« 2019年4月 | トップページ | 2019年6月 »

2019年5月

2019年5月27日 (月)

スローハンド

 「スローハンド」といえば、エリック・クラプトンの代名詞でもある。彼のギター・ソロの時に、指運びはゆっくりなように見えて、実際は多くの音を弾き出している様子やフレージングの豊かさなどを表現した言葉だが、当時のニックネームにもなっていた。Eric・"Slowhand"・Clapton というわけだ。
 その言葉をアルバム・タイトルにしたのが1977年に発表された彼の5枚目のスタジオ・ソロ・アルバムだった。世間一般の評判ではかなり人気があって、70年代の彼のソロ・アルバムの中では1974年の「461オーシャン・ブールヴァード」と並び称されるほどだった。

 当時の彼の音楽は”レイド・バック”と呼ばれていて、かつてのクリームのようにギターをメインに置くのではなくて、曲の合間にさりげなく聞かせるくらいで、彼のボーカルと楽曲、演奏、ギター・ソロと、トータルな意味で表現しようとしていた。だから、60年代の彼を知る者としては、少々物足りない気もしていた。 09_spx450

 自分はそんな彼を表面上しか見ていなくて、ヒット曲や”イージーリスニング・アルバム”ばかりつくって、商業主義に毒されたミュージシャンだと思っていた。せっかくドラッグ中毒から復活したのに、もう激しい曲はやらないんだ、ひょっとしたらドラッグの後遺症かとも思っていた。だからもっと激しいハードな曲を求めて、レインボーやマイケル・シェンカーなどに走っていった。若気の至りだったかもしれない。

 だからこのアルバムが発表された当時は、シングル・カットされた"Cocaine"や"Lay Down Sally"ばかりが耳に残ってしまい、アルバム自体についてはまっとうな判断もできなかった。ただ後になって、後といってもこのアルバムを発表したクラプトンとほぼ同じ年齢になった時、つまり32歳頃だろうか、何となくこのアルバムの良さが分かったような気がした。クラプトンのような浮き沈みの激しい人生は送っては来なかったものの、実の母に拒絶されたり、人を信じられなかったり、そういう経験は自分にも覚えがあったし、人生は理不尽なものだということも体感できていたからかもしれない。41b7xnxwqzl__sx466_   アルバムは、JJケイルの曲"Cocaine"から始まる。この曲は、アルゼンチンでは当時の軍事政府によって1984年まで発売禁止処分になった。理由は、若者が誘導されてドラッグに走ってしまうからというものだった。もちろん、クラプトンはこれを否定し、これはアンチ・ドラッグの曲ということをわかってもらうために、ライヴでは"that dirty cocaine"と歌詞を変えて歌っていたという。さすがクラプトン、このことをもっと早くから知っていたら、コカインに耽溺した芸能人も出てこなかったのかもしれない。全米のビルボードのシングル・チャートでは30位だった。

 "Wonderful Tonight"はライヴではもう少しゆっくりと演奏される曲で、この曲のエピソードはエリックの自伝映画でも述べられていたから、多くの人が知っているはずだ。ポール・マッカートニー夫妻が主催したバディ・ホリーを記念するパーティーに出かける間際の10分くらいの間に作った曲で、その10分というのは、当時の恋人だったパティ・ボイドの身支度を待っている間の時間だったのだ。
 だから歌詞にも、何の服を着ていこうか迷っている彼女に対して、”今夜の君はステキだよ”と臆面もなく囁いているのである。当時のパティはジョージ・ハリソンとの離婚が成立していたから、法律的にも道義的にも何の問題はないのだが、まあこうやって歴史の中で、また世界中に永遠に残っていくのだから、歌というのは考えようによっては諸刃の剣みたいなものだろう。ちなみにエリックとパティはこの2年後に正式に結婚し、その10年後に離婚した。もちろんこの曲は今でもステージ歌い継がれている。

 "Lay Down Sally"は全米シングル・チャートで3位まで上昇したヒット曲で、JJケイル風のカントリー・ブルーズを意識して作った曲だった。クラプトンのギターも小刻みに動いているが、当時のバックでギターを弾いていたテリー・リードのギターもクラプトンに負けじ劣らず頑張っている。
 このアルバムの優れているところは、いわゆる”捨て曲”が見当たらない点だろう。4曲目の"Next Time You See Her"もメロディアスかつポップであり、一度聞くとサビのフレーズが頭から離れない。クラプトンの歴史の中ではそんなに重要な曲ではないだろうが、それでもこのアルバムの中では、あるべきところに納まっている感じがする。

 それは次の曲"We're All the Way"にも当てはまることで、呟くようなクラプトンのボーカルが印象的だが、うっかりすると子守歌のように聞こえてきて、目を閉じると思わず眠りに落ちてしまいそうになった。この曲は、アメリカのカントリー・シンガーであるドナルド・レイ・ウィリアムスという人が作った曲で、彼はカントリー・ミュージックの殿堂入りを果たしている。ただ残念ながら2017年の9月、肺癌により78歳で亡くなった。

 レコードではここからサイドBになる。このB面の1曲目が強烈だった。この”The Core”という曲でのクラプトンのギターは、全盛期つまり60年代後半を彷彿させる音を出していて、聞き方によってはサックスのメル・コリンズとバトルを繰り広げているようだった。ただメインはやっぱりボーカルなので、曲自体は8分44秒もあるのに、バトルの時間はそんなに長くはないのが悲しいところだ。クラプトンと女性ボーカルのマーシー・レヴィの掛け合いもまたこの曲を際立たせている。

