« 2013年3月 | トップページ | 2013年5月 »

2013年4月

2013年4月28日 (日)

ジョー・ジャクソン

 1970年代のパンク/ニュー・ウェーヴのミュージシャンについて、いろいろと書いてきたのだが、個人的には、いずれの人もそれなりの音楽的なバックグラウンドを備えていて、一般的なイメージでいわれているような、素人がいきなり楽器を手に入れてデビューしたようなミュージシャンには出会えなかった。

 もちろん中にはそういう人やバンドもいたのだろうが、残念ながらあっという間に消えていってしまったようで、はたしてどれだけ多くの人の記憶に残っているのかわからない。

 今回紹介するジョー・ジャクソンという人もまた、ニュー・ウェーヴ・シーンの文脈で語られることが多い人なのだが、この人もまた音楽的には高学歴の人なのである。

 ジョー・ジャクソンは、遅れてきたニュー・ウェーヴ・ミュージシャンだった。このブログでも取り上げたけど、グラハム・パーカーは1976年に、エルヴィス・コステロは1977年にデビューしているが、ジョー・ジャクソンは1978年にデビューしている。もうパンク/ニュー・ウェーヴ・シーンも幕を閉じようとしていた頃だった。

 彼には、幼少の頃から喘息という持病があって、運動やスポーツ、はては夜遊びまでも?制限されていたらしい。だから必然的に音楽に向かわざるをえなかったという。
 それで11歳からバイオリンをはじめ、作曲に興味を持った彼は、さらにピアノも練習するようになった。

 奨学金を受けてロイヤル・アカデミー・オブ・ミュージックに入学したジョーは、3年間みっちりクラシック音楽を勉強した。
 一方で、クラシックの作曲家になる夢に限界を感じたのか、ロックン・ロールに走り、卒業後はエドワードベアーやアームズ・アンド・レッグズといったパブ・ロック系のバンドに参加したり、地元ポーツマスのクラブの音楽ディレクターになったりして生計を図っていった。

 その当時に制作したデモ・テープをA&Mに送ったところ、当時のプロデューサーだったデヴィッド・カーシェンバウムに認められて、デビューを果たすことができた。その後10年間で9枚のスタジオ・アルバムと、1枚のライブ盤、映画のサウンドトラック2枚を発表している。

 元がクラシック音楽家になろうとした人だから、彼の音楽もまたロックン・ロール一辺倒ではなく、ジャズやブルーズなど様々な音楽的な要素に満ちていて、彼の豊かな音楽性を感じさせてくれる。

 そんな彼の魅力を手っ取り早く知るには、やはりベスト盤が一番効果的だろう。彼の全盛期時代の代表曲を1枚のアルバムに収めた「ステッピング・アウト~ヴェリー・ベスト・オブ・ジョー・ジャクソン」である。Photo
 このアルバムの曲配列は、年代順になっていて、1979年のデビュー・アルバム「ルック・シャープ」から1989年の「プレイズ・オブ・グローリー」までの代表曲15曲が収められている。

 クラシックまで勉強した人が、3コードの性急なパンク・ロックをやるはずがない。デビュー・シングルの"Is She Really Going Out With Him?"は、歌い方やミディアム調の曲がどことなくエルヴィス・コステロの曲に似ていて、イギリスで13位、アメリカでは21位を記録した。いきなりの世界デビューである。アルバム自体もイギリスでは40位だったが、アメリカでは20位と好調だった。
 "Fools In Love"は、この時代に流行っていたレゲエのリズムの曲。自分がこのブログで紹介したニュー・ウェーヴ・ミュージシャンは、ほとんどR&Bやレゲエの影響を受けているようだ。

 このアルバムの中で、唯一ロックン・ロールの影響を受けているのが"I'm The Man"で、パンク・ロックの残り香みたいなものが漂う疾走感に溢れた曲が妙にカッコいい。いまのジョー・ジャクソンからは絶対に考えられない曲調だ。
 また"It's Different For Girls"は全英5位まで上昇したシングルで、ジョー・ジャクソン流ポップ・ソングだろう。この2曲はセカンド・アルバム「アイム・ザ・マン」からセレクトされたもの。

 "Beat Crazy"は1980年に発表された3枚目の同名アルバムからシングル・カットされたもので、同じレーベルのポリスの曲のようでもあり、"Jumpin' Jive"は場末のクラブでのスィング・ジャズを聞かされているようだった。
 ここからジョー・ジャクソンの音楽は大きく変遷していくのだが、それにつれて自分も彼の音楽から離れてしまった。

 彼のアルバムの中で一番売れたのが、1982年の「ナイト・アンド・デイ」だ。イギリスで3位、アメリカで4位を記録し、彼の代表作といえば誰しもがこのアルバムを押すというヒット作になった。
 この時期のジョーは、イギリスからアメリカのニューヨークに引っ越して暮らすようになっていて、大都市で暮らす夜と昼の世界を、モダンでお洒落なコンテンポラリー・ミュージックとして表現するようになったのである。
 だからこのアルバムは“Night Side”と“Day Side”に分かれて構成されていた。なお、このアルバムではギターは一切使用されていない。

 そのアルバムから"Breaking Us in Two"と"Steppin' Out"、"A Slow Song"が選ばれていて、"Steppin' Out"は英米ともに6位と大ヒットした。
 また"A Slow Song"は1983年の“ナイト・アンド・デイ・ツアー”からのライヴ・ヴァージョンになっていて、88年に発表されたライヴ・アルバムからの選曲である。感動的なバラードで、まるで南佳孝の曲のようだ。

 1984年のアルバム「ボディ・アンド・ソウル」からは、"You Can't Get What You Want('Til You Know What You Want)"と"Be My Number Two"が選ばれていて、前者はアメリカで15位とヒットした。彼流のお洒落なファンク・ミュージックだろう。ここまでくると、自分の中ではもうついていけない。もはや唯我独尊、彼独自のサウンド・ワールドなのだ。
 ちなみにそのアルバムのジャケット・デザインは、ソニー・ロリンズの「ブルーノート1953 No.2」を模倣したものである。

 2年後ジョーは、「ビッグ・ワールド」というアルバムを発表した。これはニューヨークのラウンドアバウト劇場で聴衆を入れて録音したもので、当時の多重録音に反して、すべてワン・テイクで録音されている。全曲録音するのに3日間かかったといわれていて、完璧主義者のジョーらしい話である。ちなみにこのアルバムではギターは使用されている。

 このアルバムからは、"Right And Wrong"と"Hometown"が収録されていて、"Right And Wrong"がシングル・カットされたが、あまりヒットしなかった。"Hmetown"なんかは軽快なポップ・チューンで、ヒットしそうなものだが、シングル・カット自体されていない。

 ベスト・アルバムの最後の2曲は、"Down To London"と"Nineteen Forever"で1989年のアルバム「ブレイズ・オブ・グローリー」から。ここまでくるとジョーは、もはや立派なエンターテイナーだと思う。

 ジョーのアルバムを聞くなら、やはりA&M時代のアルバムだろう。さらに手っ取り早く聞くなら、このベスト・アルバムだろう。
 このあとジョーは、一時うつ病を発症して、しばらく音楽業界から身を引くのだが、90年代中期からは、また積極的にアルバムなども発表するようになった。

