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2014年7月

2014年7月30日 (水)

カヴァーディル・ペイジ

 “真夏のB級ブリティシュ・ロック編”の第4弾は、前回のザ・ファームの続きのようなお話なので、お許し願いたい。

 つまり今回もジミー・ペイジが登場するからだが、このジミー・ペイジという人は、今から考えれば、当時最もその動向が注目されていた一人であり、その影響力も少なからず持っていたミュージシャンの一人だった。

 何しろゼップ解散後は、ほとんど隠居状態だった人だ。たまにニュースが流れれば、映画のサウンドトラックを作ったとか、他人のライブに飛び入りで参加したとか、そういう単発的な内容ばかりで、熱心なファンは、きっとやきもきしていたに違いない。

 だから彼が1985年にポール・ロジャーズとザ・ファームを結成したときは、多くのファンはこれで恒常的にバンド活動を行うことができると思って、その内容はともかく、熱烈歓迎、欣喜雀躍したのである。

 ところがその活動も2年余りで終焉を迎えた。今から考えれば、ジミーはそれほど乗り気ではなかったようだ。何しろ曲の半分はポールの単独曲だったし、ジミーのギターからは印象的なリフが、飛び出してはこなかったからだ。

 その後、ジミーはソロ・アルバムを1枚出した後、しばらく隠棲してしまうのだが、なぜか90年代に入ってからビッグなニュースが飛び込んできた。それが元ディープ・パープルやホワイトスネイクのボーカリストだったデヴィッド・カヴァーディルと一緒にバンド活動を始めるというものだった。Photo
 どういう経緯で2人が一緒に活動するようになったのかわからない。一説によれば、当時2人が所属していたレコード会社の陰謀があったといわれているが、確かに話題性も生まれるだろうし、それに伴ってアルバムも売れれば、会社としては笑いが止まらなかっただろう。

 この辺は、わりとザ・ファーム結成に似ている。ザ・ファームも、ジミーとポールが同じレーベルメイトだったから生まれたのだった。

 それで1993年にアルバム「カヴァーディル・ペイジ」が発表された。全11曲すべてジミーとデヴィッドの共作だった。多くが4分~5分程度の曲で、中には8曲目の"Don't Leave Me This Way"のように、8分近いものもあった。

 これだけでも、このアルバムに対するジミーの気合の入れ方がわかると思う。しかも1曲目からギンギンのメタリックなサウンドで、リスナーに迫ってくる。またデヴィッド・カヴァーディルのスィンギング・スタイルも、高音はまるでロバート・プラントのようで、びっくりしてしまった。

 もしこれをロバート本人が歌ったなら、これはこれで激似のゼップになっていただろう。ひょっとしたら再結成につながったかもしれない。それくらいゼップ本家と比べても、遜色のないアルバム制作だったと思っている。

 また、アルバムの1曲目"Shake My Tree"から最後の曲"Whisper a Prayer for the Dying"まで、エッジが立っていて統一感がある。申し訳ないが、ザ・ファームのアルバムよりは、数倍いや数十倍メタル・サウンドになっていた。これで売れないわけがないだろう。

 実際、アルバムは全英4位、カナダやアメリカでは5位を記録して、プラチナ・ディスクに認定された。日本でも15万枚以上売れているし、来日公演も行われた。

 メタリックなアコースティック・ギターからのアルペジオから導かれる"Shake My Tree"はシングルカットされた曲でもあり、低音では枯れたデヴィッドのボーカルが、高音になると急にロバート・プラントのようにメタリックになるところが可笑しかった。ちょっと無理があるように思えたからだ。

 "Take Me for a Little While"は、ジミーのアコースティック・ギターも目立つバラード系の曲で、中盤のジミーのギター・ソロも爆発的でなかなかのものだ。デヴィッドのボーカルより記憶に残るだろう。

 "Pride and Joy"もアコースティックとエレクトリックが絶妙に交じり合っていて、まるでゼップの曲を聞いているようだった。「フィジカル・グラフィティ」のアウトテイク集の1つと言われても納得してしまうような曲。ダルシマーとエレクトリック・ハーモニカはジミー・ペイジが担当している。

 "Over Now"も中期ゼッペリンを想起させる音だ。"Kashmir"の回転を速くしたような曲で、ギターの重ね方やストリングス・キーボードの用い方、デヴィッドの歌い方まで本家にそっくりである。デヴィッドは、かなり無理してるんじゃないのと思わせるほどだった。

 "Feeling Hot"は、アップ・テンポのロックン・ロールで、超カッコいい。残念なのは、この曲が二度と公の場で歌われないことだ。いい曲なのに勿体ない。誰かカバー曲を出してくれないだろうか。ライヴでは間違いなく盛り上がることだろう。

 "Easy Does It"も6&12弦のアコースティック・ギターとストリングス・キーボードが用いられていて、"Over Now"のような感じだ。この曲と最後の曲"Whisper a Prayer for the Dying"では、元ベイビーズや元バッド・イングリッシュのベーシストだったリッキー・フィリップスが参加している。

 ジミーとデヴィッド以外のメンバーは、基本的にはベースがジョージ・カーサス、ドラムスがデニー・カーマッシー、キーボードにはレスター・メンデスが担当している。
 この中で有名なのは、ハートやモントローズで活躍したデニーぐらいだろうか。結構固い音を出していて、ボンゾの雰囲気に近いものがあった。

 このアルバムの中で一番ポップな曲が"Take a Look at Yourself"だ。基本的にはアメリカン・メロディアス・ハードだが、それをうまい具合にジミーがハードな味付けをして料理している。

 ゼップの"Since I've Been Loving You"のカヴァーディル・ペイジ・ヴァージョンが"Don't Leave Me This Way"だろう。時間的にも8分近いし、バックのキーボードとともに徐々に盛りあがるところが似ている。デヴィッドもかなり無理しながら、シャウトしているが、やはりこうでもして歌わないと、ジミーからOKが出なかったのだろう。ちょっと可哀そうな気もした。

