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2017年6月

2017年6月26日 (月)

ジム・クロウチ

 さて、6月の最後はジム・クロウチについて語ることにしよう。彼については、このブログが開設されて間もない頃に、「たまにはポップ・ソングをpart2」という短い拙文の中で綴っていたのだが、十分な紹介ができずに終わってしまっていた。
 それではジムに対しても失礼だと思ったし、彼の歌の素晴らしさをもっと世の中の人に知ってもらいたかったので、きちんと取り上げることにした次第である。10731499jimcroce1450838062
 ジムは、アメリカのシンガー・ソングライターだった。「だった」ということは、文字通りで、すでに彼はこの世にいないということを意味している。

 1973年9月20日、ノースウエスト・ルイジアナ大学での公演を終えたジム一行は、約112キロ離れたテキサス州シャーマンへ向かうために、ナッチトチェス飛行場でチャーター機に乗り込んだ。オースティン大学での公演が控えていたからだった。

 飛行機は離陸後まもなく、飛行場内に1本しかないぺカンの木に接触し、ジムを含む乗員全員が即死した。享年30歳だった。墜落事故の原因は諸説あるが、パイロットの冠動脈疾患のせいで意識を失ったという説が有力である。パイロットは57歳のベテランだった。0165ce232bd1c6fd2403e8be4fd5976d_2
 ジム・クロウチは1943年の1月に、フィラデルフィアで生まれた。両親はイタリア系の移民で、彼の本名はジェイムズ・ジョセフ・クロウチといった。
 子どもの頃から音楽が好きで、最初はアコーディオンを弾いていたらしい。5歳ころのお話である。

 大学生になると、フォーク・ソングに興味を持ちようになり、スパイアーズというグループを結成して、人前で歌うようになった。また、おもちゃ屋でアルバイトをしてアコースティック・ギターを購入していた。
 その時に、トミー・ウェストと友人になった。彼はのちにテリー・キャッシュマンという人とプロデューサー・チームを結成し、ジムを前面的にバックアップするようになる。

 大学を卒業してからは定職にも就かず、時間があれば音楽活動をするようになった。地元のヤミのラジオ局の広告取りの仕事をしたり、建設現場での肉体労働のような作業をしながら、自分のオリジナル音楽を追及していった。

 ある時、アルバイト中に大型ハンマーで自分の左手を打ち付けてしまった。幸いにして指は切らずに済んだものの、傷ついた指を使わないで済むような変則的なギター奏法を考えなければならなかったようだ。

 1966年に、イングリットという女性と結婚したジムは当面の生活費を稼ぐために、友人のトミーのアドバイスを受け入れ、ニューヨークに引っ越ししてキャピトル・レコードと契約し、妻と一緒にデュオ・アルバム「アプローチング・ディ」を制作し発表したが、残念ながら注目を集めることはなかった。

 失望したジム夫婦は、ペンシルヴァニアに戻って様々な仕事に従事しながら、次の機会をうかがっていた。
 ジムは、トラックの運転手をしながら曲を書き続け、6曲分をカセットテープに吹き込んで、ニューヨークに住むトミーに送ったのである。

 曲を聞いたトミーとテリーは、その内容にいたく感動し、ジムにニューヨークに来てレコーディングをするように勧めた。1972年のことだった。その年の7月にデビュー・アルバム「ジムに手を出すな」が発表され、2枚のシングル・ヒットを生み出した。

 アルバム・タイトルと同名の"You Don't Mess Around With Jim"はシングル・チャートの8位に、続く"Operator"は17位まで上昇した。
 そのせいか、このデビュー・アルバムはゴールド・ディスクを獲得し、アルバム・チャートで首位を獲得している。

 気をよくしたジムは、続くセカンド・アルバム「ライフ・アンド・タイムズ」を翌年の7月に発表した。このアルバムからの2枚目のシングル曲"Bad, Bad Leroy Brown"は、7月21日から2週間連続でシングル・チャートの首位に輝いた。そして、このアルバムもまたチャートの1位に輝き、ゴールド・ディスクを獲得している。

 ジムは、この曲のモチーフを、彼がニュージャージーで電話の配線工をしていた時に知り合った友人から頂戴している。

 ジムの話によると、“彼は1週間ばかり働いた後、疲れた、もううんざりだと言って、仕事場から逃げ出してしまった。その後、給料を取りに戻ったところを、無断欠勤したという理由で逮捕されてしまった。彼のしゃべる話を聞いたときに、いつか彼のことを歌にしようと思った”ということだった。

