から70年代前半まではブリンズリー・シュワルツというバンドで活動していて、そのバンドの後期にはイアン・ゴムも在籍し、パブ・ロックの先駆けとなったことと、その後、ロックパイルを経てソロ活動を始めたことぐらいだろうか。

 それでもCD時代になってからは「ローズ・オブ・イングランド」や「パーティー・オブ・ワン」などは手に入れて聞いてみたのだが、曲ごとの差が大きくて、アルバム全体としては単によくできたポップ・アルバムという感じしかしなかった。だから私の中では、どうしてもフェイヴァレットなミュージシャンにはなれなかった。

 だからというわけではないのだが、結局彼に関してはベスト盤1枚しか持っていない。それには1976年のデビュー・シングル"So It Goes"から1987年のイギリスのみで発売された"Lovers Jamboree"までの全25曲が収められていて、手っ取り早く彼の魅力を知るには最適だと思っている。51a27qpn
 彼のデビュー・シングルは、当時新設されたスティッフ・レコードから発表された。このレーベルはブリンズリー・シュワルツ時代のマネージャーだったデイヴ・ロビンソンとデイヴ・エドモンズのマネージャーだったジェイク・リヴィエラが設立したもので、その関係からニックもこのレーベルからシングルを発表している。

 またこのレーベルから巣立ったミュージシャンのアルバムもプロデュースしていて、グラハム・パーカー&ザ・ルーモアやプリテンダーズ、ダムド、Dr.フィールグッド、エルヴィス・コステロなど、中には楽曲を提供したアルバムもあった。そういう意味では、パンク/ニュー・ウェーヴの立役者と評されたこともあったようだ。でも本人にはそういう気負いはなかっただろう。そういう人柄ではないような気がする。

 音楽的才能は“リトル・ポール・マッカートニー”だったかもしれないが、性格的には“おとなしいレイ・デイヴィス”だったように思う。レイとの共通点は、ユーモアや諧謔精神に溢れているということで、歌詞の内容もそうだし、1977年にはデヴィッド・ボウイのアルバム「ロウ」に対抗して?4曲入りEP「ボウイ」を発表しているからだ。別にボウイはニック・ロウのことを意識してタイトルを付けたわけではないのだろうけれども…

 こういうユーモア?はニックの特徴で、同じ年に、今度はルーモアのアルバム「マックス」をプロデュースしたが、これはフリートウッド・マックの歴史的名盤「ルーモアズ」に対抗したものだと言う。(もちろん音楽的な意味ではなく、単なる韻を踏んだだけだろうが)
 ニック・ロウという人は、こういうジョークが好きなイギリス人なのである。

 それでベスト・アルバムのことについていうと、スティッフからのシングルは、レーベルの音楽性や当時の時代の影響からか、2分程度の性急的なポップ・ソングという感じだった。
 3曲目の"I Love the Sound of Breaking Glass"は、彼のイギリスで最も売れたシングル曲で7位まで上昇した。1978年の作品で、ベースが目立っていて、リズムに特徴がある。

 わがままな恋人のことを歌った"Little Hitler"は、デイヴ・エドモンズとの共作でおそらくロックパイルで作った曲だろう。時代を反映したようなレゲエっぽいリズムの"No Reason"、アメリカ人のSSW、ジム・フォードの曲"36 Inches High"、無声映画時代の女優の悲惨な最後を60年代の軽快なポップ・サウンドで歌った"Marie Provost"、ここまでは彼の1978年のアルバム「ジーザス・オブ・クール」からの選曲。

 アルバムの8曲目はジョニー・キャッシュの養女であるカーレン・カーターとの恋愛を歌ったシングル曲"American Squirm"で、その次からの6曲は1979年のアルバム「レイバー・オブ・ラスト」から選ばれている。
 "Crackin' Up"、"Big Kick, Plain Scrap"、ヒューイ・ルイスもハーモニカで参加した"Born Fighter"、"Switchboard Susan"にはいずれもロックン・ロールやブルーズなど、"Without Love"はカントリー・ミュージックに影響を受けた跡が見られる。

