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2015年7月

2015年7月29日 (水)

ドッケン

 7月最後の今回は、80年代の日本でも有名で、人気も高かったドッケンについて簡単にまとめようと思う。

 80年代のLAメタル・シーンだけでなく、ブームに乗っかって一花咲かせるバンドは、昔から今まで後を絶たない。
 本人たちは、一発屋で終わるつもりはないのだろうが、結果的にそうなってしまうケースもあるだろうし、最初からとりあえず有名になればいいやみたいなノリで勝負する場合もあっただろう。特に、70年代のロンドン・パンク・シーンには、そんなバンドが多かったような気がする。

 だから本気で勝負しようと思えば、そんな二流・三流バンドとの差別化を図らないと、十把一絡げ扱いされてしまうから、自分たちの個性を強く主張しなければならない。80年代のLAシーンでも、このルールは適用されてきたのである。

 ドッケンはボン・ジョヴィと同じように、バンドのボーカリストの名前をバンド名にしている。今も現役で活動しているようだが、黄金期はやはり80年代、1983年から87年くらいである。Photo
 もともと、リーダーのドン・ドッケンは、歌ってギターも演奏するギタリスト兼シンガーだった。最初は、彼がリーダーの3人組として活動していたようだ。

 1977年にはドッケンを中心とした3人組バンドが、当時の西ドイツを中心にライヴ活動を行っていた。その時に、スコーピオンズのプロデューサーと懇意になり、シングルの発表を行ったり、彼自身はスコーピオンズのアルバム「ブラック・アウト」のバック・ボーカルに参加したりしていた。

 その後、デモ・テープを制作して契約を勝ち取るも、ドンにはバンドがなかったため、急遽LAに戻り、バンドを結成した。
 そのときにドラマーのミック・ブラウンがジョージ・リンチというギタリストを連れてきて、一緒にレコーディングを始めたのだが、ドンはジョージをバンドに入れることに反対している。

 ギタリストは自分一人で十分だということだろうが、やはりジョージのギター・テクニックは普通のレベルを遥かに凌駕していて、結局、バンドはドンとジョージの二枚看板になったのである。

 この時点で、のちの破綻は予想されていたが、デビュー当初はドンのボーカルのうまさと、メロディアスな楽曲、ジョージの圧倒的なギター・テクニックで瞬く間にスターダムを駆け上っていった。

 特に1984年に発表された2枚目のアルバム「トゥース&ネイル」は、トム・ワーマンやロイ・トーマス・ベイカーがアルバムのプロデューサーに携わっていて、最終的にはビルボードの49位を記録し、プラチナ・ディスクの認定を受けた。4
 シングルも3曲発表されて、そのうちの"Alone Again"(ギルバート・オサリバンの曲とは同名異曲)は、チャートの64位まで上がっている。

 続く3枚目のアルバム「アンダー・ロック・アンド・キー」は翌年発表され、これもまたプラチナ・ディスクとなり、チャート的にも32位と、前作よりも売り上げを伸ばす結果となった。

 ただ、好事魔多しの言葉通り、彼らは売れるにしたがって、ドンとジョージの音楽的な主導権争いが目立つようになり、仕事上の付き合いとしてバンド活動を行うようになっていった。
 特に4枚目のアルバム「バック・フォー・ジ・アタック」制作中の頃は、よくある話だが、バンドのバック・トラックを録り終った後に、ドンがボーカルを入れるというレコーディングが目立っていたようである。

 こうなると、解散もそんなに遠い話ではなくなるようだ。彼らは、4枚目のアルバム発表後の1988年6月、ヴァン・ヘイレンとのジョイント・ツアー後に解散してしまった。

 自分が彼らのことを詳しく知ったのは、1995年の再結成後のことだった。当時は、世界的に“アコースティック・ライヴ”が流行していて、エリック・クラプトンからロッド・スチュワート、イーグルスにブルース・スプリングスティーンと、名だたるミュージシャンやバンドがその手のアルバムを発表していた。(それでも完全なアコースティックではなくて、部分的にエレクトリック・ギターやドラムスを使ってはいたが)

