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2020年2月

2020年2月24日 (月)

ギルバート・オサリバン

 突然、ギルバート・オサリバンについてコメントをしたくなった。なぜだかわからないけれど、急にアルバムを引っ張り出してきて、聞いている。よく考えたら、このブログも始めてから13年になった。バンドやミュージシャンについても、1200以上は項目として存在している。その中でも、ギルバート・オサリバンについて直接言及した項目はなかった。あれだけ有名なミュージシャンにもかかわらず、触れていないのはいったいどうしたことだろうか。Images_20200131234201

 今の新しい人にはよくわからないだろうけれど、1970年代初頭のギルバート・オサリバンといえば、ポール・マッカートニーやジョン・レノンくらい有名だった(と思う)。少なくとも、同じイギリス系のエルトン・ジョンと並び称されるくらいヒット曲を出していた。これは間違いないだろう。今でも時々、日本のTVコマーシャルやバラエティ番組などでも彼の曲は使用されている。きっと、50歳代の番組プロデューサーなどは子どもの頃によく聞いていたのだろう。だから、大人になってある程度自分の権限が及ぶ範囲では、彼の曲を使用したりするのだろう。

 自分が初めてCDを購入したのは1986年頃で、その時のアルバム・タイトル名は「アローン・アゲイン」だった。もちろんギルバート・オサリバンのシングル曲の名称であり、このCDは彼のベスト・アルバムだった。だからギルバート・オサリバンには思い入れが深いのである。
 また、このベスト・アルバムのキャッチコピーには、こう書かれていた。「時代を越えた鮮烈な輝きが、今、また音楽シーンに新たな光明を投げかける '60年代、'70年代の若者には懐かしさを!'80年代の若者には、新鮮な衝撃を

 このアルバムには、ライナーノーツが付いていて、その中で来生たかお氏は、「オサリヴァン無くして、今の僕は存在しなかっただろう」とまで言い切っていた。来生氏は、ギルバート・オサリバンの影響でピアノを弾くことを決心し、音楽的姿勢や詩、そして格好まで傾倒してしまい、銀座で服も似せて作ったようだ。銀座で服を作るというところがセレブだが、それほどギルバート・オサリバンにのめり込んでいたのだろう。

 さらに杉真理氏は、「彼がいなかったら'70年代は何と味気ないものだっただろう。"Alone Again"こそ、一番心を動かされた曲だ」と述べていた。日本のポップ職人もこう言っているのだから、如何に当時のギルバート・オサリバンの人気や実力がすごかったかがわかると思う。そして極めつけは湯川れい子嬢で、「'72年'73年は名曲の生まれた年ですが、その中でも"Alone Again"のインパクトは群を抜いている」と書いていた。音楽評論家で詩人でもある湯川れい子嬢もこのように述べているのだから、これはもう折り紙付きというものだった。

 また、ギルバート・オサリバンの声も特徴的だった。グレッグ・レイクのような深みはなく、ジョン・アンダーソンのように甲高くもない。そして、エンゲルベルト・フンパーディンクのような渋みもないのだが、ややキーが高くて、どこか甘くてマイルド、バラードでもテンポの速い曲でも、一度聞いたら忘れられない、あっギルバート・オサリバンの声だとすぐにわかるのだ。だから子どもの頃はラジオから彼の曲が流れてくれば、すぐにわかったものだった。

 自分が買った彼のベスト・アルバムには14曲が収められていた。曲はおもにデビューから1977年頃までの彼の代表曲を集めているようだ。1曲目はご存じ"Alone Again"で、続いてアップテンポの"Get Down"、ちょっとジャージーな雰囲気を漂わせている"Ooh Baby"と続き、4曲目が"Nothing Rhymed"だった。この"Nothing Rhymed"という曲は1970年の10月に発表されていて、ギルバート・オサリバンの英国での最初のシングルだった。チャート的には英国では8位、オランダでは1位を記録している。また、この曲が収録された彼のデビュー・アルバム「ヒムセルフ」は、全英アルバム・チャートで5位になり、86週にわたってチャートインするなど、記録的なヒット作品になった。ここから彼の栄光の歴史が始まったのである。 61t0t73j2l__ac_

 ちなみに大ヒットした"Alone Again"は1972年の作品で、全英、全米ともに1位を記録し、アメリカではグラミー賞にもノミネートされていた。彼の代表曲の一つで、内容的には両親の死や婚約者にふられた孤独感などが含まれている。ただ、これは彼の自伝的なものではなく、確かに彼の父親は彼が11歳の時に亡くなっているのだが、母親はまだ健在だったし、この曲を書いた時はまだ21歳で、婚約者にもふられてはいなかった。21歳の若者がこれほど老成した曲を書いたのだから大したものである。

