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2017年3月

2017年3月27日 (月)

追悼;レナード・コーエン

 初めてレナード・コーエンの写真を見たときに思ったのは、ダスティン・ホフマンに似ているなという単純なことだった。ただ、ダスティン・ホフマンは小柄だったが、レナード・コーエンの方は大きく見えた。70e5c4f504d11435d7e35bb5e72c3726_2
 レナード・コーエンは、1934年の9月にカナダのモントリオールに生まれた。裕福な家庭で育ったようだが、9歳の頃に父親を病気で亡くしている。

 もともと彼は、詩人だった。カナダでは有名な詩人だったようで、日本でも彼の詩集が販売されていたらしい。
 詩人としての活動歴は、1950年代半ばから60年代後半までだった。それまで4冊の詩集を出版していて、本国カナダでは文学賞みたいなものも受賞していた。

 レナードの母はロシア人で、歌うことが好きだったようだ。彼が子どもの頃、母親は家の中でよく歌っていて、幼いレナードはそれを聞いて育っていった。
 中学生くらいになってギターを弾き始めると、母親は息子の友だちと一緒に近くのレストランに行って夜遅くまで子どもたちと一緒に歌を歌っていたという。

 ある意味、彼が音楽の道を志すようになったのも、“天の配剤”みたいなものがあったのかもしれない。

 高校生になると、音楽と詩文を勉強するようになり、近所に住む若いスペイン人から簡単なコードとフラメンコを学び、“バックスキン・ボーイズ”というフォーク・グループを結成して活動を行っていた。

 彼が音楽業界に足を踏み入れるきっかけになったのは、ジュディ・コリンズが彼の作った曲"Suzanne"を歌ってヒットさせたことによる。1967年のことだった。

 詩人としての評価は高かったものの、経済的な面では恵まれず、詩集としての売り上げもあまり期待できなかった。

 それで彼はアメリカにわたり、ニューヨークでアンディ・ウォーホールと親交を結ぶようになった。そこではニコの歌に興味を惹かれたようで、時間があればニコのステージに駆けつけては、よく彼女の歌を聞いていた。ひょっとしたら恋心もあったのかもしれない。

 それでレナードは、ニコからの影響を受けた曲"Suzanne"を作って歌っていたのだが、ジュディ・コリンズが言うには、レナード自身がこの歌は平凡な歌なので、自分はもう歌えないと思っていたようだ。

 ジュディ・コリンズは、ある晩、レナードをステージに立たせてこの"Suzanne"を歌わせたのだが、案の定、レナードは、途中で歌うのをやめてしまい、バックステージに戻ってしまった。
 おさまらないのは聴衆の方である。ほとんどの人が総立ちになり、彼にステージ戻ってくるように叫んでいたという。

 それを見ていたジュディは、嫌がるレナードを無理やりステージに引っ張り出し、一緒にデュエットしたのである。

 その後、ジョーン・バエズなども彼の歌を取り上げるようになり、徐々に彼の名前は知れ渡っていった。もちろん、シンガー・ソングライターとしてである。

 そして、ボブ・ディランとの契約の経験もあるコロンビア・レコードのジョン・ハモンドが彼に契約を薦め、デビューさせた。その時、レナードは34歳だった。

 遅咲きのデビューだったが、元々文才があり詩人としての評価が高かったから、彼の書く詩は比喩に満ちていて一筋縄ではいかないものもあり、文学的な香りを放っていた。
 それにルー・リードのように呟くような歌い方も、多くのファンをひきつける結果につながったようだ。

 最初のアルバム「レナード・コーエンの歌」は、1967年に発表された。アルバムの冒頭には"Suzanne"が収められていた。51rqmamv1xl
 また、5曲目には"Sisters of Mercy"という曲が収められていたが、これはのちに70年代のイギリスのニュー・ウェイヴ・バンドが自分たちのバンド名に冠している。

 日本ではあまり人気があるとは思えないのだが、諸外国では影響力の強いミュージシャンとして評価が高い。

 自分たちのバンドの名前につける人も出てくるし、60年代はジュディ・コリンズやジョーン・バエズ、ティム・ハーディンなどが、70年代ではバフィ・セント・マリーやニック・ケイヴなども彼の曲をカバーしている。

