2017年11月27日 (月)

ジェシ・エド・デイヴィス(2)

 11月も最後の週になった。今までデラニー&ボニーを中心として、関連ミュージシャンのアルバムなどを紹介してきたが、今回はとりあえずその締めくくりとして、以前紹介したギタリストのアルバムについて簡単に記したいと思う。

 ジェシ・エド・デイヴィスについては、2007年9月29日に彼の3枚目のアルバム「キープ・ミー・カミング」を中心にこのブログの中で紹介したが、今回はそれから逆に遡って初期の作品を紹介しようと思う。

 初期といっても、彼は生前3枚のスタジオ・アルバムしか残さなかった。豊かな才能を上手に活かすことができなかったのか、それとも生きること自体に不器用だったのか、その辺はよくわからない。

 ジミ・ヘンドリックスもネイティヴ・アメリカンの血を引いていたといわれていたが、ジェシ・エド・デイヴィスもまた同様で、彼は純粋なネイティヴ・アメリカンだった。
 1944年にオクラホマ州ノーマンというところに生まれた。生きていれば、今年で73歳になったはずだ。14369134_1100690863341131_520405283
 父親はコマンチ族で、母親はカイオワ族の出身だった。父親はジャズ・バンドのドラマーで、母親はピアノ教師だったから、恵まれた音楽環境にあったといえるだろう。

 だから、3歳からピアノを始め、6歳でバイオリンを、10歳でギターを手にした。人前で初めて演奏したときの楽器はピアノだったようだが、その時はまだ中学生だった。父親がナイトクラブに連れて行ってくれたのだそうだが、子どもは入店禁止だったので、ピアノ演奏をするという名目で入店させ、実際に演奏をさせていたという。

 そして、チャック・ベリーなどのロックン・ロールの洗礼を浴びたジェシ・エド・デイヴィスは、ピアノからギターに乗り換え、15歳でラジオ局で演奏をして幾ばくかのお金を手にするようになった。やはり血筋というべきか、もって生まれた音楽的な才能が芽生えていったのだろう。

 ミシシッピー州生まれのカントリー・シンガーにコンウェイ・トゥイッティという人がいて、アメリカではかなりの有名人らしい。その人がオクラホマに来た時に、ギターの才能を見出されて、1962年から65年頃まで彼のバック・バンドのメンバーとしてツアーに出ている。
 ただ、その頃のジェシ・エド・デイヴィスは、まだ大学生だったので、休みの期間を利用して回っていた。その時にレコーディングの経験もしている。
 
 アメリカ人のロカビリー歌手にロニー・ホーキンスという人がいるが、コンウェイからロニーを紹介されたジェシ・エド・デイヴィスは、ロニーのバック・バンドにいたリヴォン・ヘルムを知り、同時に同郷のレオン・ラッセルとも親しくなり、その伝手を頼ってロサンゼルスにまで出かけて行った。
 ジェシ・エド・デイヴィスは、レオン・ラッセルがスタジオ・ミュージシャンとして成功していたことに憧れを持っていたようだ。

 実際に、カール・レイドル、レオン・ラッセルやボビー・キーズらとともに、北ハリウッドのバーで演奏していたらしい。いつもスタンディング・オベーションをもらっていたと本人は語っていたが、確かにこのメンツであれば、バーではもったいないし、ホールクラスでもいつも満員だっただろう。

 タジ・マハールというニューヨーク生まれのミュージシャンがいるが、彼との出会いも全くの偶然だった。

 タジ・マハールがレコーディングしていた時に、急遽予定されていたギタリストが来れなくなってしまい、代わりに来たのがジェシ・エド・デイヴィスだった。
 タジはソロ活動をする前は、ライ・クーダーとともにライジング・サンズというバンドを作って活動していたが、優秀なギタリストを発掘する才能にも優れていた。

 それから約4年ほどタジと一緒に活動をするのだが、タジからは音楽面だけではなくて、“Blues”という音楽に対してエモーショナルなアプローチの仕方も教えられた。
 また、タジのおかげで、渡英してエリック・クラプトンやジョージ・ハリソンとも知己を得ている。ジェシ・エド・デイヴィスは、生涯にわたってタジ・マハールに恩義を感じていたといわれている。

 セッション・ミュージシャンとして活動していたジェシ・エド・デイヴィスが、デビュー・アルバム「ジェシ・デイヴィスの世界」を発表したのは、1971年だった。このアルバムのジャケットの絵は、ジェシ・エド・デイヴィスの父親が描いたものだった。41j3wbx0n7l
 アルバムは全8曲で、36分57秒と短いものだった。ただ、最初から最後まで泥臭くて粘っこい、まさにスワンプ・ロックというべき音楽で満ちている。
 1曲目の"Reno Street Incident"のバックのピアノはレオン・ラッセルだし、エンディングのタメのあるギター・ソロは、ジェシ本人である。

 "Tulsa County"はメロディアスで軽快な曲で、むしろスワンプ流ポップ・ソングといってもいいかもしれない。
 "Washita Love Child"の"Washita"とはオクラホマを流れる川の名前のことらしい。これぞまさにスワンプ流ロックン・ロールで、バックの女性コーラスが雰囲気を盛り上げてくれるし、2分過ぎのギター・ソロは親友のエリック・クラプトンが演奏している。ただ、エンディングがブチッと切れるのがユニークというか、少々悲しかった。

 続く"Every Night is Saturday Night"も同様のロックン・ロール調の曲だが、クラリネットやコルネットの音がディキシーランド・ジャズを想起させてくれる。そういえば、父親はディキシーランド・ジャズを演奏するバンドに所属していたから、その影響もあったのかもしれない。

 "You Belladonna You"もレオン・ラッセルが好きそうなミディアム調の曲調で、ピアノもレオン・ラッセルのようだ。女性ボーカルも健闘しているし、ジェシ・エド・デイヴィスのギターも独特の音色を出している。エンディングの演奏が長いのが特徴で、ライヴならきっと盛り上がっていく曲になると思う。

 "Rock'n'roll Gypsies"はスティール・ギターやキーボードが効果的に使用されているバラード風な曲で、同じオクラホマ州出身のロジャー・ティリスンという人が書いた曲だった。この曲のお礼に、のちにジェシは、彼のアルバムをプロデュースしている。

 7曲目の"Golden Sun Goddess"は軽い感じのスワンプ・ロックで、こういう曲も書けるところが、ジェシ・エド・デイヴィスの優れているところだろう。ジェシと女声コーラスの絡みが面白いし、バックの演奏も重くなくてよい。光り輝くロサンゼルスでの生活が影響を及ぼしたような感じがする。

 最後の曲の"Crazy Love"は、アイルランドの超有名ボーカリスト、ヴァン・モリソンの曲で、ほぼ原曲通り歌っているが、何となくザ・バンドの曲"The Weight"に似ている。バックの演奏がThe Band +女声コーラスといった感じがした。
 そういえば、ジェシ・エド・デイヴィスのボーカルはそんなにうまくはない。何となくキース・リチャーズにも似ているような気がする。

 セカンド・アルバムの「ウルル」は1972年に発表されたが、このアルバムも31分57秒と短かった。415fyjgw13l
 ただ、内容的には前作よりももっと泥臭くなっていて、ジェシ・エド・デイヴィスの個性が十分発揮されている。
 1曲目の"Red Dirt Boogie,Brother"なんかはその最たるもので、ジェシのギターもさることながら、ジム・ケルトナーのドラムスとドナルド・“ダック”・ダンのベースの繰り出すリズムが、非常に呪術的で妖しい雰囲気を醸し出している。ジェシでしか作れない曲だろう。

 一転して、転がるようなピアノとスライド・ギターが明るい曲調を醸し出している"White Line Fever"、エンディングのコルネットが美しいバラード曲で、タジ・マハールとの共作曲"Farther on Down the Road"、ジョージ・ハリソンの「リヴィング・イン・ザ・マテリアル・ワールド」にも収められていた"Sue Me, Sue You Blues"と続く。

 この"Sue Me, Sue You Blues"曲は、ジェシがジョージ・ハリソンに何か曲を書いてくれと言って頼んだもので、当時のジェシもジョージ・ハリソンも裁判を抱えていたから、この曲をくれたといわれている。
 原曲とメロディラインはほとんど変わらないが、やや遅めで、途中のギター・ソロがカッコいい。バックのピアノはレオン・ラッセルだろう。ベース・ギターはビリー・リッチという人が担当している。

 "My Captain"は、ジェシ・エド・デイヴィスが尊敬してやまないタジ・マハールのことを歌っていて、感動的なバラードに仕上げられている。ベースはビリー・リッチ、印象的なピアノは前半がレオン・ラッセル、後半のソロがラリー・ネクテル、オルガンはドクター・ジョンである。これらの名前を聞いただけでも、ファンにとっては感動ものだろう。

 後半は"Ululu"から始まるが、この曲のオルガンもドクター・ジョンである。ギター・ソロは、アルビー・ギャルテンという人が演奏している。ゆったりとしたラヴ・ソングである。

 7曲目の"Oh! Susannah"は、アメリカ民謡の例の曲で、ジェシがアレンジしていて原曲とは全く異なっている。スワンプ流に解釈したらこうなりましたよという典型的な曲で、これを聞けばデラニー&ボニーからの流れが分かるのではないだろうか。

 "Strawberry Wine"はザ・バンドの曲で、彼らの1970年のアルバム「ステージ・フライト」に収められていたものである。ザ・バンドよりはややゆったりとした感じだろうか。
 "Make A Joyful Noise"は、ジェシのボーカルとレオンのピアノが目立っていて、ギターはさほど鳴っていないのが残念なところだ。

 最後の"Alcatraz"は、レオン・ラッセルの曲。彼の1971年のセカンド・アルバム「レオン・ラッセル&ザ・シェルター・ピープル」にも収められていたミディアム調のロックン・ロールで、ここでもレオンのピアノをバックにジェシが器用に歌いこなしている。

 デビュー・アルバよりは曲数は増えているものの、自作曲は少なくなっていた。人によっては能力の限界とか、意欲の減少などという意見を述べる人もいたが、このアルバムの内容を聞けば、決してそんなことはないということが分かるはずだ。

 このあと1973年に、先述した最後のアルバム「キープ・ミー・カミング」を発表したが、1988年の6月22日にドラッグの過剰摂取で亡くなった。43歳の若さだった。

 彼がロック・シーンの一線で活動していた時期は、70年代の最初の数年だろう。彼は美声ではないが、曲はバラエティに富んでいて、ギターの演奏には、スライド・ギターも含めて定評があった。

 それに、ジョージ・ハリソンが呼びかけた“バングラディッシュ・コンサート”にはクラプトンの代わりに参加要請されて、最終的にクラプトンも参加したものの、一緒にステージを務めている。さらには、ポール・マッカートニー以外の当時の3人のビートルのアルバムにも参加している。

 また、マーク・べノの「雑魚」やトム・ヤンシュの「子どもの目」、ジャクソン・ブラウンのファースト・アルバムなどのアメリカ人ミュージシャンのアルバムだけでなく、ロッド・スチュワートの「アトランティック・クロッシング」やエリック・クラプトンの「ノー・リーズン・トゥ・クライ」など、イギリス人ミュージシャンのアルバムにも参加していた。

 もし彼がまだ存命なら、もっと多くのミュージシャンのアルバムで演奏したり、自分のアルバムも数多く発表していたに違いない。あらためて、彼の素晴らしさを惜しまずにはいられないのである。

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2017年11月20日 (月)

デラニー&ボニー(3)

 いよいよ「デラニー&ボニー」編も終わりに近づいてきたようだ。今年の秋は、デラニー&ボニーを中心にしながら、彼らに影響を受けたミュージシャンや彼らの音楽、いわゆる“スワンプ・ロック”について述べてきた。

 “スワンプ・ロック”というコンセプトも、当時の評論家などが名付けた名前だろう。現場のミュージシャンたちは自分たちのやりたい音楽を単にやっていただけにすぎないだろうし、自分たちの音楽が何と呼ばれようとも、信念や誇りを持って取り組んでいたに違いない。

 それで、今回は「デラニー&ボニー」編の最終章である。彼らの活動が評価されていたのは、1968年から1972年頃までだった。わずか4年余りという短い期間であったが、その影響力は21世紀の現在までにも及んでいる。

 彼らは、1972年に「D&Bトゥゲザー」というアルバムを発表した。このアルバムは、もともと「カントリー・ライフ」というタイトルで、アトランティック・レコードの子会社であるアトコ・レーベルから発表されるはずだったのだが、発売が延期になり、最終的には中止されてしまった。そういういわく付きのアルバムなのである。61iu0cv8fl
 なぜ中止になったのかは定かではないのだが、アトランティック・レコードの重役だったジェリー・ウェクスラーは、アルバムの内容に不満を持っていたといわれていた。彼が直接そう命じたかはわからないのだが、世間的にはそういうふうに伝えられている。

 それで販売権利は、当時のCBSコロンビアに譲渡されたのだが、その際にデモ・トラックがカセット・テープなどでマーケットに出回ってしまった。だからこのアルバムについては、正規盤の他に、カセット・テープなどのいくつかの曲順違いのバージョンが存在している。彼らのファンにしてみれば、まさにレアものであり、貴重なコレクターズ・アイテムになっているようだ。

 最新の正規盤については、ボーナス・トラックが6曲も付いていて、これはこれでまたファンにはうれしいプレゼントである。もちろん彼らのコアなファンはまたこのアルバムも入手するに違いないだろう。

