2017年7月24日 (月)

ヴォーン・ブラザーズ

 スティーヴィー・レイ・ヴォーンのことについては、前回と前々回で述べたつもりだが、少しだけ補足させてもらうことにした。

 1990年の8月27日の飛行機事故を起こしたのは、4機のヘリコプターの中の1機だった。3機が無事に到着して、1機だけが行方不明になったのだが、人工スキー場の斜面に墜落したのは、午前0時35分頃と言われている。

 また、亡くなった人は、ジャクソン・ブラウンやC,S&N、ジェフ・ベックなどのマネージメントを行っていたエージェントのボビー・ブルックス、エリック・クラプトンのボディーガードを務めていたナイジェル・ブラウン、ヘリコプターを操縦していたジェフ・ブラウン、そして再出発を果たしたスティーヴィー・レイ・ヴォーンの4人だった。

 スティーヴィー・レイ・ヴォーンの死後、彼の生前の未発表曲を集めて監修し、発表したのは、スティーヴィー・レイ・ヴォーンの実兄だったジミー・ヴォーンだった。そのアルバム・タイトルが「ザ・スカイ・イズ・クライング」であるというのは、前回述べた。

 そして、実はもう1枚、生前に録音されていたアルバムがあって、死後、約1か月後に発表されている。それが、今回取り上げたアルバム「ファミリー・スタイル」である。61gf12gyftl
 このアルバムは1990年の9月25日に発表された。レコーディング自体は、1990年と記載されていた。スティーヴィー・レイ・ヴォーンの薬物問題が一段落してから録音に取り掛かったものと思われる。
 アルバムのクレジットは、“ヴォーン・ブラザーズ”となっていて、兄弟で制作しましたということを主張していた。

 これはあくまでも推測だが、兄弟はそれぞれ自分のバンド活動を続けながらも、兄弟でアルバムを発表するつもりだったのではないだろうか。その第一弾がこの「ファミリー・スタイル」で、この後も定期的にアルバムを出すつもりだったと考えている。特にその根拠はないのだが、それほどこのアルバムには、リラックスした兄弟の音楽活動がパッケージされていたからだ。

 プロデューサーは、ナイル・ロジャーズだった。80年代からナイル・ロジャーズはロック・ミュージシャンとコラボすることが多かったが、このアルバムのタイトル「ファミリー・スタイル」に相応しい兄弟愛と充実した演奏を生み出していたと思う。

 自分はもう少しギター・バトルやそれぞれのギター・ソロを期待していたのだが、期待していたようなスリリングなソロなどはあまり聞くことができず、自分たちのやりたい音楽をそのまま楽しみながらやっているようだった。

 1曲目はノリのよい"Hard to Be"で、ところどころのホーンの音と乾いたストラトキャスターの重なり合いがロックさせてくれる。曲はスティーヴィー・レイ・ヴォーンとドラマー兼シンガー・ソングライターのドイル・ブラムホールが書いている。
 基本的に、曲を書いた人がリード・シンガーとして歌い、ギター・ソロも担当しているようだ。

 2曲目は"White Boots"という曲で、ジミー・ヴォーンが歌い、ソロを取っている。ただし、曲自体はビリー・スワン、ジム・レスリー、デボラ・ハッチンソンという人たちのカバー曲だった。

 3曲目はインストゥルメンタル曲の"D/FW"で、ジミー・ヴォーンが手掛けていて、リードをジミーが、高音のソロ・パートをスティーヴィー・レイ・ヴォーンが弾いているようだ。2分52秒と短いが、ミディアム調のノリのよい曲である。

 次の"Good Texan"は、ジミーとプロデューサーのナイル・ロジャーズが作った曲で、ボーカルとリード・ギターはジミーが担当している。これもミディアム調の聞きやすい曲だった。

 "Hillbillies From Outerspace"は、兄弟で作った曲だが、リチャード・ヒルトンの弾くオルガンとプレストン・ハバードのアップライト・ベースがジャズっぽい雰囲気を作っている。スティール・ギターは兄が、エレクトリック・ギターは弟の演奏だが、特に、目立つようなギター・ソロは聞くことができなかった。
 ちなみに、プレストン・ハバードは、ジミーが所属していたバンド、ファビュラス・サンダーバーズのベーシストだった。964fd71ca1dababd466991321dd77b5d_2
 気分は一転して、"Long Way From Home"はスティーヴィー・レイ・ヴォーンとドイル・ブラムホールの曲で、速いテンポに乗ってスティーヴィー・レイ・ヴォーンのボーカルとギターがフィーチャーされていた。こういう曲をもう2~3曲やってほしかった気がする。

 7曲目の"Tick Tock"はバラードで、ジミー・ヴォーンの他にナイル・ロジャーズやジェリー・リン・ウィリアムスも曲作りにかかわっている。
 ジミ・ヘンドリックスのような語りの部分はジミー・ヴォーンが、それ以外の部分は弟が歌っている。なかなかの佳曲で、歌詞の内容も愛と平和の世界を築き上げようというわかりやすいものだった。

 ロック調の"Telephone Song"は、聞いただけでスティーヴィー・レイ・ヴォーンの曲だとわかるもので、ボーカル&ギターも彼がメインになっている。
 このアルバムでは、彼のギター・ソロは全体的にやや抑え気味のようだったが、この曲の間奏ではやっと彼の豪放なギターを聞くことができた。

 このアルバムでは、4曲のインストゥルメンタル曲が収められていて、3曲目と5曲目にある"D/FW"と"Hillbillies From Outerspace"、後半の曲、9曲目と10曲目の"Baboom/Mama Said"と"Brothers"は、いずれも趣の異なる曲だ。

 "Baboom/Mama Said"は、珍しくブラッキーでファンク調の曲だった。ナイル・ロジャーズもギターで参加しているところを見ると、彼の意見も反映されていたのだろう。女性のボーカルがより一層黒っぽさを演出している。
 曲自体は、兄弟2人とデニー・フリーマンというテキサス出身のミュージシャンで仕上げられていた。

 最後の曲の"Brothers"は5分5秒のスロー・ブルーズで、兄弟で書かれている曲だが、アコーディオンが使われている点が注目を引いた。
 最初のギター・ソロのパートは弟のスティーヴィー・レイ・ヴォーンが、次のパートはジミーが弾いている(と思う)。
 ギターが炸裂しているという印象を受けた曲で、どうせなら、兄弟による全曲オール・インストゥルメンタル曲でアルバムを埋めても十分いけると思ったのだが、もう二度と聞くことができないのが残念でならない。

 ジミー・ヴォーンは、テキサス州のダラスで活動を始め、オースティンに移って、ボーカリストのキム・ウィルソンとファビュラス・サンダーバーズを結成した。1974年頃のお話である。01stevie
 彼らは地道にライブを重ねていき、1979年に念願のアルバム・デビューを飾り、クリサリス・レコード系列からデビュー・アルバムを発表した。

 基本的には、ジミーのギターとキムのハーモニカをフィーチャーしたリズム&ブルーズのバンドだったが、徐々にロカビリーやポップなロックン・ロールの傾向を強めていった。

 特に、1982年に発表された4枚目のスタジオ・アルバム「T-バード・リズム」からその傾向が強くなっていった。何しろアルバムのプロデューサーだったのがニック・ロウだったからだ。
 これは、彼らがイギリスで公演をしたときに、ロックパイルと共演したことが切っ掛けとなって、バンド・メンバーのニックが申し出たようだ。

 それで次のアルバム、「タフ・イナフ」は1986年に発表されたが、今度のプロデューサーはデイヴ・エドモンズになっていた。ニックもデイヴも、ロックパイルでは“レノン&マッカートニー”的存在と言われていたから、ニックの次にはデイヴが担当したのだろう。

 このアルバムのタイトルと同じ曲"Tuff Enuff"は、彼らにとって唯一のトップ40の中に入ったシングル曲で、最高位は10位を記録している。615fdcnddl
 弟のバンドのダブル・トラブルは、ブルーズ中心のバンドだったからスティーヴィー・レイ・ヴォーンのギターも唸りを上げていたが、ファビュラス・サンダーバーズの方はもう少し音楽性が幅広くて、純粋なブルーズ・ミュージックというよりも、ロカビリーやロックン・ロール、メキシコ音楽の影響を受けたテックス・メックスなどもやっていた。だからアルバムにもそういう音楽性が反映されていた。

 それがよく表れているのが、最後のインストゥルメンタル曲である"Down at Antones"で、キムのブルーズ・ハープを前面に出したノリのよいオールディーズ・ナンバーのようなこの曲は、50年代のダンス・ミュージックのようなものだった。クラブでかければみんな踊りだすのではないかと思われる曲でもある。

 ところで、“Antones”とはオースティンにあるクラブの名前で、多くのミュージシャンやバンドが、今もなおここで切磋琢磨しているとのことである。

 自分はもう少しジミーのギターがフィーチャーされていてほしかったのだが、残念ながらそうではなかった。基本的にこのファビュラス・サンダーバーズは、ボーカルのキムのバンドなのだろう。だからキムが歌っていないときは、ハーモニカが聞こえてくるのである。

 もともとキムは北部のデトロイト出身で、オースティンでジミーと出会い、意気投合してバンドを結成したという経緯があった。だからというわけでもないのだろうが、当初はジミーのブルーズ色とキムのロックン・ロール色とがうまい具合に化学反応を示したのだろう。

 "Two Time My Lovin"なんかは、まるでヒューイ・ルイス&ザ・ニューズの"Stuck with You"のようだし、"Amnesia"はジェリー・リー・ルイスの"Great Balls of Fire"を思い出させてくれるほどだった。

 だからこのアルバムでは(というかこのバンドでは)、弟のスティーヴィー・レイ・ヴォーンのようなギター・ソロを聞くことは難しいのだ。確かに、"Wrap It Up"や"Why Get Up"などの曲の間奏では、的確なジミーのギター・ソロを聞くことができるのだが、ジミーの個性までは伝わってこない。

 エルヴィス・プレスリーの"Burning Love"のような"True Love"では、ジミーのギターが主張していて個人的には気に入っているのだが、こういう曲をもっと聞かせてほしかった。

 それでもこのアルバムの成功に気をよくしたバンド・メンバーとプロデューサーのデイヴ・エドモンズは1987年には「ホット・ナンバー」という同じ路線のアルバムを発表したのだが、残念ながら、このアルバムからはシングル・ヒットは生まれず、アルバム自体もそんなに話題を集めることはなかった。

