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2019年7月 1日 (月)

ジュリアン・レノン

 ジョンやポールのことを書いているうちに、ふとジョンの最初の子どもジュリアン・レノンはどうしているだろうか気になってしまった。それで今回はそのジュリアン・レノンについて記してみたい。彼も父親が父親だから、さぞかし子どものころから注目を浴びていたに違いない、いい意味でも悪い意味でも。

 ジュリアン・レノンといえば、ザ・ビートルズの楽曲にも、直接的間接的に問わず、たびたび登場していた。一番有名なのは、ポールの作曲した"Hey Jude"だろう。ほんとは"Jude"ではなくてジュリアンを意味する"Jules"だったのだが、歌いにくいということで"Jude"になった。これは1968年、つまりジュリアンが5歳の時に両親(ジョン・レノンとシンシア・レノン)が離婚したからで、ジュリアンを励ますつもりで作ったと言われている。また、「ホワイト・アルバム」の最後の曲に"Good Night"という曲があって、これはリンゴ・スターがボーカルを取っていたのだが、この曲はジュリアンへの子守歌ということで作られたものだった。まだ、ある。1967年の"Lucy in the Sky with Diamonds"のイメージは、ジュリアンの保育園の友だちだったルーシー・オドネルが描いた絵から得られたものだった。ジュリアンがいなければ、この曲はかなり違ったものになったに違いない。

 彼は”期待されない”子どもだった。ジョンがシンシアと結婚したのも、いわゆる”できちゃった婚”だったからであり、最初から望まれてこの世に生を受けたわけではなかった。また、ジョン自身も気持ちが向けばジュリアンにも愛情をもって接していたが、公演旅行や映画の撮影、ニュー・アルバムのレコーディングと、忙しくなるにつれて、また世界中で名声が高まるにつれて、家庭を顧みなくなってしまった。63johnjulianlennon_01_1

 これはある意味、ジョン自身の宿命みたいなものだったかもしれない。ジョン自身もまた望まれてこの世に生まれてきたわけではなかった。ジョンが生まれた時、父親は船乗りで航海中だったし、母親のジュリアは他の男と同棲中だった。結局、ミミおばさん夫婦に育てられるのだが、18歳の時、ジョンは、自分の目の前で実の母親ジュリアが車にはねられて亡くなるところを目撃している。ジョンは実の両親からの愛情を十分に受けることもなく大人になっていったのだ。

 ある意味、親子2世代に渡っての”業”みたいなものを感じさせる話なのだが、ジョン・レノンはジュリアンの育て方も分からぬまま、今でいう育児放棄のような感じでシンシア任せだったし、ジュリアン自身も父親に馴染めず、むしろその存在に怯えるようだったと告白している。ジョンよりもポールの方が優しく接してくれていたようだった。だからジュリアンに対して曲を作ったり、一緒に遊んだりしていたのだろう。 V7aeni7s

 そんな彼も、長ずるにしたがって父親と親交を深め、ジョンの1974年のアルバム「心の壁、愛の橋」では最後の曲"Ya Ya"においてオモチャのドラムを叩いていた。まだジュリアンが10歳か11歳の頃だろう。父親のジョンはジュリアンに、ギブソン社のレス・ポールを与えたというから、それから音楽(もちろんロック・ミュージック)に対して具体的な感情を持ち始め、音楽活動を意識したに違いない。そして18歳になると、母親のシンシアから買ってもらったピアノを独学でマスターして、アマチュアバンドを結成して活動を始めていった。
 しかし、ジュリアンにとって更なる悲劇は、1980年ジュリアンが17歳の時に実の父親が亡くなったことだった。しかも今度は、世界中がその射殺という悲劇を同時に味わい、悲しみに包まれるという事態を伴っていた。ジョンは自分の目の前で母親の死を目撃したが、息子のジュリアンは世界中のメディアを通して父親の死を知ることになった。

