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2015年2月

2015年2月26日 (木)

3人のニール(3)

 さて、3人目の」ニールを紹介する時が来たが、ここで3人目はニール・ショーンとかニール・モーズですとかいうと、やっぱりファナティックでカルト的な人選だ、などと思われるかもしれない。
 でもそっちの方が、このブログの趣旨には合っているような気がするのだが、あえてここでは触れないようにしておこう。

 それで、3回目の今回は、やっぱりそう来るだろうと誰でも思ってしまうニール・ヤングの登場である。

 ニール・ヤングは、今年で70歳になるカナディアン・ロッカーで、このブログにもたびたび登場するくらい超有名なベテラン・ミュージシャンだ。最近では2012年の33枚目のスタジオ・アルバム「サイケデリック・ピルズ」を紹介している。

 彼が素晴らしいのは、ロックにかける情熱やそこに生まれる音楽だけでなく、それとの対峙から生まれる彼の生き様である。3
 たとえば、最初の結婚で生まれた子どもには脳性まひがあったが、その後、障がい者のためのチャリティ・コンサート(ブリッジ・スクール・ベネフィット・コンサート)を毎年企画し、同時に福祉支援施設であるブリッジ・スクールまでカリフォルニアに設立した。

 またアメリカの農業政策を批判し、個人経営や小規模の農家人たちの生活支援を図ろうと、1985年より「ファーム・エイド」というチャリティ・コンサートも毎年開催している。

 これは支援先が農家ということもあってか、どちらかというとカントリー・ミュージック系のミュージシャンが多く参加しているようで、ウィリー・ネルソンやジョン・クーガ―・メレンキャンプ、ボブ・シーガーなどが、過去参加していた。

 そして忘れてはならないのが、反戦・平和主義者としてニールである。湾岸戦争にはいち早く反対し、9・11以降も反ブッシュの姿勢を貫いていた。もちろん2008年の大統領選は反ブッシュの立場からバラク・オバマを応援した。

 何しろ2002年には「アー・ユー・パッショネイト?」を、2006年には「リヴィング・ウィズ・ウォー」というプロテスト・ソング・アルバムを発表したくらいだから、その信念には脱帽せざるを得ない。ちなみに当時のニールは、57歳、61歳だった。

 しかもその音楽性が、若者にも負けないハードでパンキッシュなサウンドで固められていたから驚きである。風貌は確かに老いていくが、そのサウンドは全く枯れていない。たぶん彼の信念や姿勢がそうさせるのだろう。恐るべし、ニール・ヤングである。

 最近の彼は、インターネットで配信される音楽の質の悪さにも言及していて、とうとう自分でデジタル音楽プレーヤーを開発してしまった。Ponomusicplayer
 この機器はPONOと名付けられ、史上最高の音質を誇るとまで言われている。128GBの容量に2.5インチのスクリーンを搭載し、最大192kHz/24ビットのハイレゾ音源を再生することができるらしい。
 お値段は399ドルで少々高いが、音にこだわる人にはもってこいのプレイヤーかもしれない。

 ただアップルのiTunesに比べれば、出初めのせいかダウンロードの値段は高い。例えばiTunesでは5曲で3.99ドルのミニ・アルバムが、PONOのストアだと7.29ドルになる。
 音質については、iTunesで44.1kHz/16ビットなので、確かにPONOの方が圧倒的に良い。

 問題は2つある。1つは、PONOストアの品揃えとその値段だろう。まだまだソフトの数が少ないようだが、徐々に増えてくることは間違いない。利用者が多くなれば、価格の方も下がってくるだろう。要は需要と供給の問題か。

 もう1つの問題は、その形と大きさである。写真を見ればわかるように、三角柱でやや大きく、携帯にしては不便のようだ。縦5㎝×横12.7㎝の手のひら大だから、机の上に置いてスピーカーを繋げて聴くのがベストだろう。