 そしてニックのメロディ・メイカーぶりが見られるのが、"Cruel to Be Kind"だろう。この曲は60年代の黄金ポップスのニック流再解釈だろう。今のところアメリカや他の国で最も売れたシングルになっている。日本でも某落語家がレコードに吹き込んでいたくらいの有名曲だった。

 エルヴィス・コステロの"Every Day I Write the Book"はこの曲のお返しだったと言われている"When I Write the Book"と、続く"Heart"はともにロックパイルのアルバムにも収められている。前者はバックのキーボードがいい味付けをしているポップ・ソングで、後者はレゲエのリズムが基調となっている。ちなみに"Heart"は1982年のアルバム「ニック・ザ・ナイフ」にも収録されている。

 "Ragin' Eyes"と"Time Wounds All Heels"は1983年の「ジ・アボミナブル・ショウマン」からの曲で、80年代に入ると、ますますポップ・センスに磨きがかけられてきたようだ。後者の曲を聞くと、このストリングスの使い方は間違いなくイギリス・ポップ・ミュージックのマジシャン、ジェフ・リンの影響が伺える。またこの曲は当時の奥方カーレン・カーターとイギリスのSSW、サイモン・クリーミィーとの共作でもある。

 続く3曲、"Maureen"、"Half a Boy & Half a Man"、"7 Nights to Rock"は1984年のアルバム「ニック・ロウ&ヒズ・カウボーイ・アウトフィット」からで、リトル・リチャードのような曲やオルガンが活躍する曲など、彼のロックン・ロールに対する愛情が感じられる曲が続いている。
 
 イントロのハモリから素晴らしいポップ・ソングの"She Don't Love Nobody"だが、この曲はアメリカ人のSSW,ジョン・ハイアットが書いたもの。このあたりから後のリトル・ヴィレッジ結成の布石が打たれていたのだろうか。

 続く"Rose of England"もまた黄金のポップ・チューンで、もっと評価が上がってもいいのではないかと思っているし、"I Knew the Bride"もハーモニカとバック・ボーカルにヒューイ・ルイス、オルガンはポール・キャラックが演奏していて、まさにポップ・ロックといっていい名曲だと思う。この3曲は1985年のアルバム「ローズ・オブ・イングランド」からだが、アルバムはビルボードのチャートでは119位までしか上がらなかった。当時のアメリカ人はセンスがなかったのではないだろうか。

 そしてアルバム最後の曲が"Lovers Jamboree"で、この曲だけは盟友デイヴ・エドモンズがプロデュースを担当している。
 またこの曲は1988年のアルバム「ピンカー・アンド・プラウダー・ザン・プリーヴィアス」に収められていて、このアルバムにはグラハム・パーカーやジョン・ハイアット、ポール・キャラックなどが曲を提供して盛り上げている。しかし、いかんせんそれまでの曲の寄せ集め的な内容だったので、アルバム自体の評価は低かった。

 ざっと見てきたように、ニック・ロウはパブ・ロックから始まり、ニュー・ウェーヴ時代はプロデューサー業と並行してロックパイルで活躍し、それの解散後はニック・ロウ&ノイズ・トゥ・ゴー、ニック・ロウ&カウボーイ・アウトフィットなどと名前を変えながら、ソロ・アルバムを発表してきた。基本はアメリカン・ミュージックの影響を受けたブリティッシュ流のポップ・ロックであり、特に初期ではかなり毒のあるユーモアを含む曲を作っていた。時代が下がるにつれて、その雰囲気が薄くなってしまったのは残念である。

 90年代に入って、それまでのアメリカ路線がさらに強まり、1992年にはジム・ケルトナーやジョン・ハイアット、ライ・クーダーとともにリトル・ヴィレッジを結成してアルバムを発表したが、ジョンとライの仲違いからか、1作で終わってしまった。

 その後のニックは、ジャズよりの作品なども発表して、すっかりおとなのミュージシャンになってしまった。この辺は何となくエルヴィス・コステロの歩みによく似ている。

 2005年には息子も生まれていて、公私共に充実しているようだ。現在63歳だし、まだまだ老けるには早すぎる。
 死んだ人を悔やんでももはや生き返らないが、生きている人には、まだまだ可能性は残されている。ニック・ロウにも頑張ってもらいたいと願っているのだ。