 だいたい1984年の彼の曲"Hallelujah"1曲だけとっても、ジョン・ケイルやジェフ・バックリーのほか、k.d.ラング、ルーファス・ウェインライト、マイケル・マクドナルドにウィリー・ネルソン等、ロックやポップ、カントリー・ミュージック等の幅広い分野にまたがって、カバーされている。

 もちろん他の曲でも、ドン・ヘンリーやマリアンヌ・フェイスフルなどの大物ミュージシャンからカバーされていて、レナード・コーエンの人気と評価の高さがうかがい知ることができるだろう。

 この辺は日本にいては、なかなか理解できないところだ。やはり、彼の綴る詩文のような歌詞の内容が日本人にはわかりにくいのかもしれない。

 また、彼は恋多き男性でもあった。しかも恋をするたびに、その女性を自分の書いた曲の中に登場させて切々と歌うのである。書かれた女性は(永久的に残るわけだから)、ますます彼のことが忘れなくなってしまうだろう。

 そんな彼の初期の曲を知るには、やはりベスト盤が一番だ。60年代から70年代の半ばにかけて発表された彼の4枚のスタジオ・アルバムの中から12曲が選ばれている。51usqbwngl
 ただこのアルバムの中で聞くことができる彼の曲は陰鬱で、決して明るくはない。むしろロック・ミュージックとは真逆に位置している。
 自分はこの手の音楽が苦手で、どうしても敬遠してしまう。1つ1つの曲はいいのだが、全体を通して聞くと、同じような印象が残ってしまい、気分が何となく晴れないのだ。

 ベスト盤とはいえ曲調はどれも似たようなもので、もう少し躍動感があったり、明るい雰囲気があれば、日本でももっと人気が出たように思える。

 一説によれば、彼は若い頃からうつ病にかかっていたといわれていたが、よくわからなかった。確かにそれも言えるかもしれないが、いつもいつも病気だったというわけではないだろう。

 レナードは、まさに芸術家肌のようで、音楽活動を続けながらも詩集や本を出版していた。それは21世紀になっても続いていた。

 当然のことながら、音楽活動も盛んで、2008年にはロックの殿堂入りを果たし、2016年にはニュー・アルバム「ユー・ウォント・イット・ダーカー」を発表した。
 プロデューサーは、息子のアダム・コーエンで、親子二人三脚で作り上げたアルバムだった。61n2vll8kl__sl1500_
 82歳になっているにもかかわらず、衰え尽きぬ創作活動を続けていたが、内容的には2年前の「ポピュラー・プロブレンズ」、4年前の「オールド・アイデアズ」と併せて、迫りくる死期を見据えたものになっていた。

 ただ、最後のアルバムだと本人も意識していたようで、死を覚悟したような悟りの境地のように、静寂で美しい曲で占められている。ラスト・メッセージだったのだろう。

 2016年の11月7日、癌のために亡くなった。享年82歳だった。2016年にボブ・ディランがノーベル文学賞を受賞したが、ボブ・ディランが受賞するなら、レナード・コーエンも受賞してもおかしくないだろうと思っている。

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2017年3月20日 (月)

Suchmos

 最近、知人から2枚のCDが送られてきた。それには簡単なメモがついていて、テレビのCMで彼らのことを知った、デビュー・アルバムはなかなか気に入ったので、ぜひ一度聞いてほしい、というようなことが書かれていた。

 そのアルバムでパフォーマンスをしていたのは、Suchmosというバンドだった。自分はバンド名から想像して、きっとジャズか、フュージョン系のバンドだろうと思っていた。
 また、ルイ・アームストロングのような、トランペットのような管楽器もフィーチャーされているいるのだろうと、勝手に想像していた。Vhrwafie

 ところが、送られてきたCDを聞いてビックリした。全然、ジャズでもフュージョンでもなかったからだ。
 また、自分も某クルマ会社のCMに使われていた曲には興味をもっていたのだが、その曲をやっていたのが、このSuchmosだったとは知らなかった。だから、もう少し彼らのアルバムを聞いてみようと思ったし、彼らのことを調べてみようと考えた。

