2017年10月 9日 (月)

デラニー&ボニー(1)

 前回の「デイヴ・メイソン」編で、デイヴ・メイソンもアメリカ南部の音楽に惹かれて、アメリカに行って活動を行っていたという話を書いた。しかも、エリック・クラプトンよりも以前にアメリカで活動をしていたというから、ある意味、先見の明があったとも記した。

 逆に言うと、クラプトンの方がデイヴ・メイソンの行動を参考にしていたのかもしれない。彼とクラプトンとは同じギタリストとしても交流があったからだ。
 いずれにしても、クラプトンよりも以前にアメリカで活動していたイギリス人の有名ミュージシャンがいたというのは、自分にとっては少々ビックリする話だった。

 そして、この2人のギタリストが共通して親交を持ったアメリカ人ミュージシャンが、デラニー・ブラムレットとボニー・ブラムレットのおしどり夫婦ミュージシャンだったのである。
 それで、そんなに影響力のあったミュージシャンだったのかどうかを検証するために、家にあるCDラックから2枚のアルバムを引っ張り出して聞いてみた。以下、その感想である。

 最初に聞いたアルバムは、1969年に発表された「オリジナル・デラニー&ボニー」だった。このアルバムの表には"Accept No Subtitle"という文字があって、これがこのアルバムのタイトルだと思っていた人もいたようだ。81ycvq0l1hl__sl1018_
 全10曲だが、全体的にブラスが施されていて、曲によってはストリングスも被せられていた。当時は、こういう楽曲群をスワンプ・ロックといっていたらしい。
 でも沼から立ち上がる瘴気のようなものは感じられずに、逆に渋くてディープなR&Bテイストを持った曲が並んでいる。

 1曲目のタイトルが"Get Ourselves Together"というのが、いかにもこの時代の空気を反映している。曲の雰囲気としてはそんなに重くはなくて、ライトであっさりしている。片意地張らずに気楽に聞けるし、これくらいの距離感を持った方が物事はうまくいくような気がする。

 次の曲"Someday"も夫婦2人のデュエットを聞くことができる。デュエットだけではなく、コール&レスポンスの掛け合いも迫力がある。彼らの歌を聞いて白人とは思えなかったとアレンジャーのジミー・ハスケルが言っていたが、確かにこれはアイク&ティナ・ターナーが歌っていますと言われても疑うことはできないだろう。

 3曲目の"Ghetto"のバックのピアノは絶対レオン・ラッセルに違いないし、次の"When the Battle is Over"のそれは、ドクター・ジョンだろう。曲を作ったクレジットには、“マック・レベンナック”とあったが、これはドクター・ジョンの本名であるマルコム・ジョン・レベンナックのことだからだ。

 5曲目の"Dirty Old Man"ではボニーが独唱している。バックのコーラスにはリタ・クーリッジが加わっているようだ。
 ボニーの声は迫力があって、まるでダイナマイトのようだ。昔の日本の歌手に朱里エイ子という人がいたが、彼女のような声質をもったティナ・ターナーのようだ。アレサ・フランクリンほどはブラックではないけれど、それでもダイナミックであることは間違いないだろう。

 逆に、"Love Me A Little Bit Longer"では、旦那のデラニーがメインで歌っている。デラニーもいい声をしていると思う。
 この曲と次の"I Can't Take it Much Longer"はつながっているようで、前の曲のアンサー・ソングのようだ。

 そして忘れられない名曲が"Do Right Woman"である。アレサ・フランクリンも歌ったこのバラードは、傷ついた心に染みわたっていくビタミン剤のようなもの。ストリングスも美しいし、ボビー・ウィットロックの弾くピアノも素晴らしい。この曲を聞くために、このアルバムを購入しても間違いないだろう。何度でも聞いてみたい曲でもある。

 一方、ピアノが跳ね上がっているのが"Soldiers of the Cross"だ。このアップテンポの曲はトラディショナルらしいが、後半は"This Little Light of Mine"というゴスペル曲とメドレーになっている。

 そして最後を飾るのが"Gift of Love"という3分に満たない小曲で、この曲と"Dirty Old Man"は、デラニーとマック・ディヴィスが作っている。
 マック・ディヴィスという人は、エルヴィス・プレスリーとも共演したミュージシャンで、齢75歳というのに、いまだに現役で活躍している人でもある。

 また、このアルバムのバック・ミュージシャンも今から考えればとんでもない人も含まれていた。また、このアルバムが起点となって、デレク&ザ・ドミノスが結成されて「いとしのレイラ」が生まれ、一部のミュージシャンはジョージ・ハリソンの「オール・シングス・マスト・パス」に参加した。81oe34cxfpl__sl1156_
 まさらには、レオン・ラッセルやリタ・クーリッジなどは、のちにソロとしても成功している。チャート的には、175位と全く振るわなかったが、そんなものを超越した楽曲の素晴らしさと歴史的な意義を含んでいるのだ。

 今回聞き直してみて、あらためてこのアルバムの素晴らしさに感動した。なぜもっと早く気がつかなかったのだろうか。我ながら恥ずかしいし、自分の無能さを思い知った。こういう隠れた名盤をもっと紹介しないといけないと思うのだが、自分自身が気づいていないというのが問題である。

 あのザ・ビートルズのジョージ・ハリソンが彼らの素晴らしさに気づき、アップル・レコードと契約してアルバムを発表しようとしたところ、すでに彼らがエレクトラ・レコードと契約していたことを後になって知ったという有名なエピソードがある。
 そして、アップル・レコードでは、彼らのカタログ番号がいまだに残っているそうだ。未発売に終わった彼らのアップルでのアルバムは、レア盤として高値で取引されているという。

 エリック・クラプトンが彼らのことを知ったのも、ジョージ・ハリソン経由だろう。あるいはデイヴ・メイソン経由だったかもしれない。また一説によると、クリーム時代から彼らの存在を知っていたというが、時期的に少し合わないようだ。
 いずれにせよ、クラプトンはこのアルバムを作ったデラニー&ボニーと一緒に音楽活動をしたいと思ったのだろう。

 だから、ブラインド・フェイスのアメリカ公演では彼らをオープニング・アクトとして起用しているし、ブラインド・フェイスが解散した後は、ソロとして彼らと活動を共にするのである。
 それが記録されたのが、1970年に発表された「オン・ツアー・ウィズ・エリック・クラプトン」だった。71clgkokm5l__sl1123_
 このアルバムには、1969年12月7日のクロイドン公演の様子が収められていて、非常にエネルギッシュでダイナミックな当時のライヴの様子を堪能できるものになっている。

 何しろメンバーがすごい。ギターにエリック・クラプトンとデイヴ・メイソン、ベースやドラムスは、のちにデレク&ザ・ドミノスのメンバーたち、ブラスにはのちにローリング・ストーンズと一緒に活動したボビー・キーズやジム・プライスが加わっていた。

 また、違う公演ではジョージ・ハリソンも一緒にステージに上がって演奏している。このままのノリで「オール・シングス・マスト・パス」のレコーディングに臨んだのであろうか。とにかく豪華なメンバーだ。

 このアルバムの意義は、2つある。1つはデラニー&ボニー2人のスタジオ盤とライヴ盤の違いである。スタジオ盤では確かに迫力はあるものの、どこかゆったりとした雰囲気が漂っていた。レイド・バックというのだろうか。
 しかし、ライヴ盤では終始ファンキーでアゲアゲ、しかもボニーの方は、あのアレサ・フランクリンに優るとも劣らないパワフルでエネルギッシュなボーカルを聞かせてくれているのだ。

 やはりデイヴ・メイソンやエリック・クラプトンなどが惚れこんだだけはある。自分が言うのも変だが、彼らの眼力は間違っていなかった。デラニー&ボニーはそれだけの実力を備えていたのである。このライヴ・アルバムがそれを証明していた。

 もう1つは、このアルバムの持つ歴史的な意義だろう。上にも記したように、この時期の主な歴史的アルバム、例えば「オール・シングス・マスト・パス」や「いとしのレイラ」、「アローン・トゥギャザー」、「スティッキー・フィンガーズ」、「マッド・ドッグス&イングリッシュメン」などには、共通したミュージシャンが関わっているが、その主なメンバーは最終的にはこのデラニー&ボニーのライヴ・アルバムから派生している。71jgjteegil__sl1226_
 そういうミュージシャンの交流関係とか流れなども頭に入れて聞いてみると、このアルバムの影響力の凄さも分かるのではないだろうか。

 このアルバムは42分少々と、今のCDから考えれば短いのだが、それでも彼らの魅力は十分すぎるほど詰まっている。
 1曲目の"Things Get Better"はスティーヴ・クロッパーとエディ・フロイドの曲で、デラニー&ボニーの1969年のアルバム「ホーム」に収められていた。
 もうこの曲から彼らの魅力が爆発しており、聴衆は一挙に興奮のるつぼへと叩き込まれてしまう。

 2曲目の"Poor Elijah"はロバート・ジョンソンに捧げられた曲でメドレー形式になっている。途中でクラプトンのソロが紹介され、彼のギターがフィーチャーされていた。相変わらずこの時期の彼の演奏は惹きつけるものを持っている。

 次の曲はデイヴ・メイソンの曲"Only You Know And I Know"で、彼のアルバム「アローン・トゥギャザー」にも収められていた彼の代表曲。もちろんここでのギター・ソロはデイヴ・メイソンである。

 "I Don't Want to Discuss it"はファンキーなロックン・ロール・ナンバーで、ジェイムス・ブラウンなんかがやりそうな曲だ。途中のギター・ソロはクラプトンだろう。今では聞けないソリッドなギター・ソロをやっている。

 一転して渋いバラードになる"That's What My Man is For"では、ボニーのボーカルがフィーチャーされていて、ブルーズとゴスペルの両方の影響が伺われる曲に仕上げられている。この曲を聞けば、彼女のボ-カルはもっと評価されていいと思う人は多いはずだ。

 6曲目の"Where There's A Will, There's A Way"ではボビー・ウィットロックのボーカルも聞くことができる。この曲がボビーとデラニー&ボニーの3人で書き上げられている。
 また、途中でジム・ゴードンのドラム・ソロやクラプトンのソロも含まれている。アップテンポのロックン・ロールで気持を高ぶらさせて、次の曲"Coming Home"へとつながっていく。

 この曲はクラプトンとデラニー&ボニーが作ったもの。この曲もノリのよいロックン・ロールで、最後のブラス・セクションとの絡みがカッコいい。まさに白熱したステージングである。この時のライヴは映像化されているらしいのだが、現在では絶版となっていて入手困難のようだ。

 このアルバムの最後には、もう1つリトル・リチャードのメドレーが収められていて、約5分45秒にわたって、"Tutti-Frutti"や"Long Tall Sally"など計4曲が披露されていた。メンバー紹介も行われているので、おそらくライヴでのアンコール部分だろう。

 このアルバムには観衆のざわつきや拍手はもちろんのことMCまで含まれているので、ライヴの臨場感を味わうことができる。まさに貴重で歴史的なアルバムだろう。
 これは蛇足になるが、記録として残すという意味では、アメリカでは29位、イギリスでは39位になっていた。

 そしてこの当時の彼らのライヴを収めた豪華4枚組セットも存在する。これにはジョージ・ハリソンの演奏も含まれているという。さっそくアマゾンで購入してしまった。機会があれば、近いうちに紹介してみようと思っている。Delaneyandbonnie3
 デラニーは1939年生まれ。子どもの頃からブルーズやR&Bに傾向し、17歳で海軍を除隊後、音楽活動を始めた。1968年頃にボニーと出会い、出会って1週間で結婚し、デラニー&ボニーとして活動を始めた。

 ボニーの方は、1944年生まれの現在72歳。11月で73歳になる。彼女もゴスペルを聞いて育ち、5歳で教会などで歌っていた。12歳で本格的にプロ・デビューし、リトル・リチャードやアルバート・キング、アイク&ティナ・ターナーのバックで歌っていた。

 彼らはベスト盤を含む8枚のアルバムを残すものの、1972年に離婚して、デュオも解消した。2人とも音楽活動を続けたが、ボニーの方は女優としても活躍している。
 デラニーは2008年の12月に胆のう手術後の合併症のために亡くなった。享年69歳だった。Img_1_2
 彼らの娘のベッカ・ブラムレットは、1994年から95年にかけてフリートウッド・マックに一時在籍していたことは、すでにこのブログの中で紹介している。

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2017年9月26日 (火)

90年代のフリートウッド・マック(2)

 90年代のフリートウッド・マックは、6人編成だった。基本的な構成において、ギタリストが1人から2人に増えたからだ。
 そして、90年代の前半では、そんなに有名ではないが玄人肌のギタリストが配置されて、それなりに売れていた。特に、ライヴにおいてはどこに行ってもソールド・アウトだった。

 この時期のアルバム「ビハインド・ザ・マスク」については前回述べたが、全盛期のマックのアルバムと比べても、そんなに遜色はなかったと思う。少なくとも今年発売された「リンジー・バッキンガム/クリスティン・マクヴィー」よりはロックしている。