 アルバムは、デイヴ・メイソンの曲"Only You Know I Know"で始まる。この曲は1969年にはすでに録音されていたもので、1971年にはシングルとして発売されて、全米20位を記録していた。もちろんデイヴ・メイソン自身も、自分のソロ・アルバムの中でもレコーディングしていた。

 続いて"Wade in the River of Jordan"、"Sound of the City"と続く。前者はボニーのボーカルによるゴスペル風味の曲で、バックのオルガンやピアノ、女性コーラスがいい味を出している。
 後者は、ノリのよいR&Bで、ディープ・サウスの田舎臭い演奏と都会風のボニーのお洒落なボーカルが絶妙にマッチングしている。こういう感性がデラニー&ボニーの真骨頂なのだろう。

 "Well, Well"はベース・ギターが細かい音を刻んでいて、それにリズム・ギターやボーカルが重なっていく構成で、リードする楽器が見当たらないのが特徴だ。

 "I Konow How It Feels to be Lonely"は、ボニーの伸びやかなボーカルが強調されたバラード曲で、バックのストリングスが曲の美しさをさらに際立たせている。こうやって聞くと、いかに彼女のボーカルが素晴らしいかが分かると思う。

 エリック・クラプトンのギターが強調されているのが、"Comin' Home"で、この曲は1970年の「オン・ツアー・ウィズ・エリック・クラプトン」でも披露されていた。正規のスタジオ録音バージョンということだろう。ここでもクラプトンのギターが目立つようで目立たない感じの的確なサポートをしている。

 また、ボビー・キーズやジム・ホーンなどのホーン・セクションが活躍しているのが、7曲目の"Move'em Out"で、これはスティーヴ・クロッパーが作曲したもの。軽快なポップ・ソングだ。メイン・ボーカルは、ボニーが担当している。

 そしてその傾向は、次の"Big Change Comin'"でも同じで、今度はさらにリズムのノリのよい曲になっている。スワンプ・ロック流のロックン・ロールとは、まさにこんな曲のことを指すのだろう。この曲もボニーがリードを取っている。

 "A Good Thing (I'm On Fire)"のリード・ボーカルはデラニーの方がとっていて、ファンキーなロックン・ロール曲になっている。2分13秒と短いので、もう少し長く聞きたい気分にさせる。ボニーの歌い方も白人とは思えないほどパンチがあるのだが、デラニーの歌い方も黒っぽい。まるでスライ・ストーンかプリンスのようだ。

 10曲目はボニーの歌う"Groupie"で、レオン・ラッセルの曲。クラプトンのソロ・アルバムのデラックス盤には収録されていたし、ジョー・コッカーの「マッド・ドッグス&ジ・イングリッシュメン」でも歌われていた超有名な曲。1971年にはカーペンターズが"Superstar"というタイトルで歌って全米2位を記録した。

 "I Know Something Good About You"はミディアム調のR&B風の曲で、ここでもホーン・セクションが効果的に使われている。本当にデラニー&ボニーの曲にはアフリカ系アメリカ人の音楽の影響が色濃く反映されていて、何も知らされずに聞けば、多くの人はブラック・ミュージックと思ってしまうだろう。

 公式アルバムでは最後に配置されたのが"Country Life"で、アルバムのオリジナル・タイトルになっていた曲だ。タイトル通りのカントリー・ミュージック・タッチの曲で、それにストリングスが使用されるというユニークな演出が施されている。曲作りにはデラニーとボビー・ホイットロックが携わっていた。

 ここまでがオリジナル12曲の解説で、ここからは2017年バージョンのボーナス・トラックになる。810eog18ndl__sl1276_

 最初は"Over And Over"というロックン・ロールで、コンガなどのパーカッションとバックのホーン・セクションがストーンズの"Sympathy for the Devil"っぽくてカッコいい。中間のファズの効いたエレクトリック・ギターの間奏はデイヴ・メイソンだろうか。

 次の"I'm Not Your Lover, Just Your Lovee"は、オルガンが強調されたゴスペル風スロー・バラード曲で、秋の夜長に聞くと心が洗われそうな気になってくる。教会でゴスペルが生まれ、発展してきたのも、魂を掴まれ洗浄されてしまうからだろう。
 こういう曲がもう2、3曲含まれていれば、このアルバムの評価はもっと高まっていっただろう。アメリカ人のみならず、世界万国の人々の心の中に響くに違いない。

 "Good Vibrations"は、もちろんザ・ビーチ・ボーイズの曲ではない。ボニーがリードをとったミディアム調のR&Bで、本当にアングロサクソン系アメリカ人が歌っているとは思えないほど迫力があるし、ブラック・ミュージックに肉薄しているのだ。
 いや、ブラック・ミュージックとかそうでないとかいう範疇を超えたオリジナルな音楽をやっている。まさにデラニー&ボニーの音楽そのものだろう。

 続いてロックン・ロール調の"Are You a Beatle or a Rolling Stone"が始まる。この曲のスライド・ギターはもちろんデュアン・オールマンが弾いている。ノリノリの演奏なので、ライヴでは間違いなくウケるに違いない。

 一転して、"(You Don't Know) How Glad I Am"では再びオルガンがフィーチャーされたゴスペル・ソングに戻る。こういうスローなゴスペル・ナンバーではもちろんボニーがリードを取っているのだが、ボーナス・トラックではなくて正規盤に入れてほしい曲でもある。
 歌っている最後でフェイド・アウトされているところが、ボーナス・トラックになった所以なのかもしれない。

 そして最後の曲が"California Rain"である。これは珍しくアコースティック・ギターが基調になっているナンバーで、デラニーが歌うバラード曲に、徐々にピアノやホーンが絡んでくる。途中に転調してミディアム調に変わり、子どものコーラス隊やストリングスも加わってくる。
 これも途中でフェイド・アウトしてしまうのが残念だった。レコーディング自体は最後まで行われていると思うのだが、なぜかカットされている。きちんと収録されていれば、これはこれで名曲になったに違いないと思うのだが、どうだろうか。

 このアルバムには、"Only You Know I Know"や"Comin' Home"のように、既発の曲がいくつか含まれていて、そのせいか新鮮味にやや欠けるという点が見受けられた。

 このアルバムが発売中止になったのも、おそらくそのせいだろうと思う。今になってボーナス・トラックが収められたアルバムが再発されているのだから、曲数的には十分なストックがあったと思うのだが、精選したアルバムにはならなかった。

 また、このアルバム発表時には、すでに2人間には秋風が吹き始めていたのだろう。別々の生活が始まるのもそんなに先の話ではないと2人とも思っていたに違いない。
 だから、名曲になりそうな曲もアレンジを施すこともなく、そのままに置き捨てられたのだろう。ひょっとしたら彼らの代表するアルバムというか、スワンプ・ロックの名盤になったかもしれないアルバムだった。残念で仕方がない。

 最後に、1970年の「オン・ツアー・ウィズ・エリック・クラプトン」の正規盤が4枚組として発売されているのをアマゾンで知って、早速購入した。51z0xdkg1tl
 これは当時のイギリス公演から録音されたもので、合計4時間近い彼らの生のライヴがそのままパッケージされている。

 当時のイギリス公演は、7日間13公演と言われていて、そのほとんどが一日に昼夜2公演だった。ジミ・ヘンドリックスのライヴ盤でもわかるように、当時は、というか60年代では、1日2回公演は当たり前だったようだ。バンドの意向とは関係なく、それだけプロモーターの力が強かったのだろう。

 ディスク1には、1969年の12月1日月曜日のロイヤル・アルバート・ホールでの演奏が収められている。イントロやメンバー紹介も入れて全17トラックだ。

 「オン・ツアー・ウィズ・エリック・クラプトン」には8曲しか収録されていなかったが、このディスク1にはスペンサー・デイヴィス・グループの"Gimme Some Lovin'"や「オリジナル・デラニー・アンド・ボニー」の中の"Get Ourselves Together"も収められていた。

 ディスク2は12月2日火曜日のコルストン・ホールでのライヴで、ここではなぜか実質10曲しか収録されていない。最後はクラプトン・コールも起きるのだが、MCのアナウンスでは、どんなに長くここにいても、どれだけ騒いでも彼らは出てきません、公演はこれでおしまいですという強制終了の合図が出されていた。当然ブーイングも起こったのだが、フェイド・アウトされている。
 理由はわからないが、お客の態度が悪かったのか、クラプトンばかりもてるのでデラニーの方が嫉妬したのか、神のみぞ知るということだろう。

 ディスク3と4は、12月7日の日曜日の昼夜2公演がそのまま収められている。場所はフェアフィールド・ホールだから、「オン・ツアー・ウィズ・エリック・クラプトン」の収録はこの2公演の中から選曲されたのだろう。

 ファースト・ステージではイントロやメンバー紹介も入れて計10曲、セカンド・ステージではそれらも含めて計13曲だった。
 特筆すべきは、この日曜日には元ザ・ビートルズのジョージ・ハリソンも参加していて、ディスク4ではメンバー紹介で名前を呼ばれていた。もちろん「オン・ツアー・ウィズ・エリック・クラプトン」では彼の名前はカットされていた。権利関係が生じるのだろう。

 ツアーの記録なので、ほとんど同じ曲が4枚に連なって収録されているのだが、好きな人にはとってはたまらない内容だろう。ライヴのインパクトや臨場感がそのまま伝わってくるのだからたまらない。81kndvamm9l__sl1200_

 アマゾンでは送料を含めて2500円程度なのだから、これはもう本当に生きててよかったと思ったくらいだ。

 とにかく、この時のライヴはどれもリズムにキレがあるし、クラプトンやデイヴ・メイソンのギターも若々しい。アメリカ人ミュージシャンの力を借りて、さあ、これからだという勢いが伝わってくるステージングだった。今から考えれば、隔世の感がある。

 とにかく、一世を風靡したデラニー&ボニーであり、スワンプ・ロックだった。ブームは去っても、彼らが残した遺伝子は今でもアメリカン・ロックの潮流の中にしっかりと根付いている。
 決して忘れることができない偉大な夫婦デュオといえば、ブラック・ミュージックではアイク&ティナ・ターナーであり、ロック・ミュージックではデラニー&ボニーであろう。

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2017年11月13日 (月)

マーク・べノ(2)

 ずいぶん昔の話だけれども、このブログでマーク・べノのアルバム「雑魚」を紹介したことがあった。このアルバムは、知っている人は知っているけれども知らない人は誰も知らないというぐらい有名なアルバムで、個人的に隠れた名盤として載せたのである。51ozvefplrl
 いま調べたら2008年の7月14日付でこのブログに記載されていて、いかにこのアルバムが素晴らしいかを力説していた。思えば9年も前のことになるが、時の経つのは早いものだ。
. そんなことはどうでもいいのだが、当時はあまり深く考えなかったのだけれども、このマーク・べノもスワンプ・ロック関連のミュージシャンのひとりで、この1971年の名盤にも当時の関係者が多数参加していた。

 たとえば、ギター奏者ではザ・バーズに在籍していたクラレンス・ホワイト、ジェシ・エド・デイヴィス、ボビー・ウーマックにジェリー・マッギー、ベーシストにはデレク&ザ・ドミノスのカール・レイドル、ジェリー・シェフ、ドラマーにジム・ケルトナー、バック・コーラスにはリタ・クーリッジなどのミュージシャンである。いずれもデラニー&ボニー関連のミュージシャンか、その関係者だった。

 マーク・べノ自身も若き日のレオン・ラッセルとアサイラム・クワイアというバンドを結成していた。その関係からこれらのミュージシャンが参加したものと思われる。いずれもデラニー&ボニーに、直接的にしろ間接的にしろ関係しているミュージシャンばかりだ。

 マークは、テキサス州のダラスに生まれている。1947年生まれなので、今年で70歳になる。12歳でギターを手にし、15歳頃にはプロのミュージシャンとして活動を開始した。
 様々なバンドを経験した後、1966年にレオン・ラッセルと知り合い、意気投合してハリウッドに居を定め、アサイラム・クワイアというバンドを結成している。

 バンドは、「ルック・インサイド・ジ・アサイラム・クワイア」と「アサイラム・クワイアⅡ」という2枚のアルバムを発表したが、商業的には成功せず、マークは一人で地元テキサスに戻り、カントリー・ブルーズ・シンガーのマンス・リプスカムのバック・バンドで音楽活動に取り組んだ。

 1970年にはリタ・クーリッジの後ろ盾もあって、当時のA&Mレコードと契約を結び、デビュー・アルバム「マーク・べノ」を発表した。このアルバムについては後に述べることにする。

 そして翌年には、スワンプ・ロックの名盤傑作選には必ず入ると言われている「雑魚」を発表した。このアルバムについては、すでに述べているのでそちらを参照してほしい。たぶんほとんど誰も目にしないだろうけれど…

 1972年には3枚目となる「アンブッシュ」を発表して、ナイトクロウラーズという自身のバンドを結成した。このバンドには有名になる前のスティーヴィー・レイ・ヴォーンやドイル・ブラムホールなどが在籍している。

 だからというか当然というべきか、彼らは地元では大変な人気を誇っていて、ハンブル・パイやJ.ガイルズ・バンドの公演ではオープニング・アクトを務めていたが、メイン・アクトよりも観衆を沸かせていたといわれている。

 レコード会社としては、シンガー・ソングライターとしてプッシュしていたのだが、いつの間にかブルーズ・ロックをやるようになっていったマークに難色を示すようになり、1974年の4枚目のアルバムは録音されたものの、結局、発売は見送られてしまった。2005年になってこのアルバムは、「クローリン」というタイトルで発表されている。

