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2014年5月

2014年5月31日 (土)

ハイ・ホープス

 このところブルース・スプリングスティーンのアルバム「ハイ・ホープス」をよく聞いている。このアルバムは昨年末に発表されたもので、彼にとっては18枚目のスタジオ・アルバムにあたるものだ。

 ただスタジオ・アルバムといっても、過去10年間での未発表曲が中心となっていて、中には他人のカバー曲や、ライヴ盤でしか発表していなかった曲なども含まれている。だから今となってはもう生で聞くことのできないクラレンス・クレモンズのサックスやダニー・フェデレシのオルガンなどを聞くことができ、彼とE・ストリート・バンドのファンにとっては感涙物のアルバムだと思う。Photo_2 それに曲自体がよい。どの曲もメリハリが効いているし、何よりもメロディが際立っているから、何度聞いていても飽きがこない。ボスの作品にしては、久しぶりにこういう素晴らしいものに出合えたような気がした。確かに10年の間に書き溜めたものを発表したのだから、ある意味“ベスト・アルバム”と言ってもいいかもしれない。  

 それに今回はトム・モレロがほぼ全面的に協力している。12曲中8曲も彼の名前が何らかの形でクレジットされていた。 トム・モレロといえば、90年代に一世風靡した元レイジ・アゲンスト・ザ・マシーンのギタリストだ。

 彼の父親はケニアの反政府独立運動の一員で、母親は公民権運動にも参加していた公立学校の教師だった。両親の離婚後、母親とともにシカゴで暮らすようになるが、両親の影響のせいか政治的な活動にも深くかかわるようになり、ハーヴァード大学を首席で卒業後は、ある上院議員の秘書を2年間勤めていた。

  トムは結局、打算的な政治活動に幻滅を覚え、音楽で世の中を変えようと思い、1991年にロサンゼルスでレイジ・アゲンスト・ザ・マシーンを結成したのである。  

 自分はあまり深く聞いたことがないので、彼らの音楽にはコメントできないのだが、当時流行したラップとロックを融合したようなミクスチャー・ロックだった。また政治的に激しいメッセージを込めていたため、ポリティカル・ロックとも呼ばれていた。彼らのデビュー・アルバムのジャケットを見れば、だいたいの音楽的傾向が予想できるのではないだろうか。Photo

  そんなトムとブルースの結びつきは、トムが1988年のアムネスティー・コンサート・ブエノスアイレス公演をテレビで見たからで、それ以来ブルースのファンになったという。  

 最近では2008年に、トムはツアーの途中で飛び入りでブルースと共演し、"The Ghost of Tom Joad"を歌っているし、前作の「レッキング・ボール」でも2曲ギターを弾き、2013年にはスティーヴン・ヴァン・ザンドの代役で、オーストラリア・ツアーに参加していた。  

 このアルバムの解説にはブルース自身のコメントがこのように寄せられている。“トムと彼のギターは、俺の詩神になって、このプロジェクトの残りをもう一段高い水準に押し上げてくれた。インスピレーションをありがとう、トム”

  実際、このアルバムの10曲目"The Ghost of Tom Joad"での彼のギター・ソロは、鬼気迫るものがあり、エフェクターを使いながらDJのスクラッチのような音を聞かせる様は、まさに神業だろう。彼がこんなに上手なギタリストだとは思ってもみなかった。  

 もちろんテクニックだけでなく、ブルースと交互にボーカルとギター・ソロをとるところなどは、この曲だけでなくアルバム全体のハイライトだろう。もともとアコースティック・ギターでの作品なのだが、まるで別の曲のように甦っている。これがブルースの期待するトム・モレロ効果に違いない。

  また"American Skin(41Shots)"は、以前ライヴ盤では紹介されていたバラードで、ギニア人の移民が4人の警察官から41発もの弾丸を浴びて射殺された1999年のニューヨークでの事件を歌ったもの。これは日本でもニュースになるほどの事件だったが、懐中の身分証明書(財布という話もある)を取り出そうとした非武装の青年を射殺した4人の警察官は、全員無罪を言い渡されている。  

 ブルースは、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンでの10回公演の前にこの曲を発表したところ、ニューヨーク市警組合から反発されて、彼のコンサートの警備が取りやめになるという事態になり、それでブルースは自前で警備員を雇い、コンサートを行ったというエピソードもあった。

  12曲中カバー曲は3曲で、アルバム・タイトル曲の“High Hopes”と“Just like Fire Would”、“Dream Baby Dream”だった。

 “High Hopes”はネオ・ロカベリー・バンドのロカッツの元メンバー、ティム・スコット・マッコネルの曲で、トム・モレロのギターやバックのホーン・セクションがフィーチャーされていて、攻撃的な曲になっている。

  “Just like Fire Would”は、オーストラリアのパンク・バンド、ザ・セインツの1987年のヒット曲。このザ・セインツは、イギリスのザ・ダムドよりも古いパンク・バンドだといわれていて、ボブ・ゲドルフによれば、セックス・ピストルズとラモーンズと並び称されるくらい歴史を変えたパンク・バンドのようだ。ただこの曲を聞く限りでは、パンクという感じはしなかった。ブルースのアレンジ力のせいかもしれない。

  そしてアルバム最後を締めくくる“Dream Baby Dream”は、2005年のソロ・ツアーで歌われていた曲で、オリジナルはニューヨークのスーイサイドという2人組のデュオの持ち歌らしい。  
 まるで讃美歌のように静かに歌われていて、混沌とした先の見えない世の中の道標になるように、あるいは孤立し、苦しむ人たちの苦悩を洗い流すかのように歌われている。

