« 2016年4月 | トップページ | 2016年6月 »

2016年5月

2016年5月29日 (日)

ネヴィル・ブラザーズ

 動物行動学者の竹内久美子さんの話によると、先進国よりも発展途上国や紛争地域の方が子だくさんの家庭が多いということだ。
 つまりそういう地域では、飢饉や戦争、政情不安による治安の悪さ等で、いつ自分の家系(遺伝子)が絶えてしまうかわからないからで、だから子どもをたくさん作って、遺伝子の生き残る可能性を高めているそうだ。

 もちろん、これは無意識のうちに行われ、本能(遺伝子)のなせる業らしいのだが、日本でも同じような傾向が見られると思う。
 今でこそ少子高齢化などと言われているが、昭和の時代では普通に子だくさんの家庭があって、特に医療の発達していない田舎に行くほど、子どもがたくさんいたような気がする。

 それで今回も「家族で行う音楽ビジネス」“ソウル・ミュージック編”を行うのだが、やはりアフリカ系アメリカ人は、アングロ・サクソン系アメリカ人に比べて抑圧されてきた歴史があるせいか、1930年代や40年代では、子だくさんの家庭が多かったのではないだろうか。個人的な偏見かもしれないけれど…

 本題に入って、前回はアイズレー・ブラザーズだったので、今回も同じ“ブラザーズ”つながりで、ネヴィル・ブラザーズについて簡単に記したいと思う。ちなみにアイズレーの方は5人+1人だったけど、ネヴィル・ブラザーズの方は、4人兄弟である。Nevillebrothers

 彼らは、アメリカのルイジアナ州ニューオーリンズ出身だ。自分はまさに“ブラック・ミュージック”の聖地と思っていたのだが、実際は、一時、フランス領だったせいか、ヨーロッパ文化の影響もあって、ブラック・ミュージック一辺倒ではないらしい。だから、様々な音楽的要素がミックスされた国際色豊かな音楽性が見られるのだろう。

 彼らはそういう音楽的な環境から影響も受けたのだろうが、もちろんそれぞれが才能豊かなミュージシャンでもある。長兄のアートは18歳の頃からレコーディングやライヴ演奏を行っていたし、次男のアーロンも19歳の時には全米R&Bチャートに自作曲を送り込んでいる。

 三男チャールズはサックス・プレイヤーで、地元のクラブで演奏したり、ニューヨークでジョーイ・ディー&ザ・スターライツなどと共演をしている。

 その後、チャールズは、アート、アーロン、末弟シリルとともに、ネヴィル・サウンズというバンドを60年代半ばに結成するが、アーロンが1967年に"Tell It Like It Is"というシングルをヒットさせたためにソロ活動で忙しくなり、このバンドは1968年に解散してしまった。
 ちなみに"Tell It Like It Is"は、R&Bチャートでは5週間首位をキープしているし、全米シングル・チャートでは2位まで上昇している。

 一方で長兄アートは、ネヴィル・サウンズのリズム・セクションとともにミーターズを結成して、同郷のアラン・トゥーサンとともにレコーディングやライヴ活動を行うようになった。その時に、Dr.ジョンやロバート・パーマーのバック・バンドとしても活動していたようだ。

 1975年にはシリルも加わって、ローリング・ストーンズの全米ツアーのオープニング・アクトを務めているし、翌年にはアーロンとチャールズも加入した。ここからミーターズをネヴィル・ブラザーズと名前を変えて活動を開始するようになったのである。

 ミーターズ名義では4枚の全米ヒット・アルバムを出していたが、1978年に発表したアルバム「ザ・ネヴィル・ブラザーズ」は、それらに比べれば評価も低く、商業的な成果には結びつかなかった。
 その後、ベット・ミドラーが彼らをA&Mレコードに推薦してバックアップを行ったが、これも成功に結びつくことはなかった。

 彼らが有名になったのは、1989年にアーロンとリンダ・ロンシュタットのデュエット曲"Don't Know Much"が全米2位の大ヒットになったことが切っ掛けになり、同年発表された「イエロー・ムーン」の大成功に結びついたときからだった。71xxislrcyl__sl1057_
 個人的には、"Don't Know Much"の大成功がなくてもこのアルバムは売れたと思うのだが、確かにタイミングが良かったのは間違いないだろう。運を味方につけるとは、こういうことを言うのだろうか。

