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2013年5月

2013年5月31日 (金)

シュガーマン 奇跡に愛された男

 久しぶりに映画館に足を運んだ。映画のタイトルは「シュガーマン 奇跡に愛された男」というドキュメンタリー映画だった。

 この映画は2012年に制作されていて、日本の大きな都市では3月に公開されていた。また世界各地の各種の映画祭や映画会では、数多くの高い評価を受けている。ざっと数えてみると、以下の通りになった。

第85回アカデミー賞長編ドキュメンタリー賞
サンダンス映画祭 ワールドシネマ 観客賞
サンダンス映画祭 ワールドシネマ ドキュメンタリー部門 審査員特別賞
ロサンゼルス映画祭 最優秀国際映画観客賞
トライベッカ映画祭 観客賞
モスクワ映画祭 最優秀ドキュメンタリー賞
ターバン国際映画祭 ドキュメンタリー部門観客賞
メルボルン映画祭 観客賞
キャンベラ映画祭観客賞
アテネ映画祭 Golden Athena賞
ナショナル・ボード・オブ・レビュー ドキュメンタリー映画賞
セントルイス映画批評家協会賞 ドキュメンタリー映画賞
インディアナ映画批評家協会賞 ドキュメンタリー映画賞
フェニックス映画批評家協会賞 ドキュメンタリー映画賞
ダラス-フォートワース映画批評家協会賞 ドキュメンタリー映画賞
オクラホマ映画批評家協会賞ドキュメンタリー映画賞
ヴァンクーヴァ―映画批評家協会賞 ドキュメンタリー映画賞
ブロードキャスト映画批評家協会賞 ドキュメンタリー映画賞
ノースカロライナ映画批評家協会賞 ドキュメンタリー映画賞
アメリカ製作者組合賞 ドキュメンタリー映画賞
アメリカ監督組合省 監督賞(ドキュメンタリー)
英国アカデミー賞 ドキュメンタリー映画賞
アメリカ編集監督組合省 編集賞(ドキュメンタリー)
アメリカ脚本家組合賞 ドキュメンタリー脚本賞

 ノミネートだけでも44部門と言われているので、これはもう世界的な一大ブームといっていいだろう。Photo
 テレビでも特集が組まれていたので、もうストーリーを知っている人も数多くいると思うが、ごく簡単にいうと、デトロイト出身のシンガー・ソングライターのロドリゲスの数奇な運命についてのドキュメンタリーである。

 1968年にデトロイトのクラブで歌っていたロドリゲスは、第2のボブ・ディランとしてめでたくレコード・デビューした。そしてアルバム「コールド・ファクト」を発表したのだが、これがものの見事に売れず、続くアルバムも商業的に失敗して、3枚目のアルバム制作中に契約を打ち切られ、音楽業界から消えていってしまった。

 ここまではよくある話なのだが、ところが彼の楽曲は、海を越えた南アフリカの反アパルトヘイト活動家の間で話題になり、その活動を支えるシンボルとして大流行したのである。
 その曲を歌ったロドリゲスは、エルヴィス・プレスリーより人気があるといわれるようになり、南アフリカではビートルズやローリング・ストーンズよりも影響力があると言われるようになったのである。

 そういえば、80年代の半ばにクィーンやエルトン・ジョンなどが南アフリカのサンシティで公演をしてバッシングを受けたことがあった。クィーンなんかはアルバムの不買運動なども受けて、辛い時期を過ごしたように記憶している。

 元ジェネシスのボーカリスト、ピーター・ガブリエルの"Biko"は1980年に作られたが、南アフリカの人権活動家スティーヴ・ビコに捧げられたものだった。
 E・ストリート・バンドのスティーヴ・ヴァン・ザントが中心となって発表したアルバム「サンシティ」は1985年に発表された。当時はこのような反アパルトヘイトが、音楽業界でも世界的な潮流のひとつだった。

 これらの動きの中で、ロドリゲスの曲は現地で歌い継がれていったようだ。公式には1994年にアパルトヘイトは撤廃されているので、その間は世代を超えて彼の歌は支持されていったのだろう。

 しかし一方で、母国アメリカでは、彼は音楽業界から引退して、労働者として建設業界などで家族を養うために働きはじめていた。ところがいつの間にか、彼は失意の中で病死したとか、ステージ上で焼身自殺を図った、行方不明になったなどという根拠のない噂話が半ば都市伝説化してしまうのである2_2 そしてついに彼の歌で人生が変わってしまった南アフリカのファンたちが、ネット上で彼の行方を捜し始めるのだが…

 テレビでは結末まで放送していたし、地方の映画館以外はこれから封切るところも少ないようなので、自分は結末まで書くことにした。それでここからはネタバレになるので、結末を知りたくない人は読むのをやめたほうがいいと思う。

 結論からいえば、彼は生きていた。しかし音楽業界からはすっかり足を洗って、労働者の一人として普通に生活を送っていた。そして南アフリカの熱心なファンの誘いで、デビューしてから30年後の1998年に、南アフリカでライヴを行ったのだ。5000人以上の人を前にして5回の演奏を行った。そして、その後もたびたび南アフリカを訪れてはライヴ演奏を展開している。

 この映画を見てビックリしたのは、彼の存在の重みとその落差の大きさである。アメリカでは6枚しかアルバムは売れなかったというこれまた都市伝説が囁かれているが、南アフリカでは50万枚以上は間違いなく売れているのだ。
 そのほとんどは海賊盤なので、印税収入は全くなかったが、この人気の差は大きいだろう。

 また引退後、人前ではまったく歌う機会もなかったはずなのに、いきなり南アフリカに行って、リムジンに乗せられ、高級ホテルに滞在し、数回のサウンドチェックの後、5000人以上の前で歌うことができたというところも凄いと思う。普通の人ならとても歌うことはできないだろうし、歌ったとしても観客を充分満足させるレベルには届かないだろう。やはり彼は生まれながらのミュージシャンだったのである。3
 彼は現在もデトロイトに住んでいて、労働者として生計を立てている。アカデミー賞の授賞式にも出席せずに、建設労働者として普段のように働き、普通の生活を送ったという。ただし映画のサウンドトラックの印税は彼に支払われているようだ。

