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2017年5月15日 (月)

3人のデビー(2)

 「3人のデビー」というシリーズものだが、今回はその2回目、2人目のデビーを紹介しようと思う。1970年代後半のニュー・ウェイヴの流行に乗って登場したアメリカのバンド、ブロンディのボーカリストのデビー・ハリーである。

 ブロンディについては、以前のこのブログでも取り上げているし、70年代後半のアメリカを代表するバンドだったので、ご存知の人も多いだろう。ましてや1970年代から80年代にかけて洋楽を聞いていた人にとっては、懐かしさとともにその楽曲の一部がよみがえってくるはずだ。

 ただ少し気になったのは、“デビー・ハリー”という名前は通称で、本来は“デボラ・ハリー”と呼ばれていたことだ。
 だから今回のテーマに相応しいかどうかは、ちょっと微妙なのだが、一応、自分の狭い知識の中でデビーを3人紹介しようと思ったら、こうなってしまったのである。ちょっと無理があるかもしれないが、お許し願いたい。

 ただ、本国アメリカでも、下の写真のように“デビー・ハリー”と呼ぶこともあったようで、まるっきりゼロであったというわけではない。まあ愛称だから、“デビー”の方が言いやすいのだろう。

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 それで、“デビー・ハリー”である。前回の「ブロンディ」のところでは、主に1978年のアルバム「恋の平行線」を中心に、デボラ・ハリーとギタリストのクリス・スタインの恋愛関係をまとめてみたので、今回は彼らのベスト・アルバムを中心に、簡単に記してみたいと思う。

 1978年から1980年までの彼らは、まさに飛ぶ鳥を落とすほどの勢いだった。どれだけ鳥が落ちたのかはわからないが、とにかくシングルもアルバムも売れに売れたし、ヴィジュアル面でも露出が多かった。見た目もよくて、曲もよければ、これはもう売れるしかないだろう。

 80年代に入ってから、公私ともにパートナーのクリスが病気にかかっていることが判明した。「尋常性天疱瘡」という難病のようで、デビー・ハリーは彼の看病を優先することに決めて、1982年にバンドを解散させた。デビーが37歳の時だった。

 だから、5枚目のスタジオ・アルバムの「オートアメリカン」と6枚目の「ザ・ハンター」には約2年間のブランクがあったのだが、それは私生活を優先させたいという理由もあったからだろう。

 それに自分のソロ・アルバムを1981年に発表している。「予感」という邦題がつけられていたアルバムだったが、シックのナイル・ロジャーズとバーナード・エドワーズをプロデューサーに迎え、ブロンディとは一線を画したオリジナリティを前面に出したアルバムだった。41qsv1br6el
 ただ、アルバムのチャート的にはアメリカでは25位、イギリスでは6位とそれまでのブロンディのチャート・アクションと比べれば、物足りないものだった。 

 また、アルバム・ジャケットのデザインを担当したのが、スイスのグラフィック・アーティストのH.R.ギーガーだった。

 H.R.ギーガーといえば、映画「エイリアン」のキャラクターや、E.L.&P.の「恐怖の頭脳改革」のアルバム・ジャケットを担当した人である。このアルバムのジャケット・デザインは当時でも物議をかもしたのだが、セールス的にうまくいかなかったのは、この辺にも原因があったのかもしれない。

 ヒット曲を集めた編集アルバム「軌跡~ザ・ベスト・オブ・ブロンディ」が発表されたのは、1981年のことだった。全14曲が収められていて、そのうちの4曲が全米No.1を記録している。

 最初のNo.1の曲は"Heart Of Glass"だった。この曲は、アルバム「恋の平行線」に収められていたもので、プロデューサーがマイク・チャップマンに代わっての初めてのアルバムだった。

 マイクは以前からブロンディに興味をもっていたようで、自分がプロデュースをしたらもっといい作品ができるのにと考えていたようだった。419ry73p0wl
 メンバーのクリスは、『この曲が大ヒットになるとは考えてもいなかった。アルバムに変化をつけるためにこの曲を用意しただけで、売ることを目的にしたのではなく、ただの歌の一つに過ぎないよ』と言っていたが、予想外の大ヒットだったのだろう。

