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2015年8月

2015年8月29日 (土)

テスラ

 いよいよ8月も終わりに近づいてきた。でも、この暑さはもうしばらくは続くだろう。まさに残暑な日々である。

 そんな残暑にふさわしいL.A.メタルシリーズだ。今回も前回に引き続き、ブームの後半にデビューした、あるいは人気の出たバンドが登場する。

 このバンドの名前は、科学者のニコラ・テスラの名前から取られた。彼は空中放電実験やラジオの発明などで、エジソンなどと並び称されるほど有名なクロアチア人だった。

 ただ、この名前になったのは、1986年の終わりのデビュー前で、その前はシティー・キッドと名乗っていた。彼らのデビューは古く、1981年までさかのぼる。西海岸のサクラメントで、ベーシストのブライアン・ホィートとギタリストのフランク・ハノンで結成したアマチュア・バンドが、その起源だった。

 1983年に、当時トラック運転手だったジェフ・キースがボーカルのオーディションに合格。同じ年の12月には、同じくサクラメントのローカル・バンドに所属していたギタリストのトミー・スキーオがメンバーに加わって、バンドの原型が成立した。

 ツイン・リード・ギターを売り物に活動を始めたシティー・キッドは、1984年にはグアム島でライヴ活動を行った。1日5回、週6日のギグを約3か月間行った彼らは、本格的なプロの道を歩み出そうと決意し、強力なドラマーの必要性を感じたメンバーは、エリック・マーティン・バンドで活動していたトロイ・ルケッタに声をかけた。

 トロイは、彼らのステージを観劇して、ジェフの歌のうまさとフランクのギターのテクニックに感動したようで、すぐにバンドに加入している。4
 トロイを加えた新生シティー・キッドは、カリフォルニアの様々なクラブで活動しながらデモ・テープを作製して、各レコード会社に送った。そのうちハード&ヘヴィ・ロックの分野に進出しようとしていたゲフィン・レコードが彼らの将来性を高く評価して、契約を結んだのである。

 それからデビューまで約1年近くをリハーサルやレコーディングに費やした彼らは、バンド名を変えて、1987年の1月についにデビュー・アルバムを発表した。
 彼らはアルバム発表とともに、デヴィッド・リー・ロスのソロ・ツアーに同行し、約1年半にも及ぶヨーロッパ、北米・南米アメリカのツアーを行った。さすがゲフィン・レコードである。大手のレコード会所のバック・アップがなければ、これほどのプロモーションはできなかっただろう。

 そのおかげで、デビュー・アルバム「メカニカル・レゾナンス」はアルバム・チャートの32位を記録し、100万枚以上の売り上げを示すことができ、セカンド・アルバム「グレイト・レディオ・コントラヴァーシー」のレコーディングにも直ちに着手できた。

 彼らの魅力は、2人のギタリストによる演奏だろう。ツイン・リードだけでなく、エレクトリックとアコースティックの対比やボトルネック、マンドリンを使っての演奏など、幅広く魅力的だ。
 このことは、1988年に発表されたセカンド・アルバムにも生かされていて、アルバム13曲の全曲に彩られている。2

 また、ジェフのボーカルもカエルを押しつぶしたような歌い方ながらも、伸びがありしっかりとシャウトしている。
 この中で11曲目の"Love Song"はアコースティック・ギターによるバラードで、途中から絡んでくるジェフのボーカルと広がりと深まりを与えるエレクトリック・ギターが素晴らしい。

 同時に"Paradise"という曲も途中からテンポが急ピッチになり、ブライアンの演奏するピアノとツイン・リードが見事である。この曲もシングル・カットすれば売れたのではないだろうか。
 "Love Song"はMTVでヘヴィ・ローテーションされ、そのせいかシングル・チャートの10位を記録した。また、アルバムも18位まで上昇している。

