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2017年9月

2017年9月18日 (月)

フリートウッド・マックの「ミラージュ」

 今回もフリートウッド・マック関連の話題である。前回のリンジー・バッキンガムとクリスティン・マクヴィーのアルバムが、80年代初めのフリートウッド・マックのアルバムの感触に近いということを書いた。でも、そのアルバムのことを知らない人もいると思うので、少しだけ説明してみたいと思う。

 1982年に発表されたこのアルバム「ミラージュ」は、5週間にわたってビルボードのアルバム・チャートのNo.1に輝いている。また、18週間にわたってアルバム・チャートのトップ・テン内にとどまり、ダブル・プラチナ・アルバムに認定された。

 フリートウッド・マックのアルバムでチャートの首位に輝いたスタジオ・アルバムは3枚しかなく、今のところ、というか恐らくは、この「ミラージュ」が最後のアルバムになるだろうと思っている。(残り2枚は、1975年の「ファンタスティック・マック」と1977年の「噂」)

 以前にも同じことを書いたが、このバンドには3人のソングライターがいる。この3人がそれぞれの持ち味を発揮した曲作りを行うところに、このバンドの特徴がよく表れているし、ファンはそれを待ち望んでいる。1982_fm_705
 だから、それぞれが作った曲がシングル・ヒットすれば、当然のごとくアルバムは売れるし、チャートを駆け上っていく。No.1アルバムになった3枚には、これを証明するかのように、ヒット・シングルが満載だった。

 この「ミラージュ」でも同様である。アルバムには12曲が収められていたが、そのうち5曲がシングル・ヒットしている。当時は(そして今も?)シングルにはサイドBがあったから、結局、このアルバムから5曲+αがシングルとして世に出たということになる。

 最初のシングルは、アルバムに先駆けて発表された"Hold Me"で、クリスティン・マクヴィーの曲だった。Holdmefleetwoodmac
 アメリカにおけるフリートウッド・マック最大のヒットとなったこの曲は、7週間にわたって最高位の4位を続け、その年の年末最後の週においてもチャートの31位に留まっていた。

 ジョン・マクヴィーと離婚したクリスティン・マクヴィーは、その後、ザ・ビーチ・ボーイズのデニス・ウィルソンと3年ほど付き合っていたが、デニスの酒癖の悪さ、というよりもアルコール中毒や薬物中毒に手を焼いていて、結局、このアルバムが発表されるときには別れてしまっていた。

 クリスティーンがデニスと付き合っていた頃のことをテーマにした曲だった。そんなに名曲とは思えないのだが、メロディーよりも歌詞の内容がヒットの要因だったのかもしれない。

 でもクリスティン・マクヴィーという人は、つくづく男運がない人だと思う。余計なお世話だと言われるだろうが、ジョン・マクヴィーと別れた原因も彼の酒癖の悪さだった。点滴の薬剤の入った瓶の代わりに酒瓶をさしているジャケット写真があったけれども、それほど酒の好きな男性たちと巡り合う何かを、彼女は持っているようだ。

 ちなみに、デニスの方は、このアルバムの翌年の12月にヨットから海に飛び込んで亡くなっている。39歳の若さだった。アルコールか何かで酩酊状態だったと言われている。

 2枚目のシングルは"Gypsy"で、スティーヴィー・ニックスが手掛けたものである。この曲の原点は、「ニックス/バッキンガム」時代にまでさかのぼる。
 当時貧しかった2人は、ベッドを買うお金がなくて、キングサイズのマットレスを床の上に直接置いて寝ていたという。
 そして、そのマットレスにレースを飾り付けたり、古いランプを置いて“ジプシー”のように暮らしていたそうである。Gypsy_single
 そういうノスタルジーとともに、この曲にはスティーヴィー・ニックスの親友だったロビン・アンダーソンへの追悼という気持ちもあるようだ。
 ロビンは、高校時代にスティーヴィー・ニックスと出会い、それ以降も親交を続けていた。演劇に関心があり、彼女のステージングにアドバイスをしたり、セラピストとしても彼女の力になっていたようだ。

 そのロビンが1982年に白血病で亡くなった。その時ロビンは、子どもを産んだばかりだった。ロビンの夫のキムとスティーヴィー・ニックスは、共通の愛すべき人を失くしたことで、それによる深い悲しみに包まれていた。
 彼らはお互いの悲しみを癒すために結婚をするのだが、3ヶ月後には別れてしまった。一時の気の迷いだったのかもしれない。