 "Absolution Blues"は、名前には“ブルーズ”がついているが、まったくとんでもない。アグレッシヴなヘヴィ・メタルだ。イントロから歌いだしまで2分以上ある曲で、そういえば"The Song Remains The Same"のようだ。90年代のそれだろう。

 この曲もライヴでは映えるに違いない。曲のリフもなかなかいいものがある。何度も言うけれども、もう二度とライヴでは聞くことができないと思うと残念でならない。とにかくカッコいいので、未聴の人はぜひ1回は聞いてほしいと思う。

 最後の曲"Whisper a Prayer for the Dying"は、このタイトルが示すように最初は静かなエレジーであり、セカンド・ヴァース以降、急に盛り上がるといういつもの常套手段で作られている。急にメタリックに叫ぶデヴィッドのボーカルにも注目だ。Photo_2 
 

 とにかく個人的には、大好きなアルバムだった。もう少し長く活動すると思ったのだが、日本での来日公演だけで終わってしまった。日本の招聘元もデヴィッド自身も、もう少し長続きすると思って、公演にはビデオ・カメラを入れてなかったから、彼ら唯一の公での姿は永遠に記録されずに終わってしまった。

 このアルバムで自信をつけたジミーは、やっぱりプラントの方が自分のサウンドにマッチすると確認できたようだった。片やロバート・プラントは、このアルバムから刺激を受けて、結局、2人はこの翌年の1994年に活動を開始してアルバムを発表した。いわゆる“ペイジ&プラント”の誕生である。
 一体、デヴィッドはどういう役回りだったのだろうか。単なる当て馬だったのか、よくわからない。

 デヴィッド42歳、ジミー49歳の時のバンドだった。結果的にはアルバム1枚で終わったプロジェクトだったし、そこに収められている曲ももう二度と再演されることはないだろう。

 これもゼップの、なかんずくジミー・ペイジの完璧主義、あるいは金儲け主義のせいかもしれない。
 やはりレッド・ゼッペリンの存在は、現役で活動していた時も、解散した以降も、解散から30年以上たった今でも、計り知れなく大きい。それを一番理解していたのも、ジミー・ペイジに違いないのだ。

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2014年7月25日 (金)

ザ・ファーム

 さて真夏のB級ブリティッシュ・ロック特集の第3弾は、今となっては何人の人が知っているのかはわからないが、あの元レッド・ゼッペリンのギタリスト、ジミー・ペイジと元フリーや元バッド・カンパニーのボーカリスト、ポール・ロジャーズの2人が中心となって結成したバンド、ザ・ファームである。

 彼らは2枚アルバムを出していて、そのうちデビュー盤は1985年に「ザ・ファーム」として発表された。
 何しろ、あのジミー・ペイジと天才的ボーカリストのポール・ロジャーズが結成したバンドである。当時は“双頭バンド”とも形容されていて、多くのロック・ファンがそこにジミー・ペイジ&ロバート・プラントの幻影を見出そうとしていた。Photo
 さらには当時は無名だったが、キーボードやテルミンも演奏できるベーシストのトニー・フランクリンと、マンフレッド・マンズ・アース・バンドやユーライア・ヒープで活動していたベテラン・ドラマーのクリス・スレイドを含め、4人組ということからも、ゼッペリンの再来ではないかとも噂されていて、アルバム発表前から期待されたものだった。

 ところが彼らは2枚のスタジオ・アルバムを残して、わずか2年程度の短い活動期間で解散してしまった。期待されていたのにもかかわらず、なぜそんなに早く解散してしまったのだろうか。

 やはりその答えは、2枚のアルバムの中にある。アルバムを聞けば分かると思うが、このバンドは“双頭バンド”かもしれないが、どう贔屓目に見てもポール・ロジャーズ色が強い。
 もともと彼の声はソウルフルかつブルージーで、ハードでメタリックなロックよりもリズム・アンド・ブルーズやブルーズ・ロックによく似合っている。

 これは60年代末のフリーの時から言われていたことであり、1973年にバッド・カンパニーを結成してからも変わらなかった。

 ザ・ファームでもジミーのギターよりもポールのボーカルの方が目立っていて、ジミーの影が薄い。
 レッド・ゼッペリンは、どちらかというとギター・バンドである。それは例えば、"The Song Remains The Same"や"Whole Lotta Love"などを聞けば分かるだろう。ロバートの声はもちろん目立ってはいるが、それを支えているのはボンゾのドラムであり、ジミーのギターである。

 ジミーはある雑誌で、自分が持っている“リフ”を瓶に詰めて売れば、かなりのお金になるだろうと、相変わらず金儲けのことを話していたが、彼の未発表のリフは200とも300ともいわれている。

 ザ・ファームのデビュー・アルバムの1曲目"Closer"のリフもカッコいい。もしこの曲をロバート・プラントが歌ったら、後世に残るような名曲になったかもしれない。

 それにトニーの演奏するフレットレス・ベースの音が印象的でもあった。フレットレス特有のこもった様な柔らかい音が、ハードなサウンドに微妙にマッチしているところがゼップやバドカンと違っていて、いい意味で驚いてしまった。

 アルバムも"Closer"、"Someone to Love"、"Satisfaction Guaranteed"、"Midnight Moonlight"などはゼップの色を濃く残しているし、ほかの"Make or Break"、"Together "、"Radioactive"、"Money Can't Buy"はバドカン的であった。両者の雰囲気が微妙に交じり合っていて、これはこれで一応成功していたと思う。

 でもやはりこれは、歌ものアルバムだった。確かに"Make or Break"でのジミーのギターの重ね方や"Midnight Moonlight"での装飾音もジミー・ペイジではないと出せない固有のもので、ファンとしてはうれしかったが、それでもやはりポール・ロジャーズの方が生き生きとしているように感じた。

 これは余談だが、"Midnight Moonlight"はゼッペリンの未発表曲"Swan Song"というものを下敷きにしているようで、これはアルバム「フィジカル・グラフィティ」のアウトテイクだったようだ。

 ともかくゼップが解散して約5年、バドカンの解散から約3年、ジミーとポールが活動を再開し、さらに同じバンドで行動するというだけで、個人的にはかなり盛り上がっていた。だから、いろいろ突っ込みどころがあっても、デビュー・アルバムは気に入っていて、何度も繰り返し聞いたものだった。

