2019年10月 7日 (月)

ザ・ラカンターズの新作

 今年の上半期に発売されたアルバムで印象に残ったシリーズの最後を飾るのは、アメリカのロック・バンド、ザ・ラカンターズの「ヘルプ・アス・ストレンジャー」である。
 知っている人は知っていると思うけれど、このザ・ラカンターズというバンドは、アメリカ人ミュージシャンのジャック・ホワイトとブレンダン・ベンソンの2人を中心とした双頭バンドである。Raconteurs2018_header  ジャック・ホワイトといえば、現代ロック・ミュージックの復興の祖として崇められているように、22歳の時に当時の妻であったメグ・ホワイトとともにホワイト・ストライプを結成すると、瞬く間に全米で人気を獲得し、やがてその火は世界中へと燃え広がっていったのである。そして、2005年にはホワイト・ストライプと同時並行で、旧友同士といわれているが、ブレンダン・ベンソンほか2名とともに、ザ・ラカンターズを結成して、翌年にはデビュー・アルバムを発表してしまう。

 よほどの才能の塊なのだろう、ジャック・ホワイトという人は。2009年には専任ボーカリストを加えた新しいバンドであるザ・デッド・ウェザーも結成して、一時は3つのバンドを掛け持ちし、その合間にソロでの活動を行うというまさに八面六臂の活動を行っていた。さらには、ジミー・ペイジとU2のエッジとともに映画「ゲット・ラウド」に出演したり、ソロ・アルバムを発表しライヴ活動を行ったり、はたまた自身のレコード会社を立ち上げたりと、一体いつ休むのだろうかと周囲が不安に思うほどワーカホリックな生活を送っている。Jackwhite2920x584

 ブレンダン・ベンソンの方はというと、ジャック・ホワイトほどではないにしろ有名なミュージシャンで、1996年のデビュー・アルバム「ワン・ミシシッピー」ではいくつかの曲で、元ジェリーフィッシュのメンバーであるジェイソン・フォークナーと共作していた。それからもわかるように、どちらかというとポップでマイルドなロックンロールを志向するミュージシャンだろう。今まで6枚のソロ・アルバムを発表してきている。
 ただ、ジャック・ホワイトとは旧友といってもブレンダン・ベンソンの方が4歳ほど年上の48歳だ。そして共通する点では、ジャックもブレンダンもギターからキーボード、ドラムス、プロデューサー業と何でもこなせるマルチ・ミュージシャンということだろう。そういう点でも意気投合したのかもしれない。P01bqlwl

 それでザ・ラカンターズは、2006年と2008年にアルバムを発表しているが、何しろメンバー4人とも忙しい人たちで、セカンド・アルバム発表以降は、なかなか揃うことができずにバンド活動は停止中だった。ところが、昨年からタイミングがあってきたのか、レコーディングを開始し、11年振りのアルバムを発表後は来日公演まで行っている。やはり物事は進むときは一気に進んでいくのだろう。一気呵成とはまさにこのことである。

 このサード・アルバムに当たる「ヘルプ・アス・ストレンジャー」では、25曲から30曲ぐらいが用意され、その中から厳選された12曲がレコーディングされた。ジャック・ホワイトが言うには、『どの曲もいい感じで、一瞬でダブル・アルバムが作れる勢いだった。次のアルバムに良さそうな未完成の曲が今も手元にたくさんあるよ』と述べている。

 このアルバムは、1曲を除いて基本的にはジャックとブレンダンが曲を作っていて、まるでレノン&マッカートニーのような感じでアルバム制作に臨んだらしい。ブレンダンは雑誌のインタビューで、『お互いを補い合っているんだ。ほとんど虎と羊の関係というか、陰と陽の関係みたいなもの』と述べていた。おそらくは、ジャックが虎でブレンダンの方が羊ではないだろうか、たぶん。そしてまた今回のアルバムでは、どちらかが曲を持ってきて他の人からアイデアをもらう形で進行し、最終的にメンバー全員で音作りに加わり携わったという。

 また、7曲目の"Hey GYP"だけは、イギリスのシンガー・ソングライターであるドノバンの作品であり、1965年のシングル"Turquoise"のサイドBに収められていた曲で、イギリスのバンド、ジ・アニマルズもカバーしていた曲だった。こういうマイナーな曲をも探し出すセンスはおそらくジャック・ホワイトに起因するものだろう。彼は以前にも、シェールの"Bang Bang"やラヴの"A House is not A Motel"などを探し出してきてはカバーしているからだ。719jb78yapl__sl1200_

 もともとジャック・ホワイトという人は、古典的なブルーズやカントリー・ミュージックの再解釈に長けた人で、伝統的なブルーズの手法などを踏襲しながらもそこに現代的でノイジーなサウンドを持ち込むことで、アメリカン・ロックの再興を果たしたミュージシャンだった。だから、アナログに異常なまでにこだわっており、レコーディング機材はもちろん、ギターのエフェクト類までもアナログで済ませている。自分のレコード会社を立ち上げたと言ったが、これは文字通りレコードを中心に制作、販売を行う会社であり、CDだけでなくレコードでも自分たちの作品を発売しているのだ。

 だから、曲のフレーズやサビなども60年代風なところも目立っていて、オールド・ロック・ファンは思わず涙腺が緩くなり、歓喜の涙を流してしまうところもある。このアルバムの冒頭の"Bored And Razed"もタイトルからしてゼップの"Dazed And Confused"を思わせてくれるし、実際の音もゼッペリンぽくってカッコいいのだ。やはりロックは、カッコよくなくてはいけないというお手本だろう。メロディは素晴らしいし、リフは強力で破壊力がある。1回聞いただけでノック・アウトされてしまった。今どきこういうパワフルで印象的な曲を表現できるのは、このバンドしかいないのではないだろうか。(ちょっと言い過ぎたか)

 ブレンダンが一番気に入っている曲が"Help Me Stranger"で、ブレンダンとジャックはギターとボーカルを担当し、ベーシストのジャック・ローレンスは手でベース・ペダルを演奏し、ドラマーのパトリック・キーラーはスネアをさかさまにして叩いていたという。そういうアグレッシブというか普通でない演奏方法などもブレンダンを魅了させたのだろう。

 3曲目の"Only Child"はお約束のバラードで、アコースティック・ギターが主体になり、それにベースやドラムス、キーボードの音が重ねられていく。実はジャックがアルバムの中で一番好きな曲がこれで、メロディーのみならず歌詞も気に入っているらしい。また、ソングライティングからプロダクションまでメンバー全員で力を合わせてできた曲だと自負をしている。

 "Don't Bother Me"もユニークな曲で、"Don't Bother Me, Bother Me"と何度も繰り返すフレーズが新鮮味でもあり、同時に破壊衝動をもたらしてくれる。1曲の中に転調がいくつもあって複雑な構成になっているが、最後まで聞くと一貫してロック的だと納得できる。特に最後のギター・ソロから短いドラムの連打のところは、まるでザ・フー、しかも60年代後半のキース・ムーン在籍時の様子を想起させてくれた。この曲もまたカッコいいのである。

 ザ・ローリング・ストーンズ主演の映画のタイトルに似ている"Shine the Light On Me"はピアノのリードで始まるミディアム・テンポの曲だ。普通に演奏すればお涙頂戴のバラード風になるのだろうが、それをいったん壊してドラムとベースで盛り上げていくという力業がまさにロックンロールだろう。

 続く"Somedays"のような郷愁を覚えるようなメロディを持つ曲は、ブレンダン・ベンソン主導で作られた曲だろう。ただ、この曲も個性的である。序盤や中間のギター・ソロ後に入る轟音ギター・フレーズの方が目立っていて、ある意味、ロックの持つ衝動性や破壊性がいかんなく発揮されているのだ。普通のポップ・ソングならここまでのアレンジは必要ないだろうが、そこはやはりザ・ラカンターズである。一筋縄ではいかないのだ。

 そして"Hey GYP"が始まる。ドノバンの元歌はブルーズ調だったのだが、ここでは初期のザ・ローリング・ストーンズのようにハーモニカも使用され、躍動感のある曲に仕上げられている。黒っぽい雰囲気だし、途中のごちゃごちゃしたギター・ソロも何となく下世話で猥雑な感じがした。演奏上手なストーンズといった匂いがプンプンするのだ。

 "Sunday Driver"はファースト・シングルに選ばれた曲で、これもまたキレのあるリフとサウンドが荒々しい。中間のハーモニーがザ・ビートルズ的であり、また後半はオルガンも使用されていて、何が出てくるかわからないところがこのバンドの優れたところだろう。こういう何でもありのモダンなロックンロールというところが若者にも支持される由縁だろう。

 そのシングル化された"Sunday Driver"のサイドBが"Now That You're Gone"である。この曲はバラード・タイプの曲で、メロディアスで耳に残る曲だ。ギター主体の音作りでシングルに相応しい曲といえる。中間のギターソロがカッコいいし、ベース・ギターもしっかりと自己主張している。まさにメンバー全員で作りましたよというような曲だ。

 続く"Live A Lie"は2分20秒の短い曲で、この性急感はまるでパンク・ロックだろう。ただ単なるパンクではなくて、よく練られ考えられたパンク・ロックの曲だ。ギターのアレンジが巧みで、普通のパンク・バンドではこの表現は難しいと思う。また、エンディングがスパッと切れるところも清々しい。理想的なパンキッシュな曲構成ではないだろうか。

 "What's Yours is Mine"もリフがゼッペリンぽくって、完全に意識しているよなあという感じがした。こういう過去のお手本を参考にしながらも、そこから自分たちのオリジナリティを生み出していくという方法が、60年代を生きたオールド・ファンだけでなく今を生きる若者にまで感動と興奮を与えているのだろう。この曲も2分台と短いが、あえて長めにアレンジをせずにコンパクトにまとめているところが、現代のロックンロールの特徴のような気がする。昔のような重厚長大はヘヴィメタ部門では受けるだろうが、いわゆるオルタナティヴ・ロックでは違うのだろう。

 そしてアルバムの最後を飾るのは、"Thoughts And Prayers"だ。ロックンロール色は薄く、アコースティック・ギター主体なのだが、特徴的なのはゲスト・ミュージシャンのフィドルがフィーチャーされている点だ。また、シンセサイザーの音なのか、時々、装飾音も入ってきて曲を盛り上げている。例えていうなら、ソロになった今のロバート・プラントが好きそうなサウンドだ。エンディングのフィドル・ソロは圧巻だし、それと他の楽器との調和が見事である。エンディングに相応しい曲といえるだろう。71qlcb9dl__sl1200_

 21世紀の今となってみれば、1950年代のロックンロール誕生から2010年代までのロック・ミュージックを俯瞰できるわけで、その中でよいものや参考になるものを拾い上げていくことは簡単なことだろう。しかし、それが受けるとは限らない。そこにオリジナリティというものがないと、単なるパクリで終わってしまうからで、そんなものには洋楽ファン、特に耳の肥えたファンは見向きもしないだろう。

 ジャック・ホワイトやザ・ラカンターズが受けるのは、単なるオールド・ミュージックの焼き直しに終わらず、そこに現代的なセンスやオリジナリティを持ち込んでいるからだ。だから彼らは広い層から支持されるのである。11年ぶりの新作となったアルバムだったが、イギリスのチャートでは8位を、アメリカでは初登場1位を記録していることが何よりの証明ではないだろうか。

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2019年9月30日 (月)

スプリングスティーンの新作

 「今年上半期の印象に残ったアルバム」シリーズの第6弾は、今年の6月に発表されたブルース・スプリングスティーンの新作「ウエスタン・スターズ」である。81zgsbrhf9l__sl1417_

 このアルバムは、スプリングスティーンの19枚目のスタジオ・アルバムに当たり、前作の「ハイ・ホープス」から5年の間隔があいており、しかも全曲オリジナル曲で占められてアルバムでは、2012年の「レッキング・ボール」以来、7年振りになるという。
 しかも、楽曲が制作されていたのは2010年頃から始まって、中断を繰り返しながら2015年頃まで行っていたようだ。スプリングスティーンは多忙なミュージシャンでも知られるが、個人の趣味性の高いアルバムと、「レッキング・ボール」のような社会性や時代の空気を反映したようなアルバムとを同時並行しながら進めていったようだ。

 本来なら2016年頃に発表することも考えていたようだが、途中で長期間にわたるツアーや自伝の出版、未発表音源を加えたボックスセットの発売、さらにはニューヨークのブロードウェイでの舞台演奏などなど、様々な活動に取り組んでいて、結果的には2019年にずれ込んでしまったのである。Resize_image

 そして今回のソロ・アルバムのモチーフについては、2017年12月号の雑誌「ヴァラエティ」のインタビューで次のように述べていた。『70年代の南カリフォルニアの音楽に影響を受けている。グレン・キャンベル、ジミー・ウェッブ、バート・バカラック、そういった類のレコードだ。みんながそれらの影響を聞き取るかはわからない。でも、それが僕が心に描いたものだ。それが1枚のアルバムをまとめる特別なものをくれたんだ。(中略)このアルバムは、キャラクター主導型の曲と、広がりのあるシネマティックなオーケストラのアレンジを特徴としていた僕のソロ作品への回帰だ。宝石箱のようなアルバムなんだ』