 しかし、1979年くらいから出来上がっていたこの曲を一部書き直し、新たな意味を込めて発表している。そういう意味では、彼らの結婚も意味があったのかもしれない。
 ビルボードのシングル・チャートでは3週間12位になっていて、このアルバムからの2番目に売れた曲になっている。

 ところで、この曲のプロモーション・ビデオが制作されるとき、スティーヴィーはコカイン中毒のためにリハビリ中だった。本当なら彼女の治療が終わってから撮影されるはずだったのだが、制作側のスケジュールが詰まっていたために、延期ができなかった。

 だから、彼女は十分に回復しないまま撮影に臨んでいる。のちのインタビューで、一緒に踊っていたリンジー・バッキンガムはダンスが下手だったので、私が不機嫌に映っていると言っていたが、それは彼女の方にも原因があったのである。

 アメリカでの3枚目のシングルは"Love in Store"で、アルバム「ミラージュ」では、冒頭を飾っていた曲だった。
 この曲はクリスティン・マクヴィーが書いたもので、リード・ボーカルは彼女自身。バッキング・ハーモニーはスティーヴィー・ニックスとリンジー・バッキンガムが付けている。王道のポップ・ロック路線であり、キャッチーなメロディー・ラインと軽快なリズムは、いかにもシングル・カットに相応しいものだった。Loveinstorebelgium_3
 ただ、アメリカでは22位と健闘はしたものの、そんなには売れなかったようだ。また、イギリスではシングル・カットされていない。

 イギリスで3枚目のシングルになったのは、なぜかリンジー・バッキンガムが作った"Oh Diane"だった。
 不思議なことに、イギリスでは"Hold Me"も"Gypsy"もヒットしなかった。それで3枚目のシングルは"Oh Diane"にしたのだろう。この曲なら売れると思ったのだろうか。

 そして、その目論見は当たったのである。1982年の12月に69位でチャートに登場したこの曲は、10週間かけて徐々に上がっていき、翌年の2月には9位に輝いている。
 このイギリスでのヒットをきっかけに、アメリカでもヒットを狙おうとして4枚目のシングルになったのだが、残念ながらアメリカではチャートにも登場しなかった。スティーヴィー・ニックスが参加していなかったからだろうか。Ohdiane
 個人的にもそんなにヒットするような要素は見えないし、どちらかというと50年代から60年代にかけてのポップ・ソングのような雰囲気を湛えている感じだ。イギリスでは、こういうシンプルな感じの曲の方が好まれるのだろう。

 アメリカでは、このアルバムからのシングル・カットはこれで終わったのだが、イギリスではもう1枚カットされている。それが"Can't Go Back"だった。アルバムでは2番目に配置されている曲だった。

 この曲にもスティーヴィー・ニックスは参加していなかったが、理由はよくわからない。この曲も"Oh Diane"と同じように、リンジー・バッキンガムが作ったからだろう。この当時の2人の仲は、最悪だったようだ。ただ、シングルのジャケット写真には5人で写っていた。Cant_go_back__fleetwood_mac_1983_uk
 この曲も軽快なポップ・ロックで売れる要素は備えていると思う。ただ、歌詞の内容が“もう昔の頃には戻れない”とか“彼女は夢ばかり追っていた”という何やら意味深な内容だったから、スティーヴィーは参加しなかったのかもしれない。

 ちなみに、この曲は前曲とは違って、83位という悲惨なチャート結果になってしまった。どうもイギリス人の好みはよくわからない。この曲の方がポップだと思うのだが、それだけの要素では決めないのがイギリス人の感性なのだろう。

 相変わらず、複雑な人間関係を反映した曲が多いバンドである。こういう傾向は77年のアルバム「噂」から変わっていなかった。それでも解散しないところが、このバンドの不思議な点だろう。彼らの曲に"Seven Wonders"というのがあったけど、きっとそのうちの1つは自分たち自身の人間関係のことを指しているのではないかと勘繰ってしまう。