 ドッケンも例外ではなく、1995年に「ワン・ライヴ・ナイト」という素晴らしいアルバムを発表したが、自分はこれを当時のリズム・レコードの店頭で聞いて、とても興奮してしまった。それで、いつかは全曲聞きたいと思っていたが、数年後に、中古CDとして手に入れて聞いてみて、最初の興奮が再び甦ってきたことを覚えている。2
 このアルバムはLAの小さなクラブ、ストランドで録音されたもので、12曲収められているが、あらためてオリジナルの楽曲の良さ、メロディの美しさが理解できた。

 ただアコースティックといっても1曲目の"Into the Fire"や他の曲のようにジョージがエレクトリック・ギターでソロを弾いている部分もあるのだが、ドラムはパーカッションのみになっていて、全体的には確かにアコースティックである。

 特筆すべきは、2曲のカバー曲だろう。1曲はE,L&Pの"From the Beginning"で、もう1曲はビートルズの"Nowhere Man"である。まさか彼らのようなメタル・バンドがこんな曲をやるとは思っていなかった。この曲を選んだ理由をドンは次のように答えている。

 “("From the Beginning"を)なぜ選んだのかはわからない。選んだのは自分ではなくて、他の3人だと思う。いい曲だし、長い間忘れ去られていたからだと思うよ。
 ビートルズの"Nowhere Man"を選んだ理由は簡単で、自分たちのハーモニーの美しさを披露するのにうってつけの曲だと思ったから。その選択は正しかったよ”

 アコースティックなサウンドになると、本来の曲のもつ素の姿が露わになるもので、このライヴ・アルバムには、確かにドッケンの曲の良さがストレートに伝わってきた。また、先のカバー曲にはエレクトリック・ギターのソロもないので、メタル・バンドというよりは、アメリカ西海岸のコーラス・グループのようだった。

 ドッケンが他のLAメタル・バンドと差異化できた理由が、このライヴ・アルバムに示されているようだ。やはり何かしらの努力を続けていかない限り、そう簡単には栄光をつかむことはできない。この鉄則はどの業界にも共通しているような気がするのである。

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2015年7月22日 (水)

ジェイク・E・リー

 さてさて、7月も下旬になり梅雨も明けて、いよいよ本格的な夏を迎える。今回のテーマにふさわしい季節を迎えたわけだが、今日は80年代から少しだけ時間がたった1991年のアルバムを紹介しようと思った。

 ラットやラフ・カットのことについて調べていたら、ジェイク・E・リーという名前のギタリストが何度も出てきた。しかもこの人、オジー・オズボーンのアルバム「月に吠える」と「罪と罰」の2枚のアルバムに参加し、90年代に入っても脱退したザック・ワイルドの代わりにバンド加入を打診されるものの、それを断ったことでも有名なミュージシャンだ。Fc9be398
 80年代の西海岸では、彼は有名なギタリストだったようで、しかも彼が加入して辞めたバンドは、やがてメジャーデビューするという噂まで、まことしやかに流れるほどだった。

 事実、ラットもラフ・カットもその後有名になったし、オジー・オズボーン・バンドは彼の加入後、世界的に人気が出て、アルバムも売れるようになった。

 なぜ彼にこんなにこだわるのか自分でもよく分からないのだが、ひとつには彼が日系人だからということもあるだろう。まあ親近感が湧くわけだ。
 しかも名前に“リー”がついていて、これは彼の好きなブルース・リーから取られているようで、こんなところにも、彼に惹かれる理由があると思う。

 しかも彼は、単なるへヴィ・メタ一辺倒のギタリストではなくて、アコースティックからエレクトリック、ブルーズからフォーク、ファンク、ハード・ロックと、非常に器用で守備範囲が広いのである。

 彼がギターを弾き始めたのは9歳頃で、それまではピアノのレッスンを受けていたらしい。ピアノは6歳から10年間習っていて、途中からギターに鞍替えしたようだ。
 また、音楽的素養も深く、ジャズからソウル、ロックン・ロールと幅広く精通していた。だから、単なるメタル・バンドのギタリストで終わらなかったのだろう。