 とにかく、このアルバムは名盤である。サム・クックやボブ・ディランのカバーを含む楽曲自体もよいが、アメリカの公民権運動がテーマになっているせいか、まるでトータル・アルバムのような気がしてならない。また、ブライアン・イーノのゲスト参加やダニエル・ラノアのプロデュースも、このアルバムの評価を高める結果につながったようだ。

 以前にもこのブログで紹介したが、このアルバムは全米アルバム・チャートで半年間以上もランクインしていて、彼らの代表作でもある。

 また、1996年に発表された彼らのベスト・アルバム「ネヴィル・ブラザーズ:ザ・ベスト」には、このアルバムから15曲中5曲、3分の一収められていて、やはり彼らにとってもこのアルバムは、マイルストーン的なものということがわかるだろう。41tbzaed1l

 90年代に入っても、彼らはほぼ2~3年おきにコンスタントにアルバムを発表している。自分はその中でも1992年に発表された「ファミリー・グルーヴ」が気に入っていて、スティーヴ・ミラー・バンドの"Fly Like An Eagle"のファンク的解釈や都会的でお洒落な"One More Day"など、聞きやすくてノリのよい曲が多い。ラップの部分はアーロンの息子ジェイソン・ネヴィルが担当しているようだ。

 また、アーロンのシルキー・ヴォイスが強調されている"I Can See It in Your Eyes"やヴゥードー教のような呪術的雰囲気が味わえる"It Takes More"、気分はまるでジェイムス・ブラウンになれる"Family Groove"など聞きどころ満載だと思っている。

 それでも彼らの現実を見る視点は相変わらず厳しく、"On the Other Side Of Paradise"では、南国風のカリプソのリズムに乗ってストリートの現実から逃れようとする人を表現しているし、"Let My People Go"では、麻薬に染まる子どもたちや争い合う大人たちを前にして、個人の尊厳や自由を訴えている。この辺はアフリカ系アメリカ人しか持ちえない視点ではないだろうか。61cv0ucq5l

 とにかく彼らの音楽はバランスが良い。100%ブラックにはならず、アーロンの声質を活かしたバラードもあるし、単純なラヴ・ソングもあれば、社会問題をテーマにして歌っているものもある。

 これらのバランスの良さは、取りも直さず4人の兄弟の関係性から来ているような気がしてならない。兄弟でしか出せない雰囲気や味わいというものが、アルバムの音楽性に表出していると思っている。Nevillebrothers2004047f17bc08a42485
 21世紀になってからは、長兄アートの体調が思わしくなくて、アルバムも1枚しか発表していない。思えば彼も78歳なので、体力的に厳しいのかもしれない。

 逆に、アーロンの方は75歳になるにもかかわらず、益々元気なようで、1991年のアルバム「ウォーム・ユア・ハート」から2013年の「マイ・トゥルー・ストーリー」まで、合計13枚のソロ・アルバムを出している。最近はオリジナル曲よりもカバー曲中心の内容になっていて、彼の声の美しさが強調できるような編集内容になっている。

 “血は水より濃い”という言葉があるが、やはり他人同士で作る音楽よりも何かが違うのだろう。“以心伝心”ではないけれど、言葉を交わさずとも、お互いに気持ちは理解できるのではないだろうか。

 逆に、一転してお互いに憎しみ合うことになれば、“骨肉相食む”という言葉があるが、それこそ他人以上に深く傷つけていくのだろう。たぶんネヴィル・ブラザーズには、そんなことは訪れないだろうけれど。

 ところで彼らも功成り名を遂げたので、自分たちの遺伝子をたくさん残さなくていいだろう。最近のアメリカでは、アフリカ系アメリカ人やアングロ・サクソン系アメリカ人については核家族化が進み、逆に、エスニック系の移民については今も多産家族が多いような気がするのだが、気のせいだろうか。

| コメント (0) | トラックバック (0)

2016年5月22日 (日)

アイズレー・ブラザーズ

 家族で営む音楽産業シリーズの“ソウル・ミュージック編”第2弾である。今回は、アイズレー・ブラザーズのことについて書こうと思う。

 自分は、アイズレー・ブラザーズといえば、かの有名なジミ・ヘンドリックスが所属していたバンドとしてしか認識していなかった。

 ジミがアイズレー・ブラザーズに所属していた期間は短くて、実際は1964年の2月から10月頃までだった。シングル・レコードの録音に参加したり、ライヴでも活動したのだが、毎晩同じ内容の演奏をするのに耐えかねて、脱退してしまった。
 確かに、ジミヘンのような才能にあふれたミュージシャンにとっては、他人のバック・バンドで満足できるような気持にはなれなかっただろう。

