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2015年3月

2015年3月25日 (水)

ジミ・ヘンドリックス(2)

 最近の週末には、約2㎞離れた中古ショップに通っている。そこは服やホビー、電化製品などの中古品を幅広く扱っていて、もちろん中古CDやDVDも買い取りや販売をしている。

 それで中古CD棚を見ていると、自分の好きなジャンルのCDが置かれていて、思わず触手が伸びてしまう。
 最近購入したものの中には、ロジャー・マッギンのソロ・アルバム2枚やクライマックス・ブルーズ・バンド、ディープ・パープルの「ライヴ・イン・ロンドン」などがあって、パープルのライヴ盤以外は、すべて紙ジャケットだ。

 お値段的には、1300円から1500円程度で、消費税8%の時代からすれば、まあリーズナブルと言えるかもしれないが、いずれにしても、自分的には十分満足できるものだった。

 そしてまた、今回紹介するジミ・ヘンドリックスのアルバム「ヴァリーズ・オブ・ネプチューン」や「ライヴ・アット・ウッドストック」も置かれていたので、即行で手に入れた。

 前者のアルバムは1300円少々だったし、後者のライヴ盤は2000円もしたが、2枚組で全16曲入りの紙ジャケ国内盤だったから、むしろ得をしたような気分だった。(今年も相変わらず貧乏性なのは、変わらない)

 それにしてもジミ・ヘンというミュージシャンは、もはや伝説、今風に言えばまさに“レジェンド”だろう。ただしこの言葉は、一般的には生存して活躍している人に使用するのが普通なので、ジミヘンには不適切かもしれない。

 ただ、“ジミ・ヘンドリックス”という固有名詞には、私のようなロックおたくには、伝説を通り越して、もはや“神話”の域に達しつつあるのではないかと思えてしまう。

 とにかく、彼の名前を聞くだけで、その風貌やスタイル、ギターの音色に歌い方、さらには当時のヒッピー文化まで意識せずに頭の中に浮かんでくる。

 こんなミュージシャンは他にはいないし、おそらく二度と出てこないのではないだろうか。例えば、エリック・クラプトンといっても、60年代のクリーム時代やレイド・バックした70年代の姿、ブルーズ・ギタリストとしてのクラプトンなど様々な印象が、人によって違って浮かび上がるだろう。

 バンドでは、名前を聞くだけで音がイメージできるものは多いが、個人としてはそんなにいないと思う。やはりジミヘンは別格であろう。

 おそらくジミヘン自身の人生が27年間と短く、またその活動期間も実質4年少々だったせいかもしれない。それだけ凝縮された人生だったから、死後もその輝きを失わず光り続けているのだろう。

 それだけ凄いジミヘンのアルバムなので、何を今さら自分がコメントする必要があるだろうか。だからほんの少しだけに留めたい。

 「ヴァレーズ・オブ・ネプチューン」は、数曲を除き、1969年の2月から5月までのレコーディングが基本になっていて、確かに遺作を集めたものには違いないし、どの曲を聞いてもジミ・ヘンドリックスの魅力を堪能することができる。Photo
 それに国内盤には、曲ごとの詳細な解説がついているので、読むだけで徐々に興奮してくる。もしこれから手に入れたいと思っている人がいたら、ぜひ国内盤を購入するようにお勧めしたい。

 どの曲も素晴らしいのだが、特に冒頭の"Stone Free"には元ファミリーのロジャー・チャップマンと元クラプトン・バンドにいたアンディ・フェアウェザー・ロウの2人がバック・ボーカルに参加しているバージョンだ。

 また、クリームの"Sunshine Of Your Love"のスタジオ・バージョンがパーカッショニストを含む4人組で収録されている点も見逃せないだろう。例のメイン・リフは2分30秒前で終わり、あとはジミヘンの天才的な独奏が走り続けている。

 ただ残念なのは、3曲目の"Bleeding Heart"や7曲目の"Lover Man"、デビュー・アルバムにも収録されていた"Red House"、その他の曲でフェイド・アウトされていることだろうか。おそらくレコーディングではもう少し歌や演奏が続けられ、テープもまわっていただろうが、このアルバムのメイン・プロデューサーであるエディ・クレイマーが編集したのだろう。

