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2019年4月

2019年4月29日 (月)

初期のエルトン・ジョン(1)

 最近になって、なぜかエルトン・ジョンを聞きたくなり、デビュー・アルバムとセカンド・アルバムを聞き直してみた。なぜだかわからないが、無性に聞きたくなったのである。そして思ったことは、初期のエルトン・ジョンは、シンガー・ソングライターであり、叙情的な曲が目立っていたということだった。

 エルトン・ジョンについては、10年以上も前にこのブログで記しているので、詳しいことは省きたいが、まさにイギリスが誇る至宝というか、ザ・ビートルズやクィーンと並ぶほどの人気を誇るミュージシャンである。1998年には音楽業界と英国に対する貢献が認められて、“ナイト”の称号をあたえられている。つまり、“サー・エルトン・ジョン”なのである。

 “エルトン・ジョン”とは芸名で、本名はレジナルド・ケネス・ドワイトという。父親は空軍の軍楽隊でトランペットを担当していた。エルトン・ジョンの幼い時から父親と母親の折り合いが悪くて、父親の前では自分は憂鬱な存在だったと認めている。また彼は自伝の中でこうも述べている。『両親が別れるまで何もできなかった。サッカーをすることも父親のバラの木を折るといけないからね』

 エルトン・ジョンが10歳の時に、両親は離婚し、彼は母親のもとに引き取られた。もともとエルトン・ジョンはクラシック音楽を学んでいたのだが、母親は彼を励ますためにエルヴィス・プレスリーの"Heartbreak Hotel"のレコードを買って渡したところ、彼はこれに夢中になってしまい、結局、クラシックのピアノ演奏者の夢を捨てて、ポップ・ミュージックの道を歩み始めたのである。

 14歳の時にいとことバンドを結成し、音楽活動を始めた。このバンドはやがて“ブルーソロジー”と名前を変え、アメリカから来たR&Bのミュージシャン、ドリス・トロイやパティ・ラベルなどのバック・バンドとしてイギリス国内のみならず、ヨーロッパ各国で演奏活動を行っていった。アメリカからのミュージシャンではないが、一緒に演奏活動を行った中にはイギリスの伝説的ブルーズマンのロング・ジョン・ボルドリーもいた。

 1967年に、当時のスポンサー会社だったリバティ・レコードの役員から、バーニー・トーピンという詩人を紹介された。エルトン・ジョンはこの申し出を受けて、バーニーと一緒に楽曲作りやデモ・テープの制作を決めたのである。結局、彼はブルーソロジーと離れて、新しい仕事に合うように名前も変えた。ブルーソロジーのバンドメイトだったエルトン・ディーンと、一緒に活動をしたことのあるロング・ジョン・ボルドリーの両名からそれぞれ取って、“エルトン・ジョン”と名乗ることにした。ここから徐々に彼の運命が動いていったのだった。Eltonjohn19712chriswaltere153435363
 1968年の3月には"I've Been Loving You"という曲をシングルで発表したが、ヒットしなかった。これはオーティス・レディングの曲とは同名異曲で、名義上はエルトン・ジョンとバーニー・トーピンだったが、実際はエルトン・ジョンひとりで作った曲だった。また、翌年の1月には"Lady Samantha"というピアノよりもギターが目立つ曲も発表したが、これもまた不発だった。しかし、この間に彼ら2人は、デビュー・アルバムに向けて着々と制作を進めていたようだ。

 1969年にデビュー作である「エンプティ・スカイ」が発表された。1曲目から8分を超えるアルバム・タイトル曲が収められていて、かなりの力作であることが伺えた。この曲にはフルートやハモンド・オルガン、ハーモニカ、コンガなど多彩な楽器が使用されていて、曲自体も複雑な構成を持っており、一筋縄では掴めないエルトン・ジョンの才能が詰め込まれている。ただそれが曲として昇華されておらず、アイデアだけで勝負しましたという感じがしてならない。81yinzpzasl__sl1400_
 この傾向はこのアルバム全体を貫いているようで、続く"Val-Hala"やアルバム屈指の名曲"Skyline Pigeon"ではハープシコードも使用されていて、今となってはかなり珍しい印象を与えてくれたし、友人のカレブ・クレイのギターがフィーチャーされた"Western Ford Gateway"はアメリカに対する憧憬が聞こえてきそうだった。

 他にもボブ・ディランの歌い方をまねた"Hymn 2000"ではフルートが強調されていたし、6曲目の"Sails"でもカレブのハードなギターを聞くことができた。しかし、一番不思議な印象を持つのは、9曲目、つまり最後の"Gulliver/It's Hay Chewed/Reprise"だろう。

 この曲はタイトル通り3部作のメドレーで、全体で6分58秒もある。最初はミディアムテンポの叙情的な曲なのだが、徐々に盛り上がっていき、"It's Hay Chewed"ではジャージーなピアノとサックスにエレクトリック・ギターが割り込むような形になり、続いてサックス・ソロとギター・ソロが交互に続く、そしてアルバムの各曲が入り混じった"Reprise"で幕を閉じる。何となく、ザ・ビートルズの"Hey Jude"の形式を真似て、最後に"Reprise"をくっ付けたような感じだ。最初のアルバムということで奇をてらって印象的なものにしようとしたのだろうか。989652
 このアルバムについて、エルトン・ジョンは、次のように述べていた。『アルバムのタイトル曲を作り終えた時は、興奮して参ってしまった。生まれてから聞いた曲の中で最高だと思った』また、『当時はどんな音楽スタイルで行くのか定まっていなかったよ、たぶんレナード・コーエンのように聞こえるだろう』というわけで、だからというわけではないだろうがアルバム冒頭の"Empty Sky"や最後の"Gulliver/It's Hay Chewed/Reprise"などの長尺の曲が収められていたのだろう。

