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2017年7月

2017年7月31日 (月)

オーティス・レディング(2)

 暑い夏が続いていて、家の中でも熱中症になるというのも納得できる。こういうときには、もちろん涼しい場所で過ごすのもいいのだが、逆に、徹底的に暑さの中に身を置いて、汗を流すことで涼しさを体感するという手もあるようだ。

 そういう時に相応しい音楽は、時としてハード&ヘヴィ・ロックだろうし、あるいはソウル・ミュージックでもいいかもしれない。そして、ソウル・ミュージックの王道といえば、女性ならアレサ・フランクリンであり、男性ならオーティス・レディングあたりが、すぐに頭に浮かぶのである。39c24657fc7a480eee97bc93d8433c51mus
 今は天国にいる忌野清志郎とオーティスである。清志郎の“ガッ、ガッ、ガッ、ガッ、ガッ、ガッ、ガッ、ガッ”は、オーティスのスィンギング・スタイルをパクったのは有名な話だった。

 今自分は、オーティス・レディングの1967年のライヴ盤「ライヴ・イン・ヨーロッパ」を聞きながらこれを綴っているのだが、いつ聞いても、何度聞いても、素晴らしいし、よく構成が練られていると感心してしまう。

 当時のオーティス・レディングのヨーロッパのライヴは、彼単独のライヴではなくて、エディ・フロイドやサム&デイヴ、ブッカー・T&MG'sなどの著名なミュージシャンとのジョイント・ライヴだったようだ。

 だから、実際のステージでは、オーティスの持ち歌は5曲から6曲ぐらいだった。でも、このライヴ盤では10曲が収められていて、パリのオリンピア劇場やロンドンのアストリア劇場での音源を中心に編集されている。曲がタブらないように、それぞれの劇場での数回の公演の中からピックアップされたといわれている。61ib1v4iull__sl1425_
 当時の公演でいつも必ず歌われた曲があって、それはテンプテーションズの"My Girl"、サム・クックの"Shake"、1932年の古いラヴ・ソングだった"Try A Little Tenderness"の3曲である。しかも"Try A Little Tenderness"はいつも必ず最後の曲として歌われていた。

 このライヴ・アルバムでは、これら3曲が中心となるように絶妙に配置されているから、まるで彼一人の単独ライヴを聞いているような感じがしてしまう。

 特にバラード曲の配置がすばらしく、冒頭2曲のテンポのよい曲に続いて"I've Been Loving You Too Long"が、中盤で"These Arms of Mine"が聴衆をいったん落ち着かせて、ザ・ビートルズの"Day Tripper"で盛り上げて、"Try A Little Tenderness"で締めるところは、さすがである。実際のライヴでも盛り上がったことだろう。

 オーティス・レディングは、1941年の9月にジョージア州のドウソンで生まれた。父親は教会の牧師だった。やがて一家はメコンに移り、オーティスは教会の聖歌隊で歌うようになった。

 地元のグループだったジョニー・ジェンキンズ&ザ・パイントッパーズで歌っていた時に、オーディションを受けて合格し、レコーディングをする機会を得た。
 そこでレコーディングをした"These Arms of Mine"や"Pain in My Heart"がヒットして、徐々に彼の名前が知られるようになった。

 オーティスの曲を聞くなら、やはりライヴだろう。スタジオ盤もいいけれど、彼のダイナミックな歌い方や爆発的な歌唱力がいまいち発揮できていないような気がしてならない。718bhlioofl__sl1159_
 彼が日本でも有名になったきっかけになったのは、やはりモンタレー・ポップ・フェスティバルに出演したことが大きいのではないだろうか。

 1967年の6月17日、フェスの2日目の大トリがオーティスだった。2日目といっても、もう夜中を回っていて次の日になっていたのだが、眠りかけている観衆の前で、オーティスはサム・クックの"Shake"を歌った。文字通り、自分の音楽で眠りこけている人たちを起こそうとしたわけであるが、ここから彼の伝説が生まれていった。

 そして、アメリカをはじめヨーロッパでも、彼の人気はうなぎ上りに急上昇していったのだが、悲しいかな、現役時代はそんなに長くは続かなかった。

 1967年12月10日、ウィスコン州のマディソンのクラブで公演が予定されていたオーティスは、自家用双発機でクリーブランドを飛び立った。
 午後3時28分ごろ、マディソン近くのモノナ湖上空にさしかかったところ、突然エンジン・トラブルに見舞われ、墜落した。享年26歳だった。

 死の3日前に、オーティスは、メンフィスのスタジオで"The Dock of the Bay"をレコーディングした。そして、ギタリストのスティーヴ・クロッパーに残りはまた来週にしようといってスタジオを出た。スティーヴにとっては、それがオーティス・レディングの最後の姿になってしまった。

 彼の死後、約3ヶ月後にこのシングル曲は、3週間にわたってチャートでNo.1に輝いている。さらにグラミー賞では、ベストR&Bソング賞、ベストR&B男性ボーカル賞も受賞した。もちろんオーティス自身は、このことを知るすべもなかった。

 アルバム「ドック・オブ・ベイ」も1968年に発表されたが、1965年から67年にかけてのシングルやそのBサイドの曲を集めた編集盤だった。新作というよりは、彼の追悼記念という意味合いが大きいようなアルバムだったと思う。71eeucr3al__sl1440_
 だから、彼の意思が反映されていたかどうかは、よくわからない。もともと未完成だったシングル曲の"The Dock of the Bay"でさえも、彼の死後にスティーヴ・クロッパーが手を加えたのだから、アルバム自体もスティーヴの意思が反映されているのだろう。

 1980年には、オーティス・レディングの息子たちと従兄弟らが、レディングスというバンドを結成して、シングル"The Dock of the Bay"を発表した。この曲は、のちに55位まで上昇したが、これも追悼記念だったと思う。

 ちなみに、チャートでNo.1になった曲が、その子どもたちによって再びチャートで100位以内に入ったのは、この曲が初めてであり、今までのところ最後のようである。

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2017年7月24日 (月)