 彼らは70年代のハード・ロック・バンドを意識していて、ボーカルのジェフはバッド・カンパニーを、ギタリストのフランクはレッド・ゼッペリンやエアロスミスをフェイバレット・バンドに挙げている。だからというわけでもないだろうが、ときどきフランクはダブル・ネック・ギターを使用し、ジミー・ペイジのようにバイオリンの弦を使って演奏をするようだ。

 1991年には、彼らがキャリア中最高のアルバムと自称している「サイコティック・サパー」が発表された。確かにこのアルバムは自画自賛されているように、この中から5曲がシングル・カットされ、アルバム自体も全米13位を記録している。

 それから4年後には4枚目のスタジオ・アルバム「バスト・ア・ナット」が発表されたが、時代はまさにグランジ/オルタナティブ・ブームの真っ最中で、全米チャートの20位を記録するものの、プンプン匂うアメリカン・ハード・ロック路線が逆に災いし、ゲフィン・レコードは彼らから手を引いてしまった。

 さらに追い打ちをかけるように、ギタリストの一人、トミー・スキーオが薬物中毒になり、バンドを脱退してしまった。その後彼はリハビリを行いながら、出入りを繰り返していたが、最終的に、再結成後の2006年には契約を解除されてしまった。

 大手の契約を失い、彼らはその後ライヴ活動に専念するもスタジオ・アルバムを発表することができずに、1996年に解散を発表した。
 その後、LAメタル・バンドの宿命のように、2000年にオリジナル・メンバーで再結成し、21世紀になってからは、3枚のスタジオ・アルバムを発表している。

 ただ2006年にはトミーに代って、他のメンバーより15歳以上若いデイヴ・ルードというギタリストが参加してプレイしている。

 自分は彼らのベスト・アルバムが一番好きで、テスラを聞くならこれが一番だと思っている。彼らの全盛期である1987年から1994年までのベスト・トラックを聞くことができるからだ。3
 これを聞くとよくわかるのだけれど、彼らは単なるへヴィ・メタ・バンドではない。70年代のブリティッシュ・ハード・ロックの要素を彼ら流に解釈して、それを上手にアメリカン・ロックの中で拡大再生産しているのだ。

 だからサウンドが大陸的で、ややアーシーな面も含まれている。マンドリンやアコースティック・ギターの使用にも巧みで、幅広いファン層にも受け入れられる要素を持っていた。だからもう少しハードな面を押さえて、オルタナティヴ系の要素を加えれば、ひょっとして彼らはメイン・ストリームの中で泳ぎ切れることができたのではないだろうか。

 もう3年ほどデビューが早ければ、もっともっとメジャーになったテスラだった。ロックの歴史だけではなくて、何事にも時代に乗るということも大事なことなのだろう。

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2015年8月22日 (土)

ファイヤーハウス

 今回からは少し趣を変えて、LAメタル・ブームの後半にデビューしたバンドやLAメタルではないが、メタル・ブームに乗って人気が出たバンドなどを紹介しようと思う。
  本当は、LAメタルという限りは、モトリー・クルーやW.A.S.P.なども紹介しないといけないのだろうが、それらのバンドについては、あまり聞き込んだ覚えもなく、また自分の趣味の範疇からも外れているので、割愛したい。

 それで今回はファイヤーハウスの登場である。ファイヤーハウスを日本語にすると、“火の家”である。いかにも暑い夏にぴったりのバンドではないだろうか。1
 彼らはLA出身ではない。80年代の後半にヴァージニア州のリッチモンドで活動していたローカル・バンドのホワイト・ヒートがその母体だった。
 そのバンドのギタリストとドラマーが、同地域のバンド、マックス・ウォーリアーのボーカリストとベーシストをリクルートしてきて、1988年に結成されたのがホワイト・ヒートだった。

 だから、むしろ東海岸のバンドだろう。最初のレコード契約もニューヨークの会社だったし、活動の基盤も東海岸中心だった。
 ところがある日、地元のクラブでヴィニー・ヴィンセント・インヴェイジョンのライヴがあった際に、そのバンドのリーダーであるマーク・スローターにデモ・テープを渡したことから、彼らの運命は一転した。

