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2017年7月31日 (月)

オーティス・レディング(2)

 暑い夏が続いていて、家の中でも熱中症になるというのも納得できる。こういうときには、もちろん涼しい場所で過ごすのもいいのだが、逆に、徹底的に暑さの中に身を置いて、汗を流すことで涼しさを体感するという手もあるようだ。

 そういう時に相応しい音楽は、時としてハード&ヘヴィ・ロックだろうし、あるいはソウル・ミュージックでもいいかもしれない。そして、ソウル・ミュージックの王道といえば、女性ならアレサ・フランクリンであり、男性ならオーティス・レディングあたりが、すぐに頭に浮かぶのである。39c24657fc7a480eee97bc93d8433c51mus
 今は天国にいる忌野清志郎とオーティスである。清志郎の“ガッ、ガッ、ガッ、ガッ、ガッ、ガッ、ガッ、ガッ”は、オーティスのスィンギング・スタイルをパクったのは有名な話だった。

 今自分は、オーティス・レディングの1967年のライヴ盤「ライヴ・イン・ヨーロッパ」を聞きながらこれを綴っているのだが、いつ聞いても、何度聞いても、素晴らしいし、よく構成が練られていると感心してしまう。

 当時のオーティス・レディングのヨーロッパのライヴは、彼単独のライヴではなくて、エディ・フロイドやサム&デイヴ、ブッカー・T&MG'sなどの著名なミュージシャンとのジョイント・ライヴだったようだ。

 だから、実際のステージでは、オーティスの持ち歌は5曲から6曲ぐらいだった。でも、このライヴ盤では10曲が収められていて、パリのオリンピア劇場やロンドンのアストリア劇場での音源を中心に編集されている。曲がタブらないように、それぞれの劇場での数回の公演の中からピックアップされたといわれている。61ib1v4iull__sl1425_
 当時の公演でいつも必ず歌われた曲があって、それはテンプテーションズの"My Girl"、サム・クックの"Shake"、1932年の古いラヴ・ソングだった"Try A Little Tenderness"の3曲である。しかも"Try A Little Tenderness"はいつも必ず最後の曲として歌われていた。

 このライヴ・アルバムでは、これら3曲が中心となるように絶妙に配置されているから、まるで彼一人の単独ライヴを聞いているような感じがしてしまう。

 特にバラード曲の配置がすばらしく、冒頭2曲のテンポのよい曲に続いて"I've Been Loving You Too Long"が、中盤で"These Arms of Mine"が聴衆をいったん落ち着かせて、ザ・ビートルズの"Day Tripper"で盛り上げて、"Try A Little Tenderness"で締めるところは、さすがである。実際のライヴでも盛り上がったことだろう。

 オーティス・レディングは、1941年の9月にジョージア州のドウソンで生まれた。父親は教会の牧師だった。やがて一家はメコンに移り、オーティスは教会の聖歌隊で歌うようになった。

 地元のグループだったジョニー・ジェンキンズ&ザ・パイントッパーズで歌っていた時に、オーディションを受けて合格し、レコーディングをする機会を得た。
 そこでレコーディングをした"These Arms of Mine"や"Pain in My Heart"がヒットして、徐々に彼の名前が知られるようになった。

 オーティスの曲を聞くなら、やはりライヴだろう。スタジオ盤もいいけれど、彼のダイナミックな歌い方や爆発的な歌唱力がいまいち発揮できていないような気がしてならない。718bhlioofl__sl1159_
 彼が日本でも有名になったきっかけになったのは、やはりモンタレー・ポップ・フェスティバルに出演したことが大きいのではないだろうか。

 1967年の6月17日、フェスの2日目の大トリがオーティスだった。2日目といっても、もう夜中を回っていて次の日になっていたのだが、眠りかけている観衆の前で、オーティスはサム・クックの"Shake"を歌った。文字通り、自分の音楽で眠りこけている人たちを起こそうとしたわけであるが、ここから彼の伝説が生まれていった。

 そして、アメリカをはじめヨーロッパでも、彼の人気はうなぎ上りに急上昇していったのだが、悲しいかな、現役時代はそんなに長くは続かなかった。

 1967年12月10日、ウィスコン州のマディソンのクラブで公演が予定されていたオーティスは、自家用双発機でクリーブランドを飛び立った。
 午後3時28分ごろ、マディソン近くのモノナ湖上空にさしかかったところ、突然エンジン・トラブルに見舞われ、墜落した。享年26歳だった。

 死の3日前に、オーティスは、メンフィスのスタジオで"The Dock of the Bay"をレコーディングした。そして、ギタリストのスティーヴ・クロッパーに残りはまた来週にしようといってスタジオを出た。スティーヴにとっては、それがオーティス・レディングの最後の姿になってしまった。

 彼の死後、約3ヶ月後にこのシングル曲は、3週間にわたってチャートでNo.1に輝いている。さらにグラミー賞では、ベストR&Bソング賞、ベストR&B男性ボーカル賞も受賞した。もちろんオーティス自身は、このことを知るすべもなかった。

 アルバム「ドック・オブ・ベイ」も1968年に発表されたが、1965年から67年にかけてのシングルやそのBサイドの曲を集めた編集盤だった。新作というよりは、彼の追悼記念という意味合いが大きいようなアルバムだったと思う。71eeucr3al__sl1440_
 だから、彼の意思が反映されていたかどうかは、よくわからない。もともと未完成だったシングル曲の"The Dock of the Bay"でさえも、彼の死後にスティーヴ・クロッパーが手を加えたのだから、アルバム自体もスティーヴの意思が反映されているのだろう。

 1980年には、オーティス・レディングの息子たちと従兄弟らが、レディングスというバンドを結成して、シングル"The Dock of the Bay"を発表した。この曲は、のちに55位まで上昇したが、これも追悼記念だったと思う。

 ちなみに、チャートでNo.1になった曲が、その子どもたちによって再びチャートで100位以内に入ったのは、この曲が初めてであり、今までのところ最後のようである。


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