  全12曲のすべてにブルースからのメッセージが込められている。彼が短いインターバルでこのアルバムを出してきたのも、彼なりの思いや考えがあるのだろう。  

 そして問題はここからだ。ボスから投げられた球をどう打ち返すのか。あるいはそのまま見逃すのか。あとはリスナーの姿勢にかかわってくるのである。我々にとんでもないメッセージを突き付けていると、自分は思っている。

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2014年5月26日 (月)

「血の轍」と「欲望」

 約1ヵ月と少し前のことだが、先月の19日にボブ・ディランのライヴを見に行った。4年ぶり通算7回目のライヴらしいが、もともとディランのファンではない自分は、そんなことは気にもかけず、物見遊山な気分で出かけて行った。

 ディランがスタジオ・アルバムの曲をアレンジを変えて歌うことは有名で、古くは1974年のザ・バンドとのライヴ・アルバム「偉大なる復活」を聞いても明らかだ。Photo

 これは60年代半ば以降、定着していることのようで、当然のことながら今回のライヴでも同様だった。では、なぜディランが、ライヴでは原曲とはまったく違うアレンジで、時によっては歌詞まで変えて歌うのか。

 ディランにとっては、自分の作った歌は自分のものであり、それらの歌は生きているということだろうか。つまり今を生きているディランにとって、過去において自分の作った歌でさえも、今の時代にマッチするように焼き直しているのだろう。
 これは彼自身の芸術性や創造性の表れであり、それらをライヴという場において表出させることが、彼自身のアイディンティティの証明につながるのだろう。

 自分にとって一番よく聞いたディランのアルバムは、1974年に発表された「血の轍」と75年の「欲望」だった。といっても実際に聞いたのは80年代になってからだったが…

 最初に聞いたのは「欲望」の方だった。それまでの自分のイメージは“3分間のフォーク・シンガー”、“時代を映すプロテスタント・ソングライター”という薄っぺらいものだったが、このアルバムを聞いて、彼に対する見方が一変したのである。Photo_2
 それまでもこのアルバムに収められていた"One More Cup Of Coffee"や"Sara"などは、FMラジオから流れていたので知っていた。曲を聞いたイメージとしては、何となく物悲しいバラードだったので、とてもアメリカを代表する、いや世界的にもっとも有名なシンガー・ソングライターの曲としては物足りなかった。

 ところがアルバムを聞いて驚いた。1曲目の"Hurricane"から8分33秒もあり、しかも緊張感に満ち、冤罪事件を告発する内容のものだったからだ。次の"Isis"は6分58秒もあったし、6曲目の"Joey"においては11分05秒もある。まるでプログレッシヴ・ロックのようだった。“プログレッシヴ・フォーク・ロック”といってもいいだろう。

 "Hurricane"は元ミドル級のプロボクサー、ルービン・ハリケーン・カーターが3人の白人を銃殺した事件を歌ったもので、その裁判の陪審員はすべて白人だった。のちに検察側が証拠を隠していたことなどが発覚し、最終的に彼の冤罪が証明された。また、このことを題材にして、1999年にデンゼル・ワシントン・Jr主演で映画化されている。

 "Joey"は実在のイタリア系マフィア、ジョーイ・ギャロのことを歌ったもので、40人以上の敵対者を殺害し、それ以外にも多くの抗争を引き起こしたといわれているが、殺人刑で起訴されたことはなかった。また、私生活では子ども好きで読書家、一般人には手を出したことがなく、意外に人気があったといわれている。

 このアルバムでは、スカーレット・リヴィエラの演奏するバイオリンが非常に印象的で、アップテンポでもスローな曲でも効果的に使用されている。まるでヨーロッパのロマ族の伝統的な音楽のようだ。まさに吟遊詩人としてのディランの面目躍如たるものだった。

 それから遡って「血の轍」を聞いた。発表順としては逆になるのだが、このアルバムもまたディランのメロディ・メイカーとしての才能をいかんなく発揮しているもので、"Tangled Up In Blue"や"Simple Twist Of Fate"、"Idiot Wind"、"Shelter From The Storm"など、その後のライヴでも演奏されている曲が多く含まれている。2

 また基本的にはフォーク・ロックで、アコースティック・ギターとハーモニカが主に使用されていて、淡々とした曲調が続く中、むしろ逆にメロディの豊かさが鮮明に浮き彫りにされているようだった。

 "You're Gonna Make Me Lonesome When You Go"はアルバム中一番短い曲で、60年代のディランを思い出させるようなフォーク・ナンバーで、"Meet Me In The Morning"はディラン流フォーク・ブルーズだ。

 また"Lily,Rosemary And The Jack Of Hearts"はアルバム中一番長い曲で、8分53秒もあった。軽快なフォーク・ソングなのだが、日本語の歌詞を読んでいてもよくわからなくて、途中で理解するのをあきらめた思い出がある。

 "If You See Her, Say Hello"も捨てがたい佳曲で、ディラン自身もそう思ったのか、シングル"Tangled Up In Blue"のサイドBで使用されている。

 とにかくこのアルバムには捨て曲がなく、どの曲も素晴らしい。「欲望」にはちょっと冗長すぎる部分があったが、このアルバムは全体として隙がないように思えた。当時はディランにもこんな素晴らしいアルバムを作れる才能があったのかと驚いたものだが、古くからのディラン・ファンには申し訳ない限りだ。

 とにかく70年代のボブ・ディランを代表するアルバムは、「血の轍」と「欲望」だと思っている。それを証明するかのように、両アルバムともビルボードのアルバム・チャートで全米No.1を記録し、ダブル・プラチナ・ディスクに認定された。特に「欲望」は5週連続No.1になっている。

 それで4月のライヴでは、"Tangled Up In Blue"と"Simple Twist Of Fate"が演奏されたが、サビの部分を聞くまでは何の歌かわからなかった。5月24日で73歳になったボブ・ディランだが、まだまだその創造の泉は枯れていないようである。
 

