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2016年3月

2016年3月25日 (金)

3人のトム(2)

 さて、2人目のトムは舞台をアメリカに移して、西海岸のロサンジェルスのシンガー・ソングライターを紹介したいと思う。

 日本ではどういう評価かわからないけれども、アメリカではグラミー賞も受賞するほどの有名なシンガー・ソングライターである。
 そのトム・ウェイツは1949年生まれだから、今年で67歳になる。1973年にデビューしているが、若いうちから音楽には興味があったようだ。

 16歳の時に高校を中退して、ピザ屋で働くようになったが、時間を見つけてはギターの練習や作詞、作曲をして腕を磨いていた。当時はまさにフラワー・ムーヴメントのようなサブ・カルチャー全盛の時代だったようで、そういう雰囲気の中で自分の可能性を探っていたのだろう。

 ただ、60年代の西海岸の音楽といえば、ジェファーソン・エアプレインやザ・ドアーズ、ラヴなどが思い出されるのだが、トムはそういうロック・ミュージックには興味がなかったようで、むしろボブ・ディランのようなフォーク・ミュージックや、ジェイムズ・ブラウンを含むR&B、ジャズなどを志向していたという。

 だから、彼の初期のアルバムを聞くとわかると思うが、ピアノによる弾き語りやジャズ的雰囲気を伴った楽曲が多くて、確かにロック的な音楽ではなかった。Photo

 自分が初めて聞いた彼の曲は"The Heart of Saturday Night"だった。この曲を聞いて、トム・ウェイツの優しさのようなものが伝わってきたのを覚えている。
 当時は、また新しいシンガー・ソングライターが登場してきたなと思っていたが、ジェイムス・テイラーやポール・サイモンとは何となく違うなという感じがした。

 たとえば、ピアノとストリングスがメインの"Martha"や"Grapefruit Moon"、歌というよりポエトリー・リーディングに近い"Small Change"などは、もはやジャズといってもいいだろう。

 だから自分の中では、確かにシンガー・ソングライターだけれども、どちらかというと、ランディー・ニューマンに近いような気がした。彼もシンガー・ソングライターだが、ピアノ曲中心だし、ロックだけでなく、ジャズやR&Bにも造詣が深いからだった。

 彼を語るときに外せないのは“酔いどれ詩人”というフレーズだが、確かに裏酒場で飲んだくれている客やチープなホテルで別れる恋人たちを描写させれば、彼の右に出る人はいないような気がする。

 何と言っているのかは全く分からないのだけれども、彼のしわがれた声とそれを包み込むような穏やかなストリングスを聞くと、なぜだかわからないけれど、何となく物悲しくなってしまうのである。"Tom Traubert's Blues"や"Blue Valentines"などは、その最たるものではないかと思っている。

 そういうトムではあるが、彼の音楽活動のピークは80年代半ばまでではないかと思っている。もちろんそれ以降も、グラミー賞を受賞した1992年の「ボーン・マシーン」などの傑作アルバムはあるにはあるのだが、印象としては70年代~80年代半ばまでだろうと思う。

 今の彼は、ミュージシャンというよりはアクターとしての活動が盛んなようで、1978年の「パラダイス・アレイ」出演後は、20作品以上の映画に出演している。主にジム・ジャームッシュやフランシス・フォード・コッポラの作品に出演することが多いようだが、1986年の「ダウン・バイ・ロー」では主演を務めている。

 だからトム・ウェイツの音楽を聞くと、何となく日本の泉谷しげるを思い出してしまう。泉谷も高校を中退したあと、数々の仕事やアルバイトを経験してフォーク・シンガーとして登場してきたし、歌も決して上手とは言えない。

 また、70年代後半からはテレビ番組や映画などの俳優業が目立ってきているし、年齢も今年で68歳と、トム・ウェイツに近い。こうしてみると意外と共通項が多いのだ。これもシンクロニティのなせる業なのかもしれない。