 ここでデイヴ・エドモンズとは縁を切って、1989年の次作はメンフィスで録音した。このアルバムからは、トム・クルーズが主演した映画「カクテル」の挿入歌"Powerful Stuff"がヒットして、再び彼らは注目を集めた。

 だが、バンドは成功しても、ジミーとしては弟スティーヴィー・レイ・ヴォーンの活躍が頭にあったのだろう、ジミー自身も1990年にファビュラス・サンダーバーズを脱退して、ソロ活動を始めるようになったのである。
 
 その後のファビュラス・サンダーバーズは、活動は続けているものの、オリジナル・メンバーは、ボーカリストのキム・ウィルソンだけになってしまった。ジミーが脱退するときには、そういう傾向や雰囲気をジミーは感じ取っていたのかもしれない。

 ジミーは現在66歳。弟スティーヴィー・レイ・ヴォーンの遺志を受け継ぐかのように、現役プレイヤーとして現在のブルーズ界を牽引している。D38a7b4ec600f1e1dbfb64e08c5870af
 ギタリストとしてはそんなに派手な印象はないのだけれど、その堅実なプレイには定評がある。2001年にはグラミー賞も受賞しているし、これからも活躍してほしいミュージシャンの一人だと思っている。

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2017年7月17日 (月)

スティーヴィー・レイ・ヴォーン(2)

 スティーヴィー・レイ・ヴォーン(以下S.R.V.と略す)と彼のバンド、ダブル・トラブルは、1985年に3枚目のアルバム「ソウル・トゥ・ソウル」を発表したが、その前後に全米を含むワールド・ツアーを行った。もちろん、日本での公演も含まれていて、その時は東京、大阪、名古屋の3か所で行われていた。

 翌年には、その時の模様を収録した2枚組ライヴ・アルバム(CDでは1枚組)が発表された。残念ながら日本公演でのライヴ演奏は含まれていないが、1985年7月16日から19日にかけて行われたスイスのモントルー・ジャズ・フェスティバル、地元テキサス州のオースティンやダラスでの演奏が13曲分収められていた。51xxfjpubpl
 このライヴ・アルバムは、それまでの3枚のアルバムから10曲、カバー曲の3曲で構成されていた。デビュー・アルバムの「テキサス・フラッド~ブルースの洪水~」からは"Pride And Joy"、"Mary Had A Little Lamb"、"Texas Flood"、"Love Struck Baby"の4曲、セカンド・アルバムの「テキサス・ハリケーン」からは"Cold Shot"とジミィ・ヘンドリックスのカバー曲"Voodoo Chile"の2曲、そしてサード・アルバムの「ソウル・トゥ・ソウル」からは"Say What!"、"Ain't Gone'n' Give Up On Love"、"Look At Little Sister"、"Change It"の4曲だった。

 カバー曲は、ベック、ボガート&アピスも1973年にカバーしたスティーヴィー・ワンダーの名曲"Superstition"、チェスター・バーネットことハウリン・ウルフの1958年のブルーズ"I'm Leaving You(Commit A Crime)"、そして実在したギャングのことを歌った1980年の"Willie the Wimp"の3曲で、"Willie the Wimp"は兄のジミー・ヴォーンも録音していた曲だった。

 そして、3歳年上のジミー・ヴォーンもこのライヴ・アルバムに参加していて、"Willie the Wimp"、"Look At Little Sister"、"Love Struck Baby"、"Change It"の4曲で、彼のギターを聞くことができる。

 このアルバムで特筆すべきことは、キーボードの存在である。リズム・セクションは、以前からの付き合いだったベース・ギターのトミー・シャノン、ドラムスにはクリス・レイトンだが、サード・アルバムから参加したキーボーディストのリーズ・ワイナンスのオルガンやピアノでの演奏が、サウンドに色どりを添え、音の厚みをもたらしているのである。

 ただ、演奏に関してはあくまでもバックの演奏に徹していて、決して目立っているわけではない。主役のS.R.V.の引き立て役に回っている。その姿勢に好感が持てる。
 冒頭の曲"Say What!"ではやや目立ってはいるものの、後半の"Voodoo Chile"ではほとんど目立たない。その次の"Love Struck Baby"ではブギウギ調のピアノ演奏がよかった。

 とにかく、このライヴ・アルバムでは、S.R.V.が気持ちいいほど弾きまくっていて、ファンとしては十分堪能できた。速いテンポの"Say What!"とスロー・ブルーズの"Ain't Gone'n' Give Up On Love"の最初の2曲を聞いただけで、もうこのアルバムの素晴らしさが分かるというものだった。“ロバート・ジョンソンの後継者”、“帰ってきたクラプトン”そんなキャッチ・フレーズが浮かぶアルバムでもある。

 S.R.V.は、1954年の10月にテキサス州のダラスに生まれた。子どもの頃からB.B.キングやレイ・チャールズの曲、ジェフ・ベックなどのイギリスのロック・ミュージックなどを聞いて育ち、12歳で演奏活動を始めた。最初は、兄ジミーのバンドでベース・ギターを弾いていたようだ。

 その時に、アルバート・キングのテープを聞いて、生涯をかけてブルーズを追い求めようと決意したと言われている。“彼らの演奏を聞いていると、何故あんなにリラックスして演れるのか不思議に思うよ。だからいまだに僕は勉強中の身さ。残りの人生の全てを費やしても演ってみたいんだ。その境地にたどり着くまでね”

 その後、S.R.V.は高校に入学するも、毎晩クラブで演奏していたため、学業との両立が立たずに高校を中退した。そして、水を得た魚のように、ダラスからオースティンに移って、クラブで住み込みのような生活を続けながら、毎晩ステージに立って演奏を続けるのであった。

 そんな中で、盟友のトミーとクリスに出会って、3人でバンドを結成した。まもなくこの3人のバンド、“ダブル・トラブル”はオースティンの人気バンドになり、しばらくしてテキサス中にその名が響き渡っていったのである。12096487_10207885073903892_33987225
 彼が世界的に有名になったのは28歳の時だったが、10代の後半からドラッグに手を出し始め、20歳を超えた時にはアルコールとコカインを一緒に摂取するようになったていた。もともと6歳頃から父親のお酒を盗んでは嗜んでいたようで、そのうち自分で調合してオリジナルのお酒を造っていたと言われている。本当の話だろうか?

 実際に、彼が24歳の時、テキサス州のヒューストンの楽屋でコカインを吸引していたところを逮捕されて、1000ドルの保釈金を払っている。マディ・ウォーターズのオープニング・アクトとして出演する前だった。
 マディは彼が薬物中毒だということを知っていて、S.R.V.は素晴らしいギタリストだが、このままいけば、40歳まで生きられないだろうと語ったという。

 とにかく、S.R.V.には飲酒のみならずドラッグの常習者だったようで、彼が成功の階段を駆け足で登るのと同時に、その摂取量も増えていった。特に1985年から86年にかけてのワールド・ツアー中は、そのストレスからか、ほぼ毎日ドラッグ漬けだったようだ。

 1986年9月のドイツ公演後、ホテルに戻ったS.R.V.は脱水症状になり、急遽、病院に運ばれた。医者からはこのままいけば、あと1ヶ月もつかどうかわからないとまで言われたらしい。まさに死の一歩手前だったのである。

 アメリカに戻ったS.R.V.はジョージア州アトランタにある医療施設に入所し、治療に専念することになった。約1か月の治療の後、彼は故郷のダラスに戻ってリハビリを行っている。

 また残念なことに、1987年の1月にS.R.V.は離婚を経験した。妻の方から切り出されたようだ。やはりロック・ミュージシャンとの生活は、常識外れなだけに、気苦労が多かったのかもしれない。
 だから、次のアルバムまで約2年かかっている。彼の体調回復と心の痛手を解消するためには、それだけの年月が必要だったのだろう。

 彼の4枚目のスタジオ・アルバムは、1989年の6月に発表された。今まで通りのギター中心のブルーズ曲に加えて、ブラス・セクションも加えての豪華なレコーディングになっていた。51s7gqx8mql
 このアルバム「イン・ステップ」は、全米アルバム・チャートで33位を記録し、ダブル・プラチナ・アルバムに認定された。また、グラミー賞のベスト・コンテンポラリー・ブルーズ・アルバム賞も獲得している。
 ちなみに、ルー・リードは、このアルバムを1989年度のベスト・アルバムの1枚と評価していて、自分の友人たちに勧めていたらしい。

 エリック・クラプトンは、薬物中毒から回復したときには、いわゆる“レイド・バック”して戻ってきたのだが、S.R.V.の場合は、以前よりもより一層ブルーズ色の濃いアルバムを発表した。ある意味、彼にとっては、今後の進む方向性というか決意を込めたようなアルバムだったと思う。自分にはこれしかないんだという気持ちだったのではないだろうか。

 アルバムの中のいくつかの曲は、ドイル・ブラムホールとの共作になっているし、中にはS.R.V.がリハビリ中に、バンド・メンバーが中心となって作った"Crossfire"という曲も含まれていた。
 また彼一人で作った"Travis Walk"、"Riviera Paradise"という曲も含まれていた。両方ともインストゥルメンタル曲で、後者の方ではジェフ・ベックのようなクールなスロー・バラードの演奏を聞くことができる。

 カバー曲は3曲で、ウィリー・ディクソンの1961年の曲"Let Me Love You Baby"、バディ・ガイの1965年の曲"Leave My Girl Alone"、ハウリン・ウルフの1964年の"My Country Sugar Mama"のサイドBだった"Love Me Darlin'"である。

 自分は、このアルバムの印象としては、まさに新しいスティーヴィー・レイ・ヴォーンの姿を顕現し、次のステップとしての方向性を指し示すものだと感じていた。

 1曲目の"The House is Rockin'"なんかは、50年代か60年代の古いブルーズ曲のカバーだと思っていたら、S.R.V.とドイル・ブラムホールの共作曲だった。2分20秒余りの短い曲なのに、ギターは自己主張し、ピアノは踊っていて、超カッコいい。

 また、インストゥルメンタル曲の"Travis Walk"はスピーディーで、自分もギタリストならこんな曲を弾いてみたいと思わせるものだった。また、キーボード担当のリーズの転がるようなピアノ・プレイが短いながらも印象的だった。

 9曲目の"Love Me Darlin'"も3分21秒しかないのに、長く感じた。たぶんギターの音数が多いからだろう。しかも他の曲もそうなのだが、この曲でもバリバリと弾きまくっていて、素晴らしい。きっと天国のハウリン・ウルフも喜んでいるに違いない。

