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2017年6月 5日 (月)

ドン・マクリーン

 さて、6月がやってきた。早いもので、今年も半分が過ぎ去ろうとしている。それに、今月の途中から梅雨も始まってしまう。約1か月間も続くのだが、それが終われば本格的な夏になる。こうやって月日は過ぎて行くのだろう。

 それで先月は女性シンガーを紹介してきたので、今月は男性シンガーやミュージシャンを紹介しようと思っている。1回目の今回は、あの有名な"American Pie"を歌ったアメリカ人のシンガー・ソングライターのドン・マクリーンだ。D135532995252011
 ドン・マクリーンは、1945年の10月にニューヨークの郊外で生まれた。幼い頃に喘息を患ったせいか、彼は外でスポーツをすることができなかったようだ。
 そのため家の中で読書や音楽に時間を費やすことが多くなり、徐々に当時流行り始めたロックン・ロールに夢中になっていった。

 当時の彼にとってのアイドルは、フランク・シナトラやリトル・リチャード、エルヴィス・プレスリー、そしてバディ・ホリーだった。
 そんな彼がプロのミュージシャンを目指すようになったのは、父親を病気で亡くした15歳の頃だった。

 彼は高校を卒業して、一時大学に入学したものの、退学してしまった。理由は、音楽的キャリアを追及するためである。ただ、父親からは、大学を卒業してほしいとしきりに言われていたため、退学にあたっては、やや後悔の念もあったらしい。

 だから、23歳の時に夜間大学で学び直して、経営学の単位を取得した。また、将来のミュージシャンとしての活動や生活に役立つかもしれないと考えて、コロンビア大学の大学院でも学んでいる。

 その間には、ピート・シーガーなどのミュージシャン仲間と一緒になって、彼はニューヨークのハドソン川沿いのクラブやコーヒー・ハウスを回って演奏活動を続けていった。のちにこの活動は、“クリアウォーター運動”と呼ばれるようになった。

 1週間に5日、1日に2回ライヴ活動を行っていて、ドン・マクリーンは、“ハドソン・リバー・トルバドール”(ハドソン川の吟遊詩人) として知られるようになったのである。

 彼のデビュー・アルバム「タペストリー」は、1970年に発表されたが、なかなかレコード契約を結ぶことができずにいて、34のレーベルから72回にわたって断られていた。
 ただ、アルバムのチャート・アクションを見ると、アメリカでは111位と悪かったものの、イギリスでは16位と健闘していた。71puj862lrl__sl1050_
 このアルバムからのヒット曲はなかったものの、"Castle in the Air"や"And I Love You So"などは、多くのミュージシャンからカバーされるほどの佳曲だった。
 特に、バラード曲である"And I Love You So"は、1973年にペリー・コモによって歌われて、見事にアダルト・コンテンポラリー・チャートで首位を獲得した。

 1971年には、続いてセカンド・アルバム「アメリカン・パイ」を発表した。もちろんこのアルバムには、歴史的な大ヒットを記録した"American Pie"が含まれている。この曲については、彼は次のように述べていた。

「バディ・ホリーは、僕にとって子どもの頃から崇拝してやまない最初で最後のミュージシャンでした。僕の友だちの多くは、エルヴィス・プレスリーが好きでしたが、自分にとってはやはりバディ・ホリーが何といっても一番でした。何しろ僕に直接話しかけてくれた人でしたから。
 彼は、彼の作り出す音楽以上に何か深い、僕にとってはシンボルともいえる存在でした。彼のキャリア、彼のグループ、彼の作り出すリード・ボーカルとバックの3人の絶妙なコンビネーション、これらはすべて60年代の音楽そのものを示し、また、僕の若さそのものを示すものでした」

 だから彼は、バディが1959年2月3日に飛行機事故で亡くなったとは信じられなかったし、信じたくないという気持ちが強かったのである。

 この曲が歴史的な名曲になったのも、万人の胸を打ったからだろう。単なるひとりのミュージシャンの死は、多くの人にとってシンパシーを持って迎えられたのである。

 それは、当時の時代の空気を吸い、状況を知っていた人にはもちろんのこと、何も知らない人にとっても、歌詞の中の空虚感や心の痛みなどを自分の生きざまに投影して感じることができたからだ。

