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2017年3月27日 (月)

追悼;レナード・コーエン

 初めてレナード・コーエンの写真を見たときに思ったのは、ダスティン・ホフマンに似ているなという単純なことだった。ただ、ダスティン・ホフマンは小柄だったが、レナード・コーエンの方は大きく見えた。70e5c4f504d11435d7e35bb5e72c3726_2
 レナード・コーエンは、1934年の9月にカナダのモントリオールに生まれた。裕福な家庭で育ったようだが、9歳の頃に父親を病気で亡くしている。

 もともと彼は、詩人だった。カナダでは有名な詩人だったようで、日本でも彼の詩集が販売されていたらしい。
 詩人としての活動歴は、1950年代半ばから60年代後半までだった。それまで4冊の詩集を出版していて、本国カナダでは文学賞みたいなものも受賞していた。

 レナードの母はロシア人で、歌うことが好きだったようだ。彼が子どもの頃、母親は家の中でよく歌っていて、幼いレナードはそれを聞いて育っていった。
 中学生くらいになってギターを弾き始めると、母親は息子の友だちと一緒に近くのレストランに行って夜遅くまで子どもたちと一緒に歌を歌っていたという。

 ある意味、彼が音楽の道を志すようになったのも、“天の配剤”みたいなものがあったのかもしれない。

 高校生になると、音楽と詩文を勉強するようになり、近所に住む若いスペイン人から簡単なコードとフラメンコを学び、“バックスキン・ボーイズ”というフォーク・グループを結成して活動を行っていた。

 彼が音楽業界に足を踏み入れるきっかけになったのは、ジュディ・コリンズが彼の作った曲"Suzanne"を歌ってヒットさせたことによる。1967年のことだった。

 詩人としての評価は高かったものの、経済的な面では恵まれず、詩集としての売り上げもあまり期待できなかった。

 それで彼はアメリカにわたり、ニューヨークでアンディ・ウォーホールと親交を結ぶようになった。そこではニコの歌に興味を惹かれたようで、時間があればニコのステージに駆けつけては、よく彼女の歌を聞いていた。ひょっとしたら恋心もあったのかもしれない。

 それでレナードは、ニコからの影響を受けた曲"Suzanne"を作って歌っていたのだが、ジュディ・コリンズが言うには、レナード自身がこの歌は平凡な歌なので、自分はもう歌えないと思っていたようだ。

 ジュディ・コリンズは、ある晩、レナードをステージに立たせてこの"Suzanne"を歌わせたのだが、案の定、レナードは、途中で歌うのをやめてしまい、バックステージに戻ってしまった。
 おさまらないのは聴衆の方である。ほとんどの人が総立ちになり、彼にステージ戻ってくるように叫んでいたという。

 それを見ていたジュディは、嫌がるレナードを無理やりステージに引っ張り出し、一緒にデュエットしたのである。

 その後、ジョーン・バエズなども彼の歌を取り上げるようになり、徐々に彼の名前は知れ渡っていった。もちろん、シンガー・ソングライターとしてである。

 そして、ボブ・ディランとの契約の経験もあるコロンビア・レコードのジョン・ハモンドが彼に契約を薦め、デビューさせた。その時、レナードは34歳だった。

 遅咲きのデビューだったが、元々文才があり詩人としての評価が高かったから、彼の書く詩は比喩に満ちていて一筋縄ではいかないものもあり、文学的な香りを放っていた。
 それにルー・リードのように呟くような歌い方も、多くのファンをひきつける結果につながったようだ。

 最初のアルバム「レナード・コーエンの歌」は、1967年に発表された。アルバムの冒頭には"Suzanne"が収められていた。51rqmamv1xl
 また、5曲目には"Sisters of Mercy"という曲が収められていたが、これはのちに70年代のイギリスのニュー・ウェイヴ・バンドが自分たちのバンド名に冠している。

 日本ではあまり人気があるとは思えないのだが、諸外国では影響力の強いミュージシャンとして評価が高い。

 自分たちのバンドの名前につける人も出てくるし、60年代はジュディ・コリンズやジョーン・バエズ、ティム・ハーディンなどが、70年代ではバフィ・セント・マリーやニック・ケイヴなども彼の曲をカバーしている。

