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2019年6月17日 (月)

追悼:Dr.ジョン

 先日の6月6日にDr.ジョンが亡くなった。心臓発作が原因という。享年77歳だった。日本ではマニアの人ぐらいしか知らないかもしれないが、母国アメリカでは有名のようで、2011年にはロックの殿堂入りを果たしているし、グラミー賞も6度にわたって受賞している。自分も正直言って、そこまで評価が高いミュージシャンとは知らなかった。 2015112400093_1

 Dr.ジョンの本名は、マルコム・ジョン・レベナック・ジュニアといった。彼はルイジアナ州のニューオーリンズ出身だったから、子どもの頃から地元の音楽を聴いて育った。3歳から家にあったピアノを弾き始めたという。父親は電機店を経営していて、そこにあった当時の78回転のレコードを聞きながら腕を磨いていった。また学校に通い始めると、今度は母親が彼にギターをプレゼントしてくれた。そんなところを見ると、彼の家は比較的裕福なところだったようだ。何事も環境は大事ということだろうか。

 父親が電機店を経営していたという点も、彼のキャリアを考える上では非常に重要なことで、父親の仕事の手伝いをしていたレベナック少年は、ある時、PA機器の修理のために父親とミシシッピー州ミズーリのクラブに出かけたのだ。その時に出演していたのが、プロフェッサー・ロング・ヘアだった。私のハンドル・ネームもこの人から来ているのだが、ここではどうでもいい話だ。
 とにかく、この時のステージの印象が強くて、自分も将来は音楽で身を立てようと思ったらしい。また、父親はニューオーリンズの唯一のレコーディング・スタジオを経営していた人とも友人だったから、子どもだったレベナック少年もたびたびそこを訪れるようになって行った。偶然が重なれば必然になると言われるが、こういう環境がすでに用意されていたようだ。レベナック少年がDr.ジョンになるのは、ある意味、歴史の必然だったのかもしれない。

 レベナック少年は、レコーディング・スタジオに出入りしていくうちに、そこのスタッフやミュージシャンと仲良くなっていった。そして時には、使い走りをさせられながらも、ブルーズや地元の音楽にさらに慣れ親しんでいった。
 50年代にロックン・ロールのブームが起こると、根っからの音楽少年だった彼もその流行に身を任せてしまい、ついには高校を退学してしまい音楽的キャリアの追及を始めるようになったのである。

 17歳になると、自分のバンドを組んでクラブなどに出演するようになった。当時のレベナック少年はギターを担当していて、バンド名はボーカリストの名前を使用していた。当時流行ったような”〇〇&ザ・ナントカ”という感じだ。だから、1人のボーカリストが都合で来れなければ、次のボーカリストを見つけてきてバンド名を変えて出演していた。そうすれば、ほぼ毎晩レベナック少年はステージに立つことができたという。確かにそうすれば、毎晩演奏できるだろう。そうやって技術や感性、表現力を磨いていったのだろう。

 そうこうするうちに、先ほどのレコーディング・スタジオのスタッフから、メンバーが足りないからレコーディングに立ち会ってくれなどという声もかかってきて、セッション・ミュージシャンとしても名前が知れるようになって行った。
 50年代の後半に入ると、ソングライティングも行うようになり、"Lights Out"という曲を発表した。また、ジョニー・ヴィンセントが設立したエイス・レコードという会社でA&Rマンとして働き始め、安定した収入も稼ぐようになって行った。この時のことを、彼は後にこのように回想している。『レコーディングの際には、曲とセッション・ミュージシャンを決めるのが主な仕事だった。ただそれだけではなくて、必要ならアレンジャーも探して来るし、いなければ自分がアレンジも担当した。また才能あるミュージシャンを探してきて、そのレパートリーや曲作りも手伝ってレコーディングまで一緒にやったこともあった』