 そして翌年発表されたセカンド・アルバム「ミーン・ビジネス」では、よりポール・ロジャーズ色が強められていて、完全に歌ものアルバムに仕上げられていた。前作では9曲中3曲、3分の1がポール単独の作品だったが、セカンドでは8曲中3曲がポールの曲、1曲がトニーの手で作られていて、ジミーが関与しているのは、4曲、実に半分しかなかったのである。2
 だからポール一人で作った曲は、当然のことながらR&B色、バドカン的雰囲気を留めているし、ジミーが関与した"Fortune Hunter"や"Cadillac"などは、前者はリフ一発勝負的作品で、後者はギターをダビングしたミディアム・スロー曲だが、どうしてもジミーの手癖が出ていて、ゼップの匂いを漂わせていた。

 ジミーとポールで作った他の2曲のうち"Tear Down the Walls"はミディアム・テンポのあまり印象に残らない曲で、"Free to Live"は逆にリフと途中のギター・ソロが目立った同傾向の曲だった。

 一方でトニー・フランクリンが作った"Dreaming"は、どこかフワフワとした軽い雰囲気があり、その上にポールの粘っこい声と、ジミーのエフェクティヴなギター・サウンドが重ねられている。むしろこの曲の方が、バンドのサウンドや方向性としては、ふさわしいのではないかとも思ったりもした。

 ちなみにアルバムの冒頭を飾る"Fortune Hunter"は、ジミーがクリス・スクワイアとアラン・ホワイトなどと一緒に結成しようとした“XYZ”というバンドの曲だった。クリスのクレジットはないが、もしアルバムがヒットしたら、クリスは無断使用で訴えてやろうと思っていたという。

 結局2作目は全米22位、全英46位と、彼らの今までの経歴に照らし合わせれば、不甲斐ないもので、結局、今が引き際と判断した彼らは、1986年に解散してしまった。

 ポール35歳、ジミー40歳と、一番脂ののっていたころに結成されたバンドだった。ポールはどう思ったかはわからないが、バンドを仕切りたがっていたジミーには、最初は良くても途中からは、面白くなかったはずだ。それが短期間での解散につながったのであろう。

 このバンドで一番成功したのは、トニー・フランクリンだろう。バンド解散後、彼はジョン・サイクスやカーマイン・アピスとともに、ブルー・マーダーを結成したり、ホワイトスネイクやラナ・レーンのアルバムに参加するなど、引っ張りだこになっていった。

 ドラマーのクリス・スレイドは、AC/DCやエイジアにメンバーとして参加した。今はレコーディング・セッションを中心に、活動しているようだ。 

 300も売れるリフを持っていたジミーは、結局、出し惜しみをしてしまったようだ。そして、その後の彼の活動を見ていても、十分に出し切っていたとは思えないのだが、どうだろうか。

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2014年7月21日 (月)

ファミリー

 “夏の暑さを忘れるブリティッシュ・ハード・ロック”特集を行っているのだが、今回は同じブリティッシュ・ロック・バンドでも、ちょっとハード・ロック路線から外れたバンドを紹介しようと思う。

 このファミリーというバンドだが、名前は中学生の時から知っていた。しかし、その音楽に触れたのはそれから10年くらいたった頃だった。
 当時住んでいた家から歩いて30分くらいしたビルの1階に、中古レコード/CDショップがあって、そこの棚にファミリーのCDが数枚置かれていた。

 ショップのオーナーに、このファミリーとはどういうバンドか尋ねたところ、古いブリティッシュ・バンドで、ロジャー・チャップマンという人が歌っていて、渋い玄人好みのバンドみたいなことを言っていた。

 自分は彼らのことを、最初はプログレッシヴ・ロックの範疇でとらえていた。なぜならファミリーに所属していたベーシストがキング・クリムゾンに移籍してきたからで、だから元のバンドもプログレ・バンドだと思っていたのだ。

 それで、その中古CDショップで3枚の輸入(中古)盤を購入して聞いた。その時の印象はなんかよくわからない、摩訶不思議なサウンドを持った音楽というものだった。全然ポップではないし、印象に残るようなメロディーやギター、鍵盤楽器のフレーズもなく、確かに最後に残るのは、ロジャー・チャップマンの声ぐらいだった。

 今から考えれば、サイケデリック・バンドだったのだろう。この手の音楽が好きな人にはたまらないだろうが、自分には苦手な部類に属するものだった。
 使用されている楽器が通常のロック・バンドの形態に加え、サックス、シタール、バイオリンにチェロとくれば、やはり通常のロック・フォーマットではとらえきれない何かを有しているはずだ。

 彼らが1969年に発表したセカンド・アルバムには11曲収められていて、聴けば聴くほど彼ら独特の音楽世界に悩まされた。2
 メンバーは5人だが、オリジナル・メンバーにはあのリック・グレッチも含まれていた。彼はこのアルバムが発表された後、ブラインド・フェイスに参加したのだが、このアルバムでも曲を書き、自分で歌っている。また数曲ではバイオリンも演奏している。

 とにかく不思議な曲が多くて、シングル・カットされそうな曲はほとんどない。途中まではいいメロディなのに、急にアバンギャルドなサックスが吹き鳴らされたり、雰囲気を中断させるようなストリングスが使用されたりして、どうも一貫性がないのだ。
 たとえて言うなら、ヴァン・ダー・グラフ・ジェネレイターが短い曲でアルバムを作ったら、こういう風になる音楽といえば、わかるだろうか。

 でもイギリス人には、こういう音楽は好まれるのだろう。何となく演劇を見ているときに挿入される音楽のようで、ボードヴィル調やインド音楽、カントリー・ミュージックと幅広く、多様性に溢れている。

 セカンド・アルバムで言えば、ギタリストのジョン・ホイットニーの書いた"Summer'67"はインド音楽に影響を受けているし、ジョンとロジャーの作った"Dim"はカントリー・ソングだ。
また"From Past Archives"は彼ら流のバラードだろう。