 そして最後の曲"Riviera Paradise"は、ジャズっぽくて、今までの彼とは違う趣の曲だった。それこそサンタナの「キャラヴァンサライ」の中の曲か、ジェフ・ベックの「ワイヤード」のアウトテイクの曲のようで、しっとりとした情感がクールなギターとエレクトリック・ピアノによって進行していくのである。8分49秒もある長い曲で、S.R.V.のオリジナル曲だった。

 このアルバムは、彼を見出してくれたミュージシャンでプロデューサーでもあったジョン・ハモンドに捧げられている。ジョンは、1987年の10月に74歳で亡くなった。病死だった。
 そのせいだろう、このアルバムでのS.R.V.のギターは、何かに憑りつかれたように素晴らしい演奏をしていた。

 ただ、この時はまさか自分もジョンのそばに行くとは思ってもみなかっただろう。薬物中毒を克服して、新境地を開いた矢先の出来事だった。運命とはまさに皮肉なものである。

 1990年8月26日、ウィスコンシン州イースト・トロイにあるアルパイン・ヴァレー・ミュージック・シアターにおいて、エリック・クラプトンやロバート・クレイ、バディ・ガイらとともに、“ブルーズ・サミット”を開催し、大成功させたスティーヴィー・レイ・ヴォーンは、シカゴ行きのヘリコプターに乗り込んだ。

 当初は予定にはなかったのだが、席が空いているからという理由で乗り込んだのである。同機には、クラプトンのエージェントやツアー・マネージャー、ボディガードの3人も同乗していた。

 翌日27日の未明に、濃霧のための視界不良のせいか、ヘリコプターは近くのスキー場のゲレンデに墜落して、パイロットを含む乗員全員が亡くなった。S.R.V.は35歳だった。

 彼は1983年のデビューから約7年間で、公式には4枚のスタジオ・アルバムと1枚のライヴ・アルバムを発表している。歴史に“もし”という言葉は禁句かもしれないが、もし彼が生きていたらと思うと、残念で残念でたまらない。

 彼のことだから、ブルーズ一辺倒の音楽をやることは間違いないだろうが、印象的でノリのよいリフや美しいメロディを残しただろう。
 彼の死後、1984年から89年までのアウトテイク集を集めたアルバム「ザ・スカイ・イズ・クライング」が発表されたが、選曲したのは兄のジミーだった。51lmysl4il
 S.R.V.の素晴らしさは、そのブルーズの解釈性の巧みさだったのではないだろうか。基本はブルーズだったが、それをロック風に解釈して見せたり、後年にはジャズ的要素も取り入れようとさえしていた。そのまま続いていたなら、ひょっとしたらソウル風楽曲やファンク色も取り入れたものも発表していたのかもしれない。

 ロバート・ジョンソンのように、本物のブルーズ・ミュージシャンは短命なのだろうか。そして、悲劇的な死を迎えるのだろうか。

 “スティーヴィーは本当に素晴らしいやつだったね。あいつのギター・プレイと歌には人を引き付けずにはいられない何かがあった”(ボブ・ディラン)

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2017年7月10日 (月)

スティーヴィー・レイ・ヴォーン(1)

 ギタリストの中には、自分の名前を頭文字で表す人が何人かいるようで、B.B.キングを始め、E.C.はエリック・クラプトン、J.B.はジェフ・ベックのことを表している。そんなアルファベットがギターケース上に書かれているのを、見た人もいるのではないだろうか。

 それでS.R.V.とくれば、もうお分かりだと思うけれど、今回のお題であるスティーヴィー・レイ・ヴォーンのことを意味している。ミドルネームも含んでいるので、長い名前をわかりやすく表示するのには、確かに適しているだろう。ここでもS.R.V.と表示しようと思う。(S.V.ならスティーヴ・ヴァイになってしまう!)Mi0001399374
 S.R.V.の存在が世間で知られるようになったのは、よく言われているように、デヴィッド・ボウイの1983年のアルバム「レッツ・ダンス」に参加して、そのギターの演奏が素晴らしかったからだ。

 もちろん、これは偶然の出来事ではなくて、デヴィッド・ボウイから声を掛けられたからだが、それに至るまでにいくつかの運命的な出来事がS.R.V.を待ち受けていたのである。

 1982年の4月23日に、S.R.V.と彼のバック・バンドだったダブル・トラブルは、ニューヨークのダンステリア・クラブで演奏をしていた。理由は、ローリング・ストーンズのツアー・サポートを決めるオーディションに参加していたからであった。

 彼らの演奏を最前列で見ていたロン・ウッドは、立ち上がってこう言ったという。“一緒にジャム・セッションをしよう”

 残念ながら、ストーンズのツアーには同行しなかったようだが、3ヶ月後にはスイスのモントルー・ジャズ・フェスティバルという伝統的なライヴで演奏をしていた。
 これはR&Bなどのプロデューサーだったジェリー・ウェクスラーの尽力によるところが大きい。

 ジェリーは、まだ無名だったころのS.R.V.のライヴ演奏をテキサスのオースティンで見て以来、彼らのファンになっていた。
 それで、レコーディング契約もない彼らをモントルー・ジャズ・フェスティバルのプロモーターに紹介して、何とか出演させてもらえるように頼んだのである。

 そして、そのフェスティバルに見に来ていたのが、デヴィッド・ボウイというわけだった。彼はステージ終了とともに、彼らのバック・ステージを訪れ、ブルーズのレコードやギターなどについて話し込んだ。
 S.R.V.のことをすっかり気に入ったボウイは、自分のアルバムのレコーディングに彼を招いたのであった。

 また、このときのモントルー・ジャズ・フェスティバルで、彼らの演奏を見ていた人は他にもいた。プロデューサーで自らもミュージシャンだったジョン・ハモンドである。

 ジョンは、有名なプロデューサーであり、彼によって見いだされ、世の中に紹介されたミュージシャンは数知れない。例えば、古くはビリー・ホリデーにカウント・ベイシー、ピート・シーガー、中期ではアレサ・フランクリンやボブ・ディランにジョージ・ベンソン、後期ではレナード・コーエンでありブルース・スプリングスティーン、そしてスティーヴィー・レイ・ヴォーンである。

 ジョン・ハモンドは、彼らのために1982年の11月から、ジャクソン・ブラウン所有のスタジオでレコーディングが行われるように取り図ってくれたのだ。
 そして、ジャクソン・ブラウン自身もスタジオだけでなく、必要なレコーディングの機材を揃えてやり、彼らをサポートした。

 そうして世に出たアルバムが、彼らのデビュー作である「テキサス・フラッド~ブルースの洪水~」だった。ニューヨークでのストーンズのオーディションから1年もたたないうちに彼らはレコード・デビューし、世界的に認められるようになったのである。61rie3zeil
 このアルバムは、彼らのライヴ演奏の雰囲気を活かすために、2日間で録音されている。ほとんどオーヴァー・ダビングも行われず、“一発録り”に近いものだった。
 だから、S.R.V.の豪放なギターやバックの荒々しいリズム・セクションが丸ごと収められていて、レコードの溝から飛び出してくるようなサウンドが響き渡っている。

 全10曲だが、オリジナルはそのうち6曲、残りはバディ・ガイの1967年の"Mary Had A Little Lamb"、ラリー・ディヴィスの"Texas Flood"、チェスター・バーネットの"Tell Me"、そして1964年にアイズレー・ブラザーズが発表した"Testify"だった。

 基本はブルーズなのだが、ロック・ミュージックとしても十分機能するほど、カッコいい。冒頭の"Love Struck Baby"や次の"Pride And Joy"などは2分や3分少々の曲なのだが、とても密度が濃くて、そんなに短くは感じられない。

 また、インストゥルメンタル曲の"Testify"などは、これぞまさにギターのお手本というような感じだ。キレのあるカッティングと滑走するようなフレージングは、ギター・キッズのお手本とするところだろう。

 インストゥルメンタル曲は他にもあって、"Rude Mood"は素早いシャッフル調の曲で、モントルー・ジャズ・フェスティバルでも紹介された。逆に"Lenny"は自由にゆったりと演奏されている。ジャズっぽい雰囲気を持つ一方で、ジミ・ヘンドリックスのような即興性もあわせ持っていて、ライヴでもしばしば演奏されていた。

 タイトルの"Lenny"は、当時のスティーヴィー・レイ・ヴォーンの奥さんだったレノーラから取られていて、彼は自分の愛用するギターにも同じ愛称をつけていた。

 このアルバムを制作する前に、S.R.V.はデヴィッド・ボウイの“シリアス・ムーンライト・ツアー”の参加を断っていて、自分のバンド、ダブル・トラブルとの活動に取り組んでいた。それだけ自分たちの活動を重視していたのだろう。

 スティーヴィー・レイ・ヴォーン&ダブル・トラブルは、アルバム発表後、アメリカやヨーロッパでのツアーを開始した。「テキサス・フラッド~ブルースの洪水~」は、ビルボードのアルバム・チャートで38位まで上昇し、ゴールド・ディスクを獲得している。

 彼らのセカンド・アルバムは、翌年の1984年に発表された。オリジナル盤は全8曲、約38分だった。当時のレコードは最大50分程度は録音できたから、これはやはり短い部類に入るだろう。

 このアルバムでも無駄な装飾をはぎ落した、スリムでスリリングな彼らの演奏を味わうことができる。今回もライヴ感を大切にしていて、ニューヨークのパワー・ステーション・スタジオにおいて、わずか19日間でレコーディングされていた。61k9yi3t6tl

 1曲目の"Scuttle Buttin'"は、S.R.V.によるオリジナルのインストゥルメンタル曲。最初聞いたときは、1分51秒という時間の中に、よくぞこれだけのテクニックやリズム感、リフのカッコよさなどを詰め込んだなという感じがした。まさに弾きまくっているという感じで、これならロック・ファンでも十分満足するに違いない。

 2曲目の"Couldn't Stand the Weather"と次の"The Things (That) I Used to Do"では、3歳年上の兄であるジミー・ヴォーンがリズム・ギターで参加している。
 この曲も中盤のギター・ソロが印象的だし、S.R.V.のよいところは、ギターのカッティングもソロも両方とも超一流という点だろう。MTVで、豪雨の中ギターを弾き続けていたスティーヴィー・レイ・ヴォーンのビデオ・クリップを思い出してしまった。

 もともとS.R.V.は、兄の影響で音楽を聞き始め、楽器を手にした。楽器を演奏してからはブルーズだが、その前はジミ・ヘンドリックスやエリック・クラプトン、ジェフ・ベックなどの音楽を聞いていたという。

 特に、ジミ・ヘンドリックスからの影響は強いようで、このアルバムでも"Voodoo Chile"をカバーしていた。しかもオリジナルに近い形での演奏だったから、ジミ・ヘン・ファンも感動するだろう。

