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2017年9月

2017年9月26日 (火)

90年代のフリートウッド・マック(2)

 90年代のフリートウッド・マックは、6人編成だった。基本的な構成において、ギタリストが1人から2人に増えたからだ。
 そして、90年代の前半では、そんなに有名ではないが玄人肌のギタリストが配置されて、それなりに売れていた。特に、ライヴにおいてはどこに行ってもソールド・アウトだった。

 この時期のアルバム「ビハインド・ザ・マスク」については前回述べたが、全盛期のマックのアルバムと比べても、そんなに遜色はなかったと思う。少なくとも今年発売された「リンジー・バッキンガム/クリスティン・マクヴィー」よりはロックしている。

 むしろ、ややブルーズ色が表に出ようとしているかのようで、それが従来のソフトでポップなマックの色合いと微妙に交じり合っていて、いい感じだった。
 人によってはカントリー・フレイバーを感じたかもしれないが、そんな傾向は強くなくて、確かに"When The Sun Comes Down"はカントリー・ポップ・ソングだったが、それ以外はあまり強く感じられなかった。

 ただ、ギタリストが2人もいるのに、そのカラーがあまり出ていなかった。もう少し交互にギター・ソロを入れるとか、リックのスライド・ギターをフィーチャーした曲を入れるとかすれば、もっと印象に残り、チャート・アクションももっと伸びていったのではないかと思った。
 
 要するに、せっかくのメンバー・チェンジが活かされていない。従来のマック路線を踏襲しようとするあまりに、自らバリケードを築いてしまったかのようだった。ファンは新生マックの姿を待望していたのではないだろうか。もう少し冒険してもよかったのではないかと思っている。

 それで、前回からの続きである。ギタリストのリック・ヴィトーとスティーヴィー・ニックスが脱退して、新メンバーが2人加入したというところで終わっていたので、今回はその続きである。

 スティーヴィー・ニックスの代わりに加入したのが、ベッカ・ブラムレットだった。名前を見ればわかるかもしれないが、60年代の後半から70年代にかけてエリック・クラプトンとともにアルバムも制作したことがあるアメリカ人ミュージシャン夫妻のデラニー&ボニー・ブラムレットの娘である。

 彼女はロッド・スチュワートなどのミュージシャンのバック・ボーカルとして経験を積んでいて、1992年にはミック・フリートウッドのプロジェクト・バンドのアルバム「シェイキング・ザ・ケイジ」では見事なボーカルを披露していた。

 ベッカは1968年生まれだったので、フリートウッド・マックに加入したときは、25歳だった。それに歌のうまさだけではなくて曲も書けたので、バンドにとっては都合がよかったようだ。

 彼女は若くて美人だったから、ファンの間ではたちまち有名になり、人気になっていった。スティーヴィー・ニックスが脱退したときは45歳だったから、やはり若い方が受けがいいのは昔も今も変わらないし、洋の東西を問わないらしい。

 そして、ギタリストのリック・ヴィトーの代わりに加入したのが、元トラフィックのギタリストだったデイヴ・メイソンである。
 もうすでに名前は世界中に知れ渡っていて、今更バンドに加入しなくてもよさそうなものだが、旧知の知り合いであるミック・フリートウッドの頼みなら仕方ないということで参加したようだ。Fleetwoodmac_1995_1

 ただ、バンドには加入したものの、デイヴ・メイソンの意識としては、あくまでも“助っ人”という感じで、お手伝い、ヘルパーだった。恒久的なメンバーとしてともに活動するという感じでは最初からなかったようだ。

 この時、デイヴは47歳。確かにまだまだ現役選手として活躍できる年齢だった。70年代や80年代ではかなりの枚数のソロ・アルバムを発表していて、それなりにヒットした曲やアルバムもあったが、90年代に入ってからはあまり彼の活動は聞かれなくなっていた。

 そういう意味では、再び脚光を浴びるには良い機会になったに違いない。ミックやジョン・マクヴィーとはほぼ同年代だったから、気心も知れていただろうし、やりやすかったに違いない。

 面白いことに、この6人はアルバムを発表する前に、ライヴ活動を行い、発表後はライヴ活動を行っていない。普通は、ニュー・アルバムをプロモーションするために、アルバムを発表してからツアーに出るのだが、彼らはアルバムを発表する前にライブ活動を行っていた。日本にも1995年の4月に来日して演奏を行っている。

 そして、新生マックのニュー・アルバム「タイム」は、1995年の10月に発表された。上に書いたように、このアルバムのプロモーション・ライヴ活動は行われていない。

 ちなみに、1995年のライヴを東京の新宿厚生年金会館で見た人の話によると、ライヴの曲は昔の"Oh, well"から黄金期の"Don't Stop"、"Go Your Own Way"、それにトラフィックやデイヴ・メイソンのソロまで披露されたという。もちろん自分の曲では、デイヴ自身が歌っていたのは言うまでもない。

 また、ライヴではクリスティン・マクヴィーが不在となるので、女性ボーカルはベッカだけだったが、彼女はそれをものともせずに、彼女なりに堂々と"Gold Dust Woman"を歌い切り、それだけでなく他のマックの歌も自分の持ち歌のように、ステージ上を元気よく走りながら歌っていたという。
 さらには、ジェレミー・スペンサーも同時期に来日していて、23年振りの共演を果たしたというおまけまでついていた。当日の聴衆はさぞかし喜んだに違いない。

 それで6人制マックとして発表したアルバムが1995年の「タイム」だった。そして結論から言えば、このアルバムは見事にコケてしまった。4127atrfc0l
 全13曲のうち、クリスティン・マクヴィーが5曲、デラニー・ブラムレットとベッカの親子曲が1曲、ビリー・バーネットの曲が2曲、デイヴ・メイソンの曲も2曲、ベッカとビリーの共作が1曲、カバー曲とミック・フリートウッドの曲が1曲ずつという構成で、これはフリートウッド・マックのアルバムとして聞くよりも、まったく別のバンドのアルバムとして聞いた方が新鮮に聞こえるのではないかと思う。

 アルバム冒頭の曲は"Talkin' to My Heart"というビリー・バーネットの曲で、テンポのよい軽快な曲だった。途中からベッカのボーカルが絡んでくるところがよい結果を生んでいる。

 2曲目は"Hollywood"という曲で、ボズ・スキャッグスの曲とは同名異曲だ。サビの部分が非常にメロディアスで覚えやすい。なぜこの曲をシングル・カットしなかったのだろうか。