 とにかく、そういうトムの魅力が詰まっているのが彼のベスト・アルバムだろう。特に、1971年から1981年までのアサイラム・レコードのベスト曲集が入っているアルバムはお勧めである。
 彼の瑞々しい感性が素直に楽曲に反映されているし、ジャズやR&Bに影響を受けた様子がよくわかる。とても20歳代の若者が作った音楽とは思えないほどの老成した楽曲で占められていて、彼の原点がこのアルバムに収められている。611mkidwm1l_2

 このアルバムを聞くと、なぜか心が安らいでしまう。最後の曲"Ruby's Arms"は、映画のサウンドトラックに収められていてもおかしくない。エンドロールの場面には最適ではないだろうか。 

 実際に、コッポラ監督の映画のサントラ盤や舞台のミュージカルの楽曲も手掛けているし、最近ではノラ・ジョーンズも彼のサントラ曲をカバーしている(2002年の「ビッグ・バッド・ラヴ」から"Long Way Home")。

 ローリング・ストーンズのキース・リチャーズやレッド・ホット・チリ・ペッパーズのフリー、ロッド・スチュワートからエルヴィス・コステロまで、トム・ウェイツを敬愛してやまないミュージシャンは数知れない。
 2011年の「バッド・アズ・ミー」以来、まだ彼のニュー・アルバムは出ていない。最新アルバムが待たれるミュージシャンの一人であることは間違いないだろう。

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2016年3月17日 (木)

3人のトム(1)

 さて今月は、“3人のトム”ということで、トムという名前の付くミュージシャンを紹介しようと思う。第1回目の今回は、イギリスを代表するシンガー、トム・ジョーンズの登場である。Photo
 といっても、名前は知っていても、具体的にはよく知らない。彼の活動時期がビートルズやストーンズの活動期と重なるため、イギリス人のシンガーといった程度だ。何しろ60年代は、ロックの興隆期だったから、そっちの方に興味が行っていた。

 彼は1940年生まれだから、60年代はまさにショービジネス界で頭角を現そうとしていた時期だった。
 トム・ジョーンズは、本名をトーマス・ジョーンズ・ウッドワードといったから、芸名ではなく本名になる。

 幼い時から歌うことが好きで、人が集まると必ずといっていいほど、人前に出ては歌っていたという。
 早熟の天才という言葉があるが、歌だけでなく恋愛にも長けていたようで、12歳で同級生にプロポーズして、その人と16歳で結婚してしまった。

 結婚すれば子どももできるというわけで、家族を養うために、結婚後は昼間は手袋工場の縫製作業やテレビのセールスマン、道路工事人など様々な仕事をこなしながら、夜はクラブで歌うという生活を送るようになった。

 成功の階段をのぼるようになったのは、1964年だった。それまでは出身地のウェールズでは名前は知られていたが、ロンドンでは無名だった。いくつかの大手のレコード会社にテープを送っていたものの、彼の才能を認めるところはなかった。

 ところが1964年にDJのジミー・サヴィルと出会ってから、彼の尽力のおかげでデッカ・レコードと契約を結ぶことができたのである。
 また、マネージャーのゴードン・ミルズの指導もおかげもあっただろう。ゴードン自身も元シンガー兼ソングライターで、トム・ジョーンズ自身がトム・スコットと名乗っていた時期から彼の歌唱力や歌い方を指導していたようだ。

 ただ最初のシングル"Chills And Fever"は売れなかった。やっと発表した全国向けのシングルだったが(1963年にトミー・スコット&ザ・センセーションズ名義でシングルを出している)、話題にも上がらず、トムは「レコードが仕上がると前に進んでいると思うものだが、実際は始まりでしかなく、そこから戦いが始まるのさ」と述懐している。