 それはともかく、ニール自身がこれを提唱し、インターネットで呼びかけて資金を募り、最終的に製品を完成させ、ウェブサイトまで開設したのだから、これはもう見事というほかはない。表現者としてのニールは、ついに21世紀型音楽ビジネスのパイオニアにまでなってしまったのだ。

 そんなニールが昨年の終わりに発表した35枚目のスタジオ・アルバムが「ストーリートーン」だった。デラックス・バージョンでは2枚組になっていて、全く同じ10曲がアコースティック・バージョンのディスク1とオーケストラ・バージョンのディスク2に収められている。1

 アコースティックのディスク1は心に沁み渡るような曲調で、夜ひとりで聞きたくなってくる。特に"Plastic Flowers"は"After the Gold Rush"のアコースティック・ギター版のようだし、"Glimmer"はニール自身によるピアノ弾き語りで、これまたメロディラインの美しさが伝わってくる名曲だ。

 こんなに静謐で心を打つ曲が書けるニールは確かに偉大なるミュージシャンだが、この高貴な精神性と激情的なプロテスト・ソングを歌うニールの姿とが結びつかない。
 全く異なる精神が1つの身体に存在しているとしか思えない。ひょっとしたら彼はAB型なのかもしれないし、多重人格者なのかもしれない。

 一方のディスク2には同名曲にストリングスやオーケストラを付け加えたもので、まるでアンディ・ウィリアムスかフランク・シナトラが歌っているかのようだが、あの中鼻炎のような声は間違いなくニール・ヤングだった。

 まったく同じ曲なのに、アレンジが変わると印象も全く変わってしまう。"Who's Gonna Stand Up?"は映画のサウンドトラックのようだし、ワディ・ワクテルのハードなギターがフィーチャーされた"I Want to Drive My Car"はジャズっぽく装飾されている。

 "Say Hello to Chicago"はシカゴのミュージック・シーンを想起させるビッグ・バンドをバックに従えたジャズ・シンガーのようだし、"Like You Used to Do"はハーモニカや金管楽器がメインのオーケストラ風ロックン・ロールだ。最後の曲の"All Those Dreams"だけが、唯一、味付けが薄いものになっている。

 雑誌の宣伝文句を借りると、92人編成のオーケストラとコーラス隊、ニールとスタジオ・ミュージシャンを入れて一発録りを行ったとあるが、本当だろうか。もしこれが本当なら、相変わらずニールのやることは予測不可能である。

 彼はその生き様だけでなく、本業においても、常に開拓者としての姿勢を忘れてはいないようだ。ニール・ヤングは50年以上に渡ってのアメリカン・ロック・ミュージックのパイオニアなのである。

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2015年2月19日 (木)

3人のニール(2)

 「3人のニール」シリーズの第2回目の今日は、前回のニール・セダカに続き、アメリカン・ポピュラー・ミュージックの重鎮であるニール・ダイヤモンドが登場する。

 ニール・ダイヤモンドといえば70年代を代表するシンガーであるが、彼は単なる歌手ではなくて、自作自演の、いわゆるシンガー・ソングライターのプロトタイプでもあった。この辺は前回のニール・セダカと同じである。

 彼が有名になったのは、ザ・モンキーズの"I'm a Believer"が大ヒットしたからだった。今から約50年前の1966年のことである。
 また、エルヴィス・プレスリーは"Sweet Caroline"をカバーしたし、あのハード・ロック・バンドのディープ・パープルでさえ"Kentucky Woman"をアレンジして、1968年のセカンド・アルバム「詩人タリエシンの世界」に収録している。

 それほどニール・ダイヤモンドは、人気、実力ともに備わったアメリカン・ミュージック・シーンを代表するシンガー・ソングライターだったのだ。2

 自分が初めて彼のことを知ったのは、"Song Sung Blue"をラジオで聞いた時だった。この曲はビルボードのシングル・チャートで1972年の7月に1週間だけNo.1を記録しているが、当時の日本では半年ぐらい遅れて入って来ていたから、実際は1973年頃だったように記憶している。