 この時期のジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスは過渡期で、ベーシストがノエル・レディングからビリー・コックスへと代っている。だからクレジットを見ると、曲によってさまざまだった。ちなみにノエルは、1969年の6月29日のライヴをもって脱退している。

 もう1枚の「ライヴ・アット・ウッドストック」は、かの有名な1969年のウッドストックでのジミヘンのステージ演奏を収録したもの。
 8月18日の月曜日の午前9時に開始されたジミの演奏の時には、観客はすでに帰り始めていて、約25000人程度しか残っていなかったといわれている。2
 彼らの登場時でのアナウンスでは、ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスと紹介されていたが、実際は、ジプシー・サン&レインボーズもしくはバンド・オブ・ジプシーズと呼ばれていて、この時のメンバーには、2人のパーカッショニストにセカンド・ギタリストも加わっていた。

 このアルバムについても、今さら何を言えばいいのか。音質とか内容を云々するよりも、まさに歴史的なメモリアルとして接するべきだろう。

 ただ、「ライヴ・アット・ウッドストック」というアルバムには1994年版と2000年版、2006年版、2010年版など数種類あり、1994年版はジャケット写真違いで、尚且つ曲数は12曲と少ない。
 基本的に2000年以降のものは、曲数も16曲となって当日のステージをほぼ再現しているし、音質も向上しているので、もしこれから購入したいという人がいたら、2000年以降のバージョンがいいだろう。

 面白いのは、2枚のCDの表面のプリントがSide3とSide4となっていて、最初に見たとき、間違って購入したのかとビックリしてしまった。
 おそらくアナログ盤のレーベルを用いたからだろうが、もちろん最初の紹介のアナウンスから最後の"Hey Joe"まで、きちんと収録されている。

 とにかく、久しぶりにジミヘンを聞きこんでいる。やはり素晴らしいものは、いつ聞いても素晴らしい。本物の前には言葉を失ってしまうのであった。

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2015年3月18日 (水)

第1期ジェフ・ベック・グループ

 個人的な話で申し訳ないが、このブログを書くために、紹介したいミュージシャンやバンドのアルバムをずっと聞いてきた。おかげで一銭にもならないけれど、ブログは定期的に更新できているが、自分の中では欲求不満が溜まってきている。

 つまり、日本では無名か、もしくは無名に近い人のアルバムを聞きこまなければならず、どうしてもロックの王道というか、メイン・ストリームから外れたサウンドばかり聞いてしまって、何かしら大事なことを、たとえばロック・ミュージックの本質などに触れる機会が少なくなってしまう気がしてならないのだ。

 もちろん無名ミュージシャンやバンドのアルバムでも、中には瓦礫の中でもその輝きを失わないダイヤの原石のようなものもあるのだが、如何せんその数は少ない。

 だからフラストレーションが溜まってしまい、時には無性に歴史に残るようなマスターピースを聞きたくなってしまう。だから最近のこのブログには、それなりに名前の知られている人やバンドのアルバムが登場してきている。
 まあいろいろと御託を並べてきたが、これも問屋制家内工業のようなブログということだろう。

 それで今回は第1期ジェフ・ベック・グループの登場である。なぜか最近は無性にレトロなロック・クラシックのアルバムを聞きたくなっていて、特にハード・ロックのような爆音に憧れている。
 自分の中では“ハード・ロック・バンド=優れたギタリスト”という公式みたいなものがあり、ジェフ・ベック⇔ジェフ・ベック・グループ(以下JBGと略す)なのだ。

 ジェフ・ベックも今年で71歳になる。でも写真で見る限りでは、ほとんど昔と変わらない感じがして、この人は魔法使いではないかと思わず錯覚してしまうほどだ。4_2
 そんな彼が若かりし時に組んだバンドが、いわゆる第1期JBGだった。当時のベックはヤードバーズにエリック・クラプトンの代わりに加入していたが、ベーシストのポール・サミュエル=スミスがプロデューサーに転身してしまった。
 それでベックの親友だったジミー・ペイジをベーシストに招いたが、途中でクリス・ドレアがその後を受け継ぎ、結局、ベックとジミー・ペイジのツイン・リード・ギターというフォーマットに変化した。