 翌年、セカンド・アルバム「エルトン・ジョン」が発表され、このアルバムは全英アルバム・チャートで5位、全米では4位を記録し、まさしく彼の出世作になった。アメリカではゴールド・ディスクを獲得し、翌年のグラミー賞の“アルバム・オブ・ジ・イヤー”にもノミネートされたのである。この成功の裏にはプロデューサーであるガス・ダッジョンの功績が大きいだろう。61menybdkrl__sl1059_
 元々は、デビュー・アルバムを手掛けたスティーヴ・ブラウンが再びプロデュースするつもりだったのだが、このアルバムに収められている"Your Song"を聞いたときに、これは間違いなくヒットする曲だ、それなら自分よりはもっと経験豊富なプロデューサーに任せた方がいいだろうと判断して、ジョージ・マーティンに声をかけたのが始まりだった。

 ジョージ・マーティンは曲のアレンジも任せてくれるならやってもいいと答えたが、アレンジはポール・バックマスターが手掛けることになっていたので、結局、この案は消えてしまった。次に、スティーヴはポール・バックマスターに誰がよいか尋ねたところ、ガス・ダッジョンという返事が戻ってきたのだ。当時のガス・ダッジョンは飛ぶ鳥を落とすほど影響力があり、デヴィッド・ボウイからストローブス、テン・イヤーズ・アフター、ジョン・メイオールズ・ブルーズブレイカーズなど大物ミュージシャンやバンドを手掛けるほどだった。Caribouranch2
 もうひとり名前をあげるなら、やはりストリングスのアレンジを手掛けたポール・バックマスターだろう。アルバム全編にわたってストリングスが施されており、またこのアレンジが絶妙なのだった。そして8曲目の"The Greatest Discovery"では、彼自身もチェロを演奏していた。ガス・ダッジョンとポール・バックマスターは仲が良かったらしく、ガスだからこそここまで大胆にポールにストリングス・アレンジメントを任せることができたのだろう。ジョージ・マーティンだったら、果たしてここまでできたかどうか疑問である。

 このアルバムに関しては、とにかくどの曲もお勧めである。"Your Song"は当然のことながら、ハープシコードが哀愁をかき立てる"I Need You to Turn to"、レオン・ラッセルの影響が濃い"Take Me to The Pilot"、ミック・ジャガーの歌い方を真似た"No Shoestrings on Louise"、ゴスペルのような"Border Song"など、捨て曲などまるでないのだ。

 ちなみに、"First Episode at Hienton"は、バーニー・トーピンの生まれ育った故郷のことを歌ったものであり、続く"Sixty Years On"とともに、ポールのストリングスが効果的なバラードになっている。
 また、"The Greatest Discovery"は弟の誕生を祝福した曲で、"The Cage"は、比較的おとなしめの曲が続く後半では、ブラスやパーカッションがフィーチャーされていて、エルトン・ジョンのロック魂を感じさせられた。最後の曲"The King Must Die"では、リリカルなエルトン・ジョンのピアノ演奏を楽しむことができるし、壮大なオーケストレーションも施されていて、アルバムのエンディングにふさわしい曲でもある。

 とにかく、このセカンド・アルバムはデビュー・アルバムとは違って、プロダクション・チームがしっかりとエルトン・ジョンの曲をバックアップし、期待以上の成果をもたらしている。その理由はいろいろ挙げられるだろうが、音楽的にはエルトン・ジョンの志向するゴスペルやソウル・ミュージックが根底にあり、それをもとにしたメロディアスな楽曲に秀逸なアレンジが加わったからだろう。
 とにかく、ここから彼らは大きく世界に羽ばたいていったのである。エルトン・ジョンがまだ若くて、痩せていて、髪の毛があったころの話である。

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2019年4月22日 (月)

コーポレイト・アメリカ

 ボストンというアメリカのロック・バンドについて記すことにした。特に深い理由はなくて、以前からこのアルバムを聞きたくて、最近購入して聞いたからだ。

 このアルバムというのは、彼らの5枚目のスタジオ・アルバムにあたる「コーポレイト・アメリカ」のことである。2002年の11月に発表されたもので、全10曲47分余りの内容だった。
 なぜこのアルバムが聞きたかったかというと、彼らのアルバムにしては売れなかったという理由と、売れなかったのはアメリカの大企業を批判したせいで、プロモーションが十分させてもらえなかったという噂を聞いたからだった。41th8d26apl_2
 ご存知のように、ボストンは1976年にアルバム「幻想飛行」でデビューした。このアルバムは、全米のアルバム・チャートでは最高位3位どまりだったが、セールス的にはアメリカだけでも1700万枚以上、全世界で20000万枚以上の売り上げがあり、今でも30周年記念盤「幻想飛行」が発売され、売れ続けている。

 続く1978年のセカンド・アルバム「ドント・ルック・バック」、1986年のサード・アルバムの「サード・ステージ」は、連続してチャートの首位に輝き、1994年の4枚目の「ウォーク・オン」も100万枚以上売り上げ、7位になっていた。
 ところが、1997年の「グレイテスト・ヒッツ」を挟んで、2002年に発表されたこのアルバムは、チャート的には42位と低迷し、アルバム・セールスも約50万枚程度だった。まさに、70年代の往時を知る者にとっては信じられない悲劇であり、ボストンというブランドにキズがついたような出来事だったのである。

 ところがなぜ売れなかったかという理由が、半ば都市伝説のように語られていった。それが上記にもあったように、アメリカの大企業を批判したために圧力がかかり、プロモーションができなかったというものだった。また、それだけでなく、一部自主回収もされたという噂もまことしやかに流されていた。

 このアルバムの中に収められていたブックレットの裏表紙には、次のように書かれていた。ちなみに自分は輸入盤を購入して聞いたので、日本語訳はついていなかった。だから、正確な日本語ではないことをお許し願いたい。
 “化石燃料を保護しよう、ムダな資源を削減しよう、菜食主義者の生き方を学ぼう、動物製品を避けよう、銃ではなくカメラで仕留めよう、環境保護者に投票しよう、児童虐待や動物虐待を知ろう、毛皮を買うな!”2_000000002394
 そしてその後には、動物保護団体や環境保護団体、児童虐待を防ぐ委員会などにアクセスできるメール・アドレスが記載されていた。ということは、ある意味、このアルバムはプロテスタントな色合いの濃いアルバムだったということが分かる。ちなみに、リーダーのトム・ショルツ 自身も30年以上のヴェジタリアンとのことだった。