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2014年5月21日 (水)

ワイルド・ライフ

 ポール・マッカートニーが昨年に引き続き、また来日している。ポールほどの大物ミュージシャンが2年続けて来日するとは珍しいことだ。よほど日本が気に入ったのだろう。

 ところが、これを書いているのは5月17日土曜日なのだが、今夜の公演を延期するという状態になったようだ。
 ポールに何が起きたのかは不明だが、プレスに配信された説明文にはウイルスによるドクター・ストップということなので、何がしかの病気もしくは体調不良なのだろう。もう高齢なのだから、無理をせずに健康につとめた方がいい。Photo

 日本では3会場4公演ということで、中には48年ぶりの日本武道館公演も含まれている。武道館では、他の会場とは違うセットリストを用意して、サプライズな演出を狙っているということだったのだが、どうなったのだろうか。

 当初の予定では、26日に日本を発って韓国に向かう予定だった。ひょっとしたら、彼にとってはこれが最後のアジア・ツアーになるかもしれない。とにかく彼の健康回復を願うばかりである。

 それで今回はポールの1971年のアルバム「ワイルド・ライフ」を取り上げようと思った。なぜ「ワイルド・ライフ」なのかというと、今まであまり深く聞いてこなかったという反省と、ひょっとしたら不当に低く評価されてきたのではないかと思ったからだ。ポールの再来日を記念して、この際、聞き込んでみようと思ったのである。

 ビートルズ解散以降の2枚のアルバム「マッカートニー」、「ラム」の成功で、ポールの評価も高まっていったが、ジョンに比べれば、まだまだだった。
 特に評論家筋のコメントは手厳しく、“プロ意識に欠けるアルバム”,“あくまでも趣味の領域を出ないもの”などと言われていた。

 もともとポールはバンド志向が強く、最後までビートルズを続けていこうとしたのもポールだった。それで2枚のソロ・アルバムの発表後、いよいよバンド活動に本腰を入れたポールは、ウイングスの結成、活動に向かうことになるのだが、その前に発表したアルバムが「ワイルド・ライフ」だった。

 この年の秋には、ジョンが名作「イマジン」を発表していて、果たしてポールはどんなアルバムを発表するのだろうと、ファンは固唾を飲んで見守っていた。
 バンドとして活動するために、妻のリンダにキーボード・プレイを教え、ドラマーには「ラム」にも参加していたアメリカン人のデニー・シーウェルを迎え、ギタリストとして元ムーディー・ブルースのデニー・レインに声をかけた。

 アルバムは全体としてラフな作りになっていて、まだまだバンドとしては確立されていない様子をうかがわせるものだった。
 ポールは、“ボブ・ディランが1週間でアルバムを作ったって話を聞いて、それじゃ同じことをやってみようということになったんだよ”とインタビューに答えていたが、どうもこの話は弁解のように聞こえてしまう。だいたいフォーク・ロックのボブ・ディランと元ビートルズを一緒にしてはいけないだろう。

 確かにほとんどの曲を一発録りをしていて、実質3日でレコーディングを終了し、2週間で編集まで終わらせたといわれているが、ポールの頭の中には“ライヴ・バンドとしてのウイングス”ということがあったのだろう。とりあえず曲を作ってライヴをやろうという意欲が先に立って、曲やアルバムのクォリティーは後回しになったような気がしてならない。

 アルバムは前半(サイドA)にリズミカルな曲を、後半(サイドB)にはメロディアスな曲が配置されていて、はっきり言って曲の出来不出来の差が激しい。"Yesterday"を作ったあのメロディ・メイカーとしての才能の十分の一も発揮されていないようだった。

 しかもオリジナル・アルバムはたったの8曲しか録音されておらず、これが2500円もするのは、何となく納得がいかなかった。2
 珍しいところでは、ポールが他人の曲を、しかもほぼ原曲のままで取り上げていることだ。よほど手元にオリジナルの曲が不足していたのだろうか。それともリンダでも弾けるような簡単な曲を選んだのだろうか。

 その曲"Love is Strange"は1956年にミッキー&シルビアという人たちが歌ったもので、1965年にはエヴァリー・ブラザーズがリバイバルさせている。ポールはエヴァリー・ブラザーズが好きだったから、どうしても歌いたくなったのかもしれない。

 "Some People Never Know"はアコースティック・ギターを基調とした美しい佳曲だが、アレンジを変えればもっと印象に残るような気がする。後半のタムタムは省略して、もっと違う楽器を挿入した方がいいだろう。

 "I Am Your Singer"はリンダとのデュエットで歌われていて、前作「ラム」のアウトテイクのような曲だ。さすがポールだけあってメロディの美しさは相変わらずだが、その気になれば、この程度の曲はもう2,3曲すぐに作れそうな気がする。

 "Yesterday"を完全に意識して作った曲が"Tomorrow"で、途中までは"Yesterday"と同じコード進行だという。画家のピカソの不遇時代のことを歌ったそうだが、今は苦しくても明日を信じて頑張ろうというメッセージは、当時の自分(たち)にも向けて発したものに違いない。この曲も、もう少しアレンジに凝ればもっと有名になっただろう。それほど基本はしっかりしている曲だと思う。

 もう1曲"Dear Friend"も、間違いなく親友ジョンのことを歌ったものだ。ただし、ジョンのことを皮肉ったり馬鹿にしたりしたものではなく、あくまでもポール自身の決意表明として歌ったものだろう。

 精神的な決別として歌ったもので、これでいよいよ自分自身の新しいバンド、ウイングスを旅立たせようとするものだった。しかし、その割には重苦しい雰囲気が漂っていて、爽快な気分にはなれない。オリジナル・アルバムではこの曲が最後に配置されていたので、聞き終わった後もちょっと息苦しかった思い出がある。