 "May You Never"はイギリス人のシンガー・ソングライターであるジョン・マーティンという人の持ち歌で、ポップなミディアムテンポの曲だった。大作"The Core"のあとの曲だったから、お口直しみたいな感じがするようなそんな小曲だった。この曲の作曲者だったジョン・マーティンも2009年の1月に肺に関する病気で、60歳で亡くなっている。彼は才能のわりにはイギリス以外では正当な評価を得ることができず、そのせいかドラッグやアルコールで苦しんでいたようだ。

 8曲目の"Mean Old Frisco"は、これもまたこのアルバムを象徴するようなカントリー・ブルーズ調の曲で、発表当時はクラプトンのオリジナル曲と記載されていたが、今はエルビス・プレスリーの曲"That's All Right"も書いたデルタ・ブルーズの巨匠アーサー・クルドップと表記されている。自分はどちらでもよいのだが、こうやって見ると、クラプトンという人は、自分のボーカル・スタイルに合う曲を見つけてきては、実に上手にカバーし、自分のものとしている。こういった音楽センスもまた一流ミュージシャンとしての証なのだろう。

 そして最後の曲"Peaches And Diesel"は、4分49秒のインストゥルメンタル曲だった。何となく"Wonderful Tonight"のインスト版みたいに聞こえてくるのだが、気のせいだろうか。この曲はクラプトンとアルビー・ギャルーテンというアメリカ人作曲家の2人で作った曲だった。このギャルーテン(もしくはガルーテン)という人は、13曲の全米ナンバーワンのヒット曲に携わった人で、主にビージーズやバーブラ・ストライザンドに曲を提供したり、彼らのアルバムをプロデュースしたりしている。91d1c0i64zl__sl1500_

 このアルバムは、それまでジャマイカやアメリカのマイアミでレコーディングされていたのを、久しぶりにイギリスのロンドンに戻り、プロデューサーをトム・ダウドからグリン・ジョーンズに替えて制作されたものだった。だからというわけではないだろうが、サックス・プレイヤーにあのメル・コリンズを招いたのだろうし、同じイギリス人としても呼びやすかったのだろう。
 従来のファンからすれば、イギリスに戻ったのでそれまでのアメリカナイズされた音楽から原点回帰されて、ブルーズ・ロック中心になるのではないかと思われていたが、実際は上記のようなカントリー・ブルーズやアメリカ南部のブルーズに影響された楽曲が中心になった。

 彼の伝記映画である「エリック・クラプトン~12小節の人生~」によると、当時のクラプトンはドラッグ中毒で、コカインからヘロインへとよりヘヴィなドラッグに移っていった。ヘロインはかなりお金がかかるようで、クラプトンでさえも経済的な余裕がなければやらなかったと告白していたし、静脈注射だと一度で多量に摂取してしまうので、鼻から吸引するようにしていたという。実際に、ヘリコプターで病院に運ばれたこともあったようで、現在、こうやって生きていられるのは彼自身奇跡のようなものだとインタビューに答えている。確かに、クラプトンのことを知っている人なら、だれしもそう思うに違いない。

 さらに、ドラッグだけでなくアルコール中毒にもなっていて、恋人のパティ・ボイドにも"Wonderful Tonight"のように優しく接するときもあったし、それとは全く逆に、我を失って空の酒瓶を投げつけたこともあった。もちろん酩酊していて自分が何をしているのかわからなかったのだろう。だから当時のパティに対して”奴隷兼パートナー”と後になって説明していた。クラプトンにとってもパティにとっても天国と地獄を往来していたに違いない。

 それにしても、そんな状態の中でこれだけレベルの高い、しかも商業的にも成功したアルバムを発表していたのだから、エリック・クラプトンとは、常識の範囲内では捉えきれない、あるいは常識で判断してはいけない、規格外のミュージシャンだと思う。もし彼がドラッグやアルコールに手を出していなかったなら、どうなっていただろうか。もっと素晴らしい音楽を創造できたかというと、それはよくわからない。あるいは全くの逆で、ドラッグやアルコールに手を出していたからこそ、これだけの音楽を創出できたのかもしれない。0eric_clapton105
 そして彼がなぜそういう危険なものに手を出していったかというと、それはやはり彼自身の弱さであり、ある意味、幼少期の親子関係からくる運命的なものかもしれない。自分は、彼自身が依存体質だと思っているし、実際、ドラッグとアルコールだけでなく女性(恋愛)にも依存していた。

 そして、クラプトンの偉大さは、そんな自分自身を対象化し、ブルーズという音楽とギター演奏という技術を通して、自分の想いや感情を万人に伝わるように表現していったところだと思っている。彼が死を意識し、それと隣り合わせでも今まで生きて来れたのも彼の類まれなる能力のおかげだろう。また、自分自身をブルーズという音楽の体現者として意識しているからに違いない。

 結局、彼は最終的には”ブルーズ”という音楽に依存していたからこそ、生き延びることができて、現在では満ち足りた生活を送ることができているのだと思っている。今年の4月には22回目の来日公演を行ったクラプトンだが、恐らく自分の人生がブルーズだと認識している限りは、これからも世界のどこかでライヴを行っていくだろう。

| コメント (2)

2019年5月20日 (月)

ウィズ・ザ・ビートルズ

 久しぶりに、ザ・ビートルズのセカンド・アルバム「ウィズ・ザ・ビートルズ」を聞いた。自分のザ・ビートルズ体験を言うと、初期の曲はシングルを通してしか知らなくて、主に中期のアルバムを通して知るようになった。最初に印象を受けたのは1965年に発表された「ラバー・ソウル」だったし、最初に買ったアルバムは同じく65年の「ヘルプ」だった。もちろん"Yesterday"が収められている英国盤の方である。ただ、自分はザ・ビートルズと同世代に生きていたわけではなく、70年代になって遅れて知ったから、アルバムを聞いたときにはすでにバンドは解散していた。Withthebeatles2_700