 彼らの演奏を聞いたマークは、“プロデュースをしてやるからハリウッドに来い”と電話をかけ、彼らは直ちに荷物をまとめて西海岸に向かい、そこで曲作りやデモテープの制作を始めたのである。

 当時のバンド名は、まだホワイト・ヒートのままだった。ところがそのロサンゼルスでもある出会いが彼らの運命を変えることになった。今度は、当時、飛ぶ鳥を落とすほどの勢いがあったボン・ジョヴィのリーダー、ジョン・ボン・ジョヴィに出会い、デモ・テープを渡すことに成功したのだ。

 彼らの楽曲を聞いたジョン・ボン・ジョヴィもまた、一発で彼らの曲を気に入り、彼の紹介と援助で、いくつかのレコード会社のスカウトが集まり、ノース・キャロライナで簡単なギグが開かれた。それを見たエピックのプロモーターが最終的にかれらと契約を交わすのだが、その時に彼らはホワイト・ヒートからファイヤーハウスと名前を変えている。

 彼らのデビュー・アルバムは、1990年に発表された。タイトルはバンド名と同じ「ファイヤーハウス」だった。Photo
 このアルバムは売れた。アメリカではダブル・プラチナ・ディスク、日本やカナダではゴールド・ディスクを獲得している。

 彼らの特長は、一つひとつの曲がしっかりと練り込まれながら作られていることと、ボーカルのうまさとバックの演奏がしっかりしていることである。
 LAメタル・ブームの後半というか、ほぼ終わり頃にデビューしたせいか、それまで登場したバンドの良いところが凝縮されていて、それがアルバム作りに反映されている。

 それがシングル曲のヒットにつながったのだろう。このアルバムからは4曲シングル・カットされていて、そのうちメロディが美しい"Don't Treat Me Bad"は全米19位を記録している。
 この曲はアコースティック・ギターのカッティングで始まるのだが、メタル系のアルバムにしてはジャーニーに近い雰囲気を携えていて、ヒットしたのも納得できる。

 また全米58位を記録した"All She Wrote"は何となくボン・ジョヴィの曲をハードにした感じで、特にビル・レヴァティの演奏するギターの音がリッチー・サンボラのそれによく似ている。

 そして特に素晴らしいのは、バラードの"Love of A Lifetime"だろう。この曲は全米5位を記録し、一気に彼らの知名度を押し上げたのである。
 確かに壮大なバラードで、デビュー間もないバンドにしては、よくこういう曲が書けたなあと感心してしまった。一歩間違えば、AORになりかねないような曲でもあるが、ボーカル担当のC.J.スネアの切々と歌う歌唱力には説得力があり、何度も聞きたくなってしまう魅力を備えている。

 基本的にこのバンドの曲のメロディ・ラインは、率直で美しい。それをメタルという華麗でハードな装飾がコーティングしている。だから最初からメタルを目指しているバンドとは一線を画しているのだろう。

 たとえば、デビュー・アルバムの9曲目"Seasons of Change"は、アコースティック・ギターを基調としたインストゥルメンタル曲だ。デビュー・アルバムにインストゥルメンタル曲、特にアコースティック・ギターを使った演奏をもってくるには、それ相応の自信がないとできない芸当だと思うのだが、彼らは堂々とそれをやり遂げている。

 まさに満を持してのデビュー・アルバムだった。このアルバムの成功で、彼らは人気バンドとなり、続く1992年のセカンド・アルバム「ホールド・ユア・フィヤー」も全米23位にランクされて、プラチナ・ディスクに認定されている。