 「ロスト・イン・オースティン」というアルバムが1979年に突如発表されたが、A&Mから発表されたアルバムは、これが最後になってしまった。
 これは珍しくロンドンでレコーディングされていて、エリック・クラプトンや彼のバンド・メンバーも参加したブルーズ色の濃いロック・アルバムに仕上げられていた。

 その後は、彼が手掛けた「ビヴァリー・ヒルズ・コップ」の挿入歌入りのサントラが1986年度のグラミー賞を受賞したり、1990年には「テイク・イット・バック・トゥ・テキサス」というアルバムを発表したりするが、無理のないコンスタントな活動を行っているようだ。
 アルバムも定期的に発表しているが、メジャーなレーベルからは出していないので、遠く離れた日本では、彼の具体的な活動は把握しにくい。

 ただ、2005年と2011年には来日しているので、日本でもコアなファンはいるはずだ。もちろん自分もそのうちの1人なのだが、残念ながら生の姿はまだお目にかかっていない。機会があればと願っているが、もう恐らく日本に来ることはないだろう。残念の一言に尽きる。

 それで、久しぶりに彼の1970年のアルバム「マーク・べノ」を聞いたのだが、これがまた「雑魚」に負けず劣らず良いので、このところ毎日聞いている。41mkdwc2zhl
 まず、参加ミュージシャンが素晴らしい。だいたいスワンプ・ロック系のアルバムには、その筋のミュージシャンが大挙して押し寄せて、勢いで制作するという傾向が強いのだが、このアルバムもその例に漏れない。

 キーボードには清志郎とも共演したブッカー・T・ジョーンズ、スライド・ギターには名手ライ・クーダー、ギターにはベンチャーズのジェリー・マギー、ベースはプレスリーやコステロとも経験のあるジェリー・シェフ、レオン・ラッセルの後ろでタイコをたたいていたジミー・カースタイン、そしてジム・ホーンにリタ&プリシラのクーリッジ姉妹と、これはスワンプ・ロックの範疇を超えた西部&南部連合軍だろう。

 アルバムには9曲が収められている。1曲目の"Good Year"はタイヤのコマーシャル・ソングではないものの、軽快なカントリー・ロックで、バックのホーンとワウワウのギターがルイジアナなどのアメリカ南部を想起させる音になっている。エンディングに向けてテンポが徐々に上がっていく。

 "Try It Just Once"はミディアム・ブルーズ風の曲だが、全編を覆うギターがカッコいい。デビュー・アルバムからしてこのレベルの高さは、正直言って素晴らしい。

 3曲目の"I'm Alone I'm Afraid"はさらにスローな曲で、まるでレオン・ラッセルのピアノとスティーヴィー・レイ・ヴォーンのギターが合体したような曲に仕上げられている。このアルバムの中でも1、2を争うほどの出来栄えだと思うし、この曲とラストの曲のためにアルバムを買っても惜しくはないだろう。

 一転して明るい曲調の"Two Day Love Affair"では、リタ・クーリッジらの女性ボーカルが曲を盛り上げていて、ポップな色どりを添えている。こういう曲も書けるところがマーク・べノの才能の大きさだろう。

 "Second Story Window"は涙が出そうなアコースティックな曲で、のちにリタ・クーリッジが自分の持ち歌の一つにするほどの素晴らしい曲。秋の夜長に聞いていると、胸が締め付けられるような感じの曲だ。ブッカー・T・ジョーンズの演奏するハモンド・オルガンもまたいい味を出している。

 アルバムの後半は、ややハードな"Teach It To The Children"で始まる。マーク・べノ流のロックン・ロールだろう。中間部のギター奏法がややサイケデリック風で、この時代の雰囲気をよく表している。

 "Family Full Of Soul"は、やや力を抜いたレイド・バック風の曲で、アメリカの南部の風を感じさせてくれる。バックのホーン・セクションにピッコロも使用されているので、明るく陽気な気持ちにさせてくれた。

 8曲目の"Hard Road"だけは、マーク・べノとグレッグ・デンプシーという人の共作だった。グレッグ・デンプシーという人は、ロサンゼルス時代のマークの友人で、レオン・ラッセルと一緒に3人で曲作りも行っていたという。
 軽快なスワンプ・ロック風のロックン・ロールで、後半のライ・クーダーによるスライド・ギターが文句なくカッコいい。

 最後の"Nice Feelin'"は、スワンプ・ロック流のゴスペル・ソングだろう。ピアノとハモンド・オルガンの共演やそれに絡むギター、クーリッジ姉妹のバック・コーラスなどが聞くものに魂の癒しを与えてくれる。
 この曲ものちにリタ・クーリッジが自分で歌っているが、やはりプロの歌手が自分も歌いたいと思わせるような魅力というか力を秘めているのだろう。
 このアルバムは全体で33分くらいしかないのだが、この曲だけは5分50秒もある大曲だった。

 いずれにしても、このアルバムもまた「雑魚」と並び称されるほどのスワンプ・ロックの名盤ということが、あらためてわかった。ただ、もう1、2曲ほど曲が多ければ、もっと充実したアルバムになったに違いない。
 それでもデビュー・アルバムでこれほどの名盤が作れるのだから、やはりマーク・べノは実力派ミュージシャンだった。Marc_benno
 今ではそんなに語られることはないかもしれないけれど、マーク・べノもまたスワンプ・ロックのみならず、アメリカン・ロックを代表するミュージシャンの1人だった。もっと評価されていいミュージシャンだと思っている。

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2017年11月 6日 (月)

デラニー&ボニー(2)

 スワンプ・ロックとは、ロックン・ロールを中心にして、それにR&Bやカントリー・ミュージック、ゴスペルなどの要素を備えた音楽であり、具体的にはロック・バンドにブラスとコール&レスポンス風のバック・コーラス、それにピアノやオルガン中心のキーボードを加えた楽曲である。

 1970年前後にアメリカを中心に流行したが、これを主導したのは、アメリカ人ミュージシャンのみならず、クラプトンやデイヴ・メイソンなどの著名なイギリス人ミュージシャンもその一翼を担っていた。

 自分なんかはクラプトンやジョージ・ハリソンが彼らと積極的に交流を図ろうとしていたのを知って、初めてこの手の音楽を知った。だからイギリス人ミュージシャンを鏡にして、アメリカの音楽の源流の一つを学んだようなものだった。

 レオン・ラッセルやドン・ニックス、マーク・べノなどのアメリカ人ミュージシャンの音楽もスワンプ・ロックの範疇に含まれるのだが、その中で一番有名で、一番影響力があったのは、やはりデラニー&ボニーであることは論を俟たないだろう。

 特に彼らが発表した4枚目のアルバム「デラニーよりボニーへ」は、まさにスワンプ・ロックを代表するアルバムである。このアルバムを聞けば、スワンプ・ロックとは何なのかを体験できる。それほど優れた名盤であり、アメリカン・ロック史の中でもまさに世界遺産級のアルバムだと思っている。61hhvjhiphl__sl1050_
 このアルバムは、1970年に発表された。前年のイギリス・ツアーは「オン・ツアー・ウィズ・エリック・クラプトン」として70年の3月に発表されていた。

 デラニーは、イギリスから帰国後、ただちにスタジオ・アルバムの録音に取り掛かろうとしたのだが、残念ながらバック・ミュージシャンのほとんどは、エリック・クラプトンやレオン・ラッセルたちと行動を共にしていて、デラニーのもとにはあまり人が残っていなかった。

 そんなときに助け舟を出してくれたのが、アトランティック・レコードの当時の重役だったジェリー・ウェクスラーだった。
 彼はデラニーとボニーにオールマン・ブラザーズ・バンドのギタリストだったデュアン・オールマンを紹介したのである。

 当初はライ・クーダーの名前も挙がったのだが、ジェリーはデュアンの方が音楽性が合うだろうと仲介してくれた。
 実際、デュアンとデラニーは意気投合して、2人で行動を共にすることが多くなっていった。当時のデュアンは自分のバンドのツアー以外は、ほとんどの時間をデラニー&ボニーと過ごすようになったと言われている。

 だからこのアルバムのクレジットを見ると、レオン・ラッセルやエリック・クラプトンの名前は既になく、代わってデュアン・オールマンのほかに、ベン・べネイ、チャーリー・フリーマン、スニーキー・ピートやメンフィス・ホーンズのメンバー等がクレジットされていた。

 また、デレク&ザ・ドミノスからは、ボビー・ホイットロックとジム・ゴードンが参加していた。ただ、ジムは本職のドラムは叩いておらず、ピアノやオルガンを担当している。

 ついでにいうと、ギター担当のチャーリー・フリーマンやリズム陣のトミー・マクルーアとサミー・クリースンなどは、マイアミにあるクライテリア・スタジオの専属ミュージシャンだった。彼らは“ディキシー・フライヤーズ”と呼ばれていて、それなりの経験を積んだベテラン・ミュージシャンたちだった。

 このアルバムの素晴らしさは、とにかくスワンプ・ロックの要素をすべて備えているところだろう。71rhuj1prbl__sl1050_
 デラニーの書いた"Hard Luck And Troubles"からアルバムは始まる。ノリのよい転がるようなテンポの曲で、途中からのホーン・セクションがR&B風でカッコいい。

 続いてアコースティック・ギターとスティール・ギターがフィーチャーされた"God Knows I Love You"が始まる。アメリカ南部から中西部に移動してきたような感じがした。1曲目と2曲目のギャップはそんな感じだった。
 蛇足として、スティール・ギター奏者のスニーキー・ピートは当時フライング・ブリット・ブラザーズに所属していたミュージシャンである。

 ボニーが本格的に登場するのは、3曲目の"Lay Down My Burden"からである。この人が歌うと迫力があるので、本当にティナ・ターナーが歌っているように感じてしまう。この曲もまた彼女の代表曲の一つだろう。

 4曲目はメドレー形式になっていて、ロバート・ジョンソンの名曲でデラニーが歌う"Come on in My Kitchen"から、ボニーが歌う"Mama, He treats Your Daughter Mean"、2人のデュエットによる"Going Down The Road Feeling Bad"へと続く。バックの演奏はアコースティック・ギター2本とコンガのみである。

 続いて、お涙頂戴のスラー・バラード"The Love of My Man"をボニーが丁寧にかつ切々と歌ってくれる。ただ、迫力がありすぎて感傷ではなく感動してしまう。バックのオルガンとホーンの絡みなどは見事なアレンジだと思った。

 一転して、ロックン・ロールになる。"They Call It Rock&Roll Music"はタイトル通りの曲で、デラニーが手掛けた曲だった。ロックン・ロールといっても、スワンプ・ロックにはホーンやバック・コーラスがフィーチャーされるので、ギター・ソロはそんなに目立たない。
 この曲のサックスは、デラニーの友人のキング・カーティスという人が担当している。この人は有名なサックス奏者だったが、翌年の8月にドラッグの密売人と口論になり刺殺されている。享年37歳だった。

 さらにアップテンポでノリノリなのが"Soul Shake"だ。たぶん当時のレコードでは、この曲がサイドBの1曲目にあたるのではないだろうか。最初から飛ばしていこうぜという感じの曲で、間奏でのデュアンのスライド・ギターと後半のサックスが目立っている。

 "Miss Ann"はピアノが目立つブギウギ調のロック・ナンバーで、誰が弾いているのかと思ったら、何とリトル・リチャードだった。ゲスト参加ということだ。この曲は5分以上もあるので、結構、彼のピアノは目立っている。

 9曲目の"Alone Together"はデイヴ・メイソンの曲ではなくて、デラニー&ボニーとボビー・ホイットロックが手掛けたもの。まさにスワンプ・ロックのお手本のような曲で、みんなでワイワイやっているようなスワンプ・ロック風パーティー・ソングである。

 そして、次の"Living On the Open Road"ではデュアンのスティール・ギターが大フィーチャーされていて、個人的には、この1曲だけでもこのアルバムを聞く価値があるのではないかと思っている。他の曲でももっと弾いてほしかったが、この曲を聞けただけでも幸福感が湧き上がってくる。

 ハードな曲の次にはスローな曲が来るのは定番で、"Let Me Be Your Man"はスロー・バラード曲。ただメイン・ボーカルはデラニーだった。タイトル曲や内容が男性用だからだろう。でも、しっかり聞きこむと、意外とデラニーの歌い方もソウルフルで情感豊かだった。もう少しエンディングを伸ばしてほしかったように思う。

 最後の曲"Free the People"はボニーが歌っていて、基本的には前半がトロンボーンとパーカッションで、後半はバンド形式になる。そしてアルバム全体を締めくくるかのように、最後はみんなで歌って終了という感じだった。

 デラニー&ボニーは、翌年の1971年に「モーテル・ショット」を発表した。これは商業的な成功を求めるために発表したものではなくて、当時の彼らの日常の音楽風景を記録として留めようと思って制作されたものだった。91c0708lh8l__sl1500_
 当時の彼らは、ライヴ終了後はモーテルに戻って、さらに一晩中、飲んで歌ってワイワイやっていたという。その中で、次のアルバムへのアイデアや曲へのイメージが浮かんで来たようなのだが、そういう演奏などを無理のない形で発表しようとしたのである。

 基本はホテル(モーテル)内でのレコーディングなので、エレクトリックな楽器は極力排除されていて、ピアノやタンバリンなどのパーカッションが主な楽器だ。

 録音時期には諸説あるが、だいたい1969年の秋以降から1970年の5月くらいまでではないかと言われている。
 このアルバムには、レオン・ラッセルやデイヴ・メイソンにデュアン・オールマン、それにジョー・コッカーまで参加していた。

