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2019年6月 3日 (月)

マッカートニーの「ラム」

 なぜか無性にポール・マッカートニーの「ラム」を聞きたくなって聞いてしまった。結果当たり前のことだが、相変わらず名アルバムということが分かった。
 このアルバムは1971年、ポールが29歳の時に発表されたもので、全英アルバム・チャートでは1位を、全米ビルボードでは2位を記録した。ちなみにその時の1位はキャロル・キングの「タペストリー(つづれおり)」だった。

 彼やザ・ビートルズのファンなら知っていると思うけれど、ポールは1970年にザ・ビートルズから脱退を宣言し、結局解散してしまったのだが、そのせいで解散の原因はすべてポールにあると非難されていた。あるいはポールと当時のザ・ビートルズのマネージャーだったアラン・クレインとの確執ともいわれていて、裁判沙汰にまでなっていった(と思う)。当時、自分はまだ小学生だったから詳しいことはよくわからなかったのだが、いずれにしても、何故かポールばかり非難されていたような気がする。

 そのせいかどうかはわからないのだが、ザ・ビートルズ解散直後から、ポールを含めてザ・ビートルズのメンバーは、自分のアルバムを発表している。みんなが自分こそザ・ビートルだ見たいな感じがして、特にジョージなんかは3枚組のアルバムまで発表していて、まさに水を得た魚みたいに活躍していた。もちろんジョンもリンゴもアルバムを発表しているのだが、ポールは意外に早くファースト・ソロ・アルバム「マッカートニー」を発表していた。71yjwvlfw3l__sl1200_

 自分はジョンの「ジョンの魂」やジョージの「オール・シングス・マスト・パス」のアルバムの方が印象が強くて、ポールの「マッカートニー」についてはあまり覚えていなかったし、当時の友だちから借りて聞いてみてもパッとしなかった思い出があった。実際、「マッカートニー」は35分くらいしかなかったし、半分はインストゥルメンタルだった。まともな曲はあまりなくて、これがあのマッカートニーのアルバムなのかと思ってショックというよりも驚いた覚えがある。
 ところがこれが売れたのである。当時はまさに飛ぶ鳥を落とすほどの勢いがあったザ・ビートルである。解散宣言が出されても、元メンバーたちの動向は注目を集めていたし、彼らの言動もそうだったし、ましてやアルバムならどういうメッセージを含んでいるのか、どんな音楽性なのか、またザ・ビートルとの類似点や相違点など、いろんな意味で世界から注視されていたのである。

 確かに「マッカートニー」は売れたものの、その音楽性はむしろ素朴でシンプルだった。リンゴのアルバムは彼の好きなカバー曲集だったので除外するとして、ジョージやジョンのアルバムは、内容のみならずメッセージ性や彼らなりの個性が発揮されていて、発表された時点で歴史的な名盤になるでろうという予感性を十分秘めていたし、実際にもそうなっている。
 逆に、「マッカートニー」の方は商業的には成功したかもしれないが、内容的にはポールの趣味的なアルバムといっていいようなものだったし、ほかの元ザ・ビートルズたちは他のミュージシャンと一緒に制作していたが、ポールのアルバムはすべての楽器を自分でこなしていて、レコーディングに関してもほとんどが自宅録音だった。51vsewmzesl

 だから、彼の「マッカートニー」は批評家や音楽ライターから批判された。批判というよりはバッシングに近いものだったかもしれない。それはアルバムの評価のみならず、ザ・ビートルを解散させた一因としての責任を問うような意味合いもあったに違いない。そして、そのことで悩んだのかもしれないのだが、その後ポールはスコットランドの自分の自宅兼農場に引きこもってしまい、しばらくは家族と過ごすことを決めたようだった。

 しかし、この当時のポールはまさに才能のあふれ出る状態だったし、まだ30歳前で、意欲も行動力も十分すぎるほど漲っている状態だった。だから確かに一時はスコットランドにひきこもっていたものの、むしろ愛する妻と子どもたちに囲まれて心の傷も、たとえ傷があったとしても、癒されて、次への希望につながったに違いない。Paulmccartney71
 ポールは、実際に1970年の10月にはレコーディング・メンバーをリクルートするためにアメリカに旅立っている。おそらくスコットランドにいた時に、次のアルバムは他のミュージシャンを集めて、一緒にレコーディングしようと思ったのだろう。他の元ザ・ビートルズたちがそうやってアルバムを発表したように。

 年が明けて1971年の1月になると、ポールはニューヨークで、ギタリストのデヴィッド・スピノザやヒュー・マクラッケンなどの一流スタジオ・ミュージシャンと、のちにウィングスの初代ドラマーになったデニー・シーウェルと一緒にレコーディングを開始した。そうやって出来上がったアルバムがその年の5月に発表された「ラム」だったのである。やっとたどり着いた。