 ちなみに彼の声はニール・ヤングよりも低く、ボブ・ディランよりは澄んでいる。誰かの声に似ているのだが、誰かは思い出せなかった。映画のサントラ盤を聞きながら、ゆっくりと思い出すことにしよう。

【追記】

 彼は、デトロイトの市長選に何度か立候補した。もちろん当選はしなかったが、彼の世の中に対する信念みたいなものが感じられるエピソードだ。
 また、南アフリカの高級ホテルに滞在したときもベッドでは眠らずに、ソファーで夜を過ごしたそうだ。理由はベッドメイキングの人が大変だからというもので、これもまた彼の人柄を示すエピソードの一つだろう。

 そうそう、やっと思い出した。彼の歌声はジム・クロウチに似ていると思うのだが、どうだろうか。 

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2013年5月28日 (火)

ディテクティヴ

 レッド・ゼッペリンの作ったレーベル、スワン・ソングについて調べていた。ちょうどデイヴ・エドモンズのことをブログに更新していた頃だった。デイヴ以外にも、プリティ・シングスやバッド・カンパニー、一時期のサッド・カフェなどが在籍していたのだが、その中にディテクティヴもあった。

 ディテクティヴについては、まだこのブログの中で紹介していなかった。自分はもう紹介済みだと思っていたのだが、そうではなかった。このバンドのボーカリスト、マイケル・デ・パレスがかつて結成していたバンド、シルヴァーヘッドのことは2009年に書いていたので、たぶんディテクティヴについても終了していたと思い込んでいたようだ。何事も思い込みとは恐ろしいことである。

 それでディテクティヴは、マイケルがシルヴァーヘッド解散後の1977年に結成したバンドだった。メンバーは以下の通り。
ボーカル…マイケル・デ・パレス
ギター…マイケル・モナーク
ベース…ボビー・ピケット
ドラムス…ジョン・ハイド
キーボード…トニー・ケイ

 見てわかるように、キーボーディストは元イエスのトニー・ケイだった。元イエス組のピーター・バンクスとのバンド、バジャー解散後は、ハード・ロック・バンドに所属していたのである。生活のためかどうかはわからないが、このプログレからハード・ロックまでの幅の広さというか、雑食性こそがロックの醍醐味であろう。

 またギタリストは、元ステッペンウルフに所属していた。あの名曲"Born to Be Wild"もこの人が演奏していたのだ。元シルヴァーヘッドと相性が悪いわけがなかろう。

 ということで、元イエスだの、元ステッペンウルフだの、かなり名前の売れたメンバーがいたから、1977年当時はスーパー・バンド結成と騒がれた。

 ちょうど英米の混合バンドだったフォリナーとほぼ同じ時期の結成である。あちらはかなりメディアにも取り上げられ、デビュー・アルバムも売れに売れたが、こちらは音楽雑誌などではあまり大きな扱いはなかったと記憶している。メンバー的にはディテクティヴの方が有名だったと思うのだが、なぜだったのだろう。

 しかも所属レーベルは天下のスワン・ソングなのである。ピーター・グラントはバッド・カンパニーばかりプッシュしていたのではないだろうか。もう少しプロモーションに力を入れれば、このバンドかなり成功したと思うのだが…、世の中、実力や名声だけでは成功しないようだ。

 とにかく1977年頃にトニーとマイケルが出会い、メンバーを集めて結成された。彼らがクラブなどでライヴ演奏しているところを、ジミー・ペイジが気に入り、自分たちのレーベルに誘ったといわれている。
 だから1stアルバムの「ディテクティヴ」の中のいくつかの曲については、ジミー・ロビンソンという名前で、プロデュースとエンジニアを担当していた。そのせいか、デビュー・アルバムにしてはホーン・セクションなども使用されて、完成された音を出している。(そういえばボブ・ウェルチのいたパリスもジミー・ロビンソンなる人物がプロデュースしていたような気がする)

 また雰囲気的にも後期レッド・ゼッペリンのサウンドに近く、特にリズム・セクション、ドラムスとベースはゼッペリンのコピーといっていいほど音が似ている。ボーカルの声がもう少しメタリックであれば、ゼップのコピー版と騒がれたであろう。
 フォリナーのデビュー・アルバムは、スーパー・バンドなどと言われながらも、実態は売れ筋満載のポップな音つくりだった。それはそれでよかったけれど、ハード・ロックでもプログレでもなかったから、個人的には悲しい思いをしたことがある。

 でもこのディテクティヴのデビュー・アルバムは、逆に王道ロック路線だった。しかもハード・ロック一辺倒ではなく、ファンキーな曲や当時流行っていたフュージョンっぽい曲もあり、R&B中心のロック・バンドだった。だからパンクやポップな産業ロックに飽きていたリスナーには歓迎された(と思っている)。Photo

 普通アルバム冒頭の曲はアップテンポなジャンプ・ナンバーで始まるのがハード・ロック・バンドのアルバムの定説なのだが、この1曲目"Recognition"では、いきなりスローでブルージィーな曲調で始まる。いかにも腰をすえてこのアルバムを聞いてくださいといっているかのようだ。

 続くミディアム・テンポの"Got Enough Love"ではホーン・アレンジがファンキーさを増殖させているし、"Grim Reaper"ではボーカルの中音域処理がロバート・プラントっぽい。後半のストリングス・キーボードの使い方も"Kashmir"に似ている。

 アコースティックなゼップ色が前面に出ているのが"Nightingale"で、バラードのまま最後まで行くと思いきや、途中から一転してアップ・テンポのエレクトリック色に変わるところが面白かった。無理にハードにしなくてもいいと思うのだけれど、自分たちの存在意義を示したのであろう。

 個人的には"Detective Man"のような小気味のいいロックン・ロールが好きだし、ブルージィーな"Ain't None Of Your Business"も第2の"Mistreated"になりえた曲だ(そうならなかったけれども)。
 また"Deep Down"はインストゥルメンタルで、ジェフ・ベックのアルバム「ブロウ・バイ・ブロウ」のアウトテイクといわれても信じてしまいそうな曲。モナークのギターが上手いのは当然だが、イエス時代にはオルガンしか使用しなかったトニー・ケイがエレピやシンセを使用しているのには、正直驚いた。時代の音に迎合したのだろうか。