 その後、ベックはソロとしてジミー・ペイジが作曲した"Beck's Bolero"という曲を発表したが、この曲のバック・ミュージシャンにはペイジとベックのほかに、ベーシストにジョン・ポール・ジョーンズ、ピアニストにニッキー・ホプキンス、ドラマーにはキース・ムーンという今から考えればとんでもないほどの超豪華ミュージシャンが参加していた。

 彼らはこのメンバーでツアーに出ることを考えていて、ボーカルにはスティーヴ・ウインウッドやスティーヴ・マリオットが候補に上っていたようだ。

 そうこうするうちに、ヤードバーズとザ・フーの活動が始まってしまい、結局、これらのミュージシャンでのライヴは行われなかった。ただ、この幻のバンドの名前だけは残っている。それが“Led Zeppelin”だった。名付け親はキース・ムーンだ。そして最終的には、ジミー・ペイジがその名称を継承してしまうのである。

 1966年になると、ベックは何を血迷ったか、自分で歌った"Hi Ho Silver Lining"というシングルを発表したが、何とこれが全英シングル・チャートの14位にまで上昇してしまい、まるでポップ・スターのような扱いを受けるようになった。

 この頃にはすでにバンド構想のもとに、ボーカルにロッド・スチュワート、リズム・ギターにロン・ウッド、ベース・ギターにはキム・ガードナーなどが集められ、やがてロンがベーシストに替わり、ドラマーにレイ・クックが参加して、最初期のJBGが出来上がることになった。

 彼らは1967年7月と1968年3月に、それぞれ"Tallyman"、"Love is Blue"というシングルを発表して、前者は30位、後者は23位というチャート結果を残したが、面白いことに前者のボーカルはマネージャーのミッキー・モストが歌っていて、ロッドは裏面の曲のボーカルを担当していた。("Love is Blue"はインストゥルメンタル曲だったので、誰も歌っていない!)

 ミッキー・モストに言わせれば、この曲のヒットのおかげでバンド・メンバーに給料が払えたということだが、要するに自分も歌いたかったのではないかと勘繰ってしまう。

 彼は、ジ・アニマルズやハーマンズ・ハーミッツ、ドノバンなどの有名ミュージシャンやバンドのマネージャーも兼ねていたヤリ手マネージャーだったから、何も自分で歌わなくてもJBGを有名にさせることはできたと思うのだが、どうだろうか。

 その"Tallyman"のサイドBが"Rock My Plimsoul"だったが、この曲を含むアルバム「トゥルース」が発表されたのは1968年8月だった。この頃にはドラマーがレイ・クックからエインズレー・ダンバー、さらにはスティームパケットでロッドの同僚だったミック・ウォーラーに替わっている。3

 自分は久しぶりのこのアルバムを聞いたのだが、かなりブルーズに影響を受けているということが改めて理解できた。
 このアルバムはまた、ハード・ロックの原点とも言われているが、これはエンジニアのケン・スコットの手腕によるところが大きいようだ。

 一応、プロデュサーはミッキー・モストになっているが、実は彼はドノバンのアルバムのレコーディングと掛け持ちしていて、実際はケン・スコットがレコーディング作業を担っていた。

 だからケンの作業のもと、かなりバンドの意向が取り上げられている。アルバム2曲目の"Let Me Love You"や"You Shook Me"でのベックのギター・ソロや"Ol' Man River"でのロッドのメリハリのあるボーカルなども素晴らしいし、何といっても後半の4曲"Rock My Plimsoul"から"I Ain't Superstitious"はベック流のブルーズやハード・ロックになっていて、何度でも繰り返し聞きたくなってしまうほどだ。

 ただ欲を言うなら、もう少しベックのギターを聞きたかった。例えば"You Shook Me"のエンディングやロッドとの掛け合いなどのところだ。
 それでもこのアルバムは、イギリスよりもアメリカで売れ、全米15位まで上昇している。1