 だからすでに解散していたこともあって、中期から後期へと聞き進んでいって、最後の「レット・イット・ビー」から初期のアルバムへとさかのぼっていった。そして「ウィズ・ザ・ビートルズ」を聞いてぶっ飛んでしまった。まさに革新的ともいえる珠玉の名曲群が並んでいたからだった。
 その前に、アルバム・ジャケットの写真を見て、子ども心でもカッコいいと思っていた。単なるモノクロームの写真なのだが、まるで夜空に浮かぶ半月のように、正面の顔の半分だけが照らされているし、背景も漆黒に塗り固められていた。のちに「ハーフ・シャドウ」と呼ばれるようになった写真だが、1963年のイギリスツアー中に、ホテルの食堂で撮影されたものだった。このアルバム・ジャケットを見ただけでも購買意欲がそそられるようだった。811yclohkal__sl1500_ 

 そして中身の曲も鮮烈で、斬新で印象的だった。特に冒頭の曲"It Won't Be Long"でのイントロなしの歌い出しや、ジョンとポールやジョージとの掛け合い(Yeah)などは、それまでそういった曲を聞いたことがなかったのでとても新鮮に思えた。さすがザ・ビートルズである。こういう発想はどこから出てきたのだろうか。アルバム冒頭に相応しいノリのよい曲でもある。

 続く"All I've Got to Do"もジョンの曲だが、一転してミディアム調のメロディアスな曲だ。あらためてジョンの作曲能力の高さを感じさせられた。ポールとともに2人の天才的なミュージシャンがいたのだから、売れないわけがない。当時の2人はいい意味で競い合って曲作りをしていたのだろう。

 そのポールが作った曲が"All My Loving"だった。並のミュージシャンなら、生涯を通してこういう曲1曲だけで充分評価されるだろうが、ポールはこのレベルの曲を何百曲と作ってきたのだから、まさに天才的なメロディーメイカーである。一度聞いただけで覚えてしまいそうなメロディーやジョージ・ハリソンのチェット・アトキンスをまねたリード部分は初期の彼らを代表するオリジナル曲だと思っている。

 4曲目の"Don't Bother Me"はジョージ・ハリソンの曲で、ツアー中のホテルの中で体調を崩した時に書いたものらしい。この曲も意外とメロディアスで、最初はジョージが作った曲とは知らなくて聞いていた。バンドの中では一番若かったジョージ・ハリソンだったが、ジョンとポールの影響を受けて曲作りを進めていった。ただ、アルバムには取り上げられる回数は少なかった。ジョンやポールとほぼ同じ水準の曲を作れと言われても、そう簡単にはいかなかっただろう。しかし、活動の後期には"Something"、"Here Comes The Sun"などのスタンダード曲と化した超名曲を発表している。

 "Little Child"は誰かのカバー曲だとずっと思っていて、”レノン=マッカートニー”の作品とは思っていなかった。実際は、ジョンの曲だそうで、ハーモニカもジョン自身が演奏している。ちなみにピアノはポールが弾いているらしい。
 "Till There Was You"はカバー曲で、1957年のミュージカル「ミュージック・マン」の中の挿入曲だった。ただし、ザ・ビートルズは、1960年のアニタ・ブライアントという人が歌ったバージョンを参考にしていて、レコーディングを勧めたのはポールだった。ここではジョージ・ハリソンがクラシック・ギターを、ジョンがアコースティック・ギターを演奏していた。

 A面最後の曲だった"Please Mister Postman"は、カーペンターズも歌った有名曲で、元はモータウンのR&B曲だった。モータウンの女性コーラス・グループのマーヴェレッツが歌って、1961年12月11日に全米シングル・チャートでNo.1になっている。

 1956年のチャック・ベリーの古典ともいうべき楽曲が、"Roll Over Beethoven"で、ここではジョージがリード・ボーカルをとっていた。こういう曲を聞くと、初期のザ・ビートルズはロックン・ロール・バンドだったということが分かる。おそらくデビュー前のハンブルグ修業時代から歌っていたのだろう。

 このアルバムには、メンバー間の”掛け合い”の曲が多く収められていて、この"Hold Me Tight"でも同様に聞くことができる。ポールの作った曲で、ホントはデビュー・アルバムに収められる予定だったが、出来具合が良くなくてセカンド・アルバムに収録されたもの。このアルバムの中の曲はどれも素晴らしくて捨て曲などないのだが、強いてあげれば、この曲くらいがやや薄い印象かもしれない。

 続く"You Really Got A Hold On Me"は、このアルバムの中で唯一3分に届いた曲で、オリジナルは、モータウン・レコードのスモーキー・ロビンソンとザ・ミラクルズが1962年に歌っていた。全米シングル・チャートでは、8位まで上昇している。ここではジョンが歌い、ジョージがハーモニーをつけ、途中からポールも参加して歌っていた。ピアノはプロデューサーだったジョージ・マーティンが担当している。

 "I Wanna Be Your Man"は、元々ザ・ビートルズが作った曲を当時のライバル・バンドとみなされていたザ・ローリング・ストーンズの2枚目用のシングルとして1963年に贈ったもので、楽屋でジョンとポールが書き上げた曲だった。このアルバムではリンゴ・スターがリード・ボーカルをとっている。リンゴは本当は"Little Child"を歌う予定だったらしいのだが、なぜかこの曲を歌うようになった。音域が合わなかったのだろうか。

 "Devil in Her Heart"もまたアメリカのアフリカ系アメリカ人女性グループ、ザ・ドネイズが、1962年に発表した曲。この曲はヒットせずに、ザ・ドネイズ自体もこのシングルだけを残して解散してしまった。ザ・ビートルズが取り上げたおかげで有名になった曲で、レコーディングを提案したのはジョージ・ハリソンだった。そのせいか、彼自身がリード・ボーカルをとっている。この曲もまた”掛け合い”が見事である。