 このアルバムでのカバー曲は4曲で、先ほどのジミ・ヘンの曲に、エディ・ジョーンズ(ギター・スリム)の1953年の曲"The Things (That) I Used to Do"、地元オースティンのブルーズ・ミュージシャンによって書かれた"Cold Shot"、シカゴのブルーズ・ギタリストのジミー・リードの曲"Tin Pan Alley"だ。

 特に、"Tin Pan Alley"は、スロー・ブルーズで、渋い演奏を堪能することができる。1曲目の"Scuttle Buttin'"とは対照的で9分11秒もあり、ときどき70年代のクラプトンの曲のように感じてしまった。今のクラプトンもこれくらいは弾いてほしいのだが、すっかり丸くなってしまったのでもう無理だろう。

 そしてこのアルバムでも、ジャズ・フレイバー溢れる"Stang's Swang"という曲が最後に置かれていて、途中のギターとサックスの掛け合いというかコール・アンド・レスポンスが見事であった。

 スティーヴィー・レイ・ヴォーンの魅力は、ブルーズのみならず、ロックやジャズまでも幅広く吸収し、消化して、その再解釈を提示してくれるところだろう。しかもそれが高度なテクニックに裏打ちされているのだから、非の打ち所がない。48070450b93b15ec040ec2ef4bd3f338

 結局、このアルバムも広く受け入れられ、ビルボードのチャートでは31位まで上がり、2作続けてゴールド・ディスクを獲得した。また、カナダやニュージーランドでもこのアルバムは、プラチナ・ディスクを獲得している。

 ブルーズとロックというジャンルの違いはあっても、エドワード・ヴァン・ヘイレン以来のギターのニュー・ヒーローが世界的にも認められていったのである。(To Be Continued...)

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2017年6月12日 (月)

バディ・ホリー

 バディ・ホリーも、エルヴィス・プレスリーと同様、いやそれ以上に、後世のロックン・ロール史に影響を与えたミュージシャンの一人である。5e8f746dee233d92e676b4ddcbe5d85e_10
 彼の曲は、ザ・ビートルズやザ・ローリング・ストーンズを始め、リンダ・ロンシュタットなど多くの有名なバンドやミュージシャンにカバーされている。("Words of Love"はザ・ビートルズが、"Not Fade Away"はザ・ローリング・ストーンズが、そしてリンダ・ロンシュタットは、"It So Easy"を取り上げていた)

 逆に、バディの死を取り上げて"American Pie"を作ったのが、ドン・マクリーンであり、のちにマドンナもこの曲をリバイバル・ヒットさせている。

 また、曲だけでなく、イギリスのバンド、ザ・ホリーズのようにバンド名に使われている例もあるし、イギリス人のエルヴィス・コステロは、バディ・ホリーのようなメガネをかけてデビューした。

 ついでに言うと、ザ・ビートルズは“カブトムシ(Beetle)”と"Beat"を掛けた造語だったが、彼らが昆虫の名前を選んだのも、バディ・ホリーのバック・バンドの“クリケッツ(コオロギ)”が由来だといわれているし、ジョン・レノンがメガネを愛用するようになったのも、バディの影響があったらしい。それほどバディ・ホリーは、多くのミュージシャンから慕われていたのである。

 バディ・ホリーは、本名をチャールズ・ハーディン・ホリーといい、“バディ”は母親が彼のことをこう呼んでいたことからきている。
 1936年9月7日に、テキサス州のラボックで生まれた。幼い頃から黒人の音楽やメキシコ音楽などに親しんでいたという。

 4人兄弟の末っ子で、幼い頃からバイオリンを習い、5歳の時には人前で歌うようになったと言われている。
 さらには11歳でピアノを、12歳でギターを弾き始め、13歳になると友だちと組んで、人前で音楽活動を始めた。

 高校生になると、地元のラジオ局で番組を担当するなど、かなりの人気を博するようになった。
 もちろんこれくらいで満足する彼ではなかった。自主制作盤を作成して発表したり、有名な歌手が来れば、頼み込んでオープニング・アクトとしてステージに立たせてもらったりするようになったのである。

 そのうち、ビル・ヘイリー&ザ・コメッツの前座を務めていた時、ナッシュビルのプロモーターだったエディ・クランドルに認められて、1956年にデッカ・レコードと契約を結び、レコーディングを行うことができた。もちろん、"That'll Be the Day"も録音されている。

 ただ、残念ながらこの時録音したレコードは、商業的には成功しなかった。それで、翌57年の2月に、今度はニューメキシコ州のクローヴィスにあるプロデューサーのノーマン・ペティのスタジオで再びレコーディングを行った。
 この時のバック・メンバーが“ザ・クリケッツ”と呼ばれた人たちだった。ドラムスがジェリー・アリスン、ベース・ギターがジョー・モールディン、ギターはニキ・サリヴァンである。

 この時も"That'll Be the Day"は録音されていて、今度はアップテンポの、よりロックン・ロール風にアレンジされていた。100625_02_buddyholly_3
 もともとこの曲は、アメリカの西部劇でジョン・ウェインが主演した1956年の映画「捜索者」("The Searchers")のセリフから引用されている。

 最初にナッシュビルで録音された曲の方は、デッカが気に入らず発表させてもらえなかった。だから、クローヴィスでもう一度再録されたのだろう。

 しかし、今度もデッカ・レコードは発売を拒否し、デッカ以外のコロンビア・レコード、RCA、アトランティック・レコードまでも断ってきた。
 最終的に、デッカ・レコードの子会社だったニューヨークにあるコーラル・ブランズウィック社のボブ・シールが契約をして、シングル・レコードとして発表することができたのである。

 1957年の夏にシングル・カットされたこの曲は、徐々にチャートを上昇していき、9月23日付のビルボードのシングル・チャートで1位になっている。この曲の前後には、ポール・アンカの"Diana"やジミー・ロジャースの"Honeycomb"などが首位になっていた。そんな時代のヒット曲だった。

 ちなみに、この曲の版権はデッカ・レコードが持っていたので、ボブはクリケッツの名前でブランズウィック・レーベルから、彼の死後、バディ・ホリーの名前でコーラル・レーベルからシングルとして発表した。もちろん3曲とも、バディ・ホリー&ザ・クリケッツの演奏である。今でいうところの便乗商法というものだろう。

 翌年の1958年になると、バディはプロデューサーのノーマン・ペティやクリケッツのメンバーと別れて、新しいバック・メンバーと活動を始めるようになった。
 この年の8月に、バディは、プエルトリコ人の音楽出版社秘書だったマリアと結婚したのだが、実は、この結婚にノーマン・ペティは反対していたという話があって、それが2人の別離の原因だと言われている。

 また、ザ・クリケッツのメンバーは、長期にわたってのコンサートやライヴ活動が嫌になってしまったらしい。もともと彼らは、スタジオのセッション・ミュージシャンだったから、ライヴ活動が嫌になっても仕方がなかったのかもしれない。ただ、今となってみれば、それが彼らの生死を分けたのだから、人生何がどうなるかわからないものである。

 そして、1958年の10月にニューヨークのグリニッジ・ヴィレッジのアパートメントで、レコーディングを行った。これにはポール・アンカの書いた"It Doesn't Matter Anymore"も含まれていて、これが公式には最後のレコーディングとされている。712mwdf2bzl__sl1050_
 彼は、この時期の前後から多くのヒット曲を発表するようになったが、経済的には決して裕福ではなかったらしい。だから、手っ取り早くお金を稼ごうと思えば、今も昔も同じように、いわゆる地方公演を行わなければならなかったのである。

 そして運命の1959年2月3日を迎える。前日の2日に妊娠中だった妻のマリアを家に残し、バディ・ホリーは、ニュー・クリケッツのメンバーを伴って、アメリカの中西部を回るバス・ツアー“ウィンター・ダンス・パーティー”に出かけていった。

 アイオワ州のクリア・レイクでのライヴ演奏を終えた彼らは、バス内の暖房器具が故障中だったこともあり、バディは、早く次の会場に行こうとして小型飛行機をチャーターしたのである。
 このときのバディは衣装も早く洗濯したかったようだと、のちに途中まで同伴していたツアー・スタッフが述べていた。

 2月3日の午前12時40分、雪の降る中を小型機ボナンザ号は、ノース・ダコタ州のファーゴに向けて飛び立ったが、残念ながら目的地に到着することはなかった。
 パイロットを含む4人全員が死亡して、22歳の若いロックン・ローラーは天国に旅立ったのである。

 自分は、まだ生まれていないので、当時のことはよくわからない。ただ、その後も彼の生前録音された楽曲が手を変え品を変え、発表され続けていることは間違いない。
 中には、1954年頃の自主制作盤までもが発表されていて、まだ高校生か卒業して間もない頃のカントリーやフォークを2人組で演奏している頃の楽曲まで聞くことができるのだ。

 面白いことに、本国アメリカよりもイギリスでの人気が高いようで、60年代に入っても"Bo Diddley"や"Brown-eyed Handsome Man"、"Peggy Sue/Rave On"などが、シングル・チャートに入っていたし、1978年や1993年には、コンピレーションのベスト・アルバムが全英1位を記録していた。

 自分は12月8日のジョンの命日を生涯忘れることはないだろうが、同様に、1950年代後半を生きてきた人たちの中には、2月3日を忘れることができない人がいるはずだ。
 いまだに彼の曲が流され、多くのミュージシャンがカバーし、アルバムも売れていることがバディ・ホリーの伝説をさらに忘れられないものにしている。

 わずか3年余りの音楽活動だったが、ロックン・ロールの歴史の中では永遠に輝いていくに違いない。本人はこの世にはいないが、私たちの中に間違いなく存在し、そしてこれからの世代にも語り継がれていくのである。

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2017年4月17日 (月)

キングス・オブ・レオン

 キングス・オブ・レオンは、アメリカのテネシー州ナッシュビル出身のバンドである。デビューしてもう17年くらいなるバンドで、ある意味、ベテランの域に近づきつつある中堅バンドだろう。Bb22feakingsofleona592016billboard1
 自分が彼らのことを知ったのは、2008年のアルバム「オンリー・バイ・ザ・ナイト」によってだった。このアルバムからシングル・カットされた"Sex on Fire"が、タイトル通りになかなか刺激的だったからだ。

 それまで彼らの名前だけは知っていたのだが、わざわざアルバムを買ってまで聞こうとは思わなかった。
 21世紀のアメリカン・ロックのバンドは、1970年代のハード・ロックとは違って、グランジ・ロックを経験しているせいか、ギターの露出が減り、歌ものというか、楽曲全体で勝負してくるような気がした。