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2013年3月14日 (木)

ブラム・チャイコフスキー

 ちょっと変わったポップ・アルバムの中の1枚に、ブラム・チャイコフスキーの手による「パワー・ポップの仕掛人」というのがある。

 変わったといっても、変なのは演奏している人の名前ぐらいなもので、その音楽性は至極真っ当なロックン・ロールだ。

 このアルバムの発表が1979年のイギリスだったから、当然のことながらパンク/ニュー・ウェイヴの影響を受けていて、いずれの曲も短く、リズムにキレがある。
 ただ自分の記憶に残っているのは、60sのイギリスのビート・バンドのような弾けたポップネスさを備えていたということで、だから他のバンドと違う印象があった。

 久しぶりに彼らのアルバム「パワー・ポップの仕掛人」を引っ張りだして聞いたのだが、なかなかの充実振りにニンマリしてしまった。
 彼らの音楽を簡単にいうと、とがっていないセックス・ピストルズ、さっぱりしたザ・ムーヴ、ロックン・ロール中心のニック・ロウという感じだ。これで彼らを知らない人にも、イメージはつかめるのではないかと思う。(?)

 このブラームスとチャイコフスキーを足して2で割ったような人は、もともとモーターズというバンドで活躍していた。

 モーターズは1977年にデビューしたバンドで、中心人物はアンディ・マックマスターとニック・ガーヴェイの2人、途中からブラムが参加したようだ。ちなみにニックはグラハム・パーカー&ザ・ルーモアのギタリスト、マーティン・ベルモントとダックス・デラックスというバンドで一緒に活動していた。

 1977年といえばまさにパンク/ニュー・ウェーヴの真っ只中、彼らはパンク風味のロックン・ロール路線を歩み始めて、やがていわゆる“パブ・ロック”といわれるジャンルの中のバンドと見なされるようになった。

 モーターズ時代のブラムはアンディとニックの陰で余り目立たなかったようだが、日頃から曲作りを行っていたのだろう。バンド在籍中にシングル曲を発表し、単独で活動するようになり、ついに独立してしまったのである。

 最初はブラムと友人のマルチ・プレイヤー、ミッキー・ブロードベンド、ドラムスは元ヘヴィ・メタル・キッズのキース・ボイスの3人組だった。
 このデビュー・アルバムは、基本的にこの3人で作り上げたもので、それ以外にはモーターズのニック・ガーヴェイがベースとバック・ボーカルで、そしてあのマイク・オールドフィールドがチューブラー・ベルズを演奏している。なかなか面白い取り合わせだ。
  マイクが参加したのは、モーターズがヴァージン・レコードに所属していたレーベル・メイトだったということだろう。Photo
 アルバムには11曲収められていて、最初と最後の曲"Robbert"、"Turn on the Light"は時代の雰囲気を感じさせるスピード感と潔さが漂っている。"Robbert"のギターのアルペジオはザ・ビートルズの"Dr. Robert"を思い出させてくれた。彼らの音楽は、基本はポップなのだろう。

 勢いのある曲が続いたあと、"I'm the One that's Leaving"ではバックのファルセットのコーラスやギターのアルペジオが60年代を思い出させてくれた。まるでザ・バーズが勢いのあるポップ・ソングを歌っているかのようだ。

 5曲目の"Girl of My Dreams"なんかは、まさに弾けたポップ・ソングで、ザ・ナックやチープ・トリックが歌ってもおかしくない。いまシングル・カットしてもリバイバル・ヒットするのではないだろうか。この曲はビルボードのシングル・チャートで37位を記録しているから、当時でも人気があったのだろう。

 このアルバムからはこの曲と、"I'm the One that's Leaving"、"Sarah Smiles"がアメリカでシングル・カットされた。しかし、チャート・インしたのは"Girl of My Dreams"だけだった。
 一方、イギリスでは"Bloodline"、"Sarah Smiles"、"Turn on the Light"がシングルで発表されている。アメリカではメロディ重視、イギリスではリズムとノリ重視の方針を採っていたのだろう。