 しかし、これだけでは大企業の批判とは言えないだろう。そこで、アルバムの3曲目に収められていたアルバム・タイトル曲"Corporate America"の歌詞について調べてみた。
「誰が人類の退化を防ぐことができるのか
自分を見つめろ、みんなで協力しよう
たばこ産業やビジネスジェット機のグローバル化などは
恥ずべき事 みんなはそれを最大限に好んでいるけど
だけど結論はまだ取り出して突きつけることはできる

さあ行動を起こせ 俺は今夜少し手助けが必要なんだ
お前は何というのか
お前は何というのか
明かりが見えない時でさえも」

(訳;プロフェッサー・ケイ)

 要するに、環境保護の大切さや地球温暖化の危機のことを暗に仄めかしていて、これ以上地球がこのままいけば滅びるぞ、人類は協力してこの危機的状況を打開できるはずだと訴えている。確かに、かつてのゴア副大統領あたりが聞いたら喜びそうな曲かもしれないが、これだけで大企業批判には当たらないだろう。

 ただ最後のフレーズに、「レザー張りのメルセデスを注文して何の意味があるんだ」という言葉があり、固有名詞が出てくるのはここだけなので、ひょっとしたらこれが原因とも考えられるが、たぶん違うだろう。
 一番の問題は、このアルバムは、それまでのエピックやMCAというメジャーなレコード会社からアルテミスというマイナーな会社に移籍して発表されたものだったから、十分なサポートが受けられなかったことは言えるだろう。そこから、上記のような噂が生まれた(あるいは意図的に流された)のではないだろうか。

 肝心のサウンドはどうかというと、特徴的なギターの多重サウンド、空に突き上げるかのようなスペイシーな音の響きなど、今までのボストンを継承している。
 ただ、このアルバムではトム・ショルツ以外のメンバーが健闘していて、2曲目の"Stare Out Your Window"と6曲目の"Turn It Off"、7曲目の"Cryin'"はアンソニー・コスモという人の手による曲で、この人は同じボストンの当時のメンバーであるフランシス・コスモの息子だった。息子の書いた曲を父親のフラン・コスモが3曲とも歌っていたのだ。

 フラン・コスモは、アルバム「ウォーク・オン」から参加していた人で、ブラッド・デルプの代わりにリード・ボーカルを取っていた。ボストンにはこのアルバムとそれに伴うツアーまで参加している。アンソニーは、2002年のツアーからボストンに参加し、2006年頃まで在籍していた。ギターやベース・ギター、ドラムスにキーボードと何でもこなすマルチ・ミュージシャンでもあった。

 アルバム・タイトル曲の"Corporate America"は、何故かディスコ調の曲で、ブラッド・デルプとフラン・コスモ、新人女性ボーカリストのキンバリー・ダーマという人の3人が歌っていた。バックの演奏は、ドラムスからキーボードまで、すべてトム1人が演奏している。ディスコ調にアレンジすることで、切迫感や自堕落な様子を表現しようとしたのだろう。

 4曲目の"With You"は、女性ボーカリストのキンバリーの手による曲で、キンバリーがアコースティック・ギターを担当し、トムがエレクトリック・ギターとベース・ギターを演奏する素朴なバラードである。ウェストコースト風の爽やかなバラードなのだが、途中のエレクトリック・ギターの入り方がいかにもトム流で、ワ~といっぺんに多重録音で入ってくるのがちょっと残念だった。バラードなのだからもう少しそっと来てくれると、盛り上がっただろうに。

 キンバリーは、53歳になるアメリカ人のミュージシャンで、ボストンではベース・ギターも担当していたが、ベース・ギターに関してはボストンに加入が決まってから手ほどきを受けたようで、そんなに得意ではないようだ。基本はボーカルとギターである。3393672570_74d2a256f6_o
 "Someone"はブラッド・デルプとトム・ショルツの2人のパフォーマンスで出来ている曲で、次の"Turn It Off"とともに、ミディアム調のややダークな曲だった。
 この"Turn It Off"と"Cryin'"については、上にも述べたようにアンソニー・コスモの手によるもので、ボストンというよりは、西海岸のオルタナティブ・ロック・バンドの曲のようだ。メロディアスでありながらも刺々しい雰囲気も備えていて、個人的には好きな曲だった。トム・ショルツのギター・ソロがなければ、ボストンの曲とは誰も気がつかないだろう。

 "Didn't Mean to Fall in Love"は、珍しくトムがアコースティック・ギターのソロも演奏している。また、ハモンド・オルガンなども使用されていて初期の雰囲気を携えていた。ただ、メジャー調ではないので、明るい曲ではない。制作者はトムとカーリー・スミス、ジャネット・ミントという人たちだった。トム以外は、具体的にどんな人かはよくわからなかった。(カーリー・スミスはドラムスを演奏するようだ)

 9曲目の"You Gave Up on Love"では、再びキンバリーがメイン・ボーカルを務めており、伸びのあるボーカルを聞かせてくれる。"More Than A Feeling"の二番煎じといった感じで、フルート演奏が少しだけいい味を出している。
 最後の曲の"Livin' For You"は、ライヴ音源で、オリジナルは「ウォーク・オン」に収録されている。"Peace of Mind"をかなりスローにした感じで、フラン・コスモがリード・ボーカルを、ブラッド・デルプがハーモニーをつけている。一応、ボーナス・トラック扱いだが、そのクレジットはないようだ。