 そんなジェイクの才能が十分発揮されたのが、1991年のアルバム「ヴードゥー・ハイウェイ」だろう。Badlands
 これは彼とボーカリストのレイ・ギランが中心となって結成されたバンド、バッドランズのセカンド・アルバムである。

 もともとバンドは、1988年に結成されて、翌年デビュー・アルバムを発表していた。オリジナル・メンバーには元ブラック・サバスのドラマーだったエリック・シンガーがいた。彼は90年代にはキッスのドラマーとして有名になった。

 それでセカンド・アルバムでは、エリックの代わりにジェフ・マーティンが加入した。ジェフはアメリカのバンド、Mr. Bigのボーカリストであるエリック・マーティンの弟で、兄と同様に歌も上手のようで、歌えるドラマーだった。

 1989年から3年後にセカンド・アルバムが発表されたが、基本的には華々しいLAメタルの要素はない音作りだった。むしろ1970年代のようなブルーズをベースにしたハード・ロックのようで、通好みの渋い印象のあるアルバムだった。

 冒頭の"The Last Time"は、レイ・ギランの伸びのある高音ボイスが素晴らしいロック曲だが、2曲目の"Show Me The Way"では、アコースティック・ギターのイントロから始まって、徐々に盛り上がる構成になっている。いわゆるロック・バラードだが、途中に聞こえてくるギター・ソロはエフェクティヴで艶がある。

 また、ギターが小刻みにリフを刻む"Whiskey Dust"やアコースティック・ギター1本だけのインストゥルメンタル曲"Joe's Blues"なんかは、この時代のハード・ロック・アルバムには似合わないほど、繊細でいいアクセントを醸し出している。

 さらにはタイトルとは違って、あまりファンクではないものの、ドラムがタムタムやカウベルまで叩いて頑張っている"3 Day Funk"や、あのジェイムズ・テイラーの曲"Fire And Rain"まで取り上げていて、この辺はジェイクの趣味性が反映されているようだ。

 その"Fire And Rain"はすっかりハード・ロック調にアレンジされていて、一聴してもあの名曲とは気がつかなかった。
 また、アルバム・タイトル曲の"Voodoo Highway"は、アメリカ南部、テキサス、ルイジアナあたりの曲調で、ドブロ・ギターほぼ1本で歌われているところがファンの心をくすぐってくれる。61aagnkx5zl
 このアルバムは好評で、彼らは次の3枚目のアルバムを制作するためにスタジオに入ったものの、ジェイクとレイが仲違いしてしまい、バンドは解散してしまった。非常に残念なことだった。

 ジェイクは2013年に新しいバンド、レッド・ドラゴン・カーテルを結成して、活動を始めた。翌年にはデビュー・アルバムを発表して、アルバム・チャートの69位を記録した。
 まだまだ、やれるじゃないかと思うのだが、実際、ジェイクはまだ58歳だし、もっと適切に評価されてもいいギタリストではないかと、依怙贔屓ながらも思っているのだった。

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2015年7月15日 (水)

ラフ・カット

 80年代のあだ花のようなLAメタルのバンドの第3弾である。今回はジェイク・E・リーという人も参加していたラフ・カットについて、スポットを当てたいと思う。

 ジェイクについては、前回のラットというバンドでも少しだけ触れた。彼はラットには在籍していたが、有名になる前に脱退して、ラフ・カットというバンドに加入した。

 彼はラットの前身バンド、ミッキー・ラット(ミッキー・マウスが変異したのか?)に加入したが、やがて脱退してラフ・カットに加入した。ミッキー・ラットに加わったのが1980年だから、ラフ・カットに在籍したのは1982年頃だろう。83年にはオジー・オズボーン・バンドのアルバムにクレジットされているからだ。

