2019年8月19日 (月)

ジョン・サイモン

 ジョン・サイモンのアルバム「ジョン・サイモンズ・アルバム」について記すことにした。このアルバムはずいぶん昔から持っていて、幾度となく聞いてきたのが、何となくパッとしなかった。パッとしなかったというのは、自分の中で感じるものがなかったからである。
 でも最近、ジョン・セバスチャンやマリア・マルダーなどを聞き出して、再びこのアルバムに向き合ったところ、これが今までがまるで嘘であるかのように、非常に印象的なアルバムとして感じるようになってきたのだ。

 このアルバムのことは雑誌で知った。アメリカン・ロックの隠れた名盤として紹介されていて、ぜひ一度は耳を傾けてほしいというようなことが記されていたので、当時はロックおたくだった自分は(今もそうだけど)、当時あったCDショップにダッシュで走り込んで購入した記憶がある。だけど、それだけ期待して聞いたのだけれど、何となく自分には合わなかった。ロック的な躍動感や焦燥感が伝わってこなかったからではないかと、いま振り返ってみればそんな感想だったと思う。

 ところが、年老いて人生の先が見えてくると、こういうアルバムの方が合ってくるというか、落ち着いた心境に導いてくれるというか、豊饒なアメリカン・ロックの一端を感じさせてもくれるのである。だから最近はほぼ毎日1回は聞いているのだ。

 このアルバムが発表されたのは1970年の5月だから、もう50年くらい前のことになる。50年だぞ、50年。オギャーと生まれた赤ん坊が50歳の壮年になる時間だ。この50年の間に社会も変わったし、ロックという音楽もずいぶん変わった。まあそんなことはともかく、50年前のアルバムを今も聞いているのだから、いかにこのアルバムが時代の波に流されない、不朽の名作、名盤であるかが分かると思う。

 音楽的な感触は、ソロになったザ・バンド、あるいはニューヨーク近郊のウッドストック発ランディー・ニューマンといった感じだろうか。決してメロディアスといった感じではないし、ありふれたポップ・ソングではない。むしろポップから遠ざかろうとしているのではないかと思われるところもあるし、サックスやトロンボーン、アコーディオンなどのアレンジも凝っていて、一筋縄ではいかない様相を示している。そういうところが逆に新鮮に映るし、聞くたびに味わい深くなって行くのである。

 ジョン・サイモンは1941年8月11日生まれだから、ついこの間78歳になったばかりだ。コネチカット州のノーフォーク生まれで、目の前には大きな牧場がある田舎町で育った。父親は医者であると同時に、ジュリアード音楽院を卒業したセミプロ級のバイオリニストだった。地元では交響楽団のコンサート・マスターも務めた経験があったようだ。
 そういう家で育ったから、小さい頃から音楽に囲まれて育ち、4歳頃からピアノやバイオリンを学ぶようになった。最初はクラシック音楽を学んでいたが、徐々に世の流れに気づくようになり、ジャズやポップスに興味が動き、ついにはライヴ活動まで行うようになって行った。

 大学を卒業すると、当時のコロンビア・レコードに就職してプロデューサーになった。最初は映画音楽やテレビの挿入歌などを担当していたが、ザ・サークルというバンドの「レッド・ラバー・ボール」というアルバムを担当してこれがヒットし(ビルボードのアルバム・チャートの2位)、一躍彼は敏腕プロデューサーとして有名になり、以降、サイモン&ガーファンクルやレナード・コーエン、ジャニス・ジョプリン、ザ・バンドなどを手掛けるようになっていった。920x920 
 特に、ザ・バンドとの仕事はうまく行き、ザ・バンド自体も人気が出てきたし、ジョン・サイモンの名声も高くなって行った。ザ・バンドのデビュー・アルバムである「ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク」はニューヨーク郊外ウッドストックにある一軒家の地下室で練習やレコーディングが行われたが、これはジョン・サイモンのアイデアでもあった。そしてそのアルバムのレコーディングが終了した後に、彼自身のソロ・アルバムの制作が行われたようだ。それが「ジョン・サイモンズ・アルバム」だったのである。

 全11曲39分少々のアルバムだが、参加メンバーがすごい。ベースにリック・ダンコ、リチャード・デイヴィス、カール・レイドル、ドラムスにジム・ゴードン、ロジャー・ホーキンス、リチャード・マニュエル、ギターがレオン・ラッセルにジョン・ホール、サックスとトランペットにはジム・プライス、ボビー・キーズ、ガース・ハドソン、その他にもデラニー・ブラムレット、リタ・クーリッジ、メリー・クレイトン、ボビー・ウィットロック、サイラス・ファイヤーなどなど、つまり、ザ・バンドとレオン・ラッセルのバック・バンドのほとんどが参加しているのだ。これにエリック・クラプトンとレヴォン・ヘルム、ロビー・ロバートソンが加わらなかったのが不思議である。ちなみにアルバム中4曲目の"Davy's on the Road Again"はロビー・ロバートソンとの共作だった。

 1曲目の"Elves' Song"を聞いたとき、正直お世辞にも歌は上手ではないなと思った。これは本人も認めていて、歌はもうだめだと思っていたらしい。でもソロ・アルバムはこれ以降も発表して歌っているので、あきらめたわけではないようだ。ピアノはジョン本人が、ギターはレオン・ラッセルが演奏している。何となくイギリス人のケヴィン・エアーズの曲に似ている気がした。

 "Nobody Knows"はランディ・ニューマン風の楽曲で、ピアノの弾き語りである。これといったフレーズやメロディに乏しく、もう少しよく聴き込もうと思っているうちに曲が終わってしまう。ちょっとコメントしづらい曲だ。
 "Tannenbaum"はジョン・サイモンの故郷のことを歌っていて、かつては豊かだったが、今は荒れ果ててゴースト・タウンのようになってしまったと嘆いている曲だった。バックのギターも美しいし、ホーン・セクションも哀愁を帯びていて素晴らしい。確かに、ザ・バンドの曲だと言われても分からないかもしれないが、ジョン・サイモンも高音が時々裏返るものの、精一杯歌っている様子が伝わってきて、感動を覚えるのである。

 ロビー・ロバートソンとの共作の"Davy's on the Road Again"はややゆったりとしたテンポで歌われていて、穏やかな感じを与えてくれる。ただ個人的には、イギリスのバンドであるマンフレッド・マンズ・アース・バンドが1978年にカバーした曲の方が好きで、そちらの方が躍動感がありメロディー本来の美しさが伝わってくるからだ。このカバー曲は全英シングル・チャートで6位を記録しているので、ロックにうるさいイギリス人でもこの曲の良さは認めているようだ。

 続く"Motorcycle Man"では、リチャード・マニュエルとリック・ダンコがそれぞれドラムスとベース・ギターを担当していて、曲調もザ・バンド風でもある。マーロン・ブランドとリー・マーヴィンが主演した映画「ザ・ワイルド・ワン」をもとにして出来上がった曲らしい。
 "Rain Song"はもちろんイギリスの4人組ロック・バンドの曲ではない。長いギター・ソロやメロトロンも使用されていない。60年代のジョンが生活していたコミューンのことを歌っていて、雨が降ってほしいという雨乞いの祈りのために書いたそうである。この曲もピアノだけをバックに切々と歌っていて、味わい深い。エンディング近くのジョンのうねり声というか遠吠えが寂寥感を与えてくれるようだ。Images

 以上がレコードのサイドAに当たり、次からはサイドBになる。サイドBの1曲目は"Don't Forget What I Told You"で、これもゆっくりとした曲調で、ジョンの奥さんに対するラヴ・ソングである。オーリアンズのジョン・ホールがギターを弾いていて、これがまたなかなか流麗でカッコいいのだ。ロビー・ロバートソンならもう少し違った雰囲気になっただろう。

 続く"The Fool Dressed in Velvet"はジョンの知り合いだった知的障がい者の兄弟について書いた曲で、2人の生き方の対比を通して、人生の無常さを教えてくれているように思えた。これもゆったりとしたバラード系の曲で、途中でマンドリンに近い楽器マンドラが使用されていた。演奏しているのはジョン自身である。またエンディングにギター・ソロがあるが、これもジョン・ホールの手によるものである。

 "Annie Looks Down"はジョンの知り合いの女性について歌ったもの。バックのオルガンはバリー・ベケットが演奏していると思われる。後半はミディアム・テンポかバラード系の曲が多くて、この曲もその中の1つだ。2分50秒と短い曲だった。
 10曲目の"Did You See?"は人生の終わりについて書いた曲で、天国の門の前で迎えが来たかどうかを確認したかと歌っている。ここでもジョンはピアノとマンドラを演奏している。

 最後の曲"Railroad Train Runnin' Up My Back"は楽しそうな曲で、列車の雰囲気がよく表現されている曲でもある。バック・コーラスやハーモニーが、どことなく素朴でノスタルジックな感じを与えてくれる。ジョンは過去の旅行の中から思いついた曲だと述べているが、内容的には男女の三角関係を描いていて、そんなに楽しくはないだろうと個人的には思っている。それでもアルバムの最後を飾るにはマッチしているのではないだろうか。

 というわけで、ジョンサイモンのこのファースト・アルバムは、アメリカン・ロックの歴史的名盤といわれているのだが、今になってやっとそういうもんかなと感じた次第である。たぶんこのアルバム当時の歴史的、社会的背景や日本人にはよくわからない歌詞の部分なども含めて、アメリカ人のロック・リスナーにはかなりインパクトがあるのだろう。
 ザ・バンドのように、個々のメンバーの技量や楽曲の良さで聞かせるアルバムではなくて、アルバムのもつ雰囲気などを含めたトータルな意味での印象度なのだろう。

 また、このアルバムのジャケットも水墨画か墨絵のようで、東洋的だった。こういうミステリアスな東洋趣味みたいなものも、アメリカ人好みなのかもしれない。41xn57wbfpl
 この後ジョンは2年後の1972年にセカンド・アルバム「ジャーニー」を発表し、しばらくブランクがあったが、20年後の1992年にサード・アルバム「アウト・オン・ザ・ストリート」を発表しているし、枚数は少ないもののプロデューサー業の合間を縫って、アルバムを発表している。
 一時、ディスコ・ミュージックやヘヴィメタル・ミュージックが隆盛の頃はプロデューサー業にも嫌気を示していたようだが、1997年には日本人ミュージシャンである佐野元春のアルバム「ザ・バーン」のプロデュースも行っている。ジョンは彼のことを日本のブルース・スプリングスティーンだと思っていたようだ。

 本来のプロデューサーのみならず、ウッドストック系ミュージシャンとしても名声を得ているジョン・サイモンである。もう少し長生きしてもらって、「ジョン・サイモンズ・アルバム」以上のインパクトのあるアルバムを発表してほしいと願っている。

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2019年8月 5日 (月)

ザ・ラヴィン・スプーンフル

 ジョン・セバスチャンつながりで、彼が元所属していたバンド、ザ・ラヴィン・スプーンフルについて記すことにした。前回にも同じことを書いたのだが、このバンドの曲を聞いて、ニューヨーク出身だとは気づかなかった。むしろサンフランシスコかロサンジェルスのような西海岸出身のバンドだと思ってきた。曲にひんやりとした大都会の雰囲気が備わっていなかったし、むしろ明るくて陽気な雰囲気が漂っていたからだ。

 このバンドの代表曲といえば、やはり"Do You Believe in Magic?"だろう。日本のCMにも使用されていたし、その明るくて弾むような曲調は一度耳にしたら、忘れられない印象を与えてくれるからだ。220pxdo_you_believe_in_magic_lovin_spoon
 また、この曲は彼らのデビュー曲で、1965年の8月に発表されて瞬く間にシングル・チャートを駆けのぼり、最高位9位を記録している。個人的には"サマー・オブ・ラヴ"を象徴するような曲調だったし、バックのコーラスもザ・ビーチ・ボーイズ風だったりして、軽快で躍動感あふれる曲だと思っている。
 この曲を書いたジョン・セバスチャンは、曲のイントロ部分をモータウンに所属していた女性ボーカル・グループのマーサ&ザ・ヴァンデラスの曲"Heat Wave"から思いついたとインタヴューで答えていた。またこの曲は、多くのミュージシャンからカバーされていて、特に1978年にはショーン・キャシディが歌って、ビルボードのチャートで31位を記録している。