 それでわかったことは、バンド名の読み方が“サッチモズ”と思っていたら、実際は“サチモス”と短く読むということだ。
 しかも、最近のバンドでもあり、結成されてまだ4年程度で、平均年齢25歳程度の若者たちということも知った。

 出身は神奈川県の横浜や茅ヶ崎などで、遊び友達がそのままバンド結成に至ったようだ。そういう意味では、お互いに気心が知れた関係なのだろう。

 2013年頃からバンド活動を始め、2015年にデビューEP「エッセンス」を発表して、同年の7月にはオリジナル・アルバムの「ザ・ベイ」を発表した。
 全12曲入りのこのアルバムは、基本的には“Japanese R&B”もしくは“Japanese Funky Music”だろう。51ynob4y7l

 このCDを送ってくれた私の知人は、昔からこの手の音楽が好きだった。例えば、南佳孝とか寺尾聰などであり、ジャズはジャズでも渡辺香津美などのフュージョン・ミュージックなどだ。
 また、洋楽ではボズ・スキャッグスやボビー・コールドウェルのようなモダンなR&Bやアール・クルーのようなフュージョン系も大好きで、ビルボードライヴ大阪までよく見に行く人なのである。

 よく考えたら、70年代後半に流行した“ソフト&メロウ”や“クロスオーヴァー”系の音楽だ。私も含めて、この時代に青春を過ごした人は、なかなか70年代の呪縛から逃れられないようで、どうしても耳がいってしまう。

 それでこのアルバム「ザ・ベイ」はとてもよくできていて、当時のその手の音楽が好きな人なら、一発で虜にさせられるような雰囲気に満ちている。

 まず、けだるいボーカル・スタイルで、厭世観や終末観と少しの希望が入り混じったシンギング・スタイルは、行く先不透明な現代社会の若者の声を代弁しているようだ。

 次にファンキーなリズム・セクションとクールなギターのカッティングは、まさに70年代当時の再現だろう。
 しかも、単なるモノマネで終わっているのではなく、洋楽とも対等に勝負できる高度なレベルまでもっていっているのだから、大したものである。若者のみならず、40代、50代のシニアの心までとらえてしまうのも当然のことだろう。

 このアルバム制作当時の彼らの平均年齢は、23歳ぐらいだっただろうから、本当に素晴らしい。日本の音楽制作レベルも、世界標準まで近づいたような、そんな気もしてきた。

 セカンド・アルバムの「ザ・キッズ」は、2017年の1月に発表された。この中に収められていた"Stay Tune"が、某クルマのCMに使用されたのだ。712hy3wjnnl__sl1094_
 自分は最初、CMで流されていた曲を聞いて、これは70年代のカシオペアやスペクトラム、もしくはT-スクエアなどのフュージョン系のバンドの曲に歌詞をつけたのだろうと思っていた。それくらい昔の雰囲気に溢れていたからだ。

 特にTV-CMで使用された“Stay Tune in 東京 Friday Night”のところのフレーズは、いつまでも頭の中に、それこそ“Stay Tune”していた。

 ただ、セカンド・アルバムは、1作目よりはキーボードの音が全体的に目立っていて、無機質で、かつ空間的な広がりを演出しているようだった。ギターの音も、例えば10曲目の"We Are Alone"の後半で聞かれるように、かなり頑張っている。
 それにまた、よりダンサンブルでファンキーなサウンドや曲で占められていて、彼らの成長した姿が伺えるようだ。

 逆に言うと、ハードなロック的部分は後退していて、彼らの今後の活動方針というか、音楽的に進む道がクリアになったような気がした。

 世間では“日本のジャミロクアイ”と呼んでいるみたいだが、確かに同様な音楽性は有しているし、メンバーの内の何人かは、ジャミロクワイの音楽が好きだと公言している。

 ジャミロクアイが好きであろうがなかろうが、そんなことはあまり重要ではないだろう。それよりむしろ、「~みたいな音楽」とか「~のようなバンド」と呼ぶことが問題で、それならオリジナルのジャミロクアイやマルーン5を聞けばいい話だ。