ヴォーン・ブラザーズ

 スティーヴィー・レイ・ヴォーンのことについては、前回と前々回で述べたつもりだが、少しだけ補足させてもらうことにした。

 1990年の8月27日の飛行機事故を起こしたのは、4機のヘリコプターの中の1機だった。3機が無事に到着して、1機だけが行方不明になったのだが、人工スキー場の斜面に墜落したのは、午前0時35分頃と言われている。

 また、亡くなった人は、ジャクソン・ブラウンやC,S&N、ジェフ・ベックなどのマネージメントを行っていたエージェントのボビー・ブルックス、エリック・クラプトンのボディーガードを務めていたナイジェル・ブラウン、ヘリコプターを操縦していたジェフ・ブラウン、そして再出発を果たしたスティーヴィー・レイ・ヴォーンの4人だった。

 スティーヴィー・レイ・ヴォーンの死後、彼の生前の未発表曲を集めて監修し、発表したのは、スティーヴィー・レイ・ヴォーンの実兄だったジミー・ヴォーンだった。そのアルバム・タイトルが「ザ・スカイ・イズ・クライング」であるというのは、前回述べた。

 そして、実はもう1枚、生前に録音されていたアルバムがあって、死後、約1か月後に発表されている。それが、今回取り上げたアルバム「ファミリー・スタイル」である。61gf12gyftl
 このアルバムは1990年の9月25日に発表された。レコーディング自体は、1990年と記載されていた。スティーヴィー・レイ・ヴォーンの薬物問題が一段落してから録音に取り掛かったものと思われる。
 アルバムのクレジットは、“ヴォーン・ブラザーズ”となっていて、兄弟で制作しましたということを主張していた。

 これはあくまでも推測だが、兄弟はそれぞれ自分のバンド活動を続けながらも、兄弟でアルバムを発表するつもりだったのではないだろうか。その第一弾がこの「ファミリー・スタイル」で、この後も定期的にアルバムを出すつもりだったと考えている。特にその根拠はないのだが、それほどこのアルバムには、リラックスした兄弟の音楽活動がパッケージされていたからだ。

 プロデューサーは、ナイル・ロジャーズだった。80年代からナイル・ロジャーズはロック・ミュージシャンとコラボすることが多かったが、このアルバムのタイトル「ファミリー・スタイル」に相応しい兄弟愛と充実した演奏を生み出していたと思う。

 自分はもう少しギター・バトルやそれぞれのギター・ソロを期待していたのだが、期待していたようなスリリングなソロなどはあまり聞くことができず、自分たちのやりたい音楽をそのまま楽しみながらやっているようだった。

 1曲目はノリのよい"Hard to Be"で、ところどころのホーンの音と乾いたストラトキャスターの重なり合いがロックさせてくれる。曲はスティーヴィー・レイ・ヴォーンとドラマー兼シンガー・ソングライターのドイル・ブラムホールが書いている。
 基本的に、曲を書いた人がリード・シンガーとして歌い、ギター・ソロも担当しているようだ。

 2曲目は"White Boots"という曲で、ジミー・ヴォーンが歌い、ソロを取っている。ただし、曲自体はビリー・スワン、ジム・レスリー、デボラ・ハッチンソンという人たちのカバー曲だった。

 3曲目はインストゥルメンタル曲の"D/FW"で、ジミー・ヴォーンが手掛けていて、リードをジミーが、高音のソロ・パートをスティーヴィー・レイ・ヴォーンが弾いているようだ。2分52秒と短いが、ミディアム調のノリのよい曲である。

 次の"Good Texan"は、ジミーとプロデューサーのナイル・ロジャーズが作った曲で、ボーカルとリード・ギターはジミーが担当している。これもミディアム調の聞きやすい曲だった。

 "Hillbillies From Outerspace"は、兄弟で作った曲だが、リチャード・ヒルトンの弾くオルガンとプレストン・ハバードのアップライト・ベースがジャズっぽい雰囲気を作っている。スティール・ギターは兄が、エレクトリック・ギターは弟の演奏だが、特に、目立つようなギター・ソロは聞くことができなかった。
 ちなみに、プレストン・ハバードは、ジミーが所属していたバンド、ファビュラス・サンダーバーズのベーシストだった。964fd71ca1dababd466991321dd77b5d_2
 気分は一転して、"Long Way From Home"はスティーヴィー・レイ・ヴォーンとドイル・ブラムホールの曲で、速いテンポに乗ってスティーヴィー・レイ・ヴォーンのボーカルとギターがフィーチャーされていた。こういう曲をもう2~3曲やってほしかった気がする。

 7曲目の"Tick Tock"はバラードで、ジミー・ヴォーンの他にナイル・ロジャーズやジェリー・リン・ウィリアムスも曲作りにかかわっている。
 ジミ・ヘンドリックスのような語りの部分はジミー・ヴォーンが、それ以外の部分は弟が歌っている。なかなかの佳曲で、歌詞の内容も愛と平和の世界を築き上げようというわかりやすいものだった。

 ロック調の"Telephone Song"は、聞いただけでスティーヴィー・レイ・ヴォーンの曲だとわかるもので、ボーカル&ギターも彼がメインになっている。
 このアルバムでは、彼のギター・ソロは全体的にやや抑え気味のようだったが、この曲の間奏ではやっと彼の豪放なギターを聞くことができた。

 このアルバムでは、4曲のインストゥルメンタル曲が収められていて、3曲目と5曲目にある"D/FW"と"Hillbillies From Outerspace"、後半の曲、9曲目と10曲目の"Baboom/Mama Said"と"Brothers"は、いずれも趣の異なる曲だ。

 "Baboom/Mama Said"は、珍しくブラッキーでファンク調の曲だった。ナイル・ロジャーズもギターで参加しているところを見ると、彼の意見も反映されていたのだろう。女性のボーカルがより一層黒っぽさを演出している。
 曲自体は、兄弟2人とデニー・フリーマンというテキサス出身のミュージシャンで仕上げられていた。