 むしろ、ややブルーズ色が表に出ようとしているかのようで、それが従来のソフトでポップなマックの色合いと微妙に交じり合っていて、いい感じだった。
 人によってはカントリー・フレイバーを感じたかもしれないが、そんな傾向は強くなくて、確かに"When The Sun Comes Down"はカントリー・ポップ・ソングだったが、それ以外はあまり強く感じられなかった。

 ただ、ギタリストが2人もいるのに、そのカラーがあまり出ていなかった。もう少し交互にギター・ソロを入れるとか、リックのスライド・ギターをフィーチャーした曲を入れるとかすれば、もっと印象に残り、チャート・アクションももっと伸びていったのではないかと思った。
 
 要するに、せっかくのメンバー・チェンジが活かされていない。従来のマック路線を踏襲しようとするあまりに、自らバリケードを築いてしまったかのようだった。ファンは新生マックの姿を待望していたのではないだろうか。もう少し冒険してもよかったのではないかと思っている。

 それで、前回からの続きである。ギタリストのリック・ヴィトーとスティーヴィー・ニックスが脱退して、新メンバーが2人加入したというところで終わっていたので、今回はその続きである。

 スティーヴィー・ニックスの代わりに加入したのが、ベッカ・ブラムレットだった。名前を見ればわかるかもしれないが、60年代の後半から70年代にかけてエリック・クラプトンとともにアルバムも制作したことがあるアメリカ人ミュージシャン夫妻のデラニー&ボニー・ブラムレットの娘である。

 彼女はロッド・スチュワートなどのミュージシャンのバック・ボーカルとして経験を積んでいて、1992年にはミック・フリートウッドのプロジェクト・バンドのアルバム「シェイキング・ザ・ケイジ」では見事なボーカルを披露していた。

 ベッカは1968年生まれだったので、フリートウッド・マックに加入したときは、25歳だった。それに歌のうまさだけではなくて曲も書けたので、バンドにとっては都合がよかったようだ。

 彼女は若くて美人だったから、ファンの間ではたちまち有名になり、人気になっていった。スティーヴィー・ニックスが脱退したときは45歳だったから、やはり若い方が受けがいいのは昔も今も変わらないし、洋の東西を問わないらしい。

 そして、ギタリストのリック・ヴィトーの代わりに加入したのが、元トラフィックのギタリストだったデイヴ・メイソンである。
 もうすでに名前は世界中に知れ渡っていて、今更バンドに加入しなくてもよさそうなものだが、旧知の知り合いであるミック・フリートウッドの頼みなら仕方ないということで参加したようだ。Fleetwoodmac_1995_1

 ただ、バンドには加入したものの、デイヴ・メイソンの意識としては、あくまでも“助っ人”という感じで、お手伝い、ヘルパーだった。恒久的なメンバーとしてともに活動するという感じでは最初からなかったようだ。

 この時、デイヴは47歳。確かにまだまだ現役選手として活躍できる年齢だった。70年代や80年代ではかなりの枚数のソロ・アルバムを発表していて、それなりにヒットした曲やアルバムもあったが、90年代に入ってからはあまり彼の活動は聞かれなくなっていた。

 そういう意味では、再び脚光を浴びるには良い機会になったに違いない。ミックやジョン・マクヴィーとはほぼ同年代だったから、気心も知れていただろうし、やりやすかったに違いない。

 面白いことに、この6人はアルバムを発表する前に、ライヴ活動を行い、発表後はライヴ活動を行っていない。普通は、ニュー・アルバムをプロモーションするために、アルバムを発表してからツアーに出るのだが、彼らはアルバムを発表する前にライブ活動を行っていた。日本にも1995年の4月に来日して演奏を行っている。

 そして、新生マックのニュー・アルバム「タイム」は、1995年の10月に発表された。上に書いたように、このアルバムのプロモーション・ライヴ活動は行われていない。

 ちなみに、1995年のライヴを東京の新宿厚生年金会館で見た人の話によると、ライヴの曲は昔の"Oh, well"から黄金期の"Don't Stop"、"Go Your Own Way"、それにトラフィックやデイヴ・メイソンのソロまで披露されたという。もちろん自分の曲では、デイヴ自身が歌っていたのは言うまでもない。

 また、ライヴではクリスティン・マクヴィーが不在となるので、女性ボーカルはベッカだけだったが、彼女はそれをものともせずに、彼女なりに堂々と"Gold Dust Woman"を歌い切り、それだけでなく他のマックの歌も自分の持ち歌のように、ステージ上を元気よく走りながら歌っていたという。
 さらには、ジェレミー・スペンサーも同時期に来日していて、23年振りの共演を果たしたというおまけまでついていた。当日の聴衆はさぞかし喜んだに違いない。

 それで6人制マックとして発表したアルバムが1995年の「タイム」だった。そして結論から言えば、このアルバムは見事にコケてしまった。4127atrfc0l
 全13曲のうち、クリスティン・マクヴィーが5曲、デラニー・ブラムレットとベッカの親子曲が1曲、ビリー・バーネットの曲が2曲、デイヴ・メイソンの曲も2曲、ベッカとビリーの共作が1曲、カバー曲とミック・フリートウッドの曲が1曲ずつという構成で、これはフリートウッド・マックのアルバムとして聞くよりも、まったく別のバンドのアルバムとして聞いた方が新鮮に聞こえるのではないかと思う。

 アルバム冒頭の曲は"Talkin' to My Heart"というビリー・バーネットの曲で、テンポのよい軽快な曲だった。途中からベッカのボーカルが絡んでくるところがよい結果を生んでいる。

 2曲目は"Hollywood"という曲で、ボズ・スキャッグスの曲とは同名異曲だ。サビの部分が非常にメロディアスで覚えやすい。なぜこの曲をシングル・カットしなかったのだろうか。

 3曲目は"Blow By Blow"という曲名で、もちろんジェフ・ベックとは関係はない。デイヴ・メイソンの曲で、メイン・ボーカルも本人である。バックの女性コーラスがソウルっぽい雰囲気を生んでいる。

 4曲目は超ポップな"Winds of Change"で、これはキット・ヘインという女性ミュージシャンのカバー曲だった。彼女はジュリアン・マーシャルとデュオを組んでいたのだが、それが分裂してソロになった。歌っているのはもちろんベッカ・ブラムレットだ。

 5曲目の"I Do"はクリスティン・マクヴィーの曲で、これまたシングルに相応しい曲だった。実際にカナダではシングルで発売されて、チャートの62位まで上昇している。これをヒットと呼ぶかどうかは、微妙なところでもある。

 このアルバムが売れなかったのは、シングルヒットがなかったことであり、それはとりもなおさずレコード会社のプッシュが足りなかったからでもある。
 デッカ・ブラムレットは無名でも、デイヴ・メイソンの方は有名だし、“フリートウッド・マック”というブランド名もあるので、アルバムはそれなりに売れるだろうと思っていたのではないだろうか。

 "Nothing Without You"はデラニーとデッカの親子の作品で、70年代のデラニー&ボニーの曲を聞いているような感じがした。

 "Dreamin' the Dream"はビリーとベッカの共作で、涼しげなアコースティックのバラード曲になっている。バックはストリングスとビリーの演奏するアコースティック・ギターだけで、逆にベッカのボーカルの美しさが目立つ佳曲でもある。

 "Sooner or Later"は、クリスティンの曲で、ダークな別れの曲でもある。クリスティンの凄さは明るい曲はポップでノリがよく、暗い曲は本当に悲しくなるほど情感が込められているところだろう。

 "I Wonder Why"はデイヴ・メイソンの曲で、70年代後半のデイヴを象徴するようなポップでリズミカルな曲だ。途中のベッカの絡みが何となくスティヴィー・ニックス風に聞こえてくるところが“フリートウッド・マック”というブランド名の強さでもある。
 それにデイヴ・メイソンのギターはブリティッシュ・ロック出身の割にはカラッと乾いていて、それがアメリカ西海岸の音楽にマッチするのだろう。

 続く"Nights in Estoril"も軽快な曲で、こちらはクリスティンの曲だった。これもシングル・カットされたらヒットするだろうなあという曲でもある。こういう曲があまり日の目を見ずに埋もれているのはもったいないと思うのだが、誰かリバイバル・ヒットさせてくれないかなあ。

 結構ハードな曲がベッカ・ブラムレットが単独で書いた"I Got it in For You"で、バックのスライド・ギターはビリーが、ノーマルなエレクトリック・ギターはデイヴが弾いているのだろう。この辺はなかなか良いギター・アンサンブルだと思う。Photo
 "All Over Again"もクリスティンの曲で、アルバムの最後を飾る場合や、映画のエンド・ロールに相応しいバラード曲だと思う。ただ残念ながら、このアルバムでは12曲目に配置されていて、最後ではない。

 その最後を飾っているのは、何とミック・フリートウッドが歌っている"These Strange Times"である。正確に言うと、歌っているのではなくて、語り(ナレーション)を入れているだけである。
 7分7秒もある大作で、しっかりとしたリズムの上に、ベッカのバック・コーラスとストリングス・キーボード、エレクトリック・ギターが色どりを添えている。曲を作ったのはミック・フリートウッドと、シンガー・ソングライターのレイ・ケネディだった。

 レイ・ケネディは、ザ・ビーチ・ボーイズやザ・ベイビーズのために曲を書いたり、デイヴ・メイソンの「流れるままに」の中の"Seasons"も作ったりしていた。残念なことに、2014年の2月に急死している。享年68歳だった。

 ミック・フリートウッドは、自身のミュージシャン生活の中で、3曲を書いている。1曲は1969年のアルバム「ゼン・プレイ・オン」に、もう1曲は1977年の「噂」の中に、そして3曲目がこの曲"These Strange Times"だった。ただし、「噂」の中の"The Chain"は、当時のメンバー5人全員による共作だった。

 とにかく、このアルバムは、フリートウッド・マックのイメージをまとったロック・アルバムだった。もう少しビリーとデイヴが協力しながら骨っぽい音楽を作れば、また違う結果になったに違いない。

 あるいはベッカ・ブラムレットとビリー・バーネットの共同制作アルバムとして発表すれば、もっと好意的に受け入れられたのではないかと思う。

 結局、このアルバムはイギリスでは47位まで上がったが、本国アメリカではベスト200位以内にも入ることはできなかった。良い曲がかなりあったにもかかわらず、200位以内にも入らないというのが摩訶不思議だった。話題にも上がらなかったのだろうか。

 アルバム発表後、1年もたたないうちにベッカ・ブラムレットとビリー・バーネットはフリートウッド・マックを脱退した。
 彼らがスティーヴィー・ニックスやリック・ヴィトーと違うところは、実際に2人でアルバムを制作してしまった点だろう。1997年に「ベッカ&ビリー」というアルバムを発表したが、取り上げられることは少なかった。

 逆に、同年にはリンジー・バッキンガムとスティーヴィー・ニックスがバンドに復帰して、フリートウッド・マックは再び黄金期のメンバーになり、さらなるスタジオ盤やライヴ活動を続けていくようになった。

 彼らのディスコグラフィーの中では、極めて評価の低いアルバムになったが、個人的にはそんなに悪いアルバムだとは思っていない。

 フリートウッド・マックのアルバムとして聞かなければ、かなり上質のアメリカン・ロック・ミュージックになっていると思う。思い込みや偏見が判断を誤らせてしまう良い実例アルバムなのかもしれない。

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2017年9月25日 (月)

90年代のフリートウッド・マック(1)

 本当はフリートウッド・マックの話題でここまで引っ張るつもりはなかったのだけれど、「バッキンガム&ニックス」の紙ジャケ・アルバム発表から始まって、リンジー・バッキンガムとクリスティン・マクヴィーのスタジオ・アルバムに影響されて、80年代のマックのアルバムを紹介してしまった。

 それで今回は一区切りつけようと思って、90年代の彼らのアルバムを紹介しようと思う。この時代のマックは、あまり知られていないと思ったからだ。

 物語は、1987年の「タンゴ・イン・ザ・ナイト」発表後から始まった。このアルバムは個人的には大好きで、前作の「ミラージュ」よりもよく聞いたものだ。
 だいたいジャケットからして魅惑的だったし、曲も"Big Love"、"Seven Wonders"、"Little Lies"、"Mystified"などなど、70年代の「噂」などと比べても決してそん色はないと思っていた。513ynii4ctl
 もちろん商業的には成功したものの、チャート的には前作の結果に至ることができずに、ビルボードでは7位に留まっている。
 この結果にやや失望したのが、リンジー・バッキンガムだった。基本的にこの頃のマックでは、リンジーがイニシアティブを握っていてアルバム制作を行っていたのだが、このアルバムに関しては、彼はかなりの精力を注いで念入りに取り組んでいた。

 ところが、アルバムは売れたものの、チャート的には3週間7位に留まり、それ以上は上昇することはなかった。
 結局、リンジーはこれが限界と思ったのか、マックでの仕事に見切りをつけて、本格的にソロ・キャリアを追及するようになってしまったのである。