 いわゆるオルタナティヴ・ロックなのだろうが、リフ主体であっても70年代ではメロディアスな要素が含まれていた。
 これが2000年代になると、ヒップホップの影響だろうか、もう少しリズミックになってきたのだ。だから若者にはその時のトレンドを代表しているように聞こえるのだろうが、私のような老人になってしまうと、ちょっとついていけないのであった。

 ところが、キングス・オブ・レオンは、デビュー当時からアメリカ南部のブルーズやサザン・ロックの影響を受けたような音楽をやっていて、昔を知る者や評論家にとっては、まさに感涙にむせぶような、そんな感情移入しやすいバンドだったのである。

 たぶんナッシュビルという土地柄もあっただろうし、父親が敬虔なペンテコステ派のクリスチャンで、説教師という立場からアメリカ南部を転々として回ったことも影響したようだ。

 このペンテコステ派はプロテスタントに分類されるようだが、讃美歌の多くはペンテコステ派の信者等によって書かれていて、音楽とペンテコステ派は切っても切り離せない関係があると言われている。

 日本のシンガー・ソングライターである小坂 忠も、このペンテコステ派の牧師で、多くの讃美歌等を手掛けている。
 ちなみに、小坂 忠は、細野晴臣、柳田ヒロ等と“エイプリル・フール”というバンドを結成したり、NHKの“おかあさんといっしょ”のテーマソングも担当していた。今ではマイナーな存在かもしれないけれども、70年代はかなり高名なミュージシャンだったのだ。

 話を元に戻すと、父親がそういう立場だったので、子どもたちもその影響を受けて育っていった。そう、キングス・オブ・レオンは、兄弟バンドだったのである。メンバーは以下の通りだ。
ケイレヴ・フォロウィル…ボーカル&ギター
マシュー・フォロウィル…ギター
ジャレッド・フォロウィル…ベース・ギター
ネイサン・フォロウィル…ドラムス

 フォロウィル・ファミリーという家内工業的音楽活動を行っていたのが、キングス・オブ・レオンだった。この内のケレイヴ、ジャレッド、ネイサンの3人が兄弟で、それぞれ次男、三男、長男にあたり、ギター担当のマシューだけが従兄弟にあたる。

 というわけで、このファミリー・バンドは、父親とともに南部を転々としながら音楽体験を重ねていった。
 一口に南部といってもその土地は広大で、雰囲気も場所ごとによってかなり違うようだ。いわゆる土地柄というものだろう。

 父親は讃美歌を歌いながら、その子どもたちはそれを通して音楽に触れ、その土地からブルーズやサザン・ロック、ゴスペルにカントリーと様々な音楽を吸収し、消化していった。

 1997年に父親は説教師を辞め、両親は離婚した。その後、ネイサンとクレイヴがナッシュビルに引っ越した時、シンガー・ソングライターのアンジェロ・ペトラグリアと運命的な出会いを果たすのである。
 アンジェロは、彼ら兄弟に作曲の仕方やストーンズやクラッシュなどのブリティッシュ・ロックの素晴らしさを伝授した。

 1999年にキングス・オブ・レオンが結成された後も、アンジェロは様々な形で彼らにバンドとしての在り方やレコーディング方法などのアドバイスを与えた。結局、彼らのアルバムの共同プロデューサーとしても関わるようになったし、キーボード・プレイヤーとしてもアルバムに参加するようになった。

 自分が聞いた彼らのアルバム「オンリー・バイ・ザ・ナイト」は、初期のインディー的な要素は全くなくなり、スタジアム級のバンドとして成長した姿を見せてくれている。
 これも彼らがデビュー以来、年間200本以上のライヴ活動を地道に行ってきたからだろう。71xmohlbnrl__sl1500_ 矢沢永吉も言っていたけれど、アメリカは本当に広い。今はネットで動画なども簡単に見ることができる時代だが、やはり動画と本物のライヴは違うし、PVなどの動画は如何様にも加工することもできるが、ライヴは一発勝負である。やはり永続した人気を保つにはライヴ活動を重ねていく外はないのだろう。

 とにかく、この「オンリー・バイ・ザ・ナイト」は、イギリス、アイルランド、オーストラリアのアルバム・チャートでは初登場1位を記録したし、アメリカでも初登場5位になり、最終的には250万枚以上のダブル・プラチナ・ディスクに認定された。

 シングル・カットされた上記の曲も、イギリスではシングル・チャート1位に輝いているし、アメリカ以上にイギリスでは彼らを歓迎する空気が満ちているようだった。

 事実、2009年に入っても彼らのアルバムの人気は衰えず、アルバム・チャートの首位に2回も返り咲いているし、発売から40週以上たってもトップ20位内外を上下し続けていた。
 そして、レディング・フェスティバルや、英国最大のグラストンベリーでも2008年にはトリを務めていた。

 70年代のような印象的なギター・ソロなどはないのだが、メロディーがしっかりしているし、それをサザン・ロック風の豪快さが包んでいるのだ。だから、昔を知る人には郷愁みたいなものを感じるだろうし、若い人にとっては、ヒップホップでもないし、ダンス系でもないし、それが新鮮に感じるのだろう。

 ただ、自分にとっては、そんなにフェイヴァレットなバンドにはならなかった。理由は、新鮮なんだけれども、サザン・ロックやスワンプ・ロックを聞くのならオールマン・ブラザーズ・バンドやレーナード・スキナード、38スペシャル、個人ならレオン・ラッセルなど優れたバンドやミュージシャンの音楽を聞けばいいわけだし、歴史に残るような名盤とは思えなかったからだ。

 そんなこんなで、約8年がたった。その間に、彼らは3枚のアルバムを発表している。その3枚目のアルバムが、昨年発表された「ウォールズ」だった。61kpq3emml__sl1500_ このアルバムは、英米のアルバム・チャートで1位を獲得した。もともと彼らはイギリスでは人気が高かったので、前作や前々作もチャートではNo.1を獲得している。
 ところが、何故か母国のアメリカでは、それまで1位を取ったことがなくて、あの「オンリー・バイ・ザ・ナイト」でも4位どまりだった。だから、これは彼らにとっての初めてのNo.1アルバムになったのである。

 なぜ首位を取ったのかというと、一言でいえば、“ポップ化”である。ポップ化といってもいきなりミーハー化したり、大衆に迎合したりしたわけではない。非常に聞きやすくなっただけである。

 ただ、それでも“21世紀のサザン・ロック”とまでいわれ、その“骨太さ”が評論家たちからも好意的に受け入れられていた彼らだったのに、ここまで売れ線を狙ってもいいのだろうかと思ったりもしたのだが、これは彼らがデビュー当時に立ち返ってアルバム制作を進めたからだと言われている。

 要するに、原点に戻って自分たちを見つめ、志向する音楽を定めたということだろう。それがいい意味での“大衆化路線”につながったに違いない。

 それにアルバムの中の楽曲もロック系とバラード系とバランスよく収められていて、バラード系の曲の"Muchacho"や"Walls"などは、まるでブルース・スプリングスティーンの楽曲に似ていて、感動的だった。

 逆に、シングル・カットされた"Waste A Moment"などはノリノリのロックだし、"Find Me"はヒリヒリさせる焦燥感が漂っている。
 一方では、"Over"のように大陸的な広大さを感じさせてくれる曲もあれば、"Eyes On You"のようにチープ・トリックのようなポップ・ロック調の曲も収められている。

 もちろん、デビュー時のオルタナティヴの匂いがプンプンする"Conversation Piece"やダンサンブルな香りのする"Around the World"などもあって、一筋縄ではいかないのだ。

 こういうバラエティさに富んでいるところが、ファン層やアルバム購買層の拡大につながったのだろう。Rskingsofleoncf3d315315c544dc8f86d8
 面白いことに、彼らはアルバムのタイトルや曲名に5文字以上は使用しないという暗黙のルールがあるようで、今までのどのアルバム・タイトルや、その中の曲名で5文字以上のものはない。

 このアルバムも元のタイトルは“We Are Like Love Songs”というものだったが、これでは5文字になってしまうので、それらの語の最初の文字をつなげて“Walls”と名付けている。彼らなりのこだわりというものだろう。

 ともかく、これで本国アメリカでもボン・ジョヴィのようなメジャー級になったようだ。さらに上を目指して、U2やレッチリのようになるかどうかは、今後の彼らの活躍次第である。今のように多くのライヴ活動を行っていけば、決して夢物語ではないだろう。

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2017年4月10日 (月)

ブックエンズ

 最近のことだが、サイモンとガーファンクルの"America"が聞きたくて、その曲の入っているアルバム「ブックエンズ」を購入した。貧乏なのでブックオフの中古CD棚で探していたら、偶然見つかったのでうれしかった。“捨てる神あれば拾う神あり”である。51nlts26m9l
 自分がロックの道に足を踏み入れた時には、すでにサイモン&ガーファンクルは解散していたので、彼らのことを知ったのは、ラジオから流れてくる彼らのシングル曲を通してだった。当時は、まだ"The Sounds of Silence"や"The Boxer"、"Homeward Bound"などは、よくかけられていたものだ。

 その中でも、この"America"が好きだった。淡々とした曲調ながらも、シンセサイザーを使ったアレンジも印象的だったし、“アメリカを見つけるためにやってきた”という歌詞は、中学生でも何とか理解することができたからだ。
「俺たち恋人になろうぜ
同じ将来を約束し合うんだ
俺の鞄の中にはちょっとした財産もあるし
だから煙草を一箱と
ミセス・ワグナーのパイを買って
アメリカを探すために歩き始めたんだ

 

キャシー、俺は言った、
ピッツバーグでグレイハウンドに乗った時に
ミシガンは俺にとっては夢のようだ
サギノーからヒッチハイクで4日かかって
俺はアメリカを探しに出てきたんだ

 

バスの中で笑いながら
人の顔を見て当てっこをしていた
彼女は言った
ギャバジンのスーツを着ている男はスパイよ
俺は言った
気をつけろよ、
奴の蝶ネクタイは本当はカメラなんだぞ

 

煙草をくれよ、レインコートに1本あったはずだけど
もう1時間前に最後の一本を吸ったわよ
それで俺は景色を見て
彼女は雑誌を読んでいた
月が広い畑の上に上がっていた

 

キャシー、俺は迷っているんだ
俺は彼女が眠っているのを
知っていたけれども
何だか空しくて心が痛むよ
なぜだかわからないけれど
ニュージャージーの高速道路で
クルマを数えながら
俺たちみんなは
アメリカを探しにやってきているんだ」
(訳;プロフェッサー・ケイ)

