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2019年5月13日 (月)

初期のエルトン・ジョン(3)

 前回で、初期のエルトン・ジョンのアルバムについては終わるつもりだったのだが、4枚のアルバムだけで”初期”としてひとくくりにするのはいかがなものかと考え直して、結局、もう1回分追加することにした。相変わらず意志が弱いというか、優柔不断な性分である。
 それで今回は、1972年に発表された「ホンキー・シャトー」と翌年のアルバム「ピアニストを撃つな」について簡単に記そうと思った。順番から言えばその2枚しかないから、ごくごく当たり前だろう。こんな当たり前のことをあえて書くところがこのブログのいい加減なところでもある。

 それで「ホンキー・シャトー」については、変な思い出があって、某大手タワー・レコード店でこのCDを電話で注文したときになかなか通じなくて弱ったことがあった。自分は”エルトン・ジョンの「ホンキー・シャトー」をお願いします”と言ったのだが、その女性店員は”「本気、佐藤」ですか”と何度もしつこく確認するのであった。外国人ミュージシャンが日本語のタイトルのアルバムを発表することは、確かに邦人スタッフが日本語のタイトルはつけることはあるだろうが、でも「本気、佐藤」じゃちょっとどうなのかなと思ってしまった。いくら日本では”佐藤”姓が多いとはいえ、特定の苗字の人に向けて作ったアルバムというのは、あまり考えられないと思う。おそらくその店員さんも、困惑しながら聞いてきたのだろう。

 そんな話は置いといて、「ホンキー・シャトー」である。前回でも記したけれど、アメリカでのエルトン・ジョンの人気は高くて、レコード・セールスも好調だった。一方、イギリスではどうかというとこれがなかなか微妙で、セカンド・アルバム「エルトン・ジョン」やサード・アルバム「エルトン・ジョン3」、シングルなどはヒットしたものの、4枚目のアルバム「マッドマン」は大ヒットとは言えずに、期待外れといっていいほどの結果だった。アメリカでは「マッドマン」のアルバムでさえもベスト10以内に入っていたから、アメリカでは人気も定着していたのだろう。

 ところがこの「ホンキー・シャトー」は、英米両国で売れた。英国では前作と打って変わって、アルバム・チャートの2位、米国では堂々の首位を獲得している。ここから彼の栄光の歴史が綴られて行くのだが、そのきっかけとなったアルバムだった。それまでのシンガー・ソングライター風のアルバム作りが、ロックン・ロールのスタイルのような、あるいは典型的なポップ・スターのような売れるアルバムに変化したのである。 A1i30qugyil__sl1500_
 その原因の一つは、それまでの大仰なストリングスやオーケストレーションが加味されなかったせいもあるかもしれない。ある意味シンプルになったというか、曲のメロディーやリズムで勝負しようと考えたのか、その辺は何とも言えないのだが、でもそういう変化が受け入れられたのは間違いのないことだろう。実際、このアルバムのクレジットには、それまでストリングスのアレンジを担当していたポール・バックマスターの名前はなかった。

 だから聞きやすくなったのかもしれないし、エルトン・ジョンの持ち味であるピアノ演奏を基軸にした曲自体が際立ってきたのかもしれない。そういう意味では、"Rocket Man"がヒットしたのも納得できるというもので、当時の宇宙への憧憬と日常生活との対比という内容もさることながら、メロディー自体の良さも受け入れられたのだろう。
 また、このアルバムからバック・バンドのメンバーが固定化されてきたということも、アルバム制作上、有利に働いたに違いない。エルトン・ジョン以外は、ギターにディヴィー・ジョンストン、ベースにはディー・マーレイ、ドラムスにナイジェル・オルソン、パーカッションにレイ・クーパーで、今となって思えば、黄金期を支えたメンバーだった。特に、ギタリストだったディヴィー・ジョンストンの活躍は目覚ましく、アコースティックからエレクトリック・ギターを始め、バンジョーにマンドリン、スティール・ギターと弦楽器だったら何でも演奏できるのではないかと思わせるほどの働きぶりだった。

 そういう強者が集まって、フランスのパリにある古城で作ったアルバムが悪いはずがない。集中してレコーディングができたのだろう。結果的に、チャート的にもセールス的にも成功を収めることができたのである。61q6dgjvqdl  
 それとこのアルバムを特徴づけている点は、ニューオーリンズ・ジャズの影響だろう。アルバム冒頭の"Honky Cat"や3曲目の"I think I'm Going to Kill Myself"、次の"Susie(Dramas)"には顕著に表れているし、後半の"Amy"にもその影響がみられる。

 また、ジャズではないけれど、7曲目の"Slave"にはバンジョーやスティール・ギターも使われてカントリータッチだし、ドゥー・ワップのスタイルを取り入れた最後の曲の"Hercules"の軽快さや、9曲目の"Mona Lisas And Mad Hatters"はニューヨークという街の情景を切り取っていて、こういう点でもアメリカ人のハートをギュッと掴んだのだろう。さらには、ヒットしたシングル曲以外にも、"Mellow"や"Salvation"のようなバラード曲も収められていたから、捨て曲なしのこれこそまさに売れるアルバムというものだった。
 ちなみに、"Mona Lisas And Mad Hatters"はバーニー・トーピン自身の経験から書かれた曲で、彼が最初にアメリカのニューヨークを訪れた時のホテルで拳銃の発砲音を聞いたことが切っ掛けになって書かれたものだった。曲の冒頭部分は、ベン・E・キングの"Spanish Harlem"を意識して書かれたと言われている。