 それでちょっとだけ真面目にアイズレー・ブラザーズについて、勉強しようと思って、アルバムを購入した。それが「グレイテスト・ヒッツ」だった。71mkblrgiyl__sl1500_
 このアルバムは、彼らがエピック・レコードに移籍した1973年以降のベスト曲集ということになる。しかも「ヴォリューム1」ということだから、極めて限定的な選曲内容だった。

 だからこれ1枚で彼らの全貌を知ることは、どだい無理な話だ。もともと彼らは1950年代から活動していた兄弟バンドだった。

 1957年にオハイオ州シンシナティーで結成され、最初は、オーケリー、ルドルフ、ロナルドの3兄弟でスタートした。
 1959年には"Shout"という曲で全米47位にチャート・インし、1962年にはビートルズもカバーした"Twist & Shout"のヒットで世界的にも有名になった。当時この曲は、全米で17位まで上昇している。B0301101_23461846

 ちなみに、この曲は彼らのオリジナルではなく、バート・バーンズとフィル・メドレーという人が作っている。1961年にはフィル・スペクターの手で、トップ・ノーツというグループがリリースしていて、アイズレー・ブラザーズは彼らの曲をカバーしたことになる。

 1969年には"It's Your Thing"という曲で、グラミー賞のR&Bグループ賞を受賞すると、70年代以降は、ソウル・ミュージックの分野に留まらず、ロックやファンク、ディスコにゴスペル等を融合して、幅広い活動を行うようになった。この辺は、80年代のプリンスによく似ていているような気がしてならない。

 アイズレー・ブラザーズは、1973年にアルバム「3+3」を発表した。タイトルを見ればわかるように、オリジナルの3人にアーニー・アイズレー、マーヴィン・アイズレーの兄弟と従兄弟のクリス・ジャスパーの3人が加入して、彼らの黄金時代が訪れたようである。Img_1

 基本的に彼らは、自分たちで曲を書き、歌詞をつけ、アレンジをして、プロデュースまで行う。そして1964年には自分たちのレーベル会社T-NECKを設立して、68年以降はそこからアルバムを出すなど、すべてを自分たちの手でコントロールするようになった。ある意味、音楽に関しては、彼らは完璧主義者だった。

 ところが、そんな完璧主義者にも、いや完璧主義者だったからこそ、バンドの方向性に迷いが生じてしまったようだ。
 1984年になると、後でバンドに加入したアーニー、マーヴィン、クリスの3人が“アイズレー・ジャスパー・アイズレー”というグループを作り、アルバムまで出してしまったのである。

 翌年には、アイズレー・ブラザーズは、“アイズレー・ジャスパー・アイズレー”が「キャラバン・オブ・ラヴ」を、残りのオーケリー、ルドルフ、ロナルド3兄弟が「マスターピース」を発表して、ついにバンドは分裂してしまった。

 その後、バック・ボーカルだったオーケリーが1986年に48歳の若さで病死すると、1989年にはルドルフが聖職につくために、バンドを脱退してしまった。(2004年に再結成のため一時復帰する)

 アイズレー・ブラザーズは、ロナルドのソロ・プロジェクト化してしまうのだが、幸いにも1991年にアーニーとマーヴィンが復帰して、何とか元のアイズレー・ブラザーズに戻っている。しかし、“禍福はあざなえる縄の如し”の言葉通り、今度はマーヴィンが糖尿病になり、壊死した足を切断してしまい活動を続けられなくなったのである。マーヴィンは、結局、2010年に糖尿病が原因で、56歳の若さで亡くなっている。

 そんなこんなで、今ではギター担当のアーニーとロナルドの2人で活動を続けている。ロナルドは、脱税で3年少々刑務所に収監されたが、2010年に出所している。
 ちなみに従兄弟のジャスパーの方はというと、ソロ活動を続けていて、2014年にはアルバムも発表している。

 「グレイテスト・ヒッツVol.1」に収められていた"Soul Lady"や"Live It Up"のギター・ソロは、アーニーが弾いているのだが、何となくジミ・ヘンドリックスの影響が感じられてならない。71xbne5ykrl__sl1050_
 彼らは、「ザ・ヒート・イズ・オン」というアルバムで1975年に全米No.1を獲得しているが、そのアルバムの中からバラードの"For The Love Of You(Part1&2)"と、ビートの効いたファンキーな"Fight The Power(Part1&2)"もこの「グレイテスト・ヒットVol.1」に収められている。