 それから約3ヶ月後、今度は"You Didn't Have to Be So Nice"という曲がヒットした。これはビルボードのシングル・チャートの10位まで上昇した。こちらは彼らの2枚目のシングルにあたり、ジョン・セバスチャンとバンドのベーシストのスティーヴ・ブーンの共作だった。ジョンが言うには、ザ・ビーチ・ボーイズの曲"God Only Knows"からインスピレーションを受けたようだが、ザ・ラヴィン・スプーンフルの方が明るい感じがするのは気のせいだろうか。_you_didnt_have_to_be_so_nice__lovin_spo
 ちなみにこの曲もまた、ザ・グラスルーツやボサノバ歌手のアストラッド・ジルベルトなどにカバーされている。特に、エイミー・グラントとケヴィン・コスナーが主演した映画「ザ・ポストマン」ではエンドクレジットで使用されていた。

 デビューして最初の2枚のシングルのヒットのおかげで、彼らは一躍有名になり、60年代中期を代表するアメリカのバンドになった。それまでザ・ビートルズを始めとするイギリスのバンドからアメリカのチャートが席巻されていたのだが、これでようやくイギリス勢に対抗できるアメリカのバンドが誕生したというわけだった。

 ザ・ラヴィン・スプーンフルは、1964年に結成されたが、最初のドラマーのジャン・カールはすぐに脱退し、代わりにジョー・バトラーという人が担当するようになった。元々、ジョーとベーシストのスティーヴ・ブーンはザ・キングスメンというバンドで一緒に活動していたから、お互いに気心の知れた間柄だったようだ。
 ところが彼らは、最初は素人に毛の生えたような演奏テクニックしか持っておらず、あまりにお粗末な内容だったため、クラブのオーナーからもっと練習してから人前で演奏しろ、それまでここには来るなと言われたようで、それから必死になって練習していったという逸話が残されている。

 1966年は、彼らにとってはまさに全盛期と呼ばれるにふさわしい年になった。2月に発表した"Daydream"は、全英、全米ともにチャートの2位を記録した。まさに”白昼夢”というタイトルに相応しいほんわかとした曲で、ジョンの口笛がフィーチャーされていた。この曲もまたチェット・アトキンスにドリス・デイ、マリア・マルダーやアート・ガーファンクル、デヴィッド・キャシディ、リッキー・ネルソンなど数多くのミュージシャンによってカバーされている。

 そして4月には"Did You Ever Have to Make Up Your Mind?"がヒットして、これまた全米シングル・チャートの2位になった。Did_you_ever_have_to_make_up_your_mind__ そしてそれから3ヶ月後の7月には、ついに"Summer in the City"が全米チャートの首位を獲得したのである。今までの曲よりは幾分ロック寄りの激しいビートを持つこの曲は、幾分アグレッシヴでそれまでの夢見るような曲調とはかなり違うものだった。騒がしい都会の喧騒を表現しようとしたのか、車のクラクションや工事中のドリルの音が使用されていて、彼らの音楽的質の変化が表されていた。ザ・ビートルズでいえば、中期の「リボルバー」的変化に当たるだろう。この曲は3週にわたって首位を飾っている。220pxsummer_in_the_city

 そのあとフォーク・タッチの"Rain on the Roof"はシングル・チャートの10位を記録し、カントリー風の"Nashville Cats"は8位になった。とにかく出す曲出す曲すべてチャートのトップ10に入るという勢いだったから、いかに彼らの人気が高かったかが分かると思う。それに、クラブのオーナーからもっと練習して来いと言われたバンドとは思えないくらい、ポップ・ソングからロックン・ロール、カントリーにフォークと音楽的なバックグラウンドも広かった。そういう音楽性の幅広さというのも多くの人たちから支持されたいたのだろう。

 さらにバンドは、ブロードウェイのミュージカル"ヘア"にも楽曲を提供するし、ウッディ・アレンやフランシス・フォード・コッポラの映画のサウンドトラックにも協力するといった具合に、様々な分野にも進出していった。それだけ彼らの音楽性に需要が求められていたのだろう。監督が使いたいと思ってしまうような何らかの魅力を秘めていたに違いない。そんなこんなで、夢のように1966年は過ぎて行ったのである。

 で、”好事魔多し”の譬え通り、翌年の67年になると、バンドは徐々に下り坂を迎えていくのである。まず"Six O'clock"がチャートの18位までで止まってしまった。今までトップ10内に入っていたのだが、18位だった。それでも立派と言えば立派なのだが、ブラスとハードなギター・カッティングがフィーチャーされてこの曲は、ジョー・ウィザードという人がプロデュースを担当していた。のちにボズ・スキャッグスなどのアルバムのプロデュースも手掛けた人であるが、今までのプロデューサーと違う選択をしたのが、あまりうまく行かなかったのかもしれない。

 5月になると、ギタリストのザル・ヤノフスキーがドラッグで逮捕されてしまった。まるでザ・フーのピート・タウンゼントのようなハードなリフやカッティングを得意としていた人で、バンドのハードな面を担当していたギタリストだった。彼はカナダの市民権を持っていて、このまま黙秘を続けていくとアメリカに再入国できないと言われて、全面的に罪を告白してしまった。それで一旦は執行猶予がついて保釈されるのだが、結局、音楽業界から足を洗ってしまい、カナダに戻ってレストランを開いてオーナーになった。

 バンドは当然のごとく、新しいギタリストのジェリー・イエスターを迎え入れるのだが、ロック的なダイナミズムは失われてしまい、マイルドなポップ・バンドになってしまった。例えば"She is Still A Mystery"という曲があるのだが、ブラスやストリングスがバックで鳴っていて、まさに”東海岸のザ・ビーチ・ボーイズ”といった感じだった。これもジョー・ウィザードのプロデュースで、彼はこういった装飾音で飾り付けるのが得意なプロデューサーなのだろう。61k8wmcjgel__sl1200_

 バンドがポップ化するのが嫌になったのか、それともほかの理由があったのかよくわからないのだが、翌1968年には今度はジョン・セバスチャンがバンドを脱退してしまった。メイン・ソングライターを失ったバンドが長続きするはずもなく、1969年に解散してしまった。
 解散前のバンドは、基本的にギターとベースとドラムスの3人組だった。ドラムを担当していたジョー・バトラーは歌が歌えたので、彼をメイン・ボーカルにしてセッション・ミュージシャンを起用しながら演奏を続けていたようだ。ちなみにジョーが歌った"Never Goin' Back"という曲は、シングル・チャートの73位まで上昇している。
 この曲はジョン・スチュワートという人が作った曲で、この人はザ・モンキーズのあの有名な"Daydream Believer"を書いたことでも有名なソングライターだった。712vfrnypql__sl1200_

 その後ザ・ラヴィン・スプーンフルは、1979年にポール・サイモンの「ワン・トリック・ポニー」という映画の中で、オリジナル・メンバーが再結成して歌っている。また、2000年にはロックの殿堂入りを果たしていて、その時も受賞セレモニーの中で、オリジナル・メンバーが"Do You Believe in Magic?"と"Did You Ever Have to Make Up Your Mind?"を歌っている。
 それ以外は、基本はジョー・バトラーとスティーヴ・ブーン、ジェリー・イエスターの3人でザ・ラヴィン・スプーンフルを名乗って公演などを行っているようだ。また、ジェリーの弟のジムがギタリストになったり、ジェリーの娘のレナがキーボードで参加して脱退していったりするなど、メンバーの出入りが流動的でもある。

 そして、2002年にオリジナル・メンバーだったザル・ヤノフスキーが亡くなってしまうと、ジョン・セバスチャンは声明を発表し、もう二度とザ・ラヴィン・スプーンフルのメンバーとして活動はしないと述べている。バンドは今も活動はしているようだが、実質的には2002年で終わったとみてもいいのではないだろうか。

 とにかく、フォークからカントリー、映画音楽にロックン・ロールと幅広く多様な音楽性を有していたザ・ラヴィン・スプーンフルだった。あのジョン・レノンも愛聴していたし、ポール・マッカートニーも"Good Day Sunshine"は、ザ・ラヴィン・スプーンフルの"Daydream"からの影響を認めているくらいだ。活動期間は短かったものの、その功績は、まさにロックの殿堂入りに相応しいものと言えるだろう。

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2019年7月29日 (月)

ジョン・セバスチャン

 マリア・マルダーつながりで、今回はジョン・セバスチャンについて書くことにした。自分の印象では、ジョン・セバスチャンは西海岸、特にサンフランシスコ周辺に関係のある人ではないかと思っていた。その音楽性が60年代後半に起きた、いわゆる”フラワー・ムーヴメント”に影響を受けた感じがしたからだった。
 例えば、"San Francisco"を歌ったスコット・マッケンジーとかに似ていると思ったのだが、実際は全く関係がなかった。ジョン・セバスチャンの方はマリア・マルダーと同様にニューヨーク生まれだった。これもまたイメージだけで語って申し訳ないのだが、ニューヨークというと大都市という印象が強くて、音楽についてもクールでモダンなものというふうに思っていた。だからジャズとか、R&Bでもどこか垢抜けたものとか、ポップ・ソングでもどこかヒンヤリとする感じがした。だから逆に、泥臭くてアーシーな音楽とは無縁だと思っていたのだ。何という浅はかな考えだろうか。まことに偏見とは恐ろしいものである。

 ジョン・セバスチャンはニューヨークのグリニッジ・ヴィレッジ出身で、1944年3月生まれだから今年で75歳になる。ということは、ストーンズのミック・ジャガーと同じ年ということになる。クラプトンが45年生まれだから彼より1歳年上だ。1945年前後は、ロック・ミュージシャンの当たり年だったのかもしれない。John_sebastian

 それはともかくとして、ジョンの父親は有名なハーモニカ奏者で、母親はラジオ番組の構成作家だった。そういう家庭に育ったせいかどうかはわからないが、幼い頃から家庭には音楽が満ちていて、知らず知らずのうちにジョンもまたウディ・ガスリーやミシシッピー・ジョン・ハートなどのフォーク・シンガーやR&Bミュージシャンのレコードを聞くようになった。彼はブレア・アカデミーという私立の有名な全寮制の学校を卒業した後、ニューヨーク大学に入学したが、わずか1年で退学した。もちろん自分の音楽的キャリアを追及するためだった。

 彼は父親の影響からか、自らもハーモニカを演奏するようになった。ただし、それはブルーズ奏者がやるようなもので、父親とは全く音楽的志向が違っていた。それでも父親の紹介でライトニン・ホプキンスのニューヨークの付き人みたいなことを行うようになり、その頃流行していたフォーク・ロックと呼ばれる音楽に近いものをやるようになって行った。
 60年代半ばになると、イーヴン・ダズン・ジャグ・バンドやマグワンプスというバンドに参加したが、あまり話題になることはなかった。後者のバンドにはキャス・エリオットやデニー・ドハーティ、ギタリストのザル・ヤノフスキーがいた。キャスとデニーはザ・ママス&ザ・パパスを結成し、ジョンとザルはザ・ラヴィン・スプーンフルというバンドの母体となった。

