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2016年4月

2016年4月23日 (土)

追悼:プリンス

 新聞やTVニュース等で報道されていたので、もうすでにご存じのはず。プリンスが亡くなった。57歳だったという。

 いまだに信じられないのだが、インフルエンザにかかっていたという話や家の中のエレベーターの中で倒れていたという話もある。亡くなる6日目には薬物過剰摂取、いわゆるドラッグのやり過ぎで倒れたという話もあった。

 情報が錯綜しているようだが、亡くなったという事実は変わらない。本当に残念でならないし、心からお悔やみ申し上げたい。6ddb418061942c53352d357fa3de1e21300

 自分が初めてプリンスを知ったのは、大学生の時だった。1984年のアルバム「パープル・レイン」は、全世界で1500万枚以上も売れた。

 同名の映画も見に行ったのだが、彼の自伝的な内容の映画で、ストーリー展開が予想できて、そんなに面白いものではなかった。映画よりもアルバムを聞いていた方が満足できるのではないだろうか。

 それ以降のプリンスは、出すアルバム出すアルバム、すべてが話題になり、大ヒットした。80年代はマイケル・ジャクソンとマドンナの時代といわtれていたが、決してその2人だけのものではなくて、プリンスもまた時代の最先端を走っていたのだ。

 ただ、そんな天才的ミュージシャンだった彼もまた、90年代からは話題にならなくなった。これはプリンスのせいではなくて、時代が新しいサウンドやムーヴメントを求めていて、それにあったバンドやミュージシャンの方に焦点が当たっていったからだろう。

 このことは昨年のこのブログでも述べていて、90年代や2000年代以降もプリンスのアルバムは、それなりに商業的成功は収めているのである。

 最近のプリンスは、80年代を思わせるかのように、創作意欲が活発化していて、昨年は「ヒット&ラン、フェーズ・ワン」を発表して、話題になった。

 その続編「ヒット&ラン、フェーズ・トゥー」も日本では5月下旬に発売予定である。前作は11曲、約38分とボリュームに乏しかったが、今回は12曲、60分近くもあるようだ。

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 追悼盤になってしまったが、ひょっとしたら予定よりも早く店頭に並ぶかもしれない。

 再び彼の黄金時代がやってきたのに、かえすがえすも残念である。彼のラスト・アルバムを早く手に入れて、最高のミュージシャンのことを偲びたいと思っている。

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2016年4月22日 (金)

3人のアンディ(1)

 「3人のトム」という3部作が終わったばかりなのに、次は「3人のアンディ」である。以前も「3人のニール」や「3人のスティーヴ(ン)」などがあったが、どうもこの「3人の~」というシリーズは続くようだ。自分でもなんという安直な考えなのだろうかと、呆れてしまった。よほどネタがないのだろう。

 それで第1回目の“アンディ”は、アメリカのミュージック・ビジネス界の大物だったアンディ・ウィリアムスである。日本の演歌界でいえば五木ひろし、歌謡界でいえば布施明あるいは堺正章だろうか、適切な例が出てこないので、若い人にはよく理解できないかもしれない。でも、若い人はこんなブログは見ないだろうから、まあ、いいだろう。

 アンディ・ウィリアムスは、1930年12月3日にアメリカのアイオワ州のウォール・レイクというところに生まれた。自分はアイオワ州自体が田舎というイメージを持っているのだが、ウォール・レイクの人口を調べたら、2014年の国勢調査では803人という数字が出ていた。これはもう村落に近い数字のような気がする。

 それでもウォール・レイクは、アンディ・ウィリアムスの出身地として有名なようで、村おこしのようなことも行われているようだ。いずれにしてもかなりの田舎なのが分かると思う。

 アンディは、音楽的に恵まれた家庭に育ち、本人を含むボブ、ダン、ディックの4兄弟でウィリアムス・ブラザーズというコーラス・グループを結成して活動していた。1944年にはビング・クロスビーのシングル"Swinging on a Star"でも歌っている。