 だから、デレク&ザ・ドミノス結成以前か、ジョー・コッカーの全米ツアー以前だろう。ということは、上記の時期が最も当てはまりそうで、その間のデラニー&ボニーのツアーの合間を利用して録音されたものなのだろう。

 曲の内容的には、トラディショナルや黒人霊歌的なものも含まれていて、彼らの宗教観や音楽観が伺える。デラニー&ボニーもレオンも敬虔なクリスチャンで、ショーの前後でみんなで円陣を作り、祈りを捧げていたという。

 1曲目の"Where The Soul Never Dies"古いゴスペル・ソングをデラニーがアレンジしたもので、レオン・ラッセルの弾くピアノとタンバリンで構成されている。
 続く"Will The Circle Be Unbroken"も古い讃美歌で、ここではボニーがメイン・ボーカルを取っている。

 一転して静かな"Rock of Ages"が始まる。珍しくレオン・ラッセルがリードを取っていて、これも讃美歌をアレンジしたものらしい。ピアノ1台と少しのパーカッションで成り立っている曲でもある。

 アコースティック・ギターとピアノが目立っている"Long Road Ahead"はデラニーとカール・レイドルの曲で、デイヴ・メイソンと思われるギターがかすかに聞こえてくる。これも誠実、質素、堅実といった古き良きアメリカ南部の伝統を踏襲したような内容の曲になっている。

 更にメロディアスでバラードなのは5曲目の"Faded Love"で、歌っているのはデラニー・ブラムレットだった。彼が子どもの頃に、家族でよく一緒に歌っていた曲の一つだという。素朴でセンチメンタルな曲である。

 "Talkin' About Jesus"をリードするのは、なんとまあジョー・コッカーである。彼の名前はこのアルバムにはクレジットされていないのだが、誰が聞いても彼だとわかる声が聞こえてくる。
 ジョーの次には、デラニー、ボニーと次々とコーラスが加わり、まさにゴスペルの極致に近づいてくる。彼らにはモーテルではなくて、教会で歌っているような感じだったかもしれない。もしくは、神はどこにでもおわしますという心境だったかもしれない。教会であろうが、ホテルの一室であろうが、神を身近に感じることがクリスチャンの資質なのだろうか。

 6分51秒の曲の次は、2分41秒のロバート・ジョンソンも歌った"Come on in My Kitchen"。ドブロ・ギターを弾いているのは、デュアン・オールマンのようだ。前作の「デラニーからボニーへ」とはレコーディングの時期が違う曲だった。

 続いてスロー・ナンバーの"Don't Deceive Me"が始まるのだが、この曲はボニーがリードを取っていて、ソウルフルなボーカルを聞かせてくれる。アコースティック・ギターを弾いているのは、何となくクラプトンのような気がするのだが、気のせいだろうか。ただ、クラプトンもこのアルバムにはクレジットされていない。

 "Never Ending Song of love"はデラニーのオリジナル曲。このアルバムからシングル・カットされ、全米チャートの13位まで上昇し、彼らの最大のヒット曲になった。のちにザ・ニュー・シーカーズやジ・オズモンド・ブラザーズなどもカバーしてヒットさせている。このアルバムの中では、唯一のポップ・ソングかもしれない。

 "Sing My Way Home "もデラニーのオリジナル曲で、バックのスライド・ギターはもちろんデュアン・オールマンである。アコースティック主体の爽やかな曲でもある。

 このアルバムの前半はR&Bやゴスペルの影響を受けた高揚感のある曲が占めているのだが、後半はこういうアコースティック主体の曲やポップな曲が目立っている。91b3kymkagl__sl1500_
 11曲目も前作「デラニーからボニーへ」の中でメドレーとして収められていた曲"Going Down The Road Feeling Bad"で、デュアン・オールマンのアコースティック・ギターが目立っているせいか、軽快で明るい印象を受けた。

 最後を飾るのは"Lonesome And A Long Way From Home"で、クラプトンの1970年のソロ・アルバムにも収められていた。デラニー&ボニーとレオン・ラッセルのクレジットによる曲で、フィドルなども聞こえてきて、よりアーシーになっている。最後のボーカルはスティーヴン・スティルスと言われているが、彼の名前もアルバムには記載されていなかった。

 というわけで、このアルバムについては売れることを意識して発表したわけではないようだが、なぜかシングル曲はヒットしてしまった。彼らにとっては予想外のことだっただろう。あるいは、スワンプ・ロックというブームの中での出来事だったのかもしれない。

 このあと彼らは、アルバムを制作するもレコード会社からは拒否され、夫婦仲も次第に険悪な状況になっていった。

 この「モーテル・ショット」は、1990年代にブームになった“アンプラグドもの”の先駆けとなったアルバムとも言われているが、あるいは、もしかしたら彼らの最も幸福な時間を曲に託して記録(レコーディング)したのかもしれない。

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2017年10月 9日 (月)

デラニー&ボニー(1)

 前回の「デイヴ・メイソン」編で、デイヴ・メイソンもアメリカ南部の音楽に惹かれて、アメリカに行って活動を行っていたという話を書いた。しかも、エリック・クラプトンよりも以前にアメリカで活動をしていたというから、ある意味、先見の明があったとも記した。

 逆に言うと、クラプトンの方がデイヴ・メイソンの行動を参考にしていたのかもしれない。彼とクラプトンとは同じギタリストとしても交流があったからだ。
 いずれにしても、クラプトンよりも以前にアメリカで活動していたイギリス人の有名ミュージシャンがいたというのは、自分にとっては少々ビックリする話だった。

 そして、この2人のギタリストが共通して親交を持ったアメリカ人ミュージシャンが、デラニー・ブラムレットとボニー・ブラムレットのおしどり夫婦ミュージシャンだったのである。
 それで、そんなに影響力のあったミュージシャンだったのかどうかを検証するために、家にあるCDラックから2枚のアルバムを引っ張り出して聞いてみた。以下、その感想である。

 最初に聞いたアルバムは、1969年に発表された「オリジナル・デラニー&ボニー」だった。このアルバムの表には"Accept No Subtitle"という文字があって、これがこのアルバムのタイトルだと思っていた人もいたようだ。81ycvq0l1hl__sl1018_
 全10曲だが、全体的にブラスが施されていて、曲によってはストリングスも被せられていた。当時は、こういう楽曲群をスワンプ・ロックといっていたらしい。
 でも沼から立ち上がる瘴気のようなものは感じられずに、逆に渋くてディープなR&Bテイストを持った曲が並んでいる。

 1曲目のタイトルが"Get Ourselves Together"というのが、いかにもこの時代の空気を反映している。曲の雰囲気としてはそんなに重くはなくて、ライトであっさりしている。片意地張らずに気楽に聞けるし、これくらいの距離感を持った方が物事はうまくいくような気がする。

 次の曲"Someday"も夫婦2人のデュエットを聞くことができる。デュエットだけではなく、コール&レスポンスの掛け合いも迫力がある。彼らの歌を聞いて白人とは思えなかったとアレンジャーのジミー・ハスケルが言っていたが、確かにこれはアイク&ティナ・ターナーが歌っていますと言われても疑うことはできないだろう。

 3曲目の"Ghetto"のバックのピアノは絶対レオン・ラッセルに違いないし、次の"When the Battle is Over"のそれは、ドクター・ジョンだろう。曲を作ったクレジットには、“マック・レベンナック”とあったが、これはドクター・ジョンの本名であるマルコム・ジョン・レベンナックのことだからだ。

 5曲目の"Dirty Old Man"ではボニーが独唱している。バックのコーラスにはリタ・クーリッジが加わっているようだ。
 ボニーの声は迫力があって、まるでダイナマイトのようだ。昔の日本の歌手に朱里エイ子という人がいたが、彼女のような声質をもったティナ・ターナーのようだ。アレサ・フランクリンほどはブラックではないけれど、それでもダイナミックであることは間違いないだろう。

 逆に、"Love Me A Little Bit Longer"では、旦那のデラニーがメインで歌っている。デラニーもいい声をしていると思う。
 この曲と次の"I Can't Take it Much Longer"はつながっているようで、前の曲のアンサー・ソングのようだ。

 そして忘れられない名曲が"Do Right Woman"である。アレサ・フランクリンも歌ったこのバラードは、傷ついた心に染みわたっていくビタミン剤のようなもの。ストリングスも美しいし、ボビー・ウィットロックの弾くピアノも素晴らしい。この曲を聞くために、このアルバムを購入しても間違いないだろう。何度でも聞いてみたい曲でもある。

 一方、ピアノが跳ね上がっているのが"Soldiers of the Cross"だ。このアップテンポの曲はトラディショナルらしいが、後半は"This Little Light of Mine"というゴスペル曲とメドレーになっている。

 そして最後を飾るのが"Gift of Love"という3分に満たない小曲で、この曲と"Dirty Old Man"は、デラニーとマック・ディヴィスが作っている。
 マック・ディヴィスという人は、エルヴィス・プレスリーとも共演したミュージシャンで、齢75歳というのに、いまだに現役で活躍している人でもある。

 また、このアルバムのバック・ミュージシャンも今から考えればとんでもない人も含まれていた。また、このアルバムが起点となって、デレク&ザ・ドミノスが結成されて「いとしのレイラ」が生まれ、一部のミュージシャンはジョージ・ハリソンの「オール・シングス・マスト・パス」に参加した。81oe34cxfpl__sl1156_
 まさらには、レオン・ラッセルやリタ・クーリッジなどは、のちにソロとしても成功している。チャート的には、175位と全く振るわなかったが、そんなものを超越した楽曲の素晴らしさと歴史的な意義を含んでいるのだ。

 今回聞き直してみて、あらためてこのアルバムの素晴らしさに感動した。なぜもっと早く気がつかなかったのだろうか。我ながら恥ずかしいし、自分の無能さを思い知った。こういう隠れた名盤をもっと紹介しないといけないと思うのだが、自分自身が気づいていないというのが問題である。

 あのザ・ビートルズのジョージ・ハリソンが彼らの素晴らしさに気づき、アップル・レコードと契約してアルバムを発表しようとしたところ、すでに彼らがエレクトラ・レコードと契約していたことを後になって知ったという有名なエピソードがある。
 そして、アップル・レコードでは、彼らのカタログ番号がいまだに残っているそうだ。未発売に終わった彼らのアップルでのアルバムは、レア盤として高値で取引されているという。

 エリック・クラプトンが彼らのことを知ったのも、ジョージ・ハリソン経由だろう。あるいはデイヴ・メイソン経由だったかもしれない。また一説によると、クリーム時代から彼らの存在を知っていたというが、時期的に少し合わないようだ。
 いずれにせよ、クラプトンはこのアルバムを作ったデラニー&ボニーと一緒に音楽活動をしたいと思ったのだろう。

 だから、ブラインド・フェイスのアメリカ公演では彼らをオープニング・アクトとして起用しているし、ブラインド・フェイスが解散した後は、ソロとして彼らと活動を共にするのである。
 それが記録されたのが、1970年に発表された「オン・ツアー・ウィズ・エリック・クラプトン」だった。71clgkokm5l__sl1123_
 このアルバムには、1969年12月7日のクロイドン公演の様子が収められていて、非常にエネルギッシュでダイナミックな当時のライヴの様子を堪能できるものになっている。

 何しろメンバーがすごい。ギターにエリック・クラプトンとデイヴ・メイソン、ベースやドラムスは、のちにデレク&ザ・ドミノスのメンバーたち、ブラスにはのちにローリング・ストーンズと一緒に活動したボビー・キーズやジム・プライスが加わっていた。

 また、違う公演ではジョージ・ハリソンも一緒にステージに上がって演奏している。このままのノリで「オール・シングス・マスト・パス」のレコーディングに臨んだのであろうか。とにかく豪華なメンバーだ。

 このアルバムの意義は、2つある。1つはデラニー&ボニー2人のスタジオ盤とライヴ盤の違いである。スタジオ盤では確かに迫力はあるものの、どこかゆったりとした雰囲気が漂っていた。レイド・バックというのだろうか。
 しかし、ライヴ盤では終始ファンキーでアゲアゲ、しかもボニーの方は、あのアレサ・フランクリンに優るとも劣らないパワフルでエネルギッシュなボーカルを聞かせてくれているのだ。

 やはりデイヴ・メイソンやエリック・クラプトンなどが惚れこんだだけはある。自分が言うのも変だが、彼らの眼力は間違っていなかった。デラニー&ボニーはそれだけの実力を備えていたのである。このライヴ・アルバムがそれを証明していた。

 もう1つは、このアルバムの持つ歴史的な意義だろう。上にも記したように、この時期の主な歴史的アルバム、例えば「オール・シングス・マスト・パス」や「いとしのレイラ」、「アローン・トゥギャザー」、「スティッキー・フィンガーズ」、「マッド・ドッグス&イングリッシュメン」などには、共通したミュージシャンが関わっているが、その主なメンバーは最終的にはこのデラニー&ボニーのライヴ・アルバムから派生している。71jgjteegil__sl1226_
 そういうミュージシャンの交流関係とか流れなども頭に入れて聞いてみると、このアルバムの影響力の凄さも分かるのではないだろうか。