 3曲目は"Blow By Blow"という曲名で、もちろんジェフ・ベックとは関係はない。デイヴ・メイソンの曲で、メイン・ボーカルも本人である。バックの女性コーラスがソウルっぽい雰囲気を生んでいる。

 4曲目は超ポップな"Winds of Change"で、これはキット・ヘインという女性ミュージシャンのカバー曲だった。彼女はジュリアン・マーシャルとデュオを組んでいたのだが、それが分裂してソロになった。歌っているのはもちろんベッカ・ブラムレットだ。

 5曲目の"I Do"はクリスティン・マクヴィーの曲で、これまたシングルに相応しい曲だった。実際にカナダではシングルで発売されて、チャートの62位まで上昇している。これをヒットと呼ぶかどうかは、微妙なところでもある。

 このアルバムが売れなかったのは、シングルヒットがなかったことであり、それはとりもなおさずレコード会社のプッシュが足りなかったからでもある。
 デッカ・ブラムレットは無名でも、デイヴ・メイソンの方は有名だし、“フリートウッド・マック”というブランド名もあるので、アルバムはそれなりに売れるだろうと思っていたのではないだろうか。

 "Nothing Without You"はデラニーとデッカの親子の作品で、70年代のデラニー&ボニーの曲を聞いているような感じがした。

 "Dreamin' the Dream"はビリーとベッカの共作で、涼しげなアコースティックのバラード曲になっている。バックはストリングスとビリーの演奏するアコースティック・ギターだけで、逆にベッカのボーカルの美しさが目立つ佳曲でもある。

 "Sooner or Later"は、クリスティンの曲で、ダークな別れの曲でもある。クリスティンの凄さは明るい曲はポップでノリがよく、暗い曲は本当に悲しくなるほど情感が込められているところだろう。

 "I Wonder Why"はデイヴ・メイソンの曲で、70年代後半のデイヴを象徴するようなポップでリズミカルな曲だ。途中のベッカの絡みが何となくスティヴィー・ニックス風に聞こえてくるところが“フリートウッド・マック”というブランド名の強さでもある。
 それにデイヴ・メイソンのギターはブリティッシュ・ロック出身の割にはカラッと乾いていて、それがアメリカ西海岸の音楽にマッチするのだろう。

 続く"Nights in Estoril"も軽快な曲で、こちらはクリスティンの曲だった。これもシングル・カットされたらヒットするだろうなあという曲でもある。こういう曲があまり日の目を見ずに埋もれているのはもったいないと思うのだが、誰かリバイバル・ヒットさせてくれないかなあ。

 結構ハードな曲がベッカ・ブラムレットが単独で書いた"I Got it in For You"で、バックのスライド・ギターはビリーが、ノーマルなエレクトリック・ギターはデイヴが弾いているのだろう。この辺はなかなか良いギター・アンサンブルだと思う。Photo
 "All Over Again"もクリスティンの曲で、アルバムの最後を飾る場合や、映画のエンド・ロールに相応しいバラード曲だと思う。ただ残念ながら、このアルバムでは12曲目に配置されていて、最後ではない。

 その最後を飾っているのは、何とミック・フリートウッドが歌っている"These Strange Times"である。正確に言うと、歌っているのではなくて、語り(ナレーション)を入れているだけである。
 7分7秒もある大作で、しっかりとしたリズムの上に、ベッカのバック・コーラスとストリングス・キーボード、エレクトリック・ギターが色どりを添えている。曲を作ったのはミック・フリートウッドと、シンガー・ソングライターのレイ・ケネディだった。

 レイ・ケネディは、ザ・ビーチ・ボーイズやザ・ベイビーズのために曲を書いたり、デイヴ・メイソンの「流れるままに」の中の"Seasons"も作ったりしていた。残念なことに、2014年の2月に急死している。享年68歳だった。

 ミック・フリートウッドは、自身のミュージシャン生活の中で、3曲を書いている。1曲は1969年のアルバム「ゼン・プレイ・オン」に、もう1曲は1977年の「噂」の中に、そして3曲目がこの曲"These Strange Times"だった。ただし、「噂」の中の"The Chain"は、当時のメンバー5人全員による共作だった。

 とにかく、このアルバムは、フリートウッド・マックのイメージをまとったロック・アルバムだった。もう少しビリーとデイヴが協力しながら骨っぽい音楽を作れば、また違う結果になったに違いない。

 あるいはベッカ・ブラムレットとビリー・バーネットの共同制作アルバムとして発表すれば、もっと好意的に受け入れられたのではないかと思う。

 結局、このアルバムはイギリスでは47位まで上がったが、本国アメリカではベスト200位以内にも入ることはできなかった。良い曲がかなりあったにもかかわらず、200位以内にも入らないというのが摩訶不思議だった。話題にも上がらなかったのだろうか。

 アルバム発表後、1年もたたないうちにベッカ・ブラムレットとビリー・バーネットはフリートウッド・マックを脱退した。
 彼らがスティーヴィー・ニックスやリック・ヴィトーと違うところは、実際に2人でアルバムを制作してしまった点だろう。1997年に「ベッカ&ビリー」というアルバムを発表したが、取り上げられることは少なかった。

 逆に、同年にはリンジー・バッキンガムとスティーヴィー・ニックスがバンドに復帰して、フリートウッド・マックは再び黄金期のメンバーになり、さらなるスタジオ盤やライヴ活動を続けていくようになった。

 彼らのディスコグラフィーの中では、極めて評価の低いアルバムになったが、個人的にはそんなに悪いアルバムだとは思っていない。

 フリートウッド・マックのアルバムとして聞かなければ、かなり上質のアメリカン・ロック・ミュージックになっていると思う。思い込みや偏見が判断を誤らせてしまう良い実例アルバムなのかもしれない。

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2017年9月25日 (月)

90年代のフリートウッド・マック(1)

 本当はフリートウッド・マックの話題でここまで引っ張るつもりはなかったのだけれど、「バッキンガム&ニックス」の紙ジャケ・アルバム発表から始まって、リンジー・バッキンガムとクリスティン・マクヴィーのスタジオ・アルバムに影響されて、80年代のマックのアルバムを紹介してしまった。