 13曲目の"Not A Second Time"は、レノン=マッカートニーの作品で、実質的にはジョンが作った曲だった。もちろんボーカルもジョン自身である。当時のザ・ビートルズは、というか、ジョン・レノンとポール・マッカートニーは徐々にそれぞれ個人による楽曲制作が進んでいて、それぞれが作った曲をお互いにアドバイスを受けながらレコーディングを進めていったと言われている。そういう意味では、まだまだ共同作業といえるかもしれない。

 そして最後の曲、"Money"はバレット・ストロングというシンガーが1959年に歌ったもので、翌年にはモータウン・レコードから再発されて、全米シングル・チャートの23位を記録した。ジョンが歌い、ポールとジョージが”掛け合い”のコーラスを付けている。歌詞を見ると、とにかくお金が欲しいという切実な内容になっていて、夢も希望もないような現実的な歌詞だった。日本のロック・シンガーだった忌野清志郎もザ・タイマーズとしてレコーディングしていた。もちろん日本語で歌っている。 51zkg6zmj0l

 とにかく、このアルバムを聞いて思ったことは、この時期のザ・ビートルズはロックン・ロール・バンドだったということであり、さらにまた彼らが作ったオリジナル曲は優れていて、カバー曲は元のオリジナル曲よりもハードでロックン・ロールしているということだった。
 同時に、ロックン・ロールやリズム・アンド・ブルーズの影響が強くて、ヒットした曲からあまり知られていない曲まで、幅広いレパートリーを誇っているということだった。特に女性コーラス・グループの曲には詳しくて、その影響からか"掛け合い"を含む曲が目立っている。

 とにかく、21世紀の今でも影響力を残しているモンスター・バンドのザ・ビートルズである。聞くたびに新しい発見があり、それぞれの曲は、人によってそれぞれの想いを抱かせるパワーを秘めているようだ。

| コメント (0)

2019年5月13日 (月)

初期のエルトン・ジョン(3)

 前回で、初期のエルトン・ジョンのアルバムについては終わるつもりだったのだが、4枚のアルバムだけで”初期”としてひとくくりにするのはいかがなものかと考え直して、結局、もう1回分追加することにした。相変わらず意志が弱いというか、優柔不断な性分である。
 それで今回は、1972年に発表された「ホンキー・シャトー」と翌年のアルバム「ピアニストを撃つな」について簡単に記そうと思った。順番から言えばその2枚しかないから、ごくごく当たり前だろう。こんな当たり前のことをあえて書くところがこのブログのいい加減なところでもある。

 それで「ホンキー・シャトー」については、変な思い出があって、某大手タワー・レコード店でこのCDを電話で注文したときになかなか通じなくて弱ったことがあった。自分は”エルトン・ジョンの「ホンキー・シャトー」をお願いします”と言ったのだが、その女性店員は”「本気、佐藤」ですか”と何度もしつこく確認するのであった。外国人ミュージシャンが日本語のタイトルのアルバムを発表することは、確かに邦人スタッフが日本語のタイトルはつけることはあるだろうが、でも「本気、佐藤」じゃちょっとどうなのかなと思ってしまった。いくら日本では”佐藤”姓が多いとはいえ、特定の苗字の人に向けて作ったアルバムというのは、あまり考えられないと思う。おそらくその店員さんも、困惑しながら聞いてきたのだろう。

 そんな話は置いといて、「ホンキー・シャトー」である。前回でも記したけれど、アメリカでのエルトン・ジョンの人気は高くて、レコード・セールスも好調だった。一方、イギリスではどうかというとこれがなかなか微妙で、セカンド・アルバム「エルトン・ジョン」やサード・アルバム「エルトン・ジョン3」、シングルなどはヒットしたものの、4枚目のアルバム「マッドマン」は大ヒットとは言えずに、期待外れといっていいほどの結果だった。アメリカでは「マッドマン」のアルバムでさえもベスト10以内に入っていたから、アメリカでは人気も定着していたのだろう。

 ところがこの「ホンキー・シャトー」は、英米両国で売れた。英国では前作と打って変わって、アルバム・チャートの2位、米国では堂々の首位を獲得している。ここから彼の栄光の歴史が綴られて行くのだが、そのきっかけとなったアルバムだった。それまでのシンガー・ソングライター風のアルバム作りが、ロックン・ロールのスタイルのような、あるいは典型的なポップ・スターのような売れるアルバムに変化したのである。 A1i30qugyil__sl1500_
 その原因の一つは、それまでの大仰なストリングスやオーケストレーションが加味されなかったせいもあるかもしれない。ある意味シンプルになったというか、曲のメロディーやリズムで勝負しようと考えたのか、その辺は何とも言えないのだが、でもそういう変化が受け入れられたのは間違いのないことだろう。実際、このアルバムのクレジットには、それまでストリングスのアレンジを担当していたポール・バックマスターの名前はなかった。

 だから聞きやすくなったのかもしれないし、エルトン・ジョンの持ち味であるピアノ演奏を基軸にした曲自体が際立ってきたのかもしれない。そういう意味では、"Rocket Man"がヒットしたのも納得できるというもので、当時の宇宙への憧憬と日常生活との対比という内容もさることながら、メロディー自体の良さも受け入れられたのだろう。
 また、このアルバムからバック・バンドのメンバーが固定化されてきたということも、アルバム制作上、有利に働いたに違いない。エルトン・ジョン以外は、ギターにディヴィー・ジョンストン、ベースにはディー・マーレイ、ドラムスにナイジェル・オルソン、パーカッションにレイ・クーパーで、今となって思えば、黄金期を支えたメンバーだった。特に、ギタリストだったディヴィー・ジョンストンの活躍は目覚ましく、アコースティックからエレクトリック・ギターを始め、バンジョーにマンドリン、スティール・ギターと弦楽器だったら何でも演奏できるのではないかと思わせるほどの働きぶりだった。