 だから、むしろSuchmosには、日本のバンドとしてのオリジナリティを確立してほしいのだ。日本風のファンク・ミュージックやR&Bサウンドをパッケージした音楽を創造してほしいと願っている。

 例えば、もっとDJのスクラッチやミキシングを取り入れたり、管楽器やストリングスを入れた日本人好みのウェットな感覚を取り入れてみても面白いと思う。

 それに歌詞に含まれている独特の世界観というか感性は、今の若者に受け入れられていることからも分かるように、他のバンドにはない素晴らしいものがある。この辺は今後も磨いていってほしいものだ。そうすれば、世界でも通用するバンドに大きく飛躍するに違いない。1

 とにかく、日本のバンドやJ-POPもこれだけ成長しているということを証明しているような存在感のあるバンドだった。これからますます輝いていくだろうし、日本のミュージック・シーンを牽引していくことは、間違いないだろう。ひょっとしたら、バンド名以上の存在になる日も近いのかもしれない。

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2017年3月13日 (月)

ポール・ネルソン・バンド

 2014年の7月16日に、ブルーズ・ギタリストであるジョニー・ウインターが亡くなった。“100万ドルのギタリスト”とも言われていたジョニーだったが、享年70歳だった。

 彼のことについては、何度かこのブログでも取り上げていたので、詳細については割愛するが、自分にとってはロック・ミュージックとブルーズを繋いだ最後のブルーズ・ギタリストだった。

 そのジョニーの晩年を支えたミュージシャンが、ポール・ネルソンである。彼の年齢は非公開になっていてよくわからないのだが、デビューが1990年代なので、おそらくは40歳代後半から50歳代始めあたりだろう。56708215thepaulnelsonbandtoreleaseb
 生まれはニューヨークのマンハッタンで、影響を受けたミュージシャンは、レッド・ゼッペリンにエアロスミス、ZZトップ、ジェフ・ベック、そしてもちろんジョニー・ウインターなどだった。

 学生の頃からバンド活動を始め、バークリー音楽院に進んで音楽理論を学び、その後はスティーヴ・ヴァイから直接ギター奏法や採譜などの指導も受けたようだ。

 公式のバイオグラフィーでは、まだアマチュア時代のときにデモ曲を発表しているが、正式のソロ・デビュー・アルバムは、2001年の「ルック」という5曲入りのインストゥルメンタル・ミニ・アルバムだった。5109bs4j3al__ss500
 このアルバムでは、ロックやフュージョンと様々なスタイルの曲を弾きこなしていて、まさに新時代に相応しいニュー・ギタリストの登場といったものだった。

 そんな彼がジョニーと出会ったのは、2003年である。ポールは、アメリカン・フットボールの団体用に曲を録音していた時、スタジオの隣ではジョニーがアルバムを録音していた。
 その時、ジョニーがたまたまポールの弾く曲を耳にして、自分のアルバム用にも曲を書いてくれと頼んだことから親交が始まった。

 それから、もう2曲ほどジョニーのアルバムのために曲を提供し、その2曲を含む他の曲でも演奏を行った。
 ジョニーは、その演奏をいたく気に入ったようで、ライヴでも一緒に演奏してほしいと頼んで、ポールがいつからと聞くと、明日イギリスに行くからという答えが返ってきたという。

 何とも急な話だが、その時ジョニーは健康問題を抱えていて、思うようにミュージシャンを集めることもできなかったからと言われている。
 また、のちにマネージャーも頼まれたというから、健康面だけでなく経済的にも逼迫していたようだった。

 面白いことに、他のギタリストはみんなジョニーとギター・バトルをやりたがって来るのに、ポールはジョニーのギターが前面に出るように意識してレコーディングに参加していた。
 このことがジョニーがポールのことを気に入った理由になったようで、これ以降、ポールがジョニーのバンド・メンバーになり、レコーディングのエンジニアやプロデューサーを担当するようになっていった。