 一転して"Wild Hot Summer Nights"では、ファンキーなチョッパー・ベースを聞くことができる。ベーシストのロビー・ピケットは黒人ミュージシャンだったせいか、このノリのよさは天性のものかもしれない。

 翌年にはよりゼップを意識したかのようなサウンドのセカンド・アルバムを発表した。日本ではこちらの方が売れたような気がするし、少なくともファーストよりは話題になったと思う。しかし世界的にはほとんど売れなかった。もう5~6年早ければ、あるいは3年ほど遅ければ、たぶんもっと売れたであろうし、マイケル・デ・パレスは第2のデヴィッド・カヴァーデルに、モナークの方は第2のジェフ・ベックになれたかもしれない。まことにタイミングとは恐ろしいものである。2
 このあと彼らは3枚目のアルバムを制作するためスタジオ入りしたのだが、そのときのプロデューサーにはトム・ダウドが予定されていた。当然アメリカナイズされたサウンドと、キャッチーな曲が求められたわけで、レコード会社もスワン・ソングからアトランティックに移っていた。

 トム・ダウドは、ジョン・クーガー・メレンキャンプの曲"I Need A Lover"も録音させようとして、メンバーと対立を起したらしい。またメンバーたちもそれぞれの音楽性を主張してしまい、最終的にアルバム制作を断念してしまった。そしてバンドは解散してしまうのである。

 わずか2年余りと活動期間が短かったバンドだった。マイケル・デ・パレスは俳優に転身して有名になり、マイケル・モナークとジョン・ハイドはそれぞれミュージシャンとして活動しているようだ。特にモナークの方はソロ・アルバムを数枚発表している。トニー・ケイのその後についてはいまさら言うまでもないし、ロビー・ピケットについては不明である。

 とにかく実力はあるのに、成功しなかったバンドだ。人生には、運やタイミングという自分の力では左右できない要素もまた、重要ということなのだろう。

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2013年5月23日 (木)

ザ・クラッシュ

 さて今まで70年代末のイギリスのニュー・ウェーヴ・シーンを見てきたのだが、一応ここで一区切りということで、最後にパンク・ロックの代表格であるザ・クラッシュについて簡単に述べてみたい。

 自分の中で、パンク・ロックといえば、一にセックス・ピストルズであり、二にザ・ストラングラーズになる。他には、これはパンクではないと思うけど、ポリスもよく聞いた。だから、ジャムやダムドなどはほとんど聞いたことがなかった。今も1枚もオリジナル・アルバムは持っていない。当時も今も貧乏なので、そういうアルバムを聞くお金があれば、もっと違うジャンルのアルバムを聞きたいと思っていた。

 だからザ・クラッシュのアルバムも同時代でまるまる聞いたことがなかった。それでもラジオから彼らの音楽は流れてきていたし、なるほど、これがパンク・バンドの音なのかと半ば呆れ、半ば感心して聞いていたのを覚えている。

 最初に聞いた彼らのアルバムは、「ロンドン・コーリング」だった。このアルバムは1979年に発表されていたのだが、自分が聞いたのは80年代に入っていた頃で、ひょっとしたら彼らが5人組として、再出発していた頃だったかもしれない。2

 よく覚えていないのだが、このアルバムを聞いてこれがパンク・ミュージックなのかとビックリした記憶だけはある。シングル・ヒットした"London Calling"は知っていたから違和感はなかった。その次のカバー曲"Brand New Cadillac"も古いロックン・ロールでこれもOKだった。

 しかし曲が進むにつれて、何か違うのである。"Jimmy Jazz"はタイトルのようにジャズっぽいし、しかもギター・ソロまである。"Hateful"には手拍子まで添えられていて、まるでポップ・ソングだった。
 また"Rudie Can't Fail"にはホーン・セクションが加えられ、"Spanish Bombs"はシングル・ヒットが狙えそうな曲で、イントロなどはプリテンダーズの"Kid"に似ていた。

 自分が彼らに対して持っていたイメージは、完全に壊された気がした。少なくともピストルズとともに、イギリスのパンク・シーンを牽引していたのではなかったのか。ピストルズ亡き後も、パンクの精神を忘れずに、音楽シーンだけでなく、政治や経済、文化の分野まで幅広く影響を与えていたのではなかったのか。それがこんな売れ線狙いのアルバムを発表していいのか。

 はっきり言って自分は彼らのことを何も知らなかったから、そんなことを思っていたのだが、あとになって考えれば、このアルバムはザ・クラッシュの「ホワイト・アルバム」だったのである。
 また当時も今もロンドンには中南米やカリブ海からの移民が多く、彼らはイギリスの階級社会において苦しんでいた。その状況は白人労働者階級でも似たようなものであり、その意味においてはザ・クラッシュのメンバーも、彼ら移民の置かれた状況のみならず、その文化や音楽にも関心が高かった。
 だからレゲエやスカなどのリズムや音楽を積極的に取り入れ、自分たちの音楽観の拡大とともに彼らの状況の改善を訴えていったのだった。

 1979年といえば、パンク・シーンも終りを告げ、スカやレゲエ、新しい電子機器音楽などのニュー・ウェーヴやハード・ロックの復興が広まろうとしていた頃で、そんな中、ザ・クラッシュのメンバーも次なるステージを目指して、更なる音楽性の拡大、進展を図っていった。

 だから当時のLPとしては2枚組、全19曲も収められたアルバムを発表したのだろう。しかも当時の若者が手に入れやすいようにと、アルバムの価格を1枚組とほぼ同じ値段にして発売した。彼らは、その次のアルバム「サンディニスタ!」も3枚組ながら1枚ものと同じ値段に設定しようとして、レコード会社と喧嘩している。

 結果的には値段はやや上がったものの、これは彼らのパンク精神はいまだ健在ということを内外に示したものになった。彼らの音楽性は多様化したものの、その精神は相変わらず不変だったのだ。

 でも自分は彼らが変化したと思い、自分の中ではザ・クラッシュは終わってしまった。だからどうしても彼らの音楽は、パンクと結びつかないでいた。

 それで自分は最近になって、そういう固定観念を打ち払うために、またパンク精神を学ぶために、彼らのデビュー・アルバム「白い暴動」を聞いたのだが、21世紀の今になっても充分鑑賞に耐えうる音楽だと思った。一言でいえば、音が古びていないのである。というか、80年代、90年代になっても彼らのようなサウンドを奏でるバンドは存在していたからだ。