 2度目のNo.1は、1980年に6週にわたって首位を続けた"Call Me"だった。ポール・シュレイダーの監督した映画「アメリカン・ジゴロ」のサントラの作曲者だったジョルジオ・モルダーは、最初はフリートウッド・マックのスティーヴィー・ニックスに歌わせようとしたのだが、彼女が拒否をしたため、デビーに話が回ってきたのである。

 歌詞を書いたのはデビーだった。自由に書いていいと言われていたので、2,3時間で書き上げてレコーディングに臨んだ。

 当時流行していたディスコ・ビートに乗ったこの曲は、ブロンディの音楽領域をさらに拡大することにつながったが、これはデビー自身も望んでいたことだった。
 さらに、この曲はこの年のビルボードの年末投票でも第1位に輝いていて、まさに彼らは、絶頂期を迎えていたのである。

 年を越えて1981年の1月には、彼らの"The Tide is High"(邦題:“夢見るNo.1”)が3番目の全米No.1になっている。
 もともとこの曲は、ジャマイカのバンド、パラゴンズが歌っていたもので、だから曲調もレゲエ風にアレンジされていたし、曲のクレジットにもクリスやデビーの名前はなかった。

 このあたりから彼らの曲風が、それまでのパンク・ロックやバラード、ディスコ風に加えてレゲエやラップ調のものまで広がっていった。
 それを証明するかのように、その年の3月には今度は"Rapture"が2週続けてNo.1になっている。

 この曲はクリスとデビーが作ったもので、ラップは当時のニューヨークのブルックリンやブロンクスで流行していた。その影響を受けて書かれたものだが、他のメンバーはこの曲を発表するのをかなり躊躇したと言われている。

 サックスにはあの有名なトム・スコットを招いていて、アメリカに登場した初めてのラップ曲に色どりを添えている。当時のラップには、まだアンダーグラウンドな雰囲気があったために華やかさを醸し出そうとしていたようだ。

 また、ライヴでは歌いやすいように歌詞を変えながら歌っていたと、デビーはインタビューに答えていた。初期のラップには試行錯誤が伴っていたのだ。

 このベスト・アルバムには以上のような曲に加えて、"Sunday Girl"や"Dreaming"も含まれていて、イギリスでは前者は1位を、後者は2位を記録している。Blondie_2e1472569033313
 それにベスト・アルバムだから幅広く選曲されていて、中には1976年のデビュー・アルバム「妖女ブロンディ」からや、翌年のセカンド・アルバム「囁きのブロンディ」からの曲も収められていた。

 デビュー・アルバムからは、"In the Flesh"と"Rip Her to Shreds"の2曲が選ばれていて、前者は50年代のロリポップ風のバラード曲で、後者はチープなキーボードが目立つパンク・ロック風の曲だった。両方ともチャート・アクションの記録はない。

 セカンド・アルバムからは、"Denis"、"Presence Dear"の2曲で、"Denis"はイギリスで2位になり、ゴールド・ディスクを獲得した。
 "Presence Dear"の方は、イギリスでは10位になったが、アメリカではチャートには上がってきていなかった。軽快でノリのよい曲だが、印象的なサビの部分がなくて、メロディラインにもう一工夫ほしいと思った。

 当時は、“マリリン・モンローの再来”のように言われていたので、単なる見掛け倒しかと思ったが、そこはアメリカのミュージック・ビジネス界をしぶとく這い上がってきた曲者だけに、やはりそれなりの才覚と野心と、それに伴う幸運を備えていたようだ。

 ブロンディは、1997年に再結成し、2年後の99年には全英シングル・チャートの1位になった"Maria"を含むアルバム「ノー・イグジット」を発表して、その健在ぶりを示している。
 また、21世紀に入ってからも着実にアルバムを発表しており、2006年にはロックの殿堂入りを果たした。

 今年の7月で72歳になるデビー・ハリーである。よく考えたらポール・マッカートニーやミック・ジャガーとそんなに変わらない年齢なのだ。違う意味で“妖女デビー・ハリー”になっているのかもしれない。


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