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2015年9月

2015年9月30日 (水)

クライ・オブ・ラヴ

 80年代のLAメタルを中心に進めてきたアメリカン・ロック・シリーズだったが、今回はおまけとして、90年代にデビューしたバンドを紹介しようと思った。

 90年代の初期にグランジ/オルタナティヴのブームが起きてから、アメリカにおけるハード&ヘヴィ・ロックは低迷を迎えた。
 逆に、グランジの影響を受けたメタリカやプログレッシヴ・ロックの領域に踏み込んだドリーム・シアターなどのバンドが、逆風を乗り越えてサヴァイヴァルすることができた。

 決してハード・ロックが落ち目になったわけではないのだが、影響力や商業的な面では、80年代と比べて確かに下がっていった。それでもハード&ヘヴィ・ロックを希求するファンは、水面下に潜んでいたとはいえ、少なくない数があったのもまた事実である。

 そんなファンの期待に応えるかのように、90年代に入っても新しいハード・ロック・バンドは生まれていたし、オズ・フェストなどのハード&ヘヴィ専門のフェスティバルも行われるようになった。

 なんかアメリカン・ロック・ヒストリーみたいな感じになったけれど、今回のクライ・オブ・ラヴというバンドもまた、そんな時代に生まれてきたバンドだったのである。Photo
 彼らは、1989年にノース・キャロライナ州ラリーフで結成された。彼らは、クリームやフリー、ハンブル・パイといった、いわゆるブリティッシュ・ブルーズ・バンドに影響を受けていて、結成当時からそういった音楽をメインに活動を行っていたようだ。

 特にギタリストのオードリー・フリードという人は、ジミ・ヘンドリックスにも憧れていて、バンドの名前もジミ・ヘンの影響から名付けられていた。

 彼らはコロンビア・レコードと契約を結び、1993年にデビュー・アルバム「ブラザー」を発表した。内容は、もちろん、70年代の雰囲気を湛えていて、シングル・ヒットした"Peace Pipe"や"Bad Thing"のおかげで、彼らの名前も徐々に浸透していった。

 その後、彼らは16ヶ月の長いライヴ活動に携わったのだが、ボーカリストのケリー・ホーランドが厳しいツアーの毎日に耐えることができずに脱退するというアクシデントに見舞われた。
 ちなみに、このケリーは、2014年の2月に病気で亡くなっている。クライ・オブ・ラヴでのプロとしての活動は3年余りと、短いものだった。

 新しいボーカリストはオーディションでもなかなか決まらず、結局、友人の紹介でロバート・メイソンという人に決まった。
 彼はジョージ・リンチのバンドのリンチ・モブやウォレントで歌っていたり、オジー・オズボーンのツアーのサウンド・チェック時のシンガーをこなしていたりと、それなりに下積みが長かったようだ。

 新ボーカリストを迎えた彼らは、4年後の1997年にセカンド・アルバム「ダイヤモンド&デブリス」を発表した。Photo_2
 これがまた隠れた90年代の名作で、冒頭の"Empty Castle"からジミ・ヘンばりのエフェクトの効いたギターと、ミディアム・テンポの現代版ブルーズ・ロックを聞くことができるのだ。

 基本的にメンバーは4人なので、どうしてもオードリーのギターが目立ってしまう。特にこのセカンドでは、前作以上にギターが前面に出ていて、ギター・キッズには十分満足できるのではないかと思う。特に"Revelation"や"Sunday Morning Flood"でのギターはテクニカルかつエネルギッシュでもある。

 また、ボーカル担当のロバートも、ソウルフルでねちっこくギターに絡みつくように歌っているところも捨てがたい。

 それにシングル・カットされた"Sugarcane"は、メジャー調で、アメリカ的な広大さと大らかさを備えていて、どちらかというとポップな印象があった。
 アコースティック・ギターで導かれる"Fire in the Dry Grass"にはサザン・ロックのテイストを備えているし、バラード調の"Sweet Mary's Gone"もサイケ色を抜いたジミ・ヘンの曲のようだ。