 彼らはその後も、コンスタントにアルバムを発表しているのだが、メタル・ブームが過ぎ去り、オルタナティヴ/グランジが台頭してきたせいか、徐々にデビュー当時の勢いを失ってきている。
 ベーシストは頻繁に交代しているが、それ以外のメンバーは健在で、今もベスト盤を発表したり、ライヴ活動を行ったりしている。2
 もう少し彼らのデビューが早ければ、ひょっとしたらボン・ジョヴィ級のバンドに成長したかもしれない。少なくともそれくらいの実力は備えていたバンドだったと思う。
 ある意味、時代に翻弄されたバンドの一つだったのではないだろうか。

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2015年8月15日 (土)

ウォレント

 とにかく暑い!毎日暑い日が続いている。うちは貧乏なので、なるべくエアコンをつけないようにしているのだが、日中が暑すぎて夕方は食欲がなくなってしまうくらいだ。寒いのは着込んだりすれば何とかなるが、暑い場合は裸になっても暑いわけで、これはどうしようもない。

 そんな暑い中でこのブログを綴っている。ほとんど誰も読まないブログを綴るのも味気ないが、暑さのせいでブログの記事もなくなったと言われるのも癪なので、シコシコと続けている。まあ、これで約8年続いているのだから、もうしばらくはもつだろう。

 それで今回は80年代のLAメタルを回顧する第8弾、ウォレントの登場である。とにかくこのバンドも、写真を見ても分かるように、ド派手のヴィジュアル系メタル・バンドだった。Photo
 LAメタルは80年代の初期から90年、91年、グランジ・ブームが起こるまでの短い期間だった。実質10年間もなかったと思う。ちょうどMTVの影響で見栄えの良いロック・バンドの需要があったせいもあるだろう。このウォレントも含めて、どのバンドも同じようなヴィジュアルで売っていた。

 そのうちこのウォレントに関しては、デビューが1989年と遅い方だった。当時の彼らは、このブームがもっと続くだろうと思い、一発当ててやろうという野心に燃えていたのかもしれない。

 もともとは1984年頃にギタリストのエリック・ターナーとベーシストのジェリー・ディクソンがロサンゼルスでバンドをやっていて、そこにフロリダから来たボーカリストとドラマーが加わって結成された。

 バンド名はどこから来たかは不明だが、ギタリストのエリックがウォーレン・デ・マルティーニの大ファンだったので、このバンド名にしたという噂もある。日本語では「保証」とか「根拠」という意味になるのだが、おそらくその両方を掛けているのだろう。

 当時のLAは、まさに雨後の筍のように、同じようなバンドばかりがウヨウヨしていた。ちょうど自分も1989年にロサンゼルスに行ったが、ハリウッド近くのデニーズで食事をしていたところ、ギター・ケースを抱えた若者が隣の席で、何やらバンドのことや契約のことを話していたことがあった。
 ひょっとしたらあの中に、プロのミュージシャンになった人もいたかもしれない。それほど夢を追う若者が多かったのだ。

 ウォレントは、1989年にアルバム「マネー・ゲーム」を発表した。全10曲で、すべての曲はボーカリストのジェイニー・レインという人が手がけていた。3
 アルバムは如何にもLAメタルっぽい"32 Pennies"で始まる。重いリズムに、時あり挿入される短いギター・ソロ(というよりも装飾音に近いもの)、伸びのあるボーカル、典型的なLAメタル曲だが、メタルっぽいのはこの曲だけで、あとはどちらかと言えば、ハードなポップ・ロックに色づけされている程度のものだった。

 このバンドにはギタリストが2人いたのだが、残念ながらそのメリットは活かされていないようだ。また2人ともプロ・ギタリストだけれども、そんなに技巧的でも情感に訴えるようなギタリストではなかった。当時のレベルでは、この程度の演奏者はあまたいたわけで、そういう意味でも、パッとしないバンドだった。