 1973年の9月12日には、彼の3枚目のアルバム「アイ・ガッタ・ネイム」のレコーディングが完成した。このアルバムのタイトル曲は、映画「ラスト・アメリカン・ヒーロー」の主題歌に使用された。
 また、このアルバムはこの年の12月に発表され、全米アルバム・チャートでは2位を記録している。ちなみにこのアルバムの邦題には、「美しすぎる遺作」という副題が付けられていた。

 同時に、この日の夜、当時のABCテレビでドキュメンタリー番組が放映された。内容は、癌で亡くなった若い女性の半生を描いたものだったが、このテレビ番組のテーマ・ソングにジム・クロウチの"Time in A Bottle"が選ばれたのである。

 放映後、全米にあるABCテレビの各放送局に、この主題歌は誰が歌っているのか、どこで手に入れることができるのか等々の問い合わせが殺到した。この曲は、まだ世に出回っていなかったのである。そして、この日から8日後に彼は亡くなったのだ。

 彼の死後、3枚目のアルバムが発表され、そこからシングル曲"I Got A Name"がチャートで10位になったとき、"Time in A Bottle"がシングル・カットされ、12月29日から2週間、シングル・チャートの首位に立っている。
 つまり、彼の死後に発表された曲が1位を記録したわけで、当然のことながら、彼はこの記録を知ることはなかった。

 また、"I Got A Name"はジムの作品ではなく、ロバータ・フラックが歌ったことで有名になった"Killing Me Softly With His Song"を手掛けたチャールズ・フォックスとノーマン・ギムベルによるもので、息子の成功を夢見ながら亡くなっていったジムの父親のことを示唆しているようで、ジム自身が気に入って自分のアルバムの中に取り入れたという。

 ジムの父親のことを歌っているようで、実際は、ジム自身にも当てはまるような曲になってしまった。若い時に苦労を重ね、まさにこれからという時にジムは亡くなったわけで、運命の皮肉さを感ぜざるを得ない。

 言い忘れていたが、"Time in A Bottle"はジムのデビュー・アルバムに収められていた曲で、ジムもまさかシングル・カットされるとは思ってもみなかっただろう。

 この曲のリード・アコースティック・ギターは、モーリー・ミューライゼンという人が演奏していて、彼はジムの重要なパートナーだった。この曲以外にも"Operator"や"I'll Have To Say I Love You in A Song"などでも彼の演奏を聞くことができる。そしてまた、モーリーもまたジムと同じ飛行機に同乗していたため、帰らぬ人になってしまったのである。
「交換手さんよ
ちょっと手伝ってくれないか
わかるだろ
電話帳が古くて文字が薄いんだ
彼女はロスに住んでいる
俺の元親友だったレイと一緒にね
彼女が言うには知り合いだけど
時々嫌いになるっていう奴なんだ

だから奴らがうまくいくとは
思えない
でも、そのことは忘れてくれ
もしわかったら番号を教えてくれよ
電話してみるから
ただ元気だと言うだけさ
俺は何とか順調だ
そんな自分の言葉に
勇気づけられることを
願っているけど
だけど本当じゃなかった
そんなふうには思えないんだ

交換手さんよ
助けてくれよ
あんたが教えてくれた
番号が見えないんだ
目の中に
何か引っかかっていてね
俺を救ってくれるはずの
彼女との愛について考えると
いつもこうなるんだ

交換手さんよ
今までのことは忘れてくれ
誰もそこにはいないさ
ただ俺はあんたと
話したかっただけさ
時間をとってくれてありがとう
ほんとにあんたは親切だな
電話料金はあんたのもんさ」
(“Operator” 訳;プロフェッサー・ケイ)

 電話交換手に昔の恋人の電話番号を教えてもらうように頼んでおきながら、番号が分かっても電話を掛けるのを躊躇して、結局やめてしまうという男の心情を素直に表現していて、同じような経験をしたことがある人はきっと泣けてくるのではないかと思ってしまう。

 しかも、ジムの声自体も哀愁味があって、曲のイメージと見事に重なってしまうのである。この"Operator"や"Time in A Bottle"、"Photographs & Memories"などのスローやミディアム調の曲だけではない。
 "Rapid Roy"や"Workin' at the Carwash Blues"などのテンポのよい曲でも、どこかユーモラスで諧謔さが漂っていて、一度聞くと忘れられない。41uy2vr4jbl
 それは彼の温かな人間性から来るのであろう。決して裕福ではなかった移民の家庭で育ち、父親は息子の成功を見ることもなく亡くなってしまう。