 ジュリアンがレコード・デビューしたのは1984年、21歳の時だった。サイモンとガーファンクルやビリー・ジョエルのプロデューサーとしても有名だったフィル・ラモーンが担当したアルバム「ヴァロッテ」は世界中で評判になり、全米ビルボードのアルバム・チャートでは17位、全英アルバム・チャートでは19位と健闘し、アメリカではプラチナ・ディスクを獲得している。41kkeskl
 また、シングル"Valotte"と"Too Late for Goodbyes"は、全米シングル・チャートでそれぞれ9位と5位と、トップテン・ヒットになった。もちろんジョン・レノンの息子という話題性もあっただろうし、聞こえてくる声自体も父親とそっくりだったということもあっただろう。

 ただ、音楽的なレベルは決して悪くはなく、むしろ標準以上だろう。もしジョン・レノンの息子という事実が伏せられていたとしても、ヒットしただろう。ただ、プラチナ・ディスクまでなったかどうかは保証できないが…
 最初のシングルの"Valotte"は、このアルバムでギターを担当していたジャスティン・クレイトンとカールトン・モラレスとの共作だったが、"Too Late for Goodbyes"はジュリアン単独で書いた曲だったし、ノリのよい"Say You're Wrong"やマイケル・ブレッカーのサックスがフィーチャーされたバラード曲"Lonely"なども、ジュリアンひとりの手によるものだった。

 全体的には、21歳の若者の手によるデビュー・アルバムにしては老成されている感じがした。80年代特有の打ち込みシンセも使用されていたが、自分のやりたい音楽性とその時代性を反映させた音楽とが絶妙にマッチしていて、そういうところもヒットした要因の1つだっただろう。おそらくは、プロデューサーのフィル・ラモーンの方針だと思われるが、あのジョン・レノンの息子ということで、失敗はさせられないという覚悟や万全を期してデビューさせるようなこともあったのではないかと邪推している。そして結果的に見れば、ジュリアン・レノンを支えるプロダクション・チームの成功だった。

 このアルバムの成功の後、2年後にはセカンド・アルバム「ザ・シークレット・ヴァリュー・オブ・デイドリーミング」を発表しこれまたそこそこ売れたのだが、1989年の「ミスター・ジョーダン」以降、特にアメリカではチャートに上がることはなくなった。アメリカ人は、ジュリアン・レノンの姿にジョン・レノンの幻影を見ることが無くなったのだろう。あるいは、ディスコ調や映画音楽とタイアップした曲、キャッチーで売れ線狙いの曲とは真反対の、自分の求める音楽を追及していたジュリアンの楽曲は時流に添えなかったのだろう。

 90年代に入ってからのジュリアンは、しばらく音楽業界から遠ざかっていた。やはり偉大な父親と比較されたり、彼の名前を利用して儲けようとしたりする経験を味わったようだ。例えば、1991年のアルバム「ヘルプ・ユアセルフ」では、ジョージ・ハリソンが"Saltwater"という曲にギターで参加していた。それがきっかけとなって、突然、”ザ・ビートルズ再結成”という話が持ち上がった。ジョージとリンゴとポールにジュリアン・レノンが加わるわけだ。しかも当時はザ・ビートルズ・アンソロジーが編集されていたから、ザ・ビートルズ再評価に乗っかるような真実味のある話だった。
 結局、それは噂話に終わってしまったのだが、やはりそんなこともジュリアン・レノンにとっては自分が利用されたように思えたのだろう。音楽よりも趣味の料理やヨット・セイリング、彫刻、写真などに取組んでいた。

 自分が好きな彼のアルバムは、1998年の5枚目のスタジオ・アルバムの「フォトグラフ・スマイル」だった。前作の「ヘルプ・ユアセルフ」より7年間のブランクがあったが、このアルバムはメロディアスでよくできていると評論家受けもよかった。51kdt76fqel
 全14曲で63分という容量で、全体的に穏やかで落ち着いていて、アレンジが凝っていた。シングル・カットされた"Day After Day"はアメリカ人のミュージシャン、マーク・スパイロとの共作で、中間のストリングスなどは中期ザ・ビートルズの再現とまで言われた。因みに、マーク・スパイロはジョン・ウェイトやハート、ローラ・ブラニガン、リタ・フォードなどの80年代から90年代に一世風靡をしたミュージシャンたちに曲を提供している。