 最後の曲の"Brothers"は5分5秒のスロー・ブルーズで、兄弟で書かれている曲だが、アコーディオンが使われている点が注目を引いた。
 最初のギター・ソロのパートは弟のスティーヴィー・レイ・ヴォーンが、次のパートはジミーが弾いている(と思う)。
 ギターが炸裂しているという印象を受けた曲で、どうせなら、兄弟による全曲オール・インストゥルメンタル曲でアルバムを埋めても十分いけると思ったのだが、もう二度と聞くことができないのが残念でならない。

 ジミー・ヴォーンは、テキサス州のダラスで活動を始め、オースティンに移って、ボーカリストのキム・ウィルソンとファビュラス・サンダーバーズを結成した。1974年頃のお話である。01stevie
 彼らは地道にライブを重ねていき、1979年に念願のアルバム・デビューを飾り、クリサリス・レコード系列からデビュー・アルバムを発表した。

 基本的には、ジミーのギターとキムのハーモニカをフィーチャーしたリズム&ブルーズのバンドだったが、徐々にロカビリーやポップなロックン・ロールの傾向を強めていった。

 特に、1982年に発表された4枚目のスタジオ・アルバム「T-バード・リズム」からその傾向が強くなっていった。何しろアルバムのプロデューサーだったのがニック・ロウだったからだ。
 これは、彼らがイギリスで公演をしたときに、ロックパイルと共演したことが切っ掛けとなって、バンド・メンバーのニックが申し出たようだ。

 それで次のアルバム、「タフ・イナフ」は1986年に発表されたが、今度のプロデューサーはデイヴ・エドモンズになっていた。ニックもデイヴも、ロックパイルでは“レノン&マッカートニー”的存在と言われていたから、ニックの次にはデイヴが担当したのだろう。

 このアルバムのタイトルと同じ曲"Tuff Enuff"は、彼らにとって唯一のトップ40の中に入ったシングル曲で、最高位は10位を記録している。615fdcnddl
 弟のバンドのダブル・トラブルは、ブルーズ中心のバンドだったからスティーヴィー・レイ・ヴォーンのギターも唸りを上げていたが、ファビュラス・サンダーバーズの方はもう少し音楽性が幅広くて、純粋なブルーズ・ミュージックというよりも、ロカビリーやロックン・ロール、メキシコ音楽の影響を受けたテックス・メックスなどもやっていた。だからアルバムにもそういう音楽性が反映されていた。

 それがよく表れているのが、最後のインストゥルメンタル曲である"Down at Antones"で、キムのブルーズ・ハープを前面に出したノリのよいオールディーズ・ナンバーのようなこの曲は、50年代のダンス・ミュージックのようなものだった。クラブでかければみんな踊りだすのではないかと思われる曲でもある。

 ところで、“Antones”とはオースティンにあるクラブの名前で、多くのミュージシャンやバンドが、今もなおここで切磋琢磨しているとのことである。

 自分はもう少しジミーのギターがフィーチャーされていてほしかったのだが、残念ながらそうではなかった。基本的にこのファビュラス・サンダーバーズは、ボーカルのキムのバンドなのだろう。だからキムが歌っていないときは、ハーモニカが聞こえてくるのである。

 もともとキムは北部のデトロイト出身で、オースティンでジミーと出会い、意気投合してバンドを結成したという経緯があった。だからというわけでもないのだろうが、当初はジミーのブルーズ色とキムのロックン・ロール色とがうまい具合に化学反応を示したのだろう。

 "Two Time My Lovin"なんかは、まるでヒューイ・ルイス&ザ・ニューズの"Stuck with You"のようだし、"Amnesia"はジェリー・リー・ルイスの"Great Balls of Fire"を思い出させてくれるほどだった。

 だからこのアルバムでは(というかこのバンドでは)、弟のスティーヴィー・レイ・ヴォーンのようなギター・ソロを聞くことは難しいのだ。確かに、"Wrap It Up"や"Why Get Up"などの曲の間奏では、的確なジミーのギター・ソロを聞くことができるのだが、ジミーの個性までは伝わってこない。

 エルヴィス・プレスリーの"Burning Love"のような"True Love"では、ジミーのギターが主張していて個人的には気に入っているのだが、こういう曲をもっと聞かせてほしかった。

 それでもこのアルバムの成功に気をよくしたバンド・メンバーとプロデューサーのデイヴ・エドモンズは1987年には「ホット・ナンバー」という同じ路線のアルバムを発表したのだが、残念ながら、このアルバムからはシングル・ヒットは生まれず、アルバム自体もそんなに話題を集めることはなかった。

 ここでデイヴ・エドモンズとは縁を切って、1989年の次作はメンフィスで録音した。このアルバムからは、トム・クルーズが主演した映画「カクテル」の挿入歌"Powerful Stuff"がヒットして、再び彼らは注目を集めた。

 だが、バンドは成功しても、ジミーとしては弟スティーヴィー・レイ・ヴォーンの活躍が頭にあったのだろう、ジミー自身も1990年にファビュラス・サンダーバーズを脱退して、ソロ活動を始めるようになったのである。
 
 その後のファビュラス・サンダーバーズは、活動は続けているものの、オリジナル・メンバーは、ボーカリストのキム・ウィルソンだけになってしまった。ジミーが脱退するときには、そういう傾向や雰囲気をジミーは感じ取っていたのかもしれない。

 ジミーは現在66歳。弟スティーヴィー・レイ・ヴォーンの遺志を受け継ぐかのように、現役プレイヤーとして現在のブルーズ界を牽引している。D38a7b4ec600f1e1dbfb64e08c5870af
 ギタリストとしてはそんなに派手な印象はないのだけれど、その堅実なプレイには定評がある。2001年にはグラミー賞も受賞しているし、これからも活躍してほしいミュージシャンの一人だと思っている。

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2017年7月17日 (月)

スティーヴィー・レイ・ヴォーン(2)