 アコースティック・ギターとゲストのニッキ―・ホプキンスの演奏するピアノが美しいハーモニーを奏でる"Processions"は、このアルバムの中では異彩を放っている。こういう曲がもっとたくさんあれば、もっと売れたに違いない。

 彼らは1967年に活動を開始し、翌年デビュー・アルバムを発表した。もとはギタリストのジョンとボーカリストのロジャー、ベーシストのリックの3人でスタートしたらしく、それにドラマーとサックス・プレイヤーが加わったようだ。

 このセカンド・アルバムは、これでも売れたようで、イギリスでは全英6位を記録してアメリカ・ツアーにも出かけている。

 続いて自分が聞いたアルバムは、1970年に発表された4枚目の「エニウェイ」だった。これは当時のレコードのA面がライヴ・レコーディングで、B面はスタジオ録音という変則的なものだった。ちなみに8曲しか収められていない。(A面4曲、B面4曲)Photo_2 

 1曲目の"Good News-Bad News"は、さすがにライヴだけあって、ジョンのギターが冴えわたっている。8分以上もある曲で、ロジャー独特の“ちりめんボーカル”との相性も迫力があって、素晴らしい。
 ライヴ録音といっても新曲ばかりのようで、客は静かに聞きこんでいるし、リック・グレッチが抜けた穴はジョン・ワイダーという人が埋めていて、"Willow Tree"では見事なバイオリンの腕前を披露している。

 この頃のファミリーにはサイケデリックな要素は抜けていて、わりとストレートな音楽をやるようになった。ただこれはライヴ録音のせいで、複雑な装飾を加えることができなかったせいかもしれない。

 後半のスタジオ録音曲も、ロック・バンドとしては割とまともな音を出している。特に7曲目(サイドBの3曲目)"Normans"では、ワイダーの弾くバイオリンが秀逸だ。また4曲とも切れ目なく連続していて、トータル・アルバムのように聞こえてくる。
 このアルバムも全英7位を記録している。当時はこういう音楽が求められていたのだろうか。

 このあと彼らは、2枚のスタジオ・アルバムと1枚のリミックス盤を発表するのだが、その間にベーシストが交代して、例の人が加入した。この人は2枚のスタジオ盤には参加したのだが、1973年に発表された彼ら最後のアルバム「イッツ・オンリー・ア・ムービー」が発表される前に抜けてしまった。“ブリティッシュ・ロックの渡り鳥”といわれる所以である。

 さすがに時代が下がるにつれて、彼らの音楽は聞きやすくなっていった。この7枚目のスタジオ・アルバムでは、曲の構成もしっかりしていて、アメリカの南部音楽の影響も強く受けている。アルバム全体に統一感はないものの、リラックスして耳を傾けることができた。3
 特に1曲目"It's Only a Movie"、2曲目"Leroy"と聞けばわかるだろう。ひとつはギタリストだったジム・クリーガンをベーシストとして、また、ジャズやファンキーな音楽も得意としていたトニー・アシュトンをキーボーディストとして加入させたことが、その要因になったのかもしれない。

 ちなみにジムは、70年代後半にロッド・スチュワート・バンドに加入して、本来のギタリストとして活躍したし、トニーはジョン・ロードとともにアルバムを発表している。

 このアルバムが彼らの最高傑作とは言わないが、少なくとも初めて彼らの音楽を聞くという人には、このアルバムが最適だろう。そういえばロニー・レイン&スリム・チャンスみたいなところもあって、アメリカン・ロックが好きな人にも無理なく受け入れられることだろう。

 1973年に解散したあと、ロジャーとジョンは1974年に「スリープウォーカーズ」というアルバムを発表し、同名のバンド結成へと動いた。
 3枚のスタジオ・アルバムと2枚組ライヴ・アルバムを残した後、バンドは1977年に解散してしまった。

 ロジャー・チャップマンは、マイク・オールドフィールドの1983年のアルバム「クライシス」にゲスト参加するなど、80年代からはソロで活動を行っている。2012年にもライヴ・アルバムを発表しているので、過去を振り返りながらマイ・ペースで活動しているのだろう。
 ギタリストのジョン・ホィットニーの方は、今はギリシャで悠々自適な生活を送っているそうだ。

 実質的な活動は、わずか5年間ほどだったが、その間に7枚のスタジオ・アルバムを残したファミリーだった。ただほぼアルバムごとにメンバー・チェンジを行うなど、バンド名とは違って、結束は固くはなかった。
 ただロジャーの個性的なボーカルと幅広い音楽性のおかげで、彼らの名前はブリティッシュ・ロックの歴史に刻まれることは、間違いないだろう。

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2014年7月19日 (土)

追悼;ジョニー・ウィンター

 つい先日、川崎の晴れブタさんから“ジョニー・ウィンターがスイスのチューリッヒで亡くなったようだ。ツアー中だったらしい”というコメントをもらい、あわてて調べたところ、確かにその通りだった。享年70歳だった。彼の公式フェイスブックには次のように綴られていた。

Legendary Johnny Winter Dies at 70

Texas blues icon Johnny Winter has passed away on July 16, 2014 in his hotel room in Zurich, Switzerland.

His wife, family and bandmates are all saddened by the loss of their loved one and one of the world's finest guitarists...

An official statement with more details shall be issued at the appropriate time.