 1953年にグループが解散した後は、ソロとして独立し、1955年には当時の人気テレビ番組である「ウッディ・アレン・トゥナイト・ショー」に出演して、一躍人気者になり、レコード契約を得ている。ここからが彼の華やかなキャリアがスタートしたのである。4728_2
 1961年には当時のメジャー・レーベルであるCBSソニーに移籍して、翌年からは「アンディ・ウィリアムス・ショー」のホスト役で全国的に名前が知れ渡るようになった。彼はこの番組で9年間に渡って自ら歌を歌いながら、新しいシンガーやミュージシャンを発掘していった。ちょうど自分が発掘されたように…

 彼の特長は、典型的なアメリカ人としての親しみやすさだろう。彼の素朴さや優しさなどが、ブラウン管を通して全米に浸透していったように思える。
 だから、60年代や70年代のロック・ミュージック全盛時代においても彼は忘れ去られることもなく、コンスタントにヒット・シングルを発表できたのだろう。

 アンディ・ウィリアムスといえば、1962年にミリオン・セラーを記録した"Moon River"が思い出される。映画「ティファニーで朝食を」の主題歌で、映画ではオードリー・ヘップバーンが歌っていた。

 作曲はヘンリー・マンシーニ、作詞はジョニー・マーサーで、1961年度のアカデミー主題歌賞を受賞した。また、グラミー賞では最優秀レコード賞、最優秀楽曲賞、最優秀編曲賞の3部門を受賞している。

 ヘップバーンのイメージと重なってか、都会的でお洒落な雰囲気を持つ曲だった。映画の中ではヘップバーン自身が歌っているが、やはり歌を本業にしている人には及ばないだろう。アンディ自身は、この曲を「アンディ・ウィリアムス・ショー」の中で、毎回必ず歌っていたらしい。それほど彼にとって愛着のある歌だったようだ。

 自分が彼の名前を知ったのは、映画音楽の主題歌あるいは挿入歌を聞いてからだった。1968年の"Love Theme from Romeo and Juliet"はニーノ・ロータのペンによるもので、映画では演奏だけだったが、1969年にラリー・クジックとエディ・スナイダーという人が歌詞をつけたものを、アンディは歌っていた。

 また、同じニーノ・ロータ作曲の"Love Theme from Godfather"も名曲として記憶している。フランシス・フォード・コッポラ監督のこの映画は、ニューヨーク・マフィアの抗争とマフィアのボスを父親に持つ家族愛の両方を見事に融合し映像化したもので、事実に基づいた衝撃的な内容とそれを表現する映像美は、今でも忘れられない。

 個人的にはこの「ゴッドファーザー3部作」と「スター・ウォーズ・シリーズ」はアメリカ映画の頂点を極めた映画だと思っていて、後者はSFながらも両者とも、シリーズを貫く家族愛や父と子の物語、善と悪のせめぎ合い等、表面的では語られない重要な意義が込められていると考えているのだが、それらはまた次の機会に譲りたいと思う。次の機会があればの話だが…

 アンディ・ウィリアムスといえば、映画音楽の主題歌を歌っていたという印象が強くて、上記以外にも1962年の"Days of Wine and Roses(酒とバラの日々)"、1963年の"Charade"、同じく同年の"More"、70年代に入って1971年の"(Where Do I Begin) Love Story"等々、挙げればきりがないほどだが、やはりフランシス・レイ作曲の"(Where Do I Begin) Love Story"は忘れられないだろう。

 現代版“ロミオとジュリエット”のような悲恋を描いたもので、家柄が違う男女が恋におち、女性が白血病で亡くなるというストーリーだった。
 この曲の歌詞はカール・シグマンという人が書いており、アンディが歌ったバージョンは、映画のサウンドトラック盤よりも売れたと言われている。

 もちろんアンディは映画のテーマ・ソングばかりを歌っているわけではなく、フランク・シナトラが歌った"My Way"を始め、ビートルズの"Yesterday"やロバータ・フラックの"Killing Me Softly With His Song"を"Her Song"に変えて歌っている。

 元々歌が上手なのだから、何を歌わせても素晴らしい。しかも1979年には、"(Where Do I Begin) Love Story"のディスコ・バアージョンまで歌っているのだから、時流にも気を配っていた。やはりプロフェッショナルとは、こういう人のことを言うのだろう。大したものである。

