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2019年7月29日 (月)

ジョン・セバスチャン

 マリア・マルダーつながりで、今回はジョン・セバスチャンについて書くことにした。自分の印象では、ジョン・セバスチャンは西海岸、特にサンフランシスコ周辺に関係のある人ではないかと思っていた。その音楽性が60年代後半に起きた、いわゆる”フラワー・ムーヴメント”に影響を受けた感じがしたからだった。
 例えば、"San Francisco"を歌ったスコット・マッケンジーとかに似ていると思ったのだが、実際は全く関係がなかった。ジョン・セバスチャンの方はマリア・マルダーと同様にニューヨーク生まれだった。これもまたイメージだけで語って申し訳ないのだが、ニューヨークというと大都市という印象が強くて、音楽についてもクールでモダンなものというふうに思っていた。だからジャズとか、R&Bでもどこか垢抜けたものとか、ポップ・ソングでもどこかヒンヤリとする感じがした。だから逆に、泥臭くてアーシーな音楽とは無縁だと思っていたのだ。何という浅はかな考えだろうか。まことに偏見とは恐ろしいものである。

 ジョン・セバスチャンはニューヨークのグリニッジ・ヴィレッジ出身で、1944年3月生まれだから今年で75歳になる。ということは、ストーンズのミック・ジャガーと同じ年ということになる。クラプトンが45年生まれだから彼より1歳年上だ。1945年前後は、ロック・ミュージシャンの当たり年だったのかもしれない。John_sebastian

 それはともかくとして、ジョンの父親は有名なハーモニカ奏者で、母親はラジオ番組の構成作家だった。そういう家庭に育ったせいかどうかはわからないが、幼い頃から家庭には音楽が満ちていて、知らず知らずのうちにジョンもまたウディ・ガスリーやミシシッピー・ジョン・ハートなどのフォーク・シンガーやR&Bミュージシャンのレコードを聞くようになった。彼はブレア・アカデミーという私立の有名な全寮制の学校を卒業した後、ニューヨーク大学に入学したが、わずか1年で退学した。もちろん自分の音楽的キャリアを追及するためだった。

 彼は父親の影響からか、自らもハーモニカを演奏するようになった。ただし、それはブルーズ奏者がやるようなもので、父親とは全く音楽的志向が違っていた。それでも父親の紹介でライトニン・ホプキンスのニューヨークの付き人みたいなことを行うようになり、その頃流行していたフォーク・ロックと呼ばれる音楽に近いものをやるようになって行った。
 60年代半ばになると、イーヴン・ダズン・ジャグ・バンドやマグワンプスというバンドに参加したが、あまり話題になることはなかった。後者のバンドにはキャス・エリオットやデニー・ドハーティ、ギタリストのザル・ヤノフスキーがいた。キャスとデニーはザ・ママス&ザ・パパスを結成し、ジョンとザルはザ・ラヴィン・スプーンフルというバンドの母体となった。

 ザ・ラヴィン・スプーンフルについては、別の機会に譲るとして(別の機会があればのお話だが...)、とにかくこのバンドは売れた。1965年の"Do You Believe in Magic?"は全米シングル・チャートで9位、1966年の"Daydream"は2位、"Summer in the City"は堂々の首位を獲得した。そして、2000年には”ロックの殿堂”入りを果たしている。
 また、ボブ・ディランの1965年のアルバム「ブリンギング・イット・オール・バック・ホーム」ではベース・ギターを任されて、ツアーまで参加しないかと誘われたが、断っている。理由はザ・ラヴィン・スプーンフルに専念したかったからだそうだ。それほどジョンは、バンド活動に力を入れていた。

 ところが、1967年にザル・ヤノフスキーが脱退してしまうと、新しいギタリストを入れてもうまく行かなくなり、1968年にジョン自身がバンドを去ってしまい、バンド自体も1969年に解散してしまった。ジョン・セバスチャンとしてのソロ活動が始まっていったのは、60年代後半からということになる。

 ジョン・セバスチャンは最初はブロードウェイの演劇の音楽などを担当していたが、1969年8月にウッドストック・フェスティバルに見に行こうと出かけた。ところが急な雨のせいでステージ上が濡れてしまい、サンタナの演奏準備ができずに時間が空いてしまった。観客の中にジョン・セバスチャンがいることを知った主催者側は、急遽、時間しのぎのためにジョンにステージに上がってもらうようにお願いしたところ、ジョンは了解して歌うことになった。この時彼は、ドラッグのせいでハイになっていたようだ。だから簡単にOKしたと言われているが、彼自身は単なる普通の飲み薬でナチュラル・ハイだったと言っている。真相はどうなんだろう。40eb5607436f6755beb8d201a2cd65d0

 とにかくこのパフォーマンスのせいで、再び彼に脚光が当たり始めた。このあと同じようなフェスやライヴに呼ばれるようになって行ったのだ。ちなみにウッドストックでは、自分の持ち歌を3曲、ザ・ラヴィン・スプーンフルの曲を2曲歌っていたが、この時彼のソロ・アルバムは、まだ発表されていなかった。
 最初のソロ・アルバム「ジョン・B・セバスチャン」は、1970年に発表され、ビルボードの・アルバム・チャートの20位まで上昇した。ウッドストックでの彼のパフォーマンスがセールスに結びついたのかもしれない。あるいは、クロスビー、スティルス&ナッシュが参加していたせいかもしれない。また、デヴィッド・クロスビーからはC,S&Nに参加しないかと誘われていて、ジョンも本気で考えていたようだ。もし実現していたら、C,S,N&Sになっていたかもしれない。51suw8j7aul