 それで今回は一区切りつけようと思って、90年代の彼らのアルバムを紹介しようと思う。この時代のマックは、あまり知られていないと思ったからだ。

 物語は、1987年の「タンゴ・イン・ザ・ナイト」発表後から始まった。このアルバムは個人的には大好きで、前作の「ミラージュ」よりもよく聞いたものだ。
 だいたいジャケットからして魅惑的だったし、曲も"Big Love"、"Seven Wonders"、"Little Lies"、"Mystified"などなど、70年代の「噂」などと比べても決してそん色はないと思っていた。513ynii4ctl
 もちろん商業的には成功したものの、チャート的には前作の結果に至ることができずに、ビルボードでは7位に留まっている。
 この結果にやや失望したのが、リンジー・バッキンガムだった。基本的にこの頃のマックでは、リンジーがイニシアティブを握っていてアルバム制作を行っていたのだが、このアルバムに関しては、彼はかなりの精力を注いで念入りに取り組んでいた。

 ところが、アルバムは売れたものの、チャート的には3週間7位に留まり、それ以上は上昇することはなかった。
 結局、リンジーはこれが限界と思ったのか、マックでの仕事に見切りをつけて、本格的にソロ・キャリアを追及するようになってしまったのである。

 のちに彼は、このアルバムの商業的な結果には満足したが、もっと売れると思っていたと語っていることから、おそらく「ファンタスティック・マック」や「噂」と並び称されるアルバムになると思ったに違いない。

 また、ミック・フリートウッドの自伝によると、スティーヴィー・ニックスとの激しい口論などで、この頃のリンジーはかなり疲弊していたようだ。それでバンド活動に息苦しさを覚えていたリンジーは、飛び出すように出ていったという。

 それで、リンジー・バッキンガムの代わりにバンドに加入したのが、ビリー・バーネットとリック・ヴィトーの2人だった。リンジーひとりの代わりにふたりのギタリストが加入したという事実が、如何にリンジーの才能が豊かで、バンドにとって必要不可欠なミュージシャンだったかがわかる。

 しかし、ビリーもリックもそれなりに経験も能力もあるギタリストだった。ビリー・バーネットは、加入した時点ですでに8枚のアルバムを発表しているテネシー州メンフィス出身のギタリストだった。

 父親や叔父もミュージシャンだったし、彼自身もグレッグ・オールマンやロイ・オービソンなどに曲を提供していた。また、クリスティン・マクヴィーの1984年のアルバム「恋のハート・ビート」ではクリスティンとも曲作りを行っていた。
 それに、ミック・フリートウッドのアルバム「アイム・ナット・ミー」にも参加しているし、そういう意味では、フリートウッド・マックの参加はすんなりと決まったのだろう。

 リック・ヴィトーの方もジョン・マクヴィーと親交があり、1976年のジョン・メイオール&ブルーズブレイカーズのアルバム「バンケット・イン・ブルーズ」で共演している。
 また、ボブ・シーガーの「ライク・ア・ロック」やジャクソン・ブラウンのアルバム「愛の使者」、ボニー・レイットの「グリーン・ライト」などにも参加していて、ミュージシャンの間では名の通ったギタリストだったようだ。

 彼らがバンドに加入したいきさつは、ビリーがリックも一緒じゃないと嫌だと言ったからで、最初に声がかかったのはビリーの方だった。
 リックはスライド・ギターの名手として知られていて、ツイン・リードとスライドをバンドに活かそうと思ったのかもしれない。また、リックの方が3歳年上という事情も配慮したのだろうか。

 あるいは、60年代のようなブルーズを基調とした音楽性も追求しようと思ってバンドに加入したのかもしれない。確かにリンジーが去って、そういう可能性もないわけではなかったからだ。

 彼らが参加したアルバム「ビハインド・ザ・マスク」は、1990年に発表された。正確に言えば80年代最後のアルバムなのだが、ことの成り行き上、90年代に繰り上げてカウントしようと思う。81lsuzupqql__sl1425_
 このアルバムの評価は分かれていて、微妙である。チャート的にはアメリカでは18位という結果に終わったが、イギリスでは1位になっている。
 シングル・カットされた"Save Me"は軽快でノリのよい曲だったが、アメリカでは33位、イギリスでは53位だった。唯一、カナダでは7位と好成績だった。

 次にカットされた曲は"Skies the Limit"で、アルバムの冒頭に配置された曲ということで、これまたクリスティン・マクヴィーの手によるものである。80年代のマックの流れを汲んだようなミドル・テンポのメロディアスな曲だったが、結果的には、ビルボードのシングル・チャートで40位に終わっている。

 ヨーロッパでは、"In the Back of My Mind"がシングルとして発表された。ビリー・バーネットの曲で、7分もある大曲だった。ある意味、新境地を開くような曲でもあり、ミックの呟くような語りからビリーのギターとクリスティン・マクヴィーとスティーヴィー・ニックスのバッキング・ボーカルがフィーチャーされている。

 個人的には90年代の"I'm So Afraid"になるかもしれないと思っていたが、そうはならなかった。もう少しギターが目立っていたら売れたと思うのだが、時代はそういうギター・ソロを求めなくなっていったし、ましてやソフトでポップなロックに転換したフリートウッド・マックには必要なかっただろう。

 また、リック・ヴィトーとスティーヴィー・ニックスの共作曲である"Love is Dangerous"もシングル・カットされたが、見事にコケてしまった。リックのスライド・ギターとビリーのリード・ギターが絡み合って、これまた個人的には好きだったのだが、ビルボードのシングル・チャートの100位内に入ることはなかった。

 リックとスティヴィーはもう1曲"Second Time"という曲でも共作していて、アルバムの最後を締めくくるにふさわしいしっとりとしたバラード曲になっていた。
 一方で、スティヴィーはトム・ペティのバンド、ハートブレイカーズのマイク・キャンベルとも"Freedom"という曲を作っていて、こちらはリズミカルでテンポのよい仕上がりだった。この頃のスティヴィーはマイクと付き合っていたのだろう。

 ともかく、ビリーとリックはこのアルバムにかなり貢献していて、全13曲のうち8曲にソングライターとして関わっている。
 この2人だけで作った曲が"When The Sun Goes Down"で、軽快なカントリー・タッチの雰囲気に満ちている。

 またリックひとりで書いた曲"Stand on the Rock"もあり、リック・ヴィトーのボーカルがフィーチャーされている。スティーヴィー・ニックスが歌った方がパンチが効いて、ヒットしたかもしれない曲だ。要するにハードな感じなのだが、ボーカルの線が細いので、強く印象には残らなかった。