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 結局、それ以降、ポールはジョニーと同行して、ヨーロッパのツアーや3回にもわたる日本でのライヴ公演にも帯同していた。

 ジョニーがスイスのチューリッヒで亡くなったときも、ポールは彼と一緒にホテルに滞在していて、病院に連れて行ったのもポールだった。
 ジョニーは抗生物質を飲まされて、その後ホテルに戻って休んだらしいが、そのまま帰らぬ人になってしまった。苦しまずに安らかに眠ったようだ。

 そんなポールがジョニー亡き後、彼の遺志を引き継ぐような形でアルバムを制作し、発表した。それが昨年発表された「バッドアス・ジェネレーション」だったのである。

 全12曲で、ブルーズ一本やりではなくて、"Good Bye Forever"のようなブギー調もあれば、"Cold Hearted Mama"のようなロックン・ロールも収められている。前者はZZトップのようで、後者はエアロスミスの曲のようだった。

 また、アコースティックな味わいの"Please Come Home"や、タイトル通りアメリカ南部のスワンプな感じの"Swamp Thing"など、バラエティに富んでいるのも特徴的だ。

 ただ、共通しているのは、ポール・ネルソンのギターが全面的にフィーチャーされていることである。今どきこういうギター・サウンド全開のアルバムは、珍しいのではないだろうか。ある意味、アナクロニズムというか、いまは1970年代か、と自問してしまいそうな感じだが、それがある一定以上の年齢の人にはカッコイイのである。71dao6vp92l__sl1417_ ブルーズ一辺倒というわけではないし、アメリカ社会の多様性を反映しているようなバラエティに富んでいるところも捨てがたい。ジョニーの遺志を引き継ぐのなら、ブルーズ・アルバムだと思うのだが、初期のジョニーのように、ロックからブルーズと幅広く演奏している。

 しかも国内盤も発売されていた。それだけ需要が見込まれているから発売されたのだろうが、これだけ洋楽アルバムのみならず、CD全体の売り上げも減少している中で、ギター・オリエンティッドなアルバムが果たしてどれだけ売れるのか疑問にも思える。

 いくら日本でジョニー・ウインターの人気があったといえ、それだけを見込んで発売されたとは思えないのだが、どうだろうか。

 このアルバムが発売元のソニー・ミュージックの売り上げ予想を超えれば、2枚目、3枚目と発売されていくだろうが、果たして今の日本でどれだけ需要があるのかよくわからない。もちろん個人的には、ぜひ売れてほしいと願っている。

 課題は、曲の持つメロディラインなどの魅力だろう。どの曲も平均点以上の出来栄えなのだが、これはといったインパクトを持つ曲が見当たらない。彼が第二のジョニー・ウインターやスティーヴィー・レイ・ヴォーンになれるかどうかは、ひとえにこの点にかかってくるだろう。Maxresdefault
 現在、ポールは、ポール・ネルソン・バンドとしてツアーを行っている。世界中を回って、ブルーズやロックン・ロールの素晴らしさや、ジョニー・ウインター直伝のブルーズ・パワーを発揮して聴衆を魅了していることだろう。
 彼のような音楽が、もっと日本でも広く認められるようになり、人気が出てくることを願っている。

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2017年3月 6日 (月)

追悼;グレッグ・レイク

 昨年の12月7日、グレッグ・レイクが亡くなった。まだ69歳だった。彼もジョン・ウェットンと同じように、癌で長い間闘病中だったそうだ。彼の死亡について、まだ追悼記事を書いていなかったので、今回、彼の活動歴を記すことで、あらためて彼の冥福を祈りたい。08greglake_w1200_h630
 グレッグ・レイクは1948年11月10日に、イギリスのボーンマスで生まれた。12歳頃からギターを弾き始め、すぐにバンド活動を行うようになった。

 1967年に、友だちのリー・カースレイクに誘われて、ゴッズというバンドに加入した。そのバンドには、ケン・ヘンズレーというキーボード・プレイヤーがいて、リーとケンはのちにユーライア・ヒープというハード・ロック・バンドを結成している。