 しかし、1965年に発表された2枚目のシングル、マネージャーのゴードンの手による"It's Not Unusual"が全英1位、全米10位を記録すると、映画の主題歌のオファーが多数来るなど、一気に全世界的にメジャーになっていった。Photo_2
 自分が初めて聞いた彼の曲は、"Love Me Tonight"で、このシングルは1969年に発表されている。元々はイタリアのカンツォーネだったらしいが、英詞をつけてトムが歌ったところ世界的に大ヒットして、イギリスで9位、アメリカでも13位まで上昇した。日本でも大ヒットしたのだろう、自分が覚えているくらいだから。

 トムとエンゲルベルト・フンパーディンクの違いは、曲を聞く限りでは、トムの方がダイナミックでロック的だということだろう。
 また、イギリスからの“ブルー・アイド・ソウル”と、当時言われたようで、よりソウルフルでR&B色の濃いシングルを発表していた。

 逆に共通点といえば、2人ともいまだに現役感覚バリバリで、しかも現役のロック・バンドと共演している点だ。エンゲルベルト・フンパーディンクの方はブラーのデーモン・アルバーンと共演しているし、トムはアート・オブ・ザ・ノイズと一緒に、プリンスの"Kiss"を歌っていた。

 またトムは、21世紀になっても、アークティック・モンキーズのヒット曲"I Bet You Look Good on the Dancefloor"をジョー・ペリーとともに歌ったり、2014年の大晦日にはポール・ウェラーとデュエットして新年を祝っている。

 また、キングス・オブ・レオンのプロデューサー、イーサン・ジョンズやジャック・ホワイトの手を借りて、2010年代に3部作となるアルバムを続けて発表した。
 このショーマンシップというか、職業意識の高さを、若手のミュージシャンも見習ってほしいものである。というか自分自身が見習わないといけないだろう。やはり女王陛下から勲章をもらって、爵位を受けた人は何か違う。

 それにつけても不思議に思うのは、ビートルズやストーンズ、ブラック・サバスのようなハード・ロックやキング・クリムゾンのようなプログレッシヴ・ロックが次々と生まれる一方で、トム・ジョーンズやエンゲルベルト・フンパーディンクのような、いわゆるシンガーもそれなりの大衆性を保ち、かつ商業的にも十分、いやそれ以上に成功を収めてきたことである。

 極東の地にいると、その辺がよくわからないのかもしれない。どうしてもセンセーショナルな記事や出来事、流行にのって出てきたバンドなどに目を奪われがちで、こういう若者向きでない、いわば大人の流行曲を歌うような実力派シンガーなどは取り上げられることは少ないのだ。

 日本の音楽界もAKBやEXILEだけでもっているわけではない。演歌もあれば歌謡曲、和製ロックにヒップホップと幅は広い。
 それと同様に、当時や今の英国でも若者が好む音楽だけでなく、大人の志向を反映した音楽は確かに存在しているのである。英国の音楽がいまだに斬新で、活性化していて、世界の潮流の一部を形作っているのも、幅広い選択肢が同時に存在し、相互に刺激し合っているからであろう。

 そんなことはともかく、彼の歌を聞きたいのなら、やはりベスト盤が手っ取り早い。このベスト盤には、60年代から80年代までの彼の代表曲が収められていて一番だろう。Photo_3
 このアルバムを聞けば、60年代の昔から、彼の歌声がパワフルで、リトル・リチャードやエルヴィス・プレスリーのようにソウルフルということが分かると思う。やはり第一人者になるには、それだけのものを備えているのである。

 ちなみに、トムは16歳の時の結婚相手と、生涯添い遂げつつある。この点も、エンゲルベルト・フンパーディンクと同様だった。数多くの浮名を流したトムであったが、結婚生活については昔ながらの倫理観を保っているようである。

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2016年3月12日 (土)

追悼:キース・エマーソン

 ほんの2カ月前に、デヴィッド・ボウイの死去について、哀悼の意を表したばかりだった。今度は、キース・エマーソンである。享年71歳だった。

 しかも自宅のあるカリフォルニア州サンタ・モニカで、頭部に銃創のある状態で見つかったということで、警察は死因を自殺と判断しているようだ。演奏スタイルも衝撃的だったが、亡くなり方もショッキングだった。何が原因だったのだろう、4月には来日公演も予定されていたというのに…7586b87aa6744cce1927b897d88b72e0