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 のちに大学生になったときに、太田裕美のベスト・アルバムを生協で購入した。もちろん2割引きだったからだが、その2枚組のアルバムの中に“ひぐらし”という曲があった。作詞は松本 隆、作曲は荒井 由美だった。
「ねぇ私たち恋するのって
鞄ひとつでバスに乗ったの
マクドナルドのハンバーガーと
煙草はイブをポケットに入れ

御殿場までが矢のように過ぎ
緑の匂い胸にしみるわ
昔はカゴで通ったなんて
雪の白富士まるで絵のよう

読んだ漫画をあなたはふせて
内緒の声で耳打ちばなし
スーツを着ているあいつを見ろよ
三億円に似てないかって

最後に吸った煙草を消して
空の銀紙くしゃくしゃにした

窓に頬寄せ景色を見てると
時の流れを漂うようね

ガラスに映るあなたの寝顔
私はふっとため息ついた
生きている事が虚しいなんて
指先見つめ考えてたの

日暮れる頃に京都に着くわ
それは涯ない日暮らしの旅
あなたと二人季節の中を
愛はどこまで流れてゆくの」

 まさに"America"の中で描かれている世界観である。“ひぐらし”ではなくて、"Japan"というタイトルにすればよかったのではないだろうか。
 ただし、この歌は女性の視点で語られており、歌詞の中の2人はお互いのことだけで完結していて、自分(たち)探しの旅と外の風景とは、そんなに深い関連はなさそうだ。

 その点、ポール・サイモンの世界では、自分たちの生き方や人生をアメリカを探す旅と結び付けて、比喩的にまとめている。
 だからポール・サイモンの詩の方が優れているとはこれっぽっちも思っていないのだが、"America"というタイトルに象徴させている、もしくは収斂させているところは、さすがポール・サイモンだと感心してしまった。

 それはともかく、"America"という曲の影響力がここまで及んでいることを知って驚いた記憶がある。やはり、サイモンとガーファンクルの人気や影響力は計り知れないものがあったのだ。

 これも昔の話になるのだが、「ミュージック・ライフ」という雑誌の中で、音楽評論家や音楽雑誌編集者による企画もの「私の好きなアルバムベスト10」というものを、目にしたことがあった。

 その中に「ブックエンズ」があった。なぜ「ブックエンズ」が選ばれて、「明日に架ける橋」ではないのか、その理由が分からなかった。
 それでいつかは「ブックエンズ」を通して聞こうと思っていたのだが、主な曲はほとんど知っていたので、手を出すのをためらっていた。そうこうしている間に、長い長い時間が過ぎて行ったのである。  710csaqtjl__sl1144__2
 話を元に戻すと、アルバム「ブックエンズ」は1968年に発表された。彼らの4枚目のスタジオ・アルバムだった。よく考えたら、ビートルズやストーンズと違って、彼らはそんなにスタジオ・アルバムを出していなかったことに気がついた。

 1964年から1970年までに、5枚しか発表していないのだから、当時としては珍しかったのではないだろうか。60年代の売れっ子バンドやミュージシャンは、年に2枚アルバムを発表するのは当たり前だったのだから。
 レーベルやレコード会社側は、人気のあるうちに、アルバムを売り切ってしまおうという魂胆があったのだろう。

 サイモンとガーファンクルは、そんなにアルバムを発表してはいなかった。ただし、シングルは結構出している。売れ始めた1966年に4枚、67年には3枚出していた。シングル主体の活動だったのだろうか。

 よく言われるように、「ブックエンズ」はトータル・アルバムだった。といっても中途半端なトータル・アルバムである。もともとは当時のレコードのサイドAとサイドBを使ってトータル・アルバムを作る予定だったらしい。テーマは「アメリカ人の生活や人生」で、それを音楽で表すものだった。

 ところがレコード会社の横やりが入ったのか、前半の7曲だけで終わってしまい、残りの5曲は既発のヒット曲が中心になった。要するに、半分はトータル・アルバムで、残りの半分は66年~67年当時のベスト・ヒット・アルバムということだろう。

 これが全曲組曲形式のトータル・アルバムだったら、もっと素晴らしくなっていただろう。ひょっとしたら次作の「明日に架ける橋」を超えるミリオン・セラーになっていたかもしれない。それほど前半の出来はなかなかのものだった。

 「ブックエンズ」というタイトルが示すように、"Bookends Theme"のインストゥルメンタル曲と歌詞入りで挟まれている。
 30秒ほどのインストゥルメンタルのあと、"Save the Life of My Child"が始まるのだが、これがまたサイモンとガーファンクルの曲とは思えない程、サイケデリックでハードな曲調だった。

 しかもシンセサイザーなるものも使用されているようで、当時の状況としては、最先端の音楽機器を使用していたのではないだろうか。
 彼らはフォーク・デュオとしてギター1本でデビューしたのだが、次第にその色どりを増やしていき音楽的な完成度を高めていったのである。

 これもビートルズのサージャント・ペパーズの影響かもしれない。あのアルバムのおかげで、ストーンズやザ・フーなどのイギリス勢を始め、ザ・ビーチ・ボーイズやルー・リードなどのアメリカ勢もインパクトを受けていたが、サイモンとガーファンクルもその例に漏れないようだ。

 続けて"America"が始まるのだが、"Kathy, I'm lost," I said, Though I knew she was sleeping, "I'm empty, and aching and I don't know why"というくだりには何度も感動してしまう。この辺は、のちに言われた“モラトリアム症候群”や“アイディンティティ(自己同一性)の危機”にも相当するところであり、今も昔も変わらない若者意識を表現している。詩人としても評価の高いポール・サイモンならではの言い方だろう。

 若者の次は中年の夫婦の会話だろうか。しかも別れを強く意識した様子である。ギター1本の音楽と歌詞の世界とがうまくマッチしている。
 "Overs"というのは、ゲーム・オーヴァーの"over"を表しているのだろうし、同時に、「考え直す」という意味の"think it over"の"over"も兼ねている。だから"Overs"という複数形になっているのだろう。

 実際の老人の会話を集めた"Voices of Old People"から"Old Friends"になるのだが、ストリングス等が使用されている"Old Friends"は本当に美しい曲だ。

 もちろんこの"Old Friends"はサイモンとガーファンクルの未来像を表していたのだろう。そして、ひっそりとベンチに座っている2人の友人の姿が"Bookends"のように見えるのだろう。Img_1_m_2
 ということは、本物のブックエンドのように2人の間には隙間があったはずだ。サイモンとガーファンクル自身も自分たちのすれ違いを意識していたに違いない。

 だからこのアルバムは、単なるアメリカ人たちの人間模様や人生だけを描いたものではなくて、彼ら2人の現状認識やこれからの姿をも描こうとしていたのだろう。
 アメリカを探そうとしていたのは、恋人同士だけではなくて、本当はサイモンとガーファンクルの2人だったのである。

 何となくビートルズの末期におけるジョンとポールのような関係だ。ポールもジョンに対して"Get Back"と歌っていたし、一流のミュージシャン同士には、目には見えない微妙な関係が流れているようだ。

 オリジナルのアルバムでは、たった29分13秒という中途半端で短いものだったが、描かれている内容は、こんなつまらないブログでは尽きせぬほどの深いものが秘められていた。

 「ブックエンズ」がサイモンとガーファンクルのベストアルバムとして選ばれるのも、当たり前のことなのかもしれない。

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2017年3月13日 (月)

ポール・ネルソン・バンド

 2014年の7月16日に、ブルーズ・ギタリストであるジョニー・ウインターが亡くなった。“100万ドルのギタリスト”とも言われていたジョニーだったが、享年70歳だった。

 彼のことについては、何度かこのブログでも取り上げていたので、詳細については割愛するが、自分にとってはロック・ミュージックとブルーズを繋いだ最後のブルーズ・ギタリストだった。

 そのジョニーの晩年を支えたミュージシャンが、ポール・ネルソンである。彼の年齢は非公開になっていてよくわからないのだが、デビューが1990年代なので、おそらくは40歳代後半から50歳代始めあたりだろう。56708215thepaulnelsonbandtoreleaseb
 生まれはニューヨークのマンハッタンで、影響を受けたミュージシャンは、レッド・ゼッペリンにエアロスミス、ZZトップ、ジェフ・ベック、そしてもちろんジョニー・ウインターなどだった。

 学生の頃からバンド活動を始め、バークリー音楽院に進んで音楽理論を学び、その後はスティーヴ・ヴァイから直接ギター奏法や採譜などの指導も受けたようだ。

 公式のバイオグラフィーでは、まだアマチュア時代のときにデモ曲を発表しているが、正式のソロ・デビュー・アルバムは、2001年の「ルック」という5曲入りのインストゥルメンタル・ミニ・アルバムだった。5109bs4j3al__ss500
 このアルバムでは、ロックやフュージョンと様々なスタイルの曲を弾きこなしていて、まさに新時代に相応しいニュー・ギタリストの登場といったものだった。

 そんな彼がジョニーと出会ったのは、2003年である。ポールは、アメリカン・フットボールの団体用に曲を録音していた時、スタジオの隣ではジョニーがアルバムを録音していた。
 その時、ジョニーがたまたまポールの弾く曲を耳にして、自分のアルバム用にも曲を書いてくれと頼んだことから親交が始まった。

 それから、もう2曲ほどジョニーのアルバムのために曲を提供し、その2曲を含む他の曲でも演奏を行った。
 ジョニーは、その演奏をいたく気に入ったようで、ライヴでも一緒に演奏してほしいと頼んで、ポールがいつからと聞くと、明日イギリスに行くからという答えが返ってきたという。

 何とも急な話だが、その時ジョニーは健康問題を抱えていて、思うようにミュージシャンを集めることもできなかったからと言われている。
 また、のちにマネージャーも頼まれたというから、健康面だけでなく経済的にも逼迫していたようだった。

 面白いことに、他のギタリストはみんなジョニーとギター・バトルをやりたがって来るのに、ポールはジョニーのギターが前面に出るように意識してレコーディングに参加していた。
 このことがジョニーがポールのことを気に入った理由になったようで、これ以降、ポールがジョニーのバンド・メンバーになり、レコーディングのエンジニアやプロデューサーを担当するようになっていった。

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 結局、それ以降、ポールはジョニーと同行して、ヨーロッパのツアーや3回にもわたる日本でのライヴ公演にも帯同していた。

