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2017年6月12日 (月)

バディ・ホリー

 バディ・ホリーも、エルヴィス・プレスリーと同様、いやそれ以上に、後世のロックン・ロール史に影響を与えたミュージシャンの一人である。5e8f746dee233d92e676b4ddcbe5d85e_10
 彼の曲は、ザ・ビートルズやザ・ローリング・ストーンズを始め、リンダ・ロンシュタットなど多くの有名なバンドやミュージシャンにカバーされている。("Words of Love"はザ・ビートルズが、"Not Fade Away"はザ・ローリング・ストーンズが、そしてリンダ・ロンシュタットは、"It So Easy"を取り上げていた)

 逆に、バディの死を取り上げて"American Pie"を作ったのが、ドン・マクリーンであり、のちにマドンナもこの曲をリバイバル・ヒットさせている。

 また、曲だけでなく、イギリスのバンド、ザ・ホリーズのようにバンド名に使われている例もあるし、イギリス人のエルヴィス・コステロは、バディ・ホリーのようなメガネをかけてデビューした。

 ついでに言うと、ザ・ビートルズは“カブトムシ(Beetle)”と"Beat"を掛けた造語だったが、彼らが昆虫の名前を選んだのも、バディ・ホリーのバック・バンドの“クリケッツ(コオロギ)”が由来だといわれているし、ジョン・レノンがメガネを愛用するようになったのも、バディの影響があったらしい。それほどバディ・ホリーは、多くのミュージシャンから慕われていたのである。

 バディ・ホリーは、本名をチャールズ・ハーディン・ホリーといい、“バディ”は母親が彼のことをこう呼んでいたことからきている。
 1936年9月7日に、テキサス州のラボックで生まれた。幼い頃から黒人の音楽やメキシコ音楽などに親しんでいたという。

 4人兄弟の末っ子で、幼い頃からバイオリンを習い、5歳の時には人前で歌うようになったと言われている。
 さらには11歳でピアノを、12歳でギターを弾き始め、13歳になると友だちと組んで、人前で音楽活動を始めた。

 高校生になると、地元のラジオ局で番組を担当するなど、かなりの人気を博するようになった。
 もちろんこれくらいで満足する彼ではなかった。自主制作盤を作成して発表したり、有名な歌手が来れば、頼み込んでオープニング・アクトとしてステージに立たせてもらったりするようになったのである。

 そのうち、ビル・ヘイリー&ザ・コメッツの前座を務めていた時、ナッシュビルのプロモーターだったエディ・クランドルに認められて、1956年にデッカ・レコードと契約を結び、レコーディングを行うことができた。もちろん、"That'll Be the Day"も録音されている。

 ただ、残念ながらこの時録音したレコードは、商業的には成功しなかった。それで、翌57年の2月に、今度はニューメキシコ州のクローヴィスにあるプロデューサーのノーマン・ペティのスタジオで再びレコーディングを行った。
 この時のバック・メンバーが“ザ・クリケッツ”と呼ばれた人たちだった。ドラムスがジェリー・アリスン、ベース・ギターがジョー・モールディン、ギターはニキ・サリヴァンである。

 この時も"That'll Be the Day"は録音されていて、今度はアップテンポの、よりロックン・ロール風にアレンジされていた。100625_02_buddyholly_3
 もともとこの曲は、アメリカの西部劇でジョン・ウェインが主演した1956年の映画「捜索者」("The Searchers")のセリフから引用されている。

 最初にナッシュビルで録音された曲の方は、デッカが気に入らず発表させてもらえなかった。だから、クローヴィスでもう一度再録されたのだろう。

 しかし、今度もデッカ・レコードは発売を拒否し、デッカ以外のコロンビア・レコード、RCA、アトランティック・レコードまでも断ってきた。
 最終的に、デッカ・レコードの子会社だったニューヨークにあるコーラル・ブランズウィック社のボブ・シールが契約をして、シングル・レコードとして発表することができたのである。