 ちなみに、アルバム・タイトル曲の"Behind the Mask"には、なぜかリンジー・バッキンガムがアコースティック・ギターで参加している。この辺の事情はよく分からない。喧嘩別れとまでいかなくても、そんなに好ましい事情で脱退したわけでもない。それでも参加するというのが、フリートウッド・マックのミュージシャンシップなのだろう。

 アルバムはそんなに売れなかったけれど、ツアーは連日超満員でソールド・アウト、イギリスでもアメリカでも彼らの人気は凄まじかった。150907_4535328899992_15859720_n
 ただ、クリスティン・マクヴィーは彼女自身の飛行機恐怖症とツアー中に父親が亡くなったせいで、バンドを脱退すると宣言した。(のちにこれを撤回し、レコーディングには参加するものの、ツアーには不参加と変更している)

 ところが、ここでまた問題が起きた。なぜかギタリストのリック・ヴィトーとスティーヴィー・ニックスがバンドを脱退したのである。
 スティヴィーはクリスティン・マクヴィーと同じように、レコーディングには参加するもののツアー不参加を申し出ていたのだが、1991年にリックと去ってしまったのだ。この頃はリックと付き合っていたのだろうか。

 でも、リックとスティーヴィー・ニックスがふたりでアルバムを作ったという事実はなくて、スティヴィーはソロ・キャリアを追及し、リックはブルーズ・ロックという原点に戻っている。
 のちに彼は、ミック・フリートウッドのサイド・プロジェクトのバンドに参加して、クラシックなブルーズを披露していた。

 1993年になると、今度はビリー・バーネットの方がカントリー・アルバムを作るなどのソロ・キャリアを追及するためにバンドを脱退すると発表したが、カントリー・シンガーのベッカ・ブラムレットと元トラフィックのギタリストだったデイヴ・メイソンが加入するとわかると、翌年にはバンドに復帰した。
 この辺の変わり身の早さは、フリートウッド・マックのメンバーになるための重要な資質の1つかもしれない。

(To be Continued to Tomorrow)

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2017年9月18日 (月)

フリートウッド・マックの「ミラージュ」

 今回もフリートウッド・マック関連の話題である。前回のリンジー・バッキンガムとクリスティン・マクヴィーのアルバムが、80年代初めのフリートウッド・マックのアルバムの感触に近いということを書いた。でも、そのアルバムのことを知らない人もいると思うので、少しだけ説明してみたいと思う。

 1982年に発表されたこのアルバム「ミラージュ」は、5週間にわたってビルボードのアルバム・チャートのNo.1に輝いている。また、18週間にわたってアルバム・チャートのトップ・テン内にとどまり、ダブル・プラチナ・アルバムに認定された。

 フリートウッド・マックのアルバムでチャートの首位に輝いたスタジオ・アルバムは3枚しかなく、今のところ、というか恐らくは、この「ミラージュ」が最後のアルバムになるだろうと思っている。(残り2枚は、1975年の「ファンタスティック・マック」と1977年の「噂」)

 以前にも同じことを書いたが、このバンドには3人のソングライターがいる。この3人がそれぞれの持ち味を発揮した曲作りを行うところに、このバンドの特徴がよく表れているし、ファンはそれを待ち望んでいる。1982_fm_705
 だから、それぞれが作った曲がシングル・ヒットすれば、当然のごとくアルバムは売れるし、チャートを駆け上っていく。No.1アルバムになった3枚には、これを証明するかのように、ヒット・シングルが満載だった。

 この「ミラージュ」でも同様である。アルバムには12曲が収められていたが、そのうち5曲がシングル・ヒットしている。当時は(そして今も?)シングルにはサイドBがあったから、結局、このアルバムから5曲+αがシングルとして世に出たということになる。

 最初のシングルは、アルバムに先駆けて発表された"Hold Me"で、クリスティン・マクヴィーの曲だった。Holdmefleetwoodmac
 アメリカにおけるフリートウッド・マック最大のヒットとなったこの曲は、7週間にわたって最高位の4位を続け、その年の年末最後の週においてもチャートの31位に留まっていた。

 ジョン・マクヴィーと離婚したクリスティン・マクヴィーは、その後、ザ・ビーチ・ボーイズのデニス・ウィルソンと3年ほど付き合っていたが、デニスの酒癖の悪さ、というよりもアルコール中毒や薬物中毒に手を焼いていて、結局、このアルバムが発表されるときには別れてしまっていた。

 クリスティーンがデニスと付き合っていた頃のことをテーマにした曲だった。そんなに名曲とは思えないのだが、メロディーよりも歌詞の内容がヒットの要因だったのかもしれない。

 でもクリスティン・マクヴィーという人は、つくづく男運がない人だと思う。余計なお世話だと言われるだろうが、ジョン・マクヴィーと別れた原因も彼の酒癖の悪さだった。点滴の薬剤の入った瓶の代わりに酒瓶をさしているジャケット写真があったけれども、それほど酒の好きな男性たちと巡り合う何かを、彼女は持っているようだ。

 ちなみに、デニスの方は、このアルバムの翌年の12月にヨットから海に飛び込んで亡くなっている。39歳の若さだった。アルコールか何かで酩酊状態だったと言われている。

 2枚目のシングルは"Gypsy"で、スティーヴィー・ニックスが手掛けたものである。この曲の原点は、「ニックス/バッキンガム」時代にまでさかのぼる。
 当時貧しかった2人は、ベッドを買うお金がなくて、キングサイズのマットレスを床の上に直接置いて寝ていたという。
 そして、そのマットレスにレースを飾り付けたり、古いランプを置いて“ジプシー”のように暮らしていたそうである。Gypsy_single
 そういうノスタルジーとともに、この曲にはスティーヴィー・ニックスの親友だったロビン・アンダーソンへの追悼という気持ちもあるようだ。
 ロビンは、高校時代にスティーヴィー・ニックスと出会い、それ以降も親交を続けていた。演劇に関心があり、彼女のステージングにアドバイスをしたり、セラピストとしても彼女の力になっていたようだ。