 日本では、アイズレー・ブラザーズよりもE,W&Fやプリンスの方が人気も知名度も高いのだが、E,W&Fやプリンスが登場する下地を築いたのは、取りも直さずアイズレー・ブラザーズのおかげだろうと思っている。

 しかも彼らは全米No.1のシングルやアルバム、グラミー賞までも獲得していて、実力も実績も備えた兄弟バンドだったのである。

 あらためて彼らの凄さや素晴らしさを、思い知らされた気がした。彼らは1950年代から2000年代までの6つの西暦10年代(decade)連続で、アメリカのビルボード・シングル・チャートHOT100にチャート・インした史上初のバンドに認定されているそうだ。彼らは、21世紀にいたる現在まで活動を続けている偉大なソウル/ファンク・バンドなのだった。

 アイズレー・ブラザーズは、単にジミ・ヘンドリックスが若いころに所属したバンドというわけではなかった。やはり、50年代から現在までサヴァイヴァルしてきた理由が存在しているわけで、それはスティーヴィー・ワンダーやその他のソウル・ミュージシャンの実績に優るとも劣らないのだ。今回はそれを知らなかった自分の不明さを、嘆くしかないのである。

| コメント (0) | トラックバック (0)

2016年5月15日 (日)

ジャクソン5

 今月は、ファミリーに着目して、話題を選んでみた。ファミリーというからには、親子や兄弟など、血縁関係で成り立っているグループのことだ。前々回のアンディ・ギブも兄弟グループのビー・ジーズとつながりがあった。

 それで今回は、アフリカ系アメリカ人グループのジャクソン5の登場である。あのマイケル・ジャクソンも子どもの頃に所属していたファミリー・グループだった。

 1960年代のアメリカのチャートでは、ビートルズやストーンズなどの外国のバンドの曲とアメリカ国内のバンドやミュージシャンの曲で占められていた。そのうち国内のヒット曲は、主にアングロ・サクソン系のポップ/ロックとアフリカ系アメリカ人による音楽とに分かれていて、後者は主にモータウンというレコード会社から発表されていた。

 60年代のモータウン・レコードには、スモーキー・ロビンソンやマーヴィン・ゲイ、ダイアナ・ロス&シュープリームスなどのドル箱スターがいて、次々とヒット曲を出していた。

 そして70年代の幕開けは、彼らに代って5人の兄弟によって行われたのである。ジャクソン5は、インディアナ州のゲイリーという場所で結成された。父親のジョー・ジャクソンは、プロのミュージシャンを夢見て、兄弟2人と“ファルコンズ”というR&Bバンドを組んで活動していたこともあった。

 彼と妻のキャサリンの間には9人の子どもがいて、次男のティト(トリアーノ)の提案で、家族でグループを作ろうということになった。彼はギターが得意だったようだ。
 最初は3人の兄弟、シグムンド(ジャッキー)、ジャーメイン、ティトでトリオを組んで始められ、その後、マーロンとマイケルが参加して5人組になった。ちなみに末っ子のランディはのちにジャーメインに代ってジャクソン5に加入している。32_jacksonfive
 話は少し脱線するけれども、残りの3人の子どものモーリーン、ラトーヤ、ジャネットの女の子もソロ・デビューしているので、結局、ジャクソン家の9人の子ども全員が音楽ビジネスに携わったことになる。

 彼らが初めて人前でライヴを行った時のギャラは、わずか8ドルだった。その時のマイケルは5歳だったが、ステージ上には客からの投げ銭が投じられ、合計100ドル以上にもなったという。

 やがて彼らは父親のフォルクスワーゲンに乗って、近くの町でライヴを行うようになった。当時はビジネス上の契約も緩やかだったようで、有名なミュージシャンが地方に来たときには、お願いして許可を受ければ、その前座としてステージに立てることができた。
 だからジャクソン5もテンプテーションズやミラクルズ、グラディス・ナイト&ザ・ピップスのオープニング・アクトを務めている。

 彼らのデビュー・シングルは、1969年に発表された"I Want You Back"で、翌年の1月31日にNo.1になった。Japan180
 もともとこの曲のタイトルは"I Wanna Be Free"というもので、ダイアナ・ロスに歌ってもらおうとしたのだが、モータウンの創業者、ベリー・ゴーディ・Jrが契約したばかりの子ども5人組に歌わせようと決めた。こうしてジャクソン5がメジャーになっていったのである。