 "Lady from the U.S.A."はアルバム中唯一のバラードだ。バラードといっても、しんみりするようなムーディな曲ではなく、ゆったりとした曲という意味である。
 逆に"I'm a Believer"では間奏のリード・ギターが目立っていて、一歩間違えてファズやディストーションをつけたら、ハード・ロックになってしまっただろう。

 彼らのデビュー・アルバムはアメリカでは36位を記録した。まずまずの成功といっていいだろうが、ただ2作目以降はヒットに恵まれず、1981年には解散してしまった。
 昨年、1979年当時のライヴ音源が見つかり、ライヴ・アルバムとして発表されている。これを機にひょっとしたら再評価されるかもしれない。

 ブラム・チャイコフスキーの本名はピーター・ブラマールという。どうやらブラームスとは関係なさそうだ。

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2013年3月 9日 (土)

XTC

 さて3月になって一週間以上たった。寒暖を繰り返しながらも、確かに春がやってきたという実感がある。“春夏秋冬”という言葉があるが、これに倣えば一年は春から始まるのだろう。気分的にもそちらの方が合いそうだ。

 別に春めくからでもないのだが、心が弾けるようなポップ・ミュージックを聞きたいと思っていて、そういえばまだイギリスの至宝であるXTCについては、このブログで触れていないことを思い出した。それで今回はXTCの登場なのである。

 彼らのデビューは1977年だから、当初はイギリスのパンク/ニュー・ウェイヴ文脈の中で語られていた。
 自分はパンク/ニュー・ウェイヴは苦手で、まともに聞いたのはストラングラーズとポリス、それとセックス・ピストルズくらいだった。あのコステロでさえも、最初は敬遠していた。何とセンスに欠けていたのだろうか。自分でも恥ずかしいくらいだ。

 だから最初にラジオで彼らの音楽を聞いたときも、また何かヘンなバンドが出てきたなあ、イギリスのミュージック・シーンは移り変わりが激しいぞ、くらいしか考えていなくて、正確に向き合えなかった。

 だから彼らの初期については何もコメントできない。特に名作の誉れ高い1980年の「ブラック・シー」や82年の「イングリッシュ・セツルメント」は食わず嫌いだった。
 特に「ブラック・シー」については、60年代の日本のフォーク・シンガーの興行を裏稼業にしている親友のKT氏が、その素晴らしさを懸命に説いていたにもかかわらず、数回聞いただけで、自分には理解不能と決め付けて、CDを返したこともあった。今となっては自分の不明を恥じる限りである。悔しいのでここにジャケットだけでも載せておきたい。Xtc4
 今になって聞き直せば、確かにこのアルバムには当時の最先端といっていいリズム・サウンドやそれと微妙に調和をなすギター・サウンドとひねりのきいたポップなメロディが絶妙にブレンドされていた。人によってはこれが彼らの最高傑作だと言うし、先ほどのパンクを語らせたら左にはいても右に出る人はいないKT氏もその中の一人である。

 結局、自分がまともに彼らの音楽を聞きだしたのは、トッド・ラングレンがプロデュースを担当した86年の8枚目のアルバム「スカイラーキング」からだった。
 確かにこのアルバムはほぼ完璧に近い内容で、アメリカ代表のザ・ビーチ・ボーイズとイギリス代表のザ・ビートルズが合体したらこういう音楽になりましたよ、という感じなのだ。

 もう少し付け加えると、「ペット・サウンズ」と「リボルバー」が7:3の割合で合体して、フィル・スペクターがアレンジしたような音楽で、初期のニュー・ウェイヴ風のサウンドが薄れ、ややソフト・ロックに移行した雰囲気をもっている。

 最初の虫の音からエキゾチックだし、ストリングスや60年代のサイケデリックな味付けもされている。またベーシストのコリン・モールディングの曲が5曲も採用されていて、バラエティにも富んでいた。Xtc3