 その間に自分の演奏活動も行っていたのだが、運命の転機は突如としてやってくるようだ。1960年にフロリダ州ジャクソンヴィルで、モーテル経営者の喧嘩を止めようとしていたところ、その経営者が拳銃を発砲してしまい、運悪くそれがレベナックの左手人差し指(薬指という説もある)に当たってしまい、負傷してしまった。チョーキングもヴィブラート奏法もできなくなった彼は、ひどく落ち込んでしまい、一時はミュージシャンを廃業しようかと考えたようだ。

 その時バンドのメンバーだったキーボーディストからオルガンを弾くように勧められ、その手ほどきを受けるようになった。元々、子どもの頃からピアノに慣れ親しんでいたレベナック少年は、瞬く間にオルガンのみならずキーボード類を弾きこなせるようになって行った。
 しかし今度は、ニューオーリンズの音楽業界に陰りが見え始めた。ニューオーリンズよりもデトロイトやメンフィスのソウル・ミュージックやリズム&ブルーズが注目され始め、またイギリスからロックン・ロールの逆輸入が始まったのだ。

 仕方なくレベナック少年は故郷を去り、西海岸のロサンジェルスに旅立っていった。そこで彼は、旧友のハロルド・バチスティと出会い、とりあえずソニー&シェールのバック・バンドのメンバーとして活動を始めた。そしてオージェイズ、フィル・スペクターやアイアン・バタフライ、その他数えきれないほどのセッションに参加していった。

 1967年になって、レベナックはハロルドや同郷のメンバーたちと一緒に"Gris-Gris"をレコーディングした。この時から彼は"Dr.ジョン"と名乗るようになったのだが、この"Gris-Gris"は、ニューオーリンズに一度も行ったことのない人に、こんな音楽があるのか紹介するつもりで作った曲のようで、タイトル名は地元ニューオーリンズのヴードゥー教を意味していた。音楽的にもおどろおどろしくてサイケデリックだったが、意外にこれが受けたのだ。8104085_3l

 当時はまさに”サイケデリック・ミュージック”が流行していて、特に西海岸では、クィックシルヴァー・メッセンジャー・サーヴィスやアイアン・バタフライ、イッツ・ア・ビューティフル・ディ、ラヴ、モビー・グレイプなどその手の傾向を有するバンドが人気を得ていたから、Dr.ジョンの新奇的な音楽性も、逆に受け入れられやすかったのだろう。

 その音楽性に沿うように、Dr.ジョンのステージもまたヴードゥー教を意識したような、頭に鳥の羽をつけたり、メーキャップを施したり、派手な衣装を身にまとったりと一度見たら絶対に忘れられないようなものだったから、あっという間に名前が売れていったのだ。だから1971年の4枚目のアルバム「太陽、月、薬草」には、エリック・クラプトンやミック・ジャガー、グラハム・ボンドにボビー・キーズなどの錚々たるミュージシャンが参加していた。このアルバムは当時3枚組として発表される予定だったらしいが、結局は1枚のアルバムとしてまとめられて世に出された。

 このアルバムはビルボードのアルバム・チャートで184位を記録するなど、ニューオーリンズの音楽ファンのみならず広く一般にも売れたのだが、なぜかニューオーリンズの音楽自体が下火を迎えていたせいか、Dr.ジョン自身が借金を抱えてしまい、その解決のために当時のアトランティック・レコードの社長だったジェリー・ウェクスラーに相談したところ、それならもう一度ニューオーリンズの音楽を紹介するアルバムを作ってはどうかと提案され、そこから生まれたアルバムが1972年の「ガンボ」だった。8161d8w5el__sl1200_

 日本でのタイトルは「ガンボ」だったが、正式なタイトルは「Dr.ジョンズ・ガンボ」というもので、つまりDr.ジョンによるニューオーリンズ音楽の再解釈という意味なのだろう。このアルバムはファンのみならず、批評家からも絶賛された。また、ビルボードのチャートには11週も残り続け、112位まで上昇している。チャート的にはそんなに大したことはないと思われるかもしれないが、たとえば日本の沖縄民謡や秋田の祭りの囃子歌のアルバムが全国的に有名になったと考えれば、これはちょっとした出来事ではないだろうか。