 だから、いみじくもトルストイが「アンナ・カレーニナ」の中で、“不幸な家庭は、その家庭ごとにその様相が異なっている”と記していたように、この曲を聞いたそれぞれの人が、自分の中にある心の痛みや喪失感と照らし合わせながら、この曲を理解し、味わうことができたのではないだろうか。

 また、当時の時代の空気を反映していたことも当てはまるだろう。ケネディ大統領が暗殺され、ベトナム戦争は明らかにアメリカの敗北だった。“フラワー・ムーヴメント”と呼ばれたヒッピー文化は、若者にドラッグと退廃をもたらす結果に終わってしまった。
 人類は月に足跡を残したものの、当時の米ソの覇権争いの結果にしかすぎず、それによって人類の福祉の向上が図られたとは言えなかった。

 そういう状況の中で、“音楽が亡くなった日”というフレーズは、人によっては“友人が亡くなった日”や“青春が終わった日”、“夢が潰えた日”などに置き換えられていったのである。

 このシングル"American Pie"は、8分27秒と長かったため、当時のEPレコードではA面とB面の両面に分けて入れることになった。
 それに、曲自体のインパクトや、何やら訳ありというか、多義的で意味深な歌詞などが話題を呼び、ラジオなどでは途中でカットされることもなく、すべて通しでオンエアされるようになっていった。

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 この曲は、1971年の11月にシングル・チャートに顔を出すと、翌年の1月から2月にかけて4週間首位に輝いている。ドン・マクリーンにとっては、おそらく最初で最後の全米シングル・チャートの首位に輝いた曲になるだろう。

 ドン・マクリーンといえば、どうしても"American Pie"のイメージが強いのだが、このアルバムでも最初にこの曲が置かれていて、アルバム全体の方向性を示している。ただし、もちろんこの曲だけではなくて、他にも佳曲が含まれている。

 アルバム3曲目の"Vincent"は、オランダの画家、ヴィンセント・ヴァン・ゴッホのことを歌っていて、歌詞の中にゴッホが弟のテオにあてた手紙の一部が引用されていた。
 この曲もバラードで、切々と歌うドン・マクリーンの姿勢が不遇の画家との姿とダブって見えて、えも言われぬ印象を与えてくれる。

 もともとドンの声は、深みがあり落ち着いていて優しさを感じさせる。だから、アップテンポの曲では力強く、静かなバラードではしっとりした情感を与えることができる。
 "American Pie"では“静~動~静”という転換が見事であり、"Vincent"では奥行きのあるボーカルを楽しむことができるのである。

 このアルバムは、イギリスのアルバム・チャートでは3位、アメリカやカナダでは1位を獲得した。いまだに語り継がれていることを考えれば、やはり歴史を創ったアルバムといってもいいだろう。

 ドン・マクリーンは、これ以降も次々とアルバムやシングルを発表していて、1981年にはロイ・オービソンが1961年にヒットさせた"Crying"をカバーして、チャートの5位に送り込んでいる。
 この曲はジェイ&アメリカンズというグループが1966年にリバイバル・ヒットさせているが、ドン・マクリーンの美しい声がこのバラード曲にもピッタリとあてはまっているようだ。

 そういえば、1971年にロバータ・フラックが"Killing Me Softly with His Song"を歌ってヒットさせたけれども、元歌を書いたロリー・リーバーマンという女性シンガー・ソングライターは、ドン・マクリーンのライヴを見てこの詞を書いている。そう思わせるほどのステージングだったのだろう。

 そういう彼の魅力を味わいたいのなら、やはりベスト盤が一番だろう。いろんなベスト盤が出ているけれど、どれもほぼ同じような構成だと思う。71jkbefxvhl__sl1050_
 ただ中には2枚組ベスト盤も出ているし、"American Pie"の再録ヴァージョンを収めたものもある。やはり芸歴が長いと、手を変え品を変え様々なアルバムが発表されるのだろう。

 もちろん、今でも現役ミュージシャンのドン・マクリーンである。アメリカ国内や海外のフェスにも頻繁に参加しているし、アルバムも制作している。
 残念なのは、昨年、家庭内DVのせいで離婚した元奥さんから訴えられたことだろう。軽微な罪状だったせいか、大きな話題にはならなかったようだが、ひょっとしたら奥さんに向かって"Bye Bye Miss American Pie"と歌ったのかもしれない。


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