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2017年5月

2017年5月29日 (月)

ティファニー

 デビー・ギブソンのことを調べていたら、彼女とティファニーはライバル同士だったという記述が見つかった。
 確かに、同時期に、しかもほぼ同じ年齢で活動していたから、ライバルだったかどうかは別にして、お互いに意識していたことは間違いないだろう。

 個人的には、ライバル云々というのは、周りの人たちがプロパガンダに使用した感じがする。お互いそれで名前が(曲も)売れていったのだから、双方に利点があったような気がしてならない。

 それで、今回はそのティファニーのことについてである。ティファニーといえば、「ティファニーで朝食を」とか、宝飾品のティファニーのことを思い出してしまう。
 だからというわけではないが、“ティファニー”という名前は、てっきり芸名だと思っていた。でもよくよく調べたら、本名ということが分かってビックリした。Hqdefault
 彼女の本名は、ティファニー・ダーウィッシュ(もしくはダーウィッシ)という。1971年10月2日生まれなので、今年で46歳になる。まだまだ若い部類に入るだろう。

 彼女は2歳の時に、従姉のダーラからヘレン・レディの"Delta Dawn"を教えてもらったと回想している。
 本当かどうかは不明だが、本人がそういうのだから間違いないだろう。それで5歳の時には、母親に将来は歌手になると言ったと言われている。

 それから、人前で初めて歌ったのは9歳の時だったらしい。故郷であるカリフォルニアのノーウォークのバーベキュー・パーティで、地元のバンドのカントリー・ホウダウナーズと共演した。ちなみにこのバンドは、名前の通り、カントリー系のバンドだった。

 その後もこのバンドとともに活動をつづけたようだが、その時はまだ12歳だった。12歳の少女が恋愛の歌、それも浮気や駆け落ちなどのドロドロした恋心を歌っていた。

 彼女の歌唱力や歌の技法には優れたものがあったが、如何せんまだ12歳、歌詞の内容とかけ離れたものがあり、説得力も欠けていたことから、彼女はカントリー・ソングをあきらめ、ポップスの世界に足を踏み入れたのである。

 ともかく、彼女は歌手になるために、スタジを借りてデモ・テープを録音していた。その時、スタジオの所有者で、しかもちょうどその隣の部屋でスモーキー・ロビンソンのレコーディングを手伝っていたプロデューサーのジョージ・トビンが、興味本位でティファニーの録音を見学したところ、あまりの歌のうまさにビックリしたらしいのだ。

 トビンは、すぐに彼女のことを気に入ったのだが、まだ12歳でもあり、しばらく様子を見ることにした。もちろん連絡は取り合っていて、それから約1年後に本格的にレコーディングを始めた。

 その時48曲をレコーディングしたのだが、そのうちの1曲、1967年に全米4位まで上昇したトミー・ジェイムズとションデルズの"I Think We're Alone Now"はトビーの大好きな曲でもあった。

 ただ、ティファニーは自分が生まれる前の曲で、聞いたこともなかったので、最初は歌うのに消極的だったようだ。アルバムから最初にシングル・カットされたのが、アルバムの中の別の曲だった"Danny"であることからも、それはわかると思う。

 ところが、ユタ州のラジオ局のプロデューサーがこの曲をオンエアしたところ、大きな反響があったため、レコード会社のMCAにシングル・カットを勧めたのである。

 こうした予期しなかった幸運が重なって、"I Think We're Alone Now"はシングル・カットされた。世の中何が僥倖につながるかわからない。幸運は、時として、予期しない方向から歩いてくるようだ。

 この曲は、1987年の11月に2週間だけ全米シングル・チャートで首位を獲得した。その時、彼女は全米のショッピング・モールをツアー中で、カラオケのテープで歌っているときに知ったという。

 この曲を含む彼女のデビュー・アルバム「ティファニー」は、1987年の9月に発表された。このアルバムからは5曲がシングル・カットされていて、そのうちチャートの首位になったのが2曲、ベスト10以内に1曲、50位以内に1曲がチャート・インしている。815ahxil7hl__sl1404_
 さらには、アルバム自体もカナダ、ニュージーランド、アメリカで1位を記録したし、イギリスでは5位、オーストラリアでは6位と、英語圏では記録的な大ヒットを残していて、まさにセンセーショナルなデビューとなったようである。

 もちろん彼女は歌うだけなので、ソング・ライティングには関わっていないのだが、その歌唱力や表現力は、とても15歳前後の女の子とは思えないものだった。自分なんかは、若返ったスティーヴィー・ニックスかグレイス・スリックかと思ったものだ。

 アルバムの4曲目に収められていた"Feelings of Forever"は、純愛もののバラード・ソングだが、曲に起伏があり、しかもそれを切々と歌っていて、聞いただけではとても中高生ぐらいの女の子が歌っているとは思えないのだ。この曲はシングル・チャートで50位を記録した。