 このアルバム「ガンボ」の成功で、その次のアルバム「イン・ザ・ライト・プレイス」はもっと売れた。チャートには33週も残り続け、24位まで上昇している。彼のキャリアの中で一番売れたアルバムになったのである。その主な原因は、2曲のシングルがヒットしたからだろう。マーティン・スコセッシが監督したザ・バンドの「ラスト・ワルツ」でも披露された"Such A Night"はシングル・チャートで42位を、"Right Time Wrong Place"は堂々の9位を獲得したのである。ちなみに、アルバムのプロデューサーはアラン・トゥーサンだった。彼もまた南部を代表する偉大なミュージシャンのひとりだった。お互い気心が知れていたのだろう。41x27wkmzdl

 同じ1973年にはもう1枚のアルバム「ディスティヴリー・ボナルー」を発表し、アトランティック・レコードとの契約を終了させ、ユナイティッド・アーティスト社から「汝の名はハリウッド」を発表した。これは表向きはクラブでのライヴ・レコーディングになっていたが、実際はスタジオ・ライヴ録音だった。ただ、プロデューサーはアリス・クーパーやキッス、ピンク・フロイドなどを手掛けたあのボブ・エズリンだったから、ひょっとしたら彼の入れ知恵なのかもしれない。

 この後Dr.ジョンは、徐々にジャズの方面にその触手を伸ばしていった。70年代後半は、フュージョンやクロスオーバーと呼ばれるジャンルに脚光が当たっていたから、その影響を受けたのかもしれない。一時彼は、スティーヴ・ガッドやデヴィッド・サンボーンなどと一緒にツアーをしていたようだ。何となく似合わないような気がした。
 その後、あまり彼の名前を聞かなくなったのだが、80年代後半に大手のレコード会社であるワーナー・ブラザーズに移籍してから再び脚光を浴び始めた。1989年のアルバム「イン・ア・センチメンタル・ムード」が再びアルバム・チャートに顔を出したのである。71yaoob7hml__sl1200_

 タイトル名でもわかるように、このアルバムはジャズ曲集で、デューク・エリントンやコール・ポーターなどの曲で占められていた。このアルバムの中の曲"Makin' Whoopee!"ではリッキー・リー・ジョーンズとデュエットをしていて、1990年の第32回グラミー賞で「ベスト・ジャズ・ボーカル・パフォーマンス・デュオもしくはグループ部門」で受賞することができたのである。
 ここから再び彼が注目され始め、ジャズのみならずリズム&ブルーズ、ロック・ミュージックとニューオーリンズの音楽を中心としながら活動を続けていった。そして、1992年の14枚目のソロ・アルバム「ゴーイング・バック・トゥ・ニューオーリンズ」は再びグラミー賞の「ベスト・トラディショナル・ブルーズ・アルバム」を獲得している。

 その後も彼は、コンスタントにアルバムを発表し続けていた。60歳を越えてもほぼ毎年アルバムを発表し続け、2009年と2013年には、それぞれグラミー賞の「ベスト・コンテンポラリー・ブルーズ・アルバム」と「ベスト・ブルーズ・アルバム」を獲得している。まさに”レジェンド”の異名に相応しい活躍ぶりだろう。

 自分にとっては、最初はレオン・ラッセルと区別がつかなかったし、彼の楽曲もシンディー・ローパーが歌った"Iko Iko"を聞いて、これってDr.ジョンが歌ったやつじゃないかと再認識したくらいだった。それでも彼のおかげでニューオーリンズの音楽を知ることができたし、彼を原点にしてマリア・マルダーやジョン・セバスチャン、日本の細野晴臣、久保田麻琴と夕焼け楽団などの音楽を知ることができた。そういう意味では、まさに”ニューオーリンズ音楽の伝道師”といってもいいだろう。心から哀悼の意を捧げたい。


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