 最近はピアノ1台でソロ・ライヴを行うこともあるようだ。自分は某衛星放送で2008年の彼のライヴを見たが、しっとりと歌い上げている姿が印象的だった。また昔から額が広かったので、あまり年をとっていないように感じた。
 まだ60歳前だし、「ナイト・アンド・デイ」みたいな素晴らしいアルバムを発表することを願っているのだが、もう一花咲かせてほしいものである。

| コメント (0) | トラックバック (0)

2013年4月23日 (火)

イアン・デューリー&ザ・ブロックヘッズ

 さてさて、なぜか自分のCD棚にはイアン・デューリー&ザ・ブロックヘッズのアルバムが1枚だけある。いつ、どこで、どういった理由で手に入れたのかは不明なのだが、とにかく存在するのだ。

 よく考えたら、某国営放送で1981年に放送された「カンボジア難民救済コンサート」に、彼と彼のバンドが出演していて、そのときの印象が残っていたのだろう、彼のことが気になっていて、それでとりあえず1枚手に入れたのだと思われる。それが彼らのベスト・アルバム「セックス、ドラッグス&ロックン・ロール」だった。

 ちなみにテレビでの放映は1981年だったが、演奏自体は1979年12月の後半、ロンドンのハマースミス・オデオン(現ハマースミス・アポロ)で行われた。
 そこでのイアン・デューリーは、見かけは年寄りぽかったけれども元気一杯で、いかにもパンク・バンドのボーカリストといった感じだった。

 ただ彼は1942年生まれだから、当時すでに37歳で、年齢まで考えながらライヴ映像を見たりはしなかったけれど、今考えれば確かに37歳はやや高齢だ。

 イアン・デューリーの父親は元ボクサーのバス運転手だったが、イアンが生まれてからは、お金持ちのロールス・ロイスを運転するお抱えドライバーになり、永世中立国のスイスで働き始めた。残された妻と子も一時、スイスで一緒に暮らしていたのだが、第2次世界大戦後にイギリスに戻った。だからイアンは父親と一緒に長く生活したことはない。

 彼が7歳のときに、当時流行していたポリオに罹り、以降左半身が麻痺してしまう。だから子どもの頃から、将来に備えて貿易などの仕事を覚えさせられていたが、母親はもっと学歴をつけようとして、叔母の勧めでグラマー・スクールに通うようになった。

 しかし学校に馴染めずに16歳で退学して、今度は美術学校に通うようになり無事に卒業して、美術教師として働き始めた。25歳の時には最初の結婚をして2人の子どもをもうけている。

 そんな彼がなぜ音楽の世界に身を投じたのか、よくわからない。よほど音楽が好きだったのだろう。29歳のとき、キルバーン&ザ・ハイ・ローズというバンドを結成して活動を始めた。最初は学校のホールやパブなどで演奏して実力をつけ、パイ・レコード傘下のドーン・レーベルと契約までこぎつけたのだが、残念ながら1975年、33歳のときにバンドは解散してしまった。せっかく2枚のアルバムまで発表し、ザ・フーの前座まで務めたのに、彼はさぞかし悔しかっただろう。

 ところが“拾う神”ありで、イアンのソロ・アルバムにベーシストのノーマン・ワット・ロイ、ドラマーのチャーリー・チャールズが参加することで、彼らと同じバンドにいたギタリストなども加わり、イアンのバック・バンド、ザ・ブロックヘッズが結成されるようになり、さらにはピンク・フロイドのオリジナル・マネージャーだったアンドリュー・キングとピーター・ジェナーがマネージメントを担当し始めてから、彼らの評判が徐々に高まっていった。

 またニック・ロウやエルヴィス・コステロ等のパブ・ロックやニュー・ウェーブのブームに上手く乗れたということもあったのかもしれない。それで1977年、35歳のときに当時ニック・ロウも在籍していたスティッフ・レコードからデビュー・アルバム「ニュー・ブーツ&パンティーズ」が全英5位を記録して、彼らは一躍時代の最先端へと躍り出たのである。

 さらに翌年には2枚目のアルバム「ドゥ・イッツ・ユアセルフ」が全英2位、シングル"Hit Me With Your Rhythm Stick"は全英No.1を記録した。ただここまでが彼らのピークで、それまで曲の大部分をイアンと書いていたギタリストのチャズ・ジャンケルが脱退してからは、商業的には傾いていった。

 自分が持っているベスト・アルバムは16曲入りで、全英1位を記録した先のシングルや2位になった"Sex,Drugs&Rock&Roll"をはじめ、彼らの代表曲が網羅されている。時代的には1977年8月から1980年の11月までのシングル曲のAB両面、キルバーン&ザ・ハイ・ローズ時代の曲"You're More Than Fair"も含まれている。Photo_2
 久しぶりに聞いてみて驚いたことは、パンク・ロックではなくて、ニュー・ウェーヴだということ、しかも演奏が非常に上手であるということだった。
 音楽的にはニュー・ウェーブ風ファンク・ミュージックであり、当時流行っていたレゲエなども取り入れている。だから性急で疾走感のある音楽を期待すると、失望してしまうかもしれない。

 "There Ain't Half Been Some Clever Bastards"という曲には、オーボエやピアノ、キーボードが使用され、しかもセリフまがいの歌詞で歌っている。まるでクラブのボードヴィル・ショーの音楽を聞いているみたいだ。
 1979年の曲"Common As Muck"も同傾向の曲だし、その曲のAサイドだった"Reason To Be Cheerful Part3"はのちのラップ・ミュージックを想起させるようなリズムとライムで構成されていて、ファンキーなリズムとギターがそれを支えている。

 さらには1980年11月にシングル化された"Superman's Big Sister"にはE.L.O.のようなストリングスがかぶされていて、しかもリズムはファンク・ミュージックである。こんな音楽は普通はあまりないだろう。
 またキルバーン時代の曲"You're More Than Fair"は完全なレゲエであり、これにスティール・ドラムが加われば、そこはもうカリブの世界である。

 聞きこんでいくうちに感じたのは、このバンドは実力派ミュージシャンで固められているということだ。特にリズム陣、ベーシストのノーマン・ワット・ロイとドラマーのチャーリー・チャールズのテクニックは素晴らしいと思った。
 言葉は悪いけれども、ザ・ブロックヘッズで活躍するよりは、他のバンド、ファンクでもレゲエでもロックン・ロール・バンドでも充分通用するのではないだろうか。どの曲でもベースは細かく動き回り、ドラムスは正確なリズムをキープし、また映像を見る限りでは、迫力ある音を出している。

 だから彼らはパンク・ロックではない。またニュー・ウェーヴとも少し違うような気がする。やはり彼らの本懐は、パブ・ロックである。パブでお客たちと談笑しながら、あるいは反応を確かめながらやる音楽だろう。
 飲んだくれた客と喧嘩したり、彼らの無理な注文を聞いてやりながら、その中でイアン・デューリーとザ・ブロックヘッズは音楽的技術を磨き、リスナーの感性を刺激する音楽を目指していったに違いない。

 彼らがパンクやニュー・ウェーヴの文脈の中で語られているのは、1つは時代の後押しを得たということであり、もう1つはイアン・デューリーのライヴでの様子や、ハンディキャップを負っていても、逆にそれを利用して、自分をより高めていったという生き方が多くの人から賛同を得たからだろう。