 彼自身も様々な職業を経験し、ある意味、報われない人生を歩んでいる人たちとの交友を通して学んだことが、彼の人生観や人物観察の基となり、それが歌詞や曲調に反映しているようだ。

 何度も言うけれど、30歳という若さで、まさにこれから本格的にスポットライトが当たろうとする時期だった。象徴的なアルバム・タイトルや亡くなった後でのNo.1ヒットなど、ひょっとしたら彼の命運は最初から決定事項だったのかと思わせるような人生だった。

 彼の曲を聞くと、思わずそんなことを考えてしまうのである。

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2017年6月19日 (月)

ロイ・オービソン

 拙稿の「ドン・マクリーン」のところで、彼がロイ・オービソンの1961年のヒット曲"Crying"を歌ってヒットさせた、と記していたが、その元歌を歌ったロイ・オービソンのことについては、まだ触れていなかったので、ここで改めて記そうと思った。Imgd9f3d9b7zikezj
 ロイ・オービソンには、全米No.1になった曲が2曲ある。1曲目は1961年6月に1週間だけ首位になった"Running Scared"で、もう1曲は、1964年の9月に3週間首位に輝いた"Oh, Pretty Woman"だ。

 前者の"Running Scared"は、ロイが作詞家のジョー・メルソンと1952年に作った曲で、わずか5分くらいで書き上げたものだった。
 ボレロ調のスローなバラードのこの曲は2分余りと、短い曲だったが、まったりするような雰囲気が漂っている。たぶん、ロイの歌い方が醸し出すものだろう。

 本当はエルヴィス・プレスリーに歌ってもらいたくて作ったらしく、ロイはわざわざエルヴィス・プレスリーのメンフィスの自宅までもって行ったのだが、朝早すぎてまだ寝ていたらしく、結局、具体的な話はできなかったらしい。
 仕方ないので、エヴァリー・ブラザーズのフィル・エヴァリーに曲を聞かせて、気に入れば歌ってほしいと言うつもりだったのだが、話だけで終わってしまったということだった。

 "Oh, Pretty Woman"の方は、1982年にはアメリカのロック・バンド、ヴァン・ヘイレンがリバイバル・ヒットさせているし、1990年の同名映画の主題歌でも使われたので、多くの方が知っているのではないだろうか。

 この曲は、アメリカだけでなくイギリスでもシングル・チャートの首位になっている。また、米英のみならず、ドイツやオランダ、カナダなどの国々でもヒットを記録し、全世界で400万枚以上のベスト・セラー曲になった。

 ロイ・オービソンは、1936年4月23日にテキサス州のヴァーノンにあるウインクというところで生まれた。本名は、ロイ・ケルトン・オービソンといった。父親は油田で働いていて、母親は看護師だった。

 6歳の頃に、父親のアドバイスに従ってギターとハーモニカを習うようになり、8歳の時には地元カーミットのKVWCラジオ局の番組でギターを演奏するようになった。さらには、テレビ番組にも出演するようになり、だんだんと有名になっていった。

 高校生の頃には、“ウインク・ウェスターナー”というバンドを結成したし、大学に入学してからは“ティーン・キングス”というグループを組んで、主にカントリー&ウェスタンを中心にクラブやパーティーで演奏するようになった。
 ちょうど映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー」の中で、パーティーでギターを演奏するシーンがあったが、あんな感じだったのだろう。ただし、映画の中ではまだ誕生していないロックン・ロールだったが…

 ロイは、ノース・テキサス大学に通っていたが、お友達の中にはあのパット・ブーンもいて、彼の成功に刺激を受けて、ロイも本格的にミュージシャンになろうと思ったそうである。
 それで、バディ・ホリーのマネージャー兼プロデューサーだったノーマン・ペティに認められて、彼のスタジオで何曲かレコーディングを行った。

 1955年に、その中の曲がシングルとして発表されたがヒットしなかった。そのとき、テレビ番組で共演したジョニー・キャッシュから自分が所属していたメンフィスのサン・レコードを勧められたロイは、社長のサム・フィリップスに会いに行ったのである。

 サン・レコードといえば、あのエルヴィス・プレスリーやカール・パーキンス、ジェリー・リー・ルイス等々の有名ミュージシャンが在籍していた会社であり、サム・フィリップスは、かつてエルヴィスのマネージャーでもあった。