 のちに彼は、このアルバムの商業的な結果には満足したが、もっと売れると思っていたと語っていることから、おそらく「ファンタスティック・マック」や「噂」と並び称されるアルバムになると思ったに違いない。

 また、ミック・フリートウッドの自伝によると、スティーヴィー・ニックスとの激しい口論などで、この頃のリンジーはかなり疲弊していたようだ。それでバンド活動に息苦しさを覚えていたリンジーは、飛び出すように出ていったという。

 それで、リンジー・バッキンガムの代わりにバンドに加入したのが、ビリー・バーネットとリック・ヴィトーの2人だった。リンジーひとりの代わりにふたりのギタリストが加入したという事実が、如何にリンジーの才能が豊かで、バンドにとって必要不可欠なミュージシャンだったかがわかる。

 しかし、ビリーもリックもそれなりに経験も能力もあるギタリストだった。ビリー・バーネットは、加入した時点ですでに8枚のアルバムを発表しているテネシー州メンフィス出身のギタリストだった。

 父親や叔父もミュージシャンだったし、彼自身もグレッグ・オールマンやロイ・オービソンなどに曲を提供していた。また、クリスティン・マクヴィーの1984年のアルバム「恋のハート・ビート」ではクリスティンとも曲作りを行っていた。
 それに、ミック・フリートウッドのアルバム「アイム・ナット・ミー」にも参加しているし、そういう意味では、フリートウッド・マックの参加はすんなりと決まったのだろう。

 リック・ヴィトーの方もジョン・マクヴィーと親交があり、1976年のジョン・メイオール&ブルーズブレイカーズのアルバム「バンケット・イン・ブルーズ」で共演している。
 また、ボブ・シーガーの「ライク・ア・ロック」やジャクソン・ブラウンのアルバム「愛の使者」、ボニー・レイットの「グリーン・ライト」などにも参加していて、ミュージシャンの間では名の通ったギタリストだったようだ。

 彼らがバンドに加入したいきさつは、ビリーがリックも一緒じゃないと嫌だと言ったからで、最初に声がかかったのはビリーの方だった。
 リックはスライド・ギターの名手として知られていて、ツイン・リードとスライドをバンドに活かそうと思ったのかもしれない。また、リックの方が3歳年上という事情も配慮したのだろうか。

 あるいは、60年代のようなブルーズを基調とした音楽性も追求しようと思ってバンドに加入したのかもしれない。確かにリンジーが去って、そういう可能性もないわけではなかったからだ。

 彼らが参加したアルバム「ビハインド・ザ・マスク」は、1990年に発表された。正確に言えば80年代最後のアルバムなのだが、ことの成り行き上、90年代に繰り上げてカウントしようと思う。81lsuzupqql__sl1425_
 このアルバムの評価は分かれていて、微妙である。チャート的にはアメリカでは18位という結果に終わったが、イギリスでは1位になっている。
 シングル・カットされた"Save Me"は軽快でノリのよい曲だったが、アメリカでは33位、イギリスでは53位だった。唯一、カナダでは7位と好成績だった。

 次にカットされた曲は"Skies the Limit"で、アルバムの冒頭に配置された曲ということで、これまたクリスティン・マクヴィーの手によるものである。80年代のマックの流れを汲んだようなミドル・テンポのメロディアスな曲だったが、結果的には、ビルボードのシングル・チャートで40位に終わっている。

 ヨーロッパでは、"In the Back of My Mind"がシングルとして発表された。ビリー・バーネットの曲で、7分もある大曲だった。ある意味、新境地を開くような曲でもあり、ミックの呟くような語りからビリーのギターとクリスティン・マクヴィーとスティーヴィー・ニックスのバッキング・ボーカルがフィーチャーされている。

 個人的には90年代の"I'm So Afraid"になるかもしれないと思っていたが、そうはならなかった。もう少しギターが目立っていたら売れたと思うのだが、時代はそういうギター・ソロを求めなくなっていったし、ましてやソフトでポップなロックに転換したフリートウッド・マックには必要なかっただろう。

 また、リック・ヴィトーとスティーヴィー・ニックスの共作曲である"Love is Dangerous"もシングル・カットされたが、見事にコケてしまった。リックのスライド・ギターとビリーのリード・ギターが絡み合って、これまた個人的には好きだったのだが、ビルボードのシングル・チャートの100位内に入ることはなかった。

 リックとスティヴィーはもう1曲"Second Time"という曲でも共作していて、アルバムの最後を締めくくるにふさわしいしっとりとしたバラード曲になっていた。
 一方で、スティヴィーはトム・ペティのバンド、ハートブレイカーズのマイク・キャンベルとも"Freedom"という曲を作っていて、こちらはリズミカルでテンポのよい仕上がりだった。この頃のスティヴィーはマイクと付き合っていたのだろう。

 ともかく、ビリーとリックはこのアルバムにかなり貢献していて、全13曲のうち8曲にソングライターとして関わっている。
 この2人だけで作った曲が"When The Sun Goes Down"で、軽快なカントリー・タッチの雰囲気に満ちている。

 またリックひとりで書いた曲"Stand on the Rock"もあり、リック・ヴィトーのボーカルがフィーチャーされている。スティーヴィー・ニックスが歌った方がパンチが効いて、ヒットしたかもしれない曲だ。要するにハードな感じなのだが、ボーカルの線が細いので、強く印象には残らなかった。

 ちなみに、アルバム・タイトル曲の"Behind the Mask"には、なぜかリンジー・バッキンガムがアコースティック・ギターで参加している。この辺の事情はよく分からない。喧嘩別れとまでいかなくても、そんなに好ましい事情で脱退したわけでもない。それでも参加するというのが、フリートウッド・マックのミュージシャンシップなのだろう。

 アルバムはそんなに売れなかったけれど、ツアーは連日超満員でソールド・アウト、イギリスでもアメリカでも彼らの人気は凄まじかった。150907_4535328899992_15859720_n
 ただ、クリスティン・マクヴィーは彼女自身の飛行機恐怖症とツアー中に父親が亡くなったせいで、バンドを脱退すると宣言した。(のちにこれを撤回し、レコーディングには参加するものの、ツアーには不参加と変更している)

 ところが、ここでまた問題が起きた。なぜかギタリストのリック・ヴィトーとスティーヴィー・ニックスがバンドを脱退したのである。
 スティヴィーはクリスティン・マクヴィーと同じように、レコーディングには参加するもののツアー不参加を申し出ていたのだが、1991年にリックと去ってしまったのだ。この頃はリックと付き合っていたのだろうか。

 でも、リックとスティーヴィー・ニックスがふたりでアルバムを作ったという事実はなくて、スティヴィーはソロ・キャリアを追及し、リックはブルーズ・ロックという原点に戻っている。
 のちに彼は、ミック・フリートウッドのサイド・プロジェクトのバンドに参加して、クラシックなブルーズを披露していた。

 1993年になると、今度はビリー・バーネットの方がカントリー・アルバムを作るなどのソロ・キャリアを追及するためにバンドを脱退すると発表したが、カントリー・シンガーのベッカ・ブラムレットと元トラフィックのギタリストだったデイヴ・メイソンが加入するとわかると、翌年にはバンドに復帰した。
 この辺の変わり身の早さは、フリートウッド・マックのメンバーになるための重要な資質の1つかもしれない。

(To be Continued to Tomorrow)

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2017年9月18日 (月)

フリートウッド・マックの「ミラージュ」

 今回もフリートウッド・マック関連の話題である。前回のリンジー・バッキンガムとクリスティン・マクヴィーのアルバムが、80年代初めのフリートウッド・マックのアルバムの感触に近いということを書いた。でも、そのアルバムのことを知らない人もいると思うので、少しだけ説明してみたいと思う。

 1982年に発表されたこのアルバム「ミラージュ」は、5週間にわたってビルボードのアルバム・チャートのNo.1に輝いている。また、18週間にわたってアルバム・チャートのトップ・テン内にとどまり、ダブル・プラチナ・アルバムに認定された。

 フリートウッド・マックのアルバムでチャートの首位に輝いたスタジオ・アルバムは3枚しかなく、今のところ、というか恐らくは、この「ミラージュ」が最後のアルバムになるだろうと思っている。(残り2枚は、1975年の「ファンタスティック・マック」と1977年の「噂」)

 以前にも同じことを書いたが、このバンドには3人のソングライターがいる。この3人がそれぞれの持ち味を発揮した曲作りを行うところに、このバンドの特徴がよく表れているし、ファンはそれを待ち望んでいる。1982_fm_705
 だから、それぞれが作った曲がシングル・ヒットすれば、当然のごとくアルバムは売れるし、チャートを駆け上っていく。No.1アルバムになった3枚には、これを証明するかのように、ヒット・シングルが満載だった。

 この「ミラージュ」でも同様である。アルバムには12曲が収められていたが、そのうち5曲がシングル・ヒットしている。当時は(そして今も?)シングルにはサイドBがあったから、結局、このアルバムから5曲+αがシングルとして世に出たということになる。

 最初のシングルは、アルバムに先駆けて発表された"Hold Me"で、クリスティン・マクヴィーの曲だった。Holdmefleetwoodmac
 アメリカにおけるフリートウッド・マック最大のヒットとなったこの曲は、7週間にわたって最高位の4位を続け、その年の年末最後の週においてもチャートの31位に留まっていた。

 ジョン・マクヴィーと離婚したクリスティン・マクヴィーは、その後、ザ・ビーチ・ボーイズのデニス・ウィルソンと3年ほど付き合っていたが、デニスの酒癖の悪さ、というよりもアルコール中毒や薬物中毒に手を焼いていて、結局、このアルバムが発表されるときには別れてしまっていた。

 クリスティーンがデニスと付き合っていた頃のことをテーマにした曲だった。そんなに名曲とは思えないのだが、メロディーよりも歌詞の内容がヒットの要因だったのかもしれない。

 でもクリスティン・マクヴィーという人は、つくづく男運がない人だと思う。余計なお世話だと言われるだろうが、ジョン・マクヴィーと別れた原因も彼の酒癖の悪さだった。点滴の薬剤の入った瓶の代わりに酒瓶をさしているジャケット写真があったけれども、それほど酒の好きな男性たちと巡り合う何かを、彼女は持っているようだ。

 ちなみに、デニスの方は、このアルバムの翌年の12月にヨットから海に飛び込んで亡くなっている。39歳の若さだった。アルコールか何かで酩酊状態だったと言われている。

 2枚目のシングルは"Gypsy"で、スティーヴィー・ニックスが手掛けたものである。この曲の原点は、「ニックス/バッキンガム」時代にまでさかのぼる。
 当時貧しかった2人は、ベッドを買うお金がなくて、キングサイズのマットレスを床の上に直接置いて寝ていたという。
 そして、そのマットレスにレースを飾り付けたり、古いランプを置いて“ジプシー”のように暮らしていたそうである。Gypsy_single
 そういうノスタルジーとともに、この曲にはスティーヴィー・ニックスの親友だったロビン・アンダーソンへの追悼という気持ちもあるようだ。
 ロビンは、高校時代にスティーヴィー・ニックスと出会い、それ以降も親交を続けていた。演劇に関心があり、彼女のステージングにアドバイスをしたり、セラピストとしても彼女の力になっていたようだ。

 そのロビンが1982年に白血病で亡くなった。その時ロビンは、子どもを産んだばかりだった。ロビンの夫のキムとスティーヴィー・ニックスは、共通の愛すべき人を失くしたことで、それによる深い悲しみに包まれていた。
 彼らはお互いの悲しみを癒すために結婚をするのだが、3ヶ月後には別れてしまった。一時の気の迷いだったのかもしれない。

 しかし、1979年くらいから出来上がっていたこの曲を一部書き直し、新たな意味を込めて発表している。そういう意味では、彼らの結婚も意味があったのかもしれない。
 ビルボードのシングル・チャートでは3週間12位になっていて、このアルバムからの2番目に売れた曲になっている。

 ところで、この曲のプロモーション・ビデオが制作されるとき、スティーヴィーはコカイン中毒のためにリハビリ中だった。本当なら彼女の治療が終わってから撮影されるはずだったのだが、制作側のスケジュールが詰まっていたために、延期ができなかった。

 だから、彼女は十分に回復しないまま撮影に臨んでいる。のちのインタビューで、一緒に踊っていたリンジー・バッキンガムはダンスが下手だったので、私が不機嫌に映っていると言っていたが、それは彼女の方にも原因があったのである。

 アメリカでの3枚目のシングルは"Love in Store"で、アルバム「ミラージュ」では、冒頭を飾っていた曲だった。
 この曲はクリスティン・マクヴィーが書いたもので、リード・ボーカルは彼女自身。バッキング・ハーモニーはスティーヴィー・ニックスとリンジー・バッキンガムが付けている。王道のポップ・ロック路線であり、キャッチーなメロディー・ラインと軽快なリズムは、いかにもシングル・カットに相応しいものだった。Loveinstorebelgium_3
 ただ、アメリカでは22位と健闘はしたものの、そんなには売れなかったようだ。また、イギリスではシングル・カットされていない。