 スティーヴィー・レイ・ヴォーン(以下S.R.V.と略す)と彼のバンド、ダブル・トラブルは、1985年に3枚目のアルバム「ソウル・トゥ・ソウル」を発表したが、その前後に全米を含むワールド・ツアーを行った。もちろん、日本での公演も含まれていて、その時は東京、大阪、名古屋の3か所で行われていた。

 翌年には、その時の模様を収録した2枚組ライヴ・アルバム(CDでは1枚組)が発表された。残念ながら日本公演でのライヴ演奏は含まれていないが、1985年7月16日から19日にかけて行われたスイスのモントルー・ジャズ・フェスティバル、地元テキサス州のオースティンやダラスでの演奏が13曲分収められていた。51xxfjpubpl
 このライヴ・アルバムは、それまでの3枚のアルバムから10曲、カバー曲の3曲で構成されていた。デビュー・アルバムの「テキサス・フラッド~ブルースの洪水~」からは"Pride And Joy"、"Mary Had A Little Lamb"、"Texas Flood"、"Love Struck Baby"の4曲、セカンド・アルバムの「テキサス・ハリケーン」からは"Cold Shot"とジミィ・ヘンドリックスのカバー曲"Voodoo Chile"の2曲、そしてサード・アルバムの「ソウル・トゥ・ソウル」からは"Say What!"、"Ain't Gone'n' Give Up On Love"、"Look At Little Sister"、"Change It"の4曲だった。

 カバー曲は、ベック、ボガート&アピスも1973年にカバーしたスティーヴィー・ワンダーの名曲"Superstition"、チェスター・バーネットことハウリン・ウルフの1958年のブルーズ"I'm Leaving You(Commit A Crime)"、そして実在したギャングのことを歌った1980年の"Willie the Wimp"の3曲で、"Willie the Wimp"は兄のジミー・ヴォーンも録音していた曲だった。

 そして、3歳年上のジミー・ヴォーンもこのライヴ・アルバムに参加していて、"Willie the Wimp"、"Look At Little Sister"、"Love Struck Baby"、"Change It"の4曲で、彼のギターを聞くことができる。

 このアルバムで特筆すべきことは、キーボードの存在である。リズム・セクションは、以前からの付き合いだったベース・ギターのトミー・シャノン、ドラムスにはクリス・レイトンだが、サード・アルバムから参加したキーボーディストのリーズ・ワイナンスのオルガンやピアノでの演奏が、サウンドに色どりを添え、音の厚みをもたらしているのである。

 ただ、演奏に関してはあくまでもバックの演奏に徹していて、決して目立っているわけではない。主役のS.R.V.の引き立て役に回っている。その姿勢に好感が持てる。
 冒頭の曲"Say What!"ではやや目立ってはいるものの、後半の"Voodoo Chile"ではほとんど目立たない。その次の"Love Struck Baby"ではブギウギ調のピアノ演奏がよかった。

 とにかく、このライヴ・アルバムでは、S.R.V.が気持ちいいほど弾きまくっていて、ファンとしては十分堪能できた。速いテンポの"Say What!"とスロー・ブルーズの"Ain't Gone'n' Give Up On Love"の最初の2曲を聞いただけで、もうこのアルバムの素晴らしさが分かるというものだった。“ロバート・ジョンソンの後継者”、“帰ってきたクラプトン”そんなキャッチ・フレーズが浮かぶアルバムでもある。

 S.R.V.は、1954年の10月にテキサス州のダラスに生まれた。子どもの頃からB.B.キングやレイ・チャールズの曲、ジェフ・ベックなどのイギリスのロック・ミュージックなどを聞いて育ち、12歳で演奏活動を始めた。最初は、兄ジミーのバンドでベース・ギターを弾いていたようだ。

 その時に、アルバート・キングのテープを聞いて、生涯をかけてブルーズを追い求めようと決意したと言われている。“彼らの演奏を聞いていると、何故あんなにリラックスして演れるのか不思議に思うよ。だからいまだに僕は勉強中の身さ。残りの人生の全てを費やしても演ってみたいんだ。その境地にたどり着くまでね”

 その後、S.R.V.は高校に入学するも、毎晩クラブで演奏していたため、学業との両立が立たずに高校を中退した。そして、水を得た魚のように、ダラスからオースティンに移って、クラブで住み込みのような生活を続けながら、毎晩ステージに立って演奏を続けるのであった。

 そんな中で、盟友のトミーとクリスに出会って、3人でバンドを結成した。まもなくこの3人のバンド、“ダブル・トラブル”はオースティンの人気バンドになり、しばらくしてテキサス中にその名が響き渡っていったのである。12096487_10207885073903892_33987225
 彼が世界的に有名になったのは28歳の時だったが、10代の後半からドラッグに手を出し始め、20歳を超えた時にはアルコールとコカインを一緒に摂取するようになったていた。もともと6歳頃から父親のお酒を盗んでは嗜んでいたようで、そのうち自分で調合してオリジナルのお酒を造っていたと言われている。本当の話だろうか?

 実際に、彼が24歳の時、テキサス州のヒューストンの楽屋でコカインを吸引していたところを逮捕されて、1000ドルの保釈金を払っている。マディ・ウォーターズのオープニング・アクトとして出演する前だった。
 マディは彼が薬物中毒だということを知っていて、S.R.V.は素晴らしいギタリストだが、このままいけば、40歳まで生きられないだろうと語ったという。

 とにかく、S.R.V.には飲酒のみならずドラッグの常習者だったようで、彼が成功の階段を駆け足で登るのと同時に、その摂取量も増えていった。特に1985年から86年にかけてのワールド・ツアー中は、そのストレスからか、ほぼ毎日ドラッグ漬けだったようだ。

 1986年9月のドイツ公演後、ホテルに戻ったS.R.V.は脱水症状になり、急遽、病院に運ばれた。医者からはこのままいけば、あと1ヶ月もつかどうかわからないとまで言われたらしい。まさに死の一歩手前だったのである。

 アメリカに戻ったS.R.V.はジョージア州アトランタにある医療施設に入所し、治療に専念することになった。約1か月の治療の後、彼は故郷のダラスに戻ってリハビリを行っている。

