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2019年8月

2019年8月26日 (月)

ザ・ドラムス

 さて、8月も最後の週になってきた。今年の夏も暑かったし、残暑もまた続いている。本当に日本は、亜熱帯気候に属しているのではないかと思われるほどだ。地球温暖化なのかどうかはわからないけれど、間違いなくこの傾向は続いていくのだろう。
 そんな暑さの中で、今年上半期に気になったアルバムを何枚かピックアップしてみたいと考えている。題して、”2019年上半期私の中での話題のアルバム”シリーズだ。そのまんまのタイトルになってしまった。相変わらず芸のない試みである。

 それで第1弾の今回は、アメリカのバンドのザ・ドラムスが登場する。自分はこのバンドのデビュー・アルバムを持っていたと思うのだが、探してみても見つからない。ひょっとしたら売っ払ってしまったのかもしれない。ということは、自分にとってはそんなに良いアルバムではなかったということだろうか。
 確かシングル・ヒットした"Let's Go Surfing"はポップでメロディアスで、どことなく60年代風な要素を携えていたと思っていたのだが、それ以外の曲がピンとこなかったかもしれない。でも、それ以降は、頭の片隅にこのバンドのことは覚えていたようで、今回もラジオでニュー・アルバムのことを知って、聞いてみた次第である。23373

 自分にとってこのバンドは、基本的にはギターとキーボード中心のインディ・ロック・バンドだと思っていたのだが、この最新アルバム「ブルータリズム」を聞くと、そんな感じではなくて、キーボード中心のエレクトロニクス・ポップに変身してしまったような気がした。しかも浮遊感が溢れており、メロディックでキュートな感じがしたのだ。
 こういう音楽は1980年代から存在していた。例えばこんな感じである。
80年代・・・ストロベリー・スウィッチブレイド
90年代・・・ジュエル
00年代・・・ザ・ポスタル・サーヴィス
10年代・・・アウル・シティ

 それぞれどれもドリーミングでファンタスティック、高揚感あふれるエレクトロニクス・ポップで彩られており、この手の音楽が好きな人にとっては、もう離したくないほどだろう。特に、季節的には夏の暑い時期にはぴったりで、四畳半のアパートで孤独な生活をしていても、あるいはプライベート・ビーチでカクテルを片手に優雅な時間を過ごしていても、気分はもうサマー・バケーションといった感じになっていくのである。

 それで、ザ・ドラムスのことに話を戻すと、このバンド、元は4人組でデビューした。2008年頃のお話である。バンドの中心メンバーは、ボーカル&キーボードのジョナサン(ジョニー)・ピアースとギター担当のジェイコブ・グラハムで、ふたりはニューヨーク出身で、幼い頃に教会主催のサマー・キャンプで知り合い、友だちになった。長じて、ジョナサンはエレクランドというバンドを、ジェイコブの方はホース・シューズというバンドで活動していたが、お互い音楽が好きという点で一致し、2008年にブルックリンでザ・ドラムスを結成したのである。

 当初は2人組だったが、あるライヴで会場に来ていたふたりの若者に声をかけ、バンドにいれたそうだ。真偽のほどはよくわからないのだが、もし本当とすれば、奇跡的な出来事のような気がする。
 そして、またこれも嘘のような話なのだが、ライヴ会場に来ていた音楽ライターの目に留まり、好意的な記事が紹介され、すぐにイギリスのインディ・レーベルからシングルが発表され、あれよあれよという間に、シングルがヒットしてアルバム・デビューまでしてしまったようなのだ。

 しかもザ・ドラムスは、2010年度のブライテスト・ホープに選出され、このデビュー・アルバム「ザ・ドラムス」自体も当然のことながら世界中で売れたのである。51bhsgpwnwl
 ところが、ここでギター&ベース担当だったメンバーが脱退してしまう。何となくもったいないような話だが、ある意味、急ごしらえのバンドだったせいか、メンバー間のコミュニケーションがうまく取れなかったのではないだろうか。

 その後、2011年にセカンド・アルバム「ポルタメント」、2014年には「エンサイクロペディア」を発表するものの、アルバムが世に出る前に今度はドラマーが脱退してしまった。 結局、幼馴染だったジョナサンとジェイコブのふたりだけになってしまったのだ。オリジナル・メンバーといえばいいのかもしれないが、2017年のアルバム「アビスマル・ソーツ」のジャケット写真には何とジョナサンしか写っていないではないか。そう、この約1年前に幼馴染だったジェイコブはバンドを離れていたというのである。20140908thedrums_l_full

 ここからは個人的なゲスの感繰りになるのだが、ジョナサンは2013年頃に男性と結婚した。つまりゲイ・カップルである。この結婚生活がバンドに悪影響を与えたような気もしないわけではない。自身の生活優先になってしまって音楽活動に支障をきたしたジョナサンにジェイコブが嫌気をさしたとか、あるいはジョナサンとジェイコブと三角関係になってしまったとか、いろんなことを想像してしまうのだが、ここまで成功していたバンド活動から身を引くというのは、やはりそれなりの理由があったのだろう。

