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2016年6月

2016年6月26日 (日)

ノーランズ

 前にも書いたけど、バンドの中で活動している兄弟や姉妹はいっぱいいる。ハートのウィルソン姉妹や、最近注目を浴びているハイムもドラマー以外の3姉妹が有名だ。そういえば、昔々の70年代にアレッシーという双子の兄弟デュオもいた。

 だから今回のこのシリーズでは、バンドの中にいるのではなくて、実際に兄弟や姉妹だけで構成されたバンドやボーカル・グループを紹介している。
 それに加えて、たとえば“ブラザーズ・フォア”や“ライチャス・ブラザーズ”、“ウォーカー・ブラザーズ”などは、名前は“ブラザーズ”でも実際には血縁関係はないので、今回は取り上げていない。

 それで今回はアメリカを離れて、イギリスに行くことにした。正確に言うと、イギリスではなくアイルランドのダブリンである。

 アイルランドといえば、あの天下のU2を始め、過去にはシン・リジィやロリー・ギャラガーにヴァン・モリソン、最近ではスノウ・パトロール、シンガー・ソングライターのダミアン・ライスやホージアなどが有名である。よくわからないけれど、世界水準以上のミュージシャンが活躍しやすい土壌や環境などがあるのだろう。

 そんな中での「家族で行う音楽ビジネス」シリーズである。アイルランド編とでも名付けようか。

 今はあまり聞かないけれど、1970年代のアイルランドは政情不安で、テロ事件などが頻繁に報道されていた。あのポール・マッカートニーでさえ"Give Ireland Back to the Irish"というシングルを発表したくらいだった。

 一つには、歴史的にイギリス本国から併合されていたという事実がある。表面的には併合かも知れないが、実際は植民地扱いに近いものがあったと思っている。だから第一次世界大戦後には独立戦争まで起こっていた。このときに南部のアイルランドは独立したのだが、北部のアイルランド(北アイルランド)はそのままイギリス領として残ってしまった。

 もう一つには、宗教的な混乱である。これにもイギリスとの確執があった。元々アイルランドはカソリック信者が多いところだった。ところが、あのヘンリー8世がイングランド国教会を作り、それをアイルランドに持ち込んだのだ。だからカソリックとイングランド国教会の宗教的対立も長年存在していたのである。

 アイルランド人は、同じ島の中にある北アイルランドもイギリスから独立させようと考えてもおかしくはない。むしろ当然のことだろう。もし北海道がロシアに占領されていたら、日本人としてどう思うだろうか。

 そんな歴史的、宗教的、政治的背景を控えていたアイルランドの70年代は、当時の自分にとっては、何となく血なまぐさいものに思えた。だからというわけではないが、アイルランド人には伝統的に血縁関係を大事にする風土があったのではないかと思っている。

 また、竹内久美子さんの学説ではないけれど、政情不安だからこそ、たくさん子どもを産んで自分たちの遺伝子を残そうとする潜在意識が強く漂っていたのではないだろうか。

 1970年代後半から80年代にかけて活躍したノーランズは、8人の兄弟姉妹だった。元々、両親のトミーとモリーンが歌手として音楽活動をしていて、当時は2人で“スィートハート・シンガーズ”と名乗っていた。

 アイルランドからイギリスのブラックプールに引っ越した後、彼らは“ザ・シンギング・ノーランズ”と名前を変え、8人の子どものうち7人と一緒に活動を始めた。1963年頃のお話である。

 だから当時は、男女混合のボーカル・グループだった。1974年になると、両親は音楽活動から手を引き、子どもたちだけで活動を始めるようになった。一説によれば、父親の母親や長女などへの暴力や虐待があったからだと言われている。

 最初は、アン、デニス、モリーン、リンダ、バーニーの5人で“ザ・ノーラン・シスターズ”として活動を始めた。5人の姉妹によるグループということで評判を呼び、クリフ・リチャードがホスト役をしていたテレビ番組に呼ばれたり、フランク・シナトラのヨーロッパ公演などの依頼を受けるようになった。1462e25c52

 そうなると、目ざといイギリスのレコード会社が放っておくはずがない。当時のイギリスEMIから数枚のシングルが発表された。しかし、それらは商業的な成功に結びつくことはなかった。