 ただ、このアルバムの魅力について言えば、バラード系の曲が目立っている点だろう。4曲目の"Sometimes She Cries"は切々と恋心を訴えているし、8曲目の"Heaven"はまさに名曲、彼らの代表曲ともいえるだろう。
 確かにヘヴィ・メタル・バンドのバラード特集を組めば、ベスト30には入るだろう。でも、ベスト10はどうかなという感じがする。むしろ無理だろうなあ。

 それはともかく、この曲は全米のシングル・チャートで2位を記録した。そのおかげでアルバムも売れ、全世界で300万枚の売り上げを残している。

 こうなれば当時の親会社のCBSソニーもプロモーションに力を入れるわけで、セカンド・アルバム「いけないチェリーパイ」は翌年発表され、これもまた当時の余勢をかってアルバム・チャート7位まで上昇した。(それにしても当時のLAメタルのアルバム・ジャケットは、品のないものばかりだった、前回のポイズンといい、今回のウォレントしかりである)1

 ところで時代はオルタナティヴ系のバンドが幅を利かせ、すぐにグランジ・ロックが主流になっていった時だった。
 そんな中で、ヴィジュアル以外に特に取り柄のないウォレントは、ヒット曲も出せず、徐々に人気を失い、表舞台から遠ざかって行った。

 自分もこの頃のLAメタルにはついていけず、どのバンドも同じように見えてきて、もうどうでもいいように思えた。ちょうどその頃に、REMなどのバンドが脚光を浴びてきていたので、そちらの方に関心が移っていった。
 また、LAメタルよりももっとワイルドで、ロック本来のもつ猥雑さやいかがわしさを体現したようなガンズ・アンド・ローゼズも出てきて、そちらの方が自分にとっては、リアルに感じた。

 ウォレントの音楽的傾向を言えば、キッスやアリス・クーパー、ブリティッシュ・ロック系のシン・リジィ、スィートに近いとジェイニー・レイン自身が述べているが、ハードでガンガン行くというよりも、メロディや印象的なサビで聞かせるタイプのバンドだった。

 だから彼らと同時期にデビューしたガンズ・アンド・ローゼズが、グランジという逆風の中でも立派にその存在感を示し、いまだに人気も衰えないのに対して、ウォレントの方はすっかりマイナーになってしまったというのも、その音楽へのアプローチの違いや音楽性に由来しているに違いない。

 彼らはメンバー・チェンジを繰り返しながらも、いまだに現役として活動を続けている。LAメタル・バンドの共通点でもある。4
 ただ、ボーカルを担当していたジェイニー・レインは、2004年に脱退し、2008年に再加入し、一時的に再結成するも、同年に再び脱退した。

 そして彼は、2011年の8月11日にロサンゼルスのホテルの一室で、死体となって発見された。死因はアルコールの過剰摂取ということだった。表向きはそうであり、本当はドラッグとアルコールを一緒に取り入れたからではないだろうか。

 個性的なミュージシャンがいなくても、代表曲があれば何とか生き延びていけるという意味では、典型的なバンドだった。ガンズ・アンド・ローゼズとの比較を見るまでもなく、まさに時代の仇花のようなバンドだったのではないだろうか。

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2015年8月 8日 (土)

ポイズン

 80年代のLAメタル特集、第7弾、今回はまさにLAメタルを象徴するようなバンドが登場する。モトリー・クルーやラットと並び称されるバンド、それがポイズンなのである。

 ポイズンは、意外にもロサンジェルス出身ではなかった。オリジナルのバンドは、アメリカ東部のペンシルバニア州で結成された。ボーカリストのブレット・マイケルズとドラマーのリッキー・ロケットが中心となったバンドは、当初はパリスと名乗っていたそうだ。

 もちろん同名のバンドが過去にもあったし、当時もあったので、紛らわしいということで、最終的にポイズンと名乗るようになった。ただし、それはロサンジェルスに移動してきた後だったらしい。

 彼らは1984年にロスで活動を始め、その2年後にレコード・デビューした。当時はすでにLAメタル・ブームだったために、うまくその波に乗ることができたのだが、全盛期は約4年くらいだった。デビューが遅れた分、全盛期は短かったようだ。