 ジョン・セバスチャンの音楽性は、マリア・マルダーほど幅広くはないものの、単なるフォーク・ミュージックやフォーク・ロックの範疇に収まるものではなかった。フォークからロック、ジャズ、R&Bと自身が影響を受けた音楽をまとめてジョン・セバスチャンというフィルターでろ過したようなサウンドなのである。だから多様な音楽的要素に満ちているし、どんなテイストを持った曲が出てくるかわからないという楽しみも備えている。
 例えば「ジョン・B・セバスチャン」では、ロックン・ロールの"Red-Eye Express"やストリングスが美しいバラード曲"She's a Lady"、アコースティック・ギター弾き語りの"You're a Big Boy Now"など、なかなかの佳曲で占められていて、セールス的に成功した理由も理解できた。特に、エルヴィス・コステロもカバーした"The Room Nobody Lives in"などは隠れた名曲ではないかと思っている。

 このあとジョンは、ライヴ・アルバムを発表した後、1971年にセカンド・スタジオ・アルバム「ザ・フォー・オブ・アス」をリリースした。冒頭の"Well,Well,Well"などは、名曲"Woodstock"に似た感じのロックン・ロールだし、"I Don't Want Nobody Else"はミディアムテンポで、バック・コーラスが60年代風の美しいもので、こういうところがウェストコースト風の音楽と間違えてしまった点だろう。
 また、"Apple Hill"はまさにラヴィン・スプーンフル時代のような甘くてポップなテイストで、バンジョーが使用されている点が面白い。また、ベース・ギターを演奏しているのは、グリニッジ・ヴィレッジ当時の旧友だったフェリックス・パパラルディだった。 51p3cjcehyl

 こういう佳曲が含まれていたのに、何故かこのアルバムは売れなかった。理由はよくわからないが、ひょっとしたら当時のレコードのサイドB全体を使って書かれた曲"The Four of Us"のせいかもしれない。この曲は組曲形式になっていて、"Domenica"、"Lashes Larue"、"Red Wind、Colorado"に分かれていた。カリブ風の音楽やDr.ジョンがピアノを弾いているニューオーリンズ風のロックン・ロールも含まれていて、ジョン自身の集大成的アルバムだった。こういう先進的というか、自身の趣味性を追及しすぎたせいでセールス的にはパッとしなかったのかもしれない。チャート的には93位に終わっている。

 1974年には「ターザナ・キッド」というアルバムを発表したが、これまた不発に終わっている。ただ評論家の受けは良くて、リトル・フィートの"Dixie Chicken"の再解釈やローウェル・ジョージと共作した"Face of Appalachia"など名曲も含まれていた。特に、デヴィッド・リンドレーがフィドルを担当している"Face of Appalachia"は、これまた涙なしには聞くことのできないカントリー・バラードで、70年代半ばの混沌や退廃といった風潮を受け止めながらもそれを越えていこうとする力強さと繊細さを感じさせてくれる。

 また、エヴァリー・ブラザーズもカバーした"Stories We Could Tell"もまた優しいフォーク・ソングだった。エヴァリーの曲の方は、当時ジョンが住んでいた家の居間で録音されていて、これはジョンとエヴァリー・ブラザーズに参加するというプランがあったからだという。ジョンは、そういう意味では、ミュージシャンからも愛されるミュージシャンだったのだろう。51eiz1jlakl

 1976年に発表されたアルバム「ウェルカム・バック」は、ジョンにとってもまたファンにとっても忘れられないアルバムに違いない。このアルバムからは全米No.1シングルになった"Welcome Back"が含まれていたからだ。この曲は、テレビの青春ドラマの主題歌で、テレビドラマが好評だったため、主題歌も一気にチャートを駆け上っていった。ちなみに主演はジョン・トラボルタだった。
 またこの曲以外にも、ザ・バンド風の"I Needed Her Most When I Told Her to Go"ではジョン自身がハーモニカを演奏しているし、完全なブルーズ調の"Warm Baby"、2枚目のシングルになった"Hideaway"などの優れた曲が収められていた。

 "Hideaway"などは、"Warm Baby"とは対照的に、陽気で明るい曲だし、もっと売れてよかったと思っている。また、バラード調の"She's Funny"も落ち着いた感じで、まるでソウル・ミュージックだった。こういう音楽の多様性が彼の魅力なのだが、当時の音楽ファンからすれば、つかみどころがなくて敬遠されたのかもしれない。51crs39r4pl

 その後も彼はコンスタントに活動を続けていて、ライヴ活動も行っているようだ。最近では自分のルーツに戻ったようで、60年代風のジャグ・バンドとともに活動している。513sax1jgrl
 とにかく、彼の作る音楽は彼自身の人間性を表しているようでとても親しみやすく、メロディアスで覚えやすいのが特徴だ。ちょうどウッドストックへの出演で人気に火がついたように、その時のパフォーマンスが、ドラッグのせいかどうかは別にして、彼の人間性が表出されていたからだろう。そして、人の人間性は単一のものではないから、彼の場合はロックン・ロールからR&B、ポップ・ソングにウェストコースト風音楽と、多種多様に表現されたものとして表れてくるのだろう。まさにアメリカン・ミュージックを体現したミュージシャンのひとりではないだろうか。


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