 彼らは約4年間売れなかったが、1978年に過去の有名な20曲を収めたカバー・アルバムが全英チャートの3位になり、そこから彼女たちの運命が大きく変わっていった。
 メンバーの中のデニスは、エンゲルベルト・フンパーディンクのアメリカ公演に参加した後、ソロ活動を始めるためにグループを脱退した。

 1979年には、シングル"I'm in the Mood for Dancing"が大ヒット。イギリスでは3位、アイルランドでは2位、日本では1位を記録し、瞬く間に世界的に有名になっていった。
 またこの曲を含むアルバム「ノーラン・シスターズ」も全英アルバム・チャートの15位を記録している。

 翌年、長女のアンが結婚を機にグループを脱退したが、末娘のコリーンが加わり、グループ名を“ノーランズ”と変えている。コリーンは末娘ながらも歌唱力や表現力があり、アルバムやライヴでは昔から姉たちと活動はともにしていたものの、クレジットはされてなかった。年齢的に若すぎたことが理由のようだが、ようやく陽の目を見たことになる。Nolans5
 また、この年に発表された「メイキング・ウェイヴス」というアルバムには、日本では大ヒットした"Sexy Music"やダイアナ・ロスのカバーの"Touch Me in The Morning"が収められていたせいか、イギリスでは最高位11位を記録した。Making_waves__nolans
 自分は彼女たちの歌っている姿をテレビで見ていたが、ボーカルの人はなんであんなに顔をしかめながら歌っているのだろうと、不思議に思っていた。やはり肉食が主体の人種と、日本の歌手とは違うのだろうとぼんやりと考えていた。

 そんなことはどうでもいいのだが、彼女たちの人気は1984年頃まで続いた。その間にアンがグループに戻ってきて5人になったり、リンダが脱退したりと、メンバーの移動が目立った。さらに1990年にはメイン・ボーカルだったコリーンが結婚したりして、この時期になるとグループの存在自体も薄れてきたようだ。

 彼女たちの全盛期は僅か4、5年だったが、面白いのは、長女アンの娘エイミーが参加していて、2世代ガールズ・グループとしても活躍していたことだ。

 ただ残念なことに、彼女たちは癌の家系らしく、父親が肝臓癌で亡くなっているし、アンと4女のリンダ、5女のバーニーが乳癌にかかっている。そのうちリンダは切除手術を行い、バーニーは、2013年に53歳の若さで亡くなってしまった。319d32e9
 2013年にフェアウェル・ツアーを予定していたのだが、バーニーの病気のためにすべてキャンセルされてしまった。バーニーの死後も追悼ライヴを行う予定といわれているが、実際は、それぞれが女優やタレントの活動が忙しくて、実現する可能性は低いようだ。

 日本ではいまだに人気があり、彼女たちの曲はテレビのCMにも時々使用されている。やはり5人(4人)の姉妹グループということが珍しかったのだろうか。
 今となってはもう日本に来ることはないだろうが、当時の彼女たちの人気の凄さを知るものとしては、懐かしいの一言に尽きるのである。

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2016年6月19日 (日)

ハンソン

 「家族で行う音楽ビジネス」シリーズも後半にさしかかってきた。今までは1960年代や70年代という昔のミュージシャンたちを紹介してきたので、当時を生きていた人には聞いたことがあったり、懐かしい思いが込み上げてきたりしたかもしれない。

 でも兄弟バンドの存在は、昔だけのものではない。特に、“兄と弟”という関係での活動は、古くはジョニー&エドガー・ウィンター、オールマン兄弟、ヴァン・ヘイレンのエドワード兄弟やTOTOにいたポーカロ3兄弟、キンクスのディヴィス兄弟、新しいところではオアシスのギャラガー兄弟や解散してしまったけれどもブラック・クロウズのロビンソン兄弟など、数え上げればきりがない。

 あまりにも多すぎるので、このブログでは、ジャクソン5やオズモンド・ブラザーズのように純粋に兄弟(兄妹なども含む)だけのメンバーで活動をしてきたミュージシャンやバンドに焦点を絞って紹介してきた。