 とにかく、発表されたときは、酷評されたアルバムだったが、最近では再評価されてきている。トムのギターの音色は相変わらず独特だし、それに加えてキンバリー・ダームとコスモ親子の参加がアルバムに色どりを添えている。ディスコ調の曲には参ったけれど、冒頭の"I Had A Good Time"やアンソニーの手による"Stare Out Your Window"や"Cryin'"、バラード調の"With You"など、バラエティに富んでいて聞いていて飽きない。6q0j1u10
 このバラエティの豊かさが、従来のボストン・ファンに受け入れられるか、受け入れられないかが評価の分かれ目だろう。むしろ、ボストンのアルバムと思って聞かない方が受け入れやすいのではないだろうか。ただ、セール私的にはこのアルバムからトム・ショルツの神通力は失われてしまったようだ。

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2019年4月15日 (月)

クィーンのラスト三部作(3)

 映画「ボヘミアン・ラプソディ」にも登場したフレディの恋人のジム・ハットンによれば、1986年当時の様子について、次のように述べていた。『フレディには特定の恋人はいないと、世間の人やファンには思わせるようにしていた。そういう線で通した方が僕たちふたりにとって何かと楽に運ぶとフレディはずっと考えていた。実際その通りだった。メアリー(注:フレディの女性としての最初の恋人)は、もうずいぶん前からマスコミでフレディの生活に関わる人間として知られているから、彼女なら簡単にマスコミをあしらえるだろうとフレディは思っていた。でも僕のこと(注:ジム・ハットンのこと)は常にマスコミから守ろうとしていた。フレディは初めて自分の中に満ち足りた思いを感じているとインタビューにこたえていたが、それは僕たちのことを言っているのだと彼は僕に言ったんだ』

 同時期のロジャー・テイラーもジムに対して、フレディは以前とはまるで別人になったようだと言っていた。以前はみんながホテルに戻った後もゲイのたまり場をうろついていたのに、そんなことはもうしなくなった。いったいフレディに何をしたんだとわかってて聞いたようだが、ジムにとっては何よりの誉め言葉だったに違いない。
 確かにフレディ・マーキュリーはハード・ゲイのような態度や雰囲気を湛えていたから、その当時も暗黙の了解みたいなものがあったのだろうけれど、ゲイということは公式にも非公式にも明かされてはいなかった(と思う)。また、メアリーという女性の元恋人がいるなんて自分は全く知らなかった。そんなプライベートなことよりも、音楽性の方が大事だったし、バラエティ豊かな音楽性の中からファンクに走ったり、映画音楽を担当したりと、何となく方向性が定まらない80年代以降のバンドの行く先の方が、最大の関心事だった。また、それと同時に不安の原因にもなっていたのである。

 さて、「クィーンのラスト三部作」の最終回は、1995年に発表された「メイド・イン・ヘヴン」である。当然のことながら、フレディ・マーキュリーの死後発表されたアルバムだが、収録された曲の中には、1991年の「イニュエンドゥ」制作時に録音された曲をもとにして作られたものもあり、そういう意味では、フレディ・マーキュリーの遺作ともいうべき内容を伴っていた。
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 大雑把に言うと、フレディ・マーキュリーの死後、約4年間をかけて過去の既発や未発の曲を集めてきて、さらにブラッシュアップしたアルバムといえるだろう。つまり、フレディを除く3人がフレディの意志を引き継ぎ、バンドとしての最後の輝きを放とうとしたような、そんなバンドとしての結束性や力強さを感じさせてくれるアルバムなのだ。だからこのアルバムは、バンドとしての15枚目のスタジオ・アルバムとして公認されている。アルバムのフロント・カバー写真には、スイスのモントルーにあるジュネーヴ湖(別名レマン湖)のほとりに立つフレディの銅像の写真が使われていて、実際にこの場所は、観光地にもなっているという。
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 曲数自体は11曲と、以前のバンドのアルバムとしては多くはなく、むしろ少ない方だ。これはフレディの最後のレコーディングができるだけ数多く収録したものの、断片的なものしか残っていないということが主な原因だった。だから、他のメンバーの作品も収録されているのである。実際にブライアンは、当時を回顧しながら、「イニュエンドゥ」完成後もスタジオで生活しながら、フレディの調子のいい時を待ってレコーディングを行っていて、『バンドのメンバーは、フレディにとって残された時間は本当に少ないと聞かされていたからだ。僕らは目一杯、彼の意向に沿うことにした。彼は歌わせてくれ、書ける曲は何でも書いてくれ、それを歌うからと言っていた』と述べていた。

 プロデューサーだったデヴィッド・リチャーズは、普段のフレディの録音時の様子からこのアルバムを次のように判断していた。『フレディは、いつも最後にボーカルの音入れをやっていた。曲が完成するまで待ってから自分の声を入れていたんだ。ところが、「メイド・イン・ヘヴン」に収められている曲の中には、まだ曲が完成していないにもかかわらず自分の声を吹き込んでいるのもあった。自分の残された時間を考えると、曲が完成するまで待てなかったのだろう。だからこのアルバムは、彼が絶対にリリースしたいと考えていただろうし、彼の最後のアルバムだ、絶対に世の中に発表しないといけないと思ったね』

 2013年には、ブライアン・メイが「メイド・イン・ヘヴン」は、今まで制作してきたクィーンのアルバムの中で最上の作品だとインタビューに答えていた。『何より美しいし、作り上げるまでに長くて険しい道のりを歩んできたからだ。本当の愛の苦悩の結晶なんだ』確かに、どちらかというと、バラエティ豊かで、ある意味、散漫な印象もあったクィーンのアルバムの中では、“フレディの意志”という点では首尾一貫しているし、統一性があるといえよう。
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 1曲目の"It's a Beautiful Day"は、1980年のドイツのミュンヘンでデモテープが制作されていたものを、ジョン・ディーコンが2分32秒までに引き延ばしたもの。当時のクィーンは「ザ・ゲーム」のアルバムを制作中だった。その時にフレディが作った曲が原曲になっている。アルバムの全体の雰囲気をよく掴んでいる曲だと思う。