 だから今からイアン・デューリー&ザ・ブロックヘッズの音楽を聞こうとする人は、その点を理解して聞かないと、戸惑ったり、誤解してしまうかもしれない。

 その後イアン自身は、音楽よりも演技に目を向けて、演劇界や映画界に進出し、さらに名声を高めていった。一方で、ザ・ブロックヘッズの方はソロ活動に従事し始めた。
 彼らが日本で再び注目を集めたのは、1986年に忌野清志郎がザ・ブロックヘッズを自分のソロ・アルバムに起用したときである。それが契機となって、翌年彼らは初めて日本で公演を行っている。

 残念ながら、ドラマーのチャーリー・チャールズは1990年に胃がんで亡くなった。またその10年後、今度はイアン自身も胃がんで亡くなってしまった。享年57歳だった。私の中ではパブ・ロックのヒーローであり、何事も挑戦する姿勢を失わないロックン・ローラーだった。

 それにしても当時のミュージシャンが素人同然の下手くそだと誰が言ったのだろう。今まで見てきたように、どの人も、どのバンドもしっかりした技術と演奏力やパフォーマンスを擁している。やはりそれだけの下積みを行ってきたのだろう。ポッと出のミュージシャンは、あっという間に忘れ去られていくのは、いつの時代でも同じである。

| コメント (0) | トラックバック (0)

2013年4月20日 (土)

エルヴィス・コステロ(2)

 前回のブログでも述べたように、あくまでも個人的な思いなのだが、デビュー当時のエルヴィス・コステロには、何となく“胡散臭さ”を感じていた。
 のちに雑誌のインタビューにも応えているように、豊かな彼の才能を発揮する前に、パンク/ニュー・ウェーヴの時代の波に乗るため、“エルヴィス・コステロ”としてのイメージ戦略を展開していった。それが“胡散臭さ”の原因だったのかもしれない。

 実際の彼は単なるパンク・ロッカーではなく、当初から豊かな音楽的な素養と実力を備えていたミュージシャンだった。彼の父親はジャズ・シンガーかつトランペッターで、幼い頃からコステロの周りには、ジャズやブルーズなどの音楽が満ち溢れていた。彼はそれを吸収して育っていったのである。

 また子どもの頃から、直接ビートルズやストーンズを経験していたから、そこから自分のやりたい音楽を目指すようになっていった。コステロの音楽は、当然のことながら、一朝一夕にできあがったものではないのだ。

 それでジ・アトラクションズとの関係が悪化したからか、約3年の空白期間を置いて、大物ミュージシャンたちとのコラボレーションを図ってアルバムを制作した。それが1989年に発表された「スパイク」だった。大物ミュージシャンというのは、子どもの頃からの憧れであったポール・マッカートニーであり、アラン・トゥーサン、ロジャー・マッギン、クリッシー・ハインドなどであった。1
 相変わらずのアメリカ志向はあるものの、よりバラエティ豊かになった感がある。1曲目の"...This Town..."には当時のチープなシンセサイザーなどが使用されていて、いかにも時代を感じさせてくれるが、メロディ自体は相変わらずポップで美しい。ベースはポールで、12弦ギターはロジャー・マッギンが担当している。

 "Deep Dark Truthful Mirror"は心を打つバラードで、アラン・トゥーサンがグランド・ピアノを、ジム・ケルトナーがスネア・ドラムを担当している。こういう曲が書ける人はそうざらにはいないと思う。
 続く"Veronica"はポールとの共作で、シングル・カットもされた佳曲だ。この曲のヒットでコステロはまたポップ・ミュージックの最前線に返り咲くことができたのではないだろうか。

 バラエティの豊かさを感じさせるのは、5曲目の"God's Comic"や次の"Chewing Gum"だろうか。前者はジャズの香りを漂わせているし、後者はコステロ流ファンク・ミュージックだろう。
 また"Stalin Malone"という曲は歌詞はあるものの、実際はジャズのインストゥルメンタルだし、アイリッシュ・ハープのイントロで始まる"Any King's Shilling"はコステロのルーツに戻ったようなケルト・ミュージックだった。

 このアルバムはイギリスで5位、アメリカで32位を記録し、過去5年間で最大のヒット・アルバムになった。またこのアルバムからレコード会社を大手のワーナー・ブラザーズに移して発表するようにもなった。

 このあとのコステロの音楽的変遷は、まさに自由奔放、才能の赴くまま、創造的な仕事を精力的に行っている。

 1991年の「マイティ・ライク・ア・ローズ」は、「スパイク」の流れを汲むものだったが、その次の「ジュリエット・レターズ」は、イギリスの弦楽四重奏団ブロドスキー・カルテットとの共演だったし、1994年の「ブルータル・ユース」で久々にニック・ロウとの共演を果たしてロックン・ロールを演奏したと思えば、翌年の「コジャック・ヴァラエティ」では、R&Bのカバーに挑戦していた。

 さらには、ギタリストのビル・フリゼールとの実験的なライヴ・アルバム「ディープ・デッド・ブルー」や、1998年にはあのバート・バカラックとの共演アルバム「ペインティッド・フロム・メモリー」を発表した。この時期のコステロは、1年~2年間隔でアルバムを発表していて、まさに超人的というか、汲めども尽きぬ才能をフルに発揮していた感がある。

 この流れは21世紀に入っても続いていて、スェーデンのソプラノ歌手、アン・ゾフィー・ヴォン・オッターとのコラボやジャズ・ミュージシャンとのアルバム、バレエ音楽のスコア、アラン・トゥーサンとの共演盤など、自分のソロ・アルバムの合い間に、様々な企画ものを制作していった。これはもう神がかり的な才能ではないだろうか。稀代のメロディー・メイカーと呼ばれたポール・マッカートニーでさえも、ここまで手広く活躍はしていないと思う。

 これは決して漂泊しているわけでも、目的を見失っているわけでもない。彼の表現意欲の現れであり、それを支えているのは彼の“歌心”というソウル・ミュージックなのだ。

 彼のソウル・ミュージックとは、アイリッシュ系のケルト・ミュージックやその影響を受けたアメリカのロックやジャズ、R&Bなどのルーツ・ミュージックなのである。彼がデビュー前からザ・バンドのファンだったというのは、有名な話だ。

 自分は21世紀以降のコステロにはついていけてない。あの名盤の誉れ高い「ジュリエット・レターズ」でさえも、中古CDショップに売り払ってしまった。なぜかは自分でもわからなかったが、“コステロはロックン・ローラーだ”という初期の固定観念から抜け出せず、良質なエンターテインメントを提供している現在の彼を正しく認識できていないのだろう。

 一番最後に感動したアルバムが、1996年の「オール・ディス・ユースレス・ビューティ」だった。現時点で、エルヴィス・コステロ&ジ・アトラクションズ名義での最後のアルバムで、ほとんどの曲が他のミュージシャンに提供したもので、セルフ・カバー集になっている。3
 このアルバムは、歌よし、曲よし、演奏よしの三拍子そろったもので、コステロはもはやフランク・シナトラやアンディ・ウィリアムス並み、いやそれ以上の自作自演エンターテイナーを演じている。

 どの曲が誰に提供したとか、何年に作られたものとか、そういう些細なことはどうでもいいようなことに思えてくるし、純粋に曲の良さを楽しみ、それに身を任せてしまうことが最上の楽しみ方だと思ってしまう、そんな極上の音楽が詰め込まれているアルバムだと思う。

 特にバラードの"All This Useless Beauty"の美しさはどうだろうか。アイルランドの女性シンガーのために書かれた曲だそうで、昔からバラードには定評のあるコステロだが、相変わらず素晴らしい曲で、思わず感情移入してしまう。

