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2019年6月24日 (月)

ワイルド・ライフ(2)

 ポール・マッカートニー&ウィングスのアルバム「ワイルド・ライフ」についてである。このアルバムについては、2014年の5月に一度触れているので、今回はどうしようかなと思ったのだが、あえて書くことにした。理由は、ジョンとポールの確執について最後まできちんと記したいと思ったからである。B5mzcem90w26b_600

 どういうことかというと、ジョンのアルバム「イマジン」で2人の確執はまだ終わってはいなかったからだ。さらにポールの反論が続くのである。あえて前回までのことを繰り返すと、ポールがザ・ビートルズを脱退した(と言われていた)ことから、それについて反論を行った。それがアルバム「ラム」においてであり、その矛先はポール以外の3人+オノ・ヨーコに向けられていた。
 アルバム「ラム」が発表されたあと、同年の1971年9月にジョン・レノンの「イマジン」が発表された。そして、そのアルバムの中で"Crippled Inside"や"How Do You Sleep?"を通して、ポールに辛辣な批判を加えていた。そしてそれに応えるような形で発表されたのが、同じ1971年12月に発表された「ワイルド・ライフ」だった。ただし、正式にはポール・マッカートニー名義ではなくて、ポールの名前もない”ウィングス”とだけ記名されたアルバムだった。B0d2a58798425405476657f5d17d1694

 これはバンド活動にこだわったポールの意向が反映されていて、今までの自分の名声や評判を借りずに、バンドの力だけで活動しようとした表れであり、実力勝負に徹しようとした結果だった。確かに、ジョン・レノンは、パーマネントなバンドではないものの、”プラスティック・オノ・バンド”を率いてアルバムも発表していたし、ライヴ活動も行っていた。ザ・ビートルズでは1966年以降、全くライヴ活動を行っていなかったため、それまでの鬱憤を晴らすかのような活動だった。(映画「レット・イット・ビー」ではアップル社の屋上でライヴを行っていたが、あれを正式なライヴ活動と評するのには無理があるだろう)

 というわけで、実際に「ワイルド・ライフ」を発表した後も、”ウィングス”名義でイギリス国内でライヴ活動を行った。ただそれは、きちんとプロモーターが仕切るようなコンサートではなくて、機材を詰め込んだヴァンとポール・マッカートニー一家とミュージシャンたちが乗り込んだトレーナー、機材を運ぶローディーも2人のみと極めてシンプルで、行先も大学構内のホールのような小さいところだった。
 もちろんライヴ自体は、回数を重ねるにつれて熱気と興奮に満たされて行き、まさに熱烈歓迎状態になっていったのだが、最初は”ウィングス”といっても誰のバンドなのか誰も知らず、ライヴが始まってやっとみんなが気づくという有様だった。ある意味、覆面バンドのようなものだ。今の時代であれば、ネットやSNSですぐに拡散され、あっという間に評判になっていっただろうが、70年代の初めにはそんなことが起こりうるはずがなく、徐々に知られて行ったのである。Shutterstock_802243is

 しかもこのアルバムの「ワイルド・ライフ」は、3日でレコーディングが終了し、2週間でミキシング等も完了させたと言われていて、ポールはライヴ感覚を大事にしたと述べていたが、確かにこのバンドでのライヴは意識していただろうけれど、まだまだバンドとしてまとまっていなかったということは言えるだろう。特に、この当時のリンダ・マッカートニーのキーボードの腕前はお世辞にも上手とは言えず、とても人前でソロを聞かせるような代物ではなかった。また、デニー・レインや1972年から加入したリード・ギタリストのヘンリー・マッカロクなどの他のメンバーも、まだまだポールと十分な意思疎通はできていなかったようだ。

 だからアルバム自体も散々な評価を受けていた。早くライヴ活動を開始したいという気持ちが逆に焦りを呼んだのだろうか、シンプルで聞きやすいと言えば聞こえはいいが、前作「ラム」よりは手抜きというか、勢いだけで作りましたという印象が強かった。
 その証拠に、ポールのアルバムにしては珍しく他者の楽曲のカバー曲を入れていて、何とか曲数の帳尻合わせをしたという感じだった。そのカバー曲が"Love is Strange"で、オリジナルは1956年、ミッキー&シルビアというフォーク・デュオが歌った曲だった。また、1965年にはエヴァリー・ブラザーズもカバーしていたから、当時の欧米では有名な曲だったのだろう。最初はインストゥルメンタルで発表するつもりだったようだが、当時流行っていたレゲエ風にアレンジし直している。また、このアルバムからのシングル曲として準備していたが、最終的に版権の関係か、シングルとしては見送られた。

 それで全10曲、39分余りの時間的に短いアルバムだった。リンダ・マッカートニーは”ダンスで立ち上がって踊りたいときはサイドAを、女の子にキスさせたいときはサイドBを”と述べていたが、そんな簡単に割り切れるような感じではなかった。それならロッド・スチュワートの「アトランティック・クロッシング」や「明日へのキック・オフ」の方が編集方針としては明確になっているだろう。