 それで今回は、時代は下がって1990年代後半のアメリカに舞台を移すことにしよう。16歳、14歳、11歳でアメリカのトップ・アイドルになったハンソン3兄弟である。Img_0
 彼らは1992年に音楽活動をスタートした。アイザック・ハンソン11歳、テイラー・ハンソン9歳、ザッカリー・ハンソンに至っては6歳という年齢だった。
 オクラホマ州タルサ出身ということもあって、最初はR&Bや流行のヒップ・ホップの要素を取り入れた音楽をやっていたようだ。

 インディ・レーベルから2枚のアルバム「ブーメラン」、「MMMBop」を1995年と1996年に発表したあと、1997年に「ミドル・オブ・ノーホェア」で一躍世界的に有名になった。

 ただ彼らは、順調に売れていったわけではなかった。最初はあまりにも子ども過ぎていて、どこのレコード会社も真剣に彼らを売り出そうと思ってはいなかった。12社から契約を断られ、おまけにマネージャーのクリストファー・サベックに向かって“このグループは難しい。早く手を引いた方がいいよ”とまで言うところもあったようだ。

 ところが、一度契約を断った当時のマーキュリー・レコードの副社長が、デモ・テープを聞いてゴー・サインを出したのである。
 あとはトントン拍子に話が進み、ジョン・ボン・ジョヴィを手掛けたスティーヴン・リローニをプロデューサーに、当時の有名なソングライターだったデスモンド・チャイルドやマーク・ハドソン、ベテランのバリー・マンなどをソングライティング・チームに迎えて、デビュー・アルバムが制作されていった。81tfpzjjfal__sl1403_

 彼ら3兄弟は、もともと自分たちで曲を書き、演奏していたし、プロデュース能力もあった。デビュー・アルバム用に200曲も準備していたというから、やはり才能があったのだろう。

 彼らの父親が石油関係の仕事に従事していて、その関係で中南米などを一家全員で転々としていた。現地の言葉が分からない兄弟は、ある意味仕方なく両親が持っていたレコードやカセット・テープを聞いて気分を和らげていた。

 だから、彼らの音楽には50年代から70年代の古き良き時代の影響が息づいていたのだ。このデビュー・アルバムにも全米シングル・チャートでNo.1になった"MMMBop"を始め、"Where's The Love"、バラードの"Weird"など、どこかで聞いたような懐かしい曲が収められている。

 このアルバムは全英1位、全米2位を記録し、アメリカだけで400万枚以上売れた。全世界では1000万枚以上という驚異的なセールスを残している。

 この売り上げの裏にはもちろん楽曲の良さもあったが、それを後押しする地道なライヴ活動もあったことも見逃せない。彼らはアルバム発表後、約1年をかけてアメリカ中を営業して回ったからだ。

 そんな中で、ブルース・トラヴェラーのジョニー・ホッパーやブルーズ・ギタリストのジョニー・ラングと知り合い、セカンド・アルバムの制作に協力を求めた。そして約3年後の2000年に待望のセカンド・アルバム「ディス・タイム・アラウンド」が発表されたのである。51m765mxwal
 このアルバムには、変声期後のザッカリーの様子が注目を集めたが、デビュー・アルバムとはまるで別人のような声に変わっていて、別グループのアルバムを聞いているような感じがした。

 ただし、アルバムの内容については、前作よりもロック寄りになっていて、非常に素晴らしいと思った。
 というのも世間の予想では、デビュー・アルバムの大成功はいわゆるビギナーズ・ラックのようなもので、強力なスタッフの後押しがあったからこそという見方が多かったからだ。

 ところが、このアルバムでは彼らの成長した姿が収められていて、楽曲のレベルも前作とほぼ同じか、それ以上のものだった。
 輸入盤では、全12曲すべて自分たちのオリジナル曲で構成されているし、一時は元ザ・カーズのリック・オケイセックにプロデュースしてもらう話もあったようだが、その話も立ち消えになり、前作と同じスティーヴン・リローニとともに共同プロデューサーとして携わっている。

 彼らの気持ちの中にも、ビギナーズ・ラックとは言わせない想いがあったに違いない。だからこのアルバムにかける強い気持ちがあったのだろう。
 あるいはデビュー当時は単なるアイドル・バンドと見做されていたから、自分たちの実力を発揮するいい機会だと思ったのかもしれない。