 そのロビンが1982年に白血病で亡くなった。その時ロビンは、子どもを産んだばかりだった。ロビンの夫のキムとスティーヴィー・ニックスは、共通の愛すべき人を失くしたことで、それによる深い悲しみに包まれていた。
 彼らはお互いの悲しみを癒すために結婚をするのだが、3ヶ月後には別れてしまった。一時の気の迷いだったのかもしれない。

 しかし、1979年くらいから出来上がっていたこの曲を一部書き直し、新たな意味を込めて発表している。そういう意味では、彼らの結婚も意味があったのかもしれない。
 ビルボードのシングル・チャートでは3週間12位になっていて、このアルバムからの2番目に売れた曲になっている。

 ところで、この曲のプロモーション・ビデオが制作されるとき、スティーヴィーはコカイン中毒のためにリハビリ中だった。本当なら彼女の治療が終わってから撮影されるはずだったのだが、制作側のスケジュールが詰まっていたために、延期ができなかった。

 だから、彼女は十分に回復しないまま撮影に臨んでいる。のちのインタビューで、一緒に踊っていたリンジー・バッキンガムはダンスが下手だったので、私が不機嫌に映っていると言っていたが、それは彼女の方にも原因があったのである。

 アメリカでの3枚目のシングルは"Love in Store"で、アルバム「ミラージュ」では、冒頭を飾っていた曲だった。
 この曲はクリスティン・マクヴィーが書いたもので、リード・ボーカルは彼女自身。バッキング・ハーモニーはスティーヴィー・ニックスとリンジー・バッキンガムが付けている。王道のポップ・ロック路線であり、キャッチーなメロディー・ラインと軽快なリズムは、いかにもシングル・カットに相応しいものだった。Loveinstorebelgium_3
 ただ、アメリカでは22位と健闘はしたものの、そんなには売れなかったようだ。また、イギリスではシングル・カットされていない。

 イギリスで3枚目のシングルになったのは、なぜかリンジー・バッキンガムが作った"Oh Diane"だった。
 不思議なことに、イギリスでは"Hold Me"も"Gypsy"もヒットしなかった。それで3枚目のシングルは"Oh Diane"にしたのだろう。この曲なら売れると思ったのだろうか。

 そして、その目論見は当たったのである。1982年の12月に69位でチャートに登場したこの曲は、10週間かけて徐々に上がっていき、翌年の2月には9位に輝いている。
 このイギリスでのヒットをきっかけに、アメリカでもヒットを狙おうとして4枚目のシングルになったのだが、残念ながらアメリカではチャートにも登場しなかった。スティーヴィー・ニックスが参加していなかったからだろうか。Ohdiane
 個人的にもそんなにヒットするような要素は見えないし、どちらかというと50年代から60年代にかけてのポップ・ソングのような雰囲気を湛えている感じだ。イギリスでは、こういうシンプルな感じの曲の方が好まれるのだろう。

 アメリカでは、このアルバムからのシングル・カットはこれで終わったのだが、イギリスではもう1枚カットされている。それが"Can't Go Back"だった。アルバムでは2番目に配置されている曲だった。

 この曲にもスティーヴィー・ニックスは参加していなかったが、理由はよくわからない。この曲も"Oh Diane"と同じように、リンジー・バッキンガムが作ったからだろう。この当時の2人の仲は、最悪だったようだ。ただ、シングルのジャケット写真には5人で写っていた。Cant_go_back__fleetwood_mac_1983_uk
 この曲も軽快なポップ・ロックで売れる要素は備えていると思う。ただ、歌詞の内容が“もう昔の頃には戻れない”とか“彼女は夢ばかり追っていた”という何やら意味深な内容だったから、スティーヴィーは参加しなかったのかもしれない。

 ちなみに、この曲は前曲とは違って、83位という悲惨なチャート結果になってしまった。どうもイギリス人の好みはよくわからない。この曲の方がポップだと思うのだが、それだけの要素では決めないのがイギリス人の感性なのだろう。

 相変わらず、複雑な人間関係を反映した曲が多いバンドである。こういう傾向は77年のアルバム「噂」から変わっていなかった。それでも解散しないところが、このバンドの不思議な点だろう。彼らの曲に"Seven Wonders"というのがあったけど、きっとそのうちの1つは自分たち自身の人間関係のことを指しているのではないかと勘繰ってしまう。

 この頃のバンド内では、ソロでの活動が目立っていた。特に、スティーヴィーの活躍は目覚ましくて、前年に発表したソロ・デビュー・アルバムの「麗しのベラ・ドンナ」は、少なく見てもアメリカだけで600万枚以上売れた。当然、アルバム・チャートの1位を飾っている。

 もともと個人活動の意欲が高かったスティーヴィーである。これで自信を持ったのか次々とソロ・アルバムを発表し、個人でツアーも開始した。バンドとは別に活動を始めたのである。さすが才能のある人は違う。ただ、他のメンバーにとっては、バンド活動よりも優先している点が気に入らなかったのではないだろうか、特にリンジー・バッキンガムにとっては。

 その行動は今に至っているようで、前回の「リンジー・バッキンガム/クリスティン・マクヴィー」のアルバムが、なぜフリートウッド・マック名義のアルバムにならなかったのかということに繋がっていた。

 今回は1982年のアルバム「ミラージュ」を取り上げたが、今後の彼らの活動が“蜃気楼”にならないことを願うばかりである。

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2017年9月11日 (月)

リンジー・バッキンガム/クリスティン・マクヴィー

 さて、前回はフリートウッド・マックの黄金期を支えた2人のデビュー・アルバムについて記した。それで今回は、同じバンドの違うメンバーが組んで発表したニュー・アルバムについて綴ろうと思う。

 ゴシップ好きな人なら、フリートウッド・マックのゴチャゴチャした人間関係については、よくご存じだと思う。音楽面や商業的成功については、70年代後半から80年代前半にかけてピークを迎えていたが、そのバンド内の人間関係については崩壊していた。

 キーボーディストのクリスティン・マクヴィーとベーシストのジョン・マクヴィーは1976年に離婚したし、ドラマーのミック・フリートウッドもアルバム「噂」制作前には離婚していた。お相手の元妻は、ジョージ・ハリソンの元妻であるパティ・ボイドの妹のジェニーだった。