 いずれにしても、ザ・ドラムスはジョナサンのソロ活動のユニット名になってしまった。そして発表されたアルバムが「ブルータリズム」だったのである。
 この”ブルータリズム”というのは、1950年代に流行した建築様式のことだ。獣のようなどう猛さと野蛮さを備えているというで、コンクリートむき出しの様式や装飾や塗装のない無味乾燥とした冷酷さを感じさせるようなものだった。ある意味、都会的といっていいのかもしれない。

 実は、ジョナサン自身はパートナーとの結婚生活を解消していて、それが原因で鬱状態に陥ってしまっていた。そして定期的に医師のもとに通いセラピーを受けていたのだが、その時の憂鬱な気分をタイトルに反映させているという。飾りを排除したむき出しのコンクリート建築と自分自身の心象風景を重ねているのであろう。実際に彼自身もこう述べていた。
 『僕は自分に向き合う必要があった。過去を見つめ、長い間先延ばしにしていた問題に取り組まなければならなかったんだ』

 セラピーを続けながら、自暴自棄に陥りそうな自分を励ましつつ、ニューヨークとカリフォルニアのスタジオを行き来しながら、このアルバムの制作を続けていった。しかし、そういう状況だったにもかかわらず、アルバム自体はポップで浮遊感に溢れており、先ほども述べたように、この手の音楽が好きな人ならマスト・アイテムになるような音楽で占められている。71xowgkjwol__sl1400_

 結果的には、メディカルな対応と音楽制作がジョナサンの精神状態に良い効果をもたらしたようで、アルバムを制作しながら徐々に回復していって、人に対してよりオープンに接することができるようになったと述べている。まさに音楽療法だろう。『悲しみやメランコリーと向き合うことは、それらを否定することではなくて、あるがままの自分を受け入れることなんだ。決して力任せに征服することではないと悟ったんだよ』

 なるほど、だからこのアルバムには、キラキラと岸辺で輝く日差しや、地面に溶けて消えてゆく淡雪のようなピュアネスなどが、どの曲においても感じられるのだろう。そういう感触がジョナサンの作る楽曲には備わっているのである。

 例えば、シングル・カットされた"Body Chemistry"には、今まで偽っていた自分をさらけ出すような性急なビート感覚が溢れているし、一方では"626 Bedford Avenue"のようなメランコリックでファンタジックな美しさが表現された曲も含まれている。
 他にもアルバム・タイトルにもなった"Brutalism"では、無慈悲な冷酷主義に対してたった一つのキスでも有効なんだと謳われているし、波打ち際で囁かれるように歌われる"I Wanna Go Back"は、自分のあるべき場所に回帰しようとするバラードでもある。

 このアルバムの優れている点は他にもあって、基本はキーボード主体のエレクトロニクス・ポップなのだが、スタジオ・ミュージシャンなどを使って、ギター・サウンドも効果的に使用されているところだろうか。5曲目の"Loner"などは良い味付けをしているし、7曲目の"Kiss It Away"でも、まるでU2のエッジのようなエコーが活かされた空間的なサウンドを味わうことができる。
 そしてアコースティック・ギターのアルペジオで誘われるように歌い出す"Nervous"は歌詞的にはヘヴィーな内容ながらもメロディー的には本当にまどろむような感覚を表しているし、それをアップテンポにした"Blip of Joy"では、逆に疾走感がその儚さを追い求めているかのようで、決してマンネリズムに陥らないように巧みにアルバム自体も構成されている。とても心の病に陥った人が作ったようなアルバムとは思えなかった。

 『僕はポップが大好きなんだけど、今の状況は繊細さを失っているような気がするんだ。ちょっと時間をかけて落ち着いた状態を作り、自分が一体なにを試しているのか聞き取りたいんだ』とジョナサンは述べていたが、今の彼にとっては、心の余裕みたいなものも生じてきているのであろう。E29c161eda51960d108ee11a7ea35fcc

 ただ、まだ心理療法が続いてるのかどうかはわからないが、9曲35分というボリュームは少し物足りなさも感じた。しかし逆に考えれば、曲数を絞った分、ジョナサンの持つポップネスがより対象化され、抽出された美しさが表現されているのではないだろうか。夏に聞くアルバムがまた1枚増えたような気がしている。

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2019年8月19日 (月)

ジョン・サイモン

 ジョン・サイモンのアルバム「ジョン・サイモンズ・アルバム」について記すことにした。このアルバムはずいぶん昔から持っていて、幾度となく聞いてきたのが、何となくパッとしなかった。パッとしなかったというのは、自分の中で感じるものがなかったからである。
 でも最近、ジョン・セバスチャンやマリア・マルダーなどを聞き出して、再びこのアルバムに向き合ったところ、これが今までがまるで嘘であるかのように、非常に印象的なアルバムとして感じるようになってきたのだ。

 このアルバムのことは雑誌で知った。アメリカン・ロックの隠れた名盤として紹介されていて、ぜひ一度は耳を傾けてほしいというようなことが記されていたので、当時はロックおたくだった自分は(今もそうだけど)、当時あったCDショップにダッシュで走り込んで購入した記憶がある。だけど、それだけ期待して聞いたのだけれど、何となく自分には合わなかった。ロック的な躍動感や焦燥感が伝わってこなかったからではないかと、いま振り返ってみればそんな感想だったと思う。