 スプリングスティーンの口から「宝石箱」という言葉が飛び出して来るとは思っても見なかったが、それ以上に、「広がりのあるシネマティックなオーケストラのアレンジ」という言葉にも驚嘆してしまった。今までストリングスを使ったアレンジはあったが、基本的にはステージで再現できるサウンドということで、Eストリート・バンドにはピアニストを含む2人のキーボード奏者が在籍していた。だからストリングスもキーボードで再現していたのだが、オーケストラとなると話が違ってくる。

 確かに、ソロ・アルバムだからストリングスでもオーケストラでも何でもいいのだが、今までのスプリングスティーンのソロ・アルバムは、いずれもアコースティック色が強くて、オーケストラとは無縁のような気がした。だから、事前の予想では、ついにスプリングスティーンも”フランク・シナトラ化”したのではないかと危惧していたのである。

 それに上に出てきていた”ジミー・ウェッブ”や”グレン・キャンベル”などは適度にポップで適度にカントリーっぽいサウンドだったし、バート・バカラックに関してはまさにアメリカン・ポピュラー・ミュージックのヒット・メイカーであり、いまだに現役のレジェンドでもある。彼の曲の特徴としては、複雑なコード進行やオーケストラを多用したアレンジの精巧さなどが挙げられるが、そうした影響を反映しているのがスプリングスティーンの新作なのだろうか。実際に音を聞くまでは、複雑な心境だった。

 そして、アルバム「ウエスタン・スターズ」には2つの意味が込められていて、1つはそのもの通り”西部地方の星”であり、もう1つは”西部劇の映画スター”という意味だった。内容的には統一感があって、アメリカ西部をヒッチハイクする若者からあてもなく放浪を繰り返す人、アリゾナのトゥーソンからの恋人を待つ労働者、鳴かず飛ばずで年老いてしまった西部劇の役者、ハイウェイ沿いにあるカフェでの情景など、アメリカ西部を中心に映像的な情景が歌われていて、こういうところは、今までの彼のソロ・アルバム、「ネブラスカ」や「トンネル・オブ・ラヴ」、「デヴィルズ&ダスト」を踏襲しているかのようだ。

 さらに曲の登場人物においても、裕福な青年や成功した人々のことを描いてはおらず、孤独な人生を歩んでいる姿や、愛と悲しみ、人生の悲哀を背負い込みながらも希望を失わずに生きていく様子などが描写されていて、確かに時代性や社会性は反映されてはいないものの、人間としてのいつの時代でも変わらない不変性、道徳性や尊厳性などがテーマになっている。そういう意味では、スプリングスティーンの吟遊詩人のようなストーリーテリングの妙技が味わえるのである。だから、”アメリカの良心”とも言われるスプリングスティーンの本領が発揮されたアルバムといってもいいと思う。

 そして音楽性については、これは賛否両論あるに違いない。特に、オーケストラの導入に当たっては、本当に必要だったのかどうかが吟味されるだろう。個人的には、もう少しアコースティック色を強めてもらって、その上でアクセントとして導入もありかなと思ってはいるのだが、スプリングスティーンの声質とオーケストラがマッチングするのだろうかと疑心暗鬼だった。

 ただ、基本的にスプリングスティーンのソロ・アルバムは抑制されていて内向的だったし、今回はバート・バカラックの名前まで引き合いに出してアルバム作りを行っていたのだから、オーケストラが目立つのも仕方がなかったのだろう。71rtf1oltol__sl1200_

 冒頭の"Hitch Hikin'"から西部への旅が始まる。アコースティック・ギターのアルペジオから低く響くストリングスに繋がれて、その中でスプリングスティーンの声がこだましている。この曲はアルバムの導入曲だろう。そしてアルバムの方向性を示している。
 続く"The Wayfarer"から徐々にオーケストレーションが顔を出してくる。"Wayfarer"とは高速道路で料金を払う人のことを指していて、それを街から街へ流れて行くというから、”さすらい人”という意味になるのだろう。
 ここでのオーケストレーションは少し抑え気味のようで、間奏では聞かせてくれてはいるものの、あくまでも”ちょっとしたアレンジ”といった味付けだった。ただこの曲に必要なのかというと、そこは個人の見解に左右されると思った。

 アリゾナ州トゥーソンからの恋人を待つ労働者のことを歌った"Tucson Train"では、もう少しオーケストラが目立ってくる。ミディアム・テンポの曲にオーケストラが絡むとどうしても目立ってしまうようだ。ただそんなに違和感があるかというと、個人的にはそうは思わなかったが、これも個人の見解だろう。
 そしてアルバム・タイトルの曲"Western Stars"が始まるのだが、この曲は素晴らしい。かつてはジョン・ウェインとも共演した西部劇の役者が酒浸りの生活を送りながらも、いまだに端役で映画に出続け何とか糊口をしのいでいる物語だが、これがバラードのせいもあるだろうが、結構泣ける話なのである。ここでのオーケストレーションは似合っていると思った。

 軽快な"Sleepy Joe's Cafe"ではアコーディオンやオルガンも使用されていて、何となくメキシコ音楽のテックスメックスのような気がした。しかもポップなのだ。ジミー・ウェッブやグレン・キャンベルの影響を受けているのだろうか。
 "Drive Fast"には"The Stuntman"というサブタイトルがついていて、文字通り、映画やドラマのスタントマンのことを描いた曲。ゆったりとしたややスローな曲で、スタントマンとしての悲哀や先の見えない仕事への嫌悪と愛着、愛憎あわせ持った主人公の内面が丁寧に描かれていて、これもまた佳曲である。決して目立たない曲だが、こういう曲のおかげで"Western Stars"などの曲が目立つのだろう。

 土地管理の仕事を請け負い、野生の馬を追いかけている"Chasin' Wild Horses"では、スティール・ギターとオーケストラの絡みが印象的だ。オーケストラの空間的な広がりをバンジョーやスティール・ギターが支えている。こういうアレンジは、スプリングスティーンのアルバムでは珍しいのではないだろうか。
 "Sundown"とは実際の地名なのだろうか。よくわからないのだが、愛する人を待ち焦がれながらも一人で暮らしている男の姿が何とも哀愁をそそるのだが、このアルバムでは珍しくスプリングスティーンの熱唱を聞くことができる。スプリングスティーンが声を張り上げて歌えば、当然のことながらオーケストラも一緒に盛り上げようとする。こういうところは、バート・バカラックを見習ったアレンジなのかもしれない。

 一転して"Somewhere North of Nashville"では、再びアコースティック・ギターがフィーチャーされて静かなバラード調になる。ナッシュビルにやってきた男は何をしでかしたのだろうか。1分52秒と非常に短い曲でもある。
 ”今朝目覚めたら、口の中に石が入っていた。それは私がついた嘘の数でもある”と歌われる"Stones"。このバラード曲でもオーケストレーションが施されていて、重厚な作品に仕上げられていた。ただ、個人的にはできればアコースティックな作品として聞いてみたかった。そうするともっと生々しい感情が伝わってきそうな気がしたのだ。

 "There Goes My Miracle"というと何となく期待を持たせるような明るい内容のようだが、スプリングスティーンの声は高らかに響くものの、歌詞的には”私の奇跡が逃げていこうとしている、私は探している”というあまり楽しくないものだった。この時のオーケストレーションはかえって悲惨さを醸し出しているようだ。
 最初にシングル・カットされたのがメジャー調の"Hello Sunshine"だった。確かに明るいポップな曲で、ジミー・ウェッブやグレン・キャンベルが歌っても違和感はないと感じた。しかし、これも”日の光よ、ここにいてくれ”と哀願するような内容で、あえて明るく歌われている。バックのスティール・ギターとオーケストレーションがここでもマッチングしていた。

 最後の曲が"Moonlight Motel"だった。日の光の次は月光ということだろうか。この曲はエンディングを飾るに相応しいアコースティック・ギターがメインの曲だった。スプリングスティーンの西部の旅は安っぽい場末のモーテルで締めくくられるのだが、もちろんここで終わるのではなく、一休みした後、また孤独の旅路へと出かけるのだ。そのための安息の場所なのだろう。スプリングスティーンのバラードはどれも心揺さぶられるものだが、この曲もまた彼の名曲リストに加えられるのだろう。1862020190809160550 このスプリングスティーンのアルバムは、前々回のマドンナのアルバムと同じように、賛否両論だろう。特に、2曲目の"The Wayfarer"から4曲目"Western Stars"にかけてと、"Sundown"や"There Goes My Miracle"などではオーケストレーションが目立っていて、中には確かにフランク・シナトラ張りの熱唱といわれても仕方がないほどだ。
 ただ、それが似合っていないのかというと、決してそうではなくて、全体を通して聴き込めばそんなに違和感は生まれない。変な偏見が心のフィルターを汚してしまうのかもしれない。ただ、個人的には「ネブラスカ」のように、フル・アコースティック・セットで聞きたかった。あの「ネブラスカ」と比べても、メロディーや物語性などは決して遜色ないと思っている。

 そして、今後もこの方向性をたどるのかというと、決してそんなことはないだろう。あくまでも今回はジミー・ウェッブやバート・バカラックの音楽性を踏襲したもので、決してロックン・ローラーとしての自分を忘れたわけではない。思えばスプリングスティーンは、70年代の頃から数年おきに「ネブラスカ」のようなアコースティック・アルバムを発表していて、ロックン・ローラーとしての自分とシンガー・ソングライターの自分とのバランスをとってきた経緯がある。今回は、それがオーケストラをバックに歌うシンガー・ソングライターとしてのアルバムになっただけだろう。51ptop8emnl

 ちなみに、この「ウエスタン・スターズ」は全米アルバム・チャート第2位、全英アルバム・チャートでは1位を記録した。スプリングスティーンは、このアルバム用のツアーは行わずに、かわりにEストリート・バンドと一緒にスタジオでアルバムを制作し、新作を今年中にも発表するつもりでいるようだ。

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2019年9月 9日 (月)

アフリカ・スピークス

 今年の上半期に発表されたアルバムの中で、気になったものを記している。今回で3回目だが、一気に知名度が上がっていく。何しろサンタナなのだから、これはもう正座をして聞いてもおかしくないだろう。800x_image  今年はウッドストックから50年目の佳節だった。本当はその聖地ウッドストックで、当時のミュージシャンやバンドを中心にニュー・フェイスも含めて大々的なイベントを行う予定だったのだが運営上うまくいかず、結局、イベント自体は取りやめになってしまった。残念なことではあるが、大物ミュージシャンが参加を避けたので集客の見込みが立たなくなったようだ。その中にはサンタナも含まれていた。ただ、サンタナやジョン・フォガティなどは、8月15日から行われる非公式のライヴ・イベントには参加すると表明していて、昔からのファンを安堵させていたが、果たしてどうなったのだろうか。

 そのサンタナだが、今年の1月には5曲入りのミニ・アルバムを発表しているし、6月には11曲入りのフル・レングスのアルバムを発表した。カルロス・サンタナ自身は72歳になるが、その創作意欲には翳りは見えないようだ。
 そのアルバム「アフリカ・スピークス」は、サンタナ・バンドにとっては25枚目のスタジオ・アルバムにあたり、ウッドストック50周年記念を祝うように発表された。全11曲、64分余りの内容になっていて、日本国内盤には2曲のボーナス・トラックが含まれていたから、それを入れると75分以上にもなる。ボリュームいっぱいのアルバムに仕上がっている。812fqut3v7l__sl1400_

 アルバム解説書には、10日間で49曲をレコーディングしたと書かれていたが、72歳にしてこのエネルギーには脱帽してしまう。まるで20代と変わらないパワーを保っているようだ。
 そして今回のアルバムのプロデューサーは、リック・ルービンだった。リック・ルービンといえば、ビースティー・ボーイズやレッド・ホット・チリ・ペッパーズ、メタリカにブラック・サバスなど、ヒップ・ホップ系からヘヴィ・メタル系まで幅広いミュージシャンやバンドと一緒にやっているが、今回はカルロス・サンタナの方から一緒に仕事をしてみたいと声をかけたようだ。

 リック・ルービンはデモを数曲聞いて感動し、ぜひ一緒にということで、リックの所有するスタジオにバンドを呼んでレコーディングを行った。このスタジオはフロリダのマリブにあり、シャングリラ・スタジオといって、ザ・バンドの「南十字星」や「ザ・ラスト・ワルツ」、エリック・クラプトンの「ノー・リーズン・トゥ・クライ」などがレコーディングされた場所としても有名だ。