 単純に過去のブルーズ・ロックの焼き直しにならずに、ノース・キャロライナという土地柄に影響を受けたような南部色も組み合わさっていて、彼ら自身のオリジナル色が出ているところがいいと思う。
 曲はすべてギタリストのオードリーが手がけているから、どうしてもギターが前面に出てくるのだろうが、それがこのアルバムでは、良い方向に出ている。Photo_3
 ただ残念ながら、彼らは2枚のスタジオ・アルバムを残して解散してしまった。ギタリストのオードリー・フリードは、その後、ブラック・クロウズに参加して2001年まで在籍した。

 ベーシストのロバート・カーンズは、2012年までレーナード・スキナードに参加してプレイを続けていた。
 彼ら2人は、“ビッグ・ハット”というバンドを結成して活動を続けているし、シェリル・クロウのバック・バンドにも所属していた。お互いに連絡を取りながら、ソロ活動を行っているのであろう。

 ちなみにボーカリストのロバート・メイソンは、元のバンド、ウォレントに戻って活動を続けているようだ。

 時代が時代なら、彼らは遅れてきたフリー、アメリカのバドカンとして、高評価を与えられていたかもしれない。当時は(そして今も)こういうギター中心のサウンドや、ブルーズ中心のバンドは受け入れられなかった。90年代を生き延びるためには、もっと硬質でメタリックな要素が必要だったのだ。

 ロック・ミュージックは、時代を映す鏡であると同時に、時代によってもまた作られていくのである。

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2015年9月23日 (水)

リヴィング・カラー

 さて、“LAメタルを語る”のシリーズも前回で終わったのだが、もう少しだけ80年代のアメリカン・ロック、特にハード・ロックについて述べてみたい。

 LAメタルは80年代の中期から90年代の初期までが最盛期だったが、それとほぼ同じ時期に活躍していた黒人のハード・ロック・バンドが存在していた。それがギタリスト、ヴァーノン・リードを中心とした4人組のリヴィング・カラーだった。Photo

 黒人のミュージシャンといえば、特定のギタリストやベーシスト、もしくはテンプテーションズやグラディス・ナイト&ザ・ピップスなどのボーカル・グループなどを思い出すのだが、なぜか黒人だけのハード・ロック・バンドで世界的に有名になったのは、簡単には思い出せない。

 ブルーズ・ロックの世界では、有名なギタリストは星の数ほどいるが、ハード・ロックという限定された世界では、ジミ・ヘンドリックスが晩年近くに結成したバンド・オブ・ジプシーズくらいだろうか。ただ、個人的にはハード・ロック・バンドとは思えないのだが…

 それでリヴング・カラーについてであるが、彼らはニューヨークで1983年にデビューした。ギタリストのヴァ―ノンは、1958年にロンドンで生まれた。両親は西インド諸島出身である。だから生まれた時から彼の周囲には、カリプソやレゲエなどの音楽が存在していたし、いとこはギタリストとして音楽業界で働いていた。

 また彼の青春時代は、まさに激動の60年代後半と混沌の70年代の前半だったから、そういう時代の空気も彼の音楽人生に影響を与えたに違いない。

 彼は、ジミ・ヘンドリックスにあこがれてギターを始めた。そしてブルーズ・ロックよりもレッド・ゼッペリンのようなハード・ロックのバンドを目指すようになった。4
 10代の後半にはアメリカのニューヨークに渡り、さらに音楽的キャリアを積むようになった。ロック・ミュージックだけでなく、ブルーズやジャズについても学び、1979年にプロ・デビューし、1983年にバンドを結成したのである。

 1985年には、黒人のための音楽コミュニティー、"The Black Rock Coalition"を結成し、黒人ゆえに音楽的キャリアが閉ざされているミュージシャンを保護し、活躍の場を与えようという社会的な活動も始めた。