 ちなみに、このゴッズの初代ギタリストは、のちにローリング・ストーンズでも活躍したミック・テイラーだった。今から考えればスーパー・バンドだったといえるかもしれないが、当時は、誰もそんな有名人を輩出するバンドだとは思っていなかったに違いない。

 ゴッズはレーベル契約し、アルバム録音を始めようとした矢先に、グレッグはバンドを脱退している。
 理由は、同郷の友人であるロバート・フリップに誘われたからで、ジャイルズ・ジャイルズ&フリップにボーカル&ギタリストとして参加して、やがてこれがキング・クリムゾンに発展していった。

 キング・クリムゾンは1968年に結成され、翌年、歴史的な大傑作アルバム「クリムゾン・キングの宮殿」を発表し、バンドはアメリカ・ツアーに出発した。Fd3b5248c1cf337aeedda8a72d559b8570c
 アメリカ・ツアー中にナイスと一緒になり、グレッグはナイスのキーボーディストだったキース・エマーソンと意気投合して、バンド結成を考えるようになった。

 やはり、プロのミュージシャンならば、いつかは自分のバンドを持つか、あるいは自分自身の手によってコントロールされた活動を望むようになるのだろう。
 幼馴染とはいえ、いつまでもロバート・フリップなどによって指図されたくなかったのではないだろうか。

 グレッグ・レイクは自意識が強く、またプライドも高かったようで、常に自分が前に出ないと気が済まない性格だった。
 実際は、作曲や編曲、制作面の実権はキース・エマーソンが行っていたにもかかわらず、クレジットでは、プロデュースド・バイ・グレッグ・レイクとなっていた。キースがグレッグに対して配慮していたのである。そうしないと、バンド運営が困難になるからだった。

 グレッグは、ロバート・フリップにも声をかけ、エマーソン、レイク、パーマー&フリップを結成するつもりだったが、ロバートが直前になって回避したため、結局、E,L&Pとして活動を始めたのである。Elp
 彼ら3人組は、約10年間で10枚のアルバムを発表した後に、1979年に解散してしまった。グレッグは、ソロ活動を開始し、ゲイリー・ムーアやスティーヴ・ルカサー等をゲスト・ミュージシャンに迎えて、ソロ・アルバムを発表した。

 1983年には一時、エイジアに加わるものの、すぐに脱退して、1985年にはキース・エマーソンとコージー・パウエルとともに、エマーソン、レイク&パウエルを結成し、アルバムを発表した。ただ、このバンドは長続きせず、アルバム1枚だけで解散してしまった。

 本当はもう少し長く続けるつもりだったのだが、ツアー時の費用がかかりすぎてしまい、セカンド・アルバム録音用にとっておいた予算まで使ってしまったらしい。

 ツアーの途中で続けるかどうかバンド内で協議したらしいのだが、グレッグが執拗に継続を主張したため、結局、最後までツアーを続けたということだった。長期的な展望に立つこともなく、目先の利益を追求したということだろう。

 1987年にはE,L&Pの再結成リハーサルが行われたが、何故かグレッグは元エイジアのジェフ・ダウンズとライド・ザ・タイガーというバンドを結成した。ところが、今度はジェフがエイジアの再結成に参加したため、このバンドも途中で空中分解してしまった。

 1992年になって機が熟したのか、やっとE,L&Pの再結成が行われ、「ブラック・ムーン」や「ライヴ・アット・ロイヤル・アルバート・ホール」、「イン・ザ・ホット・シート」と3枚のアルバムを発表している。

 21世紀に入ると、リンゴ・スター&ヒズ・オール・スター・バンドに参加して、あの有名なクリムゾンの"The Court of the Crimson King"などを歌っていた。ちょっと微妙な気がするが、それでもオリジナル・メンバーだった人のボーカルなのだから、居合わせた人はラッキーだっただろう。今となっては、生ではもう二度と聞くことはできないのだから。