 ザ・ラヴィン・スプーンフルについては、別の機会に譲るとして(別の機会があればのお話だが...)、とにかくこのバンドは売れた。1965年の"Do You Believe in Magic?"は全米シングル・チャートで9位、1966年の"Daydream"は2位、"Summer in the City"は堂々の首位を獲得した。そして、2000年には”ロックの殿堂”入りを果たしている。
 また、ボブ・ディランの1965年のアルバム「ブリンギング・イット・オール・バック・ホーム」ではベース・ギターを任されて、ツアーまで参加しないかと誘われたが、断っている。理由はザ・ラヴィン・スプーンフルに専念したかったからだそうだ。それほどジョンは、バンド活動に力を入れていた。

 ところが、1967年にザル・ヤノフスキーが脱退してしまうと、新しいギタリストを入れてもうまく行かなくなり、1968年にジョン自身がバンドを去ってしまい、バンド自体も1969年に解散してしまった。ジョン・セバスチャンとしてのソロ活動が始まっていったのは、60年代後半からということになる。

 ジョン・セバスチャンは最初はブロードウェイの演劇の音楽などを担当していたが、1969年8月にウッドストック・フェスティバルに見に行こうと出かけた。ところが急な雨のせいでステージ上が濡れてしまい、サンタナの演奏準備ができずに時間が空いてしまった。観客の中にジョン・セバスチャンがいることを知った主催者側は、急遽、時間しのぎのためにジョンにステージに上がってもらうようにお願いしたところ、ジョンは了解して歌うことになった。この時彼は、ドラッグのせいでハイになっていたようだ。だから簡単にOKしたと言われているが、彼自身は単なる普通の飲み薬でナチュラル・ハイだったと言っている。真相はどうなんだろう。40eb5607436f6755beb8d201a2cd65d0

 とにかくこのパフォーマンスのせいで、再び彼に脚光が当たり始めた。このあと同じようなフェスやライヴに呼ばれるようになって行ったのだ。ちなみにウッドストックでは、自分の持ち歌を3曲、ザ・ラヴィン・スプーンフルの曲を2曲歌っていたが、この時彼のソロ・アルバムは、まだ発表されていなかった。
 最初のソロ・アルバム「ジョン・B・セバスチャン」は、1970年に発表され、ビルボードの・アルバム・チャートの20位まで上昇した。ウッドストックでの彼のパフォーマンスがセールスに結びついたのかもしれない。あるいは、クロスビー、スティルス&ナッシュが参加していたせいかもしれない。また、デヴィッド・クロスビーからはC,S&Nに参加しないかと誘われていて、ジョンも本気で考えていたようだ。もし実現していたら、C,S,N&Sになっていたかもしれない。51suw8j7aul

 ジョン・セバスチャンの音楽性は、マリア・マルダーほど幅広くはないものの、単なるフォーク・ミュージックやフォーク・ロックの範疇に収まるものではなかった。フォークからロック、ジャズ、R&Bと自身が影響を受けた音楽をまとめてジョン・セバスチャンというフィルターでろ過したようなサウンドなのである。だから多様な音楽的要素に満ちているし、どんなテイストを持った曲が出てくるかわからないという楽しみも備えている。
 例えば「ジョン・B・セバスチャン」では、ロックン・ロールの"Red-Eye Express"やストリングスが美しいバラード曲"She's a Lady"、アコースティック・ギター弾き語りの"You're a Big Boy Now"など、なかなかの佳曲で占められていて、セールス的に成功した理由も理解できた。特に、エルヴィス・コステロもカバーした"The Room Nobody Lives in"などは隠れた名曲ではないかと思っている。

 このあとジョンは、ライヴ・アルバムを発表した後、1971年にセカンド・スタジオ・アルバム「ザ・フォー・オブ・アス」をリリースした。冒頭の"Well,Well,Well"などは、名曲"Woodstock"に似た感じのロックン・ロールだし、"I Don't Want Nobody Else"はミディアムテンポで、バック・コーラスが60年代風の美しいもので、こういうところがウェストコースト風の音楽と間違えてしまった点だろう。
 また、"Apple Hill"はまさにラヴィン・スプーンフル時代のような甘くてポップなテイストで、バンジョーが使用されている点が面白い。また、ベース・ギターを演奏しているのは、グリニッジ・ヴィレッジ当時の旧友だったフェリックス・パパラルディだった。 51p3cjcehyl

 こういう佳曲が含まれていたのに、何故かこのアルバムは売れなかった。理由はよくわからないが、ひょっとしたら当時のレコードのサイドB全体を使って書かれた曲"The Four of Us"のせいかもしれない。この曲は組曲形式になっていて、"Domenica"、"Lashes Larue"、"Red Wind、Colorado"に分かれていた。カリブ風の音楽やDr.ジョンがピアノを弾いているニューオーリンズ風のロックン・ロールも含まれていて、ジョン自身の集大成的アルバムだった。こういう先進的というか、自身の趣味性を追及しすぎたせいでセールス的にはパッとしなかったのかもしれない。チャート的には93位に終わっている。

 1974年には「ターザナ・キッド」というアルバムを発表したが、これまた不発に終わっている。ただ評論家の受けは良くて、リトル・フィートの"Dixie Chicken"の再解釈やローウェル・ジョージと共作した"Face of Appalachia"など名曲も含まれていた。特に、デヴィッド・リンドレーがフィドルを担当している"Face of Appalachia"は、これまた涙なしには聞くことのできないカントリー・バラードで、70年代半ばの混沌や退廃といった風潮を受け止めながらもそれを越えていこうとする力強さと繊細さを感じさせてくれる。

 また、エヴァリー・ブラザーズもカバーした"Stories We Could Tell"もまた優しいフォーク・ソングだった。エヴァリーの曲の方は、当時ジョンが住んでいた家の居間で録音されていて、これはジョンとエヴァリー・ブラザーズに参加するというプランがあったからだという。ジョンは、そういう意味では、ミュージシャンからも愛されるミュージシャンだったのだろう。51eiz1jlakl

 1976年に発表されたアルバム「ウェルカム・バック」は、ジョンにとってもまたファンにとっても忘れられないアルバムに違いない。このアルバムからは全米No.1シングルになった"Welcome Back"が含まれていたからだ。この曲は、テレビの青春ドラマの主題歌で、テレビドラマが好評だったため、主題歌も一気にチャートを駆け上っていった。ちなみに主演はジョン・トラボルタだった。
 またこの曲以外にも、ザ・バンド風の"I Needed Her Most When I Told Her to Go"ではジョン自身がハーモニカを演奏しているし、完全なブルーズ調の"Warm Baby"、2枚目のシングルになった"Hideaway"などの優れた曲が収められていた。

 "Hideaway"などは、"Warm Baby"とは対照的に、陽気で明るい曲だし、もっと売れてよかったと思っている。また、バラード調の"She's Funny"も落ち着いた感じで、まるでソウル・ミュージックだった。こういう音楽の多様性が彼の魅力なのだが、当時の音楽ファンからすれば、つかみどころがなくて敬遠されたのかもしれない。51crs39r4pl

 その後も彼はコンスタントに活動を続けていて、ライヴ活動も行っているようだ。最近では自分のルーツに戻ったようで、60年代風のジャグ・バンドとともに活動している。513sax1jgrl
 とにかく、彼の作る音楽は彼自身の人間性を表しているようでとても親しみやすく、メロディアスで覚えやすいのが特徴だ。ちょうどウッドストックへの出演で人気に火がついたように、その時のパフォーマンスが、ドラッグのせいかどうかは別にして、彼の人間性が表出されていたからだろう。そして、人の人間性は単一のものではないから、彼の場合はロックン・ロールからR&B、ポップ・ソングにウェストコースト風音楽と、多種多様に表現されたものとして表れてくるのだろう。まさにアメリカン・ミュージックを体現したミュージシャンのひとりではないだろうか。

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2019年7月22日 (月)

マリア・マルダー

 先月亡くなったDr.ジョンつながりで、この人のアルバムを紹介しようと思う。マリア・マルダーが1973年に発表したアルバム「オールド・タイム・レイディ」である。知っている人は知っていると思うけれど、このアルバムは彼女の代表作の一枚といわれていて、シングル・カットされた"Midnight at the Oasis"はビルボードのシングル・チャートで6位まで上昇している。また、シングルだけでなく、アルバム自体もチャートの3位まで上昇してゴールド・ディスクを獲得した。51dks1bhojl

 彼女の特徴は、単なるフォーク・シンガーでもなく、またカントリー・ミュージックの信奉者でもないところだろう。どういうことかというと、単なる歌を歌うだけでなく、その歌の解釈の仕方や歌い方を通して、彼女の持つ表現力の高さや感性の豊かさ、そしてそれぞれの歌を通してアメリカという歴史の浅い国で育ってきた様々な種類の音楽やそれらが持つ普遍的な魅力をリスナーに伝えようとしているところである。

 もし彼女が自分で曲を書き、自分で歌うというシンガー・ソングライターだったら、ここまでの表現力を発揮できたかどうかは疑問である。自分の気持ちや考え、感情を披露し、それを聞き手に向けて発表できるだろうが、そこから先がどうなるかわからないし、見えて来ない。ひょっとしたらそこで終わってしまうかもしれないのだ。
 逆に、むしろ他の人の曲を取り上げることで、別の解釈の仕方を提示し、それを彼女の歌を待っている私たちに伝えようとする意志みたいなものが、彼女自身を更なる高みに持って行くような気がしてならない。だからこそ歌唱力のみならず豊かなで幅広い表現力が発揮できるのだろう。

 彼女の持つ資質は、彼女がもともと持っていたのかもしれないが、それだけでなく子どもの頃から歌うことが好きで、高校生になっても授業をさぼって歌の練習をしたり、公園や街角で歌っていたりと、そういう環境から磨かれ育って行ったのだろう。
 彼女は元々ニューヨークのグリニッジ・ヴィレッジの出身である。1943年の9月生まれだから現在75歳になる。ということは1950年代後半から60年代前半に青春時代を送ったわけで、当時のニューヨークのグリニッジ・ヴィレッジの新しいムーヴメントが生まれるまさにその影響を浴びながら育って行ったわけだ。だからフォーク・ソングからカントリー・ミュージック、ブルーグラスやジャズまで幅広く吸収できたのだろう。その影響が、後に彼女のシンガーとしての成長に大きく役立ったのである。

 マリア・マルダーの本名は、マリア・グラシア・ロサ・ドメニカ・ダマートといった。イタリア系の移民なのかもしれない。高校生の頃からコーラス・グループを結成して歌っていたが、卒業後は本格的にプロの道を歩もうと決意し、ドック・ワトソンの義理の父親だったガイザー・カールトンからフィドルの演奏の仕方を習いにノース・キャロライナ州まで出かけてしばらくそこで過ごしていた。ちなみに、ドック・ワトソンとは60年代を中心に活躍した盲目のギタリストで、そのフィドルのような速弾きは後進のギタリストに多大な影響を与えている。

 ノース・キャロライナから戻ったマリア・マルダーは、再び小さなカフェやクラブで歌を歌い始めるが、21歳になった時にブルーズ・シンガーだったヴィクトリア・スパイヴァから誘われて、イーヴン・ダズン・ジャグ・バンドに参加した。このバンドにはマリアの他に、ジョン・セバスチャン、のちにブラッド、スウェット&ティアーズのギタリストになるスティーヴ・カッツ、マンドリンの名手デヴィッド・グリスマンなどがいた。ただ、バンドは1枚のアルバムを残して解散してしまった。これだけの有能なミュージシャンが集まっていたのだから、なかなか意見がまとまらず長続きできなかったのだろう。Mariamuldaurd43422725ed7445c97e72f9b1be4

 マリアの方は、すぐにジム・ウェスキン・ジャグ・バンドに加わって活動を続けた。そしてこのバンドのギタリストだったジェフ・マルダーと結婚したのである。それで名前がマリア・マルダーになったのだが、そんなことよりもこのバンドでの活動は約6年にも及んだが、1969年にバンドは解散した。そして夫婦だったジェフとマリアは、共同名義でアルバムを2枚発表しているが、ブルーグラスやフォークが好きな人ならともかく、世間的にはそんなに話題にはならなかったようだ。