 またバックのアトラクションズの演奏が、ストーンズのロックン・ロールのように思えてしまう"Complicated Shadows"やポール・マッカートニーとの共作曲"Shallow Grave"では、ロックン・ローラーの血が騒いだのか、昔のように元気に騒いでいる。

 さらにはザ・バーズの曲をパクッたような"You Bowed Down"は、曲調からもわかるようにロジャー・マッギンのために用意したもので、イントロのキラキラした12弦ギターからエンディングのテープ・エフェクトまで、ザ・バーズの歴史をそのままなぞったような雰囲気がある。

 この後、ジ・アトラクションズのベーシストだったブルース・トーマスが交代して、バンド名がジ・インポスターズに変わり、残りのメンバーはそのままで、以後コステロのバックを務めている。 

 現在のコステロは、ポールと同じレーベル、ヒア・ミュージックに所属していて、そこからアルバムを発表している。
 自分は初期のイメージにとらわれ過ぎて、いまの彼を正しく評価できていないのだが、最近のアルバムも聞きたくなってしまった。このブログで「コステロ(3)」を書く時も、そんなに遠くはないかもしれない。

| コメント (4) | トラックバック (0)

2013年4月18日 (木)

エルヴィス・コステロ(1)

 エルヴィス・コステロは現代の吟遊詩人であり、大作曲だと気がついたのは、最近のことだった。自分はなぜ今までそのことに気がつかなかったのか、不思議でならない。認識不足もはなはだしいが、これもひとえに先入観のなせる業なのだろう。

 コステロがデビューしたとき、エルヴィス・プレスリーの名前をかたるロックン・ローラーだと思った。表情も大きな黒ぶちメガネのせいで、バディ・ホリーに見えたし、フェンダーのギターを抱えた姿は攻撃的で、いかにも“怒れる若者”の代弁者のようだったからだ。2
 1977年当時のイギリスにはパンク・ロック/ニュー・ウェーヴの嵐が吹き荒れていて、新しいミュージシャンは、猫も杓子もパンク・ロッカーのようだった。
 自己弁護するわけではないのだが、てっきりコステロもそんなミュージシャンの一人で、ろくな音楽的経歴や教養もなく、つい最近音楽を始めた野郎だと決めつけてしまった。また彼は日本では学生服を着てライヴを行ったことがあったから、きっとヘンな奴に違いないと思っていた。そこから自分の誤解が始まったのである。

 1stアルバム「マイ・エイム・イズ・トゥルー」からシングル・カットされた"Alison"は、確かにいいバラードだったが、他には取り立てて印象に残る曲が無いように思えた。曲の長さも2分から3分程度で、あっという間に終わってしまい、しっかりと聞きこむことができなかった。それでさらなる間違った先入観が作られてしまったのだろう。

 いま思えばロックン・ロールに美しいバック・コーラスを持ち込んだ"Welcome to the Working Week"や、ギターのアレンジが凝っている"Miracle Man"、イギリスではシングルとして発表された美しいメロディの"Red Shoes"など、よく聞けば新人らしからぬ音楽的技巧が張り巡らされていたのである。

 また曲数も当時のレコードで13曲、いまのCDではボーナス・トラックを入れて22曲もあり、デビューまでに周到に準備されていたのがわかる。これもコステロ本人をはじめ、プロデューサーのニック・ロウや新設されて間もないスティッフ・レコードのプロダクションの戦略だったのだろう。
 ちなみにこのアルバムのバックで演奏しているのは、当時イギリスに滞在していたザ・クローヴァーの面々で、のちに彼らはヒューイ・ルイス&ザ・ニューズと名前を改めている。

 だから自分は、まともに彼の曲を聞いたことが無かった。でも気になっていたことは確かで、当時近所に数店舗あった中古レコード店で、彼のアルバム(しかも輸入盤)を買って聞いたことはあった。
 特に日本では発売が1stと逆になった「ディス・イヤーズ・モデル」や20曲も含まれていた「ゲット・ハッピー」、よりポップなサウンドへ移行した「インペリアル・ベッドルーム」などを買って聞いた思い出がある。それらのレコードは、今はもうない。たぶん引越しか何かで処分したのだろう。

 CDとして初めて購入した彼のアルバムが、1986年の「キング・オブ・アメリカ」だった。4
 このアルバムは、タイトルからもわかるように、サウンド的にはアメリカナイズされたもので、バックのミュージシャンたちもドラムスにジム・ケルトナー、エルヴィス・プレスリーの片腕といわれたギタリストのジェームス・バートン、ロス・ロボスのボーカル&ギター、デヴィッド・イダルゴ等々が参加していて、アルバムのプロデュースもコステロ本人とT・ボーン・バーネットだった。

 3曲目の"Our little Angel"ではペダル・スティール・ギターが使用されていて、いかにもアメリカ南部の雰囲気が漂っているし、1965年のアニマルズのヒット曲で、このアルバムからもシングル・カットされた"Don't Let Me Be Misunderstood"は、今にも演奏が止まりそうなスローな曲にアレンジされている。

 コステロのアメリカ志向はこれに始まったことではなく、1980年の「ゲット・ハッピー」はR&B、ソウル・ミュージックに重点を置いていたし、1981年のアルバムの「オールモスト・ブルー」はもろにカントリー・ミュージックをアレンジしたものだった。だから元々コステロには、海の向こうの音楽を希求する要素があったのだろう。だいたい名前からエルヴィスなのだから、ロックン・ロールやそこから派生した、あるいは関連した音楽を志向していたのである。

 それにしてもコステロはいいバラードを書く。このアルバムでも"Indoor Fireworks"やマンドリンが哀愁をかき立てる"Little Palaces"、アコースティック・ギターとオルガンがコステロの力強い声をひきたてている"I'll Wear It Proudly"、アルバムの最後を締めくくる"Sleep of the Just"など聞き所が多い。

 ただ残念なのは、コステロのバック・バンドだったジ・アトラクションズとの共演が"Suit of Lights"の1曲しかないことだ。本当はアルバムの半分はアトラクションズと一緒に録音するはずだったのが、時間の関係でこの1曲になってしまった。このことでコステロとジ・アトラクションズの関係が悪くなったといわれている。

 だからというわけでもないだろうが、このあとコステロは所属レコード会社を移籍してしまい、約3年間の空白の時を過ごすのである。
(To Be Continued...)

| コメント (0) | トラックバック (0)

2013年4月15日 (月)

Queeness

 先日、Queeness(クィーンネスと読むらしい)をライヴハウスに見に行った。素晴らしく感動的なライヴだった。

 読んで字のごとく、このバンドは英国の国民的バンドであるクィーンのコピー・バンドである。バンド・メンバーは次の通りだ。

フレディ・エトウ(ボーカル&ピアノ)
ブライアン・“ちゃ~り~”ヨシカワ(ギター)
ジョン・ヤマムラ(ベース)
ロジャー・“アミーゴ”・マツザキ(ドラムス)
スパイク・ヨコタ(キーボード)
 本家よりもキーボーディストが1名多いのだが、そこはライヴ活動を行う上での必要があったのだろう。

 リーダーはボーカルのフレディ・エトウで、1980年にアメリカはダラスでクィーンのライヴを見て以来、彼らのファンになったそうだ。それで本家のマネをするようになり、フレディが亡くなった後、本格的なコピー・バンドKweenを結成してライヴ活動を行うようになったという。Queeness3