 そんな彼の曲を聞きたいのなら、やはりベスト盤が一番だろう。何でもいいと思うのだが、自分はCBSソニー時代の名曲が収められたアルバム「アンディ・ウィリアムス愛を歌う」を持っていて、とりあえずは60年代、70年代の彼の代表曲を聞くことができる。全16曲と曲数も多く、お得感もあった。221005318
 ところで、アンディは親日家のようで、2012年に84歳で亡くなるまで、合計7回来日公演を行っていて、1991年にはNHKの紅白歌合戦にも出演している。

 彼は2012年に膀胱がんで亡くなっているが、2011年まで現役歌手としてテレビや劇場で歌っていた。
 また、彼の亡骸は火葬に付され、その灰は自宅のあったミズーリ州ブランソンに散布された。その地には彼の曲名から取られた"Moon River Theater"という劇場が生前に建てられている。

 とにかく、いまだに忘れられない歌手のひとりである。もちろん歌が上手いのは言うまでもないが、その歌を生かせるだけの表現力やテクニックを伴っていた。
 そして、それだけではなく、アイオワ出身という素朴さ、純粋さを生涯にわたって持ち続けていた彼の人間性を忘れてはならないと思う。Images_2

 彼が多くのヒット曲を持つことができたのも、彼のもとに曲が持ち込まれたからであり、アンディに歌ってほしかったからだろう。それは取りも直さず、彼の人間性ではないかと思っているし、それを育んだアイオワの風土ではないないかと考えているのである。

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2016年4月15日 (金)

ホージア

 昨年は、この人のアルバムを、携帯音楽プレイヤーに入れてよく聞いたものだった。他の人のアルバムは、数ヶ月でニュー・アルバムに交代したが、この人のアルバムだけは、ずっとヘヴィ・ローテーションだった。

 個人的には、サム・スミスのアルバムよりもよく聞いたのではないかと思っているし、彼と同等か、それ以上の評価が与えられてもおかしくないと思っている。

 アメリカではグラミー賞にもノミネートされていたし、それなりの評価を伴っていると思うのだが、如何せん、ここ日本では、彼についての情報量が少ないせいか、なかなか評判にならない気がする。

 ホージアは、アイルランド生まれの26歳。本名は、アンドリュー・ホージア=バーンというらしい。父親が地方のブルーズ・ミュージシャンだったせいか、幼いころから音楽に親しみ、高校卒業後は、ダブリンにあるトリニティ・カレッジで音楽を専攻した。

 ただ、自分の目指す音楽と合わなかったようで、1年生の途中で退学している。在学中はオーケストラに所属していたり、退学後も2012年までは合唱団で活躍するなど、音楽の素地は培っていたようだった。

 その後、彼は2013年に5曲入りのEPを制作したが、その中の1曲"Take Me to the Church"がインターネットに流されると大ヒットし、iTunesでは1位を、アイルランドのシングル・チャートでは2位を記録した。2

 これで自信を得たホージアは、アメリカ進出を試み、数多くのフェスやクラブでのライヴ活動、テレビ出演をこなしながら、"Take Me to the Church"を始めとする自作曲を歌っていったのである。人気の出るきっかけとなったのがインターネットというのは、いかにも21世紀のミュージシャンらしい話だ。

 2014年に、13曲入りのスタジオ・アルバムが発表され、その冒頭に"Take Me to the Church"が収められていた。
 ホージアの声質は、低中音部がエルトン・ジョンのような深みのあるもので、それによく伸びる高音部が付属している。合唱団に所属してノルウェーやオランダをまわっていただけのことはあって、歌に表現力を含んでいる。

 アイルランドのシンガー・ソングライターといえば、ダミアン・ライスが有名だが、彼は正統派というか、ギター一本での弾き語りなどが主流で、全体的に静謐な印象が強い。
 一方、ホージアの方はオーセンティックな手法だけでなく、ロックやR&B、あるいはゴスペルの影響を強く受けた音楽などをやっていて、かなり音数が多いのだ。