 ザ・ビートルズのレノン&マッカートニー作品の"I Saw Her Standing There"は"I Saw Him Standing There"と一部変えられて歌われていて、原曲以上にノリノリの曲に仕上げられていた。ティファニーは、バラードだけでなく、こういうロックンロールの曲も歌いこなすことができた。この曲は、チャートでは7位まで上昇している。

 彼女の首位になったもう1曲は、アルバムの最後のバラード曲"Could've Been"である。邦題は“思い出に抱かれて”というものだった。
 この曲は、翌年の1988年の2月に2週間首位に立ったが、この時彼女はまだ17歳だったし、この曲をレコーディングしたときは、まだ13歳だった。

 この曲を作った人は、ロイス・ブレイッシュというシンガー・ソングライターだったが、彼女が失恋を経験した結果、この曲が生まれた。
 プロデューサーのトビンは、この曲の版権を買い取り、クリスタル・ゲイルやドリー・パートン、ナタリー・コールなどに歌ってもらうことを望んでテープを送ったが、誰も何も言ってこなかった。

 それで、ティファニーにレコーディングをしてもらったという経緯があったのだが、見事チャートの1位になったのだから、世の中、何がどうなるかわからないものである。
 確かに、彼女の人気の高さがチャートに影響を与えたことは間違いないだろうが、それでも連続して2曲をチャートの首位に送り込むには、それなりの実力があってからこそだろう。

 一説には、2曲連続してチャートの首位になった曲を歌った女性シンガーは、ブレンダ・リー以来2人目らしい。ただ17歳という若い年齢だったのは、ティファニーだけのようだ。81wlnrmbkyl__sl1500_
 ティファニーとデビー・ギブソンを比べてみると、ティファニーはアップテンポの曲でも、バラード曲でも、両方チャートの1位になったが、デビー・ギブソンの方はバラード曲だけしか1位にはなれなかった。
 しかし、デビー・ギブソンは、作曲能力やアレンジ、プロデュース能力を身に着けていて、音楽的素養という面ではデビー・ギブソンの方が優れていたようだ。

 あまり意味がないとは思うけれども、両名ともデビューして2~3年で人気が下降していった。デビー・ギブソンは、ミュージカルの方面に興味を示したからだが、ティファニーの方は、ゴシップや両親のマネージメントへの介入などが、イメージ・ダウンにつながったようだ。

 ただ、それでも1988年に出されたセカンド・アルバム「フレンズ」は、アメリカではプラチナ・ディスクを獲得していて、ビルボードのアルバム・チャートでは17位になっている。
 シングルも5曲カットされていて、そのうち"All This Time"は6位、"Radio Romance"は35位を記録した。51z5scddxgl
 ティファニーは、今もコンスタントにスタジオ・アルバムを出していて、最近では2016年に「ア・ミリオン・マイルズ」というタイトルのアルバムを発表している。
 また、女優として映画やテレビにも出演していて、2011年にはデビー・ギブソンと昔の確執を皮肉ったようなコメディ映画で共演していた。

 まだまだ45歳のティファニーである。昔の歌唱力や表現力がまだ備わっているのであれば、十分現役として活動できるはずだ。単なる懐メロ歌手で終わることなく、さらにもう一花咲かせてほしいものである。

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2017年5月22日 (月)

3人のデビー(3)

 さて、3人目のデビーは、1980年代の後半から90年代前半にかけて活躍したアメリカ人の歌手のデビー・ギブソンである。当時を知っている人にとってみれば、懐かしいのではないだろうか。97a80ad97927a0c38a93d58926bce15b
 デビー・ギブソンは、1970年の8月に、ニューヨークのロング・アイランドに生まれた。幼い頃から音楽的な才能を発揮していたようで、5歳で曲を作って周囲のおとなを驚かしたそうである。
 また、絶対音感もあわせ持っていて、耳で聴いた音はすぐにピアノで弾いて、採譜するようになった。要するに、音楽的な才能をもって生まれたのだろう。

 初めて買ったレコードは、ビリー・ジョエルの「ニューヨーク52番街」だったようで、もう将来はビリー・ジョエルのようになりたいと決意していたらしい。当時のことを思い出して、彼女は次のように述べている。

 “アルバムを買ってから1年ぐらいして、ナッソー・コロシアムでビリーのコンサートを観たの。それ以来、自分のやりたいことが、完璧に把握できたのよ”

 13歳になって、彼女は音楽家でプロデューサーのタグ・ブライトバートの指導を受けて、ボーカルから作曲方法、アレンジ、プロデュース、エンジニアの仕方など、音楽に関する知識や技法を身につけるようになった。

 そして、16歳で"Only in My Dreams"を作詞作曲して、アレサ・フランクリンやオーティス・レディング、イエスやレッド・ゼッペリン等々、数多くの有名ミュージシャンやバンドを輩出した名門アトランティック・レコードと契約したのである。