 そのラフ・カットだが、メタル界では有名なミュージシャンが在籍していた。ジェイクのほかにも、のちにディオで活躍するキーボーディストのクロード・シュネル、元ジェフリアでのちに彼もディオに加入したギタリストのクレイグ・ゴールディ、エアロスミスでジョー・ペリーの後を引き継いだジミー・クレスポ、クワイエット・ライオットやドッケンでもプレイしたベーシストのショーン・マクナブなどである。

 こうしてみると、有名ミュージシャン輩出機関のようなバンドだが、3大ギタリストを輩出したヤードバーズやグレッグ・レイクやケン・ヘンズレー、ミック・テイラーのいたザ・ゴッズのように、昔からこういう役回りのバンドは存在していた。

 ヒット曲やアルバムで有名になるのではなく、音楽とは違うところで名前が知れ渡るミュージシャンやバンドは探せばいくらでもあると思うのだが、今回はそれがテーマではないので割愛したい。

 それで肝心のラフ・カットである。80年代の初頭にサンディエゴで結成されたバンドで、最初はジェイクのギターとクロードのキーボードで有名だったが、すぐに2人は脱退してしまい、ツイン・ギターにベース、ドラム、ボーカルという構成になった。2
 だからというわけでもないだろうが、バックの演奏陣よりも、ボーカルのポール・ショーティノの方がメインになった。実際に、彼のハスキーで絞り込んだような熱唱タイプのボーカルは、他のバンドのボーカリストよりもファンの感情移入がしやすく、目立っていた。

 1985年に彼らは「ラフ・カット」というアルバムでデビューした。この時のギタリストは、クリス・ヘイガーという人と、新しく加入したアミア・デラクという人で、後者のギタリストはギターのデザイナーとしても有名で、主にジャクソンのギターと契約して、様々な型のものを発表している。

 1曲目の"Take Her"は当時流行ったようなメタル調の曲。この曲がこのアルバムの代表曲とも言われているのだが、自分はそうは思えなかった。ツイン・リードのようで、間奏には2台のギターが短い掛け合いをするが、特に記憶に残るほどでもなかった。

 それに曲自体はそんな名曲とは思えない。エンディング部分にクラシックのワン・フレーズが出てくるが、そんなことはリッチ―・ブラックモアに任せておけばいいわけで、もっと違うフレーズを演奏してほしかった。

 むしろこのアルバムで聞きどころは(少ないけれど)、ジャニス・ジョプリンも歌った"Piece of My Heart"だろう。ここでのポールの熱唱は、確かに数少ない聴きどころだろう。この曲を選んだというところに、ポールの決意というか自信が表れているようだ。

 続く"Never Gonna Die"は、何となくスティーヴ・ペリーのいたジャーニーの曲のようで、シングル・カットすればひょっとしたら大ヒットしそうなポップなものだ。自分では結構気に入っていた曲だった。ただ、この曲はバンドのオリジナルではなくて、外部ライターの手によるものである。アルバムに収める曲数が足りなかったのだろうか。
 
 "Dreamin' Again"は、この手のアルバムには必ず1曲は含まれるメタル・バラードで、ギター・ソロの部分は盛り上がっている。やはり2人もいれば、それなりに盛り上がるのだろう。次の曲"Cutt Your Heart Out"がアップテンポの彼らのテーマ曲のようなものなので、その対比がよかった。

 "Black Widow"は重く引きずるようなリズムとバックの分厚いキーボードが特徴的な曲で、たとえて言うと、Zeppelinの"Kashmir"のような感じだ。ラフ・カット流カシミールだろう。 

 続く"You Keep Breaking My Heart"も同様なバラードだが、こちらの方がしっとりと歌い込まれている。どうでもいいことだが、このアルバムには10曲収められていて、そのうちの3曲には"Heart"という言葉が含まれている。アルバム・ジャケットにも大きなハートが描かれていて、"Heart"という言葉は、このアルバムのテーマか何かを暗示しているような感じがした。Photo
 一転して"Kids Will Rock"は、曲名にあるようなアップテンポのハードな曲である。彼らがもっとメジャーになれば、この曲もロック・アンセムになったのだろうが、残念ながらそうはいかなかったようだ。