 そういう強者が集まって、フランスのパリにある古城で作ったアルバムが悪いはずがない。集中してレコーディングができたのだろう。結果的に、チャート的にもセールス的にも成功を収めることができたのである。61q6dgjvqdl  
 それとこのアルバムを特徴づけている点は、ニューオーリンズ・ジャズの影響だろう。アルバム冒頭の"Honky Cat"や3曲目の"I think I'm Going to Kill Myself"、次の"Susie(Dramas)"には顕著に表れているし、後半の"Amy"にもその影響がみられる。

 また、ジャズではないけれど、7曲目の"Slave"にはバンジョーやスティール・ギターも使われてカントリータッチだし、ドゥー・ワップのスタイルを取り入れた最後の曲の"Hercules"の軽快さや、9曲目の"Mona Lisas And Mad Hatters"はニューヨークという街の情景を切り取っていて、こういう点でもアメリカ人のハートをギュッと掴んだのだろう。さらには、ヒットしたシングル曲以外にも、"Mellow"や"Salvation"のようなバラード曲も収められていたから、捨て曲なしのこれこそまさに売れるアルバムというものだった。
 ちなみに、"Mona Lisas And Mad Hatters"はバーニー・トーピン自身の経験から書かれた曲で、彼が最初にアメリカのニューヨークを訪れた時のホテルで拳銃の発砲音を聞いたことが切っ掛けになって書かれたものだった。曲の冒頭部分は、ベン・E・キングの"Spanish Harlem"を意識して書かれたと言われている。

 そして、このアルバムの大ヒットをきっかけに、再びフランスのパリ郊外の古城”シャトー・ディエローヴィル”でレコーディングされたのが、1973年の6枚目のスタジオ・アルバムで通算8枚目の「ピアニストを撃つな」だった。この古城はアメリカのバンド、グレイトフル・デッドも使用したことがあるという。
 とにかくこのアルバムは売れた。全英アルバム・チャートで初めて首位になったし、それは6週間も続いたのである。また、全米では、ビルボードのアルバム・チャートで約1年半トップ200内に留まっている。そして全英、全米ともにNo.1になった初めてのアルバムだった。 A1slsrf1bl__sl1500_

 この成功には、シングル・カットされた"Crocodile Rock"と"Daniel"の影響もあるだろう。特に前者は初めて全米のシングル・チャートで首位を獲得していて、エルトン・ジョンにとっては記念碑的なシングルになったのである。
 彼自身はこの曲について、50年代後半から60年代前半でのロックン・ロール黄金時代に対するノスタルジーが溢れているが、ネタ元は1962年のパット・ブーンのヒット曲"Speedy Gonzales"だと述べていた。後にロサンゼルスで裁判沙汰になったようだが、盗作とは認められずに、協議の結果、無事に解決している。

 "Daniel"の方は、これはゲイの主人公の曲かと騒がれたが、実際はベトナム戦争に従軍した兄弟についての曲で、アルバムやシングルでは2番までしか歌われていないが、本当は3番まであると言われていて、その3番でベトナム戦争のことが歌われているという。全米シングル・チャートでは2位、全英シングル・チャートでは4位まで上昇した。

 パクリで思い出したが、6曲目の"Have Mercy on the Criminal"のイントロは、誰が聞いてもエリック・クラプトンの"Layla"のパクリだろう。この時はすでに"Layla"は発表されていたから、きっとエルトン・ジョンも耳にしていたに違いない。当時は著作権について、そういう穏やかというか、緩やかな雰囲気だったのだろう。でも、ロックン・ロールという音楽自体、ヨーロッパ系移民のカントリー・ミュージックとアフリカ系のゴスペル・ミュージックのパクリなのだから、元々そういう流れが底流に息づいているのだろう。

 また、7曲目の"I'm Going to Be Teenage Idol"は、マーク・ボランのいたT・レックスのことを念頭に置いて作った曲のようだが、曲の雰囲気には一切無関係のようだ。ああいう音楽を”グラム・ロック”と呼んでいるが、メタリックな雰囲気は感じられずにピアノとブラスが強調されたミディアム調の曲だった。むしろのちに歌われた"Benny And The Jets"の方がグラムっぽいし、この曲ももう少しテンポを落として歌うなら"Benny And The Jets"に近くなるだろう。

 ところでこのアルバムには、アレンジャーのポール・バックマスターが復帰していてアレンジを担当していた。4曲目の"Blues for My Baby And Me"と6曲目の"Have Mercy on the Criminal"のストリングスのアレンジは、彼の手によるものである。"Blues for My Baby And Me"のストリングス・アレンジメントは特に素晴らしくて、徐々に盛り上げていく力はさすがエルトン・ジョンの初期を支えた彼の手腕が見事に発揮されていた。
 ところで、2曲目の"Teacher I Need You"は、男子のティーンエージャー特有の?女性教師に対する憧れというか、欲望みたいなものを歌っていて、60年代前期の、まだ明るい未来を描くことのできたロックン・ロール曲だった。次の"Elderberry Wine"はシングルとして発表された"Crocodile Rock"のBサイドだった曲で、Aサイドの曲よりはややゆっくり目ではあるが、これもロックン・ロール黄金時代の雰囲気が封じ込められた曲だった。 51kgcj3vkl