 2曲目のアルバム・タイトル曲"Made in Heaven"もまた、力強いフレディのボーカルを堪能できる曲で、1985年の彼のソロ・アルバム「ミスター・バッド・ガイ」の中の曲だった。バックの演奏は、このアルバムのためにブライアンとジョンとロジャーで再録している。
 "Let me Live"は、ゴスペル風味あふれるバラード曲で、元は1984年の「ザ・ワークス」制作時に作られたものだった。ロッド・スチュワートとともに録音されたと言われている。それをロッドの部分を削除して、録音し直されている。珍しいところでは、ボーカルがフレディからブライアン・メイ、ロジャー・テイラーと引き継がれて歌われているところだろう。また、歌詞がエマ・フランクリンの"Piece of My Heart"と似ていたため、著作権に引っかからないように改作されていた。

 "Mother Love"は、フレディとブライアンが一緒に作った最後の曲で、1991年の5月13日から16日にかけて録音された。曲の最後のヴァースになって、フレディはちょっと休んでくるといって、スタジオから出ていってからまた戻って書き上げた。しかし、それからはスタジオに戻ってくることはなく、仕方なくブライアンが最後の部分を歌っている。この曲にはまた、1986年のウェンブリー・スタジオのライヴ音源や"One Vision"、"Tie Your Mother Down"のスタジオ・ヴァージョンのイントロ、フレディが1972年に歌っているキャロル・キング&ジェリー・ゴフィンの曲"Goin' Back"もほんの一部ではあるが使用されていた。

 "My Life Has Been Saved"はジョン・ディーコンの作品で、元々はアコースティック・ヴァージョンだった。それを当時のプロデューサーだったデヴィッド・リチャーズがキーボードを加え、バンド全体で演奏して、1989年のシングル"Scandal"のBサイドに収録された。今回アルバムに収録するときに、フレディのボーカルはそのままで、演奏を取り直している。ちなみに、基本のギターやベース、キーボードはジョンが演奏している。

 6曲目の"I was Born to Love You"は、日本でも特に人気の高い曲で、テレビドラマやCMでも使用されていた。音源は「ミスター・バッド・ガイ」のアルバムからで、このアルバムではテンポを少し早くし、ブライアンのギターをフィーチャーしていて、この「メイド・イン・ヘヴン」の中では、ハード・ロックとして聞こえてきそうだった。

 7曲目の"Heaven for Everyone"もまたミディアム・テンポの曲で、いかにもフレディのボーカルを噛み締めて味あわせようとするかのような曲調だった。元々は1987年にロジャー・テイラーの書いた曲で、自身のバンド、ザ・クロスのアルバム用だった。ゲストとしてフレディが歌ったものをボーカル部分だけ取り出して録り直している。

 "Too Much Love Will Kill You"は、「ザ・ミラクル」前後にブライアン・メイとフランク・マスカー、エリザべス・ラマーズという3人が共作したバラード曲で、著作権の関係からか、それまでクィーンのアルバムの中では発表されず、のちにブライアン・メイの1992年のソロ・アルバム「バック・トゥ・ザ・ライト」で発表されている。「フレディ・マーキュリー追悼コンサート」で初めて公にされたもので、ブライアン・メイはピアノを弾きながら歌っていた。

 "You Don't Fool Me"は、何となくファンキーで、お洒落な感じを伴う曲で、クィーンらしくない。曲の枠組みはかつてのプロデューサーだったデヴィッド・リチャーズが手掛けていて、それにフレディがボーカルを入れ、バンドが演奏を加えている。ただ、このアルバムの中では躍動感があり、ハードではないものの、好印象を与えてくれる。この曲もフレディが亡くなる前の録音だと言われている。

 10曲目の"A Winter's Tale"は、フレディが病気の末期にスイスのモントルーに来て、自分のフラットで作曲したもの。彼の最後の自作曲だと言われている。そういう経緯があったからか、ジュネーヴ湖畔に彼の銅像が建てられたのだろう。この曲もまた、フレディ自身が死期を強く意識しながら書かれたものだろうが、哀しみや苦しみなどは全く感じさせず、むしろ彼の力強いボーカルに逆にこちらが励まされるようだ。まさに感動的なバラードで、クィーン・ファンでなくても、感慨はひとしおだろう。
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 11曲目は、冒頭の曲"It's a Beautiful Day"のハード・ロック・ヴァージョンだった。最後に"The Seven Seas of Rhye"のピアノが挿入されていた。アルバムのクレジットはこれで終わっているが、11曲目に続いて12曲目に"Yeah"という曲が収められているそうで、これは単にフレディが、"Yeah"と言っているもの。むしろ、11曲目の曲の最後にフレディが歌ったものと考えても問題はないようにも思えた。

 問題は13曲目で、22分32秒にわたって、アンビエント・ミュージックのようなサウンドが延々と続く。いわゆる隠しトラックだろう。約2か所くらいでちょっとした演奏っぽい雰囲気が伝わって来そうになったが、すぐに元の環境音楽に戻ってしまった。最後に一言が聞こえてきて終わるのだが、たぶんフレディの声だろうけれど、何と言っているのかわからなかった。ネットで検索してみると"FAB!"と言っていると書かれていたが、本当だろうか。でも、"FAB"って、“素晴らしい”という意味だけど、フレディは最後に自分の人生を振り返って、素晴らしい人生だったと思ったのだろうか。そりゃ自分の誕生パーティーに8000万円も一晩でお金をかけるのだから、素晴らしいに違いない。
 前述のジム・ハットンの手記によれば、そのパーティーの様子はすべてビデオ撮影されていたらしいのだが、あまりにもエグイので鑑賞に堪えられず、すべてお蔵入りになったという。関係者がこの世からいなくなれば、そのうちどこからか、ひょっこりと出てくるかもしれない。ただ一般公開は無理だろうけれど。
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 というわけで、遅ればせながら、映画「ボヘミアン・ラプソディ」の影響を受けて、クィーンの最後の三作品について綴ってみた。もちろんフレディ・マーキュリー自身も素晴らしい不出世のボーカリストだと思うが、最後まで輝かしいキャリアを築き上げることができたのも、他の3人のメンバーが彼の最後を看取るという決意で、彼を支えていったからではないだろうかと思っている。
 それはまた、彼がエイズという、当時では不治の病と言われた病気になってしまい、人生自体が限定的になってしまったからだろう。エイズという病に冒されたからこそ、最後の三部作は、輝かしい不滅の光を放つ作品群になったのである。