 キース・エマーソンは、1944年にイギリスのヨークシャー州で生まれた。当時は第二次世界大戦中だったので、イングランド南部のサセックス州から疎開してきたという。

 子どもの頃からクラシック・ピアノを習っていたが、アメリカ人のジャズ・オルガニストであるジャック・マクダフという人のハモンド・オルガン演奏を聞いて、ジャズやロックに興味を持つようになり、高校生の頃にレンタルして演奏していたと言われている。

 彼がそこそこ有名になったのは、1967年に結成されたザ・ナイスの中心メンバーとして、P.P.アーノルドのバック・バンドで活動を始めた時だ。すぐに独立して、自分たち名義のアルバムを出すようになった。

 自分が持っているのは1970年の4枚目「ファイヴ・ブリッジズ」だった。ナイス時代からジャズやクラシックとロックを融合させようとする試みは、このラスト・アルバムで見事に完結していた。51vyt3jf6dl
 この頃は、すでにE,L&Pの結成が準備され、始まっていたので、ナイスとしては特に目新しいことはやっていない。オーケストラとの共演というテーマは結実していて、それまでの約3年間の活動の総集編といったところだろう。

 そして何といっても一番有名なのは、E,L&Pだろう。E,L&Pの結成とその軌跡は、プログレッシヴ・ロックという潮流の拡大と発展に大いに貢献した。自分も中学生時代に、某国営放送の「ヤング・ミュージック・ショー」でのE,L&Pの演奏を見て、ぶっ飛んだ思い出がある。

 オルガンにナイフを刺したり、ほとんど下敷きになるくらいオルガンを倒したりする彼の演奏は、プレイヤーとしてでなく、パフォーマーとしても見事だった。まさにキーボード・プレイヤーとしての“革命児”であり、ロック・ミュージシャンとしての“革新者”だった。L

 自分が初めて購入したアルバムは「恐怖の頭脳改革」だったし、そこから徐々に遡って「トリロジー」や「タルカス」を聞いていった。彼らのおかげで、ムソルグスキーやチャイコフスキーという名前を知ったくらいだ。

 E,L&Pはメンバーのバランスもよくて、カール・パーマーのドラムスはキースのワイルド性に対抗していたし、グレッグ・レイクの抒情性は、彼らの音楽に一服の清涼感とアクセントをもたらしていた。
 グレッグ・レイクのプロデュース能力がバンドをまとめていたのかもしれないが、少なくとも演奏面でリーダーシップを発揮していたのは、間違いなくキース・エマーソンだった。

 ただ高校生になった時には、パンク・ロックが主流になり、プログレッシヴ・ロックは退潮していった。E,L&Pも何枚かアルバムは発表したものの、残念ながら話題にのぼることも少なくなっていった。逆に、1978年のポップ・アルバム「ラヴ・ビーチ」がネガティヴな意味で、話題になったくらいだった。

 その後のキースは、1986年に「3」というアルバムを発表するも、商業的には失敗してしまい、その後はソロや個人でのバンド活動、映画のサウンドトラックの方で業績を残した。61vw71wghl__sl1085_
 ただ、個人的には“エマーソン、レイク&パウエル”の「3」は気に入っていて、当時、カール・パーマーの所属していたエイジアを越えてほしいと願っていた。

 楽曲的に見ても、従来のE,L&P路線を踏襲しながら、ハード・ロックやポップな味付けも行われていて、第2次ブームが訪れるかと期待していたのだが、そうはならなかった。恐らくは、レコード会社のプッシュ不足だろう。

 映画のサウンドトラックの方は、80年代から取り組んでいて、イタリアのホラー映画「インフェルノ」や日本の「幻魔対戦」などが有名だが、21世紀になってからは「アイアンマン」や「ゴジラ:ファイナル・ウォーズ」などで、耳目を集めていた。