 ジョニーがスイスのチューリッヒで亡くなったときも、ポールは彼と一緒にホテルに滞在していて、病院に連れて行ったのもポールだった。
 ジョニーは抗生物質を飲まされて、その後ホテルに戻って休んだらしいが、そのまま帰らぬ人になってしまった。苦しまずに安らかに眠ったようだ。

 そんなポールがジョニー亡き後、彼の遺志を引き継ぐような形でアルバムを制作し、発表した。それが昨年発表された「バッドアス・ジェネレーション」だったのである。

 全12曲で、ブルーズ一本やりではなくて、"Good Bye Forever"のようなブギー調もあれば、"Cold Hearted Mama"のようなロックン・ロールも収められている。前者はZZトップのようで、後者はエアロスミスの曲のようだった。

 また、アコースティックな味わいの"Please Come Home"や、タイトル通りアメリカ南部のスワンプな感じの"Swamp Thing"など、バラエティに富んでいるのも特徴的だ。

 ただ、共通しているのは、ポール・ネルソンのギターが全面的にフィーチャーされていることである。今どきこういうギター・サウンド全開のアルバムは、珍しいのではないだろうか。ある意味、アナクロニズムというか、いまは1970年代か、と自問してしまいそうな感じだが、それがある一定以上の年齢の人にはカッコイイのである。71dao6vp92l__sl1417_ ブルーズ一辺倒というわけではないし、アメリカ社会の多様性を反映しているようなバラエティに富んでいるところも捨てがたい。ジョニーの遺志を引き継ぐのなら、ブルーズ・アルバムだと思うのだが、初期のジョニーのように、ロックからブルーズと幅広く演奏している。

 しかも国内盤も発売されていた。それだけ需要が見込まれているから発売されたのだろうが、これだけ洋楽アルバムのみならず、CD全体の売り上げも減少している中で、ギター・オリエンティッドなアルバムが果たしてどれだけ売れるのか疑問にも思える。

 いくら日本でジョニー・ウインターの人気があったといえ、それだけを見込んで発売されたとは思えないのだが、どうだろうか。

 このアルバムが発売元のソニー・ミュージックの売り上げ予想を超えれば、2枚目、3枚目と発売されていくだろうが、果たして今の日本でどれだけ需要があるのかよくわからない。もちろん個人的には、ぜひ売れてほしいと願っている。

 課題は、曲の持つメロディラインなどの魅力だろう。どの曲も平均点以上の出来栄えなのだが、これはといったインパクトを持つ曲が見当たらない。彼が第二のジョニー・ウインターやスティーヴィー・レイ・ヴォーンになれるかどうかは、ひとえにこの点にかかってくるだろう。Maxresdefault
 現在、ポールは、ポール・ネルソン・バンドとしてツアーを行っている。世界中を回って、ブルーズやロックン・ロールの素晴らしさや、ジョニー・ウインター直伝のブルーズ・パワーを発揮して聴衆を魅了していることだろう。
 彼のような音楽が、もっと日本でも広く認められるようになり、人気が出てくることを願っている。

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2017年1月16日 (月)

アラバマ・シェイクスのデビュー・アルバム

 昨年の話だけれど、アラバマ・シェイクスのライヴを見に行った。夜の8時開始だったので、余裕で間に合うだろうと思っていたのだが、年末のせいか、予想以上に道路事情が悪くて、途中から渋滞にあってしまった。Cnrtftiukaaqpuk

 普通は2時間も走れば到着するところを、その倍以上時間がかかってしまい、ライヴ会場に着いた時にはもうすでに始まっていたのだ。やはり日頃の行いが悪い人は、いざという大事な時にその報いが来るのだろう。“因果応報”とはよくいったものである。

 オールスタンディングのライブだったが、とにかく満員でよく見ようと思っても前にも行けないし、しかも、でかい外国の人がいっぱいいて、ステージもよく見えなかった。ドリンクバーにも行けないのだから、金返せと言いたいくらいだった。

 でも、そんな会場の熱気にこちらも感化されて、たとえ姿かたちが見えなくても、サウンドだけで十分に元が取れるステージだった。やはり本物は違うとつくづく思ったものである。

 それにしても、キャパ1000人程度のライヴハウスに、こんな大物がよく来たなあと感心してしまった。ドーム会場ではちょっと厳しいとは思うけれど、もう少し大きな市民会館やサンパレスでも十分いけたと思ったのだが、どうだろうか。

 12月の寒い時期だったが、会場内は熱気で暑苦しく、思わずコートを脱いでしまったし、時間があっという間に過ぎて行った気がした。

 今回は2度目の来日公演だったが、次回は、もう少し大きな会場でお願いしたいと思っている。Suguta01
 それで今回のライヴを見て思ったことは、彼らの音楽の根底には、ゴスペルが存在しているのではないかということだった。

 もともとアメリカ南部のアラバマ州で結成されたバンドである。リーダー?のブリタニー・ハワードは黒人だ。誰がどう見ても(どう聞いても)、ソウルフルなロック・バンドということが分かると思う。

 でも、そのソウル・ミュージックの中でも、ライヴでのお客さんとのコール&レスポンスやブリタニーのボーカルを聞いていくと、ゴスペル・ミュージックの影響が強いと考えたのである。同時に、ステージのライティングも時々観客を照らしていたし、ステージとフロアの一体感を演出するかのようだった。

 自分的には、“黒いジャニス・ジョプリン”もしくは“ロックするアレサ・フランクリン”といった感じだった。これらの言葉に、彼らの音楽が集約されているのではないだろうか。

 わずか90分程度の短いステージだったけれども、彼らの2枚のアルバムからの代表曲はほとんど演奏していたし、当然、参加したファンの反応も素晴らしくて、イントロが流れただけで大いに盛り上がっていた。

 ライヴについてはこの程度で話を締めるとして、その会場までの道中に聞いたのが、彼らのデビュー・アルバムの「ボーイズ&ガールズ」だった。

 このアルバムは2012年に発表されたもので、全米6位、全英3位を記録し、両国でゴールド・ディスクになっている。また、その年のグラミー賞の最優秀新人賞にもノミネートされた。51rzoyo9iql
 全11曲で、時間的にはわずか38分程度だ。80分近いCDのフルレンジの中で、わずか38分少々というのは、まるで60、70年代のレコードを聞いているかのようだった。意図的に狙ったものではなくて、彼らの基準以上の曲を集めたらこういう結果になっただけなのだろう。逆に、それを新鮮に感じた若者もいたのではないだろうか。

 自分はセカンド・アルバムの「サウンド&カラー」の方を先に聞いて、このブログにアップしたのだが、セカンドの方がよりソウルフルでディープな音空間だったような気がした。
 
 それに比べて、こちらのアルバムの方は、シンプルで、ポップでソウルなテイストを含んだロック・ミュージックのように感じられた。

 とにかく、このアルバムには良い曲がいっぱい詰まっている。冒頭の"Hold On"のサビの部分は、ライヴでも観衆も一体になって歌っていたし、バラードから一気に盛り上げてくれる"You Ain't Alone"、C.C.R.の曲に似ている"Hang Loose"なども素晴らしい。

 そして、特に後半の曲はどれも佳曲だろう。ギターのアルペジオが効果的なスロー・バラードのアルバム・タイトル曲"Boys&Girls"は実にソウルフルだし、続く"Be Mine"もライヴで歌われた曲だった。

 さらに続く"I Ain't the Same"も彼らのデビュー当時からライヴで歌われ続けられたものだ。この曲は骨太のロックで、サザン・ロックの影響が感じられた。途中のギター・ソロと最後のボーカルのシャウトが感動的だった。

 最後の曲"On Your Way"のテイストは、続くセカンド・アルバムに受け継がれている。以前聞いたことがあるような、それでいて斬新な感覚を備えている曲形式には、とても新人とは思えないセンスが散りばめられている。

 とにかくこのバンドは、もっともっとビッグになるだろうし、この次の来日公演時にはライヴハウスでは、入りきれないほどファンが詰めかけるだろう。

 でもやはりこのバンドには、ブリタニーのダイナミックでパワフルなボーカルと、ロックなバックの演奏が不可欠だろう。この路線を続ける限り、ますます世界中にファンは増え続けるに違いない。

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2016年9月19日 (月)

サンタナⅣ

 今年は、70年代に活躍したミュージシャンのアルバムが多く発売されたような気がする。例えば、デヴィッド・ボウイであり、エルトン・ジョン、エリック・クラプトン、ジェフ・ベックなどのアルバムである。

 これらはのミュージシャンのアルバムは、過去の焼き直しや再録ではなく、すべて新作だった。彼らは60歳後半から70歳を超える年齢であるにもかかわらず、こうやって今もなお新作を届けてくれる。そんなところに音楽に対する飽くなき情熱を感じさせてくれるのである。やはり歴史に名前を残すようなミュージシャンはひと味もふた味も違うようだ。

 それで今回は、御年69歳になる大ベテラン・ミュージシャンのアルバムを紹介しようと思う。それはサンタナの「サンタナⅣ」だった。61gaukfuvrl
 サンタナ名義では通算23枚目のスタジオ・アルバムになるこのアルバムだが、なぜ「Ⅳ」なのかは、もういろんなところで述べられているので、説明する必要はないだろう。

 個人的には、“サンタナ”=“カルロス・サンタナ”だと思っているのだが、正確に言うと、“サンタナ”はバンド名で、“カルロス・サンタナ”は個人名である。だからソロ・アルバムは“カルロス・サンタナ”になっている。

 そういうわけで、“サンタナ”というよりは“サンタナ・バンド”と呼んだ方が分かりやすいと思うのだが、バンドでのアルバム名義は“サンタナ”で統一されている。1966年の結成当時は“サンタナ・ブルーズ・バンド”と名乗っていたわけだから、それを短くして“サンタナ”になったのだろう。C0143347_1272315_2
 確かに彼らはブルーズだけを演奏するバンドではないので、“サンタナ”と名乗った方が世界的にも通用するだろうし、わかりやすいだろう。

 そんなことよりも、この「サンタナⅣ」、猛暑日続きだった今年の夏にふさわしいアルバムだったような気がしてならない。今までのサンタナの音楽を集大成したような内容で、70年代を知るオールド・ファンにはまさに願ってもない出来栄えだと思う。

 サンタナ・ファンとして心配していたのは、21世紀になって妙にポップなテイストを身につけてしまい、それはそれで商業性も大衆性も増加し、サンタナ再評価につながってよい結果だったのだが、個人的にはワイルド性というか、強烈なラテン・ロックの芳醇な香りが封印されてしまったような気がしてならなかった。