 彼らの次のヒット曲"ABC"は、1970年の3月に2週間だけ全米No.1になった。ただ、この曲の前のNo.1の曲は、ビートルズの"Let It Be"だった。
 また、3文字から成るタイトル曲というのは、全米No.1の中でも最も短い曲名として認定されている。他にはマイケル・ジャクソンの"Ben" 、エドウィン・スターの"War"、フランキー・アヴァロンの"Why"などがあるようだ。

 彼らの中で、やはりマイケル・ジャクソンは飛び抜けていたようで、メイン・ボーカリストとしての表現力や変声期前の歌唱力など、やはり天才としての片鱗をのぞかせてくれている。個人的にはマイケル・ジャクソンはあまり好きではないのだけれど、ジャクソン5の曲を聞けば、誰でも彼の才能は間違いなく本物であることに気がつくだろう。

 その後彼らは、1970年の6月に"The Love You Save"を、同年10月には"I'll Be There"をそれぞれシングル・チャートのNo.1に押し上げている。
 デビュー・シングルから4曲続けてNo.1ヒット曲を出したのは、今のところこのジャクソン5だけのようだ。

 "I'll Be There"はバラード曲で、当初、モータウン・レコードの重役たちは、彼らにバラードを歌わせるのに反対していた。プロデューサーのハル・デイヴィスは、インストゥルメンタルだけのものをベリー・ゴーディ・Jrに聴かせたところ、すぐに気に入った彼は、その場で歌詞を書き上げたという。Jpic20140320175057

 結果的に"I'll Be There"は、5週間No.1を続け、ジャクソン5のみならず、モータウン・レコードとしても最も売れたシングルになったのである。

 その後は、ロック激動期の時代になり、また、マイケルも変声期を迎えて声質も変わっていった(高音の伸びはあまり変わらないが、その美しさはやはりジャクソン5時代にはかなわないようだ)。

 1975年には、彼らはモータウンからエピック・レコードに移籍したが、ベリー・ゴーディ・Jrの孫娘と結婚したジャーメイン・ジャクソンだけが1984年までモータウンに留まっている。

 彼らのベスト盤には上記の曲以外にも、全米No.2を記録した"Mama's Pearl"や、スモーキー・ロビンソンのペンによる曲で、とても小学生の子どもが歌っているとは思えないほど情感豊かなバラード曲"Who's Lovin' You"、ノリのよい"Goin' Back to Indiana"など聞きどころは多い。一度は耳を傾けても損はないと思う。41d9pf1ya9l
 いずれにしても、ボーイズ・グループの元祖ともいうべき5人組だった。またこの中から“キング・オブ・ポップ”といわれた天才ボーカリストが生まれたことも特筆すべきだろう。

 マイケル・ジャクソンの人生やジャクソン家のスキャンダルなど、音楽と関係ないところで話題になることもあるのだが、やはりここは天真爛漫なマイケルの歌声や、彼らの音楽を純粋に味わってみてはいかがだろうか。

| コメント (2) | トラックバック (0)

2016年5月 8日 (日)

3人のアンディ(3)

 3人目のアンディを誰にしようかと思っていたのだが、なかなか適当な人を思いつけなかった。
 ザ・ポリスのアンディ・サマーズやデュラン・デュランのアンディ・テイラー、XTCのアンディ・パートリッジ、元フリーのアンディ・フレイザーなど、それなりに有名なミュージシャンはいるのだが、紹介するべきアルバムが思いつかなかった。

 それぞれのソロ・アルバムも発表しているのだろうが(ソロ・アルバムがあればの話だが)、どうもネーム・ヴァリューが今一歩のような気もした。アンディ・サマーズもアンディ・テイラーも、自身の所属しているバンドの方が、あまりにも有名だから、むしろそっちの方を紹介した方が良いのかもしれないとも考えた。

 そんな時に、エリック・クラプトンが来日して、武道館での公演記録を更新したというニュースを目にした。そうか、クラプトンか、それならあの人を紹介しなくてはと思い、このアンディに決めたのである。