 2010年になって、キース・エマーソンは、結腸に悪性のポリープが見つかって手術を受けている。現時点では憶測にすぎないのだが、ひょっとしたらこのことが原因で、自ら命を絶ったのかもしれない。

 ともかく、ロック史に残る偉大なキーボード・プレイヤーの一人だった。今はただご冥福を祈りたい。本当に残念である。

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2016年3月10日 (木)

エンゲルベルト・フンパーディンク

 季節柄というわけでもないだろうが、なぜか急にエンゲルベルト・フンパーディンク(長い名前なので、以下EHと略す)のアルバムを聞きたくなった。

 とはいっても、自分はベスト盤1枚しかもっていないので、繰り返し聞くしかない。自分が初めて彼の曲を聞いたのは、中学生の頃だった。ラジオから流れてくる"A Place in the Sun"を聞いたのが、そもそもの出会いだった。

 当時はロック・ミュージックに影響を受け始めたころで、ディープ・パープルやレッド・ゼッペリンのようなハード・ロックや、イエスやピンク・フロイドのプログレッシヴ・ロックを聞くようになったのだが、そういう音楽の合間を縫って、時にはラジオのトップ20番組もよく耳を傾けていた。

 そんな時にEHの曲を知ったのだが、はっきり言って、日本でいうところの歌謡曲だった。ただ、曲はシンプルながらも、確かに歌は上手いと思った。Engel
 彼の本名はゲイリー・ドーシーといって、“エンゲルベルト・フンパーディンク”は芸名である。生まれはイギリス領インドのマドレスだった。父親が英国陸軍の士官だったせいで、赴任先で生まれた。

 10歳の頃に、本国イギリスに戻ると、彼は音楽に興味を示すようになり、サックスを独学でマスターして、パブなどで演奏するようになった。やはり成功する人間は、何かしらその分野で人と違うものを持っているようだ。

 やがては友人などから、歌も歌ってはどうかという勧めもあって、17歳頃歌手を夢見て音楽業界に入った。
 ところが、兵役のために約3年間軍に所属したため、1950年代後半まで音楽活動を行うことができなかった。彼が初めてレコーディングしたのは1958年のことで、デッカ・レコードから"I'll Never Fall in Love Again"というタイトルのシングルを発表している。

 残念ながらこの曲はヒットしなかったが、彼は夢をあきらめずに活動を続けた。しかし、この頃の運命は非常だったようで、昼間は歌のレッスン、夜はパブなどでの演奏が、彼の健康を壊してしまい、EHは結核になってしまう。1960年代始めの頃の話で、英国ではビートルズ旋風が吹き荒れる前夜だった。

 彼の運命が大きく変わったのは、1966年、30歳になってからだった。同じく英国の歌手のトム・ジョーンズのマネージャーだったゴードン・ミルズとの出会いが、彼の人生を変えたのである。
 彼は、EHにドイツの有名な作曲家だった“エンゲルベルト・フンパーディンク”という芸名に変えさせることを指示したのだが、名前が変わったことで、彼の人生も変わってしまった。外国にも姓名判断みたいなものがあるのだろうか。

 実際は、姓名判断で名前を変えたというよりは、ドイツ風の名前で世間の人たちに、インパクトを与えようとしたらしい。それなら“イマヌエル・カント”でもよかったのではないかと思うのだが、そこはやはり同じ音楽家の名前を拝借したのだろう。

 彼は"Spanish Eyes"、"Strangers in the Night"を録音しようと思ったが、ゴードンから拒否されてしまい、それらの曲は、結局、米国人のフランク・シナトラがレコーディングしてしまったというエピソードも、この頃生まれている。

 その代わりにEHは、古いカントリー・ソングの"Release Me"をシングルとして発表したところ、これが見事に大ヒット。一日に85000枚以上売れて、シングル・チャートでは50位以内に56週に渡ってランクインしている。この曲のせいで、ビートルズの"Strawberry Fields Forever"が全英1位になれなかったという話は有名である。