 考えようによっては、このリヴィング・カラーはその急先鋒として、音楽業界に乗り込んできたと言えるかもしれない。

 そんな彼らのライヴを見に来ていたミック・ジャガーがいたく彼らのことを気に入り、彼らのデビュー・アルバム「ヴィヴィッド」に参加したり、ストーンズの“スティール・ホィール・ツアー”の前座に迎えるなどして、彼らを全面的にバック・アップしたのである。

 そういう話題性もあって、このアルバムはダブル・プラチナ・ディスクに認定され、全米第6位という素晴らしい結果を残している。2
 内容はハード・ロック一辺倒ではなく、いわゆるミクスチャー・ロックの要素を備えた曲もあり、バラエティに富んでいる。
 彼らは当初、“黒いツェッペリン”と呼ばれていたが、1曲目の"Cult of Personality"や4曲目の"Desperate People"を聞くと、リフの感じで、何となくそれも納得できてしまう。

 逆に、"Funny Vibe"などはファンキーで小刻みなリフとラップ調の歌詞が、いかにもブラック・ミュージックを想起させてくれるし、ミック・ジャガーがハーモニカで参加したポップな味付けの"Broken Hearts"やレゲエ調の"Glamour Boy"などもあって、バランスのとれた構成になっていた。

 歌詞的には、当時の(そして今もなお)アメリカの人種差別、犯罪やドラッグなどの社会問題のことに言及していて、そしてそれは人種の違いや肌の色に深く起因しているという問題提起になっていた。もちろんこのことは、彼らのメンタリティというか存在意義にも触れるものだった。

 彼らのこの姿勢は当時から今も首尾一貫しているが、音楽的な業績としては、1993年のサード・アルバム「ステイン」までが最盛期だった。
 このアルバムからベーシストがダグ・ウィムビッシュに交代した。彼はジェイムス・ブラウンやジョージ・クリントンのバック・バンドで活躍していた凄腕ミュージシャンだった。また、ミック・ジャガーのソロ・ツアーでも演奏していた。

 このアルバムは当時の影響を強く受けていて、ハード・ロックにグランジを加えたような雰囲気だった。だから全体的にダークで重い。アグレッシヴといえばカッコいいが、少し時代におもねっている気がした。
 ヴァ―ノンのギターは縦横無尽に暴れまわっているのだが、メロディ自体が初期のようなキレがなく、いい意味でのポップネスが消え去っていた。Photo_2

 チャート的には最高位26位と健闘したし、"Leave It Alone"はグラミー賞のベスト・ハード・ロック・パフォーマンス賞にノミネートされたが、それほど記憶に残るようなものでもなかった。

 このアルバムの評価自体は悪くはないのだが、あくまでも時代の空気を反映したものに過ぎず、果たしてメンバー全員がこういう音楽を望んでいたかは定かではない。
 それを証明するかのように、このアルバムの発表後、音楽的方向性についてメンバー間の意見に対立が生じ、彼らは1995年に解散してしまった。

 その後、2000年に活動を再開して、サウンドトラックに曲を提供したり、ニュー・アルバムを発表したりしているが、あまり話題には上っていない。
 ヴァ―ノン自身もバンド活動だけに専念しておらず、様々なソロ活動にも従事しているので、リヴィング・カラーだけに集中しているわけではないようだ。

 自由の国アメリカというと、何か理想郷のように思えてしまうのだが、実際は、黒人大統領が生まれても、その奥低には“不信”や“人種差別”などが今もなお横たわっているようだ。

 自らも黒人ロック・バンドとして、異例の活動を始めたリヴィング・カラーだったが、そのメッセージは、今もなお現代社会の闇を鋭く突いている。彼らのメッセージは、その後、ラップ・ミュージックやミクスチャー・ロックが引き継いだが、まだまだその闇は深いようである。

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2015年9月16日 (水)