 そして1972年に夫婦は離婚したが、マリアの方はそのままマルダー姓を名乗り続けていった。未練があったのかはたまた韻を踏んで言いやすかったのか定かではない。それはともかく、元夫のジェフ・マルダーはポール・バタフィールドとともに”ベター・ディズ”を結成してバンド活動を続けていった。そして元妻であるマリアはソロ・アルバムを発表した。それが「オールド・タイム・レイディ」である。ただし、このアルバム・タイトルは日本のレコード会社が決定したもので、オリジナル・タイトルは単純に彼女の名前「マリア・マルダー」だった。

 アルバムの内容も素晴らしいのはいうまでもないが、それだけでなく制作に集ったミュージシャンの顔触れがまたすごいのである。まずスライド・ギターの名手ライ・クーダー(ただしこのアルバムではスライド・ギターは手に取っていない)、スタジオ・ミュージシャンとして名を馳せたジム・ケルトナーにデヴィッド・リンドレー、キーボードにはマーク・ジョーダンにグレッグ・プレストピノ、マンドリンのデヴィッド・グリスマン、バイオリンにはリチャード・グリーンとラリー・パッカー、フライング・ブリット・ブラザーズにも在籍していたベーシストのクリス・エスリッジ、それになぜかクラウス・ヴアマンもベースを演奏していたし、デレク&ザ・ドミノスのジム・ゴードンは太鼓を叩いていた。さらにはザ・バーズにもいたクラレンス・ホワイトにニック・デカロ、アンドリュー・ゴールド、エイモス・ギャレット、そしてマルコム・ジョン・レベナックである。やっと出てきた、マルコム・ジョン・レベナックこそDr.ジョンの本名だ。このアルバムではホーン・アレンジも担当していた。71hh3sa003l__sl1001_

 もちろんこれ以外も多くのミュージシャンが参加していたのだが、ここでは割愛する。あまりにも多すぎるので紹介しただけでこの稿を終わってしまうからだ。とにかくこれだけ多くの有能なミュージシャンが集まって作り上げたアルバムである。発表前から手ごたえはあったようだ。これを企画したのはもちろんマリアもそうだが、主にはプロデューサーを務めていたジョー・ボイドとレニー・ワロンカーの2人のおかげだろう。

 ジョー・ボイドはアメリカ人ではあるが、初期のピンク・フロイドやインクレディブル・ストリングス・バンド、フェアポート・コンヴェンションなどのイギリスのバンドもプロデュースしている人で、基本的にはフォーキィな音作りに堪能である。もう一方のレニー・ワロンカーの方は、のちにワーナーブラザーズの社長にもなった人だが、リッキー・リー・ジョーンズやランディ・ニューマン、ポール・サイモンなどのアルバムのプロデューサーも担当したことがある。この2人がプロデューサーだったから、こんなに幅広く人を集められたのだろう。しかもそれなりの人ばっかりだから、これはもう素晴らしいとしか言いようがない。

 アルバムの内容だが、これはソウル・ミュージックやリズム&ブルーズを除くアメリカン・ミュージックの集大成のようなもので、ヨーロッパ系アメリカ人なら、あるいはジャズを生んだアフリカ系アメリカ人にもどこか郷愁を感じさせるような楽曲で占められていて、そういう意味でもまたヒットしたのではないかと思っている。
 1曲目の"Any Old Time"はライ・クーダーの弾くアコースティック・ギターの演奏が耳に残るのだが、20世紀初頭のラグタイム・ミュージックになっているし、2曲目の"Midnight at the Oasis"は都会的なジャズだ。続く"My Tennessee Mountain Home"はフィドルが強調されたカントリー系の曲で作曲者はドリー・パートンで、"I Never Did Sing You a Love Song"はゆったりとしたバラード系のジャズ・ボーカルもしくはスタンダード曲風の装飾が施されている。

 "The Work Song"は徐々に楽器が増えていき、最終的にはディキシーランド風の音楽が形作られて行き、"Don't You Feel My Leg"もまたマリアの表現力がパッケージされた曲で中間部のピアノ・ソロはジョン・レベナックが担当しているし、次の"Walkin' One&Only"ではジャズ畑からベーシストとドラマーを呼んでスウィングしながら歌っている。バイオリン演奏はリチャード・グリーンが担当していて、最後はアコースティック・ギターと競い合っていた。

 "Long Hard Climb"はゆったりとしたバラードで、ドリーミングな心地にさせてくれる名曲だ。"Midnight at the Oasis"もそうだが、ストリングスのアレンジはニック・デカロが担当している。この曲は最後がフェイド・アウトしてしまうのでもったいない気がした。エンディングまで聞かせてほしい曲でもある。"Three Dollar Bill"にもDr.ジョンは参加していて、そのせいでもないだろうがビルボードのアダルト・コンテンポラリー部門のシングル・チャートで7位まで上昇している。

 "Vaudeville Man"はそのタイトルのようにクラリネットやホーンがフィーチャーされているが、アレンジを担当したのはDr.ジョン、ベースはクラウス・ヴアマンが、アコースティック・ギターはアンドリュー・ゴールドが演奏している。アルバム最後の曲"Mad Mad Me"は何となくケイト・ブッシュのような高音と表現力を伴っている曲で、バイオリンはラリー・パッカー、ピアノはグレッグ・プレストピノ、ドラムスはジム・ケルトナーではなくてクリス・パーカーというジャズ・ミュージシャンが参加している。言い忘れたがジム・ゴードンは"Midnight at the Oasis"でドラムスをたたいていた。

 このアルバムの演奏をきっかけにブレイクしたのが、ギタリストのエイモス・ギャレットで、"Midnight at the Oasis"でのギター・ソロが評価されて脚光を浴び、ソロ・アルバムを発表するようになった。そういった意味でも、歴史的な評価が高いアルバムかもしれない。201904170035_ex
 この後マリア・マルダーは、ゴスペル・ミュージックやジャズ、リズム&ブルーズなどの様々分野で活躍するようになって行った。そしてDr.ジョンはもとより、ブルーズやジャズ界のミュージシャンともコラボを重ねながらアルバムを発表し続けており、その数は何と41枚にも達しているという。まさにアメリカン・ミュージックの伝道師のようなマリア・マルダーだ。まだまだ現役で頑張ってほしいものである。

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2019年6月17日 (月)

追悼:Dr.ジョン

 先日の6月6日にDr.ジョンが亡くなった。心臓発作が原因という。享年77歳だった。日本ではマニアの人ぐらいしか知らないかもしれないが、母国アメリカでは有名のようで、2011年にはロックの殿堂入りを果たしているし、グラミー賞も6度にわたって受賞している。自分も正直言って、そこまで評価が高いミュージシャンとは知らなかった。 2015112400093_1

 Dr.ジョンの本名は、マルコム・ジョン・レベナック・ジュニアといった。彼はルイジアナ州のニューオーリンズ出身だったから、子どもの頃から地元の音楽を聴いて育った。3歳から家にあったピアノを弾き始めたという。父親は電機店を経営していて、そこにあった当時の78回転のレコードを聞きながら腕を磨いていった。また学校に通い始めると、今度は母親が彼にギターをプレゼントしてくれた。そんなところを見ると、彼の家は比較的裕福なところだったようだ。何事も環境は大事ということだろうか。

 父親が電機店を経営していたという点も、彼のキャリアを考える上では非常に重要なことで、父親の仕事の手伝いをしていたレベナック少年は、ある時、PA機器の修理のために父親とミシシッピー州ミズーリのクラブに出かけたのだ。その時に出演していたのが、プロフェッサー・ロング・ヘアだった。私のハンドル・ネームもこの人から来ているのだが、ここではどうでもいい話だ。
 とにかく、この時のステージの印象が強くて、自分も将来は音楽で身を立てようと思ったらしい。また、父親はニューオーリンズの唯一のレコーディング・スタジオを経営していた人とも友人だったから、子どもだったレベナック少年もたびたびそこを訪れるようになって行った。偶然が重なれば必然になると言われるが、こういう環境がすでに用意されていたようだ。レベナック少年がDr.ジョンになるのは、ある意味、歴史の必然だったのかもしれない。

 レベナック少年は、レコーディング・スタジオに出入りしていくうちに、そこのスタッフやミュージシャンと仲良くなっていった。そして時には、使い走りをさせられながらも、ブルーズや地元の音楽にさらに慣れ親しんでいった。
 50年代にロックン・ロールのブームが起こると、根っからの音楽少年だった彼もその流行に身を任せてしまい、ついには高校を退学してしまい音楽的キャリアの追及を始めるようになったのである。

 17歳になると、自分のバンドを組んでクラブなどに出演するようになった。当時のレベナック少年はギターを担当していて、バンド名はボーカリストの名前を使用していた。当時流行ったような”〇〇&ザ・ナントカ”という感じだ。だから、1人のボーカリストが都合で来れなければ、次のボーカリストを見つけてきてバンド名を変えて出演していた。そうすれば、ほぼ毎晩レベナック少年はステージに立つことができたという。確かにそうすれば、毎晩演奏できるだろう。そうやって技術や感性、表現力を磨いていったのだろう。

 そうこうするうちに、先ほどのレコーディング・スタジオのスタッフから、メンバーが足りないからレコーディングに立ち会ってくれなどという声もかかってきて、セッション・ミュージシャンとしても名前が知れるようになって行った。
 50年代の後半に入ると、ソングライティングも行うようになり、"Lights Out"という曲を発表した。また、ジョニー・ヴィンセントが設立したエイス・レコードという会社でA&Rマンとして働き始め、安定した収入も稼ぐようになって行った。この時のことを、彼は後にこのように回想している。『レコーディングの際には、曲とセッション・ミュージシャンを決めるのが主な仕事だった。ただそれだけではなくて、必要ならアレンジャーも探して来るし、いなければ自分がアレンジも担当した。また才能あるミュージシャンを探してきて、そのレパートリーや曲作りも手伝ってレコーディングまで一緒にやったこともあった』

 その間に自分の演奏活動も行っていたのだが、運命の転機は突如としてやってくるようだ。1960年にフロリダ州ジャクソンヴィルで、モーテル経営者の喧嘩を止めようとしていたところ、その経営者が拳銃を発砲してしまい、運悪くそれがレベナックの左手人差し指(薬指という説もある)に当たってしまい、負傷してしまった。チョーキングもヴィブラート奏法もできなくなった彼は、ひどく落ち込んでしまい、一時はミュージシャンを廃業しようかと考えたようだ。

 その時バンドのメンバーだったキーボーディストからオルガンを弾くように勧められ、その手ほどきを受けるようになった。元々、子どもの頃からピアノに慣れ親しんでいたレベナック少年は、瞬く間にオルガンのみならずキーボード類を弾きこなせるようになって行った。
 しかし今度は、ニューオーリンズの音楽業界に陰りが見え始めた。ニューオーリンズよりもデトロイトやメンフィスのソウル・ミュージックやリズム&ブルーズが注目され始め、またイギリスからロックン・ロールの逆輸入が始まったのだ。

 仕方なくレベナック少年は故郷を去り、西海岸のロサンジェルスに旅立っていった。そこで彼は、旧友のハロルド・バチスティと出会い、とりあえずソニー&シェールのバック・バンドのメンバーとして活動を始めた。そしてオージェイズ、フィル・スペクターやアイアン・バタフライ、その他数えきれないほどのセッションに参加していった。

 1967年になって、レベナックはハロルドや同郷のメンバーたちと一緒に"Gris-Gris"をレコーディングした。この時から彼は"Dr.ジョン"と名乗るようになったのだが、この"Gris-Gris"は、ニューオーリンズに一度も行ったことのない人に、こんな音楽があるのか紹介するつもりで作った曲のようで、タイトル名は地元ニューオーリンズのヴードゥー教を意味していた。音楽的にもおどろおどろしくてサイケデリックだったが、意外にこれが受けたのだ。8104085_3l