 ここから彼の人生は大きく変わってしまった。まさに"A Place in the Sun"(太陽のあたる場所)である。また、続く"There Goes My Everything"、"The Last Waltz"も大ヒットし、1967年はEHのためにあるような年になった。

 さらに甘い声とハンサムな容姿で多くの女性ファンを獲得しながら、1969年からはテレビで自分がホスト役の音楽番組を持ち、ポール・アンカやシャーリー・バッシーなどと共演した。

 EHは、基本的に、バラード歌手のイメージが強くて、確かにメジャー・ヒットした"Release Me"も自分が初めて聞いた"A Place in the Sun"も、バラードか、それに近い曲だった。

 しいて言えば、日本では自動車のCMでも使用された"Quand Quand Quand"くらいが、ややミディアム・テンポでリズム感を伴っている曲だろうか。51h4kahy8kl
 彼の初期のベスト盤には、これらの曲が収められていて、手っ取り早く彼のヒット曲を知るには最適だろう。ただ、バラードが中心なので、途中で心地よい眠りに誘われるかもしれない。

 彼は1936年生まれなので、今年で満80歳になる。いまだに現役で、21世紀に入ってからも、デーモン・アルバーンのゴリラズとレコーディングで共演したり、ニック・ロウの曲を録音したりと、元気で活躍している。また、2005年には来日公演も果たしている。

 今までシングルを含む1億3000万枚以上のレコード売り上げと64枚のゴールド・ディスク、3回のグラミー賞受賞と、彼の業績には目を見張らせるものがある。
 春の陽気に誘われて、時にはこういうソフトな音楽を聞いてみるのも、いいのかもしれない。

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2016年3月 3日 (木)

 「福山ロス」という言葉が、昨年、流行語大賞の候補の一つに挙げられた。もちろんこれは、福山雅治の結婚に対して多くの女性が喪失感を覚えたことを意味する言葉だった。

 同じように、今年の1月10日に亡くなったデヴィッド・ボウイに対して、「ボウイ・ロス」という言葉を口にする人たちがいたが、自分もその中の一人だった。
 仕事は可能だし、生活も何とか送ることはできたのだが、ふとした瞬間に、ボウイのことを思い出し、ボウイの過去の曲が反芻され、ボウイのニュー・アルバムを傾聴したいという欲求が高まってくるのである。18021

 1月12日火曜日の毎日新聞でのボウイの死亡記事を読んだ。そこにはある評論家がボウイのニュー・アルバム「★」に対して、“陰々滅々の音”という全く的外れのことを言っていた。この著名な女性評論家は、いったい何を聞いてそう思ったのだろうか?自分は、この人は悲しみのあまりに、彼の音楽を正しく受け止めきれなかったのではないだろうかと思ったほどだった。

 2013年に発表された「ザ・ネクスト・ディ」は10年間のインターバルを埋めるには出来すぎの作品だったが、それはその当時のボウイというよりは、約10年の間に彼が書いてきた楽曲が並べられていた。だから、彼が何かの新しい音楽分野に挑戦したり、新しいキャラクターを作り出したというわけではなかった。

 それは、アルバムにクレジットされたミュージシャンを見てもわかるだろう。比較的新しく参加したギタリストのデヴィッド・トーンやドラマーのザッカリー・アルフォードを始め、お馴染みのトニー・レヴィンにアール・スリック、古顔のマイク・ガーソンもいた。

 ある意味、それまでのボウイの音楽観が、1枚のロック・アルバムに凝縮されていたのだ。だから、もちろん音楽的内容については期待を裏切るものではなかったけれども、ファンにとってはその内容よりも、とにかくボウイが復活したということの方が重要だったに違いない。