スキッド・ロウ

 さて、いよいよLAメタル特集も終わりを迎えたようだ。どの音楽ジャンルも同じようなものだけど、他のバンドやミュージシャンとの差異化を図ることが問われてくる。
 特に、一時的なブームに乗って登場してきたバンドなどには、流行後の生き残りに必須の条件になる。

 LAメタルには、同じようなルックスと似たような楽曲が多くて、曲は残ってもバンドには記憶がないという場合が多く、誰がこの曲を歌ったのだろうと思いだせないこともあった。ひょっとしたら、自分の痴呆の方が進行しているのかもしれない。

 要するに、今でも口にのぼるようなバンドには、それなりの理由というか裏付けがあるのだろう。ただ、LAメタルの場合は、往々にして、ステージ上のドラムが回転するとか、MTVに出てくるオネエちゃんがベッピンだとか、そんな印象がある。悲しいことだと思う。

 さて、最後に登場するバンドは、当時は一世風靡していて、そのルックスの印象度や楽曲の良さでは、他のバンドとは一線を画していた。その名はスキッド・ロウである。

 自分の印象では、彼らはガンズ・アンド・ローゼズの後輩と思っていたが、実際はそうではなく、ボン・ジョヴィの弟分としてデビューした。同じニュージャージー州出身だったし、ギタリストのデイヴ・“スネイク”・セイボは、ジョン・ボン・ジョヴィの幼馴染みだった。

 そのスネイクが同じギタリストのスコッティ・ヒルとベーシストのレイチェル・ボランとで結成したバンドが、スキッド・ロウだった。1986年のことだ。
 さらにオーディションでドラマーのロブ・アヒューソやボーカルのセバスチャン・バックが加わって、1988年にアトランティック・レコードと契約を結んだ。もちろんその陰には、ジョン・ボン・ジョヴィやリッチー・サンボラのサポートがあったのは、言うまでもない。Jpg
 自分が彼らのことをガンズ・アンド・ローゼズの弟分と勘違いしたのは、彼らの佇まいや雰囲気がボン・ジョヴィのようなお子様向けバンドとは違って、ワイルドで薬漬けジャンキーのようなロックン・ローラー的だったからだ。

 彼らより少し早くデビューし、世界的メジャーになったガンズンにその点がよく似ていたので、スキッド・ロウをガンズンの弟分だと思ってしまったのだろう。

 特に、ボーカルのセバスチャン・バックのボーカル・スタイルは、ガンズンのアクセル・ローズに似ていた。アクセルの方がメタリックな高音は伸びるが、セバスチャン・バックの方も190㎝以上の長身が素早く動くさまが、アクセルと同じように、ライヴ・ステージ上では目立っていた。

 1989年に発表された彼らのデビュー・アルバムは、現在までに500万枚以上の売り上げを記録している。

 MTVのおかげで、彼らの“危ない”ロック・ミュージシャンぶりが全米に知れ渡り、一躍、若者のヒーローとして祭り上げられた。楽曲においても、"Youth Gone Wild"は若者の焦燥感やいら立ちを反映していて、多くの共感を得た。彼らは、この曲をイギリスのバンド、ザ・フーの"My Generation"に対抗して、自分たちのジェネレーションの曲だと主張している。

 また、哀愁を帯びたバラードの"18 and Life"や、アコースティック・ギターを使って切々と訴えかけるバラード・タイプの"I Remember You"もヒットしており、こういう“剛から柔まで”幅広くパフォーマンスできたことも、彼らの爆発的な人気に一役買ったに違いない。Photo

 また、デビューした時期も重要で、多くのリスナーがLAメタルのように、ケバくてイケイケで陽気な“パーティー・ロック”にいい加減飽きが来ていた時に、ガンズンやスキッド・ロウのようなロック本来の猥雑さや如何わしさを体現したバンドが出てきたことも重要だと思っている。

 ともかく、彼らはボン・ジョヴィと一緒にツアーに出かけた。1989年の「モスクワ・ミュージック・ピース・フェスティバル」にもボン・ジョヴィを始め、モトッリー・クルーやスコーピオンズなどとともに参加して、熱狂的に迎えられている。