 同じ1972年の作品が"Ooh Wakka Do Wakka Day"で、このシングルは全英8位まで上昇している。当時のアルバムには未収録曲だったが、21世紀になってからセカンド・アルバムのリマスター盤「バック・トゥ・フロント」に収められた。このアルバムには"Clair"という曲も収められていて、シングル・チャートでは全英で1位、全米では2位を記録している。曲の最後に子どもの笑い声が入っていて、てっきりこれはギルバート・オサリバンの子どもの声だろう、スティーヴィー・ワンダーの曲のアイデアをパクったのだろうと思っていたら、この曲の方が早くてスティーヴィー・ワンダーの方が後からだった。だからといって、スティーヴィー・ワンダーがパクったとは言えないだろうけれど。 51bavfqra5l__ac_
 そんなことはどうでもいいのだが、この"クレア"という人は、ギルバート・オサリバンのプロデューサーだったゴードン・ミルズという人の3歳の娘のことを歌っているもので、当時のギルバート・オサリバンとゴードン・ミルズは、家族ぐるみの付き合いをしていたということがこれでわかると思う。

 また、ベスト盤にある"Who Was It?"は、この「バック・トゥ・フロント」にある"With You Who Was It?”のことだろう。曲の時間的にもほぼ同じなので、同名曲だと思われる。シングル・カットはされていないので、チャート・アクションの記録はない。

 "Ooh Baby"と"Get Down"、"A Friend of Mine"は、1973年に発表された彼の3枚目のアルバム「アイム・ア・ライター、ノット・ア・ファイター」に収められていて、のちの2012年のリマスター盤には"Why Oh Why Oh Why"も収録された。
 この中で一番印象が強いのは、"Get Down"で、名バラード曲だった"Alone Again"だけでなく、こういうアップテンポでロック的な曲(全然ロック調ではないのだけれど、当時はそんな印象だったのだ)も作って歌うことができるんだと驚いた記憶がある。つまり彼は、"一発屋"ではなかったということだ。当時はそんな言葉は知らなかったけれど、彼の才能というか曲のバラエティの豊かさに感動していた。

 "Get Down"はもともとは、ギルバート・オサリバンのピアノの練習曲で、イントロの部分しかなかったのを彼が曲としてまとめたものであり、ガールフレンドの犬の調教用としての言葉(「おすわり」)について歌っている。内容的にはそんなシリアスなものではないのだが、自分にとっては何か重要なことのように思えて、英語の辞書で意味を調べたのだが、よくわからなかった思い出がある。ちなみにチャート的には、全英1位、全米7位を記録している。 81wlc68hrbl__ac_sl1200_

 1974年に発表されたアルバム「ア・ストレンジャー・イン・マイ・オウン・バックヤード」には甘いストリングス付きのバラード曲"If You Ever"が収められていて、この2012年のリマスター盤には"Happiness is Me And You"がボーナス・トラックになって入っていた。この後者の曲にもストリングスが付随していたから、この頃のギルバート・オサリバンはほぼイージーリスニング化していたようだ。
 アルバムのエンジニアには、ポール・サイモンやビリー・ジョエルなどを手掛けたフィル・ラモーンの名前がクレジットされていたから、ひょっとしたらそんなことも関係していたのかもしれない。アルバム・チャート的には全英19位、全米62位だった。前年に発表されていたシングル"Ooh Baby"が全英18位、全米25位だったから、このあたりから徐々にチャート・アクションのキレが鈍くなってきたようだ。

 また、この年のクリスマス用シングルとして、文字通りの"Christmas Song"という曲も発表されている。全英12位、アイルランドでは5位、全米ではチャートインしなかった。欧米ではクリスマス・シーズンにクリスマス・ソングを発表するシンガーやバンドは、世間から一流と認められているという暗黙の了解があるようで、そういう意味では、ギルバート・オサリバンもまた一流ミュージシャンとして認知されていたのだろう。 51vrg4pysyl__ac_

 翌1975年には"I Don't Love You But I Think I Like You"という曲が発表されている。この曲は、彼にとっては珍しくブラスも使用されており、ギターにもディストーションがかかっているほど、かなりハードな楽曲だった。チャート的には全英14位、アイルランドでは7位と何とか健闘している。また、"Miss My love Today"は、マイナー調のちょっとダークな雰囲気の曲。そのせいか英国でも米国でも、そして母国アイルランドでもチャートインを逃している。1977年のアルバム「サウスポー」に収録されていて、この曲を含むアルバム全体をギルバート・オサリバン自身がプロデュースしていた。51zpfdovdil__ac_

 実は、上にもあったように、ゴードン・ミルズはトム・ジョーンズなども手がげるほどの有能なプロデューサーであり、ギルバート・オサリバンもゴードン・ミルズの娘を題材に曲を書くなど、当初は良好な関係を築いていたのだが、徐々に悪化していった。金銭関係が原因とか、ギルバート・オサリバンの独立問題のせいだとかいわれているが、詳細は不明だった。ただ確かなことは、ギルバート・オサリバンも人間不信に陥ってしまい、本来の音楽活動に専念できずに音楽活動から遠のいていったという事実だ。それが1970年代後半からで、チャート・アクションもそれを証明しているみたいだった。

 ギルバート・オサリバンはアイルランドで生まれたが、7歳の時にイギリスに引っ越して生活を始めた。大学生の時に、"リックス・ブルーズ"というバンドに所属してドラムスを担当していた。このバンドのリーダーは、のちにスーパートランプで活躍したリック・デイヴィスであり、バンド名もそこから来ている。リックはギルバート・オサリバンに、ドラムの演奏方法やピアノの弾き方などを教えたそうだ。何となく結びつかないのだが、才能のある人同士は、お互いに磁石のようにひかれあうのだろう。