 彼女が初めてシングルとして発表した"Only in My Dreams"は、全米シングル・チャートでは最高位4位を記録した。上々のデビューである。
 翌年の1987年に発表された彼女のデビュー・アルバムのタイトルは、「アウト・オブ・ザ・ブルー」というものであった。日本語では、“突然に”という意味だ。51npzqxpmql
 とにかく、このアルバムは売れに売れた記憶がある。"Only in My Dreams"の次のシングルは、"Shake Your Love"で、これもチャートでは4位まで上昇しているし、3枚目のシングル"Out of The Blue"は3位を記録した。

 そして4枚目のシングルの"Foolish Beat"が、ついに全米1位を記録したのである。この曲は、それまでのポップでダンサンブルな曲調とは違って、しっとりとしたバラードだった。
 
 80年代後半のアメリカでのヒット曲といえば、マドンナやマイケル・ジャクソンのような踊れる曲とか、映画音楽とのタイアップ曲、LAメタルのようなポップなハード・ロックだったような気がする。

 だから、デビー・ギブソンも“リトル・マドンナ”のような感じで、また類似品が出てきたなと思っていたのだが、こういうスローな曲も歌えるところが魅力的ともいえた。

 彼女の魅力はそれだけではない。自分で曲を書いて、歌って、プロデュースもするのだから、才能の部分ではマドンナを十分に凌駕していたといってもいいだろう。

 とにかく、このデビュー・アルバムからは5曲がシングル・カットされ、それらすべてがベスト30位内に入ったし、そのうち4曲がトップ5入り、アルバム自体もトリプル・プラチナ・ディスクに輝いている。

 今から考えれば、彼女は80年代のシンガー・ソングライターだったのだろう。70年代ではギター1本やピアノ1台で弾き語りしながら歌いこんでいくというパターンだったが、MTVが登場した80年代後半では、ビジュアル面だけでなく、ダンス・ビートが前面に出た曲風がもてはやされた。

 だから、デビー・ギブソンのプロモーションの仕方も、そういう大衆の趣向に沿うような、ポップでダンサンブルな方向性を取ったようだ。でも、この点が彼女の音楽的なキャリアの消耗につながったのではないかと思っている。

 彼女のセカンド・アルバム「エレクトリック・ユース」は、1989年に発表された。まだ彼女は19歳だった。このアルバムからのファースト・シングル曲"Lost in Your Eyes"は、2度目の全米No.1になった。この曲もスローなバラード曲だった。511qi2bjgwl
 アルバム・タイトルの"Electric Youth"は、2曲目のシングルとしてチャートの11位にまで上昇した。しかし、3枚目のシングルになった"No More Rhyme"もまたバラード曲だったが、こちらは17位どまりだった。
 ただ、アルバム自体は、全米1位を記録し、ダブル・プラチナ・ディスクに認定された。ここまでが彼女の全盛期だったようだ。

 3枚目のアルバムは、1990年にデビー自身やマドンナの元恋人のジェリービーンが共同でプロデュースした「エニシング・イズ・ポッシブル」だったが、アルバムのチャート的には41位で、ゴールド・ディスクにはなったものの、それまでの2枚のアルバムに比べれば、かなり厳しいものになった。アルバム・タイトル通りにはならなかったようだ。

 彼女は芸風を広げようとしたのか、徐々にR&Bやソウル・ミュージックの要素を取り入れていった。それは所属先のレコード会社が、アトランティック・レコードだったせいかもしれない。

 4枚目のアルバムは、1993年に発表された「ボディ、マインド、ソウル」だったが、チャート的には100位に入ることができず、104位だった。

 このアルバムには、あの有名なフィル・ラモーンやナラダ・マイケル・ウォルデンなどがプロデューサーとして関わっていたのだが、それでも売れなかった。そのせいかどうかはわからないが、この4枚目のアルバムをもってレコード会社を移籍している。

 結局、彼女がチャートを賑わせていた時期は、80年代の後半の数年間だけだった。彼女は自作自演の才能溢れるシンガーだったが、マドンナと違ったのは、周りの人をうまく使っていくプロデュース能力だったのではないだろうか。

 マドンナも曲を書いてはいたが、能力的にはデビー・ギブソンの方が上だろう。それでもマドンナの方が世界的にも有名になり、現在もなお活躍できているのも、自分自身を完全にコントロールできていることと、しかもそれを活かすことのできるプロダクション・チームを周りに配置することができたからではないだろうか。

 また、デビューしたときに未成年だったということも、原因だったのかもしれない。16歳だったので、母親も彼女の動向に方向性を出していたようだ。
 その点、マドンナはすでに大人の女性だったから、自分で考え、決断し、行動していた。自分自身についての自由裁量権を行使できた点においては、マドンナの方がラッキーだったのかもしれない。

 さらに、デビーは彼女自身の目標をポップ・ミュージックの範疇だけでなく、舞台までに広げていったということも人気の下降につながったのかもしれない。

 デビー・ギブソンは、子どもの頃から舞台にも興味があって、将来は演劇、特にミュージカルにも挑戦してみたいと思っていた。
 だから、ポップ・ミュージック界で成功した後は、ミュージカルにもその活動の場を広げていった。1992年には、ブロードウェイの「レ・ミゼラブル」に、93年にはイギリスのロンドンで「グリース」の舞台に立っている。