 それにしてもやはりパンクはこうでないといけない。と、こう思うこと自体、パンクという固定観念に凝り固まっている証拠なのだろうが、でもやはり歴史的な事実として、この1977年のアルバムからロンドン・パンクの歴史が始まったのであり、ザ・クラッシュという名前が一躍世界に配信されたのである。

 21世紀の今となっては、そういうことを前提として彼らのアルバムを聞くことができるが、77年当時ではそんなことは分かるわけもなく、とにかく時代の閉塞状況と、ミュージシャン側のスピリットが見事にマッチして、その後の一大ムーヴメントが始まったのである。やはりこのアルバムの意義は大きいといえるだろう。Photo
 「白い暴動」のU.K.盤には14曲が収められているが、そのほとんどが1分台から3分少々ときわめて短く、しかもそれらの曲からは焦燥感や疾走感がほとばしっている。
 特に"White Riot"、"London's Burning"などは感動してしまうくらいに魅力的だ。何回聞いても名曲だと思う。

 12曲目の"Police&Thieves"だけは6分もある大曲なのだが、すでにデビュー・アルバムからこういうレゲエのカバー曲を演奏しているのだから、彼らは単なるパンク・ロッカーではなかったのである。この当時から「ロンドン・コーリング」や「サンディニスタ!」に至る萌芽が含まれていたのだ。自分は今になってようなくこのことに気がついた。情けない限りである。

 もうひとつ彼らの魅力は、その生き様と音楽性にブレがなかったことだろう。パンク・ロックが一大ムーヴメントになりえたのも、その音楽性と同時に、やはり演ずるミュージシャン側の言動に多くの若者が共感を覚えたからだ。

 そしてザ・クラッシュの場合も、その音楽性は大きく変化したとはいえ、ステージ上のパフォーマンスやステージを降りた態度でも、反権力を貫き通し、若者を擁護した。その変わらない姿勢にファンは彼らを信じ、自分たちも彼らのような精神を体現しようとした。その共同性が世界的に伝播した結果、彼らは他のパンク・ロッカーとは一線を画したのである。

 ボーカルのジョー・ストラマーは、父親が外交官の中産階級出身者なのだが、あえて音楽の道を志し、ときには墓掘り人夫までしながら自分の夢を叶えようとした。
 彼はまた、ファンを大事にし、ライヴが終わったあと泊まるところのない彼ら全員をホテルに泊まれるように手配した。もちろん宿泊費はジョーが支払った。

 ベースのポール・シムノンは、彼らがロックの殿堂入りが決まったときに、その参加を拒否した。理由は、2500ドルもするようなチケット代は、普通のファンにとっては高すぎるというものだった。

 こういうエピソードは、彼らにとっては事欠かない。こういう姿勢がファンにとってはたまらないのであり、彼らが解散したあとでさえも、ますます彼らのファンは増えていくのだ。これはもうザ・クラッシュ信者というものであろう。

 そういう人たちから見れば、このブログの記述などは彼らの真実の100分の一も表していないと言われて、お叱りを受けるかもしれない。ファン心理から見れば、それは誠に御もっともな意見である。

 ともかく彼らの音楽性は、パンクのフィールドから大きく進化していったが、彼らの生き様や主張はいささかも変わらなかった。その姿にファンは愛情と信頼を注ぎ、同化していくのだ。自分もまた遅れてきたそんなファンの一人なのである。

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2013年5月18日 (土)

ドクター・フィールグッド

 パンク/ニュー・ウェーヴ後のリッチ・キッズや、パンク前夜のデフ・スクールなどについて述べてきたのだが、今回はパンク以前のバンドについて書いてみたいと思う。

 ドクター・フィールグッド。結成は1971年だから、確かにパンク以前である。そして現在まで活動は続いているとはいうものの、実質的な解散は1977年だと思っている。だから自分にとっては、全盛期に解散したようなものだった。

 バンドの中心人物は、ボーカル&ハーモニカのリー・ブリローとギタリストのウィルコ・ジョンソンの2人だ。リーのだみ声とウィルコのピックを使わないギター・カッティングが人気を呼んで、のちのパンク・バンドの中にも彼らを慕う声は大きかった。
 また曲のほとんどはウィルコ・ジョンソンが手がけていて、シンプルなロックン・ロールを得意としていることがよくわかる。

 自分が最初聞いたときは、シャープでノリのよいフェイセズという気がした。フェイセズよりもパンキッシュで躍動感があった。曲自体も2分弱から3分少々と短くて、あっという間に終わってしまう。もっと長く聞きたいという渇望感が、よけい彼らの音楽を熱望してしまうかのようだった。

 彼らはバンド結成後は、ロンドンのパブなどを巡り、ライヴ活動を続けていた。ようやくレコード・デビューできたのは1975年の頃だった。この年にアルバム「ダウン・バイ・ザ・ジェティ」を発表している。Drfeelgood
 このアルバムを初めて聞いたときに思いついた言葉は、まさに“カッコいい”の一言だった。特に1曲目の"She Does It Right"のコード・カッティングはキレがあるし、ジョー・リン・フッカーのブルーズ"Boom Boom"も、テンポが速くてブルーズ臭があまりしない。

 スェーデン出身の男女2人組の名前の由来にもなった"Roxette"はリズム・パターンが面白いし、"One Weekend"は60年代風のサーフ・ロックを思わせた。

 個人的には勢いのあるハーモニカとギターの演奏とのバランスが素晴らしい"Twenty Yards Behind"や、繰り返されるリフがその気にさせる"Keep It Out Of Sight"、疾走感のある"All Through the City"が好きだ。こういう曲を聞くと、思わず自分もギターを手にして、ぶっ飛ばしたいという気にさせられる。

 ちなみに"The More I Give"のオルガンは、ブリンズレー・シュワルツやグラハム・パーカー&ザ・ルーモアに在籍していたボブ・アンドリュースが演奏している。パブ・ロックを通しての交友関係から来たものに違いない。

 ただ面白いのは、同じパブ・ロックと呼ばれているにもかかわらずその音楽性には大きな開きがあることだ。
 ブリンズレーはアメリカの南部の趣があるのに対して、ドクター・フィールグッドの方はロックン・ロールがメインである。また、グラハム・パーカーの方は、R&Bやレゲエ・ミュージックにも手を染めている。当時のイギリスのパブでは、音楽的な振幅が激しかったようで、観客の好みに応じて、様々なバンドがステージに立っていたのだろう。

