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2020年3月23日 (月)

アビイ・ロード(1)

   いよいよ終りに近づいてきたようだ。今回と次回は2週にわたって、ザ・ビートルズの実質的ラスト・アルバムになった「アビイ・ロード」のことについて記そうと思う。何しろ、自分の葬儀の際には、このアルバムを流し続けてほしいと近親のものにも随分前から伝えているくらい、このアルバムが大好きなのである。

 記憶が曖昧で申し訳ないけれども、確かレコードで発売されていた時には、それに付随していた帯に『A面の野性味、B面の叙情性』と書かれていたような気がするのだが、レコードのA面ではジョンの印象が強くて、"ロック"していたし、B面では例のメドレーの印象があって、ポールのイメージが強かった。Thebeatlesin19691280x720

 それに、いまさらこんなことを言うのも変だけど、あのザ・ビートルズのラスト・アルバムなのだ。発売順では1969年の9月に「アビイ・ロード」が発表され、1970年5月には「レット・イット・ビー」だったが、「レット・イット・ビー」のオリジナルは、"ゲット・バック・セッション"として知られていて、これは1969年1月にレコーディングされていたから、やはり「アビイ・ロード」の方がラストになる。「アビイ・ロード」のレコーディングは、69年の2月以降から始められたからだ。それにまた、確かに1970年に入っても「レット・イット・ビー」のレコーディングは行われたが、4人そろって行われたことはなく、断片的な追加のレコーディングだった。ということは、やはりザ・ビートルズとしてのアルバムとしては、「アビイ・ロード」の方が実質的にはラスト・アルバムになるのではないかと考えている。 Thebeatlesletitbe_0

 これもまたみんな知っていることだけど、ザ・ビートルズの「ホワイト・アルバム」あたりから、メンバー間の仲が悪くなり、亀裂が入り、口論まで行われるようになった。途中で、ジョージ・ハリソンやジョン・レノンがレコーディングに参加しなくなったり、公然とバンド脱退を口にしたりするようになった。

 普通のバンドなら、もうこれで終わり、解散するはずだ。アルバムを作るなんてありえないし、せいぜい解散ライヴを行うくらいが関の山というもの。それをこのザ・ビートルズは、スタジオ・アルバム1枚分を作ってしまったのだ。しかもそのアルバムの水準が、これはもう当時のアルバムとは比較できないほど素晴らしく、ザ・ビートルズの過去のアルバムと比べても遜色ないというよりは、一、二を争うほどの素晴らしい内容の出来栄えだった。まさに怪物バンド、こんなバンドは唯一無二の存在だし、もう二度と現れないだろう。Unnamed

 「アビイ・ロード」がどれほど素晴らしいのか、どれくらい歴史的な価値があるのか、自分の表現力では伝えようがない。職業作家なら正確に記述することもできるだろうが、一介のブロガーでは、しかも自分のような素人には、どうしようもなく無力である。だから、歴史的に検証したり、楽曲的に解説を加えるのではなくて、自分の心の浮かんだことや、今まで知り得た知識を使って、自由気ままに、思いつくままに記してみたいと思う。

 1969年1月に行われた"ゲット・バック・セッション"は、未完に終わった。レコーディングは行ったものの、そのままほったらかしにされてしまった。ザ・ビートルズにしてはそれまであり得なかったことで、いかに当時の彼らに集中力が欠けていたというか、やる気がなかったかという結果だろう。あるいは、作品作りよりも他にやることがあって、それどころではなかったということか。

 だから、そのセッション記録は、最初はグリン・ジョンズが担当したものの、みんな納得しなかった。それでジョン・レノンが当時親しかったフィル・スペクターにお願いをして、プロデュースしてもらったのだ。ジョンやジョージは納得したものの、もともと初期の頃のように何度もダビングするのではなく、ロックン・ロール・バンドとしての荒々しさや情熱が発揮されるものを望んでいたポール・マッカートニーは、承服しなかったのだ。だって"Get Back"なんだから、原点に返ろうよと言っているのに、コーラスやストリングスなんかは必要なかったはずだ。7c99f1bc6ba36943ff9e26ad41ff10d3