 本人には失礼かもしれないが(実際失礼だろう!)、本物のフレディ・マーキュリーとはまさに正反対の容姿である。寸胴、短足、いわゆるチビ、デブ、ハゲの三拍子なのだが、それを補って余りあるほどの迫力、自信、実力が備わっている。
 Kween時代には、英国でのライヴやBBC放送への出演を果たし、ブライアン・メイ本人からも直接激励の手紙を受け取ったという。いわば本家公認のコピー・バンドだった。

 ところが何があったのか、2008年11月にフレディ・エトウがKweenを脱退して、新たなバンドQueenessを立ち上げたのである。
 自分はKweenのことは噂には聞いていたが、実際には見たことはなかった。名古屋あたりを中心に活動しているということだったので、九州の片田舎では実態に触れることはなかったのだ。

 それで今回、フレディの凱旋公演ということで初めてお目にかかることができた。題して"Don't Stop Us Now" Japan Tour 2013である。キャパ200に満たない小さなハコだったが、場内は満員で、始まってもいないのに汗をかくような状態だった。

 照明がコンピューターで操作されていて、まるでUFOに乗っているような雰囲気の中、映画「フラッシュ・ゴードン」のテーマ曲が流れ、メンバーが登場してきた。噂通りのフレディの姿に思わず笑ってしまった。子泣き爺がタイツをはいているようだ。
 1曲目は少しアレンジされた"We Will Rock You"だ。続いて"Let Me Entertain You"とメドレー形式でつながっていく。Queeness2_2
 ステージは2部構成に別れていて、前半1時間はデビュー・アルバムから「ジャズ」くらいまで、15分の休憩を経た後半1時間は「ザ・ゲーム」から「イニュエンドゥ」までの曲が中心だった。ほとんどの代表曲を、彼らは演奏してくれた。
 中にはデヴィッド・ボウイとの共作曲"Under Pressure"やアラビア風の"Mustapha"など、本家のライヴではおそらくほとんど聞くことのできなかった曲まで披露してくれた。この辺はコピー・バンドの面目躍如といったところか。

 ただしコピーだといって馬鹿にしてはいけない。本家のメンバーは高学歴で、イケメン、実力を備えたミュージシャンだったが、このQueenessも本物のミュージシャンの集まりだから、全くひけを取らないのだ。
 ギタリストのブライアン・“ちゃ~り~”ヨシカワは15歳からエレキを始めたプロ・ミュージシャンで、あのZIGGYや三好鉄生と共演歴がある。パッと見ると、VOWWOWの山本恭司のようだった。

 キーボード担当のスパイク・ヨコタは、米軍キャンプで実力を磨き、国立音楽大学で学びながらオペラ歌手のピアノ伴奏も行うというキャリアの広さと深さを備えている。インディーズ時代のいきものがたりとの活動歴もある。

 ドラマーのロジャー・“アミーゴ”・マツザキにも華々しい活動歴があり、ブライアン・メイとは旧知の間柄で、ほかにスティーヴ・ルカサー、ポール・ギルバート、ロバート・パーマー、エイドリアン・ブリュー(キング・クリムゾン)等ともセッション歴がある。また自分自身でドラマー・スクールも開設しているという。

 ベーシストのジョン・ヤマムラはジャズ畑出身で、ノーマン・シモンズ、デューク・ジョーダン、ハンク・ジョーンズ、日野皓正、田村翼、北村英二、世良譲、辛島文雄、マルタ、伊藤君子、中本マリ、赤坂由香利等々、数多くの内外著名ミュージシャンとの共演経験を持っていて、あの世界のナベサダとも演奏したことがあるらしい。今回のライヴでは見事なチョッパー・ベースを披露してくれた。ひょっとしたらジョン・ディーコンの上をいくのではないだろうか。

 そして泣く子も黙るフレディ・エトウに至っては、幼少の頃よりピアノやギターに慣れ親しみ、高校時代にはヤマハ・ポピュラー・ソング・コンテスト九州大会で入賞している。ライヴで弾いていたエレクトリック・ピアノの腕前は、実は筋金入りだったのだ。
 しかもMCの90%は英語だった。さすがアメリカ留学経験者?は違う。どこかのコピー・バンドのボーカル担当は、ヘンなアクセントをつけた日本語で話しているが、エライ違いである。Queeness4

 そういうプロ・ミュージシャンの集合体なのである、彼らは。
 同じようなバンドにシナモンがいる。彼らはレッド・ゼッペリンのコピー・バンドなのだが、シナモンの場合は、聞いている聴衆までもが金縛りにかかったかのように、彼らのサウンドに集中している。

 ライヴでもアルバムの中のゼップの音そのもののように、非常に濃縮され、抽出されたサウンドに酔いしれているのだが、Queenessの場合はやはり本家クィーンのように、過剰に装飾されたサウンドと聴衆を喜ばせようとする娯楽性や大衆性、悪くいえば猥雑さを反映している。
 コピー・バンドも本家と同じような音楽性を有していることがわかった。逆に言えば、それがなければコピーとしては成立できないのだろう。

 だからその夜に集った人たちは、自分も含めて、大いに楽しもうとする気持ちが強かったようだ。最初は全員椅子に座っていたが、後半になると前列の女性が立って踊りだし、それが伝染するかのように最後は全員で"Radio Ga Ga"や"We Are the Champions"を振り付きで歌っていた。やはり芸歴20年以上のつわものぞろいだけに、お客をのせるのは得意なのだろう。Queeness5
 ただ欲を言えば、もう少し細部にまでこだわってほしかった。例えばバスドラのロゴは会場名が入っていて、いかにもここで借りましたという感じだった。できれば「オペラ座の夜」のジャケットのような紋章を入れてほしかったし、ギター・ソロももう少し原音に忠実であってほしかった。ちょっと端折っていたのが残念!その点、シナモンは一音一音忠実に再現している。彼らを少し見習ってほしい。

 しかし、本当によい人たちのようで、ライヴ終了後、旅館の仲居さんのように入り口でお客さんを見送ってくれた。自分はスパイク・ヨコタとロジャー・“アミーゴ”・マツザキの2人に握手をお願いしたのだが、彼らは快く受け入れてくれた。フレディは何人かのお客さんと記念撮影にも応じていた。

 本家クィーンがデビューしたとき、英国の音楽評論家はこぞって“時代遅れのグラム・ロッカー”とか“ションベン桶”などと評して、彼らの音楽を真っ当に評価しようとはしなかった。中にはやつらが売れたら帽子でも何でも食ってやると息巻いていた評論家もいたというから、あいた口がふさがらない。その人は本当に食ったのだろうか。

 Queenessを取り巻く状況もまた、同じようなものかもしれない。彼らを見かけだけで判断してしまうと、それこそ70年代の英国評論家の二の舞を演じてしまいかねない。彼らのライヴを体験して初めて、彼らの本当の素晴らしさが理解できるのである。
 今後も彼らの活動を見守っていきたいし、200人のキャパからドーム公演が可能になるくらい、本家クィーンのように頑張ってほしいものである。

| コメント (4) | トラックバック (0)

2013年4月13日 (土)

グラハム・パーカー&ザ・ルーモア

 イギリスでは、1970年代半ばから後半にかけて、まるで60年代のリバイバルのように、名前を“○○&~”と名づけるバンドが目立った。たとえば、イアン・デューリー&ザ・ブロックヘッズ、エルヴィス・コステロ&ジ・アトラクションズ、そしてグラハム・パーカー&ザ・ルーモア、スージー&バンシーズなのである。そういえば、デイヴ・エドモンズもデイヴ・エドモンズ&ロックパイルと名乗っていたときもあった。