 前にも記したけれど、エルトン・ジョンの音楽にはアメリカからの影響が強くて、確かにアメリカのシンガー・ソングライター・ブームにうまく乗れたという点もあっただろうけれど、昔のロックン・ロールの雰囲気やアメリカ南部のゴスペルやジャズ、R&Bの影響がここかしこに垣間見れるのである。この「ピアニストを撃つな」でも上に書いたこと以外にも5曲目の"Midnight Creeper"のブラスや8曲目の"Texan Love Song"におけるアーシーな感覚などは、その最たる例に違いない。だから最初からアメリカでは受け入れられたのだろうし、このアルバムからの2曲のヒット・シングルのおかげで、全英、全米を含む全世界で受け入れられていった。

 前作「ホンキー・シャトー」の成功が起爆剤になり、このアルバムでさらに彼の音楽の評価が高まり、70年代のエルトン・ジョンの黄金時代が築かれたのである。のちに彼が大英帝国の爵位を賜るようになったのも、この時代の成功のおかげであろう。時代の流れのみならず、曲の良さや彼を支えたミュージシャンやスタッフのおかげで、結果的には成功を得たのであるが、のちにバーニー・トーピンとの関係を解消したり、バック・バンドのメンバー交代などもあって、彼の人気は徐々にというか、急速に失速していった。後にバーニーと再びコンビを組むも、もとの黄金期までの人気まで高めることはできなかったようだ。やはり一度失われてしまうと、元に戻るのは何でも難しいのであろう。エルトン・ジョンの人生を見ていると、いろんなことを教えてくれるような気がしてならない。

| コメント (0)

2019年5月 6日 (月)

初期のエルトン・ジョン(2)

 エルトン・ジョンのように活動歴が長いミュージシャンなどでは、”初期”といわれてもどこまでが初期なのかが、よくわからなくなってくる。活動が長くなればなるほど、”初期”の期間が延びてくるからだ。だからアルバム・デビューして50年も経つエルトン・ジョンにすれば、”初期”といえば、やはり1969年のデビュー・アルバムから1979年の「恋に捧げて~ヴィクティム・オブ・ラヴ」あたりまでだろう。
 でも70年代のエルトン・ジョンといえば、まさに飛ぶ鳥を落とすほどの全盛期だったから、その当時のアルバムについてはどれも必聴盤だった。もちろん今になって聴き込んでみれば、優劣とまではいかないまでも、必聴盤と推薦盤くらいの違いは出てくるのだが、とにかく70年代のアルバム群は、特に1972年の「ホンキー・シャトー」以降パンク・ロック登場までは、どれもこれも水準が高く、セールス的にも成功を収めることができたのである。

 そんな中で初期のアルバムを紹介するといっても、膨大な時間と作業が必要になってくるので、69年のデビュー・アルバム「エンプティ・スカイ」から1971年の「マッドマン」までに絞り込むことにした。そして今回は2回目に当たり、その後半部分の2枚のアルバムについて記そうと思った。
 基本的に当時のエルトン・ジョンはシンガー・ソングライターであって、のちの派手なイメージやステージ演出とは一線を画すようなたたずまいだった。また、今回改めて思ったのは、彼がいかにアメリカ南部の音楽、ソウルやゴスペル、R&Bに強い影響を受けていたかであった。この両方の特徴がよく表れていたアルバムが、1970年に発表されたアルバム「エルトン・ジョン3」だった。51slqebp2l  まずアルバム・ジャケットから見てもアメリカという国や文化に影響を受けているということが分かると思う、まるで”西部劇”のようなアートワークだからである。しかも添付されたブックレットに載せられた写真や歌詞、イラストなどはまさに19世紀のアメリカ西部のようだし、セピア色の色どりは古き良き時代を回顧させるような効果をもたらしていた。(ただ実際は、アルバムのジャケット写真はイギリスのロンドンから約40キロ離れたサセックス州のある駅のものだった)

 エルトン・ジョンはこのアルバムについて、「歌詞にしてもメロディにしても、僕たちの作品の中で最も完璧に近いものの1枚だろう、歌詞とメロディが合わない曲はひとつもない」と述べていた。言葉の端はしに強い自信が表れている。また、相棒のバーニー・トーピンは、「みんなが僕が初めてアメリカを見て、興奮してこのようなアルバムを作ったと思うだろうが、実際はアメリカに来る前にレコーディングをしていたんだ。それより自分が強く影響を受けたのはザ・バンドのアルバム”Music from Big Pink”というアルバムと、ロビー・ロバートソンの曲の方なんだ」

 曲名にしても"Ballad of A Well-Known Gun(名高き盗賊の伝説)"や"My Father's Gun(父の銃)"など、いかにもアメリカ西部開拓時代を彷彿させるようなものだったし、そういう意味では、このアルバムもまたトータル・アルバムだったのだろう。
 そして、このアルバムもまたセールス的に売れたのだが、ここからシングル・カットされた曲は1曲もなかった。それでも売れたのだから、いかにこのアルバムが優れていたかが分かるだろう。

 冒頭の"Ballad of A Well-Known Gun"はミディアム調の力強く語りかけるような曲で、バッキングのボーカルがソウルフルだ。この曲はジェイムス・テイラーの妹のケイト・テイラーもカバーしていた。次の"Come Down in Time"はアコースティック・ギターとオーボエやストリングスがフィーチャーされたスロー・バラード曲だった。この曲もまた、アル・クーパーやスティングによってカバーされた。ポール・バックマスターのストリングス・アレンジが素晴らしい。