 ところが、年老いて人生の先が見えてくると、こういうアルバムの方が合ってくるというか、落ち着いた心境に導いてくれるというか、豊饒なアメリカン・ロックの一端を感じさせてもくれるのである。だから最近はほぼ毎日1回は聞いているのだ。

 このアルバムが発表されたのは1970年の5月だから、もう50年くらい前のことになる。50年だぞ、50年。オギャーと生まれた赤ん坊が50歳の壮年になる時間だ。この50年の間に社会も変わったし、ロックという音楽もずいぶん変わった。まあそんなことはともかく、50年前のアルバムを今も聞いているのだから、いかにこのアルバムが時代の波に流されない、不朽の名作、名盤であるかが分かると思う。

 音楽的な感触は、ソロになったザ・バンド、あるいはニューヨーク近郊のウッドストック発ランディー・ニューマンといった感じだろうか。決してメロディアスといった感じではないし、ありふれたポップ・ソングではない。むしろポップから遠ざかろうとしているのではないかと思われるところもあるし、サックスやトロンボーン、アコーディオンなどのアレンジも凝っていて、一筋縄ではいかない様相を示している。そういうところが逆に新鮮に映るし、聞くたびに味わい深くなって行くのである。

 ジョン・サイモンは1941年8月11日生まれだから、ついこの間78歳になったばかりだ。コネチカット州のノーフォーク生まれで、目の前には大きな牧場がある田舎町で育った。父親は医者であると同時に、ジュリアード音楽院を卒業したセミプロ級のバイオリニストだった。地元では交響楽団のコンサート・マスターも務めた経験があったようだ。
 そういう家で育ったから、小さい頃から音楽に囲まれて育ち、4歳頃からピアノやバイオリンを学ぶようになった。最初はクラシック音楽を学んでいたが、徐々に世の流れに気づくようになり、ジャズやポップスに興味が動き、ついにはライヴ活動まで行うようになって行った。

 大学を卒業すると、当時のコロンビア・レコードに就職してプロデューサーになった。最初は映画音楽やテレビの挿入歌などを担当していたが、ザ・サークルというバンドの「レッド・ラバー・ボール」というアルバムを担当してこれがヒットし(ビルボードのアルバム・チャートの2位)、一躍彼は敏腕プロデューサーとして有名になり、以降、サイモン&ガーファンクルやレナード・コーエン、ジャニス・ジョプリン、ザ・バンドなどを手掛けるようになっていった。920x920 
 特に、ザ・バンドとの仕事はうまく行き、ザ・バンド自体も人気が出てきたし、ジョン・サイモンの名声も高くなって行った。ザ・バンドのデビュー・アルバムである「ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク」はニューヨーク郊外ウッドストックにある一軒家の地下室で練習やレコーディングが行われたが、これはジョン・サイモンのアイデアでもあった。そしてそのアルバムのレコーディングが終了した後に、彼自身のソロ・アルバムの制作が行われたようだ。それが「ジョン・サイモンズ・アルバム」だったのである。

 全11曲39分少々のアルバムだが、参加メンバーがすごい。ベースにリック・ダンコ、リチャード・デイヴィス、カール・レイドル、ドラムスにジム・ゴードン、ロジャー・ホーキンス、リチャード・マニュエル、ギターがレオン・ラッセルにジョン・ホール、サックスとトランペットにはジム・プライス、ボビー・キーズ、ガース・ハドソン、その他にもデラニー・ブラムレット、リタ・クーリッジ、メリー・クレイトン、ボビー・ウィットロック、サイラス・ファイヤーなどなど、つまり、ザ・バンドとレオン・ラッセルのバック・バンドのほとんどが参加しているのだ。これにエリック・クラプトンとレヴォン・ヘルム、ロビー・ロバートソンが加わらなかったのが不思議である。ちなみにアルバム中4曲目の"Davy's on the Road Again"はロビー・ロバートソンとの共作だった。

 1曲目の"Elves' Song"を聞いたとき、正直お世辞にも歌は上手ではないなと思った。これは本人も認めていて、歌はもうだめだと思っていたらしい。でもソロ・アルバムはこれ以降も発表して歌っているので、あきらめたわけではないようだ。ピアノはジョン本人が、ギターはレオン・ラッセルが演奏している。何となくイギリス人のケヴィン・エアーズの曲に似ている気がした。

 "Nobody Knows"はランディ・ニューマン風の楽曲で、ピアノの弾き語りである。これといったフレーズやメロディに乏しく、もう少しよく聴き込もうと思っているうちに曲が終わってしまう。ちょっとコメントしづらい曲だ。
 "Tannenbaum"はジョン・サイモンの故郷のことを歌っていて、かつては豊かだったが、今は荒れ果ててゴースト・タウンのようになってしまったと嘆いている曲だった。バックのギターも美しいし、ホーン・セクションも哀愁を帯びていて素晴らしい。確かに、ザ・バンドの曲だと言われても分からないかもしれないが、ジョン・サイモンも高音が時々裏返るものの、精一杯歌っている様子が伝わってきて、感動を覚えるのである。