 彼らは1975年に2枚のスタジオ・アルバムを制作したあと、翌年には初めてのライヴ盤「ステューピディティ」(邦題:「殺人病棟」)を発表した。このアルバムは全英No.1を獲得している。

 アルバムには13曲収められていて、前半の7曲は1975年5月23日のシェフィールド・シティ・ホールでのライヴ、後半の6曲が同年11月8日に行われたサウスエンド・カーサルでの演奏で、オリジナル・レコード盤では、それぞれ“シェフィールド・サイド”、“サウスエンド・サイド”となっていた。収録曲は以下の通り。
Shefield Side;
1. Talking About You, 2. 20 Yards Behind, 3. Stupidity 4. All Through The City, 5. I'm A Man, 6. Walking The Dog, 7. She Does It Right
Southend Side;
1. Going Back Home, 2. I Don't Mind, 3. Back In The Night, 4. I'm A Hog For You Baby 5. Checking Up On My Baby, 6. Roxette

 彼らは、“パンク・ムーヴメントの火付け役”とか“後世に最も影響力のあったバンド”などと呼ばれているが、確かにそれもまた真実だろう。しかし、自分には彼らの音楽は基本的には、R&Bの再解釈だと思えてならない。

 このアルバムでのカバー曲の中のいくつかは、チャック・ベリーやソロモン・バーク、ボ・ディドリー、サニー・ボーイ・ウィリアムソンなどから取り上げられているし、("Talking About You"、"Stupidity"、"I'm A Man"、"Checking Up On My Baby")、演奏形態もシンプルで、ブルーズ・ハープやリード・ギターがフィーチャーされていて、ストーンズやヤードバーズなどの既成の音楽とさほど変わらないからだ。Drfeelgood2

 ただ彼らの音楽が革新的だったのは、やはりウィルコ・ジョンソンの書く曲の疾走感と、シャープなギター演奏にあるだろう。ウィルコによるオリジナル曲は2分~3分程度と短いながらも起伏があり、清涼感さえ感じられるし、ギター演奏もスタジオ・バージョンとほぼ同じか、それ以上にキレがある。その点では、やがて来るパンク・ムーヴメントの先駆けになったというのは、間違いではないだろう。

 またアルバムのジャケット写真を見る限りでは、まるでザ・ジャムのようなモッズ・ファッションである。もちろんこれはザ・ジャムの方が真似たのだろうが、ドクター・フィールグッドはネオ・モッズ・ムーヴメントの先駆者でもあったのだ。

 このアルバムは全英No.1を獲得したにもかかわらず、ウィルコ・ジョンソンは1977年にバンドを脱退してしまった。やはりボーカルのリー・ブリローとうまくいかなかったのだろう。これは自分の勝手な判断なのだが、リーはもっとR&Bにこだわりたかったのではないだろうか。
 逆にウィルコの方は自分のオリジナル曲に自信があって、もっと自己主張したかったのだろう。やはり“両雄並び立たず”だったに違いない。

 脱退後のウィルコはイアン・デューリー&ザ・ブロックヘッズに参加したり、自己のバンドを結成してライヴ活動にいそしんでいた。日本にもフジ・ロックなどで公演していて、日本のミュージシャンとも深く交流している。ある意味、彼の音楽を最も受け入れているのは、日本かもしれない。

 ボーカルのリーは、1994年にB型肝炎で亡くなった。41歳の若さだった。一方、ウィルコの方は、奥さんのアイリーンが2004年にガンで亡くなったあとも、精力的に活動していたが、2013年、今年の初めに自らガンの末期であることを発表した。
 彼はまたフェアウェル・ツアーを行った後、健康状態の悪化のためにもう二度とツアーには出られないことも述べている。あるいは愛する妻のもとに一刻も早く旅立ちたいのかもしれない。ともかく現在65歳のウィルコだが、ただただ彼の健康回復を願うばかりである。

 とにかく彼らは、伝統の継承者であるとともに、それにオリジナリティを加えた改革者でもあった。彼らの音楽は、そういう意味でも、今後も人々の記憶から忘れられずに残っていくだろう。次にくる人たちは、それをまた拡大再生産していくである。イギリスの音楽シーンの強みは、こういうところにあるのかもしれない。

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2013年5月13日 (月)

デフ・スクール

 イギリスの音楽雑誌モジョの創立者でジャーナリストのポール・ノイヤーは、かつてこう述べたことがあった。“リバプールの音楽シーンで、最も重要なバンドは2つだけだ。1つはザ・ビートルズであり、もうひとつはデフ・スクールである”。
 またフランキー・ゴーズ・トゥ・ハリウッドのボーカル、ホリー・ジョンソンも自分が最も影響を受けたバンドと、デフ・スクールを絶賛している。

 リバプール限定とはいえ、ザ・ビートルズと並び称されるほどのバンドのデフ・スクールとは一体いかなるものなのだろうか。今回はこのバンドに迫ってみたい。

 デフ・スクールは1973年ごろにリバプールで結成された。名前の由来は、彼らが主な練習場を聾学校で行っていたことから来ている。
 もとはリバプールにある美術学校に通う学生バンドだった。最初はパーティなどで演奏していて、来るものは拒まずといった具合だったから、音楽に興味がある人は誰でも自由に参加して演奏でき、メンバーも流動的だった。

 そういう経緯で成立したバンドだからだろうか、音楽的には、にぎやかなポップ・ミュージックから猥雑なキャバレー・ミュージックまで幅広い。またメンバーも8人から多いときで10人以上いた。
 個人的にはイギリスの米米クラブだと思っている。人数的にもそうだし、音楽的にもホーンや女性ボーカルもフィーチャーされたポップなサウンドだからだ。

 彼らはメロディ・メイカー主宰のロック&フォーク・コンテストに出場して、見事優勝。ザ・ビートルズの元パブリストだったデレク・テイラーに認められて、ワーナー・ブラザーズと契約し、1976年にデビュー・アルバム「セカンド・ハネムーン」を発表した。Photo
 もとはパーティ・バンドだったせいか、彼らのライヴは大人気で、会場はすし詰め状態、外には長蛇の列が並ぶという有様だった。

