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2013年5月23日 (木)

ザ・クラッシュ

 さて今まで70年代末のイギリスのニュー・ウェーヴ・シーンを見てきたのだが、一応ここで一区切りということで、最後にパンク・ロックの代表格であるザ・クラッシュについて簡単に述べてみたい。

 自分の中で、パンク・ロックといえば、一にセックス・ピストルズであり、二にザ・ストラングラーズになる。他には、これはパンクではないと思うけど、ポリスもよく聞いた。だから、ジャムやダムドなどはほとんど聞いたことがなかった。今も1枚もオリジナル・アルバムは持っていない。当時も今も貧乏なので、そういうアルバムを聞くお金があれば、もっと違うジャンルのアルバムを聞きたいと思っていた。

 だからザ・クラッシュのアルバムも同時代でまるまる聞いたことがなかった。それでもラジオから彼らの音楽は流れてきていたし、なるほど、これがパンク・バンドの音なのかと半ば呆れ、半ば感心して聞いていたのを覚えている。

 最初に聞いた彼らのアルバムは、「ロンドン・コーリング」だった。このアルバムは1979年に発表されていたのだが、自分が聞いたのは80年代に入っていた頃で、ひょっとしたら彼らが5人組として、再出発していた頃だったかもしれない。2

 よく覚えていないのだが、このアルバムを聞いてこれがパンク・ミュージックなのかとビックリした記憶だけはある。シングル・ヒットした"London Calling"は知っていたから違和感はなかった。その次のカバー曲"Brand New Cadillac"も古いロックン・ロールでこれもOKだった。

 しかし曲が進むにつれて、何か違うのである。"Jimmy Jazz"はタイトルのようにジャズっぽいし、しかもギター・ソロまである。"Hateful"には手拍子まで添えられていて、まるでポップ・ソングだった。
 また"Rudie Can't Fail"にはホーン・セクションが加えられ、"Spanish Bombs"はシングル・ヒットが狙えそうな曲で、イントロなどはプリテンダーズの"Kid"に似ていた。

 自分が彼らに対して持っていたイメージは、完全に壊された気がした。少なくともピストルズとともに、イギリスのパンク・シーンを牽引していたのではなかったのか。ピストルズ亡き後も、パンクの精神を忘れずに、音楽シーンだけでなく、政治や経済、文化の分野まで幅広く影響を与えていたのではなかったのか。それがこんな売れ線狙いのアルバムを発表していいのか。

 はっきり言って自分は彼らのことを何も知らなかったから、そんなことを思っていたのだが、あとになって考えれば、このアルバムはザ・クラッシュの「ホワイト・アルバム」だったのである。
 また当時も今もロンドンには中南米やカリブ海からの移民が多く、彼らはイギリスの階級社会において苦しんでいた。その状況は白人労働者階級でも似たようなものであり、その意味においてはザ・クラッシュのメンバーも、彼ら移民の置かれた状況のみならず、その文化や音楽にも関心が高かった。
 だからレゲエやスカなどのリズムや音楽を積極的に取り入れ、自分たちの音楽観の拡大とともに彼らの状況の改善を訴えていったのだった。

 1979年といえば、パンク・シーンも終りを告げ、スカやレゲエ、新しい電子機器音楽などのニュー・ウェーヴやハード・ロックの復興が広まろうとしていた頃で、そんな中、ザ・クラッシュのメンバーも次なるステージを目指して、更なる音楽性の拡大、進展を図っていった。

 だから当時のLPとしては2枚組、全19曲も収められたアルバムを発表したのだろう。しかも当時の若者が手に入れやすいようにと、アルバムの価格を1枚組とほぼ同じ値段にして発売した。彼らは、その次のアルバム「サンディニスタ!」も3枚組ながら1枚ものと同じ値段に設定しようとして、レコード会社と喧嘩している。

 結果的には値段はやや上がったものの、これは彼らのパンク精神はいまだ健在ということを内外に示したものになった。彼らの音楽性は多様化したものの、その精神は相変わらず不変だったのだ。