 それ以来、彼のことが気になっていたのだが、後追いのような形で"Sweet Caroline"や、これまたビルボードのNo.1を記録した"Cracklin' Rosie"を聞いてきた。
 前者はチャート的には4位止まりだったが、今でもときどき映画のワンシーンや野球の試合中の応援歌として耳にすることができる。

 後者の方は1970年の10月にNo.1になり、1週間後にはジャクソン5の"I'll Be There"にその地位を奪われたが、シンガーとしてのニールにとっては、初めてチャートの首位を飾った曲だった。

 曲のタイトルだけ見れば、ロージーという女の子のことを歌ったように見えるが、実際は、カナダのネイティヴ・カナディアンに伝わる伝承が元になっていて、ローズ・ワインの瓶が少女に変わるというお話だった。いずれの曲も、もちろんニールの作詞・作曲である。

 ニールの曲にはフォーク・ソングのような湿っぽさや、カントリー・ミュージックのような陽気さはない。むしろ巧みな曲つくりとそれを包む上品さが漂っている感じだ。たぶんそれは、彼がニューヨークのブルックリン出身だからだろう。

 ニールは、1943年の1月生まれだから、今年で74歳になっている。父親が軍人だったせいで、子どもの頃はアメリカ中を転々としたという。
 彼が16歳のときに、ピート・シーガーも参加していたミュージック・キャンプを体験して、それを契機に音楽に興味を持ったようだ。

 彼は音楽だけでなく、様々な面で才能を持ち合わせていたようで、フェンシングで奨学金を得てニューヨーク大学に入学して、医学部候補生として生物学や化学を学んでいた。
 一時は医者になるつもりだったようだが、音楽の楽しさが忘れられずに、あと1年で卒業という時に退学してしまった。そしてマンハッタンのジャズ・クラブの階上の部屋に住み込み、35ドルの中古ピアノで曲作りを始めたのである。

 その後、ジャック・パーカーという人と組んで曲を発表したり、グリニッジ・ヴィレッジのコーヒー・ショップでライヴ活動を続けたりして実力を磨き、1965年にジェイ&アメリカンズがニールの曲"Sandy And Me"を取り上げ、それがトップ20入りして、彼の名前が広く知られるようになった。ここから彼の栄光の歴史が綴られていく。

 特に1972年のロサンゼルスでのグリーク・シアター10回連続公演は、今でも語り草になっていて、すべての公演でチケットを完売させ、その時の模様を2枚組ライヴ・アルバムとして発表した。
 このアルバムは、「ホット・オーガスト・ナイト」というタイトルで発売されて、アメリカではダブル・プラチナ・ディスクで5位、オーストラリアでは何と29週連続1位というとんでもない記録を打ち立てている。

 彼はまた、ロックのフィールドにも足跡を残している。1976年のザ・バンドのラスト・コンサートである「ラスト・ワルツ」でディランなどとともに出演しているのだ。
 これはその年に、ニールのアルバム「ビューティフル・ノイズ」をザ・バンドのギタリストだったロビー・ロバートソンがプロデュースをしたことに端を発している。

 このアルバムは、当時の日本のメジャー洋楽雑誌だった「ミュージック・ライフ」でも大々的に取り上げられたほどの話題性を備えていたアルバムだった。3

 1曲目の"Beautiful Noize"では都会のざわめきのようなSEで始まり、ニック・デカロの演奏するアコーディオンがストリート・ミュージシャンのような趣を醸し出しているし、2曲目のディキシーランド・ジャズ風の"Stargazer"、ロビー・ロバートソンやデヴィッド・ペイチ、トム・スコット、ジャズ・ピアニストのボブ・ジェイムスなどの有名ミュージシャンが脇を固めているバラードの"Lady-Oh"など、聞きこむたびに感動を覚える曲で占められている。

 また"Don't Think...Feel"ではエレクトリック・ギターにジェシ・エド・デイヴィス、ドラムスにジム・ゴードンが、"Surviving the Life"にはハモンド・オルガンにザ・バンドのガース・ハドソン、ドラムスにはラス・カンケルも参加していた。