 ただ当初の予想通り、このアルバムは前作よりは売れなかった。全英チャートで33位、全米でも19位が最高位だった。それでも全世界で100万枚以上は売れている。
 確かに別バンドといわれてもしょうがないサウンドだったから、売り上げが下がるのは彼らも納得できただろう。むしろ彼らにとっては、これが今の自分たちの姿だという自負心やここにいるという存在感の方が重要だったのではないだろうか。

 ある意味、想定の範囲内だったセカンドアルバムの後、4年経って彼らはサード・アルバム「アンダーニース」を発表した。312kyeaswbl

 この4年の間に、彼らは自分たちのレーベル会社を立ち上げ、このアルバムもそこから発表されていた。
 基本的には前作の延長線上にあるが、うまい具合にロック色にポップな要素がふりかけられていて、まさに彼らのやりたい音楽が詰め込まれている。

 アルバム・タイトル曲は、マシュー・スィートとの共同でできあがったもの。バラードで涙溢れるラブ・ソングになっている。
 このアルバムはバランスよく仕上げられていて、ロック一色ではなく、バラードからアコースティックな曲も含まれていた。

 曲のほとんどは3兄弟で書いているが、先ほどのマシュー・スィートとの共同でできたものや、このアルバムのプロデューサーのグレッグ・ウェルズとの共作曲も見られた。ちなみにグレッグ・ウェルズという人は、ケイティ・ペリーやエアロスミス、セリーヌ・ディオンなど、ビッグ・ネームのアルバムを手掛けたことでも有名な人である。

 個人的には、このアルバムは気に入っている。彼らには、デビュー以来、どうしてもビッグヒットした"MMMBop"のイメージがついて回るのだが、それを抜きに純粋にアルバムとして聞けば、このアルバムの素晴らしさが分かると思う。

 彼らのやりたい音楽、求めるサウンドがそのまま収められているし、グー・グー・ドールズやマッチボックス20と同列に扱われてもおかしくない豊かな音楽性が備わっていると思う。

 ただ、やはり世間の見方は、というか期待といっていいかもしれないが、デビュー・アルバム当時のきらめくポップ・サウンドを求めていたのだろう。ますます商業的には下降線をたどり、チャート的には全英では49位、全米でも25位で留まってしまった。

このあと彼らは、ほぼ3年おきにアルバムを発表している。最新アルバムは2013年の6枚目アルバム「アンセム」で、ロック色が強まったせいか全米チャートで22位と健闘している。

 若くしてデビューしたせいか、長男アイザックは今年現在でまだ35歳である。次男のテイラーは33歳、3男のザッカリーでさえ30歳という若さだ。Hanson001_s_www_barks_jp
 ちなみに彼らは3人だけではなくて、7人兄弟姉妹だった。彼らの下にはまだ4人の妹や弟がいる。今のところ7人でデビューすることはないようだ。

 アメリカでも時代が落ち着いたせいか、あるいは先進国の一つとして数えられるようになったせいか、50年代のように多産系の家族は少なくなっていった。少なく生んで、大事に育てようという意識や、それを裏打ちする経済的余裕が生じたせいだろう。

 しかし、それでも7人家族というのは存在するのである。アメリカの強さというのは、音楽面だけでなく、社会の様々な面において、多様性という特徴が備わっているからではないだろうか。

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2016年6月12日 (日)

パートリッジ・ファミリー

 さて、今回は番外編ということで、今までは実際に血のつながった兄弟グループが主だったが、名前は“ファミリー”でも実際は見かけだけの家族を紹介しようと思う。

 パートリッジ・ファミリーは、テレビ番組用に作られた疑似家族だった。昔でいえば「寺内貫太郎一家」、今でいえば「渡る世間は鬼ばかり」だろうか。ひょっとしたら今の若い人は、もう知らないかもしれない。

 このアメリカ版連続ドラマの「パートリッジ・ファミリー」は、アメリカのABC放送で1970年から74年まで放映された。日本でも放映されていたようだが、自分は覚えていない。でもこの名前は覚えていたので、ひょっとしたらどこかで目にしたのかもしれない。