 "Dressed to Kill"は、ミディアム・テンポの曲で、アコースティックで演奏すれば、かなりイケるんじゃないかなと思われる感じがした。もう少しポールのボーカルを生かせれば、もっと評価が高まりそうな気がする。

 最後の曲"She's Too Hott"も同じ曲調だった。アルバムの後半部分に、もう少しアップテンポの曲があれば、もっと良かったような気がした。

 全体的には、LAメタルのアルバムというよりは、確かにギターは目立ってはいるけれども、ブリティッシュ・ハード・ロックの伝統を踏襲したアルバムといえそうだ。時代のブームには乗っているが、自分たちがやりたい音楽は、ちょっと違うんだぞと言いたいのではないだろうか。

 だからジャニスの曲を取り上げたり、Zeppelinの曲によく似たものをやったのだろう。LAメタルの匂いや雰囲気は、ちょっとした飾り付けのような感じだった。

 彼らは同じメンバーで、ジャック・ダグラスのプロデュースのもとに、翌年セカンド・アルバムを発表するものの、デビュー・アルバムほどの話題性はなく、商業的にも振るわず、残念ながらバンドは、1987年に解散してしまった。解散の原因には、ポールのクワイエット・ライオットの移籍という事情もあったようだ。

 ただ彼らの活動歴は短かったものの、その存在感は大きかったようで、1996年にはライヴ盤が発表されているし、2000年から2年間は再結成されてミニ・アルバムの発表やライヴを行っている。最近でも過去の音源が発掘され、発売されているようだ。

 多くの有名ミュージシャンが通り過ぎていったバンドだったが、LAメタルのブームの中では異彩を放つ存在だった。その独自性は21世紀の今日まで忘れられてはいないようだ。

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2015年7月 8日 (水)

ラット

 前回は、スティーヴン・パーシーが結成したバンド、アーケイドについて述べたが、今回もスティーヴン絡みのバンド、ラットについて紹介したいと思う。

 時代は1980年代のアメリカ西海岸に戻る。1981年のMTV開設後、音楽的要素とともにそのヴィジュアルも、商業的成功の大事な条件となった。
 また、イギリスで勃興していたNWOBHM(ニュー・ウェイヴ・オブ・ブリティッシュ・ヘヴィ・メタル)のムーヴメントもアメリカに流入し、ヴァン・ヘイレンが切っ掛けとなった80年代のアメリカン・ハード・ロックをさらに発展させていった。

 そんな状況の中で、ロサンゼルスやサンディエゴを中心としたアメリカ西海岸に、いわゆるLAメタルが勃興していったのである。

 彼らの特長は、見た目重視で、音楽的にはポップで、カラッと明るいサウンドに速弾きギター・ソロが付随したものだった。だから雨後の筍のように多くのバンドが生まれては、消えていった。したがってブームも短く、1990年代に入ると終焉してしまう。そして、アメリカのパンク・ロックともいえるグランジ・ブームが巻き起こるのである。

 ラットというバンドは5人組で、ボーカリストはスティーヴン・パーシー、それにベーシストとドラマー、2人のギタリストが参加していた。
 2人のギタリストとくれば、当然ツイン・リード・ギターになるわけで、ロビン・クロスビーとジェイク・E・リーのうち、ジェイクの方はまもなくラフ・カットというバンドに移籍してしまった。2

 彼の代わりにバンドに加入したのは、当時18歳のウォーレン・デ・マルティーニで、1983年には自主制作CDを発表して話題になった。

 翌年には、アトランティック・レコード契約を結び、アルバム「アウト・オブ・ザ・セラー」(邦題;情欲の炎)を発表した。

 このアルバムは、300万枚以上の売り上げを記録して、彼ら最大のヒット作になった。チャート的にも全米7位まで上昇して、成功の階段を駆け上がっていった。
 ヒットした原因は、MTVをうまく利用して、時代の流れに乗ることができたということもあるだろうが、最大の要因は、シングル"Round and Round"がヒットしたことだろう。

 この"Round and Round"と同アルバムにある"I'm Insane"は、ミッキー・ロークが主演した2008年の映画「ザ・レスラー」でも使用されている。それほどアメリカでは、今でも忘れがたい曲なのだろう。