 ホージア自身もギターにピアノ、シンセサイザー、曲によってはベース・ギターまで演奏していて、マルチな才能を発揮している。アルバムのプロデュースも共同で行っていた。まさに音楽的才能に満ち溢れたミュージシャンなのである。

 "Take Me to the Church"はピアノを基調とした力強いバラードだが、2曲目の"Angel of Small Death & The Codeine Scene"やその次の"Jackie And Wilson"などは、ボーカルがメインの力強いロック調の曲になっている。バック・ボーカルにゴスペルの風味が加えられていて曲に広がりが感じられる。3

 ホージアとエルトン・ジョンの声は似ていると書いたが、身長はかなり差があって、ホージアの方は190㎝以上の長身だ。また、写真を見ればわかると思うが、長髪でフサフサしている。エルトン・ジョンも若いときはフサフサだったけれど、だんだん減少していった。ホージアもやがてはそうなるのだろうか。
 また、アコースティックからロック、R&Bまで幅広い音楽性もホージアとエルトン・ジョンには共通しているように思う。

 ちなみに"Take Me to the Church"は、ホモセクシャルに対するカソリック教会の偏見についてホージアの不満を述べたもので、そういう点でも、エルトン・ジョンと共通しているかもしれない。

 「母は教会に育てられたんだけど、ものすごくそれに反対していた。その教理に関して僕ははっきりした意見を持っている。アイルランドでは、権力が乱用され、女性や子供たちはひどい虐待を受けてきた。あれは有害な組織なんだ。僕は子供の頃に影響は受けなかったけど、成長するにつれて、その偽善、女性の扱い方、そして同性愛嫌悪に気付いてしまった」とホージアは雑誌のインタビューに応えている。

 アイルランドにおけるカソリック教会に対する非難は、シンニード・オコナーも同じようなことを述べていて、体制側として民衆を抑圧してきたその姿勢には、多くのミュージシャンが反対の姿勢を示している。

 自分は詳しくないのでよくわからないのだが、プロテスタントが生まれてきたのも、カソリック教会の堕落からだったはず。昔も今も何らかの問題を抱えていることは否定できない事実のようだ。
 なお、この曲は2015年の第57回グラミー賞ソング・オブ・ジ・イヤーにノミネートされていた。Photo

 このアルバムの特徴は、詞と曲のバランスが良い点だろう。バランスというよりも、その両方のレベルが非常に高いところで実に巧みに調和されているところだと思う。

 "Take Me to the Church"だけでなく、セカンド・シングルの"From Eden"では、人間の原罪意識や罪と罰、現代社会における孤独感など、どのようにも受け止められる暗喩が散りばめられていて、読み手のその時の状態によって、幾重にも解釈できる。

 この特徴は、他の曲にも表れていて、こういう技術的な曲作りの高さも、多くの人の注目を集める理由になっているのだろう。

 曲調もアコースティック主体の"In A week"、"Like Real People Go"やバラード調の"Work Song"など、バラエティ豊かだし、彼のボーカルを最大限に生かせるような抑制のきいたアレンジもまた見事である。

 この辺は、父親の影響もあるかもしれない。子どもの頃からアメリカのブルーズのレコードを聞いて育ち、特にデルタ・ブルーズ、チェス・レコード、モータウンなどの音楽を始め、ビリー・ホリディ、トム・ウェイツなどのミュージシャンなどもお気に入りだったようだ。
 だから、このアルバムにもそういうレコードやミュージシャンの影響が反映されているのだろう。

 まだまだ26歳と若いし、これからのポピュラー・ミュージック界をリードしていく逸材の一人である。サム・スミスやアデルを始め、イギリスやアイルランドから世界的有名ミュージシャンが陸続と輩出されているが、ホージアもまたその中の一人であることは言うまでもないだろう。

 ただ残念なのは、イマイチ日本では人気が出ていないことだ。せめてこのアルバムだけでもいいから、国内盤が発売されてほしいと願っている。

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2016年4月 8日 (金)

