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2017年10月23日 (月)

ジョー・コッカー

 デラニー&ボニーの影響力についていろいろと調べてきた。今回は、イギリス出身のミュージシャンであるジョー・コッカーについてである。
 自分は、彼についてはもうすでにこのブログの中で書き綴っていたと思っていたのだが、実際は、軽く触れた程度で、そんなに詳しくは書いてはいなかった。今はともかく、70年代においては一世を風靡していたミュージシャンである。何だか申し訳ないと思ってしまった。Cocker
 ジョー・コッカーは、本名を“ジョン・ロバート・コッカー”という。1944年の12月にイギリスのヨークシャー州シェフィールドで生まれた。
 “ジョー”という呼び名は、子どもの頃の遊びにあった“カウボーイ・ジョー”から取ったものという説や、近所の清掃業者の名前からとった説と、諸説あって定かではない。

 彼の音楽的経歴は、12歳頃に長兄が作ったバンドで一緒に歌っていた時から始まった。当時は、兄のヴィクターから誘われるままに歌っていたようだ。

 もともと彼は、レイ・チャールズやロニー・ドネガンに憧れて歌を歌うようになった。長兄のアドバイスもあって、“キャバリアーズ”というバンドを結成して歌っていた。

 しかし1年も経たずにバンドは解散してしまい、ジョー・コッカーは高校を退学して、ガス工事人の見習いとして働きながら音楽活動を行うようになった。

 17歳の時には、“ヴァンス・アーノルド&ジ・アヴェンジャーズ”というバンドを結成して音楽活動を再開した。最初は地元のパブなどで活動していたが、徐々に力をつけていき、やがてはローリング・ストーンズのオープニング・アクトまで務めるようになった。
 この頃のジョーは、ブルーズに傾倒していき、ジョー・リン・フッカーやハウリン・ウルフなどの歌も歌うようになった。そういう“黒っぽさ”がストーンズの興味をひいたのだろう。

 20歳になると、ソロ活動を始め、運よくデッカ・レコードと契約することができた。デッカ・レコードといえば、あの4人のカブトムシたちの才能を認めずに契約しなかったレコード会社で有名だが、この時はジョーと契約して、4人のカブトムシの曲"I'll Cry Instead"を制作した。

 しかし、運命はそんなに都合よく回っていくものではない。この曲はプロモーションしたにもかかわらず、ヒットせず、ジョーは1年も経たずにデッカとの契約を失ってしまったのである。

 その後、ジョー・コッカー・ブルーズ・バンドを結成して歌うなどを行っていたが、鳴かず飛ばずで、しばらく音楽活動から遠ざかっていった。そして、約2年間のブランクの後に、ジョーはクリス・ステイトンとザ・グリース・バンドを結成し、活動を行うようになった。
 その活動を目にしたプロデューサーのデニー・コーデルから声を掛けられたジョーは、ソロ・ミュージシャンとして契約を結び、シングル"Marjorine"を発表した。

 この曲はヒットはしなかったものの、注目を集める結果につながった。だからというわけでもないだろうが、彼は続けて曲を発表することができたのである。
 それが1968年に発表された"With A Little Help From My Friends"だった。この曲はイギリスのシングル・チャートのトップ10に入ると、13週間その中に留まり、ついにはその年の11月にNo.1になったのである。(アメリカでは68位だった)

 元々所属していたグリース・バンドはソロ・ミュージシャンになったころに解散したのだが、盟友クリス・ステイトンとはともに活動を続けていて、新たにギタリストとしてヘンリー・マッカロウを迎え、ジョーは1969年の4月にデビュー・アルバム「心の友」を発表して、新生グリース・バンドとともにツアーを開始した。

 イギリス国内では、ザ・フーやジーン・ピットニーらと一緒にライヴ活動を行い、その後アメリカに渡ってエド・サリヴァン・ショーに出演したり、デンヴァーやアトランタなどで様々な野外フェスティバルに出演したりしている。
 そして、一躍世界的に有名になった契機が、1969年のウッドストック・フェスティバルにおけるステージングだった。