 ロビー・ロバートソンとの共作の"Davy's on the Road Again"はややゆったりとしたテンポで歌われていて、穏やかな感じを与えてくれる。ただ個人的には、イギリスのバンドであるマンフレッド・マンズ・アース・バンドが1978年にカバーした曲の方が好きで、そちらの方が躍動感がありメロディー本来の美しさが伝わってくるからだ。このカバー曲は全英シングル・チャートで6位を記録しているので、ロックにうるさいイギリス人でもこの曲の良さは認めているようだ。

 続く"Motorcycle Man"では、リチャード・マニュエルとリック・ダンコがそれぞれドラムスとベース・ギターを担当していて、曲調もザ・バンド風でもある。マーロン・ブランドとリー・マーヴィンが主演した映画「ザ・ワイルド・ワン」をもとにして出来上がった曲らしい。
 "Rain Song"はもちろんイギリスの4人組ロック・バンドの曲ではない。長いギター・ソロやメロトロンも使用されていない。60年代のジョンが生活していたコミューンのことを歌っていて、雨が降ってほしいという雨乞いの祈りのために書いたそうである。この曲もピアノだけをバックに切々と歌っていて、味わい深い。エンディング近くのジョンのうねり声というか遠吠えが寂寥感を与えてくれるようだ。Images

 以上がレコードのサイドAに当たり、次からはサイドBになる。サイドBの1曲目は"Don't Forget What I Told You"で、これもゆっくりとした曲調で、ジョンの奥さんに対するラヴ・ソングである。オーリアンズのジョン・ホールがギターを弾いていて、これがまたなかなか流麗でカッコいいのだ。ロビー・ロバートソンならもう少し違った雰囲気になっただろう。

 続く"The Fool Dressed in Velvet"はジョンの知り合いだった知的障がい者の兄弟について書いた曲で、2人の生き方の対比を通して、人生の無常さを教えてくれているように思えた。これもゆったりとしたバラード系の曲で、途中でマンドリンに近い楽器マンドラが使用されていた。演奏しているのはジョン自身である。またエンディングにギター・ソロがあるが、これもジョン・ホールの手によるものである。

 "Annie Looks Down"はジョンの知り合いの女性について歌ったもの。バックのオルガンはバリー・ベケットが演奏していると思われる。後半はミディアム・テンポかバラード系の曲が多くて、この曲もその中の1つだ。2分50秒と短い曲だった。
 10曲目の"Did You See?"は人生の終わりについて書いた曲で、天国の門の前で迎えが来たかどうかを確認したかと歌っている。ここでもジョンはピアノとマンドラを演奏している。

 最後の曲"Railroad Train Runnin' Up My Back"は楽しそうな曲で、列車の雰囲気がよく表現されている曲でもある。バック・コーラスやハーモニーが、どことなく素朴でノスタルジックな感じを与えてくれる。ジョンは過去の旅行の中から思いついた曲だと述べているが、内容的には男女の三角関係を描いていて、そんなに楽しくはないだろうと個人的には思っている。それでもアルバムの最後を飾るにはマッチしているのではないだろうか。

 というわけで、ジョンサイモンのこのファースト・アルバムは、アメリカン・ロックの歴史的名盤といわれているのだが、今になってやっとそういうもんかなと感じた次第である。たぶんこのアルバム当時の歴史的、社会的背景や日本人にはよくわからない歌詞の部分なども含めて、アメリカ人のロック・リスナーにはかなりインパクトがあるのだろう。
 ザ・バンドのように、個々のメンバーの技量や楽曲の良さで聞かせるアルバムではなくて、アルバムのもつ雰囲気などを含めたトータルな意味での印象度なのだろう。

 また、このアルバムのジャケットも水墨画か墨絵のようで、東洋的だった。こういうミステリアスな東洋趣味みたいなものも、アメリカ人好みなのかもしれない。41xn57wbfpl
 この後ジョンは2年後の1972年にセカンド・アルバム「ジャーニー」を発表し、しばらくブランクがあったが、20年後の1992年にサード・アルバム「アウト・オン・ザ・ストリート」を発表しているし、枚数は少ないもののプロデューサー業の合間を縫って、アルバムを発表している。
 一時、ディスコ・ミュージックやヘヴィメタル・ミュージックが隆盛の頃はプロデューサー業にも嫌気を示していたようだが、1997年には日本人ミュージシャンである佐野元春のアルバム「ザ・バーン」のプロデュースも行っている。ジョンは彼のことを日本のブルース・スプリングスティーンだと思っていたようだ。

 本来のプロデューサーのみならず、ウッドストック系ミュージシャンとしても名声を得ているジョン・サイモンである。もう少し長生きしてもらって、「ジョン・サイモンズ・アルバム」以上のインパクトのあるアルバムを発表してほしいと願っている。

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2019年8月12日 (月)

エイモス・ギャレット

 マリア・マルダーのアルバムから始まって、彼女に関係のあるミュージシャンについて調べてきた。今回はおそらく最後になるであろうギタリストのエイモス・ギャレットが登場する。彼はマリア・マルダーのアルバムに参加してから脚光を浴びるようになったミュージシャンでもある。