 このアルバムは42分少々と、今のCDから考えれば短いのだが、それでも彼らの魅力は十分すぎるほど詰まっている。
 1曲目の"Things Get Better"はスティーヴ・クロッパーとエディ・フロイドの曲で、デラニー&ボニーの1969年のアルバム「ホーム」に収められていた。
 もうこの曲から彼らの魅力が爆発しており、聴衆は一挙に興奮のるつぼへと叩き込まれてしまう。

 2曲目の"Poor Elijah"はロバート・ジョンソンに捧げられた曲でメドレー形式になっている。途中でクラプトンのソロが紹介され、彼のギターがフィーチャーされていた。相変わらずこの時期の彼の演奏は惹きつけるものを持っている。

 次の曲はデイヴ・メイソンの曲"Only You Know And I Know"で、彼のアルバム「アローン・トゥギャザー」にも収められていた彼の代表曲。もちろんここでのギター・ソロはデイヴ・メイソンである。

 "I Don't Want to Discuss it"はファンキーなロックン・ロール・ナンバーで、ジェイムス・ブラウンなんかがやりそうな曲だ。途中のギター・ソロはクラプトンだろう。今では聞けないソリッドなギター・ソロをやっている。

 一転して渋いバラードになる"That's What My Man is For"では、ボニーのボーカルがフィーチャーされていて、ブルーズとゴスペルの両方の影響が伺われる曲に仕上げられている。この曲を聞けば、彼女のボ-カルはもっと評価されていいと思う人は多いはずだ。

 6曲目の"Where There's A Will, There's A Way"ではボビー・ウィットロックのボーカルも聞くことができる。この曲がボビーとデラニー&ボニーの3人で書き上げられている。
 また、途中でジム・ゴードンのドラム・ソロやクラプトンのソロも含まれている。アップテンポのロックン・ロールで気持を高ぶらさせて、次の曲"Coming Home"へとつながっていく。

 この曲はクラプトンとデラニー&ボニーが作ったもの。この曲もノリのよいロックン・ロールで、最後のブラス・セクションとの絡みがカッコいい。まさに白熱したステージングである。この時のライヴは映像化されているらしいのだが、現在では絶版となっていて入手困難のようだ。

 このアルバムの最後には、もう1つリトル・リチャードのメドレーが収められていて、約5分45秒にわたって、"Tutti-Frutti"や"Long Tall Sally"など計4曲が披露されていた。メンバー紹介も行われているので、おそらくライヴでのアンコール部分だろう。

 このアルバムには観衆のざわつきや拍手はもちろんのことMCまで含まれているので、ライヴの臨場感を味わうことができる。まさに貴重で歴史的なアルバムだろう。
 これは蛇足になるが、記録として残すという意味では、アメリカでは29位、イギリスでは39位になっていた。

 そしてこの当時の彼らのライヴを収めた豪華4枚組セットも存在する。これにはジョージ・ハリソンの演奏も含まれているという。さっそくアマゾンで購入してしまった。機会があれば、近いうちに紹介してみようと思っている。Delaneyandbonnie3
 デラニーは1939年生まれ。子どもの頃からブルーズやR&Bに傾向し、17歳で海軍を除隊後、音楽活動を始めた。1968年頃にボニーと出会い、出会って1週間で結婚し、デラニー&ボニーとして活動を始めた。

 ボニーの方は、1944年生まれの現在72歳。11月で73歳になる。彼女もゴスペルを聞いて育ち、5歳で教会などで歌っていた。12歳で本格的にプロ・デビューし、リトル・リチャードやアルバート・キング、アイク&ティナ・ターナーのバックで歌っていた。

 彼らはベスト盤を含む8枚のアルバムを残すものの、1972年に離婚して、デュオも解消した。2人とも音楽活動を続けたが、ボニーの方は女優としても活躍している。
 デラニーは2008年の12月に胆のう手術後の合併症のために亡くなった。享年69歳だった。Img_1_2
 彼らの娘のベッカ・ブラムレットは、1994年から95年にかけてフリートウッド・マックに一時在籍していたことは、すでにこのブログの中で紹介している。

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2017年9月26日 (火)

90年代のフリートウッド・マック(2)

 90年代のフリートウッド・マックは、6人編成だった。基本的な構成において、ギタリストが1人から2人に増えたからだ。
 そして、90年代の前半では、そんなに有名ではないが玄人肌のギタリストが配置されて、それなりに売れていた。特に、ライヴにおいてはどこに行ってもソールド・アウトだった。

 この時期のアルバム「ビハインド・ザ・マスク」については前回述べたが、全盛期のマックのアルバムと比べても、そんなに遜色はなかったと思う。少なくとも今年発売された「リンジー・バッキンガム/クリスティン・マクヴィー」よりはロックしている。

 むしろ、ややブルーズ色が表に出ようとしているかのようで、それが従来のソフトでポップなマックの色合いと微妙に交じり合っていて、いい感じだった。
 人によってはカントリー・フレイバーを感じたかもしれないが、そんな傾向は強くなくて、確かに"When The Sun Comes Down"はカントリー・ポップ・ソングだったが、それ以外はあまり強く感じられなかった。

 ただ、ギタリストが2人もいるのに、そのカラーがあまり出ていなかった。もう少し交互にギター・ソロを入れるとか、リックのスライド・ギターをフィーチャーした曲を入れるとかすれば、もっと印象に残り、チャート・アクションももっと伸びていったのではないかと思った。
 
 要するに、せっかくのメンバー・チェンジが活かされていない。従来のマック路線を踏襲しようとするあまりに、自らバリケードを築いてしまったかのようだった。ファンは新生マックの姿を待望していたのではないだろうか。もう少し冒険してもよかったのではないかと思っている。

 それで、前回からの続きである。ギタリストのリック・ヴィトーとスティーヴィー・ニックスが脱退して、新メンバーが2人加入したというところで終わっていたので、今回はその続きである。

 スティーヴィー・ニックスの代わりに加入したのが、ベッカ・ブラムレットだった。名前を見ればわかるかもしれないが、60年代の後半から70年代にかけてエリック・クラプトンとともにアルバムも制作したことがあるアメリカ人ミュージシャン夫妻のデラニー&ボニー・ブラムレットの娘である。

 彼女はロッド・スチュワートなどのミュージシャンのバック・ボーカルとして経験を積んでいて、1992年にはミック・フリートウッドのプロジェクト・バンドのアルバム「シェイキング・ザ・ケイジ」では見事なボーカルを披露していた。

 ベッカは1968年生まれだったので、フリートウッド・マックに加入したときは、25歳だった。それに歌のうまさだけではなくて曲も書けたので、バンドにとっては都合がよかったようだ。

 彼女は若くて美人だったから、ファンの間ではたちまち有名になり、人気になっていった。スティーヴィー・ニックスが脱退したときは45歳だったから、やはり若い方が受けがいいのは昔も今も変わらないし、洋の東西を問わないらしい。

 そして、ギタリストのリック・ヴィトーの代わりに加入したのが、元トラフィックのギタリストだったデイヴ・メイソンである。
 もうすでに名前は世界中に知れ渡っていて、今更バンドに加入しなくてもよさそうなものだが、旧知の知り合いであるミック・フリートウッドの頼みなら仕方ないということで参加したようだ。Fleetwoodmac_1995_1

 ただ、バンドには加入したものの、デイヴ・メイソンの意識としては、あくまでも“助っ人”という感じで、お手伝い、ヘルパーだった。恒久的なメンバーとしてともに活動するという感じでは最初からなかったようだ。

 この時、デイヴは47歳。確かにまだまだ現役選手として活躍できる年齢だった。70年代や80年代ではかなりの枚数のソロ・アルバムを発表していて、それなりにヒットした曲やアルバムもあったが、90年代に入ってからはあまり彼の活動は聞かれなくなっていた。

 そういう意味では、再び脚光を浴びるには良い機会になったに違いない。ミックやジョン・マクヴィーとはほぼ同年代だったから、気心も知れていただろうし、やりやすかったに違いない。

 面白いことに、この6人はアルバムを発表する前に、ライヴ活動を行い、発表後はライヴ活動を行っていない。普通は、ニュー・アルバムをプロモーションするために、アルバムを発表してからツアーに出るのだが、彼らはアルバムを発表する前にライブ活動を行っていた。日本にも1995年の4月に来日して演奏を行っている。

 そして、新生マックのニュー・アルバム「タイム」は、1995年の10月に発表された。上に書いたように、このアルバムのプロモーション・ライヴ活動は行われていない。

 ちなみに、1995年のライヴを東京の新宿厚生年金会館で見た人の話によると、ライヴの曲は昔の"Oh, well"から黄金期の"Don't Stop"、"Go Your Own Way"、それにトラフィックやデイヴ・メイソンのソロまで披露されたという。もちろん自分の曲では、デイヴ自身が歌っていたのは言うまでもない。

 また、ライヴではクリスティン・マクヴィーが不在となるので、女性ボーカルはベッカだけだったが、彼女はそれをものともせずに、彼女なりに堂々と"Gold Dust Woman"を歌い切り、それだけでなく他のマックの歌も自分の持ち歌のように、ステージ上を元気よく走りながら歌っていたという。
 さらには、ジェレミー・スペンサーも同時期に来日していて、23年振りの共演を果たしたというおまけまでついていた。当日の聴衆はさぞかし喜んだに違いない。

 それで6人制マックとして発表したアルバムが1995年の「タイム」だった。そして結論から言えば、このアルバムは見事にコケてしまった。4127atrfc0l
 全13曲のうち、クリスティン・マクヴィーが5曲、デラニー・ブラムレットとベッカの親子曲が1曲、ビリー・バーネットの曲が2曲、デイヴ・メイソンの曲も2曲、ベッカとビリーの共作が1曲、カバー曲とミック・フリートウッドの曲が1曲ずつという構成で、これはフリートウッド・マックのアルバムとして聞くよりも、まったく別のバンドのアルバムとして聞いた方が新鮮に聞こえるのではないかと思う。

 アルバム冒頭の曲は"Talkin' to My Heart"というビリー・バーネットの曲で、テンポのよい軽快な曲だった。途中からベッカのボーカルが絡んでくるところがよい結果を生んでいる。

 2曲目は"Hollywood"という曲で、ボズ・スキャッグスの曲とは同名異曲だ。サビの部分が非常にメロディアスで覚えやすい。なぜこの曲をシングル・カットしなかったのだろうか。

 3曲目は"Blow By Blow"という曲名で、もちろんジェフ・ベックとは関係はない。デイヴ・メイソンの曲で、メイン・ボーカルも本人である。バックの女性コーラスがソウルっぽい雰囲気を生んでいる。

 4曲目は超ポップな"Winds of Change"で、これはキット・ヘインという女性ミュージシャンのカバー曲だった。彼女はジュリアン・マーシャルとデュオを組んでいたのだが、それが分裂してソロになった。歌っているのはもちろんベッカ・ブラムレットだ。

 5曲目の"I Do"はクリスティン・マクヴィーの曲で、これまたシングルに相応しい曲だった。実際にカナダではシングルで発売されて、チャートの62位まで上昇している。これをヒットと呼ぶかどうかは、微妙なところでもある。

 このアルバムが売れなかったのは、シングルヒットがなかったことであり、それはとりもなおさずレコード会社のプッシュが足りなかったからでもある。
 デッカ・ブラムレットは無名でも、デイヴ・メイソンの方は有名だし、“フリートウッド・マック”というブランド名もあるので、アルバムはそれなりに売れるだろうと思っていたのではないだろうか。

 "Nothing Without You"はデラニーとデッカの親子の作品で、70年代のデラニー&ボニーの曲を聞いているような感じがした。

 "Dreamin' the Dream"はビリーとベッカの共作で、涼しげなアコースティックのバラード曲になっている。バックはストリングスとビリーの演奏するアコースティック・ギターだけで、逆にベッカのボーカルの美しさが目立つ佳曲でもある。

 "Sooner or Later"は、クリスティンの曲で、ダークな別れの曲でもある。クリスティンの凄さは明るい曲はポップでノリがよく、暗い曲は本当に悲しくなるほど情感が込められているところだろう。

 "I Wonder Why"はデイヴ・メイソンの曲で、70年代後半のデイヴを象徴するようなポップでリズミカルな曲だ。途中のベッカの絡みが何となくスティヴィー・ニックス風に聞こえてくるところが“フリートウッド・マック”というブランド名の強さでもある。
 それにデイヴ・メイソンのギターはブリティッシュ・ロック出身の割にはカラッと乾いていて、それがアメリカ西海岸の音楽にマッチするのだろう。

 続く"Nights in Estoril"も軽快な曲で、こちらはクリスティンの曲だった。これもシングル・カットされたらヒットするだろうなあという曲でもある。こういう曲があまり日の目を見ずに埋もれているのはもったいないと思うのだが、誰かリバイバル・ヒットさせてくれないかなあ。

 結構ハードな曲がベッカ・ブラムレットが単独で書いた"I Got it in For You"で、バックのスライド・ギターはビリーが、ノーマルなエレクトリック・ギターはデイヴが弾いているのだろう。この辺はなかなか良いギター・アンサンブルだと思う。Photo
 "All Over Again"もクリスティンの曲で、アルバムの最後を飾る場合や、映画のエンド・ロールに相応しいバラード曲だと思う。ただ残念ながら、このアルバムでは12曲目に配置されていて、最後ではない。

 その最後を飾っているのは、何とミック・フリートウッドが歌っている"These Strange Times"である。正確に言うと、歌っているのではなくて、語り(ナレーション)を入れているだけである。
 7分7秒もある大作で、しっかりとしたリズムの上に、ベッカのバック・コーラスとストリングス・キーボード、エレクトリック・ギターが色どりを添えている。曲を作ったのはミック・フリートウッドと、シンガー・ソングライターのレイ・ケネディだった。