 まだこの時点では、詳細は不明だが、いずれにしてもヨーロッパ・ツアー中に亡くなったことは間違いないようだ。

 自分にとっては、“100万ドルのギタリスト”というキャッチフレーズで有名なギタリストだった。しかもアメリカのブルーズ・ギタリストは黒人というイメージが強かったのに、白人で、なおかつ銀髪のロングヘアーがなびいていたのにはビックリした思い出がある。M_johnny_winter_3_sm 

 実際に、彼が当時のCBSと契約した金額は30万ドルだったらしく、しかも彼の手に渡ったお金は10万ドル以下だったと告白していて、彼はその後もそのことについてはインタビューなどで愚痴っていた。

 まあそれでも当時の10万ドルといえば、日本円にして3600万円くらいはしただろうから、豪邸の2件か3件くらいは買えたに違いない。立派なものである。

 彼はテキサス州バーモントの生まれだが、すぐにミシシッピー州に引っ越したので、そこでブルーズを学んだ。父親が綿花農場をやっていて、そこで働いていた黒人たちからゴスペルやブルーズを聞いていたらしい。

 また父親はサックスやバンジョーを、母親はピアノを得意としていて、幼少の頃から音楽が日常的に流れていた。だから弟のエドガーもサックスやピアノを演奏できるのだろう。

 12歳の頃にはアコースティックやエレクトリック・ギターを演奏し始め、弟と一緒にバンド活動も始めた。その頃には、母親の実家のバーモントに戻っていたようだ。
 地元のバーで活動をしながら、15歳の時に「ゴー・ジョニー・ゴー」コンテストに出場して優勝、その結果、ヒューストンのあるレーベルから"Schoolday Blues"というシングルを発表している。

 転機が訪れたのは1968年、以前シカゴで一緒に競演していたマイク・ブルームフィールドがジョニーを自身のフィルモア・イーストでのライヴに招いて、彼に1曲歌わせたそうだ。
 それを会場に来ていた当時のコロンビア・レコードの社長が気に入り、彼とレコード契約を結んだのである。

 デビュー・アルバムには弟のエドガー・ウィンターも参加して、ピアノやサックスで盛り上げているし、共同プロデューサーとして、あのエディ・クレイマーも加わっている。やはりそれなりに売れるように会社も考慮したのだろう。Photo
 ジョニーのオリジナル曲は9曲中3曲しかなく、危険な賭けは避けて安全策を選んだようだった。(ジョニーのオリジナルは、"I'm Yours and I'm hers"、"Dallas"、"Leland Mississippi Blues"の3曲)

 翌年の1969年にセカンド・アルバム「セカンド・ウィンター」を発表した。今度は弟のエドガーがプロデュースに関与していて、彼の提案かどうかは不明だが、テネシー州のナッシュビルで録音された。もちろんエドガーはサックスやピアノ、オルガン、ハープシコードなどでも貢献している。

 その弟のハープシコードが目立っているのが2曲目の"I'm Not Sure"だ。また、このアルバムではジョニーの自作曲が約半分の5曲に増えている。彼も自分のソングライティングに自信を持つようになったのか、あるいは会社の意向なのかはわからない。

 ただこのセカンドは、デビュー・アルバムよりは目立っているし、全体的にブルーズよりもロック寄りの感じがした。彼のライヴ盤でもそうなのだが、初期のジョニーは時にロックン・ロールに走ることが多く、純粋にブルーズだけ演奏するようになったのはもっと時間がたってからだと思う。 

 このセカンドでも"I'm Not Sure"やジョン・レノンも歌った"Slippin' And Slidin'"、超有名な"Johnny B. Good"、ディランの"Highway 61 Revisited"、自身のオリジナル曲"I Love Everybody"や"I Hate Everybody"、7分を超える"Fast Life Rider"などロック調の曲が目立っている。2
 特にボブ・ディランの曲をジョニー流に解釈した"Highway 61 Revisited"は素晴らしいと思う。スライド・ギターを使用して、ここまで原曲を変形させたのはジョニーぐらいなものだろう。個人的には初期のジョニーの作品の中では、一番好きなアルバムである。

 もう1枚、個人的に好きなアルバムが「オースティン・テキサス」である。このアルバムは、彼がまだメジャー・デビューする前に、テキサス州のオースティンの小さなクラブでライヴ録音されたものだ。

 ライヴといっても、お客さんは入っておらず、いわゆるライヴの雰囲気を出すために録音されたものだった。
 ライヴの雰囲気を出すということで、すべての曲が1テイクか2テイクで録られていて、さすが100万ドル・ギタリストという貫禄が、もうこの頃に発揮しているのがわかる。

 録音は1967年で、その後レコード会社を転々として、最終的に1969年春にインペリアル・レコードより「ザ・プログレッシヴ・ブルー・エクスペリメント」というタイトルで発売された。
 デビュー・アルバムでは最高位24位だったが、このアルバムは49位という結果に終わっている。

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 個人的な意見だが、こちらのアルバムの方がデビュー盤よりもギターを弾きまくっていて、自分としては気に入っている。全10曲だが、やはりライヴを意識してのノリが素晴らしい。アコースティックからエレクトリックまで、ソリッド・ギターからスライド・ギターまで縦横無尽に弾いている。やはり才能のなせる技なのだろう。

 ところで同じテキサス州出身のスティーヴィー・レイ・ヴォーンは、ジョニー・ウィンターと同じ扱いはしないでくれというようなことを言っていたが、スティーヴィーの頭の中には、ロック・ギタリストのイメージが強くて、同じブルーズ・ギタリストではないという意識があったのだろう。

 でも1980年代に入ってから、ジョニーはブルーズ・ギタリストとしての本領を発揮したようだったが、90年代に入ってからは、たびたび体調不良というニュースが伝わってきた。

 日本へは3度来日しているが、今年の4月12日からの6回の公演が最後になってしまった。最近の彼は、基本的には椅子に座って演奏を行っているが、you tubeで見る限りでは熱気あふれる演奏は、まさに熟練の技と言えるだろう。

 そういえば、ジョニーは一度だけ同郷のジャニス・ジョプリンと同じステージに立ったことがあるそうだ。まさに伝説のブルーズ・ギタリストと伝説のボーカリストの共演である。今頃は場所を変えて、仲良くセッションをしているのではないだろうか。心からご冥福をお祈り申し上げます。

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2014年7月15日 (火)

ヨーロッパ

 “暑さも忘れるブリティッシュB級ハード・ロック”特集の第2弾は、ヨーロッパの登場だ。ヨーロッパと言えば、80年代にロック・ミュージックやMTVに頻繁に触れた人なら、あぁ、あれかとすぐにわかると思う。
 (正確に言えば、ブリティッシュ・ロックではないのだが、距離的に近いということで、勘弁してください)

・何しろ某TV洋楽番組では、"One Hit Wonder"(一発屋)として紹介されていたヨーロッパである。
・あの名高いシングル曲の"Final Countdown"で名前を馳せたヨーロッパである。
・当時は、世界で最も有名なヘヴィ・メタル・バンドとして雑誌の表紙を飾っていたヨーロッパである。