 ところが時代は、まさにパンク/ニュー・ウェーヴの突入前夜で、デビュー・アルバムはセールス的には伸び悩んだ。彼らもまた時代の流れに敏感で、そういうパンク・ロックからロックン・ロール、グラム・ロックなど、彼ら本来の魅力を発揮したアルバムを次々と計3枚発表していったのだが、残念ながら親会社のワーナーの理解を得られず、プロモーション不足も手伝って、結局、1978年には解散してしまうのである。

 メンバーの中で一番有名になったのは、ギタリストのクライヴ・ランジャーだろうか。彼はのちにプロデューサーとして、マッドネス、デヴィッド・ボウイ、ディキーズ・ミッドナイト・ランナーズなどを手がけ、彼らの成功に貢献しているし、のちにはエルヴィス・コステロとともに"Shipbuilding"という曲を発表している。

 ところが1988年に、突然彼らは再結成してライブ活動を始め、そのときの音源をライヴ盤として発表してしまった。それが彼らの4枚目のアルバム「セカンド・カミング」なのである。

 クレジットを見てみると、このときは、エンリコ・キャデラックとエリック・シャークの男性ボーカルと後にマッドネスのボーカルのサッグスと結婚した女性ボーカルのベット・ブライトを中心に10名で構成されている。他のメンバーは次の通りである。
ギター…クライヴ・ランジャー
ベース…スティーヴ・リンジー
ドラムス…マーティン・ヒューズ
キーボード…レヴ・マックス・リプル
シタール、マンドリン、スライド・ギター…リーヴス・ガブレルズ
サックス…リー・トンプソンとゲイリー・バーナクル。

 特筆すべきは、サポート・メンバーにニック・ロウが参加していることだろう。ひょっとしたら彼らの新しいスタジオ・アルバムのプロデュースを請け負うとしていたのかもしれない。

 さすがにライヴ・アルバムだけあって躍動感に溢れていて、男女のボーカルとバックの演奏陣のバランスが凄くいいと思う。特にサックスの使われ方が効果的で、2人のサックス・プレイヤーが交互にアドリブを出したりと、2人の持ち味がよく出せている。
 例えていうなら、女性ボーカルとサクソフォンが追加されたロキシー・ミュージックのようだ。あるいは地方のキャバレー回りをしているブライアン・フェリーといった方がわかりやすいかもしれない。

 全14曲の内訳は次の通りである。
1stアルバムから…"What a Way to End it All"、"Hi Jo Hi"、"Nearly Moonlit Night Hotel"
            "2nd Honeymoon"、"Final Act"
2ndアルバムから…"Taxi!"、"Capaldi's Cafe"
3thアルバムから…"Ronnie Zamora"、"Thunder and Lightning"、"I Wanna Be Your Boy"
カバー曲…"Shake Some Action"、"Blue Velvet"
未発表曲…"Princess Princess"
スティーヴ・リンジーが結成したザ・プラネットというバンドの1979年の曲…"Lines"

 やはり一番売れた「セカンド・ハネムーン」からの曲からたくさん選曲されているが、ポップ度が高い曲は"Taxi!"だろうし、クライヴのリード・ギターが少しだけフィーチャーされているのは"Ronnie Zamora"だろう。

 また"2nd Honeymoon"では静から動というコントラストが見事で、エレクトリック・シタールも使用されている。もう少しアレンジを加えればクィーンの曲のような感じになったかもしれない。同じように"Final Act"もパリのシャンゼリゼ通りを歩いているような感じの曲で(もちろん実際に歩いたことはないけれど)、レヴの演奏するアコーディオンが美しい。

 カバー・ソングの"Shake Some Action"はアメリカのバンド、フレイミン・グルーヴィーズの1976年のアルバム・タイトル曲で、ビルボード・アルバム・チャートでは142位という結果だった。
 もう1つの"Blue Velvet"は有名なスタンダード。オリジナルは1951年にトニー・ベネットが歌ったもので、4年後にはザ・クローヴァーズというR&Bバンドもヒットさせているが、一番有名なのは、1963年にボビー・ヴィントンが歌ってNo.1になったことだろう。2

 というわけで幅広い音楽性を備えていたバンドだった。彼らの評価を見てみると、第2の10ccといわれたこともあったようだ。確かに1stアルバムの"2nd Honeymoon"のような曲をもう少し膨らませていけば、そうなったのかもしれないが、彼らはよりシンプルでロックな道を選択してしまった。時代の影響を受けたのだろう。

 彼らは現在でも散発的に活動を行っていて、2011年にはかつてのライヴ音源をまとめたミニ・アルバムも発表している。2013年にはバンド結成40周年を記念して、彼らの活動歴をまとめた本も出版されるようだ。確かに歴史の中に埋没させるには惜しいミュージシャンたちなのは、間違いないだろう。

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2013年5月 8日 (水)

ウルトラヴォックス

 前回の「リッチ・キッズ」編で名前の出ていたミッジ・ユーロのいたバンドについて、引き続き述べてみたい。といってもはっきりいって自分の専門外なので、どこまで話が続くかわからない。最初から話のタネはつきている状況だ。

 自分の中でのミッジのいたウルトラヴォックスは、1980年代の初頭に流行した“ニュー・ロマンティックス”のブームに乗ったバンドだという印象があった。でも実際は、1975年から活動を続けていたバンドで、世界的に売れたのがニュー・ロマンティック全盛期だったに過ぎない。世界的な音楽の流れを巧みに利用したという方が適切なような気がする。

 ニュー・ロマンティックといえば、デュラン・デュランやスパンダー・バレーなどが有名だが、視覚的な元祖をたどれば、ロキシー・ミュージックのブライアン・フェリーだと思っている。
 また音楽的には、これも70年代後半から流行していたピコピコ・シンセを強調したテクノ・ミュージックがベースになっている。これを土台にして、ポップなメロディとダンサンブルなリズム、ファッショナブルな衣装や派手なお化粧とが微妙に調和してできたもの、それがニュー・ロマンティックではないだろうか。

 自分はそういう時代の流れの中にはいたのだが、どうもその手の音楽を聞くのは苦手で、むしろまだL.A.メタルのワン・パターンさの方が性に合っていた。だから80年代の最初はアメリカン・ロックの方に目が向いていたような気がする。それでも、デュラン・デュランのPVはよく見ていたが…