 その後は、グレッグ・レイク・バンドを結成して、ツアー活動を出向いたり、チャリティー活動を行っていたが、2010年には、キース・エマーソンと“エマーソン&レイク”を結成して、アコースティック・ライヴ活動を行っている。Greglake_2
 同年にはE,L&P結成40周年記念ということで、ロンドンで行われた“ハイ・ヴォルテージ・フェスティバル”で一度限りの再再結成を行った。このライヴの模様は、CDやDVDとしてのちに発表されている。

 その後のグレッグは、2013年までソロ・ツアーを続けた。そこでは、クリムゾンやE,L&Pの歌だけではなく、自分が子どもの頃に好きだったエルヴィス・プレスリーの曲や、この世界に足を踏み入れるきっかけにもなった好きなミュージシャンの曲なども歌っていたという。

 キース・エマーソンの言葉を借りれば、E,L&Pはお互いのエゴのぶつかり合いが激しくて、その微妙なバランスの上に成り立っていたようだ。キース・エマーソンは作曲に没頭していて、それ以外のことにはなるべく口を出さなかったらしい。

 だから楽曲のクレジットもなるべく3人が公平になるように図らった。ステージでは、キースのピアノがせり出して回転するようになれば、カールのドラム・セットも空中に浮遊し、回転するように演出した。

 スタジオでは、マスタリングの際に、カールとグレッグは自分のパートの音量が残りの2人の音量より低いと文句を言って、それぞれがボリューム・レベルを最大限まで上げようとした。
 最後は、3人とも自分の音量があとの2人以上になるようにフェーダーを上げ続けたのだが、最終的には、エンジニアが逆にマスターの音量を下げざるをえなかったといわれている。

 そんなエゴイストのグレッグが、これまたエゴ・ギタリストと組んだアルバムが1981年の「グレッグ・レイク&ゲイリー・ムーア」だった。1075143
 このアルバムは結構好評で、各国で好意的に迎えられた。時流はNWOBHM(ニュー・ウェイヴ・オブ・ブリティッシュ・ヘヴィ・メタル)だったから、この手の音楽も受け入れられやすかったのだろう。
 と同時に、80年代に入ってもグレッグの奥行きのあるテノール・ボーカルを聞くことができるというファン心理も背景にあったのかもしれない。

 とにかく、冒頭の"Nuclear Attack"や途中の"Long Goodbye"など、ゲイリー・ムーアのギターがフィーチャーされているからメタル・ファンにとっても聞き逃せないだろうし、逆にバラード調の"It Hurts"などは、グレッグのボーカルの特徴がよく出ていて、昔からのファンは涙したに違いない。

 グレッグ・レイクとゲイリー・ムーアのことだから、この1枚で終わってしまうだろうと思っていたのだが、何と2年後には2枚目のコラボレーションのアルバム「マヌーヴァーズ」を発表した。

 ただ“柳の下の二匹目の泥鰌”の言葉通りに、このアルバムはコケてしまった。内容的に散漫な印象が残ったのだろう。エイジア風の曲もあれば、AOR風な曲やゲイリー・ムーアがフィーチャーされたヘヴィ・メタルのような曲もあって、リスナーとしても戸惑ったようだ。Fc2blog_20141206072933ebc
 グレッグ・レイクのソロ・スタジオ・アルバムは、結局、この2枚だけになってしまった。結構、芸歴は長かったのだが、たった2枚とは少ない気がしてならない。

 要するにこの人は、他の人をライバル視することで自分を高めていこうというミュージシャンだったようだ。

 自分自身の表現活動がボーカルとベース・ギターだけになることを嫌ってクリムゾンを去ったが、新しいバンドでは、他の2人と競い合いながらも自分の表現欲求を満たすことができたようだった。もちろん、キース・エマーソンの寛大な思いやりがあったからだが、果たしてグレッグは、それに気づいていたかどうかは、定かではない。

 ソロ活動では十分な成果を出せなかったし、期待にも応えられなかったことが原因になったからだろう。結成40周年記念を祝うなど、最後までE,L&Pに固執していたことは間違いないはずだ。

 そのE,L&Pのうち、“E”と“L”はあの世に行ってしまった。きっと2人でアコースティック・セッションを繰り広げているだろう。アコースティックとはいえ、きっとお互いのスピーカーの音量のことでもめているに違いない。

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