 今の日本で、エイモス・ギャレットの名前を聞いて、ああ、あの人かと何人の人が気づくだろうか。かくいう自分もマリア・マルダーのアルバムを聞くまでは全く知らなかったし、聞いてからも上手なギタリストだと思ったものの、具体的なイメージがつかめないでいた。
 彼が有名になったきっかけは、上にもあるように、マリア・マルダーの1973年のアルバム「オールド・タイム・レイディ」の中に収められていた"Midnight at the Oasis"で印象に残るギター・ソロのおかげだった。このプレイのおかげで一気に彼の名前は知れ渡っていったのだが、もちろんそれ以前から彼の名まえは知られていて、ある意味、”ミュージシャンズ・ミュージシャン”として、その筋の人たちからは尊敬と信頼を集めていた。Hqdefault

 例えば、彼は150以上のミュージシャンやバンドと一緒にレコーディングや共演を果たしている。古くは1969年のアン・マレーのNo.1ヒット曲"Snowbird"であり、トッド・ラングレンやスティーヴィー・ワンダー、エミルー・ハリスにボニー・レイットとジャンルを問わない。最近では元フェアポート・コンヴェンションのリチャード・トンプソンや元ザ・バンドのリック・ダンコなどと共演している。あのジミー・ペイジでさえも、最も好きなアメリカ人ギタリストの1人と名前を挙げているくらいだ。だから、欧米では玄人好みのミュージシャンというイメージだったのだろう。

 彼は1941年生まれだから、今年で78歳になる。もちろんいまだに現役だ。生まれはアメリカのミシガン州デトロイトなのだが、5歳の時にカナダのトロントに引っ越していて、アメリカとカナダの両方の国籍を有している。音楽好きの両親のもとで育ち、幼い頃からピアノやトロンボーンに親しんできて、14歳頃からギターを弾き始めたようだ。
 きっかけは、クラブなどでベン・E・キングやB.B.キング、T-ボーン・ウォーカーなどの演奏を見たからで、自分もやってみようと思ったのだろう。その後、アメリカの大学で英文学を学んだあと、トロントに戻ってローカル・バンドに加わりテクニックを磨いていった。

 60年代初めは様々なバンドを渡り歩いていったが、そこで後に”ザ・バンド”として有名になった”レヴォン&ザ・ホークス”と出会っている。1968年からは2年間、カナダ人のフォーク・デュオであるイアン&シルヴィアのレコーディングやツアーに参加していて、やがては彼らと一緒にカントリー・ロック・バンドのグレイト・スペックルド・バードを結成して、アルバムも発表した。ナッシュビルで録音された彼らのデビュー・アルバムは、トッド・ラングレンがプロデュースしていた。自分は未聴なので、一度聞いてみたいと思っている。

 1970年にニューヨークに移り住んだエイモス・ギャレットは、ジェフ&マリア・マルダーに出会い、これまた彼らと一緒に活動を始めた。この時の関係で、彼ら2人だけでなくニューヨーク郊外のウッドストック周辺に住んでいたミュージシャンたちと交流が始まったようだ。つまり、ジョン・サイモンやジェシ・ウィンチェスター、ポール・バタフィールドなどである。
 1972年には、元グレイト・スペックルド・バードのメンバーとハングリー・チャックというバンドを結成して、アルバムを1枚発表したが、バンドはすぐに解散してしまった。また、この年はジョン・サイモンのセカンド・アルバム「ジャーニー」にも参加している。

 翌年になると、交友関係をたどってポール・バタフィールドのベター・ディズというバンドに加わって豪快なギターを聞かせたりしたが、バンド活動はここまでで、これ以降はソロ・ミュージシャンとして、様々なセッションやレコーディングに参加するようになって行った。マリア・マルダーのアルバムへの参加もそうだし、グレイトフル・デッドのジェリー・ガルシアの2枚目のソロ・アルバム「コンプリメンツ」では2曲で昔習っていたトロンボーンを演奏している。なかなか芸達者なミュージシャンだ。
 また、マリア・マルダーの元夫であるジェフ・マルダーのソロ・アルバムにも参加しているし、エミルー・ハリスの1975年のアルバム「エリート・ホテル」では、ザ・ビートルズの"Here,There and Everywhere"にも客演していた。その後は、ボストンやサンフランシスコに移り住んで、セッション・ミュージシャンとして活動を続けていった。81h89qny2xl__sl1022_

 80年代に入ると、本格的にソロ活動を開始して、80年に「ゴー・キャット・ゴー」、82年には「エイモスビヘイヴィン」、89年には「ホーム・イン・マイ・シューズ」というアーシーでアットホーム的なアルバムを発表している。中でも「エイモスビヘイヴィン」は名盤との誉れが高く、レイドバックした演奏やリラックスしたボーカルなどを味わうことができる。61jzttppmml__sl1500_
 もともとエイモス・ギャレットは歌が歌いたくてしょうがなかったのだが、ずっとセッション・ワークが続いたため、またバンドでは他にボーカルがいたため、なかなか歌う機会に恵まれなかった。しかし、ソロになってからは当然のことながら、すべてのアルバムで歌声を披露している。