 彼の世界的な名声は70年代の後半に終焉していったが、一時遠ざかっていたものの、音楽的活動はその後再開していて、2018年には「ギルバート・オサリバン」というオリジナル・アルバムを発表している。彼にとっては19枚目のスタジオ・アルバムにあたるもので、英国のアルバム・チャートでは20位を記録した。これは、ベスト盤を除いては約40年ぶりにチャートインしたアルバムになった。A119jrcsk1l__ac_sl1500_

 現在73歳のギルバート・オサリバンである。プロデューサーとの確執がなければ、もっと多くのヒット曲を生み、もっと多くの人気を獲得して、今でもなおライヴ活動にいそしんでいたかもしれないほどのミュージシャンだった。ちょっと残念なところはあるけれど、それでも70年代の彼のヒット曲は、いまだに色褪せない。そして年がたてばたつほど、その輝きはより一層光を増すように思えてならないのだ。

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2020年2月17日 (月)

ザ・ミスティーズ

 昨年の秋に発表された新作を紹介する。これが今どき珍しい超弩級ポップ・ソング・アルバムだからだ。ザ・ミスティーズという名前なのだがバンドではなく、ヨハン・ステントープというスウェーデン人がやっているプロジェクト名だった。プロジェクトといっても、メンバーが流動的とかバンド名にこだわっているとかいうのではなくて、彼一人で作詞、作曲、アレンジ、プロデュースにミキシング、もちろんすべての楽器も手掛けていて、要するにワンマン・プロジェクトなのである。S_img_5553

 それなら別にバンド名っぽくするのではなくて、個人名で発表すればいいのにと思うのだが、彼曰く、バンド名が欲しかったのはその手の音楽だと思ったから、ということらしい。さらに、まだ使われていない名前を見つけるのは難しくて、ポップな響きのする名前を考えていたら"ザ・ミスティーズ"になったという。

 彼は、80年代から活動をしているマルチ・ミュージシャンで、1983年にプラズマというバンドのキーボード・プレイヤーとしてプロ・デビューしている。バンドは1984年に解散したが、翌年にはタイム・ギャラリーというバンドを結成してアルバムも発表した。タイム・ギャラリーは、大物プロデューサーのキース・オルセンの目にとまって、アトランティック・レコードと契約もしていた。順調に活動も進んでいくと思えたのだが、残念なことにセールス的に振るわず、1992年に2枚目のアルバムを発表したあと解散している。 61szdgjydml

 そのあとヨハンは、スタジオ・ミュージシャンとして活動していくのだが、高校時代の同級生だったパール・デヴィッドソンという人と一緒にトランポリンズというユニットを結成して活動を始めた。ユニットは4人組のバンドへと発展して3枚のスタジオ・アルバムを発表していて、折からのスウェディッシュ・ポップ・ブームの波にものり、日本でも注目を集め、来日公演も果たしている。
 トランポリンズ自体は、3枚のアルバムを残して1999年に解散してしまうのだが、母国スウェーデンではもちろんのこと、日本やヨーロッパではセールス的にも好調で知名度的は高かった。

 その中心人物だったヨハン・ステントープの好きなバンドやミュージシャンは、デヴィッド・ボウイやクィーン、10ccにスーパートランプ、ザ・クラッシュなどの70年代から活躍しているバンドやミュージシャンであり、さらにはエルヴィス・コステロ、クラウディッド・ハウス、ドッジー、XTCなどの80年代、90年代のバンドなどにも及んでいて、まさにポップ・ミュージックの博覧会のような感じだ。また、どちらかというと英国中心であり、どこかひねくれたポップ・ミュージックを志向しているようである。

 ヨハンはまた、スクイーズやジェリーフィッシュもフェイヴァリットに挙げているのだが、やはりザ・ビートルズが始まりのようで、中でもジョージ・ハリソンの曲には思い入れが深いという。"Here Comes The Sun"や"Something"はレノン&マッカートニーの曲にも匹敵すると言っていて、そんなことはいまさら言わなくても誰でもわかることだろうとツッコみたくもなる。ただ敢えてジョージ・ハリソンの曲が好きというところに、ヨハン・ステントープの個性というか原点があるような気がする。

 原点といえば、ヨハンが音楽にのめりこむきっかけになったのは、ディープ・パープルの「イン・ロック」を聞いてからで、何故かイアン・ペイスに憧れて11歳でドラムを始めたらしい。普通はリッチー・ブラックモアに憧れてギターを始めるんじゃないかな、もしくはイアン・ギランのようにシャウトしたいとか。それがイアン・ペイスなのだから、やはりヨハンはちょっと違っている。