 そして、恋人同士だったリンジー・バッキンガムとスティーヴィー・ニックスも成功の階段を上るにつれて、徐々にすきま風が吹き始め、お互いに束縛のない生活を求めて、恋人関係を解消した。一時的ではあるが、のちにスティーヴィー・ニックスはミック・フリートウッドと親密な関係になっている。Fleetwoodmac1977650430_2
 とにかくこのバンドは、人間関係はグチャグチャなのだが、プロフェッショナルなミュージシャンとしてのプライドや意識は高くて、音楽面についてはお互いの才能や努力を認めながら、よりよいものを追及しく姿勢は忘れなかった。

 だから1975年のアルバム「フリートウッド・マック」から1987年の「タンゴ・イン・ザ・ナイト」までの間、5枚のスタジオ・アルバムはすべてビルボードのベスト10以内にチャート・インし、ライヴ活動も盛大に行われていたのである。

 この辺の割り切り方は、さすがプラグマティズム発祥の国アメリカという感じがするが、クリスティン・マクヴィーやジョン・マクヴィー、ミック・フリートウッドの3人はイギリス人だから、関係ない気がするが、アメリカナイズされたのだろうか。

 それで本題に戻って、今年の6月にリンジー・バッキンガムとクリスティン・マクヴィーの連名によるアルバムが発表された。クリスティン・マクヴィーは74歳で、リンジーの方は今年67歳だから、決して若いとは言えないが、まだまだ現役のミュージシャンとしてその存在を示してくれていた。

 もともとクリスティンは、1998年以降、地元のイギリスで隠遁生活を送っていた。表向きの理由は“飛行機恐怖症”ということで、ツアーで飛行機に乗ることを厭うようになっていた。
 若い頃はそんなことはなかったのだが、やはり年齢からくる疲労、ツアーやレコーディングによるストレスなどが高じて表舞台から姿を消したいと思ったのだろう。

 そんな彼女も、2013年にフリートウッド・マックのロンドン公演に客演した。場所がロンドンということもあり、彼女にとっては参加しやすかったのだろう。そして、その時の観衆の反応も熱狂的に彼女を受け入れるようなものだった。それが彼女の心の中のミュージシャンシップに火をつけたと思われる。

 翌年には、彼女のバンド復帰が正式にアナウンスされ、バンドは再び70年代後半の黄金期のメンバーで活動を始めた。
 そしてリンジー・バッキンガムとクリスティン・マクヴィーは、バンド用のニュー・アルバムのために曲作りを始めたのである。

 リンジーとクリスティンは、メールでやり取りをしながら、ロサンゼルスでレコーディングを開始したが、すぐにミック・フリートウッドとジョン・マクヴィーも参加して、8曲ほど新l曲を録音した。
 2014年の9月から2015年の11月まで、フリートウッド・マックは、ワールド・ツアーを行った。北米からヨーロッパ、ニュージーランドまで、全120公演が開催されたが、これは当然5人の黄金期のメンバーで行われている。Fleetwoodmac2

 ツアー終了後、スティーヴィー・ニックスを除いた4人は、2015年の12月から再びロサンゼルスでレコーディングを開始した。そして、出来上がったのがこの「リンジー・バッキンガム/クリスティン・マクヴィー」だった。

 なぜフリートウッド・マックの名義ではないのかというと、スティーヴィー・ニックスが不在だったからである。彼女は、バンドのワールド・ツアー終了後に、今度は自分のソロ・ツアーに出かけたからで参加することができなかったからだ。

 だから、本当は実質的なフリートウッド・マックのアルバムだといってもいいのだが、ひとり不参加だったために、バンド名を使わなかった(使えなかった)ということらしい。
 またリンジーは、曲のほとんどを基本的にはクリスティンと2人で作ってきたので、まるでデュエット・アルバムのようだとインタビューなどで応えていた。

 だから“フリートウッド・マック”という名前は使用しなかったのだろうし、2014年からコツコツと2人で曲作りを行ってきた努力や、お互いの貢献度を明確にしたかったに違いない。
 もともとはアルバム・タイトルを1973年の「バッキンガム&ニックス」にちなんで「バッキンガム&マクヴィー」にする予定だったらしいのだが、それは取りやめになった。スティーヴィー・ニックスが嫌がると予想したのだろうか。

 それで肝心な音の方だが、やはりひとりでも欠けていると、あの魔法の再現は困難だったようだ。結論から言えば、よくできたアルバムだが、黄金期のフリートウッド・マックのアルバムにはかなわない。良盤だが名盤ではないのである。

 全10曲だが、ミディアム調の曲が多くて、どの曲も同じように聞こえてしまうのが最大の欠点である。
 もう少し、リンジーの好きなカントリー調の曲とかアコースティック色の濃い曲などを混ぜていれば、曲ごとの色どりが変わって、バラエティ豊かで個性的な特長が発揮できたと思っている。

 あるいは、ハードな彼のギター演奏も聞きたかった。彼はピックを使わずに、フィンガー・ピッキングでギターを弾く。ジェフ・ベックと同じである。
 その演奏が超カッコいいのだ。1975年のアルバム「フリートウッド・マック」の中に収められていた"I'm So Afraid"のライヴ映像なんかは鳥肌ものである。

 そういう情熱的でアグレッシヴな演奏がほとんど聞こえてこない。強いて言えば、5曲目の"Love is Here to Stay"では、おとなしいアコースティック・ギターを聞くことができるし、最終曲の"Carnival Begin"では、ちょっと盛り上がったギター・ソロが期待できる。でも、それ以上がないのが悲しいのである。51go6eiciql

 もう少し好意的に解釈すると、6曲目"Too Far Gone"も最初はハードな展開が予想されたのだが、リフはハードでも間奏がないので印象に残らない。
 全体的には基本的に歌ものアルバムなので、普通の音楽ファンにも受け入れやすい仕上がりになっている。

 たとえて言うならば、1982年のアルバム「ミラージュ」や1987年の「タンゴ・イン・ザ・ナイト」のような感じのソフトでマイルドな感じが伝わってくるアルバム使用になっていると思う。また、80年代のAOR路線の影響を残しているようだった。

 ただ、8曲目の"Game for Pretend"などは、「噂」の"Songbird"のように、しっとりしたバラードになっていて、これはアルバムの中では佳曲の部類に入るだろう。
 また、9曲目の"On With the Show"というのは、2014年以来のフリートウッド・マックのワールド・ツアーのタイトルにもなっていて、バンドとしてもう一度ファンとともにショウを盛り上げていこうという決意表明になっている曲だ。