 中でも1992年に発表された「雨のジョージア」(原題はサード・マン・イン)では、彼のルーツがうかがい知れるようなカバー曲やオリジナル曲で占められていて、今でも比較的入手しやすいアルバムだ。彼はテレキャスターを弾くことで知られていて、このアルバムでもテレキャスター独特の枯れた味わい深い音色を聞かせてくれる。71lqffrg91l__sl1500_
 全10曲で38分余りしかないアルバムだが、1曲目の"Poor Fool Like Me"は軽快なカントリー・ロックで、アルバム冒頭からエイモスは飛ばしている。中間のソロ演奏は、何となくスティーヴィー・レイ・ヴォーンを彷彿させてくれた。
 続く"Baby Your Feets is Cold"はミディアム・テンポの曲で、今度はテックス・メックスのような陽気な雰囲気を漂わせている。途中でセリフのようなものが挿入されるところが何となくユーモラスな感じで、劇中歌のようだ。

 3曲目の"But I Do"はボビー・チャールズという人の曲で、彼とエイモスは親友のようだ。ボビー・チャールズもウッドストック系のミュージシャンで、シンガー・ソングライターだった。ギタリストというよりも作曲家というイメージが強くて、彼の書いた曲はレイ・チャールズやファッツ・ドミノ、Dr.ジョンなど、多くのミュージシャンによってカバーされている。残念ながら、2010年の1月に71歳で亡くなっている。
 この曲はお洒落で都会的な感じの曲で、バックのピアノがナイトクラブでカクテルを飲むような感じを与えてくれる。中間部でのギター・ソロはこれまたスローでジャジーな調べで、サスティーンがよく伸びていて印象的だ。エイモスの曲調の幅の広さを示してくれている。

 一転して"I Ain't Lying"ではシャッフル調になり、続く"What a Fool I Was"ではホーン・セクションが使用されていて、モダンなスロー・ブルーズといった感じだ。この曲はエイモスの敬愛するアフリカ系アメリカ人ミュージシャンのパーシー・メイフィールドのオリジナル曲であるが、R&Bというよりはこれまたモダンでジャズっぽくアレンジされている。
 パーシー・メイフィールドという人は、1950年代から60年代にかけて一世を風靡したブルーズ・シンガーで、彼の落ち着いた低いバリトン・ボイスは神をも聴き入らせてしまうほどといわれていた。1952年に自動車事故に遭ってからはライヴ活動を控えるようになったものの、その後もヒット曲を連発し、60年代では作曲家として活躍している。ただ、彼もまた1984年に心臓発作で亡くなった。64歳だった。

 "Got to Get You Off My Mind"はローリング・ストーンズもカバーした有名な曲だが、ここでの曲はそれとはまったくアレンジが異なっていて、最初聞いたときは軽めの曲だったせいか、ほとんど印象に残らなかった。アレンジが異なればここまで曲が変わるのかという典型的な見本かもしれない。時間があれば、聞き比べてみるのも面白いと思う。ちなみに、オリジナルはミック・ジャガーが崇拝していたR&Bシンガーのソロモン・バークという人の曲だった。

 7曲目は、日本語盤のタイトルにもなっている曲"Rainy Night in Georgia"(雨のジョージア)で、 オリジナルはトニー・ジョー・ホワイトというシンガー・ソングライターの曲だ。トニー・ジョー・ホワイトといえば"Rainy Night in Georgia"、"Rainy Night in Georgia"といえばトニー・ジョー・ホワイトといわれるくらい有名な曲だが、この曲も多くのミュージシャンによってカバーされている。ミディアム・スローの曲調が印象的で、何度聞いても心にじわっと哀愁が染み込んでくる。このアルバムの中でも一聴に値する曲だろう。

 "Flying Home"は、このアルバムでは珍しく彼と同じギタリストのトム・ラヴィンが共作したインストゥルメンタルで、最初サックスから入ってビックリしたのだが、途中からはエイモスとトムのギターの掛け合いが始まったので、少し安心した。でも最初と最後のサックスは要らないから、その代わりにギター・ソロを聞かせてほしかったなあと思った。せっかくのインストゥルメンタルが何となくもったいない。
 "Let Yourself Go"もまたボビー・チャールズのオリジナル曲で、この曲もまた"Rainy Night in Georgia"と同じくらい印象的なバラード曲だ。バックで演奏されるエイモスのギターもまた、それに拍車をかけてブルージーである。ただエンディングがフェイドアウトされるのが残念で、もう少し最後まで聞かせてほしかった。

 ブルージーといえば、このアルバムの中で一番ブルージーな曲が最後の曲"Lost Love"だろう。完全なスロー・ブルーズで、間奏ではクラプトンも顔負けの渋めのチョーキングを聞かせた速弾きを聞かせてくれる、ほんの少しだけど。この曲もカバー曲で、オリジナルはカナダのブルーズ・ギタリストのジョニー・V・ミルズの手によるもので、4曲目の"I Ain't Lying"もジョニーのオリジナル曲だった。91cp8e3rvkl__sl1500_