 このアルバムがCD化された1987年には、ボーナス・トラックには3曲が追加されていたが、1990年のリマスター盤には4曲に増えていた。だから自分は、2種類の「ワイルド・ライフ」を所有している。これは間違いなく東芝EMIの販売戦略だろう。

 自分の中学生時代には、ラジオからポール・マッカートニー&ウイングスの曲がよく流れていた。当時は"Mary Had A Little Lamb"と"Give Ireland Back To The Irish"が流行っていたが、後者の曲は本国イギリスのBBCでは放送禁止になっていた。当時はアイルランド紛争が起きていて、アイルランドにルーツを持つポールは、イギリスの政策が許せなかったのだ。

 ちなみにウイングスの最初のシングルがこの曲で、セカンド・シングルが"Mary Had A Little Lamb"だった。当時のジョンもポールがこの曲("Give Ireland Back To The Irish")を歌ったことに対しては、賛成のコメントを出している。

 とにかくこのアルバムは、名盤でもなんでもなく、むしろ迷盤だろう。キラリと光るところはあるものの、あくまでも習作の域を出ていない。評論家筋からも“全体的に筋が通っていない”、“感情の高まりや目的意識もなく、ただ仕事をしているだけ”などと酷評された。

 結局ポール・マッカートニー&ウイングスは、このアルバムを原点として大きく羽ばたくことになるのだが、彼らの第一歩を知るという意味では聞く価値はあるかもしれない。
 ただこの2年後には、グラミー賞を受賞するアルバムを作ることになるわけだから、やはりポールは天才だろう。

 その天才ミュージシャンの最後の姿になるかもしれないジャパン・ツアーである。早く体調を元に戻して、昨年のような感動的なステージを披露してほしいものである。

【追記】
 結局、ポールは全公演をキャンセルしてしまった。たぶん病状はそんなに重くはないのだろうけれど、回復力が追いつかないのだろう。

 本人は代替公演を望んでいるようだが、すぐには無理に違いない。もう人間国宝に近いのだから、やはり無理をせずにじっくりと養生して、再来日を果たしてほしい。もしそれが可能になるならば、その日こそが間違いなく最後の来日公演になるだろう。

 ファンとしてはあと2年後の、武道館ライヴ50周年記念が望まれるのだが、果たしてどうだろうか。

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2014年5月16日 (金)

メインホース

 さて前回に続いて、“午年”のジャケット・デザインを紹介しようと思う。今回はイエスやムーディー・ブルースで活躍したキーボーディストのパトリック・モラーツが在籍していたバンド、メインホースについてである。

 パトリック・モラーツは、スイス生まれである。詳しいことはよくわからないが、スイスとアメリカの音楽学校で学んだあと、1960年代の後半にはジャズ・ピアニストとして活動を始めていたようだ。

 1974年に発表された国内盤「リレイヤー」には、当時のメンバーのプロフィールがリストにされていて、パトリック・モラーツは1944年6月24日生まれ、「音楽的影響」の欄には、“ストラヴィンスキー、ジミ・ヘンドリックス、ザ・ビートルズ、ラフマニノス”とあり、「代表的な自分の作品」では、“リフュジーのアルバムに入っているもの、29本の映画音楽”とあるから、バンド活動の合間にサウンドトラックを担当していたのだろう。

 また、「好きな作曲家」は、“レノン=マッカートニー、フランク・ザッパ、スティーヴィー・ワンダー、エルトン・ジョン=バーニー・トーピン”で、「影響を受けたアルバム」は、“サージャント・ペパーズ、エレクトリック・レディランド、春の祭典、インナーヴィジョンズ”とある。

 彼はイギリスに渡り、昔からの友だちだったベーシストのジーン・リストリとともにメインホースというバンドを結成して、1970年にポリドールと契約している。
 契約後、ロンドンのスタジオでアルバムの制作に携わり、翌年、彼らの唯一のアルバム「メインホース」を発表した。
 メンバーは4人で、もちろんパトリック・モラーツのキーボード・プレイがメインなのだが、アルバム全体を通して聞くと、バンドとしての音を追及しようとした姿勢がうかがえる。Photo

 1曲目の"Introduction"から華麗なパトリックのオルガン・プレイを聞くことができる。ただボーカル入りの曲で、ギタリストのピーター・ロケットのファズ・ギターもガンガン演奏されていて、決してパトリックだけのバンドではないということを主張しているようだ。
 3分30秒過ぎにチャーチ・オルガンが流れると、あとはもうパトリックの独断場だ。エンディングには短いドラム・ソロも収められてはいるものの、ご愛嬌といったところだろうか。

 2曲目は打って変わって、バラード・タイプの静かな曲"Passing Years"で、ボーカルのバックのシンセサイザーとエレクトリック・ギターが深まりを添えている。なかなか哀愁味のある佳曲だと思う。

 ギターとドラムが頑張っているのが、"Such A Beautiful Day"で、第一期と第二期ディープ・パープルを足して2で割ったようなハード・ロックに仕上がっている。
 パトリックもオルガン・プレイで頑張っているのだが、如何せんバックに徹しているようで、ここでの主人公を、エレクトリック・ギターと強烈なハイハットを叩くドラムに譲っているようだ。

 イントロのギター・ソロが歌謡曲っぽくて、日本人好みのフレーズを奏でる"Pale Sky"は、前半のハイライトだろう。10分17秒もある曲で、導入部は静かに流れていくが、途中でドラムが強調されたり、無機質で抽象的なサウンド・コラージュが挿入されたりと、自分たちのアイデアを詰め込んだような印象を受けた。 