 リック・ルービンというプロデューサーは、ミュージシャン側に自由に創作させようとするタイプで、曲自体についてはあまり細かな指示を与えないそうだ。カルロス・サンタの言葉を借りれば、”とても礼儀正しくて紳士的で、作業中は相手の領域というものを尊重してくれる”そうである。
 しかもほとんどの曲をワンテイクで録音していて、それだけスタジオ内の雰囲気がよく、同時にライヴの感覚を重視した音作りを目指したのだろう。また、基本的にカルロス・サンタナという人は、”即効性”と”自発性”を重視していて、あまりにアレンジ等にこだわってしまうと良い曲がつまらなくなってしまうのだという。だから最初のテイクが常にベスト・テイクだと信じているのである。何となくジャズにおける即興性重視みたいに聞こえてくるのだが、彼がジョン・マクラフリンやマイルス・デイヴィス、ハービー・ハンコックなどとコラボレーションしているのも、ジャズのような即興性を求めているのかもしれない。

 それで今回のアルバムは、タイトルからも分かるように、アフリカン・ミュージックを意識したものになっていた。カルロス・サンタナは、アフリカの音楽は癒しの音楽であり、世界が殺伐として人々が周囲の出来事に関心を持たなくなってきた現代にこそ耳を傾けるものだと述べていて、世界中の誰が聞いても気分を高揚させ、気持ちを和らげる魔法のようなものと力説していた。

 確かに人類の祖先はアフリカ大陸にあり、そこから枝分かれしているし、今のロック・ミュージックも元はといえば、アフリカから強制的に連れてこられた人たちとヨーロッパからの移民の音楽がミックスされてできたものである。ある意味、原点回帰とも言うべき音楽であろう。

 それにしても、カルロス・サンタナは弾きまくっている。72年の傑作アルバム「キャラバンサライ」の頃よりも弾きまくっているように聞こえてくる。
 まず1曲目の"Africa Speaks"だが、コンガなどのパーカッションが思わせぶりな前奏を形作り、やがて官能的なカルロス・サンタナのギターがつま弾かれる。単純な発想で申し訳ないが、密林を探索中に奥から聞こえてくる太鼓の音を頼りに中に入っていくとサンタナがいたというような感じである。この曲はまだ序章のようで、次の"Batonga"からサンタナは自己主張を始めるのだ。
 
 どの曲でもサンタナのトレードマークとも言うべきあの情熱的で官能的なギター・サウンドを聞くことができる。"Batonga"ではキーボードの掛け合いも聞くことはできるのだが、後半はカルロス・サンタナの独壇場である。3曲目の"Oye Este Mi Canto"ではカルロスのギターと同様に、ボーカルのブイカも目立っている。Buika31000x1500e1509484434754

 ブイカという女性ボーカリストが今回はフィーチャーされていて、スペインのマヨルカ島出身の47歳で、グラミー賞にもノミネートされたことのあるラテン系のジャズ・ボーカリストだ。最初声を聞いたときは、男性かと思ったほどパワフルで凄みをきかせてくれている。
 カルロス・サンタナとは面識もなかったのだが、彼が誰かいいボーカルはいないかなとyou tubeで検索していた時に、彼女を発見して声をかけたそうだ。そりゃ、カルロス・サンタナから声をかけられれば、断る人はそんなにいないでしょうというもので、ブイカは歌詞とボーカルのメロディを書き上げたそうである。さすが才能あるミュージシャンは、いつ声をかけられても即座に対応できるようだ。これにはカルロス・サンタナも感動したようで、当初の予想以上に素晴らしい楽曲に仕上がったと妻と一緒に満足したという。

 ちなみにカルロス・サンタナの妻シンディ・ブラックマンは、サンタナではドラムスを担当していて、2人は2010年に結婚している。また、このアルバムでは前妻の息子のサルバドール・サンタナが7曲目の"Breaking Down the Door"でキーボードを担当している。
 ということで、今回のアルバムはギターのカルロス・サンタナとボーカリストのブイカがフィーチャーされていて、ほとんどの曲ではスペイン語で歌われている。ある意味、”双頭的な”アルバムだと思っている。4曲目の"Yo Me Lo Merezco"でも最初はゆったりとした歌い出しだが、徐々にピッチが上がっていき、最後はカルロス・サンタナにスポットライトがあてられるのだった。

 そして英語のタイトルの曲では英語で歌われているのだが、ブイカが歌うと英語も何となくスペイン語風に聞こえてきて、そうすると全部がスペイン語で歌われているのではないかと錯覚してしまう。一応、"Blue Skies"と"Breaking Down the Door"という曲が用意され、後者はシングルとしても発売され、確かにポップで聞きやすいし、カルロス・サンタナのギターも抑え気味である。アコーディオンやトロンボーンが使われていて、メキシコの結婚式かお祝い事でみんなが集まって歌っているかのようだ。こういうポップ・センスを忘れないサンタナはやはりつわものである。Santana__buika_photo_1_by_maryanne_bilha  また、"Blue Skies"でのギター・ソロは鳥肌もので、まるで全盛期のクラプトンのようにハードなのである。カルロス・サンタナの場合は、年をとればとるほどギター・ロック路線に移行するのだろうか。

 一方で、"Los Invisibles"では、マルーン5と共作したようなフレーズも飛び出してくるし、"Luna Hechicera"では少しレゲエっぽい雰囲気も味わえる。それでもカルロス・サンタナのギターはブレずに主張しているところが素晴らしい。曲調は違っていても、どこを切ってもサンタナ節なのである。

 "Europe"や"Moonflower"のようなインストゥルメンタルはないものの、"Bembele"はテンポのよい哀愁味があって、その種の系列に含めてもいいような気がした。
 ただ、サンタナといえば"ラテン・ロック"というイメージが強いのだが、今回のアフリカにインスパイアされたアルバムを聞いて、特にアフリカン・ドラムが使われているとか、民族楽器やアフリカ独特の旋律が使用されているというわけではなく、今までのサンタナのアルバムと比べてみてもそんなに違和感はない。61ymyf9dbl

 たぶんそれは、サンタナの音楽とアフリカの音楽とが深い次元で結ばれているからだろう。深い次元というのは、陶酔感や高揚感が両者の音楽に含まれていて、聴く人の精神の覚醒や心の傷を治すヒーリング効果を秘めているからだろう。そういう意味では、今回のこのアルバムも"アフリカ"というテーマの元での癒しの旅なのかもしれない。ちょうどラクダの隊商が月の夜に砂漠をわたっていったように。

 サンタナは現在、このアルバムのプロモーションを兼ねてツアーを行っており、今年は無理だが、来年か再来年には日本に来たいといっている。できれば「ロータスの伝説」のようなライヴを期待したいし、今のサンタナならそれ以上の興奮と熱狂とパフォーマンスを発揮できるのではないかと思っている。

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2019年8月19日 (月)

ジョン・サイモン

 ジョン・サイモンのアルバム「ジョン・サイモンズ・アルバム」について記すことにした。このアルバムはずいぶん昔から持っていて、幾度となく聞いてきたのが、何となくパッとしなかった。パッとしなかったというのは、自分の中で感じるものがなかったからである。
 でも最近、ジョン・セバスチャンやマリア・マルダーなどを聞き出して、再びこのアルバムに向き合ったところ、これが今までがまるで嘘であるかのように、非常に印象的なアルバムとして感じるようになってきたのだ。

 このアルバムのことは雑誌で知った。アメリカン・ロックの隠れた名盤として紹介されていて、ぜひ一度は耳を傾けてほしいというようなことが記されていたので、当時はロックおたくだった自分は(今もそうだけど)、当時あったCDショップにダッシュで走り込んで購入した記憶がある。だけど、それだけ期待して聞いたのだけれど、何となく自分には合わなかった。ロック的な躍動感や焦燥感が伝わってこなかったからではないかと、いま振り返ってみればそんな感想だったと思う。

 ところが、年老いて人生の先が見えてくると、こういうアルバムの方が合ってくるというか、落ち着いた心境に導いてくれるというか、豊饒なアメリカン・ロックの一端を感じさせてもくれるのである。だから最近はほぼ毎日1回は聞いているのだ。

 このアルバムが発表されたのは1970年の5月だから、もう50年くらい前のことになる。50年だぞ、50年。オギャーと生まれた赤ん坊が50歳の壮年になる時間だ。この50年の間に社会も変わったし、ロックという音楽もずいぶん変わった。まあそんなことはともかく、50年前のアルバムを今も聞いているのだから、いかにこのアルバムが時代の波に流されない、不朽の名作、名盤であるかが分かると思う。

 音楽的な感触は、ソロになったザ・バンド、あるいはニューヨーク近郊のウッドストック発ランディー・ニューマンといった感じだろうか。決してメロディアスといった感じではないし、ありふれたポップ・ソングではない。むしろポップから遠ざかろうとしているのではないかと思われるところもあるし、サックスやトロンボーン、アコーディオンなどのアレンジも凝っていて、一筋縄ではいかない様相を示している。そういうところが逆に新鮮に映るし、聞くたびに味わい深くなって行くのである。

 ジョン・サイモンは1941年8月11日生まれだから、ついこの間78歳になったばかりだ。コネチカット州のノーフォーク生まれで、目の前には大きな牧場がある田舎町で育った。父親は医者であると同時に、ジュリアード音楽院を卒業したセミプロ級のバイオリニストだった。地元では交響楽団のコンサート・マスターも務めた経験があったようだ。
 そういう家で育ったから、小さい頃から音楽に囲まれて育ち、4歳頃からピアノやバイオリンを学ぶようになった。最初はクラシック音楽を学んでいたが、徐々に世の流れに気づくようになり、ジャズやポップスに興味が動き、ついにはライヴ活動まで行うようになって行った。

 大学を卒業すると、当時のコロンビア・レコードに就職してプロデューサーになった。最初は映画音楽やテレビの挿入歌などを担当していたが、ザ・サークルというバンドの「レッド・ラバー・ボール」というアルバムを担当してこれがヒットし(ビルボードのアルバム・チャートの2位)、一躍彼は敏腕プロデューサーとして有名になり、以降、サイモン&ガーファンクルやレナード・コーエン、ジャニス・ジョプリン、ザ・バンドなどを手掛けるようになっていった。920x920 
 特に、ザ・バンドとの仕事はうまく行き、ザ・バンド自体も人気が出てきたし、ジョン・サイモンの名声も高くなって行った。ザ・バンドのデビュー・アルバムである「ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク」はニューヨーク郊外ウッドストックにある一軒家の地下室で練習やレコーディングが行われたが、これはジョン・サイモンのアイデアでもあった。そしてそのアルバムのレコーディングが終了した後に、彼自身のソロ・アルバムの制作が行われたようだ。それが「ジョン・サイモンズ・アルバム」だったのである。

 全11曲39分少々のアルバムだが、参加メンバーがすごい。ベースにリック・ダンコ、リチャード・デイヴィス、カール・レイドル、ドラムスにジム・ゴードン、ロジャー・ホーキンス、リチャード・マニュエル、ギターがレオン・ラッセルにジョン・ホール、サックスとトランペットにはジム・プライス、ボビー・キーズ、ガース・ハドソン、その他にもデラニー・ブラムレット、リタ・クーリッジ、メリー・クレイトン、ボビー・ウィットロック、サイラス・ファイヤーなどなど、つまり、ザ・バンドとレオン・ラッセルのバック・バンドのほとんどが参加しているのだ。これにエリック・クラプトンとレヴォン・ヘルム、ロビー・ロバートソンが加わらなかったのが不思議である。ちなみにアルバム中4曲目の"Davy's on the Road Again"はロビー・ロバートソンとの共作だった。

 1曲目の"Elves' Song"を聞いたとき、正直お世辞にも歌は上手ではないなと思った。これは本人も認めていて、歌はもうだめだと思っていたらしい。でもソロ・アルバムはこれ以降も発表して歌っているので、あきらめたわけではないようだ。ピアノはジョン本人が、ギターはレオン・ラッセルが演奏している。何となくイギリス人のケヴィン・エアーズの曲に似ている気がした。

 "Nobody Knows"はランディ・ニューマン風の楽曲で、ピアノの弾き語りである。これといったフレーズやメロディに乏しく、もう少しよく聴き込もうと思っているうちに曲が終わってしまう。ちょっとコメントしづらい曲だ。
 "Tannenbaum"はジョン・サイモンの故郷のことを歌っていて、かつては豊かだったが、今は荒れ果ててゴースト・タウンのようになってしまったと嘆いている曲だった。バックのギターも美しいし、ホーン・セクションも哀愁を帯びていて素晴らしい。確かに、ザ・バンドの曲だと言われても分からないかもしれないが、ジョン・サイモンも高音が時々裏返るものの、精一杯歌っている様子が伝わってきて、感動を覚えるのである。

 ロビー・ロバートソンとの共作の"Davy's on the Road Again"はややゆったりとしたテンポで歌われていて、穏やかな感じを与えてくれる。ただ個人的には、イギリスのバンドであるマンフレッド・マンズ・アース・バンドが1978年にカバーした曲の方が好きで、そちらの方が躍動感がありメロディー本来の美しさが伝わってくるからだ。このカバー曲は全英シングル・チャートで6位を記録しているので、ロックにうるさいイギリス人でもこの曲の良さは認めているようだ。