 エイモス・ギャレットはまた親日家としても有名で、1970年に大阪万博でのカナダの音楽大使として来日して以来、幾度となくライブを行っていて、1990年には東京や大阪での公演を収めた「ライヴ・イン・ジャパン」というライヴ・アルバムも発表している。
 顔は俳優のジェームズ・コバーンに似ているし、ギターの腕前は超一流、ギターの教則本の本やビデオを出しているくらいだ。日本でももっとメジャーになっておかしくないのに、ヒット曲がないせいか、一部の人たちを除いてあまり知られていない。このまま玄人受けのミュージシャンとして終わってしまうのだろうか。

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2019年8月 5日 (月)

ザ・ラヴィン・スプーンフル

 ジョン・セバスチャンつながりで、彼が元所属していたバンド、ザ・ラヴィン・スプーンフルについて記すことにした。前回にも同じことを書いたのだが、このバンドの曲を聞いて、ニューヨーク出身だとは気づかなかった。むしろサンフランシスコかロサンジェルスのような西海岸出身のバンドだと思ってきた。曲にひんやりとした大都会の雰囲気が備わっていなかったし、むしろ明るくて陽気な雰囲気が漂っていたからだ。

 このバンドの代表曲といえば、やはり"Do You Believe in Magic?"だろう。日本のCMにも使用されていたし、その明るくて弾むような曲調は一度耳にしたら、忘れられない印象を与えてくれるからだ。220pxdo_you_believe_in_magic_lovin_spoon
 また、この曲は彼らのデビュー曲で、1965年の8月に発表されて瞬く間にシングル・チャートを駆けのぼり、最高位9位を記録している。個人的には"サマー・オブ・ラヴ"を象徴するような曲調だったし、バックのコーラスもザ・ビーチ・ボーイズ風だったりして、軽快で躍動感あふれる曲だと思っている。
 この曲を書いたジョン・セバスチャンは、曲のイントロ部分をモータウンに所属していた女性ボーカル・グループのマーサ&ザ・ヴァンデラスの曲"Heat Wave"から思いついたとインタヴューで答えていた。またこの曲は、多くのミュージシャンからカバーされていて、特に1978年にはショーン・キャシディが歌って、ビルボードのチャートで31位を記録している。

 それから約3ヶ月後、今度は"You Didn't Have to Be So Nice"という曲がヒットした。これはビルボードのシングル・チャートの10位まで上昇した。こちらは彼らの2枚目のシングルにあたり、ジョン・セバスチャンとバンドのベーシストのスティーヴ・ブーンの共作だった。ジョンが言うには、ザ・ビーチ・ボーイズの曲"God Only Knows"からインスピレーションを受けたようだが、ザ・ラヴィン・スプーンフルの方が明るい感じがするのは気のせいだろうか。_you_didnt_have_to_be_so_nice__lovin_spo
 ちなみにこの曲もまた、ザ・グラスルーツやボサノバ歌手のアストラッド・ジルベルトなどにカバーされている。特に、エイミー・グラントとケヴィン・コスナーが主演した映画「ザ・ポストマン」ではエンドクレジットで使用されていた。

 デビューして最初の2枚のシングルのヒットのおかげで、彼らは一躍有名になり、60年代中期を代表するアメリカのバンドになった。それまでザ・ビートルズを始めとするイギリスのバンドからアメリカのチャートが席巻されていたのだが、これでようやくイギリス勢に対抗できるアメリカのバンドが誕生したというわけだった。

 ザ・ラヴィン・スプーンフルは、1964年に結成されたが、最初のドラマーのジャン・カールはすぐに脱退し、代わりにジョー・バトラーという人が担当するようになった。元々、ジョーとベーシストのスティーヴ・ブーンはザ・キングスメンというバンドで一緒に活動していたから、お互いに気心の知れた間柄だったようだ。
 ところが彼らは、最初は素人に毛の生えたような演奏テクニックしか持っておらず、あまりにお粗末な内容だったため、クラブのオーナーからもっと練習してから人前で演奏しろ、それまでここには来るなと言われたようで、それから必死になって練習していったという逸話が残されている。

 1966年は、彼らにとってはまさに全盛期と呼ばれるにふさわしい年になった。2月に発表した"Daydream"は、全英、全米ともにチャートの2位を記録した。まさに”白昼夢”というタイトルに相応しいほんわかとした曲で、ジョンの口笛がフィーチャーされていた。この曲もまたチェット・アトキンスにドリス・デイ、マリア・マルダーやアート・ガーファンクル、デヴィッド・キャシディ、リッキー・ネルソンなど数多くのミュージシャンによってカバーされている。

 そして4月には"Did You Ever Have to Make Up Your Mind?"がヒットして、これまた全米シングル・チャートの2位になった。Did_you_ever_have_to_make_up_your_mind__ そしてそれから3ヶ月後の7月には、ついに"Summer in the City"が全米チャートの首位を獲得したのである。今までの曲よりは幾分ロック寄りの激しいビートを持つこの曲は、幾分アグレッシヴでそれまでの夢見るような曲調とはかなり違うものだった。騒がしい都会の喧騒を表現しようとしたのか、車のクラクションや工事中のドリルの音が使用されていて、彼らの音楽的質の変化が表されていた。ザ・ビートルズでいえば、中期の「リボルバー」的変化に当たるだろう。この曲は3週にわたって首位を飾っている。220pxsummer_in_the_city