 10曲の半分はリンジーひとりで作った曲で、クリスティンは2曲を自作している。残りの3曲はリンジーとクリスティンの共作だった。
 また曲のクレジットとは別に、1曲目がリンジー、2曲目がクリスティンと交互にリード・ボーカルを取っている。

 やはり彼らは、このアルバムがリンジー・バッキンガムとクリスティン・マクヴィーの両者のアルバムと認識していたのだろう。自分たちでも、このアルバムにはバンドとしてのケミストリーが足りないと思っていたのかもしれない。

 そしてその原因はというと、何度も言うように1人足りないということだろう。フリートウッド・マックのいいところは、3人のソング・ライターがいて、それぞれがボーカルをとれるということだ。
 この3人の特色がお互いに交差することで、さらにバンドとしての輝きを放っていくのである。

 それが1人足りないことで、残念ながらバンドとしてのマジカルな要素が発揮できなかった。
 それにバンドのメンバーも高齢化していて、クリスティンは74歳、スティーヴィー・ニックスは69歳だ。リズム隊の2人も70歳を超えている。果たしてどれだけ全盛期の姿まで近づくことができるのか不安でもある。

 このアルバムは、アメリカのチャートでは17位、イギリスでは5位まで上昇している。1人欠いてもこれだけの結果が出せたのだから、5人そろえばもっと素晴らしい結果につながるに違いない。次回は、“フリートウッド・マック”という名義のニュー・アルバムを期待するしかない。平均年齢が高くなっても、まだまだ需要も高いバンドなのである。

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2017年9月 4日 (月)

バッキンガム&ニックス

 前回に続いて、今年の夏によく聞いたアルバムを紹介しようと思った。まだまだ残暑が続くからである。それにしても、今年の夏は暑い日が多かったなあと感じている。

 それで紹介するアルバムは、「バッキンガム&ニックス」である。実はこのアルバムは以前からぜひ手に入れたいと思っていた。

 このアルバムは1973年に発表されたのだが、自分が最初に知ったのは1978年頃だった。それ以降も当時のレコード店の棚に並んでいた覚えがある。
 それで、なぜ気になったのかというと、1977年のフリートウッド・マックのアルバム「噂」がいたく気に入っていて、何度も何度も聞いていたからだ。

 それに彼らは、その全盛期のメンバーで1977年に来日公演を行っている。それは当時の洋楽雑誌である「ミュージック・ライフ」にも大きく取り上げられていて、ライヴ・レポートやメンバー写真などを見た記憶がある。1401x788107110185
 それから発表順を遡るかのように、1975年のアルバム「ファンタスティック・マック」も購入して、ヘヴィ・ローテーションで聞いていた。当時はフリートウッド・マックもフェイヴァレットなバンドの一つだったのだ。

 そして、フリートウッド・マックがそれほどまでに世界的なビッグ・バンドに変化したのも、1974年にバンドのメンバーになったリンジー・バッキンガムとスティーヴィー・ニックスのおかげなのであり、これは誰もが認める事実だろう。
 だから、バンドに加入する前の2人のアルバム「バッキンガム&ニックス」をぜひ聞いてみたいと思っていた。

 フリートウッド・マックについては、何回かこのブログでも言及しているので詳細は省くけれど、元々はイギリス出身のブルーズ・バンドで、1960年代後半は3大ブリティッシュ・ブルーズ・バンドとして、それなりに人気が高かった。
 70年代になって、メンバーの交代などで徐々にポップな路線を歩み始め、活動の舞台もイギリスからアメリカへと変わっていった。

 そして、新しいメンバーとして、リンジー・バッキンガムとスティーヴィー・ニックスが加入したのだが、そのきっかけとなったアルバムがこの「バッキンガム&ニックス」だったというわけである。

 ところがである。いつか買って聞いてみようと思っていたのだが、ジェスロ・タルやデヴィッド・ボウイ、次々と登場するパンク/ニュー・ウェイヴのアルバムに目移りしてしまい、いつのまにか「バッキンガム&ニックス」のアルバムは、店頭から消えてしまっていた。
 だから、このアルバムは、まさに約40年間、熱望していたアルバムであり、いつかは手に入れたいと思っていて、やっとその願いが叶ったのである。

 リンジー・バッキンガムは、カリフォルニアでフリッツというバンドで活動していた。いわゆる彼はマルチ・ミュージシャンなのだが、このバンドではベース・ギターを担当していた。
 1967年に、このフリッツにいた女性シンガーが大学進学のために脱退したので、代わりにアリゾナ州生まれのスティーヴィー・ニックスが加入した。

 当時はいわゆる“サマー・オブ・ラヴ”の影響で、サイケデリックな音楽やハードなサウンドが好まれていた。フリッツもそういう種類の音楽をやっていて、ジェファーソン・エアプレインやジャニス・ジョプリンのオープニング・アクト(前座)を務めることもあったという。

 キュートなスティーヴィーを中心に活動を行っていたフリッツは、かなり人気の高いローカル・バンドだったのだが、ヒット曲に恵まれず、残念ながらレコード会社との契約を結ぶことはできなかった。バンドは1971年に解散している。

 実は、リンジー・バッキンガムとスティーヴィー・ニックスは同じ高校の後輩と先輩という関係だった。彼らは高校生の頃から放課後に、ザ・ビーチ・ボーイズやザ・ママス&ザ・パパスの歌を歌っていたようだ。
 やがて彼らは恋人関係になって、2人で活動するようになった。そして2人は大学を中退して、サンフランシスコからロサンゼルスに居を移し、デモ・テープの制作に励んでいった。

 生活費を稼ぐために、スティーヴィー・ニックスはウェイトレスや清掃人として働き、リンジー・バッキンガムは父親のコーヒー園で働いていた。自分たちのことは自分たちで行うという自主独立の気風は、アメリカ人の精神的支柱なのだろう。

 スティーヴィーの父親は精肉会社の社長だったし、リンジーの父親の方はコーヒー園を経営していた。あまり関係ないけれども、リンジーの兄のグレッグは水泳の強化選手だった人で、1968年のオリンピック・メキシコ大会では銀メダルを獲得している。リンジー自身も一時は水泳選手を目指していたのだが、音楽がやりたくて途中であきらめていた。

 つまり2人とも裕福な家庭の出身だったのだが、2人とも親を頼ることもなく自分たちで決めた道を進んでいった。この辺はサクセス・ストーリーというか、アメリカン・ドリームの体現というものだろう。(ただし、リンジーのコーヒー農園にはレコーディング・スタジオが備え付けられていて、リンジーは昼は農園で働き、夜はデモ・テープを制作していた)