 それで話題を元に戻すと、この10曲の中でジョンに対する回答は、5曲目の"Some People Never Know"と9曲目の"Dear Friend"だった。ポールも執念深いというか、よほど言いたいことが積もり積もっていたのだろう。30e80b21
 ただし、この2曲はジョンの「イマジン」を聞いて、その回答として考えたわけではなかった。この「ワイルド・ライフ」のレコーディングは、1971年の7月から8月にかけて録音、編集されているからで、「イマジン」のレコーディングが1971年の2月から7月まで断続的に続けられていたことから考えると、「イマジン」を聞いて反応を示すことは時間的に無理だったと思われる。

 だからこの2曲の内容は、反論や嫌悪といった感情をむき出しにしたものではなくて、むしろ諦観や受容といった内面的で静的な印象を与えるものだった。例えば"Some People Never Know"では、"I Know I was Wrong,Make Me Right"(自分が悪かったと思っている、自分を正しい方向に向かわせよう)と述べていて、むしろジョンに対して謝罪ともいえる言葉を述べていた。
 また、"Dear Friend"では、いきなり"Dear Friend,What's the Time? Is This Really Border Line"(親愛なる友だちへ、いま何時だい?本当にこれがギリギリなの)と今までの友情が途切れることを恐れているようなフレーズも見て取れる。

 曲調も"Some People Never Know"では、アコースティック・ギターが中心の落ち着いた雰囲気だったし、"Dear Friend"では、逆にピアノ中心の切々と歌い上げられたバラードだった。これらの曲には攻撃性や風刺性などは全く見られず、むしろ落ち着いて自分の意見を述べているような姿勢が伺えたのだ。
 先ほども述べたように、これらの曲は「イマジン」を聞いてから作られたものではなくて、「ラム」から「ワイルド・ライフ」に移るにしたがって、徐々にポール自身の考えが変化していったことを表している。ジョンに対して恨みつらみや非難中傷を加えるのではなく、現実を受け入れて、違う形でジョンやヨーコ、ほかの元メンバーと向き合おうとしたのだろう。だから「諦観」や「受容」といったイメージが浮かんで来たのだと思っている。

 実際にインタビューでもポールはこう答えていた。『"Some People Never Know"は僕とリンダのことについて述べた曲で、僕らのことをわかってくれない人たちがいるんだというメッセージを込めているんだ』また、『"Dear Friend"は直接的にジョンのことについて言っているのではない。ただ、ジョンのことを意識していることは間違いないと思う』だからある意味、ポールはザ・ビートルズに代わって新しいバンドを結成して、自分の目標に向かって旅立つために、一つの区切りとしてこの曲たちを準備したのだろう。

 ジョンとポールは友人でもあり、ライバルでもあった。だからお互いに意識しながら曲作りを行い、行動を起こしていった。さらにはライフスタイルも、相互に影響を及ぼしながら進展させていった。ジョンがヨーコというパートナーを得れば、ポールもリンダを娶って心の支えにしながら、生涯の伴侶にしようとした。
 ジョンが平和運動に心を砕き取り組んでいけば、ポールは逆に環境運動や動物愛護運動に力を注ぎ、ついにはヴェジタリアンになってしまった。そして、ジョンがプラスティック・オノ・バンドを組めば、ポールはウィングスを結成してライヴ活動に精力的に取り組むようになったのである。Paulmccartneyandwingswildlifepressphotow

 最後に、この「ワイルド・ライフ」以降、ポールはジョンのことを直接的に歌うことはなかった、1982年の「タッグ・オブ・ウォー」でジョンを追悼した"Here Today"までは。ジョンもまたあからさまにポールのことを非難することはなかった。
 一説では、1976年にポールがアメリカ公演を行った際に、ニューヨークでジョンに会い、今から一緒にラジオ局に行ってみんなを驚かせてやろうかと話し合ったと言われているが、真偽のほどは定かではない。

 だけど、公式スタジオ・アルバムを通して、お互いのことを言い合うというのもジョンとポールだから許される?ことであって、普通のミュージシャンがやったら、見向きもされないかもしれない。確かに自分の体験や感情などを、楽曲を通して表現するのがミュージシャンの本来の務めなのかもしれないが、ここまであからさまにオープンに行ったのもジョンとポール以外にはいないのではないだろうか。そういう記録という意味でも、「ラム」や「イマジン」、「ワイルド・ライフ」などは、歴史的に貴重なアルバム群だったと思っている。

 ちなみに”ウィングス”という名前は、リンダが1971年にステラという女の子を出産したときにポールが思いついた名前で、「天使の翼」をイメージして名付けたという。確かに70年代のウィングスは、ここから大きく世界に羽ばたいていったのである。


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