 かつてクラプトン・バンドでギターを弾いていたアンディ・フェアウェザー・ロウ(以下、長い名前なのでAFLと略す)は、イギリスの南ウェールズ出身のミュージシャンで、今年の8月に68歳になる。Mi0001400093
 もとはエーメン・コーナーというバンドで曲を書き、歌っていた人だった。当時の彼は、アイドル並みに人気があって、イギリス中の女の子の部屋の壁には彼のピンナップが飾ってあったといわれているが、本当だろうか。時間というのは過去の出来事を美化しやすいものである。

 エーメン・コーナーは、60年代のイギリスを代表するR&Bバンドで、1966年に結成された。メンバーは7人構成で、AFLはボーカル専任だった。他には、ギターにベース、ドラム、キーボード、2人のサックス・プレイヤーがいた。

 バンド名の由来は、クラブでソウル・ミュージックをかける時間帯のことから取られていて、彼らの地元では、それが結構人気があったようで、バンド・メンバーの中の何人かは常連で、よく聞きに行っていたらしい。

 それぞれがローカル・バンドでの経験があったので、彼らは、まもなくデッカ・レコードと契約を結び、デラム・レーベルからシングルやアルバムを発表するようになった。1967年のことである。
 デビュー・シングルの"Gin House"は全英12位とヒットし、次のシングルも26位と新人バンドとしては素晴らしい門出を飾っている。

 バンドは、さらにジミ・ヘンドリックスやピンク・フロイド、ザ・ナイス、ザ・ムーヴなど、当時新進気鋭のミュージシャンやバンドとライヴ活動を行っていった。これで彼らの名前は全英中に知れ渡ることになり、翌年発表されたデビュー・アルバム「ラウンド・エーメン・コーナー」は、全英26位を記録した。

 人気を確立したバンド一行は、次のシングル"High in the Sky"をチャートの6位に送り込むと、多額の移籍金に目がくらんだのだろうか、デラム・レーベルを離れ、イミディエイト・レコードに移った。そして、最初のシングル"(If Paradise)Is Half As Nice"を発表したところ、いきなり全英No.1になってしまったのである。

 元々はイタリアのバンドが歌っていたものを、ジャック・フィッシュマンという人が英歌詞をつけた曲で、彼らにとっては最初で最後のNo.1ヒット曲になった。0690628uks28
 この時期のAFLはボーカリストと曲作りに専念していたようで、のちのギタリストというイメージは浮かんでこない。

 ただ、バンドはR&Bを基盤とするものの、どちらかといえば売れ線狙いのポップ・ロック・バンドという道を歩んでいて、ハーマンズ・ハーミッツやスティタス・クォーとツアーを重ねていた。だから、バンドの音楽的ポリシーよりも商業的成果を重視していたようで、シングルのサイドAを飾るのは、自分たちのオリジナルよりも売れるような曲ばかりが優先された。

 先ほどの"(If Paradise)Is Half As Nice"もそうだけど、"Hello Susie"はロイ・ウッドの曲だった。
 それら以外にも"Proud Mary"はC.C.R.のジョン・フォガティが、"The Weight"はご存じザ・バンドのロビー・ロバートソンの手によるものだった。

 AFLは、主にサイドBの曲を手掛けていて、全英6位を記録した"High in the Sky"のサイドBの"Run,Run,Run"や"(If Paradise)Is Half As Nice"の裏面だった"Hey Hey Girl"などは、裏面とはいえ、それなりによく練られた曲だと思う。
 "Run,Run,Run"はいかにも60年代のビートに乗ったポップ・ソングで、AFLのファルセットが印象的だった。"Hey Hey Girl"はオルガンとサックスが目立つマージー・ビート風の曲だった。

 ただ、少し凝りすぎていて、もう少しシンプルにした方が商業的には成功したのではないかと思っている。

 それでも、彼の作曲能力は他のメンバーよりは優れていたのだろう、アルバム「ファエル・トゥ・ザ・リアル・マグネフィセント・セヴン」に収められている"Mr.Nonchalant"はストリングスも使用された美しい曲だし、"Hello Susie"のサイドB"Evil Man's Gonna Win"はギター・メインの軽めの曲だった。

 1969年に、なぜかビートルズの"Get Back"のカバー・シングルを出したが、これがソウル風にアレンジされていて、カッコいいのだ。特に後半のギター・ソロと“Get Back”というコーラスが重なった部分が秀逸である。これが、最後のシングルになったとは残念だった。もう1年後ぐらいに発表していれば、もっと注目を浴びたのではないだろうか。