 1957年の夏にシングル・カットされたこの曲は、徐々にチャートを上昇していき、9月23日付のビルボードのシングル・チャートで1位になっている。この曲の前後には、ポール・アンカの"Diana"やジミー・ロジャースの"Honeycomb"などが首位になっていた。そんな時代のヒット曲だった。

 ちなみに、この曲の版権はデッカ・レコードが持っていたので、ボブはクリケッツの名前でブランズウィック・レーベルから、彼の死後、バディ・ホリーの名前でコーラル・レーベルからシングルとして発表した。もちろん3曲とも、バディ・ホリー&ザ・クリケッツの演奏である。今でいうところの便乗商法というものだろう。

 翌年の1958年になると、バディはプロデューサーのノーマン・ペティやクリケッツのメンバーと別れて、新しいバック・メンバーと活動を始めるようになった。
 この年の8月に、バディは、プエルトリコ人の音楽出版社秘書だったマリアと結婚したのだが、実は、この結婚にノーマン・ペティは反対していたという話があって、それが2人の別離の原因だと言われている。

 また、ザ・クリケッツのメンバーは、長期にわたってのコンサートやライヴ活動が嫌になってしまったらしい。もともと彼らは、スタジオのセッション・ミュージシャンだったから、ライヴ活動が嫌になっても仕方がなかったのかもしれない。ただ、今となってみれば、それが彼らの生死を分けたのだから、人生何がどうなるかわからないものである。

 そして、1958年の10月にニューヨークのグリニッジ・ヴィレッジのアパートメントで、レコーディングを行った。これにはポール・アンカの書いた"It Doesn't Matter Anymore"も含まれていて、これが公式には最後のレコーディングとされている。712mwdf2bzl__sl1050_
 彼は、この時期の前後から多くのヒット曲を発表するようになったが、経済的には決して裕福ではなかったらしい。だから、手っ取り早くお金を稼ごうと思えば、今も昔も同じように、いわゆる地方公演を行わなければならなかったのである。

 そして運命の1959年2月3日を迎える。前日の2日に妊娠中だった妻のマリアを家に残し、バディ・ホリーは、ニュー・クリケッツのメンバーを伴って、アメリカの中西部を回るバス・ツアー“ウィンター・ダンス・パーティー”に出かけていった。

 アイオワ州のクリア・レイクでのライヴ演奏を終えた彼らは、バス内の暖房器具が故障中だったこともあり、バディは、早く次の会場に行こうとして小型飛行機をチャーターしたのである。
 このときのバディは衣装も早く洗濯したかったようだと、のちに途中まで同伴していたツアー・スタッフが述べていた。

 2月3日の午前12時40分、雪の降る中を小型機ボナンザ号は、ノース・ダコタ州のファーゴに向けて飛び立ったが、残念ながら目的地に到着することはなかった。
 パイロットを含む4人全員が死亡して、22歳の若いロックン・ローラーは天国に旅立ったのである。

 自分は、まだ生まれていないので、当時のことはよくわからない。ただ、その後も彼の生前録音された楽曲が手を変え品を変え、発表され続けていることは間違いない。
 中には、1954年頃の自主制作盤までもが発表されていて、まだ高校生か卒業して間もない頃のカントリーやフォークを2人組で演奏している頃の楽曲まで聞くことができるのだ。

 面白いことに、本国アメリカよりもイギリスでの人気が高いようで、60年代に入っても"Bo Diddley"や"Brown-eyed Handsome Man"、"Peggy Sue/Rave On"などが、シングル・チャートに入っていたし、1978年や1993年には、コンピレーションのベスト・アルバムが全英1位を記録していた。

 自分は12月8日のジョンの命日を生涯忘れることはないだろうが、同様に、1950年代後半を生きてきた人たちの中には、2月3日を忘れることができない人がいるはずだ。
 いまだに彼の曲が流され、多くのミュージシャンがカバーし、アルバムも売れていることがバディ・ホリーの伝説をさらに忘れられないものにしている。

 わずか3年余りの音楽活動だったが、ロックン・ロールの歴史の中では永遠に輝いていくに違いない。本人はこの世にはいないが、私たちの中に間違いなく存在し、そしてこれからの世代にも語り継がれていくのである。


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