 番組の内容は、父親を失った家族が母親の運転するバスに乗って演奏旅行をしながら生活をしていくというもので、その中で出会う人たちや出来事を連続テレビ番組にして放送していた。

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 家族は母親と3人の兄弟と2人の姉妹で構成されていて、番組内では家族でバンドを組んで歌い演奏していた。

 母親役のシャーリー・ジョーンズは、1934年生まれ。子どもの頃から歌が好きで、ブロードウェイのミュージカル「南太平洋」でデビューすると、その才能が認められて映画「オクラホマ」の主役に抜擢された。

 長男役のデヴィッド・キャシディーは、1950年にニューヨークに生まれている。父親は俳優のジャック・キャシディーで、両親が離婚した後、デヴィッドは実の母親とともにカリフォルニアに引っ越した。

 “実の母親”と断ったのはわけがあって、1956年にジャック・キャシディーがシャーリー・ジョーンズと再婚したために、彼女とデヴィッドは継母と息子の関係になったのである。この辺がややこしいのだが、テレビドラマでは実の親子関係を演じていたものの、実生活では血の繋がっていない親子という関係だった。日本では、ちょっと見られない光景ではないだろうか。Img_0

 いずれにしてもこの番組は好評で、高い視聴率を獲得した。だから4年間も続いたのだろう。
 そしてテレビの中で歌われた曲"I Think I Love You"(邦題:悲しき初恋)は、1970年11月21日から3週間全米1位を記録したのである。

 ドラマの第1話の内容は、パートリッジ家の子どもたちがガレージでレコードを吹き込み、それをレコード会社に売るためにあちこち走り回って契約し、チャートの1位を獲得するというものだったが、それが現実のものになったのである。

 そのシングルを含む彼らのデビュー・アルバム「パートリッジ・ファミリー・アルバム」は、1970年の10月に発表されて、全米アルバム・チャートでは4位を記録した。曲は番組内で歌われたものだった。517vsv3odl
 続くセカンド・アルバムは、「アップ・トゥ・デイト」というタイトルで翌年に発表されていて、これは全米3位になっている。このアルバムからはシングル・チャートの9位を記録した"I'll Meet You Halfway"や6位になった"Doesn't Somebody Want To Be Wanted"などが収められていた。

 彼らは番組終了までに8枚のスタジオ・アルバムを残していて、その中には全米1位を記録した「パートリッジ・ファミリー・クリスマス・カード」というものもあった。
  もちろんこれはクリスマス用の企画もので、オリジナルもあれば定番のスタンダード曲もあった。1位になれたのは、恐らくクリスマス用の贈答品として購入されたものも含まれていたからではないだろうか。

 ついでに言うと、デヴィッドにはショーン・キャシディ という弟がいる。もちろんこのショーンは義弟にあたる。つまりシャーリーの再婚後に生まれた子どもで、この兄弟は幼いころからともにロサンゼルスで暮らしていた。
 ショーンの方は13歳でロング・フェロー、ショー・ビジネス・セヴンなどのロック・バンドを組んで音楽活動を始めて、16歳でレコード会社と契約した。

 1976年のシングル"Morning Girl"はアメリカでは売れなかったものの、ドイツでは中ヒットしていて、そこから逆輸入の形でアメリカでも徐々に人気が出てきた。

 1977年に発表した"Da Doo Ron Ron"はカバー曲だった。原曲は3位までのチャート・アクションだったが、ショーンの曲は1週間だけだが全米1位を記録した。

 また、エリック・カルメンが歌った"That's Rock'n'roll"は全米3位を記録している。ショーン・キャシディはオリジナル曲よりはカバー曲を歌うのを得意としているようで、同じくエリック・カルメンが歌った曲"Hey Deanie"は7位、ラヴィン・スプーンフルの"Do You Believe in Magic"は31位を記録している。

 日本では彼のベスト盤が出ていて、このアルバムには彼のヒット曲ほとんどすべてが収められている。12曲中、ショーンのオリジナル曲は4曲、共作が1曲で、それ以外はカバー曲だった。中にはピート・タウンゼントやイアン・ハンターの曲もあり、ショーンは根っからのロックン・ローラーということが分かるような気がした。41g27fpwkxl