 今回はその中のグラハム・パーカー&ザ・ルーモアを取り上げようと思う。グラハム・パーカーは1950年生まれで、12,3歳頃はザ・ビートルズの影響で友だちとバンドを作って遊んでいた。“遊んでいた”というのは、彼らはほとんど楽器を演奏できなかったからで、単なる憧れや一時のブームからそういうことをしていたという意味だ。

 ただグラハム・パーカーが際立っていたのは、自分からオーティス・レディングやウィルソン・ピケットなどのR&Bを聞いていて、その影響を強く受けていたという点だ。ここに彼の音楽的ルーツがあり、それを自分の中で信じ、育てていったから、のちの彼が生まれたのだろう。

 16歳で学校をドロップ・アウトしてからは、トマト絞りやゲーム・センターでの集金係、はてやパン屋勤めなど、様々な仕事に就きながらソングライティングやギターの演奏テクニックを磨いていった。若い頃はヨーロッパで放浪生活も送ったようだ。

 24歳ごろ、パーカーはメロディ・メイカーにミュージシャンの募集広告を出し、彼らと活動を始めた。そのつてを通して敏腕マネージャーのデイヴ・ロビンソンと知り合い、彼のスタジオでデモ・テープを作成し、それがフォノグラム・レコードの目に留まりプロ・デビューしたのである。ただし、そのときはパーカー個人だった。

 1975年の夏ごろに、ブリンズリー・シュワルツ、ボブ・アンドリュースの元ブリンズリー組と、元ダックス・デラックスのギタリストであるマーティン・ベルモント、ベースにアンドリュー・ボンダー、ドラムスにスティーヴ・ゴールディングという布陣で、パーカーのバック・バンド、ザ・ルーモアが結成された。
 また“ザ・ルーモア・ホーンズ”と呼ばれる4人組のホーン・セクションも同時に発足させている。

 これらのメンバーで制作された1stアルバム「ハウリン・ウィンド」は1976年に発表された。12曲のすべてをパーカー自身が作詞・作曲していて、アルバム・タイトル曲ではフェンダーのギターも演奏している。
 またゲスト・ミュージシャンとして、デイヴ・エドモンズやノエル・ブラウン(パーカーとデイヴ・ロビンソンとの橋渡しをしたミュージシャン)、エド・ディーン(アイルランドの左利きブルーズ・ギタリスト)なども参加している。プロデューサーはニック・ロウだった。41st0ktbkgl
 1stアルバムにしては完成された楽曲で占められていて、一聴した限りでは若々しいヴァン・モリソンという感じがした。"White Honey"は何となく"Tupelo Honey"を連想させてくれたし、ややスローな"Silly Thing"のホーンなども初期のヴァン・モリソンの雰囲気に近いものがある。
 "Between You and Me"は、まだソロ時代に作られた曲で、"Nothin's Gonna Pull Us Apart"は、BBCで放送されたことがきっかけとなってフォノグラムと契約できた曲だった。

 またアコースティック・ギターの調べが哀愁を誘う"Gypsy Blood"は唯一のバラードで、新人とはいえ豊かな表現力を備えている。これも若い頃、スペインなどで、ストリート・ミュージシャン的な生活を送った成果なのかもしれない。

 一方で、当時流行していたレゲエのリズムを取り入れた"Howlin' Wind"やストーンズの「メインストリートのならず者」に収められている"Sweet Virginia"に似ている"Not If It Please Me"など、聞き所は多い。
 アルバム・ラストの"Don't Ask Me Questions"もレゲエ調だが、映画やTVの主題歌にでも使われそうな雰囲気を放っている。

 変な話だが、自分はジャケットの彼の写真を見たとき、“イギリスの宇崎竜堂”に違いないと思っていて、彼の曲"身も心も"をレゲエ調にしたらこんな曲になるのではないかと考えていた。

 自分は1977年のアルバム「スティック・トゥ・ミー」が好きだ。このアルバムもニック・ロウのプロデュースなのだが、今聞いても新鮮に聞こえてくる。

 まず1曲目の頭の音からカッコいい。いきなりブラス・サウンドから始まり、切れのよいリズムとシャープなギター、疾走感のある曲調、何と歌っているのか、さっぱりわからないものの、どれをとっても素晴らしいと思った。

 "Stick to Me"の次は、このアルバム唯一のカバー曲"I'm Gonna Tear Your Playhouse Down"で、アメリカの黒人R&Bミュージシャン、アール・レイドルの曲。ミディアム・テンポの曲ながら、パーカーの迫力あるボーカルと、それをもりたてるザ・ルーモアの演奏、バックのストリングスなどがカッコいい。グラハム・パーカーって、ひょっとしたらミック・ジャガー級のボーカリストだったのかもしれない。彼を過小評価していたようだ。

 レゲエのリズムに乗って歌われる"Problem Child"、“Freeze it, Freeze it”と“Soul On Ice”のコール&レスポンスがテンポのよさを加速させる"Soul On Ice"、パンク・ロック調の"Clear Head"と、とにかくスピーディでカッコよい曲が続く。まるで何かに急がされているかのようだ。

 B面最初の"The New York Shuffle"もまたタイトル通りの曲で、こういう曲を聞きながらハイウェイをぶっ飛ばしてみたい。
 この当時のパーカーはアルバム中に1曲はバラードを入れるという約束事をしていたようで、"Watch the Moon Come Down"もそんな曲だ。何となくアメリカのJ.ガイルズ・バンドを思い出してしまった。

 続く"Thunder And Rain"はポップな趣を伴った曲で、さらにはサイケデリックなR&Bといった感じの"The Heat in Harlem"は7分近い。最初はトランペットやサックスなどのブラスが目立つが、2分過ぎから突然レゲエのリズムになってテンポが変わり、女性ボーカルのスキャットも加わって変化していくところが面白い。
 そして最後の曲"The Raid"は2分半の短い曲だが、パーカーだけでなくバック・メンバー全員で歌っていて、パーティ・ソングのようだった。Photo
 このアルバムはパーカーが望むR&Bと時代の波に乗っていたパンク・ロックが、奇跡的にバランスよく融合した素晴らしいアルバムだと思っている。
 だからアルバムのA面では、あんなに性急に音が鳴っているのだろうと思っていたが、それ以外にも理由があったようだ。

 実は彼らが最初に録音をしたマスター・テープは、酸か何かで汚されて使えなくなってしまった。それに加えツアーが間近に迫ってきていて、結局約1週間で取り直せざるを得なかったという。だから曲間の時間も少なく、緊張感のある演奏ができたとパーカーは後に雑誌のインタビューに応えている。

 当時の自分は76年~78年のイギリスのバンドは、みんなパンクかニュー・ウェーヴのバンドで、実力も音楽的な背景もなく、すべて十把一絡げに考えていて、きちんと向き合えていなかった。
 だから彼や彼のバンドのことも、正当に評価できていなかった。まったくもって恥ずかしい限りである。

 もちろん彼はまだ現役で、ライヴでも活躍している。またザ・ルーモアも1980年代に自然消滅してしまったが、2011年には復活して、パーカーとアルバムを録音している。彼は、今年で63歳、枯れるにはまだまだ早いといえよう。

| コメント (0) | トラックバック (0)