トム・ペティのソロ・アルバム

 実は「3人のトム」というお題で、3人目に考えていたのはトム・ペティだった。でもそれではあまりにも安直すぎると思ったので、同じアメリカン・ロックの範疇にいるトム・ヤンスに代えたのである。

 しかもトム・ヤンスとトム・ウェイツは、それなりの関連もあったのでちょうど接続も良かった。トム・ウェイツとトム・ペティではそんなにディープな関係が見当たらないのだ。

 というわけで、トム・ペティである。彼ももう今年で66歳になる。そういえばデビューしたのが1970年代の後半だったから、それくらいの年齢になってもおかしくはないはずだ。

 あくまでも個人的な感想なのだが、彼のデビュー時とパンク/ニューウェイヴ時代とが重なっていたような気がしていて、だから彼のこともニューウェイヴ期のミュージシャンとばっかり思っていた。もちろん後で間違っていたことに気がついたのだが…

 彼はトム・ペティ&ザ・ハートブレイカーズ名義で、1976年にデビュー・アルバムを発表している。発表当時はあまり売れなかったようだが、イギリスで人気に火がついて、本国アメリカでも認知されるようになった。
 アルバムは、シェルター・レコードから発売されているから、アメリカン・ロックの中でもサザン・ロックの影響が強く受けていたようだ。

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 シェルター・レコードといえば、レオン・ラッセルやJ.J.ケイルなどのミュージシャンで有名なレーベルだった。トム・ペティは、フロリダ州出身だったからやはりサザン・テイストの強いレーベルを選んだのだろう。

 トムがロックン・ロールに興味を持ったのは、10歳の頃に、あのエルヴィス・プレスリーに出会ったからだと言われている。直接エルヴィスに触れることで、ロックン・ロールの魅力に取りつかれ、やがてそれで生計をたてるようになった。人生、何が切っ掛けで変わるかわからないものである。

 そんなトムは、今でも活躍中の現役ミュージシャンなのだが、やはり一番輝いていたのは、80年代だろう。出すアルバム、出すアルバム、ほとんどがプラチナやダブル・プラチナ・アルバムに輝き、その余勢をかって、トラヴェリング・ウィルベリーズという覆面バンドを結成して、さらに有名になった。

 何しろこのバンドには、ボブ・ディランやジョージ・ハリソン、ロイ・オービソンなどがいて、ポップ・ミュージックのマエストロ、ジェフ・リンも一枚噛んでいた。これで売れない方がおかしいだろう。

 彼が初めてのソロ・アルバムを発表したのは、1989年だった。「フル・ムーン・フィーヴァー」と名付けられたこのアルバムは、全米3位まで上昇し、500万枚以上売れている。彼のキャリアにおいては、まさにタイムリーなアルバムだったようだ。715m9yciral__sl1101_
 曲調は、いずれもナチュラルであまりハードな印象は受けなかった。前年のトラヴェリング・ウィルベリーズの成功のせいか、余裕を持ってレコーディングしたせいだろう。
 また、ジェフ・リンもプロデューサーとしてクレジットされているし、アルバム中ではベース・ギターやギター、キーボードも担当していた。

 さらにジョージ・ハリソンやロイ・オービソンも参加していた。まだトラヴェリング・ウィルベリーズの余燼はくすぶっていたようだ。
 ジョージは2曲目の"I Won't Back Down"にアコーステック・ギターとバック・ボーカルで参加し、ロイの方は、最後の曲"Zombie Zoo"にバック・ボーカルに参加していた。ロイはこのアルバム参加後に亡くなっており、残念ながら、このアルバムの完成型を聞くことはできなかった。

 もちろんハートブレイカーズのギタリスト、マイク・キャンベルやキーボーディストのベンモント・テンチも参加していて、しっかりと脇を固めている。

 全12曲のうち、トムひとりで作った曲は3曲しかなく、他はジェフ・リンやマイク・キャンベルとの共作だった。また、ザ・バーズの"Feel A Whole Lot Better"というややマイナーな選曲もあり、なかなかバラエティに富んでいた。
 ちなみにこの曲は、1965年のセカンド・シングル"All I Really Want"とカップリングされていた曲で、ジーン・クラークの手によるものだった。71qboqsbszl__sl1228_