 そこから始まり、曲作りをするようになってドラムからキーボードに転身した。また、父親からはクラシック、8歳上の兄からはアリス・クーパーからシカゴ、キャンド・ヒートなどのアメリカン・ロック、ピンク・フロイドにジェネシスやイエスのプログレ系、ブラック・サバスやユーライア・ヒープ、シン・リジィなどのハード・ロック系、キャット・スティーヴンス、ニール・ヤング、レオ・セイヤーなどのシンガー・ソングライター系など、幅広いジャンルのレコードを聞いていてその影響を受けている。これらの音楽をひとくくりにすることはあまり意味はないかもしれないが、基本的には70年代の音楽が中心で、メロディーがはっきりとしているバンドの曲が多いようだ。だから最終的に、ポップ・ミュージックを志向するようになったのだろう。

 そんなヨハンの、いや間違えたザ・ミスティーズのアルバム「ドリフトウッド」は、当初40曲余りが準備され、それらを絞り込んで25曲くらいレコーディングをしている。そして最終的に残ったのは12曲だった(国内盤ではボーナス・トラック付きで15曲)。
 タイトル名の「ドリフトウッド」とは流木のことで、彼が住んでいる近くにビーチがあって、時々散歩をするという。散歩をしながら曲のアイデアやメロディーが浮かんできて、それを集めてこのアルバムを作ったようだ。それが浜辺に打ち上げられた流木を集めるような感じだというので、タイトル名になったらしい。61bkk0xsa4l__ac_

 1曲目の"Good Things"から弾けるようなメロディを聞くことができる。この曲では、ヨハンはフリートウッド・マックを意識しているようだが、80年代のフリートウッド・マックよりもポップである。"Your Heart is Bigger Than That"はアメリカのパワー・ポップのバンドの曲のようだ。ウィーザーとかファウンテン・オブ・ウェインとかのややスローな曲を思い出させてくれた。

 "Calling Out!"は80年代のニュー・ウェイヴのサウンドを意識したようなのだが、聞いていてあまりそんなことは感じられなかった。基本的にはどの曲もそうだけど、シンセサイザーなどの電子音楽機器は目立っていないし、性急なビートの曲もない。この曲もテンポは軽快で、聞かせるパワー・ポップの曲になっている。ヨハンは1時間くらいで仕上げて、曲のアイデアが新鮮なうちにレコーディングを行ったという。

 "That in Not What Friends are For"は2分58秒と短い曲だけれど、かなり時間がかかって作られたようで、苦労したらしい。途中で何回か転調しているし、シンプルながらもピアノやギターの短いフレーズも挿入されていて、シンプルな曲のようで複雑な構成なのが分かる。職人技のようなポップ・ソングだ。

 "Face the Sun"もミディアム・テンポのポップ・ソングで、メインのボーカルに対するコーラスの被せ方やメロディが印象的だ。この曲も時間をかけてじっくりと熟成させた感がある。よくできた曲だと思う。"I Fall Back into Your Arms"は冒頭の"Good Things"のように軽快な曲で、サビの部分のメロディがいい。声がファルセットになるところなんかは最高だと思う。ヨハンの知り合いの変な作曲家についてのお話らしい。本人は自分自身のことではないと言っているけれど、でもおそらくは少し自分のことも入っているに違いない。

 "How it Ends"は2分程度で曲名やアイデアが浮かんだ曲で、ヨハンが蚤の市で購入した1936年製のアコースティック・ギターで作曲したもの。この曲もミディアム・テンポの曲で、曲自体は良いものの、同じようなテンポの曲が並ぶと平凡な印象になってしまいがちなので、この辺でバラード系の曲が欲しかった。このアルバムのマイナス点を探すと、同じような傾向の曲が並べられているという点だろう。だから途中で聞き慣れてしまうのだが、1曲1曲の水準はものすごく高いので、高水準のポップ・ソングが並んでいますよという感じだ。だから逆に言えば、非常にもったいないのである。

 8曲目の"Blue Sky Thinking"は、アルバムのレコーディングの終わりの方で出来た曲。この曲もテンポは前の曲と同様なのだが、曲のフックというか曲名のリフレインが耳に残った。そして、やっときましたバラード系が、"Everything We were"なんだけど、このアルバムの中でも数少ないバラード曲で、途中のウーリッツアー社製のエレクトリック・ピアノのソロなんかは曲にピッタリハマッていた。また突然終わるエンディングも効果的だと思った。

 一転してノリノリの"Over And Over Again"が始まる。こういうアルバム構成はいいと思う。アルバムの前半は同傾向の曲が目立つが、後半ではバラエティに富んでいて、リスナーを飽きさせない工夫がある。ほかの曲もそうだけど、この曲は特にシングル・カットしても売れるんじゃないかなと思わせる。
 
続く"Halfway into A Storm"では犬の鳴き声のSEが入り、ミディアム・テンポのアコースティック・ギターからボーカルが導かれる。ヨハンは楽器が近くになくて、頭の中で書いた曲だと言っていた。途中で転調も入り珍しくシンセサイザーやオルガンのソロも聞くことができる。これもみんな頭の中で構想したのだろうか。やはり彼は、常人とは違う才能を有しているようだ。

 "I'm A Winner"もメロディアスな曲で、人生での成功を夢想している人物のことを歌っていて、ヨハンは自分のことだとはっきりと述べていた。それはともかく、この曲にも転調があってそれが効果的だ。曲の最後がフェイド・アウトしていたので、出来ればきっちりと終らせてほしかった、一応この曲がラスト・ソングになるわけだから。