 続く"Motorcycle Man"では、リチャード・マニュエルとリック・ダンコがそれぞれドラムスとベース・ギターを担当していて、曲調もザ・バンド風でもある。マーロン・ブランドとリー・マーヴィンが主演した映画「ザ・ワイルド・ワン」をもとにして出来上がった曲らしい。
 "Rain Song"はもちろんイギリスの4人組ロック・バンドの曲ではない。長いギター・ソロやメロトロンも使用されていない。60年代のジョンが生活していたコミューンのことを歌っていて、雨が降ってほしいという雨乞いの祈りのために書いたそうである。この曲もピアノだけをバックに切々と歌っていて、味わい深い。エンディング近くのジョンのうねり声というか遠吠えが寂寥感を与えてくれるようだ。Images

 以上がレコードのサイドAに当たり、次からはサイドBになる。サイドBの1曲目は"Don't Forget What I Told You"で、これもゆっくりとした曲調で、ジョンの奥さんに対するラヴ・ソングである。オーリアンズのジョン・ホールがギターを弾いていて、これがまたなかなか流麗でカッコいいのだ。ロビー・ロバートソンならもう少し違った雰囲気になっただろう。

 続く"The Fool Dressed in Velvet"はジョンの知り合いだった知的障がい者の兄弟について書いた曲で、2人の生き方の対比を通して、人生の無常さを教えてくれているように思えた。これもゆったりとしたバラード系の曲で、途中でマンドリンに近い楽器マンドラが使用されていた。演奏しているのはジョン自身である。またエンディングにギター・ソロがあるが、これもジョン・ホールの手によるものである。

 "Annie Looks Down"はジョンの知り合いの女性について歌ったもの。バックのオルガンはバリー・ベケットが演奏していると思われる。後半はミディアム・テンポかバラード系の曲が多くて、この曲もその中の1つだ。2分50秒と短い曲だった。
 10曲目の"Did You See?"は人生の終わりについて書いた曲で、天国の門の前で迎えが来たかどうかを確認したかと歌っている。ここでもジョンはピアノとマンドラを演奏している。

 最後の曲"Railroad Train Runnin' Up My Back"は楽しそうな曲で、列車の雰囲気がよく表現されている曲でもある。バック・コーラスやハーモニーが、どことなく素朴でノスタルジックな感じを与えてくれる。ジョンは過去の旅行の中から思いついた曲だと述べているが、内容的には男女の三角関係を描いていて、そんなに楽しくはないだろうと個人的には思っている。それでもアルバムの最後を飾るにはマッチしているのではないだろうか。

 というわけで、ジョンサイモンのこのファースト・アルバムは、アメリカン・ロックの歴史的名盤といわれているのだが、今になってやっとそういうもんかなと感じた次第である。たぶんこのアルバム当時の歴史的、社会的背景や日本人にはよくわからない歌詞の部分なども含めて、アメリカ人のロック・リスナーにはかなりインパクトがあるのだろう。
 ザ・バンドのように、個々のメンバーの技量や楽曲の良さで聞かせるアルバムではなくて、アルバムのもつ雰囲気などを含めたトータルな意味での印象度なのだろう。

 また、このアルバムのジャケットも水墨画か墨絵のようで、東洋的だった。こういうミステリアスな東洋趣味みたいなものも、アメリカ人好みなのかもしれない。41xn57wbfpl
 この後ジョンは2年後の1972年にセカンド・アルバム「ジャーニー」を発表し、しばらくブランクがあったが、20年後の1992年にサード・アルバム「アウト・オン・ザ・ストリート」を発表しているし、枚数は少ないもののプロデューサー業の合間を縫って、アルバムを発表している。
 一時、ディスコ・ミュージックやヘヴィメタル・ミュージックが隆盛の頃はプロデューサー業にも嫌気を示していたようだが、1997年には日本人ミュージシャンである佐野元春のアルバム「ザ・バーン」のプロデュースも行っている。ジョンは彼のことを日本のブルース・スプリングスティーンだと思っていたようだ。

 本来のプロデューサーのみならず、ウッドストック系ミュージシャンとしても名声を得ているジョン・サイモンである。もう少し長生きしてもらって、「ジョン・サイモンズ・アルバム」以上のインパクトのあるアルバムを発表してほしいと願っている。

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2019年8月 5日 (月)

ザ・ラヴィン・スプーンフル

 ジョン・セバスチャンつながりで、彼が元所属していたバンド、ザ・ラヴィン・スプーンフルについて記すことにした。前回にも同じことを書いたのだが、このバンドの曲を聞いて、ニューヨーク出身だとは気づかなかった。むしろサンフランシスコかロサンジェルスのような西海岸出身のバンドだと思ってきた。曲にひんやりとした大都会の雰囲気が備わっていなかったし、むしろ明るくて陽気な雰囲気が漂っていたからだ。

 このバンドの代表曲といえば、やはり"Do You Believe in Magic?"だろう。日本のCMにも使用されていたし、その明るくて弾むような曲調は一度耳にしたら、忘れられない印象を与えてくれるからだ。220pxdo_you_believe_in_magic_lovin_spoon
 また、この曲は彼らのデビュー曲で、1965年の8月に発表されて瞬く間にシングル・チャートを駆けのぼり、最高位9位を記録している。個人的には"サマー・オブ・ラヴ"を象徴するような曲調だったし、バックのコーラスもザ・ビーチ・ボーイズ風だったりして、軽快で躍動感あふれる曲だと思っている。
 この曲を書いたジョン・セバスチャンは、曲のイントロ部分をモータウンに所属していた女性ボーカル・グループのマーサ&ザ・ヴァンデラスの曲"Heat Wave"から思いついたとインタヴューで答えていた。またこの曲は、多くのミュージシャンからカバーされていて、特に1978年にはショーン・キャシディが歌って、ビルボードのチャートで31位を記録している。

 それから約3ヶ月後、今度は"You Didn't Have to Be So Nice"という曲がヒットした。これはビルボードのシングル・チャートの10位まで上昇した。こちらは彼らの2枚目のシングルにあたり、ジョン・セバスチャンとバンドのベーシストのスティーヴ・ブーンの共作だった。ジョンが言うには、ザ・ビーチ・ボーイズの曲"God Only Knows"からインスピレーションを受けたようだが、ザ・ラヴィン・スプーンフルの方が明るい感じがするのは気のせいだろうか。_you_didnt_have_to_be_so_nice__lovin_spo
 ちなみにこの曲もまた、ザ・グラスルーツやボサノバ歌手のアストラッド・ジルベルトなどにカバーされている。特に、エイミー・グラントとケヴィン・コスナーが主演した映画「ザ・ポストマン」ではエンドクレジットで使用されていた。

 デビューして最初の2枚のシングルのヒットのおかげで、彼らは一躍有名になり、60年代中期を代表するアメリカのバンドになった。それまでザ・ビートルズを始めとするイギリスのバンドからアメリカのチャートが席巻されていたのだが、これでようやくイギリス勢に対抗できるアメリカのバンドが誕生したというわけだった。

 ザ・ラヴィン・スプーンフルは、1964年に結成されたが、最初のドラマーのジャン・カールはすぐに脱退し、代わりにジョー・バトラーという人が担当するようになった。元々、ジョーとベーシストのスティーヴ・ブーンはザ・キングスメンというバンドで一緒に活動していたから、お互いに気心の知れた間柄だったようだ。
 ところが彼らは、最初は素人に毛の生えたような演奏テクニックしか持っておらず、あまりにお粗末な内容だったため、クラブのオーナーからもっと練習してから人前で演奏しろ、それまでここには来るなと言われたようで、それから必死になって練習していったという逸話が残されている。

 1966年は、彼らにとってはまさに全盛期と呼ばれるにふさわしい年になった。2月に発表した"Daydream"は、全英、全米ともにチャートの2位を記録した。まさに”白昼夢”というタイトルに相応しいほんわかとした曲で、ジョンの口笛がフィーチャーされていた。この曲もまたチェット・アトキンスにドリス・デイ、マリア・マルダーやアート・ガーファンクル、デヴィッド・キャシディ、リッキー・ネルソンなど数多くのミュージシャンによってカバーされている。

 そして4月には"Did You Ever Have to Make Up Your Mind?"がヒットして、これまた全米シングル・チャートの2位になった。Did_you_ever_have_to_make_up_your_mind__ そしてそれから3ヶ月後の7月には、ついに"Summer in the City"が全米チャートの首位を獲得したのである。今までの曲よりは幾分ロック寄りの激しいビートを持つこの曲は、幾分アグレッシヴでそれまでの夢見るような曲調とはかなり違うものだった。騒がしい都会の喧騒を表現しようとしたのか、車のクラクションや工事中のドリルの音が使用されていて、彼らの音楽的質の変化が表されていた。ザ・ビートルズでいえば、中期の「リボルバー」的変化に当たるだろう。この曲は3週にわたって首位を飾っている。220pxsummer_in_the_city

 そのあとフォーク・タッチの"Rain on the Roof"はシングル・チャートの10位を記録し、カントリー風の"Nashville Cats"は8位になった。とにかく出す曲出す曲すべてチャートのトップ10に入るという勢いだったから、いかに彼らの人気が高かったかが分かると思う。それに、クラブのオーナーからもっと練習して来いと言われたバンドとは思えないくらい、ポップ・ソングからロックン・ロール、カントリーにフォークと音楽的なバックグラウンドも広かった。そういう音楽性の幅広さというのも多くの人たちから支持されたいたのだろう。

 さらにバンドは、ブロードウェイのミュージカル"ヘア"にも楽曲を提供するし、ウッディ・アレンやフランシス・フォード・コッポラの映画のサウンドトラックにも協力するといった具合に、様々な分野にも進出していった。それだけ彼らの音楽性に需要が求められていたのだろう。監督が使いたいと思ってしまうような何らかの魅力を秘めていたに違いない。そんなこんなで、夢のように1966年は過ぎて行ったのである。

 で、”好事魔多し”の譬え通り、翌年の67年になると、バンドは徐々に下り坂を迎えていくのである。まず"Six O'clock"がチャートの18位までで止まってしまった。今までトップ10内に入っていたのだが、18位だった。それでも立派と言えば立派なのだが、ブラスとハードなギター・カッティングがフィーチャーされてこの曲は、ジョー・ウィザードという人がプロデュースを担当していた。のちにボズ・スキャッグスなどのアルバムのプロデュースも手掛けた人であるが、今までのプロデューサーと違う選択をしたのが、あまりうまく行かなかったのかもしれない。

 5月になると、ギタリストのザル・ヤノフスキーがドラッグで逮捕されてしまった。まるでザ・フーのピート・タウンゼントのようなハードなリフやカッティングを得意としていた人で、バンドのハードな面を担当していたギタリストだった。彼はカナダの市民権を持っていて、このまま黙秘を続けていくとアメリカに再入国できないと言われて、全面的に罪を告白してしまった。それで一旦は執行猶予がついて保釈されるのだが、結局、音楽業界から足を洗ってしまい、カナダに戻ってレストランを開いてオーナーになった。

 バンドは当然のごとく、新しいギタリストのジェリー・イエスターを迎え入れるのだが、ロック的なダイナミズムは失われてしまい、マイルドなポップ・バンドになってしまった。例えば"She is Still A Mystery"という曲があるのだが、ブラスやストリングスがバックで鳴っていて、まさに”東海岸のザ・ビーチ・ボーイズ”といった感じだった。これもジョー・ウィザードのプロデュースで、彼はこういった装飾音で飾り付けるのが得意なプロデューサーなのだろう。61k8wmcjgel__sl1200_

 バンドがポップ化するのが嫌になったのか、それともほかの理由があったのかよくわからないのだが、翌1968年には今度はジョン・セバスチャンがバンドを脱退してしまった。メイン・ソングライターを失ったバンドが長続きするはずもなく、1969年に解散してしまった。
 解散前のバンドは、基本的にギターとベースとドラムスの3人組だった。ドラムを担当していたジョー・バトラーは歌が歌えたので、彼をメイン・ボーカルにしてセッション・ミュージシャンを起用しながら演奏を続けていたようだ。ちなみにジョーが歌った"Never Goin' Back"という曲は、シングル・チャートの73位まで上昇している。
 この曲はジョン・スチュワートという人が作った曲で、この人はザ・モンキーズのあの有名な"Daydream Believer"を書いたことでも有名なソングライターだった。712vfrnypql__sl1200_