 見た目はまさに当時のメタル・シーンの代表的なもので、派手なメイクにファッション、ノリノリの音楽と派手目の速弾きギター、まさにLAメタルの最先端を行っていた。Photo
 ただ、バンドの演奏能力は極めて低くて、これは当時ミュージック・ライフ誌の編集長だった東郷かおる子氏も書いているのだが、初めての日本公演はアマチュア・バンド程度だったらしい。
 また、特にギタリストのC.C.デビルという人の能力については疑問視もされていて、メタル界随一の下手ウマギタリストといわれていた。

 実際には、MTVのビデオ・クリップではあとで演奏を付け加えていたし、ライヴでは多重録音されたサウンドを被せていたといわれている。確かにエドワード・ヴァン・ヘイレンやジョージ・リンチよりは腕は劣るだろうけれど、現役当時からそう言われるギタリストも珍しいと思う。

 そんな彼らが一気にメジャーになったのが、セカンド・アルバム「初めての…AHH」からのシングル"Every Rose Has Its Thorn"が全米No.1になってからである。1988年のことだった。このアルバムは全世界で1000万枚近く売れたといわれている。Photo_2
 自分もこのアルバムは持っているのだが、メタルというよりは、ポップでノリノリのロックン・ロールという感じがした。たとえて言うなら、キッスの音楽性に近いと思う。

 ただ面白いことに、C.C.デビルのギターは結構速くて、音を聞いただけでは当時のLAメタルらしいと思った。そんなに違和感はないのだが、これもあとでオーバーダビングしたのかもしれない。

 1曲目"Love on the Rocks"、2曲目"Nothin' But a Good Time"と本当にノリのよいロックン・ロールが続いている。
 アルバム全体を通しても、ほとんどが3分少々の曲で占められていて、コンパクトにまとめられている点がよかったのかもしれない。小難しいことを考えずに、とにかくパーティのように楽しめればいいというコンセプトで制作されている気がする。

 4曲目の"Good Love"という曲は2分52秒しかないし、メタル界では珍しくハーモニカも使用されている。
 全米No.1になった"Every Rose Has Its Thorn"は、このアルバム唯一のバラードで、確かに切々と訴えかけるようなラヴ・ソングになっていて、印象深い。アルバムのプロデュースは、チープ・トリックを手掛けたトム・ワーマンが行っていて、彼のアドバイスもあったのかもしれない。

 面白いところでは、ロギンス&メッシーナの"Your Mama Don't Dance"をほぼ原曲のまま収録しているところだ。ドラマーのリッキーは、“昔の曲だけど、いま聴いても新鮮なロックン・ロールだよ。歌詞なんかもティーンエイジャーによくある気持ちが歌われていて、ポイズンにピッタリの曲だと思ったんだ”とインタビューに応えている。

 このあと彼らは1990年にサード・アルバム「フレッシュ・アンド・ブラッド」を発表したが、これまた全米2位になるほど大ヒットした。
 ただ好事魔多しの例え通り、ギタリストのC.C.デビルはドラッグに溺れ、ブレットと対立、そのままバンドを脱退してしまった。

 その後にギタリストとして迎えられたのが、かの有名なリッチー・コッチェンだった。彼は幼少の頃から音楽の才能を発揮していて、ギターのみならず、ベース、ドラムス、キーボードとほとんどの楽器を演奏することができる。

 またファンクからジャズ、フュージョン、ブルースと音楽性も幅広く、ポール・ギルバートが抜けたミスター・ビッグに加入したり、スタンリー・クラークとフュージョン・アルバムを発表したりしている。また、ジェフ・ベックやアラン・ホールズワース級のギタリストとしての評価も高い。

 そんな彼が単なるロックン・ロール・バンドで満足するわけもなく、約1年余りで脱退してしまった。一説には、ドラマーのリッキーの恋人を奪って結婚したから馘首されたとも言われているが、ありそうな話である。