 彼らの名前を聞けば、この有名な曲のイントロがすぐに頭に浮かんでくるほど、"Final Countdown"はヒットしたのは確かだ。(あるいは逆に、曲名を聞けばイントロが浮かぶかもしれない)

 この曲は、1986年に発表された彼らの3枚目のアルバム「ファイナル・カウントダウン」
に収められていて、全世界26ヵ国でNo.1になり、780万枚以上の売り上げがあった。またアルバムは600万枚以上売れたし、いまだに再発盤が販売されている。

 まさに彼らを代表するアルバムになったのだが、正確に言えば、彼らはこのシングル以外にもNo.1ヒット、トップ20ヒットを放っているから、決して一発屋などではないのだが、どうしても"Final Countdown"の印象が強すぎて、そう思ってしまう。

 紹介が遅れたが、彼らはスウェーデン出身のバンドである。いわゆる“北欧メタル”というやつだ。
 北欧メタルといえば、彼ら以外にもTNT、プリティ・メイズ、ロイヤル・ハント、ストラトヴァリウスなど、このブログでも取り上げたバンドがいるし、個人では何といってもイングウェイ・マルムスティーンが有名だろう。

 いずれもメロディアスで様式美を追及したサウンドを特徴としていて、基本的にはリッチ―・ブラックモア的な速弾きギタリストとハイトーンのボーカリストを擁している。また、必ずといっていいほどキーボードも使用され、クラシカルな雰囲気を添えている。

 その北欧メタル・バンドの中で、ヨーロッパは1979年に結成されているから、先駆的な役割を果たしてきたバンドだ。

 もともとはキーボード&ボーカリストのジョーイ・テンペストとギタリストのジョン・ノーラムが意気投合して結成したバンドだった。元々のバンド名はフォース(Force)と名乗っていたようだ。Europe01
 当時は、スウェーデンのバンドがハード・ロックの分野でメジャーになれるわけがないという偏見にとらわれたレコード会社が多くて、彼らにはアルバムを発表する機会も与えられなかった。

 彼らにチャンスが訪れたのは1982年で、スウェーデン国内で行われたロック・コンテストにジョーイの友人が応募してしまい、結局そのまま優勝してしまった。しかも優勝賞品は、アルバムのレコーディング券だった。

 翌年、彼らはデビュー・アルバム「幻想交響詩」を発表し、本国スウェーデンとヘヴィ・メタ天国の日本で話題になり、ヒットした。
 1984年にはセカンド・アルバム「明日への翼」を発表。このセカンドからキーボーディストのミック・ミカエリが参加するようになった。

 そして2年間のライヴ活動とアルバム制作期間をおいて発表されたのが、3枚目の「ファイナル・カウントダウン」だった。61y9wv0txyl
 ただ一つだけ彼らのことを擁護しておくと、良い曲は"Final Countdown"だけではないのだ。このアルバムは、アメリカでは60週以上もチャートに留まるという大ヒットを記録したが、"Final Countdown"を含む4曲がトップ20まで上昇している。

 特にキラキラとしたエレクトリック・ピアノのイントロが美しい"Carrie"は、映画のクライマックスで使用してもいいほどのバラードの名曲で、ビルボードのシングル・チャートで3位を記録している。"Final Countdown"が、実は8位どまりだったから、これはまた違う意味で立派な結果だろう。

 それ以外にも堂々としたロック・ソングの"Rock the Night"では、ジョン・ノーラムの速弾きギターを味わうことができるし、日本の忍者をモチーフにした抒情的な"Ninja"や、ネイティヴ・アメリカンの歴史にインスパイアされた"Cherokee"、映画のタイトル曲になった"On the Loose"という曲も含まれていた。
 確かに名曲のオンパレードで、これが売れなければ、何が売れるんだというようなアルバムだった。

 ところがバンドの売れ線狙いという路線に、ギタリストのジョン・ノーランが反発し、1986年、アルバムがまだ赤丸印上昇中の時にバンドを去ってしまった。まことに潔いというか、自分に自信があるというか、下手に名誉や金銭を求めないその姿勢が日本では好意的に受け入れられ、ソロになったジョン・ノーラムの評価はますます高まっていった。

 彼らの楽曲のほとんどは、ボーカリストのジョーイが作っているため、ジョンとしてはもっと自分の活躍の場を求めようとしたのだろう。何となくその気持ちは、わかるような気がする。

 その後、彼らは3枚目、4枚目のアルバムを発表するものの、1986年当時のようなセールスを獲得することはできなかった。ジョンの代わりに加入したギタリスト、キー・マルセロもテクニックでは決して前任者よりは見劣りはしなかったものの、バンドとしてのマジックは失われてしまったようだ。

 そんな彼らの歴史を一望できるアルバムが、ベスト盤「ヨーロッパ1982-1992」である。これにはシングル"Final Countdown"の裏サイドだった"On Broken Wings"やアルバム未発表曲、シングルのアコースティック・ヴァージョンなど、熱心なファン以外でも思わず注目してしまう内容になっている。Photo
 また21世紀の2004年に、ジョン・ノーラムのバンド復帰が果たされ、ほぼベスト・メンバーで現在活動中である。

 結局、彼らに不幸なレッテルをつけたのは一部のメディアだけであって、彼らのことを知れば、決して“一発屋”などではないし、彼らの実力を認め、さらなる飛躍を願っている人たちは、まだまだ世界中に数多くいるのである。

 ジョーイやジョンは、51歳や50歳とまだ若い。まだまだバリバリやれるはずだ。決して過去の栄光にすがることなく、“一発屋”という評価を覆すためにも、次なる名曲、名盤を残してほしいものである。

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2014年7月10日 (木)

レインボー(2)