 何でこんなに豪華なミュージシャンが参加しているのだろうか。すべてがロビー・ロバートソンの伝手とは思えないのだが、これもニール自身が多くのミュージシャンから敬愛されている表れだろう。

 とにかくこのアルバムは、アメリカン・ポピュラー・ミュージックの集大成のような音楽で満たされていると思う。都会のお洒落な音楽もあれば、ストリングスを使った壮大なバラード、シンプルで軽快なポップ・ソングも収められているからだ。

 ニール・ダイヤモンドという1人のミュージシャンの可能性が最大限引き出されたようなアルバムで、ロビーがそういう意図を持ってプロデュースしたのだろうし、ニール自身もその意図を組んで、意欲的にコラボしたのだろう。

 両者の想いと感性と実力が相乗効果を引き起こしている。一家に1枚とは言わないが、一生に一度は聞いても損はしないアルバムであることは、間違いないだろう。

 ニールは、この後も精力的にアルバムを発表している。中には「ジャズ・シンガー」のようなサウンドトラックもあるし、ハード・ロック系のプロデューサー、リック・ルービンを起用して発表したアルバムもあった。(2005年)

 しかし一番驚いたのは、2008年の27枚目のスタジオ・アルバム「ホーム・ビフォー・ダーク」だろう。このアルバムもリック・ルービンが担当しているが、何と全米、全英のアルバム・チャートでともに1位を獲得したのだ。

 これはニールの長いキャリアにおいても初めてのことで、67歳3か月でのナンバー・ワン・ミュージシャンというのは、当時は最高記録だった。(その後ボブ・ディランの「トゥゲザー・スルー・ライフ」に抜かれてしまう)

 そんなニールは、今でもアリーナ・ツアーを行っているようだ。彼の場合は大きな会場でしかツアーをしないというのが特徴で、それだけ今も支持されている証拠だろう。4
 ところで自分はニール・ダイヤモンドという名前は、芸名だろうと思っていたのだが、この稿を書くにあたって調べたら、本名だった。正式にはニール・レスリー・ダイヤモンドというらしい。確かに、名前のように成功したミュージシャンである。

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2015年2月12日 (木)

3人のニール(1)

 今回から連続で、「3人のニール」というお題のもとに、ニールという名前のある3人のミュージシャンを紹介しようと思う。
 その第1回目は、アメリカン・ポップ・ミュージック界を代表するニール・セダカである。日本ではあのポール・アンカと人気を2分したニール・セダカだ。

 ニール・セダカといってもわかる人は、60歳代以上ではないだろうか。彼の代表作である"Calendar Girl"や"One Way Ticket(to the Blues)"などは、1950年代の終わりから60年代の始めにかけてヒットしていたからだ。Photo
 彼の特長は、女性のような澄んで清らかな歌声と、美しいメロディラインを含むソングライティングだろう。実際、当時は曲だけを聞いて、女性が歌っていると思った人は、かなりの数にのぼったといわれているくらいだ。

 ニールは、1939年にニューヨークのブルックリンで生まれた。9歳頃からクラシック・ピアノを習い始めたニールは、元々音楽的な才能があったのだろう、12歳でジュリアード音楽院の準備過程に入学し、作曲活動にも励むようになった。

 この時は、まだ彼にはクラシック音楽のピアニストになる夢があったのだが、同じアパートに住むハワード・グリーンフィールドと知り合いになってから、2人による音楽活動が始まったのである。

 このハワードという人は、詩を書くことが趣味だったようで、ニールの両親とハワードの両親が友人ということもあり、自然と意気投合したようだ。ここにレノン&マッカートニー、ゴーフィン&キングと並び称される?グリーンフィールド&セダカが誕生したのである。時は1951年頃だろう。

 翌52年には2人による初めての曲"My Life's Devotion"が発表され、55年にはバラード曲"Mr. Moon"が出来上がった。後者の曲は、ニールが高校の学園祭で歌って大好評を得たようで、これがきっかけとなって、ニールと親友がトーケンズというボーカル・グループを結成している。