 そのサム社長は、ロイの歌い方や声に興味を持ち、契約を交わした。そして1955年にシングル化されていた"Ooby Dooby"、"Go Go Go"を再発したのだが、これはチャートの59位まで上昇した。

 気をよくしたサム社長は、ちょうどエルヴィスがRCAレコードに引き抜かれたこともあって、ロイをエルヴィスの後継者にしようとした。ただ、サム社長はロックン・ローラーとしてロイを育てたかったようだが、ロイ自身はバラードを歌いたかったようだった。

 そういう方向性の違いもあったせいか、3枚のシングルを発表するも、いずれも不発に終わり、失意のロイはエルヴィスの後を追うように、RCAレコードに自身も移籍したのである。

 残念ながら、1955年から59年までのロイ・オービソンについては、むしろヒットに恵まれない不遇な期間だったようだ。

 彼の運が好転するのは、59年にモニュメント・レコードに移籍したころからだった。1960年に"Uptown"がチャートの72位に入ると、続いて"Only the Lonely"がチャートの2位になり、イギリスでは首位になった。ここから彼の快進撃が始まるのである。

 彼の全盛期は、このモニュメント・レコード時代ではないだろうか。20枚のシングルがリリースされ、そのうち両面ヒットを含む21曲が全米シングル・チャートに入り、9曲がトップ・テンに、上記のように2曲が首位に立ったのである。

 これはイギリスでも言えることで、あのザ・ビートルズやザ・ローリング・ストーンズ等が大活躍していた60年代に、ロイは30曲をチャートに登場させ、そのうち10曲がトップ・テンに入って、3曲が首位に輝いている。(イギリスでの首位の曲は、"Only the Lonely"、"It's Over"、"Oh, Pretty Woman"の3曲だった)

 なぜかイギリスでは人気の高いロイ・オービソンだった。1963年にはザ・ビートルズと一緒にライヴ公演を行っているし、70年代に入っても1975年には合計55回にわたる全英ツアーを敢行していた。

 彼の最後の所属レコード会社は、イギリスのヴァージン・レコードだったし、イギリス人の間では、海の向こうの伝説的なミュージシャンというような認識があるのだろう。51s6tkjdqkl
 1965年に、ロイはレコード会社をMGMというところに移る。契約金は1年間で100万ドル、契約期間は20年間というもので、まさに超VIPの待遇だった。
 ところが、人生はロイにとっては、そう上手くはいかなかった。7年間の在籍で、15枚のシングルを発表したが、ヒットしたのはその約半分の7曲、一番成功したシングル曲は、1965年の"Ride Away"で、25位止まりだったのである。

 さらに不幸は続く。仕事面だけでなく、私生活では、1966年に奥方のクローディット・チェスター・オービソンがオートバイ事故で亡くなった。享年26歳だった。
 また、2年後にはテネシーにあった自宅が火事で全焼し、ロイ・ジュニアとトニーの2人の息子を失っている。

 1969年にはバーバラという人と再婚をしたが、アメリカで再び音楽活動を始めたのは、1977年になってからだった。それだけ時間がかかったのも、心の整理がつかなかったからだろう。

 MGMの次には、マーキュリー・レコード、アサイラム・レコードと転々と移籍を繰り返していったが、1979年になって映画「ローディ」に出演し、そのサウンドトラックに入っていたエミルー・ハリスとのデュエット曲"That Lovin' You Feelin' Again"(邦題は“胸ときめいて”)が久々にヒットして、翌年のグラミー賞のカントリー・デュオ/グループ部門で最優秀賞を獲得した。

 アメリカ国民はやっと彼の存在を思い出したようで、80年代に入ってからはドン・マクリーンやヴァン・ヘイレンが彼の曲をリバイバル・ヒットさせているし、映画の主題歌にも使用されていった。

 彼の歌は、いろんな人がカバーしているようで、上記の曲以外にも"Dream Baby"を1971年にグレン・キャンベルが、"Love Hurts"を1975年から76年にかけてイギリス人のジム・キャパルディやナザレスが、"Blue Bayou"を1977年にリンダ・ロンシュタットがヒットさせている。