 また、それ以外にも"Wanted Man"や"Back for More"、"Lack of Communication"もシングル・カットされている。要するに、どの曲もシングル・カットできるほど平均以上の出来栄えだったということだろう。

 さらに"The Morning After"では、ユニゾンでのツイン・リードを聞くことができるし、ノリのよい"I'm Insane"は車に乗って高速道路をブッ飛ばすときには最適な曲だろう。

Photo
 デビュー・アルバムで成功すると、その後はあまり長続きしないものだが、彼らは違った。翌年発表されたセカンド・アルバム「インヴェイジョン・オブ・ユア・プライヴァシー」も全米で200万枚以上売り上げ、アルバム・チャートで9位を記録している。

 その後もアルバムを発表するたびに、一定の成功を収めていたのだが、90年代に入りブームに陰りが見え始めると、坂道を転げ落ちるように一気に人気も下がっていった。
 さらにはオリジナル・ギタリストだったロビン・クロスビーはドラッグ中毒になり、最後は注射の回し打ちでエイズにかかってしまう。

 彼は2002年に、42歳の若さで亡くなった。1992年にはラットは解散してしまうのだが、彼はその前にラットを脱退している。晩年は車いす生活だったようだが、10人分の人生を生きてきたし、夢をかなえることができた。自分が死んでも泣かないで、みんなでお別れのパーティを開いてほしいとテレビのインタビューに応えている。

 ちなみに、もうひとりのギタリスト、ウォーレン・デ・マルティーニの方は、ラット以降、ソロ・アルバムを発表したり、ドッケンやホワイトスネイクに一時的に在籍したりして、その存在感を示していた。

 彼らの音楽は“ラットン・ロール”と呼ばれている。それはブルース臭はなく、明るくてノリのよい曲ばかりだからだ。アルバム自体も40分もなく、短い曲がギュウギュウに詰め込まれている。

 ただ、彼らの成功のおかげで、他のLAのバンドも似たような音楽的傾向を示すようになり、どのバンドの曲も同じように聞こえてくるようになってしまった。だからLAメタルは、5~6年で凋落してしまったのである。

 ラットは、その後も再結成を繰り返したが、2014年にスティーヴン・パーシーが2度目の脱退をした以降は、活動を停止している。実質的に解散したと受け取っていいだろう。

 本物のラットの寿命は1年から2年、飼育下でも3年程度といわれているが、こちらのラットの方は、それよりはやや長かったようだ。
 LAメタル系のミュージシャンは、どのバンドの人も普通の人より早く駆け抜けていく人生だったようだ。

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2015年7月 1日 (水)

アーケイド

 1990年代といえば、自分の中ではつい最近のように思えるのだが、よく考えたら、今からもう20年以上も前のことになる。当たり前のことなのだが、年を取ると時間の感覚がおかしくなってくるのか、昔のことは手を伸ばせば届きそうな気がしてならない。

 それで今月と来月は、昔のアメリカン・ロックのバンド、誰も知らないか、知っていてもマイナーなB級、C級クラスのバンドを特に紹介しようと思う。こんな機会でもないと、彼らは歴史の狭間に埋没してしまうかもしれないからだ。

 それで最初は、90年代のハード・ロック・バンドだったアーケイドの登場だ。アーケイドといっても商店街にあるそれではない。ロサンジェルス出身の5人組バンドである。2
 80年代後半から“LAメタル”というブームが起こり、数々のバンドが生まれては消えていった。基本的にはMTVでヘヴィローテーションになるような、グラマラスな格好と過剰な演出、それに絵になるようなギタリストの速弾きをそろえていれば、ある程度以上のバンドなら、一時は表舞台に登場することができた。今から考えれば、幸せな時代だったかもしれない。

 80年代後半に、ラットというメタル・バンドがあった。今思えば、“LAメタル”というブームは、このラットあたりが火付け役だったかもしれない。
 それでこのラットは、アメリカや日本、この手の音楽が好きなドイツなどで人気バンドになり、アルバムもかなり売れた。