 ただニールが高校2年生の時には、クラシック・ピアノのコンクールで優勝していて、結局、奨学金を得てジュリアード音楽院に進学した。まだ彼には迷いがあったのだろう。

 その後ニールは、クラシック音楽を学びながら作曲活動を続けていくのだが、1958年にコニー・フランシスに提供した"Stupid Cupid"が全米17位になったことから、彼はクラシックを捨ててポップ・ミュージックの世界で生きていく決心をしたようだ。

 ニール・セダカは、ソングライティングで生活していたのだが、そのうち表現者としての欲求が高まっていったのか、自分でも歌いたいと思うようになり、当時のRCAレコードと専属契約をしてシングルを発表するようになった。

 この1958年から1963年までに17曲のシングルがヒットして、一躍、彼は時代の寵児となった。新しいポップ・アイコンの登場である。この時代が彼の第1期黄金時代であろう。

 この時代のヒット曲といえば、高校時代のガールフレンドだったキャロル・キングのことを歌った"Oh, Carol"(1959年全米9位)、全米4位を記録した1960年の"Calendar Girl"、日本でのみヒットした"One Way Ticket"(恋の片道切符1959年)、どこかのバンドの曲と同名の"Stairway to Heaven"(1960年全米9位)などがあるが、一番のヒットは1962年の全米1位になった"Breaking Up is Hard to Do"(悲しき慕情)だろう。

 この曲は、1962年の8月に2週連続してビルボード・シングルチャートで1位に輝いている。また1975年には、ニール自身の再録でスロー・バージョンに編曲され、再びチャートの8位にまで上昇した。

 またこの曲は、他のミュージシャンにも人気があって、68年にハプニングス、70年にはレニー・ウェルチ、72年にもパートリッジ・ファミリーによってリバイバル・ヒットしている。

 ところでニールは、その後も曲を書き続けるも、なかなかヒットに恵まれなかった。世は激動の60年代、ロック・ミュージックが主流となっていく中、50年代の甘くコーティングされたポップ・ソングは受け入れられなくなっていったのであろう。まさに“歌は世につれ、世は歌につれ”である。

 この時代の有名曲といえば、カーペンターズが1975年にヒットさせた"Solitaire"が挙げられる。オリジナルは1972年の同名アルバムに収録されていた。
 また、この頃にはハワード・グリーンフィールドと別れて、新しい作詞家フィル・コディと出会い、再出発を図っている。"Solitaire"は、そのフィルと組んで発表した曲だった。

 彼が再び浮上するのは、1974年の全米No.1"Laughter in the Rain"(雨に微笑みを)によってからである。このときニールはイギリスにいて、ホット・レッグスというバンドと一緒にレコーディングをしていた。ホット・レッグスにはグレアム・ゴールドマン、エリック・スチュアート、ケヴィン・ゴドレイ、ロル・クレームというメンバーがいて、彼らはのちに10ccと名乗るようになる。

 イギリスでは2枚のアルバムを制作したのだが、そのうち1枚はアメリカでは発売されず、このシングル"Laughter in the Rain"も当初はイギリスのみでの発売だった。

 これに業を煮やしたニールは、ロンドンでエルトン・ジョンや彼のマネージャーと接触して、アメリカではエルトン・ジョンが設立したロケット・レコードから発表してもらうように頼んだ。これが功を奏すことになった。

 この曲は1975年の2月に1週間だけ1位を記録した。この曲も"Breaking Up is Hard to Do"と同じように、2つの曲を1つにしたような転調が見事に決まっている。やはりクラシックを学んだおかげだろうか。

 また、この年には"The Immigrant"という曲も全米22位と中ヒットした。タイトルのように、この曲は当時アメリカ政府と在住許可を巡って争っていたジョン・レノンのことを歌ったものである。

 さらに、この年の6月にはキャプテン&テニールがニールの73年の曲"Love Will Keep Us Together"(愛ある限り)を取り上げて、4週間全米No.1を記録しているし、10月にはニールのニュー・シングルの"Bad Blood"という曲が3週間No.1になっている。