 この頃のバンド内では、ソロでの活動が目立っていた。特に、スティーヴィーの活躍は目覚ましくて、前年に発表したソロ・デビュー・アルバムの「麗しのベラ・ドンナ」は、少なく見てもアメリカだけで600万枚以上売れた。当然、アルバム・チャートの1位を飾っている。

 もともと個人活動の意欲が高かったスティーヴィーである。これで自信を持ったのか次々とソロ・アルバムを発表し、個人でツアーも開始した。バンドとは別に活動を始めたのである。さすが才能のある人は違う。ただ、他のメンバーにとっては、バンド活動よりも優先している点が気に入らなかったのではないだろうか、特にリンジー・バッキンガムにとっては。

 その行動は今に至っているようで、前回の「リンジー・バッキンガム/クリスティン・マクヴィー」のアルバムが、なぜフリートウッド・マック名義のアルバムにならなかったのかということに繋がっていた。

 今回は1982年のアルバム「ミラージュ」を取り上げたが、今後の彼らの活動が“蜃気楼”にならないことを願うばかりである。

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2017年9月11日 (月)

リンジー・バッキンガム/クリスティン・マクヴィー

 さて、前回はフリートウッド・マックの黄金期を支えた2人のデビュー・アルバムについて記した。それで今回は、同じバンドの違うメンバーが組んで発表したニュー・アルバムについて綴ろうと思う。

 ゴシップ好きな人なら、フリートウッド・マックのゴチャゴチャした人間関係については、よくご存じだと思う。音楽面や商業的成功については、70年代後半から80年代前半にかけてピークを迎えていたが、そのバンド内の人間関係については崩壊していた。

 キーボーディストのクリスティン・マクヴィーとベーシストのジョン・マクヴィーは1976年に離婚したし、ドラマーのミック・フリートウッドもアルバム「噂」制作前には離婚していた。お相手の元妻は、ジョージ・ハリソンの元妻であるパティ・ボイドの妹のジェニーだった。

 そして、恋人同士だったリンジー・バッキンガムとスティーヴィー・ニックスも成功の階段を上るにつれて、徐々にすきま風が吹き始め、お互いに束縛のない生活を求めて、恋人関係を解消した。一時的ではあるが、のちにスティーヴィー・ニックスはミック・フリートウッドと親密な関係になっている。Fleetwoodmac1977650430_2
 とにかくこのバンドは、人間関係はグチャグチャなのだが、プロフェッショナルなミュージシャンとしてのプライドや意識は高くて、音楽面についてはお互いの才能や努力を認めながら、よりよいものを追及しく姿勢は忘れなかった。

 だから1975年のアルバム「フリートウッド・マック」から1987年の「タンゴ・イン・ザ・ナイト」までの間、5枚のスタジオ・アルバムはすべてビルボードのベスト10以内にチャート・インし、ライヴ活動も盛大に行われていたのである。

 この辺の割り切り方は、さすがプラグマティズム発祥の国アメリカという感じがするが、クリスティン・マクヴィーやジョン・マクヴィー、ミック・フリートウッドの3人はイギリス人だから、関係ない気がするが、アメリカナイズされたのだろうか。

 それで本題に戻って、今年の6月にリンジー・バッキンガムとクリスティン・マクヴィーの連名によるアルバムが発表された。クリスティン・マクヴィーは74歳で、リンジーの方は今年67歳だから、決して若いとは言えないが、まだまだ現役のミュージシャンとしてその存在を示してくれていた。

 もともとクリスティンは、1998年以降、地元のイギリスで隠遁生活を送っていた。表向きの理由は“飛行機恐怖症”ということで、ツアーで飛行機に乗ることを厭うようになっていた。
 若い頃はそんなことはなかったのだが、やはり年齢からくる疲労、ツアーやレコーディングによるストレスなどが高じて表舞台から姿を消したいと思ったのだろう。

 そんな彼女も、2013年にフリートウッド・マックのロンドン公演に客演した。場所がロンドンということもあり、彼女にとっては参加しやすかったのだろう。そして、その時の観衆の反応も熱狂的に彼女を受け入れるようなものだった。それが彼女の心の中のミュージシャンシップに火をつけたと思われる。

 翌年には、彼女のバンド復帰が正式にアナウンスされ、バンドは再び70年代後半の黄金期のメンバーで活動を始めた。
 そしてリンジー・バッキンガムとクリスティン・マクヴィーは、バンド用のニュー・アルバムのために曲作りを始めたのである。