 アルバムの最初は、ミディアム・テンポの曲で占められていて穏やかな感じなのだが、5曲目の"Runnin' Down A Dream"から急に元気になり、一気に最後の曲まで聞かせてくれる。このアルバムからは7曲がシングルカットされて、そのうち4曲がビルボードの100位以内に入っている。

 90年代に入ってから、トムの名前もあまり聞かなくなっていった。そのせいかしばらく彼の音楽から遠ざかっていたのだが、急に聞きたくなって2006年に発表された彼の3枚目のソロ・アルバムを聞いてみた。ところがこれが結構イケルのである。

 このアルバムは、「フル・ムーン・フィーヴァー」と違っていて、全曲トムひとりで作っている。また、参加ミュージシャンも、トムと、相変わらずのジェフ・リン、盟友マイク・キャンベルの3人のみで、まさにソロ・アルバムといった感じがした。

 ドラムもトムが叩いているし、曲によってはベース・ギターやピアノも演奏している。全体が必要最小限の人手をかけて作ったハンド・メイドという感じがして、そのせいかトムの素地がそのまま表れているような気がした。
 だから、個人的にはこの3枚目のアルバム「ハイウェイ・コンパニオン」の方が気に入っているのだ。41x1muwuyrl
 どの曲も捨てがたい印象を残してくれるが、特に冒頭の3曲のインパクトは素晴らしいものがある。
 1曲目の"Saving Grace"はアコースティック・ギターのカッティングから始まり、徐々に楽器が追加されていくアレンジが素晴らしいし、2曲目の"Square One"は、アコースティック・ギターの弾き語りだ。映画「エリザベス・タウン」のサウンドトラックとしても使用されたバラード曲でもある。

 3曲目の"Flirting With Time"はミディアム・テンポのロック・ナンバーだが、彼のトレードマークでもあるリッケンバッカーの12弦ギターが使用されていて、ハードな印象は薄い。この曲と"Saving Grace"はシングル・カットされたが、前者はチャート・インせず、後者も100位という結果だった。

 個人的には納得できないのだが、“流行”という点から見るならば、トムの神通力も通じなかったのかもしれない。しかし、曲自体の魅力は間違いなくその素晴らしさを秘めている。なお、"Square One"は2006年のグラミー賞の映画部門にノミネートされた。

 もちろんこれら以外にも、ニール・ヤング風のアコースティック色を前面に出した"Turn This Card Around"、"This Old Town"、ゆったりとした気持ちにさせられる"Night Driver"、思わず聞き惚れてしまうバラードの"Damaged By Love"など佳曲が多い。51ybb1wi2jl
 基本的にアコースティック・ギターで作られているようで、肩の凝らない気安さというか、いい意味でのリラックス感があるのだ。
 そのせいか、シングルは振るわなかったものの、アルバム自体はビルボードで4位まで上昇している。久しぶりの彼の面目躍如といった観があるアルバムだったと思う。

 トム・ペティに意見するつもりは全くないのだけれども、自身のソロ・アルバムでは、こういうアコースティックというかアーシーな作品をもっと発表してほしい。そしてハートブレイカーズ名義ではロック色やメッセージ性のあるアルバムを出してほしいと願っている。

 まだまだ66歳。じゅうぶん彼の活躍すべき場所や意義は見出されていると思うし、むしろこんな時代だからこそ、彼の存在意義はますます重要になってくると思うのである。

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2016年4月 1日 (金)

3人のトム(3)

 さて、3人目のトムは、トム・ヴァ―ラインでもトム・シュルツでもなく、もっと知名度の低いトム・ヤンスである。だんだんマニアックな選出になってしまった。言うに事欠いて、アメリカのシンガー・ソングライターのトム・ヤンスとは、一体どうしたのだろうか。自分でも考えてしまった。

 ただ、知名度は低いと言っても、当時のCBSソニーから国内盤も発売されるほどだったから、知る人ぞ知るといっていいミュージシャンだったと思っている。決して誰も知らないミュージシャンではないのである。Photo