 ところが、何を思ったか、彼らは兄貴分のボン・ジョヴィのことを非難し始め、袂を分かつようになり、逆に、ガンズンに接近し始めた。理由は、同じマネージメント会社に所属していたことが原因のビジネス上のトラブルだと言われている。

 ボン・ジョヴィよりも人気やアルバム・セールスも高かったせいか、自分たちの処遇について、ひと悶着あったようだ。加えて“瞬間湯沸かし器”とも言われたセバスチャンの性格にも原因があったようで、彼は様々な場で、ボン・ジョヴィのことを非難していた。

 彼らのこの強気の姿勢には、1991年に発表されたセカンド・アルバム「スレイヴ・トゥ・ザ・グラウンド」が全米初登場第1位を獲得したという事実があったからだろう。だから彼らの鼻はますます高くなり、その尊大な態度に拍車がかかったのだろう。いつの世でも、“勝てば官軍”である。このことは、ロック・ミュージックでも変わりはないようだ。

 さて、このセカンド・アルバムは、当時勃興しつつあったグランジの雰囲気も加えられて、デビュー時の単なるハード・ロックから大きく進化し、むしろヘヴィ・メタルやダークでアグレッシヴなハード・コアな部分が強調されていた。
 プロデューサーは、デビュー・アルバムと同じくマイケル・ワグナーだったが、彼とメンバーとのコラボレーションが非常にうまくいった結果だろう。

 彼らは、この後約4年間、各メンバーが休暇を取ったり、他のバンドをプロデュースしたりと、ソロ活動を行った。表向きには、デビュー以来の活動の疲れを取るためとあったが、実際は、セバスチャンと他のメンバーとの間で対立が起きたからである。彼の怒りっぽい性格と“口撃”はもはや“アンストッパブル”のようだった。

 結局、3枚目のアルバム「サブヒューマン・レイス」は1995年に発表されたものの、前2枚とは異なり、ゴールド・ディスクは獲得するが、全米35位とチャート的には芳しくなかった。
 グランジやメタリカなどの影響を受けていて、ヘヴィでラウドなロックになっていて、時代の音を反映してはいるものの、デビュー時からのファンにはソッポを向かれたようだった。

 ただ個人的には、音楽的進化が図られていて、質的には上々の作品だと思っている。彼らのベストとは呼ばないが、ベスト3には入るだろう。(といってもオリジナル・メンバーでは3枚しか発表していないが…)

 そんな彼らの魅力を1枚で知るには、やはりベスト盤が欠かせない。「ザ・ベスト・オブ・スキッド・ロウ」には、デビュー・アルバムから4曲、セカンドから5曲、サードからバージョン違いの5曲、それに未発表曲2曲にラモーンズの"Psycho Therapy"のカバーまで、計17曲が収められていて、お得感が高い。

 しかもデビュー・アルバムから順番に曲が並んでいるので、非常にわかりやすい構成になっている。Photo_2
 特にサード・アルバムに収録されていた"Beat Yourself Blind"は、イギリスでのライヴ録音になっていて、この曲だけ聞けば、まるでスリップノットのようなヘヴィ・ロックに仕上げられている。

 ベスト盤が出ると、バンド活動の転換期か終わりを意味するとよく言われるが、このアルバム発表後、セバスチャンは脱退し、事実上、彼らは解散してしまう。もちろん今でも彼らは、メンバーを入れ替えて活動中だが、もはや往年のような影響力は微塵もない。

 やはり人間性というのは、音楽業界でも大事なもののようである。

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2015年9月 9日 (水)

クワイエット・ライオット

 LAメタル流行前後のバンドをいくつか登場させてきたが、前回は東海岸出身のバンド、ライオットだった。それで今回は、せっかくライオットまでたどり着いたのだから、ついでに似たような名前のクワイエット・ライオットのことについても調べようと思った。名前が長いので、以下QRと略する。