 少し正確に言うと、70年代後半から80年代前半時にもポップ化していたから、なにも21世紀になって急に変化したわけではない。アルバムでいうと、1978年の「太陽の秘宝」から1982年の「シャンゴ」あたりだ。当時は“ソフト&メロウ”とかAORなどが流行していたから、そういう傾向になったのだろう。

 このアルバムからのシングル・カット曲は"Anyway You Want to Go"だったが、そんな心配はどこ吹く風で、自分たちの流儀を貫き通したような曲だったと思っている。むしろ13曲目の"Leave Me Alone"の方がメロディ自体はよりポップだったのではないだろうか。
 これは若さに任せてイケイケでやっていた70年代から、約40年たった現在の彼らの姿が表現されているからだろう。

 だからファンの中には、往年時のようなラテン・テイストやロック性が薄れているのではないかという人もいたが、当時17歳だったニール・ショーンも62歳、ドラマーのマイケル・シュリ―ヴも67歳になるのだから、年相応に熟してきたと考えた方がいいだろう。

 今回のアルバム発売に至った経過もみんな知っていると思うけれど、ニール・ショーンがカルロス・サンタナにラヴ・コールを送ったからで、1971年のアルバム「サンタナⅢ」から45周年記念という意義も込めて発表したものだった。

 ただ45周年云々は後付けだと思っている。実際は、ニールの提案を受けて、どうせやるなら昔のメンツも呼ぼうよとカルロスが意見を出して実現したもので、リハーサルが2013年に始まり、録音自体は2014年から15年の約2年間かけて行われているからだ。

 ただ、カルロスの頭の中には45周年にちなんで発表しようというアイデアはあったかもしれない。そこんところはローリング・ストーンか何かの雑誌のインタビューを読まなければよくわからない。

 いずれにしても、昔のグレッグ・ローリーやマイケル・カラベロたちと、今のサンタナのバンドに所属しているベーシストのベニー・リートヴェルド、パーカッション担当のカール・ペラーソらの新旧メンバーが呼吸を合わせて制作したアルバムである。決して悪かろうはずがないのだ。81c5cwjjwol__sl1200_
 何やら怪しい呪術性に満ちた雰囲気の"Yambu"から始まり、ラテン・パーカッションにカルロスやニールのギターやグレッグのハモンド・オルガンが絡む"Shake It"、シングル・カットされた"Anyway You Want to Go"など、想定されたサウンドとはいえ、やはりサンタナ特有の独自性を放っていて、ファンならずとも魅了されるだろう。

 名盤「キャラバンサライ」の中に収められてもおかしくない神秘的なインストゥルメンタル"Fillmore East"、アイズレー・ブラザーズのロナルド・アイズレーがボーカルでフィーチャーされた"Love Makes the World Go Round"、"Freedom in Your Mind"、77年の名演で傑作と謳われた"Moonflower"の再演のような"Suenos"など、どの曲もサンタナ印で刻印されている。

 後半も名曲のオンパレードで、珍しくブルーズ色の強い"Blues Magic"から一転してラテン・リズム炸裂のインストゥルメンタル曲"Echizo"、ラテン歌謡の"Leave Me Alone"や、これまたアコースティック・ギターで始まり、途中からカルロスとニールのエレクトリック・ギターが泣き叫ぶ"You And I"、最後は7分22秒もある荘厳なブルーズ・バラード風大作曲である"Forgiveness"で締められていく。どこを切ってもサンタナなのだ。

 できればこのメンバーで来日公演を行ってほしいし、「サンタナⅤ」、「サンタナⅥ」とアルバムを発表してほしいものである。このメンバーでしか出せない化学変化が満ち溢れているからだ。
 ちなみにイギリスでのアルバム・チャートでは4位、アメリカでは5位を記録したが、チャートの結果以上の興奮と喜びをもたらしたのは間違いないだろう。

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2016年9月12日 (月)

ザ・ワイルド・フェザーズ

 それにしても今年の夏は暑かった。夏は暑いのがあたりまえだが、35度以上の猛暑日が何日も続けばもう嫌になる。気温が35度以上もあれば、コンクリートで舗装されている道路や照り返しが強いところでは40度以上の体感温度になるわけだから、これはもう暑いというよりは痛いという感じだった。

 そんな痛い日々を過ごしやすくするために、いろんな音楽を聞いたのだが、前回のアラバマ・シェイクスに続いて、今回はザ・ワイルド・フェザーズを紹介することにした。このバンドの音楽は、自分にとっては、とにかく今年の暑い夏を幾分か涼しくさせたことは間違いないと思う。

 彼らは、テネシー州ナッシュビルで結成された。ナッシュビルといえば、アメリカ南部における音楽の聖地のような所で、カントリー・ミュージックのみならずサザン・ロックの分野でも有名である。あのオールマン兄弟やキングス・オブ・レオンの出身地でもあるし、最近では出身地ではないが、テイラー・スウィフトなども登場してきている。

 ザ・ワイルド・フェザーズは2010年に結成された。ギタリストのリッキー・ヤングとベーシストのジョエル・キングが出合い、バンド活動を始めた。
 やがて同じギタリストのテイラー・バーンズとプレストン・ウィンバリー、ドラマーのベン・デュマスが加わって、今の形になった。Thewildfeatherspromopic
 彼らの良いところは、ドラマー以外の4人が歌えることと、リッキー、ジョエル、テイラーの3人が作曲できるという点だった。

 2013年に発表されたデビュー・アルバム「ザ・ワイルド・フェザーズ」は好評を博し、MTVやテレビ番組で取り上げられることとなった。91d0aehhxnl__sl1500_
 さらにはウィリー・ネルソンやボブ・ディランのツアーでのオープニング・アクトにも起用され、デビューから約2年間はツアー漬けの毎日を送っていたようだ。

 このことは、デビュー時から彼らの音楽は完成されていたということを意味しているのだろう。4人のボーカルに3人のソングライターとくれば、それだけ音楽性の幅も広がるだろうし、多くのファンに訴える力を持っていたはずだ。

 だからデビュー・アルバムでもそうだけれど、ライヴを重ねるにつれてますます彼らの音楽性が磨かれ、聴衆にアピールできる経験値も上がっていったに違いない。

 ただ、ギター&ペダル・スティール担当のプレストン・ウィンバリーは、残念ながら2015年の11月に脱退してしまった。理由は音楽性の違いということのようで、プレストンと他のメンバーは友好的に袂を分かっている。 

 彼らのセカンド・アルバムは2016年の3月に発表された。「ロンリー・イズ・ア・ライフタイム」というタイトルのアルバムだが、このアルバムの録音時にはプレストンは在籍していたから、彼のギターなどは耳にすることができる。

 彼らは、ナッシュビルのマッスル・ショールズという街の丸太小屋で合宿生活を送りながら曲作りを行っていた。
 メンバーの1人は脱退したものの、基本的に彼らは仲が良くて、お腹が減った時か道に迷った時ぐらいしか口論はしない、とジョエルは述べている。

 基本的に彼らの音楽は、ポップ・ミュージック寄りなロック・サウンドである。例えて言うなら、21世紀のポップなイーグルス、あるいはマルーン5からソウル色を取り去り、きれいなハーモニーとギター・ソロを付け加えたような感じだ。
 といってもわかりにくいと思うので、もっと簡単に言うと、チープ・トリックを少しだけハードにしたような感じだ。

 アルバムの冒頭の"Overnight"などは、ポップ・ソングとしてはほぼ完璧だろう。メロディアスで美しい曲の流れに、疾走感のあるリズム、強力なフックを持ったリフレインと、どこを取り上げても無駄がない。81gstpa4rrl__sl1200_
 続く"Sleepers"もバックの演奏はハードながらも、メロディ自体はしっかりしているから耳に馴染みやすい。ミディアム・テンポながらも印象度は深いと言えよう。

 ザ・バーズのようにアコースティックなカントリー・タッチのバラード曲"Goodbye Song"では、途中のギター・ソロがかわいいし、イントロのサビがきまっている"Don't Ask Me to Change"はそれまでのポップ感覚から離れて、ややオルタナティヴな雰囲気を漂わせている。

 "Happy Again"などは、ポップ・ロックとメロディアス・パンク・ロックの中間のような曲で、そのバランス感覚が見事だと思う。ギター・ソロはそれほどのテクニックはうかがえないのだが、テクニックだけでグッド・ミュージックは成立しないよとでも言いたげそうな出来栄えの曲である。

 こういう感じで曲は続いていくのだが、自分のような70年代を生きてきた人間にとっては、どこかで聞いたような懐かしさとモダンな曲感覚がありがたい。ついつい何度も聞き入ってしまうのである。

 アルバム・タイトル曲の"Lonely is a Lifetime"は、星明りの夜空の下で聞きたいような曲で、ほぼボーカル・ハーモニーで構成されているバラードだ。

 この曲は、彼らが敬愛してやまないグラム・パーソンズが亡くなったモーテル「ザ・ジョシュア・ツリー・イン」で書かれたもので、まさにグラム・パーソンズが亡くなった部屋に彼らは宿泊したという。

 彼らは、わざわざ部屋を予約し、そこに向かったのである。そしてグラム・パーソンズのことを思いながら彼にインスパイアを受けて、この曲を45分で書き上げたそうだ。まさに何かスピリチャルなムードを持った曲である。7168kx41sl__sl1200_
 アルバム後半もスピーディーな"On My Way"、一発で口ずさむことが出来そうな"Into the Sun"など聞きどころは多い。"Into the Sun"などは、遠い昔に、どこかで聞いたような気がするのだが、当然のことながら彼らのオリジナル曲だった。

 輸入盤では最後の"Hallelujah"は、テイラー・バーンズの1人のペンによるもの。アコースティック・ギター中心のスロー・バラードで、荘厳かつ心温まる曲だ。“心に沁み渡る”とはまさにこういう曲を言うのだろう。アコースティックな讃美歌だろう。

 国内盤にはもう2曲ボーナス・トラックがあって、"The Ceiling"もメロディー自体はシングル・カットされてもおかしくないキラー・チューンだ。ただ、後半の盛り上げは少し無理しているような感じがした。
 もう1つの"Backwoods Company"はハードな楽曲で、彼らの音楽性の一端が示されているような曲だった。

 彼らは西海岸出身のバンドではないけれど、音楽性としては西海岸のバンドの影響を強く受けているようだ。
 アメリカ南部と西海岸が出合って、70年代からの音楽を凝縮したような音楽、それがザ・ワイルド・フェザーズの持ち味ではないだろうか。そんな彼らの音楽が、自分は大好きなのである。

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