 ただ、スティーヴィーの方はもう疲れてしまい、貧乏でいることが嫌になり、もう一度大学に戻ろうかとも考えていたようだ。やはりお嬢様育ちには辛かったのだろう。

 そんなときに、幸運な出来事が起きた。スティーヴィーが清掃人として働いていた中にプロデューサー兼エンジニアのキース・オルセンの屋敷があった。そこで音楽プロデューサーと知り合いになったスティーヴィーは、自分たちの音楽のことを話したのである。

 キース・オルセンという人は、元々はミュージシャンでベース・ギターも演奏していた。やがては西海岸で、プロデューサー兼エンジニアとして活躍するようになった。
 フリートウッド・マックの「ファンタスティック・マック」や「噂」のみならず、ハートやサンタナ、ホワイトスネイクにスコーピオンズ等々のアルバムを手掛けている敏腕プロデューサー兼エンジニアである。

 彼らの音楽を聞いたキースは、さっそく彼らのアルバム「バッキンガム&ニックス」をプロデュースするとともに、伝手を通してポリドール・レコードと契約を結ぶように図った。だから今こうして彼らのアルバムを聞くことができるのも、キースのおかげなのである。

 また、リンジーとスティーヴィーは、スタジオ・ミュージシャンのワディ・ワクテルとも知り合いになり、一緒に行動するようになった。もちろん、このアルバムにもワディ・ワクテルは参加している。ワディは60年代の終わりからキースとは知り合いで、一緒に仕事をしたり遊んだりしていた。

 さらに、ワディの兄である写真家のジミー・ワクテルが、アルバム・カバーの写真を撮影し、アルバム・デザインも手掛けている。ひとつの出会いがまるでドミノ倒しのように、次々と新しい出会いを呼び、新たな扉を開いていく。人生は、何がどう転ぶかわからないものである。51zbtmdanjl

 残念ながら、商業的にはこのアルバムは失敗した。要するに、ヒット・シングルが生まれなかったからだろうが、親会社のポリドールもそんなに真剣になって彼らをプッシュしなかったことも理由にあげられるだろう。

 アルバムからは2曲がシングル・カットされた。最初は"Don't Let Me Down Again"というリンジーが作った曲で、このアルバムの中ではノリのよい曲で、そんなに悪くないと思うのだが、何故かヒットしなかった。

 2枚目のシングルはアルバムのオープニング・ナンバーの"Crying in the Night"で、ミディアム調のゆったりとした曲だった。スティーヴィーのソロ・アルバムに入っていてもおかしくない曲だが、確かにインパクトには欠けるかもしれない。

 結局、アルバムもシングルも売れずに、リンジーはエヴァリー・ブラザーズの元メンバーのバック・バンドの一員としてツアーに出かけ、スティーヴィーは元のウェイトレスに戻って働くという生活が続いた。

 転機は1974年の1月にやってきた。フリートウッド・マックのリーダーのミック・フリートウッドが彼らの曲"Frozen Love"を耳にして、彼らのことに興味を持ったのである。もちろん曲を聞かせたのはキース・オルセンだった。

 この曲はアルバム最後の曲で、このアルバムの中でリンジーとスティーヴィーの2人で書いた唯一の曲だった。ブルージーでダークな曲調で、やや複雑な構成を持っている。そんなにメロディアスな曲ではないのだが、ミック・フリートウッドには何か感じるものがあったのだろう。時間的にも7分16秒もあった。

 基本的には、このアルバムではアコースティック・ギターがメインに使用されていて、エレクトリック・ギターの使用率は低い。この"Frozen Love"でも同じことで、全体的にはアコースティック・ギターが目立っていて、イントロとエンディングのソロでエレクトリックが光っている。このリンジーのギター・テクニックにミックは魅力を感じたのだろう。

 このアルバムのオリジナルは10曲、トータルで36分42秒しかないのだが、今回の紙ジャケット・アルバムでは、シングル・ヴァージョンや未発表曲などを含めて21曲も収められていた。つまりボーナス・トラックが11曲も含まれているのだ。

 その中には、のちに2001年のスティーヴィーのソロ・アルバム「トラブル・イン・シャングリラ」に収められた"Sorcerer"や"Candlebright"、1982年のフリートウッド・マックのアルバム「ミラージュ」にアレンジし直されて収録された"That's Alright"などがあって、それらの原曲は74年頃に出来上がっていたというところが面白かった。

 更には、1974年当時にアラバマ州でのライヴ曲が3曲もあって、その中に「ファンタスティック・マック」に収められていた"Rhiannon"も歌われていた。一部の歌詞は違うが、メロディラインはスタジオ盤と同じだった。ただ、ライヴではかなりアグレッシヴでハードに展開されている。71lcfiljkl__sl1457_

 この曲は本来はアルバムから除外されていたのだが、最終的に"Candlebright"(オリジナル・タイトルは"Nomad"だった)と差し替えられたという。ちなみに、"Rhiannon"の方は1976年にシングル・カットされて、ビルボードの11位まで上昇している。

 また、なぜアラバマ州でライヴが行われたかというと、この「バッキンガム&ニックス」が唯一売れたところがアラバマ州だったと言われているが、本当だろうか。
 また、この頃のライヴでは"Monday Morning"も演奏されていたが、このアルバムには収録されていなかった。出し惜しみしたのだろうか。

 あくまでも個人的な感想なのだが、このアルバム・ジャケット見たときに、このアルバムが売れなかった訳が分かった。

 それはこの半裸の2人が美形過ぎたからだろう。男性は、こんなかわいい女性をものにしやがってと嫉妬しただろうし、女性ファンは、このイケメン・ミュージシャンの側にいる女性が気に食わなかったに違いない。結局、内容まで耳を傾けることもなく、ジャケット見て購買意欲が削がれたのだろう。もちろん私の邪推である。1024x1024

 結局、この2人がフリートウッド・マックというバンドに加入したおかげで、バンドは超メジャーになっていった。バンドが1998年にロックの殿堂入りを果たせることができたのも、この2人の貢献を抜きには考えられない。

 その原点が、この「バッキンガム&ニックス」というアルバムに含まれている。約40年間の謎が、やっと解けたような気がした。

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