 イギリスで3枚目のシングルになったのは、なぜかリンジー・バッキンガムが作った"Oh Diane"だった。
 不思議なことに、イギリスでは"Hold Me"も"Gypsy"もヒットしなかった。それで3枚目のシングルは"Oh Diane"にしたのだろう。この曲なら売れると思ったのだろうか。

 そして、その目論見は当たったのである。1982年の12月に69位でチャートに登場したこの曲は、10週間かけて徐々に上がっていき、翌年の2月には9位に輝いている。
 このイギリスでのヒットをきっかけに、アメリカでもヒットを狙おうとして4枚目のシングルになったのだが、残念ながらアメリカではチャートにも登場しなかった。スティーヴィー・ニックスが参加していなかったからだろうか。Ohdiane
 個人的にもそんなにヒットするような要素は見えないし、どちらかというと50年代から60年代にかけてのポップ・ソングのような雰囲気を湛えている感じだ。イギリスでは、こういうシンプルな感じの曲の方が好まれるのだろう。

 アメリカでは、このアルバムからのシングル・カットはこれで終わったのだが、イギリスではもう1枚カットされている。それが"Can't Go Back"だった。アルバムでは2番目に配置されている曲だった。

 この曲にもスティーヴィー・ニックスは参加していなかったが、理由はよくわからない。この曲も"Oh Diane"と同じように、リンジー・バッキンガムが作ったからだろう。この当時の2人の仲は、最悪だったようだ。ただ、シングルのジャケット写真には5人で写っていた。Cant_go_back__fleetwood_mac_1983_uk
 この曲も軽快なポップ・ロックで売れる要素は備えていると思う。ただ、歌詞の内容が“もう昔の頃には戻れない”とか“彼女は夢ばかり追っていた”という何やら意味深な内容だったから、スティーヴィーは参加しなかったのかもしれない。

 ちなみに、この曲は前曲とは違って、83位という悲惨なチャート結果になってしまった。どうもイギリス人の好みはよくわからない。この曲の方がポップだと思うのだが、それだけの要素では決めないのがイギリス人の感性なのだろう。

 相変わらず、複雑な人間関係を反映した曲が多いバンドである。こういう傾向は77年のアルバム「噂」から変わっていなかった。それでも解散しないところが、このバンドの不思議な点だろう。彼らの曲に"Seven Wonders"というのがあったけど、きっとそのうちの1つは自分たち自身の人間関係のことを指しているのではないかと勘繰ってしまう。

 この頃のバンド内では、ソロでの活動が目立っていた。特に、スティーヴィーの活躍は目覚ましくて、前年に発表したソロ・デビュー・アルバムの「麗しのベラ・ドンナ」は、少なく見てもアメリカだけで600万枚以上売れた。当然、アルバム・チャートの1位を飾っている。

 もともと個人活動の意欲が高かったスティーヴィーである。これで自信を持ったのか次々とソロ・アルバムを発表し、個人でツアーも開始した。バンドとは別に活動を始めたのである。さすが才能のある人は違う。ただ、他のメンバーにとっては、バンド活動よりも優先している点が気に入らなかったのではないだろうか、特にリンジー・バッキンガムにとっては。

 その行動は今に至っているようで、前回の「リンジー・バッキンガム/クリスティン・マクヴィー」のアルバムが、なぜフリートウッド・マック名義のアルバムにならなかったのかということに繋がっていた。

 今回は1982年のアルバム「ミラージュ」を取り上げたが、今後の彼らの活動が“蜃気楼”にならないことを願うばかりである。

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2017年9月11日 (月)

リンジー・バッキンガム/クリスティン・マクヴィー

 さて、前回はフリートウッド・マックの黄金期を支えた2人のデビュー・アルバムについて記した。それで今回は、同じバンドの違うメンバーが組んで発表したニュー・アルバムについて綴ろうと思う。

 ゴシップ好きな人なら、フリートウッド・マックのゴチャゴチャした人間関係については、よくご存じだと思う。音楽面や商業的成功については、70年代後半から80年代前半にかけてピークを迎えていたが、そのバンド内の人間関係については崩壊していた。

 キーボーディストのクリスティン・マクヴィーとベーシストのジョン・マクヴィーは1976年に離婚したし、ドラマーのミック・フリートウッドもアルバム「噂」制作前には離婚していた。お相手の元妻は、ジョージ・ハリソンの元妻であるパティ・ボイドの妹のジェニーだった。

 そして、恋人同士だったリンジー・バッキンガムとスティーヴィー・ニックスも成功の階段を上るにつれて、徐々にすきま風が吹き始め、お互いに束縛のない生活を求めて、恋人関係を解消した。一時的ではあるが、のちにスティーヴィー・ニックスはミック・フリートウッドと親密な関係になっている。Fleetwoodmac1977650430_2
 とにかくこのバンドは、人間関係はグチャグチャなのだが、プロフェッショナルなミュージシャンとしてのプライドや意識は高くて、音楽面についてはお互いの才能や努力を認めながら、よりよいものを追及しく姿勢は忘れなかった。

 だから1975年のアルバム「フリートウッド・マック」から1987年の「タンゴ・イン・ザ・ナイト」までの間、5枚のスタジオ・アルバムはすべてビルボードのベスト10以内にチャート・インし、ライヴ活動も盛大に行われていたのである。

 この辺の割り切り方は、さすがプラグマティズム発祥の国アメリカという感じがするが、クリスティン・マクヴィーやジョン・マクヴィー、ミック・フリートウッドの3人はイギリス人だから、関係ない気がするが、アメリカナイズされたのだろうか。

 それで本題に戻って、今年の6月にリンジー・バッキンガムとクリスティン・マクヴィーの連名によるアルバムが発表された。クリスティン・マクヴィーは74歳で、リンジーの方は今年67歳だから、決して若いとは言えないが、まだまだ現役のミュージシャンとしてその存在を示してくれていた。

 もともとクリスティンは、1998年以降、地元のイギリスで隠遁生活を送っていた。表向きの理由は“飛行機恐怖症”ということで、ツアーで飛行機に乗ることを厭うようになっていた。
 若い頃はそんなことはなかったのだが、やはり年齢からくる疲労、ツアーやレコーディングによるストレスなどが高じて表舞台から姿を消したいと思ったのだろう。

 そんな彼女も、2013年にフリートウッド・マックのロンドン公演に客演した。場所がロンドンということもあり、彼女にとっては参加しやすかったのだろう。そして、その時の観衆の反応も熱狂的に彼女を受け入れるようなものだった。それが彼女の心の中のミュージシャンシップに火をつけたと思われる。

 翌年には、彼女のバンド復帰が正式にアナウンスされ、バンドは再び70年代後半の黄金期のメンバーで活動を始めた。
 そしてリンジー・バッキンガムとクリスティン・マクヴィーは、バンド用のニュー・アルバムのために曲作りを始めたのである。

 リンジーとクリスティンは、メールでやり取りをしながら、ロサンゼルスでレコーディングを開始したが、すぐにミック・フリートウッドとジョン・マクヴィーも参加して、8曲ほど新l曲を録音した。
 2014年の9月から2015年の11月まで、フリートウッド・マックは、ワールド・ツアーを行った。北米からヨーロッパ、ニュージーランドまで、全120公演が開催されたが、これは当然5人の黄金期のメンバーで行われている。Fleetwoodmac2

 ツアー終了後、スティーヴィー・ニックスを除いた4人は、2015年の12月から再びロサンゼルスでレコーディングを開始した。そして、出来上がったのがこの「リンジー・バッキンガム/クリスティン・マクヴィー」だった。

 なぜフリートウッド・マックの名義ではないのかというと、スティーヴィー・ニックスが不在だったからである。彼女は、バンドのワールド・ツアー終了後に、今度は自分のソロ・ツアーに出かけたからで参加することができなかったからだ。

 だから、本当は実質的なフリートウッド・マックのアルバムだといってもいいのだが、ひとり不参加だったために、バンド名を使わなかった(使えなかった)ということらしい。
 またリンジーは、曲のほとんどを基本的にはクリスティンと2人で作ってきたので、まるでデュエット・アルバムのようだとインタビューなどで応えていた。

 だから“フリートウッド・マック”という名前は使用しなかったのだろうし、2014年からコツコツと2人で曲作りを行ってきた努力や、お互いの貢献度を明確にしたかったに違いない。
 もともとはアルバム・タイトルを1973年の「バッキンガム&ニックス」にちなんで「バッキンガム&マクヴィー」にする予定だったらしいのだが、それは取りやめになった。スティーヴィー・ニックスが嫌がると予想したのだろうか。

 それで肝心な音の方だが、やはりひとりでも欠けていると、あの魔法の再現は困難だったようだ。結論から言えば、よくできたアルバムだが、黄金期のフリートウッド・マックのアルバムにはかなわない。良盤だが名盤ではないのである。

 全10曲だが、ミディアム調の曲が多くて、どの曲も同じように聞こえてしまうのが最大の欠点である。
 もう少し、リンジーの好きなカントリー調の曲とかアコースティック色の濃い曲などを混ぜていれば、曲ごとの色どりが変わって、バラエティ豊かで個性的な特長が発揮できたと思っている。

 あるいは、ハードな彼のギター演奏も聞きたかった。彼はピックを使わずに、フィンガー・ピッキングでギターを弾く。ジェフ・ベックと同じである。
 その演奏が超カッコいいのだ。1975年のアルバム「フリートウッド・マック」の中に収められていた"I'm So Afraid"のライヴ映像なんかは鳥肌ものである。

 そういう情熱的でアグレッシヴな演奏がほとんど聞こえてこない。強いて言えば、5曲目の"Love is Here to Stay"では、おとなしいアコースティック・ギターを聞くことができるし、最終曲の"Carnival Begin"では、ちょっと盛り上がったギター・ソロが期待できる。でも、それ以上がないのが悲しいのである。51go6eiciql

 もう少し好意的に解釈すると、6曲目"Too Far Gone"も最初はハードな展開が予想されたのだが、リフはハードでも間奏がないので印象に残らない。
 全体的には基本的に歌ものアルバムなので、普通の音楽ファンにも受け入れやすい仕上がりになっている。

 たとえて言うならば、1982年のアルバム「ミラージュ」や1987年の「タンゴ・イン・ザ・ナイト」のような感じのソフトでマイルドな感じが伝わってくるアルバム使用になっていると思う。また、80年代のAOR路線の影響を残しているようだった。

 ただ、8曲目の"Game for Pretend"などは、「噂」の"Songbird"のように、しっとりしたバラードになっていて、これはアルバムの中では佳曲の部類に入るだろう。
 また、9曲目の"On With the Show"というのは、2014年以来のフリートウッド・マックのワールド・ツアーのタイトルにもなっていて、バンドとしてもう一度ファンとともにショウを盛り上げていこうという決意表明になっている曲だ。

 10曲の半分はリンジーひとりで作った曲で、クリスティンは2曲を自作している。残りの3曲はリンジーとクリスティンの共作だった。
 また曲のクレジットとは別に、1曲目がリンジー、2曲目がクリスティンと交互にリード・ボーカルを取っている。

 やはり彼らは、このアルバムがリンジー・バッキンガムとクリスティン・マクヴィーの両者のアルバムと認識していたのだろう。自分たちでも、このアルバムにはバンドとしてのケミストリーが足りないと思っていたのかもしれない。

 そしてその原因はというと、何度も言うように1人足りないということだろう。フリートウッド・マックのいいところは、3人のソング・ライターがいて、それぞれがボーカルをとれるということだ。
 この3人の特色がお互いに交差することで、さらにバンドとしての輝きを放っていくのである。

 それが1人足りないことで、残念ながらバンドとしてのマジカルな要素が発揮できなかった。
 それにバンドのメンバーも高齢化していて、クリスティンは74歳、スティーヴィー・ニックスは69歳だ。リズム隊の2人も70歳を超えている。果たしてどれだけ全盛期の姿まで近づくことができるのか不安でもある。

 このアルバムは、アメリカのチャートでは17位、イギリスでは5位まで上昇している。1人欠いてもこれだけの結果が出せたのだから、5人そろえばもっと素晴らしい結果につながるに違いない。次回は、“フリートウッド・マック”という名義のニュー・アルバムを期待するしかない。平均年齢が高くなっても、まだまだ需要も高いバンドなのである。

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2017年9月 4日 (月)

バッキンガム&ニックス

 前回に続いて、今年の夏によく聞いたアルバムを紹介しようと思った。まだまだ残暑が続くからである。それにしても、今年の夏は暑い日が多かったなあと感じている。

 それで紹介するアルバムは、「バッキンガム&ニックス」である。実はこのアルバムは以前からぜひ手に入れたいと思っていた。

 このアルバムは1973年に発表されたのだが、自分が最初に知ったのは1978年頃だった。それ以降も当時のレコード店の棚に並んでいた覚えがある。
 それで、なぜ気になったのかというと、1977年のフリートウッド・マックのアルバム「噂」がいたく気に入っていて、何度も何度も聞いていたからだ。