 この曲は140万枚以上売れて、彼の最大のヒットになった。もともとこの曲は、シングル・カットする予定ではなかったのだが、バックにエルトン・ジョンが歌っているからという理由でシングルになってしまったようで、世の中何が幸いするかわからないものである。

 とにかく1975年という年は、ニールにとっては復活の年だった。先に述べた"Breaking Up is Hard to Do"の再発バージョンもこの年だったし、1年で2度も全米No.1シングルを発表することができた年でもあった。

 復活を遂げたニール・セダカは、この後ロケット・レーベルで3枚のシングル・ヒットを出した後、エレクトラ・レコードに移籍して娘のダラとデュエット曲を発表しているし、80年代になっても"For Your Precious Love"という曲でチャートに上っている。2
 彼は21世紀の今でもライヴ活動を行っている。76歳になるニールだが、いささかもその音楽に対する情熱は衰えないようだ。

 彼は1983年にソングライターとして殿堂入りを果たし、ハリウッドのウォーク・オブ・フェイムにその名前を刻まれたが、本来は自作自演の歌手として、70年代のシンガー・ソングライターの原点になった人なのかもしれない。

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2015年2月 5日 (木)

フライング・カラーズの新作

 少し前の話だが、フライング・カラーズの新作が発表された。彼らのことは、2012年にも一度このブログで取り上げているのだが、せっかくの機会なので、彼らのセカンド・アルバムについて思いつくままに述べてみようと思う。

 以前にも書いたが、彼らはいわゆるスーパー・バンドである。ドラムスが元ドリーム・シアターのマイク・ポートノイ、キーボードが元スポックス・ビアードで現トランスアトランティックで活躍しているニール・モーズで、ギタリストは現ディープ・パープルのスティーヴ・モーズだ。

 それ以外のデイヴ・ラルーはアメリカのロック・バンド、ディキシー・ドレッグスでベース・ギターを弾いていたし、ボーカルのケイシー・マクファーソンはテキサスのオルタナ・バンド、アルファ・レヴのリーダーだった人だ。日本で無名に近いのは、このボーカリストぐらいだろう。4

 そんな彼らが新しい現代風のロック・ミュージックを追及していこうと結成したのが、フライング・カラーズだった。

 彼らの2012年のアルバムは一人ひとりのミュージシャンの履歴を反映したような音楽が詰め込まれていた。ニールが好きそうな転調の多いメロディアスなプログレ風の曲もあれば、スティーヴとデイヴが所属しているディキシー・ドレッグスのフュージョン風味を効かせたハード・ロックも収められていた。

 ある意味、バラエティが富んでいて飽きが来ないといういい面もあったが、逆に散漫で取り留めのないという印象も与えていた。
 ただチャート的には、ビルボードのアルバム部門では81位だったが、ハード・ロック部門では9位と健闘していた。

 それから約2年、昨年の秋に2枚目の「セカンド・ネイチャー」が発表された。前作はカナダのラッシュのアルバムも担当したピーター・コリンズがプロデューサーだったが、今作では彼ら自身が担当していた。
 おそらく5人でミーティングを繰り返しながら、レコーディングを進めていったのだろう。前作よりはサウンドがカチッと固くなっていて、テーマが絞り込まれているような気がする。

 今作ではプログレッシヴ・ロック風味は若干後退し、カラッと乾いたアメリカン・ハード・ロックの空気が全体を覆っている。ドリーム・シアターがライトになった感じだ。

 確かに10分以上の長い曲も2曲ほどあるのだが、そんなに長くは感じられないし、メンバーの技巧的な部分よりは曲の構成力の方が優っていて、前作よりは実りのある結果をもたらしているようだ。Photo

 最初の曲"Open Up Your Eyes"と最後の曲"Cosmic Symphony"は、それぞれ12分24秒、11分46秒と長尺の曲になっているが、それ以外は5分~7分程度の曲で固められている。