 このバンドでリード・ボーカルとして歌っていたのが、スティーヴン・パーシーという人で、この人がラットを脱退して結成したのが、アーケイドというバンドである。1992年の出来事だった。

 基本的に“LAメタル”のバンドのボーカリストは、ハイトーンのよく伸びる声質をしているのだが、このスティーヴン・パーシーという人の声は、ハイトーンというよりは猥雑で絞り出されたようなボーカルだった。ガンズ・アンド・ローゼズのアクセル・ローズから高音を除いたら、似ているかもしれない。

 もともとラットというバンドは、ツイン・リード・ギターを売り物にしていた。だからというわけでもないだろうが、このアーケイドというバンドにもギタリストは2人いた。それぞれがリードをとれると思うのだが、詳細は割愛したい。Photo

 それでスティーヴン・パーシーは、もとシンデレラのドラマーだったフレッド・コウリーと意気投合して、アーケイドを結成した。本来は“タブー”というバンド名にするところだったのだが、同名のバンドが他にいたために、アーケイドと名付けたようだ。ちなみにそのバンドは、レゲエ・ミュージックを専門にしていたという。

 結成当時のギタリストには、マイケル・モンロー・バンドにいたジョニー・エンジェルという人がいて、この人とともに曲作りに励んでいた。ところがこのジョニーは、バンドがデビューする前に脱退してしまった。
 ただ1993年に発表された彼らのデビュー・アルバムには、彼の名前がクレジットされた曲が6曲もあった。アルバムには12曲収められていたから、そのうちの半分は彼を含む複数の人の共作曲だったということになる。

 またブライアン・アダムスやエアロスミスに曲を提供していたカナダ出身の職業作曲家であるジム・ヴァランスも4曲に参加していた。こうなれば鬼に金棒というもので、売れるために作ったようなアルバムになった。

 このアルバムからは3曲シングル・カットされている。"Nothin' to Lose"はいかにも“LAメタル”といえそうなハードなミディアム・テンポの曲で、スティーヴンとジム・ヴァランスが作ったもの。

 "Cry No More"はスティーヴンとドラマーのフレッド、元バンド・メンバーだったジョニー・エンジェルが曲作りに携わっていて、聞きごたえのあるバラードに仕上げられている。
 この2曲はビルボードにチャート・インしていて、前者は29位、後者は27位まで上昇した。もう1曲の"Messed Up World"は残念ながらヒットはしなかったようだ。3
 やはりシングル・ヒットがあるとアルバムは売れるようで、アルバムも10万枚以上売れた。また、ボン・ジョヴィとツアーでアメリカ国内をまわったこともセールスの向上につながったようだった。その結果、彼らは次のセカンド・アルバムに取りかかることができたのである。

 そのアルバム「A/2」は1994年に発表された。今度は2曲シングル・カットされたが、残念ながら商業的には上手くいかなかったようで、“金の切れ目が縁の切れ目”とばかりに、バンドは活動停止をしてしまった。

 2006年には再活動を行うことが発表されたが、スティーヴン・パーシーがラットの再結成に参加したため、アーケイドの方は忘れ去られた格好になったようだ。

 とにかく、彼らのこのファースト・アルバムはよく出来ていて、シングル・カットされた曲以外にも、アコースティック・ギターを基調にしたバラード・タイプの"So Good...So Bad..."や1分53秒と短いながらも印象的なアコースティック・ギター・ソロの"Sons And Daughters"など、よく考えられていると思う。やはり最初のアルバムだったせいか、かなり力を入れて制作したのだろう。

 個人的には、エレクトリックな曲よりもアコースティックな雰囲気に重きを置いた曲の方が気に入っている。この路線でセカンド・アルバム以降進んでいけば、また違った展開になったと思うのだが、どうだろうか。

 今となってはアマゾンでも入手は難しいアルバムになっているようだし、このバンドのこともほとんど誰も知らないと思う。結局は、スティーヴン・パーシーの個人的なバンドだったのかもしれない。

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