 その後ザ・ラヴィン・スプーンフルは、1979年にポール・サイモンの「ワン・トリック・ポニー」という映画の中で、オリジナル・メンバーが再結成して歌っている。また、2000年にはロックの殿堂入りを果たしていて、その時も受賞セレモニーの中で、オリジナル・メンバーが"Do You Believe in Magic?"と"Did You Ever Have to Make Up Your Mind?"を歌っている。
 それ以外は、基本はジョー・バトラーとスティーヴ・ブーン、ジェリー・イエスターの3人でザ・ラヴィン・スプーンフルを名乗って公演などを行っているようだ。また、ジェリーの弟のジムがギタリストになったり、ジェリーの娘のレナがキーボードで参加して脱退していったりするなど、メンバーの出入りが流動的でもある。

 そして、2002年にオリジナル・メンバーだったザル・ヤノフスキーが亡くなってしまうと、ジョン・セバスチャンは声明を発表し、もう二度とザ・ラヴィン・スプーンフルのメンバーとして活動はしないと述べている。バンドは今も活動はしているようだが、実質的には2002年で終わったとみてもいいのではないだろうか。

 とにかく、フォークからカントリー、映画音楽にロックン・ロールと幅広く多様な音楽性を有していたザ・ラヴィン・スプーンフルだった。あのジョン・レノンも愛聴していたし、ポール・マッカートニーも"Good Day Sunshine"は、ザ・ラヴィン・スプーンフルの"Daydream"からの影響を認めているくらいだ。活動期間は短かったものの、その功績は、まさにロックの殿堂入りに相応しいものと言えるだろう。

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2019年7月29日 (月)

ジョン・セバスチャン

 マリア・マルダーつながりで、今回はジョン・セバスチャンについて書くことにした。自分の印象では、ジョン・セバスチャンは西海岸、特にサンフランシスコ周辺に関係のある人ではないかと思っていた。その音楽性が60年代後半に起きた、いわゆる”フラワー・ムーヴメント”に影響を受けた感じがしたからだった。
 例えば、"San Francisco"を歌ったスコット・マッケンジーとかに似ていると思ったのだが、実際は全く関係がなかった。ジョン・セバスチャンの方はマリア・マルダーと同様にニューヨーク生まれだった。これもまたイメージだけで語って申し訳ないのだが、ニューヨークというと大都市という印象が強くて、音楽についてもクールでモダンなものというふうに思っていた。だからジャズとか、R&Bでもどこか垢抜けたものとか、ポップ・ソングでもどこかヒンヤリとする感じがした。だから逆に、泥臭くてアーシーな音楽とは無縁だと思っていたのだ。何という浅はかな考えだろうか。まことに偏見とは恐ろしいものである。

 ジョン・セバスチャンはニューヨークのグリニッジ・ヴィレッジ出身で、1944年3月生まれだから今年で75歳になる。ということは、ストーンズのミック・ジャガーと同じ年ということになる。クラプトンが45年生まれだから彼より1歳年上だ。1945年前後は、ロック・ミュージシャンの当たり年だったのかもしれない。John_sebastian

 それはともかくとして、ジョンの父親は有名なハーモニカ奏者で、母親はラジオ番組の構成作家だった。そういう家庭に育ったせいかどうかはわからないが、幼い頃から家庭には音楽が満ちていて、知らず知らずのうちにジョンもまたウディ・ガスリーやミシシッピー・ジョン・ハートなどのフォーク・シンガーやR&Bミュージシャンのレコードを聞くようになった。彼はブレア・アカデミーという私立の有名な全寮制の学校を卒業した後、ニューヨーク大学に入学したが、わずか1年で退学した。もちろん自分の音楽的キャリアを追及するためだった。

 彼は父親の影響からか、自らもハーモニカを演奏するようになった。ただし、それはブルーズ奏者がやるようなもので、父親とは全く音楽的志向が違っていた。それでも父親の紹介でライトニン・ホプキンスのニューヨークの付き人みたいなことを行うようになり、その頃流行していたフォーク・ロックと呼ばれる音楽に近いものをやるようになって行った。
 60年代半ばになると、イーヴン・ダズン・ジャグ・バンドやマグワンプスというバンドに参加したが、あまり話題になることはなかった。後者のバンドにはキャス・エリオットやデニー・ドハーティ、ギタリストのザル・ヤノフスキーがいた。キャスとデニーはザ・ママス&ザ・パパスを結成し、ジョンとザルはザ・ラヴィン・スプーンフルというバンドの母体となった。

 ザ・ラヴィン・スプーンフルについては、別の機会に譲るとして(別の機会があればのお話だが...)、とにかくこのバンドは売れた。1965年の"Do You Believe in Magic?"は全米シングル・チャートで9位、1966年の"Daydream"は2位、"Summer in the City"は堂々の首位を獲得した。そして、2000年には”ロックの殿堂”入りを果たしている。
 また、ボブ・ディランの1965年のアルバム「ブリンギング・イット・オール・バック・ホーム」ではベース・ギターを任されて、ツアーまで参加しないかと誘われたが、断っている。理由はザ・ラヴィン・スプーンフルに専念したかったからだそうだ。それほどジョンは、バンド活動に力を入れていた。

 ところが、1967年にザル・ヤノフスキーが脱退してしまうと、新しいギタリストを入れてもうまく行かなくなり、1968年にジョン自身がバンドを去ってしまい、バンド自体も1969年に解散してしまった。ジョン・セバスチャンとしてのソロ活動が始まっていったのは、60年代後半からということになる。

 ジョン・セバスチャンは最初はブロードウェイの演劇の音楽などを担当していたが、1969年8月にウッドストック・フェスティバルに見に行こうと出かけた。ところが急な雨のせいでステージ上が濡れてしまい、サンタナの演奏準備ができずに時間が空いてしまった。観客の中にジョン・セバスチャンがいることを知った主催者側は、急遽、時間しのぎのためにジョンにステージに上がってもらうようにお願いしたところ、ジョンは了解して歌うことになった。この時彼は、ドラッグのせいでハイになっていたようだ。だから簡単にOKしたと言われているが、彼自身は単なる普通の飲み薬でナチュラル・ハイだったと言っている。真相はどうなんだろう。40eb5607436f6755beb8d201a2cd65d0

 とにかくこのパフォーマンスのせいで、再び彼に脚光が当たり始めた。このあと同じようなフェスやライヴに呼ばれるようになって行ったのだ。ちなみにウッドストックでは、自分の持ち歌を3曲、ザ・ラヴィン・スプーンフルの曲を2曲歌っていたが、この時彼のソロ・アルバムは、まだ発表されていなかった。
 最初のソロ・アルバム「ジョン・B・セバスチャン」は、1970年に発表され、ビルボードの・アルバム・チャートの20位まで上昇した。ウッドストックでの彼のパフォーマンスがセールスに結びついたのかもしれない。あるいは、クロスビー、スティルス&ナッシュが参加していたせいかもしれない。また、デヴィッド・クロスビーからはC,S&Nに参加しないかと誘われていて、ジョンも本気で考えていたようだ。もし実現していたら、C,S,N&Sになっていたかもしれない。51suw8j7aul

 ジョン・セバスチャンの音楽性は、マリア・マルダーほど幅広くはないものの、単なるフォーク・ミュージックやフォーク・ロックの範疇に収まるものではなかった。フォークからロック、ジャズ、R&Bと自身が影響を受けた音楽をまとめてジョン・セバスチャンというフィルターでろ過したようなサウンドなのである。だから多様な音楽的要素に満ちているし、どんなテイストを持った曲が出てくるかわからないという楽しみも備えている。
 例えば「ジョン・B・セバスチャン」では、ロックン・ロールの"Red-Eye Express"やストリングスが美しいバラード曲"She's a Lady"、アコースティック・ギター弾き語りの"You're a Big Boy Now"など、なかなかの佳曲で占められていて、セールス的に成功した理由も理解できた。特に、エルヴィス・コステロもカバーした"The Room Nobody Lives in"などは隠れた名曲ではないかと思っている。

 このあとジョンは、ライヴ・アルバムを発表した後、1971年にセカンド・スタジオ・アルバム「ザ・フォー・オブ・アス」をリリースした。冒頭の"Well,Well,Well"などは、名曲"Woodstock"に似た感じのロックン・ロールだし、"I Don't Want Nobody Else"はミディアムテンポで、バック・コーラスが60年代風の美しいもので、こういうところがウェストコースト風の音楽と間違えてしまった点だろう。
 また、"Apple Hill"はまさにラヴィン・スプーンフル時代のような甘くてポップなテイストで、バンジョーが使用されている点が面白い。また、ベース・ギターを演奏しているのは、グリニッジ・ヴィレッジ当時の旧友だったフェリックス・パパラルディだった。 51p3cjcehyl

 こういう佳曲が含まれていたのに、何故かこのアルバムは売れなかった。理由はよくわからないが、ひょっとしたら当時のレコードのサイドB全体を使って書かれた曲"The Four of Us"のせいかもしれない。この曲は組曲形式になっていて、"Domenica"、"Lashes Larue"、"Red Wind、Colorado"に分かれていた。カリブ風の音楽やDr.ジョンがピアノを弾いているニューオーリンズ風のロックン・ロールも含まれていて、ジョン自身の集大成的アルバムだった。こういう先進的というか、自身の趣味性を追及しすぎたせいでセールス的にはパッとしなかったのかもしれない。チャート的には93位に終わっている。

 1974年には「ターザナ・キッド」というアルバムを発表したが、これまた不発に終わっている。ただ評論家の受けは良くて、リトル・フィートの"Dixie Chicken"の再解釈やローウェル・ジョージと共作した"Face of Appalachia"など名曲も含まれていた。特に、デヴィッド・リンドレーがフィドルを担当している"Face of Appalachia"は、これまた涙なしには聞くことのできないカントリー・バラードで、70年代半ばの混沌や退廃といった風潮を受け止めながらもそれを越えていこうとする力強さと繊細さを感じさせてくれる。

 また、エヴァリー・ブラザーズもカバーした"Stories We Could Tell"もまた優しいフォーク・ソングだった。エヴァリーの曲の方は、当時ジョンが住んでいた家の居間で録音されていて、これはジョンとエヴァリー・ブラザーズに参加するというプランがあったからだという。ジョンは、そういう意味では、ミュージシャンからも愛されるミュージシャンだったのだろう。51eiz1jlakl

 1976年に発表されたアルバム「ウェルカム・バック」は、ジョンにとってもまたファンにとっても忘れられないアルバムに違いない。このアルバムからは全米No.1シングルになった"Welcome Back"が含まれていたからだ。この曲は、テレビの青春ドラマの主題歌で、テレビドラマが好評だったため、主題歌も一気にチャートを駆け上っていった。ちなみに主演はジョン・トラボルタだった。
 またこの曲以外にも、ザ・バンド風の"I Needed Her Most When I Told Her to Go"ではジョン自身がハーモニカを演奏しているし、完全なブルーズ調の"Warm Baby"、2枚目のシングルになった"Hideaway"などの優れた曲が収められていた。

 "Hideaway"などは、"Warm Baby"とは対照的に、陽気で明るい曲だし、もっと売れてよかったと思っている。また、バラード調の"She's Funny"も落ち着いた感じで、まるでソウル・ミュージックだった。こういう音楽の多様性が彼の魅力なのだが、当時の音楽ファンからすれば、つかみどころがなくて敬遠されたのかもしれない。51crs39r4pl

 その後も彼はコンスタントに活動を続けていて、ライヴ活動も行っているようだ。最近では自分のルーツに戻ったようで、60年代風のジャグ・バンドとともに活動している。513sax1jgrl
 とにかく、彼の作る音楽は彼自身の人間性を表しているようでとても親しみやすく、メロディアスで覚えやすいのが特徴だ。ちょうどウッドストックへの出演で人気に火がついたように、その時のパフォーマンスが、ドラッグのせいかどうかは別にして、彼の人間性が表出されていたからだろう。そして、人の人間性は単一のものではないから、彼の場合はロックン・ロールからR&B、ポップ・ソングにウェストコースト風音楽と、多種多様に表現されたものとして表れてくるのだろう。まさにアメリカン・ミュージックを体現したミュージシャンのひとりではないだろうか。

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2019年7月22日 (月)

マリア・マルダー

 先月亡くなったDr.ジョンつながりで、この人のアルバムを紹介しようと思う。マリア・マルダーが1973年に発表したアルバム「オールド・タイム・レイディ」である。知っている人は知っていると思うけれど、このアルバムは彼女の代表作の一枚といわれていて、シングル・カットされた"Midnight at the Oasis"はビルボードのシングル・チャートで6位まで上昇している。また、シングルだけでなく、アルバム自体もチャートの3位まで上昇してゴールド・ディスクを獲得した。51dks1bhojl

 彼女の特徴は、単なるフォーク・シンガーでもなく、またカントリー・ミュージックの信奉者でもないところだろう。どういうことかというと、単なる歌を歌うだけでなく、その歌の解釈の仕方や歌い方を通して、彼女の持つ表現力の高さや感性の豊かさ、そしてそれぞれの歌を通してアメリカという歴史の浅い国で育ってきた様々な種類の音楽やそれらが持つ普遍的な魅力をリスナーに伝えようとしているところである。