 ちなみに彼は、1977年にアルバム「ショーン・キャシディ」から1980年までの「ワスプ」まで、6枚のスタジオ・アルバムを発表している。また、どうでもいい話だが、義兄弟で、また母子で、全米No.1シングルを出したのは、今のところ彼らしかいないようだ。

 デヴィッドはいまだに現役で歌ったり、俳優活動を続けているようだが、ショーンの方は歌手から俳優活動に転身し、その後テレビのプロデューサーとして制作に携わっている。いずれにしても才能の溢れる義兄弟だった。

 テレビの中とはいえ、彼らは疑似家族でも、見事にアメリカン・ポップス史の中に名前を残すことができた。それは現実社会でも彼らが才能豊かだったという裏付けがあったからだろう。私の家族もそうありたいものである、たぶん絶対そんなことはないけれども…

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2016年6月 5日 (日)

オズモンド・ブラザーズ

 さて、「家族で行う音楽ビジネス」シリーズだが、今回からソウル・ミュージック編ではなくて、アングロ・サクソン系の音楽、いわゆる白人のポップ・ミュージックについて考えてみようと思った。

 それで最初は1970年代初頭に、日本でも大ブームを引き起こしたオズモンド・ブラザーズについて記してみたい。

 このオズモンド・ブラザーズも大人数の兄弟で、正確に言うと、9人いる。あのジャクソン5も妹たちを入れて9人だったから、同数ということになる。どうでもいいことだけど、当時のアメリカでは、なぜこんなにたくさん子どもがいたのだろうか。戦勝国とはいえ、戦争が終わってよほど政情不安だったのか、それとも子ども作りが趣味だったのか、よくわからない。Img_1
 ただ、父親のジョージは彼が生まれて間もなく父親が亡くなっていて、さびしい子ども時代を過ごしている。その反動が出たのだろうか、自分が結婚したら和気あいあいとした楽しい家族を持とうと思ったようだ。

 ジョージは1944年に兵役を退役して、当時会社の秘書をしていたオリーヴと結婚した。長男のヴァールは、翌年の1945年の10月に生まれている。
 そして、次男のトミー(トム)は2年後の1947年に、以下、ほぼ2年ごとに生まれているから、計画的な出産だったに違いない。

 ただ、この長男と次男はふたりとも難聴だったようで、特に次男のトミーはほとんど聞こえなかったようだ。ひょっとしたらこの2人の兄弟のおかげで、3人目、4人目の子どもを願ったのかもしれない。

 両親のジョージとオリーヴは、敬虔なモルモン教徒だった。モルモン教徒といえばユタ州が有名だが、もちろん彼らはユタ州のソールトレイク・シティで生まれ育った。
 オズモンド・ブラザーズとして当初活躍したのは、三男のアラン、以下、ウェイン、メリル、ジェイまでの4兄弟だった。

 彼らは両親の影響で、モルモン教の教会で歌うようになった。母親のオリーヴは、こう述べている。『教会が様々な活動を通して、子どもたちの才能を伸ばしてくれました。うちの子どもたちが歌い始めたのも、それが切っ掛けでした。そして、家族のきずなも強めてくれたのです』

 彼らは、町でも有名な“四重唱グループ”として有名になり、父親は彼らを売り出そうとして、1962年にロサンゼルスに連れていった。そこでオーディションを受けたのだがうまくいかず、結局、おそろいの服を着た4人組は、ディズニーランドに行って気分を紛らわそうとした。

 ところが運命とはまさに皮肉なもので、そこでプロのコーラス・グループだったダッパー・ダンズの目に止まり、メイン・ストリートで即興の歌を歌ってみないかと声をかけられたのである。
 もとより歌には自信のあった彼らは、その場でコーラスを聞かせることになり、それが受けて、それ以降、ディズニーランドだけでなく、ナッツベリー・ファームなどの娯楽施設で歌うようになった。

 「ディズニーランド・アフター・ダーク・ショー」で歌っていたのが評判を呼び、NBCテレビに出演すると、1963年には七男のダニー・オズモンドも参加し、いよいよ5人組でテレビの「アンディ・ウィリアムス・ショー」にレギュラー出演するようになった。Img_0

