« サーカ(2) | トップページ | ポール・ネルソン・バンド »

2017年3月 6日 (月)

追悼;グレッグ・レイク

 昨年の12月7日、グレッグ・レイクが亡くなった。まだ69歳だった。彼もジョン・ウェットンと同じように、癌で長い間闘病中だったそうだ。彼の死亡について、まだ追悼記事を書いていなかったので、今回、彼の活動歴を記すことで、あらためて彼の冥福を祈りたい。08greglake_w1200_h630
 グレッグ・レイクは1948年11月10日に、イギリスのボーンマスで生まれた。12歳頃からギターを弾き始め、すぐにバンド活動を行うようになった。

 1967年に、友だちのリー・カースレイクに誘われて、ゴッズというバンドに加入した。そのバンドには、ケン・ヘンズレーというキーボード・プレイヤーがいて、リーとケンはのちにユーライア・ヒープというハード・ロック・バンドを結成している。

 ちなみに、このゴッズの初代ギタリストは、のちにローリング・ストーンズでも活躍したミック・テイラーだった。今から考えればスーパー・バンドだったといえるかもしれないが、当時は、誰もそんな有名人を輩出するバンドだとは思っていなかったに違いない。

 ゴッズはレーベル契約し、アルバム録音を始めようとした矢先に、グレッグはバンドを脱退している。
 理由は、同郷の友人であるロバート・フリップに誘われたからで、ジャイルズ・ジャイルズ&フリップにボーカル&ギタリストとして参加して、やがてこれがキング・クリムゾンに発展していった。

 キング・クリムゾンは1968年に結成され、翌年、歴史的な大傑作アルバム「クリムゾン・キングの宮殿」を発表し、バンドはアメリカ・ツアーに出発した。Fd3b5248c1cf337aeedda8a72d559b8570c
 アメリカ・ツアー中にナイスと一緒になり、グレッグはナイスのキーボーディストだったキース・エマーソンと意気投合して、バンド結成を考えるようになった。

 やはり、プロのミュージシャンならば、いつかは自分のバンドを持つか、あるいは自分自身の手によってコントロールされた活動を望むようになるのだろう。
 幼馴染とはいえ、いつまでもロバート・フリップなどによって指図されたくなかったのではないだろうか。

 グレッグ・レイクは自意識が強く、またプライドも高かったようで、常に自分が前に出ないと気が済まない性格だった。
 実際は、作曲や編曲、制作面の実権はキース・エマーソンが行っていたにもかかわらず、クレジットでは、プロデュースド・バイ・グレッグ・レイクとなっていた。キースがグレッグに対して配慮していたのである。そうしないと、バンド運営が困難になるからだった。

 グレッグは、ロバート・フリップにも声をかけ、エマーソン、レイク、パーマー&フリップを結成するつもりだったが、ロバートが直前になって回避したため、結局、E,L&Pとして活動を始めたのである。Elp
 彼ら3人組は、約10年間で10枚のアルバムを発表した後に、1979年に解散してしまった。グレッグは、ソロ活動を開始し、ゲイリー・ムーアやスティーヴ・ルカサー等をゲスト・ミュージシャンに迎えて、ソロ・アルバムを発表した。

 1983年には一時、エイジアに加わるものの、すぐに脱退して、1985年にはキース・エマーソンとコージー・パウエルとともに、エマーソン、レイク&パウエルを結成し、アルバムを発表した。ただ、このバンドは長続きせず、アルバム1枚だけで解散してしまった。

 本当はもう少し長く続けるつもりだったのだが、ツアー時の費用がかかりすぎてしまい、セカンド・アルバム録音用にとっておいた予算まで使ってしまったらしい。

 ツアーの途中で続けるかどうかバンド内で協議したらしいのだが、グレッグが執拗に継続を主張したため、結局、最後までツアーを続けたということだった。長期的な展望に立つこともなく、目先の利益を追求したということだろう。

 1987年にはE,L&Pの再結成リハーサルが行われたが、何故かグレッグは元エイジアのジェフ・ダウンズとライド・ザ・タイガーというバンドを結成した。ところが、今度はジェフがエイジアの再結成に参加したため、このバンドも途中で空中分解してしまった。

 1992年になって機が熟したのか、やっとE,L&Pの再結成が行われ、「ブラック・ムーン」や「ライヴ・アット・ロイヤル・アルバート・ホール」、「イン・ザ・ホット・シート」と3枚のアルバムを発表している。

 21世紀に入ると、リンゴ・スター&ヒズ・オール・スター・バンドに参加して、あの有名なクリムゾンの"The Court of the Crimson King"などを歌っていた。ちょっと微妙な気がするが、それでもオリジナル・メンバーだった人のボーカルなのだから、居合わせた人はラッキーだっただろう。今となっては、生ではもう二度と聞くことはできないのだから。

 その後は、グレッグ・レイク・バンドを結成して、ツアー活動を出向いたり、チャリティー活動を行っていたが、2010年には、キース・エマーソンと“エマーソン&レイク”を結成して、アコースティック・ライヴ活動を行っている。Greglake_2
 同年にはE,L&P結成40周年記念ということで、ロンドンで行われた“ハイ・ヴォルテージ・フェスティバル”で一度限りの再再結成を行った。このライヴの模様は、CDやDVDとしてのちに発表されている。