 6分前からのチェロはベーシストのジーンが演奏しているようだが、時間的に短い。曲にアクセントをつける程度の効果に終わっているのが惜しい。どうせならもっと演奏してほしかった。8分過ぎから最初に戻って静かなボーカルが始まるが、この曲は“具象的→抽象的→具象的”という進行をしているようだ。

 後半の1曲目"Basia"はジーンのボーカルと、時折挿入されるピーターのエレクトリック・ギターが強調されていて、パトリックのキーボードは、バッキングに徹している。2分過ぎにジャズっぽいエレクトリック・ピアノ・ソロを聞かせてくれるが、ちょっと物足りない気がした。

 よく考えれば、このときのパトリック・モラーツはまだ無名で、レコード会社も彼を中心に売り出そうとはしていなかったようだ。もしそうなら、彼のソロ・パートがもっとあってしかるべきだろう。
 だからレコード会社は、テクニック豊かなロック・バンドとして売り出そうとしたのではないかと思う。

 6曲目の"More Tea Vicar"は“タ、タ・タ・タ・タ、タン・タン、タッタン”というフレーズが、もろ60年代歌謡曲風で、これならマイナー好きなイギリス人や日本人なら諸手を挙げて喜びそうな感じがした。
 中盤からエレクトリック・ギター・ソロもあって、ちょうどオランダのフォーカスやショッキング・ブルーの影響を受けたかのようだ。曲自体も売れ線狙いのインストゥルメンタルである。

 最後の曲"God"は、このアルバムの後半のハイライトだ。イントロはパトリック・モラーツの前衛的なキーボードで始まり、次にメロディアスなギターが演奏される。何となくだが、キーボードが前衛的、抽象的なのに対して、ギターが即物的、具体的で現実的だ。ギターが始まると、あまりにもわかりやすいメロディーなので、現実に引き戻されてしまうのである。

 5分前からのキーボード・ソロとベース・ギターの絡みや、続くシンセサイザー&オルガンのソロ・プレイのところはパトリック・モラーツの本領発揮といったところだろう。
 7分あたりからまた導入部のギター・ソロが繰り返され、短いボーカルもそれに伴う。

 ギターのピーター・ロケットという人は、そんなにテクニシャンではないけれど、いいフレージングを発揮するギタリストだと思う。ちなみに4曲目の"Pale Sky"ではバイオリンも演奏している。器用な人なのだろう。

 上にも述べたけれど、レコード会社はキーボードも目立つハード・ロック路線を歩ませたかったのではないだろうか。残念ながらこのアルバムは商業的には失敗して、バンドは解散してしまう。ただジーンとの交友関係はその後も続いていて、このアルバム「メインホース」のリマスター盤は2人で協力して行っている。2

 モラーツは1973年にレフュジーを結成して、翌年アルバムを発表した。今度はキーボード中心の3人組で、“ナイスの再来”と将来を嘱望されていたのだが、イエスから引き抜かれてしまった。その後ソロ・アルバムを発表しながら、1979年から1999年までムーディー・ブルースで活躍するなど、名実ともに一流のキーボーディストとして名を馳せている。

 結局メインホースは、パトリックにとって、ロック・キーボーディストとして歩み始める踏み台のようなものになってしまった。彼にとっての“メインホース”とは、のちのイエスであり、ムーディー・ブルースだったのかもしれない。

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2014年5月11日 (日)

ウォーホース

 今更こんなことをいうのも変だが、今年は午年だ。午年ということで、年頭のこのブログでも“ウマ”が使用されたアルバム・ジャケットのいくつかを紹介させてもらった。

 そのときにウォーホースのアルバム・ジャケットも載せたのであるが、たぶん覚えている人はほとんどいないであろう。自分でもまず覚えない。そんなことを覚えるよりは、もっと大事なことを覚えた方が役に立つからだ。

 まあ、そんなことはともかくとして、今回の“ろくろくロック夜話”ではウォーホースを取り上げてみたいと思う。

 このウォーホースというバンドは、知っている人は知っていると思うけれど、元ディープ・パープルのベーシストだったニック・シンパーという人が、1970年に結成したバンドだった。

 ニックは1969年にディープ・パープルを脱退するのだが、その後は、しばらくマーシャ・ハントという女性シンガーのバック・バンドで活動をしていた。
 ところがマーシャが結婚して子どもが出来てしまったので、ツアーが中止になり、その間にニックは、当時自身が別で活動していたバンドにキーボーディストなどを加えて、ウォーホースを結成したのである。

 結成当時のメンバーは、ボーカルにアシュリー・ホルト、ドラムスにマック・プール、ギタリストにはゲッド・ペックが加わっていて、それにホルトの紹介で、キーボードをリック・ウェイクマンが担当していた。

 1970年にデビュー・アルバム用のデモを制作中に、リックはフランク・ウィルソンという人に交代したようだ。当時のリック・ウェイクマンはセッション・プレイヤーとして引っ張りだこだったようで、特定のバンドで活動するのは時間的な余裕がなかったらしい。

 ちなみにリックとアシュリーとは昔からの友人だったらしく、その後も交流が続いた。リックの1974年や75年のアルバム「地底探検」、「アーサー王と円卓の騎士たち」にもボーカリストとして、アシュリーは参加している。

 1970年にヴァーティゴ・レーベルと契約をしたウォーホースは、その年の11月にデビュー・アルバム「ウォーホース」を発表した。Photo
 音を聞けば分かるように、第1期のディープ・パープルからクラシカルな要素を削ぎ落として、代わりにブラック・サバスやユーライヤ・ヒープのようなハード・ロック的アプローチを加えたようなサウンドになっている。

 1曲目の"Vulture Blood"は、かなりハード・ロッキン調の曲で、アシュリーのボーカルも絶叫しているし、ゲッドのギターはたどたどしいながらも、気合が入った演奏になっている。