 自分の中では、QRは名ギタリストのランディ・ローズが在籍していたバンドとしてしか認識されてなかった。ご存じのように、ランディはQR脱退後に、1979年にオジー・オズボーン・バンドに加入して世界的な名声を得ている。

 しかし、そのランディは80年代のニュー・ギタリストとして期待を集めたものの、1982年にセスナ機の墜落事故で亡くなった。享年25歳だった。今生きていれば、58歳になるはずだ。

 だから、自分にとってはQRよりもランディ・ローズの方に関心があって、その母体となったバンドについては、正直、ほとんど興味はなかったのである。

 そんなランディが中心となって結成していたのが、QRだった。高校生の同級生で結成されたこのバンドは、70年代の後半に日本で有名になった。
 彼らはいろんなレコード会社にデモ・テープを送っていたが、唯一彼らに目を付けたのが日本の会社、当時のCBSソニーだったからだ。

 当時の日本では、かの有名なベイ・シティ・ローラーズが超人気沸騰中で、また同じようなルックス重視のバンドも雨後の筍のように生まれていた。
 そのほとんどがイギリスのバンドだったせいか、それに対抗する形でアメリカからもバンドを登場させようと、いくつかのレコード会社が画策していたようだ。

 その白羽の矢が当たったのが、チープ・トリック(もちろんフロントのイケメン2人の方)だったり、このQRだった。
 だから写真を見ても分かるように、このクワイエット・ライオットは、確かに美形4人組だった。Qr3
 彼らがデビュー・アルバムを発表したのは、1978年3月だった。アルバム「静かなる暴動」は、アメリカでは発売されていない。また、先ほどのような事情で、日本では、きちんと音楽が評価されるのではなく、アイドルとして扱われるような傾向があった。

 当時のCBSソニーは、“第2のクィーン”として売り出そうとして、とりあえず2枚のアルバムとオプションでもう1枚制作するという条件で、彼らと契約したのだが、結局、2枚のアルバムを発表したものの、期待された成果を出すことができず、オプションは却下されてしまった。

 だからランディ・ローズ在籍時での日本公演は行われなかった。失意のうちに彼はバンドを去り、オジーのバンドのオーディションを受けたのである。ただ、そのオーディションも本人は気が進まず嫌がっていたようだが、母親や友人の勧めでとりあえず受けるだけ受けたようである。

 これは半ば都市伝説化していて、本当かどうかは定かではないのだが、そのオーディションの際、ランディが演奏前のチューニングをしていただけで、即合格になったそうである。オジーが彼の佇まいにオーラを感じたと言っているが、果たしてどうなのだろうか。

 自分はランディのライヴ演奏や未発表曲、日本で発売された2枚のアルバムからのベスト・トラックを集めた「クワイエット・ライオット/ランディ・ローズ・イヤーズ」を持っていて、何回か聞いたのだが、2分少々の短い曲もあれば、ギター・ソロがフィーチャーされた10分近いライヴ演奏"Laughing Gas"も収められている。Qr
 短い曲はシングル・カットされたもの"It's Not So Funny"で、確かにキャッチーで売れ線狙いの曲だった。でもその中で、ランディの演奏するソロや奏でるフレーズは目立って華麗である。
 同時にライヴでの演奏は、ディレイ・マシーンを使わずに、独特のタメを作って弾きまくっている。クラシックのワン・フレーズを散りばめながら、かなりワイルドでハードな演奏をしていた。

 こんな演奏は、アイドル・バンドでは考えられない。このハード面をもっと前面に出してプロモーションをすれば、おそらくもっと売れただろう。アイドル・バンドとして売り出すから、男性ファンは見向きもせず、女性ファンはルックスと曲調に違和感を覚えたのだろう。

 またこのアルバムには、スティーヴ・マリオットの"Afterglow(of Your Love)"も収められていて、彼らのセンスの良さが伺われる。彼らが単なるハード・ロック野郎ではないことがわかるだろう。この曲はセカンド・アルバムに収録されていたのだが、ここではアコースティック・バージョンになっている。