 当時はまさに”サイケデリック・ミュージック”が流行していて、特に西海岸では、クィックシルヴァー・メッセンジャー・サーヴィスやアイアン・バタフライ、イッツ・ア・ビューティフル・ディ、ラヴ、モビー・グレイプなどその手の傾向を有するバンドが人気を得ていたから、Dr.ジョンの新奇的な音楽性も、逆に受け入れられやすかったのだろう。

 その音楽性に沿うように、Dr.ジョンのステージもまたヴードゥー教を意識したような、頭に鳥の羽をつけたり、メーキャップを施したり、派手な衣装を身にまとったりと一度見たら絶対に忘れられないようなものだったから、あっという間に名前が売れていったのだ。だから1971年の4枚目のアルバム「太陽、月、薬草」には、エリック・クラプトンやミック・ジャガー、グラハム・ボンドにボビー・キーズなどの錚々たるミュージシャンが参加していた。このアルバムは当時3枚組として発表される予定だったらしいが、結局は1枚のアルバムとしてまとめられて世に出された。

 このアルバムはビルボードのアルバム・チャートで184位を記録するなど、ニューオーリンズの音楽ファンのみならず広く一般にも売れたのだが、なぜかニューオーリンズの音楽自体が下火を迎えていたせいか、Dr.ジョン自身が借金を抱えてしまい、その解決のために当時のアトランティック・レコードの社長だったジェリー・ウェクスラーに相談したところ、それならもう一度ニューオーリンズの音楽を紹介するアルバムを作ってはどうかと提案され、そこから生まれたアルバムが1972年の「ガンボ」だった。8161d8w5el__sl1200_

 日本でのタイトルは「ガンボ」だったが、正式なタイトルは「Dr.ジョンズ・ガンボ」というもので、つまりDr.ジョンによるニューオーリンズ音楽の再解釈という意味なのだろう。このアルバムはファンのみならず、批評家からも絶賛された。また、ビルボードのチャートには11週も残り続け、112位まで上昇している。チャート的にはそんなに大したことはないと思われるかもしれないが、たとえば日本の沖縄民謡や秋田の祭りの囃子歌のアルバムが全国的に有名になったと考えれば、これはちょっとした出来事ではないだろうか。

 このアルバム「ガンボ」の成功で、その次のアルバム「イン・ザ・ライト・プレイス」はもっと売れた。チャートには33週も残り続け、24位まで上昇している。彼のキャリアの中で一番売れたアルバムになったのである。その主な原因は、2曲のシングルがヒットしたからだろう。マーティン・スコセッシが監督したザ・バンドの「ラスト・ワルツ」でも披露された"Such A Night"はシングル・チャートで42位を、"Right Time Wrong Place"は堂々の9位を獲得したのである。ちなみに、アルバムのプロデューサーはアラン・トゥーサンだった。彼もまた南部を代表する偉大なミュージシャンのひとりだった。お互い気心が知れていたのだろう。41x27wkmzdl

 同じ1973年にはもう1枚のアルバム「ディスティヴリー・ボナルー」を発表し、アトランティック・レコードとの契約を終了させ、ユナイティッド・アーティスト社から「汝の名はハリウッド」を発表した。これは表向きはクラブでのライヴ・レコーディングになっていたが、実際はスタジオ・ライヴ録音だった。ただ、プロデューサーはアリス・クーパーやキッス、ピンク・フロイドなどを手掛けたあのボブ・エズリンだったから、ひょっとしたら彼の入れ知恵なのかもしれない。

 この後Dr.ジョンは、徐々にジャズの方面にその触手を伸ばしていった。70年代後半は、フュージョンやクロスオーバーと呼ばれるジャンルに脚光が当たっていたから、その影響を受けたのかもしれない。一時彼は、スティーヴ・ガッドやデヴィッド・サンボーンなどと一緒にツアーをしていたようだ。何となく似合わないような気がした。
 その後、あまり彼の名前を聞かなくなったのだが、80年代後半に大手のレコード会社であるワーナー・ブラザーズに移籍してから再び脚光を浴び始めた。1989年のアルバム「イン・ア・センチメンタル・ムード」が再びアルバム・チャートに顔を出したのである。71yaoob7hml__sl1200_

 タイトル名でもわかるように、このアルバムはジャズ曲集で、デューク・エリントンやコール・ポーターなどの曲で占められていた。このアルバムの中の曲"Makin' Whoopee!"ではリッキー・リー・ジョーンズとデュエットをしていて、1990年の第32回グラミー賞で「ベスト・ジャズ・ボーカル・パフォーマンス・デュオもしくはグループ部門」で受賞することができたのである。
 ここから再び彼が注目され始め、ジャズのみならずリズム&ブルーズ、ロック・ミュージックとニューオーリンズの音楽を中心としながら活動を続けていった。そして、1992年の14枚目のソロ・アルバム「ゴーイング・バック・トゥ・ニューオーリンズ」は再びグラミー賞の「ベスト・トラディショナル・ブルーズ・アルバム」を獲得している。

 その後も彼は、コンスタントにアルバムを発表し続けていた。60歳を越えてもほぼ毎年アルバムを発表し続け、2009年と2013年には、それぞれグラミー賞の「ベスト・コンテンポラリー・ブルーズ・アルバム」と「ベスト・ブルーズ・アルバム」を獲得している。まさに”レジェンド”の異名に相応しい活躍ぶりだろう。

 自分にとっては、最初はレオン・ラッセルと区別がつかなかったし、彼の楽曲もシンディー・ローパーが歌った"Iko Iko"を聞いて、これってDr.ジョンが歌ったやつじゃないかと再認識したくらいだった。それでも彼のおかげでニューオーリンズの音楽を知ることができたし、彼を原点にしてマリア・マルダーやジョン・セバスチャン、日本の細野晴臣、久保田麻琴と夕焼け楽団などの音楽を知ることができた。そういう意味では、まさに”ニューオーリンズ音楽の伝道師”といってもいいだろう。心から哀悼の意を捧げたい。

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2019年4月22日 (月)

コーポレイト・アメリカ

 ボストンというアメリカのロック・バンドについて記すことにした。特に深い理由はなくて、以前からこのアルバムを聞きたくて、最近購入して聞いたからだ。

 このアルバムというのは、彼らの5枚目のスタジオ・アルバムにあたる「コーポレイト・アメリカ」のことである。2002年の11月に発表されたもので、全10曲47分余りの内容だった。
 なぜこのアルバムが聞きたかったかというと、彼らのアルバムにしては売れなかったという理由と、売れなかったのはアメリカの大企業を批判したせいで、プロモーションが十分させてもらえなかったという噂を聞いたからだった。41th8d26apl_2
 ご存知のように、ボストンは1976年にアルバム「幻想飛行」でデビューした。このアルバムは、全米のアルバム・チャートでは最高位3位どまりだったが、セールス的にはアメリカだけでも1700万枚以上、全世界で20000万枚以上の売り上げがあり、今でも30周年記念盤「幻想飛行」が発売され、売れ続けている。

 続く1978年のセカンド・アルバム「ドント・ルック・バック」、1986年のサード・アルバムの「サード・ステージ」は、連続してチャートの首位に輝き、1994年の4枚目の「ウォーク・オン」も100万枚以上売り上げ、7位になっていた。
 ところが、1997年の「グレイテスト・ヒッツ」を挟んで、2002年に発表されたこのアルバムは、チャート的には42位と低迷し、アルバム・セールスも約50万枚程度だった。まさに、70年代の往時を知る者にとっては信じられない悲劇であり、ボストンというブランドにキズがついたような出来事だったのである。

 ところがなぜ売れなかったかという理由が、半ば都市伝説のように語られていった。それが上記にもあったように、アメリカの大企業を批判したために圧力がかかり、プロモーションができなかったというものだった。また、それだけでなく、一部自主回収もされたという噂もまことしやかに流されていた。

 このアルバムの中に収められていたブックレットの裏表紙には、次のように書かれていた。ちなみに自分は輸入盤を購入して聞いたので、日本語訳はついていなかった。だから、正確な日本語ではないことをお許し願いたい。
 “化石燃料を保護しよう、ムダな資源を削減しよう、菜食主義者の生き方を学ぼう、動物製品を避けよう、銃ではなくカメラで仕留めよう、環境保護者に投票しよう、児童虐待や動物虐待を知ろう、毛皮を買うな!”2_000000002394
 そしてその後には、動物保護団体や環境保護団体、児童虐待を防ぐ委員会などにアクセスできるメール・アドレスが記載されていた。ということは、ある意味、このアルバムはプロテスタントな色合いの濃いアルバムだったということが分かる。ちなみに、リーダーのトム・ショルツ 自身も30年以上のヴェジタリアンとのことだった。

 しかし、これだけでは大企業の批判とは言えないだろう。そこで、アルバムの3曲目に収められていたアルバム・タイトル曲"Corporate America"の歌詞について調べてみた。
「誰が人類の退化を防ぐことができるのか
自分を見つめろ、みんなで協力しよう
たばこ産業やビジネスジェット機のグローバル化などは
恥ずべき事 みんなはそれを最大限に好んでいるけど
だけど結論はまだ取り出して突きつけることはできる

さあ行動を起こせ 俺は今夜少し手助けが必要なんだ
お前は何というのか
お前は何というのか
明かりが見えない時でさえも」

(訳;プロフェッサー・ケイ)

 要するに、環境保護の大切さや地球温暖化の危機のことを暗に仄めかしていて、これ以上地球がこのままいけば滅びるぞ、人類は協力してこの危機的状況を打開できるはずだと訴えている。確かに、かつてのゴア副大統領あたりが聞いたら喜びそうな曲かもしれないが、これだけで大企業批判には当たらないだろう。

 ただ最後のフレーズに、「レザー張りのメルセデスを注文して何の意味があるんだ」という言葉があり、固有名詞が出てくるのはここだけなので、ひょっとしたらこれが原因とも考えられるが、たぶん違うだろう。
 一番の問題は、このアルバムは、それまでのエピックやMCAというメジャーなレコード会社からアルテミスというマイナーな会社に移籍して発表されたものだったから、十分なサポートが受けられなかったことは言えるだろう。そこから、上記のような噂が生まれた(あるいは意図的に流された)のではないだろうか。

 肝心のサウンドはどうかというと、特徴的なギターの多重サウンド、空に突き上げるかのようなスペイシーな音の響きなど、今までのボストンを継承している。
 ただ、このアルバムではトム・ショルツ以外のメンバーが健闘していて、2曲目の"Stare Out Your Window"と6曲目の"Turn It Off"、7曲目の"Cryin'"はアンソニー・コスモという人の手による曲で、この人は同じボストンの当時のメンバーであるフランシス・コスモの息子だった。息子の書いた曲を父親のフラン・コスモが3曲とも歌っていたのだ。

 フラン・コスモは、アルバム「ウォーク・オン」から参加していた人で、ブラッド・デルプの代わりにリード・ボーカルを取っていた。ボストンにはこのアルバムとそれに伴うツアーまで参加している。アンソニーは、2002年のツアーからボストンに参加し、2006年頃まで在籍していた。ギターやベース・ギター、ドラムスにキーボードと何でもこなすマルチ・ミュージシャンでもあった。

 アルバム・タイトル曲の"Corporate America"は、何故かディスコ調の曲で、ブラッド・デルプとフラン・コスモ、新人女性ボーカリストのキンバリー・ダーマという人の3人が歌っていた。バックの演奏は、ドラムスからキーボードまで、すべてトム1人が演奏している。ディスコ調にアレンジすることで、切迫感や自堕落な様子を表現しようとしたのだろう。