 13曲目からは国内盤におけるボーナス・トラックになっていて、"If Push Comes to Shove"はイギリスのポップ・ロック・バンドのスクイーズに対する敬愛の気持ちを込めて作られたもの。アップテンポで、何となくそんな感じに聞こえてくるから不思議だ。グレン・ティルブルックとクリス・ディフォードが聞いたらきっと喜ぶだろうな。

 "Where were You?"はミディアム・テンポの曲で、中間の部分はヨハンがイギリスのバンドのプリファブ・スプラウトを意識して書いたらしい。短いながらもアカペラのパートもあって、それなりに楽しんで作った様子が伝わってくる。ただ、どこがプリファブ・スプラウトだったのかはよくわからなかった。

 最後の曲は、"The Last of The Mohicans"というもので、彼が子どもの頃に見た映画や読んだ本をもとにして作った曲。曲自体はずいぶん前に作られていて、未完成のままに放っておかれていたのを、今回、曲としてまとめたもの。リズムが少し重くて、このアルバムの全体の印象とは少しかけ離れている。だからボーナス・トラックにしたのだろう。メロディ自体は優しいものなのでポップ・ソングの範疇に入るだろうが、何となくザ・ビートルズの「リボルバー」時期のアウトテイクといった感じか。少し軽めのアウトテイクだろう。71tost3c7l__ac_sl1161_

 ヨハンは10年以上もプロデューサーやソングライティングなどの裏方の仕事をしてきて、このたび久しぶりにアルバムを発表した。このアルバムが売れれば、これからはミュージシャンとして表現活動に打ち込むかもしれない。彼は、今回アルバムを発表するにあたって、インタビューでこのように述べていた。『2019年の最先端の曲も、20年前から30年前の最先端の曲も、人の心を動かす構造は同じだと思う。もちろん、時代とともに音楽スタイルは変化しているけれど、いつの時代でも変わらない何かが確実にあって、その本質の部分に触れる音楽こそが、音楽好きのリスナーの心をつかむことができるんだ』ヨハンにはもう少し頑張ってもらって、これからもアルバムを発表してほしいと願っている。

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2020年2月10日 (月)

クラウディッド・ハウス

 クラウディッド・ハウスは、オーストラリアのバンドだ。3人組で、いわゆるギターにベース、ドラムスと最もオーソドックスなバンド構成だった。中心人物は、ギター&ボーカルのニール・フィンという人で、ほとんどの曲が彼によって作られていた。
 ただし、オーストラリアのバンドといっても、ニール・フィンはニュージーランド人で、それ以前に在籍していたバンドのスプリット・エンズが解散したので、お隣のオーストラリアに移ったというわけだった。1_n4nemgw56myjwlre75smq

 自分はスプリット・エンズのアルバムはもっていないけれども、当時のラジオやMTVのビデオで視聴したことがあって、ポップで耳になじみやすい楽曲をやっていた覚えがある。そのメンバーだったニール・フィンが結成したバンドだったから、これまたスプリット・エンズのような音楽をやるのだろうと期待していたら、その通りになったので驚いた記憶がいまだに残っている。

 当時というのは、1980年代の初めの頃で、スプリット・エンズが1984年に解散したから、それ以降のお話だ。ちなみにニール・フィンには兄がいて、彼がスプリット・エンズを始めたようなもので、弟のニールが後から加入している。兄の名前はティム・フィンといって、ニールより6歳年上だった。

 それはともかくとして、彼ら兄弟は子どものころから音楽に親しんでいたようで、話によると、母親が自分の家で友人を招いてパーティーを開いた時にはいつもピアノを弾いて盛り上げていたらしい。そして、子どもに向かって歌を歌うように言ったり、楽器を使って演奏するように仕向けさせたようだ。また、アイリッシュ・ミュージックからマオリ人の音楽まで、幅広く聞かせて音楽的な環境を整えて言ったという。別にミュージシャンにするつもりはなかったようなのだが、とにかく音楽好きの家系だったのだろう。

 ニールやティムの人気は日本ではあまり感じられないのだが、オーストラリアやニュージーランドでは絶大なる人気を誇っており、地元のARIA賞では何回も受賞しているし、オーストラリアのホール・オブ・フェイムの殿堂入りも果たしている。それに兄弟で"フィン・ブラザーズ"
という名前でアルバムも発表していた。
 また、スプリット・エンズやクラウディッド・ハウスにおけるレコード・セールスやアドバタイズメントにより、オーストラリアやニュージーランドの国威高揚に貢献したとして、大英帝国勲章も受賞している。だからこのフィン兄弟は、日本では考えられない程の知名人なのである。P01bqfxw

 それで、ニールがオーストラリアにわたって結成したクラウディッド・ハウスだが、ドラムス担当のポール・へスターは、スプリット・エンズに在籍していた最後のドラマーだった。ニールが連れてきたのだろう。ただ彼は、スプリット・エンズやクラウディッド・ハウスで大成功を収めたものの、バンドが解散してからは精神的に参ってしまったようで、46歳の若さで自殺してしまった。まだ5歳と10歳の娘がいたというのに、残念なことである。