 それに彼らは、その全盛期のメンバーで1977年に来日公演を行っている。それは当時の洋楽雑誌である「ミュージック・ライフ」にも大きく取り上げられていて、ライヴ・レポートやメンバー写真などを見た記憶がある。1401x788107110185
 それから発表順を遡るかのように、1975年のアルバム「ファンタスティック・マック」も購入して、ヘヴィ・ローテーションで聞いていた。当時はフリートウッド・マックもフェイヴァレットなバンドの一つだったのだ。

 そして、フリートウッド・マックがそれほどまでに世界的なビッグ・バンドに変化したのも、1974年にバンドのメンバーになったリンジー・バッキンガムとスティーヴィー・ニックスのおかげなのであり、これは誰もが認める事実だろう。
 だから、バンドに加入する前の2人のアルバム「バッキンガム&ニックス」をぜひ聞いてみたいと思っていた。

 フリートウッド・マックについては、何回かこのブログでも言及しているので詳細は省くけれど、元々はイギリス出身のブルーズ・バンドで、1960年代後半は3大ブリティッシュ・ブルーズ・バンドとして、それなりに人気が高かった。
 70年代になって、メンバーの交代などで徐々にポップな路線を歩み始め、活動の舞台もイギリスからアメリカへと変わっていった。

 そして、新しいメンバーとして、リンジー・バッキンガムとスティーヴィー・ニックスが加入したのだが、そのきっかけとなったアルバムがこの「バッキンガム&ニックス」だったというわけである。

 ところがである。いつか買って聞いてみようと思っていたのだが、ジェスロ・タルやデヴィッド・ボウイ、次々と登場するパンク/ニュー・ウェイヴのアルバムに目移りしてしまい、いつのまにか「バッキンガム&ニックス」のアルバムは、店頭から消えてしまっていた。
 だから、このアルバムは、まさに約40年間、熱望していたアルバムであり、いつかは手に入れたいと思っていて、やっとその願いが叶ったのである。

 リンジー・バッキンガムは、カリフォルニアでフリッツというバンドで活動していた。いわゆる彼はマルチ・ミュージシャンなのだが、このバンドではベース・ギターを担当していた。
 1967年に、このフリッツにいた女性シンガーが大学進学のために脱退したので、代わりにアリゾナ州生まれのスティーヴィー・ニックスが加入した。

 当時はいわゆる“サマー・オブ・ラヴ”の影響で、サイケデリックな音楽やハードなサウンドが好まれていた。フリッツもそういう種類の音楽をやっていて、ジェファーソン・エアプレインやジャニス・ジョプリンのオープニング・アクト(前座)を務めることもあったという。

 キュートなスティーヴィーを中心に活動を行っていたフリッツは、かなり人気の高いローカル・バンドだったのだが、ヒット曲に恵まれず、残念ながらレコード会社との契約を結ぶことはできなかった。バンドは1971年に解散している。

 実は、リンジー・バッキンガムとスティーヴィー・ニックスは同じ高校の後輩と先輩という関係だった。彼らは高校生の頃から放課後に、ザ・ビーチ・ボーイズやザ・ママス&ザ・パパスの歌を歌っていたようだ。
 やがて彼らは恋人関係になって、2人で活動するようになった。そして2人は大学を中退して、サンフランシスコからロサンゼルスに居を移し、デモ・テープの制作に励んでいった。

 生活費を稼ぐために、スティーヴィー・ニックスはウェイトレスや清掃人として働き、リンジー・バッキンガムは父親のコーヒー園で働いていた。自分たちのことは自分たちで行うという自主独立の気風は、アメリカ人の精神的支柱なのだろう。

 スティーヴィーの父親は精肉会社の社長だったし、リンジーの父親の方はコーヒー園を経営していた。あまり関係ないけれども、リンジーの兄のグレッグは水泳の強化選手だった人で、1968年のオリンピック・メキシコ大会では銀メダルを獲得している。リンジー自身も一時は水泳選手を目指していたのだが、音楽がやりたくて途中であきらめていた。

 つまり2人とも裕福な家庭の出身だったのだが、2人とも親を頼ることもなく自分たちで決めた道を進んでいった。この辺はサクセス・ストーリーというか、アメリカン・ドリームの体現というものだろう。(ただし、リンジーのコーヒー農園にはレコーディング・スタジオが備え付けられていて、リンジーは昼は農園で働き、夜はデモ・テープを制作していた)

 ただ、スティーヴィーの方はもう疲れてしまい、貧乏でいることが嫌になり、もう一度大学に戻ろうかとも考えていたようだ。やはりお嬢様育ちには辛かったのだろう。

 そんなときに、幸運な出来事が起きた。スティーヴィーが清掃人として働いていた中にプロデューサー兼エンジニアのキース・オルセンの屋敷があった。そこで音楽プロデューサーと知り合いになったスティーヴィーは、自分たちの音楽のことを話したのである。

 キース・オルセンという人は、元々はミュージシャンでベース・ギターも演奏していた。やがては西海岸で、プロデューサー兼エンジニアとして活躍するようになった。
 フリートウッド・マックの「ファンタスティック・マック」や「噂」のみならず、ハートやサンタナ、ホワイトスネイクにスコーピオンズ等々のアルバムを手掛けている敏腕プロデューサー兼エンジニアである。

 彼らの音楽を聞いたキースは、さっそく彼らのアルバム「バッキンガム&ニックス」をプロデュースするとともに、伝手を通してポリドール・レコードと契約を結ぶように図った。だから今こうして彼らのアルバムを聞くことができるのも、キースのおかげなのである。

 また、リンジーとスティーヴィーは、スタジオ・ミュージシャンのワディ・ワクテルとも知り合いになり、一緒に行動するようになった。もちろん、このアルバムにもワディ・ワクテルは参加している。ワディは60年代の終わりからキースとは知り合いで、一緒に仕事をしたり遊んだりしていた。

 さらに、ワディの兄である写真家のジミー・ワクテルが、アルバム・カバーの写真を撮影し、アルバム・デザインも手掛けている。ひとつの出会いがまるでドミノ倒しのように、次々と新しい出会いを呼び、新たな扉を開いていく。人生は、何がどう転ぶかわからないものである。51zbtmdanjl

 残念ながら、商業的にはこのアルバムは失敗した。要するに、ヒット・シングルが生まれなかったからだろうが、親会社のポリドールもそんなに真剣になって彼らをプッシュしなかったことも理由にあげられるだろう。

 アルバムからは2曲がシングル・カットされた。最初は"Don't Let Me Down Again"というリンジーが作った曲で、このアルバムの中ではノリのよい曲で、そんなに悪くないと思うのだが、何故かヒットしなかった。

 2枚目のシングルはアルバムのオープニング・ナンバーの"Crying in the Night"で、ミディアム調のゆったりとした曲だった。スティーヴィーのソロ・アルバムに入っていてもおかしくない曲だが、確かにインパクトには欠けるかもしれない。

 結局、アルバムもシングルも売れずに、リンジーはエヴァリー・ブラザーズの元メンバーのバック・バンドの一員としてツアーに出かけ、スティーヴィーは元のウェイトレスに戻って働くという生活が続いた。

 転機は1974年の1月にやってきた。フリートウッド・マックのリーダーのミック・フリートウッドが彼らの曲"Frozen Love"を耳にして、彼らのことに興味を持ったのである。もちろん曲を聞かせたのはキース・オルセンだった。

 この曲はアルバム最後の曲で、このアルバムの中でリンジーとスティーヴィーの2人で書いた唯一の曲だった。ブルージーでダークな曲調で、やや複雑な構成を持っている。そんなにメロディアスな曲ではないのだが、ミック・フリートウッドには何か感じるものがあったのだろう。時間的にも7分16秒もあった。

 基本的には、このアルバムではアコースティック・ギターがメインに使用されていて、エレクトリック・ギターの使用率は低い。この"Frozen Love"でも同じことで、全体的にはアコースティック・ギターが目立っていて、イントロとエンディングのソロでエレクトリックが光っている。このリンジーのギター・テクニックにミックは魅力を感じたのだろう。

 このアルバムのオリジナルは10曲、トータルで36分42秒しかないのだが、今回の紙ジャケット・アルバムでは、シングル・ヴァージョンや未発表曲などを含めて21曲も収められていた。つまりボーナス・トラックが11曲も含まれているのだ。

 その中には、のちに2001年のスティーヴィーのソロ・アルバム「トラブル・イン・シャングリラ」に収められた"Sorcerer"や"Candlebright"、1982年のフリートウッド・マックのアルバム「ミラージュ」にアレンジし直されて収録された"That's Alright"などがあって、それらの原曲は74年頃に出来上がっていたというところが面白かった。

 更には、1974年当時にアラバマ州でのライヴ曲が3曲もあって、その中に「ファンタスティック・マック」に収められていた"Rhiannon"も歌われていた。一部の歌詞は違うが、メロディラインはスタジオ盤と同じだった。ただ、ライヴではかなりアグレッシヴでハードに展開されている。71lcfiljkl__sl1457_

 この曲は本来はアルバムから除外されていたのだが、最終的に"Candlebright"(オリジナル・タイトルは"Nomad"だった)と差し替えられたという。ちなみに、"Rhiannon"の方は1976年にシングル・カットされて、ビルボードの11位まで上昇している。

 また、なぜアラバマ州でライヴが行われたかというと、この「バッキンガム&ニックス」が唯一売れたところがアラバマ州だったと言われているが、本当だろうか。
 また、この頃のライヴでは"Monday Morning"も演奏されていたが、このアルバムには収録されていなかった。出し惜しみしたのだろうか。

 あくまでも個人的な感想なのだが、このアルバム・ジャケット見たときに、このアルバムが売れなかった訳が分かった。

 それはこの半裸の2人が美形過ぎたからだろう。男性は、こんなかわいい女性をものにしやがってと嫉妬しただろうし、女性ファンは、このイケメン・ミュージシャンの側にいる女性が気に食わなかったに違いない。結局、内容まで耳を傾けることもなく、ジャケット見て購買意欲が削がれたのだろう。もちろん私の邪推である。1024x1024

 結局、この2人がフリートウッド・マックというバンドに加入したおかげで、バンドは超メジャーになっていった。バンドが1998年にロックの殿堂入りを果たせることができたのも、この2人の貢献を抜きには考えられない。

 その原点が、この「バッキンガム&ニックス」というアルバムに含まれている。約40年間の謎が、やっと解けたような気がした。

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2017年8月28日 (月)

バンケット

 今年の夏によく聞いたアルバムの1枚を綴ろうと思った。昔でいうところのスーパー・バンドである。
 スーパー・バンドといえば、古くはクリームやジェフ・ベック・グループ、プログレ界ではE,L&Pやエイジア、アメリカン・ロックではC,S,N&Yやトラヴェリング・ウィルベリーズなどが思い浮かぶ。いわゆる、有名ミュージシャンが集まって結成されたバンドだ。

 ただ、それぞれがそれなりに功を遂げ名を成しているミュージシャンたちばかりだから、エゴも強い。バンド自体も長くは続かなくて、頻繁なメンバー・チェンジが起こったり、短期間で解散したりしてしまう。自己主張が高まったり、自分の才能や能力が十分に発揮されないと思ってしまうのではないだろうか。

 それで今回は、バンケットというスーパー・バンドの登場である。ただ残念なのは、そんなにメジャーなミュージシャンではないというところだろうか。
 とりあえず、どんな人たちが集まってきたか以下に記すことにする。全員知っていたら、本当に素晴らしいと思う。ロック検定1級合格は間違いないはずだ。まだ行われているかどうかは知らないけれど…Bnqt_kristenriffert05s

・エリック・プリード(G&Vo)、マッケンジー・スミス(Dr)、ジョーイ・マクラレン(G)、ジェシー・チャンドラー(Key) 以上、ミッドレイクより
・ジェイソン・ライトル(G&Vo&Key) グランダディより
・ベン・ブライドウェル(Vo&G) バンド・オブ・ホーセズより
・アレックス・カプラノス(Vo&G) フランツ・フェルディナンドより
・フラン・ヒーリィ(Vo&G) トラヴィスより

 ということで、ミッドレイクというバンドを中心にして、計5つの英米のバンドの中心メンバーが集まったバンドが、このバンケットなのである。
 バンド名を見ればわかるけれど、スーパー・バンドという名称の前に、“マイナー”とか“アンノウン”とかいう形容詞がつくような気がする。

 実際、アルバムのキャッチ・コピーにおいても“インディ・ロックのスーパー・グループ”という言葉が使われていたから、欧米諸国の人たちにとってもそんなにメジャーにはなっていないような気がする。 

 この5つのバンドの中で、比較的有名なのは、イギリス勢のフランツ・フェルディナンドとトラヴィスではないだろうか。前者は踊れるロック・バンドであり、後者は美メロのバンドである。両者ともスコットランドのグラスゴー出身だ。