 時系列的に見ると、1969年2月には悪名高きアラン・クラインがマネージメントを行うようになるし、3月にはジョンがヨーコ・オノと、ポールがリンダ・イーストマンと結婚している。また逆に、ジョージは妻のパティ・ボイドと大麻所持で逮捕されているし、リンゴは映画「マジック・クリスチャン」でピーター・セラーズと共演をしていた。だから、レコーディングどころではなかったのかもしれない。

 こういう状況を疎ましく思っていたのが、ポール・マッカートニーだった。"ゲット・バック・セッション"もポールの提案で、もう一度デビュー当時の原点に戻ろうと、他のメンバーに呼び掛けて実現したものだった。それが未完に終わったのだから、これはこのままでは終われないと考えたのだろう。それで、ポールはジョージ・マーティンの所を訪ねてニュー・アルバムのレコーディングに協力してくれるように頼んだのである。そして、ジョージ・マーティンは、全員が協力してくれるならという条件の下で、引き受けたのだった。 95415e0657c0446a9332698885c4d427

 本格的なレコーディングは、1969年の7月から始まったが、その年の2月くらいからいくつかの曲のレコーディングが始まっていた。例えば、ポールの"Maxwell's Silver Hammer"であり、ジョンの"Mean Mr. Mustard"の原型になった"Dirty Old Man"などだった。
 ところが一説によれば、この時レコーディングされたマスター・テープが盗難にあってしまい、取り戻しはしたものの、なぜか税関のX線検査で録音されていた曲が消去されたと言われている。真偽のほどは定かではないが、当時の雑誌にはそういう記載があったという(The Rolling Stone誌69年9月17日号)

 また3月にはジョンの"I Want You(She's So Heavy)"が出来上がり、4月になると、ジョージの"Something"のファースト・テイクが録音され、ポールの"Oh! Darling"も始まっていた。5月ではリンゴの"Octopus's Garden"やポールの"You Never Give Me Your Money"のデモ・テープも制作されるようになったのである。だから、当時のレコードのA面の主な曲の原型は、この時期に作られたものであり、だからサイドAは1曲1曲が独立した印象を与えてくれるのだろう。"A面の野性味"には、こういう背景があったのだ。

 それで結局7月になってから、彼らはロンドンのEMIスタジオに集まり、60年代初期のやり方でレコーディングを開始していった。ポールはこう述べている。『トンネルを抜けつつあった。またみんなで集まって、よくわかっているやり方に戻って、すごくうれしかったんだ』
 しかし実際は、2人や3人の時には和やかな雰囲気でレコーディングが進んでいったが、4人揃うとなぜか険悪なムードになり、些細なことで言い争いが始まったようだ。リンゴはあまりスタジオに来なくなったし、ジョンはヨーコとの共同作業、つまりプラスティック・オノ・バンドの作業があって、これまた徐々に顔を出さなくなっていった。

 さらには、ベイシック・トラックが録音されると、それにオーヴァーダビングをつけるために、ジョンやジョージは、もちろんポールも含めて、それぞれが自分のスタジオに持って帰り、そこで作業をするようになった。そうなると、これはもうソロ・アルバムの作成とほとんど変わらなくなってしまったのである。これでは"ゲット・バック・セッション"の二の舞になってしまう、これはよくないぞ、そう感じたのがポール・マッカートニーだった。Imagesjouzjb3n

 だから、最初から最後までバンドを引っ張っていったのはポール・マッカートニーで、彼の情熱というか、最後まで続けようとする強い信念が、ザ・ビートルズをザ・ビートルズたらしめていたのである。
 しかし、運命の女神は皮肉なもので、7月にジョンとヨーコ、先妻の子のジュリアン・レノンは、ジョンの運転する車で事故にあってしまい、特にヨーコは背骨を折るほどの重症になって、しばらくは寝たきり状態になったのである。ジョンのそばにいたいヨーコは、体は動かせなくてもベッドは動かせると考えて、レコーディング中のスタジオにベッドを運ばせて、その中で生活するようになった。