 続く"No Chance"はフランクのハモンド・オルガンが目立っている。ハモンドというと、どうしてもジョン・ロードを思い出してしまうのだが、当時も今もディープ・パープルと比較されることは避けられないだろう。
 ただボーカルは、イアン・ギランとは違って、ワイルドさはあるものの、きちんと歌いこむタイプだから、その点は表現領域が幅広い感じがする。

 "Burning"はメロディアスで疾走感のある曲で、当時のディープ・パープルと比べても聞きやすい。また4分前からのキーボード・ソロはジョン・ロードと比べても決して遜色はない。このフランク・ウィルソンという人は、隠れたテクニシャンのようだ。
 そのキーボード・ソロの途中から突如ギター・ソロが始まるのだが、さすがにリッチ―には及ばない。これは比べる方が無謀というものだろう。

 "St.Louis"という曲は1960年代に活躍したオーストラリアのバンド、ジ・イージービーツのカバー・ソングで、3分48秒というポップな曲。ポップ・ソングながらもフランクのハモンド・オルガン・ソロが目立っている。

 後半の"Ritual"もミディアム・テンポながらもリズム・セクションが頑張っていて、聞いてて非常に気持ちがいい。できればもう少しギターにも頑張ってほしいものだ。
 基本的にこのバンドは、民主的に運営されているようで、キーボード・ソロとギター・ソロの比重はほとんど変わらない。それでもキーボードの方が目立っているのは、やはり個人の能力に起因するのだろう。

 また曲のクレジットについても本家と同じで、おそらくギタリストとベーシストとボーカリストが中心になって曲を作っているのだろうが、クレジットとしては全員の名前になっている。

 アコースティック・ギターに導かれて静かに始まるバラードが"Solitude"だ。8分以上もあるバラードとはいうものの、すぐにリズム・セクションも伴奏してくるので、全体としてはやはりハードである。
 キーボードについては、オルガンと並行してピアノも演奏されているし、途中のエレクトリック・ギター・ソロは印象的なものになっている。何となくユーライア・ヒープの"July Morning"を思い出させる構成だ。最後もアコースティック・ギター、オルガン、ピアノをバックに、エレクトリック・ギターが壮大なソロを奏で、エンディングを迎えていく。

 最後の曲"Woman Of The Devil"も重いハモンド・オルガンから始まり、それをリズム隊が引きずっていく。徐々にテンポが上がり、2分過ぎから本来の持ち味であるハード・ロックに戻っていくのだが、これも本家パープルの曲に何となく似ているようだ。
 しかもアシュリー・ホルトも頑張っていて、イアン・ギランばりの絶叫を聞かせてくれる。ただ絶叫だけで終わっているようで、キーの高さもイアン・ギランには到底及ばない。

 再発されたCDには輸入盤でもボーナス・トラックが付いていて、5曲のうち4曲はスタジオ盤のライヴ演奏になっているが、拍手等は聞かれないので、スタジオ・ライヴかもしれない。
 ただこちらのライヴ曲ではギターのゲッド・ペックが結構頑張っていて、スタジオ盤よりも良い仕事をしていると思う。デビュー・アルバムを全曲ライヴで占めた方がよかったかもしれない。2_2  ただこのアルバムも、シングル曲だった"St.Louis"もさっぱり売れず、翌年ギタリストのゲッド・ペックは、ジャズやクラシック音楽のギタリストに転身してしまい、代わりにブラック・オーガストというバンドにいたピーター・パークスが参加した。

 彼らはセカンド・アルバム「レッド・シー」を1972年に発表するものの、残念がらこのアルバムも不評で、彼らはレーベルとの契約を失ってしまった。
 この結果に落胆したドラマーのマックは、ゴングに移籍してしまった。新しいドラマーのバーニー・ジェイムズはバンドにファンキーなグルーヴを持ち込むものの、アシュリーとともにリック・ウェイクマンのソロ・アルバム「地底探検」に参加してしまい、バンドは空中分解してしまうのである。

 それでもニックは、当時のワーナー・ブラザーズと契約をとろうと努力したのだが、ワーナーはヘヴィ・メタル・キッズとサインをしてしまい、結局、1974年にウォーホースは解散してしまう。ベッドフォードの大学での最後のライヴでもPAシステムがダウンしてしまい、悲惨な結果に終わったというオチまであるようだ。(「ヘヴィ・メタル・キッズ」については2011年7月のこのブログで紹介している)

 その後ニックは、ギタリストのピーター・パークスとニック・シンパーズ・ダイナマイトを結成したり、1977年にはニック・シンパーズ・ファンダンゴを結成して2枚のアルバムを発表したり、また90年代半ばでは、スパイダーズ・フロム・マーズのドラマーであるミック・アンダーウッドとともにクォーターマスに参加するなどの音楽活動を続けた。

 またウォーホースとしては、2003年とマック・プールの60歳の誕生日の2005年に一時的な再結成ライヴを行っているし、近年ではバック・バンドのナスティ・ハビッツとともに第1期ディープ・パープルの楽曲を演奏する東欧ツアーを行っているようだ。

 ディープ・パープルの二番煎じなどと陰口をたたかれたウォーホースだが、彼らはディープ・パープルの方法論を参考にしながら、パープルを超えていこうとしたのである。
 ただ楽曲的には光るものがあったものの、本家を超えるにはメンツ的にも厳しいものがあったし、不幸にも親会社からのバックアップも不足していた。

 ニックの力強い意志を感じさせるバンドが、ウォーホースだった。それは確かに“戦う馬”の名前に相応しい音楽活動だったと思っている。

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2014年5月 6日 (火)