 なかなか本題に行けないのだが、要するにウルトラヴォックスである。これはよく知られているように、大きく前期と後期に分けられる。ミッジ・ユーロが参加した1979年以降とそれ以前である。

 コアなウルトラヴォックスのファンは前期のウルトラヴォックスが好きなようで、特にその当時のバンドのリーダーだったジョン・フォックス在籍時のサード・アルバム「システムズ・オブ・ロマンス」を代表作に掲げる人は多いようだ。41zogjdo7ol
 例の“あの人は今”ミュージシャンの芸能プロモーターを裏家業にしているKK氏から、このアルバムは名盤だ、一家に一枚、是非聞きなさい、と言われて自分も無理やり聞かされたのだが、どうしても好きになれなかった。ただ最後の曲"Just For a Moment"はいい曲だった思い出がある。

 自分はどうもあのチープな(ように聞こえる)シンセサイザーの音に合わないようだ。やはりプログレから入ったせいか、シンセはバリバリと弾きこなすものという先入観があるのだろう。どうしてもキース・エマーソンやリック・ウェイクマンと比べてしまうのである。

 それで1979年当時、これもまたニュー・ロマンティックのバンドのヴィサージのメンバーだったミッジ・ユーロに、ジョン・フォックス脱退後の再編成メンバーの一員として声がかかり、彼を中心にしてバンドが再結成されたところから彼らの快進撃が始まった。

 もともとギターもキーボードもお得意だったミッジのお陰で、全体的にロック色が強くなりさらにメロディアスにもなった。リズムにも切れが出てきたように思える。それが1980年に発表されたアルバム「ヴィエナ」の中によく表れている。

 オリジナル盤には9曲が収められていて、1曲目のインストゥルメンタル"Astradyne"から7分もあるダンス・チューンが配置されている。でもこの曲、何となくクラフトワークの曲に似ていたので好きだったし、ギターの音もきちんと聞こえてくるので、ピコピコ・シンセもそんなに気にならなかった。虫がいいとはこういうことなのかもしれない。

 続く日本でもシングルでヒットした"New Europeans"もミッジの弾くギター・カッティングがカッコいいし、ノリもよい。やはりこのアルバムは売れるべきして売れたと思う。たとえニュー・ロマンティックスの影響がなくても売れただろう。

 続く"Private Lives"、"Passing Strangers"と、多少キーボードが鼻につくのだが、私にとっては許容範囲である。またアップテンポがうれしい"Sleepwalk"も車の中でよく聞いたものだ。彼らがこんなテンポの曲を演奏するとは思わなかった。

 後半は"Mr.X"から始まるのだが、最初はインストゥルメンタルかと思った。6分30秒以上もありインスト主体なのだが、こういうモノローグ調のボーカル曲は以前のウルトラヴォックスを思い出させる。こういう曲や次の"Western Promise"も苦手な部類だ。でもYMOが好きな人にはたまらないのではないだろうか。

 ミッジ・ユーロの意外と力強いボーカルが聞ける"Vienna"は、ヨーロッパのバンドのようにいかにも幻想的だし、途中で曲調が変わるところは技巧的でもある。たぶんミッジが中心となって作ったのだろう、クレジットはメンバー全員になっているけれども。
 最後の曲"All Sttod Still"も"Sleepwalk"のようにアップテンポだ。ただミッジのギターが強調されている点が違う。71u1miywhhl_

 いま思い出したのだが、なぜかミッジ・ユーロはゲイリー・ムーアの抜けた代わりにギタリスト&キーボーディストとして、シン・リジーに参加して演奏活動を行っている。それほどテクのあるギタリストだったのだろうか。よくわからない。

 その後ウルトラヴォックスは、徐々に脱テクノ化を図り、1982年にはかのジョージ・マーティンをプロデューサーに迎えてアルバムを発表した。その頃にはもうニュー・ロマンティックスの時代は終りを迎えようとしていたことも原因だったのかもしれない。

 ミッジ自身も1984年のバンド・エイドや翌年のライヴ・エイドの活動を経て、ソロ・アルバムを発表し大成功を収めて、結局、1986年にはウルトラヴォックスから脱退してしまった。
 その後のバンドはキーボーディストのビリー・カーリー主体で運営されていたが、2012年には後期のメンバー4人でアルバム「ブリリアント」を発表している。同窓会的な意味合いが濃いのだろうが、はたしてどんな音楽をやっているのか興味深い。

 今年で60歳になるミッジ・ユーロだ。ライヴ・エイド等の活躍で大英帝国から勲章も貰っているミュージシャンでもある。今年は節目というわけで、ひょっとしたら新しいソロ・アルバムを企画しているかもしれない。ギターもゲイリー・ムーアのようにバリバリ弾きまくっているかもしれない。

 髪の毛は薄くなったけれども、才能はまだ枯渇していないはず。そのうち大英帝国の至宝と讃え奉られるかもしれないミュージシャンなのである。

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2013年5月 3日 (金)

リッチ・キッズ

 さてゴールデン・ウィークも後半に突入したが、“貧乏ヒマ無し”とはよく言ったもので、今までのところ近くのコンビニまでしか行っていない。せっかくの好天がもったいないのだが、特に予定もないので、このブログを続けている。ひとり言のような内容なので、自己満足もかねて書き綴っている。

 というわけで自分は貧乏だけれども、せめてバンド名ぐらいはリッチなバンドを紹介したいと思って、今回のお題は“リッチ・キッズ”である。知っている人は知っていると思うけれども、あのセックス・ピストルズの元ベーシスト、グレン・マトロックが在籍していたバンドだった。

 セックス・ピストルズの名前は有名なので、たいていのロック・ファンなら知っていると思う。だけどピストルズのベーシストといえば、衝撃的な人生を送ったシド・ヴィシャスを思い出す人が多くて、グレン・マトロックって何者?という人の方が多いのではないだろうか。

 ピストルズの活動期間は、公式には1975年から78年とされていて、グレンはピストルズがデビューする前から1977年まで在籍していた。ピストルズの代表的な曲"God Save The Queen"、"Pretty Vacant"、"Anarchy in The U.K."などは、すべてグレンの曲であり、彼の作曲能力がなければ、ピストルズは果たしてあそこまで有名になったかどうかはわからないといわれている。