 トムは、1948年にアメリカの首都ワシントンで生まれた。生きていれば、今年で68歳になっていたはずだ。
 祖母がジャズ・ミュージシャンで、母親はスペイン出身の陽気な性格の女性だったようである。両親も音楽好きの一家に育ったせいか、自然と音楽に親しみを覚えたようだった。

 子どもの頃、一家は西海岸のサン・ホセに引っ越して牧場を経営するようになった。温暖な気候や広大な土地で育ったせいか、トム自身も伸び伸びと育ち、カントリー・ミュージックからブルーズやジャズ、フラメンコ(母親のせいか?)、ロック・ミュージックと、様々な音楽を吸収していった。

 中学生の頃からバンドを結成して歌い始め、カリフォルニア大学ディヴィス校に入学するものの、自身の音楽的キャリアを追及するために退学してしまった。当時は、フラワー・ムーヴメントの時代だったから、そういうことは普通のことだったのかもしれない。

 20歳の頃、サンフランシスコのコーヒー・ショップやクラブで歌っていた時に、ジョーン・バエズと出会う。当時のジョーン・バエズといえば単なるシンガーではなく、オピニオン・リーダーとしても影響力の強かった人だ。日本でいえば、加藤登紀子のような人だったのではないだろうか。

 そんなジョーン・バエズには妹がいて、姉と同じようにシンガー・ソングライターだった。ただ、すでに結婚しており、ミミ・ファリーニャと名乗り、夫と二人でフォーク・デュオとして活動していた。ただ、夫のリチャードがオートバイ事故ですでに亡くなっていたため、新しいパートナーとして、トムと一緒に活動を始めたのである。

 ここからトムの運命が変わってきたようで、ミミと2入でキャット・スティーヴンスやジェイムス・テイラーの前座として西海岸一帯をツワーして回った。
 ライヴ活動自体は好評だったようで、その結果、1971年にA&Mレコードから「テイクン・ハート」というアルバムを発表している。しかし、商業的には不発だったようで、そのせいかミミとのデュオも解消してしまった。

 トムは、クリス・クリストファーソンのアドバイスに従ってナッシュビルに赴き、ソングライターとして活動を始めた。その時に書いた"Loving Arms"はカントリー・シンガーのドビー・グレイやあのエルヴィス・プレスリーも取り上げている。
 そのおかげで1974年には、その曲を収録した自身のソロ・アルバム「トム・ヤンス」をA&Mレコードから発表したが、これまた売れなかったようで、トムは結局、ロサンゼルスに戻ってしまった。

 それから約1年後、トムはA&Mから当時のコロンビア・レコードに移籍して、セカンド・アルバムを発表した。それが彼の最高傑作ともいえる「子どもの目」だった。
 ただ楽曲的に見て最高傑作というよりも、そのアルバムに参加しているミュージシャンのレベルが当時のロサンゼルスでは最高だったという点で、評価できると思っている。

 それらのミュージシャンというのは、基本的にリトル・フィートの面々だった。まず、エグゼクティヴ・プロデューサーがローウェル・ジョージで、アコースティック・ギターも担当している。ピアノはビル・ペインだし、後にメンバーになったフレッド・タケットもエレクトリック・ギターを担当していた。

 ただ面白いことに、スライド・ギターはローウェル・ジョージが弾いておらず、なぜかデヴィッド・リンドレーが演奏している。また、スタジオ・ミュージシャンで有名だったジェシ・エド・ディヴィスやジェフ・ポーカロ、ジム・ケルトナー、スティーリー・ダンとのセッションでも有名なチャック・レイニーなどの実力ミュージシャンも加わっていた。Photo_2
 楽曲的に見てみると、シンガー・ソングライター出身のトムらしく、アコースティック・ギターが基調になって作られている。

 1曲目の"Gotta Move"はローウェル・ジョージとの共作で、素朴なカントリー・タッチの曲調に徐々にピアノやオルガンが絡んでくるところが魅力的だ。2曲目の"Once Before I Die"は、1曲目をもっとアコースティックにした感じだ。