 バンドは、1986年にデビュー・アルバム「クラウディッド・ハウス」を発表した。全11曲ながらも38分という短さだったが、内容的にはどの曲も瑞々しい勢いとフレッシュな若さが詰め込まれていて、今聞いても全く違和感はないほどだ。
 1曲目の"Mean to Me"は、ニュージーランドに昔あった街のことを歌っていて、このアルバムからの第1弾シングルだった。アコースティック・ギターから始まり、途中からブラスも加わって陽気な曲調になっていく。このあたりはプロデューサーのミッチェル・フルームのアドバイスに違いない。61myz00lvl__ac_

 続く"World Where You Live"は、このアルバムからの第2弾シングルだった。この曲もミディアム・テンポながらも転調が多くて、キーボードの装飾というか効果音が目立つ。最初の曲よりもいくぶんロック調で、ハードな感じがした。
 "Now We're Getting Somewhere"では、ジム・ケルトナーが太鼓をたたいているし、ベース・ギターもニコラス・セイモアではなくて、ジェリー・シェフというミュージシャンが担当していた。これもプロデューサーのミッチェル・フルームの示唆だろうか。曲自体もアメリカ南部の影響を受けていて、オルガンやアコースティック・ギターが目立っている。何となくザ・バンドの音楽をよりポップにしたような感じだ。このアルバムからの3枚目のシングルになった。

 4曲目の"Don't Dream It's Over"のおかげで、このアルバムは世界中で売れたと言ってもいいだろう。このアルバムからの4枚目のシングルになったこの曲は、まるで夢に誘うかのような魔法みたいなバラードで、米国のビルボードのシングル・チャートでは2位まで上昇した(1位はアレサ・フランクリンとジョージマイケルのデュエット曲だった)。途中のキーボードのソロとギターの調べが印象的でもある。また、カナダやニュージーランドではチャートの首位を獲得したが、なぜかオーストラリアでは8位止まりだった。

 "Love You 'till The Day I Die"は叫び声から始まるエキセントリックな曲で、ちょっと実験しているよなという感じがした。リズム面が強調されていて、キーボードの(当時流行ったフェアライトか?)装飾音が目立っている。
 続く"Something So Strong"は、5番目にシングル・カットされた曲で、これまた大ヒットとなった。ニール・フィンとプロデューサーのミッチェル・フルームとの共作で、実に軽快で明るく、快い気持ちにさせられる曲だ。ニュージーランドではチャートの3位になり、米国のビルボードでは7位まで上がった。ちなみにオーストラリアでは18位だった。

 "Hole in the River"はニールと元スプリット・エンズのキーボード奏者だったエディ・レイナーとの共作曲で、ミディアム・テンポながらもニールの力強いボーカルを聞くことができる。途中でブラスやキーボード・ストリングスが入ったりするが、基本はロック調の曲だ。エンディングはブラスとキーボードの融合で幕を閉じていく。
 "Can't Carry On"も同様な曲だが、こちらの方が曲の構成がすっきりしているし、メロディアスだ。クレジットを見ると、この曲だけプロデュースが先ほどのエディ・レイナーになっていた。一世を風靡したスプリット・エンズの曲を思い出させてくれた。

 "I Walk Away"はそのスプリット・エンズの曲で、1984年の彼らのラスト・アルバム「シー・ヤー・ラウンド」に収められていたもの。この曲でもニールの力強いボーカルを聞くことができるのだが、スプリット・エンズというバンドから離れて、ソロとして活動していくという決意が込められていたからだろう。ロック調だが聞きやすい。メロディが優れているからなのか。ちなみに、発売当初はアルバムに収録されていなくて、のちになって収められた。71e4i8lhpl__ac_sl1313_
 "Tombstone"はアコースティック・ギターのコード・ストロークから入るが、もちろんフォーク調ではなくて、これまたポップン・ロールといった感じの曲だ。シングル・カットはされなかったけれど、されてもおかしくない曲だろう。

 最後の曲"That's What I Call Love"はドラムス担当のポール・へスタートの共作曲。ポールの影響からか、リズムが強調されていて、この時代特有の跳ねるようなベース音や打ち込みのようなドラム・サウンドが目立っている。途中でセリフが入ったり、キーボードのサウンド・エフェクトが強調されたりと、やや実験的な作風だ。でも今となっては懐かしいし、当時を知らない人にとっては、逆に新鮮に映るのではないだろうか。

 クラウディッド・ハウスは、このあと3枚のアルバムを発表し1996年に解散したが、そのあと再結成をして2枚のアルバムを出している。現在も解散はしていないようで、新しいメンバーでライヴなどを行っているようだ。もちろん中心はニール・フィンだが、なぜか彼は2018年のフリートウッド・マックのツアーに、リンジー・バッキンガムの代わりにギタリスト兼ボーカリストとして参加していた。もちろんフリートウッド・マックには加入しないのだろうが、白羽の矢が当たったということは、それだけ人気と実力を兼ね備えているということだろう。