 彼らは1999年にオリジナル・メンバーで再結成され、それ以降もオリジナル・アルバムの発表やライヴ活動に励んでいて、人気も再燃している。
 2006年に発表されたベスト・アルバムは全米17位まで上昇していて、彼らの人気の高さがうかがえるようだ。Photo_3
 とにかく、いまだに人気のあるLAメタルの生き残りバンドだ。たぶんその理由は、彼らの音楽の根底にあるロックン・ロールが、多くの人を楽しませているからであろう。

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2015年8月 1日 (土)

ナイト・レンジャー

 8月も真夏のLAメタル特集を続けることにした。すべてのLAメタル・バンドを紹介するつもりはないけれど、まだまだ有名な?バンドは残っていると思ったからだった。

 それで今回は、ナイト・レンジャーの登場である。このバンドは、正確に言うと、サンフランシスコ出身のバンドなので、LAメタル・バンドの範疇に入れていいものかどうか迷ったのだが、ちょうど同じ頃に人気が出たので、今回紹介することにした。

 自分の印象では、彼らはガンガンの汗水したたるロック・バンドという感じではなくて、何となくソフトな感じがするバンドだった。
 また、2人のギタリスト、ブラッド・ギルスとジェフ・ワトソンとベーシストのジャック・ブレイズを擁していたことでも有名だった。

 彼らの歴史は、1977年のサンフランシスコまでさかのぼる。当時、ルビコンというバンドに所属していたジャック・ブレイズとブラッド・ギルスは、歌も歌えるドラマーのケリー・ケイギーを加えて、ステレオというバンドを結成した。

 ちなみにルビコンというバンドは、1979年のカリフォルニア・ジャムⅡで約40万人の観客の前で演奏したことでも有名で、元スライ&ザ・ファミリー・ストーンのジェリー・マーティーニにより結成されたファンク・ロック・バンドだった。

 話を元に戻すと、ステレオにサミー・ヘイガーやロニー・モントローズのガンマというバンドでも活動していたキーボーディストのアラン・フィッツジェラルドとその友人だったジェフ・ワトソンが参加して、レンジャー、後にナイト・レンジャーと改名するバンドが誕生した。Photo

 彼らは1982年にデビューし、翌年初来日を果たしている。彼らの特長は、汗臭いハード・ロックの概念とは異なっていて、爽やかで際立って美しいメロディーラインをもつ曲を演奏し、その中に印象的なギター・ソロを入れるというものだった。

 たとえば、1982年のデビュー・アルバム「ドーン・パトロール」に収められていた"Sing Me Away"は軽快でノリのよい曲だが、サビの部分"Sing Me Away, Sing Me Away"というところは、全然むさ苦しくなく、夏の朝露のように煌びやかで涼しげだ。

 だから本当は、当時流行したLAメタルとは一線を画すものなのだが、時期的にほぼ同じであるということと、ギタリストが有名だったということで、今回紹介しようと思ったのである。

 2人のギタリストのブラッドとジェフは、対照的だった。ブラッド・ギルスは基本的に赤いストラトキャスターを弾き、ジェフ・ワトソンはゴールドのレス・ポールを演奏していた。
 また、ブラッドは、ナイト・レンジャー結成前にオジー・オズボーンのバンドに在籍してツアーにまわるほどの実力派ギタリストだったが、ナイト・レンジャーではムーディーでメロディアスなギター・ソロを展開し、ライト・ハンド奏法などの派手な速弾きはジェフ・ワトソンが担当していた。

 ちなみにジェフは右利きで、左手でフィンガリング、右手はピックを持ちながらライト・ハンドをするので、自ら“オクトパス奏法(エイト・フィンガー奏法)”と呼んでいた。

 また、ナイト・レンジャーにはジャックとケリーの2人のリード・ボーカリストがいて、ジャックは情熱的でハードな曲を、ドラマーのケリーが抒情的なバラードを担当していた。こういう点でも他のLAメタルのバンドとは違っていて、バラードからハードな曲まで幅広くこなし、しかもそれぞれ味の違う個性を発揮することができた。だから日米で人気が高かったのだろう。