 エーメン・コーナーは分裂して、AFLはバンド内の何人かとフェア・ウェザーというバンドを結成し、"Natural Sinner"というシングルを発表した。

 これもAFLの手による曲で、アメリカ南部の音楽に影響を受けたような曲で、ブリティッシュ風の湿ったような印象は全くない。ちょうどロニー・レインズ・スリム・チャンスのような感じで、全英シングル・チャートの6位まで上昇している。

 確かにAFLは才能のあるミュージシャンで、曲も書け歌も歌えたのだが、フェア・ウェザーのアルバムが売れなかったせいか、70年代からソロ・キャリアを追及し始めた。
 彼は70年代に4枚のソロ・アルバムを発表したのだが、その中で作曲能力やボーカリストの才能をだけでなく、ギター演奏能力も必要に追われて身につけていったようだ。

 彼がギタリストとして正当に評価されるきっかけになったのは、1978年のザ・フーのアルバム「フー・アー・ユー」においてであった。
 このアルバムでは、ギタリストのピート・タウンゼントのサポートとして、バック・コーラスとギター演奏を行っていて、これがかなりの評判を呼んだ。

 1982年のアルバム「イッツ・ハード」では、ピート・タウンゼント自身がアルコール中毒のリハビリに応じなければならず、アルバム制作中に入院してしまった。
 その時の代役としてAFLに声がかかり、アルバムのほとんどの演奏を手掛けている。もしピートがそのまま長期の離脱になった場合には、AFLのバンド加入も真剣に考えられたといわれている。

Low_1
 ここから、彼の出しゃばらないギター・プレイやピックを使わないフィンガー・ピッキングのスタイルが好評になり、エリック・クラプトンを始め、旧友のロジャー・ウォーターズやデイヴ・エドモンズ、ジョージ・ハリソン、あのジョー・サトリアーニまでもが声をかけ、ライヴ演奏やスタジオ録音に引っ張りだこになっていった。

 今回のクラプトンのコンサートに、AFLが参加しているかどうかは不明だが(ネットの情報によると、今回も一緒に日本に来ているようだ)、とにかく非常に器用なミュージシャンである。1304191103308046862_v1
 普通なら器用貧乏で終わってしまうミュージシャンが多いのだが、彼の場合は、才能だけでなく、幸運を引き寄せるような強運も備えているようだった。
 それはおそらく、彼の人間性によるものだろう。売れても売れなくても、淡々と自分の仕事をこなすその職人肌に多くのミュージシャンが魅かれていくのだろう。自分もかくありたいものである。

| コメント (2) | トラックバック (0)

2016年5月 1日 (日)

3人のアンディ(2)

 さて、2人目のアンディは、ギブ兄弟の末っ子というか、ビー・ジーズの秘蔵っ子だったアンディ・ギブについてである。

 ビー・ジーズについて簡単に説明すると、バリー、ロビン、モーリスの3人兄弟で構成されていて、楽器は演奏できるものの、基本的には美しいコーラスを特徴としたグループだった。
 彼らはイギリス生まれだったが、オーストラリアに移住してそこで音楽活動を始めて有名になり、活動の場をアメリカに移して世界的に有名になった。

 60年代後半からシングル・ヒットを出していたが、70年代後半のディスコ・ブームを世界的な潮流にさせるきっかけとなった映画「サタディー・ナイト・フィーヴァー」の挿入歌や主題歌の大ヒットのおかげで、ビー・ジーズは、ポピュラー・ミュージックの歴史に名前を残している。

 そんな彼らの末っ子がアンディ・ギブだった。本名アンドリュー・ロイ・ギブは、1958年にイギリスのマンチェスターで生まれた。
 生後6か月の時に、一家はオーストラリアに移住し約9年間そこで過ごしたのち、イギリスに戻って学生生活を送った。Img_1
 12歳の時に、長兄のバリー・ギブからギターをプレゼントされたことから音楽活動に目覚め、13歳の時には引っ越し先のスペインのイビザ島で、観光客のためのクラブ等で歌うようになった。ここから彼の音楽活動が始まったようである。

 よく“親の七光り”と言われるが、アンディの場合も兄たちのバックアップがあったから成功したのではないかと言われるかもしれない。
 しかし、13歳から人前で歌い始め、15歳で"メロディー・フェア"というバンドを結成し、16歳で再びオーストラリアに行って音楽活動を続けていったアンディの経歴には、アドバイスはあっても、具体的な援助などは見当たらないようだ。

 しかもアンディ自身が作った曲"Words And Music"がオーストラリアでトップ5に入るヒット曲になるなど、彼自身の努力と才能や、それを生かす運命的なものも備えていたことがわかる。