 後日談になるが、ランディが亡くなった後、QRは再結成された。新しいギタリストにカルロス・カヴァーゾを迎えて1983年に発表されたアルバム「メタル・ヘルス」は、全米で600万枚以上を売り上げてNo.1に輝いている。もちろんこれが彼らにとって、アメリカでのデビュー・アルバムにあたった。Qr2
 よく考えたら、QRとヴァン・ヘイレンは、ほとんど同じ時期にデビューしている。ヴァン・ヘイレンの方は、エディのライトハンド奏法などが有名になって世界中で人気が出たが、QRの方は1983年までは、ほとんど無名だった。

 しかし、このアルバム「メタル・ヘルス」の大ヒットのおかげで、全米No.1になったのは、QRの方が早かった。(ヴァン・ヘイレンの全米No.1アルバムは、1986年の「5150」だった)
 彼らだけの力ではないだろうが、このアルバムの大ヒットもLAメタルというブームの火付け役になったといえるだろう。

 その後、彼らはアルバムを発表するも、「メタル・ヘルス」のような成功を収めることはなかった。オリジナル・ボーカリストのケヴィン・ダブロウは、再結成後の2007年11月にドラッグの過剰摂取で亡くなった。享年52歳だった。最初の2枚のオリジナル曲のほとんどは、彼とランディの手によるものだった。

 ひょっとしたら彼は、今頃天国で、ランディと一緒にジャムっているかもしれない。

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2015年9月 2日 (水)

ライオット

 9月に入る前から、朝夕は急に秋めいてきたようで肌寒い日が続いている。空模様も秋晴れとは言い難くて、湿っぽい毎日である。ただ、日中は蒸し暑いか、気温の高い日が多く、そういう意味では、夏の暑さはまだ残っているようだ。

 そんなすっきりしない天候を吹き飛ばそうと、今月もアメリカン・ハード・ロックの特集が続く。ただ、さすがにLAメタル関連は終わりにしようと思う。
 あれはあれで楽しかったけれども、LAメタルには音楽的な変化や深化は見られず、一過性のブームで終わってしまった。だからというわけではないけれど、自分もそんなに聞き込んだ覚えはないので、まともなことを書けそうにもない。普段でさえ内容がないのに…

 それで今回はLAメタル・ブームの前から人気のあったバンド、ライオットの登場である。このバンドは、名ギタリストのランディー・ローズのいたクワイエット・ライオットと間違われやすいので、注意が必要だ。しかもほぼ同時期に活動していたから、自分の中でも混同しているところがある。

 ライオットの方は、1970年代から活動していて、それなりに名前が通っていた。結成は1976年のニューヨーク。ギタリストのマーク・リアリを中心に5人が集まり活動を開始して、翌年には最初のアルバム「ロック・シティ」を発表した。Photo

 これはあくまでも個人的な感想なのだが、LAを中心とした西海岸のメタル・バンドは、陽気でイケイケどんどん、パーティー・ロックのようなライトな感じがするのだが、ニューヨークを中心とした東海岸のバンドは、湿った音作りのブリティッシュ系バンドの影響が強いようだ。

 だからマウンテンやエアロスミスなどからは、クリームやローリング・ストーンズの強い影響を感じたものだった。
 それでこのライオットも、デビュー当時から愁いを帯びた湿ったブリティッシュ・ロックの音作りをしていた。デビュー・アルバムに収録されていた"Warrior"もそのような傾向の曲だったし、日本ではアイドル・ロック歌手の五十嵐夕紀が、"バイ・バイ・ボーイ"というタイトルでカバーしていた。

 また逆に、カラッと明るい"Tokyo Rose"という曲も含まれていて、エンディング付近のリード・ギターがカッコいい。基本的にこのバンドは、ツイン・リード・ギターだったので、その要素も十分発揮されている。

