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2017年5月22日 (月)

3人のデビー(3)

 さて、3人目のデビーは、1980年代の後半から90年代前半にかけて活躍したアメリカ人の歌手のデビー・ギブソンである。当時を知っている人にとってみれば、懐かしいのではないだろうか。97a80ad97927a0c38a93d58926bce15b
 デビー・ギブソンは、1970年の8月に、ニューヨークのロング・アイランドに生まれた。幼い頃から音楽的な才能を発揮していたようで、5歳で曲を作って周囲のおとなを驚かしたそうである。
 また、絶対音感もあわせ持っていて、耳で聴いた音はすぐにピアノで弾いて、採譜するようになった。要するに、音楽的な才能をもって生まれたのだろう。

 初めて買ったレコードは、ビリー・ジョエルの「ニューヨーク52番街」だったようで、もう将来はビリー・ジョエルのようになりたいと決意していたらしい。当時のことを思い出して、彼女は次のように述べている。

 “アルバムを買ってから1年ぐらいして、ナッソー・コロシアムでビリーのコンサートを観たの。それ以来、自分のやりたいことが、完璧に把握できたのよ”

 13歳になって、彼女は音楽家でプロデューサーのタグ・ブライトバートの指導を受けて、ボーカルから作曲方法、アレンジ、プロデュース、エンジニアの仕方など、音楽に関する知識や技法を身につけるようになった。

 そして、16歳で"Only in My Dreams"を作詞作曲して、アレサ・フランクリンやオーティス・レディング、イエスやレッド・ゼッペリン等々、数多くの有名ミュージシャンやバンドを輩出した名門アトランティック・レコードと契約したのである。

 彼女が初めてシングルとして発表した"Only in My Dreams"は、全米シングル・チャートでは最高位4位を記録した。上々のデビューである。
 翌年の1987年に発表された彼女のデビュー・アルバムのタイトルは、「アウト・オブ・ザ・ブルー」というものであった。日本語では、“突然に”という意味だ。51npzqxpmql
 とにかく、このアルバムは売れに売れた記憶がある。"Only in My Dreams"の次のシングルは、"Shake Your Love"で、これもチャートでは4位まで上昇しているし、3枚目のシングル"Out of The Blue"は3位を記録した。

 そして4枚目のシングルの"Foolish Beat"が、ついに全米1位を記録したのである。この曲は、それまでのポップでダンサンブルな曲調とは違って、しっとりとしたバラードだった。
 
 80年代後半のアメリカでのヒット曲といえば、マドンナやマイケル・ジャクソンのような踊れる曲とか、映画音楽とのタイアップ曲、LAメタルのようなポップなハード・ロックだったような気がする。

 だから、デビー・ギブソンも“リトル・マドンナ”のような感じで、また類似品が出てきたなと思っていたのだが、こういうスローな曲も歌えるところが魅力的ともいえた。

 彼女の魅力はそれだけではない。自分で曲を書いて、歌って、プロデュースもするのだから、才能の部分ではマドンナを十分に凌駕していたといってもいいだろう。

 とにかく、このデビュー・アルバムからは5曲がシングル・カットされ、それらすべてがベスト30位内に入ったし、そのうち4曲がトップ5入り、アルバム自体もトリプル・プラチナ・ディスクに輝いている。

 今から考えれば、彼女は80年代のシンガー・ソングライターだったのだろう。70年代ではギター1本やピアノ1台で弾き語りしながら歌いこんでいくというパターンだったが、MTVが登場した80年代後半では、ビジュアル面だけでなく、ダンス・ビートが前面に出た曲風がもてはやされた。

 だから、デビー・ギブソンのプロモーションの仕方も、そういう大衆の趣向に沿うような、ポップでダンサンブルな方向性を取ったようだ。でも、この点が彼女の音楽的なキャリアの消耗につながったのではないかと思っている。