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2019年4月 8日 (月)

クィーンのラスト三部作(2)

 1980年代から90年代にかけて、先天性免疫不全症候群(通称;エイズ)という病気は、不治の病として恐れられていた。つまり、一旦、エイズウィルスを保持してしまうと、ほぼ間違いなく数か月から数年のうちに亡くなってしまうと信じられていた。
 もちろんそれは間違いではなくて、確かに当時では、発症すれば死を待つしかないのは事実だった。しかし、その対策が進んだ現在では、発症を遅らせたり、発症しても進行をくい止める方法が研究され、実際に感染後でも治療を開始すれば、余命は平均寿命に並ぶと言われている。それだけ臨床検査などで、新薬の開発が進んだせいだろう。

 それで、クィーンのフレディ・マーキュリーがもしそういう新薬を接することができていれば、今もなお現役で活躍していたかもしれない。もし生きていれば、今年で73歳になっていた。ミック・ジャガーが今年76歳だから、ほぼ同世代なのである。

 それで、今回は、クィーンの実質的なラスト・アルバムとなった1991年に発表された「イニュエンドゥ」について記すことにした。Innuendo
 前作のアルバム「ザ・ミラクル」が久しぶりに気合の入ったアルバムで、メンバー全員で制作されていて、セールス的にも好調だった。それで引き続きメンバーは、1989年の3月からロンドンやスイスのモントルーでレコーディングを始めたのである。
 当初は、1990年のクリスマス時期を狙って発表しようと計画されていたが、残念ながらフレディ・マーキュリーの病気の進行が早くて、その時期が遅れてしまったのである。

 当時のフレディ・マーキュリーについて、様々なメディアがエイズではないか、しかも末期症状だとか根拠のない噂話(実際は本当の話だったのだが)を書き立てていた。もちろん、彼自身はそれらを認めることはなく完全否定を続けていたのだが、1990年2月のブリット・アワードの授賞式で4人全員がそろった時のフレディのやつれた姿は、誰がどう見ても間違いなく何かの病気にかかっていると思われた。

 それで、1991年の2月に発表されたアルバム「イニュエンドゥ」は、初期のクィーン・サウンドが甦ったような原点回帰されたアルバムとして好意的に迎えられた。ただ、“イニュエンドゥ”とは、“暗示”や“ほのめかし”という意味だそうで、今となって考えればフレディの病のことについて仄めかしていたのだろう。

 冒頭のアルバム・タイトル曲の"Innuendo"は、ブライアンとロジャーとジョンの3人のジャム・セッションから生まれた曲で、2階で聞いていたフェレディは慌てて降りてきて、この曲にメロディと中間部の歌詞を付け加えたという。
 また、歌詞はロジャー・テイラーが引き継いで書き加え、シンセサイザーによるオーケストラは共同プロデューサーのデヴィッド・リチャーズが、途中のフラメンコ・ギターはイエスのギタリストであるスティーヴ・ハウが担当していた。彼はスタジオに遊びに来た時に、演奏してくれと頼まれたようだ。できればもう少し長く演奏してほしかった。イギリスでは、この曲が1991年の1月にシングルカットされて、見事に初登場1位を記録している。

 続く"I'm Going Slightly Mad"は、フレディの書いたミディアム・テンポの曲で、スイスのモントルーで作られたもの。この曲のプロモーション・ビデオは黒白のフィルムで、フレディもぼさぼさの髪に白い手袋をして出演していたが、かなりの厚化粧だった。メンバーのロジャー・テイラーもこの時のフレディの姿を見て、かなり深刻な病気だなと思ったと後に告白していた。

 "Headlong"はテンポのよいハード・ロック風の曲で、ブライアンのギターが目立っている。もちろんブライアンが書いた曲だが、彼は自分のソロ・アルバム用に録音していたのだが、フレディがこの曲を聞いて、クィーンのアルバムに入れることを強く主張したので収められたもの。ブライアンの書いた曲はギターが目立っているのでわかりやすい。

 続く"I Can't Live With You"もまたブライアンのソロ・アルバム「バック・トゥ・ザ・ライト」用にレコーディングされたものだが、クィーンの他のメンバーが気に入ってしまい、このアルバムに収録された。いかにもクィーンと言われそうなコーラスと後半のギター・ソロが、彼らの全盛期を彷彿させる。

 "Don't Try So Hard"はフレディの作ったバラード曲で、ファルセットで始まり、高い音域までカバーしている。もちろんエコー処理などの音響的なテクニックなどを使用しているのだろうが、初期の彼らのアルバムを聞いているような感じがしてきて、まさに“原点回帰”という言葉がふさわしい曲に仕上げられている、

 勇ましいタイトルをつけられた"Ride the Wild Wind"は、サーフィン用の曲ではなくて、カーレースのことをイメージされて作られたもので、バンドの中で車といえばこの人、ロジャー・テイラーが作った曲。デモ・テープではロジャーが歌っていたが、本番ではフレディが歌い、ロジャーはバック・コーラスに回っている。また、「オペラ座の夜」の中の"I'm in Love with My Car"の続編とも言われていて、いかにもロックン・ローラーであるロジャーらしい作品になっている。Qooonlineshop_pfmyhbevh0_1
 "All God's People"は、フレディが自分のソロ・アルバム「バルセロナ」用に作った"Africa by Night"という曲が原曲で、このアルバムの中で唯一、個人名義のクレジットになっている。つまり、他の曲はすべてクィーン名義なのに、この曲だけは”フレディ・マーキュリーとマイク・モーラン”名義になっていた。本来ならフレディとモンセラート・カバリエが歌うはずだったのだが、結局、選から漏れてしまったようだ。
 自分のアルバム用の曲だったので、ボーカルがかなり多重録音されていて、オペラチックな印象を受ける。それでもクィーン風のロックにアレンジされているところが素晴らしいし、アルバムに統一感をもたらしていると思う。4分21秒のオペラだろう。