 ロイ・オービソンといえば、どうしても“バラード・シンガー”としてのイメージが強くて、ベスト盤を聞いていた時も、ハワイアンを聞いている気分になったりもしたのだが、エルヴィスがカバーした"Mean Woman Blues"などは、ロックン・ロールしててなかなか良かった。
 イギリスでは、クリフ・リチャードやザ・スペンサー・デイヴィス・グループも歌っていたけれど、アレンジを加えれば、ハード・ロックとしても成立するようなそんな曲だった。

 1988年には、ジョージ・ハリソンやジェフ・リン等とともに、トラヴェリング・ウィルベリーズを結成して一躍有名になったが、アルバムがまだチャート・インしているときの12月6日に心筋梗塞で亡くなった。享年52歳だった。Travelingwilburys4ff972d27b17b
 最後に、ロイ・オービソンといえば、サングラスがトレードマークだが、元々はメガネだったのを度付きのサングラスに替えたからだと言われている。これはメガネを飛行機内に忘れたためで、次の日にイギリスでのビートルズとの公演に向かわなければならなかったからメガネを買う時間的余裕がなかったという理由だった。
 ちょっとした偶然は、人生に大きな影響を与えることがあるということを意味しているのかもしれない。

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2017年6月12日 (月)

バディ・ホリー

 バディ・ホリーも、エルヴィス・プレスリーと同様、いやそれ以上に、後世のロックン・ロール史に影響を与えたミュージシャンの一人である。5e8f746dee233d92e676b4ddcbe5d85e_10
 彼の曲は、ザ・ビートルズやザ・ローリング・ストーンズを始め、リンダ・ロンシュタットなど多くの有名なバンドやミュージシャンにカバーされている。("Words of Love"はザ・ビートルズが、"Not Fade Away"はザ・ローリング・ストーンズが、そしてリンダ・ロンシュタットは、"It So Easy"を取り上げていた)

 逆に、バディの死を取り上げて"American Pie"を作ったのが、ドン・マクリーンであり、のちにマドンナもこの曲をリバイバル・ヒットさせている。

 また、曲だけでなく、イギリスのバンド、ザ・ホリーズのようにバンド名に使われている例もあるし、イギリス人のエルヴィス・コステロは、バディ・ホリーのようなメガネをかけてデビューした。

 ついでに言うと、ザ・ビートルズは“カブトムシ(Beetle)”と"Beat"を掛けた造語だったが、彼らが昆虫の名前を選んだのも、バディ・ホリーのバック・バンドの“クリケッツ(コオロギ)”が由来だといわれているし、ジョン・レノンがメガネを愛用するようになったのも、バディの影響があったらしい。それほどバディ・ホリーは、多くのミュージシャンから慕われていたのである。

 バディ・ホリーは、本名をチャールズ・ハーディン・ホリーといい、“バディ”は母親が彼のことをこう呼んでいたことからきている。
 1936年9月7日に、テキサス州のラボックで生まれた。幼い頃から黒人の音楽やメキシコ音楽などに親しんでいたという。

 4人兄弟の末っ子で、幼い頃からバイオリンを習い、5歳の時には人前で歌うようになったと言われている。
 さらには11歳でピアノを、12歳でギターを弾き始め、13歳になると友だちと組んで、人前で音楽活動を始めた。

 高校生になると、地元のラジオ局で番組を担当するなど、かなりの人気を博するようになった。
 もちろんこれくらいで満足する彼ではなかった。自主制作盤を作成して発表したり、有名な歌手が来れば、頼み込んでオープニング・アクトとしてステージに立たせてもらったりするようになったのである。

 そのうち、ビル・ヘイリー&ザ・コメッツの前座を務めていた時、ナッシュビルのプロモーターだったエディ・クランドルに認められて、1956年にデッカ・レコードと契約を結び、レコーディングを行うことができた。もちろん、"That'll Be the Day"も録音されている。

 ただ、残念ながらこの時録音したレコードは、商業的には成功しなかった。それで、翌57年の2月に、今度はニューメキシコ州のクローヴィスにあるプロデューサーのノーマン・ペティのスタジオで再びレコーディングを行った。
 この時のバック・メンバーが“ザ・クリケッツ”と呼ばれた人たちだった。ドラムスがジェリー・アリスン、ベース・ギターがジョー・モールディン、ギターはニキ・サリヴァンである。

 この時も"That'll Be the Day"は録音されていて、今度はアップテンポの、よりロックン・ロール風にアレンジされていた。100625_02_buddyholly_3
 もともとこの曲は、アメリカの西部劇でジョン・ウェインが主演した1956年の映画「捜索者」("The Searchers")のセリフから引用されている。