 残りの3つのバンドは、いずれもアメリカのバンドである。ミッドレイクは、テキサスで1999年に結成されている。グランダディは、1992年にカリフォルニアで結成されたが、一旦解散して、また再結成された。
 この2つのバンドについては知っていたけれども、バンド・オブ・ホーセズに至っては、ノーマークだった。2004年にシアトルで結成されていて、米国よりも北欧の方で人気が高いようだ。

 自分が持っているCDの中であるのは、ミッドレイクとトラヴィスだけである。バンド・オブ・ホーセズに至っては、まったく知らなかった。まだまだ無知だと反省しなければならない。学ぶべきことは多いようだ。

 ミッドレイクのエリックが中心となって、他のメンバーに声をかけたそうである。だから、基本的にはミッドレイクがバック・バンドになって、5人のボーカリストが交互にリードを取っている感じである。

 エリック・プリードは、インタビューに次のように応えている。“このバンドは、トラヴェリング・ウィルベリーズの貧乏人バージョンだよ。もともとは2013年頃、ツアーをしていてふと思いついたんだ。憧れのミュージシャンや仲の良い人たちと一緒に仕事ができるってクールな体験だと思ったんだ”Photofrombnqttwitter

 それでエリックは、グランダディのジェイソンに声をかけて快諾を得た。エリックもジェイソンもお互いの音楽にリスペクトを払っていたらしい。
 次に、エリックはベンに呼び掛けた。ベンの方がミッドレイクに影響を受けた音楽をやっていて、ベンの方もかねてからミッドレイクとの共演を望んでいたという。

 アメリカ関係のバンドは、以上で出揃った。次はイギリス勢である。トラヴィスは美メロ中心のソフト・ロックに近いバンドだったから、ミッドレイクと結びついてもおかしくなかったが、フランツ・フェルディナンドに関しては音楽的方向性が少し違うような感じがした。

 詳細は不明だが、エリックはまたフランツのような音楽も個人的には好きだったようだ。だから声をかけたのだろう。また、フランツのような踊れる音楽もミッドレイクのようなフォーキーでサイケデリックなポップ・ミュージックと融合すれば、化学変化を起こしてさらに良質な音楽が生まれてくるだろうと思ったのかもしれない。

 いずれにしても今はネットの時代。基本的な楽曲はミッドレイクが用意したようだし、それらをネット上でやり取りをしながら磨きをかけ、より良いものにしてレコーディングしていったという。距離は遠く離れていても、ネット上では瞬時のやり取りで終わる。世の中便利になったものだ。

 それで出来上がったアルバムが「ヴォリューム1」という傑作だった。先のエリックのインタビューを見ても分かるように、トラヴェリング・ウィルベリーズをもろに意識している。
 全10曲で、リード・シングルの"Real Love"以外の曲は、5人のボーカリストが交互に歌っている。"Real Love"ではエリックとベン、アレックスが歌ったり、コーラスをつけたりしていた。61iw2w70qzl
 アルバムは"Restart"という曲から始まる。なぜ“再出発”というタイトルになるのかよくわからないのだが、今までの生き方を見直して、自分らしく生きていこうという決意溢れる曲だった。
 曲調からして、まさにトラヴェリング・ウィルベリーズのようなのだが、これにちょっとしたシンセサイザーの音がかぶさっているので、そういう意味ではフランツ・フェルディナンドの影響も受けている。

 イントロのピアノの音がまるでニッキー・ホプキンスの演奏のように聞こえてくる"Unlikely Force"は、ホーンも加えられて、ポップでさわやかな感じがする。リード・ボーカルは、バンド・オブ・ホーセズのベンらしい。

 次の"100 Million Miles"は本当にドリィーミーな曲で、ストリングスの使い方がまるでポール・マッカトニーのようだった。この曲を歌っているのはグランダディのジェイソン・ライトとのことである。

 4曲目の"Mind Of Man"では、トラヴィスのフラン・ヒーリィが歌っていて、まるでトラヴィスの曲といってもおかしくはないほどのメロディアスな曲になっている。もっと長く歌ってほしいと感じた。

 このアルバムの特徴は、美しいメロディに絡み合うストリングスやシンセサイザーだろう。例えば、フランツ・フェルディナンドのアレックス・カプラノスが歌う"Hey Banana"でもその効果が表れているし、途中で映画のセリフも流れてきて、怪しい雰囲気をより一層高めている。しかもダンサンブルというところが、いかにもアレックスが歌うのに似合っている。

 ちなみに映画は、1974年の「A Woman Under the Influence」というもので、邦題は「こわれゆく女」と名付けられていた。ピーター・フォークやジーナ・ローランズなどが主演している。

 シングルカットされた"Real Love"は、まさにトラヴェリング・ウィルベリーズのパクリである。それだけ愛着が深いというか、憧れの存在なのだろう。高音のピッコロや途中のギターやキーボードのソロが印象的だった。

 "Failing at Feeling"では、シンプルなピアノをバックにジェイソンが切々と歌っていて、途中にストリングスのアレンジが加えられている。ミディアム・テンポのバラードだ。

 トム・ペティの曲のように感じるのが"LA on My Mind"である。途中からどんどんハードになっていくところが興味深い。
 歌っているのが、おそらく自分のアルバムではこういう曲は歌わないだろうなというトラヴィスのフランである。どんな気持ちで歌っていたのだろうか。おそらくたまにはこんな歌もいいだろうと思っていたような気がする。

 さらにアップテンポになるのが9曲目の"Tara"で、軽快なロックン・ロールが収められているところに、このバンド・メンバーでの化学反応があるのだろう。こういう曲は、それぞれが自分のバンドに戻った時には、決してやらないだろうという類のものだからだ。後半のリード・ギターがカッコいい。

 そして最後の曲"Fighting the World"は、何となくミッドレイクの曲調を髣髴させてくれる。このアルバムの最後を締めくくるにふさわしい曲で、ある意味、このメンバーでの最大公約数的曲ともいえるだろう。安心して聞くことのできる曲が最後に置かれているところは、エリックの意思が示されているようだ。20170310175228
 このアルバムが商業的に成功すれば、おそらく第2弾、第3弾と次のアルバムが発表されるだろう。エリックはノラ・ジョーンズにも参加してほしいと言っているから、こうなると、スーパー・バンドというよりは、スーパー・プロジェクトになってくる。

 果たして本家のトラヴェリング・ウィルベリーズを超えるかどうかは、このアルバムの成功にかかってくるのである。

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2017年8月21日 (月)

トッド・ラングレンの新作

 トッド・ラングレンの新作が発表されて、約3か月経った。このアルバムのタイトルは、「ホワイト・ナイト」という。“ナイト”は“夜”という意味ではなくて、“騎士”の方の“ナイト”である。

 だから、“白馬の騎士”という意味なのだが、どういう意図でこういうタイトルになったのかはよくわからない。
 経済界では、“ホワイト・ナイト”というと、敵対的買収を仕掛けられた企業を救うような役割をする人や会社を指すが、このアルバムではトッドを支援しようとする意味で、多くのミュージシャンが参加していた。そういう意味では、確かに“ホワイト・ナイト”がいっぱいいるようだ。

 全15曲(国内盤では16曲)が収められていて、3曲以外は、誰かをフィーチャーしていたり、誰かと一緒に演奏や楽曲をコラボしている。だから、トッドの才能と他のミュージシャンとの才能がぶつかることで、化学反応が引き起こされて、印象的な楽曲が生まれて来るのであろう。41vohqxrw5l
 また、このアルバムは、トッドにとっては26枚目のソロ・スタジオ・アルバムにあたる。前作や前々作がEDM、いわゆるエレクトリック・ダンス・ミュージックが主体のアルバムだったのに対して、このアルバムにはトッド本来のポップな要素やソウル色が目立っている。
 だから、旧来のトッド・ファンにとっては、曲によっては“待ってました”と言えるようなアルバムに仕上げられている(と思う)。

 もう少し正確に言うと、全体的には、確かにポップでソウルなフィーリングが流れているのだが、部分的には前作までの流れを反映した曲も含まれていて、そういう意味では、バラエティに富んでいると言った方が正確かもしれない。

 1曲目の"Come"はトッドのオリジナル曲で、他のミュージシャンは関わっていない。アルバムのオープニングを飾るにふさわしい荘厳なミディアム・テンポの曲。シンセサイザー等を含む多彩なキーボードがカラフルな色どりを添えている。

 次の"I Got Your Back"にはディム・ファンクという人と、KK・ワトソンという人が関わっている。前者はDJ兼ラップ・ミュージシャンで、スヌープ・ドッグともコラボの経験があるらしい。ただ、自分はこのジャンルには詳しくないので、これ以上のことはわからない。
 後者のKK・ワトソンはハワイ在住のミュージシャンのようで、普段の生活面でもトッドと交流があるようだ。

 3曲目の"Chance For Us"には“フィーチャリング・ダリル・ホール・ウィズ・ボビー・ストリックランド”と記載されていた。ダリル・ホールは、かの有名な“ホール&オーツ”の片割れだし、もう一人のボビー・ストリックランドとは80年代からのトッドと共演してきたサックス奏者のようだ。曲自体もスローなエレクトリック・ソウル・ミュージックに仕上げられていた。

 次の"Fiction"はトッド一人で作った曲で、近年の彼の音楽を形作ったEDM系の曲。どうしてトッドほどの才能のある人が、こういうダンス・ミュージックに走るのかよくわからない。確かに今のポップ・ミュージック界の主流の音楽の1つには違いないが、どの曲も同じように聞こえてくるので、個人的にはあまり興味を持てないのである。

 "Beginning (of the End)"にはジョン・ブッテという人がフィーチャーされていて、曲のほとんどすべてを歌っている。一聴すると女性のようにキーが高いのだが、58歳の男性である。ニューオーリンズ出身ののジャズ・シンガーのようで、シルクかベルベットの肌触りのような声が非常に魅力的だった。トッドのお眼鏡に叶ったのだろう。

 "Tin Foil Hat"には、ドナルド・フェイゲンが参加していて、クールでジャジーな音世界を現出させている。聞いただけではスティーリー・ダンの曲だと言われても分からないだろう。
 それにトッドの好きなソウル・ミュージックのスパイスもふりかけられているので、他のミュージシャンのアルバムでは聞くことのできないような絶妙な雰囲気を醸し出している。

 "Look at Me"は、完全なEDMで、架空のライヴ空間の中でエレクトリックなビートとともに、たっぷりとトッドが歌いまくっている。この曲にはマイケル・ホルマンという人がフィーチャーされているが、日本ではあまり知られていないのではないか。1970年代の終わりからニューヨークを中心に活動をしていたグレイというバンドのメンバーでもあった。

 一転して70年代のトッドに戻ったような曲が8曲目の"Let's Do This"で、こういうポップな曲をもっと入れてほしかった。
 この曲にはカナダのバンドのパースート・オブ・ハピネスのメンバーであるモー・バーグという人が関わっている。この人はトロント周辺で活躍しているミュージシャンで、このバンドのアルバムをトッドがプロデュースしたことから親交が始まったらしい。トッドお気に入りの58歳のミュージシャンである。51b5c048ce0aaa915be3d669f69ffbe8
 次の"Sleep"という曲もメロディアスな佳曲で、ここでギターを弾いているのはイーグルスやジェイムズ・ギャングで活躍したジョー・ウォルシュである。
 曲のメロディやコード進行がユニークで、まさにポップ・ミュージックのマエストロといわれる所以が伺えるようだ。

 珍しく女性シンガーがフィーチャーされているのが"That Could Have Been Me"で、ここで歌っているのはスウェーデン出身のロビンという人だ。
 今年で38歳になった彼女だが、10代の頃から活躍しており、ここではスローなバラードをチャーミングな声で歌っている。

 トッドとナイン・インチ・ネイルズの組合せはユニークだ。トッド流のEDMがインダストリアルで無機質なダンス・ミュージックに変化したのも、ナイン・インチ・ネイルズのリーダーのトレント・レズナーと昨年加入したアッティカス・ロスの影響だろう。ただし曲自体は2分58秒とそんなに長くはなかった。"Deaf Ears"というタイトルが、何やらシンボリックでもある。

 12曲目"Naked & Afraid"にはベテラン・ソウル・シンガーのベティ・ラヴェットが参加していて、これがまたソウル風EDMになっている。何でも吸収し、融合してしまう貪欲なトッドだが、そういう彼の姿勢が新たな音楽的潮流を生み出していくのだろう。

 ちなみに、ベティは今年71歳になるミシガン州出身のアフリカ系アメリカ人女性だが、そういう年齢の高い人が流行りの音楽に乗って歌うところが興味深い。ライヴで見てみたい気がする。

 13曲目の"Buy My T"は、プリンス風のファンキーな曲。タイトルの"Buy My T"とは“俺のTシャツを買え”という意味のようで、特に深い意味はない。こういう曲にこそブーツィー・コリンズやスタンリー・クラークなどを呼んでほしかった。