 ただこのあと、ゲスト参加したニッキ―・ホプキンスを正式メンバーに加えたが、一方でロン・ウッドとミック・ウォーラーが新バンド結成のために脱退してしまった。
 バンドは、新メンバーを加えたもののベックの意向に沿わなかったせいで、ベース・ギターにはロン・ウッドが呼び戻されている。結局、新バンド結成にはならなかったようだ。

 ちなみにミック・ウォーラーは、その後おもにブルーズ・ロック系のバンドに参加して活動を続けたが、2008年66歳で病死した。肝臓病だったという。

 新ドラマーにトニー・ニューマンを加えたJBGは、1969年の7月に2枚目のアルバム「ベック・オラ」を発表した。その後、すぐにアメリカ・ツアーに赴き、主に東海岸でライヴ活動を行った。

 その時ウッドストックでの出演も決まっていたのだが、ニッキー・ホプキンスの病気による脱退やメンバー間の軋轢のせいで、ベックの機嫌が非常に悪く、フィルモア・イーストではアンコールに応えず、ニュー・ポート・ジャズ・フェスティバルではアンプを壊すなどの行為が重なり、ついにはウッドストック出演を辞退してしまった。

 おまけに、もうJBGは解散だ、などと口走り、ベックは一人イギリスに帰国してしまうのであった。のちにベックは、ウッドストックには参加しておけばよかったと後悔していたそうだ。

 こうして第1期JBGは解散してしまうのだが、このセカンド・アルバムの「ベック・オラ」こそ、その後のハード・ロックの基礎となるものではないかと思っている。

 当時のベックの頭の中には、以前にアメリカ・ツアー中に出会ったヴァニラ・ファッジのことが忘れられなかったようで、できるだけロック・ミュージックに近づいて彼らのようなヘヴィな音楽を再演しようとしたと、後のインタビューに応えている。

 のちにヴァニラ・ファッジのメンバーとの共演を果たすことになるベックだが、それはまた次の機会に譲るとして、バンドの最後は悲惨だったようで、ロッドはベックと文字通り目を合わせることはなく、話すときは彼のシャツを見ながら話をしたといっているし、ベックはベックで、ロッドとロン・ウッドがセメントのようにくっつき、女の子のように一緒に行動していて、扱いきれなかったと述べている。

 それでも「ベック・オラ」の功績は計り知れない。サウンド的にも前作よりはまとまっているし、ニッキー・ホプキンスの作曲した"Girl From Mill Valley"は繊細かつ美しい。一方で、彼のクレジットのある"Plynth"では、逆にハードな楽曲になっていて、それを陰ながら支えている。

 また2曲のプレスリー・ナンバーのハード・ロック的解釈やラストの各人のソロ・プレイがフィーチャーされたインストゥルメンタル"Rice Pudding"など、確かに歴史的名盤と称されるにふさわしいアルバムである。2_2 1作目のブルーズに影響を受けたサウンドから2作目のハード・ロックを希求しようとした作風の変化を考えれば、レッド・ゼッペリンと並び称されるくらいのハード・ロック・バンドになる可能性もあった第1期JBGである。

 個人的には、もう少しベックのギター・ソロを入れてほしかったのだが、それでも彼らがその後のバンドに与えた影響は、大きい。

 最後の曲"Rice Pudding"のイントロのフレーズがいまだに頭の中から離れない。久しぶりに彼らのアルバムを聞いて、その素晴らしさや偉大さを再認識した次第である。

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2015年3月11日 (水)

四人囃子トリビュート・ライヴ

 先週末の話だが、四人囃子のトリビュート・ライヴを見に出かけた。ロック好きの同僚が前日の夜にメールで知らせていくれたのだ。持つべきものは友であるが、こんな大事な話はもっと早く教えてほしかった。おかげで前売り券が買えずに、当日券を買ってしまった。ちょっと値段が高かった。この辺は相変わらず貧乏性というか、ジミー・ペイジ張りの吝嗇家だと自分でも思っている。