 最初にナッシュビルで録音された曲の方は、デッカが気に入らず発表させてもらえなかった。だから、クローヴィスでもう一度再録されたのだろう。

 しかし、今度もデッカ・レコードは発売を拒否し、デッカ以外のコロンビア・レコード、RCA、アトランティック・レコードまでも断ってきた。
 最終的に、デッカ・レコードの子会社だったニューヨークにあるコーラル・ブランズウィック社のボブ・シールが契約をして、シングル・レコードとして発表することができたのである。

 1957年の夏にシングル・カットされたこの曲は、徐々にチャートを上昇していき、9月23日付のビルボードのシングル・チャートで1位になっている。この曲の前後には、ポール・アンカの"Diana"やジミー・ロジャースの"Honeycomb"などが首位になっていた。そんな時代のヒット曲だった。

 ちなみに、この曲の版権はデッカ・レコードが持っていたので、ボブはクリケッツの名前でブランズウィック・レーベルから、彼の死後、バディ・ホリーの名前でコーラル・レーベルからシングルとして発表した。もちろん3曲とも、バディ・ホリー&ザ・クリケッツの演奏である。今でいうところの便乗商法というものだろう。

 翌年の1958年になると、バディはプロデューサーのノーマン・ペティやクリケッツのメンバーと別れて、新しいバック・メンバーと活動を始めるようになった。
 この年の8月に、バディは、プエルトリコ人の音楽出版社秘書だったマリアと結婚したのだが、実は、この結婚にノーマン・ペティは反対していたという話があって、それが2人の別離の原因だと言われている。

 また、ザ・クリケッツのメンバーは、長期にわたってのコンサートやライヴ活動が嫌になってしまったらしい。もともと彼らは、スタジオのセッション・ミュージシャンだったから、ライヴ活動が嫌になっても仕方がなかったのかもしれない。ただ、今となってみれば、それが彼らの生死を分けたのだから、人生何がどうなるかわからないものである。

 そして、1958年の10月にニューヨークのグリニッジ・ヴィレッジのアパートメントで、レコーディングを行った。これにはポール・アンカの書いた"It Doesn't Matter Anymore"も含まれていて、これが公式には最後のレコーディングとされている。712mwdf2bzl__sl1050_
 彼は、この時期の前後から多くのヒット曲を発表するようになったが、経済的には決して裕福ではなかったらしい。だから、手っ取り早くお金を稼ごうと思えば、今も昔も同じように、いわゆる地方公演を行わなければならなかったのである。

 そして運命の1959年2月3日を迎える。前日の2日に妊娠中だった妻のマリアを家に残し、バディ・ホリーは、ニュー・クリケッツのメンバーを伴って、アメリカの中西部を回るバス・ツアー“ウィンター・ダンス・パーティー”に出かけていった。

 アイオワ州のクリア・レイクでのライヴ演奏を終えた彼らは、バス内の暖房器具が故障中だったこともあり、バディは、早く次の会場に行こうとして小型飛行機をチャーターしたのである。
 このときのバディは衣装も早く洗濯したかったようだと、のちに途中まで同伴していたツアー・スタッフが述べていた。

 2月3日の午前12時40分、雪の降る中を小型機ボナンザ号は、ノース・ダコタ州のファーゴに向けて飛び立ったが、残念ながら目的地に到着することはなかった。
 パイロットを含む4人全員が死亡して、22歳の若いロックン・ローラーは天国に旅立ったのである。

 自分は、まだ生まれていないので、当時のことはよくわからない。ただ、その後も彼の生前録音された楽曲が手を変え品を変え、発表され続けていることは間違いない。
 中には、1954年頃の自主制作盤までもが発表されていて、まだ高校生か卒業して間もない頃のカントリーやフォークを2人組で演奏している頃の楽曲まで聞くことができるのだ。

 面白いことに、本国アメリカよりもイギリスでの人気が高いようで、60年代に入っても"Bo Diddley"や"Brown-eyed Handsome Man"、"Peggy Sue/Rave On"などが、シングル・チャートに入っていたし、1978年や1993年には、コンピレーションのベスト・アルバムが全英1位を記録していた。

 自分は12月8日のジョンの命日を生涯忘れることはないだろうが、同様に、1950年代後半を生きてきた人たちの中には、2月3日を忘れることができない人がいるはずだ。
 いまだに彼の曲が流され、多くのミュージシャンがカバーし、アルバムも売れていることがバディ・ホリーの伝説をさらに忘れられないものにしている。