2013年4月 8日 (月)

イアン・ゴム

 ブリンズリー・シュワルツ関連からイアン・ゴムについてたどり着いた。イアン・ゴムといってもゴム製品の名ではなく、人の名前で、ちなみにTVの特撮ドラマで“地球の侵略者だ”といったのはゴアだった。

 イアン・ゴムは、1947年生まれで、学生の頃から、ユニット4という名前で活動を始めたが、1964年には解散してしまい、イアンはレコーディング技術を学ぶためにロンドンのスタジオで働き始めた。のちに楽器のメンテナンスや手作りでレコーディング機器を作れるようになったのも、この頃の経験が生かされたからだろう。

 1971年には、オーディションに合格してブリンズリー・シュワルツに参加した。ちょうど3枚目のアルバム「シルヴァー・ピストル」からだ。このバンドは1975年に解散しているので、彼にとっては実質4年あまりの活動歴になる。

 ブリンズリー・シュワルツ解散後、彼はウェールズに引越し、レコーディング・スタジオを建てて、プロデューサー、エンジニアとして働くようになった。このスタジオで、彼はザ・ストラングラーズ、アレクシス・コーナー、ピーター・ハミルやアモン・デュール等と一緒にアルバムをレコーディングしている。

 もちろんレコーディングだけではなく、彼は自作曲もここで書いている。その結果が1978年の1stソロ・アルバム「サマー・ホリディ」になって、世に出された。Photo
 全14曲の極上のポップ・ソング集である。チャック・ベリーの"Come On"とザ・ビートルズの"You Can't Do That"のカバーの他は、すべてイアンのオリジナルで、1曲目の"Hooked On Love"はブリンズリー・シュワルツ時代の曲を再録したものだった。
 この曲は、軽快なポップ・ソングに豪華なブラス・セクションが加えられていて、これから始まるイアンのポップ・ワールドに期待が弾んでしまう。またアメリカのカントリー・シンガーのグレン・キャンベルもカバーした曲でもある。

 続く"Sad Affair"はレゲエのリズムに特徴があるポップ・ソングで、"Black And White"は一転してロックン・ロールの曲調になる。リード・ギターはイアン自身で演奏していて、まさに多芸多才というべきだろう。

 特筆すべきは5曲目の"Hold On"だろうか。この曲は1979年のビルボードのチャートで20位以内に入り、イアンの名前はアメリカでも知られ始めた。テンポのよいマイナー調の曲でサックスが強調されている点が特徴だった。このヒットのお陰で、イアンはダイヤー・ストレイツのオープニング・アクトに選ばれている。
 
 "Airplane"はニック・ロウが歌いそうなポップ・ソングで、"Images"は陽気なサウンドに彩られたロックン・ロール、スローながらもファンキーなブラスが輝く"Twenty Four Hour Service"で雰囲気を変えて、ミディアム・テンポの"That's The Way I Rock'n'roll"へと続く。この辺はイアン・ゴムの面目躍如というところか。

 ちなみにこのアルバムはアメリカでは同年に「ゴム・ウィズ・ザ・ウインド」"Gomm With the Wind"(風とともに去りぬ"Gone With The Wind"のもじりか)としてスティッフ・レコードから発表されている。

 1983年には3枚目のオリジナル・アルバム「ザ・ヴィリッジ・ヴォイス」を発表。ポップ・ソング・クリエイターとして相変わらず美しい曲を書いている。
 1曲目の"Love Is Gone"、続く"Hearts On Fire"と、まさにパブ・ロックやのちにパワー・ポップと呼ばれる曲が並んでいるし、"I'll Be Around"などはビートルズ級のポップ・ソングになっている。

 イアン流のロックン・ロール"You Can't Catch Me"や"Hole In The Middle"などは楽しい雰囲気が伝わってくるし、ロックパイルのメンバーだったボブ・アンドリュースとの共同作品の"Leave It To The Music"は美しいポップ・チューンに仕上げられている。
 イアンの曲は60年代の香りがしていて、それが彼の特長だろう。バックのキーボードの音が僅かに80年代の曲であることを表しているかのようだ。

 7曲目の"Louise"もそんな曲で、そのせいかどうかわからないが、エヴァリー・ブラザーズの弟の方のフィル・エヴァリーが彼のソロ・アルバムの中でカバーしてヒットさせている。確かにこの曲ならヒットは確実と思わせるポップ・ソングである。

 アルバム後半の"Melody From Mars"、"I'm In A Heartache"なども60年代の香りがプンプンする曲で、こういう曲を聞いていると今は一体何年だろうと思ってしまう。エヴァーグリーンの曲とはこういうものを指すのだろう。

 一転して"She'll Never Take The Place Of You"は、ディスコやクラブのチーク・タイムに使われそうなスロー・バラードで、お約束のサックスなどが使用されていて、雰囲気を盛り上げる役に貢献している。この曲はデイヴ・エドモンズもカバーしていた。
 オリジナルはアル・アンダーソンが書いている。彼は元NRBQ(ニュー・リズム&ブルーズ・カルテット)のギタリストだった人だ。
 続く"Nobody Home"も同傾向の曲で、スローなナンバーが2曲も続くとはイアンにしてみれば珍しいことだと思う。

 そしてアルバム最後の曲"Murder In The Night"はミディアム・テンポの曲で、イアンが力を込めて熱唱している。優しく歌うポップ・ソングからややハードなこういう曲まで、そつなく歌えるところも彼のよさだろう。2
 アルバムを発表するたびに彼のソングライティングの質は高まり、素晴らしい楽曲が増えていくにもかかわらず、残念ながらセールス的にはそれに反比例していった。時代はパンク/ニュー・ウェーヴからNWOHM、ブリット・ポップへと移り変わっていったが、イアンはマイ・ペースを保っていった。

 1986年に「ホワット・メイクス・ア・マン・ア…」を最後に1997年までオリジナル・アルバムの発表は見送られた。その間、彼はもうひとつ“マウンテン・サウンド・スタジオ”を建てて、そこにこもって曲つくりや他のミュージシャンのプロデュース、アルバムのエンジニアに没頭している。

 イアンは現在までに11枚のソロ・アルバムを発表しているが、日本では輸入盤販売店かネットでないと入手は困難だろう。イアン・ゴムは、ニック・ロウやロイ・ウッド等と並んで、もっと評価されていいマジカルなポップ・ソング・クリエイターだと思っている。

| コメント (0) | トラックバック (0)

2013年4月 3日 (水)

ブリンズリー・シュワルツ

 ニック・ロウから始まって、70年代の彼周辺のミュージシャンを見てきた。今回は、ニックが世に出るきっかけとなったバンド、ブリンズリー・シュワルツの登場である。

 このバンド名は、バンドのギタリストの名前から来ている。ブリンズリーとニックは、ウッドブリッジ・スクールというパブリック・スクールに通う学生同士だった。ブリンズリーの方が2年先輩だったが、彼らはバンドを組んで、ドイツの英国軍の空軍キャンプまで出かけて演奏をしていた。まるで数年前のザ・ビートルズのようだ。本人たちもその気でいたのだろう。1964年頃のお話だ。

 その後バンドメンバーは代わっても、ブリンズリーはバンド名をキッピントン・ロッジとして活動を続けた。EMI傘下のパーロフォンから2枚のシングルを発表するも、いずれも不発、ブリンズリーはニックを呼び、キーボードにボブ・アンドリュース、ドラムスにビリー・ランキンを配置してさらに3枚のシングルを発表したが、全く売れず、結局バンドは解散してしまった。