 "Wouldn't You Like to Know"には、息子のリバップ・ラングレンが参加している。リバップがどのような役割を果たしているのかはわからない。ギターやバック・コーラスなどに加わっているのではないだろうか。

 そして15曲目の"This Is Not A Drill"はアルバム最後を飾るにふさわしいスピーディーでギンギンのハード・ロック・ナンバーだ。
 何しろドラマーが元チューブスのプレイリー・プリンス、ベーシストは元ユートピアで今でも交流のあるカシム・サルトン、そしてギターを弾いているのはジョー・サトリアーニである。このメンツを見ただけで興奮、鳥肌ものだろう。

 しかもバックにはストリングスを用いていやがうえにも盛り上げようとしているから、オープニングからエンディングまで緊張感漂いっぱなしなのである。
 ただ惜しむらくは、3分17秒という時間の短さだろうか。もう少し膨らませて5分ぐらいにしてほしかった。

 このアルバムには15曲も収録されているせいか、1曲当たりの時間が短いのだ。4分を超える曲は2曲しかないし("Come"と"Chance For Us")、ほとんど3分台、2分台も2曲ある("Sleep"と"Deaf Ears")。

 だから、個人的にはEDM系の曲は短くても構わないので、それ以外の曲はもう少し長くしてほしかったと思っている。アルバム自体も約52分少々しかないので、せめて70分前後にまとめてほしかった。3
 それでも以前よりはポップ、ロック、ソウル寄りになっているところが、ファンにとってはうれしい。
 商業的には決して成功したとは言えないけれども、69歳になってもまだ旺盛な創作意欲を見せてくれるところも素晴らしいと思う。

 過去に名をはせた多くのミュージシャンたちが過去のアルバムの再録とか、過去のヒット曲しか演奏しない中で、トッドは意欲的に新しいトレンドや楽曲に挑戦している。
 また、今作のように他のミュージシャンたちと積極的にコラボレーションしている。こういう姿勢がまさにロックだと思うのだが、他の人はどう思うのだろうか。

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2017年7月24日 (月)

ヴォーン・ブラザーズ

 スティーヴィー・レイ・ヴォーンのことについては、前回と前々回で述べたつもりだが、少しだけ補足させてもらうことにした。

 1990年の8月27日の飛行機事故を起こしたのは、4機のヘリコプターの中の1機だった。3機が無事に到着して、1機だけが行方不明になったのだが、人工スキー場の斜面に墜落したのは、午前0時35分頃と言われている。

 また、亡くなった人は、ジャクソン・ブラウンやC,S&N、ジェフ・ベックなどのマネージメントを行っていたエージェントのボビー・ブルックス、エリック・クラプトンのボディーガードを務めていたナイジェル・ブラウン、ヘリコプターを操縦していたジェフ・ブラウン、そして再出発を果たしたスティーヴィー・レイ・ヴォーンの4人だった。

 スティーヴィー・レイ・ヴォーンの死後、彼の生前の未発表曲を集めて監修し、発表したのは、スティーヴィー・レイ・ヴォーンの実兄だったジミー・ヴォーンだった。そのアルバム・タイトルが「ザ・スカイ・イズ・クライング」であるというのは、前回述べた。

 そして、実はもう1枚、生前に録音されていたアルバムがあって、死後、約1か月後に発表されている。それが、今回取り上げたアルバム「ファミリー・スタイル」である。61gf12gyftl
 このアルバムは1990年の9月25日に発表された。レコーディング自体は、1990年と記載されていた。スティーヴィー・レイ・ヴォーンの薬物問題が一段落してから録音に取り掛かったものと思われる。
 アルバムのクレジットは、“ヴォーン・ブラザーズ”となっていて、兄弟で制作しましたということを主張していた。

 これはあくまでも推測だが、兄弟はそれぞれ自分のバンド活動を続けながらも、兄弟でアルバムを発表するつもりだったのではないだろうか。その第一弾がこの「ファミリー・スタイル」で、この後も定期的にアルバムを出すつもりだったと考えている。特にその根拠はないのだが、それほどこのアルバムには、リラックスした兄弟の音楽活動がパッケージされていたからだ。

 プロデューサーは、ナイル・ロジャーズだった。80年代からナイル・ロジャーズはロック・ミュージシャンとコラボすることが多かったが、このアルバムのタイトル「ファミリー・スタイル」に相応しい兄弟愛と充実した演奏を生み出していたと思う。

 自分はもう少しギター・バトルやそれぞれのギター・ソロを期待していたのだが、期待していたようなスリリングなソロなどはあまり聞くことができず、自分たちのやりたい音楽をそのまま楽しみながらやっているようだった。

 1曲目はノリのよい"Hard to Be"で、ところどころのホーンの音と乾いたストラトキャスターの重なり合いがロックさせてくれる。曲はスティーヴィー・レイ・ヴォーンとドラマー兼シンガー・ソングライターのドイル・ブラムホールが書いている。
 基本的に、曲を書いた人がリード・シンガーとして歌い、ギター・ソロも担当しているようだ。

 2曲目は"White Boots"という曲で、ジミー・ヴォーンが歌い、ソロを取っている。ただし、曲自体はビリー・スワン、ジム・レスリー、デボラ・ハッチンソンという人たちのカバー曲だった。

 3曲目はインストゥルメンタル曲の"D/FW"で、ジミー・ヴォーンが手掛けていて、リードをジミーが、高音のソロ・パートをスティーヴィー・レイ・ヴォーンが弾いているようだ。2分52秒と短いが、ミディアム調のノリのよい曲である。

 次の"Good Texan"は、ジミーとプロデューサーのナイル・ロジャーズが作った曲で、ボーカルとリード・ギターはジミーが担当している。これもミディアム調の聞きやすい曲だった。

 "Hillbillies From Outerspace"は、兄弟で作った曲だが、リチャード・ヒルトンの弾くオルガンとプレストン・ハバードのアップライト・ベースがジャズっぽい雰囲気を作っている。スティール・ギターは兄が、エレクトリック・ギターは弟の演奏だが、特に、目立つようなギター・ソロは聞くことができなかった。
 ちなみに、プレストン・ハバードは、ジミーが所属していたバンド、ファビュラス・サンダーバーズのベーシストだった。964fd71ca1dababd466991321dd77b5d_2
 気分は一転して、"Long Way From Home"はスティーヴィー・レイ・ヴォーンとドイル・ブラムホールの曲で、速いテンポに乗ってスティーヴィー・レイ・ヴォーンのボーカルとギターがフィーチャーされていた。こういう曲をもう2~3曲やってほしかった気がする。

 7曲目の"Tick Tock"はバラードで、ジミー・ヴォーンの他にナイル・ロジャーズやジェリー・リン・ウィリアムスも曲作りにかかわっている。
 ジミ・ヘンドリックスのような語りの部分はジミー・ヴォーンが、それ以外の部分は弟が歌っている。なかなかの佳曲で、歌詞の内容も愛と平和の世界を築き上げようというわかりやすいものだった。

 ロック調の"Telephone Song"は、聞いただけでスティーヴィー・レイ・ヴォーンの曲だとわかるもので、ボーカル&ギターも彼がメインになっている。
 このアルバムでは、彼のギター・ソロは全体的にやや抑え気味のようだったが、この曲の間奏ではやっと彼の豪放なギターを聞くことができた。

 このアルバムでは、4曲のインストゥルメンタル曲が収められていて、3曲目と5曲目にある"D/FW"と"Hillbillies From Outerspace"、後半の曲、9曲目と10曲目の"Baboom/Mama Said"と"Brothers"は、いずれも趣の異なる曲だ。

 "Baboom/Mama Said"は、珍しくブラッキーでファンク調の曲だった。ナイル・ロジャーズもギターで参加しているところを見ると、彼の意見も反映されていたのだろう。女性のボーカルがより一層黒っぽさを演出している。
 曲自体は、兄弟2人とデニー・フリーマンというテキサス出身のミュージシャンで仕上げられていた。

 最後の曲の"Brothers"は5分5秒のスロー・ブルーズで、兄弟で書かれている曲だが、アコーディオンが使われている点が注目を引いた。
 最初のギター・ソロのパートは弟のスティーヴィー・レイ・ヴォーンが、次のパートはジミーが弾いている(と思う)。
 ギターが炸裂しているという印象を受けた曲で、どうせなら、兄弟による全曲オール・インストゥルメンタル曲でアルバムを埋めても十分いけると思ったのだが、もう二度と聞くことができないのが残念でならない。

 ジミー・ヴォーンは、テキサス州のダラスで活動を始め、オースティンに移って、ボーカリストのキム・ウィルソンとファビュラス・サンダーバーズを結成した。1974年頃のお話である。01stevie
 彼らは地道にライブを重ねていき、1979年に念願のアルバム・デビューを飾り、クリサリス・レコード系列からデビュー・アルバムを発表した。

 基本的には、ジミーのギターとキムのハーモニカをフィーチャーしたリズム&ブルーズのバンドだったが、徐々にロカビリーやポップなロックン・ロールの傾向を強めていった。

 特に、1982年に発表された4枚目のスタジオ・アルバム「T-バード・リズム」からその傾向が強くなっていった。何しろアルバムのプロデューサーだったのがニック・ロウだったからだ。
 これは、彼らがイギリスで公演をしたときに、ロックパイルと共演したことが切っ掛けとなって、バンド・メンバーのニックが申し出たようだ。

 それで次のアルバム、「タフ・イナフ」は1986年に発表されたが、今度のプロデューサーはデイヴ・エドモンズになっていた。ニックもデイヴも、ロックパイルでは“レノン&マッカートニー”的存在と言われていたから、ニックの次にはデイヴが担当したのだろう。

 このアルバムのタイトルと同じ曲"Tuff Enuff"は、彼らにとって唯一のトップ40の中に入ったシングル曲で、最高位は10位を記録している。615fdcnddl
 弟のバンドのダブル・トラブルは、ブルーズ中心のバンドだったからスティーヴィー・レイ・ヴォーンのギターも唸りを上げていたが、ファビュラス・サンダーバーズの方はもう少し音楽性が幅広くて、純粋なブルーズ・ミュージックというよりも、ロカビリーやロックン・ロール、メキシコ音楽の影響を受けたテックス・メックスなどもやっていた。だからアルバムにもそういう音楽性が反映されていた。

 それがよく表れているのが、最後のインストゥルメンタル曲である"Down at Antones"で、キムのブルーズ・ハープを前面に出したノリのよいオールディーズ・ナンバーのようなこの曲は、50年代のダンス・ミュージックのようなものだった。クラブでかければみんな踊りだすのではないかと思われる曲でもある。

 ところで、“Antones”とはオースティンにあるクラブの名前で、多くのミュージシャンやバンドが、今もなおここで切磋琢磨しているとのことである。

 自分はもう少しジミーのギターがフィーチャーされていてほしかったのだが、残念ながらそうではなかった。基本的にこのファビュラス・サンダーバーズは、ボーカルのキムのバンドなのだろう。だからキムが歌っていないときは、ハーモニカが聞こえてくるのである。

 もともとキムは北部のデトロイト出身で、オースティンでジミーと出会い、意気投合してバンドを結成したという経緯があった。だからというわけでもないのだろうが、当初はジミーのブルーズ色とキムのロックン・ロール色とがうまい具合に化学反応を示したのだろう。

 "Two Time My Lovin"なんかは、まるでヒューイ・ルイス&ザ・ニューズの"Stuck with You"のようだし、"Amnesia"はジェリー・リー・ルイスの"Great Balls of Fire"を思い出させてくれるほどだった。

 だからこのアルバムでは(というかこのバンドでは)、弟のスティーヴィー・レイ・ヴォーンのようなギター・ソロを聞くことは難しいのだ。確かに、"Wrap It Up"や"Why Get Up"などの曲の間奏では、的確なジミーのギター・ソロを聞くことができるのだが、ジミーの個性までは伝わってこない。

 エルヴィス・プレスリーの"Burning Love"のような"True Love"では、ジミーのギターが主張していて個人的には気に入っているのだが、こういう曲をもっと聞かせてほしかった。

 それでもこのアルバムの成功に気をよくしたバンド・メンバーとプロデューサーのデイヴ・エドモンズは1987年には「ホット・ナンバー」という同じ路線のアルバムを発表したのだが、残念ながら、このアルバムからはシングル・ヒットは生まれず、アルバム自体もそんなに話題を集めることはなかった。

 ここでデイヴ・エドモンズとは縁を切って、1989年の次作はメンフィスで録音した。このアルバムからは、トム・クルーズが主演した映画「カクテル」の挿入歌"Powerful Stuff"がヒットして、再び彼らは注目を集めた。

 だが、バンドは成功しても、ジミーとしては弟スティーヴィー・レイ・ヴォーンの活躍が頭にあったのだろう、ジミー自身も1990年にファビュラス・サンダーバーズを脱退して、ソロ活動を始めるようになったのである。
 