 全12曲、時間にして約44分のアルバムで、全体的にポールのやる気と自信がリスナーに伝わってくるアルバムだった。アルバム形式も「サージャント・ペパーズ」やのちの「ヴィーナス・アンド・マーズ」、「バック・トゥ・ジ・エッグ」のようなトータル・アルバムになっていて、ここでは3曲目と11曲目に"Ram on"が踏襲されている。
 また、メロディ・メイカーとしてのポールの魅力が100%発揮されていて、どの曲も捨てがたい。強いてあげれば後半の1,2曲はカットしてもよかったかなと思うが、それでも前作「マッカートニー」よりははるかに上出来だと思う。少なくとも100倍気合いを入れて作ったに違いないと思う。 81ad7ox9ol__sl1400_

 ただ問題なのは、メロディーよりも歌詞である。歌詞の内容なのだ。特に、昔のレコードのサイドAには問題のある歌詞が含まれた楽曲が用意されていた。冒頭の"Too Many People"もそうだし、2曲目の"3 Legs"や"Ram on"、"Dear Boy"など、考えようによっては6曲目の"Smile Away"もまたその種の楽曲かもしれない。そして、その歌詞の内容は元のザ・ビートルのメンバーに対してであり、特に盟友ジョン・レノンに対しては辛辣な内容を含んでいたようだ。

 ジョージ・ハリソンとリンゴ・スターは、"3 Legs"とは自分たち2人とジョンを含んだ3人のことを指していると考えていたし、ジョンはジョンで、"Too Many People"と"Dear Boy"は自分とオノ・ヨーコのことを指していると思っていた。ポールはポールで、確かに当時の自分の気持ちを表しているとは言っていたが、直接的に誰か特定の人を非難したつもりはないと述べていて、特に"Dear Boy"は当時の妻だったリンダ・マッカートニーの別れた元夫のことを歌っていたと述べていた。
 それに、レコードでもCDでも裏ジャケットにカブトムシが交尾をしている写真が使用されているが、これは当時の(解散直前の)ザ・ビートルの3人が自分のことをどう思っていたかを象徴する写真だとも述べていた。ポールもある意味、被害妄想というか解散の傷を引きずっていたのだろう。 71rcqbgdzxl__sl1363_

 当然のことながら、ジョンが黙っておくはずもなく、このアルバムの数曲に対するアンサー・ソングとして、アルバム「イマジン」の中で反論している。また、レコード時代にはジョンがブタの耳を引っ張っているポストカードが同封されていたが、これはこの「ラム」のアルバム・ジャケットのパロディだと考えられている。つまり、羊の代わりにブタの写真を使用したというわけだった。

 これもまたどうでもいいことだが、"UNcle Albert/Admiral Halsey"は1971年の9月4日に1週間だけ全米シングル・チャートで1位になったが、この曲の作曲クレジットが"Linda&Paul McCartney"となっていることに対して、当時のザ・ビートルの著作権を管理していたノーザン・ソングスのオーナーだったルー・グレイドがリンダが作曲できるはずがないと言って、裁判所に訴え出たのだ。最終的にはその訴訟は取り下げられたのだが、ポールはこう弁明していた。『曲の半分はリンダと一緒に書き上げたのだから、リンダの名前があって当然だろう。ソングライターとして認められているかどうかは関係ない。とにかく、誰であれ、どんな形であれ、本当に僕の歌作りを手伝ってくれた人には、その歌の一部を担うことになるんだよ』R367126014147226136254_jpeg

 ということで、全12曲中、ポール1人名義の曲は6曲、残りの6曲はリンダ&ポール・マッカートニー名義だった。公平に半分半分にしたのだろうか。いずれにしてもアルバム前半はブルーズ風味の曲やバラード、ロックン・ロールなどバラエティ豊かな曲で占められているし、7曲目以降の後半では、ロックン・ロールというよりも、メロディアスなミディアム・テンポの曲やニューヨーク・フィルハーモニー・オーケストラを用いた感動的なバラード曲"The Back Seat of My Car"などが印象的だった。

 このアルバムの成功に気を良くしたポールは、自分のやることに自信を深めたのだろう、ザ・ビートルと同じようなパーマネントなバンド活動を始めようと考え、ウィングスというバンドを結成するのである。その発端となったアルバムがこの「ラム」であるとともに、ジョンや他の元ザ・ビートルズのメンバーとの確執がまだ根強いというメッセージを世界中に曝け出していたのもこのアルバムだった。

 このアルバムを発表してからもポールは、40年以上も第一線で活躍している。今でこそポールの才能や意欲などを正当に評価できるだろうが、70年代の初期では、この先ポールを始め、それぞれのメンバーがどうなっていくのか全く予想できない状態だった。当時はインターネットやSNSもない時代だったから、今後の展開を予想できる数少ない証拠というか、記録としての意義をも含むアルバムだった。自分はそんなことまでは考えずに、ただ単にああいいなあと思いながら聞いていたのだが、実は世界中の音楽ファンをも巻き込んでの”戦闘モード全開”のアルバムだったのである。


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