 4曲目の"With You"は、女性ボーカリストのキンバリーの手による曲で、キンバリーがアコースティック・ギターを担当し、トムがエレクトリック・ギターとベース・ギターを演奏する素朴なバラードである。ウェストコースト風の爽やかなバラードなのだが、途中のエレクトリック・ギターの入り方がいかにもトム流で、ワ~といっぺんに多重録音で入ってくるのがちょっと残念だった。バラードなのだからもう少しそっと来てくれると、盛り上がっただろうに。

 キンバリーは、53歳になるアメリカ人のミュージシャンで、ボストンではベース・ギターも担当していたが、ベース・ギターに関してはボストンに加入が決まってから手ほどきを受けたようで、そんなに得意ではないようだ。基本はボーカルとギターである。3393672570_74d2a256f6_o
 "Someone"はブラッド・デルプとトム・ショルツの2人のパフォーマンスで出来ている曲で、次の"Turn It Off"とともに、ミディアム調のややダークな曲だった。
 この"Turn It Off"と"Cryin'"については、上にも述べたようにアンソニー・コスモの手によるもので、ボストンというよりは、西海岸のオルタナティブ・ロック・バンドの曲のようだ。メロディアスでありながらも刺々しい雰囲気も備えていて、個人的には好きな曲だった。トム・ショルツのギター・ソロがなければ、ボストンの曲とは誰も気がつかないだろう。

 "Didn't Mean to Fall in Love"は、珍しくトムがアコースティック・ギターのソロも演奏している。また、ハモンド・オルガンなども使用されていて初期の雰囲気を携えていた。ただ、メジャー調ではないので、明るい曲ではない。制作者はトムとカーリー・スミス、ジャネット・ミントという人たちだった。トム以外は、具体的にどんな人かはよくわからなかった。(カーリー・スミスはドラムスを演奏するようだ)

 9曲目の"You Gave Up on Love"では、再びキンバリーがメイン・ボーカルを務めており、伸びのあるボーカルを聞かせてくれる。"More Than A Feeling"の二番煎じといった感じで、フルート演奏が少しだけいい味を出している。
 最後の曲の"Livin' For You"は、ライヴ音源で、オリジナルは「ウォーク・オン」に収録されている。"Peace of Mind"をかなりスローにした感じで、フラン・コスモがリード・ボーカルを、ブラッド・デルプがハーモニーをつけている。一応、ボーナス・トラック扱いだが、そのクレジットはないようだ。

 とにかく、発表されたときは、酷評されたアルバムだったが、最近では再評価されてきている。トムのギターの音色は相変わらず独特だし、それに加えてキンバリー・ダームとコスモ親子の参加がアルバムに色どりを添えている。ディスコ調の曲には参ったけれど、冒頭の"I Had A Good Time"やアンソニーの手による"Stare Out Your Window"や"Cryin'"、バラード調の"With You"など、バラエティに富んでいて聞いていて飽きない。6q0j1u10
 このバラエティの豊かさが、従来のボストン・ファンに受け入れられるか、受け入れられないかが評価の分かれ目だろう。むしろ、ボストンのアルバムと思って聞かない方が受け入れやすいのではないだろうか。ただ、セール私的にはこのアルバムからトム・ショルツの神通力は失われてしまったようだ。

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2019年1月28日 (月)

ザ・ジェイホークス

 このバンドの名前を聞いて、てっきり日本のバンドのJ-Walkの兄弟バンドかと思っていた。アメリカのバンド、ザ・ジェイホークスのことだ。
 このバンドの最新アルバムを昨年の秋以降、よく聞いたものだ。自分でもこんなにハマるとは思ってもみなかった。

 このバンドのことは以前から気になっていたのだが、その名前やバンドの姿からカントリー系のバンドだと思っていたから、ちょっと手が出せないでいた。自分はカントリー系の音楽はちょっと苦手なのである。

 ところがある日、ラジオから彼らの最新アルバム「寂れたモーテルとズッと続く道と」の中の曲"Come Cryin' to Me"が聞こえてきて、これがまたグッとくる名曲だった。それで、このアルバムをネットで検索してみたところ、アルバム・ジャケット写真も哀愁をそそるもので、これはもう即買いだと思ったのである。71psql0czel__sl1110__2
 ちなみに、このアルバム・ジャケットの写真は、映画監督のヴィム・ヴェンダーズが撮影したものだという。そういわれれば、何となく彼の映画のワン・シーンのようだ。久しぶりにアルバム・ジャケットに魅せられてしまった。

 この2018年の最新アルバムは、彼らのスタジオ・アルバムとしては10枚目にあたり、もちろん新曲もあるが、そのほとんどは他のバンドやミュージシャンが取り上げた曲や彼らに提供した曲を自分たちで再演したものだった。というわけでもないだろうが、アルバムの充実度というか楽曲のレベルが高くて、だから1曲を聞いただけでもアルバム全体の雰囲気や様子などが伝わってきたのだろう。

 2曲目の"Everybody Knows"や4曲目の"Bitter End"などは、女性3人組のバンド、ディクシー・チックスの2006年のアルバム「テイキング・ザ・ロング・ウェイ」に収められていた。ザ・ジェイホークスのリーダーであるゲイリー・ルーリスと彼女たちで作った曲である。
 また、ディクシー・チックスのメンバーであるナタリー・メインズの2013年のソロ・アルバム「マザー」にも、"Come Cryin' to Me"が提供されていた。ザ・ジェイホークスとディクシー・チックスとは、交流が深いようだ。

 また、3曲目の"Gonna Be A Darkness"は、ボブ・ディランの息子であるジェイコブ・ディランとの共作で、アメリカのTV番組「トゥルー・ブラッド」で使用されたものだったし、7曲目の"Need You Tonight"はロサンゼルスのインディ・ロック・バンドのスコット・トーマスのソロ・アルバムで使用された曲だった。

 さらには8曲目の"El Dorado"はテキサス出身のSSWであるキャリー・ロドリゲスとの共作だし、続く"Bird Never Flies"はニューヨーク、ブロンクス出身のSSWアリ・へストの2007年のソロ・アルバム「ザ・ブレイク・イン」に収められていた曲だった。
 
 また、共作したものの、発表されないまま終わった曲もあって、今回のこのアルバムで初めて陽の目を見た曲も含まれている。5曲目の"Backwards Women"はナッシュビル出身のバンド、ワイルド・フェザーズと、6曲目の"Long Time Ago"はペンシルバニアのバンド、トニックのメンバーであるエマーソン・ハートと一緒に作った曲だった。

 ということで、全くの新曲というのは最後の2曲、10曲目の"Carry You to Safety"と11曲目の"Leaving Detroit"の2曲だけだが、それでもアルバム全体としては統一感があり、スローな曲は心に染み込んでくるし、ミディアム・テンポの曲でもしっかりとロックしているのである。ザ・ジェイホークスのリーダーであるゲイリー・ルーリスの作風が反映されているのだろう。決して歴史的な名盤とは言わないが、それでも一生に一回は耳を傾けるべき必聴盤だと思っている。71bea6jc8hl__sl1122__2
 ザ・ジェイホークスは、1985年にミネソタ州のミネアポリスで結成された。当時のメンバーは4人組だった。
・マーク・オルソン(ボーカル、ギター)
・ゲイリー・ルーリス(ボーカル、ギター)
・マーク・パールマン(ベース・ギター)
・ケン・キャラハン(ドラムス)
 バンドはマークとゲイリーの双頭バンドだった。マークが言うには、エヴァリー・ブラザーズやフライング・ブリトー・ブラザーズなどを聞きながら、ハーモニーの練習を重ねていったらしい。01fband_rehearsal_5
 日本盤でのデビューは7年後の1992年「ハリウッド・タウン・ホール~聖林公会堂」だった。全10曲で約42分、ミディアム・テンポの曲調が多くて、途中でまどろんでしまうこともあったが、確かに90年代のグラム・パーソンズあるいは丸くなったバッファロー・スプリングフィールドというか、初期のポコやイーグルスが持っていたカントリー・ロックのテイストがそのまま息づいているような内容だった。

 また、このアルバムのゲスト陣として、4曲目の"Two Angels"、5曲目の"Take Me With You"、10曲目"Martin's Song"のピアノにはニッキー・ホプキンス、それ以外の曲ではトム・ペティ&ザ・ハートブレイカーズのベンモント・テンチがキーボードを担当している。さらにチャールズ・ドレイトンもドラムスを担当していたが、どの曲かはわからなかった。

 当時の彼らは、ブラック・クロウズのオープニング・アクトとしてツアーに同行していて、その時には、このアルバムの中の曲をもっとブルージィーに演奏していたという。ただ、このアルバムについては、同じような曲調なので、ちょっと単調に感じる人もいるかもしれない。515ae0rkmbl
 このアルバムから3年後の1995年には、彼らの最高傑作と呼ばれている「トゥモロー・ザ・グリーン・グラス」が発表された。通算では4枚目のスタジオ・アルバムになるのだが、日本では2枚目のアルバムになった。

 このアルバムではメンバー・チェンジが行われていて、ドラマーが脱退して、新しくキーボード担当に女性のカレン・グロットバーグが参加している。ドラマーに関しては、この時はまだ決まっていなくて、スタジオ・ミュージシャンなどで代用していた。
 カレンは「寂れたモーテルとズッと続く道と」でも歌とキーボードを担当しているが、最初の加入以降、途中でバンドを抜けていた時期もあったようだ。

 このアルバムは“彼らの最高傑作”と呼ばれているように、確かに前作よりもロック的で、起伏に富んだ内容になっている。たとえば3曲目のファズ・ギターが前面に出ているロック的な"Miss Williams Guitar"、5曲目の"Real Light"という曲もあれば、一転して穏やかなバラード・タイプの"Two Hearts"という曲も収められていた。
 前作に引き続き、ベンモント・テンチもキーボードで参加していて、そういえば作風がトム・ペティ風になってきたなあとも感じた。トム・ペティ&ザ・ハートブレイカーズが好きな人なら、このアルバムはまさに必聴だろう。

 他にも、アコースティックな色合いの強い"Blue"、"Over My Shoulder"、グランド・ファンク・レイルロードの"Bad Time"をアコースティックに改変したものなど、ロック色もあるし、スティール・ギターが目立つカントリー・タッチの曲もあるし、幅広いファン層に訴えかける内容になっていた。61r8cqf5fl
 このアルバムの11曲目"Pray for Me"と13曲目"Ten Little Kids"には、ヴィクトリア・ウィリアムスという女性がバッキング・ボーカルを務めているが、彼女は多発性硬化症という治療法も見つかっていない難病に侵されていて、視力や運動に障害を伴っていた。
 ザ・ジェイホークスを始め、他のミュージシャンも彼女を応援していたが、ザ・ジェイホークスのメンバーで中心人物の一人マーク・オルソンは、1994年に彼女と結婚したのである。

 そしてその結果、マークはザ・ジェイホークスを脱退してしまう。理由は、妻のヴィクトリアの看護をするためだった。
 彼はその後、妻と一緒にジ・オリジナル・ハーモニー・リッジ・クリークディッパーズという3人組のバンドを結成し、アルバムを定期的に発表していった。

 ただし、2005年にマークとヴィクトリアは離婚してしまい、マークはソロ活動に専念するようになった。2010年には、再びザ・ジェイホークスに戻るのだが、アルバム1枚とそれに伴うツアーを行った後、2012年にはまた脱退してしまう。マークはソロ活動の楽しさを覚えたようだった。

 自分は昨年のアルバム「寂れたモーテルとズッと続く道と」から遡って、彼らの経歴やアルバムを知っていったのだが、彼らの最高傑作は「寂れたモーテルとズッと続く道と」だと思っている。確かに「トゥモロー・ザ・グリーン・グラス」も素晴らしいのだが、哀愁感や寂寥感は最新アルバムの方が優れていると思うのだ。