浜田省吾

 自分が初めて浜田省吾を聞いたのは、大学生の頃だった。当時、同郷の後輩が近くに住んでいて、浜田省吾ファンだったのだ。

 また当時のテレビ番組に「夜のヒット・スタジオ」というものがあり、それに出演している長髪のサングラス青年を見たときに、何か歌謡曲とは違う、ちょっと周囲から浮き上がった感じが漂っているように思えた。あとになって思えば、あれが浜田省吾だったということに気がついた。

 ただ彼の声質は野太い声で、決してきれいではなかった。サングラスをしているので、表情がわからず、世の中に怒りを感じているフラストレーション満杯のシンガーのように思えた。
 しかもその声で、ラヴソングを歌うのだから、何か余計に暑苦しくなるような気がしていて、最初は好きになれなかった。

 思えば80年代の浜田省吾は、彼の全盛期だったと思う。自分も彼のライヴに3回くらいはいったような思い出がある。当時の彼はアルバムを発表するたびにツアーをしていたから、1982年の「Promised Land」、84年の「Down By The Mainstreet」、86年の「J.Boy」発表後のライヴ会場には足を運んだように思う。

 当時の彼は100か所以上演奏して回っていたから、キャパ2000くらいの地方の田舎の会場にも来てくれたのだ。有難いことである。さすが浜田省吾と当時は思っていた。

 それで生まれて初めて聞いた彼のアルバムは、ライヴ盤だった。当時はLPの2枚組だったが、2枚組といっても1枚で収まりきれなくなって、もう1枚増やしたような感じだった。Photo
 全12曲で1枚目には9曲、2枚目は12インチ・レコードで表に1曲、裏に2曲録音されていた。

 今のCDとは曲順が違っていて、LPでは1枚目の最後が"愛の世代の前に"で、12インチのサイドAが"路地裏の少年"と"Midnight Blue Train"、サイドBが"On The Road"だった。
 CDでは、"路地裏の少年"が5曲目に収められていたから、昔を知っている者としては違和感があって、できれば昔に戻してほしいと思っている。

 それで個人的には、1枚目よりも2枚目の方がよかった。特に"路地裏の少年"のファルセットの部分や"Midnight Blue Train"のリフレインのところは、将来の目標も希望もない孤独な青年の心を癒してくれたのだ。癒すというよりも、歌詞の一節が当時の心象風景とマッチしていたのだと思う。それですっかり彼の音楽が好きになってしまったのである。

 それから遡って、このLPに含まれていた楽曲を聞こうと思い、「愛の世代の前に」を聞いた。当時はレンタル・レコード業が流行っていたから、1枚300円くらいで1日借りたことがある。だから著作権保護の観点から問題になったことがあった。今となっては懐かしいが。

 それでこの「愛の世代の前に」は名盤だと思った。何しろ捨て曲なしで、どの曲を聞いても素晴らしいと思ったからだ。2  "愛の世代の前に"の疾走感、"ラストショー"の緊張感やバラードの名曲"愛という名のもとに"、"陽のあたる場所"、のちにテレビ・ドラマの挿入曲にもなった"悲しみは雪のように"、ライヴではファンとの掛け合いに使用された"土曜の夜と日曜の朝"など、どの曲もどの曲も忘れ難い印象を残してくれた。

 これですっかりファンになった自分は、続く「Promised Land」、「Down By The Mainstreet」と、今度はお金を出してアルバムを購入した。しかも合間のライブにも出かけて行った。

 「Promised land」のときはアルバム・ジャケットに使用された爆弾?みたいなものがスクリーンに映し出されていたし、「Down By The Mainstreet」のときには、アルバム・ジャケットにある“足”が、演奏前にスクリーン上で動き始めるという演出があったように思う。(記憶ミスがあるかもしれないが…)

 それで「Promised Land」の"マイホームタウン"の冒頭、いきなり“パワーシャベルで削った”という言葉が出てきたときにはビックリした。それまでの日本のロックやポップスのアルバムでは考えられないことだった。3
 それに最後の曲"僕と彼女と週末に"にも汚染された河川の描写があって、いかに頭の悪い自分でも、このアルバムは“反戦・反核”のアルバムだとわかった。そういえば浜田省吾は、広島生まれだったのだ。

 ところが「Down By The Mainstreet」では、一転して"Money"、"Dance"の歌詞で世俗的で艶めかしくなって、まだ純情だった自分は、聞いていてちょっと気恥ずかしかったし、カラオケでは絶対に歌えないだろうと思った。
 また"Hello Rock&Roll City"はライヴの定番になり、ライヴ会場では開催地名を入れて歌ってくれた。4
 だからこのアルバムは、前作の「Promised land」 と比べて、思想的な部分が薄れて、現実的に戻ったような気がした。

 彼はジャクソン・ブラウンに影響を受けているようで、アルバム・ジャケットの写真、バック・バンドや所属事務所の名前などはジャクソン・ブラウンに関連して使用されている。

 でも曲名、曲の趣向や彼のライヴでの仕草や構成、服装などは当時のブルース・スプリングスティーンに強く影響を受けていたのではないかと思っている。ブルースも反核運動に参加していたし、白いTシャツに青いジーンズが定番だった。

 躍動感のある曲と抒情的なバラードが巧みに配置されたアルバムは、ブルースの70年代のアルバムに似ているし、2枚組の「J.Boy」はブルースの2枚組アルバム「ザ・リバー」のようだった。

 さらに「Promised Land」の中の"さよならスウィート・ホーム"はシングル曲"The River"のモチーフに似ているし、「J.Boy」の中の"A New Style War"、"想い出のファイヤー・ストーム"は「ボーン・イン・ザ・U.S.A.」の中の曲想に似ている。

 ところでライヴを見て驚いたのだが、浜田省吾はけっこう逞しかった。白いTシャツから出ている二の腕はかなり太かったし、上半身はわりと筋骨隆々だった記憶がある。
 確かに年間100本以上ライヴを行っていれば、かなりの体力が求められるだろうし、それがないとやっていけないだろう。