 その後のファビュラス・サンダーバーズは、活動は続けているものの、オリジナル・メンバーは、ボーカリストのキム・ウィルソンだけになってしまった。ジミーが脱退するときには、そういう傾向や雰囲気をジミーは感じ取っていたのかもしれない。

 ジミーは現在66歳。弟スティーヴィー・レイ・ヴォーンの遺志を受け継ぐかのように、現役プレイヤーとして現在のブルーズ界を牽引している。D38a7b4ec600f1e1dbfb64e08c5870af
 ギタリストとしてはそんなに派手な印象はないのだけれど、その堅実なプレイには定評がある。2001年にはグラミー賞も受賞しているし、これからも活躍してほしいミュージシャンの一人だと思っている。

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2017年7月17日 (月)

スティーヴィー・レイ・ヴォーン(2)

 スティーヴィー・レイ・ヴォーン(以下S.R.V.と略す)と彼のバンド、ダブル・トラブルは、1985年に3枚目のアルバム「ソウル・トゥ・ソウル」を発表したが、その前後に全米を含むワールド・ツアーを行った。もちろん、日本での公演も含まれていて、その時は東京、大阪、名古屋の3か所で行われていた。

 翌年には、その時の模様を収録した2枚組ライヴ・アルバム(CDでは1枚組)が発表された。残念ながら日本公演でのライヴ演奏は含まれていないが、1985年7月16日から19日にかけて行われたスイスのモントルー・ジャズ・フェスティバル、地元テキサス州のオースティンやダラスでの演奏が13曲分収められていた。51xxfjpubpl
 このライヴ・アルバムは、それまでの3枚のアルバムから10曲、カバー曲の3曲で構成されていた。デビュー・アルバムの「テキサス・フラッド~ブルースの洪水~」からは"Pride And Joy"、"Mary Had A Little Lamb"、"Texas Flood"、"Love Struck Baby"の4曲、セカンド・アルバムの「テキサス・ハリケーン」からは"Cold Shot"とジミィ・ヘンドリックスのカバー曲"Voodoo Chile"の2曲、そしてサード・アルバムの「ソウル・トゥ・ソウル」からは"Say What!"、"Ain't Gone'n' Give Up On Love"、"Look At Little Sister"、"Change It"の4曲だった。

 カバー曲は、ベック、ボガート&アピスも1973年にカバーしたスティーヴィー・ワンダーの名曲"Superstition"、チェスター・バーネットことハウリン・ウルフの1958年のブルーズ"I'm Leaving You(Commit A Crime)"、そして実在したギャングのことを歌った1980年の"Willie the Wimp"の3曲で、"Willie the Wimp"は兄のジミー・ヴォーンも録音していた曲だった。

 そして、3歳年上のジミー・ヴォーンもこのライヴ・アルバムに参加していて、"Willie the Wimp"、"Look At Little Sister"、"Love Struck Baby"、"Change It"の4曲で、彼のギターを聞くことができる。

 このアルバムで特筆すべきことは、キーボードの存在である。リズム・セクションは、以前からの付き合いだったベース・ギターのトミー・シャノン、ドラムスにはクリス・レイトンだが、サード・アルバムから参加したキーボーディストのリーズ・ワイナンスのオルガンやピアノでの演奏が、サウンドに色どりを添え、音の厚みをもたらしているのである。

 ただ、演奏に関してはあくまでもバックの演奏に徹していて、決して目立っているわけではない。主役のS.R.V.の引き立て役に回っている。その姿勢に好感が持てる。
 冒頭の曲"Say What!"ではやや目立ってはいるものの、後半の"Voodoo Chile"ではほとんど目立たない。その次の"Love Struck Baby"ではブギウギ調のピアノ演奏がよかった。

 とにかく、このライヴ・アルバムでは、S.R.V.が気持ちいいほど弾きまくっていて、ファンとしては十分堪能できた。速いテンポの"Say What!"とスロー・ブルーズの"Ain't Gone'n' Give Up On Love"の最初の2曲を聞いただけで、もうこのアルバムの素晴らしさが分かるというものだった。“ロバート・ジョンソンの後継者”、“帰ってきたクラプトン”そんなキャッチ・フレーズが浮かぶアルバムでもある。

 S.R.V.は、1954年の10月にテキサス州のダラスに生まれた。子どもの頃からB.B.キングやレイ・チャールズの曲、ジェフ・ベックなどのイギリスのロック・ミュージックなどを聞いて育ち、12歳で演奏活動を始めた。最初は、兄ジミーのバンドでベース・ギターを弾いていたようだ。

 その時に、アルバート・キングのテープを聞いて、生涯をかけてブルーズを追い求めようと決意したと言われている。“彼らの演奏を聞いていると、何故あんなにリラックスして演れるのか不思議に思うよ。だからいまだに僕は勉強中の身さ。残りの人生の全てを費やしても演ってみたいんだ。その境地にたどり着くまでね”

 その後、S.R.V.は高校に入学するも、毎晩クラブで演奏していたため、学業との両立が立たずに高校を中退した。そして、水を得た魚のように、ダラスからオースティンに移って、クラブで住み込みのような生活を続けながら、毎晩ステージに立って演奏を続けるのであった。

 そんな中で、盟友のトミーとクリスに出会って、3人でバンドを結成した。まもなくこの3人のバンド、“ダブル・トラブル”はオースティンの人気バンドになり、しばらくしてテキサス中にその名が響き渡っていったのである。12096487_10207885073903892_33987225
 彼が世界的に有名になったのは28歳の時だったが、10代の後半からドラッグに手を出し始め、20歳を超えた時にはアルコールとコカインを一緒に摂取するようになったていた。もともと6歳頃から父親のお酒を盗んでは嗜んでいたようで、そのうち自分で調合してオリジナルのお酒を造っていたと言われている。本当の話だろうか?

 実際に、彼が24歳の時、テキサス州のヒューストンの楽屋でコカインを吸引していたところを逮捕されて、1000ドルの保釈金を払っている。マディ・ウォーターズのオープニング・アクトとして出演する前だった。
 マディは彼が薬物中毒だということを知っていて、S.R.V.は素晴らしいギタリストだが、このままいけば、40歳まで生きられないだろうと語ったという。

 とにかく、S.R.V.には飲酒のみならずドラッグの常習者だったようで、彼が成功の階段を駆け足で登るのと同時に、その摂取量も増えていった。特に1985年から86年にかけてのワールド・ツアー中は、そのストレスからか、ほぼ毎日ドラッグ漬けだったようだ。

 1986年9月のドイツ公演後、ホテルに戻ったS.R.V.は脱水症状になり、急遽、病院に運ばれた。医者からはこのままいけば、あと1ヶ月もつかどうかわからないとまで言われたらしい。まさに死の一歩手前だったのである。

 アメリカに戻ったS.R.V.はジョージア州アトランタにある医療施設に入所し、治療に専念することになった。約1か月の治療の後、彼は故郷のダラスに戻ってリハビリを行っている。

 また残念なことに、1987年の1月にS.R.V.は離婚を経験した。妻の方から切り出されたようだ。やはりロック・ミュージシャンとの生活は、常識外れなだけに、気苦労が多かったのかもしれない。
 だから、次のアルバムまで約2年かかっている。彼の体調回復と心の痛手を解消するためには、それだけの年月が必要だったのだろう。

 彼の4枚目のスタジオ・アルバムは、1989年の6月に発表された。今まで通りのギター中心のブルーズ曲に加えて、ブラス・セクションも加えての豪華なレコーディングになっていた。51s7gqx8mql
 このアルバム「イン・ステップ」は、全米アルバム・チャートで33位を記録し、ダブル・プラチナ・アルバムに認定された。また、グラミー賞のベスト・コンテンポラリー・ブルーズ・アルバム賞も獲得している。
 ちなみに、ルー・リードは、このアルバムを1989年度のベスト・アルバムの1枚と評価していて、自分の友人たちに勧めていたらしい。

 エリック・クラプトンは、薬物中毒から回復したときには、いわゆる“レイド・バック”して戻ってきたのだが、S.R.V.の場合は、以前よりもより一層ブルーズ色の濃いアルバムを発表した。ある意味、彼にとっては、今後の進む方向性というか決意を込めたようなアルバムだったと思う。自分にはこれしかないんだという気持ちだったのではないだろうか。

 アルバムの中のいくつかの曲は、ドイル・ブラムホールとの共作になっているし、中にはS.R.V.がリハビリ中に、バンド・メンバーが中心となって作った"Crossfire"という曲も含まれていた。
 また彼一人で作った"Travis Walk"、"Riviera Paradise"という曲も含まれていた。両方ともインストゥルメンタル曲で、後者の方ではジェフ・ベックのようなクールなスロー・バラードの演奏を聞くことができる。

 カバー曲は3曲で、ウィリー・ディクソンの1961年の曲"Let Me Love You Baby"、バディ・ガイの1965年の曲"Leave My Girl Alone"、ハウリン・ウルフの1964年の"My Country Sugar Mama"のサイドBだった"Love Me Darlin'"である。

 自分は、このアルバムの印象としては、まさに新しいスティーヴィー・レイ・ヴォーンの姿を顕現し、次のステップとしての方向性を指し示すものだと感じていた。

 1曲目の"The House is Rockin'"なんかは、50年代か60年代の古いブルーズ曲のカバーだと思っていたら、S.R.V.とドイル・ブラムホールの共作曲だった。2分20秒余りの短い曲なのに、ギターは自己主張し、ピアノは踊っていて、超カッコいい。

 また、インストゥルメンタル曲の"Travis Walk"はスピーディーで、自分もギタリストならこんな曲を弾いてみたいと思わせるものだった。また、キーボード担当のリーズの転がるようなピアノ・プレイが短いながらも印象的だった。

 9曲目の"Love Me Darlin'"も3分21秒しかないのに、長く感じた。たぶんギターの音数が多いからだろう。しかも他の曲もそうなのだが、この曲でもバリバリと弾きまくっていて、素晴らしい。きっと天国のハウリン・ウルフも喜んでいるに違いない。

 そして最後の曲"Riviera Paradise"は、ジャズっぽくて、今までの彼とは違う趣の曲だった。それこそサンタナの「キャラヴァンサライ」の中の曲か、ジェフ・ベックの「ワイヤード」のアウトテイクの曲のようで、しっとりとした情感がクールなギターとエレクトリック・ピアノによって進行していくのである。8分49秒もある長い曲で、S.R.V.のオリジナル曲だった。

 このアルバムは、彼を見出してくれたミュージシャンでプロデューサーでもあったジョン・ハモンドに捧げられている。ジョンは、1987年の10月に74歳で亡くなった。病死だった。
 そのせいだろう、このアルバムでのS.R.V.のギターは、何かに憑りつかれたように素晴らしい演奏をしていた。

 ただ、この時はまさか自分もジョンのそばに行くとは思ってもみなかっただろう。薬物中毒を克服して、新境地を開いた矢先の出来事だった。運命とはまさに皮肉なものである。

 1990年8月26日、ウィスコンシン州イースト・トロイにあるアルパイン・ヴァレー・ミュージック・シアターにおいて、エリック・クラプトンやロバート・クレイ、バディ・ガイらとともに、“ブルーズ・サミット”を開催し、大成功させたスティーヴィー・レイ・ヴォーンは、シカゴ行きのヘリコプターに乗り込んだ。

 当初は予定にはなかったのだが、席が空いているからという理由で乗り込んだのである。同機には、クラプトンのエージェントやツアー・マネージャー、ボディガードの3人も同乗していた。

 翌日27日の未明に、濃霧のための視界不良のせいか、ヘリコプターは近くのスキー場のゲレンデに墜落して、パイロットを含む乗員全員が亡くなった。S.R.V.は35歳だった。

 彼は1983年のデビューから約7年間で、公式には4枚のスタジオ・アルバムと1枚のライヴ・アルバムを発表している。歴史に“もし”という言葉は禁句かもしれないが、もし彼が生きていたらと思うと、残念で残念でたまらない。

 彼のことだから、ブルーズ一辺倒の音楽をやることは間違いないだろうが、印象的でノリのよいリフや美しいメロディを残しただろう。
 彼の死後、1984年から89年までのアウトテイク集を集めたアルバム「ザ・スカイ・イズ・クライング」が発表されたが、選曲したのは兄のジミーだった。51lmysl4il
 S.R.V.の素晴らしさは、そのブルーズの解釈性の巧みさだったのではないだろうか。基本はブルーズだったが、それをロック風に解釈して見せたり、後年にはジャズ的要素も取り入れようとさえしていた。そのまま続いていたなら、ひょっとしたらソウル風楽曲やファンク色も取り入れたものも発表していたのかもしれない。

 ロバート・ジョンソンのように、本物のブルーズ・ミュージシャンは短命なのだろうか。そして、悲劇的な死を迎えるのだろうか。

 “スティーヴィーは本当に素晴らしいやつだったね。あいつのギター・プレイと歌には人を引き付けずにはいられない何かがあった”(ボブ・ディラン)

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