 そのあとフォーク・タッチの"Rain on the Roof"はシングル・チャートの10位を記録し、カントリー風の"Nashville Cats"は8位になった。とにかく出す曲出す曲すべてチャートのトップ10に入るという勢いだったから、いかに彼らの人気が高かったかが分かると思う。それに、クラブのオーナーからもっと練習して来いと言われたバンドとは思えないくらい、ポップ・ソングからロックン・ロール、カントリーにフォークと音楽的なバックグラウンドも広かった。そういう音楽性の幅広さというのも多くの人たちから支持されたいたのだろう。

 さらにバンドは、ブロードウェイのミュージカル"ヘア"にも楽曲を提供するし、ウッディ・アレンやフランシス・フォード・コッポラの映画のサウンドトラックにも協力するといった具合に、様々な分野にも進出していった。それだけ彼らの音楽性に需要が求められていたのだろう。監督が使いたいと思ってしまうような何らかの魅力を秘めていたに違いない。そんなこんなで、夢のように1966年は過ぎて行ったのである。

 で、”好事魔多し”の譬え通り、翌年の67年になると、バンドは徐々に下り坂を迎えていくのである。まず"Six O'clock"がチャートの18位までで止まってしまった。今までトップ10内に入っていたのだが、18位だった。それでも立派と言えば立派なのだが、ブラスとハードなギター・カッティングがフィーチャーされてこの曲は、ジョー・ウィザードという人がプロデュースを担当していた。のちにボズ・スキャッグスなどのアルバムのプロデュースも手掛けた人であるが、今までのプロデューサーと違う選択をしたのが、あまりうまく行かなかったのかもしれない。

 5月になると、ギタリストのザル・ヤノフスキーがドラッグで逮捕されてしまった。まるでザ・フーのピート・タウンゼントのようなハードなリフやカッティングを得意としていた人で、バンドのハードな面を担当していたギタリストだった。彼はカナダの市民権を持っていて、このまま黙秘を続けていくとアメリカに再入国できないと言われて、全面的に罪を告白してしまった。それで一旦は執行猶予がついて保釈されるのだが、結局、音楽業界から足を洗ってしまい、カナダに戻ってレストランを開いてオーナーになった。

 バンドは当然のごとく、新しいギタリストのジェリー・イエスターを迎え入れるのだが、ロック的なダイナミズムは失われてしまい、マイルドなポップ・バンドになってしまった。例えば"She is Still A Mystery"という曲があるのだが、ブラスやストリングスがバックで鳴っていて、まさに”東海岸のザ・ビーチ・ボーイズ”といった感じだった。これもジョー・ウィザードのプロデュースで、彼はこういった装飾音で飾り付けるのが得意なプロデューサーなのだろう。61k8wmcjgel__sl1200_

 バンドがポップ化するのが嫌になったのか、それともほかの理由があったのかよくわからないのだが、翌1968年には今度はジョン・セバスチャンがバンドを脱退してしまった。メイン・ソングライターを失ったバンドが長続きするはずもなく、1969年に解散してしまった。
 解散前のバンドは、基本的にギターとベースとドラムスの3人組だった。ドラムを担当していたジョー・バトラーは歌が歌えたので、彼をメイン・ボーカルにしてセッション・ミュージシャンを起用しながら演奏を続けていたようだ。ちなみにジョーが歌った"Never Goin' Back"という曲は、シングル・チャートの73位まで上昇している。
 この曲はジョン・スチュワートという人が作った曲で、この人はザ・モンキーズのあの有名な"Daydream Believer"を書いたことでも有名なソングライターだった。712vfrnypql__sl1200_

 その後ザ・ラヴィン・スプーンフルは、1979年にポール・サイモンの「ワン・トリック・ポニー」という映画の中で、オリジナル・メンバーが再結成して歌っている。また、2000年にはロックの殿堂入りを果たしていて、その時も受賞セレモニーの中で、オリジナル・メンバーが"Do You Believe in Magic?"と"Did You Ever Have to Make Up Your Mind?"を歌っている。
 それ以外は、基本はジョー・バトラーとスティーヴ・ブーン、ジェリー・イエスターの3人でザ・ラヴィン・スプーンフルを名乗って公演などを行っているようだ。また、ジェリーの弟のジムがギタリストになったり、ジェリーの娘のレナがキーボードで参加して脱退していったりするなど、メンバーの出入りが流動的でもある。

 そして、2002年にオリジナル・メンバーだったザル・ヤノフスキーが亡くなってしまうと、ジョン・セバスチャンは声明を発表し、もう二度とザ・ラヴィン・スプーンフルのメンバーとして活動はしないと述べている。バンドは今も活動はしているようだが、実質的には2002年で終わったとみてもいいのではないだろうか。

 とにかく、フォークからカントリー、映画音楽にロックン・ロールと幅広く多様な音楽性を有していたザ・ラヴィン・スプーンフルだった。あのジョン・レノンも愛聴していたし、ポール・マッカートニーも"Good Day Sunshine"は、ザ・ラヴィン・スプーンフルの"Daydream"からの影響を認めているくらいだ。活動期間は短かったものの、その功績は、まさにロックの殿堂入りに相応しいものと言えるだろう。

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