 そしてボウイは、2016年の1月8日、自分の誕生日に合わせて25枚目のスタジオ・アルバム「★」を発表した。(サウンドトラックやティン・マシーン時代のものを除く)51sxk8rvhsl__sl1500_
 このアルバムには創造者、表現者としてのデヴィッド・ボウイがよく表れている。ある人も言っていたけれど、ひょっとしたら70年代後半の「ベルリン三部作」の再現の第一歩を示すアルバムになったかもしれない、そんな意義のあるアルバムだった。

 先ず、ボウイは、ジャズにアプローチしている。もう少し正確に言うと、ジャズをやっているのではなくて、ジャズ・ミュージシャンを起用して、ジャズの方法論を取り入れた斬新で実験的なロック・アルバムを制作したのである。

 ジャズは、ボウイにとって音楽の原点となるものだった。彼がサックスを演奏するようになったのも、ジャズに興味を持ち、チャーリー・パーカーを崇拝していたからだった。15歳から19歳まではジャズ系のバンドでも活動を行っていたようだ。

 また、このアルバムでは、ドラマーのマーク・ジュリアナの存在が大きいと思う。彼は、超絶技巧派の奏者で、まるでサンプラーか打ち込み音楽のように、正確なビートを刻みだすことができると評価されている。

 他にも、ヒップホップからフュージョンまで幅広い分野で活躍するキーボード・プレイヤーのジェイソン・リンドナーやソロ・アルバムを何枚も出しているギタリストのベン・モンダーなどが参加していた。

 これはボウイ自身が、ヒップ・ホップのケンドリック・ラマーの音楽を聞いていたことに起因していて、ケンドリック・ラマーのようにジャンルを超えた音楽、ヒップ・ホップやソウル、ジャズ、ロックなどがミックスされたものを参考にしようとしていたからだ。

 ここからは推測が混じるので、あくまでも個人的な意見ということで理解していただきたい。

 このアルバムには7曲しか収められていない。時間にして41分13秒である。7曲の中で、先行シングル"Sue(Or In A Season Of Crime)"と"'Tis A Pity She Was A Whore"は2014年にシングルとして発表されていたが、このアルバムでは、コンパクトなエディット・バージョンになっている。

 そして残りの曲は、それ以降に書かれてアルバムに収められている。つまりこのアルバムに収められている曲は、すべてこの2年以内に書かれた新曲だったわけで、本来ならもう4,5曲作って60分ぐらいのものを発表したかったのではないだろうか。

 だからこのアルバムは、はっきりと死を自覚して、その上で制作されたアルバムだったのだ。
 たとえば1曲目の"★"には、"star"という言葉が何度も出てくるが、もちろんこれには自分の姿が投影されているに違いない。

 現在の中東情勢を暗喩で表わしているような"'Tis A Pity She Was A Whore"は、時代を反映していると言えるし、3曲目の"Lazarus"にはズバリ"Look up here, I'm in heaven"(ここを見上げるんだ、私は天国にいる)という歌詞も見られる。

 さらには"Dollar Days"には"If I never see the English evergreens, I'm running to"(もし英国庭園を二度と見ることがないのなら、走り出していくだろう)や"I'm falling down"(私は落ちていく)という言葉も見られる。

 そして極めつきは、最後の曲だろう。"I can't give everything away"(私はすべてを与えることができるというわけではない)と名付けられた涙が出るほど美しいバラード曲には、次のような歌詞が見られるのだ。

"Seeing more and feeling less
Saying no but meaning yes
This is all I ever meant
That's the message that I sent
I can't give everything"
「よく見ようとすれば感じることができなくなる
ノーということはイエスを意味する
これが私が言いたかったことのすべてだ
これが私が送ったメッセージだ
私はすべてを与えることができるわけではない」
(訳:プロフェッサー・ケイ)

 ボウイは死を自覚し、自分の誕生日にアルバム発表ができるように、アルバムの完成を急いだのだろう。だから7曲41分13秒という中途半端な形になったのだ。61wc2v45hxl__sl1200_
 しかし、その内容は、死に臨んだ人の感性とは思えないほど瑞々しく、時代に対しても自覚的で、新しい音楽的胎動を感じさせるものだった。