 レイ・ケネディは、ザ・ビーチ・ボーイズやザ・ベイビーズのために曲を書いたり、デイヴ・メイソンの「流れるままに」の中の"Seasons"も作ったりしていた。残念なことに、2014年の2月に急死している。享年68歳だった。

 ミック・フリートウッドは、自身のミュージシャン生活の中で、3曲を書いている。1曲は1969年のアルバム「ゼン・プレイ・オン」に、もう1曲は1977年の「噂」の中に、そして3曲目がこの曲"These Strange Times"だった。ただし、「噂」の中の"The Chain"は、当時のメンバー5人全員による共作だった。

 とにかく、このアルバムは、フリートウッド・マックのイメージをまとったロック・アルバムだった。もう少しビリーとデイヴが協力しながら骨っぽい音楽を作れば、また違う結果になったに違いない。

 あるいはベッカ・ブラムレットとビリー・バーネットの共同制作アルバムとして発表すれば、もっと好意的に受け入れられたのではないかと思う。

 結局、このアルバムはイギリスでは47位まで上がったが、本国アメリカではベスト200位以内にも入ることはできなかった。良い曲がかなりあったにもかかわらず、200位以内にも入らないというのが摩訶不思議だった。話題にも上がらなかったのだろうか。

 アルバム発表後、1年もたたないうちにベッカ・ブラムレットとビリー・バーネットはフリートウッド・マックを脱退した。
 彼らがスティーヴィー・ニックスやリック・ヴィトーと違うところは、実際に2人でアルバムを制作してしまった点だろう。1997年に「ベッカ&ビリー」というアルバムを発表したが、取り上げられることは少なかった。

 逆に、同年にはリンジー・バッキンガムとスティーヴィー・ニックスがバンドに復帰して、フリートウッド・マックは再び黄金期のメンバーになり、さらなるスタジオ盤やライヴ活動を続けていくようになった。

 彼らのディスコグラフィーの中では、極めて評価の低いアルバムになったが、個人的にはそんなに悪いアルバムだとは思っていない。

 フリートウッド・マックのアルバムとして聞かなければ、かなり上質のアメリカン・ロック・ミュージックになっていると思う。思い込みや偏見が判断を誤らせてしまう良い実例アルバムなのかもしれない。

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2017年9月25日 (月)

90年代のフリートウッド・マック(1)

 本当はフリートウッド・マックの話題でここまで引っ張るつもりはなかったのだけれど、「バッキンガム&ニックス」の紙ジャケ・アルバム発表から始まって、リンジー・バッキンガムとクリスティン・マクヴィーのスタジオ・アルバムに影響されて、80年代のマックのアルバムを紹介してしまった。

 それで今回は一区切りつけようと思って、90年代の彼らのアルバムを紹介しようと思う。この時代のマックは、あまり知られていないと思ったからだ。

 物語は、1987年の「タンゴ・イン・ザ・ナイト」発表後から始まった。このアルバムは個人的には大好きで、前作の「ミラージュ」よりもよく聞いたものだ。
 だいたいジャケットからして魅惑的だったし、曲も"Big Love"、"Seven Wonders"、"Little Lies"、"Mystified"などなど、70年代の「噂」などと比べても決してそん色はないと思っていた。513ynii4ctl
 もちろん商業的には成功したものの、チャート的には前作の結果に至ることができずに、ビルボードでは7位に留まっている。
 この結果にやや失望したのが、リンジー・バッキンガムだった。基本的にこの頃のマックでは、リンジーがイニシアティブを握っていてアルバム制作を行っていたのだが、このアルバムに関しては、彼はかなりの精力を注いで念入りに取り組んでいた。

 ところが、アルバムは売れたものの、チャート的には3週間7位に留まり、それ以上は上昇することはなかった。
 結局、リンジーはこれが限界と思ったのか、マックでの仕事に見切りをつけて、本格的にソロ・キャリアを追及するようになってしまったのである。

 のちに彼は、このアルバムの商業的な結果には満足したが、もっと売れると思っていたと語っていることから、おそらく「ファンタスティック・マック」や「噂」と並び称されるアルバムになると思ったに違いない。

 また、ミック・フリートウッドの自伝によると、スティーヴィー・ニックスとの激しい口論などで、この頃のリンジーはかなり疲弊していたようだ。それでバンド活動に息苦しさを覚えていたリンジーは、飛び出すように出ていったという。

 それで、リンジー・バッキンガムの代わりにバンドに加入したのが、ビリー・バーネットとリック・ヴィトーの2人だった。リンジーひとりの代わりにふたりのギタリストが加入したという事実が、如何にリンジーの才能が豊かで、バンドにとって必要不可欠なミュージシャンだったかがわかる。

 しかし、ビリーもリックもそれなりに経験も能力もあるギタリストだった。ビリー・バーネットは、加入した時点ですでに8枚のアルバムを発表しているテネシー州メンフィス出身のギタリストだった。

 父親や叔父もミュージシャンだったし、彼自身もグレッグ・オールマンやロイ・オービソンなどに曲を提供していた。また、クリスティン・マクヴィーの1984年のアルバム「恋のハート・ビート」ではクリスティンとも曲作りを行っていた。
 それに、ミック・フリートウッドのアルバム「アイム・ナット・ミー」にも参加しているし、そういう意味では、フリートウッド・マックの参加はすんなりと決まったのだろう。

 リック・ヴィトーの方もジョン・マクヴィーと親交があり、1976年のジョン・メイオール&ブルーズブレイカーズのアルバム「バンケット・イン・ブルーズ」で共演している。
 また、ボブ・シーガーの「ライク・ア・ロック」やジャクソン・ブラウンのアルバム「愛の使者」、ボニー・レイットの「グリーン・ライト」などにも参加していて、ミュージシャンの間では名の通ったギタリストだったようだ。

 彼らがバンドに加入したいきさつは、ビリーがリックも一緒じゃないと嫌だと言ったからで、最初に声がかかったのはビリーの方だった。
 リックはスライド・ギターの名手として知られていて、ツイン・リードとスライドをバンドに活かそうと思ったのかもしれない。また、リックの方が3歳年上という事情も配慮したのだろうか。

 あるいは、60年代のようなブルーズを基調とした音楽性も追求しようと思ってバンドに加入したのかもしれない。確かにリンジーが去って、そういう可能性もないわけではなかったからだ。

 彼らが参加したアルバム「ビハインド・ザ・マスク」は、1990年に発表された。正確に言えば80年代最後のアルバムなのだが、ことの成り行き上、90年代に繰り上げてカウントしようと思う。81lsuzupqql__sl1425_
 このアルバムの評価は分かれていて、微妙である。チャート的にはアメリカでは18位という結果に終わったが、イギリスでは1位になっている。
 シングル・カットされた"Save Me"は軽快でノリのよい曲だったが、アメリカでは33位、イギリスでは53位だった。唯一、カナダでは7位と好成績だった。

 次にカットされた曲は"Skies the Limit"で、アルバムの冒頭に配置された曲ということで、これまたクリスティン・マクヴィーの手によるものである。80年代のマックの流れを汲んだようなミドル・テンポのメロディアスな曲だったが、結果的には、ビルボードのシングル・チャートで40位に終わっている。

 ヨーロッパでは、"In the Back of My Mind"がシングルとして発表された。ビリー・バーネットの曲で、7分もある大曲だった。ある意味、新境地を開くような曲でもあり、ミックの呟くような語りからビリーのギターとクリスティン・マクヴィーとスティーヴィー・ニックスのバッキング・ボーカルがフィーチャーされている。

 個人的には90年代の"I'm So Afraid"になるかもしれないと思っていたが、そうはならなかった。もう少しギターが目立っていたら売れたと思うのだが、時代はそういうギター・ソロを求めなくなっていったし、ましてやソフトでポップなロックに転換したフリートウッド・マックには必要なかっただろう。

 また、リック・ヴィトーとスティーヴィー・ニックスの共作曲である"Love is Dangerous"もシングル・カットされたが、見事にコケてしまった。リックのスライド・ギターとビリーのリード・ギターが絡み合って、これまた個人的には好きだったのだが、ビルボードのシングル・チャートの100位内に入ることはなかった。

 リックとスティヴィーはもう1曲"Second Time"という曲でも共作していて、アルバムの最後を締めくくるにふさわしいしっとりとしたバラード曲になっていた。
 一方で、スティヴィーはトム・ペティのバンド、ハートブレイカーズのマイク・キャンベルとも"Freedom"という曲を作っていて、こちらはリズミカルでテンポのよい仕上がりだった。この頃のスティヴィーはマイクと付き合っていたのだろう。

 ともかく、ビリーとリックはこのアルバムにかなり貢献していて、全13曲のうち8曲にソングライターとして関わっている。
 この2人だけで作った曲が"When The Sun Goes Down"で、軽快なカントリー・タッチの雰囲気に満ちている。

 またリックひとりで書いた曲"Stand on the Rock"もあり、リック・ヴィトーのボーカルがフィーチャーされている。スティーヴィー・ニックスが歌った方がパンチが効いて、ヒットしたかもしれない曲だ。要するにハードな感じなのだが、ボーカルの線が細いので、強く印象には残らなかった。

 ちなみに、アルバム・タイトル曲の"Behind the Mask"には、なぜかリンジー・バッキンガムがアコースティック・ギターで参加している。この辺の事情はよく分からない。喧嘩別れとまでいかなくても、そんなに好ましい事情で脱退したわけでもない。それでも参加するというのが、フリートウッド・マックのミュージシャンシップなのだろう。

 アルバムはそんなに売れなかったけれど、ツアーは連日超満員でソールド・アウト、イギリスでもアメリカでも彼らの人気は凄まじかった。150907_4535328899992_15859720_n
 ただ、クリスティン・マクヴィーは彼女自身の飛行機恐怖症とツアー中に父親が亡くなったせいで、バンドを脱退すると宣言した。(のちにこれを撤回し、レコーディングには参加するものの、ツアーには不参加と変更している)

 ところが、ここでまた問題が起きた。なぜかギタリストのリック・ヴィトーとスティーヴィー・ニックスがバンドを脱退したのである。
 スティヴィーはクリスティン・マクヴィーと同じように、レコーディングには参加するもののツアー不参加を申し出ていたのだが、1991年にリックと去ってしまったのだ。この頃はリックと付き合っていたのだろうか。

 でも、リックとスティーヴィー・ニックスがふたりでアルバムを作ったという事実はなくて、スティヴィーはソロ・キャリアを追及し、リックはブルーズ・ロックという原点に戻っている。
 のちに彼は、ミック・フリートウッドのサイド・プロジェクトのバンドに参加して、クラシックなブルーズを披露していた。

 1993年になると、今度はビリー・バーネットの方がカントリー・アルバムを作るなどのソロ・キャリアを追及するためにバンドを脱退すると発表したが、カントリー・シンガーのベッカ・ブラムレットと元トラフィックのギタリストだったデイヴ・メイソンが加入するとわかると、翌年にはバンドに復帰した。
 この辺の変わり身の早さは、フリートウッド・マックのメンバーになるための重要な資質の1つかもしれない。

(To be Continued to Tomorrow)

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2017年9月18日 (月)

フリートウッド・マックの「ミラージュ」

 今回もフリートウッド・マック関連の話題である。前回のリンジー・バッキンガムとクリスティン・マクヴィーのアルバムが、80年代初めのフリートウッド・マックのアルバムの感触に近いということを書いた。でも、そのアルバムのことを知らない人もいると思うので、少しだけ説明してみたいと思う。

 1982年に発表されたこのアルバム「ミラージュ」は、5週間にわたってビルボードのアルバム・チャートのNo.1に輝いている。また、18週間にわたってアルバム・チャートのトップ・テン内にとどまり、ダブル・プラチナ・アルバムに認定された。

 フリートウッド・マックのアルバムでチャートの首位に輝いたスタジオ・アルバムは3枚しかなく、今のところ、というか恐らくは、この「ミラージュ」が最後のアルバムになるだろうと思っている。(残り2枚は、1975年の「ファンタスティック・マック」と1977年の「噂」)

 以前にも同じことを書いたが、このバンドには3人のソングライターがいる。この3人がそれぞれの持ち味を発揮した曲作りを行うところに、このバンドの特徴がよく表れているし、ファンはそれを待ち望んでいる。1982_fm_705
 だから、それぞれが作った曲がシングル・ヒットすれば、当然のごとくアルバムは売れるし、チャートを駆け上っていく。No.1アルバムになった3枚には、これを証明するかのように、ヒット・シングルが満載だった。

 この「ミラージュ」でも同様である。アルバムには12曲が収められていたが、そのうち5曲がシングル・ヒットしている。当時は(そして今も?)シングルにはサイドBがあったから、結局、このアルバムから5曲+αがシングルとして世に出たということになる。

 最初のシングルは、アルバムに先駆けて発表された"Hold Me"で、クリスティン・マクヴィーの曲だった。Holdmefleetwoodmac
 アメリカにおけるフリートウッド・マック最大のヒットとなったこの曲は、7週間にわたって最高位の4位を続け、その年の年末最後の週においてもチャートの31位に留まっていた。

 ジョン・マクヴィーと離婚したクリスティン・マクヴィーは、その後、ザ・ビーチ・ボーイズのデニス・ウィルソンと3年ほど付き合っていたが、デニスの酒癖の悪さ、というよりもアルコール中毒や薬物中毒に手を焼いていて、結局、このアルバムが発表されるときには別れてしまっていた。