 リンジーとクリスティンは、メールでやり取りをしながら、ロサンゼルスでレコーディングを開始したが、すぐにミック・フリートウッドとジョン・マクヴィーも参加して、8曲ほど新l曲を録音した。
 2014年の9月から2015年の11月まで、フリートウッド・マックは、ワールド・ツアーを行った。北米からヨーロッパ、ニュージーランドまで、全120公演が開催されたが、これは当然5人の黄金期のメンバーで行われている。Fleetwoodmac2

 ツアー終了後、スティーヴィー・ニックスを除いた4人は、2015年の12月から再びロサンゼルスでレコーディングを開始した。そして、出来上がったのがこの「リンジー・バッキンガム/クリスティン・マクヴィー」だった。

 なぜフリートウッド・マックの名義ではないのかというと、スティーヴィー・ニックスが不在だったからである。彼女は、バンドのワールド・ツアー終了後に、今度は自分のソロ・ツアーに出かけたからで参加することができなかったからだ。

 だから、本当は実質的なフリートウッド・マックのアルバムだといってもいいのだが、ひとり不参加だったために、バンド名を使わなかった(使えなかった)ということらしい。
 またリンジーは、曲のほとんどを基本的にはクリスティンと2人で作ってきたので、まるでデュエット・アルバムのようだとインタビューなどで応えていた。

 だから“フリートウッド・マック”という名前は使用しなかったのだろうし、2014年からコツコツと2人で曲作りを行ってきた努力や、お互いの貢献度を明確にしたかったに違いない。
 もともとはアルバム・タイトルを1973年の「バッキンガム&ニックス」にちなんで「バッキンガム&マクヴィー」にする予定だったらしいのだが、それは取りやめになった。スティーヴィー・ニックスが嫌がると予想したのだろうか。

 それで肝心な音の方だが、やはりひとりでも欠けていると、あの魔法の再現は困難だったようだ。結論から言えば、よくできたアルバムだが、黄金期のフリートウッド・マックのアルバムにはかなわない。良盤だが名盤ではないのである。

 全10曲だが、ミディアム調の曲が多くて、どの曲も同じように聞こえてしまうのが最大の欠点である。
 もう少し、リンジーの好きなカントリー調の曲とかアコースティック色の濃い曲などを混ぜていれば、曲ごとの色どりが変わって、バラエティ豊かで個性的な特長が発揮できたと思っている。

 あるいは、ハードな彼のギター演奏も聞きたかった。彼はピックを使わずに、フィンガー・ピッキングでギターを弾く。ジェフ・ベックと同じである。
 その演奏が超カッコいいのだ。1975年のアルバム「フリートウッド・マック」の中に収められていた"I'm So Afraid"のライヴ映像なんかは鳥肌ものである。

 そういう情熱的でアグレッシヴな演奏がほとんど聞こえてこない。強いて言えば、5曲目の"Love is Here to Stay"では、おとなしいアコースティック・ギターを聞くことができるし、最終曲の"Carnival Begin"では、ちょっと盛り上がったギター・ソロが期待できる。でも、それ以上がないのが悲しいのである。51go6eiciql

 もう少し好意的に解釈すると、6曲目"Too Far Gone"も最初はハードな展開が予想されたのだが、リフはハードでも間奏がないので印象に残らない。
 全体的には基本的に歌ものアルバムなので、普通の音楽ファンにも受け入れやすい仕上がりになっている。

 たとえて言うならば、1982年のアルバム「ミラージュ」や1987年の「タンゴ・イン・ザ・ナイト」のような感じのソフトでマイルドな感じが伝わってくるアルバム使用になっていると思う。また、80年代のAOR路線の影響を残しているようだった。

 ただ、8曲目の"Game for Pretend"などは、「噂」の"Songbird"のように、しっとりしたバラードになっていて、これはアルバムの中では佳曲の部類に入るだろう。
 また、9曲目の"On With the Show"というのは、2014年以来のフリートウッド・マックのワールド・ツアーのタイトルにもなっていて、バンドとしてもう一度ファンとともにショウを盛り上げていこうという決意表明になっている曲だ。