 本当にここから新三部作が始まったかもしれない、そんなことを予感させるアルバムでもあった。一体どこをどう聞いたら、“陰々滅々”の音楽になるのだろうか。先の音楽評論家は深くこのアルバムを聞くこともなく、とりあえず新聞発表用のコメントを用意したのだろう。

 デヴィッド・ボウイは、なぜ変化を繰り返したのか。一つは、時代の音に対して自覚的だったからだ。
 ボブ・ディランに影響されたフォーク調のデビュー・アルバムから始まり、グラム・ロックからソウル・ミュージック、ヨーロッパ流デカダンスの反映された音響音楽にパンク・ミュージックを経て、ダンサンブルなポップ・ミュージック等々、常に時代に対峙していて、その動きを見極め、消化し、取り入れていった。

 もう1つは、自分自身の自我(精神)に対して自覚的だったからだ。ボウイの母親には5人の兄妹がいたが、そのうちの3人の妹は、いわゆる統合失調症だった。
 同時に、母親と最初の夫の間に生まれた義兄のテリーも精神病院に長く入院していて、母親自身もやがて精神に異常をきたすようになっていった。

 テリーとボウイは、非常に仲が良くて、7歳年上のテリーは少年時代のボウイを溺愛していたと言われている。ただ、テリーとの仲は、ボウイがメジャーになるにつれて、だんだん疎遠になっていった。

 ボウイは、常に神経症的な不安を抱えていたのではないだろうか。自分もテリーや母親のように、やがては自分が誰なのかわからなくなり、病院に収容されて世の中から隔離されてしまうのではないかという不安である。

 「僕は精神分析医に行ったことはない。両親や兄や姉はみんな行ったけど、その結果、彼らはみんなもっと悪くなってしまった。だから僕は医者に行かない。その代りに、歌を書いて問題を解消しているんだと思う」
 のちに、ボウイはこう述べているのだが、彼がカメレオンのように好んで音楽的変化を遂げていったのも、停滞は自己崩壊の始まりだと、捉えていたのではないだろうか。

 ちなみに義兄のテリーは、1985年、ボウイがアルバム「トゥナイト」発表直後に、鉄道自殺で亡くなっている。ある意味、ボウイの創造意欲の源泉の一つだったテリーだったが、ボウイは葬儀には顔を出さなかったと言われている。

 ただ逆説的に言えば、ボウイには優れた音楽的素養や芸術的な感性が確かに備わっていたことは間違いないだろうが、それはある意味、平凡と非凡、もっと言えば正常と狂気の境界線上にあったのではないだろうか。そういう意味で、彼は母親や自分の家系に自覚的だったことが、功を奏したに違いない。

 とにかく、彼は生と死を、生涯を通じて演出していった唯一のミュージシャンだった。自分は、彼が本当にアルバム発表の2日後に亡くなったとは思えないし、信じていない。このことはやがては都市伝説につながるのではないかと思っているのだが、もし本当に2日後に亡くなったとしたら、やはりボウイは生まれながらにして特異な人間だったのだ。“神が愛でられし子”とは、まさに彼のことを言うのだろう。

 ボウイは、最初のアルバムが売れなかったときに、ミュージシャンをやめてチベット仏教の僧侶になろうと思っていたようだが、仏教でいう“諸行無常”、“輪廻転生”を亡くなるまで信じていたような気がする。Ofinalphotofacebook
 そうでないと、今年の1月8日の誕生日のこの笑顔の意味が理解できないのだ。この2日後に本当に亡くなったのだろうか。Davidbowie_1
 ボウイは、また生まれ変わって、異星の地でスターマンを演じていくに違いない。彼自身もそれを信じていたからこそ、こういう表情を出せたのだろう。そんな彼の今までのところ最後の贈り物が、「★」だったのである。

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