 自分にとっては、決して過去のバンドとは思えないクラウディッド・ハウスである。できれば、それ以前のスプリット・エンズのアルバムからじっくりと聞き直したいと考えているのである。

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2020年2月 3日 (月)

ディキシー・チックス

 最近聞いたアルバムの中で、印象に残ったものを紹介しようと思った。まずは、このアルバム「テイキング・ザ・ロング・ウェイ」、制作者はアメリカ人の3人娘、ディキシー・チックスである。彼女たちの2006年のアルバムで、4枚目のスタジオ・アルバムになる。61a6verobwl__ac_

 もう今から14年も前のことになるのだが、彼女たちのことを知ったのはアルバムの宣伝でも雑誌での紹介でもなく、テレビのニュースからだった。メンバーの一人が当時の大統領だったブッシュ氏と同郷のテキサス出身であることを恥ずかしいと述べたことで、彼女たちのアルバムの不買運動やブルドーザーによる破壊などの激しいバッシングに合っているということが話題に上がっていたのだ。(当時のことを知らない人のために簡単にいうと、2001年の9・11によるテロ行為の報復としてブッシュ大統領がイラク侵攻を始めたからだった)

 この発言に対して当時のブッシュ大統領は、自由の国アメリカなのだから発言することは自由だし、その内容についても特に気にしてはいない、むしろイラクでもそういうことが自由に行われるように、アメリカが変えていくんだというようなことを述べていた(と思う)。当時のブッシュ大統領の支持率は、90%近いものがあったから余裕があったのだろう。正義の名のもとに、アメリカ人の愛国心を奮い起こし、そして世界の平和と調和を守るための戦争といわれていたのだから大儀名分を備えていたのである。

 ということで、このアルバムを発表する前の彼女たちに対する風当たりはかなりのものがあり、アルバム発表やコンサートの実施といった音楽活動の前に、彼女たちのみならず、彼女たちの家族を含む安全が脅かされるほどの危機的な状況に臨んでいた。それで自分は判官びいきというわけではないのだが、バッシングをされている彼女たちに何とかして力になってあげたいと思って、このアルバムを購入したのである。決して彼女たちが美人だからとか、セクシーだからとかいう不純な動機からではなかったのだ。Dixie_chicks

 それでこのアルバムを聞いてみてびっくりしたのは、1曲1曲の楽曲が優れていて、ディキシー・チックスというバンドは見た目だけではなくて、実力をも兼ね備えているミュージシャンたちということだった。
 以前にも彼女たちのことは、ザ・ジェイホークスのアルバム「寂れたモーテルとズッと続く道と」のところで簡単に触れたのだけれど、今回はもう少し記してみようと思った。

 もともとバンドは、カントリー・ミュージック主体の音楽をやっていた。結成は1989年と意外と古くて、人気が出るまではかなり時間がかかっており、2回ほどメンバー・チェンジも行われているようだ。もともとは4人組だったが、今では3人になっており、その中心メンバーはフィドル、マンドリン担当のマーティ・マグワイアとギター、バンジョー担当のエミリー・ロビソンで、この二人は実の姉妹にあたり、それぞれが結婚して名まえが変わっている。
 もう一人のボーカル担当がナタリー・メインズという人で、この人が1995年に加入してから徐々に人気が出始め、1998年に発表された「ワイド・オープン・スぺイシズ」は全米で1200万枚以上の売り上げを記録し、一気に名前が知れ渡っていったのである。

 それでメンバーのナタリー・メインズが、ブッシュ大統領のことについて発言したことが一気に全米中に拡散していったのだが、それはそれほど影響力のあるバンドということの証明でもあり、だからバンドに対するバッシングもそれなりに激しかったのだろう。もし、これがマイナーなバンドだったら、TVのニュースで紹介されることはなかっただろう。

 それで肝心な楽曲だが、この「テイキング・ザ・ロング・ウェイ」は14曲で構成されており、約66分もあった。冒頭の"The Long Way Around"は、カントリー・ミュージックの影響からか、アコースティック・ギターの伴奏で始まり、リズム陣が続き、スティール・ギターとバンジョーが軽快に絡んでくる。アルバム最初の曲としては申し分なくリスナーを乗せてくれており、さらにマーティの弾くフィドルが哀愁味も加えてくれる。彼女たちの持ち味というか、良いところが100%発揮されており、そういう意味ではほぼ完ぺきな楽曲だろう。

 続く"Easy Silence"はミディアム・バラードの渋い曲で、これも途中のフィドルがいい味を出している。もう少しテンポを落として、アコースティック・ギター一本で演奏すると、かなり印象に残るバラードになるのではないだろうか。
 バラードといえば、3曲目の"Not Ready to Make Nice"もそれに該当するかもしれない。ただサビの部分は力強く歌われていて、ブッシュ大統領との一件についての決意表明というか、自分たちの立場を宣言しているようだ。だから力も入るのだろう。このアルバムから最初にシングル・カットされた曲になった。