 ただ残念ながらロックの持つ初期衝動や破壊性は見られない。そういう意味ではトッド・ラングレンの趣味性が色濃く反映したものであろう。
 彼がプロデューサーだから仕方ないかもしれないのだが、それなら何も彼に頼む必要はなかったし、頼んでも途中で契約を解除すればよかったのにとも思った。

 実際、リーダーのアンディ・パートリッジとトッド・ラングレンの間には確執があったと言われているし、アンディ自身もこのアルバムのことをはっきりと嫌っている。それでもこのアルバムは話題になった。ただし商業的には成功したとは言い難い。昔からのファンには異質なものと映ったのだろう。

 自分がよく聞いたのは1989年の9枚目「オレンジズ&レモンズ」だった。これにはまさに彼らのひねくれたポップ性が散りばめられていて、どこを切っても金太郎飴的な楽しさに満ちている。
 ジャケットを見てもらえればわかると思うのだが、ザ・ビートルズの企画アルバム「オールディーズ」のパロディであり、音的にも中期ビートルズのように、基本のメロディに装飾が施され、サイケがかっている。

 特にシングル・カットされた""The Loving"や"The Mayor of Simpleton"のできは素晴らしい。一癖も二癖もある彼らの曲の中でも、目立って素晴らしいメロディラインを含み、耳に残る楽曲だ。(個人的には"Pink Thing"も好きだった)これらのシングルがどれだけ売れたのかはわからないが、アルバムの方は全英28位、全米44位と久しぶりにヒットしている。

Xtc2_2

 この当時の彼らには、ドラマーが脱退していて不在だった。レコーディングには元Mr.ミスターのメンバーで、のちにキング・クリムゾンにも在籍したパット・マステロットが担当している。そのせいだろうか、彼らはそれこそライヴ活動を停止したザ・ビートルズのように、スタジオにこもってアルバム制作に専念していて、その成果がこういう音となって結実したのだろう。

 それにしても、彼らのアルバムは曲数が多い。10曲以上は普通にありえるのだ。「スカイラーキング」と「オレンジズ&レモンズ」は15曲、次の「ノンサッチ」は17曲だった。これだけ曲数が多く、しかも平均以上の質の高い曲ばかり収められているアルバムは珍しいし、それを何作も続けて発表するバンドのソングライティングの質の高さも素晴らしい。特にライヴ活動を停止した80年代後半のアルバムのグレードは高いといえるだろう。

 そして最後に聞いた彼らのアルバムが1992年の「ノンサッチ」だった。このアルバムは前作の「オレンジズ&レモンズ」の延長線上にあるもので、前作をさらに磨きにかけたような素晴らしいポップ・ソング集になっている。

 何しろプロデューサーがあのガス・ダッジョンだ。70年代のエルトン・ジョンの名作品群のプロデュースを担当した名プロデューサーでもある。彼が担当して売れないものはないと当時噂されるほどの巨匠なのだ。

 このアルバムを初めて聞いたのもラジオからなのだが、このアルバムから3曲くらい紹介されていて、どの曲も超ポップだったのを覚えている。あまりにもポップすぎていて、ジャケットのイラストから、ポップ・ソングの宝石箱のようなイメージを抱いていた。

 逆に彼ら独特のひねくれたポップ感覚が薄れていて、聞いていて気持ちはいいのだが、どことなく彼ら本来の持ち味も薄れてしまったように感じた。ちなみにイギリスでは売れたが、アメリカでは97位と低迷した。やはりグランジ前の当時のアメリカでは受けなかったのだろう。Xtc
 というわけで、自分のXTCは中期から後期にかけてのみで、残念ながら全体を俯瞰することはできない。それでもXTCはアンディ・パートリッジ主導のバンドで、彼の頭の中に鳴っている音楽を具現化したものだということはわかった。

 現在は、残念ながらアンディと最後までバンドに残っていたコリンの関係も解消されてしまい、バンドは解散してしまったようだが、彼らが残したひねくれたポップ・サウンドというのは現在でも多くの人から慕われている。