 ところで四人囃子といえば、日本の伝説的なプログレッシヴ・ロック・バンドである。1971年に20歳前後でデビューした彼らは、瞬く間に日本の代表的なバンドとして有名になっていった。

 何しろデビュー前から、ピンク・フロイドの"Echoes"を完コピできるバンドとして評判を呼んでいたくらいだった。デビュー前だから、メンバー全員まだ10代だっただろう。
  また、1975年のディープ・パープル3度目の来日の際には、ライヴの前座までこなしたバンドだった。

 自分としては1976年の森園の脱退までが、彼らの全盛期だと思っている。ここまでがジャパニーズ・プログレッシヴ・ロック・バンドとしての先駆者の役割を果たしていた彼らだったが、ギタリストの交代以降は、フュージョンやテクノ寄りのバンドに変質してしまった。
 それでも彼らの音楽的な資質は、当時のそして今でも、日本のトップレベルを保っていたことは間違いない。

 そんな彼らが、日本の僻地ともいえるこんな田舎に来るとは思えなかったので、前述の友人に確認したところ、公演を行うのは、オリジナル・メンバーのうちのドラマー、岡井大二だけで、あとはセッション・ミュージシャンだということだった。Photo
 そういえば、昨年、2代目ベーシストだった佐久間正英氏が亡くなったということを新聞の死亡欄で見た記憶があったので、今回のライヴはその追悼も兼ねてのものだろうと勝手に推測をしていたのだが、実際は、全く関係がなかった。

 何しろハコが無理して50人程度の小さなものだったし、しかもテーブルとイスが散在していたから、おそらく30人程度しかいなかっただろう。

 そして何より大事なことは、観るためのライブではなくて、参加するためのライヴだったという点だ。だから、観覧者のうちの3分の1はセッションに参加するための、もしくは飛び入りするための参加者だった。こんな自分にも、受付時に(ライヴに)参加されますかと聞かれたくらいなのだから。

 つまり2部形式で行われて、1部は四人囃子の曲を演奏し、2部はセッション大会になったのだ。
 前座は約30分だったが、ボーカルとベーシストが代ったくらいで、最初から岡井氏がドラムを叩いていた。

 1部の“四人囃子パート”では、確か4曲が披露されたと思う。曲順は、"レディ・ヴァイオレッタ"、"おまつり"、"空飛ぶ円盤に弟が乗ったよ"、"一触即発"だったと記憶しているのだが、ひょっとしたら間違っているかもしれない。特に1曲目はインスト曲だったので、違う可能性もある。
 トータルの時間にして約40分少々だった。非常にタイトで濃密な時間を経験したが、少々物足りなかったのも事実である。

 基本メンバーは、上の写真にあるように4人編成だったが、ベースは頻繁に交代して演奏していた。やはり四人囃子の演奏技術に追いつくには厳しいものがあったのだろうか。
 キーボーディストは、クリスタル・キングのメンバーだった人らしい。またギタリストの稲葉政裕氏は、小田和正や森高千里、吉田拓郎などとセッションやレコーディングを行っている腕利きギタリストだった。

 このギタリストは、さすがにテクニシャンで、四人囃子の曲だけでなく、そのあとのセッションでもディープ・パープルからオールマン・ブラザーズ・バンド、往年のブルーズの名曲、ロバート・ジョンソンの"Sweet Home Chicago"などを器用に弾きこなしていた。ちょうどクロスロード・フェスティバルにおけるエリック・クラプトンのようなバンマスの役割をしていた。Bpylttcceaagetm
 時間的には7時30分から10時近くまで行われたのだが、前座で30分、休憩をはさんで第1部が約40分、また休憩を入れて2部も約50分くらいの構成だった。

 2部の方が時間的にも長く、パープルの"Highway Star"やクリームの"Sunshine of Your Love"などのセッションで確かに盛り上がったのも事実だが、でももう少し四人囃子にトリビュートしてほしかったと思っている。

 しかし、さすがに岡井氏のドラミングは素晴らしくて、和製ビル・ブラッフォードといってもいいくらい、リズムのキレやキープ力、おかずの入れ方まで他のメンバーとは一線を画していた。やはり10代後半から活躍していた人は違う。