 8曲目の"These Are the Days of Our Lives"は、ロジャー・テイラーの作品で、全体的にシンプルで落ち着いた曲調になっている。その中でブライアン・メイのギターが、飛翔するかのように鳴り響いているのが印象的だった。また、この曲のプロモーション・ビデオもまた黒白のフィルムで、フレディ・マーキュリーの生前最後の姿が映されていて、最後に彼の唇が"I still love you"と動いていた(曲の中では歌っている)。ファンに対する最後のメッセージだったのだろう。

 "Delilah"は、フレディが買っていた11匹の猫の中の最も愛した雌猫の名前で、もちろんフレディが書いた曲だった。ブライアンがトーク・ボックスというエフェクターを用いて猫の声のような音を出している。ただ、ロジャーは後にこの曲は好きではないとインタビューで告白していた。

 ハード・ロック好きならこの曲は気に入るだろう。"The Hitman"は、フレディが基本的なリフを書き、ジョンが肉付けをして、ブライアンがキーを代えてレコーディングしたもの。この曲を聞いて、フレディが不治の病に冒されているなどとは思いもしないだろう。それだけインパクトの強い曲でもある。

 "Bijou"はフレディとブライアンの2人だけで作った曲で、アイデアはフレディからもらい、フレディが歌ったあとをブライアンのギターがその音を拾っていくという作業から生まれたもので、ギターが歌詞の部分を、ボーカルがサビの部分を担当していた。
 また、イエスの1974年のアルバム「リレイヤー」の中の通称"Soon"という部分に関連付けられることが多いようだ。ブライアンは後に、ジェフ・ベックの1989年のアルバム「ギター・ショップ」に収録されていた"Where Were You"に影響を受けた曲だと述べていた。最後の曲になった次の"The Show Must Go On"の序章のようにも思える。

 そして"The Show Must Go On"である。曲の基本は、ブライアンとロジャー、ジョンで作られていて、曲のテーマと歌詞はフレディが手掛けている。ただ、最初の節の部分は、ブライアンも手伝っているようだ。曲調はクィーンの1989年の曲"I Want It All"に似ているが、ブライアンはバロック期のドイツ人作曲家であるヨハン・パッヘルベルのカノンにインスピレーションを受けたと語っていた。いずれにしても、このアルバムの白眉であり、フレディ自身が希望と諦観を同居させながらも、自分自身の死に対峙して歌っているところが、涙無くして聞くことはできないだろう。199e675ddf22914cd7de7330e5eebaff
 自分がこのアルバムを聞いたときは、まだフレディは生きていて、曲の中の力強いボーカルを聞いたときは、数か月後に彼が亡くなるとは思ってもみなかった。実際は、アルバム発表後の約半年後には亡くなっていたから、レコーディングやプロモーション・ビデオ制作時にはかなり衰弱していたようだ。そんなことはこれっぽっちも知らなかったから、このアルバムを聞いても、もう少しシングル向けの曲が欲しかったなとか、珍しくゲスト・ミュージシャンがいるなとか、そんな感想しか持てなかった。

 しかも、ここ極東の日本にいては彼の詳細な様子はわからず、1991年の11月23日にフレディがエイズに冒されているという報道があり、翌24日に45歳で亡くなったということを知ったのは、25日だった。自分にとってはあまりにも早すぎる彼の死であった。

 だからこのアルバムは、クィーン版“アビー・ロード”ともいうべきものであり、迫り来る死を自覚したフレディが最後の気力を振り絞って制作したものであり、文字通り彼の遺作なのである。

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2019年4月 1日 (月)

クィーンのラスト三部作(1)

 遅ればせながらクィーンである。昨年末のクィーン再評価現象は、本当に影響力があったようで、ついにはその再評価のきっかけとなった映画「ボヘミアン・ラプソディ」が、アカデミー賞の主演男優賞ほか4部門で受賞までしてしまった。当時を知る者としては、誠に感慨深いものがあった。71gio3nhzfl__sy355_
 ただあくまでも個人的な感想だが、自分は一度見れば十分というか、70年代から80年代にかけてロックの黄金期に、やりたい放題し放題、自分の才能のほとばしるままに彗星のように生きていったフレディ・マーキュリーのストーリーには、心情的にはあまり共感できないでいる。それは自己責任だから仕方ないよなあと、単純に思ってしまったからだ。

 ある人が言っていたけど、あのフレディの生き方が映画になるのなら、ジャニス・ジョプリンやジミ・ヘンドリックス、ジム・モリソンやジョン・レノン、あっ、ジム・モリソンの映画はあったなあ、つまりそんなロック史における夭折した天才ミュージシャンの伝記映画を作ろうと思えば、他にもいくらでも題材はあるだろう。何もフレディ・マーキュリーにだけ焦点化しなくてもいいのではないのかと言っていたが、まあそれも一理あるだろう。ただこの人はクィーン嫌いの人だったので、半分やっかみみたいのもあったのかもしれない。

 確かにほぼ同時期に、エリック・クラプトン自身がナレーターも担当した彼の伝記映画も上映されていたが、こちらはクィーンの映画ほどは話題にはならなかったようだ。320
 自分的にはこちらの映画の方がショッキングで、ドラッグでラりって演奏するシーンや鼻から吸引する姿も映し出されていたから、これはR指定してもいいのではないのかと思ったりもした。さらに、90年代に入ってからもアルコール中毒症だったことを告白していて、結局、60年代の終わりから、ドラッグかアルコールか、あるいは恋愛か、ずっと何かに依存症だったということになる。クラプトンの映画は、そういう驚きが満載の映画だった。