 このアルバムでは"Day After Day"以外にも4曲、"Cold"、"I Don't Wanna Know"、"Good to Be Lonely"、"And She Cries"でマークと共作していた。特に、"I Don't Wanna Know"はもろビートルズテイストの曲で、ザ・ビートルズの"I Should Have Known Better"と"It Won't Be Long"を足して2で割ったようなミディアム・テンポの曲だった。

 他にもピアノ奏者でシンガー・ソングライターのグレゴリー・ダーリンというアメリカ人と4曲コラボしていて、アルバム・タイトルにもなっていた"Photograph Smile"も彼との共作だった。これはバックでストリングスが鳴らされているちょっと凝り過ぎたバラード曲で、フランク・シナトラが歌ってもおかしくないような曲だった。他には"Crucified"、"Walls"、"Kiss Beyond The Catcher"、それに日本語盤のボーナス・トラックだった"Don't Let Me Down"に彼のクレジットがあったが、基本的にはピアノやキーボード主体で、しっとりとした印象を受ける曲ばかりだった。
 ただ、アコースティック・ギターが使用された弾むようなリズムの"Kiss Beyong The Catcher"がこのアルバムにアクセントを与えているし、タムタムとシタール・ギターがインド風味をもたらす"Crucified"は、60年代末のザ・ビートルズを彷彿させるものだった。この曲は悲劇的な死を迎えたジュリアンの友人のケヴィン・ギルバートという人に捧げられていた。

 またこのアルバム自体もジュリアンの義父だったロベルト・バッサニーニに捧げられたものだった。彼はシンシアと再婚していたらしい。これもどうでもいい話だが、シンシアは4回結婚していて、ロベルトは2回目の相手で1970年から76年まで一緒に暮らしていた。ロベルトは1995年の5月にイタリアのミラノで亡くなっている。

 とっても落ち着いていてロマンティックなアルバムだった「フォトグラフ・スマイル」だったが、まるで50歳代のベテラン・ミュージシャンのボーカル主体のアルバムのようだった。もう少しアップテンポな曲やロックン・ロール曲が含まれていれば、もっと話題を呼んだに違いないし、売れたに違いない。
 その後ジュリアンは、2011年の6枚目のスタジオ・アルバム「エヴリシング・チェンジズ」以来、アルバムを発表していない。このアルバムには先述のマーク・スパイロやグレゴリー・ダーリン、それから一時ジェスロ・タルにも在籍していたピート=ジョン・ヴェテッセも参加していた。このアルバムも凄く出来が良くて、評論家筋からの評価も高かったのだが、ジュリアン自身も売れることにはあまりこだわっていないようで、チャート的には芳しくなかった。

 ただ、”もしも”という仮定の話はしたくないのだが、もしもジュリアン・レノンの父親がジョン・レノンでなければ、もっと正当な評価が与えられただろうし、ジュリアン自身も生き生きと楽しみながら音楽制作に携わることができただろう。彼の才能は本物だし、ほかの同世代のミュージシャンと比べても決して遜色はなかった。そうなればもっと違う音楽が私たちの前に提示されたに違いない。Julian18sit

 ジュリアンは56歳になるが、まだ未婚である。自分が家庭もつ自信ができるまで、自分の中に父権が確立され、きとんと親子との関係が結べるまでは結婚をしないつもりのようだ。このままでいけば恐らく生涯を通して結婚はしないだろう。あるいは結婚しても子どもを持つことはないだろう。親子3世代に渡る”宿業”は、自分の代で断ち切りたいと思っているのかもしれない。


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