 もし彼女が自分で曲を書き、自分で歌うというシンガー・ソングライターだったら、ここまでの表現力を発揮できたかどうかは疑問である。自分の気持ちや考え、感情を披露し、それを聞き手に向けて発表できるだろうが、そこから先がどうなるかわからないし、見えて来ない。ひょっとしたらそこで終わってしまうかもしれないのだ。
 逆に、むしろ他の人の曲を取り上げることで、別の解釈の仕方を提示し、それを彼女の歌を待っている私たちに伝えようとする意志みたいなものが、彼女自身を更なる高みに持って行くような気がしてならない。だからこそ歌唱力のみならず豊かなで幅広い表現力が発揮できるのだろう。

 彼女の持つ資質は、彼女がもともと持っていたのかもしれないが、それだけでなく子どもの頃から歌うことが好きで、高校生になっても授業をさぼって歌の練習をしたり、公園や街角で歌っていたりと、そういう環境から磨かれ育って行ったのだろう。
 彼女は元々ニューヨークのグリニッジ・ヴィレッジの出身である。1943年の9月生まれだから現在75歳になる。ということは1950年代後半から60年代前半に青春時代を送ったわけで、当時のニューヨークのグリニッジ・ヴィレッジの新しいムーヴメントが生まれるまさにその影響を浴びながら育って行ったわけだ。だからフォーク・ソングからカントリー・ミュージック、ブルーグラスやジャズまで幅広く吸収できたのだろう。その影響が、後に彼女のシンガーとしての成長に大きく役立ったのである。

 マリア・マルダーの本名は、マリア・グラシア・ロサ・ドメニカ・ダマートといった。イタリア系の移民なのかもしれない。高校生の頃からコーラス・グループを結成して歌っていたが、卒業後は本格的にプロの道を歩もうと決意し、ドック・ワトソンの義理の父親だったガイザー・カールトンからフィドルの演奏の仕方を習いにノース・キャロライナ州まで出かけてしばらくそこで過ごしていた。ちなみに、ドック・ワトソンとは60年代を中心に活躍した盲目のギタリストで、そのフィドルのような速弾きは後進のギタリストに多大な影響を与えている。

 ノース・キャロライナから戻ったマリア・マルダーは、再び小さなカフェやクラブで歌を歌い始めるが、21歳になった時にブルーズ・シンガーだったヴィクトリア・スパイヴァから誘われて、イーヴン・ダズン・ジャグ・バンドに参加した。このバンドにはマリアの他に、ジョン・セバスチャン、のちにブラッド、スウェット&ティアーズのギタリストになるスティーヴ・カッツ、マンドリンの名手デヴィッド・グリスマンなどがいた。ただ、バンドは1枚のアルバムを残して解散してしまった。これだけの有能なミュージシャンが集まっていたのだから、なかなか意見がまとまらず長続きできなかったのだろう。Mariamuldaurd43422725ed7445c97e72f9b1be4

 マリアの方は、すぐにジム・ウェスキン・ジャグ・バンドに加わって活動を続けた。そしてこのバンドのギタリストだったジェフ・マルダーと結婚したのである。それで名前がマリア・マルダーになったのだが、そんなことよりもこのバンドでの活動は約6年にも及んだが、1969年にバンドは解散した。そして夫婦だったジェフとマリアは、共同名義でアルバムを2枚発表しているが、ブルーグラスやフォークが好きな人ならともかく、世間的にはそんなに話題にはならなかったようだ。

 そして1972年に夫婦は離婚したが、マリアの方はそのままマルダー姓を名乗り続けていった。未練があったのかはたまた韻を踏んで言いやすかったのか定かではない。それはともかく、元夫のジェフ・マルダーはポール・バタフィールドとともに”ベター・ディズ”を結成してバンド活動を続けていった。そして元妻であるマリアはソロ・アルバムを発表した。それが「オールド・タイム・レイディ」である。ただし、このアルバム・タイトルは日本のレコード会社が決定したもので、オリジナル・タイトルは単純に彼女の名前「マリア・マルダー」だった。

 アルバムの内容も素晴らしいのはいうまでもないが、それだけでなく制作に集ったミュージシャンの顔触れがまたすごいのである。まずスライド・ギターの名手ライ・クーダー(ただしこのアルバムではスライド・ギターは手に取っていない)、スタジオ・ミュージシャンとして名を馳せたジム・ケルトナーにデヴィッド・リンドレー、キーボードにはマーク・ジョーダンにグレッグ・プレストピノ、マンドリンのデヴィッド・グリスマン、バイオリンにはリチャード・グリーンとラリー・パッカー、フライング・ブリット・ブラザーズにも在籍していたベーシストのクリス・エスリッジ、それになぜかクラウス・ヴアマンもベースを演奏していたし、デレク&ザ・ドミノスのジム・ゴードンは太鼓を叩いていた。さらにはザ・バーズにもいたクラレンス・ホワイトにニック・デカロ、アンドリュー・ゴールド、エイモス・ギャレット、そしてマルコム・ジョン・レベナックである。やっと出てきた、マルコム・ジョン・レベナックこそDr.ジョンの本名だ。このアルバムではホーン・アレンジも担当していた。71hh3sa003l__sl1001_

 もちろんこれ以外も多くのミュージシャンが参加していたのだが、ここでは割愛する。あまりにも多すぎるので紹介しただけでこの稿を終わってしまうからだ。とにかくこれだけ多くの有能なミュージシャンが集まって作り上げたアルバムである。発表前から手ごたえはあったようだ。これを企画したのはもちろんマリアもそうだが、主にはプロデューサーを務めていたジョー・ボイドとレニー・ワロンカーの2人のおかげだろう。

 ジョー・ボイドはアメリカ人ではあるが、初期のピンク・フロイドやインクレディブル・ストリングス・バンド、フェアポート・コンヴェンションなどのイギリスのバンドもプロデュースしている人で、基本的にはフォーキィな音作りに堪能である。もう一方のレニー・ワロンカーの方は、のちにワーナーブラザーズの社長にもなった人だが、リッキー・リー・ジョーンズやランディ・ニューマン、ポール・サイモンなどのアルバムのプロデューサーも担当したことがある。この2人がプロデューサーだったから、こんなに幅広く人を集められたのだろう。しかもそれなりの人ばっかりだから、これはもう素晴らしいとしか言いようがない。

 アルバムの内容だが、これはソウル・ミュージックやリズム&ブルーズを除くアメリカン・ミュージックの集大成のようなもので、ヨーロッパ系アメリカ人なら、あるいはジャズを生んだアフリカ系アメリカ人にもどこか郷愁を感じさせるような楽曲で占められていて、そういう意味でもまたヒットしたのではないかと思っている。
 1曲目の"Any Old Time"はライ・クーダーの弾くアコースティック・ギターの演奏が耳に残るのだが、20世紀初頭のラグタイム・ミュージックになっているし、2曲目の"Midnight at the Oasis"は都会的なジャズだ。続く"My Tennessee Mountain Home"はフィドルが強調されたカントリー系の曲で作曲者はドリー・パートンで、"I Never Did Sing You a Love Song"はゆったりとしたバラード系のジャズ・ボーカルもしくはスタンダード曲風の装飾が施されている。

 "The Work Song"は徐々に楽器が増えていき、最終的にはディキシーランド風の音楽が形作られて行き、"Don't You Feel My Leg"もまたマリアの表現力がパッケージされた曲で中間部のピアノ・ソロはジョン・レベナックが担当しているし、次の"Walkin' One&Only"ではジャズ畑からベーシストとドラマーを呼んでスウィングしながら歌っている。バイオリン演奏はリチャード・グリーンが担当していて、最後はアコースティック・ギターと競い合っていた。

 "Long Hard Climb"はゆったりとしたバラードで、ドリーミングな心地にさせてくれる名曲だ。"Midnight at the Oasis"もそうだが、ストリングスのアレンジはニック・デカロが担当している。この曲は最後がフェイド・アウトしてしまうのでもったいない気がした。エンディングまで聞かせてほしい曲でもある。"Three Dollar Bill"にもDr.ジョンは参加していて、そのせいでもないだろうがビルボードのアダルト・コンテンポラリー部門のシングル・チャートで7位まで上昇している。

 "Vaudeville Man"はそのタイトルのようにクラリネットやホーンがフィーチャーされているが、アレンジを担当したのはDr.ジョン、ベースはクラウス・ヴアマンが、アコースティック・ギターはアンドリュー・ゴールドが演奏している。アルバム最後の曲"Mad Mad Me"は何となくケイト・ブッシュのような高音と表現力を伴っている曲で、バイオリンはラリー・パッカー、ピアノはグレッグ・プレストピノ、ドラムスはジム・ケルトナーではなくてクリス・パーカーというジャズ・ミュージシャンが参加している。言い忘れたがジム・ゴードンは"Midnight at the Oasis"でドラムスをたたいていた。

 このアルバムの演奏をきっかけにブレイクしたのが、ギタリストのエイモス・ギャレットで、"Midnight at the Oasis"でのギター・ソロが評価されて脚光を浴び、ソロ・アルバムを発表するようになった。そういった意味でも、歴史的な評価が高いアルバムかもしれない。201904170035_ex
 この後マリア・マルダーは、ゴスペル・ミュージックやジャズ、リズム&ブルーズなどの様々分野で活躍するようになって行った。そしてDr.ジョンはもとより、ブルーズやジャズ界のミュージシャンともコラボを重ねながらアルバムを発表し続けており、その数は何と41枚にも達しているという。まさにアメリカン・ミュージックの伝道師のようなマリア・マルダーだ。まだまだ現役で頑張ってほしいものである。

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2019年6月17日 (月)

追悼:Dr.ジョン

 先日の6月6日にDr.ジョンが亡くなった。心臓発作が原因という。享年77歳だった。日本ではマニアの人ぐらいしか知らないかもしれないが、母国アメリカでは有名のようで、2011年にはロックの殿堂入りを果たしているし、グラミー賞も6度にわたって受賞している。自分も正直言って、そこまで評価が高いミュージシャンとは知らなかった。 2015112400093_1

 Dr.ジョンの本名は、マルコム・ジョン・レベナック・ジュニアといった。彼はルイジアナ州のニューオーリンズ出身だったから、子どもの頃から地元の音楽を聴いて育った。3歳から家にあったピアノを弾き始めたという。父親は電機店を経営していて、そこにあった当時の78回転のレコードを聞きながら腕を磨いていった。また学校に通い始めると、今度は母親が彼にギターをプレゼントしてくれた。そんなところを見ると、彼の家は比較的裕福なところだったようだ。何事も環境は大事ということだろうか。

 父親が電機店を経営していたという点も、彼のキャリアを考える上では非常に重要なことで、父親の仕事の手伝いをしていたレベナック少年は、ある時、PA機器の修理のために父親とミシシッピー州ミズーリのクラブに出かけたのだ。その時に出演していたのが、プロフェッサー・ロング・ヘアだった。私のハンドル・ネームもこの人から来ているのだが、ここではどうでもいい話だ。
 とにかく、この時のステージの印象が強くて、自分も将来は音楽で身を立てようと思ったらしい。また、父親はニューオーリンズの唯一のレコーディング・スタジオを経営していた人とも友人だったから、子どもだったレベナック少年もたびたびそこを訪れるようになって行った。偶然が重なれば必然になると言われるが、こういう環境がすでに用意されていたようだ。レベナック少年がDr.ジョンになるのは、ある意味、歴史の必然だったのかもしれない。

 レベナック少年は、レコーディング・スタジオに出入りしていくうちに、そこのスタッフやミュージシャンと仲良くなっていった。そして時には、使い走りをさせられながらも、ブルーズや地元の音楽にさらに慣れ親しんでいった。
 50年代にロックン・ロールのブームが起こると、根っからの音楽少年だった彼もその流行に身を任せてしまい、ついには高校を退学してしまい音楽的キャリアの追及を始めるようになったのである。

 17歳になると、自分のバンドを組んでクラブなどに出演するようになった。当時のレベナック少年はギターを担当していて、バンド名はボーカリストの名前を使用していた。当時流行ったような”〇〇&ザ・ナントカ”という感じだ。だから、1人のボーカリストが都合で来れなければ、次のボーカリストを見つけてきてバンド名を変えて出演していた。そうすれば、ほぼ毎晩レベナック少年はステージに立つことができたという。確かにそうすれば、毎晩演奏できるだろう。そうやって技術や感性、表現力を磨いていったのだろう。

 そうこうするうちに、先ほどのレコーディング・スタジオのスタッフから、メンバーが足りないからレコーディングに立ち会ってくれなどという声もかかってきて、セッション・ミュージシャンとしても名前が知れるようになって行った。
 50年代の後半に入ると、ソングライティングも行うようになり、"Lights Out"という曲を発表した。また、ジョニー・ヴィンセントが設立したエイス・レコードという会社でA&Rマンとして働き始め、安定した収入も稼ぐようになって行った。この時のことを、彼は後にこのように回想している。『レコーディングの際には、曲とセッション・ミュージシャンを決めるのが主な仕事だった。ただそれだけではなくて、必要ならアレンジャーも探して来るし、いなければ自分がアレンジも担当した。また才能あるミュージシャンを探してきて、そのレパートリーや曲作りも手伝ってレコーディングまで一緒にやったこともあった』