 その後は、レコード会社を移ってアルバムも発表するが、テレビのドラマや映画での出演も果たしていて、マルチな活動を行っている。637678167134e9f42f6bd90e1c2a9385
 そんな彼女の全盛期のベスト曲を集めたのが「グレイテスト・ヒッツ」である。全14曲で、ほとんどデビュー・アルバムとセカンド・アルバムから集められている。

 また、日本の山下達郎の曲に英詞をつけた"Without You"や、達郎がプロデュースしてコーラスも添えた"Eyes Of the Child"も国内盤にはボーナス・トラックとして収められていた。彼女の魅力を知るには手っ取り早い1枚だと思う。51c9cbnvmal
 彼女はまだ46歳だ。音楽的才能は枯れてはいないと思うので、できればメガヒットをもっと発表してほしいと思っている。
 そしてまた、成熟した大人の女性として、若い頃では表現できなかったことなども、シンガー・ソングライターとして活動領域を広げていってほしいと願っているのである。

 ちなみに、デビー・ギブソンは、現在では、デボラ・ギブソンと名乗って活動を続けているそうである。

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2017年5月15日 (月)

3人のデビー(2)

 「3人のデビー」というシリーズものだが、今回はその2回目、2人目のデビーを紹介しようと思う。1970年代後半のニュー・ウェイヴの流行に乗って登場したアメリカのバンド、ブロンディのボーカリストのデビー・ハリーである。

 ブロンディについては、以前のこのブログでも取り上げているし、70年代後半のアメリカを代表するバンドだったので、ご存知の人も多いだろう。ましてや1970年代から80年代にかけて洋楽を聞いていた人にとっては、懐かしさとともにその楽曲の一部がよみがえってくるはずだ。

 ただ少し気になったのは、“デビー・ハリー”という名前は通称で、本来は“デボラ・ハリー”と呼ばれていたことだ。
 だから今回のテーマに相応しいかどうかは、ちょっと微妙なのだが、一応、自分の狭い知識の中でデビーを3人紹介しようと思ったら、こうなってしまったのである。ちょっと無理があるかもしれないが、お許し願いたい。

 ただ、本国アメリカでも、下の写真のように“デビー・ハリー”と呼ぶこともあったようで、まるっきりゼロであったというわけではない。まあ愛称だから、“デビー”の方が言いやすいのだろう。

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 それで、“デビー・ハリー”である。前回の「ブロンディ」のところでは、主に1978年のアルバム「恋の平行線」を中心に、デボラ・ハリーとギタリストのクリス・スタインの恋愛関係をまとめてみたので、今回は彼らのベスト・アルバムを中心に、簡単に記してみたいと思う。

 1978年から1980年までの彼らは、まさに飛ぶ鳥を落とすほどの勢いだった。どれだけ鳥が落ちたのかはわからないが、とにかくシングルもアルバムも売れに売れたし、ヴィジュアル面でも露出が多かった。見た目もよくて、曲もよければ、これはもう売れるしかないだろう。

 80年代に入ってから、公私ともにパートナーのクリスが病気にかかっていることが判明した。「尋常性天疱瘡」という難病のようで、デビー・ハリーは彼の看病を優先することに決めて、1982年にバンドを解散させた。デビーが37歳の時だった。

 だから、5枚目のスタジオ・アルバムの「オートアメリカン」と6枚目の「ザ・ハンター」には約2年間のブランクがあったのだが、それは私生活を優先させたいという理由もあったからだろう。

 それに自分のソロ・アルバムを1981年に発表している。「予感」という邦題がつけられていたアルバムだったが、シックのナイル・ロジャーズとバーナード・エドワーズをプロデューサーに迎え、ブロンディとは一線を画したオリジナリティを前面に出したアルバムだった。41qsv1br6el
 ただ、アルバムのチャート的にはアメリカでは25位、イギリスでは6位とそれまでのブロンディのチャート・アクションと比べれば、物足りないものだった。 

 また、アルバム・ジャケットのデザインを担当したのが、スイスのグラフィック・アーティストのH.R.ギーガーだった。

 H.R.ギーガーといえば、映画「エイリアン」のキャラクターや、E.L.&P.の「恐怖の頭脳改革」のアルバム・ジャケットを担当した人である。このアルバムのジャケット・デザインは当時でも物議をかもしたのだが、セールス的にうまくいかなかったのは、この辺にも原因があったのかもしれない。

 ヒット曲を集めた編集アルバム「軌跡~ザ・ベスト・オブ・ブロンディ」が発表されたのは、1981年のことだった。全14曲が収められていて、そのうちの4曲が全米No.1を記録している。

 最初のNo.1の曲は"Heart Of Glass"だった。この曲は、アルバム「恋の平行線」に収められていたもので、プロデューサーがマイク・チャップマンに代わっての初めてのアルバムだった。