 ちなみにアルバム「J.Boy」の中の"America"では、“ロスからサンフランシスコへ続くフリーウェイを”という歌詞があったが、この歌詞に触発されて、自分はロスからサンフランシスコまで旅行した思い出がある。1989年のことだった。ただしヒッチハイクではなく、国内旅客機を使ってだったが…

 それでもこの2枚組アルバムは、傑作だろう。当時の日本で、2枚組アルバムを発表してそれをチャートの1位に押し上げることができたのは、浜田省吾くらいだろう。5

 その後彼は90年代に入ると、一時のピークからマイ・ペースに活動するようになった。この辺の動きもブルース・スプリングスティーンと連動していて、運命的な交差を感じさせてくれる。アルバムもメガ・ヒットを記録することはなかったが、コンスタントに発表され、チャートで1位を記録したものもある。相変わらず根強いファンがいるようだ。

 ともかく自分にとっては、浜田省吾は、青春の思い出の中に存在するミュージシャンである。あのころのような感性や情緒はもう戻ってこないだろうが、当時の彼のアルバムを聞くたびに、その頃の風景が浮かんでくる。

 音楽の良さというのは、いつでもどこでもタイム・スリップすることができる点だ。それを味あわせてくれる浜田省吾には、今でも感謝しているのである。

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2014年5月 1日 (木)

杉 真理

 新緑の季節を迎えて、気分はもうアウトドアである。でも自分のような貧乏人は、当然のことながら、海外旅行などはもってのほか、安い、近い、短い、の“安近短”で我慢するしかない。

 それで一番手っ取り早く休みを楽しもうと思うのなら、とりあえず身近なところにドライブに出かけようと考えている人が多いのではないだろうか。そんな時にお勧めなのが、杉 真理が1983年に発表したアルバム「スターゲイザー」だ。Photo_5

 これはもう名盤である。日本が誇るポップ職人の杉 真理の魅力がギュウギュウ詰めで、どこを切っても金太郎飴のように、どの曲もどの曲も充実している。捨て曲なしの傑作アルバムといっても間違いではない。

 1曲目の"Show Goes On"は、わずか52秒の短い曲なのだが、これがこのアルバムのテイストをよく表している。今から始まる“真理ワールド”を象徴しているかのようだ。

 続く"スキニ―・ボーイ"、"素敵なサマー・ディズ"と、この冒頭の3曲は、何度聞いても素晴らしい。楽曲に無駄がなく、流れるような展開が“真理マジック”を発揮している。

 4曲目の"Oh Candy"で一旦ブレイクしたあと、名バラード"風の季節"が始まる。この曲のバックでエレクトリック・シタールを弾いているのは、元はっぴいえんどの鈴木 茂だ。

 そういえば、このアルバムには豪華なゲスト陣が参加していて、鈴木 茂を始め、次の曲の"内気なジュリエット"には佐野元春がコーラスに参加している。

 知っている人は知っていると思うけど、杉と佐野と亡くなった大瀧詠一の3人は、アルバム「ナイヤガラ・トライアングルVol.2」を1982年に発表している。
 当時の杉と佐野は、大瀧詠一から認められるほどメロディ・メイカーとしての才能を発揮していたのである。確かにこのアルバムを聞けば、誰もが納得するだろう。

 後半の"サスピション"のバック・コーラスには、浜田省吾が参加している。杉と佐野の交友は知っていたが、浜田省吾まで親交があるとは知らなかった。それとも同じレーベルメイトだから参加したのだろうか。彼の声は特徴があるので、一発でそれとわかるところがご愛嬌だ。
 ちなみにこの曲の英詩の部分の冒頭の1文字をつなぐと、それぞれ“MADCAT”(気がふれた猫)、“IBMLTD”(アメリカの有名なコンピューター会社)という言葉になる。これも杉による言葉遊びだろう。

 続く"懐しき80'S"は音符の高低が著しい曲で、杉 真理の本領発揮といったところだろう。こういう飛び跳ねるような曲は、聞いているこちらまでウキウキしてくる。

 後半にもバラード曲が収められていて、"春がきて君は…"は4月の桜の季節になると、いつも思い出される。2分台の短い曲ながらとても印象的だ。

 そしてお菓子のCMにも使用された"バカンスはいつも雨(レイン)"である。これは今でも時おり口ずさんでいるほどで、彼をというよりも、80年代を代表する日本のポップ・ソングである。ハンド・クラッピングには浜田省吾も参加している。

 疾走感のある"スクールベルを鳴らせ"でも鈴木 茂がエレクトリック・ギターを演奏しているし、映画のエンドロールに使用されそうな、ムーディな雰囲気の"君は天使じゃない"が、アルバム最後を締めくくっている。曲の配置構成も十分に考えられたアルバムだと思う。

 杉 真理は福岡県生まれ。自分と同郷とは知らなかった。ただしあちらは都会の福岡市生まれであるが…。1_2
 今年で60歳、還暦らしいが、いまだ現役のミュージシャンである。ビートルズに憧れて、ミュージシャンを志し、ヤマハのポプコンで佐野元春らと出会って、今の彼があるらしい。

 ビートルズに憧れているのは、ビートルズライクな彼の楽曲を聞けばよくわかる。上のアルバムも全曲、杉 真理による作詞・作曲で、いずれも魅力的なメロディラインを備えているからだ。彼の曲には、まさにはじけるような“バブルガム”的要素が溢れかえっていると思う。

 ポールもミックもボブ・ディランも70歳を超えて、いまだ現役ミュージシャンだ。杉 真理も「スターゲイザー」を超えるようなアルバムを発表してほしいし、いちファンとして小さなライヴ・ハウスでもいいから、彼の音楽を身近に感じたいと思っている。

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