 わずか3年余りの音楽活動だったが、ロックン・ロールの歴史の中では永遠に輝いていくに違いない。本人はこの世にはいないが、私たちの中に間違いなく存在し、そしてこれからの世代にも語り継がれていくのである。

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2017年6月 5日 (月)

ドン・マクリーン

 さて、6月がやってきた。早いもので、今年も半分が過ぎ去ろうとしている。それに、今月の途中から梅雨も始まってしまう。約1か月間も続くのだが、それが終われば本格的な夏になる。こうやって月日は過ぎて行くのだろう。

 それで先月は女性シンガーを紹介してきたので、今月は男性シンガーやミュージシャンを紹介しようと思っている。1回目の今回は、あの有名な"American Pie"を歌ったアメリカ人のシンガー・ソングライターのドン・マクリーンだ。D135532995252011
 ドン・マクリーンは、1945年の10月にニューヨークの郊外で生まれた。幼い頃に喘息を患ったせいか、彼は外でスポーツをすることができなかったようだ。
 そのため家の中で読書や音楽に時間を費やすことが多くなり、徐々に当時流行り始めたロックン・ロールに夢中になっていった。

 当時の彼にとってのアイドルは、フランク・シナトラやリトル・リチャード、エルヴィス・プレスリー、そしてバディ・ホリーだった。
 そんな彼がプロのミュージシャンを目指すようになったのは、父親を病気で亡くした15歳の頃だった。

 彼は高校を卒業して、一時大学に入学したものの、退学してしまった。理由は、音楽的キャリアを追及するためである。ただ、父親からは、大学を卒業してほしいとしきりに言われていたため、退学にあたっては、やや後悔の念もあったらしい。

 だから、23歳の時に夜間大学で学び直して、経営学の単位を取得した。また、将来のミュージシャンとしての活動や生活に役立つかもしれないと考えて、コロンビア大学の大学院でも学んでいる。

 その間には、ピート・シーガーなどのミュージシャン仲間と一緒になって、彼はニューヨークのハドソン川沿いのクラブやコーヒー・ハウスを回って演奏活動を続けていった。のちにこの活動は、“クリアウォーター運動”と呼ばれるようになった。

 1週間に5日、1日に2回ライヴ活動を行っていて、ドン・マクリーンは、“ハドソン・リバー・トルバドール”(ハドソン川の吟遊詩人) として知られるようになったのである。

 彼のデビュー・アルバム「タペストリー」は、1970年に発表されたが、なかなかレコード契約を結ぶことができずにいて、34のレーベルから72回にわたって断られていた。
 ただ、アルバムのチャート・アクションを見ると、アメリカでは111位と悪かったものの、イギリスでは16位と健闘していた。71puj862lrl__sl1050_
 このアルバムからのヒット曲はなかったものの、"Castle in the Air"や"And I Love You So"などは、多くのミュージシャンからカバーされるほどの佳曲だった。
 特に、バラード曲である"And I Love You So"は、1973年にペリー・コモによって歌われて、見事にアダルト・コンテンポラリー・チャートで首位を獲得した。

 1971年には、続いてセカンド・アルバム「アメリカン・パイ」を発表した。もちろんこのアルバムには、歴史的な大ヒットを記録した"American Pie"が含まれている。この曲については、彼は次のように述べていた。

「バディ・ホリーは、僕にとって子どもの頃から崇拝してやまない最初で最後のミュージシャンでした。僕の友だちの多くは、エルヴィス・プレスリーが好きでしたが、自分にとってはやはりバディ・ホリーが何といっても一番でした。何しろ僕に直接話しかけてくれた人でしたから。
 彼は、彼の作り出す音楽以上に何か深い、僕にとってはシンボルともいえる存在でした。彼のキャリア、彼のグループ、彼の作り出すリード・ボーカルとバックの3人の絶妙なコンビネーション、これらはすべて60年代の音楽そのものを示し、また、僕の若さそのものを示すものでした」

 だから彼は、バディが1959年2月3日に飛行機事故で亡くなったとは信じられなかったし、信じたくないという気持ちが強かったのである。

 この曲が歴史的な名曲になったのも、万人の胸を打ったからだろう。単なるひとりのミュージシャンの死は、多くの人にとってシンパシーを持って迎えられたのである。

 それは、当時の時代の空気を吸い、状況を知っていた人にはもちろんのこと、何も知らない人にとっても、歌詞の中の空虚感や心の痛みなどを自分の生きざまに投影して感じることができたからだ。