 マイクは以前からブロンディに興味をもっていたようで、自分がプロデュースをしたらもっといい作品ができるのにと考えていたようだった。419ry73p0wl
 メンバーのクリスは、『この曲が大ヒットになるとは考えてもいなかった。アルバムに変化をつけるためにこの曲を用意しただけで、売ることを目的にしたのではなく、ただの歌の一つに過ぎないよ』と言っていたが、予想外の大ヒットだったのだろう。

 2度目のNo.1は、1980年に6週にわたって首位を続けた"Call Me"だった。ポール・シュレイダーの監督した映画「アメリカン・ジゴロ」のサントラの作曲者だったジョルジオ・モルダーは、最初はフリートウッド・マックのスティーヴィー・ニックスに歌わせようとしたのだが、彼女が拒否をしたため、デビーに話が回ってきたのである。

 歌詞を書いたのはデビーだった。自由に書いていいと言われていたので、2,3時間で書き上げてレコーディングに臨んだ。

 当時流行していたディスコ・ビートに乗ったこの曲は、ブロンディの音楽領域をさらに拡大することにつながったが、これはデビー自身も望んでいたことだった。
 さらに、この曲はこの年のビルボードの年末投票でも第1位に輝いていて、まさに彼らは、絶頂期を迎えていたのである。

 年を越えて1981年の1月には、彼らの"The Tide is High"(邦題:“夢見るNo.1”)が3番目の全米No.1になっている。
 もともとこの曲は、ジャマイカのバンド、パラゴンズが歌っていたもので、だから曲調もレゲエ風にアレンジされていたし、曲のクレジットにもクリスやデビーの名前はなかった。

 このあたりから彼らの曲風が、それまでのパンク・ロックやバラード、ディスコ風に加えてレゲエやラップ調のものまで広がっていった。
 それを証明するかのように、その年の3月には今度は"Rapture"が2週続けてNo.1になっている。

 この曲はクリスとデビーが作ったもので、ラップは当時のニューヨークのブルックリンやブロンクスで流行していた。その影響を受けて書かれたものだが、他のメンバーはこの曲を発表するのをかなり躊躇したと言われている。

 サックスにはあの有名なトム・スコットを招いていて、アメリカに登場した初めてのラップ曲に色どりを添えている。当時のラップには、まだアンダーグラウンドな雰囲気があったために華やかさを醸し出そうとしていたようだ。

 また、ライヴでは歌いやすいように歌詞を変えながら歌っていたと、デビーはインタビューに答えていた。初期のラップには試行錯誤が伴っていたのだ。

 このベスト・アルバムには以上のような曲に加えて、"Sunday Girl"や"Dreaming"も含まれていて、イギリスでは前者は1位を、後者は2位を記録している。Blondie_2e1472569033313
 それにベスト・アルバムだから幅広く選曲されていて、中には1976年のデビュー・アルバム「妖女ブロンディ」からや、翌年のセカンド・アルバム「囁きのブロンディ」からの曲も収められていた。

 デビュー・アルバムからは、"In the Flesh"と"Rip Her to Shreds"の2曲が選ばれていて、前者は50年代のロリポップ風のバラード曲で、後者はチープなキーボードが目立つパンク・ロック風の曲だった。両方ともチャート・アクションの記録はない。

 セカンド・アルバムからは、"Denis"、"Presence Dear"の2曲で、"Denis"はイギリスで2位になり、ゴールド・ディスクを獲得した。
 "Presence Dear"の方は、イギリスでは10位になったが、アメリカではチャートには上がってきていなかった。軽快でノリのよい曲だが、印象的なサビの部分がなくて、メロディラインにもう一工夫ほしいと思った。

 当時は、“マリリン・モンローの再来”のように言われていたので、単なる見掛け倒しかと思ったが、そこはアメリカのミュージック・ビジネス界をしぶとく這い上がってきた曲者だけに、やはりそれなりの才覚と野心と、それに伴う幸運を備えていたようだ。

 ブロンディは、1997年に再結成し、2年後の99年には全英シングル・チャートの1位になった"Maria"を含むアルバム「ノー・イグジット」を発表して、その健在ぶりを示している。
 また、21世紀に入ってからも着実にアルバムを発表しており、2006年にはロックの殿堂入りを果たした。

 今年の7月で72歳になるデビー・ハリーである。よく考えたらポール・マッカートニーやミック・ジャガーとそんなに変わらない年齢なのだ。違う意味で“妖女デビー・ハリー”になっているのかもしれない。

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2017年5月 8日 (月)

3人のデビー(1)

 春の陽気に誘われて、久しぶりにポップ・ミュージックのジャンルについて書こうと思った。それでお題は「3人のデビー」である。

 “デビー”というからには女性だけれど、だからといって、間違ってもデビ夫人なんかは登場しないはずだ。

 1人目のデビーは、デビー・ブーンである。あの有名なパット・ブーンの娘であり、20世紀の一発屋というランキングがあるなら、間違いなくベスト10の上位にランクされるであろう曲“恋するデビー”(原題は"You Light Up My Life")を歌ったシンガーである。336870c0d60cadde7e939c8a781c3e59c32
 それに、この邦題については今でも異論が続出していて、原題とのミスマッチ・ベスト10があるなら、間違いなく3本の指に入るであろうとも噂されている(と思う)。