 だから70年代の後半の日本でも、ライオットの名前は知られていた。また、1979年に発表されたセカンド・アルバムには「ナリタ」というタイトルが付けられている。これは当時の成田国際空港建設問題から起因した成田闘争に因んで付けられたものだが、日本のファンの熱心なサポートに対するお礼の意味を込めて名づけられたものである。4

 アルバムのジャケットに出てくるアザラシの頭をした人間は、“ジョニー”と呼ばれていて、彼らのキャラクター的シンボルである。ひょっとしたらイギリスのアイアン・メイデンは、ライオットのアルバムからヒントを得て、“エディ”を考えついたのかもしれない。

 「ナリタ」のジョニーの方は、日本の相撲レスラーの真似をしているようで、なかなか面白い。漢字も使われているし、ファン・サービスも申し分ないように思える。

 このアルバムに収められていたインストゥルメンタル"NARITA"は、アップテンポのリズムとツイン・リード・ギターとの調和が素晴らしく、いまだに人気の高い曲でもある。最初から最後まで一気に聞かせるスピード感は、当時のアメリカのバンドにはなかなか見られないものだと思う。

 ところで、ライオットはメンバー・チェンジが多くて、その全体を把握するのは一筋縄ではいかない。のべ20名以上のミュージシャンが出入りしていて、中には元レインボーにいたドラマーのボビー・ロンディネリも、短いながらも在籍していた。

 70年代の後半にはギタリストが交代し、サード・アルバムを発表したあとの1981年にはリード・ボーカリストのガイ・スペランザがツアーへの嫌悪から脱退してしまう。この時点で、オリジナル・メンバーはギタリストのマークひとりになってしまった。

 そしてそのマークは、2012年の1月25日に56歳の若さで亡くなっている。原因はくも膜下出血で、10日余りの昏睡状態の果てに、ついに意識を取り戻すことはなかったようだ。

 だから現在のライオットは、欧米では“ライオットⅤ”という名義で活動を続けている。第5期という意味なのだろう。オリジナル・メンバーは誰もいなくなったけれども…

 ちなみに、明日から彼らは日本でライヴを行う。大阪と名古屋、川崎の3か所だが、盛り上がることは間違いないだろう。ちなみに日本では、いまだにライオットという名前で出ている。昔の名前で出ていますとは、まさにこのことである。

3 
 彼らは、今までに15枚のオリジナル・スタジオ・アルバムを発表している。自分には初期の3枚くらいまでが印象に残っているのだが、手っ取り早く彼らの魅力を知ろうとするなら、やはりベスト・アルバムが最適だろう。

 1993年に発表された「グレイテスト・ヒッツ '78~'90」には16曲が収められている。デビュー・アルバムから1993年の8枚目のアルバム「ナイトブレイカー」までの代表曲が集約されていて、お得である。

 基本的に疾走感あふれる楽曲が多いのだが、"Bloodstreets"のようにアコースティック・ギターが効果的に使用された曲やバラード系の"Runaway"、なぜかホーン・セクションが使用されている"Killer"など、特徴的な曲も含まれている。

 特に"Killer"は、タワー・オブ・パワーがホーンを担当しているし、あのジョー・リン・ターナーも参加して、当時のボーカリスト、トニー・ムーアと交互にリードを取っている。ジョーも東海岸出身(ニュージャージー州)だったから意気投合したのだろう。

 また"Runaway"は5分少々と長くはないものの、ライオット版"Stairway to Heaven"のようで、徐々に盛り上がっていく展開が秀逸である。なかなかの名曲で、繰り返し聞きたくなってしまうほどだ。Photo_2
 今となってはメンバーも名前も変わってしまったライオットだが、そのロック・スピリッツはいまだに変わっていない。特に日本のファンに対する感謝の気持ちは、70年代後半から一貫しているようだ。
 自分はそんなに熱心なファンではないけれども、彼らには今後も頑張ってほしいと願っている。

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