 彼女のセカンド・アルバム「エレクトリック・ユース」は、1989年に発表された。まだ彼女は19歳だった。このアルバムからのファースト・シングル曲"Lost in Your Eyes"は、2度目の全米No.1になった。この曲もスローなバラード曲だった。511qi2bjgwl
 アルバム・タイトルの"Electric Youth"は、2曲目のシングルとしてチャートの11位にまで上昇した。しかし、3枚目のシングルになった"No More Rhyme"もまたバラード曲だったが、こちらは17位どまりだった。
 ただ、アルバム自体は、全米1位を記録し、ダブル・プラチナ・ディスクに認定された。ここまでが彼女の全盛期だったようだ。

 3枚目のアルバムは、1990年にデビー自身やマドンナの元恋人のジェリービーンが共同でプロデュースした「エニシング・イズ・ポッシブル」だったが、アルバムのチャート的には41位で、ゴールド・ディスクにはなったものの、それまでの2枚のアルバムに比べれば、かなり厳しいものになった。アルバム・タイトル通りにはならなかったようだ。

 彼女は芸風を広げようとしたのか、徐々にR&Bやソウル・ミュージックの要素を取り入れていった。それは所属先のレコード会社が、アトランティック・レコードだったせいかもしれない。

 4枚目のアルバムは、1993年に発表された「ボディ、マインド、ソウル」だったが、チャート的には100位に入ることができず、104位だった。

 このアルバムには、あの有名なフィル・ラモーンやナラダ・マイケル・ウォルデンなどがプロデューサーとして関わっていたのだが、それでも売れなかった。そのせいかどうかはわからないが、この4枚目のアルバムをもってレコード会社を移籍している。

 結局、彼女がチャートを賑わせていた時期は、80年代の後半の数年間だけだった。彼女は自作自演の才能溢れるシンガーだったが、マドンナと違ったのは、周りの人をうまく使っていくプロデュース能力だったのではないだろうか。

 マドンナも曲を書いてはいたが、能力的にはデビー・ギブソンの方が上だろう。それでもマドンナの方が世界的にも有名になり、現在もなお活躍できているのも、自分自身を完全にコントロールできていることと、しかもそれを活かすことのできるプロダクション・チームを周りに配置することができたからではないだろうか。

 また、デビューしたときに未成年だったということも、原因だったのかもしれない。16歳だったので、母親も彼女の動向に方向性を出していたようだ。
 その点、マドンナはすでに大人の女性だったから、自分で考え、決断し、行動していた。自分自身についての自由裁量権を行使できた点においては、マドンナの方がラッキーだったのかもしれない。

 さらに、デビーは彼女自身の目標をポップ・ミュージックの範疇だけでなく、舞台までに広げていったということも人気の下降につながったのかもしれない。

 デビー・ギブソンは、子どもの頃から舞台にも興味があって、将来は演劇、特にミュージカルにも挑戦してみたいと思っていた。
 だから、ポップ・ミュージック界で成功した後は、ミュージカルにもその活動の場を広げていった。1992年には、ブロードウェイの「レ・ミゼラブル」に、93年にはイギリスのロンドンで「グリース」の舞台に立っている。

 その後は、レコード会社を移ってアルバムも発表するが、テレビのドラマや映画での出演も果たしていて、マルチな活動を行っている。637678167134e9f42f6bd90e1c2a9385
 そんな彼女の全盛期のベスト曲を集めたのが「グレイテスト・ヒッツ」である。全14曲で、ほとんどデビュー・アルバムとセカンド・アルバムから集められている。

 また、日本の山下達郎の曲に英詞をつけた"Without You"や、達郎がプロデュースしてコーラスも添えた"Eyes Of the Child"も国内盤にはボーナス・トラックとして収められていた。彼女の魅力を知るには手っ取り早い1枚だと思う。51c9cbnvmal
 彼女はまだ46歳だ。音楽的才能は枯れてはいないと思うので、できればメガヒットをもっと発表してほしいと思っている。
 そしてまた、成熟した大人の女性として、若い頃では表現できなかったことなども、シンガー・ソングライターとして活動領域を広げていってほしいと願っているのである。

 ちなみに、デビー・ギブソンは、現在では、デボラ・ギブソンと名乗って活動を続けているそうである。


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