 10曲の半分はリンジーひとりで作った曲で、クリスティンは2曲を自作している。残りの3曲はリンジーとクリスティンの共作だった。
 また曲のクレジットとは別に、1曲目がリンジー、2曲目がクリスティンと交互にリード・ボーカルを取っている。

 やはり彼らは、このアルバムがリンジー・バッキンガムとクリスティン・マクヴィーの両者のアルバムと認識していたのだろう。自分たちでも、このアルバムにはバンドとしてのケミストリーが足りないと思っていたのかもしれない。

 そしてその原因はというと、何度も言うように1人足りないということだろう。フリートウッド・マックのいいところは、3人のソング・ライターがいて、それぞれがボーカルをとれるということだ。
 この3人の特色がお互いに交差することで、さらにバンドとしての輝きを放っていくのである。

 それが1人足りないことで、残念ながらバンドとしてのマジカルな要素が発揮できなかった。
 それにバンドのメンバーも高齢化していて、クリスティンは74歳、スティーヴィー・ニックスは69歳だ。リズム隊の2人も70歳を超えている。果たしてどれだけ全盛期の姿まで近づくことができるのか不安でもある。

 このアルバムは、アメリカのチャートでは17位、イギリスでは5位まで上昇している。1人欠いてもこれだけの結果が出せたのだから、5人そろえばもっと素晴らしい結果につながるに違いない。次回は、“フリートウッド・マック”という名義のニュー・アルバムを期待するしかない。平均年齢が高くなっても、まだまだ需要も高いバンドなのである。

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2017年9月 4日 (月)

バッキンガム&ニックス

 前回に続いて、今年の夏によく聞いたアルバムを紹介しようと思った。まだまだ残暑が続くからである。それにしても、今年の夏は暑い日が多かったなあと感じている。

 それで紹介するアルバムは、「バッキンガム&ニックス」である。実はこのアルバムは以前からぜひ手に入れたいと思っていた。

 このアルバムは1973年に発表されたのだが、自分が最初に知ったのは1978年頃だった。それ以降も当時のレコード店の棚に並んでいた覚えがある。
 それで、なぜ気になったのかというと、1977年のフリートウッド・マックのアルバム「噂」がいたく気に入っていて、何度も何度も聞いていたからだ。

 それに彼らは、その全盛期のメンバーで1977年に来日公演を行っている。それは当時の洋楽雑誌である「ミュージック・ライフ」にも大きく取り上げられていて、ライヴ・レポートやメンバー写真などを見た記憶がある。1401x788107110185
 それから発表順を遡るかのように、1975年のアルバム「ファンタスティック・マック」も購入して、ヘヴィ・ローテーションで聞いていた。当時はフリートウッド・マックもフェイヴァレットなバンドの一つだったのだ。

 そして、フリートウッド・マックがそれほどまでに世界的なビッグ・バンドに変化したのも、1974年にバンドのメンバーになったリンジー・バッキンガムとスティーヴィー・ニックスのおかげなのであり、これは誰もが認める事実だろう。
 だから、バンドに加入する前の2人のアルバム「バッキンガム&ニックス」をぜひ聞いてみたいと思っていた。

 フリートウッド・マックについては、何回かこのブログでも言及しているので詳細は省くけれど、元々はイギリス出身のブルーズ・バンドで、1960年代後半は3大ブリティッシュ・ブルーズ・バンドとして、それなりに人気が高かった。
 70年代になって、メンバーの交代などで徐々にポップな路線を歩み始め、活動の舞台もイギリスからアメリカへと変わっていった。

 そして、新しいメンバーとして、リンジー・バッキンガムとスティーヴィー・ニックスが加入したのだが、そのきっかけとなったアルバムがこの「バッキンガム&ニックス」だったというわけである。

 ところがである。いつか買って聞いてみようと思っていたのだが、ジェスロ・タルやデヴィッド・ボウイ、次々と登場するパンク/ニュー・ウェイヴのアルバムに目移りしてしまい、いつのまにか「バッキンガム&ニックス」のアルバムは、店頭から消えてしまっていた。
 だから、このアルバムは、まさに約40年間、熱望していたアルバムであり、いつかは手に入れたいと思っていて、やっとその願いが叶ったのである。