 ギタリストがもたついても、ベース・ギターの音が聞こえなくても、キーボードが外しても、ドラムがしっかりしていれば、大抵の曲は鑑賞に堪えうるだろうが、逆に、ドラムがガタガタであれば、いくら華麗なソロを聞かせても聞くに堪えられなくなる。

 それほどドラムは大変だし、重要なのだけれど、さすがに今回のライヴについては、その点については安心して聞くことができた。位置的にはステージの右端に鎮座していたのだけれども、音楽的には、むしろ時に表に出てきて目立っていたと感じた。

 こうなればトリビュートでのライヴではなくて、本格的に準オリジナル・メンバー、特にギタリストの森園勝敏氏を加えて公演をしてほしいと思う。

 彼らのオフィシャル・ウェブサイトでは、最近は目立った活動を行っていないようだったが、戦後70年ということで(あまり関係ないけれど)、何かのイベントやフェスでもいいから、もう一度彼らの勇姿を見たいと願っている。こう思っている人は、決して自分一人ではないと思うのだが、どうだろうか。

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2015年3月 4日 (水)

ビージーズ

 今回はビージーズの紹介をする。なぜビージーズなのかというと、なぜか、どうしてもビージーズを聞きたくなったからだ。

 ビージーズといえば、50歳代以上の人は1970年代に大流行したディスコ・ミュージック・ブームの立役者としての彼らを思い出すだろうし、いわゆる団塊の世代の人は1967年に全英1位に輝いた"Massachusetts"や日本で大ヒットした「小さな恋のメロディ」の主題歌1973年の"Melody Fair"などを思い出すに違いない。

 本人たちはエヴァリー・ブラザーズの影響を受けたといっていて、確かに初期のビージーズは美しいボーカル・ハーモニーがその魅力だった。

 自分は後追いで"Melody Fair"などを知ったのだが、間もなくして映画「サタディ・ナイト・フィーヴァー」が大ヒット、結局、ディスコ・ミュージックを歌う3人組として彼らを認識してしまった。3
 だから、なんの思想性も発展性も伴わない“単細胞的な”音楽をやっている金儲け主義者としてしか思えなかったのである。(何しろ当時は、猫も杓子もディスコ・ミュージックに走り、しかもどの曲もそれなりに売れるという構図があったのだ。あのキッスやエルトン・ジョンでさえもそんな曲を作るのだから、自分としてはもうウンザリの状態だった)

 ただ1977年の映画のサウンドトラック「サタディ・ナイト・フィーヴァー」は、2枚組にもかかわらず、ビルボードのアルバム・チャートで24週連続1位を記録し、その年のグラミー賞の年間最優秀アルバム賞を受賞したことは事実だった。

 そしてそれを牽引したのは、折からのブームもあっただろうが、やはりNo.1シングルを連発させたビージーズの才能のせいだったのは、間違いないことだろう。

 それで自分が聞きたかったのは、その中に収められていた"Stayin' Alive"、"How Deep is Your Love"ではない。
 彼らがその余勢をかって発表した1979年のオリジナル・スタジオ・アルバム「失われた愛の世界」がどうしても聞きたくなったのだ。Photo

 なぜかと聞かれてもうまく説明できないのだが、当時はこのアルバムもまた評判が良くて、確か英米でともにNo.1になったと記憶している。
 それにシングルカットされた"Tragedy"のサビの部分が、いまだに頭の片隅にこびり付いて離れず、無性に聞きたくなったせいかもしれない。

 この1979年という年は、国連のユニセフが提唱した「国際児童年」にあたっていた。それでビージーズのマネージャーの友人デヴィッド・フロストという人が、当時の国連事務総長ワルトハイム氏に提案をして、有名ミュージシャンにチャリティーを行ってもらうことにした。それがあの有名な“ミュージック・フォー・ユニセフ”である。