 また残念なことに、1987年の1月にS.R.V.は離婚を経験した。妻の方から切り出されたようだ。やはりロック・ミュージシャンとの生活は、常識外れなだけに、気苦労が多かったのかもしれない。
 だから、次のアルバムまで約2年かかっている。彼の体調回復と心の痛手を解消するためには、それだけの年月が必要だったのだろう。

 彼の4枚目のスタジオ・アルバムは、1989年の6月に発表された。今まで通りのギター中心のブルーズ曲に加えて、ブラス・セクションも加えての豪華なレコーディングになっていた。51s7gqx8mql
 このアルバム「イン・ステップ」は、全米アルバム・チャートで33位を記録し、ダブル・プラチナ・アルバムに認定された。また、グラミー賞のベスト・コンテンポラリー・ブルーズ・アルバム賞も獲得している。
 ちなみに、ルー・リードは、このアルバムを1989年度のベスト・アルバムの1枚と評価していて、自分の友人たちに勧めていたらしい。

 エリック・クラプトンは、薬物中毒から回復したときには、いわゆる“レイド・バック”して戻ってきたのだが、S.R.V.の場合は、以前よりもより一層ブルーズ色の濃いアルバムを発表した。ある意味、彼にとっては、今後の進む方向性というか決意を込めたようなアルバムだったと思う。自分にはこれしかないんだという気持ちだったのではないだろうか。

 アルバムの中のいくつかの曲は、ドイル・ブラムホールとの共作になっているし、中にはS.R.V.がリハビリ中に、バンド・メンバーが中心となって作った"Crossfire"という曲も含まれていた。
 また彼一人で作った"Travis Walk"、"Riviera Paradise"という曲も含まれていた。両方ともインストゥルメンタル曲で、後者の方ではジェフ・ベックのようなクールなスロー・バラードの演奏を聞くことができる。

 カバー曲は3曲で、ウィリー・ディクソンの1961年の曲"Let Me Love You Baby"、バディ・ガイの1965年の曲"Leave My Girl Alone"、ハウリン・ウルフの1964年の"My Country Sugar Mama"のサイドBだった"Love Me Darlin'"である。

 自分は、このアルバムの印象としては、まさに新しいスティーヴィー・レイ・ヴォーンの姿を顕現し、次のステップとしての方向性を指し示すものだと感じていた。

 1曲目の"The House is Rockin'"なんかは、50年代か60年代の古いブルーズ曲のカバーだと思っていたら、S.R.V.とドイル・ブラムホールの共作曲だった。2分20秒余りの短い曲なのに、ギターは自己主張し、ピアノは踊っていて、超カッコいい。

 また、インストゥルメンタル曲の"Travis Walk"はスピーディーで、自分もギタリストならこんな曲を弾いてみたいと思わせるものだった。また、キーボード担当のリーズの転がるようなピアノ・プレイが短いながらも印象的だった。

 9曲目の"Love Me Darlin'"も3分21秒しかないのに、長く感じた。たぶんギターの音数が多いからだろう。しかも他の曲もそうなのだが、この曲でもバリバリと弾きまくっていて、素晴らしい。きっと天国のハウリン・ウルフも喜んでいるに違いない。

 そして最後の曲"Riviera Paradise"は、ジャズっぽくて、今までの彼とは違う趣の曲だった。それこそサンタナの「キャラヴァンサライ」の中の曲か、ジェフ・ベックの「ワイヤード」のアウトテイクの曲のようで、しっとりとした情感がクールなギターとエレクトリック・ピアノによって進行していくのである。8分49秒もある長い曲で、S.R.V.のオリジナル曲だった。

 このアルバムは、彼を見出してくれたミュージシャンでプロデューサーでもあったジョン・ハモンドに捧げられている。ジョンは、1987年の10月に74歳で亡くなった。病死だった。
 そのせいだろう、このアルバムでのS.R.V.のギターは、何かに憑りつかれたように素晴らしい演奏をしていた。

 ただ、この時はまさか自分もジョンのそばに行くとは思ってもみなかっただろう。薬物中毒を克服して、新境地を開いた矢先の出来事だった。運命とはまさに皮肉なものである。

 1990年8月26日、ウィスコンシン州イースト・トロイにあるアルパイン・ヴァレー・ミュージック・シアターにおいて、エリック・クラプトンやロバート・クレイ、バディ・ガイらとともに、“ブルーズ・サミット”を開催し、大成功させたスティーヴィー・レイ・ヴォーンは、シカゴ行きのヘリコプターに乗り込んだ。

 当初は予定にはなかったのだが、席が空いているからという理由で乗り込んだのである。同機には、クラプトンのエージェントやツアー・マネージャー、ボディガードの3人も同乗していた。

 翌日27日の未明に、濃霧のための視界不良のせいか、ヘリコプターは近くのスキー場のゲレンデに墜落して、パイロットを含む乗員全員が亡くなった。S.R.V.は35歳だった。

 彼は1983年のデビューから約7年間で、公式には4枚のスタジオ・アルバムと1枚のライヴ・アルバムを発表している。歴史に“もし”という言葉は禁句かもしれないが、もし彼が生きていたらと思うと、残念で残念でたまらない。

 彼のことだから、ブルーズ一辺倒の音楽をやることは間違いないだろうが、印象的でノリのよいリフや美しいメロディを残しただろう。
 彼の死後、1984年から89年までのアウトテイク集を集めたアルバム「ザ・スカイ・イズ・クライング」が発表されたが、選曲したのは兄のジミーだった。51lmysl4il
 S.R.V.の素晴らしさは、そのブルーズの解釈性の巧みさだったのではないだろうか。基本はブルーズだったが、それをロック風に解釈して見せたり、後年にはジャズ的要素も取り入れようとさえしていた。そのまま続いていたなら、ひょっとしたらソウル風楽曲やファンク色も取り入れたものも発表していたのかもしれない。