 ザ・ジェイホークスのメンバーであるゲアリー・ルーリスとの共作曲は2曲収められていて、最初は"Everybody Knows"。このディキシー・チックスのバージョンの方がよりカントリータッチが強くて、アメリカ人受けしそうだ。ちなみに2枚目のシングルにもなった曲だった。もう1曲は"Everybody Knows"の次の曲の"Bitter End"で、マーティのフィドルやエミリーのギターがフィーチャーされている。ザ・ジェイホークスの2018年のアルバム「寂れたモーテルとズッと続く道と」に収められていた原曲とほとんど違いはないが、こちらの方がバンジョーなども使用されていてカントリー・ロックといった面持ちがする。Dixiechicksmsg062003

 "Lullaby"は文字通りの静かなバラード曲で、さっきまでパワフルに歌っていたナタリーが、ここでは囁くように歌っている。しんみりとした佳曲で、秋の夜長に聞くと思わず感傷に浸ってしまいそうだ。
 逆に"Lubbock or Leave It"はリズミカルでハードなロックン・ロールで、共作者がトム・ペティ&ハートブレイカーズのギタリストだったマイク・キャンベルだった。エレクトリック・ギターだけでなく、エミリーの演奏するバンジョーもまた激しく鳴らされていた。きっとステージ上では受ける曲になるのだろう。

 "Silent House"はタイトル通りの静かな曲で、元クラウディッド・ハウスのメンバーだったニール・フィンとの共作曲だ。ニールの影響からか適度にポップで、メロディアスな部分がいつまでも耳に残ってしまう。エンディング近くのフィドルがワンポイントなっていて、一旦そこで終わり、またそこからサビの部分が始まるという凝った構成を持つ曲だ。

 "Favorite Year"にはシェリル・クロウが関わっているが、それにしてはロック色の薄い曲に仕上げられていた。ミディアム・テンポの緩いラヴ・ソングである。むしろ次の"Voice Inside My Head"の方がシェリルらしいのだが、この曲にはリンダ・ペリーという人がソングライティングに加わっていた。リンダ・ペリーという人は自分は良く知らないのだが、クリスティーナ・アギレラやグウェン・ステファニーなどに楽曲を提供しているシンガー・ソングライターのようだ。こちらの曲の方がよく練られていて、シングルカットされてもおかしくない程、豊かなメロディーと印象的なフレーズを伴っていると思った。しかもナタリーのボーカルにも艶や伸びがあり、感情がよく込められている。

 "I Like It"は明るい曲調で、彼女たちも自由に伸び伸びと演奏している。この曲もザ・ジェイホークスのゲアリー・ルーリスが参加していた。ただ曲の出来としては"Everybody Knows"や"Bitter End"の方がよくできていると思う。
 12曲目の"Baby Hold On"はいわゆるバラード・タイプの曲で、この曲にもゲアリー・ルーリスと彼の友人のミュージシャンであるピート・ヨーンが参加していた。曲のバックにはバンジョーが使用されているのだが、決してカントリー・ミュージック一辺倒というわけではなくて、カントリー風のロック・バラードといった感じだ。たぶん、途中のギター・ソロがカントリー風味を薄くしているのだろう。終わりの方の力強いボーカル・ハーモニーが、彼女たちの意志の強さを表しているようだ。

 "So Hard"もまたミディアム・テンポで歌われていて、人生は不条理でうまく行かないことが多いけれど、あなたの助けがあれば前向きに生きていけるというような内容だ。この曲もまた、彼女たちの当時の置かれた状況に対して歌ったものだろう。飾らずに率直に自分たちのことをさらけ出して歌っていたからこそ、彼女たちの人気がさらに高まっていったのだろう。

 最後の曲は"I Hope"というタイトルで、ゴスペル調の曲になっていた。もとはハリケーン・カトリーナによる被災地を救済するためのチャリティ・ソングだったもので、ブルーズ・ギタリスト兼シンガーのケブ・モーが曲作りに参加しており、レコーディングには今をときめくジョン・メイヤーがギタリストとして演奏している。また、このアルバムでは歌詞が一部手直しされており、ブッシュ政権に対する反発や反戦を含む内容になっていた。さすがディキシー・チックス、ただでは終わらないのだ。51zhlcgutxl__ac_

 このアルバムは、全米アルバム・チャート初登場1位を飾り、全米で250万枚以上売れた。先ほどの"I Hope"はグラミー賞の2部門にノミネートされたが、惜しくも受賞は逃した。逆に"Not Ready to Make Nice"は"レコード・オブ・ジ・イヤー"と"ソング・オブ・ジ・イヤー"、"ベスト・カントリー・パフォーマンス"を受賞し、アルバム自体も"アルバム・オブ・ジ・イヤー"と"ベスト・カントリー・アルバム"の2部門で受賞した。この年を飾るアルバムになったのである。

 このあとディキシー・チックスは家族との時間をとりたいということで、ツアーが終わったあと数年の間は表舞台に出ることはなくなった。やはり精神的にも疲労が重なっていたのだろう。しかし、2016年頃から活動を再開し、世界中をツアーでまわっていて、今年中には14年振りになるスタジオ・アルバムの発表が予定されている。彼女たちも40歳代後半から50歳代になるが、まだまだ頑張ってほしいミュージシャンたちである。

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