 そんなデビーの曲ではあるが、その曲に入る前に、父親のパット・ブーンについて簡単に述べてみたい。今どきの人にとっては、パット・ブーンと言われても、きっとピンと来ないだろうから。

 パット・ブーンは、1950年代後半から60年代にかけて、3曲のビルボード全米No.1シングルを持っている歌手兼俳優である。当時の歌手は、エルヴィス・プレスリーなどがよい例だが、歌をレコードで発表するのと同時に、映画に出演して歌ってもいたのだ。もちろん、それなりの容姿が求められただろうが…

 パットは、フロリダで敬虔なクリスチャンの家庭で生まれた。本名は、チャールズ・ユージーン・ブーンといい、1934年6月1日生まれの現在82歳になる。
 アメリカの西部開拓時代にネイティヴ・アメリカンと激しく戦って、白人の領土を広げていったダニエル・ブーンは、彼の祖先と言われている。

 母親の手ほどきで、パットと弟のニックはコーラスをつけて歌うようになり、兄弟で学校や教会に出かけて行くようになった。
 18歳でレコード・デビューし、19歳で結婚。やがて4人の娘を持つ父親になるのだが、レコード・デビューしても、いったん引退して、その後再デビューしている。

 理由は、もともと彼は教師になるつもりだったからだ。歌やレコーディングは趣味で行っていて、多少ヒットが出ても、クリスチャンとしての信仰を続けながら、堅実な生活を選ぼうとしていた。

 当初は、オーティス・ウィリアムズ&チャームズ、ファッツ・ドミノやリトル・リチャードなどのR&Bをカバーしていたが、1957年の6月に"Love Letters in the Sand"が5週間No.1になると、一気にアメリカ中に名前が広がり、この曲は23週連続でチャートに残っていた。Patboone0
 もともとこの歌は、ビング・クロスビーなどが歌っていたのだが、当時の20世紀フォックスの映画「バーナディーン」に、パット自身が出演して歌っていた挿入曲だった。映画との相乗効果もあったのだろうか。

 また、同年の12月には"April Love"が2週続けてビルボードのシングル・チャートで首位になったが、それでもまだ教師になる道をあきらめなかったようで、学問との二足の草鞋を続け、翌年の6月に言語学と英語学の学位を取って、コロンビア大学を卒業している。

 その後はテレビや映画での活動が優先されたせいか、ヒット曲も少なくなったが、1961年にカントリー・ミュージックの"Moody River"をアレンジして歌ったところ、これが大ヒットして1週間だけ全米1位を記録している。

 全米でのヒットはここまでのようで、これ以降はレコード会社を転々としていき、ポピュラー・ミュージック界よりは、ゴスペル・ミュージックなどのクリスチャン系の音楽活動を続けていった。同時に、全米のテレビ番組のMCなどで活動を続けたのだった。

 4人の娘は“ブーンズ”として活動を始めたが、なかなかヒット曲には恵まれなかった。お姉さんたちが結婚をし、妹のローラが大学生活を送っているときに、プロデューサーからソロ活動を勧められ、同名映画の主題曲"You Light Up My Life"を発表した。

 この曲は、1977年の9月に71位でチャートに初登場すると、6週間後の10月15日に1位になり、その後も10週間チャートの首位に留まった。
 同時に、この曲のヒットのおかげで、アメリカン・ミュージック・アワードでの全米人気ベスト・ポップ・シングル賞やアカデミー賞でのベスト・オリジナル・ソング賞を受賞した。

 ただ、この曲のあとに続くヒット曲がなかったため、驚異の一発屋としてデビーは見られているが、実際にそうだったのだろうか。

 確かに、セカンド・シングルの"California"は50位止まりで、3枚目で最後のシングル曲にもなった"God Knows/Baby, I'm Yours"は33位と74位で終わっている。
 ところが、後者の曲は、アダルト・コンテンポラリー部門やカントリー・ミュージック部門ではチャート・アクションがよくて、その結果、彼女はカントリー・ミュージックの世界で活動を始めるようになったのである。

 カントリー・ミュージックでの最初のシングルはうまくいかなかったものの、コニー・フランシスのカバー曲やそれを収めたアルバムは、チャートの上位にあがり、結果的にはその後のヒット曲や成功にも繋がるようになった。

 デビー・ブーンの70年代後半は、カントリー・ミュージック界での成功と考えていいかもしれない。そして80年代になると、今度は父親と同じようにクリスチャン・ミュージック界での活躍になっていったのである。
 しかもコンテンポラリー・クリスチャン・ミュージック部門ではグラミー賞まで獲得するという結果までついてきたのだから、彼女を一発屋といってしまっていいのかというと、決してそんなことはないだろうと思っている。