 1969年8月16日、ウッドストック・フェスティバルの3日目でのパフォーマンスで、この日のオープニング・アクトを務めたジョー・コッカーとグリース・バンドは、約1時間にわたって歌と演奏を繰り広げたのである。 Http___i_huffpost_com_gen_2422380_i
 この時のライヴでの彼の歌い方やしゃがれた声は、パワフルでインパクトがあったし、誰でも一度見れば、決して忘れられない映像だった。まさに、ジョー・コッカーのターニング・ポイントとなったライヴだった。

 このライヴ後は、ロサンゼルスでニュー・アルバムを録音し、年末から次の年に向けて再びツアーに出ることになっていた。
 ところが、ジョー・コッカーは何か月にもわたるツアーとセカンド・アルバムのレコーディングからくる疲労のせいで、身体的にも精神的にも疲れてしまったのである。

 確かに、あの“ひきつけ”を起こしたような歌い方や動きを見れば、どれほど彼がエネルギーを消費しているかが分かると思う。
 それに当時の音楽業界は、レコーディングの次はツアー、合間を縫ってテレビやラジオ出演は当たり前だったし、しかもそれが西海岸から東海岸、南部のテキサスから北部のミシガンまで、何か月にも渡ってバスや飛行機で移動するのである。まともな人なら疲れて当然だといえよう。

 とにかく、当時のジョーはボロボロの状態だったようで、クリス・ステイトンを除くグリース・バンドとも喧嘩別れをしてしまい、ひとりになってしまったのである。

 ゆっくり休養しようと思ったジョー・コッカーだったが、ところが彼にはアメリカ・ツアーの契約がまだ残っていて、8日後にツアーに出かけるか、もしくは莫大な違約金を払うと同時に、二度とアメリカでのツアーをしないという条件を飲むかという状態に追い詰められてしまった。

 ここでグリース・バンドがまだ一緒にいれば問題はなかったのだろうが、自分一人ではどうしようもできない。そう考えたジョー・コッカーは、とりあえずマネージャーのデニー・コーデルに助けを求めた。

 すると彼は、自分と一緒にシェルター・レコードを立ち上げたレオン・ラッセルにこのことを伝えて相談したところ、時流の波に乗っていたレオン・ラッセルは快諾し、彼の人脈を使ってミュージシャンを集めたのである。ここでやっとジョー・コッカーとデラニー&ボニーの影響力が結びつくのである。

 レオン・ラッセルが集めたミュージシャンは、デラニー&ボニーのバック・ミュージシャンたちだった。要するに、当時の“スワンプ・ロック”を代表するミュージシャンばかりである。
ドラムス…ジム・ケルトナー、ジム・ゴードン、チャック・ブラックウェル
ベース…カール・レイドル
ギター…ドン・プレストン
キーボード…レオン・ラッセル、クリス・ステイトン
サックス・・・ボビー・キーズ
トランペット…ジム・プライス
バック・ボーカル…リタ・クーリッジ、クローディア・レニア等

 そして、ミュージカル・ディレクターはレオン・ラッセルだった。総勢約20名のバンド・リーダーである。

 彼らは1970年の3月17日に、シングルのレコーディングとライヴのリハーサルを行い、20日からのデトロイト公演でツアーが始まった。そしてこの時のツアーは、記録映画として撮影され、その時の楽曲はライヴ・レコーディングされることになった。これが「マッド・ドッグス&イングリッシュメン」として、のちに発表されることになるのである。91brxoxxwdl__sl1500_

 このアルバムは、3月27日と28日のニューヨークにあるフィルモア・イーストでの4回のステージからレコーディングされている。
 内容は、スワンプ・ロックというよりは、ジョー・コッカーのキャリアをまとめたようなものになっていて、ブルーズ・ロックとソウル・ミュージック、ゴスペルやカントリー・ミュージックなどが高次元で融合しているような素晴らしい出来栄えだった。

 何しろ当時のレオン・ラッセルとジョー・コッカーは2人とも神がかっていて、すべての音楽的活動が成功に結び付くような状態だった。時代の波といってしまえばそれまでだが、やはり彼らには、時代をリードする魔法のような力や時代を惹き寄せるマジカルなパワーを有していたのだろう。

 そんな彼らが結託して、結託という言葉がよくないなら、共同して活動していたのだから、これはもうひれ伏すしかないわけで、このライヴ・アルバムは2枚組ながら、全米2位、全英16位を記録した。彼らからすれば、当たり前のことだと思っただろう。