 だから、いみじくもトルストイが「アンナ・カレーニナ」の中で、“不幸な家庭は、その家庭ごとにその様相が異なっている”と記していたように、この曲を聞いたそれぞれの人が、自分の中にある心の痛みや喪失感と照らし合わせながら、この曲を理解し、味わうことができたのではないだろうか。

 また、当時の時代の空気を反映していたことも当てはまるだろう。ケネディ大統領が暗殺され、ベトナム戦争は明らかにアメリカの敗北だった。“フラワー・ムーヴメント”と呼ばれたヒッピー文化は、若者にドラッグと退廃をもたらす結果に終わってしまった。
 人類は月に足跡を残したものの、当時の米ソの覇権争いの結果にしかすぎず、それによって人類の福祉の向上が図られたとは言えなかった。

 そういう状況の中で、“音楽が亡くなった日”というフレーズは、人によっては“友人が亡くなった日”や“青春が終わった日”、“夢が潰えた日”などに置き換えられていったのである。

 このシングル"American Pie"は、8分27秒と長かったため、当時のEPレコードではA面とB面の両面に分けて入れることになった。
 それに、曲自体のインパクトや、何やら訳ありというか、多義的で意味深な歌詞などが話題を呼び、ラジオなどでは途中でカットされることもなく、すべて通しでオンエアされるようになっていった。

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 この曲は、1971年の11月にシングル・チャートに顔を出すと、翌年の1月から2月にかけて4週間首位に輝いている。ドン・マクリーンにとっては、おそらく最初で最後の全米シングル・チャートの首位に輝いた曲になるだろう。

 ドン・マクリーンといえば、どうしても"American Pie"のイメージが強いのだが、このアルバムでも最初にこの曲が置かれていて、アルバム全体の方向性を示している。ただし、もちろんこの曲だけではなくて、他にも佳曲が含まれている。

 アルバム3曲目の"Vincent"は、オランダの画家、ヴィンセント・ヴァン・ゴッホのことを歌っていて、歌詞の中にゴッホが弟のテオにあてた手紙の一部が引用されていた。
 この曲もバラードで、切々と歌うドン・マクリーンの姿勢が不遇の画家との姿とダブって見えて、えも言われぬ印象を与えてくれる。

 もともとドンの声は、深みがあり落ち着いていて優しさを感じさせる。だから、アップテンポの曲では力強く、静かなバラードではしっとりした情感を与えることができる。
 "American Pie"では“静~動~静”という転換が見事であり、"Vincent"では奥行きのあるボーカルを楽しむことができるのである。

 このアルバムは、イギリスのアルバム・チャートでは3位、アメリカやカナダでは1位を獲得した。いまだに語り継がれていることを考えれば、やはり歴史を創ったアルバムといってもいいだろう。

 ドン・マクリーンは、これ以降も次々とアルバムやシングルを発表していて、1981年にはロイ・オービソンが1961年にヒットさせた"Crying"をカバーして、チャートの5位に送り込んでいる。
 この曲はジェイ&アメリカンズというグループが1966年にリバイバル・ヒットさせているが、ドン・マクリーンの美しい声がこのバラード曲にもピッタリとあてはまっているようだ。

 そういえば、1971年にロバータ・フラックが"Killing Me Softly with His Song"を歌ってヒットさせたけれども、元歌を書いたロリー・リーバーマンという女性シンガー・ソングライターは、ドン・マクリーンのライヴを見てこの詞を書いている。そう思わせるほどのステージングだったのだろう。

 そういう彼の魅力を味わいたいのなら、やはりベスト盤が一番だろう。いろんなベスト盤が出ているけれど、どれもほぼ同じような構成だと思う。71jkbefxvhl__sl1050_
 ただ中には2枚組ベスト盤も出ているし、"American Pie"の再録ヴァージョンを収めたものもある。やはり芸歴が長いと、手を変え品を変え様々なアルバムが発表されるのだろう。

 もちろん、今でも現役ミュージシャンのドン・マクリーンである。アメリカ国内や海外のフェスにも頻繁に参加しているし、アルバムも制作している。
 残念なのは、昨年、家庭内DVのせいで離婚した元奥さんから訴えられたことだろう。軽微な罪状だったせいか、大きな話題にはならなかったようだが、ひょっとしたら奥さんに向かって"Bye Bye Miss American Pie"と歌ったのかもしれない。

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