 ただ3曲目になると、何となくリトル・フィートっぽくなってくる。"Where Did All My Good Friends Go?"は、R&Bのようなファンキーさが前面に出されていて、今でいうクラブで踊れるような雰囲気を持っている。バックのスライド・ギターはデヴィッド・リンドレーだろう。

 "Inside of You"はバラードで、トムの声質は何となく亡くなったジョン・デンヴァーに似ているような気がした。でもジョンはこんな歌は歌わないだろう。トムによるピアノの弾き語りで、3分少々と短い曲になっている。

 続く"Struggle in Darkness"もリトル・フィートっぽい曲調で、ミディアム・スローな曲調ながらもムーグ・シンセサイザーで味付けされていて、印象に残る。女声コーラスがブラックな雰囲気をより一層高めてくれる曲でもある。

 後半の最初は"Out of Hand"という曲で、これはもろカントリー・ソングである。自分はそんなにカントリーは好きでないので、すぐにパスした。"The Lonesome Way Back When"もカントリー色の出たバラードで、春の日にはふさわしい穏やかな曲だ。こういう曲なら自分の好みの範疇に入るのだが…

 8曲目もピアノを中心としたミディアム・バラードだった。"Lonely Brother"というタイトルだが、結構いい曲で、もっとアレンジをシンプルにしたら、映画やテレビの挿入曲として使用されたかもしれない。5分49秒もあり、アルバムの中で一番長い曲だった。

 "Directions And Connections"もローウェル・ジョージやビル・ペインの協力なくしては生まれてこなかった曲だろう。まさにトム・ヤンスmeetsリトル・フィートだ。ローウェル・ジョージの代わりにトムが歌っていると思えば、理解しやすいはずだ。

 最後の曲は、アルバム・タイトルと同じ"The Eyes of An Only Child"で、スライド・ギターがフィーチャーされたバラードだ。アルバムの最後を飾るにはふさわしい曲だろう。前の曲のエンディングを短くして、この曲をもっと長くするとよかったように思えてならないのだが、どうだろうか。

 トムにとって不幸なことに、このアルバムもまた売れなかった。たぶん彼の豊潤な音楽性が逆に災いしたのだろう。ロックもカントリーもR&Bも一緒にしたのが間違いで、もう少し方向性を絞り切れていたら、もっと売れたのではないだろうかと思っている。

 今となってはローウェル・ジョージの起用が良かったのか悪かったのか、微妙なところだと思う。決して悪いアルバムでは何のだが、やはり売れないアルバムというのは、それだけの理由があるのである。

 "Out of Hand"は、ゲイリー・スチュワートというカントリー・シンガーが歌って、1975年にカントリーのチャートで6位まで上昇した。"Struggle in Darkness"もFMラジオではよくかかっていたという記録があるが、残念ながらヒットするまでは至っていない。

 失意のトムは、この後ヨーロッパに活動の舞台を求めたものの、残念ながらメジャーにはなれなかった。1983年にオートバイ事故で腎臓を傷めたトムは、翌年ドラッグの過剰摂取で亡くなった。享年36歳という若さだった。

 トム・ウェイツは、1992年のアルバム「ボーン・マシーン」で、トム・ヤンスに捧げた"Whistle Down the Wind "という曲を収めている。ウェイツは、「これは他の友人のために作った歌なんだけれども、トム・ヤンスにふさわしいと思って入れたんだ」と述べている。

 1992年に発売された国内盤のライナー・ノーツには、1982年までの彼の消息しか記されておらず、(1992年当時では)消息不明となっていた。本当はその時すでに鬼籍に入っていたわけで、だから自分の死後に、太平洋の向こう側の異国で、自分のアルバムが発表されたことを知る由もなかった。何となく人生のアイロニーを感じてしまう話である。

 今ではインターネットの発達のおかげで、容易に彼のキャリアを知ることができる。わずか10年余りしかたっていないのに、世の中は便利になったが、プライバシーまで晒されることになってしまった。むしろ知らなかった方が、あるいは神秘のベールに包まれていた方がいいようなこともあると思うのだが、どうだろうか。

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