 3曲目の"Country Comfort"は、ロッド・スチュワートのバージョンの方が有名かもしれない。彼は1970年の自身のソロ・アルバム「ガソリン・アレイ」でこの曲を取り上げている。次の"Son of Your Father"はアップテンポのブギウギ調のナンバーで、ハーモニカやホーン・セクションも強調されていて楽しい雰囲気だが、歌詞を見ると2人の男が議論の果てに喧嘩になって殺し合いを始め、2人とも亡くなるという悲劇的な内容だった。そのせいかどうかはわからないが、エルトン・ジョンは、ライヴではこの曲を一度も歌ったことはない。

 5曲目の"My Father's Gun"も内容的にはアメリカ南北戦争で亡くなった父親の遺品の拳銃のことを意味していて、ボブ・ディランもこの曲を気に入っていたといわれていた。オーランド・ブルームやクリスティン・ダンストが出演した2005年のアメリカの映画「エリザベスタウン」のサウンドトラックにも使用されていた。6分以上にも及ぶ壮大なバラード曲だ。

 サイドBの1曲目"Where to Now St.Peter?"もまた戦場で亡くなろうとしている兵士の最後の想いに言及したもので、自分の魂は天国に行くのか地獄に行くのか、聖ペテロに問うというものだった。ミディアム調な曲ながらも歌詞的には深いものが秘められている。また、セルジオ・メンデスとブラジル77が1976年のアルバム「ホームクッキング」で、ハートのアン・ウィルソンがエルトン・ジョン自身と2007年の彼女のソロ・アルバム「ホープ&グリーリー」でデュエットしている。

 アコースティック・ギターをバックに歌われる2曲目の"Love Song"は、穏やかなバラード・タイプの曲で、イギリス人のシンガー・ソングライターであるレスリー・ダンカンがギターとバッキング・ボーカルを担当していた。次の"Amoreena"もまた1975年の映画「ドッグ・ディ・アフタヌーン」で挿入歌として使用されていた。この曲のレコーディングで、初めてナイジェル・オルソンとディー・マーレイのリズム・セクションとセッションを行ったという記録が残されている。ちなみに"Amoreena"とはエルトン・ジョンが名付け親になった娘のことである。彼の実の娘というわけではないようだ。

 ピアノの弾き語りで歌っているのが"Talking Old Soldiers"で、まるでソウル・ミュージックのように厳かで魂を揺さぶられるような曲である。実際に、アフリカ系アメリカ人のベッティ・ラヴェッテが2007年の彼女のソロ・アルバム「ザ・シーン・オブ・ザ・クライム」で取り上げている。バーで戦争を経験した老人が若者に自身の体験を語りかけるというもので、当時のエルトン・ジョンがどういう気持ちでこの曲を歌っていたんだろうかと気になってしまう。よほど老成した青年だったのだろうか。当時の彼はまだ23歳だった。

 そして最後の曲が"Burn Down the Mission"だった。内容的には、貧しい青年が自分の存在意義と貧困や社会的格差などに悩み、傷つき、ついには教会を焼き払おうと行動に移すというものである。音楽的にもゆっくりとしたピアノの弾き語りから、中盤では素早く鍵盤が叩かれジャージーな雰囲気に一転し、さらに最後は魂が昇天するかのように、コンガやストリングスも加わり、高みまで上がっていくのである。この曲もフィル・コリンズが歌ったり、TOTOが2002年のアルバム「スルー・ザ・ルッキング・グラス」でカバーしていた。

 これまで見てきたように、シングルでヒットした曲はないものの、多くのミュージシャンやバンドがこのアルバムからの曲を取り上げている。それだけ影響力が強かったのだろう。チャート的にも英国のアルバム・チャートで2位、米国のビルボード・アルバム・チャートでは5位まで上昇している。エルトン・ジョンの隠れた名盤といっていいだろうし、彼ら、つまりエルトン・ジョンとバーニー・トーピンにとっては、初めてのトータル・アルバムだったに違いない。そしてさらに自信をつけたエルトンが翌年に発表したのが、「マッドマン」だった。 71lxf5spe6l__sl1101_  
 とは言っても、この「マッドマン」というアルバムの評価は、母国イギリスにおいては低かった。ビッグ・ヒットにつながるようなシングル曲が含まれていなかったというのがその原因の一つだったに違いない。しかもこの年のエルトン・ジョンは、このアルバムを含めて3枚のアルバムを発表していた。4月には初めてのライヴ・アルバム「17-11-70」を世に出し、5月には、映画「フレンズ」のサウンドトラックを発表している。そして11月になって、5枚目のスタジオ・アルバムになる「マッドマン」がリリースされたのだが、ひょっとしたらまたエルトン・ジョンのアルバムか、"Your Song"のような曲はどこにあるんだいと世の中の人は思ったかもしれない。

 確かに、名曲といえるような曲は含まれていなかったかもしれないが、よく練られていて構成が巧みな曲や深い余韻を残すような曲もあって、個人的には決して悪くないと思っているし、むしろもっと高く評価されてもいいのではないかとも思っている。
 シングル向きの曲がないといっても、アメリカではアルバム冒頭の"Tiny Dancer"と2曲目の"Levon"がシングカットされていて、前者は41位、後者は24位まで上昇している。そのせいか、米国のビルボードのアルバム・チャートでは8位を記録した(英国では41位止まりだった)。

 "Tiny Dancer"は、6分12秒もあって、そのせいかラジオではオンエアされにくかったようだ。だからビッグヒットにはつながらなかったと言われている。それでも、ハーブ・アルバートの奥さんのラニ・ホールの1972年のソロ・アルバム「サンダウン・サリー」でカバーされているし、デイヴ・グロールもTV番組で歌っている。また、2002年にはベン・フォールズもライヴ・アルバムの中で披露していた。確かに時間は長いが、多くの人に愛される佳曲だろう。また、この曲は作詞家のバーニー・トーピンの当時の妻のことであり、彼女は実際にダンサーだったようだ。彼女とバーニー・トーピンの結婚生活は約4年続いたが、その影響は彼の書く歌詞にも反映されていて、たとえば"The Bitch is Back"も彼女のことを書いたものと言われている。