 こういう良質なアメリカン・バンドが活躍できる余地のある今のアメリカのミュージック界も、まだまだ捨てたものではないと感じている。

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2019年1月21日 (月)

バランス

 自分が初めてバランスというバンドのことを知ったのは、1993年の頃だった。当時、音楽乃友社という出版社から「ロック・クラシックス」という1400円の本が出版されていた。その本の中に、「HMV渋谷が選ぶRock Classics Best 10」というコラムがあって、その第8位にバランスというバンドのアルバム「イン・フォー・ザ・カウント」がランクしていたのだ。

 そのコラムの中では、こう書かれていた。“80年代ハード・ポップ主流の中で、曲・サウンドともに優れていたと思う。ファーストよりこのセカンドが個人的に好きだった”

 どんなバンドで、どんなアルバムを発表したのか気になった自分は、さっそく探してみたのだが、当時はまだ今ほどインターネットが普及していなかったから、よくわからなかった。それで当時あった小さなCDショップ屋さんに行って、輸入盤を注文した。しばらくすると連絡が来て、受け取りに行った思い出がある。

 だから、バランスというバンドのアルバムは、セカンド・アルバムの「イン・フォー・ザ・カウント」から先に聞いたのだった。61njfmxznjl
 その時、さすが雑誌のコラムに載るだけあって、歴史の中に埋もれてしまった必聴盤のようなものだと思った記憶がある。

 このアルバムは1982年に発表されていて、一言でいうと、80年代に流行ったメロディアス・ハード・ロックといった感じで、当時のチャートを賑わせていたジャーニーやフォーリナーの亜流といったものだ。もう少し具体的に言うと、サヴァイヴァーやヨーロッパといった感じだろうか。

 曲調は疾走感あふれるハード・ロックやハードながらもメロディはしっかりしているミディアム・テンポの曲などバラエティに富んでいて、聞いていて飽きない。時間的にも全9曲中、4分台の曲が3曲で、残りの6曲はすべて3分台だった。だから全体でも35分少々と、40分にも満たないのだ。

 特に、アルバム・タイトル曲の"In For the Count"はヨーロッパの"Final Countdown"をパクったような感じだったし、"Undercover Man"でのギター・ソロは火の出るような激烈さだった。一方、"Is It Over"は疾走感あふれる佳曲だし、ミディアム・テンポの"Slow Motion"ではマイルドで、ラジオでオンエアされそうなポップ・テイストを備えていた。

 ただ、当時のこの手のアルバムには必ず挿入されていたお約束のバラード曲、"Pull the Plug"はいただけなかった。聞いていて気持ちが何となくムズムズしてくるのだ。納得できないというか、気持ちが昇華しないのである。バラード曲といっても、涙涙の涙腺が緩むようなメロディアスな部分もないし、ブルージィーなギター・ソロ(あるいはキーボード・ソロ)もない。この点は失敗だったのではないだろうか。51ipnx2jhl
 だから、徹底的にハードで押し通して、中に感動的なバラードを1曲くらい入れればもっと売れたのではないかと思っていた。ある意味、ハード・ロック路線なのかポップ・ロック路線なのか、特に後半部分の曲に進むにつれて、判別しづらいところがあった。

 とにかく当時は彼らに関して何も資料がなくて、アメリカン・バンドなのかブリティッシュ・バンドなのかもわからなかった。ただ、作曲者名を見ると、どうもヒスパニック系というか、一般的な英語名ではなかったので、これはブリティッシュ・バンドではないだろうと見当をつけていた。

 あとで分かったことなのだが、このアルバムのプロデューサーは、トニー・ボンジョヴィという人で、この人は、あのジョン・ボン・ジョヴィの叔父さんにあたる人だということだった。なるほど、世の中は広いようで狭いものだ。

 そのあと彼らのことはすっかり忘れてしまっていたのだが、昨年、タワー・レコードのネット・ショップを見ていたら、“AOR City1000”というシリーズものがあって、歴代のAORの名盤?を1000円+消費税で販売していることに気づいた。

 その中に、バランスの「ブレイキング・アウェイ」というアルバムが販売されていた。これはひょっとしてあのバランスのアルバムなのだろうか、でもなんでAORなんだろうと不思議に思い、その謎を解明すべく購入してしまった。81wh2qesnil__sl1425_
 このアルバムは、1981年に発表されたバランスのデビュー・アルバムで、2010年にリマスタリングが施され、日本初CD化されたものだった。

 解説書によると、バランスはニューヨークを拠点にして活動する3人組だったようで、当時は西海岸出身のTOTOに対抗して、“TOTOに対する東からの回答”と呼ばれていたようだ。
 でも自分はそんな話は全然聞いたことがなくて、本当にそんな話があったのかどうなのかは、よくわからない。TOTOは有名だったけど、バランスの方はそんなにメジャーなバンドじゃなかったと思う。

 3人組とは、ボーカリストのペピィ・カストロ、ギターのボブ・キューリック、キーボードのダグ・カッサロスのことで、いずれも東海岸では超有名なスタジオ/セッション・ミュージシャンだった。
 そして、このデビュー・アルバムでは、ドラムスに元スライ&ザ・ファミリー・ストーンのアンディ・ニューマークが、ベースにはドゥービー・ブラザーズにも在籍していたウィリー・ウィークスと元トッド・ラングレンズ・ユートピアのジョン・シーグラーが担当していた。この鉄壁のリズム・セクションだけなら、確かにTOTOと対抗できるだろう。

 ペピィというボーカリストは、ブルース・マグースというバンドで、1966年に全米シングル・チャート5位を記録した"Nothin' Yet"というという曲を歌っていて、このバンドには一時期シンガー・ソングライターのエリック・カズも在籍していたという。
 その後、ミュージカルに出演するなど幅広く活動の舞台を広げていったが、その過程でキーボーディストのダグと知り合った。

 ギタリストのボブもまた有名なセッション・ミュージシャンで、ルー・リードの「コニー・アイランド・ベイビー」やアリス・クーパーのツアーにも呼ばれるほどの腕前だった。
 ボブは、1978年にキッスのポール・スタンレーのソロ・アルバムのレコーディングに参加していたが、その時、ペピィはコーラスで、ダグもピアノ&コーラスでレコーディングに呼ばれていた。

 結局、それがきっかけとなって、バランスが結成された。そこから曲作りやレコーディングを行い、デビュー・アルバムにつながったのである。ちなみに、ギタリストのボブ・キューリックは、のちにキッスに参加したブルース・キューリックの実兄だった。兄弟でバンド活動という発想はなかったのだろうか。

 一聴した限りは、このデビュー・アルバムはメロディアスだし、中にはストリングスでコーティングされるような曲もあり、アレンジは凝っているし、普通のロック・バンドではなかなか表現できないほど技巧的でもあった。
 ただ、あまりにも露骨というか、売ろうとする下心が垣間見えるような気がしてならない。だから、個人的にはあまり好きではないのだ。

 このデビュー・アルバムは、全米アルバム・チャートでは133位とあまり売れなかったが、シングルカットされた"Breaking Away"はシングル・チャートで22位、続くセカンド・シングルの"Falling in Love"は58位を記録している。まあ、それなりに売れたというわけだ。5158ovcecwl
 ただ全10曲で、合計37分程度の内容だった。10曲中4分台の曲は2曲のみで、残りはすべて3分台だった。潔いといえば潔いが、それだけ売れ線に徹していたということだろう。これだけの技量を持つミュージシャンがせっかく集まったのに、何となくもったいないような気がした。

 このあとバランスは、1983年まで活動を続けた。日本の自動車ダイハツのシャレードのTVコマーシャル・ソング"Ride the Wave"も手掛けたといわれているが、自分はよく覚えていない。
 結局、契約を切られてしまったわけだが、2006年にイタリアのレーベルが「イン・フォー・ザ・カウント」の再発を決めたことから、ニュー・アルバム発表を打診され、最終的にオリジナル・メンバーで、2009年に「エクィリブリウム」というアルバムを発表した。51wflb5cqbl
 27年振りのアルバムだったが、基本的にはセカンド・アルバム「イン・フォー・ザ・カウント」をさらにハードにしたロック・アルバムだった。彼らはヨーロッパ、とくに北欧で人気が高く、2010年代に入っても散発的にスウェーデンなどでツアーを行っている。

 こういうハード・ロックながらもメロディアスな楽曲をするバンドは、北欧などでは人気が高いのだろう。でも、21世紀の今になってバランスの名前を聞くとは思ってもみなかった。“芸は身を助く”といわれるが、一芸に秀でることの重要性を、このバンドは教えてくれているようだ。Maxresdefault

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2019年1月14日 (月)

グレタ・ヴァン・フリート

 新年を迎えての実質的な第一弾に当たる今回は、昨年末にヘヴィ・ローテーションしていたこのアルバムを紹介することにした。アメリカの新人バンド、グレタ・ヴァン・フリートのデビュー・アルバム「アンセム・オブ・ザ・ピースフル・アーミー」である。

 知っている人は知ってると思うけど、あのエルトン・ジョンが大絶賛をし、ガンズ・アンド・ローゼズが自分たちのツアーのオープニング・アクトに起用し、そしてあの伝説のバンドのボーカリストであるロバート・プラントまでもが、“彼らはかつての俺たちだ”と称えたと言われているバンドだ。B020
 メンバー構成は、基本的なロックン・ロール・バンドと同じボーカル、ギター、ベース、ドラムスだが、普通のバンドと違う点は、ボーカルとギターが双子の兄弟で、ベースはその弟という点だろうか。要するに、3兄弟とその幼馴染で構成されているのだ。
 しかも、メンバーの平均年齢が20歳というのだから驚きである。現時点では、ベース&キーボード担当のサムはまだ19歳ということで、ますますこれからが期待されるだろう。

・ジョシュ・キスカ(ボーカル)
・ジェイク・キスカ(ギター)
・サム・キスカ(ベース・ギター&キーボード)
・ダニー・ワグナー(ドラムス)

 彼らはアメリカのミシガン州サギノー郡のフランケンムースという場所で結成された。2010年の国勢調査によれば、人口約4944人という小さな町で、アメリカ人の間では世界で一番大きいクリスマス専用ショップがあることで知られているという。

 とにかく田舎町で、メンバーが子どもの頃は広大な草原で走り回ったり、ザリガニを釣りながら川下りをしたりと、自由な環境の中で育っていった。また、そういう自然環境のみならず、両親もR&B やロックン・ロールのクラシック・レコードを集めて聞いていたせいか、家庭環境でも音楽的下地を形成するために役立ったようだ。

 2013年にドラマーが交代したが、その前から"Cloud Train"、"Standing On"などの曲を録音していて、中高生の時から活動を始めていたことがわかる。
 2014年に"Standing On"がデトロイト地区の車のTVコマーシャルに使われたことから徐々に口コミでうわさが広がり、2016年にはiTunesで"Highway Tune"がシングル曲として発表され、翌年にはその曲を含む4曲入りEPが発表された。

 その後は、雪玉が転がることでだんだん大きくなるように、彼らの人気はうなぎのぼり、ライヴ会場もスタンディングの小さなクラブから1200人規模のイス席のホールにまで発展していった。

 そして、待望のフル・アルバム「アンセム・オブ・ザ・ピースフル・アーミー」が2018年の10月に発表されたのだ。輸入盤では10曲、国内盤は4曲のミニアルバム「ブラック・スモーク・ライジング」を含む14曲入りだった。51wkcuemlbl
 音楽性は多様で、ロックン・ロールからブルーズ・ミュージック、フォーク・ミュージックまで幅広いものだったが、一番驚いたのは、誰がどう聞いてもイギリスの伝説的なバンドの音楽性に似ている点だった。