 それはともかく本題に戻すと、クィーンがというか、フレディ・マーキュリーが自身がエイズという病気のキャリアだというのが分かった1985年か86年だったわけで、それ以降にクィーンのメンバー4人で制作したアルバムが1989年の「ザ・ミラクル」だった。タイトルがいかにもフレディの病気のことを想起させてくれるが、これはアルバムの中にある曲名から取られたものだった。71x9rn0y47l__sl1078_
 思えば、1986年の「マジック・ツアー」終了後に、フレディは“最低2年はバンドを離れる”と公言していたし、その言葉通りに2年後の88年頃から、約1年をかけてこのアルバムのレコーディングが開始されて行った。
 ただ、この2年の間に何もしなかったというわけではなくて、フレディはスペインのオペラ歌手モンセラート・カバリエとデュエット・アルバムを発表したし、他のメンバーでは、ドラマーのロジャー・テイラーは自身のバンド、ザ・クロスを結成してアルバムの発表とそれに伴うライヴ活動を行っていた。ブライアン・メイやジョン・ディーコンも他のバンドのプロデュースやアルバムに参加していた。だから、誰もがクィーンは健在だと思っていたのだ。

 それでこの89年のアルバム「ザ・ミラクル」では、曲のクレジットがすべて“クィーン”名義になっていた。それまでは各曲ごとに実際に手掛けたメンバーの名前が記載されていたが、もう一度バンド結成の原点に戻って、全員でアルバムを手掛けることになるのだから、権利関係も公平にしようとしたのだろう。

 この辺の経緯は、映画「ボヘミアン・ラプソディ」にも描かれていたから、見た人は分かると思う。フレディと他の3人の確執を解消するために、3人がフレディに認めさせた形になっていたけど、作曲クレジットによる金銭問題は、制作意欲の減退につながり、やがてはバンド解散という危険を含んでいたのだろう。

 今回のブログ用に久しぶりに引っ張り出して聞いたけど、このアルバムなかなか良い。1曲目の"Party"からノリノリなのである。だいたいクィーンのアルバムは、1曲目が特徴的でユニークなものが多い。"Procession"、"Brighton Rock"、"Death on Two Legs"、"We Will Rock You"、"Mustapha"、"Radio Ga Ga"など個性的で独創的だ。
 ただ、アルバムのジャケット写真が気に入らなかった。特に、裏ジャケットのメンバー4人の目だけの写真が不気味で、同様のアイデアの写真はレインボーのアルバムにもあったけれど、ちょっと個人的には抵抗感があった。だから、何となくリピートして聞くのを、ためらっていたのかもしれない。

 このアルバムでも"Party"から"Khashoggi's Ship"へはメドレー形式で続いていて、このアルバムがロックン・ロール・アルバムであるということを定義付けている。"Party"はフレディとブライアン、ジョン・ディーコンの3人がジャム・セッションをしながら形作っていったもので、曲の冒頭部分だけブライアンが歌っている。

 "Khashoggi's Ship"は、フレディのアイデアに他の3人が曲を膨らませていったもので、まさに4人の共同制作曲だ。曲のモチーフは、サウジアラビアの大富豪で武器商人の所有している世界最大規模のヨットのことを意味していて、ある意味、皮肉を込めた反戦歌なのだろう。

 アルバム・タイトル曲の"The Miracle"もフレディ特有のミディアム・テンポ調から後半はギター・ソロとベース音がフィーチャーされていて、彼らの意欲というかやる気が伝わってくるのである。ただ転調が多い曲で、誰が聞いてもフレディが作った曲というのがすぐわかるというもの。実際は、フレディとジョン・ディーコンの共作曲だった。

 このアルバムは気力十分で作られているせいか、ハードで硬質なイメージを伴っている。言ってみれば、“ギター・オリエンティッド・アルバム”なのである。それがよく表れているのが、"I Want It All"であり、"Breakthru"だろう。
 また"The Invisible Man"は、リズムが独特というか、クィーン流ファンク・ミュージックを表していて、ちょうど82年のアルバム「ホット・スぺイス」の曲を進化させた感じだ。Miracle2compressor
 7曲目の"Rain Must Fall"は、ジョン・ディーコンが曲を書き、フレディが歌詞をつけたもので、ラテン・パーカッションの部分はロジャー・テイラーが書き加えたもの。“クィーン流カリプソ”あるいは“ラテン・ミュージック”ともいうべきか。でも、ギター・ソロが加わったラテン・ミュージックはあまり聞いたことがない。さすがクィーンである。

 "Scandal"は、ブライアン・メイがイギリスのプレスについて書いたもので、当時の彼の離婚というデリケートな問題やフレディのエイズ疑惑について盛んに書き立てていたので、それについて一言述べている。要するに表面的に面白おかしく記事にするんじゃなくて、もっと本質的な部分を見ろよと言いたいのだろう。この曲のシンセ・ベースは、このアルバムの共同プロデューサーだったデヴィッド・リチャーズが演奏している。

 "My Baby Does Me"もフレディとジョン・ディーコンの共作で、これも“クィーン流ブラック・ミュージック”だろう。この時期のこの手の楽曲は、80年代初期よりも洗練されていて、なかなかいい雰囲気を醸し出している。

 そしてアルバム最後の曲、"Was It All Worth It"は、ファンの間でも特に人気の高い曲で、人によってはこのアルバムの中のベスト・ソングだと推す人もいるようだ。デビューして間もない70年代初期のハード・エッジなエネルギーに満ちていて、確かにこのアルバムの方向性を示している。基本はフレディが作っていて、ベース・ラインはジョン・ディーコンが、ギター・パートはブライアン・メイが手を加えている。L_0203902
 とにかく、このアルバムは気合が入っている。曲のクレジットをバンド名にしたのもうなずける話だった。とにかく、当時は表ざたにはなっていなかったけれど、フレディ自身の病への自覚が、このアルバムを統一感のあるものに仕上げたのかもしれない。
 ただ、他のメンバーはフレディの病気については薄々気がついていたのかもしれないが、それについて言及するのは避けていたようだ。

 この「ザ・ミラクル」は、そういうメンバー間の緊張感も伝わってくるような素晴らしいロックン・ロール・アルバムだった。(To be continued...)

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