 そして、このアルバムの大ヒットをきっかけに、再びフランスのパリ郊外の古城”シャトー・ディエローヴィル”でレコーディングされたのが、1973年の6枚目のスタジオ・アルバムで通算8枚目の「ピアニストを撃つな」だった。この古城はアメリカのバンド、グレイトフル・デッドも使用したことがあるという。
 とにかくこのアルバムは売れた。全英アルバム・チャートで初めて首位になったし、それは6週間も続いたのである。また、全米では、ビルボードのアルバム・チャートで約1年半トップ200内に留まっている。そして全英、全米ともにNo.1になった初めてのアルバムだった。 A1slsrf1bl__sl1500_

 この成功には、シングル・カットされた"Crocodile Rock"と"Daniel"の影響もあるだろう。特に前者は初めて全米のシングル・チャートで首位を獲得していて、エルトン・ジョンにとっては記念碑的なシングルになったのである。
 彼自身はこの曲について、50年代後半から60年代前半でのロックン・ロール黄金時代に対するノスタルジーが溢れているが、ネタ元は1962年のパット・ブーンのヒット曲"Speedy Gonzales"だと述べていた。後にロサンゼルスで裁判沙汰になったようだが、盗作とは認められずに、協議の結果、無事に解決している。

 "Daniel"の方は、これはゲイの主人公の曲かと騒がれたが、実際はベトナム戦争に従軍した兄弟についての曲で、アルバムやシングルでは2番までしか歌われていないが、本当は3番まであると言われていて、その3番でベトナム戦争のことが歌われているという。全米シングル・チャートでは2位、全英シングル・チャートでは4位まで上昇した。

 パクリで思い出したが、6曲目の"Have Mercy on the Criminal"のイントロは、誰が聞いてもエリック・クラプトンの"Layla"のパクリだろう。この時はすでに"Layla"は発表されていたから、きっとエルトン・ジョンも耳にしていたに違いない。当時は著作権について、そういう穏やかというか、緩やかな雰囲気だったのだろう。でも、ロックン・ロールという音楽自体、ヨーロッパ系移民のカントリー・ミュージックとアフリカ系のゴスペル・ミュージックのパクリなのだから、元々そういう流れが底流に息づいているのだろう。

 また、7曲目の"I'm Going to Be Teenage Idol"は、マーク・ボランのいたT・レックスのことを念頭に置いて作った曲のようだが、曲の雰囲気には一切無関係のようだ。ああいう音楽を”グラム・ロック”と呼んでいるが、メタリックな雰囲気は感じられずにピアノとブラスが強調されたミディアム調の曲だった。むしろのちに歌われた"Benny And The Jets"の方がグラムっぽいし、この曲ももう少しテンポを落として歌うなら"Benny And The Jets"に近くなるだろう。

 ところでこのアルバムには、アレンジャーのポール・バックマスターが復帰していてアレンジを担当していた。4曲目の"Blues for My Baby And Me"と6曲目の"Have Mercy on the Criminal"のストリングスのアレンジは、彼の手によるものである。"Blues for My Baby And Me"のストリングス・アレンジメントは特に素晴らしくて、徐々に盛り上げていく力はさすがエルトン・ジョンの初期を支えた彼の手腕が見事に発揮されていた。
 ところで、2曲目の"Teacher I Need You"は、男子のティーンエージャー特有の?女性教師に対する憧れというか、欲望みたいなものを歌っていて、60年代前期の、まだ明るい未来を描くことのできたロックン・ロール曲だった。次の"Elderberry Wine"はシングルとして発表された"Crocodile Rock"のBサイドだった曲で、Aサイドの曲よりはややゆっくり目ではあるが、これもロックン・ロール黄金時代の雰囲気が封じ込められた曲だった。 51kgcj3vkl

 前にも記したけれど、エルトン・ジョンの音楽にはアメリカからの影響が強くて、確かにアメリカのシンガー・ソングライター・ブームにうまく乗れたという点もあっただろうけれど、昔のロックン・ロールの雰囲気やアメリカ南部のゴスペルやジャズ、R&Bの影響がここかしこに垣間見れるのである。この「ピアニストを撃つな」でも上に書いたこと以外にも5曲目の"Midnight Creeper"のブラスや8曲目の"Texan Love Song"におけるアーシーな感覚などは、その最たる例に違いない。だから最初からアメリカでは受け入れられたのだろうし、このアルバムからの2曲のヒット・シングルのおかげで、全英、全米を含む全世界で受け入れられていった。

 前作「ホンキー・シャトー」の成功が起爆剤になり、このアルバムでさらに彼の音楽の評価が高まり、70年代のエルトン・ジョンの黄金時代が築かれたのである。のちに彼が大英帝国の爵位を賜るようになったのも、この時代の成功のおかげであろう。時代の流れのみならず、曲の良さや彼を支えたミュージシャンやスタッフのおかげで、結果的には成功を得たのであるが、のちにバーニー・トーピンとの関係を解消したり、バック・バンドのメンバー交代などもあって、彼の人気は徐々にというか、急速に失速していった。後にバーニーと再びコンビを組むも、もとの黄金期までの人気まで高めることはできなかったようだ。やはり一度失われてしまうと、元に戻るのは何でも難しいのであろう。エルトン・ジョンの人生を見ていると、いろんなことを教えてくれるような気がしてならない。


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