 だいたい1984年の彼の曲"Hallelujah"1曲だけとっても、ジョン・ケイルやジェフ・バックリーのほか、k.d.ラング、ルーファス・ウェインライト、マイケル・マクドナルドにウィリー・ネルソン等、ロックやポップ、カントリー・ミュージック等の幅広い分野にまたがって、カバーされている。

 もちろん他の曲でも、ドン・ヘンリーやマリアンヌ・フェイスフルなどの大物ミュージシャンからカバーされていて、レナード・コーエンの人気と評価の高さがうかがい知ることができるだろう。

 この辺は日本にいては、なかなか理解できないところだ。やはり、彼の綴る詩文のような歌詞の内容が日本人にはわかりにくいのかもしれない。

 また、彼は恋多き男性でもあった。しかも恋をするたびに、その女性を自分の書いた曲の中に登場させて切々と歌うのである。書かれた女性は(永久的に残るわけだから)、ますます彼のことが忘れなくなってしまうだろう。

 そんな彼の初期の曲を知るには、やはりベスト盤が一番だ。60年代から70年代の半ばにかけて発表された彼の4枚のスタジオ・アルバムの中から12曲が選ばれている。51usqbwngl
 ただこのアルバムの中で聞くことができる彼の曲は陰鬱で、決して明るくはない。むしろロック・ミュージックとは真逆に位置している。
 自分はこの手の音楽が苦手で、どうしても敬遠してしまう。1つ1つの曲はいいのだが、全体を通して聞くと、同じような印象が残ってしまい、気分が何となく晴れないのだ。

 ベスト盤とはいえ曲調はどれも似たようなもので、もう少し躍動感があったり、明るい雰囲気があれば、日本でももっと人気が出たように思える。

 一説によれば、彼は若い頃からうつ病にかかっていたといわれていたが、よくわからなかった。確かにそれも言えるかもしれないが、いつもいつも病気だったというわけではないだろう。

 レナードは、まさに芸術家肌のようで、音楽活動を続けながらも詩集や本を出版していた。それは21世紀になっても続いていた。

 当然のことながら、音楽活動も盛んで、2008年にはロックの殿堂入りを果たし、2016年にはニュー・アルバム「ユー・ウォント・イット・ダーカー」を発表した。
 プロデューサーは、息子のアダム・コーエンで、親子二人三脚で作り上げたアルバムだった。61n2vll8kl__sl1500_
 82歳になっているにもかかわらず、衰え尽きぬ創作活動を続けていたが、内容的には2年前の「ポピュラー・プロブレンズ」、4年前の「オールド・アイデアズ」と併せて、迫りくる死期を見据えたものになっていた。

 ただ、最後のアルバムだと本人も意識していたようで、死を覚悟したような悟りの境地のように、静寂で美しい曲で占められている。ラスト・メッセージだったのだろう。

 2016年の11月7日、癌のために亡くなった。享年82歳だった。2016年にボブ・ディランがノーベル文学賞を受賞したが、ボブ・ディランが受賞するなら、レナード・コーエンも受賞してもおかしくないだろうと思っている。


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コメント

私は彼の若き頃はリアル・タイムには聴いていません。むしろ最近といっても数年前の彼の70歳を過ぎてからのライブに魅力を感じました。
 彼の多彩というか、多難というか(一時キューバに)、その人生が凝縮された姿と歌声には、なるほど「人間は老人になってはこのような姿でいたいものだ」と思わせる一つの典型に感じました。
 かってのバッキング・ヴォーカルのジュニファー・ウォーンズが魅力を発揮して、それによって再び彼は脚光を浴びたり、彼は女性に対しての紳士ぶりも歳をとるにつれ味がありました。見事な人生であったと・・・言うべきでしょうね。

投稿: 風呂井戸(photofloyd) | 2017年3月27日 (月) 18時17分

コメント並びにトラックバックまで、ありがとうございました。風呂井戸氏のコメントには趣と言葉の重さが感じられます。
 
 確かに、レナード・コーエンの人生と彼の作る音楽は密接に結びついているようで、人生そのものが音楽に昇華されているようです。

 私は、いまだに彼の音楽性のすべてを受け入れているわけではなく、よくわからないところもありますが、それでも彼の人生自体は、魅力的だと思っています。

投稿: プロフェッサー・ケイ | 2017年3月27日 (月) 22時20分

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