 だからアメリカの音楽業界の中では、決して一発屋とは言ってはいけないと思うのだ。1986年に発表された彼女のベスト・アルバム「ザ・ベスト・オブ・デビー・ブーン」には10曲が収められていて、大ヒット曲の"You Light Up My Life"は当然のこと、他にも興味深い曲を聞くことができる。51lxzm9rl
 アルバム冒頭は"You Light Up My Life"で始まり、続いてコニー・フランシスのカバーである"Everybody's Somebody's Fool"、3枚目の両面シングルとしてチャートの最高位33位と74位を記録した"Baby, I'm Yours"と"God Knows"と配置されている。

 コニー・フランシスのカバーはもう1曲あって、1960年に全米No.1を記録した"My Heart Has A Mind of Its Own"もカントリー調にアレンジされて収録されていた。ちなみに前述した"Everybody's Somebody's Fool"も1960年に全米No.1を記録したものをカントリー調にアレンジして歌っている。

 このアルバムは、カントリー・アルバムといっていいほどそういう傾向の曲が収められていて、中でも"Are You On the Road To Lovin' Me Again"は、1980年の5月に1週間だけカントリー・チャートでNo.1を記録したほどの曲でもある。当時のエミルー・ハリスやクリスタル・ゲイルを押さえての首位だから大したものだろう。

 このアルバムはカントリー調の曲と、"You Light Up My Life"のような静かなバラード・タイプの曲に分けられるようで、他のバラードでは、"When You're Loved"と"The Promise(I'll Never Say “Goodbye”)"の2曲があった。

 いずれも映画のサントラ曲のようだが、映画自体はどんなものなのかよくわからなかった。そういえば、"You Light Up My Life"も同名映画の主題歌だったのだが、映画自体がヒットしたかどうかは記憶にない。
 
 記憶にないということは、ここ日本ではそんなに話題にはならなかったのだろう。(追記;"When You're Loved"は1978年の映画"The Magic Of Lassie"の主題歌で、ジェームズ・ステュアートが主演した名犬ラッシーのことのようだ。日本で封切りになったのかどうかは、よくわからなかった)

 デビー・ブーンは一発屋ではないことが分かったと思う。むしろ美人で、歌も上手な才色兼備なシンガーのようだ。Debbybooneheightweightageaffairsbio
 活躍するフィールドがポピュラー・ミュージック界からカントリーへ、そしてクリスチャン・ミュージック界へと変遷していったことが、彼女の状況をわかりにくくしていったのだろう。

 ただ言えることは、決して親の七光りではなくて、実力でポピュラー・ミュージック界に名前を残したという点である。
 さすが実力社会のアメリカだ。今のアメリカは格差社会になってしまったと言われているが、"Land of Opputunity"の精神は、これからも守ってほしいと願っている。

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2017年5月 1日 (月)

ブルーノ・マーズの新作

 といっても、このアルバムは昨年発表されたもので、すでに4ヶ月以上もたつ。でも自分にとっては、まだ新作だし、アメリカのアルバム・チャートでは4月1日現在で第6位に、シングル・チャートでも"That's What I Like"が2位に付けている。

 アルバム・タイトルは「24K・マジック」というもので、“K”は“カラット”を意味するようだ。ということは“24カラット”なのだろう。いうまでもなく“24カラット”は、金の純度でいうと“純金”という意味になる。

 要するに、アルバム・タイトルは、「純金のような魔法」ということであり、“純金のような魔法で彩られた音楽”を意味している。それだけ自信があるのだろうし、本人も納得がいったアルバムだということだろう。

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 ブルーノ・マーズについては、一度このブログでも取り上げているのだが、21世紀の“キング・オブ・ポップス”とも呼ばれているミュージシャンでもあるので、この素晴らしいアルバムの発表を記念して、もう一度述べてみたい。

 ブルーノ・マーズは、現在31歳、今年の10月に32歳になるミュージシャンだ。ハワイ出身で、高校卒業後にロサンゼルスに出てきたあと、“ザ・スミージントンズ”というプロデューサー・チームを結成して、アルバム制作に携わるとともに、自身でも他の人のアルバムに客演して歌うようになった。

 2010年にはデビュー・アルバム「ドゥー・ワップ&フーリガンズ」を発表した。アルバム・タイトルにはロマンティック性とワイルド性の両義が含まれているという。
 このアルバムからは、"Just The Way You Are"と"Grenade"の2曲が全米シングル・チャートで1位を記録した。61lnju8w6ll__sl1085_

 その結果、2011年の第53回グラミー賞で6部門にノミネートされ、「最優秀ポップ・ボーカル賞」を受賞している。

 さらには、2011年の世界デジタル・シングル売り上げトップ10では、"Just The Way You Are"が1250万ダウンロード、"Grenade"が1020万ダウンロードで、これもまたそれぞれ1位と2位を記録した。