 その間に自分の演奏活動も行っていたのだが、運命の転機は突如としてやってくるようだ。1960年にフロリダ州ジャクソンヴィルで、モーテル経営者の喧嘩を止めようとしていたところ、その経営者が拳銃を発砲してしまい、運悪くそれがレベナックの左手人差し指(薬指という説もある)に当たってしまい、負傷してしまった。チョーキングもヴィブラート奏法もできなくなった彼は、ひどく落ち込んでしまい、一時はミュージシャンを廃業しようかと考えたようだ。

 その時バンドのメンバーだったキーボーディストからオルガンを弾くように勧められ、その手ほどきを受けるようになった。元々、子どもの頃からピアノに慣れ親しんでいたレベナック少年は、瞬く間にオルガンのみならずキーボード類を弾きこなせるようになって行った。
 しかし今度は、ニューオーリンズの音楽業界に陰りが見え始めた。ニューオーリンズよりもデトロイトやメンフィスのソウル・ミュージックやリズム&ブルーズが注目され始め、またイギリスからロックン・ロールの逆輸入が始まったのだ。

 仕方なくレベナック少年は故郷を去り、西海岸のロサンジェルスに旅立っていった。そこで彼は、旧友のハロルド・バチスティと出会い、とりあえずソニー&シェールのバック・バンドのメンバーとして活動を始めた。そしてオージェイズ、フィル・スペクターやアイアン・バタフライ、その他数えきれないほどのセッションに参加していった。

 1967年になって、レベナックはハロルドや同郷のメンバーたちと一緒に"Gris-Gris"をレコーディングした。この時から彼は"Dr.ジョン"と名乗るようになったのだが、この"Gris-Gris"は、ニューオーリンズに一度も行ったことのない人に、こんな音楽があるのか紹介するつもりで作った曲のようで、タイトル名は地元ニューオーリンズのヴードゥー教を意味していた。音楽的にもおどろおどろしくてサイケデリックだったが、意外にこれが受けたのだ。8104085_3l

 当時はまさに”サイケデリック・ミュージック”が流行していて、特に西海岸では、クィックシルヴァー・メッセンジャー・サーヴィスやアイアン・バタフライ、イッツ・ア・ビューティフル・ディ、ラヴ、モビー・グレイプなどその手の傾向を有するバンドが人気を得ていたから、Dr.ジョンの新奇的な音楽性も、逆に受け入れられやすかったのだろう。

 その音楽性に沿うように、Dr.ジョンのステージもまたヴードゥー教を意識したような、頭に鳥の羽をつけたり、メーキャップを施したり、派手な衣装を身にまとったりと一度見たら絶対に忘れられないようなものだったから、あっという間に名前が売れていったのだ。だから1971年の4枚目のアルバム「太陽、月、薬草」には、エリック・クラプトンやミック・ジャガー、グラハム・ボンドにボビー・キーズなどの錚々たるミュージシャンが参加していた。このアルバムは当時3枚組として発表される予定だったらしいが、結局は1枚のアルバムとしてまとめられて世に出された。

 このアルバムはビルボードのアルバム・チャートで184位を記録するなど、ニューオーリンズの音楽ファンのみならず広く一般にも売れたのだが、なぜかニューオーリンズの音楽自体が下火を迎えていたせいか、Dr.ジョン自身が借金を抱えてしまい、その解決のために当時のアトランティック・レコードの社長だったジェリー・ウェクスラーに相談したところ、それならもう一度ニューオーリンズの音楽を紹介するアルバムを作ってはどうかと提案され、そこから生まれたアルバムが1972年の「ガンボ」だった。8161d8w5el__sl1200_

 日本でのタイトルは「ガンボ」だったが、正式なタイトルは「Dr.ジョンズ・ガンボ」というもので、つまりDr.ジョンによるニューオーリンズ音楽の再解釈という意味なのだろう。このアルバムはファンのみならず、批評家からも絶賛された。また、ビルボードのチャートには11週も残り続け、112位まで上昇している。チャート的にはそんなに大したことはないと思われるかもしれないが、たとえば日本の沖縄民謡や秋田の祭りの囃子歌のアルバムが全国的に有名になったと考えれば、これはちょっとした出来事ではないだろうか。

 このアルバム「ガンボ」の成功で、その次のアルバム「イン・ザ・ライト・プレイス」はもっと売れた。チャートには33週も残り続け、24位まで上昇している。彼のキャリアの中で一番売れたアルバムになったのである。その主な原因は、2曲のシングルがヒットしたからだろう。マーティン・スコセッシが監督したザ・バンドの「ラスト・ワルツ」でも披露された"Such A Night"はシングル・チャートで42位を、"Right Time Wrong Place"は堂々の9位を獲得したのである。ちなみに、アルバムのプロデューサーはアラン・トゥーサンだった。彼もまた南部を代表する偉大なミュージシャンのひとりだった。お互い気心が知れていたのだろう。41x27wkmzdl

 同じ1973年にはもう1枚のアルバム「ディスティヴリー・ボナルー」を発表し、アトランティック・レコードとの契約を終了させ、ユナイティッド・アーティスト社から「汝の名はハリウッド」を発表した。これは表向きはクラブでのライヴ・レコーディングになっていたが、実際はスタジオ・ライヴ録音だった。ただ、プロデューサーはアリス・クーパーやキッス、ピンク・フロイドなどを手掛けたあのボブ・エズリンだったから、ひょっとしたら彼の入れ知恵なのかもしれない。

 この後Dr.ジョンは、徐々にジャズの方面にその触手を伸ばしていった。70年代後半は、フュージョンやクロスオーバーと呼ばれるジャンルに脚光が当たっていたから、その影響を受けたのかもしれない。一時彼は、スティーヴ・ガッドやデヴィッド・サンボーンなどと一緒にツアーをしていたようだ。何となく似合わないような気がした。
 その後、あまり彼の名前を聞かなくなったのだが、80年代後半に大手のレコード会社であるワーナー・ブラザーズに移籍してから再び脚光を浴び始めた。1989年のアルバム「イン・ア・センチメンタル・ムード」が再びアルバム・チャートに顔を出したのである。71yaoob7hml__sl1200_

 タイトル名でもわかるように、このアルバムはジャズ曲集で、デューク・エリントンやコール・ポーターなどの曲で占められていた。このアルバムの中の曲"Makin' Whoopee!"ではリッキー・リー・ジョーンズとデュエットをしていて、1990年の第32回グラミー賞で「ベスト・ジャズ・ボーカル・パフォーマンス・デュオもしくはグループ部門」で受賞することができたのである。
 ここから再び彼が注目され始め、ジャズのみならずリズム&ブルーズ、ロック・ミュージックとニューオーリンズの音楽を中心としながら活動を続けていった。そして、1992年の14枚目のソロ・アルバム「ゴーイング・バック・トゥ・ニューオーリンズ」は再びグラミー賞の「ベスト・トラディショナル・ブルーズ・アルバム」を獲得している。

 その後も彼は、コンスタントにアルバムを発表し続けていた。60歳を越えてもほぼ毎年アルバムを発表し続け、2009年と2013年には、それぞれグラミー賞の「ベスト・コンテンポラリー・ブルーズ・アルバム」と「ベスト・ブルーズ・アルバム」を獲得している。まさに”レジェンド”の異名に相応しい活躍ぶりだろう。

 自分にとっては、最初はレオン・ラッセルと区別がつかなかったし、彼の楽曲もシンディー・ローパーが歌った"Iko Iko"を聞いて、これってDr.ジョンが歌ったやつじゃないかと再認識したくらいだった。それでも彼のおかげでニューオーリンズの音楽を知ることができたし、彼を原点にしてマリア・マルダーやジョン・セバスチャン、日本の細野晴臣、久保田麻琴と夕焼け楽団などの音楽を知ることができた。そういう意味では、まさに”ニューオーリンズ音楽の伝道師”といってもいいだろう。心から哀悼の意を捧げたい。

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2019年4月22日 (月)

コーポレイト・アメリカ

 ボストンというアメリカのロック・バンドについて記すことにした。特に深い理由はなくて、以前からこのアルバムを聞きたくて、最近購入して聞いたからだ。

 このアルバムというのは、彼らの5枚目のスタジオ・アルバムにあたる「コーポレイト・アメリカ」のことである。2002年の11月に発表されたもので、全10曲47分余りの内容だった。
 なぜこのアルバムが聞きたかったかというと、彼らのアルバムにしては売れなかったという理由と、売れなかったのはアメリカの大企業を批判したせいで、プロモーションが十分させてもらえなかったという噂を聞いたからだった。41th8d26apl_2
 ご存知のように、ボストンは1976年にアルバム「幻想飛行」でデビューした。このアルバムは、全米のアルバム・チャートでは最高位3位どまりだったが、セールス的にはアメリカだけでも1700万枚以上、全世界で20000万枚以上の売り上げがあり、今でも30周年記念盤「幻想飛行」が発売され、売れ続けている。

 続く1978年のセカンド・アルバム「ドント・ルック・バック」、1986年のサード・アルバムの「サード・ステージ」は、連続してチャートの首位に輝き、1994年の4枚目の「ウォーク・オン」も100万枚以上売り上げ、7位になっていた。
 ところが、1997年の「グレイテスト・ヒッツ」を挟んで、2002年に発表されたこのアルバムは、チャート的には42位と低迷し、アルバム・セールスも約50万枚程度だった。まさに、70年代の往時を知る者にとっては信じられない悲劇であり、ボストンというブランドにキズがついたような出来事だったのである。

 ところがなぜ売れなかったかという理由が、半ば都市伝説のように語られていった。それが上記にもあったように、アメリカの大企業を批判したために圧力がかかり、プロモーションができなかったというものだった。また、それだけでなく、一部自主回収もされたという噂もまことしやかに流されていた。

 このアルバムの中に収められていたブックレットの裏表紙には、次のように書かれていた。ちなみに自分は輸入盤を購入して聞いたので、日本語訳はついていなかった。だから、正確な日本語ではないことをお許し願いたい。
 “化石燃料を保護しよう、ムダな資源を削減しよう、菜食主義者の生き方を学ぼう、動物製品を避けよう、銃ではなくカメラで仕留めよう、環境保護者に投票しよう、児童虐待や動物虐待を知ろう、毛皮を買うな!”2_000000002394
 そしてその後には、動物保護団体や環境保護団体、児童虐待を防ぐ委員会などにアクセスできるメール・アドレスが記載されていた。ということは、ある意味、このアルバムはプロテスタントな色合いの濃いアルバムだったということが分かる。ちなみに、リーダーのトム・ショルツ 自身も30年以上のヴェジタリアンとのことだった。

 しかし、これだけでは大企業の批判とは言えないだろう。そこで、アルバムの3曲目に収められていたアルバム・タイトル曲"Corporate America"の歌詞について調べてみた。
「誰が人類の退化を防ぐことができるのか
自分を見つめろ、みんなで協力しよう
たばこ産業やビジネスジェット機のグローバル化などは
恥ずべき事 みんなはそれを最大限に好んでいるけど
だけど結論はまだ取り出して突きつけることはできる

さあ行動を起こせ 俺は今夜少し手助けが必要なんだ
お前は何というのか
お前は何というのか
明かりが見えない時でさえも」

(訳;プロフェッサー・ケイ)

 要するに、環境保護の大切さや地球温暖化の危機のことを暗に仄めかしていて、これ以上地球がこのままいけば滅びるぞ、人類は協力してこの危機的状況を打開できるはずだと訴えている。確かに、かつてのゴア副大統領あたりが聞いたら喜びそうな曲かもしれないが、これだけで大企業批判には当たらないだろう。

 ただ最後のフレーズに、「レザー張りのメルセデスを注文して何の意味があるんだ」という言葉があり、固有名詞が出てくるのはここだけなので、ひょっとしたらこれが原因とも考えられるが、たぶん違うだろう。
 一番の問題は、このアルバムは、それまでのエピックやMCAというメジャーなレコード会社からアルテミスというマイナーな会社に移籍して発表されたものだったから、十分なサポートが受けられなかったことは言えるだろう。そこから、上記のような噂が生まれた(あるいは意図的に流された)のではないだろうか。

 肝心のサウンドはどうかというと、特徴的なギターの多重サウンド、空に突き上げるかのようなスペイシーな音の響きなど、今までのボストンを継承している。
 ただ、このアルバムではトム・ショルツ以外のメンバーが健闘していて、2曲目の"Stare Out Your Window"と6曲目の"Turn It Off"、7曲目の"Cryin'"はアンソニー・コスモという人の手による曲で、この人は同じボストンの当時のメンバーであるフランシス・コスモの息子だった。息子の書いた曲を父親のフラン・コスモが3曲とも歌っていたのだ。