 ロバート・ジョンソンのように、本物のブルーズ・ミュージシャンは短命なのだろうか。そして、悲劇的な死を迎えるのだろうか。

 “スティーヴィーは本当に素晴らしいやつだったね。あいつのギター・プレイと歌には人を引き付けずにはいられない何かがあった”(ボブ・ディラン)

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2017年7月10日 (月)

スティーヴィー・レイ・ヴォーン(1)

 ギタリストの中には、自分の名前を頭文字で表す人が何人かいるようで、B.B.キングを始め、E.C.はエリック・クラプトン、J.B.はジェフ・ベックのことを表している。そんなアルファベットがギターケース上に書かれているのを、見た人もいるのではないだろうか。

 それでS.R.V.とくれば、もうお分かりだと思うけれど、今回のお題であるスティーヴィー・レイ・ヴォーンのことを意味している。ミドルネームも含んでいるので、長い名前をわかりやすく表示するのには、確かに適しているだろう。ここでもS.R.V.と表示しようと思う。(S.V.ならスティーヴ・ヴァイになってしまう!)Mi0001399374
 S.R.V.の存在が世間で知られるようになったのは、よく言われているように、デヴィッド・ボウイの1983年のアルバム「レッツ・ダンス」に参加して、そのギターの演奏が素晴らしかったからだ。

 もちろん、これは偶然の出来事ではなくて、デヴィッド・ボウイから声を掛けられたからだが、それに至るまでにいくつかの運命的な出来事がS.R.V.を待ち受けていたのである。

 1982年の4月23日に、S.R.V.と彼のバック・バンドだったダブル・トラブルは、ニューヨークのダンステリア・クラブで演奏をしていた。理由は、ローリング・ストーンズのツアー・サポートを決めるオーディションに参加していたからであった。

 彼らの演奏を最前列で見ていたロン・ウッドは、立ち上がってこう言ったという。“一緒にジャム・セッションをしよう”

 残念ながら、ストーンズのツアーには同行しなかったようだが、3ヶ月後にはスイスのモントルー・ジャズ・フェスティバルという伝統的なライヴで演奏をしていた。
 これはR&Bなどのプロデューサーだったジェリー・ウェクスラーの尽力によるところが大きい。

 ジェリーは、まだ無名だったころのS.R.V.のライヴ演奏をテキサスのオースティンで見て以来、彼らのファンになっていた。
 それで、レコーディング契約もない彼らをモントルー・ジャズ・フェスティバルのプロモーターに紹介して、何とか出演させてもらえるように頼んだのである。

 そして、そのフェスティバルに見に来ていたのが、デヴィッド・ボウイというわけだった。彼はステージ終了とともに、彼らのバック・ステージを訪れ、ブルーズのレコードやギターなどについて話し込んだ。
 S.R.V.のことをすっかり気に入ったボウイは、自分のアルバムのレコーディングに彼を招いたのであった。

 また、このときのモントルー・ジャズ・フェスティバルで、彼らの演奏を見ていた人は他にもいた。プロデューサーで自らもミュージシャンだったジョン・ハモンドである。

 ジョンは、有名なプロデューサーであり、彼によって見いだされ、世の中に紹介されたミュージシャンは数知れない。例えば、古くはビリー・ホリデーにカウント・ベイシー、ピート・シーガー、中期ではアレサ・フランクリンやボブ・ディランにジョージ・ベンソン、後期ではレナード・コーエンでありブルース・スプリングスティーン、そしてスティーヴィー・レイ・ヴォーンである。

 ジョン・ハモンドは、彼らのために1982年の11月から、ジャクソン・ブラウン所有のスタジオでレコーディングが行われるように取り図ってくれたのだ。
 そして、ジャクソン・ブラウン自身もスタジオだけでなく、必要なレコーディングの機材を揃えてやり、彼らをサポートした。

 そうして世に出たアルバムが、彼らのデビュー作である「テキサス・フラッド~ブルースの洪水~」だった。ニューヨークでのストーンズのオーディションから1年もたたないうちに彼らはレコード・デビューし、世界的に認められるようになったのである。61rie3zeil
 このアルバムは、彼らのライヴ演奏の雰囲気を活かすために、2日間で録音されている。ほとんどオーヴァー・ダビングも行われず、“一発録り”に近いものだった。
 だから、S.R.V.の豪放なギターやバックの荒々しいリズム・セクションが丸ごと収められていて、レコードの溝から飛び出してくるようなサウンドが響き渡っている。

 全10曲だが、オリジナルはそのうち6曲、残りはバディ・ガイの1967年の"Mary Had A Little Lamb"、ラリー・ディヴィスの"Texas Flood"、チェスター・バーネットの"Tell Me"、そして1964年にアイズレー・ブラザーズが発表した"Testify"だった。

 基本はブルーズなのだが、ロック・ミュージックとしても十分機能するほど、カッコいい。冒頭の"Love Struck Baby"や次の"Pride And Joy"などは2分や3分少々の曲なのだが、とても密度が濃くて、そんなに短くは感じられない。

 また、インストゥルメンタル曲の"Testify"などは、これぞまさにギターのお手本というような感じだ。キレのあるカッティングと滑走するようなフレージングは、ギター・キッズのお手本とするところだろう。

 インストゥルメンタル曲は他にもあって、"Rude Mood"は素早いシャッフル調の曲で、モントルー・ジャズ・フェスティバルでも紹介された。逆に"Lenny"は自由にゆったりと演奏されている。ジャズっぽい雰囲気を持つ一方で、ジミ・ヘンドリックスのような即興性もあわせ持っていて、ライヴでもしばしば演奏されていた。

 タイトルの"Lenny"は、当時のスティーヴィー・レイ・ヴォーンの奥さんだったレノーラから取られていて、彼は自分の愛用するギターにも同じ愛称をつけていた。

 このアルバムを制作する前に、S.R.V.はデヴィッド・ボウイの“シリアス・ムーンライト・ツアー”の参加を断っていて、自分のバンド、ダブル・トラブルとの活動に取り組んでいた。それだけ自分たちの活動を重視していたのだろう。