 誠に稀有な才能をもったミュージシャンたちだった。それは今聞いても全く色褪せていないことでもわかるだろう。こういうバンドこそ再結成されて、来日してほしいと願っているのが、たぶんそれは不可能だろう。それでもイギリスポップ・ミュージック史上に燦然と輝くバンドであることは間違いないのである。

【追記】
 「オレンジズ&レモンズ」のジャケットについては、アンディ・ウィリアムスの1967年のアルバム「ラヴ・アンディ」からのレタリングという指摘がありました。確認はできませんでしたが、もう少し時間をかけて検証してみます。ありがとうございました。

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2013年3月 4日 (月)

カルチャー・クラブ

 時代の徒花といえば、80年代を代表するのはFGTHだけではなく、彼らもまた同様だろう。彼らといったら本人以外には失礼に当たるかもしれない。彼、いや彼女といっていいかもしれない。名前は“ボーイ”だけれども…

 カルチャー・クラブは、1981年にロンドンで結成され、翌年にレコード・デビューした。当時からリード・ボーカルのボーイ・ジョージの奇抜なファッションとメイクが話題になっていて、最初は音楽的な事柄と同等、あるいはそれ以上にそちらの方でも有名だった。

 ボーイ・ジョージは1961年にサウス・ロンドンに生まれた。父親は不動産会社を経営していたというから、裕福な家柄だったのだろう。
 彼は子どもの頃からマーク・ボランやデヴィッド・ボウイに夢中だったというから、そういう素質は早くから芽生えていたようだ。中学生の頃になると、ガールフレンドの影響で髪を染めるようになり、やがては学校もドロップ・アウトして、果物店や印刷会社で働き始めた。その間にファッション・センスを磨き、それがやがて見事に開花したのである。

 バンドの中で一番音楽キャリアを積んでいたのは、ドラムス・パーカッション担当のジョン・モスだろう。
 バンドの中で最年長でもあったジョンは、14歳の頃からドラムを叩くようになった。彼は子どもの頃から病弱で、それを心配した養父はボクシングなどをさせていて、ドラムを叩くことにも、彼の身体に良いことならばと賛成だったという。

 彼は中学を卒業すると、養父の仕事を手伝いながらバンド活動を始めた。当時はパンク・ムーブメントの黎明期だったから、当時の若者はミュージシャンに憧れていたのだろう。
 1976年にはオーディションを受け、2ヶ月ほどクラッシュのメンバーとして在籍したし、翌年にはダムドに、さらに1980年にはアダム&ジ・アンツにも参加している。残念ながら、いずれもバンドが有名になる前に脱退しているのだが、逆に考えれば、そのうちどれかのバンドが売れていれば、彼はそこに留まっていただろう。世の中、何が幸いするかわからないものである。

 ギター&キーボード担当だったロイ・ヘイもまた、子どもの頃から音楽に夢中で、9歳頃から父親の勧めでピアノを弾くようになった。港湾労働者だった父親は、子どもの才能を見抜いていたのだろうか。
 いつ頃からピアノからギターに移ったのかわからないが、すでに15歳頃になると地元でも有名なギタリストだったといわれている。

 その後一時保険会社に就職するも、時代はまさにパンク/ニュー・ウェイヴの真っ只中。多少腕に自信のあったロイは、会社を辞め、美容師学校に通いながら独学でアレンジなどの勉強を始めた。そしてチャンスをうかがっていたのである。

 ベーシストのマイキー・クレイグの父親はジャマイカンで、渡英する前は本国でシンガーをしていた。その影響もあったのだろう、学校を卒業するとクラブでDJをしながらベースを弾き始めるようになった。
 15歳で結婚した彼は、家族を養うために様々な仕事をこなしながら、ミュージシャンの道を志していた。そんな彼には運命的な出会いが待ち受けていたようだ。20歳のときに、当時バウワウワウで歌っていたジョージの話を聞きつけて、彼に直接会ってバンド結成の話をしたのである。