 フラン・コスモは、アルバム「ウォーク・オン」から参加していた人で、ブラッド・デルプの代わりにリード・ボーカルを取っていた。ボストンにはこのアルバムとそれに伴うツアーまで参加している。アンソニーは、2002年のツアーからボストンに参加し、2006年頃まで在籍していた。ギターやベース・ギター、ドラムスにキーボードと何でもこなすマルチ・ミュージシャンでもあった。

 アルバム・タイトル曲の"Corporate America"は、何故かディスコ調の曲で、ブラッド・デルプとフラン・コスモ、新人女性ボーカリストのキンバリー・ダーマという人の3人が歌っていた。バックの演奏は、ドラムスからキーボードまで、すべてトム1人が演奏している。ディスコ調にアレンジすることで、切迫感や自堕落な様子を表現しようとしたのだろう。

 4曲目の"With You"は、女性ボーカリストのキンバリーの手による曲で、キンバリーがアコースティック・ギターを担当し、トムがエレクトリック・ギターとベース・ギターを演奏する素朴なバラードである。ウェストコースト風の爽やかなバラードなのだが、途中のエレクトリック・ギターの入り方がいかにもトム流で、ワ~といっぺんに多重録音で入ってくるのがちょっと残念だった。バラードなのだからもう少しそっと来てくれると、盛り上がっただろうに。

 キンバリーは、53歳になるアメリカ人のミュージシャンで、ボストンではベース・ギターも担当していたが、ベース・ギターに関してはボストンに加入が決まってから手ほどきを受けたようで、そんなに得意ではないようだ。基本はボーカルとギターである。3393672570_74d2a256f6_o
 "Someone"はブラッド・デルプとトム・ショルツの2人のパフォーマンスで出来ている曲で、次の"Turn It Off"とともに、ミディアム調のややダークな曲だった。
 この"Turn It Off"と"Cryin'"については、上にも述べたようにアンソニー・コスモの手によるもので、ボストンというよりは、西海岸のオルタナティブ・ロック・バンドの曲のようだ。メロディアスでありながらも刺々しい雰囲気も備えていて、個人的には好きな曲だった。トム・ショルツのギター・ソロがなければ、ボストンの曲とは誰も気がつかないだろう。

 "Didn't Mean to Fall in Love"は、珍しくトムがアコースティック・ギターのソロも演奏している。また、ハモンド・オルガンなども使用されていて初期の雰囲気を携えていた。ただ、メジャー調ではないので、明るい曲ではない。制作者はトムとカーリー・スミス、ジャネット・ミントという人たちだった。トム以外は、具体的にどんな人かはよくわからなかった。(カーリー・スミスはドラムスを演奏するようだ)

 9曲目の"You Gave Up on Love"では、再びキンバリーがメイン・ボーカルを務めており、伸びのあるボーカルを聞かせてくれる。"More Than A Feeling"の二番煎じといった感じで、フルート演奏が少しだけいい味を出している。
 最後の曲の"Livin' For You"は、ライヴ音源で、オリジナルは「ウォーク・オン」に収録されている。"Peace of Mind"をかなりスローにした感じで、フラン・コスモがリード・ボーカルを、ブラッド・デルプがハーモニーをつけている。一応、ボーナス・トラック扱いだが、そのクレジットはないようだ。

 とにかく、発表されたときは、酷評されたアルバムだったが、最近では再評価されてきている。トムのギターの音色は相変わらず独特だし、それに加えてキンバリー・ダームとコスモ親子の参加がアルバムに色どりを添えている。ディスコ調の曲には参ったけれど、冒頭の"I Had A Good Time"やアンソニーの手による"Stare Out Your Window"や"Cryin'"、バラード調の"With You"など、バラエティに富んでいて聞いていて飽きない。6q0j1u10
 このバラエティの豊かさが、従来のボストン・ファンに受け入れられるか、受け入れられないかが評価の分かれ目だろう。むしろ、ボストンのアルバムと思って聞かない方が受け入れやすいのではないだろうか。ただ、セール私的にはこのアルバムからトム・ショルツの神通力は失われてしまったようだ。

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2019年1月28日 (月)

ザ・ジェイホークス

 このバンドの名前を聞いて、てっきり日本のバンドのJ-Walkの兄弟バンドかと思っていた。アメリカのバンド、ザ・ジェイホークスのことだ。
 このバンドの最新アルバムを昨年の秋以降、よく聞いたものだ。自分でもこんなにハマるとは思ってもみなかった。

 このバンドのことは以前から気になっていたのだが、その名前やバンドの姿からカントリー系のバンドだと思っていたから、ちょっと手が出せないでいた。自分はカントリー系の音楽はちょっと苦手なのである。

 ところがある日、ラジオから彼らの最新アルバム「寂れたモーテルとズッと続く道と」の中の曲"Come Cryin' to Me"が聞こえてきて、これがまたグッとくる名曲だった。それで、このアルバムをネットで検索してみたところ、アルバム・ジャケット写真も哀愁をそそるもので、これはもう即買いだと思ったのである。71psql0czel__sl1110__2
 ちなみに、このアルバム・ジャケットの写真は、映画監督のヴィム・ヴェンダーズが撮影したものだという。そういわれれば、何となく彼の映画のワン・シーンのようだ。久しぶりにアルバム・ジャケットに魅せられてしまった。

 この2018年の最新アルバムは、彼らのスタジオ・アルバムとしては10枚目にあたり、もちろん新曲もあるが、そのほとんどは他のバンドやミュージシャンが取り上げた曲や彼らに提供した曲を自分たちで再演したものだった。というわけでもないだろうが、アルバムの充実度というか楽曲のレベルが高くて、だから1曲を聞いただけでもアルバム全体の雰囲気や様子などが伝わってきたのだろう。

 2曲目の"Everybody Knows"や4曲目の"Bitter End"などは、女性3人組のバンド、ディクシー・チックスの2006年のアルバム「テイキング・ザ・ロング・ウェイ」に収められていた。ザ・ジェイホークスのリーダーであるゲイリー・ルーリスと彼女たちで作った曲である。
 また、ディクシー・チックスのメンバーであるナタリー・メインズの2013年のソロ・アルバム「マザー」にも、"Come Cryin' to Me"が提供されていた。ザ・ジェイホークスとディクシー・チックスとは、交流が深いようだ。

 また、3曲目の"Gonna Be A Darkness"は、ボブ・ディランの息子であるジェイコブ・ディランとの共作で、アメリカのTV番組「トゥルー・ブラッド」で使用されたものだったし、7曲目の"Need You Tonight"はロサンゼルスのインディ・ロック・バンドのスコット・トーマスのソロ・アルバムで使用された曲だった。

 さらには8曲目の"El Dorado"はテキサス出身のSSWであるキャリー・ロドリゲスとの共作だし、続く"Bird Never Flies"はニューヨーク、ブロンクス出身のSSWアリ・へストの2007年のソロ・アルバム「ザ・ブレイク・イン」に収められていた曲だった。
 
 また、共作したものの、発表されないまま終わった曲もあって、今回のこのアルバムで初めて陽の目を見た曲も含まれている。5曲目の"Backwards Women"はナッシュビル出身のバンド、ワイルド・フェザーズと、6曲目の"Long Time Ago"はペンシルバニアのバンド、トニックのメンバーであるエマーソン・ハートと一緒に作った曲だった。

 ということで、全くの新曲というのは最後の2曲、10曲目の"Carry You to Safety"と11曲目の"Leaving Detroit"の2曲だけだが、それでもアルバム全体としては統一感があり、スローな曲は心に染み込んでくるし、ミディアム・テンポの曲でもしっかりとロックしているのである。ザ・ジェイホークスのリーダーであるゲイリー・ルーリスの作風が反映されているのだろう。決して歴史的な名盤とは言わないが、それでも一生に一回は耳を傾けるべき必聴盤だと思っている。71bea6jc8hl__sl1122__2
 ザ・ジェイホークスは、1985年にミネソタ州のミネアポリスで結成された。当時のメンバーは4人組だった。
・マーク・オルソン(ボーカル、ギター)
・ゲイリー・ルーリス(ボーカル、ギター)
・マーク・パールマン(ベース・ギター)
・ケン・キャラハン(ドラムス)
 バンドはマークとゲイリーの双頭バンドだった。マークが言うには、エヴァリー・ブラザーズやフライング・ブリトー・ブラザーズなどを聞きながら、ハーモニーの練習を重ねていったらしい。01fband_rehearsal_5
 日本盤でのデビューは7年後の1992年「ハリウッド・タウン・ホール~聖林公会堂」だった。全10曲で約42分、ミディアム・テンポの曲調が多くて、途中でまどろんでしまうこともあったが、確かに90年代のグラム・パーソンズあるいは丸くなったバッファロー・スプリングフィールドというか、初期のポコやイーグルスが持っていたカントリー・ロックのテイストがそのまま息づいているような内容だった。

 また、このアルバムのゲスト陣として、4曲目の"Two Angels"、5曲目の"Take Me With You"、10曲目"Martin's Song"のピアノにはニッキー・ホプキンス、それ以外の曲ではトム・ペティ&ザ・ハートブレイカーズのベンモント・テンチがキーボードを担当している。さらにチャールズ・ドレイトンもドラムスを担当していたが、どの曲かはわからなかった。

 当時の彼らは、ブラック・クロウズのオープニング・アクトとしてツアーに同行していて、その時には、このアルバムの中の曲をもっとブルージィーに演奏していたという。ただ、このアルバムについては、同じような曲調なので、ちょっと単調に感じる人もいるかもしれない。515ae0rkmbl
 このアルバムから3年後の1995年には、彼らの最高傑作と呼ばれている「トゥモロー・ザ・グリーン・グラス」が発表された。通算では4枚目のスタジオ・アルバムになるのだが、日本では2枚目のアルバムになった。

 このアルバムではメンバー・チェンジが行われていて、ドラマーが脱退して、新しくキーボード担当に女性のカレン・グロットバーグが参加している。ドラマーに関しては、この時はまだ決まっていなくて、スタジオ・ミュージシャンなどで代用していた。
 カレンは「寂れたモーテルとズッと続く道と」でも歌とキーボードを担当しているが、最初の加入以降、途中でバンドを抜けていた時期もあったようだ。

 このアルバムは“彼らの最高傑作”と呼ばれているように、確かに前作よりもロック的で、起伏に富んだ内容になっている。たとえば3曲目のファズ・ギターが前面に出ているロック的な"Miss Williams Guitar"、5曲目の"Real Light"という曲もあれば、一転して穏やかなバラード・タイプの"Two Hearts"という曲も収められていた。
 前作に引き続き、ベンモント・テンチもキーボードで参加していて、そういえば作風がトム・ペティ風になってきたなあとも感じた。トム・ペティ&ザ・ハートブレイカーズが好きな人なら、このアルバムはまさに必聴だろう。

 他にも、アコースティックな色合いの強い"Blue"、"Over My Shoulder"、グランド・ファンク・レイルロードの"Bad Time"をアコースティックに改変したものなど、ロック色もあるし、スティール・ギターが目立つカントリー・タッチの曲もあるし、幅広いファン層に訴えかける内容になっていた。61r8cqf5fl
 このアルバムの11曲目"Pray for Me"と13曲目"Ten Little Kids"には、ヴィクトリア・ウィリアムスという女性がバッキング・ボーカルを務めているが、彼女は多発性硬化症という治療法も見つかっていない難病に侵されていて、視力や運動に障害を伴っていた。
 ザ・ジェイホークスを始め、他のミュージシャンも彼女を応援していたが、ザ・ジェイホークスのメンバーで中心人物の一人マーク・オルソンは、1994年に彼女と結婚したのである。

 そしてその結果、マークはザ・ジェイホークスを脱退してしまう。理由は、妻のヴィクトリアの看護をするためだった。
 彼はその後、妻と一緒にジ・オリジナル・ハーモニー・リッジ・クリークディッパーズという3人組のバンドを結成し、アルバムを定期的に発表していった。

 ただし、2005年にマークとヴィクトリアは離婚してしまい、マークはソロ活動に専念するようになった。2010年には、再びザ・ジェイホークスに戻るのだが、アルバム1枚とそれに伴うツアーを行った後、2012年にはまた脱退してしまう。マークはソロ活動の楽しさを覚えたようだった。

 自分は昨年のアルバム「寂れたモーテルとズッと続く道と」から遡って、彼らの経歴やアルバムを知っていったのだが、彼らの最高傑作は「寂れたモーテルとズッと続く道と」だと思っている。確かに「トゥモロー・ザ・グリーン・グラス」も素晴らしいのだが、哀愁感や寂寥感は最新アルバムの方が優れていると思うのだ。

 こういう良質なアメリカン・バンドが活躍できる余地のある今のアメリカのミュージック界も、まだまだ捨てたものではないと感じている。

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