 でも自分は彼らが変化したと思い、自分の中ではザ・クラッシュは終わってしまった。だからどうしても彼らの音楽は、パンクと結びつかないでいた。

 それで自分は最近になって、そういう固定観念を打ち払うために、またパンク精神を学ぶために、彼らのデビュー・アルバム「白い暴動」を聞いたのだが、21世紀の今になっても充分鑑賞に耐えうる音楽だと思った。一言でいえば、音が古びていないのである。というか、80年代、90年代になっても彼らのようなサウンドを奏でるバンドは存在していたからだ。

 それにしてもやはりパンクはこうでないといけない。と、こう思うこと自体、パンクという固定観念に凝り固まっている証拠なのだろうが、でもやはり歴史的な事実として、この1977年のアルバムからロンドン・パンクの歴史が始まったのであり、ザ・クラッシュという名前が一躍世界に配信されたのである。

 21世紀の今となっては、そういうことを前提として彼らのアルバムを聞くことができるが、77年当時ではそんなことは分かるわけもなく、とにかく時代の閉塞状況と、ミュージシャン側のスピリットが見事にマッチして、その後の一大ムーヴメントが始まったのである。やはりこのアルバムの意義は大きいといえるだろう。Photo
 「白い暴動」のU.K.盤には14曲が収められているが、そのほとんどが1分台から3分少々ときわめて短く、しかもそれらの曲からは焦燥感や疾走感がほとばしっている。
 特に"White Riot"、"London's Burning"などは感動してしまうくらいに魅力的だ。何回聞いても名曲だと思う。

 12曲目の"Police&Thieves"だけは6分もある大曲なのだが、すでにデビュー・アルバムからこういうレゲエのカバー曲を演奏しているのだから、彼らは単なるパンク・ロッカーではなかったのである。この当時から「ロンドン・コーリング」や「サンディニスタ!」に至る萌芽が含まれていたのだ。自分は今になってようなくこのことに気がついた。情けない限りである。

 もうひとつ彼らの魅力は、その生き様と音楽性にブレがなかったことだろう。パンク・ロックが一大ムーヴメントになりえたのも、その音楽性と同時に、やはり演ずるミュージシャン側の言動に多くの若者が共感を覚えたからだ。

 そしてザ・クラッシュの場合も、その音楽性は大きく変化したとはいえ、ステージ上のパフォーマンスやステージを降りた態度でも、反権力を貫き通し、若者を擁護した。その変わらない姿勢にファンは彼らを信じ、自分たちも彼らのような精神を体現しようとした。その共同性が世界的に伝播した結果、彼らは他のパンク・ロッカーとは一線を画したのである。

 ボーカルのジョー・ストラマーは、父親が外交官の中産階級出身者なのだが、あえて音楽の道を志し、ときには墓掘り人夫までしながら自分の夢を叶えようとした。
 彼はまた、ファンを大事にし、ライヴが終わったあと泊まるところのない彼ら全員をホテルに泊まれるように手配した。もちろん宿泊費はジョーが支払った。

 ベースのポール・シムノンは、彼らがロックの殿堂入りが決まったときに、その参加を拒否した。理由は、2500ドルもするようなチケット代は、普通のファンにとっては高すぎるというものだった。

 こういうエピソードは、彼らにとっては事欠かない。こういう姿勢がファンにとってはたまらないのであり、彼らが解散したあとでさえも、ますます彼らのファンは増えていくのだ。これはもうザ・クラッシュ信者というものであろう。

 そういう人たちから見れば、このブログの記述などは彼らの真実の100分の一も表していないと言われて、お叱りを受けるかもしれない。ファン心理から見れば、それは誠に御もっともな意見である。

 ともかく彼らの音楽性は、パンクのフィールドから大きく進化していったが、彼らの生き様や主張はいささかも変わらなかった。その姿にファンは愛情と信頼を注ぎ、同化していくのだ。自分もまた遅れてきたそんなファンの一人なのである。


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