 これを書いている今は梅雨も終わりの頃なのだが、いよいよ夏も近いということで、今回から“暑さも忘れるブリティッシュB級ハード・ロック”特集をしようと思う。

 第1回は、レインボーである。えっ、レインボーがB級ハード・ロック・バンドなのと、驚く人もいるかもしれないけれど、自分にとってはB級なのだ。

 理由は簡単で、あくまでもギタリスト、リッチ―・ブラックモアの個人的なバンドだと思うからである。
 このバンドについては、以前にもこのブログで取り上げて、1976年の「虹を翔る覇者」がいかに優れたアルバムなのか力説していたが、70年代の代表的なハード・ロック・バンドが、80年代に入って、如何に堕落していったかも同時に述べたつもりだった。

 ハード・ロックに詳しい人はわかると思うけれど、レインボーはボーカリストのロニー・ジェイムス・ディオが脱退した1979年からハード・ポップ・ロック・バンドに変質してしまった。

 理由はアメリカで売れるためだった。リッチ―・ブラックモアの個人的な人気が高いヨーロッパや日本では、彼らのアルバムは好意的に迎えられ商業的にも成功したが、残念ながら世界最大のマーケットであるアメリカでは、彼らの人気はそこそこのものでしかなかった。

 だからリッチ―は、売れるためにメンバー・チェンジをし、他人の曲でも取り上げ、自分のソロを削ってまでも売れるアルバムを目指したのだった。
 それを証明するかのように、アルバム「ダウン・トゥ・アース」の裏側ジャケットには大きくアメリカ大陸が描かれていた。Images
 それが成功したのが「ダウン・トゥ・アース」であり、1981年の「アイ・サレンダー」だった。当時の自分はグラハム・ボネットが参加したバンド写真を見たとき、とにかく驚いたことを覚えている。何しろリーゼントでサングラスをかけていたからだ。彼だけ写真の中で、まるで浮幽霊のように、浮いていた。

 こりゃ、長くは続かないだろうと思っていたが、予想通りだった。彼はこのアルバム1枚で去っていった。正確に言うと、ドラマーのコージー・パウエルが脱退したので、グラハム・ボネットもやめていったのだ。

 ただ個人的な気持ちとしては、このポップ路線を歩んでいたレインボーは大好きだった。口先では「やっぱりディープ・パープル時代の方がいいよな」と言いながらも、キャッチーなメロディラインは耳に馴染みやすく、記憶にも残りやすかったからである。

 ある意味、ブラックモアの時代を見る目は正しくて、イギリスで発祥したニュー・ウェイヴ・オブ・ブリティッシュ・ヘヴィ・メタル・ムーヴメントに乗っかるように、スピーディーでメロディアス、かつ時間的には短いがインパクトの強い楽曲を中心にしたアルバム作りに専念していた。

 だから「アイ・サレンダー」はイギリスではゴールド・ディスクを獲得したし、同名シングルはチャートで3位を記録した。
 一方で1982年の「闇からの一撃」は「アイ・サレンダー」路線を踏襲したもので、このアルバムには外部ライターを用いた曲は1曲もなく、全9曲彼らのオリジナルで占められていた。4
 特に冒頭の3曲"Death Alley Driver"、"Stone Cold"、"Bring on the Night"の流れは見事というしかなく、リッチ―の演奏も決まっている。レインボー・ファンの間では、やや評価の低いアルバムなのだが、自分はもっと評価されていいと思っている。

 やはりヒプノシスも協力したアルバム・デザインが悪かったのだろうか。ところでこのアルバムの中には"Miss Mistreated"という曲もあった。
 似たようなタイトルの曲がリッチ―のもといたバンドにあったが、誰かが俺の作った曲だと詰め寄ってこないように、誤解を避けるために“Miss”という言葉を入れたんだ、とリッチ―は語っている。もちろん“誰か”とはデヴィッド・カヴァーディルのことだ。

 この曲はミディアム・テンポでヒット狙いは難しいが、ギター・ソロは目立っている。デヴィッドの歌った曲はバラード系だったが、それとは対照的だ。曲の出来としては、やはりデヴィッドの歌った曲の方に軍配を上げたい。

 またこのアルバムには、もろポップで売れ線狙いの"Power"やスコーピオンズが歌いそうなノリノリの"Rock Fever"、オーケストラも使用された大仰な"Eyes of Fire"など、印象に残る曲が多い。リッチ―も結構弾きまくっているし、アメリカではチャートで30位まで上昇したことからも、後期の代表作といってもいいのではないだろうか。

 代表作といえば、1983年に発表された「ストリート・オブ・ドリーム」は、彼らの裏名盤と言われている。
 理由はそれまでのポップ路線からハード・ロック路線に戻りつつあったからであり、メロディアスなリッチ―のギター・ソロを聞くことができる"Can't Let You Go"や後期レインボーを代表する"Street of Dreams"などが収められていたからだろう。

 それ以外にもそれまでのポップ路線を引きずっている"Fool for the Night"やデイヴ・ローゼンサルのキーボード・ソロがフィーチャーされた"Fire Dance"など、確かに聞きどころは多い。"Fire Dance"でのジョーのボーカルは、イアン・ギランのように甲高くシャウトしていた。2
 バンドとしての完成度でいけば、このアルバムでのレインボーは、リッチ―のワンマン・バンドではなくなっている。5人のメンバーそれぞれが、各自の持ち味を発揮していて、アルバム全体が、以前よりもダイレクトにリスナーに響いてくるように思えた。

 またこのアルバムには2曲のインストゥルメンタルが収められていた。リッチ―の美しいフレージングが哀愁さを醸し出す"Anybody There"、アニメの“スノウマン”のテーマソング"Walking in the Air"をアレンジした"Snowman"では、デイヴのキーボードがリッチ―のギターと程よくブレンドされていて、アルバムをますます優れたものにしている。

自分としてはこのままハード・ポップな路線を続けていくと思っていたのだが、1984年に何を思ったか、リッチ―は元のバンドの再結成に参加してしまった。あとで本人は、あれは金のためで、まったく楽しいものではなかったと語っているが、話題性はあったものの、音楽的な進歩は見られなかった。

 リッチ―のギター・プレイに関しても、昔はすぐに口ずさめたり、思い出せるものだったが、レインボー時代のギター・プレイに関しては、どうもすぐには浮かんでこない。
 日本のギター・キッズは、今でもTVのCMで使われている曲のフレーズを練習したものだが、レインボー時代のものは、あまり頻繁には練習されていないし、使用されていない。