 確かにデビュー後は、ビー・ジーズの末っ子というレッテルを張られたり、一緒に活動をするなど、それが独り歩きした感があったが、決して時流に乗って出てきたポップ・スターではなかったのである。

 オーストラリアに行ったのも、バリーがオーストラリアが音楽活動をするためにはタフな場所であり、そこで苦労するようにというアドバイスがあったからで、アンディはポッと出たアイドルではなかった。やはり厳しいエンターテインメント界を生き抜くためには、それなりの努力と才能が求められるのであろう。というか、実力がない限り生き残れないのが、現実だろう。

 結局、オーストラリアでの成功を伝え聞いたビー・ジーズのマネージャーであり、かつ当時のRSOレーベルの社長だったロバート・スティッグウッドがアンディ本人にコンタクトを取り、バリー・ギブの協力のもと、アルバムの制作を勧めた。それが「フローウィング・リヴァース」であり、ここから"I Just Want To Be Your Everything"と"Thicker Than Water"という全米No.1ヒットが生まれた。

 前者は1977年の4月に88位でランキングした後、14週後にチャートでNo.1になった。ただこの曲は、面白いことに、3週間No.1になったあとランクを下げ、4週間後に再び1位になっている。他にヒット曲はなかったのだろうか。

 後者の"Thicker Than Water"はバリーとアンディの共作曲で、1978年の3月にビルボードで2週間No.1になった。
 この曲には、イーグルスのジョー・ウォルシュが参加しているが、アンディのレコーディング中に、ジョーも近くでレコーディングをしていたことからコラボレートできたと言われている。

 1978年にはセカンド・アルバム「シャドー・ダンシング」を発表したが、同名のシングルもまたNo.1になり、ビルボード史上、デビューから連続して3枚のシングルをNo.1にした唯一のソロ・シンガーになった。

 これはこれで素晴らしいのだが、ただ記録によると、ジャクソン5は1970年に連続4枚のシングルをNo.1にしている。しかし、これはソロ・シンガーではないので、アンディの記録は当分破られることはないだろう。

 アンディは1988年に30歳の若さで亡くなるのだが、原因はコカイン中毒から来た内臓器の機能不全だったようだ。結局、アンディ自身は素晴らしい才能を持っていたにもかかわらず、世間はそう認識していなかったようで、そのギャップにアンディ自身苦しんでいたようである。B0301101_7254797_2
 確かに、デビュー後は兄たちのバックアップはあったものの、それに値する才能を持っていたことは間違いない。そうでなければ、3曲もヒットするわけがないのだ。
 
 ただ、アンディひとりで作った曲がヒットしたことはなかったのは、事実だった。正確に言えば、「グレイテスト・ヒッツ」に収められていた"Me (Without You)"という曲が、シングル・チャートで40位になったことぐらいだろう。

 もし、アンディ自身で作った曲がヒットしていれば、おそらく彼は薬物に走ることはなかっただろうし、若くして亡くなることもなかっただろう。偉大すぎる兄たちを持っていたが故の不幸だった。

 彼のすべてを知るためには、やはりポリドールから出たベスト・アルバムが一番だろう。確かにビー・ジーズ風の曲もあるが、先ほどの"Me (Without You)"のような美しいバラード曲も含まれていて、決して彼が“兄たちの七光り”ではないことが分かると思う。81wicecez6l__sl1101_
 また、オリヴィア・ニュートン=ジョンとのデュエット曲"I Can't Help It"も聞くことができて、お得感もある。

 80年代になってからは、ミュージカルの舞台に立つなど、兄たちとは違う方向性を探ろうとしたり、ニュー・アルバムの発表について予告するなど、自ら進んでキャリアの構築を図りその活動枠を広げようとしたが、残念ながらその確立までには至らなかった。

 このベスト・アルバムには、ニュー・アルバムに収録予定の曲"Man On Fire"も含まれているが、悲しいかなこの曲もまた、兄たちの手を借りたものだった。

 2人目のアンディは、自らの才能を十分に生かすことができなかったようだ。彼の死後、偉大な兄たちのモーリスとロビンも、21世紀に入って亡くなっていった。ひょっとしたら、天国ではアンディと3人で、ビー・ジーズとして活躍しているかもしれない。

| コメント (0) | トラックバック (0)

« 2016年4月 | トップページ | 2016年6月 »