 スティーヴィー・レイ・ヴォーン&ダブル・トラブルは、アルバム発表後、アメリカやヨーロッパでのツアーを開始した。「テキサス・フラッド~ブルースの洪水~」は、ビルボードのアルバム・チャートで38位まで上昇し、ゴールド・ディスクを獲得している。

 彼らのセカンド・アルバムは、翌年の1984年に発表された。オリジナル盤は全8曲、約38分だった。当時のレコードは最大50分程度は録音できたから、これはやはり短い部類に入るだろう。

 このアルバムでも無駄な装飾をはぎ落した、スリムでスリリングな彼らの演奏を味わうことができる。今回もライヴ感を大切にしていて、ニューヨークのパワー・ステーション・スタジオにおいて、わずか19日間でレコーディングされていた。61k9yi3t6tl

 1曲目の"Scuttle Buttin'"は、S.R.V.によるオリジナルのインストゥルメンタル曲。最初聞いたときは、1分51秒という時間の中に、よくぞこれだけのテクニックやリズム感、リフのカッコよさなどを詰め込んだなという感じがした。まさに弾きまくっているという感じで、これならロック・ファンでも十分満足するに違いない。

 2曲目の"Couldn't Stand the Weather"と次の"The Things (That) I Used to Do"では、3歳年上の兄であるジミー・ヴォーンがリズム・ギターで参加している。
 この曲も中盤のギター・ソロが印象的だし、S.R.V.のよいところは、ギターのカッティングもソロも両方とも超一流という点だろう。MTVで、豪雨の中ギターを弾き続けていたスティーヴィー・レイ・ヴォーンのビデオ・クリップを思い出してしまった。

 もともとS.R.V.は、兄の影響で音楽を聞き始め、楽器を手にした。楽器を演奏してからはブルーズだが、その前はジミ・ヘンドリックスやエリック・クラプトン、ジェフ・ベックなどの音楽を聞いていたという。

 特に、ジミ・ヘンドリックスからの影響は強いようで、このアルバムでも"Voodoo Chile"をカバーしていた。しかもオリジナルに近い形での演奏だったから、ジミ・ヘン・ファンも感動するだろう。

 このアルバムでのカバー曲は4曲で、先ほどのジミ・ヘンの曲に、エディ・ジョーンズ(ギター・スリム)の1953年の曲"The Things (That) I Used to Do"、地元オースティンのブルーズ・ミュージシャンによって書かれた"Cold Shot"、シカゴのブルーズ・ギタリストのジミー・リードの曲"Tin Pan Alley"だ。

 特に、"Tin Pan Alley"は、スロー・ブルーズで、渋い演奏を堪能することができる。1曲目の"Scuttle Buttin'"とは対照的で9分11秒もあり、ときどき70年代のクラプトンの曲のように感じてしまった。今のクラプトンもこれくらいは弾いてほしいのだが、すっかり丸くなってしまったのでもう無理だろう。

 そしてこのアルバムでも、ジャズ・フレイバー溢れる"Stang's Swang"という曲が最後に置かれていて、途中のギターとサックスの掛け合いというかコール・アンド・レスポンスが見事であった。

 スティーヴィー・レイ・ヴォーンの魅力は、ブルーズのみならず、ロックやジャズまでも幅広く吸収し、消化して、その再解釈を提示してくれるところだろう。しかもそれが高度なテクニックに裏打ちされているのだから、非の打ち所がない。48070450b93b15ec040ec2ef4bd3f338

 結局、このアルバムも広く受け入れられ、ビルボードのチャートでは31位まで上がり、2作続けてゴールド・ディスクを獲得した。また、カナダやニュージーランドでもこのアルバムは、プラチナ・ディスクを獲得している。

 ブルーズとロックというジャンルの違いはあっても、エドワード・ヴァン・ヘイレン以来のギターのニュー・ヒーローが世界的にも認められていったのである。(To Be Continued...)

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2017年7月 3日 (月)

ジョン・デンバー

 さて、7月になった。7月の第1回目は、ジョン・デンバーである。特に意味はないのだが、今の日本ではもうその名前も忘れ去られているような気がしたので、彼の素晴らしさを再確認する意味でも少し記してみようと思った。

 ジョン・デンバーも、よく考えたら、いやよく考えなくても、1970年代のシンガー・ソングライターの一人だった。20161117091425583
 当時のシンガー・ソングライターは、どちらかというと時代の空気を反映したようなダークでブルーな曲を書いて歌う人が多かった。つまり、60年代に起きたベトナム戦争に対する反抗(学生運動)やヒッピー・ムーヴメントに対する失望感が反映していたのではないだろうか。

 その結果、無力感や厭世観が若者の間に流行っていき、日本では“シラケ世代”などと呼ばれていたし、諸外国でもドラッグに手を染めたり、社会からドロップアウトしていった人もいたように思う。

 だから1970年代の中頃にもなると、シンガー・ソングライターは、“怒れる若者の代弁者”ではなくて、日常の風景を切り取ることで、若者に“安息感”や“空虚感”を提示しようとしたのではないかと思っている。ジェイムズ・テイラーやジャニス・イアン、キャロル・キングなどのアルバムが売れたのも、先鋭的なメッセージがもう必要とされなくなった、そんな時代だったからではないだろうか。

 でも、ジョン・デンバーのイメージは、ちょっと違うような気がする。彼の曲を聞くと、明るくて希望のある、もしくは楽天的な気分にさせられるからだ。
 彼自身も、当時の雑誌などで『世界がなんで素晴らしいとこなのか、僕が歌うから聞いてくれ。なぜ肯定的なのかというと、すべてがいつも新鮮だからさ』と発言していた。

 彼の本名は、ヘンリー・ジョン・デューチエンドルフ・ジュニアといった。名前からわかるように、祖先はドイツ系の移民だった。彼の“デンバー”という名前は、のちに自分の好きなアメリカの都市の名前を選んだことによる。

 ジョンは、1943年の大晦日に、ニューメキシコ州のロズウェルで生まれた。父親が空軍のパイロットだったため、幼い頃から引っ越しを繰り返していたようだ。
 祖母がギターを買ってくれたため、子どもの頃から練習を始め、高校時代にはロック・バンドで演奏していた。