 それはポップになったからという理由ではなくて、ソング・オリエンティッドなアルバム作りを目指したからだろう。
 リッチーほどのテクニシャンなら、ジェフ・ベックのようなアルバムを作ることはできただろうが、何人ものボーカルを代えながら、なぜか彼は歌入りにこだわっていた。

 来年で70歳になるリッチーだが、いまだに現役で活躍中であり、アコースティックにはなったものの、相変わらず歌入りのアルバムを制作している。
 これは彼が若いときにハンブルグで修業したことや、60年代のブリティッシュ・インベージョンと無関係ではないだろう。当時はボーカル&バック・バンドという構成が普通だったからだ。

 “三つ子の魂百まで”ということわざがあるが、リッチーのDNAの中にはかつての経験がいまだに脈々と流れているに違いない。

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2014年7月 5日 (土)

スローン

 さてジメジメとした梅雨を吹き飛ばすカナディアン・ロック特集もいよいよ最後になった。シンガー・ソングライターから始まり、ハード・ロックやプログレッシヴ・ロックなど、幅広く浅く見てきたつもりだが、最後となった今回は、ポップ・バンドを紹介したいと思う。

 そのポップ・バンドは、スローンという。4人組で、結成は1991年とかなり古く、20年以上カナディアン・ロック・シーンの第一戦で活躍しているバンドでもある。

 彼らの出身は、カナダ東部ノヴァスコシア州ハリファックスで、ギター&ボーカルのジェイ・ファーガソンとベース&ボーカルのクリス・マーフィーが結成したパンク・バンドが母体になっている。
 この2人にもう一人のギタリスト、パトリック・ペントランドとドラマーのアンドリュー・スコットが加わってスローンが誕生した。結成以降、一度もメンバー・チェンジをしていない不動の4人組だ。

 彼らはいきなりメジャー・レーベルのゲフィンと契約をするのだが、当初はパンク・バンド出身の彼らだけあって、かなりとんがった音楽をやっていたらしい。
 時代が時代だけに、グランジ・ロック・バンド、“第二のニルヴァーナ”を探そうと、アメリカのレコード会社もカナダにまで手を広げてきたのであろう。

 その目にかなったのがスローンだった。彼らは1992年にアルバム「スミアード」を発表したが、これがいきなり大ヒットし、大手音楽業界誌のローリング・ストーンも絶賛するという結果になったのである。

 こうなればレコード会社は、柳の下の二匹目のどじょうを狙おうとして、次作も売れるアルバムを目指して、外部のプロデューサーを招いて1994年に2枚目のアルバムを作らせた。
 ところがこのアルバム、カナダでは好評だったものの、隣国アメリカでは“1994年に最も聴かれなかったアルバム・ベスト10”に選ばれてしまうという不本意な結果を残してしまった。

 彼らの求めていた音楽とプロデューサーの志向するものが微妙に違っていたのであろう。
 その後彼らは、しばらくアルバム作りから離れ、メンバーはそれぞれの個人活動を行っていった。このままレコード会社の意向に従ったアルバム作りを進めていけば、自分たちの音楽が作れないと判断したのであろう。

 約2年間のブランクを経て、彼らは3枚目のアルバム「ワン・コード・トゥ・アナザー」を発表した。このアルバムは、カナダやアメリカではゲフィン・レコード以外から発表されていて、自分たちで主導権を握った音作りを行ったようだ。Photo
 その証拠に、今まで以上にポップで、なおかつトランペットやマラカスなども使用されていて、音楽的な発展?が伺われるからだ。

 全12曲で、1曲を除いて2分から3分程度の曲でまとめられている。(日本盤では14曲入りになっている)個人的な意見としては、正統派ポップ・ミュージックというイメージよりは、グランジとパンクがクロスオーヴァーしたポップ・ソング集といった感じだった。

 ライヴの臨場感あふれるSEで始まる1曲目の"The Good in Everyone"はノリノリのロックン・ロールで、続くメロディアスな"Nothing Left to Make me Want to Stay"へと続いている。

 アコースティック感覚が映える"Autobiography"やエレキ・ギターのカッティングが60年代を想起させる"Junior Panthers"など正統的なポップ・ソングもあるが、一方で疾走感のある"G Turns to D"やテープの逆回転を使用した"Anyone Who's Anyone"という実験的な曲も収められている。

 だから曲によっては、聞きやすいものもあれば、ちょっと取っつきにくい感じのする曲もあった。1996年当時の音楽と考えれば、これはこれで“時代の音”だったのだろう。

 ちなみにこのアルバムからは、カナダのシングル・チャートで9位になった"The Good in Everyone"や6位を獲得した"Everything You've Done Wrong"など、4枚のシングルが生まれ、アルバム自体もカナダではゴールド・ディスクを獲得している。

 彼らはその後、9枚のスタジオ・アルバムを発表し、最新作は今年発売される予定の「コモンウェルス」である。

 彼らが途中一度もメンバー・チェンジせずに、今まで第1戦で活躍できているのも、この1996年のアルバム「ワン・コード・トゥ・アナザー」の成功のおかげだともいえるだろう。

 決してエヴァグリーンなポップ・ソング集とは言えないアルバムだが、彼らがグランジ系から大きく一歩を踏み出して、ポップ・バンドのフィールドで活動しようと決意させたのも、このアルバムで自信をつけたからだろう。

 本国カナダや隣国アメリカでは、それなりに知名度のあるバンドであるが、ここ日本では残念ながら、そこまで有名ではない。このアルバムについても、いい曲はあるが、自分は何回も聞いてみたいとは思わない。

 ただ間違いなく言えることは、カナダを代表するポップ・バンドだということだ。やはり最初からポップ・バンドを目指したのではなく、紆余曲折を経てたどり着いたのが、ポップ・ミュージックのフィールドだったから、音楽的下地や経験がそれだけ豊富なのだろう。Sloanfollowtheleader
 まがった枝ほど風雨に強いといわれるが、彼らの音楽が受け入れられているのも、そのせいかもしれない。

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