 最初、彼らはセックス・ギャング・チルドレンと名乗っていたが、それをイン・プレイズ・オブ・レミングスに変え、ジョン・モスが参加してカルチャー・クラブと名乗るようになった。1981年4月のことだった。やがてオーディションでロイ・ヘイが加わり、その年の終りにはヴァージン・レコードと契約し、本格的な音楽活動を行うようになったのである。Photo
 彼らの音楽的な特徴は、モータウンなどのソウル・ミュージックを彼らなりに消化し、それに当時流行っていたレゲエやスカの要素を加えている点だろう。また覚えやすいメロディも彼らの人気に拍車をかけた。
 リズムについては、バンド・メンバーのマイキーのセンスが活かされているようだ。彼の持っているジャマイカンの血がそうさせているのであろうか。
 
 ボーイ・ジョージのルックスは、世の女子と一部の男性を熱狂させたが、その声質はソウルフルであり、曲とよくマッチしていて、彼らは決して話題先行、ルックス重視のバンドだったわけではない。

 そのことがよくわかるのが、1983年に発表されたアルバム「カラー・バイ・ナンバーズ」だろう。このアルバムには彼らの音楽性のすべてがギュッと詰められている。
 日本盤では全11曲で、そのうち5曲がイギリスで、4曲がアメリカでヒットした。アルバム自体も英米でそれぞれ1位と2位を獲得している。このときの人気が彼らのピークなのだろうが、その音楽性が理解されていたからこその結果ともいえよう。

 アルバムはイギリスで6週連続1位、アメリカで3週1位を記録した"Karma Chameleon"で始まる。確かにポップな曲だが、最初からのハーモニカと途中から入るレゲエ調のリズムがアクセントになっていて、忘れ難い印象を与えてくれる。

 続く"It's a Miracle"もラテン・リズムが基調になっていて、素晴らしいダンス・ナンバーになっている。当時はこういう曲がクラブで流されていたのだろう。ちなみにこの曲はアメリカでは13位だったが、イギリスでは4位だった。

 また彼らのソウルフルな部分を感じさせてくれるのが、3曲目の"Black Money"であり、最後の曲"Victims"だと思っている。特にバック・ボーカルに参加しているヘレン・テリーの歌唱力は凄いと思う。まるで本物のゴスペル・シンガーのようだ。
 アメリカでは両曲ともシングル・カットされなかったが、"Victims"の方はイギリスで3位を記録した。ラストのストリングスが感動的な余韻を醸し出している。

 このアルバムには捨て曲が一切ないのもいい。サックスの響きが効果的な"Changing Every Day"も、もしシングル・カットされれば売れていただろうし、ピアノ1台をバックに歌ったまさにカルチャー・クラブ流のゴスペル・ミュージック"That's the Way"は感動的でもある。ここでもヘレン・テリーの活躍が目立つ。当時のジョージ・マイケルも同じような曲を歌っていたが、当時はこういう曲調が好まれていたのだろう。

 これら以外にもサックス、トランペットがフィーチャーされた"Mister Man"や、これも乗りやすいリズムでベースの音が細かく動く"Stormkeeper"など、シングルのBサイドで終わらせるにはまことに惜しい曲が収められている。

 また敢えて触れなかったけれど、"Time"は全英3位、"Church of the Poison Mind"は全英2位、全米10位、"Miss Me Blind"については全米のみで5位を記録した。まさにどこを切っても金太郎飴のように、全曲シングル・カットされることができるモンスター・アルバムだったのである。Photo_3

 この後彼らは、イギリスではヒットを連発するものの、全世界的に大ヒットというまでには行かず、徐々に尻すぼみ状態になっていき、1986年にボーイ・ジョージがドラック所持で逮捕されてからバンドは解散状態になってしまった。

 その後再活動を行うも、ボーイ・ジョージの数々の奇行により、音楽的な話題よりもゴシップの話題提供の方で有名になったようだ。
 今もなお散発的に活動を続けている彼らだが、今年(2013年)にはニュー・アルバムを発表するとボーイ・ジョージが言っている。しかし果たしてどうなるかは、神のみぞ知るというところだろう。

 いずれにしても80年代のポップ・シーンを代表するアルバムだった。ポップ・アイコンであるリード・シンガーの存在ばかりが強調されたが、彼らの音楽性はもっと評価されていいと思っているのは自分だけではないだろう。

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