 テキサス工科大学では建築学を専攻していたが、学校に行くよりはクラブやバーなどで演奏することの方が多くなり、最終的には退学している。
 彼は、フォーク・グループのチャド・ミッチェル・トリオに参加して3年間ほど活動した後、1966年にアルバムを自主制作した。

 そのアルバムの中に、のちにピーター、ポール&マリーが歌って1969年の12月に全米No.1に輝いた"Leaving on A Jet Plane"が含まれていた。ピーター、ポール&マリーにとっては最初で最後の首位になった曲だった。
 ただ、この曲のオリジナル・タイトルは"Babe, I Hate to Go"というもので、ピーター、ポール&マリーのプロデューサーだったミルト・オクンがタイトルを変更している。

 この曲のヒットのおかげで、彼は1969年にデビュー・アルバムを当時のRCAレコードから発表することができた。
 1971年8月には、シングル"Take Me Home, Country Roads"が全米2位のヒットを記録し、翌年には"Rocky Mountain High"がビルボードのシングル・チャートの9位に顔を出し、この後徐々にヒットを出すようになった。

 1973年の3月には、"Sunshine on My Shoulders"がついにチャートで1位を記録した。この曲は、それまでの陽気で幸福感の満ちたメジャー調の曲ではなくて、マイナーな雰囲気を持つものだった。その理由を彼は、次のように述べている。

 『落ち込んでいたから、ブルーな感じの歌を書きたいと思っていたんだ。僕の歌の楽天性を嫌がる人は多いけれども、レコードを聞いてもらえれば、苦しみも歌っているということが分かると思うよ』

 さらに翌年の1974年7月には、"Annie's Song"が2週間連続でチャートの首位に輝いている。
 この曲は、大学時代の恋人で1967年に結婚したアン・マーテルについて書いた曲で、スキー・リフトに乗りながら約10分程度でできたという。アメリカの雑誌「ピープル」は、この曲を評して、ジョン・デンバーが書いた最も素晴らしいラブ・ソングであると述べていた。

 この時、ジョンはスイスにいた。実は、ジョンとアンの間に溝ができていて深刻な状況だったらしい。
 ジョンは一人で家を出て、スイスに旅行に出かけた。6日間の旅行だったが、アンにとっては3ヶ月くらいに感じられたようで、結局、アンから涙まじりの長距離電話がかかってきて、ジョンはアメリカに戻ったのである。

 ただ運命は皮肉なもので、彼らの結婚生活は1983年に終わりを迎えた。16年間という期間だったが、ジョンにとっては最も幸福な期間だったと述べている。確かに、この間に彼の人気はピークを迎えていたのは、間違いないことだった。41e24n6ab5l_2

 ジョンには彼が歌った曲の中では、4枚の全米No.1がある。3枚目は1975年6月に1週間だけ首位に立った"Thank God I'm A Country Boy"で、元々は1974年に録音された曲だった。
 曲を書いたのはジョンではなく、彼のバンドのギタリストだったジョン・マーティン・ソマーズだった。

 1975年は、彼のやることなすことがすべてうまくいった年だった。彼が出演したテレビ番組「アン・イヴニング・ウィズ・ジョン・デンバー」がエミー賞の最優秀音楽バラエティ番組賞を受賞したし、カントリー・ミュージック協会の年間エンターティナー賞も獲得している。

 また、彼の関心は自然に向けられ、自然との調和や環境保護にも関心を抱くようになった。そのために財団を創設し、環境保護や飢餓対策のための運動を積極的に推進し、援助するようになった。

 また、飛行機操縦のライセンスを獲得し、自家用機を使って講演活動などにも積極的に関わるようになった。この時期の彼の活動は、音楽のみならず人道支援活動など、幅広く行われていたのである。

 そしてまた、この年には、もう1枚シングル曲が全米No.1を獲得している。これも1週間だけ9月に首位になった"I'm Sorry/Calypso"という曲で、両面ヒットを記録していた。

 "I'm Sorry"が首位に立った後、アメリカのラジ局は"Calypso"を積極的にオンエアしていた。この曲は、フランスの海洋科学者であるジャック・クストーの功績を讃えて、彼が使用した調査船カリプソ号にちなんで作られた曲で、"I'm Sorry"がヒット中に、この曲もまたシングルのサイドAとして認定された。

 『僕は、人がみんな人生のうちでいつかは静かなところに行って、山のふもとの湖のそばに腰かけて、嵐が行ったり来たりするのを聞くことができたらなあと思う。そこには美しい音楽があって、ただそれに耳を傾ければいいんだ』いかにもナチュラリストらしい言葉だと思う。これが高じれば、プログレの世界になるのだが、その一歩手前で留まっているところが、ジョンらしい。

 この後、コンスタントにアルバムやシングルを発表するも、大ヒットにはつながらなかった。一つは、彼の興味・関心が映画やテレビの世界に移り、映画に出演したり、グラミー賞授賞式やテレビ番組の出演やMCを担当するようになったことも影響があっただろう。

 また先ほどにも述べたように、16年間の結婚生活にピリオドを打ったということも、ジョンに何らかの影響を与えたに違いないだろう。

 それでも80年代にはサラエボでの冬季オリンピックのテーマ曲を歌ったり、ニューヨークで写真の個展を開催したりと、多彩な活動を展開しているし、ユニセフ基金のスポークスマンも務めている。

 残念なことに、1997年の10月12日に、自身が操縦していたセスナ機が墜落して、彼は帰らぬ人となった。享年53歳だった。
 カントリー&ウェスタンの影響を受けながらも、フォーク・ソングを中心とした彼の音楽は、新しい形としてのシンガー・ソングライター像を示したと思っている。83w8387839381e83f839383o815ba
 それはポップ・ミュージックの範疇として語られる音楽かもしれないが、それだけ多くの人を引き付ける魅力が、彼の作った曲に備わっていたということだろう。彼の早すぎる死が悔やまれてならないのである。

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