 まだまだ、彼の記録は続く。セカンド・アルバムの「アンオーソドックス・ジュークボックス」は2011年の終わりに発表されたが、ここからも"Locked Out Of Heaven"と"When I Was Your Man"の2曲が全米No.1に輝いている。

 このアルバムは全米で400万枚以上、全英で150万枚以上売り上げていて、当然のことながら両方のアルバム・チャートで1位を獲得した。
 その後、ブルーノ・マーズはワールド・ツアーを行い、足掛け2年にわたって計154公演を開催して、約160億円の売上げを記録した。

 とにかく、この人とアデルは、現代のポップ・ミュージック界を牽引しているようだ。2014年にはマーク・ロンソンとの共作曲"Uptown Funk"が全米14週連続1位を記録して、2015年の年間シングル・チャートでも首位になり、翌年に行われた第58回グラミー賞では、最優秀レコード賞と最優秀ポップ・デュオ/グループ・パフォーマンス賞の2部門で受賞してしまうのである。

 そんな彼が満を持して発表したのが、4年ぶりの新作アルバム「24K・マジック」だった。1年半にわたりスタジオに閉じこもって曲を書き続けていて、全9曲すべてを50回以上書き直したと、本人はインタビューで応えている。516ally2bvl_2
 このアルバムの基本的なコンセプトは、ゴージャス感である。それまで彼は、ラフな姿でレコーディングを行っていたが、このアルバムではアルバム・ジャケットの写真のように、ヴェルサーチのシャツを着て、ゴールドのネックレスをつけて行っている。上記にもあるように、ここからアルバム・タイトルが浮かんだようだ。

 同時に、ブルーノ・マーズは、このアルバムから幸福感やラグジュアリー感のような高貴な気分を感じてほしいと述べているが、実際、今までの2枚のアルバムよりは、かなり濃密でファンキーな傾向が強くなっている。

 イントロのトーキング・モジュレイターの使用からまさにマイケル・ジャクソン張りの叫び声を含むファンク・チューンの"24K Magic"、途中のキーボード・サウンドがこれもまた90年代のソウル/ファンク・ソングを想起させる"Chunky"、チョッパー・ベースとギターのカッティングがジェイムス・ブラウンの曲に似ている"Perm"など、冒頭からファンク臭プンプンである。

 4曲目の"That's What I Like"はシングル・カットされて、全米2位を記録した。ポップでありながらファンキーな雰囲気を携えていて、確かに売れそうな曲だ。

 次のバラード"Versace On The Floor"は前作までの傾向を持ったポップなメロディが印象的な佳曲だ。マイケル・ジャクソンがもし生きていたら、この曲を歌わせてくれというかもしれないし、少なくともブルーノ・マーズとの共演を望むだろう。

 アルバムも後半になると、少しはファンク色が薄れてきて、"Straight Up And Down"はミディアム・スローのバラードで、一部シャイの1993年の曲"Baby I'm Yours"がサンプリングされていた。
 7曲目の"Calling All My Lovelies"もミディアム系の静かな曲に仕上げられていて、女優のハル・ベリーも電話の声で友情出演している。

 次の"Finesse"は、何となく日本人の久保田利伸の曲のような、ファンキーでノリのよいナンバーだった。
 そして最後の"Too Good To Say Goodbye"は、かつての"Talking To The Moon"や"It Will Rain"のような美しいバラードで、最後を飾るにはもってこいのお涙頂戴ソングである。

 この曲のクレジットには、あの90年代に一世風靡したメロディ・メイカーのベイビーフェイスもクレジットされていて、まさに鉄板のソングライティング・チームの曲というべきものだろう。

 どの曲も印象的で、ブルーノが50回以上書き直した軌跡が見て取れるものになっている。

 ただ、唯一残念なのは、収録時間が合計で33分28秒しかないことだ。わずか9曲しか収められていないので仕方がないといえば仕方がないのだが、せめてもう2~3曲入れてほしかった。彼のファンならみんなそう思うんじゃないかなあ。

 とにかく、このアルバムはR&Bやファンキー路線を重視したアルバム作りになっている。デビュー作や2枚目のアルバムは、ソウル色の強いシンガー・ソングライターのアルバムといった感じだったが、ここにきてさらに一段とソウル/ファンク色を強めたようだ。

 今までのメロディアスな曲調からリズムを強調した作りになっていて、歌って踊れて、みんなが楽しめる要素を取り入れている。ここでもアルバム・タイトルのようなラグジュアリー感が、反映されているように思える。

 これが80年代~90年代ならブラック・コンテンポラリーと呼ばれるのだろうが、今の時代では、そういう言い方はあまりしなくなった。これも時代の移り変わりというものだろう。
 ただ、時代は変遷しても、聞いてハッピーになるような美しい楽曲を望む気持ちは、いつでも変わらない。

 ブルーノ・マーズの天才的なソング・ライティングは、時代の流れを敏感に受け止めながらも、我々一般大衆のポピュラーな音楽感覚からは離れてはいない。これが続く限り、彼の作る楽曲は、夜空の星のようにますます輝いていくだろう。 

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