 リンジー・バッキンガムは、カリフォルニアでフリッツというバンドで活動していた。いわゆる彼はマルチ・ミュージシャンなのだが、このバンドではベース・ギターを担当していた。
 1967年に、このフリッツにいた女性シンガーが大学進学のために脱退したので、代わりにアリゾナ州生まれのスティーヴィー・ニックスが加入した。

 当時はいわゆる“サマー・オブ・ラヴ”の影響で、サイケデリックな音楽やハードなサウンドが好まれていた。フリッツもそういう種類の音楽をやっていて、ジェファーソン・エアプレインやジャニス・ジョプリンのオープニング・アクト(前座)を務めることもあったという。

 キュートなスティーヴィーを中心に活動を行っていたフリッツは、かなり人気の高いローカル・バンドだったのだが、ヒット曲に恵まれず、残念ながらレコード会社との契約を結ぶことはできなかった。バンドは1971年に解散している。

 実は、リンジー・バッキンガムとスティーヴィー・ニックスは同じ高校の後輩と先輩という関係だった。彼らは高校生の頃から放課後に、ザ・ビーチ・ボーイズやザ・ママス&ザ・パパスの歌を歌っていたようだ。
 やがて彼らは恋人関係になって、2人で活動するようになった。そして2人は大学を中退して、サンフランシスコからロサンゼルスに居を移し、デモ・テープの制作に励んでいった。

 生活費を稼ぐために、スティーヴィー・ニックスはウェイトレスや清掃人として働き、リンジー・バッキンガムは父親のコーヒー園で働いていた。自分たちのことは自分たちで行うという自主独立の気風は、アメリカ人の精神的支柱なのだろう。

 スティーヴィーの父親は精肉会社の社長だったし、リンジーの父親の方はコーヒー園を経営していた。あまり関係ないけれども、リンジーの兄のグレッグは水泳の強化選手だった人で、1968年のオリンピック・メキシコ大会では銀メダルを獲得している。リンジー自身も一時は水泳選手を目指していたのだが、音楽がやりたくて途中であきらめていた。

 つまり2人とも裕福な家庭の出身だったのだが、2人とも親を頼ることもなく自分たちで決めた道を進んでいった。この辺はサクセス・ストーリーというか、アメリカン・ドリームの体現というものだろう。(ただし、リンジーのコーヒー農園にはレコーディング・スタジオが備え付けられていて、リンジーは昼は農園で働き、夜はデモ・テープを制作していた)

 ただ、スティーヴィーの方はもう疲れてしまい、貧乏でいることが嫌になり、もう一度大学に戻ろうかとも考えていたようだ。やはりお嬢様育ちには辛かったのだろう。

 そんなときに、幸運な出来事が起きた。スティーヴィーが清掃人として働いていた中にプロデューサー兼エンジニアのキース・オルセンの屋敷があった。そこで音楽プロデューサーと知り合いになったスティーヴィーは、自分たちの音楽のことを話したのである。

 キース・オルセンという人は、元々はミュージシャンでベース・ギターも演奏していた。やがては西海岸で、プロデューサー兼エンジニアとして活躍するようになった。
 フリートウッド・マックの「ファンタスティック・マック」や「噂」のみならず、ハートやサンタナ、ホワイトスネイクにスコーピオンズ等々のアルバムを手掛けている敏腕プロデューサー兼エンジニアである。

 彼らの音楽を聞いたキースは、さっそく彼らのアルバム「バッキンガム&ニックス」をプロデュースするとともに、伝手を通してポリドール・レコードと契約を結ぶように図った。だから今こうして彼らのアルバムを聞くことができるのも、キースのおかげなのである。

 また、リンジーとスティーヴィーは、スタジオ・ミュージシャンのワディ・ワクテルとも知り合いになり、一緒に行動するようになった。もちろん、このアルバムにもワディ・ワクテルは参加している。ワディは60年代の終わりからキースとは知り合いで、一緒に仕事をしたり遊んだりしていた。

 さらに、ワディの兄である写真家のジミー・ワクテルが、アルバム・カバーの写真を撮影し、アルバム・デザインも手掛けている。ひとつの出会いがまるでドミノ倒しのように、次々と新しい出会いを呼び、新たな扉を開いていく。人生は、何がどう転ぶかわからないものである。51zbtmdanjl