 「アンディ・ウィリアムス・ショー」自体は1967年5月に放送が終了したが、彼らは、それ以降はジェリールイスのバラエティ・ショーに出演を続け、この番組は1969年の5月まで続いている。

 オズモンド・ブラザーズは、テレビに出続けていたにもかかわらず、なかなかヒット曲に恵まれなかった。アメリカの人たちはテレビではよく目にしていたようだが、番組を引き立てる単なるコーラス・グループと思っていたのかもしれない。

 1963年からシングルやアルバムを定期的に発表していたものの、さっぱり売れなかった。彼らがヒットメイカーとして有名になったのは、1970年以降のことである。

 彼らは、当時人気のあったジャクソン5の対抗馬として売り出されたようで、ジャクソン5のソウル路線に対抗するつもりで、R&Bの聖地マッスル・ショールズ・スタジオで、プロデューサーのリック・ホールの手を借りてシングルを制作した。
 また、ジャクソン5のマイケル・ジャクソンに対抗して、オズモンド・ブラザーズではダニー・オズモンドがリード・ボーカルを務めることもあったようだ。

 それが"One Bad Apple"だった。このシングルは、1971年の1月に78位でチャート・インしたあと、6週間かかってNo.1になった。それから5週間首位の座をキープしたあと、ジャニス・ジョップリンの"Me And Bobby McGee"にその座を明け渡している。それでもこの曲は、彼らの最大のヒット曲になったのだ。

 その後彼らは、ヒット曲を連発した。同年の"Double Lovin'"が14位、"Yo-Yo"が3位を記録したあとは、72年には"Down By The Lazy River"が4位、"Hold Her Tight"と"Crazy Horses"が14位になり、1973年には"Goin' Home"と"Let Me In"が36位、74年には"Love Me For A Reason"が10位を、75年には"The Proud One"が22位を記録している。51bcqllenl

 彼らは1976年にもヒット曲を出しているが、80年代になってからはカントリー・ミュージックに活動の舞台を移していて、カントリーのチャートでもヒット曲を連発していた。

 また、70年代では、末っ子のジミー・オズモンドや唯一の女の子だったマリー・オズモンドもソロもしくは兄弟と一緒に活動を始めていて、これまたジャクソン5と同じように、一家そろって活動を繰り広げている。さらには、耳の不自由だったトミーもまたマネージャーとして彼らの活動を支えていた。

 ちなみに、ダニーは1971年に"Go Away Little Girl"で全米1位を記録している。また翌年には、"Puppy Love"で3位になっているし、マリー・オズモンドも1973年に"Paper Roses"をヒットさせている。

 彼らの特長として挙げられるのは、それぞれが楽器を担当してきちんと演奏できる点だった。歌もコーラスも上手なうえに演奏もできるとなれば、まさに鬼に金棒、さすがアメリカのエンターテインメント業界はレベルが高いようだ。

 最後に、自分が好きな曲は"Crazy Horses"と"Goin' Home"で、自分にとっては、一度聞いたら忘れられないほど印象的なメロディーと演奏だった。

 70年代は、まさにロックの時代といっていいほど、様々な種類のロック・ミュージックが百花繚乱のごとく咲き乱れていくのだが、その中でもしぶとく生き残ったオズモンド・ブラザーズは、やはり只者ではなかったと思う。Brothers024

 それは"One Bad Apple"のようなR&B的要素を持つ曲だけでなく、ロック的な雰囲気を持つ"Hold Her Tight"、"Crazy Horses"、今でいうポップ・ロック的な"Goin' Home"など、ロックの時代でも十分鑑賞に堪えうる曲を準備していたからで、しかもこれらの曲のほとんどは、彼ら自身のオリジナル曲だった。

 彼らは、意識しながら時代に対峙していた。その結果が、多くの名曲に繋がり、いまだに彼らのことを忘れられないファンの存在に至っているのだろう。

 もちろん彼らの成功の裏には、運命的な出会いもあるのだが、そういう運を引き寄せる実力を備えていたのは間違いない。彼らは単なる地方出身のコーラス・グループではなかったのである。自分は、あらためてオズモンド・ブラザーズの素晴らしさを知ることができたと思っている。

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