 結局、グレン・マトロックは、ジョニー・ロットンと仲違いをするようになり、1977年、アルバムを録音する前にバンドを脱退してしまった。のちにピストルズのギタリストだったスティーヴ・ジョーンズによれば、グレンがあんなに早く脱退しなければ、ピストルズはもう少し長く持ちこたえただろうみたいなことを言っているが、一面の真実をついている言葉だと思う。

 それで脱退後、彼はスコットランド出身のミッジ・ユーロや、ロンドン出身のスティーヴ・ニュー、ラスティー・イーガーらとともにバンドを結成した。それがリッチ・キッズだった。1977年頃である。

 バンドの初期には、あのザ・クラッシュのミック・ジョーンズも参加していたが、ミッジ・ユーロの参加で、彼はバンドを抜け、クラッシュ一本で活動するようになったようだ。

 いま考えれば、規模は異なるものの、このバンドはパンク/ニュー・ウェーヴ時代のスーパー・バンドだった。ギタリストのミッジ・ユーロは後にウルトラヴォックスに参加したし、その後ソロでも活躍し、ドラマーのラスティはヴィサージュの結成に一役買っている。
 もう一人のギタリストのスティーヴ・ニューは、15歳でピストルズのセカンド・ギタリストとして呼ばれたり、リッチ・キッズ以降もイギー・ポップやP.I.L.などのアルバムにも参加している。ただ、残念ながら2010年の5月、ガンのために亡くなった。享年50歳だった。

 彼らは3枚のシングルと1枚のアルバムを発表して解散したのだが、そのアルバムをプロデュースしたのが、あのミック・ロンソンだった。ちなみにライヴでは、ギターにミック、キーボードに元フェイセズのイアン・マクレガンが参加して、リッチ・キッズとともに曲を演奏したこともあったようだ。

 このことからわかるように、彼らの音楽はパンク・ロックとは無縁の、むしろメロディアスでシャープなロックン・ロール・ミュージックだ。あるいはポップ・ミュージックに近い音楽といってもいいだろう。
 そんな音楽が味わえるのが、1978年の最初で最後のアルバム「ゴースツ・オブ・プリンセス・イン・タワーズ」である。Photo
 CD盤ではシングル曲を含む12曲が収められていて、そのうちグレンの単独曲が2曲、ミッジ・ユーロの曲が4曲、グレンとスティーヴの共作曲が5曲となっていて、残りの1曲はスモール・フェイセズの"Here Comes The Nice"のカバーだった。

 1曲目の"Strange One"は、バックにシンセサイザーのようなキーボードが使用されていて、タイトルのような“奇妙な”感じがする。煮え切らないロックン・ロールか、中途半端なデヴィッド・ボウイという印象を持った。

 ところが2曲目以降はグッと変わって、粋のいいロックン・ロールを聞くことができる。グレンの単独曲"Hung On You"は垢抜けたピストルズという感じでカッコいいし、アルバム・タイトル曲"Ghosts Of Princess In Towers"は、もっとポップになったピストルズである。あるいはこの曲だけ聞けば、イギリスのチープ・トリックと言ってもいいだろう。

 4曲目の"Cheap Emotions"はやや丸くなったイギー・ポップという感じで、彼らがのちにイギー・ポップと一緒にツアーをした理由がよくわかる。共通するところが多かったのだろう。この曲のボーカルはグレンで、ほかの曲は基本的にミッジがボーカルをとっている。

 次からはミッジ・ユーロの曲が3曲続く。まず"Marching Men"はマーチングをしているかのようなポップ・ロックで、後半のギターのダビングにかなり凝ったアレンジが施されていて、"Put You In The Picture"はミッジ流のパンク・ロックになっている。

 そして"Young Girls"では、意外とシンプルなロックン・ロールを聞くことができる。シングル・ヒットも期待できそうなメロディ・ラインと性急なリズム・セクションのミスマッチがカッコいい。初期のザ・フーの曲にも似ている。

 それに負けていないのが"Bullet Proof Lover"で、途中のニューのギター・ソロが素晴らしい。もう少しエフェクターを加えれば、間違いなくハード・ロックである。これはグレンと彼の友人の共作になっている。

 グレンの単独曲"Rich Kids"は、これまたポップな曲で、“お金はなくても心は豊かに”という彼らのメッセージが込められている。また、この曲でもニューのギターが目立っていて、彼はなかなかのテクニシャンだということがわかる。リード・ギターに関しては、はっきり言ってピート・タウンゼントよりも上手だ。ちなみにこの曲は1stシングルとして発表されて、全英24位を記録している。

 ミッジの曲"Lovers And Fools"ではピアノやオルガンも使用されていて、キーボード類はミッジが演奏しているのだろう。いかにも彼らしく、メロディが印象的でユニークな曲だ。
 グレンの書く曲はストレートなロックン・ロールが多くて、"Burning Sounds"もその中のひとつ。リード・ボーカルはグレン本人である。

 最後の曲"Here Comes The Nice"はセカンド・シングル"Marching Men"のBサイドだった曲で、ライヴ演奏を録音したものになっている。当時の彼らはオリジナル曲が少なかったから、ライヴでは彼ら好みの曲も演奏していたのだろう。

 こうして聞いてみると、彼らがなぜ早く解散してしまったのかがわかる。“両雄並び立たず”で、グレンとミッジの2人の才能がお互いを邪魔したのだろう。

 グレンの曲は疾走感溢れるパンキッシュなロックン・ロールで、ミッジの曲はキーボードなどが付け加えられて、手の込んだものになっている。初期のザ・フーとR&B色を除いたスモール・フェイセズのような音楽が1つのバンドの中に存在しているようなものだった。

 だから彼らはわずか2年余りで解散してしまった。しかしニューがガンに侵されていたことがわかると、2010年にオリジナル・メンバーで1度だけのリユニオン・コンサートを行っている。グレン・マトロックとミッジ・ユーロという名前には、固定ファンが意外と多いのだろう。

 というわけで、このアルバムは、ある意味、歴史の中に埋もれた名盤だと思っている。パンク/ニュー・ウェーヴ時代のスーパー・バンド、それがリッチ・キッズだったのである。

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