 1979年の1月9日に行われたこのコンサートは、全米を始め、全世界に中継された。参加者はこのときの映像や売り上げから発生するすべての権利をユニセフに寄付することにサインした。今ではDVDも発売されているようで、それを見ると当時の人気ミュージシャンは誰なのかが分かると思う。
 

 これはどうでもいいことだけれども、その時参加したロッド・スチュワートは"(Do Ya Think) I'm Sexy"を歌った。でもこの曲が「国際児童年」にふさわしいかどうかを、歌う前に一度考えてほしかった。せめて"Sailing"か"Tonight's the Night"などにしてほしかったと思っている。Unicefcopia_2

 それで話をビージーズに戻すと、その時に歌われたのが「失われた愛の世界」の2曲目に収められている"Too Much Heaven"だった。

 メンバーのバリー・ギブは、“地球に住む人々の中で、最も弱く保護を必要とするのは子どもたちであり、その子どもたちのために参加したいと思った”と語り、この曲の印税を全てユニセフに寄付するとインタビューに応えている。

 また同時に、“みんなはビージーズというと、ディスコ・ミュージックのことしか言わないが、実際はいくつかの素晴らしいバラードも歌っているんだよ”とも述べており、実際、このバラード曲は1979年の1月に2週間全米1位を記録した。

 そしてビージーズは、「サタディ・ナイト・フィーヴァー」以上のアルバムを作ろうと企画し、この曲を含む全10曲を、アルバム「失われた愛の世界」として発表したのである。

 ちなみにこのシングルには、ブラス・ロック・バンド、シカゴのホーン・セクションのメンバー、ジェイムズ・パンコウなどが参加している。アルバム制作時に、たまたまビージーズとシカゴが隣り合わせのスタジオ・ブースでアルバム制作中だったかららしい。

 このアルバムからは3曲の全米No.1シングルが発表されていて、ひとつは先ほどの"Too Much Heaven"であり、もう1つは"Tragedy"(哀愁のトラジディ)だった。

 繰り返しになるけれども、自分が聞きたかったのは、この曲だった。確かにこの曲もディスコ調なのだが、それが気にならないほどメロディとサビの"Tragedy"と繰り返される部分が印象的で、どうしてもまた聞きたくなってしまったのである。

 この曲は同年の3月に2週連続1位を記録した。そしてもう1つの全米No.1シングル"Love You Inside Out"は、同年6月に1週間だけ首位になっている。
 このややスローな曲は、彼らにとっての9枚目のNo.1シングルになり、それまでのシングルを含めて6曲連続No.1という記録を作った。

 つまり前作のアルバムから3枚連続("How Deep is Your Love","Stayin' Alive","Night Fever")No.1を出し、このアルバムからも3枚連続No.1を出しているのだ。このようにヒット・アルバムから続けてNo.1シングルを3枚、それも2回続けて出したミュージシャンはビージーズしかいない。残念ながらあのマイケル・ジャクソンをしても、この記録は立てられなかったようだ。

 そのNo.1の3曲がアルバム冒頭から3曲連続して聞けるのが、「失われた愛の世界」なのである。アマゾンで購入したのだが、買ってよかったと喜んでいる。
 それに今聞くと、そんなにディスコティック一辺倒に染まっておらず、むしろダンサンブルでお洒落な感じだ。

 特に"Search, Find"はホーンとストリングスがうまくバランスが取れているし、"Stop(Think Again)"は静謐で重厚なバラードに仕上げられている。さすが10ヶ月以上もマイアミのスタジオに籠って、手間暇かけただけのことはあると思った。Photo_3
 とにかくこのアルバムは、ディスコ・ブームの中で、同じ方法論を取らずに新たに道を探ろうとした彼らの熱意と技術が伝わってくる素晴らしいアルバムだと思っている。

 ビージーズはイギリス生まれの5人兄弟姉妹の中の3兄弟で、長兄のバリーがリード・ボーカルで、二卵性双生児のロビンとモーリスが主にハーモニーを担当していた。モーリスはまたベースやキーボードも担当している。

 ただ残念ながらロビンとモーリスは、すでにこの世にはいない。また一番下の弟だったアンディ・ギブもまた、1988年に30歳の若さで病死している。

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