 関係者が言うには、ベッドの上にはマイクがぶら下がっていて、それはヨーコが何か伝えたいときのために、用意されたものだった。また、彼女を見舞うためのお客さんがひっきりなしに訪れてきてかなり騒がしかったようだが、メンバーはそんな状況の中でレコーディングを続けていった。そういう状態の中で緊張感を保つには、人並み以上の集中力が必要だろう。よくまあ、あんな素晴らしいアルバムが出来上がったものである。

 さらには当時20歳だったアラン・パーソンズは、ヨーコは誰かに使いを出してもらって食べ物を持ってこさせていて、時々寝ていたと言っている。ジョンが横にいる時もあったし、いない時もあったが、でもどう見ても、あれはホテル暮らしにしか見えなかったよ、と当時を振り返っていた。

 ザ・ビートルズのリーダーは、名実ともにジョン・レノンだったから、誰もジョンには気兼ねして言えなかったのだろう。ポールは、ジョンには頭が上がらなかったから、びっくりしたようだが彼女のそばで仕事を続けるしかなかった。彼は言う、彼女を避けて歩くしかなかったんだよ、そのベッドをのかせ、なんて言えないよ。ジョンの彼女なんだから、と。

 同時に、音楽面だけでなくて、財政的な面でも危機的な状況にあった。彼らが設立したアップル・レコードは放漫経営で赤字続き、倒産も時間の問題といわれていたし、当時の英国の税金制度による破格の徴収率も問題になった。だから稼いでも稼いでも湯水のように消えていってしまうのである。

 ポールは、ビジネス面ではきつくなっていって、自分たちが稼いだものをすべて失ってしまいそうだった、と述べていた。実際は印税が入るからすべて失うことはないだろうけれど、その印税も彼らの版権を所有していたノーザン・ソングス社が売却に出されたため、自分たちで管理できなくなってしまったのは事実である。そのうえお金だけでなく、ザ・ビートルズまで失いそうになったのだから、ポールにしてはかなり深刻な状況だっただろう。さらに彼はまた、必死の思いで稼いだ、朝から晩までずっと音楽活動に励んでいたよ、僕らはすごい働き者だったからとも言っていて、職人集団のように完璧を目指して音楽活動に取り組んでいた。その完璧さを求めるがあまりに、結局はバンド内に亀裂が走ったのである。 Images6n0j5hk0

 そんな中でもレコーディングは続けられた。ポールの作った"Maxwell's Silver Hammer"なんかは2日半もかかってやっとレコーディングが完了したという。プロデューサーのジョージ・マーティンは、時間がかかりすぎると本気で怒ったらしい。最初の予定では、午前中2曲、午後2曲録音するつもりでいたからだ。つまり荒削りのようなライヴ感覚を生かしたレコーディングが目標だったのだろう。"ゲット・バック・セッション"の趣旨がそうだったのだから。

 ただし、この"アビイ・ロード・セッション"では、ジョージ・マーティンと約束したように、4人がそろうことももちろんあった。リンゴ・スターの作った"Octopus's Garden"では、ピアノがポール、リード・ギターがジョージ、ギターのアルペジオを弾いているのがジョンで、コーラスはポールとジョージだった。泡の音は、リンゴ自身がストローでコップの水を吹いて作っている。上記にもあるように5月に一度録音されたが、7月にもう一度レコーディングされている。

 アルバムの最終ミックスが行われ、完成したのは1969年の8月20日だったが、その日もザ・ビートルズの4人が立ち会っている。そして、それがザ・ビートルズとして4人がそろった最後の日になったのである。
(To Be Continued...)


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