 その後のグレッグは、2013年までソロ・ツアーを続けた。そこでは、クリムゾンやE,L&Pの歌だけではなく、自分が子どもの頃に好きだったエルヴィス・プレスリーの曲や、この世界に足を踏み入れるきっかけにもなった好きなミュージシャンの曲なども歌っていたという。

 キース・エマーソンの言葉を借りれば、E,L&Pはお互いのエゴのぶつかり合いが激しくて、その微妙なバランスの上に成り立っていたようだ。キース・エマーソンは作曲に没頭していて、それ以外のことにはなるべく口を出さなかったらしい。

 だから楽曲のクレジットもなるべく3人が公平になるように図らった。ステージでは、キースのピアノがせり出して回転するようになれば、カールのドラム・セットも空中に浮遊し、回転するように演出した。

 スタジオでは、マスタリングの際に、カールとグレッグは自分のパートの音量が残りの2人の音量より低いと文句を言って、それぞれがボリューム・レベルを最大限まで上げようとした。
 最後は、3人とも自分の音量があとの2人以上になるようにフェーダーを上げ続けたのだが、最終的には、エンジニアが逆にマスターの音量を下げざるをえなかったといわれている。

 そんなエゴイストのグレッグが、これまたエゴ・ギタリストと組んだアルバムが1981年の「グレッグ・レイク&ゲイリー・ムーア」だった。1075143
 このアルバムは結構好評で、各国で好意的に迎えられた。時流はNWOBHM(ニュー・ウェイヴ・オブ・ブリティッシュ・ヘヴィ・メタル)だったから、この手の音楽も受け入れられやすかったのだろう。
 と同時に、80年代に入ってもグレッグの奥行きのあるテノール・ボーカルを聞くことができるというファン心理も背景にあったのかもしれない。

 とにかく、冒頭の"Nuclear Attack"や途中の"Long Goodbye"など、ゲイリー・ムーアのギターがフィーチャーされているからメタル・ファンにとっても聞き逃せないだろうし、逆にバラード調の"It Hurts"などは、グレッグのボーカルの特徴がよく出ていて、昔からのファンは涙したに違いない。

 グレッグ・レイクとゲイリー・ムーアのことだから、この1枚で終わってしまうだろうと思っていたのだが、何と2年後には2枚目のコラボレーションのアルバム「マヌーヴァーズ」を発表した。

 ただ“柳の下の二匹目の泥鰌”の言葉通りに、このアルバムはコケてしまった。内容的に散漫な印象が残ったのだろう。エイジア風の曲もあれば、AOR風な曲やゲイリー・ムーアがフィーチャーされたヘヴィ・メタルのような曲もあって、リスナーとしても戸惑ったようだ。Fc2blog_20141206072933ebc
 グレッグ・レイクのソロ・スタジオ・アルバムは、結局、この2枚だけになってしまった。結構、芸歴は長かったのだが、たった2枚とは少ない気がしてならない。

 要するにこの人は、他の人をライバル視することで自分を高めていこうというミュージシャンだったようだ。

 自分自身の表現活動がボーカルとベース・ギターだけになることを嫌ってクリムゾンを去ったが、新しいバンドでは、他の2人と競い合いながらも自分の表現欲求を満たすことができたようだった。もちろん、キース・エマーソンの寛大な思いやりがあったからだが、果たしてグレッグは、それに気づいていたかどうかは、定かではない。

 ソロ活動では十分な成果を出せなかったし、期待にも応えられなかったことが原因になったからだろう。結成40周年記念を祝うなど、最後までE,L&Pに固執していたことは間違いないはずだ。

 そのE,L&Pのうち、“E”と“L”はあの世に行ってしまった。きっと2人でアコースティック・セッションを繰り広げているだろう。アコースティックとはいえ、きっとお互いのスピーカーの音量のことでもめているに違いない。


« サーカ(2) | トップページ | ポール・ネルソン・バンド »

プログレッシヴ・ロック」カテゴリの記事

コメント

 グレッグ・レイクの追悼記事しっかり読ませて頂きました。彼の多様な人生模様はなかなか一筋縄では行かなかったところを十分知らしめて頂きました。
 彼のファンからすれば、叱られるかも知れませんが、私は彼はクリムゾン、E.L.Pで十分でした。特に展覧会の絵のヴォーカルが最終的には私にとっては全てでした。
 今にしてプロフェッサー・ケイさんのお話しで、そうだったのかとうなずいています。ここまで彼の人生を纏めてくれたケイさんに感謝です。

投稿: 風呂井戸(photofloyd) | 2017年3月 7日 (火) 22時22分

 コメントありがとうございました、風呂井戸さま。
少し遅れましたが、何とかグレッグ・レイクのことを書きたいと思っていて、やっとそれができました。

 自分は、彼の深みのあるボーカルが好きで、できればもっとクリムゾンで歌ってほしかったと思っていました。でも、ジョン・ウェットンの声もしっとりとしていたので、グレッグのことは忘れることができました。

 上には書かなかったけれど、グレッグとロバート・フリップは子どもの頃、同じギター教師に習っていて、その時は、グレッグの方が上手だったようです。
 でも、クリムゾンではフリップの方がギタリストとして評価されていたので、グレッグとしては面白くなかったのでしょう。

 あっさりとクリムゾンを辞めたのも、そういうライバル意識も手伝ったのではないでしょうか。

投稿: プロフェッサー・ケイ | 2017年3月 8日 (水) 22時23分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/257206/69565547

この記事へのトラックバック一覧です: 追悼;グレッグ・レイク:

« サーカ(2) | トップページ | ポール・ネルソン・バンド »