 似ているというか、ギターのリフや入り方、ボーカルのジョシュの高音圧の金切りシャウト、アコースティック・ギターの柔らかな響きなど、完全にパクっているのではないかと思われるほどだ。
 だから人によっては、コピー・バンドとかキングダム・カムの再来などと少し軽蔑じみた言葉を投げていた。確かに聞く人によっては、それはその通りなのだろう。

 彼ら自身は、自分たちを“第二の〇〇”などとは思っていなくて、そういう似た音が出てくるのは、子どもの頃から過去のロック・ミュージックの洗礼を浴びていたからだという。例えば、ギタリストのジェイクは、ザ・フーやザ・ビートルズなどの60年代のブリティッシュ・ロックが好きのようだし、ボーカルのジョシュは、ボブ・ディランやジョン・デンヴァー、ジャニス・ジョプリンにウィルソン・ピケット、ジョー・コッカーなど幅広いジャンルに渡って影響を受けているとインタビューに答えていた。

  そんな彼らが発表したデビュー・アルバムが「アンセム・オブ・ザ・ピースフル・アーミー」である。このアルバムのテーマは、“人類の進化の旅や歴史上の教訓、平和、愛、調和”だそうである。それが全体を繋いでいて、しかも無意識的にそれらが生まれ、自分たちが創造したかったアルバムになったそうだ。Great
 とても新人バンドとは思えないほどの上質なアルバムである。1曲目の"Age of Man"はゆったりとしたブルージーな曲だが、やはり一番耳に飛び込んで来るのは、甲高いジョシュのボーカルである。“ロバート・プラントそっくりとか、意識しすぎ”と呼ばれても仕方ないだろう。

 それがよくわかるのが"The Cold Wind"だ。“Hey”、“Mama、Mama”というかけ声だけでなく、バックのドラミングもジョン・ヘンリー・ボーナムに似せているし、ベースもうねっている。スライド・ギターの入り方もジミー・ペイジに合わせているかのように聞こえてくる。
 3曲目のシングル・カットされた"When The Curtain Falls"も伝説のバンドが甦ったようだし、間奏のギター・ソロも弾きまくっている。できればもう少し長いソロを披露してほしかった。

 次の"Watching Over"はややスローなバラードっぽい曲で、このバンド、意外にバラエティに富んだ楽曲を用意したなと感心してしまった。この曲は“グレタ・ヴァン・フリート版 Since I've Been Loving You”だろう。

 このアルバムでポップな要素を持っているのは、"Lover, Leaver(Taker, Believer)"だろう。ポップというと誤解を招きそうなので、耳に残りやすいと言った方が適切かもしれない。あの偉大な伝説のバンドの曲で例えると、"Communication Breakdown"だろうか。"Living Loving Maid"までのポップ性はないと思う。

 後半の"You're The One"はアコースティック・ギターで導かれた爽やかな雰囲気を醸し出す曲で、この曲だけ聞けば、確かにアメリカン・バンドのような感じがした。間奏にジョン・ポール・ジョーンズのようなオルガンが聞こえてくるところがやはり伝説のバンドに似ていると言われる所以だろう。

 次の曲"The New Day"にもアコースティックな曲で、こちらはややテンポが速い。しかもバックコーラスも少しは聞こえてくるので、この辺は伝説のバンドとの相違点になるのではないだろうか。
 ジミー・ペイジ的スライド・ギターが聞こえてくるのが"Mountain of The Sun"だ。これもまたメロディラインがはっきりしていて、なかなか印象的な曲に仕上げられている。それに曲のアレンジもまた例の伝説のバンドの曲に似ている。途中の演奏が止んでボーカルだけの部分や、長いシャウトなどは本当によく似ていると思う。

 "Brave New World"は、またブルージーな楽曲に戻る。アメリカのロック・バンドでここまで湿った感じの雰囲気を出せるバンドはそう滅多にいないと思う。初期のエアロスミスやマウンテン、初期のグランドファンク・レイルロードなど、70年代のロック・バンドをどうしても思い出してしまう。

 10曲目の"Anthem"は、ほとんどアコースティック・ギターとスライド・ギターがメインの曲で、ジョシュのボーカルが際立っている。歌詞の内容も、世界とは世界を成り立たせているものを指していて、それは私たち一人一人なのだというメッセージ・ソングにもなっている。20歳そこそこの若者にしては、なかなか深遠な世界観を提示していると思った。

 ここまでの10曲は全体で約46分くらいで、こういうところも70年代のクラシック・ロックの世界観にこだわっているようだ。71buoeixol__sl1170_
 国内盤ではこのあと4曲のボーナス・トラックが付属していて、上にもあるようにEP「ブラック・スモーク・ライジング」の曲なのだが、これがまた伝説のバンドそっくりなのだ。ここではあえて省略するが、確かにこのEPだけ聞けば、誰もがあの伝説のバンドの再来だと思うだろう。"Flower Power"などはまさに"Your Time Is Gonna Come"と言われても仕方ないだろう。

 逆に言えば、本編CDの1曲目から10曲目までを聞けば、このバンドがこのEP以降どれほど成長したかが分かるだろう、わずか1年の間に。ちなみにこのアルバムは、ビルボードのアルバム・チャートでは、最高位3位を記録している。英国では12位だった。

 もちろんこのまま素直に売れていく保証はない。むしろこの路線を続けて行けばいくほど、バッシングも高まるかもしれない。だから、この次のアルバムが彼らの試金石になるだろう。伝統を継承しながらも、彼らなりのオリジナリティを出して行けば、まさに2020年代を代表するバンドになっていくだろう。そんな期待を込めながら、セカンド・アルバムを待つことにしようと思っている。

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2018年12月 3日 (月)

オールマン・ブラザーズ・バンド(3)

 いよいよ師走になった。平成最後の12月になった。本来なら今年を振り返ってのアルバムなどを発表するのだが、今回と次回は、もう一度、“レコードの時はショボかったけど、CD化されてお買い得になったアルバム”について記そうと思う。

 本当は前回のチープ・トリックの項で、このシリーズは終わろうと思っていたが、もう2回分だけ、英米を代表するバンドのアルバムについては紹介した方がいいだろうと考えた。
 そして、今回はアメリカン・ロックの中から、オールマン・ブラザーズ・バンドのライヴ・アルバム「フィルモア・イースト・ライヴ」について記すことにした。81swjjuy5ql__sl1400_
 オールマン・ブラザーズ・バンドについては、以前もこのブログに書いているので、詳細は省略したいが、ごく簡単に言うと、彼らは、いわゆる“サザン・ロック”といわれるジャンルに属していて、アメリカ南部の泥臭いブルーズを洗練させ、その上で豪快で迫力のあるロックンロールを演奏していた。この“サザン・ロック”という言葉自体が市民権を得るようになったのも、このオールマン・ブラザーズ・バンドの影響といってもいいだろう。

 彼らは1969年にデビューし、2枚のスタジオ・アルバムを発表するもなかなか売れず、全米的にはまだまだ名前は知られていなかった。
 それがこのライヴ・アルバム「フィルモア・イースト・ライヴ」で一挙に全米を代表するバンドのひとつになっていき、先ほどにもあるように、“サザン・ロック”という言葉が知名度を得たのである。

 このアルバムは、1971年の発表当時では2枚組全7曲だった。当時はレコードだったから、レコード4面で7曲ということは、平均すると1面で1~2曲になる。正確に記すと、当時の曲構成は以下のようなものだった。
サイドA
1.Statesboro Blues
2.Done Somebody Wrong
3.Stormy Monday
サイドB
4.You Don't Love Me
サイドC
5.Hot 'Lanta
6.In Memory Of Elizabeth Reed
サイドD
7.Whipping Post61selz2ol_2
 このアルバムについては、全体で約78分だったから、短い曲ならもう2曲くらいは含まれていてもおかしくないと昔から思っていた。だから1989年にCD化されたときには、レコードとは違って曲数が増えているのではないかと期待していたのだが、残念ながらそうはならなかった。81ex50ndrtl__sl1411__2
 話は前後するが、このフィルモア・イーストのライヴは、彼らにとっては3度目の公演になった。一番最初は、1969年12月で、その時はブラッド、スウェット&ティアーズのオープニング・アクトだった。次が翌年の2月のグレイトフル・デッドと共演したときだった。

 ライヴ・アルバム「フィルモア・イースト・ライヴ」がレコーディングされたときは、1971年3月12日と13日の金曜日と土曜日で、週末ということもあり多くのオーディエンスが駆けつけていた。
 この時は2日間で計4回のライヴ公演が行われており、それぞれ午後8時からと午後11時30分から始まっていた。1回目と2回目の公演の間は、そんなに時間間隔があいていなかったので、午後8時からの公演は約1時間程度のコンパクトなものだった。

 ただ、13日の2回目の公演の前に爆弾予告の電話があって、ライヴは一時中断している。その後再開したのだが、最後の曲"Drunken hearted Boy"が終了したときは朝の6時を超えていたという。こういう経験はめったにないことだろう。

 彼らは1972年に、当時のレコードでは2枚組だった「イート・ア・ピーチ」というスタジオ録音とライヴ曲が混合されたアルバムを発表していて、このアルバムにも3曲のフィルモア・イーストにおけるライヴ音源が含まれていた。要するに例えていうならば、オールマン・ブラザーズ・バンド版「クリームの素晴らしき世界」だろう。61pgbqhggl__sl1400_
 そしてこの時の3曲"Mountain Jam"、"Trouble No More"、"One Way Out"が、1992年に発表された「フィルモア・イースト・ライヴ」拡大版に収録された。

 さらにこのアルバムにはそれまで収録されていなかったフィルモアでのライヴ曲、"Don't Keep Me Wondering"と"Drunken Hearted Boy"も含まれていて、全部で12曲になっていた。こうなると、確かにレコードよりは充実しているように思えるし、実際のライヴ感覚に近づいてきたように思える。

 ところが、2003年の9月に入って、このライヴ盤のデラックス・エディションが発表された。それにはもう1曲、ディスク1の最後に"Midnight Rider"という2分55秒の短い曲が収録されていて、これで全13曲という内容になった。もとのレコードから考えれば、2倍近い増量になっている。7176ppiuxl__sl1098_
 また、このデラックス・エディションでは曲順も代えられていて、実際の演奏順に近いものになっていた。ちなみに、拡大盤とデラックス・エディションの"One Way Out"と"Midnight Rider"の2曲は場所はフィルモア・イーストだが、録音時は同年の6月27日のものが使用されていた。71uiwzifkhl__sl1096_
 この6月27日というのは、この日をもってフィルモア・イーストを閉鎖するという、いわば最終公演の歴史的な日だった。出演したバンドは、オールマン・ブラザーズ・バンド以外に、J.ガイルズ・バンド、アルバート・キング、特別ゲストとして、マウンテン、エドガー・ウィンターズ・ホワイト・トラッシュ、ザ・ビーチ・ボーイズなどであった。

 そして、これでもう最終版だと思っていたのだが、ところが商魂たくましいレコード会社は、さらに「フィルモア・イースト・ライヴ」完全版を2014年の6月に発表した。これは1971年の3月12日と13日の4公演と6月27日の公演を、美しい写真集とともに6枚組のボックス・セットに収めたもので、全37曲、6時間を超える名演奏を堪能することができる。まさに歴史の目撃者を実感させるような内容になっていた。715tlbonyl__sl1295_
 とにかく長生きしてよかったと思わせるような名演奏の数々である。確かにレコードとしての音の質感や温かみなどは独特のものだし、レコードならではの味わいはあると思うのだが、せっかくの未発表の音源があるのであれば、たとえCDであったとしてもやはり聞いてみたくなるのが人情というものだ。81nrjxiu4l__sl1500_
 デュアンが亡くなってもう45年以上が経つし、弟のグレッグ・オールマンも昨年の5月に病気で亡くなった。もう再びバンドが息を吹き返すことはないだろう。"In Memory Of Allman Brothers"である。

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