 バンド名を自分の名前にしたブリンズリーは、それまでのポップ路線からフォーク・ロックやサイケデリック・ロック路線を歩むようになり、アメリカのバッファロー・スプリングフィールドやザ・バーズのような音楽を志向するようになった。
 そんな時に、自分たちの作ったデモ・テープが、元ジミ・ヘンドリックスのツアー・マネージャーだったデイヴ・ロビンソンに認められ、再デビューを果たすことができたのである。

 そのときのデイヴの取った戦略が面白い。彼はバンドに注目を集めようとして、1970年、ニューヨークのフィルモア・イーストに、ヴァン・モリソン、クィックシルヴァー・メンセンジャー・サーヴィスの前座として彼らを出演させたのである。しかも英国のプレス関係者を150人も招待してレポートをさせてしまったのだ。

 ところが、いきなりの大舞台でメンバーは緊張してしまい、ライヴは散々の出来だった。一説にはメンバーのビザが降りず、カナダ経由でアメリカ入りしたため、充分なリハーサルもできないまま、お酒で気分転換を図り、それが災いになって失敗したという話もあるが、やはり精神的にも技術的にも実力が伴っていなかったのだろう。
 逆に彼らは辛らつな英国プレスからは酷評され、莫大な借金を抱えて、精神的にもボロボロの状態になってしまった。

 それでも1970年には2枚のアルバムを発表して、翌年にはマルチ・プレイヤーのイアン・ゴムを加入させ、さらにバンドの体制を充実させていった。だから1972年の3枚目のアルバム「シルヴァー・ピストル」は彼らの出世作と言われている。ここから彼らは有名になっていく。ただし一部のファンの間だけだったが…

 ただ彼らは時間さえあれば、どこにでも出かけて演奏していて、このあたりから彼らはパブ・ロックを代表するバンドとして認知されるようになった。
 またザ・バンドのイギリス版ともいわれ、ブリンズリーのギターはロビー・ロバートソン風とも評された。さらにはポール・マッカートニー&ウィングスのオープニング・アクトとしてイギリス国内を回るようになって、彼らの名声はさらに高まっていったのである。

 ただ評論家筋の受けはよかったものの、残念ながら、シングル・ヒットやアルバムの売り上げという面からみれば、まだまだ充分ではなかった。

 1974年の6枚目のアルバム「ザ・ニュー・フェイヴァリッツ・オブ…ブリンズリー・シュワルツ」は、デイヴ・エドモンズがプロデュースを手がけて、それがきっかけでバンドはデイヴのバック・バンドとしても活動を続けるようになった。

 一方でブリンズリー・シュワルツは、“ザ・ヒッターズ”や“ザ・ブリンズリーズ”などの変名でシングルを発表するも商業的な成功を得ることができず、結局バンドは1975年に解散してしまった。この後のデイヴとニックの活動については、以前までにさんざん述べてきたのでここでは省略する。

 自分が持っている彼らのアルバムは、ベスト盤一枚だけだ。1974年に発表された「オリジナル・ゴールデン・グレイツ」と呼ばれるもので、彼らの1970年の1stアルバムから1972年の4枚目までのアルバムから編集されている。全12曲、一部未発表曲やライヴ音源も使用されていて、だから初期のベスト盤といっていいだろう。Photo
 1曲目の"Shining Brightly"を聞くと、まるでC,S&Nの曲のようだ。アコースティック・ギターとパーカッション、ベース・ギターに3声のハーモニーは60年代終りに流行した“サマー・オブ・ラヴ”を髣髴させる。

 "Country Girl"は文字通りのカントリー・ソングで、フィドルやバンジョーが活躍しているし、"Starship"はスティール・ギターがフィーチャーされている。これらを聞く限りではアメリカのバンドだと思われてもしかたがないだろう。

 4曲目の"Funk Angel"はアップテンポのノリのよい曲で、サックスが強調されている。このサックスはデヴィッド・ジャクソンという人が吹いていて、どっかで聞いたような名前だと思ったら、ヴァン・ダー・グラフ・ジェネレイターのメンバーだった人だ。面白い組み合わせである。
 2曲目からここまでは、いずれも彼らの2ndアルバム「デスパイト・イット・オール」からの曲で、すべてニック・ロウの手によるものだった。

 心休まるワルツが"Nightingale"で、ボブ・アンドリュースの演奏するアコーディオンがいい味を出している。心が和むようだ。この曲もニック・ロウが書いている。ニックは本当に素晴らしいメロディ・メイカーで、まさに“リトル・ポール・マッカートニー”と呼ばれてもおかしくない。このアルバムでも12曲中7曲にライターとして、また1曲は共作者としてクレジットされている。

 6曲目の"Ju Ju Man"はアメリカのSSWであるジム・フォードの曲で、これまた軽快なナンバーである。デイヴ・エドモンズも自分のアルバムで取り上げていたし、ライヴでも演奏するほどのお気に入りだった。この曲と前の"Nightingale"は、3枚目のアルバム「シルヴァー・ピストル」に収録されている。

 "Happy Doing What We're Doing"は、ニックとキーボーディストのボブ・アンドリュースの共作で、何となくレオン・ラッセルとDr.ジョンをたして2で割ったような感じの曲。ミディアム・テンポでピアノとオルガンがアメリカ南部を想起させる。

 "Surrender To The Rhythm"もサザン・テイスト溢れる佳曲で、ボブのキーボード・プレイが目立っている。イギリス人がアメリカン・ルーツ・ミュージックを解釈するとこういう音楽になるという典型かもしれない。
 一方で、“イギリスのザ・バンド”といわれたのが納得できる曲が"Don't Lose Your Grip On Love"で、スローな展開ながら、これまたボブのオルガンとブリンズリーのギターが渋い味を出している。この2曲もニックの曲で、"Happy Doing What We're Doing"からこの曲までの3曲は4枚目のアルバム「ナーヴァス・オン・ザ・ロード」からである。

 アルバム未発表の曲は、イアン・ゴムの"(It's Gonna Be A) Bring Down"で、実は彼もいいメロディを書くコンポーザーだったということがわかる曲でもある。1973年の作品で、まさに“パワー・ポップ”の原型のような曲だと思う。

 このベスト・アルバムには2曲のカバー曲が収められていて、1曲はボブ・マーリィ&ザ・ウェイラーズの"Hypocrite"で、もう1曲はアルバム最後の"Run Rudolf Run"だ。
 前者は“ザ・ヒッターズ”名義で出したシングル曲。後者はチャック・ベリーの曲で、ここでは1972年頃のライヴ演奏になっている。ちょうどポール・マッカートニーたちとライヴ活動をしていた頃だろう。

 久しぶりに彼らのアルバムを聞いてみたが、これが意外にイケルのだった。オリジナル・アルバムを聞いてみたいと思った。特に名作の誉れ高い3作目や4作目、デイヴ・エドモンズがプロデュースした最後のアルバムにも興味がひかれる。ニックやイアンのメロディ・センスやボブのキーボードの音はいまだに古びていないようだ。

 このアルバムは、ニック・ロウの原点を探るだけでなく、当時のイギリスのパブではこういう音楽も嗜好されていたというのがわかる歴史的な音源のように思えてならない。

| コメント (0) | トラックバック (0)

« 2013年3月 | トップページ | 2013年5月 »