 クリスティーンがデニスと付き合っていた頃のことをテーマにした曲だった。そんなに名曲とは思えないのだが、メロディーよりも歌詞の内容がヒットの要因だったのかもしれない。

 でもクリスティン・マクヴィーという人は、つくづく男運がない人だと思う。余計なお世話だと言われるだろうが、ジョン・マクヴィーと別れた原因も彼の酒癖の悪さだった。点滴の薬剤の入った瓶の代わりに酒瓶をさしているジャケット写真があったけれども、それほど酒の好きな男性たちと巡り合う何かを、彼女は持っているようだ。

 ちなみに、デニスの方は、このアルバムの翌年の12月にヨットから海に飛び込んで亡くなっている。39歳の若さだった。アルコールか何かで酩酊状態だったと言われている。

 2枚目のシングルは"Gypsy"で、スティーヴィー・ニックスが手掛けたものである。この曲の原点は、「ニックス/バッキンガム」時代にまでさかのぼる。
 当時貧しかった2人は、ベッドを買うお金がなくて、キングサイズのマットレスを床の上に直接置いて寝ていたという。
 そして、そのマットレスにレースを飾り付けたり、古いランプを置いて“ジプシー”のように暮らしていたそうである。Gypsy_single
 そういうノスタルジーとともに、この曲にはスティーヴィー・ニックスの親友だったロビン・アンダーソンへの追悼という気持ちもあるようだ。
 ロビンは、高校時代にスティーヴィー・ニックスと出会い、それ以降も親交を続けていた。演劇に関心があり、彼女のステージングにアドバイスをしたり、セラピストとしても彼女の力になっていたようだ。

 そのロビンが1982年に白血病で亡くなった。その時ロビンは、子どもを産んだばかりだった。ロビンの夫のキムとスティーヴィー・ニックスは、共通の愛すべき人を失くしたことで、それによる深い悲しみに包まれていた。
 彼らはお互いの悲しみを癒すために結婚をするのだが、3ヶ月後には別れてしまった。一時の気の迷いだったのかもしれない。

 しかし、1979年くらいから出来上がっていたこの曲を一部書き直し、新たな意味を込めて発表している。そういう意味では、彼らの結婚も意味があったのかもしれない。
 ビルボードのシングル・チャートでは3週間12位になっていて、このアルバムからの2番目に売れた曲になっている。

 ところで、この曲のプロモーション・ビデオが制作されるとき、スティーヴィーはコカイン中毒のためにリハビリ中だった。本当なら彼女の治療が終わってから撮影されるはずだったのだが、制作側のスケジュールが詰まっていたために、延期ができなかった。

 だから、彼女は十分に回復しないまま撮影に臨んでいる。のちのインタビューで、一緒に踊っていたリンジー・バッキンガムはダンスが下手だったので、私が不機嫌に映っていると言っていたが、それは彼女の方にも原因があったのである。

 アメリカでの3枚目のシングルは"Love in Store"で、アルバム「ミラージュ」では、冒頭を飾っていた曲だった。
 この曲はクリスティン・マクヴィーが書いたもので、リード・ボーカルは彼女自身。バッキング・ハーモニーはスティーヴィー・ニックスとリンジー・バッキンガムが付けている。王道のポップ・ロック路線であり、キャッチーなメロディー・ラインと軽快なリズムは、いかにもシングル・カットに相応しいものだった。Loveinstorebelgium_3
 ただ、アメリカでは22位と健闘はしたものの、そんなには売れなかったようだ。また、イギリスではシングル・カットされていない。

 イギリスで3枚目のシングルになったのは、なぜかリンジー・バッキンガムが作った"Oh Diane"だった。
 不思議なことに、イギリスでは"Hold Me"も"Gypsy"もヒットしなかった。それで3枚目のシングルは"Oh Diane"にしたのだろう。この曲なら売れると思ったのだろうか。

 そして、その目論見は当たったのである。1982年の12月に69位でチャートに登場したこの曲は、10週間かけて徐々に上がっていき、翌年の2月には9位に輝いている。
 このイギリスでのヒットをきっかけに、アメリカでもヒットを狙おうとして4枚目のシングルになったのだが、残念ながらアメリカではチャートにも登場しなかった。スティーヴィー・ニックスが参加していなかったからだろうか。Ohdiane
 個人的にもそんなにヒットするような要素は見えないし、どちらかというと50年代から60年代にかけてのポップ・ソングのような雰囲気を湛えている感じだ。イギリスでは、こういうシンプルな感じの曲の方が好まれるのだろう。

 アメリカでは、このアルバムからのシングル・カットはこれで終わったのだが、イギリスではもう1枚カットされている。それが"Can't Go Back"だった。アルバムでは2番目に配置されている曲だった。

 この曲にもスティーヴィー・ニックスは参加していなかったが、理由はよくわからない。この曲も"Oh Diane"と同じように、リンジー・バッキンガムが作ったからだろう。この当時の2人の仲は、最悪だったようだ。ただ、シングルのジャケット写真には5人で写っていた。Cant_go_back__fleetwood_mac_1983_uk
 この曲も軽快なポップ・ロックで売れる要素は備えていると思う。ただ、歌詞の内容が“もう昔の頃には戻れない”とか“彼女は夢ばかり追っていた”という何やら意味深な内容だったから、スティーヴィーは参加しなかったのかもしれない。

 ちなみに、この曲は前曲とは違って、83位という悲惨なチャート結果になってしまった。どうもイギリス人の好みはよくわからない。この曲の方がポップだと思うのだが、それだけの要素では決めないのがイギリス人の感性なのだろう。

 相変わらず、複雑な人間関係を反映した曲が多いバンドである。こういう傾向は77年のアルバム「噂」から変わっていなかった。それでも解散しないところが、このバンドの不思議な点だろう。彼らの曲に"Seven Wonders"というのがあったけど、きっとそのうちの1つは自分たち自身の人間関係のことを指しているのではないかと勘繰ってしまう。

 この頃のバンド内では、ソロでの活動が目立っていた。特に、スティーヴィーの活躍は目覚ましくて、前年に発表したソロ・デビュー・アルバムの「麗しのベラ・ドンナ」は、少なく見てもアメリカだけで600万枚以上売れた。当然、アルバム・チャートの1位を飾っている。

 もともと個人活動の意欲が高かったスティーヴィーである。これで自信を持ったのか次々とソロ・アルバムを発表し、個人でツアーも開始した。バンドとは別に活動を始めたのである。さすが才能のある人は違う。ただ、他のメンバーにとっては、バンド活動よりも優先している点が気に入らなかったのではないだろうか、特にリンジー・バッキンガムにとっては。

 その行動は今に至っているようで、前回の「リンジー・バッキンガム/クリスティン・マクヴィー」のアルバムが、なぜフリートウッド・マック名義のアルバムにならなかったのかということに繋がっていた。

 今回は1982年のアルバム「ミラージュ」を取り上げたが、今後の彼らの活動が“蜃気楼”にならないことを願うばかりである。

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2017年9月11日 (月)

リンジー・バッキンガム/クリスティン・マクヴィー

 さて、前回はフリートウッド・マックの黄金期を支えた2人のデビュー・アルバムについて記した。それで今回は、同じバンドの違うメンバーが組んで発表したニュー・アルバムについて綴ろうと思う。

 ゴシップ好きな人なら、フリートウッド・マックのゴチャゴチャした人間関係については、よくご存じだと思う。音楽面や商業的成功については、70年代後半から80年代前半にかけてピークを迎えていたが、そのバンド内の人間関係については崩壊していた。

 キーボーディストのクリスティン・マクヴィーとベーシストのジョン・マクヴィーは1976年に離婚したし、ドラマーのミック・フリートウッドもアルバム「噂」制作前には離婚していた。お相手の元妻は、ジョージ・ハリソンの元妻であるパティ・ボイドの妹のジェニーだった。

 そして、恋人同士だったリンジー・バッキンガムとスティーヴィー・ニックスも成功の階段を上るにつれて、徐々にすきま風が吹き始め、お互いに束縛のない生活を求めて、恋人関係を解消した。一時的ではあるが、のちにスティーヴィー・ニックスはミック・フリートウッドと親密な関係になっている。Fleetwoodmac1977650430_2
 とにかくこのバンドは、人間関係はグチャグチャなのだが、プロフェッショナルなミュージシャンとしてのプライドや意識は高くて、音楽面についてはお互いの才能や努力を認めながら、よりよいものを追及しく姿勢は忘れなかった。

 だから1975年のアルバム「フリートウッド・マック」から1987年の「タンゴ・イン・ザ・ナイト」までの間、5枚のスタジオ・アルバムはすべてビルボードのベスト10以内にチャート・インし、ライヴ活動も盛大に行われていたのである。

 この辺の割り切り方は、さすがプラグマティズム発祥の国アメリカという感じがするが、クリスティン・マクヴィーやジョン・マクヴィー、ミック・フリートウッドの3人はイギリス人だから、関係ない気がするが、アメリカナイズされたのだろうか。

 それで本題に戻って、今年の6月にリンジー・バッキンガムとクリスティン・マクヴィーの連名によるアルバムが発表された。クリスティン・マクヴィーは74歳で、リンジーの方は今年67歳だから、決して若いとは言えないが、まだまだ現役のミュージシャンとしてその存在を示してくれていた。

 もともとクリスティンは、1998年以降、地元のイギリスで隠遁生活を送っていた。表向きの理由は“飛行機恐怖症”ということで、ツアーで飛行機に乗ることを厭うようになっていた。
 若い頃はそんなことはなかったのだが、やはり年齢からくる疲労、ツアーやレコーディングによるストレスなどが高じて表舞台から姿を消したいと思ったのだろう。

 そんな彼女も、2013年にフリートウッド・マックのロンドン公演に客演した。場所がロンドンということもあり、彼女にとっては参加しやすかったのだろう。そして、その時の観衆の反応も熱狂的に彼女を受け入れるようなものだった。それが彼女の心の中のミュージシャンシップに火をつけたと思われる。

 翌年には、彼女のバンド復帰が正式にアナウンスされ、バンドは再び70年代後半の黄金期のメンバーで活動を始めた。
 そしてリンジー・バッキンガムとクリスティン・マクヴィーは、バンド用のニュー・アルバムのために曲作りを始めたのである。

 リンジーとクリスティンは、メールでやり取りをしながら、ロサンゼルスでレコーディングを開始したが、すぐにミック・フリートウッドとジョン・マクヴィーも参加して、8曲ほど新l曲を録音した。
 2014年の9月から2015年の11月まで、フリートウッド・マックは、ワールド・ツアーを行った。北米からヨーロッパ、ニュージーランドまで、全120公演が開催されたが、これは当然5人の黄金期のメンバーで行われている。Fleetwoodmac2

 ツアー終了後、スティーヴィー・ニックスを除いた4人は、2015年の12月から再びロサンゼルスでレコーディングを開始した。そして、出来上がったのがこの「リンジー・バッキンガム/クリスティン・マクヴィー」だった。

 なぜフリートウッド・マックの名義ではないのかというと、スティーヴィー・ニックスが不在だったからである。彼女は、バンドのワールド・ツアー終了後に、今度は自分のソロ・ツアーに出かけたからで参加することができなかったからだ。

 だから、本当は実質的なフリートウッド・マックのアルバムだといってもいいのだが、ひとり不参加だったために、バンド名を使わなかった(使えなかった)ということらしい。
 またリンジーは、曲のほとんどを基本的にはクリスティンと2人で作ってきたので、まるでデュエット・アルバムのようだとインタビューなどで応えていた。

 だから“フリートウッド・マック”という名前は使用しなかったのだろうし、2014年からコツコツと2人で曲作りを行ってきた努力や、お互いの貢献度を明確にしたかったに違いない。
 もともとはアルバム・タイトルを1973年の「バッキンガム&ニックス」にちなんで「バッキンガム&マクヴィー」にする予定だったらしいのだが、それは取りやめになった。スティーヴィー・ニックスが嫌がると予想したのだろうか。

 それで肝心な音の方だが、やはりひとりでも欠けていると、あの魔法の再現は困難だったようだ。結論から言えば、よくできたアルバムだが、黄金期のフリートウッド・マックのアルバムにはかなわない。良盤だが名盤ではないのである。

 全10曲だが、ミディアム調の曲が多くて、どの曲も同じように聞こえてしまうのが最大の欠点である。
 もう少し、リンジーの好きなカントリー調の曲とかアコースティック色の濃い曲などを混ぜていれば、曲ごとの色どりが変わって、バラエティ豊かで個性的な特長が発揮できたと思っている。

 あるいは、ハードな彼のギター演奏も聞きたかった。彼はピックを使わずに、フィンガー・ピッキングでギターを弾く。ジェフ・ベックと同じである。
 その演奏が超カッコいいのだ。1975年のアルバム「フリートウッド・マック」の中に収められていた"I'm So Afraid"のライヴ映像なんかは鳥肌ものである。

 そういう情熱的でアグレッシヴな演奏がほとんど聞こえてこない。強いて言えば、5曲目の"Love is Here to Stay"では、おとなしいアコースティック・ギターを聞くことができるし、最終曲の"Carnival Begin"では、ちょっと盛り上がったギター・ソロが期待できる。でも、それ以上がないのが悲しいのである。51go6eiciql