 残念ながら、商業的にはこのアルバムは失敗した。要するに、ヒット・シングルが生まれなかったからだろうが、親会社のポリドールもそんなに真剣になって彼らをプッシュしなかったことも理由にあげられるだろう。

 アルバムからは2曲がシングル・カットされた。最初は"Don't Let Me Down Again"というリンジーが作った曲で、このアルバムの中ではノリのよい曲で、そんなに悪くないと思うのだが、何故かヒットしなかった。

 2枚目のシングルはアルバムのオープニング・ナンバーの"Crying in the Night"で、ミディアム調のゆったりとした曲だった。スティーヴィーのソロ・アルバムに入っていてもおかしくない曲だが、確かにインパクトには欠けるかもしれない。

 結局、アルバムもシングルも売れずに、リンジーはエヴァリー・ブラザーズの元メンバーのバック・バンドの一員としてツアーに出かけ、スティーヴィーは元のウェイトレスに戻って働くという生活が続いた。

 転機は1974年の1月にやってきた。フリートウッド・マックのリーダーのミック・フリートウッドが彼らの曲"Frozen Love"を耳にして、彼らのことに興味を持ったのである。もちろん曲を聞かせたのはキース・オルセンだった。

 この曲はアルバム最後の曲で、このアルバムの中でリンジーとスティーヴィーの2人で書いた唯一の曲だった。ブルージーでダークな曲調で、やや複雑な構成を持っている。そんなにメロディアスな曲ではないのだが、ミック・フリートウッドには何か感じるものがあったのだろう。時間的にも7分16秒もあった。

 基本的には、このアルバムではアコースティック・ギターがメインに使用されていて、エレクトリック・ギターの使用率は低い。この"Frozen Love"でも同じことで、全体的にはアコースティック・ギターが目立っていて、イントロとエンディングのソロでエレクトリックが光っている。このリンジーのギター・テクニックにミックは魅力を感じたのだろう。

 このアルバムのオリジナルは10曲、トータルで36分42秒しかないのだが、今回の紙ジャケット・アルバムでは、シングル・ヴァージョンや未発表曲などを含めて21曲も収められていた。つまりボーナス・トラックが11曲も含まれているのだ。

 その中には、のちに2001年のスティーヴィーのソロ・アルバム「トラブル・イン・シャングリラ」に収められた"Sorcerer"や"Candlebright"、1982年のフリートウッド・マックのアルバム「ミラージュ」にアレンジし直されて収録された"That's Alright"などがあって、それらの原曲は74年頃に出来上がっていたというところが面白かった。

 更には、1974年当時にアラバマ州でのライヴ曲が3曲もあって、その中に「ファンタスティック・マック」に収められていた"Rhiannon"も歌われていた。一部の歌詞は違うが、メロディラインはスタジオ盤と同じだった。ただ、ライヴではかなりアグレッシヴでハードに展開されている。71lcfiljkl__sl1457_

 この曲は本来はアルバムから除外されていたのだが、最終的に"Candlebright"(オリジナル・タイトルは"Nomad"だった)と差し替えられたという。ちなみに、"Rhiannon"の方は1976年にシングル・カットされて、ビルボードの11位まで上昇している。

 また、なぜアラバマ州でライヴが行われたかというと、この「バッキンガム&ニックス」が唯一売れたところがアラバマ州だったと言われているが、本当だろうか。
 また、この頃のライヴでは"Monday Morning"も演奏されていたが、このアルバムには収録されていなかった。出し惜しみしたのだろうか。

 あくまでも個人的な感想なのだが、このアルバム・ジャケット見たときに、このアルバムが売れなかった訳が分かった。

 それはこの半裸の2人が美形過ぎたからだろう。男性は、こんなかわいい女性をものにしやがってと嫉妬しただろうし、女性ファンは、このイケメン・ミュージシャンの側にいる女性が気に食わなかったに違いない。結局、内容まで耳を傾けることもなく、ジャケット見て購買意欲が削がれたのだろう。もちろん私の邪推である。1024x1024

 結局、この2人がフリートウッド・マックというバンドに加入したおかげで、バンドは超メジャーになっていった。バンドが1998年にロックの殿堂入りを果たせることができたのも、この2人の貢献を抜きには考えられない。

 その原点が、この「バッキンガム&ニックス」というアルバムに含まれている。約40年間の謎が、やっと解けたような気がした。

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