 ハードな曲は"Mask Machine"、"Bombs Away"、"A Place in Your Mind"くらいだろうか。2曲目と3曲目の"Mask Machine"、"Bombs Away"はスティーヴ・モーズやマイク主導で作られた曲で、ハードなリフやソロが前面に押し出されている。

 特に、スティーヴの活躍は素晴らしく、"Mask Machine"ではイエスのスティーヴ・ハウのように高低差のある音程を軽々と弾きこなし、また"Bombs Away"でも流麗な間奏を聞かせてくれる。いつも思うのだが、器用貧乏というか、過小評価されているギタリストではないだろうか。

 一方、5曲目の"A Place in Your Mind"ではニールのハモンド・オルガンが全体を覆っていて、何となくジョン・ロードの演奏が目立つパープルの曲のようだ。

 ただこの曲と次の曲"Lost Without You"はどちらかというと、ポップ寄りか。メロディアスで耳に残りやすいサビの部分が優れている。シングル・カットすれば、結構売れるのではないだろうか。

 またお約束のバラードも収められている。4曲目"The Fury of My Love"はニールのエレクトリック・ピアノで導かれていき、徐々に盛り上がるという定番の曲。曲よし、演奏よしなので、異例の事態が出来することもなく、安心して聞くことができる。

 もう1曲のバラード"Peaceful Harbor"は、ボーカルのケイシーの弾くアコースティック・ギターから始まっていく。こちらの方が郷愁味があり、思わず少年の頃に過ごした街並みや田舎の風景を思い出してしまった。

 ボーカルのケイシーは意外に歌が上手くて、ファルセットの部分などは透明感があり、声量も豊かだった。このアルバムだけでなく、このバンドを代表する名バラードになるだろう。

 7曲目の"One Love Forever"では、イントロのアコースティック・ギターと伴奏されるアコーディオンがイギリスのトラッド風で、それを強引にハード・ロックに結びつけるあたりが、流石フライング・カラーズ風といえるだろう。
 ただそれが成功しているかどうかというと、ちょっと強引すぎる部分もあり、少し疑問なところもある。むしろ最初から最後までトラッド風味を貫き通してほしかったと思う。

 もう一つ疑問なのは、10分以上の長い曲の存在である。アルバム冒頭の"Open Up Your Eyes"は、まるでトランスアトランティックである。確かにドラマーとキーボーディストが兼任しているのだから仕方ないのかもしれないが、それにしてもクリソツで、見分け(聞き分け)ができないほどだ。

 最後の曲"Cosmic Symphony"は、'ⅰ.Still Life of the World'、'ⅱ.Searching for The Air'、'ⅲ.Pound for Pound'の3部形式になっている。ⅰではややダークな曲調からデイヴ・ラルーのベース・ソロが強調され、ⅱではスティーヴのギター・ソロがフィーチャーされている。
 全体的にはフュージョンっぽい曲調で、何となくディキー・ドレッグスのアルバムの中の曲を思いだしてしまった。

 ちなみにこの2人は、スティーヴ・モーズ・バンドで一緒だったから、呼吸はピッタリと合っているのだろう。

 3部作の最後ⅲはミディアム・テンポになり、ケイシーのボーカルとスティーヴのギターが融合されてエンディングを迎えていく。いい曲なので、できれば10分以上の曲は、こちらの方を活かして1曲に絞ってほしかった。2

 それでも前作よりはまとまった印象を受けたし、バンド内の意見も統一されて進化した姿を見せてくれている。そういう意味では、前作よりは良かったと思う。

 実は最初のブログでは、このバンドをプログレッシヴ・ロック・バンドとして紹介したのだが、今回はアメリカン・ロックの範疇にあると認識した。

 結局、要約すると、このバンドはトランスアトランティックやディープ・パープル、ディキシー・ドレッグスなどと差別化を図った方がいいと思う。

 自分たちの特長を全面的に発揮してほしいのである。彼らが生き残る道はそれしかないだろう。そしてそのカギを握っているのは、オルタナティヴ・ロック・バンドでの経験があるボーカリストのケイシーだと思っている。

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