 もう少し好意的に解釈すると、6曲目"Too Far Gone"も最初はハードな展開が予想されたのだが、リフはハードでも間奏がないので印象に残らない。
 全体的には基本的に歌ものアルバムなので、普通の音楽ファンにも受け入れやすい仕上がりになっている。

 たとえて言うならば、1982年のアルバム「ミラージュ」や1987年の「タンゴ・イン・ザ・ナイト」のような感じのソフトでマイルドな感じが伝わってくるアルバム使用になっていると思う。また、80年代のAOR路線の影響を残しているようだった。

 ただ、8曲目の"Game for Pretend"などは、「噂」の"Songbird"のように、しっとりしたバラードになっていて、これはアルバムの中では佳曲の部類に入るだろう。
 また、9曲目の"On With the Show"というのは、2014年以来のフリートウッド・マックのワールド・ツアーのタイトルにもなっていて、バンドとしてもう一度ファンとともにショウを盛り上げていこうという決意表明になっている曲だ。

 10曲の半分はリンジーひとりで作った曲で、クリスティンは2曲を自作している。残りの3曲はリンジーとクリスティンの共作だった。
 また曲のクレジットとは別に、1曲目がリンジー、2曲目がクリスティンと交互にリード・ボーカルを取っている。

 やはり彼らは、このアルバムがリンジー・バッキンガムとクリスティン・マクヴィーの両者のアルバムと認識していたのだろう。自分たちでも、このアルバムにはバンドとしてのケミストリーが足りないと思っていたのかもしれない。

 そしてその原因はというと、何度も言うように1人足りないということだろう。フリートウッド・マックのいいところは、3人のソング・ライターがいて、それぞれがボーカルをとれるということだ。
 この3人の特色がお互いに交差することで、さらにバンドとしての輝きを放っていくのである。

 それが1人足りないことで、残念ながらバンドとしてのマジカルな要素が発揮できなかった。
 それにバンドのメンバーも高齢化していて、クリスティンは74歳、スティーヴィー・ニックスは69歳だ。リズム隊の2人も70歳を超えている。果たしてどれだけ全盛期の姿まで近づくことができるのか不安でもある。

 このアルバムは、アメリカのチャートでは17位、イギリスでは5位まで上昇している。1人欠いてもこれだけの結果が出せたのだから、5人そろえばもっと素晴らしい結果につながるに違いない。次回は、“フリートウッド・マック”という名義のニュー・アルバムを期待するしかない。平均年齢が高くなっても、まだまだ需要も高いバンドなのである。

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2017年9月 4日 (月)

バッキンガム&ニックス

 前回に続いて、今年の夏によく聞いたアルバムを紹介しようと思った。まだまだ残暑が続くからである。それにしても、今年の夏は暑い日が多かったなあと感じている。

 それで紹介するアルバムは、「バッキンガム&ニックス」である。実はこのアルバムは以前からぜひ手に入れたいと思っていた。

 このアルバムは1973年に発表されたのだが、自分が最初に知ったのは1978年頃だった。それ以降も当時のレコード店の棚に並んでいた覚えがある。
 それで、なぜ気になったのかというと、1977年のフリートウッド・マックのアルバム「噂」がいたく気に入っていて、何度も何度も聞いていたからだ。

 それに彼らは、その全盛期のメンバーで1977年に来日公演を行っている。それは当時の洋楽雑誌である「ミュージック・ライフ」にも大きく取り上げられていて、ライヴ・レポートやメンバー写真などを見た記憶がある。1401x788107110185
 それから発表順を遡るかのように、1975年のアルバム「ファンタスティック・マック」も購入して、ヘヴィ・ローテーションで聞いていた。当時はフリートウッド・マックもフェイヴァレットなバンドの一つだったのだ。

 そして、フリートウッド・マックがそれほどまでに世界的なビッグ・バンドに変化したのも、1974年にバンドのメンバーになったリンジー・バッキンガムとスティーヴィー・ニックスのおかげなのであり、これは誰もが認める事実だろう。
 だから、バンドに加入する前の2人のアルバム「バッキンガム&ニックス」をぜひ聞いてみたいと思っていた。

 フリートウッド・マックについては、何回かこのブログでも言及しているので詳細は省くけれど、元々はイギリス出身のブルーズ・バンドで、1960年代後半は3大ブリティッシュ・ブルーズ・バンドとして、それなりに人気が高かった。
 70年代になって、メンバーの交代などで徐々にポップな路線を歩み始め、活動の舞台もイギリスからアメリカへと変わっていった。

 そして、新しいメンバーとして、リンジー・バッキンガムとスティーヴィー・ニックスが加入したのだが、そのきっかけとなったアルバムがこの「バッキンガム&ニックス」だったというわけである。

 ところがである。いつか買って聞いてみようと思っていたのだが、ジェスロ・タルやデヴィッド・ボウイ、次々と登場するパンク/ニュー・ウェイヴのアルバムに目移りしてしまい、いつのまにか「バッキンガム&ニックス」のアルバムは、店頭から消えてしまっていた。
 だから、このアルバムは、まさに約40年間、熱望していたアルバムであり、いつかは手に入れたいと思っていて、やっとその願いが叶ったのである。

 リンジー・バッキンガムは、カリフォルニアでフリッツというバンドで活動していた。いわゆる彼はマルチ・ミュージシャンなのだが、このバンドではベース・ギターを担当していた。
 1967年に、このフリッツにいた女性シンガーが大学進学のために脱退したので、代わりにアリゾナ州生まれのスティーヴィー・ニックスが加入した。

 当時はいわゆる“サマー・オブ・ラヴ”の影響で、サイケデリックな音楽やハードなサウンドが好まれていた。フリッツもそういう種類の音楽をやっていて、ジェファーソン・エアプレインやジャニス・ジョプリンのオープニング・アクト(前座)を務めることもあったという。

 キュートなスティーヴィーを中心に活動を行っていたフリッツは、かなり人気の高いローカル・バンドだったのだが、ヒット曲に恵まれず、残念ながらレコード会社との契約を結ぶことはできなかった。バンドは1971年に解散している。

 実は、リンジー・バッキンガムとスティーヴィー・ニックスは同じ高校の後輩と先輩という関係だった。彼らは高校生の頃から放課後に、ザ・ビーチ・ボーイズやザ・ママス&ザ・パパスの歌を歌っていたようだ。
 やがて彼らは恋人関係になって、2人で活動するようになった。そして2人は大学を中退して、サンフランシスコからロサンゼルスに居を移し、デモ・テープの制作に励んでいった。

 生活費を稼ぐために、スティーヴィー・ニックスはウェイトレスや清掃人として働き、リンジー・バッキンガムは父親のコーヒー園で働いていた。自分たちのことは自分たちで行うという自主独立の気風は、アメリカ人の精神的支柱なのだろう。

 スティーヴィーの父親は精肉会社の社長だったし、リンジーの父親の方はコーヒー園を経営していた。あまり関係ないけれども、リンジーの兄のグレッグは水泳の強化選手だった人で、1968年のオリンピック・メキシコ大会では銀メダルを獲得している。リンジー自身も一時は水泳選手を目指していたのだが、音楽がやりたくて途中であきらめていた。

 つまり2人とも裕福な家庭の出身だったのだが、2人とも親を頼ることもなく自分たちで決めた道を進んでいった。この辺はサクセス・ストーリーというか、アメリカン・ドリームの体現というものだろう。(ただし、リンジーのコーヒー農園にはレコーディング・スタジオが備え付けられていて、リンジーは昼は農園で働き、夜はデモ・テープを制作していた)

 ただ、スティーヴィーの方はもう疲れてしまい、貧乏でいることが嫌になり、もう一度大学に戻ろうかとも考えていたようだ。やはりお嬢様育ちには辛かったのだろう。

 そんなときに、幸運な出来事が起きた。スティーヴィーが清掃人として働いていた中にプロデューサー兼エンジニアのキース・オルセンの屋敷があった。そこで音楽プロデューサーと知り合いになったスティーヴィーは、自分たちの音楽のことを話したのである。

 キース・オルセンという人は、元々はミュージシャンでベース・ギターも演奏していた。やがては西海岸で、プロデューサー兼エンジニアとして活躍するようになった。
 フリートウッド・マックの「ファンタスティック・マック」や「噂」のみならず、ハートやサンタナ、ホワイトスネイクにスコーピオンズ等々のアルバムを手掛けている敏腕プロデューサー兼エンジニアである。

 彼らの音楽を聞いたキースは、さっそく彼らのアルバム「バッキンガム&ニックス」をプロデュースするとともに、伝手を通してポリドール・レコードと契約を結ぶように図った。だから今こうして彼らのアルバムを聞くことができるのも、キースのおかげなのである。

 また、リンジーとスティーヴィーは、スタジオ・ミュージシャンのワディ・ワクテルとも知り合いになり、一緒に行動するようになった。もちろん、このアルバムにもワディ・ワクテルは参加している。ワディは60年代の終わりからキースとは知り合いで、一緒に仕事をしたり遊んだりしていた。

 さらに、ワディの兄である写真家のジミー・ワクテルが、アルバム・カバーの写真を撮影し、アルバム・デザインも手掛けている。ひとつの出会いがまるでドミノ倒しのように、次々と新しい出会いを呼び、新たな扉を開いていく。人生は、何がどう転ぶかわからないものである。51zbtmdanjl

 残念ながら、商業的にはこのアルバムは失敗した。要するに、ヒット・シングルが生まれなかったからだろうが、親会社のポリドールもそんなに真剣になって彼らをプッシュしなかったことも理由にあげられるだろう。

 アルバムからは2曲がシングル・カットされた。最初は"Don't Let Me Down Again"というリンジーが作った曲で、このアルバムの中ではノリのよい曲で、そんなに悪くないと思うのだが、何故かヒットしなかった。

 2枚目のシングルはアルバムのオープニング・ナンバーの"Crying in the Night"で、ミディアム調のゆったりとした曲だった。スティーヴィーのソロ・アルバムに入っていてもおかしくない曲だが、確かにインパクトには欠けるかもしれない。

 結局、アルバムもシングルも売れずに、リンジーはエヴァリー・ブラザーズの元メンバーのバック・バンドの一員としてツアーに出かけ、スティーヴィーは元のウェイトレスに戻って働くという生活が続いた。

 転機は1974年の1月にやってきた。フリートウッド・マックのリーダーのミック・フリートウッドが彼らの曲"Frozen Love"を耳にして、彼らのことに興味を持ったのである。もちろん曲を聞かせたのはキース・オルセンだった。

 この曲はアルバム最後の曲で、このアルバムの中でリンジーとスティーヴィーの2人で書いた唯一の曲だった。ブルージーでダークな曲調で、やや複雑な構成を持っている。そんなにメロディアスな曲ではないのだが、ミック・フリートウッドには何か感じるものがあったのだろう。時間的にも7分16秒もあった。

 基本的には、このアルバムではアコースティック・ギターがメインに使用されていて、エレクトリック・ギターの使用率は低い。この"Frozen Love"でも同じことで、全体的にはアコースティック・ギターが目立っていて、イントロとエンディングのソロでエレクトリックが光っている。このリンジーのギター・テクニックにミックは魅力を感じたのだろう。

 このアルバムのオリジナルは10曲、トータルで36分42秒しかないのだが、今回の紙ジャケット・アルバムでは、シングル・ヴァージョンや未発表曲などを含めて21曲も収められていた。つまりボーナス・トラックが11曲も含まれているのだ。

 その中には、のちに2001年のスティーヴィーのソロ・アルバム「トラブル・イン・シャングリラ」に収められた"Sorcerer"や"Candlebright"、1982年のフリートウッド・マックのアルバム「ミラージュ」にアレンジし直されて収録された"That's Alright"などがあって、それらの原曲は74年頃に出来上がっていたというところが面白かった。

 更には、1974年当時にアラバマ州でのライヴ曲が3曲もあって、その中に「ファンタスティック・マック」に収められていた"Rhiannon"も歌われていた。一部の歌詞は違うが、メロディラインはスタジオ盤と同じだった。ただ、ライヴではかなりアグレッシヴでハードに展開されている。71lcfiljkl__sl1457_

 この曲は本来はアルバムから除外されていたのだが、最終的に"Candlebright"(オリジナル・タイトルは"Nomad"だった)と差し替えられたという。ちなみに、"Rhiannon"の方は1976年にシングル・カットされて、ビルボードの11位まで上昇している。

 また、なぜアラバマ州でライヴが行われたかというと、この「バッキンガム&ニックス」が唯一売れたところがアラバマ州だったと言われているが、本当だろうか。
 また、この頃のライヴでは"Monday Morning"も演奏されていたが、このアルバムには収録されていなかった。出し惜しみしたのだろうか。

 あくまでも個人的な感想なのだが、このアルバム・ジャケット見たときに、このアルバムが売れなかった訳が分かった。

 それはこの半裸の2人が美形過ぎたからだろう。男性は、こんなかわいい女性をものにしやがってと嫉妬しただろうし、女性ファンは、このイケメン・ミュージシャンの側にいる女性が気に食わなかったに違いない。結局、内容まで耳を傾けることもなく、ジャケット見て購買意欲が削がれたのだろう。もちろん私の邪推である。1024x1024

 結局、この2人がフリートウッド・マックというバンドに加入したおかげで、バンドは超メジャーになっていった。バンドが1998年にロックの殿堂入りを果たせることができたのも、この2人の貢献を抜きには考えられない。

 その原点が、この「バッキンガム&ニックス」というアルバムに含まれている。約40年間の謎が、やっと解けたような気がした。

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