 だからLAメタルというよりも、メロディアス・ハードのジャンルに入れた方がいいと思うのだが、実際、産業ロック一歩手前の曲もあった。
 特に、バラード系の曲にその傾向が強く出ていて、アメリカでの人気を決定付けた1983年のセカンド・アルバムの曲"Sister Christian"だろう。この曲は、翌年にチャートの5位まで上昇した。

 また、1985年のアルバム「セヴン・ウィッシィーズ」からは3枚の全米シングル・ヒットが生まれたが、いずれもバラード曲かゆったりとしたミディアム・バラードの曲だった。8位を記録した"Sentimental Street"はジャック・ブレイズの作詞・作曲だったが、リード・ボーカルはケリーがとっていた。

 これもジャックが作詞・作曲したミディアム系の"Four in the Morning"では、ケリーの演奏するエレクトリック・ピアノがアクセントになっていて、何となくREOスピードワゴンを思い出してしまった。
 また、"Goodbye"はジャックとジェフによるもので、文字通り別れをモチーフにしたバラード曲である。ちなみに前者の曲はチャートの19位を、後者の"Goodbye"は17位を記録している。

 彼らはデビューから1985年の3枚目のアルバム「セブン・ウィッシィーズ」までは高い人気を保ったが、1987年作「ザ・ビッグ・ライフ」は商業的に失敗した。理由はヒット曲を生み出せなかったからであり、特に目立つようなバラードがなかったからだろう。

 翌年にはキーボーディストのアランが脱退し、さらに後を追うようにその翌年にはジャックも脱退してしまった。こうなるとボーカルのいないバンドになってしまい、しかもジャック・ブレイズというメイン・ソングライターも不在になったため、1989年には解散してしまった。

 ジャックは、90年代にはテッド・ニュージェントや元スティクスのトミー・ショウと一緒にダム・ヤンキースや、95年にはそのトミー・ショウとともにショウ&ブレイズを結成してアルバムを発表した。それらは今でも高く評価されている。

 ジャック・ブレイズという人は、なかなかエネルギッシュというか、多動性のあるミュージシャンのようだ。彼の母親の両親がユーゴスラビア出身で、カナダに移住して苦労したらしく、そういう逞しいエネルギーを受け継いでいるのかもしれない。

 ところで、LAメタル・バンドの共通点は、解散したあと、一度はオリジナル・メンバーで再結成しているという点だろう。ナイト・レンジャーもその例外ではなく、1996年にはオリジナル・メンバーで来日公演を行い、その後、2枚のオリジナル・アルバムを発表している。

 ただ21世紀になってからは、幾分メンバー・チェンジが行われ、現在でも現役で活動は続けているものの、残念ながらジェフ・ワトソンの姿はないようだ。

 彼らの全盛期を姿を手っ取り早く知ろうと思えば、やはりベスト盤が一番だろう。1989年に発表された「グレイテスト・ヒッツ」には、彼らの代表曲が収められていて、どの曲から聞いても彼らの魅力を堪能できる。Photo
 結局、彼らがLAメタルの中でも異彩を放っていたのは、曲の良さが第一に挙げられるだろうし、その中でもバラード曲がヒットしたということを抜きには考えられない。

 また、いたずらにシャウトするのではなく、聞きやすいボーカルもあれば、クリアなサウンドと、これまたわかりやすいお約束のスリリングなギター・ソロが挿入されているという点もあるだろう。一歩まかり間違えば、ジャーニーやフォリナーのような産業ロック扱いされていたかもしれない。

 他のLAメタル・バンドと同じようであって同じようでない、それがナイト・レンジャーだったようだ。

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