 彼らは約2か月のツアーを続け、全米48都市58公演を行った。最終的にミュージシャンとスタッフを合わせて43名にのぼったと言われている。

 ところが成功と引き換えに、このツアーでジョー・コッカーは完全にダウンしてしまった。原因の一つには、レオン・ラッセルとの確執があったからだと噂されていた。

 レオン・ラッセルのデビュー・アルバムは、このツアーの途中で発表され、ツアーが続けられていくほど、アルバムのセールスは伸びていった。ジョー・コッカーよりもレオン・ラッセルのためにあるツアーになったのかもしれない。まさに“両雄並び立たず”である。

 実際、のちにジョー・コッカーは次のように語っている。『あの男(レオン・ラッセル)のことを心から尊敬していたが、ひどく仲が悪くなってしまって…大きなエゴのぶつかり合いさ』Joecockerleonrussell1970_2
 また、このツアーのことについても述べている。『あれは忘れられない経験だった…尋常じゃなかった。メンバーはみな、自分たちは金星へ、大気圏へむかっているつもりだったが、そんなふうには発展してなかったのさ。最後には俺はロサンジェルスでボロボロになっていた。ロック・ビジネスってやつに幻滅したんだ』

 この後、ジョー・コッカーはアルバムは発表するものの、アルコールやドラッグに蝕まれていくようになった。散発的に話題になることはあったものの、70年代の中盤から80年代にかけてはかつての名声は失われていった。

 自分が物心ついてロック・ミュージックを聞くようになった時には、すでにジョー・コッカーは過去の人扱いだった。ただ、ウッドストックの映像や「マッド・ドッグス&イングリッシュメン」での身震いするようなパフォーマンスだけが記憶の中に残っていた。

 ところが、1982年に「愛と青春の旅立ち」という映画の主題歌"Up Where We Belong"が、ジェニファー・ウォーンズとのデュエットで3週間全米No.1になると、あらためてジョー・コッカーの偉大さが再認識されるようになり、それ以降は生きたロック・ボーカリストのレジェンドとして再び活躍するようになった。

 ちなみに、この"Up Where We Belong"という曲は、1983年のゴールデン・グローブ賞とアカデミー賞でベスト・オリジナル・ソング賞を、ジョーとジェニファーは、グラミー賞のベスト・ポップ・パフォーマンス・デュオ・ボーカル賞を受賞した。
 普通のポップ・ソングである。確かに悪い曲ではないが、全然躍動感がないし、ロック的でもない。

 だいたいこの曲をレコーディングするまで、2人は出会ったこともなかった。ジェニファーの甘い声とジョーのしわぶきの声がうまくマッチするのではないかと考えられたからスタジオに呼ばれたのである。確かに、ロッド・ステュアートに依頼するよりは、安上がりだっただろう。Jenniferwarnesjoecockersnlbillboard
 この稿のテーマは、ジョー・コッカーとデラニー&ボニーとの関係や影響力についてだった。デラニー&ボニーとジョー・コッカーの交流は、表立っては目立ってはいないものの、アルバム「モーテル・ショット」などでは、ジョーの声を聞くことができる。(ただし、アルバムのクレジットには記載されていなかった)

 最終的には、ジョー・コッカーは、レオン・ラッセルのおかげで何とかツアーも乗り切り、その結果、歴史的な名盤を残すことができた。人生、何が幸いするかわからないものだ。

 間接的ではあるが、1970年という時に、イギリス人のミュージシャンは海を渡ってアメリカ人ミュージシャンやアメリカ南部の音楽に向き合い、そこから音楽的ルーツや原点を学ぼうとしていた。

 その磁場の中心にいたのが、デラニー&ボニーで、やがてそれはレオン・ラッセルに移っていった。1971年のバングラディッシュ・コンサートでもレオンの功績は光っていた。ただ、その磁力も長くは続かなかったようである。

 そして、主なバック・ミュージシャンが去って行ったあと、デラニー&ボニーが見出したのが、オールマン・ブラザーズ・バンドのデュアン・オールマンだった。レオン・ラッセルに移動した磁場は、再び揺れ戻ったのである。


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