 "Levon"は、長い間ザ・バンドのレヴォン・ヘルムのことだと言われていたが、2013年になって、バーニー・トーピン自身がその話を否定している。また、この曲も多くのミュージシャンからカバーされていて、中でもジョン・ボン・ジョヴィは、この曲を書いたのが自分だったら良かったのにとまで言っていたようだ。他にも、アメリカ人ミュージシャンのマイルス・ケネディやカナディアン・ロッカーのビリー・キッパートなどがレコーディングしていた。

 アルバム・タイトル曲である"Madman Across the Water"は、当時のアメリカ大統領だったリチャード・ニクソンのことを歌っているのではないかと言われていたが、もちろんこれは都市伝説だった。当時はウォーターゲート事件で騒がれていたので、この曲と結び付けられたのだろう。この曲は、エルトン・ジョンのトリビュート・アルバム「トゥー・ルームズ」の中で、ブルース・ホーンズビーがカバーしていた。

 このアルバムには多くのゲスト・ミュージシャンが参加していた。3曲目の"Razor Face"と4曲目の"Madman Across the Water"、7曲目の"Rotten Peaches"のハモンド・オルガンは、当時ストローヴスを脱退して間もなかったリック・ウェイクマンが演奏していたし、同じ4曲目のエレクトリック・ギターと7曲目のスライド・ギターは、あのクリス・スぺディングが担当していた。ちなみに4曲目の"Madman Across the Water"のオリジナル・バージョンのエレクトリック・ギターは、デヴィッド・ボウイのバック・バンド、ザ・スパイダーズ・フロム・マーズのギタリストだったミック・ロンソンが弾いている。そのバージョンは、リイシューされたCD「エルトン・ジョン3」で聞くことができる。

 また、のちにエルトン・ジョン・バンドで活躍するようになったギタリストのデイヴィー・ジョンストンが、このアルバムから参加していて、アコースティック・ギターのみならず、6曲目の"Holiday Inn"ではマンドリンとシタールも演奏している。彼はマグナ・カルタというバンドに所属していたのだが、彼らのアルバムをガス・ダッジョンがプロデュースしたことから、エルトン・ジョンのバンドに引き抜かれたようだ。

 さらには8曲目の"All the Nasties"では、これもまたのちのエルトン・ジョンのライヴでは重要な地位をしめるパーカッショニストのレイ・クーパーがタンバリンを叩いている。彼はまさにイギリスのミュージック界の至宝ともいうべき人で、エルトン・ジョンのみならず、エリック・クラプトンからジョージ・ハリソン、はたまたあのザ・ローリング・ストーンズやポール・マッカートニー、ピンク・フロイド、ビリー・ジョエル、その他数多くのミュージシャンやバンドのアルバムやライヴに参加している。2016年のエルトン・ジョンのアルバム「ワンダフル・クレイジー・ナイト」の中の"Tambourine"は、レイ・クーパーの長年の貢献に対して捧げられたものである。

 このアルバムには9曲が収められていて、比較的長い時間の曲が多い。もちろん、"Tiny Dancer"も長いのだが、5曲目の"Indian Sunset"は6分45秒もあって、このアルバムの中では一番長い曲である。バーニー・トーピンがアメリカのネイティヴ・アメリカンの保護地区を訪れた時にインスピレーションを受けて書かれたもので、のちにエルトン・ジョンのライヴでの重要なレパートリーになった曲だった。エルトン・ジョン自身は、この曲はみんなが思っているようなプロテスト・ソングではなくて、ひとつの物語だと述べている。
 曲も彼のアカペラから始まって、ピアノやドラムス、ストリングスなど徐々に楽器が増えていくが、一旦ブレイクして、ピアノの弾き語りに移っていく。最後はまた壮大なエンディングを迎えるのだが、その辺の緩急をつけた構成が見事で、アメリカで行われるライヴではスタンディング・オベーションで迎えられるという。確かに、胸を締め付けられそうなドラマティックなバラードだと思う。

 逆に、エルトン・ジョンのピアノの弾き語りだけで歌われるのが、最後の曲の"Goodbye"で、この曲は1分48秒しかなかった。他の曲と比べてあまりにも短い曲なので、うっかりして聞き流すことが度々あった。71la5budpl__sl1358_  とにかく、この2枚のアルバムは、のちの70年代中盤から後半のアルバムに比べれば、かなり地味な印象を与えていて、評価自体もそんなに高くはない。ただ、アメリカではチャート・アクションもよく、セールス的にもよい結果を出していた。当時のアメリカでは、シンガー・ソングライター・ブームだったから、そういう時代の流れというか、後押しもあったのではないだろうか。
 とにかく、アメリカでの好調なセールスに気をよくしたエルトン・ジョンは、このアルバムに起用したミュージシャンのデイヴィー・ジョンストンやディー・マーレイ、ナイジェル・オルソン、レイ・クーパーを中心にバンドとして活動を開始し、さらに高みを極めていくことになるのだが、その話はまた次の機会に譲ることにしようと思う。次の機会があればのお話だが…53b9fe5a6ba16bd7a96cf9e698521923
 今まで見てきたように、エルトン・ジョンのような偉大なスーパースターでも地味なアルバムを残している。どんな人にも下積みという時期があるのだろうし、こういう経験がやがては大きく花開く土台になるのだろう。何事も地道に取組むことが、遠回りに見えて着実な成功への階段を歩むことにつながる好事例なのかもしれない。

| コメント (0)

« 2019年4月 | トップページ | 2019年6月 »